○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈第4パート〉 附やぶちゃん注
○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ
〈第4パート〉
禪師公曉は、御後見(ごこうけん)備中阿闍梨の雪下の坊に入りて、乳母子(めのとご)の彌源太(みげんだ)兵衞尉を使として、三浦左衞門尉義村に仰せ遣されけるやう、「今は將軍の官職、既に闕(けつ)す。我は關東武門の長胤(ちやういん)たり。早く計議(けいぎ)を廻らすべし。示合(しめしあは)せらるべきなり」とあり。義村が息駒若丸、かの門弟たる好(よしみ)を賴みて、かく仰せ遣(つかは)さる。義村、聞きて、「先(まづ)此方(こなた)へ來り給へ。御迎(おんむかひ)の兵士(ひやうし)を參(まゐら)すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人(たゞびと)にあらず、武勇兵略(ぶようひやうりやく)勝れたれば、輒(たやす)く謀難(はかりがた)かるべしとて、勇悍(ようかん)の武士を擇び、長尾〔の〕新六定景を大將として、討手をぞ向けられける。定景は黑皮威(くろかはおどし)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、大力(だいりき)の剛者(がうのもの)、雜賀(さいがの)次郎以下郎従五人を相倶して、公曉のおはする備中阿闍梨の坊に赴く。公曉は鶴ヶ岡の後(うしろ)の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり。素絹(そけん)の下に腹卷をぞ召されける。長尾御首を持ちて馳歸り、義村、義時是を實檢す。
〈第4パート注〉
[やぶちゃん注:以下、公暁誅殺までを「吾妻鏡」で見る。
○原文
爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者弥源太兵衞尉〔闍梨乳母子。〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。京兆無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅。〕不能辞退。起座著黑皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也。〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟闍梨〔着素絹衣腹卷。年廿云々。〕首。是金吾將軍〔頼家。〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也。〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。亭主出居。被見其首。安東次郎忠家取指燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。
○やぶちゃんの書き下し文
爰に阿闍梨、彼(か)の御首を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨の雪下(ゆきのした)北谷の宅に向はる。膳を羞(すす)むる間、猶ほ手を御首より放たずと云々。
使者弥源太兵衞尉〔闍梨(じやり)の乳母子(めのことご)。〕を義村に遣はさる。
「今、將軍の闕(けつ)有り。吾れ專ら東關の長に當るなり。早く計議を廻らすべし。」
の由、示し合はさる。是れ、義村息男駒若丸、門弟に列するに依つて、其の好(よし)みを恃(たの)まるるの故か。義村、此の事を聞き、先君の恩化を忘れざる間、落涙數行、更に言語に及ばず。少選(しばらく)あつて、
「先づ蓬屋(ほうおく)に光臨有るべし。且つは御迎への兵士を獻ずべし。」
の由、之を申す。使者退去の後、義村、使者を發し、件(くだん)の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右(さう)無く、
「阿闍梨を誅し奉るべし。」
の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。
「阿闍梨は、太(はなは)だ武勇に足り、直(ただ)なる人に非ず。輙(たやす)く之を謀るべからず。頗る難儀たり。」
との由、各々相ひ議すの處、義村、勇敢の器(うつは)を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景、遂に〔雪下の合戰後、義村が宅へ向ふ。〕辞退に能はず、座を起ち、黑皮威の甲を著し、雜賀(さひか)次郎〔西國の住人、強力の者なり。〕以下郎從五人を相ひ具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨が宅に赴くの刻(きざみ)、阿闍梨は、義村が使ひ、遲引の間、鶴岳後面の峯に登り、義村が宅に至らんと擬す。仍つて定景と途中に相ひ逢ふ。雜賀次郎、忽ちに阿闍梨を懷き、互ひに雌雄を諍ふの處、定景、太刀を取り、闍梨〔素絹の衣、腹卷を着す。年廿と云々。〕が首を梟(けう)す。是れ、金吾將軍〔賴家。〕の御息、母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女なり。〕。公胤僧正に入室、貞曉僧都受法の弟子なり。定景、彼(か)の首を持ちて皈(かへ)り畢んぬ。即ち義村、京兆の御亭に持參す。亭主、出で居(ゐ)にて其の首を見らる。安東次郎忠家、指燭(しそく)を取る。李部、仰せられて云はく、
「正しく未だ阿闍梨の面(おもて)を見奉らず。猶ほ疑貽有り。」
と云々。
「吾妻鏡」では、実は当時の幕府の要人が阿闍梨の顔を誰も知らなかったと推測されることが首実検に立ち会った「李部」(式部省の唐名。当時の泰時の経官歴は式部丞)北条泰時(当時満二十一歳)が本当に公暁の首であるかどうかに疑義を挟んでいるのが注目される。話として頗る面白い(肝心の実朝の首は見つからず、謀叛人の首が残るとは如何にも不思議ではないか)が、通史としての「北條九代記」では、何やらん、判官贔屓の実朝トンデモ生存説(大陸に渡って実は知られた○〇禅師こそが実朝だった! なってえのはどうよ?)でも臭わせそうな雰囲気になるから、やっぱ、カットやろうなぁ……。
「備中阿闍梨」彼の名は、この後、三日後の三十日の条に彼の雪ノ下(後の二十五坊ヶ谷である)の屋敷が没収されたという条、翌二月四日にその屋敷地が女官三条局の望みによって付与された旨の記載を以って一切載らない。怪しいではないか。
「乳母子の彌源太兵衞尉」ここで「乳母子」とあるということは次に示す「駒若丸」北条光村の兄弟(恐らく弟)でなくてはならない。
「義村が息駒若丸、かの門弟たる好」「駒若丸」は三浦義村の四男三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)の幼名。後の三浦氏の当主となる三浦泰村の同母弟。早い時期に僧侶にさせるために鶴岡八幡宮に預けられたらしく、この頃は公暁の門弟であった。「吾妻鏡」では建保六(一二一八)年九月十三日の条で、将軍御所での和歌会の最中、鶴岡八幡宮境内に於いて月に浮かれ出た児童・若僧が鶴岡廻廊に配されていた宿直人に乱暴狼藉を働き、その不良少年団の張本人として挙げられ、出仕を止められる、という記事を初見とする。暗殺当時でも未だ満十四歳である。後に実家である三浦氏に呼び戻され、兄泰村とともに北条氏と並ぶ強大な権力を有するようになったが、後の宝治元(一二四七)年の宝治合戦で北条氏によって兄とともに滅ぼされた。小説家永井路子氏が実朝暗殺三浦氏説の最大の根拠(乳母の家系はその養育した家系の子を殺めることはないという不文律)とするように、公暁の乳母は三浦義村の妻であり、その子であったこの駒若丸は公暁の乳兄弟であって門弟でもあった。一方、実朝の乳母は北條時政の娘で政子や義時の姉妹で兄弟である阿波局である。但し、私はこの歴史学者の支持も多い永井説には全く組出来ない。私は北条義時策謀張本説を採る(三浦は北条の謀略に気づいてはいた)。この時の義時の壮大な謀略計画の体系(後の北条得宗の濫觴となるような)の中では、乳母―乳母子血脈説なんどという問題は容易に吹き飛んでしまうと考えているのである。私のその考えは、私が二十一歳の時に書いた噴飯小説「雪炎」以来、今も一貫して変化していない。よろしければ、御笑覧あれ。……あの頃……どこかで小説家になりたいなどと考えていたことをむず痒く思い出した……。
『使者退去の後、義村、使者を發し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右無く、「阿闍梨を誅し奉るべし』この下りが、私のとって永い間、疑問なのである。真の黒幕を追求すべき必要性が少しでもあるとならば、義時は生捕りを命ぜねばならない。しかも(と同時に、にも拘わらず)源家の嫡統である公暁を「左右(さう)無く」(ためらうことなく)「誅し奉」れ、というのは如何にも『変』である。そのおかしさには誰もが気づくはずであり、それがやる気がない理由があるとすれば、ただ一つ、謀略の総てを義時が最早、知尽していたから以外にはあり得ない。だからこそ彼は危機一髪、『難』を逃れているのだ。これについては「吾妻鏡」の事件直後、翌二月八日の条に早くも弁解染みて奇妙に示されていることは知られた話である。
〇原文
八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌尅供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。此の梵宇は、靈夢の告げに依つて、草創せらるるの處、去ぬる月廿七日戌の尅、供奉の時、夢のごとくにして、白き犬、御傍に見るの後、御心神違亂の間、御劍を仲章朝臣に讓り、伊賀四郎許りを相ひ具して、退出し畢んぬ。而るに右京兆は、御劔を役せらるるの由、禪師、兼て以つて存知するの間、其の役の人を守りて、仲章の首を斬る。彼の時に當りて、此の堂の戌神(いぬがみ)、堂中に坐(おは)しまし給はずと云々。
というあからさまなトンデモな霊験譚である。大倉薬師堂は既に見た通り、義時が大方の反対を押し切って前年に私財を擲って建立した『変』な寺なのだ。さて――拝賀の式の行列が鶴岡社頭にさしかかった際、彼にだけ白い犬が自分の傍へやってくるのが見え、俄に気分が悪くなって、内々に急遽、実朝の御剣持を仲章に代行してもらうこととして、たった一人の従者を連れてこっそりと自邸へ戻ったが、仲章が代役になっていることを知らずに、事前に何者かに知らされていた通り、御剣持役の人間を義時と信じて疑わずに今一つのターゲットとして首を刎ねた――というのである。しかも――その拝賀の式当日、不思議なことに大倉薬師堂の十二神将の戌神の像だけが、忽然と消えており、事件後には再び戻っていた――というのである。――この話、読み物としてはそれなりに面白いはずなのに「北條九代記」の作者は採用していない。大倉薬師堂の建立の事実をわざわざ書いておきながら、である。わざわざ書いたということは、私は恐らく筆者はこの後日譚を書くつもりだったのだと思う。ところが、どうにもこの如何にも『変』な作話ばればれの話に、筆を進めて行くうちに、筆者自身があきれ返ってしまい、結局、書かず仕舞いとなったのではなかったか? 逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め(義時に謀略がばれたことの危険性が最も高いであろう)公暁の蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計ればよい(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置からも、義村は失敗した謀略ならばそれを簡単に総て抹消することが出来たのである。義時から万一、事後に抗議や疑義があったとしてもそれらは、公暁は将軍家を放伐した許し難い賊であり、公暁が抗った故に仕方なく誅殺した当然の処置であったと答えればよいのである)。その「不自然さ」を十全に説明しないで、乳母一連托生同族説から三浦陰謀説(中堅史家にも支持者は多い)を唱える永井路子氏には、私は今以って同調出来ないでいるである。
「長尾新六定景」(生没年不詳)既に暗殺直後にテロリスト探索に名が挙がっているがここで注す。石橋山の合戦では大庭景親に従って平家方についたが、源氏勝利の後、許され、和田合戦で功を立てた。ここで公暁を打ち取った時には既に相当な老齢であったと考えられる。今、私の書斎の正面に見える鎌倉市植木の久成寺境内に墓所がある。
『義村、聞きて、「先此方へ來り給へ。御迎の兵士を參すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人にあらず、武勇兵略勝れたれば、輒(たやす)く謀難かるべしとて、勇悍の武士を擇び、長尾新六定景を大將として、討手をぞ向けられける』この部分、「北條九代記」の筆者は、「吾妻鏡」にある、重要な義時の即決部分を省略してしまっている。即ち、
京兆、左右無く、
「阿闍梨を誅し奉るべし。」
の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。
の部分がないのである。これは如何にも不審である。そもそもこれでは公暁誅殺の合議をし、長尾を選抜したのが北条義時であるかのようにさえ誤読されてしまう危険性さえあるのだ。私はこの違和感は実は、「北條九代記」の筆者が、この北条義時の即決の台詞に対して強烈な、私と同じ違和感を感じたからではないか、と考えている。これを記すと「北條九代記」はその輝かしい北条の歴史の当初於いて血塗られた疑惑を読者に与えてしまうからに他ならない。
……そうである。この「吾妻鏡」の伝える部分こそが私の昔からの違和感としてあるのである。――真の黒幕の可能性の追求すべき必要性がある以上、義時は生捕りを命ぜねばならない。にも拘わらず、現在唯一残っている源家の嫡統である公暁を、有無を言わせず、しかも自身の手ではなく、三浦氏に命じて「誅し奉」ったのは何故か? また、逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め、公暁蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計らねばならない(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置や事実結果からみても、義村は失敗したと判断する謀略ならばそれを簡単に総て抹消させることは極めて容易であったはずである)。そうしなければ、普通なら当然の如く行われると考えるはずの公暁への訊問によって三浦謀略の全容が明らかになってしまうからである。にも拘わらず、三浦は義時に伺いを立て、義時は捕縛ではなく誅殺を命じている。義時が潔白であるなら、公暁の背後関係を明らかにし、それらを一掃させることが最大の利となるこの時にして、これは不自然と言わざるを得ない。寧ろ、これはこの実朝暗殺公暁誅殺という呪われた交響詩のプログラムが、総演出者・総指揮者たる北条義時によって組み立てられたものであったことを示唆すると私は考えるのである。そこでは多くの役者が暗躍した。実際にこの後の「吾妻鏡」を見ると、実に怪しいことに気がつく。この実朝暗殺に関わった人間たちの殆んどすべての関係者が、簡単な訊問の後、無関係であるとか、誤認逮捕であったとかという理由で、さりげなく記載されているのである。そして誰もいなくなって、殆んど公暁一人が悪者にされている。こうした関係者までもが皆、三浦氏の息のかかったものであって、三浦の謀略指示について幕府方の訊問でも一切口を割らず、事件が速やかに終息するというのは、この方が如何にも考えにくいことではないか? 寧ろ、総ての駒の動きがフィクサーとしての義時によって神のように管理されていたからこその、鮮やかにして速やかな終息であったと考えた方が自然である。三浦義村は確かに和田合戦でも同族の和田氏を裏切っており、千葉胤綱から「三浦の犬は友を食らうぞ」と批判された権謀術数に長けた男ではある。しかしだからこそ、義時の想像を絶する策謀をもいち早く見抜くことが出来、三浦一族の危機を回避するために、同族乳母子の公暁をも――義時の謀略にはまらないために――蜥蜴の尻尾切りした、とも言えるのである。
「雜賀次郎」三浦の被官であるが、「吾妻鏡」ではここにしか見えない。紀伊国南西の雑賀荘を領有したか。
「公曉は鶴ヶ岡の後の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり」それでなくても、実朝殺害直後の公暁の行方は不明で神出鬼没なればこそ、これは三浦義村が予め、使者であった北弥源太兵衛尉に援軍の移送経路は間道の峯筋であると指示したものと考えなければ、こんなに都合よく行くはずがない。
「素絹」素絹の衣(ころも)。素絹で作った白い僧服。垂領(たりくび:襟を肩から胸の左右に垂らし、引き合わせるもの。)で袖が広くて丈が長く、裾に襞がある。
「腹卷」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。次のシークエンスの広元の台詞でも重要な単語として登場する。]
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