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2013/06/30

耳鳴り

耳鳴りというのは恐らく他者に理解出来ないものであろう。そうして独り作業する際に限ってひどく認知されるのもこの特長だ。それはもしかするとハード・ロックをヘッドフォンで音量最大にして無暗に聴いていたその昔――誰かに張り手をくらって鼓膜が破れかけたその昔――ヴェトナムに着いた時の風邪ひきで航空性中耳炎になったその昔――もう誰の話しも聴きたくないと感じて両手で耳を叩き塞いだその昔……そんな僕のずっと昔の有象無象の因果が今になって襲ってきているような気がするのだ……誰彼の話を分かったような「振り」をするのももうやめだ――僕は僕のやるべきことを――ただおぞましい「シーン」という音のする限界の中で――やることしかないのだった――それが僕の遠い日の蜩の声(ね)のような耳鳴りなのだ……

橘南谿「東遊記」より 「鎌倉」

橘南谿「東遊記」より「鎌倉」

 

[やぶちゃん注:「東遊記」(寛政七(一七九七)年に前編五巻を、同九年に続編五巻を板行)は医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。南谿は本名宮川春暉(はるあきら)で、伊勢久居(現在の三重県津市久居)西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二五〇石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任じられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。諸国遍歴を好み、また文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、本書「東遊記」や「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や随筆「北窓瑣談」等で知られている(以上はウィキの「橘南谿」に拠る)。なお、本記載内での時間は天明四(一七八四)年である(ここは「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に拠った)。

 底本は国立国会図書館蔵で同デジタルライブラリーにある学海指針社(明治四四(一九一一)年刊)版を視認して活字化した。詩歌は読み易くするために各詩歌の前後を一行空けにした。漢詩は底本では三段組であるが一段で示し、最初に白文で示し、その後に一字下げ( )で訓点に従って訓読したものを示した。

 なお、この「一、鎌倉」はまさに「東遊記」の巻頭を飾っている(デジタルライブラリー版の3コマ目から)。]

 

東遊記

          橘南谿子著

 

     一、鎌倉

鎌倉は、東武通行の人の見る所にして、珍らしからねど、又したしく其地に遊べば、昔の俤、山川別ては神社佛閣に殘りて、懷古の情にたへず。

先、鶴岡の八幡宮に詣づ。其の壯麗男山につぐべし。佛寺には建長寺など最大刹なり。鶴岡南面のきざはしを登れば、大なるいてふの木あり。昔此宮の別當公曉、將軍實朝公を強弑したる所なりと云。八幡宮の正面通り、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居あり。其の鳥居筋を眞直に下れば、由井が濱に出づ、一の鳥居より、由井が濱まで十八町なり。すべて鎌倉は、皆山にて、地面甚狹し。わづかに谷の間々に、屋敷を構へ、住居せし事と見ゆ。其故に比企が谷(やつ)、大藏がやつ、扇がやつなどゝ谷々の名甚多し。賴朝卿の屋敷跡は、八幡宮の東の方にあり。此地、少し平坦なれど、四三町四五町に過ぎず。其の外の谷々のせまきことおして知るべし。屋敷跡の少し上の方に、賴朝卿の塚あり。今の薩摩侯の寄附の大なる石の手水鉢あり。其岡の東の上の方に薩摩侯の先祖の墓所もあり。此あたり、薩州より寄附の物、品々あり。なほ近きうち、造營もあるべきよしなりとて、鎌倉の人々、悦び居れり。八幡宮の束の方に、滑川とて細き流れあり。靑砥左衞門、錢を落しゝ川なりといふ。其の時の事は、郊外のやうに聞えしが、其の頃は今の世の如く、町家などは無りしにや。義經の腰越も鎌倉を去る事、京と大津計も有べしと、兼ては思ひ居しが、僅に一里計にも足らず。今の江戸の如くならば、町の眞中なるべし。昔は何事も微々なる事にて、鎌倉といへども、今の四五萬石の大名の城下程にも無き事と思はる。およそ、鎌倉は、高山も無く、大河も無く、要害の地といふべからず。只、小き山、數里四方に連りて、波濤の如し。其の間の谷々も甚せまく、打晴たる平地は、絶てなし。但、源氏にはゆゑある地なれば、賴朝の都し給ひしにや。伊豫守賴義、鎭守府將軍に任じ、安倍の貞任征伐の爲に、東國下向の時、石淸水八幡宮を此地に勸請し給ふ。其の後に、又相摸守に任じ、鎌倉に下向ありて、此の所にて、義家、出生し給ふとかや。かく先祖由來のある地ゆゑなるべし。鎌倉と名づけし初は、昔、大織冠鎌足公、鹿嶋參詣の時、此の地の由井の濱に宿し給ひける夜、靈夢によりて祕藏し給ひし鎌を、當所大藏山の松岡に埋め給ふ。此ゆゑに鎌倉郡といふ。又大藏山を鎌倉山とも名づけしなり。其の外、神社佛閣、甚多く、古跡舊蹤、種々の名ある所ひしと並べり。あげしるすにいとまあらず。余も二三日も四五日も逗留して、所々見廻り、寺社の舊記などをも一見せば、面白きことも多かるべきに、余は、戸塚より入り來りて、其の日鎌倉を草々に一見し、直に江の嶋へ出でぬれば、何のいとまもなく、見殘して過ぎぬ。殘り多し。

 

     送人遊相中   服部南郭

  覇跡山川経略勞

  鎌倉客路自蓬蒿

  將門三世荒臺月

  戎馬千年大海濤

  劒氣偏隨星井沒

  笙聲空過鶴陵高

  壯遊知爾因懷古

  慷慨談兵攬佩刀

   (   人を送て相中に遊ぶ   服部南郭

   覇跡 山川 経略勞、

   鎌倉 客路 蓬蒿自す、

   將門 三世 荒臺の月、

   戎馬 千年 大海の濤、

   劒氣 偏に隨ひて 星井に沒す、

   笙聲 空しく過ぎて 鶴陵 高し、

   壯遊 知爾 因懷古、

   慷慨 兵を談し 佩刀を攬る)

 

    鶴岡   安積艮齋

  鴨脚霜凋古廟秋

  荒墳幾處葬公侯

  遺基今日蓬蒿合

  雄略當年魑魃愁

  寶鼎潜移歸細柳

  乾坤一革割鴻溝

  可憐猜忌相屠戮

  覇業銷沈付逝流

   (  鶴岡   安積艮齋

   鴨脚 霜は凋す 古廟の秋、

   荒墳 幾處にか公侯を葬る、

   遺基 今日 蓬蒿 合し、

   雄略 當年 魑魃 愁ふ、

   寶鼎 潜に移りて 細柳を歸す、

   乾坤 一革して 鴻溝を割す、

   憐むべし 猜忌 相 屠戮す、

   覇業 銷沈 逝流に付す、)

 

  昔にもたちこそまされ民の戸の        藤原基綱

      煙にきはふかまくらの里(夫木)

 

  宮柱ふちしきたてゝ萬代に          鎌倉右大臣

      今こそ榮えんかまくらの里(續古今)

 

  年經たる鶴が岡邊の柳原           平 泰時

      あをみにけりな春のしるしに(夫木)

 

  鶴が岡木高き松を吹く風の          源 基氏

      雲井にひゞく萬代の聲(新拾遺)

 

  ことゝはゞ花やしらくも代々の春       宗牧

  ほたる火は百がものありなめり川       梅翁

 

[やぶちゃん注:以下、底本にある頭注を示しておく。

 

男山

 山城男山の石淸水八幡宮

公曉

 實朝の兄の賴家の子

薩摩侯

 先祖島津忠久賴朝より日向大隅薩摩の守護を授けらる

鎌足公

 藤原氏の租中臣鎌足

鹿島神社

 常陸の鹿島町にあり祭神は武甕槌命にして天兒屋根命をも配祀す

 

この内、「鹿島神社」の「武甕槌命」は「たけみかづち」と読み、神産みにおいて伊邪那岐(イサナキ)が妻伊邪那(イサナミ)を死に至らしめた子の軻遇突智(カグツチ)の首を切り落とした際、用いた十束の剣の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の内の一柱。「天兒屋根命」は「あめのこやねのみこと」と読み、天照大御神の岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、岩戸が少し開いた際、天太玉命(あめのふとだまのみこと)とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際には瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根を持った建物」の意味で、託宣を齎す神の居所のことと考えられている。中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された。但し、鹿島神宮本社には祭神ではない。現在、境内外にある摂社坂戸神社が天児屋命を、同じく境内外の息栖(いきす)神社が武甕槌命の娘である「姫」とこの天児屋命の二人(夫婦)を祭神として祀っている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 8 稚児が淵から俎板岩周辺

 翌朝我々は夙く起き、長い往来を通ってもう一軒の茶屋へ行った。ここは実に空気がよく、そして如何にも景色がよいので、私は永久的に一部屋借りることにした。海の向うの富士山の姿の美しさ。このことを決めてから、我々は固い岩に刻んだ段々を登って、島の最高点へ行った。この島には樹木が繁茂し、頂上にはお寺と神社とがあり、巡礼が大勢来る。いくつかの神社の背後で、島は海に臨む断崖絶壁で突然終っている。ここから我々は石段で下の狭い岸に降り、潜水夫が二人、貝を求めて水中に一分と十秒間もぐるのを見た。彼等が水面に出て来た時、我我は若干の銭を投げた。すると彼等はまたももぐつて行った。銅貨ほしさにもぐる小さな男の子もいたが、水晶のように澄んだ水の中でバシャバシャやっている彼等の姿は、中々面白かった。岩にかじりついている貝は、いずれも米国のと非常に異る。海岸の穴に棲んでいる小さな蟹(かに)は吃驚する程早く走る。最初に小石の上を駈け廻っているのを見た時、私は彼等を煤(すす)の大きな薄片か、はりえにしだだろうと思った。彼等は一寸蜘蛛みたいな格好で動き、そしてピシャツとばかり穴の中に駈け込む。

[やぶちゃん注:太字「はりえにしだ」は底本では傍点「ヽ」。稚児が淵や魚板(まないた)石の情景が活写されている。特にこの海士の素潜りの様子やここでの饗応については既に新編鎌倉志巻之六鎌倉攬勝考卷之十一附録」(「魚枚磐」)にも現われており、この凡そ35、6年後のこと、学生時代の芥川龍之介と一緒にここを訪れた友人が、同じように少年や海女に銅銭を投げるシチュエーションが、芥川の「大導寺信輔の半生」(大正一四(一九二五)年発表)の最後に現われる。未読の方は是非どうぞ、私の電子テクストで。

「翌朝我々は夙く起き、長い往来を通ってもう一軒の茶屋へ行った。ここは実に空気がよく、そして如何にも景色がよいので、私は永久的に一部屋借りることにした」私は岩本楼をモースの定宿と以前の注で記したが、実は江の島到着のその日は江の島参道を少し上った左手にあった洋風造りの旅館「立花屋」(現存せず)に泊まったが、翌朝、参道の反対側にある岩本楼立ち寄り、宿をこちらに変えているのである(以上は磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る)。

「銅貨ほしさにもぐる小さな男の子もいたが、水晶のように澄んだ水の中でバシャバシャやっている彼等の姿は、中々面白かった。」原文“Some little boys dived for pennies, and they looked funny enough kicking about below, in water clear as crystal.”。さりげない描写の中に、モースの優しい視線が見え、また実にヴィジュアライズされたよい描写である。

「海岸の穴に棲んでいる小さな蟹」甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科モクズガニ科 Varuninae 亜科イソガニ Hemigrapsus sanguineus

「海岸の穴に棲んでいる小さな蟹は吃驚する程早く走る。最初に小石の上を駈け廻っているのを見た時、私は彼等を煤の大きな薄片か、はりえにしだだろうと思った。」原文は“The little crabs that live in holes on the beach run with amazing rapidity, and when I first saw them scampering over the pebbles I thought they were large flakes of soot, or furze.”。“large flakes of soot”の、煤(消し炭と訳してもよいか)のちょっと大きな欠片(かけら)というのはすんなり分かるが、“furze”はちょっと難解。野生の双子葉植物綱マメ目マメ科ハリエニシダ Ulex europaeus は日当たりのよい荒れ地によく繁殖し、高さ1~2・5メートル程度の常緑低木で初春と秋に黄色い花を咲かせるが、ここでモースが錯誤したのは無論、この時期に咲かない花ではなく、その枝にあったようだ。ハリエニシダはその名の通り枝に緑色の鋭い刺があり、葉も刺と化している(因みに、そのために牧草地に侵入するとこれによって家畜が傷つけられる厄介な植物で極めて繁殖力が強い。以上はウィキハリエニシダに拠った)。ウィキの「イソガニ」によれば、イソガニの通常成体は甲幅2・5センチメートル程度だが、稀に甲幅3・8センチメートルに達する大型個体もいて(これは陸生のアカテガニよりも大きい)、甲の前側縁(両脇)に眼窩の外側も含めて3個の鋸歯を持ち、鉗脚は左右が同じ大きさで、特にオスの鉗脚は大きく発達し、はさみの関節部にキチン質の柔らかい袋を持つ(メスの鉗脚は小さくキチン質の袋もない)。体色は甲表面が緑灰色と紫の斑模様、歩脚も緑灰色と紫の横縞模様(腹面は白色)とあるから、モースはこの色ととげとげしい脚部から、ハリエニシダが岩の上に這うように植生しているものと見紛うたのであろう。

「ピシャツと」ここの全原文は“They go along somewhat like spiders and dart into a hole with a snap.”で、“with a snap”が、プチッ(と:以下同じ。)・ピシッ・ポキッ・ビシッ・パチン・パタンというオノマトペイアに相当する。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 7



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図―119

 私は家屋内の装飾に関する、すべての事実を、記述し度いと思う。我々が往来を歩いていて通り過ぎた、明るく、風通しがよく、そして涼しい一軒の茶店のことを書き留める。天井から糸で細長い金銀の紙をつるしたのが、奇妙な効果を出していた。一寸でも風が吹くと、紙片はくるくる廻ってビカピカ輝き、非常に気持がよい。これ等の紙片は長さ三インチ、幅一インチ、約一フィートの間を置いて天井一面にぶら下っている。天井を飾るもう一つの方法は――もっとも、天井を飾ることはすくない、――大きな扇子の彩色画を以てすることである。十六フィート四方の部屋の天井に、こんな絵が二十も張ってあったが、そのある物は高価で非常に鮮かな色をしていた。日本人が天然物を便化する器用なやり方は顕著である。廊下の手摺板にいろいろな姿をした鶴を切りぬいたのがあった。また日除けには極度に紋切型にした富士と雲との絵がかいてあった(図119)。
[やぶちゃん注:「長さ三インチ、幅一インチ、約一フィートの間」それぞれ長さ約7・6センチメートル、幅約2・5センチメートル、それらの間隔は約30センチメートル相当。
「十六フィート四方」凡そ4・9メートル四方。]



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図―120

 洗面した時、我々は真鍮製の洗面器の横手に、木製の揚子が数木置いてあるのを発見した。それは細い木片で、一端はとがり、他端は裂いて最もこまかい刷毛にしてある。これ等は一度使用するとすてて了うものだが、使えば刷毛の部分がこわれるから、いつでも安心して新しいのを使うことが出来る(図120)。

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図―121

 日本の燭台にはいろいろな形のがあるが、非常に興味が深い。それは真鍮製で、床からの高さが三フィート近くもある(図―121)。
[やぶちゃん注:「三フィート」約90センチメートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 6

 朝飯はあまりうまい具合ではなかった。水っぽい魚のスープ、魚はどっちかというとゴリゴリで、その他の「飾り立て」に至っては手がつけられぬ。やむを得ず私は缶詰のスープ、デヴィルド・ハムやクラッカース等の食糧品や、石油ランプ、ナイフ、フォーク、スプーン等を注文した。この不思議な食物に慣れることが出来たら、どれ程面倒な目にあわずに済むことだろう。私が特にほしかったのは朝の珈琲である。日本人はお茶しか飲まぬ。よって珈琲も買わねばならなかった。

[やぶちゃん注:「魚はどっちかというとゴリゴリで」これはアジかエボダイか何かの干物を焼いたものではなかったか?

「デヴィルド・ハム」原文“deviled ham”。現在もアメリカの“B&G FOOD”から販売されているブランド名“Underwood”の、三叉を持った悪魔のロゴの入ったミートスプレッド缶。肉製品のアンダーウッドは英国人実業家 Mr. William Underwood がボストンで会社を興したのが一八二二年と言われ、スパイスを取り扱う事業からマスタードやケチャップの瓶詰め製品や魚介等の缶詰製品を製造して事業発展した。 一八六八年に息子で二代目の Mr.Underwood が、様々なスパイスで味付けした加工肉製品の缶詰製造に成功、この“Underwood Deviled Ham Spread”が生まれた。“Deviled”とはマスタード・ホットソース・スパイスなどで風味付けをした製品のことを意味し、アンダーウッドの製品だけでなく、辛味づけしたものなどに附す典型的な形容詞である。アンダーウッド・ブランドは全米で人気ナンバー・ワンを誇っており、中でもデビルド・ハム・スプレッドは高い支持を得ている。因みにこの“Devil logo”は一八七〇年に商標登録されており、現在、アメリカに存在する食品商標としては最古の物と考えられている(以上は新宿にある舶来食料品販売の「株式会社 鈴商」の取り扱いブランド紹介のミートスプレッドのアンダーウッドを参照した)。今や老舗のミート缶も当時は発売されて未だ十年ほどであった。相当な高級品と考えてよい(現在でも高い)。

「クラッカース」原文“crackers”これは普通にクラッカーのことである。米語では塩味の強いビスケットの総称として、甘みの強いビスケットであるクッキーに対するものとして使用される。一七九二年にマサチューセッツ州のジョン・ピアスン(John Pearson)なる人物がクラッカーの原型を発明、一種の乾パンで軍隊の糧食などに使われた。その九年後の一八〇一年、同州のパン職人ジョシア・ベント(Josiah Bent)が初めて“cracker”と呼ばれる製品を造った。呼称は焼いて際の「クラック」という音に由来する。後にベントはクラッカー事業をナビスコに売却している(以上はウィキクラッカ食品)に拠った)。]

十年 中島敦

 十年

 

[やぶちゃん注:これは中島敦が横浜高等女学校在勤中に同校校友会雑誌「學苑」の第二号(昭和九(一九三四)年三月発行)に寄稿したものである。当時、満二十四歳であった。二箇所の太字「ふらんす」は底本では傍点「ヽ」。]

 

 十年前、十六歳の少年の僕は學校の裏山に寢ころがつて空を流れる雲を見上げながら、「さて將來何になつたものだらう。」などと考へたものです。大文豪、結構。大金持、それもいゝ。總理大臣、一寸わるくないな。全く此の中のどれにでも直ぐになれさうな氣でゐたんだから大したものです。所でこれらの豫想の外に、その頃の僕にはもう一つ、極めて樂しい心祕かなのぞみがありました。それは「佛蘭西へ行きたい。」といふことなのです。別に何をしに、といふんでもない、ただ遊びに行きたかつたのです。何故特別に佛蘭西を擇んだかといへば、恐らくそれは此の佛蘭西といふ言葉の響きが、今でも此國の若い人々の上にもつてゐる魅力のせゐでもあつたでせうが、又同時に、その頃、私の讀んでゐた永井荷風の「ふらんす物語」と、これは生田春月だか上田敏だかの譯の「ヴェルレエヌ」の影響でもあつたやうです。顏中到る所に吹出した面皰をつぶしながら、分つたやうな顏をして、ヴェルレエヌの邦譯などを讀んでゐたんですから、全く今から考へてもさぞ鼻持のならない、「いやみ」な少年だつたでせうが、でもその頃は大眞面目で「巷に雨の降る如く我の心に涙」を降らせてゐたわけです。さういふわけで、僕は佛蘭西へ――わけても、此の「よひどれ」の詩人が、そこの酒場でアブサンを呷り、そこのマロニエの竝木の下を蹣跚とよろめいて行つた、あのパリへ行きたいと思つたのです。シャンゼリゼエ、ボア・ド・ブウロンニュ、モンマルトル、カルチェ・ラタン、……學校の裏山に寢ころんで空を流れる雲を見上げながら幾度僕はそれらの上に思ひを馳せたことでせう。

 さて、それから春風秋雨、こゝに十年の月日が流れました。かつて抱いた希望の數々は顏の面皰と共に消え、昔は遠く名のみ聞いてゐたムウラン・ルウヂュと同名の劇團が東京に出現した今日、横濱は南京町のアパアトでひとり佗しく、くすぶつてゐる僕ですが、それでも、たまに港の方から流れてくる出帆の汽笛の音を聞く時などは、さすがに、その昔の、夢のやうな空想を思出して、懷舊の情に堪へないやうなこともあるのです。さういふ時、机の上に擴げてある書物には意地惡くも、こんな文句が出てゐたりする。

  ふらんすへ行きたしと思へど

  ふらんすはあまりに遠し

  せめては新しき背廣を着て

  氣ままなる旅にいでてみん……

「ははあ、此の詩人も御多分に洩れず、あまり金持でないと見えるな。」と、さう思ひながら僕も滅入つた氣持を引立てようと此の詩人に倣つて、(佛蘭西へ行けない腹癒せに、)せめては新しき背廣なりと着て、――いや冗談ぢやない、そんな贅澤ができるものか。せめては新しき帽子――いや、それでもまだ贅澤すぎる。えゝ、せめては新しきネクタイ位で我慢しておいて、さて、財布の底を一度ほぢくりかへして見てから、散歩にと出掛けて行くのです。丁度、十年前憶えたヴェルレエヌの句そのまゝ、「秋の日のヴィヲロンの、溜息の身にしみて、ひたぶるにうらがなしい」氣持に充されながら。

 

[やぶちゃん追記:……普段、この若き青年国語教師の授業を受けていた、十四~十六歳の文学少女たちが、この一文を読んで、どう感じたであろう、と私は夢想して見る……つい最近――これは全く知られていないことであるが――中島敦と教え子との間に実は何らかのスキャンダルが存在し、発覚したものの、今に伝わらぬほどにうまく揉み消されたという事実があった――という話を小耳に挟んだ……私はこの文章を読みながら……「いや、そんなことがあったとしても……これ、不思議ではあるまいよ……」……と……思わず独りごちていた……]

白梅に明くる夜ばかりとなりにけり 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

  白梅に明くる夜ばかりとなりにけり

 天明三年、蕪村臨終の直前に詠じた句で、彼の最後の絶筆となつたものである。白々とした黎明の空氣の中で、夢のように漂つて居る梅の氣あひが感じられる。全體に縹渺とした詩境であつて、英國の詩人イエーツらが狙つた所謂「象徴」の詩境とも、どこか共通のものが感じられる。しかしかうした句は、印象の直截鮮明を尊ぶ蕪村として、從來の句に見られなかつた異例である。且つどこかスタイルがちがつて居り、句の心境にも芭蕉風の靜寂な主觀が隱見して居る。けだし晩年の蕪村は、この句によって一の新しい飛躍をしたのである。もしこれが最後の絶筆でなかつたならば、更生の蕪村は別趣の風貌を帶びたか知れない。おそらく彼は、心境の靜寂さにおいて芭蕉に近づき、全體としての藝術を、近代の象徴詩に近く發展させたか知れないのである。そしてこの臆測は、蕪村の俳句や長詩に見られる、その超時代的の珍しい新感覺――それは現代の新しい詩の精神にも共通してゐる――を考へ、一方にまた近代の浪漫詩人や明治の新體詩人やが、後年に至つて象徴的傾向の詩風に入った經過を考へる時、少しも誇張の妄想でないことを知るであらう。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」の掉尾。これは底本とした筑摩版全集第七巻校訂本文を用いた。「郷愁の詩人與謝蕪村」の本文は、蕪村の句を「白梅に明ける夜ばかりとなりにけり」としている点及び末尾「知るであらう。」を「知るのであらう。」としている点で劣ると判断したからである。なお、この句は天明三(一七八三)年十二月二十五日未明、蕪村臨終吟三句のうちの最後の作とされ、枕頭で門人の松村月渓が書きとめたものと伝える。前の二句は、

 冬鶯むかし王維が垣根哉

 うぐひすやなにごそつかす藪の霜

とされる(享年六十八歳。死因は心筋梗塞)のであるが、例えば私の所持する二冊の蕪村句集にはこれら三句はいずれも所収されていない。以上は総てネット上から採取したものである。]

蕭條として石に日の入る枯野哉 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

  蕭條として石に日の入る枯野哉

 句の景象してゐるものは明白である。正岡子規らのいわゆる根岸派の俳人らは、蕪村のこうした句を「印象明白」と呼んで喝釆したが、蕪村の句には、實際景象の實相を巧みに捉へて、繪畫的直接法で書いたものが多い。例へば同じ冬の句で

     寒月や鋸岩のあからさま
     木枯しや鐘に小石を吹きあてる

 など、すべていわゆる「印象明白」の句の代表である。そのため非難するものは、蕪村の句が繪畫的描寫に走つて、芭蕉のやうな澁い心境の幽玄さがなく、味が薄く食ひ足りないと言ふのである。しかし「印象明白」ばかりが、必ずしも蕪村の全般的特色ではなく、他にもつと深奥な詩情の本質してゐることを、根岸派俳人の定評以來、人々が忘れてゐることを責めねばならない。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。「喝釆」はママ。「喝采」が正しい。本文途中の二句は底本・親本ではポイント落ち。]

我も死して碑に辺せむ枯尾花 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

  我も死して碑に辺せむ枯尾花

 金福寺に芭蕉の墓を訪うた時の句である。蕪村は芭蕉を崇拜して、自己を知る者ただ故人に一人の芭蕉あるのみと考へてゐた。そして自ら芭蕉の直系を以つて任じ、死後にもその墓を芭蕉の側に竝べて立てさせた。この句はその實情を述べたものであるが、何となく辭世めいた捨離煩惱の感慨がある。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」の掉尾。「郷愁の詩人與謝蕪村」はこの後に「春風馬堤曲」の章と「附錄 芭蕉私見」が続くが、実質上の選句解の掉尾でもある。]

 春雨や小磯の小貝濡(ぬる)るほど 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

 

  春雨や小磯の小貝濡るほど

 

 終日霏々として降り續いてゐる春雨の中で、女の白い爪のやうに、仄かに濡れて光つてゐる磯邊の小貝が、惱ましくも印象强く感じられる。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「鄕愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。]

わかれることの寂しさ 大手拓次

 わかれることの寂しさ

 

あの人(ひと)はわたしたちとわかれてゆきました。

わたしはあの人(ひと)を別(べつ)に好(す)いても嫌(きら)つてもゐませんでした。

それだのに、

あの人がわたしたちからはなれてゆくのをみると、

あの人がなじみのやせた顏(かほ)をもつて去(さ)つてゆくのをおもふと、

わけもないものさびしさが

あはくわたしの胸(むね)のそこにながれてゆきます。

人(ひと)の世(よ)の 生(い)きてわかれてゆくながれのさびしさ。

あの人のほのじろい顏も、

なじみの調度(てうど)のなかにもう見えなくなるのかと思ふと、

さだめなくあひ、さだめなくはなれ、

わづかのことばのうちにゆふぐれのささやきをにごした

そのふしぎの時間(じかん)は、

とほくきえてゆくわたしの足(あし)あとを、

鳥(とり)のはねのやうにはたはたと羽(は)ばたきをさせるのです。

 

[やぶちゃん注:太字「はたはた」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 夏羽織

夏羽織   風呂敷に包んで持てり夏羽織

      老が身の短く着たり夏羽織

2013/06/29

何もすることがない。君は僕を当てにしていい。僕はそれを抱きとめる――

『何もすることがない。君は僕を当てにしていい。僕はそれを抱きとめる』――ジャック・リゴー

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 5 附江の島臨海実験所の同定

M117


図―117

 だが、日本の正餐のことに戻ろう。いくつかの盆の上にひろがったのを見た時、私は食物に対すると同様の興味を、それ等を盛る各種の皿類に対して持った。床に坐り、皿の多くを持ち上げては食うのは甚だ厄介であったし、また箸にはしよっ中注意を払っている必要があったが、すべてに関する興味と新奇さに加うるに激しい食慾があったので、誠に気持のよい経験をすることが出来た。油で揚げた魚と飯とは全く美味だった。各種の漬物はそれ程うまくなく、小さな黒い梅に至っては言語道断だった。大きな浅皿の上には、絹糸でかがった硝子の棒の敷物があった。棒は鉛筆位の太さがあり、敷物は長さ一フィートで、くるくると捲くことが出来る。これは煮魚のような食物の水気を切るには、この上なしの仕掛けである。図117はそれが皿に入っている所を示している。この装置は日本の有名な料理、即ち生きてピンピンしている魚を薄く切った、冷たい生の魚肉に使用される。生の魚を食うことは、我々の趣味には殊に向かないが(だが我々は、生の牡蠣(かき)を食う)、然し外国人もすぐそれに慣れる。大豆、大麦、その他の穀物を醱酵させてつくるソースは、この種の食物のために特別に製造されたように思われる。私はそれを大部食った。そして私の最初の経験は、かなり良好であったことを、白状せねばならぬ。だが、矢田部氏に至っては、一気呵成(かせい)、皿に残ったものをすべて平げて了った。坐って物を食うのは困難な仕事である。私の肘は間もなく疲れ、脚もくたびれて恐ろしく引きつった。私は、どうやらこうやら、先ず満腹という所まで漕ぎつけたが、若しパンの大きな一片とバタとがあったら(その一つでもよい)万事非常に好都合に行ったことと思う。図―118は、我々が食事を終えた時の、床の外見である。食事後我々は実験所に使用する場所をさがしに出かけ、家具の入っていない小さな建物を見つけた。我々はこれを一日三十セントで借りた。今晩、あるいは明日、我々は将来の大学博物館のために、材料の蒐集を始める。

M118

図―118

[やぶちゃん注:「図―118」には多くの手書きキャプションがあるが、私には判読出来ない。もう少し鮮明ならば判読が可能かもしれないと思われる方は、是非、“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback MachineにあるPDF画像で視認してみて戴きたい。よろしくお願い申し上げる。

「硝子の棒の敷物」竹製ではなく、しかも長さ30センチメートル(図から見るとガラス棒一本の長さの方が簀子としての幅よりも長いので恐らくはガラス棒の長さを言っているものと私は判断する)もある非常に太いガラス製の簀子である点、私は正直、この時代に、とちょっと吃驚した。

「我々は実験所に使用する場所をさがしに出かけ、家具の入っていない小さな建物を見つけた。我々はこれを一日三十セントで借りた。」以下、磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の第十章「江ノ島の臨海実験所」に非常に緻密な、この実験所の所在地についての考証があるので、詳細はそちらをお読み戴きたいが、それらの磯野先生のポイントを要約する。

 まず、モースに対して実験所の設置場所として、この江の島を推薦したのは本文に登場している植物学者矢田部良吉であったと推定されておられる。それは矢田部がこの明治一〇(一八七七)年『の一月に海藻の採取に来て実地を』よく知っていたことを挙げられ、また、江ノ島がモースの居留していた『横浜からも近く、外国人が自由に訪問できる「遊歩地域」内で、欧米人がよく避暑に訪れる場所だったことも考慮されたと思う』と記されておられる。この遊歩地域というのは、「外国人遊歩規定」のことを指す。これは江戸幕府が欧米列強と安政五(一八五八)年に結んだ安政五カ国条約の中の、外国人が外国人居留地から外出して自由に活動出来る範囲についての規定を指し、基本的には自由に行動出来る範囲の上限として開港場からの距離最大十里(約四十キロメートル)に定められていた。この条約の内、モースに適応されたアメリカ合衆国と結んだ日米修好通商条約(この条約の失効は日米通商航海条約の発効した明治三二(一八九九)年七月であった)の中では、その第七条の冒頭に(以下、引用は参照したウィキの「外国人遊歩規定」より)、

第七條

 日本開港の場所に於て亞墨利加人遊歩の規程左の如し

 ・神奈川 六郷川筋を限とし其他ハ各方へ凡十里

とある。六郷川は現在の多摩川のことで、この東方向は首都江戸東京のセキュリティのためか、原則から外れて例外的に半分の約五里(二十キロメートル弱)であった。但し、『この規定によって、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域の外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も内地旅行免状が必要であった』とあり、モースの場合はまさに「学問研究目的」で、彼が相当に自由な行動をとっていることからも恐らくは特別な汎用可能の「内地旅行免状」を所持していたものと思われる。『この制限は、攘夷運動など幕末の秩序混乱の時期にあって外国人に危害を加えようとする者との接触を極力避ける目的で設けられた。明治維新によって新政府が成立したのち、列強は居留地外での行動の自由、さらには内地開放を望んだが、その一方で日本では、外国人に対し遊歩規定等を厳格に守らせることにより、不平等条約が列強側にとっても不便であることを痛感させることによって、条約改正に際して、より日本側に有利な条件を引き出そうとする現行条約励行運動(ないし現行条約励行論)を生んだ』。モースに関係する横浜開港場においては、『その西の限界は小田原の東、酒匂川東岸となっていた』とある。

 実験施設として借りた小屋の一日の賃貸料が「三十銭」とあるが、これは非常な高額である。当時は米一〇キログラムが五〇~三七銭、かけ蕎麦一杯が 八厘、大工の一日の手間賃が四五銭の時代で、磯野先生の叙述には、『当時は、東京でも月三~一〇円で建坪二〇坪ほどの二階屋が借りられた』とあり、『月九円はあきれるほど高い借り賃』と断じておられる。場所柄、ただの漁師の船小屋(だから後に見るように相応の大きさがあるのであろう)と考えられ、先生の評言は正しい。

 それではこの江ノ島臨海実験所の正確な位置はどこであったか。これについて、磯野先生は当該書の88頁から90頁にかけて、ピーボディ博物館蔵のモースの日記に記された江ノ島の略図(これは本書の「第六章 漁民の生活」の冒頭に配された「図―146」と酷似する。但し、図―146が絵のみであるのに対し、磯野先生が紹介されている図には“YENOSHIMA”、“Our Zoological Station”(「動物学研究所」の意)といったキャプションが記されてある。但し、当該書の当該図は小さく、筆記体の手書きで判読は極めて難しい。磯野先生が丁寧に日本語に訳されておられるので――例えば次の臨海実験所平面図の中の「点線は石垣を示す」等――私などは辛うじて理解出来るものである。なお、この「図―146」に私が臨海実験所の位置を書き入れたものを以下に示しておくので参照されたい)及び臨海実験所平面図、さらにそれに対応するような江ノ島の古地図2枚(何れも現在の旅館岩本楼が所蔵する文化三(一八〇六)年と明治七(一八七四)~十一(一八七八)年の五年間の間で作成された地図。因みにこの岩本楼はモースの江の島滞在中の宿でもあった。モースは前に『富士山の魅力に富んだ景色がしばしば見られた。かくもすべての上にそそり立つ富士は、確かに驚く可き山岳である』と富士山を絶賛しているが、磯野先生の叙述にはこの岩本楼が『海の彼方に富士を望む場所にあり、その景色の良さがモースの気に入ったの』であると附言しておられる)を掲げて、臨海実験所の同定をなさっておられる。少しく細部を引用させて戴くと、まず、『この小屋の広さは二間×三間の六坪と思われ』(約三・六×五・五メートルで、一坪を畳2畳と換算すると12畳間に相当する。ラボラトリーとしては決して大きいとは言えない)、『海に面した二箇所に窓があり、また海側に石垣が組まれていたこともわかる』とされ、本書の「第六章 漁民の生活」の図―151によって、『たしかに石垣があり、海側に突き出ているようすがはっきりする』とある。なお、この実験所の画像としてはもう一枚、やはり「第六章 漁民の生活」の冒頭に図―147があって、これによって、この実験所は海に突き出た人工の石垣上(この部分は全くの人工ではなく、古地図の地形から見る限りでは、ここら辺りから張り出した南に伸びる海食台があってそれを人工的に護岸したものではないかと思わせる。その北の端の、まさに角縁に実験所はあったのである。そのために東と北の二方向が海になることになるのである)に建っており、2間の東に面した海側に一箇所、3間の北に面した海側に一箇所、長方形の窓(描き方から見ると長方形に開いた窓の中に左右に2本の柱が立ち、例えば左右に雨戸を嵌めると中央に正方形の窓が出来るもののように私は推測する)が附いていることが分かる(以下に図―147及び151をも示しておく)。

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図―146
[やぶちゃん注:江の島の図。三箇所の書き入れは磯野先生が示された日記を参考に私藪野直史がオリジナルに入れたものである。]

M147

図―147
[やぶちゃん注:モースの同部分での叙述及び磯野先生が再構成なされたモースの江の島での日録によれば、恐らくこれは実験所の改装完了当日の絵である。改装落成に快哉したモースであったが、まさにこの当日の7月26日には大型台風が襲来、『採集研究どころではなく、実験所に運び入れたばかりの品々をすべて宿』(岩本楼)『へ持ち帰る騒ぎとな』ったとあり、その風雨の中の臨海実験所の様子を心配して見に行き、その様子を描いたものが、実にこの絵なのである。]

M151

図―151

 磯野先生の考証の結果、当時の実験所のあった所番地は『神奈川県第十六区五小区八十六番地』で(因みに当時の江の島は藤沢宿の領域ではなく、鎌倉の域内であった。実はこの翌年の明治一一(一八七八)年に郡区町村編制法が実施されており、その時、藤沢は高座郡となって高座郡郡役所が置かれているが、この時も江の島は鎌倉郡江島村となっている。その後、遙か昭和八(一九三三)年になって町制施行しても鎌倉郡片瀬町で、昭和二二(一九四七)年になってやっと鎌倉市(鎌倉は昭和一四(一九三九)年十一月に鎌倉町と腰越町が合併して市制を施行、鎌倉市となっていた)から藤沢市へ編入合併されて現在の通りの藤沢市片瀬の一部となったのである)、これは『近年の地番改正によって現在の「江の島一丁目六ー―三二」になったことを明らかにできた』と遂に探り当てておられるのである。現在の当該神奈川県藤沢市江の島1目6―32の地図をリンクする(リンク先は「マピオン」。スケールを最小の1/1500に上げると、明確な位置が把握出来る)。なお、モースの記念碑(付属プレートには「日本近代動物学発祥の地」というキャプションが附されている。山本正道作の研究中のモースとそれを興味深げに見る三人の児童のレリーフ)はこの位置からほぼ北へ一〇〇メートルほど離れた江の島大橋の江の島に向かって直ぐ左手下方、オリンピック記念公園内の橋寄りの西北の隅に設置されている。現在の正しい同定地は民家が立て込んでいたためと磯野先生の解説にある(小さいが一昨年に私が携帯で撮った記念碑の写真を以下に示す)。

20120106130742

[エドワード・S・モース記念碑]

 これについて磯野先生は『この公園の場所はモースが訪れた頃は海のなかであり』、『まさにモースがシャミセンガイを採集したあたりなので、モースはかえって喜んでいるかもしれない』と述べておられ、私も同感である。

 この他にも藤沢市が設置したモース臨海実験所跡の記念プレートが江の島一丁目六―二一東南隅地にあるという記載が磯野先生の記述に現われるが(私も見た記憶はある)、これについてはやや不審な点があるので、いつか個人的に実地調査をしようと思っている。その時はここに注を追加したいと考えている。

 なお、モースはこの小屋を借りた際、同時に内部の改装も依頼している旨、磯野先生の記載にある。]

凧きのふの空の有りどころ 蕪村 萩原朔太郎 (評釈) 

  凧(いかのぼり)きのふの空の有りどころ

 

 北風の吹く冬の空に、凧が一つ揚つて居る。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚つて居た。蕭條とした冬の季節。凍つた鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまく風。硝子のように冷たい靑空。その靑空の上に浮んで、昨日も今日も、さびしい一つの凧が揚つて居る。飄々として唸りながら、無限に高く、穹窿の上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂つて居る!

 この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクが現はれて居る。「きのふの空の有りどころ」という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれて居ることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがつた空に、いつも一つの同じ凧が揚つて居る。即ち言えば、常に變化する空間、經過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメーヂ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在しているのである。かうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーフを表出した哲學的標句として、芭蕉の有名な「古池や」と對立すべきものであらう。尚「きのふの空の有りどころ」といふ如き語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であつて、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外國と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じやうな歐風抒情詩の手法を持つて居たといふことにある。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」の巻頭。初出の『生理』の「5」(昭和一〇(一九三五)年二月刊)では(異同部下線はやぶちゃん)、

   *

即ち言えば、常に變化する空間、經過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメーヂ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上実在しているのである。

   *

蕪村の不思議は、外國と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じやうな歐風抒情詩のポエヂイや手法を持つて居たといふことにある。

   *

となっている。

 私の好きな一句であり、芥川龍之介はこの句を、

 

   木がらしや東京の日のありどころ

 

とインスパイアしている(と私は思う)。]

をとめの顔 大手拓次

   木製の人魚

 をとめの顏

あなたのかほは けだかい佛像のやうに
そうそうとしたひかりのわなにかこまれ、
おもはゆげにふしめして、
あかるくわたしの腕をてらす。

鬼城句集 夏之部 生湯

生湯    御佛目鼻もなくて生湯かな

[やぶちゃん注:「生湯」陰暦四月八日の釈迦の誕生日に誕生仏を安置し、甘茶(ミズキ目アジサイ科アジサイ属ガクアジサイの変種アマチャ Hydrangea macrophylla var. thunbergii)またはスミレ目ウリ科アマチャヅル Gynostemma pentaphyllum の葉を乾燥させて煎じ出した飲み物で甘露〈梵語アムリタの漢訳で不死・天酒の意。天上の神々の飲む、忉利天(とうりてん)にあるという不死を得るとされる甘い霊液。ネクター。転じて仏の教えや仏の悟りを意味するものとなった〉に擬えたもの)を注ぎかけて供養する仏生会(灌仏会)のこと。歳時記によっては春・晩春とする。]

王漁洋 広州竹枝詞 中島敦訳詩

南のまちの         遊妓(あそびめ)の

あら異(こと)やうの    髮のさま

遊びて    醉ひて    春の夜の

靑樓にして         臥しにけり

小夜ふけ床(どこ)に    ふと覺めぬ

何の甘さぞ         この匂

傍(かた)へなる妓(こ)が 黑髮に

ジャスミンの花       我は見つ

 

 ※雲盤髻簇宮鴉

 一綫紅潮枕畔斜

 夜半髮香人夢醒

 銀絲開徧素馨花

  王士正「廣州竹枝」

 

[やぶちゃん注:「※」=「髪」-「友」+「春」。「王士正」は清初の詩人王士禎(一六三四年~一七一一年)。本来は「士禛(ししん)」という名であったが、死後に雍正帝が即位しその諱が「胤禛」であったために「士正」と改名された。後の乾隆帝の治世に「士禎」の名を賜ったが、現在は号を以って王漁洋と称されることも多い。

「竹枝」竹枝詞。以下、「竹枝詞 概説 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩」(このサイトは私が最も素晴らしいと思うネット上の漢詩サイトである)によれば、元は民間の歌謡で楚に生まれたものと伝えられる。唐代の北方人にとっては楚は蛮地でもあり、長安の文人には珍しく新鮮に映ったようである。そこで、それらを採録・修正したものが劉禹錫や白居易によって広められて竹枝詞と呼称されるようになり、地方色豊かな民歌として流行った。その後、唱われなくなったが(竹枝詞をうたうことは「竹枝」といわれ「唱」が充てられた)、詩文の、同様の形式や題となって他へ広がった。形式は七言絶句と似ているものが殆どである(二句だけの二句体や六言のものなどもある)。『竹枝を七絶と比較して見てみると、七絶との違いは、平仄が七絶より緩やかであって、あまり気にしていない。謡ったときのリズム感を重視するためか、同じことば(詩でいえば「字」)が繰り返してでてくることが屡々ある。また、一句が一文となっている場合が多く、近体詩の名詞句のみでの句構成などというものはあまりない。聞いていてよく分かるようになっている。これらが文字言語としての詩作とは、大きく異なるところである。また、白話が入ってくることを排除しない。皇甫松や孫光憲のものには、「檳榔花發竹枝鷓鴣啼女兒」のように、「竹枝」「女兒」という「あいのて」があるのも大きな特徴である』。『共通する点は、節奏は、七絶のそれと同じで、押韻も第一、二、四句でふむ三韻。この形式での作詞は根強く、現代でも広く作られている。現代の作品は、生活をうたった、典故を用いない、気軽な七絶という雰囲気である』とあり、更に『竹枝詞の内容は、男女間の愛情をうたうものが多く、やがて風土、人情もうたうようになる。用語は、伝統的な詩詞に比べ、単純で野鄙であり、典故を踏まえたものは少ない。その分、民間の生活を踏まえた歌辞(語句)や、伝承は出てくる。対句も比較的多い。男女関係を唱うものは、表面の歌詞の意味とは別に裏の意味が隠されている。似たフレーズを繰り返した、言葉のリズム、言葉の遊びというようなものが感じられる。また、(近現代の作品を除き)中国語で読んだときにすらっとしたなめらかな感じがあ』って、『これらの特徴は、太鼓のリズムに合わせ、楽器の音曲にのり、踊りながら唱うということからきていよう』と記されておられる。実作例はリンク先の下方に豊富に示されてあるので必見。]

2013/06/28

僕が今欲しいもの

小さな頃――詩的に夢と恐怖を育んで呉れた――「小学館の図鑑」――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 4

 江ノ島は切り立ったような島で、満潮時には水の下になる長い狭い砂洲で、陸地とつながっている。この島は突然見える……というのは、陸地を離れる直前に、我々は長い砂丘を登るので、その頂に立つと江ノ島が海中に浮び、太平洋から押しよせる白波でへり取られた砂浜と共に人の目に入る。この長い砂洲を横切る時、私は初めて太平洋の海岸というものを見た。私は陸上に見るべきものが沢山あるので、それ迄海岸を見ることを、私自身に許さなかったのである。私が子供の時、大切に戸棚に仕舞っておいたり、あるいは博物館でおなじみになったりした亜熱帯の貝殻、例えば、たから貝、いも貝、大きなうずらがい、その他の南方の貝を、ここでは沢山拾うことが出来る。これ等の生物の生きたのが見られるという期待が、如何に私を悦ばせたかは、想像出来るであろう。江ノ島の村は、一本の急な狭い道をなして、ごちゃごちゃに集っているのだが、その道は短い距離をおいて六段、八段の石段がある位、急である。幅は十フィートを越えず、而も木造の茶屋が二階、あるいは三階建てなので、道は比較的暗い。これに加うるに板でつくった垂直の看板、いろいろな形や色をした、これも垂直な布等が、更に陰影を多くするので、道路の表面には決して日が当らず、常にしめっている。路の両側には店舗がぎつしり立ち並んでいて、その多くでは貝殻、海胆(うに)その他海浜で集めたいろいろな物でつくつた土産物を売っている。私は日本の食物で暮すことに決心して、昼飯は一口も食わずに出て来たのであった。一軒の茶屋に入って、部屋に通されると、我々は手をたたいた。これは召使いを呼ぶ普通な方法で、家が明け放しだから、手をたたくと台所までもよく聞える。召使いは「ハイ」と長くひっぱって答える。部直には家具その他が全く無く、あるものは只我々と旅行鞄とだけであった。必ずお茶、次に風味のない砂糖菓子とスポンジ・ケーク(かすてら)に似たような菓子が運ばれた。これ等は我国では、最後に来るのだが、ここでは最初に現われる。我々は床に坐っていた。私は殆ど餓死せんばかりに腹が空いていたので、何でも食う気であった。娘達が何かを差出すごとに、膝をついてお辞儀をする、そのしとやかな有様は、実に典雅それ自身であった。しばらくすると、漆器のお盆にのって食事が出現したが、磁器、陶器、漆器の皿の数の多さ! 箸は割マッチみたいにくっついていて、我我のために二つに割ってくれたが、これはつまり、新しく使い、そして使用後は折ってすてて了うことを示している。箸は図116のようにして片手で持つ。一本は拇指と二本の指とではさみ、物を書く時ペンを動かすようにして前後に動かす。もう一本の箸は薬指と、拇指と人差指との分れ目とで、しつかり押えられる。私はすでに、一寸箸を使うことが出来るようになった。これ等二本の簡単な装置が、テーブル上のすべての飲食用器具の代用をする。肉はそれが出る場合には、適宜の大さに切って膳に出される。スープは、我々の鉢に比べれば、小さくて深くて蓋のある椀に入っている。そして液体は飲み、固形分は箸でつまみ上げる。飯も同様な椀に入っていて、人はその椀を下唇にあてがって口に押し込む。だが、飯には、箸でそのかたまりをつまみ上げることも出来る位、ねばり気がある。飯櫃の蓋は、飯椀を給仕する時、よくお盆として使われる。料理番は、金網や鍋の食物をひっくり返すのに、金属製の箸を使用する。火鉢で使う箸は鉄か真鍮で、一端に環があって連結している。細工人は懐中時計を組み立てるのに細い箸を使う。往来の塵ひろいは、長さ三フィート半の竹の棒を二本持っていて、これで紙屑を拾い、背中にしよった籠の中に入れる。私は一人の老婦人が貝で花をつくるのを見たが、こまかい貝殻をつまみ上げるのに、我々が鑷子(ピンセット)を使用する所を、彼女は精巧な箸の一対を用いていた。若し我国の軍隊で箸の使用法を教えることが出来たら、兵隊の背嚢からナイフ、フォーク、スプーンを取り除くことが出来る。入獄人は一人残らず箸の使い方を教えらるべきである。公共の場所には、必ず箸が備えらるべきである。

図―116

[やぶちゃん注:「たから貝」原文は“Cyprӕa”(“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback MachineにあるPDF版による。“æ”は A E の合字で、中世ヨーロッパに於いて古典ラテン語の二重母音 AE を合字として綴るようになったのを起源とする特殊文字)。現在の“cypraea”は腹足綱直腹足亜綱Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科タカラガイ属 Cypraea の属名で、典型的なタカラガイ類を示す単語である。

「いも貝」原文“Conus”。腹足綱新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属Conus の属名。

「大きなうずらがい」原文“a big Dolium”。腹足綱前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ科ウウズラガイ Tonna perdix。ナマコを捕食する貝として知られ、生体は外套膜が非常に大きい。「沖縄美ら海水族館」の公式サイト内のナマコを食べる貝で生貝の画像を見られる。

「十フィート」約3メートル。

「風味のない砂糖菓子」原文“a flavorless candy”。落雁か?

「スポンジ・ケーク(かすてら)に似たような菓子」「(かすてら)」はルビではない。原文は“and cake, not unlike sponge cake,”で、この「(かすてら)」は訳者石川氏の注である。

「割マッチ」原文“a split match”。今でも見られる“book match”(ブックマッチ)のこと。二つ折りのカバーに紙マッチを挟み込んだもので、一本ずつはぎとって使うタイプのマッチである。

「鑷子(ピンセット)」「(ピンセット)」はルビ。音読みすると「じょうし」又は「ちょうし」と読む。金属製の毛抜きのこと。]

M116

萩原朔太郎「芭蕉私見」初出と「郷愁の詩人 與謝蕪村」に附録された同「芭蕉私見」の冒頭部比較

(萩原朔太郎「芭蕉私見」初出の冒頭部分)

 芭蕉私見

 僕は少し以前まで、芭蕉が嫌ひであつた。ただ不思議なことに、蕪村だけは昔から好きであつた。蕪村以外には、一般に俳句といふものを毛嫌ひして居た。その理由は、おそらく俳句の詩情してゐる東洋的の枯淡趣味や低徊趣味やが、僕の氣質的な性情と反潑するためであつたのだらう。蕪村だけが好きだつたのも、つまり蕪村の詩情に、萬葉風なロマンチシズムや靑春性があり、その點で他と異つて居た爲なのだらう。友人の室生犀星君や芥川龍之介君は、僕とちがつて俳句が好きで、且つ自分でも常に句作をし、逢へば芭蕉論などをして居たけれども、僕には全く興味がなく、俳句の話になるといつも横を向いて欠呻をして居た。
 芭蕉に限らず、一體に俳句といふものが嫌ひであつた。しかし僕も、[やぶちゃん注:以下、略。注記参照。]

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」の冒頭の一段落。筑摩版全集第七巻の巻末に載る「校異 郷愁の詩人 與謝蕪村」の記載に従って復元した。「反潑」「欠呻」はママ。後の昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では以下のように大幅にカットされて、本来の二段落目がそのままジョイントしている。

  芭蕉私見

 僕は少し以前まで、芭蕉の俳句が嫌ひであつた。芭蕉に限らず、一體に俳句といふものが嫌ひであつた。しかし僕も、最近漸く老年に近くなつてから、東洋風の枯淡趣味といふものが解つて來た。或は少しく解りかけて來たやうに思はれる。そして同時に、芭蕉などの特殊な妙味も解つて來た。昔は芥川君と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつたのだが、今では僕も芭蕉フアンの一人であり、或る點で蕪村よりも好きである。年齡と共に、今後の僕は、益〻芭蕉に深くひき込まれて來るやうな感じがする。日本に生れて、米の飯を五十年も長く食つて居たら、自然にさうなつて來るのが本當なのだらう。僕としては何だか寂しいやうな、悲しいやうな、やるせなく捨鉢になつたような思ひがする。

私は近い将来、この「芭蕉私見」の初出形を完全復元してみようと思っているが――ともかくも――
『友人の室生犀星君や芥川龍之介君は、僕とちがつて俳句が好きで、且つ自分でも常に句作をし、逢へば芭蕉論などをして居たけれども、僕には全く興味がなく、俳句の話になるといつも横を向いて欠呻をして居た』
という初出と、
『昔は芥川君と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつた』
という朔太郎の高慢な物謂いには、同じシークエンスとは思えない違和感がある。真実は初出である。気儘我儘で嫌いなために碌な知識もなく欠伸さえこいていた朔太郎が、芭蕉をキリスト・レベルまでディグし得た(と私は思っている)龍之介『と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつた』などというシチュエーションは考えられぬ。『いつも横を向いて欠呻をして居た』のが朔太郎の真実であったと私は言い切る。朔太郎は四十九になっても、どこかで万年少年の自己肥大を起こしているのである。……まあ、私も自己肥大についちゃあ……こんな朔太郎なんぞ、ものの数じゃあ、ないが、ね……]

指頭の妖怪 大手拓次

 指頭の妖怪

 

あをじろむ指のさきから、

小鳥がまひたつてゆく。

ぎらぎらにくもる地面(ぢめん)の床(とこ)のうへに、

片足でおとろへはてながら、

うづまきながらのしかかつてくる。

まつくろな蛇の腹のやうな太鼓のおとが

ぼろんぼろんとなげくのだ。

わたしのあをじろむ指のさきからにげてゆく月夜の雨、

毛ばだつた秋の果物(くだもの)のやうな

ふといぬめぬめとした頸(くび)をねぢらせ、

なまめく頸をねぢらせ、

秋のこゑをつぶやき、

秋のつめたさをおさへつける。

ぼろんぼろんとやぶれた魂の絲をかきならし、

熱く、ものうく、身をかきむしつて、

さびしい秋のつめたさをおさへつける。

まがりくねつた この秋のさびしさを、

あやしくふりむけるお前のなまなましい頸のうめきに、

たよりなくもとほざけるのだ。

しろくひかる粘液をひいて、

うねりをうつお前の頸に

なげつけられた言葉の世にも稀なにほひ。

ぼろんぼろんと

わたしの遠耳にきこえてくるあやしい太鼓のおと。

[やぶちゃん注:太字「ぬめぬめ」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 鵜飼

鵜飼    じやぶじやぶと鵜繩ひく子や叱らるゝ

[やぶちゃん注:「じやぶじやぶ」は底本では、最初の「じ」が「志」の崩し字に濁点附き、「じやぶ」の後半は踊り字「〱]。]

      鵜飼の火川底見えて淋しけり

2013/06/27

栂尾明恵上人伝記 44

 又天竺魯崎那(ろきな)國に大山あり。山頂より下る事五六十里の外に巡りて山あり。形きびしき墻(かきね)の如し。先聖修道(せんしやうしゆだう)の靈跡多く、香華(かうけ)・名草(めいさう)充滿せり。西北は師子國に連なり、其の外は皆大海なり。國の人羅婆那城(らばなじやう)に准(なぞら)へて是を楞伽山(りようがせん)と名づく。山の頂に三の圓石あり、高さ四五尺、廣さ二丈計りなり。如來の御足(みあし)の跡其の上にあり。金剛智三藏其の遺跡を尋ね見給ふに、文影損缺せり。佛跡に非ざるかと疑ふ。時に五色の雲靄(たなび)きて、其の中に圓光あつて佛跡を照らす。其の時に輪相分明(りんさうぶんみやう)に顯現す。空中に聲有りて告げて云はく、是れ誠の佛跡なり。如來將來の衆生の爲に此の跡を留め置き給へりと云々。三藏其の聲を周くに歡喜の泪(なみだ)せきあへず、此の事思ひ出されてうらやましければ、此の定心石の奧に大盤石あり、其の石の上に佛の御足の跡を彫り付けて供養をなし給ふ。仍て遺跡窟(ゆゐせきくつ)と名づく。
  滿月の面を見ざる悲しさに巖の上に足をこそすれ

 上人或る時讀み給ひける
  生死海に慈悲の釣舟(つりふね)出でにけり漕ぎゆくおとは弱吽鎫斛(じやくうんばんこく)
[やぶちゃん注:「弱吽鎫斛」平泉洸全訳注「明惠上人伝記」の訳文では『四摂菩薩の種子』とある。四摂菩薩とは人々をすくい取る役目を担う四菩薩で、金剛鉤菩薩・金剛索菩薩・金剛鎖菩薩・金剛鈴菩薩を持っており、鉤を掛け、索で捕まえ、鎖で縛りって人々を救いとり、鈴で人々の心を歓喜させることを表象するという。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 22 / 了

 逗子 蘆花氏が小説不如歸(ほとゝぎす)を著して以來、逗子の名は一度にどつと擴がつて、只に自然の風致や、天然の艮氣温に富んだと云ふのみでない、川島武夫と浪子との情緒の密なりしを想ふと共に又如何に悲哀の歷史を作りし浪切不動を探るべく此逗子ケ濱に杖を曳くものは、鎌倉に劣らぬ程數多いのである。鎌倉驛より横須賀線を東に進む約十分間にて、逗子驛に達す。停車場前には常に數十輌の人力車が倂立してゐる。此外尤も安直に便利な數臺の乘合馬車が、列車の着驛毎に、葉山方面と金澤方面とに發車する、俗に「ガタ馬車」と云ふが中々に重寶である。

[やぶちゃん注:「蘆花氏が小説不如歸を著して以來」徳富蘆花の「不如帰」は明治三一(一八九八)年から翌年にかけて「国民新聞」に掲載され、明治三三(一九〇〇)年一月に民友社から初版が出て以来、本書刊行の三年前の明治四二(一九〇九)年三月には百版を重ねた。その後は民友社版だけでも五十万部を突破、日露戦争が始まった明治三七(一九〇四)年には早くもアメリカとイギリスで同時に英訳本“Nami-ko”も出版されている。参照した個人ブログ「古書の森日記 by Hisako 古本中毒症患者の身辺雑記」の「世界に羽ばたいた日本のヒロイン(1)」Hisako 氏は、『それほど日本で売れに売れた『不如帰』は、世界のさまざまな言語に翻訳されている。おそらく、日本の古典を除く(明治当時の)“現代文学”の中で、最も早く外国でも読まれたのがこの『不如帰』ではないか』と述べておられる。]

 又七月一日より運轉を開始したる湘南遊覽自働車は、目下逗子・葉山間、逗子・金澤間を運轉してゐる。遊覽避暑地は兎角に交通不便の地多きを感ずるに、此地に於てかゝる完全なる交通機關を見るのは同地發展の爲め大に喜ぶべき事である。而して此乘合自働車は六人乘りで末々は三浦三崎の半島は勿論、藤澤、鎌倉、戸塚、厚木邊にまで延長するとの事である。

[やぶちゃん注:「自働車」はママ。

「湘南遊覽自働車」不詳。ウィキの「神奈川中央交通」の創業期の項に、二〇〇九年現在の神奈川中央交通が主な営業エリアとしている神奈川県中央部に乗合自動車が走り始めたのは、明治四三(一九一〇)年に佐藤某が設立した合資会社による、厚木と平塚を結ぶ幌つき自動車による路線の開設に端を発するとあり、これに続くように、翌明治四四年には相陽自動車が車両三台で秦野と平塚を結ぶ路線の運行を開始している。しかし、乗合馬車や人力車の方が安かったことや、道路が悪く運転技術も未熟だったことなどから、いずれも一年程度で廃業となっていると記されている。営業域は一致しないが、本書の刊行が明治四五年である点では、すこぶる共時的ではある。]

 逗子停車場を降りて、鎌倉銀行支店前を右折して進めば丁餘にて逗子郵便局がある。郵便局前を右に進めば田越村久木を經て名越隧道より鎌倉に至るのである。更に左に進めば玆處は葉山を通じて三崎に至る往還である。此逗子局前を過ぎて進む事三丁餘にて雪白に塗り上げられた田越橋がある。此橋下を流るゝのが、實に懷古に堪へない田越川である。

 田越川は沼間、池子より流れ來つて、旗亭養神亭前に至りて、海に注ぐのである。小松三位中將維盛の嫡男六代御前が、文治元年秋、北條時政に捕へられて、危く斬り果たされんとしたるを、文覺上人に依つて助けられ、剃髮して、高雄の奧にをはしけるを鎌倉殿に召し捕へられ、此田越川のほとりにて、あたら命を害されて草葉の露と消へられたのである。今尚ほ此川のほとりに六代御前の墓と刻まれた碑ある塚がある。

 田越橋を渡りて川に沿ふて進む數丁、右に富士見の假橋を渡れば、逗子灣に面せる宏壯なる建物がある。之れ即ち同地有數の旗亭養神亭である。

 現在二千餘坪の庭園は、逗子の風光を獨占して、自然の風致到らざるなく、當さに園遊會場として、湘南唯一の好適地であらう。旗亭に登りて巾廣き廊下を傳ひ、淸洒たる海水温浴場を左に見て進めば、玆處は同亭獨特の百疊座敷である。入口階段の左に幹事室あり、正面大廣床に相對して、演藝舞臺の設備等萬事に就きて行屆いてゐる。

 殊に純日本式で廻廊悉く玻璃障子にて東は田越川を隔てゝ、蜒々たる櫻山を望み西廊下に出づれば、廣漠たる大庭園を前にして、烟波漲る相模洋に面し、右は突出せる大崎ケ鼻を隔て、近く江の島の翠黛を指顧の中に眺めて、遙かに富峯の寛容を仰ぎ、左には鳴鶴ケ崎を界して、遠く雲間に翠色烟波と相映ずる大島を見て、眞に一幅の畫圖の樣である。尚ほ避暑避寒に適する樣にと種々なる嗜好を凝した各種の間取りを爲し、就中娯樂場として玉突場、蓄音機其他の餘興機關の具備してあるのは申分がない。

 盛夏期に到れば庭先に沿ふたる白砂に數箇の脱衣場が設けられ、海上には救護舟を浮べて海水浴客の便を圖つて居る。養神亭前を經て更に進む三四丁餘左は櫻山に沿ひ右に田越川の川口を隔てゝ大崎ケ鼻、浪切不動等を見て、だらだらと切通しの小坂を登り詰めて、左り海岸に下れば玆處は鳴鶴(なきつる)ケ鼻と云ひ、右に平田男の別莊を見て左側に旅館日蔭の茶屋がある。此邊より葉山の部落に入るのである。

[やぶちゃん注:完全無欠の養神亭タイアップである。]

 逗子附近には、小坪に住吉城址がある。永正年間上杉顯定の家老長尾爲景が、主顯定を課せんとて薮旗を飜した時、北條早雲が聲援して此城に降した事があると傳られてゐる。沼間には天臺宗の神武寺がある。

 葉山 逗子と相幷んで避暑避寒の好適地である。殊に一帶の長汀曲浦は或は平沙連りて潔く、或は奇巖突出して激浪を嚙んで白沫煙ると思へば、碧波洋々として碧瑠璃のそれの如きあり、且つ江の島を前にして魏然として雲表に資ゆる富嶽を眺めて眞に得も言難き自然の絶景である。此自然の風光に富んで居る其上に冬期は暖かに夏期は涼しいと言ふのであるから、朝野の貴顯紳商の此地に來り、或は淸洒に或は宏壯に思ひ思ひに山手と言わず海岸と言わず各々地を撰んで續々別莊の建築を見るのも無理はない。實に御用邸を此地に選ばれ、畏くも御避暑に御避寒に年々歳々御行啓あらせらるゝを拜するこそ眞に葉山の光榮なれ。

 葉山の舊蹟 字堀の内に至り森戸橋を渡れば右に大理石に疊まれた大鳥居がある。即ち森戸神社である。境内は頗る眺望絶佳にて千貫松、腰掛松、高石等がある。又鎧橋の海岸に鎧摺(よろひづり)城趾あり。上山口には猪俣範綱の碑木古庭畠山には畠山六郎重保の城趾がある。

[やぶちゃん注:底本には、最後に『(別荘一覧以下省略)』とあって終わっている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 3

 南へ行くに従って、江ノ島まで位の短い内であっても、村々の家屋に相違のあるのが認められる。ある村の家は、一軒残らず屋根に茂った鳶尾(とんび)草を生やしていた。この人力車の旅は、非常に絵画的であった。富士山の魅力に富んだ景色がしばしば見られた。かくもすべての上にそそり立つ富士は、確かに驚く可き山岳である。時々我々は花を頂いた、巨大な門を通りぬけた。茶庭や旅籠屋には、よく風雨にさらされた、不規則な形をした木片に、その名を漢字で書いたものが看板としてかけてある。我々の庭で栽培する香のいい一重の石竹が、ここでは路傍に野生している。また非常に香の高い百合(Lilium Japonicum)を見ることも稀でなく、その甘ったるい、肉荳蔲(にくずく)に似た香があたりに漂っている。

[やぶちゃん注:「鳶尾草」原文は“iris”。単子葉類キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum の別名で「とびおぐさ」とも読む。イチハツ(一初)は中国原産の多年草帰化植物で、古く室町時代に渡来して観賞用として栽培されてきた。昔はここに記されたように農家の茅葺屋根の棟の上に植える風習があったが、最近は滅多に見られない(私は三十五年前、鎌倉十二所の光触寺への道沿いにあった藁葺屋根の古民家の棟に開花しているのを見たのが最後であった)。種小名“tectorum”は、「屋根の」の意で、和名はアヤメの類で一番先に咲くことに由来する(主にウィキの「イチハツ」に拠った)。私はここを読むと、この23年後に来日した小泉八雲の「日本瞥見記」(HEARN, LafcadioGlimpses of unfamiliar Japan2vols. Boston and New York, 1894.)の、まさに「第四章 江の島行脚」が思い出されてならないのである。平井呈一先生の名訳でその冒頭を紹介したい(底本は恒文社一九七五刊の「日本瞥見記(上)」を用いた)。

   《引用開始》

 第四章 江の島行脚

        一

 鎌倉。

 木の茂った低い丘つづき。その丘と丘のあいだに、ちらほら散在している長い村落。その下を、ひとすじの堀川が流れている。陰気くさい寝ぼけた色をした百姓家。板壁と障子、その上にある勾配(こうばい)の急なカヤぶき屋根。屋根の勾配には、何かの草とみえて、緑いろの斑(ふ)がいちめんについている。てっぺんの棟のところには、ヤネショウブが青々と繁って、きれいな紫いろの花を咲かせている。暖かい空気のなかには、酒のにおい、ワカメのお汁(つけ)のにおい、お国自慢の太いダイコンのにおいなど、日本の国のにおいがまじっている。そして、そのにおいのなかに、ひときわかんばしい、濃い香のにおいがただよっている。――たぶん、どこかの寺の堂からでもにおってくる抹香のにおいだろう。

 アキラは、きょうの行脚のために、人力車を二台やとってきた。一点の雲もない青空が、大きな弧を描いて下界をかぎっており、大地は、さんさんたる楽しい日の光りに照らされている。それでいながら、われわれが、屋根草のはえた貧しい農家のあいだを流れている小川の土手にそうて、俥を走らせて行く道々、何とも名状しがたい荒涼とした悲愁の思いが、胸に重くのしかかってくるのは、この荒れはてた村落が、かつては将軍頼朝の大きな都どころ――貢物(みつぎもの)を強要にきた忽必烈(クビライ)の使者が、無礼をかどに斬首された、あの封建勢力の覇府の名ごりをとどめいるところだからである。今ではわずかに、当時の都にあまたあった寺院のうち、おそらくは高い場所にあったためか、あるいは境内が広く、深く木立でもあって、炎上する街衢(がいく)から離ていたためかで、十五、六世紀の兵燹(へいせん)を免れて現存しているものが、ほんのいくらかあるに過ぎないというありさまである。荒れほうだいに荒れはて、参詣者もなければ、収入とてもないこの土地の、そうした寺院の深い静寂のなかに、そのかみの都の潮騒(しおさい)のごとき騒音とは似てもつかぬ、いたずらに寂しい蛙の声のみかまびすしい田圃にかこまれがら、古い仏たちが、今もなお依然として住んでいるのである。

   《引用終了》

学者モースの視線が、詩人八雲の潤いに満ちた瞳で、鮮やかにリメイクされている(ように見える)のが素晴らしいではないか。

「時々我々は花を頂いた、巨大な門を通りぬけた」これは実際の花ではあるまい。私の印象では、神社仏閣や和風木造建物の、所謂、支輪(しりん)のことを言っているのではないかと思われる。支輪とは高さの異なった二本の平行材を斜めに連結した湾曲した部材で組み物によって送りだされた軒桁と軒桁の間を斜めにふさいでいる壁のような部位を指す。軒支輪と天井支輪があり、カーブした細い材を数多く並べて作られた支輪を特に蛇腹支輪というそうである(建築会社「丸平建設」の支輪ページを参照されたい)。

「百合(Lilium Japonicum)」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属ササユリ Lilium japonicum。ヤマユリのこと。日本特産。

「肉荳蔲」原文“nutmeg”。なお底本では、「蔲」の「攵」の部分が「支」である。双子葉植物綱モクレン亜綱モクレン目ニクズク科ニクズク Myristica fragrans。綴りでお分かりのように、ナツメグのこと。]

白葵花 高青邱 中島敦訳

しろじろと    庭かげに

ほそぼそと    たゞ一つ

葵(あふひ)ばな 露ふかき

曉(あかつき)の すゞしさよ

人知らぬ     花の色

仄白く      寂しけど

日を戀ふと    伸び行くを

いぢらしと    君見ずや

 

 素彩發庭陰

 涼滋玉露深

 誰懷白衣者

 亦有向陽心

 

[やぶちゃん注:これは底本の「譯詩」の「二」に掲げられているもので作者名がないが、これは高青邱の「白葵花」であることを教え子が知らせてくれた。]

塚も動け我が泣く聲は秋の風 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈) 

 

   塚も動け我が泣く聲は秋の風

 

 芭蕉の悲哀は、宇宙の無限大なコスモスに通じて居る。蕭條たる秋風の音は、それ自ら芭蕉の心靈の聲であり、よるべもなく救いもない、虛無の寂しさを引き裂くところの叫である。釋迦はその同じ虛無の寂しさから、森林に入って出家し、遂に人類救濟の悟道に入つた。芭蕉もまた佛陀と共に、隣人の悲しみを我身に悲しみ、友人の死を宇宙に絶叫して悲しみ嘆いた。しかし詩人であるところの芭蕉は、救世主として世に立つ代りに、萬人の悲しみを心にはぐくみ、悲しみの中に詩美を求めて、無限の寂しい旅を漂泊し續けた。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」の掉尾に配された鑑賞文。私はこの評釈がすこぶる好きである。但し、『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なる。

 塚も動け我が泣く聲は空の風

 友人の追悼句ではあるけれども、實には芭蕉の魂が、宇宙の孤獨と寂寥に對して泣いてるのである。まことに芭蕉の悲哀は大宇宙に住むコスモポリタンの悲哀であつた。それ故に「塚も動け」といふ大きな皷張が切實な情想として表象されて來るのである。

「皷張」はママ。――書き直して遙かによくなってるね。――]]

鏡にうつる裸體 大手拓次

 鏡にうつる裸體

 

鏡(かがみ)のおもてに

魚(うを)のやうに ゆらゆらとうごくしろいもの、

まるいもの、ふといもの、ぬらぬらするもの、べつたりとすひつきさうなもの、

夜(よる)の花びらのやうに なよなよとおよぐもの、さては、うすあかいけもののやうに

のつぺりとしてわらひかけるもの。

ひろい鏡のおもてに

ゆきちがひ、すれちがひ、からみあふもの、

くづれちる もくれんの花のやうに

どろどろに みだれて悲しさをいたはり、

もうもうとのぼるかげろふの靑(あを)みのなかに、

つつみきれない肉のよろこびを咲きほこらせる。

ああ、みだれみだれて うつる白いけむりの肉、

ぼつてりとくびれて、ふくふくともりあがる肉の雨だれ、

ばらいろの蛇、みどり色の犬、

ぬれたやうにひかるあつたかい女のからだ、

ぷつくりとゑみわれる ぼたんの花、

かげはかげを追ひ、

ひかりはひかりをはしらせ、

つゆをふくんでまつくろなゆめをはらませるもの

につちやりと、うたれたやうな音をたてて、

なまめかしいこゑをもらす白いおもいもの、

あのふくれた腹をごらんなさい、

うう、ううとけもののうめきにも似て命をさそふ嘆息のエメロード、

まるくつて、まるくつて、

こりこりと すばやく あけぼのの霧をよぶやうなすずしいもも、

よれよれにからみつく乳房のあはあはしさ、

こほろぎのなくやうに 溶(と)けてゆく

足の指のうるはしさ、

…………………………。

くるぶしはやはらかくゆらめいて

あまく、あまくわたしの耳をうつ。

 

[やぶちゃん注:「エメロード」フランス語“emeraude”。エメラルド、エメラルド色のことであるが、ここでは鮮緑色の色のイメージと読む。

 後ろから三行目のリーダ数は二十七。但し、底本の見た目の配置(両行と比較した長さ)に近づけるためにポイント数を落として示してある。

 さりながら、私はこの詩をデユシャンに読ませたい気がする、さえも……]

蜘蛛のをどり 大手拓次

 蜘蛛のをどり

 

あらあらしく野のをかに歩みをはこぶ

ゆふぐれのさびれたたましひのおともないはばたき、

うすぐらいともしびのゆらめくたのしさにも似(に)て、

さそはれる微笑の釣針(つりばり)のうつくしさ。

うちつける壁(かべ)も扉(とびら)も窓(まど)もなく、

むなしくあを空(ぞら)のふかみの底(そこ)に身をなげ、

世紀(せいき)のあをあをとながれるうれひ顏のうへに、

こともなげに、ひそかにも、

うつりゆく香料のたいまつをもやしつづけた。

いつぴきの黄色い大蜘蛛(おほぐも)は

手品のやうにするすると絲をたれて、

そのふしぎな心の運命(さだめ)を織る。

ああ、

ゆふぐれの野(の)のはてにひとりつぶやく太陽の

かなしくゆがんだわらひ顏、

黄色(きいろ)い蜘蛛はと織りつづける。

女のやうにべつたりとしたおほきな蜘蛛は、

くたびれるのもしらないで、

足も 手も ぐるぐるする眼も

葉ずれの蘆(あし)のやうに、するどくするどくうごいてゐる。

 

[やぶちゃん注:三箇所の太字「た」は底本では傍点「ヽ」。]

盲目の鴉 大手拓次

  盲目の鴉

 

うすももいろの瑪瑙の香爐から

あやしくみなぎるけむりはたちのぼり、

かすかに迷ふ茶色の蛾は

そこに白い腹をみせてたふれ死ぬ。

秋はかうしてわたしたちの胸のなかへ

おともないとむらひのやうにやつてきた。

しろくわらふ秋のつめたいくもり日(び)に、

めくら鴉(がらす)は枝から枝へ啼いてあるいていつた。

裂かれたやうな眼がしらの鴉よ、

あぢさゐの花のやうにさまざまの雲をうつす鴉(からす)の眼よ、

くびられたやうに啼きだすお前のこゑは秋の木(こ)の葉(は)をさへちぢれさせる。

お前のこゑのなかからは、

まつかなけしの花がとびだしてくる。

うすにごる靑磁の皿のうへにもられた兎(うさぎ)の肉をきれぎれに嚙む心地にて、

お前のこゑはまぼろしの地面に生える雜草(ざつさう)である。

羽根をひろげ、爪(つめ)をかき、くちばしをさぐつて、

枝から枝へあるいてゆくめくら鴉(がらす)は、

げえを げえを とおほごゑにしぼりないてゐる。

無限につながる闇の宮殿のなかに、

あをじろくほとばしるいなづまのやうに

めくら鴉(がらす)のなきごゑは げえを げえを げえをとひびいてくる。

 

[やぶちゃん注:太字「げえを」は底本では傍点「ヽ」。]

疾患の僧侶 大手拓次

 疾患の僧侶

みつめればみつめるほど深い穴(あな)のなかに、
凝念(ぎようねん)の心をとかして一心にねむりにいそぐ僧侶、
僧侶の肩に木(こ)の葉(は)はさらさらと鳴り、
かげのやうにもうろうとうごく姿に、
闇をこのむ蟲どもがとびはねる。
合掌の手のひらはくづれて水となり、
しづかにねむる眼(め)は神殿の寶石のやうにひかりかがやき、
僧侶のゆくはれやかな道路(だうろ)のまうへに白い花をつみとる。

底のない穴(あな)のなかにそのすみかをさだめ、
ふしぎの路をたどる病氣の僧侶は、
眼もなく、ひれもなく、尾もあぎともない
深海(しんかい)の魚のすがたに似(に)て、
いつとなくあをじろい扁平(へんぺい)のかたまりとなつてうづくまる。
僧侶のみちは大空(おほぞら)につながり、
僧侶の凝念(ぎようねん)は滿開(まんかい)の薔薇(ばら)となつてこぼれちる。

白い狼 大手拓次

 白い狼

白い狼が
わたしの背中でほえてゐる。
白い狼が
わたしの胸で、わたしの腹で、
うをう うをうとほえてゐる。
こえふとつた白い狼が
わたしの腕で、わたしの股(もゝ)で、
ぼう ぼうとほえてゐる。
犬のやうにふとつた白い狼が
眞赤な口(くち)をあいて、
なやましくほえさけびながら、
わたしのからだぢゆうをうろうろとあるいてゐる。

まるい鳥 大手拓次

 まるい鳥

をんなはまるい線をゑがいて
みどりのふえをならし、
をんなはまるい線をひいて
とりのはねをとばせる。
をんなはまるい線をふるはせて
あまいにがさをふりこぼす。
をんなは鳥だ、
をんなはまるい鳥だ。
だまつてゐながらも、
しじゆうなきごゑをにほはせる。

大手拓次「藍色の蟇」 死顔

死顏(逸見亨畫)

Sinigao

画家逸見亨(へんみたかし)氏(明治二八(一八九五)年~昭和一九(一九四四)年)は、和歌山県出身。中央大学卒業後、ライオン歯磨意匠部に勤務する傍ら、木版画を始め、大正八(一九一九)年の第一回日本創作版画協会展に入選、日本版画協会でも活躍した。「新東京百景」を分担制作、友人であった大手拓次の詩集の装丁・編集も彼が手がけた(講談社「日本人名大辞典」の解説に拠る)。

彼の作品はパブリック・ドメインである。




大手拓次「藍色の蟇」 著者肖像

平野次郎寫

Takuji

大手拓次「藍色の蟇」 表題紙

Hyou

大手拓次 詩集「藍色の蟇」 背表紙

背の部分だけのの金色の質感を出すために補正してある。

Aiir4

大手拓次 詩集「藍色の蟇」 裏表紙

Aiiro2

大手拓次 詩集「藍色の蟇」 表紙

やはり毎日触れているから、手垢にまみれる前に――

因みに、これは復刻本乍ら――僕の所持する書籍の中で、というより、近現代の出版物の中でも――すこぶる附きで偏愛する装幀である――

Aiiro1

林檎料理 大手拓次

 林檎料理

手にとつてみれば
ゆめのやうにきえうせる淡雪(あはゆき)りんご、
ネルのきものにつつまれた女(をんな)のはだのやうに
ふうはりともりあがる淡雪(あはゆき)りんご、
舌(した)のとけるやうにあまくねばねばとして
嫉妬(しつと)のたのしい心持(こゝろもち)にも似(に)た淡雪(あはゆき)りんご、
まつしろい皿(さら)のうへに
うつくしくもられて泡(あわ)をふき、
香水(かうすゐ)のしみこんだ銀(ぎん)のフオークのささるのを待(ま)つてゐる。
とびらをたたく風(かぜ)のおとのしめやかな晩(ばん)、
さみしい秋(あき)の
林檎料理(りんごれうり)のなつかしさよ。

鬼城句集 表紙・背・裏表紙

毎日、手に取っているから、手垢が附いて汚れっちまう前に――

Kijyoukusyu

鬼城句集 夏之部 夏痩

夏瘦    夏瘦や今はひとりの老の友

      雜兵や頰桁落して夏瘦する

[やぶちゃん注:「頰桁」「ほほげた(ほおげた)」は頬骨。頬輔(ほおがまち)。鬼城にこうした時代小説のような想像吟と思しいものが存外多いのは興味深いことである。]

2013/06/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 2

M155


図―115

 契約書はニケ国語で、書かねばならなった。私は二人の書記が忙しく書類を調製する内、事務所に坐つていて、彼等の仕事ぶりを内々スケッチした(図―115)。実験所のために、ガラス瓶、酒精(アルコール)、その他を人々が何をやるのにもゆっくりしているので、辛棒しきれなくなるが、彼等は如何にも気立てがよく、物優しいから、悪罵したり、癇癪を起して見せたりする気にはなれない。植物学教授の矢田部教授――コーネル大学の卒業生で「グレーの摘要」を教えていた――が実験所の敷地を選び、そしてその建設の手配をするために、私と一緒に江ノ島へ行った。この日――七月十七日――は極めて暑かったので、我我は出発を四時までのばした。我々は各々車夫二人つきの人力車に乗った。車夫達は坂に来て立ち止った丈で――我々は下りて歩いた――勢よく走り続けた。殊に最後の村を通った時など、疲労のきざしはいささかも見せず、疾風のように走った。彼等の速力によって起る微風をたのしむ念は、こんな暑い日に走る彼等に対する同情で大部緩和された。彼等が日射病と過労で斃れぬのが不思議な位である。
[やぶちゃん注:「契約書」これは恐らく、東大と結んだ文部省の「外国教師雇入条約文例」に基づく動物生理学教師としての二年契約の約定書を指す。磯野氏の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「9 東京大学との契約」に全訳が掲載されているが、磯野氏は、『何事も最終決定権は日本人側がもつように配慮したことが明白』のもので、『病気の際の規定の厳しさ』(病気理由によって二十日間職務を果たせない場合は、以後、病中の給与は三分の一に減額、発病後六十日を経過しても職務復帰不能の場合は契約を破棄し、以後の給与は支払われない等)『にも驚かされる。現在だったら人権問題であろう』と記されておられる。但し、その給与は三百七十円と相当な高給ではある(磯野氏の記載によれば、矢田部良吉は百円(明治十年八月現在)で、『この頃の東京では、腕のよい大工でも月に十円ぐらいの稼ぎしかなく、二~三円の月収しかない人々が珍しくなかったのだから、御雇い外国人がどんなに優遇されていたかがわかる』ともある。こうした現状にやや後に憤然と嚙みついたのが、イギリスの白人社会で烈しい辛酸を舐めた末に精神病にまで罹患した夏目漱石であった事実も申し添えておくことは意味があろう。
「植物学教授の矢田部教授」驚くなかれ、彼も先の外山正一と並んで「新体詩抄」の作者である植物学者で詩人の矢田部良吉(嘉永四(一八五一)年~明治三二(一八九九)年)である。外山同様、明治一〇(一八七七)年に東京大学初代植物学教授(日本初号)となり、東京植物学会の創立者でもあったが、惜しくも鎌倉の沖で遊泳中に溺死した。享年四十九歳。
「グレーの摘要」不詳であるが、この「グレー」とは十九世紀アメリカで最も知られた植物学者エイサ・グレイ(Asa Gray 一八一〇年~一八八八年)のことではあるまいか?  ウィキの「エイサ・グレイ」によれば、北アメリカの植物分類学の知識を統一するのに尽力した人物で、特に『グレイのマニュアル』として知られた、現在でもこの分野のスタンダードである“Manual of the Botany of the Northern United States”(「北アメリカの植物学マニュアル」一八六三年刊)の著者である。
「彼等の速力によって起る微風をたのしむ念は、こんな暑い日に走る彼等に対する同情で大部緩和された」この部分、日本語としては「軽減された」の部分に表現上の齟齬がある。原文(先程発見した“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machine”に拠る)は、
The enjoyment of the ride with the breeze made by their speed was mitigated by my commiseration for the men running on such a hot day. One wonders why they did not drop dead with sunstroke and fatigue.
とある。確かにこの“mitigate”という動詞は、複数の辞書を見ると、
(怒り・苦痛・悲しみなどのネガティヴな心情を)宥める、和らげる、静める。
(刑罰などを)軽減する。
(熱さ・苛烈さ・罪などを)緩和する、弱める。
の意味で用いられ、語義の元は、
ある感情・現象・行為をより厳格でないようにする、より不愉快でないものにする。
ある感情・現象・行為の持っている深刻さ若しくはネガティヴな程度の重さを相対的に小さくする、或いは小さくしようとする。
という意味であることが分かる。即ち、例えば当初私が感覚的に感じたような、
(あるポジティヴな現象に対して)不利に作用する, 働く。
とあった辞書は一冊だけで、しかもそこには、これは誤った用法とされる、という注意書きさえあった。
 しかしながら、ここはどうみても「大分緩和された」のではなく寧ろ、「かなり弱められた」と訳した方が分かりがいいことは事実である。
 私は以下のように推理する。モースにとって人が馬の代わりになる人力車は、後にアインシュタインが憤然として非人道的乗り物と言い放ち、乗ることを拒否したように、何かある種の罪悪感を強く感じさせるものであったのではなかったか?
……ところがこの…… the dog day ――炎暑の中――この二人引きの人力の異国の男たちは……『人間技とは思えない馬車馬のようおぞましい使われ方で』全力を尽くし、素晴らしい速さで人力を走らせ、そして『私に如何にも心地よい微風を、そよ風を私に送ってくれている』のだ……
――こうした理性的で論理的な潜在的な非人道的なものに乗車しているという罪悪感と――実際の感覚的現実が引き起こすところのすこぶる附きの爽快感が――アンビバレントなものとしてモースの心内にあった―それがこの“mitigate”という単語を選ばせたのではなかったろうか?
 ……人力の疾走する中、そこで起こる微風は熾烈な真夏の陽射しの中、とてもいわく言い難い爽快感を覚えたのであったが……人が馬の代わりに人を曳いているのだ……その「彼等が日射病と過労で斃れぬ」かと思うと、何か、罪悪感の疼きのようなものが、立ち上ってくるのだ……だからそれが、そのせっかくの心地よさに、言い知れぬ陰りを齎したということも事実であった……
とモースは言いたいのではなかったろうか?
 これはそうして、モース自身の心痛であると同時に、モースがこの肌の色が違う異国の人々に感じた、まっこと平等な同情と優しさであったのではあるまいか?
 私は英語は苦手である。大方の識者の御批判を俟つ。]

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十三

■原稿134(135)

     〈《六》→《九》→《八》→九〉十三

 

[やぶちゃん注:「十三」は5字下げに相当。御覧の通り、訂正が甚だしいが、これは何を意味するものか、以下、三箇所連続で「トツク」を「ラツプ」と書き間違えて訂している点も含めて今一つ、不審である。本文は2行目から。]

 

 僕等は〈ラツプ〉*トツク*の家へ駈〈つ?〉**つけました。〈ラツ

プ〉*トツク*は右の手にピストルを握り、〈血だらけにな〉*頭の皿(さら)から血*

を出したまま、〈す?〉**山植物の鉢植ゑの中に仰向

けになつて倒れてゐました。その又側には雌

の河童が一匹、〈ラツプ〉*トツク*の胸に顏を埋め、大声(おほこゑ)

を擧げて泣いてゐました。僕は雌の河童を抱

き起しながら、(一體僕は〈《皮》→河童の皮膚〉*ぬらぬらす*る河童の

皮膚に手を触れること〈は〉**余り好んではゐない

のですが。)「どうしたのです?」と尋ね〈ま〉**した。

 

■原稿135(136)

 「どうしたのだか、わかりません。〈唯〉**何か書

いてゐたと思ふと、いきなりピストルで頭を

打つたのです。ああ、わたしはどうしま〈せ〉**

う? qur-r-r-r-r qur-r-r-r-r」(これは河童の

泣き聲です。)

 「何しろトツク君は〈胃病〉*我儘*だつたからね。」

 〈医者のチヤツクは〉*硝子会社の社長の*ゲエルは〔悲しさうに〕頭(あたま)を振〈り〉**ながら、〈かう言ひました。〉*裁判官のペツプ*にかう言ひました。〈ペツ

プは〉*しかしペ*ツプは何も言はずに金口の巻〈草〉煙草に火を

つけてゐました。すると今まで跪いて〈、〉トツ

[やぶちゃん注:

●「qur-r-r-r-r qur-r-r-r-r」は初出及び現行では、

 qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r
とコンマが入る。現行は筆記体であるが、「r-」の「-」は同様にあって繋がっていない。

●「すると今まで跪いて〈、〉トツクの創口などを調べてゐたチヤツクは」この部分、ちょっと見ると、読点の下のマスに何かを書いて消したようにも見える。校正者もそう思ったものか、ここは初出及び現行では

 すると今まで跪いて、トツクの創口などを調べてゐたチヤツクは

読点が生きている。しかし、よくここを読んでみて頂きたい。この読点は不要である(寧ろ、読点を打つならば「今まで、跪いてトツクの創口などを調べてゐたチヤツクは」とした方がよい)。即ち、この芥川のぐるぐると書いた抹消線の意味が分かってくる。これは、この読点を不要と判断して抹消したのである! その証拠に抹消線は有意に読点にかかっているのである。芥川はこの読点を抹消するに際し、下手に小さな抹消をすると、抹消に見えないことを虞れ、わざわざ大きなぐるぐるを下のマスまで延ばし、『この読点は抹消』という意志を校正者に伝えようとしたのだ! 従って、この読点は現行『定本』からは抹消されてしかるべきである、というのが私の判断である。大方の御批判を俟つものである。]

 

■原稿136(137)

クの創口などを調べてゐたチヤツクは如何に

も醫者らし〈く〉**態度をしたまま、僕等五人に宣

言しました。(實は一人と四匹とです。)

 「もう駄目です。トツク君は元來胃病でした

から、それだけでも憂欝になり易かつたので

す。」

 「何か書いてゐたと云ふことですが。」

 哲學者のマツグは弁解するやうにかう独り

語を洩らしながら、机の上の紙をとり上げま

した。僕等は皆頸をのばし、(尤も僕だけは例

 

■原稿137(138)

外です。)幅の廣いマツグの肩越しに一枚の紙

を覗きこみました。

 「〈岩〉いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。

  岩むらはこごしく、やま水は淸く、

  藥〈草〉**(やくさう)の花はにほへる谷へ。」

 マツグは僕等をふり返りながら、微苦笑と

一しよにかう言ひました。

 「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽竊〈を〉です

よ。するとトツク君の自殺したのは詩人とし

ても疲れてゐたのですね。」

 

■原稿138(139)

 〈そ〉**こへ偶然(ぐうぜん)自動車を乗りつけたのはあの音

〈の〉家のクラバツクです。クラバツクはかう

云ふ光景(くわいけい)を見ると、暫く〈茫然と〉*戸口(とぐち)に*佇ん〈で〉**ゐま

した。が、〈マツグの〉*僕等(ら)の前(まへ)*へ歩み寄ると、怒鳴りつ

けるやうにマツグに話しかけました。

 「それはトツク〈〔君〕〉の遺言状ですか?」

 「いや、最後に書いてゐた詩です。」

 「詩?」

 マツグは〔やはり騷がずに〕髮(かみ)を逆立(さかだ)てた〈マ〉クラバツクに〈一枚〉*トツク*

〈紙〉*詩稿*を渡しました。クラバツクは〈トツク〉*あたり*には目(め)

[やぶちゃん注:

●「マツグは〔やはり騷がずに〕髮(かみ)を逆立(さかだ)てた〈マ〉クラバツクに〈一枚〉*トツク*〈紙〉*詩稿*を渡しました。」初出及び現行と異なる。まず、この原稿部分を整序してみると、

 マツグはやはり騷がずに髮を逆立てたクラバツクにトツクの詩稿を渡しました。

となるが、実際には初出及び現行は、

 やはり少しも騷がないマツグは髮を逆立てたクラバツクにトツクの詩稿を渡しました。

である。これは最終ゲラ校正で芥川が変更したもののように私には思われる。]

 

■原稿139(140)

もやらずに熱心にその詩〔稿〕を読み出し〈ま〉**〈た〉

**。しかもマツグの言葉には殆ど返事さへし

ないのです。

 「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」

 「いざ、立ちて、………僕も亦いつ死ぬかわか

りません。………娑婆界を隔つる谷へ。………」

 「しかしあなたはトツク君とは〈藝術上の〉*やはり*親友

〔の一〈お〉人(ひとり)〕だつたのでせう?」

 「親友? トツクはいつも〈孤〉**独〔だつたの〕です。………娑

婆界を隔つる谷へ、………〈」〉唯トツクは不幸にも、

 

■原稿140(141)

………岩むらはこごしく………」

 「不幸にも?」

 「やま水は〈水〉淸(きよ)く、………あなたがたは幸福です。

………岩むらはこごしく。………」

 僕は未だに泣き声を絶たない雌の河童に同

情しましたから、そつと肩(かた)を抱へるやう〈にゆ〉*にし*

部屋の隅の長椅子へつれて行きました。そこ

には二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らず

に笑つてゐるのです。僕は雌の河童の代(かは)りに

子供の河童をあやしてやりました。するとい

 

■原稿141(142)

つか僕の目にも涙のたまるのを感じ〈まま〉まし

た。僕が河童の国に住んでゐるうちに涙と云

ふものをこぼしたのは前(まへ)にも後(あと)にもこの時だ

けです。

 「しかしかう云ふ我侭な河童と一しよになつ

た家族は気の毒ですね。」

 「何しろあとのこと〈を〉**考へないのですから。」

 裁判官のペツプは不相変新しい〈葉〉巻〔煙草〕に火を

つけながら、資本家のゲエルに返事を〈《し》→しま〉*してゐ

〔ま〕した。すると〈僕〉僕等を驚かせたのは音樂家のク

[やぶちゃん注:

●「何しろあとのこと〈を〉**考へないのですから。」岩波旧全集後記校異には、ここは原稿では、

 何しろあとのことを考へないのですから。

となっている旨の記載があるのだが、明らかに視認する限り、芥川は「も」に訂している。不審である。

●「裁判官のペツプは不相変、新しい〈葉〉巻〔煙草〕に火をつけながら」の部分、初出及び現行は、

 裁判官のペツプは不相変、新しい卷煙草に火をつけながら

と読点が入る。無論、読点があった方がよい。]

 

■原稿142(143)

ラバツクのおほ声です。クラバツクは詩稿を

握つたまま、誰にともなしに呼びかけました。

 「しめた! すばらしい葬送曲(そうそうきよく)が出來るぞ。」

 クラバツクは細い目(め)を赫(かが)〈や〉やかせたまま、ち

よつとマツグの手を握ると、いきなり戸口へ

飛んで行きました。〈のみならずもう〉*勿論もうこの時*には鄰近

所の河童が大勢、トツクの家(うち)の戸口に集〈ま〉**

り、珍らしさうに家(うち)の中を覗いてゐるの〈で〉**

す。しかしクラバツクは〈かう云〉*この河*童たちを遮(しや)二

無(む)二〈押〉左右へ押しのけるが早〈か〉いか、ひらりと自

 

■原稿143(144)

動車へ飛び乗りました。〈と〉同時に又自動車は

爆音(ばくおん)を立てて忽ちどこかへ行つてしまひまし

た。

 「こら、こら、さう覗いてはいかん。」

 裁判官のペツプは巡査の代りに大勢の河童

を押し出した後(のち)、トツクの家の戸をしめてし

まひました。部屋の中はそのせゐか急にひつ

そりなつたものです。僕〔等〕はかう云ふ靜かさの

中(なか)に〔―――〕高山植物の花の香(か)に交つたトツクの血(ち)の

匂(にほひ)〈を感じました。が、〉*の中(なか)に後始末(あとしまつ)のこ*となどを相談しま〔し〕た。し

 

■原稿144(145)

かしあの哲學者のマツグだけはトツクの死骸

を眺めたまま、ぼんやり何か考へてゐ〈ま〉ます。僕

はマツグの肩を叩き、「何を考へてゐるのです

?」と尋ねました。

 「河童の生活と云ふものをね。」

 「河童の生活がどうなのです?」

 「我々河童は何と云つても、河童の生活を完

うする爲には、………」

 マツグは多少羞(はづか)しさうにかう小声(こごゑ)でつけ加

へました。

 

■原稿145(146)

 「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信ず

ることですね。」

 

[やぶちゃん注:以下、8行余白。]

サイト「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動 / 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 1

 

 

HP「鬼火」開設8周年を記念して、カテゴリ「日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳」を創始する。

 

 

日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳

 

[やぶちゃん注:本作は三十年以上前の日記とスケッチをもとにエドワード・モースが一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版した“Japan Day by Day”を石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松。氏の著作権は既にパブリック・ドメインとなっている)が同年(大正六年)に翻訳したものである。
 底本は一九七〇年平凡社刊の東洋文庫版全三巻を用いた。但し、電子化は私の海産無脊椎動物と江の島地誌への個人的興味の関係から、江ノ島臨海実験所の開設と採集(主に来日した明治一〇(一八七七)年七月十七日から八月二十九日までの期間の事蹟)に関わる第五章を最初に行うので、ご容赦願いたい。促音と思われるルビは私の判断で促音化してある。傍点「ヽ」は太字に代えた。
 エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生まれ。少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している。電子化本文一段落目を参照)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は“apanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年刊)や本作「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。
 なお、各形式段落の後に私のオリジナルな注を附し、その後は一行空きとした。注に際しては、磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(有隣堂昭和六二(一九八七)年刊)を一部参考にさせて戴いた。図は適宜相応しい場所に配した。磯野先生は昨年、鬼籍に入られた。この場を以って深く哀悼の意を表するものである。【ブログ始動:2013年6月26日――HP「鬼火」開設8周年の日に――藪野直史】]

 

日本その日その日   E.S.モース(石川欣一訳)

 

 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所

 

 私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。然し日本には三、四十の「種」が知られている。私は横浜の南十八マイルの江ノ島に実験所を設けた。ここは漁村で、同時に遊楽の地である。私がそこに行って僅か数日経った時、若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した。日本語がまるで喋舌(しゃべ)れぬことを述べると、彼は大学の学生は全部入学する前に英語を了解し、かつ話さねばならぬことになっていると答えた。私が彼を見覚えていないことに気がついて、彼は私に、かつて、ミシガン大学の公開講義で私が講演したことを語った。そしてその夜、私はドクタア・ハーマアの家で過したのであるが、その時同家に止宿していた日本人を覚えていないかという。そのことを思い出すと、なる程この日本人がいた。彼は今や政治経済学の教授なのである。彼は私が、ミシガン大学でやったのと同じ講義を、黒板で説明してやってくれと希望した。ズボンと婦人の下ばきとの合の子みたいなハカマを、スカートのようにはき(割ったスカートといった方が適している)、衣服のヒラヒラするのを身に着けた学生が、一杯いる大きな講堂は、私にとっては新奇な経験であった。私はまるで、女の子の一学級を前にして、講義しているような気がした。この講義の結果、私は帝国大学の動物学教授職を二年間受持つべく招聴された。だがその冬、米国で公開講演をする約束が出来ていたので、五ケ月間の賜暇をねがい、そして許された。これが結局日本のためになったと思うというのは、この五ケ月間に、私は大学図書館のために、二万五千巻に達する書籍や冊子を集め、また佳良な科学的蒐集の口火を切ったからである。また私は江ノ島に臨海実験所を開き、創立さるべき博物館のために材料を集めることになっていた。

[やぶちゃん注:「腕足類」冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属オオシャミセンガイ Lingula adamsi やミドリシャミセンガイ Lingula anatina などのシャミセンガイ類や、頂殻(イカリチョウチン)目イカリチョウチン Craniscus japonicas 、有関節亜綱穿殻目穿殻亜目テレブラツラ科シロチョウチンホウズキガイ Gryphus stearnsi や穿殻亜目カンセロチリス科タテスジチョウチンガイ Terebratulina japonicaなどが代表種である(何故か Terebratulina 属はカンセロチリス科であってテレブラツラ科ではない。分類タクソン類は保育社平成四(一九九二)年刊の西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑Ⅰ」に拠った)。一見、二枚貝に似ている海産生物であるが、体制は大きく異なっており、貝類を含む軟体動物門とは全く近縁性のない生物である。化石ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループであるが、その後多様性は減少し、現生種数は比較的少ない。学名“Brachiopoda”(ブランキオポダ)はギリシャ語の“brachium”(腕)+“poda”(足)で、属名“Lingulida”(リングラ)は「小さな舌」の、“Craniscus”(クラニスクス)は「小さな頭蓋」の、“Gryphus”(グリフス)は「鉤鼻の」、“Terebratulina”(テレブラトゥリナ)は「孔を穿つ小さなもの」の意である(学名語源は主に荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の「シャミセンガイ」の項に拠った)。以下、ウィキの「腕足動物」から引用する。『腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物』で、斧足類(二枚貝)のように二枚の殻を持つが、斧足類の殻が体の左右にあるのに対し、『腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる。2枚の殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる』。殻長は5センチメートル前後のものが多く、『腹殻の後端から肉茎が伸びる。肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる』が、種によってはこの『肉茎を欠く種もいる』。『殻は外套膜から分泌されてできる。外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。外套腔は水で満たされていて、触手冠(英語版)がある。触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では1対の腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる』。『消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌(後述)は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる』。『循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされ』、ガス交換は体表で行われる。『1対か2対の腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす』。『神経系はあまり発達していない。背側と腹側に神経節があり、2つの神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる』。生態は『全種が海洋の底生動物である。多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。体を底質に付着させない種もいる』。『餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる』。以下、「繁殖と発生」の項。『有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。わずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体』で、『雌雄異体のものでも、性的二型はあまりない』。『体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。その場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される』。

「フンディの入江」原文“Bay of Fundy”。カナダの東端ノヴァスコシア半島の西側に深く入り込んだフンディ湾のこと。この湾内のミナス海盆(Minas Basin)周辺では世界最大の干満潮差が発生することで有名で、春の大潮時の世界記録は16メートルを超える。

 

「セント・ローレンス湾」(Gulf of Saint Lawrence)は、ノヴァスコシア半島の北方カナダ南東部に位置する大きな湾で、セントローレンス川を経由して五大湖から大西洋への湖水の出口に当たる。サケ・マス・カラフトシシャモをはじめ、セントローレンス水系が齎す有機物や微生物などの豊富な栄養素によって豊かな漁場となっている。

「ノース・カロライナのブォーフォート」恐らくはノースカロライナ州南部の東海岸の広大な砂嘴が形成されたところにあるビューフォート(Beaufort)。現在はウォーター・フロントのリゾートとして知られているようである。

『日本には三、四十の「種」が知られている』代表的なシャミセンガイ類だけを見ても、本邦には9種を産し、穿殻亜目TEREBRATULIDINA にはざっと見ても20種を越える種が日本産としてあり(前掲「原色検索日本海岸動物図鑑Ⅰ」に拠る)、磯野氏の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には腕足類の多産地一つが日本近海で、『馬渡静夫博士が一九六五年に『動物系統分類学』八巻(上)に記しているところでは六五種が日本近海に産する』とあるから、この数字は大袈裟ではない。なお、腕足類の現生種は現在約350種とされる(化石種は何と12000種を超す)。因みに、代表種の一つでモースの調査対象でもあったミドリシャミセンガイ Lingula anatine は有明海では食用として「メカジャ」とも呼ばれるが、これは「女冠者」で、腹背(貝類の左右と異なる大きな体制の違いである)の殼内にある発条樣の多数の繊毛を持った短い触手を持つ触手冠(これによって水中のデトリタスを漉し取って摂餌する)を女性性器に譬えた呼称と思われる。

「十八マイル」約29キロメートル。この時、モースは矢田部良吉と連れだって人力車で横浜のグランドホテルから江の島へ向かっている(磯野前掲書八七頁)。現在の地図上で国道一号線上を藤沢まで辿って江の島に向かうと約27・5キロになるから、非常に正確である(直線距離だと23キロ弱)。

「若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した」さて、読者諸君は、この「若い日本人」の名前を知っている。高校の文学史で近代詩のルーツとして「新体詩抄」(このモースとの出逢いから五年後の明治一五(一八八二)年の刊行)の名前を憶えさせられたであろう。この二十九歳の文学部教授(日本初教授号の一人)こそ、あの作者の一人後の東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て同総長・貴族院議員・第三次伊藤博文内閣文部大臣などを歴任した外山正一(とやままさかず (嘉永元(一八四八)年~(明治三三(一九〇〇)年)なのである。但し、磯野氏が「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で考証されている通り、この江の島で招聘というのはというのはモースの記憶違いで(そもそも外山の名前は本書の「第一章 1877年の東京――横浜と東京」に中に既に『我々は外山教授と一緒に帝国大学を訪れた』(底本「1」の十五ページ上段)に、既知の人物名として突如出てくるのである)、実際には六月十七日夜に汽船「シティ・オブ・トーキョー」で横浜入りして横浜のグランドホテルに入ったモースは、その翌十八日に外山の訪問を受けており、そこで既に講演依頼を受けていたというのが真相である(詳しくは当該書の「8 日本への第一歩」を参照されたい)。……個人的には江の島のシチュエーションの方が絵的には、無論、いいんだけどね♡

「だがその冬、米国で公開講演をする約束が出来ていたので、五ケ月間の賜暇をねがい、そして許された」来日から約五ヶ月後の明治一〇(一八七七)年十一月初めにモースは一時帰国している。ウィキエドワード・S・モースによれば、その際、東大と外務省の了解を得て、自分が発掘した、『大森貝塚の出土品の重複分を持ち帰ったが、この出土品をアメリカの博物館・大学へ寄贈し、その見返りにアメリカの資料を東大に寄贈して貰うという』、今でいう学術的な国際交流を実践しているとある。ここでモースが言っている「私は大学図書館のために、二万五千巻に達する書籍や冊子を集め、また佳良な科学的蒐集の口火を切った」というのがまさにそれを指している。翌年(ウィキの記載は年号が誤っている)の四『月下旬、家族をつれて東京大学に戻っ』ている。

「創立さるべき博物館」現在の国立科学博物館の前身である教育博物館及び現在の国立博物館の前身である明治一四(一八八一)年に上野公園寛永寺本坊跡に本館が建てられる博物館(後に帝室博物館)を指していよう。前者はこの年一月に上野山内の西四軒寺跡(現在の東京芸術大学のある場所)に新館の一部竣工しており、「東京博物館」(有名無実の貧弱なものであった)から「教育博物館」と改称しており(この年をもって現在の国立科学博物館は創立年としている)、また同年九月に学生らと掘り始めた大森貝塚の出土品も、この教育博物館で展示したりしている。]

栂尾明恵上人伝記 43 附絹本著作明恵上人像(国宝)

 又華宮殿の西の谷に一の盤石(ばんじやく)あり、定心石(ぢやうしんせき)と名づく。一株の松あり、繩床樹(じようしやうじゆ)と名づく。其の松打本(もと)二重(ひたへ)にして、坐するに便(たより)あり。常に其の上にして坐禪す。
[やぶちゃん注:これこそ、恐らく最も知られた明恵の肖像である高山寺蔵の国宝「絹本著作明恵上人像」(伝明恵弟子恵日房成忍筆写)のあの場所である。以下に、ウィキに「明恵」にあるパブリック・ドメイン画像を配す。

Semuiji_myoue

ゾルレンの人明恵をよく伝え、私のすこぶる好きな絵である。この樹幹のうねりが明恵の自然の結界となっているのである。]

 同年正月十二日の曉、此の樹下に坐禪す。風烈しく雪霰(ゆきあられ)夥しく降つて袖に霰のたまりければ、出定(しゆつぢやう)の時、
  松が下巖の上に墨染の袖の霰やかけし白玉

 此の歌如何してか天聽(てんちやう)に達しけん、御感(ぎよかん)あつて則ち續後撰集に入れられけり。

大橋左狂「現在の鎌倉」 21 鵠沼・藤沢

 鵠沼 江の島を出でゝ、片瀨電車停留場より、電車に投じて西下すれば、約七分時にして鵠沼停留場に達す。玆處に下車して沙地を南に進めば廣茫たる小松原に、淸酒たる別莊の點々散在するを見るのである。此れ即ち鵠沼別莊地である。此地は今より二十三、四年前即ち明治二十一年頃は全く荒蕪たる沙漠地であつたのである。當時伊藤幹一氏や其他の人々が多くの資を投じて開拓し、最初は草の種まで蒔き付けたとの事である。又風除けには立木も必要であるとの事から一寸二寸位の松苗を植へ付けたのである。かくして鵠沼は漸次に開かれたのであるから其開發程度の遲いのも無理はない。當時は三百歩僅かに一圓位であつたのが二十餘年の今日三百歩一千圓餘の相場を示して居る。別莊も現在九十餘戸に達してゐる。商家も續々殖へて來たのである。
 鵠沼は茅ケ崎と相倂んで、南は海に面し、白沙連なる一帶の海水浴場を爲して居る。而して風光明眉に加ふるに土地高燥にして空氣や新鮮に、且つ飮料水の佳良なる事は大に誇るに足るのである。
 盛夏の候、避暑客の此地に來り、水浴するもの、其數幾千なるかを知り得ない程である。海水浴旅館料理店としては東家、鵠沼館がある。東家の庭内には鵠沼郵便局が設けられて、電話・電信其他一般郵便物の取扱を爲して居る。盛夏の期に至れば、鵠沼一帶の海岸は一芥の塵芥なき程に、砂上は清潔に掃除されて、玆處の更衣所が設けられる。常に水浴客の便を計るべく山上八十八、關根貞二、山上元次郎の三軒の茶屋が出來る。此茶屋は毎年此期には特定されて出來るので一號茶屋、二號茶屋、三號茶屋と稱されてゐる。沙上の一切は此茶屋に依りて何事も辨じられる。海上には堪へず二隻の救護船が浮べられて萬一の危險を豫防して居る。此地産物として農産物の甘藷等があるが名物として鵠沼松露の名高し。
 藤澤 鵠沼より電車に投じて、北に進みて、江の島電車の終點に至れば、玆處は東海道の名驛たる藤澤町である。此地は東海道往還にある商業地丈けに、中々に大きな商家が、町通りに軒を並べて見るやうに往時の面影が思ひ出されるのである。官衙として郡役所あり税務署あり、登記所あり、郵便局、警察署、町役場等皆此地にあり、尚ほ製糸場、釀造場、家畜市場、屠獸場等もある。以て藤澤町現在の發展程度の幾分を知り得るのである。中にも家畜市場は常に四千餘頭の牛豚羊馬を繫畜し得る樣完全に設備してある。而して祭日を除くの外は日々此市場にて家畜の賣買讓與をされてゐる。屠獸場は同地尾島氏の經營に係り屠殺方法に於ても、又消毒方法に於ても、凡てに就て完全なる設備がされてある。故に湘南唯一の模範屠獸場として中々に好評判である。
 藤澤の産出物としては繭、米、麥、大豆及び生糸織物等が首位であるが、尚ほ沿海よりは、鮪、鰯、鯵、其他の魚類がある。殊に沿岸より産出される藤澤松露は名物として遊覽者に評判されてゐる。
 藤澤遊行寺 藤澤停車場を距る約八丁、大鋸橋を渡つて大富町にある。藤澤山淨光寺と稱し、俗に遊行寺と云ふ、時宗の大本山で遊行上人四世の呑海上人の開山である。伽藍は正中年間の建立なるも、其後幾囘となく火災に躍りて幾變遷今日に至つたのである。今尚ほ書院は新築建造中である。此寺は代々の住職が必ず諸國を遊行して布教をするとの宗規があるので遊行寺と名けられたのである。寺寶として後醍醐帝の御像、一遍上人繪詞傳等の國寶がある。尚ほ境内は實に廣壯にして、小栗判官滿重及照天姫を祀れる小栗堂があつて、四時參詣者の踵が絶へない。

HP開設8周年記念 芥川龍之介 (我輩も犬である 名前は勿論ない……)

HP開設8周年記念として「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に芥川龍之介の初期文章「(我輩も犬である 名前は勿論ない……)」を公開した。

海 萩原朔太郎 (初出形)

 海

 海を越えて、人々は向ふに「ある」ことを信じている。島が、陸が、新世界が。
 しかしながら海は、一の廣茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、單調で飽きつぽい景色を見る。
 海の印象から、人々は早い疲勞を感じてしまふ。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向の砂上に寢ころびながら、海を見ている心の隅に、ある空漠たる、不滿の苛だたしさを感じてくる。
 海は、人生の疲勞を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切斷から、限りなく單調になり、想像の棲むべき山影を消してしまふ。海には空想のヒダがなく、見渡す限り平板で、白晝(ひるま)の太陽が及ぶ限り、その「現實」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味氣がない。しかしながら物倦き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
 海を越えて、人々は向ふにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれどもああ! もし海に來て見れば、海は我々の疲勞を反映する。過去の長き、厭はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人々はげつそりとし、ものうくなり、空虛なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくずれてしまふ。
 人々は熱情から――戀や、旅情や、ローマンスから――しばしは海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人々の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬。そして夕方の疲勞から、にはかに老衰して歸つて行く。
 海の巨大な平面が、かく人の觀念を正誤する。

[やぶちゃん注:『日本詩人』第六巻第六号・大正十五(一九二六)年六月号に掲載された。後に昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」及び詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に再録されているが、ここでは初出を示した。但し、「磯草の枯れる砂山の上にくずれてしまふ」の部分は初出では「砂草の枯れる磯山の上にくずれてしまふ」で奇異であり、再録版でもともに「磯草の枯れる砂山の上にくずれてしまふ」となっているので、誤記か植字ミスと判断し、かく標記した。太字「げつそり」は底本では傍点「ヽ」。]

中島敦 孟浩然「早寒江上有懷」訳詩

雁も去り木の葉も落ちぬ

水の上の風の寒さや

ふるさとの雲も離(さか)りて

あはれわが棚無小舟

水と空相合ふあたり

涙のせ流れ行くかな。

日もゆふべ。いづこぞこゝは。

見はるかす海ははるばる。

 

 

  早寒江上有懷

 木落雁南渡


 北風江上寒


 我家襄水曲


 遙隔楚雲端


 郷
涙客中盡


 孤帆天際看


 
迷津欲有問


 平海夕漫漫


     孟浩然

 

[やぶちゃん注:「棚無小舟」「たななしをぶね」と読む。「棚」は船棚(ふなだな)・舷側板(げんそくばん)のことを指す(これは和船の船首から船尾に通す長く厚い板材以外の船の舷側に装着する船板を指す)ので、それがない小船とは造船技術史的には単材の丸木船(一枚棚の小舟)を指すことになる。 

 この詩については底本解題に以下のような解説がある。部分的に引用する。

 

   《引用開始》

 

一の孟浩然「早寒江上有懷」の譯詩は、別に岩田一男藏の『唐詩選』に插し込んであつた紙片にも見られ、それによると第4行目と第5行目とは入れ替つてゐて、「水と空相會ふあたり/あはれ わが棚無小舟」となつてゐる。この『唐詩選』は岩田氏が昭和十三年小樽高商赴任の際、送別の記念に中島より送られたものである。

 

   《引用終了》

 

因みに、この岩田一男氏は、私も高校時代にお世話になった光文社カッパ・ブックス(一九六九年刊)の「英単語記憶術」の、あの英文学者の岩田一男である。岩田一男(明治四三(一九一〇)年~昭和五二(一九七七)年)は横浜生。東京外国語学校英文科卒。横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)教諭から小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)教授となり、その後、一橋大学教授となった。横浜高等女学校時代には中島敦の同僚であった(以上はウィキ岩田一男に拠る)。]

靑狐 大手拓次

 靑狐

 

あをぎつねはあしをあげた、

うすねずみいろの毛(け)ばだつた足(あし)をふうはりとあげた、

そのあしのゆびにもさだめなくみなぎる

いきもののかなしみ。

あをぎつねはしらじらとうす眼(め)をあけて、

あけがたの月をながめた。

鬼城句集 夏之部 蚊遣

蚊遣    蚊遣して馬を愛する土豪かな

      ほそほそと白き煙や蚊遣香

[やぶちゃん注:底本では「ほそほそ」の後半は踊り字「〱」。]

      川端に住で流すや蚊を燒く火

      三たび起きて蚊を燒く老となりにけり

      蚊をいぶしに淺間颪の名殘かな

      水郷や家くゞらする蚊を燒く火

[やぶちゃん注:「くゞらする」の「ゞ」は底本では「〵」に濁点の踊り字。これはユニコードには似たものとして「〴」はあるが、全く同じものはない。]

      大榾の夜々の蚊遣に細りけり

2013/06/25

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十二

■原稿120(121)

       〈《九》→十〉*十二*

 

[やぶちゃん注:「十二」は5字下げ。本文は2行目から。

●この原稿には右罫外上方から14マスほどまで赤インクで、

 改造 三月号 芥川川氏つゞき

と大書してある(かなり滲んでおり、「つゞき」の周囲にはかなりの赤インクによる汚損がある)。また、「十二」に右には普通の鉛筆書きで、

 5で

とある。活字ポイントの校正指示のように見える。更に、この原稿ではナンバリングの直下に手書きの「121」が書かれているが、それはこれまでの黒鉛筆ではなく、青鉛筆による手書きで、これ以降の手書き番号もその青鉛筆によっている。ただ特異なのは、その右手、8行目罫外上方に、

 よ印120

と赤鉛筆で記されている点と、ナンバリング「120」の右肩に赤インクで、

 ך

大型のチェック(?)が入っている点である。]

 

 或割り合に寒い午後です。僕は〈《あ》→《余り退屈で》〉*「阿呆の言葉」も讀み*

〔飽きま〕したから、哲学者のマツグを尋ねに出かけま

した。すると或〔寂しい〕町の角に〈背〉蚊のやうに瘦せた河

童が一匹、ぼんやり壁によりかかつ〈て〉**ゐま

した。しかもそれは紛れもない、いつか僕の

〈銀時計〉*萬年筆*を盜んで行つた河童なのです。僕はし

めたと思ひましたから、〈早速〉*丁度*そこへ通りかか

つた、逞しい巡査を呼びとめました。

 「ちよつとあの河童を取り調べて下さい。あ

 

■原稿121(122)

の河童は丁度一月ばかり前にわたしの〈銀時計〉*萬年筆*

を盜んだのですから。」

 巡査は右手の棒をあげ、(〈河童〉*この國*の巡査は劍

の代りに水松の棒を持つてゐるのです。)〈「〉**

い、〈こら〉**」とその河童へ聲をかけました。〈その〉*僕は*

或はその河童〈が〉**逃げ出しはしないかと思つて

ゐました。が、存外落ち着き拂つて巡査の前

へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだま

ま、〈《如何にも傲然》→巡査の顏や僕の〉*如何にも傲然と僕の顏や巡査の顏*をじろじろ見〈比べ〉てゐるのです。しかし巡査は怒りもせず、〈叮嚀に〉*腹の袋*

 

■原稿122(123)

から手帳を出して〈叮〉早速尋問にとりかかりまし

た。

 「〈君〉*お前*の名は?」

 「グルツク?」

 「職業は?」

 「つひ二三日前までは郵便配達夫をしてゐま

した。」

 「よろしい。そこで〈■〉**の人の申し立てによれ

ば、君はこの〈時〉**〈銀時計〉*萬年筆*を盜んで行つたと

云ふことだがね。」

[やぶちゃん注:「グルツク?」の「?」はママ。初出及び現行では、

 「グルツク。」

である。]

 

■原稿123(124)

 「ええ、一月ばかり前に盜みました。」

 「何の爲に?」

 「子供の玩具にしようと思つたのです。」

 「その子供は?」

 巡査は始めて相手の河童へ鋭い目を注ぎま

した。

 「一週間前に死んでしまひました。」

 「死亡證明書を持つてゐるかね?」

 瘦せた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出

しました。巡査はその紙へ目を通すと、急に

 

■原稿124(125)

にやにや笑ひながら、相手の肩を叩きました。

 「よろしい。どうも御苦勞だつたね。」

 僕は呆氣にとられたまま、巡査の顏を〈■〉**

てゐました。〔しかも〕そのうちに〈もう〉瘦せた河童は何

かぶつぶつ呟きながら、僕等〈を〉**後ろに〔して〕行つて

しまふのです。僕はやつと気をとり直し、か

う巡査に尋ねて見ました。

 「どうしてあの河童を摑まへない〈ん〉**です?」

 「あの河〈■〉**は無罪ですよ。」

 「しかし僕の〈銀時計〉*萬年筆*を盜んだのは………」

 

■原稿125(126)

 「子供の玩具にする爲だつたのでせう。〔〈しかも〉*けれども*〕その

子供は〈もう〉死んでゐるのです。若し何か御不

審だつたら、刑法千二百八十五條をお調べな

さい。」

 巡査はかう言〈つ〉**すてたなり、さつさとどこ

かへ行つてしまひました。〈僕は〉*僕は*仕かたがあり

ませんから、「刑法千二百八十五條」を〈繰り返し〉口の中に

繰り返し、マツグの家へ急いで行(い)きま〔し〕た。哲

学者のマツグは〈不相変古色の色硝子のランタ〉*客好きです。現にけふも薄暗*

い部屋には裁判官のペツプ〈だの〉**医者のチヤツク

 

■原稿126(127)

や硝子会社の社〈会〉長のゲエルなどが集り、〈例

の〉*七色の*色硝子のランタアンの下に煙草の煙を立

ち昇らせてゐました。〈僕は〉そこに裁判官のペツプ

が來〈た〉てゐたのは何よりも僕には好都合〔で〕す。僕

は椅子にかけるが早いか、〈早速にペツプに〉*刑法千二百八*

五條を檢べる代りに早速ペツプへ問ひかけま

した。

 「ペツプ君、甚だ失礼ですが〔ね〕、この国では罪

人を罰しないのですか?」

 ペツプは金口の煙草の煙を〈悠々〉まづ悠々と吹き

[やぶちゃん注:

●「甚だ失礼ですが〔ね〕、」初出及び現行は、この「ね」の挿入を無視して、

 甚だ失礼ですが、

となっている。]

 

■原稿127(128)

〔上〕げ〈た後〉*てから*〈つ〉如何にもつまらなさうに返事をしま

した。

 「罰しますとも。死刑さへ〈あ〉*行はれ*る位ですからね。」

 「しかし僕は一月ばかり前に、………」

 僕は委細を話した後、〔例の〕刑法千二百八十五條

のことを尋ねて見ました。

 「ふむ、それはかう云ふのです。〈■〉―――『如何な

る〔犯〕罪を〈犯し〉*行ひ*たりと雖も、〈その〉*該犯*罪を〈《行せるに至り

し》→行ひたるに〉*行はしめたる*〔相当の〕事情の消失したる後は該犯罪者を〈罰〉處罰す

ることを得ず』つまりあなたの場合〈で〉**言へ

[やぶちゃん注:

●「それはかう云ふのです。〈■〉」「す。」の句点は特に後から書いたようには見えない(インクの色から)から、この直下の抹消は字でない可能性が高い。芥川は句点を最終字と同じマスに打ち、その下のマスを空ける癖があるから、ここに字は書かないのである。ダッシュを引こうとしてペンがやや左寄りに入ってしまい、しかもそこで止めたペン先が右上へ少し跳ね上がってしまったため、抹消して仕切り直しのダッシュを引いたのではなかろうか。

●『如何なる〔犯〕罪を〈犯し〉*行ひ*たりと雖も、〈その〉*該犯*罪を〈《行せるに至り

し》→行ひたるに〉*行はしめたる*〔相当の〕事情の消失したる後は該犯罪者を〈罰〉處罰することを得ず』という刑法1285条の成文過程を見よう。当初のそれは、

 『如何なる罪を犯したりと雖も、その罪を行せるに至りし事情の消失したる後は該犯罪者を罰することを得ず』

であった。それを、

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行ひたるに至りし事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

としいった感じに直し、最終的に、

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる相当の事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

と成文している。ところが実は、初出及び現行の刑法1285条は、

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

なのである。即ち、芥川がわざわざ挿入指示をしてある「相当の」が脱落しているのである。これは実は旧全集後記の異同でも指摘はされているのである。が、しかし旧全集編集者は遂に初出を採って、現在まで河童国刑法1285条はこの誤りのままなのである。私にはその初出表現の採択理由の正統性が全く分からない。私はこの河童国刑法条文の誤りを今こそ正すべき時がきたと思っている。再度正字で示す。

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる相當の事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

これこそが正しい「河童國刑法千二百八十五條」である!]

 

■原稿128(129)

ば、その河童は嘗〈て〉**は親だつたのですが、今

は〔もう〕親ではありませんから、犯罪も自然と消滅

するのです。」

 「それはどうも不合理ですね。」

 「常談を言つてはいけません。〈我々は刻々

変〉だつた河童も親である河童も同一に見るのこそ不合理で

す。さうさう、日本の法律では同一に見るこ

とになつてゐるのですね。それはどうも我々

には滑稽です。ふふふふふ〈」〉、ふふふふふ。」

 ペツプは卷煙草を抛り出しながら、気のな

[やぶちゃん注:太字「だつた」及び「である」は底本では傍点「ヽ」。]

 

■原稿129(130)

い薄笑ひを洩らしてゐました。そこへ口を出

したのは法律には緣の遠い〈ヤ〉**

ヤツクです。チヤツクはちよつと鼻眼〈鏡〉金を直し、〈「日本に〉*かう僕*〈尋

ねました〉*質問しました*

 「日本にも死刑〔は〕ありますか?」

 「ありますとも。日本では絞罪です。」

 僕は〈如何〉冷然と構えこんだペツプに多少〈の〉反感

〈持つ〉*感じ*てゐましたから、この機會に〈早速〉皮肉を浴

せてやりました。

 「この国の死刑は日本よりも文明的に出來て

 

■原稿130(131)

ゐるでせうね?」

 「それは勿論文明的です。」

 ペツプはやはり落ち着いてゐました。

 「この国では絞罪などは用ひません。〈大抵〉*稀に*

電気を用ひ〈《ます》→てゐ〉ることもあります。しかし大抵は

電気も用ひません。唯その犯罪の名を言つて

聞かせるだけです。」

 「それ〔だけ〕で河童は死ぬのですか?」

 「死にますとも。我々河童の神經作用はあな

たがたのよりも微妙ですからね。」

 

■原稿131(132)

 「〈さう〉*それ*は死刑ばかりではありません〈。〉よ。殺人

にもその手を使ふの〈です〉*があ*ります。―――」

 社長のゲエルは色硝子の光に顏中紫に染ま

りながら、人懷(な)つこい笑顏(ゑがほ)をして見せました。

 「わ〈し〉たしはこの間〉**も或社會主義者に『貴樣は

〈泥坊〉*盜人(ぬすびと)*だ』と言はれた爲に〈もう少しで息が〉*心臟痲痺を起し*かかつ

たものです。」

 「それは案外多いやうですね。わたしの知つ

てゐた或〈《画家》→小説家〉辯護士などは〈その男〉*やはり*その爲に死んで

しまつたのですからね。」

[やぶちゃん注:2箇所の現行と違う問題点がある。

●「〈さう〉*それ*は死刑ばかりではありません〈。〉よ。」この「よ」は、芥川がわざわざ前の句点を抹消して推敲した結果

それは死刑ばかりではありませんよ。

としたのである。にも拘らず、初出及び現行は、

 それは死刑ばかりではありません。

である。ゲラ校正でまたも芥川が「よ」を削除指示したとは、私には思われないのである、これは校正ミスである可能性がすこぶる大きいと私は考えている。

●「染まりながら、」は初出及び現行は、

 染(そま)りながら、

である。これは校正ミスと断じてよいと私には思われるのである。]

 

■原稿132(133)

 僕はかう口を入れた河童、―――哲學者の〈ゲエル〉*

ツグ*をふりかへりました。マツグはやはりい

つものやうに皮肉な微笑を浮かべたまま、〈僕〉**

の顏も見ずにしやべつてゐるのです。

 「その〈男は〉*河童は*誰かに蛙だと言はれ、―――勿論

あなたも御承知でせう、この国で蛙〈と〉だと言

〈《る位甚しい侮辱のないこと》→るのは人非人の意味と云ふこと〉*れるのは人非人と云ふ意味になること位*は。―――

〈■〉**は蛙かな? 蛙ではないかな?と毎日考へ

てゐるうちにとうとう死んでしまつたもので

す。」

 

■原稿133(134)

 「それはつまり自殺ですね。」

 「〈ええ、つまり自殺〉*尤もその河童を蛙*だと言つたやつは殺すつ

もりで言つたのですがね。〈やはり〉あなたがたの〈国〉**

ら見れば、やはり〈自殺〉それも自殺と云ふ………」

 丁度マツグがかう云つた時です。突然その

部屋の壁の向うに、―――確かに詩人のトツク

の家に鋭いピストルの音が一発、〈何?〉空気〈の〉**〈■〉**

ね返へすやうに響き渡りました。

[やぶちゃん注:以下、2行余白。

●「空気〈の〉**〈■〉**」の判読不能字は漢字で「勹」まで書いて抹消している。何と書こうとしたのか? 「空気の」に続くのであるが、想起出来ない。判読及び推定の出来た方は是非、御一報あれかし。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 20 江の島

 龍口寺の南に、片瀨電車停留所がある。玆處より南して旅館風琴閣、川口村役場、巡査駐在所前を過ぎて、六、七丁餘の平沙を踏めば、江の島長橋に至る。此長橋を渡り詰むれば即ち江の島である。干潮時は此長橋を渡らずとも、平沙を辿りて江の島に至る事が出來る。長橋は川口村の村營である。毎年度の初めに村民に入札せしめて請負はせるのである。然れども毎年鎌倉・江の島の人出尤も多き、七、八月の交豪雨の爲めに潮に押されて、此長橋が流失するので、江の島の景氣に大影響を及ぼす事が往々ある。此等の事より島民は勿論村當局者間には、此長橋を完全なる橋梁にせんとて協議中である。往復渡橋料は三錢である。

[やぶちゃん注:「風琴閣」江ノ電江ノ島駅から江ノ島に向かう洲鼻通りの片瀬写真館の向いにあった旅館。参照した「片瀬写真館」の「江の島・片瀬の古写真」のページによれば、昭和一一(一九三六)年に閉業し、後に火災にあったとある。

「川口村役場」明治二二(一八八九)年の町村制施行により片瀬村と江島村が合併して鎌倉郡川口村となっていた。後、昭和八(一九三三)年に町制施行して鎌倉郡片瀬町となり、昭和二二(一九四七)年には鎌倉市(鎌倉は昭和一四(一九三九)年十一月に鎌倉町と腰越町が合併して市制を施行、鎌倉市となっていた)から藤沢市へ編入合併され、現在の通り、藤沢市片瀬の一部となった。

「交」「かひ(かい)」若しくは「ころ」と読んでいよう。変わり目、頃の意。

「此長橋を完全なる橋梁にせんとて協議中」ここまでの注でも参照させて貰ったウィキの「江の島」によれば、江の島に初めて桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年とあり(但し、砂州の途中から)、明治三〇(一八九七)年に村営棧橋が完成したとある。後、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災によって島全体が二メートル近く隆起、この時、広範囲な海食台が海面上に露出、江の島桟橋は津波で流失したが、すぐに再建され、同年十月には江の島桟橋が川口村営から神奈川県営になった。その後、戦後の昭和二四(一九四九)年四月二五日に、木製であった「江の島桟橋」はコンクリート製橋脚の「江の島弁天橋」(本体は木造で有料)となった。全面コンクリート製となったのは昭和三三(一九五八)年、江の島弁天橋の通行料が無料となるのは昭和三七(一九六二)年の埋立施工によって神奈川県道三〇五号江の島線自動車専用橋「江の島大橋」の開通後のことであった。]

 江の島長橋を渉り詰むれば、上り坂路を右にさかゐや、江戸屋、さぬきや、岩本樓の旅館がある。左り側に北村屋、惠比壽屋の旅館がある。何れも遊覽客を誘ふべく中々に腰が低い。尚ほ旅館の間々に軒を倂べて、江の島名物の貝細工、理木、もずく、鮑の粕漬、さゞゑ等の賣店がある。岩本樓前を僅かに進めば、正面に石段がある。玆處よりは江の島神社の神境で、右を男坂と稱して、參詣の順路である。左り道は女坂と云ひ登り詰むれば、金龜樓の前を經て奧津宮に至るのである。

 江の島 鎌倉停車場より二里十一町、藤澤驛よりは一里二丁ある。何れも電車及人力車の便がある。江の島に至るには片瀨に下車するのである。島は東西六丁、南北五丁、周圍は二十一丁餘ある。島の西濱には漁師町と云ふがある。片瀨・江の島間の長橋を渡り、左右に旅館・賣店等を見て進む事三、四丁石段を右に登れば、下の宮に至る。此宮を更に左に登れば上の宮である。玆處には江の島神社の寶物を陳列して一般參詣人の觀覽を許して居る。之れより更に又左して、相模灘を一時の内に罩むるの眺望絶佳の高地をだらだらと降り金龜樓前を過ぎて進めば、立野岡の右に白木造りの小さな廻欄ある社を見るであらう。此社を本の宮と稱するのである。而して下の宮を邊津宮と稱し、上の宮を中津宮と云ひ、此本の宮を奧津宮と稱してゐる。

[やぶちゃん注:ここの島のデータは関東大震災による隆起前である点に注意。

「東西六丁」約655メートル。現在の地図上で現在の江の島の、稚児が淵の岩礁から湘南港(ヨットハーバー東端の突堤先端)までの東西を計測すると、約1300メートルであるが、西を稚児が淵の碑の辺りから、現在の女性センター背後南方の高い海食崖付近を江の島本体の東端ととって計測すると、約646メートルとなり、この数値に非常に近い。

「南北五丁」約545メートル。現在の地図上で現在の江の島弁天橋の島側の端位置から正中南北で南側の岩礁海岸、ヨットハーバー背後の堤防を下ったところにある大きく張り出した岩礁南端で計測すると、約565メートルある。

「周圍は二十一丁餘」約2・3キロメートル。現行の諸データでは江の島周囲は約4キロメートルと記されてあるが、現在の弁天橋の島側端から江の島の西周囲を滑らかに辿り、東側に突出したヨットハーバー部分を除いた東側海食台に沿って計測してみると、約2キロ強である。東側は海食台直下で断ち切られていたのではなく、砂地で多くの漁師の村落が存在していたから、ここを東に少し張り出して計測すれば、恐らく2・5~3キロとなり、隆起後の状況とも一致してくる。

「立野岡」「立野」というのは、近世、農民の入会利用を禁じた特別な保護地域としての原野や地区を指す語である。

 江の島神社は縣社にして、以上の三社を總稱したのである。世に江の島辨財天と稱するもの、即ち之れである。今尚ほ中津宮に辨財天がある。此辨財天は土御門天皇の御宇、慈覺大師が自作して勸請したるものである。奧津宮の前を進みて坂を降れば、稚兒ケ淵、魚板石等を眼下に眺めて、岩窟に入るのである。岩窟の前にも小棧橋が架して渡賃を取つて居る。此龍窟の入口には御燈明御燈明と叫んで、燈火を勸めて居る。岩窟の廣さ二十尺餘、奧行七十餘間、窟内には胎藏界、金剛界等の二道がある。江の島に詣ずるものは、必ず此龍窟を潛らねば江の島の眞味を解し得られぬとの事である。奧には大日如來を安置してある。

[やぶちゃん注:本書より五年後の大正六(一九一七)年広文堂書店刊の山田史郎「鎌倉江の島地理歴史」(「面白くてためになる小学生読み物」というシリーズの一冊か。「江の島マニアック」から引用)に(コンマとなっている一箇所を読点に代えた)、

   《引用開始》

児が淵から一すじの細い道が奇岩怪石の間に通じ、その先が桟橋になっている。逆巻いて打ち付ける波にゆらゆらする桟橋を渡り、波の飛沫に着物を濡らしながら向こう岸に着く。ここは俗に言う巌窟すなわち龍窟であって、その入り口がおよそ方一丈ばかりある中を覗くと、2、3間先の方が真っ暗だ。案内人が真っ先に立ち、先生が第2番、俺が第3番、その後ろから一同が一列になって続いてくる。洞は次第々々に狭くなり低くなり、人の声、足の音が洞の中に反響してすこぶる物凄い。途中でロウソクをつけ腰をかがめて手探りに進んで行く。暗さが進むにつれてだんだん増して来て、薄気味の悪いことおびただしい。かれこれ1町も来たかと思う頃、細い道が胎臓谷、金剛谷の2つに分かれてまた一つになる。行き止まりの奥に大日如来を安置してある。もしこれから先の小さい穴を無理に進んで行くと、一つは富士山の人穴に出て、一つは月山の峰に出ると案内者が空々しいことを真顔で言う。

   《引用終了》

とある。ウィキには、この「岩屋」について、『江の島南西部の海食崖基部の断層線に沿って侵蝕が進んだ海蝕洞群の総称。古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきた。富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説がある。江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきたが』、昭和四六(一九七一)年三月七日に崩落事故が起き、以来、永く立入禁止措置がとられたが、二十二年を経て、藤沢市の手で安全化改修工事が行われ、一九九三年に『第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設として公開された』。その新規公開の「第一岩屋」は公開区間全長152メートル、『奥で二手に分岐』し、「第二岩屋」は公開区間全長112メートル、入口は二本の洞が並行し、奥で一つになる、とある。

「岩窟の廣さ二十尺餘」約6メートル強。

「奧行七十餘間」約128メートル。]

僕の妹

僕が高校生の時、母が子宮外妊娠をした。女の子だったそうである。僕には十六離れた妹がいたのだった。

――芥川龍之介は僕の偏愛する「點鬼簿」の中で、彼の生まれる前に突然夭折した一人の姉「初ちゃん」のことを記している。……

 

……この姉を初子と云つたのは長女に生まれた爲だつたであらう。僕の家の佛壇には未だに「初ちやん」の寫眞が一枚小さい額緣の中にはひつてゐる。初ちやんは少しもか弱さうではない。小さい笑窪のある兩頰なども熟した杏のやうにまるまるしてゐる。………

 

……僕はなぜかこの姉に、――全然僕の見知らない姉に或親しみを感じてゐる。「初ちやん」は今も存命するとすれば、四十を越してゐることであらう。四十を越した「初ちやん」の顏は或は芝の實家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顏に似てゐるかも知れない。僕は時々幻のやうに僕の母とも姉ともつかない四十恰好の女人が一人、どこかから僕の一生を見守つてゐるやうに感じてゐる。……

僕も時々、芥川と同じように――幻のように僕の年の離れた可愛らしい妹が、僕の背中で人形を抱えて唄を歌っているのを感じることがあるのである――

知れる人の令妹の訃報に

  悼亡

更けまさる火かげやこよひ雛の顏 芥川龍之介

中島敦訳 高青邱詩

宵の雨       はや霽(あが)りしか
梧桐(きり)の葉に 月影ほのか
窓あかり      書(ふみ)讀む聲は
さし竝(な)みの  隣家(となり)の童(わらべ)
ふるさとに     待つ兒もなくて
草枕        旅に病む身は
小夜ふけの     幼き聲に
心傷(むねやぶ)れ 未だも いねず

 月淡梧桐雨後天
 咿唔聲在北窗前
 誰知鄰館無兒客
 病裏聽來轉不眠
         高靑邱

幼なき妹に 萩原朔太郎

 幼なき妹に

いもうとよ、
そのいぢらしき顏をあげ。
みよ兄は手に水桃(みづもゝ)をささげもち、
いつさんにきみがかたへにしたひよる、
この東京の日くれどき、
兄の戀魚は靑らみてゆきて、
日毎にいたみしたゝり、
いまいきもたえだえ、
あい子よ、
ふたり哀しき日のしたに、
ひとしれず草木(そうもく)の種を研ぐとても、
さびしきはげに我等の素脚ならずや。
ああいとけなきおんみよ。
          ―一九一四、五、三―

[やぶちゃん注:『創作』第四巻第六号・大正三(一九一四)年六月号に掲載。]

舞ひあがる犬 大手拓次

 舞ひあがる犬

 

その鼻をそろへ、

その肩をそろへ、

おうおうとひくいうなりごゑに身をしづませる二疋(ひき)の犬。

そのせはしい息をそろへ、

その眼は赤くいちごのやうにふくらみ、

さびしさにおうおうとふるへる二ひきの犬。

沼のぬくみのうちにほころびる水草(すゐさう)の肌のやうに、

なんといふなめらかさを持つてゐることだらう、

つやつやと月夜のやうにあかるい毛なみよ、

さびしさにくひしばる犬は

おうおうとをののきなきさけんで、

ほの黄色い夕闇(ゆふやみ)のなかをまひあがるのだ。

しろい爪をそろへて、

ふたつの犬はよぢのぼる蔓草(つるくさ)のやうに

ほのきいろい夕闇の無言のなかへまひあがるのだ。

そのくるしみをかはしながら、

さだめない大空のなかへゆくふたつの犬よ、

やせた肩をごらん、

ほそいしつぽをごらん、

おまへたちもやつぱりたえまなく消えてゆくものの仲閒(なかま)だ。

ほのきいろい夕空のなかへ、

ふたつのものはくるしみをかはしながらのぼつてゆく。

 

[やぶちゃん注:三箇所の太字「おうおう」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 扇

扇     扇繪やありともなくて銀の浪

      むくつけきをのこが舞へる扇かな

      關取の小さき扇を持ちにけり

       老妓

      老いそめてなほ繪扇の小さなる

2013/06/24

耳鳴りに飽きたから寝ることにする

この五月蠅さはたまらない。
もう、寝よう。

眠りに落ちるまでは地獄だが、落ちれば、後は気にしなくてすむのだ(それが「たかが」耳鳴りの「誰にも理解出来ない」というばかばかしさである)――

起きて居ても面白いこともなさそうだし、一昨日から想えば、厭なことばかりが波状的に押し寄せるのは実に「語るに落ちた」というやつではないか――

では、諸君――随分お休み――

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十一

■原稿113(114)

    十一

 

[やぶちゃん注:「十一」は4字下げ。本文は2行目から。以下の「×」(初出及び現行では「*」である)は5字下げ。]

 

 これは哲學者のマツグの書いた「阿呆の言葉」

の中の〈数節〉*何章(なんしやう)*かです。――

     ×

 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる。

     ×

 我々の〈天〉**然を愛するのは自然は我々を憎ん

だり嫉妬したりしない爲もないことはない。

 

■原稿114(115)

     ×

 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しなが

ら、しかもその〔又〕習慣を〔少しも〕破らないやうに暮らす

ことである。

     ×

 我々の最も誇りたいものは我々の持つてゐ

ないものだけである。

     ×

 何びとも偶像を破壞することに異存(いぞん)を持つ

てゐるものはない。同時に又何びとも偶像に

なることに異存を持つてゐるものはない。し

 

■原稿115(116)

かし偶像の台座の上(うへ)に安んじて〈ゐられ〉*坐つて*ゐられるも

のは最も神々に惠ま〈ま〉れたもの、―――阿呆か、

悪人か、英雄かである。(クラバツクはこの章

の上へ爪(つめ)の痕(あと)をつけてゐました。)

     ×

 我々の生活に必要な思想は三千年前に盡き

たかも知れない。我々は唯古い〈《思想》→薪〉*薪(たきぎ)*に新らし

い炎(ほのほ)を加へるだけであ〈る。〉*らう。*

     ×

 我々の特色は我々自身の意識を超越するの

[やぶちゃん注:前の原稿と繋がらない。初出及び現行は、前の「■原稿114(115)」の「し」を受けて、
 しかし偶像の……
と続く。ゲラで訂されたものか。]

 

■原稿116(117)

を常としてゐる。

     ×

 幸福は苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとす

れば、―――?

     ×

 自己を弁護することは他人を弁護すること

よりも困難である。疑ふものは弁護士を見よ。

     ×

 矜誇(ぎんこ)、愛慾、疑惑―――あらゆる罪は三千

年來、この三者から発してゐる。同時に又〔恐らくは〕あ

[やぶちゃん注:「矜誇(ぎんこ)」の読みはママ。初出及び現行は、

 矜誇(きんこ)

 

である。「矜」の音は「キヨウ(キョウ)/キン・ゴン/クワン(カン)」であり、「ギン」という音はないから芥川の誤記と考えてよい。しかしこの初出と現行の読みも実は一般的ではないのである。これは辞書を見ても「きようこ(きょうこ)」か「きようくわ(きょうか)」(「か」は「誇」の漢音)であって「きんこ」ではない(意味は「矜」「誇」ともに、ほこる、で、誇ること、自慢すること、いばることの意である)。私は秘かに――これは芥川龍之介のみならず、驚くべきことに文選工も植字工もゲラ校正担当者も全員、「矜」という字を「衿」という字と誤って「きん」「ぎん」(但し、「衿」も「キン・コン」で「ギン」という音はない)と読んでいるのではないか?――と疑っているのである。大方の御批判を俟つものであるが、いずれにせよ、ここの読みは「きようこ」とするべきであると私は思う。]

 

■原稿117(118)

らゆる德も。

     ×

 〈平和は〉物質的欲望を〈■〉**ずることは必しも平

和を齎さない。〔我々は〕平和を得る爲には精神的欲望

も減じなければならぬ。(クラバツクはこの章

の上にも爪の痕を殘してゐました。)

     ×

 我々は人間よりも不幸である。人間は〈我々〉*河童*

ほど進〈歩〉**してゐない。(僕はこの〈一〉章を讀んだ

時、〈笑〉**はず〈微〉**つてしまひました。)

[やぶちゃん注:「物質的欲望を〈■〉**ずることは」この抹消字は(てへん)である。これを「持」と措定して推測するなら、芥川はもしかすると、最初、

 平和は物質的欲望を持つ

或いは、

 平和は物質的欲望を持たない

といったコンセプトで書こうとしたのではなかったか?

●「僕はこの〈一〉章を讀んだ時、〈笑〉**はず」は初出及び現行では

 僕はこの章を讀んだ時思はず

と、読点がない。ここは原稿通りに読点を打つべきである。]

 

■原稿118(119)

    ×

 成すことは成し得ることであ〈る。〉*り、*成し得る

ことは成すことである。〔畢竟〕我々の生活はかう云

〈盾〉**環論法を脱することは出來ない。―――

即ち不合理に終始してゐる。

     ×

 ボオドレエルは〈彼の人生観を〉*白痴になつた*後、彼の人生

観をたつた一語に、―――女陰の一語に表〈■〉**

た。〈それは〉*しかし*彼自身を語るものは必しもかう言

つたことではない。寧ろ彼の天才に、―――彼

 

■原稿119(120)

の生活を維〈持〉**するに足る詩的天才に信賴した爲

に胃袋の一語を忘れたことである。(この章に

もやはりクラバツクの爪の痕は残つてゐまし

た。)

     ×

 若し理性に終始するとすれば、我々は〔当然〕我々

〔自身〕の存在を否定しなければならぬ。〈ヴォ〉理性を神

にしたヴォルテェエルの幸福に一生を了つたのは

即ち人間の河童よりも進化してゐないことを

示すものである。

[やぶちゃん注:余りの行なしで本章終わり。

●「〈ヴォ〉」促音表記はママ。

●「ヴォルテェエル」はママ。初出及び現行は普通に、

 ヴオルテエル

である。]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 ミミズ及びヒル


Mimizu_3


[「みみず」の交接]

 

 「みみず」も雌雄同體であるが、その生殖器の模樣は「かたつむり」などのとは餘程違ふ。まづ生殖器が體外に開く孔が數多くある。即ち精蟲の出る孔が一對、卵の出る穴が一對、及び相手から精蟲を受け入れるための穴が二三對もある。但しこの數は「みみず」の種類によつて少しは違ふ。また内部の構造を見ると、「みみず」では卵巣と睾丸とは全く別であつて、各々一對づつ具はり、それから體外へ出るまでの輸卵管も輸精管も一對づつ別になつて居る。それ故、「みみず」では體内で自分の卵に自分の精蟲を合はせることは決して出來ぬ。交接するときには二疋が互違ひに向うて體を相近づけ、皮膚の表面から分泌した濃い粘液で離れぬやうに結び付いて、互に精蟲を相手の體内に送り入れる。精蟲はその際には相手の受精嚢に入るだけでまだ卵とは相觸れず、後に至り卵が生まれるときに初めて受精嚢から出され、親の體外で卵に接する。かくして卵は更に多量の蛋白に包まれ、塊狀がなして地中に産み付けられるのである。「ひる」類も雌雄同體であるが、生殖器の構造は幾分か「みみず」とは違ひ、受精嚢はなく輸精管・輸卵管ともに體外へ通ずる孔は、體の中央線に當つて一づつあるだけで、輸精管の出口の内には管狀の交接器がある。そして交接するときには二匹が相接して、互に自分の交接器を相手の輸卵管の末端に插し入れ、その内へ精蟲を送り込むのである。産卵の模樣は「みみず」によく似て居る。

[やぶちゃん注:「かくして卵は更に多量の蛋白に包まれ、塊狀がなして地中に産み付けられる」この部分については、ウィキミミズの生殖の記載にやや詳しく載る。以下に引用する。『生殖時期になると、二頭の成体が体を逆方向に向けて環帯部分の腹面を接着することにより交接をおこない、精子を交換する。交接後、ミミズは環体の表面に筒状の卵包を分泌し、これと体の隙間に複数の受精卵を産卵して栄養物質を分泌する。産卵と分泌が完了すると、首輪を脱ぐように卵包を頭部の方向に送りだし、頭部から離脱すると、筒状の卵包の前端と後端が収縮して受精卵と栄養物質を密閉する』。

『「ひる」類』前橋工科大学梅津研究室HP内の同大学院阿部泰宜氏HPの蛭・ヒル・ひる編:愉「貝」な仲間たち!によれば、ヒルの交尾の形態は種によって異なり、環形動物門ヒル綱ヒル亜綱吻蛭(ふんひる)目ウオビル科ウオビル Beringobdella rectangulata などの場合には精包を相手の体の表面に付着させて精子は直接に皮膚から侵入、体腔の間隙を縫うように移動して卵巣に達するという交尾形態をとり、顎蛭(がくひる)目ヒルド科 Haemadipsa 属ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica やヒルド科ヒルド属チスイビル Hirudo nipponia Whitmanの場合には陰茎の挿入によって交尾が行なわれているらしい。受精後に環帯で卵嚢が形成され産卵する、とある(分類及び学名は別ソースから引いた)。]

栂尾明恵上人伝記 42 我なくて後に愛する人なくは飛びてかへれね高島の石――「島」を愛し「石」を愛した明恵

 華宮殿の東の高欄の上に一の石を置けり。是は先年紀州に下向の時、海中の嶋に四五日逗留す。其の時西の沖に嶋のかすみて見えたるを天竺に思ひ准(なぞら)へて、「南無五天諸國處々遺跡(ゆなむごてんしょこくしよしよゆいせき)と唱へて泣々禮拜(らいはい)をなす。多くの同法、亦親族の男子等あり。同じく禮拜を進めて告げて曰はく、天竺に如來の千福輪(せんぷくりん)の御足(みあし)の跡を踏み留(とゞ)め給へる石あり。殊に北天竺に蘇婆河(そばが)と云ふ河の邊に如來の御遺跡多くあり。其の河の水も、此の海に入れば同じ塩に染まりたる石なればとて、此の磯の石を取りて蘇婆石(そばいし)と名づけ、御遺蹟の形見と思ひ、七ケ日の間、夜晝松の嵐に眠を覺し、浪の音に聲を調べて、禮拜をなすに、いひしらぬ冠者原(かんじやばら)までも、涙を拭ひて歡喜(くわんぎ)の思ひを成さずといふことなし。誠に衆生は佛性の薫力(くんりき)あれば、是までも如來の慈悲の等流(とうる)なれば、因緣感動も理(ことわり)に覺ゆ。此の磯の石を持して身を放ち給はず。仍て一首思ひつゞけ給ふ。

  遺跡を洗へる水も入る海の石と思へばなつかしきかな

 

 入滅(にふめつ)近く成りて、此の石に自ら書き付け給ひける。

  我なくて後に愛する人なくは飛びてかへれね高島の石

耳嚢 巻之七 鳥の餌に虫を作る事

 鳥の餌に虫を作る事

 

 籾(もみ)を壹貮合たきて地上へ置(おき)、其上へぬれ菰(ごも)を懸置(かけおけ)ば不殘(のこらず)虫に成る。冷粥(ひえがゆ)を右の通りなせば、はさみ虫といへる物になる由。穀氣の變ずるや、又集(あつま)るや、相違なき事のよし、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:何となく繋がっては読める。トンデモ化生説を信じていた(少なくとも否定していない)根岸がちょっとだけ意外である。

・「冷粥」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「ひえがゆ」と平仮名表記で、長谷川氏は注して、『稗の粥』とされる。この方が自然。たかが鳥の餌である。米の粥では勿体ないし、稗は救荒作物として栽培され、実を食用やそのままでも鳥の飼料などに現在もするから、ここは敢えて長谷川氏の注を採って訳した。

・「はさみ虫」知られた昆虫綱ハサミムシ目 Dermaptera の類、またはクギヌキハサミムシ亜目ハサミムシ科ハサミムシ Anisolabis maritime

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鳥の餌に虫を作る事

 

 稲籾を一、二合炊いて、地面の上に置き、その上へ濡らした菰(こも)を懸けておけば、稲籾は残らず鳥の餌になる虫と変ずる。稗を炊いた粥を同じようにすると、鋏虫(はさみむし)と申す、やはり鳥の好んで啄む虫と変ずる由。

 穀物の気が化生して別種のものに変じ、またその気の集合致いて生き物と化す、これ、全く以って事実に相違なきことなる由、さる人の語って御座った。

大橋左狂「現在の鎌倉」 19 長谷寺・由比ヶ浜・稻村ヶ崎・七里ヶ濱・滿福寺・龍口寺

 長谷寺觀音 海光山長谷寺と云ふ。坂東第四の札所である。總門を入れば右に蓮池を前にして宏壯なる方丈がある。左に出世大黑天の堂がある。石段を登り詰むれば觀音堂がある。本尊十一面觀音は佛工春日の作だと云ひ傳られてある。大和國長谷の觀音と同一の楠にて刻まれ高さ三丈餘、志しの賓錢を納めて僧侶に導かれ行けば燈寵を上下して拜觀させるのである。

 

[やぶちゃん注:例の小泉八雲の見たあの情景である。「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 長谷観音」「鎌倉 田山花袋」の私の注を参照されたい。]

 

 

 由井ケ濱 東は亂橋・材木座の海岸より、西は長谷・坂の下の海岸迄に至る灣曲せる一帶の海濱を由比ケ濱又は由井ケ濱と言ふのである。江の島電車小町停留場より八、九丁、由井ケ濱の停留所がある。玆に下車して海濱に出づれば、波は靜かに白砂美しく、東は三浦半島の翠黛を展望し、西は近く江の島の翠微(すゐび)を眺め、遠く大島を隔てゝ相模灘の風景を一眸に罩(こ)め眞に眺望絕佳と叫ばざるを得ないのである。往昔此邊一帶は弓馬の調練所であつたそうだ。今は湘南唯一の海水浴場となつて居るのである。

 

[やぶちゃん注:「翠黛」「すいたい」とは原義は青みがかった色の黛(まゆずみ=眉墨)から美人の眉、美人の謂いであるが、転じて、美しく緑に霞んで見える山色のことをいう。

 

「翠微」薄緑色に見える山色、または遠方に青く霞む山のこと。]

 

 稻村ケ崎 元弘三年五月新田義貞が鎌倉攻めの時、金裝の備刀を此海に投じて干潮を祈つたと云ふ古跡である。卽ち坂の下の南方海中に突出せる岬にて、靈山ケ崎の丘陵を負ふて崎嶇たる峻岬である。西は七里ケ濱に通じて居る由井ケ濱と同じく眺望賞すべきである。

 

[やぶちゃん注:「崎嶇」「きく」は険しいこと。

 

「峻岬」「しゆんかふ(しゅんこう)」と音読みしていよう。険しい岬。]

 

 七里ケ濱 坂の下より西の海濱で稻村ケ崎邊より腰越濱上附近に至る一帶の海濱を云ふのである。沿道には日蓮上人遭難の際、奇瑞多きとて鎌倉に急報する使者と鎌倉より刑場に赴くべき使者との落合つた行合川、日蓮雨乞の靈跡などがある。由井ケ濱に劣らぬ眺望絕佳の沙汀である。

 

 滿福寺 江の島電車にて七里ケ濱を過ぎ腰越地域に入ると、滿福寺と云ふ停留場がある。停留場の右の石段を登れば此寺である。義經の鎌倉に入らんとした時此地迄來たのである。然し賴朝の怒りに觸れたので何うしても鎌倉に入る事を許されなかつたのである。卽ち玆に滯つて辨慶に陳情書を書かせて賴朝に送つたのである。此陳狀書は腰越狀と云ふのである。今尚同寺の寺寶として辨慶の草した腰越狀が藏されてある。境内に現の池、腰掛石等がある。

 

 

 片瀨龍口寺 片瀨の龍の口にある。日蓮宗で寂光山と號してある。龜山帝の文永八年九月賴綱日蓮上人を松葉ケ谷の庵室に捕へ、大路を打ち渡し龍の口にて刑せんとした時、電光天に閃めき怪風地を拂つて、三郞直重の振上げた蛇胴丸の名刀が鍔元から不思議や三つに折損して散る事が出來なかつたので遂に上人を赦免したと云ふ舊跡である。寺内の五重塔は十三年間の苦心にて信徒十萬人の寄附よりなつたので四十三年の建築である。

山に登る 萩原朔太郎 (初出形)

 山に登る
         旅よりある女に送る

山の山頂にきれいな草むらがある
その上でわたしたちはねころんでゐた
眼をあげてとほい麓の方を眺めると
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた
空には風がながれてゐる
おれは小石をひろつて口にあてながら
どこといふあてもなしに
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのである

           詩集「月に吠える」より

[やぶちゃん注:『感情』第二年一月号・大正六(一九一七)年一月号に掲載された。末尾にかくあるが、感情詩社・白日社出版部共刊の詩集「月に吠える」初版刊行は大正六(一九一七)年二月である。これは言わば、詩集が公刊される前のフライング公開である。なお、同詩集では、

 山に登る
         旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寢ころんで居た。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろつて口(くち)にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた、

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのである。

と表記されている。これ以降の詩集類でも更に一部表記の改変がなされているが、最早それら改作されたものに私は興味がない。これは私の感懐であると同時に、皮肉の意を込めて言うなら、既に萩原朔太郎自身の「自作詩の改作について」での見解にもよるものである、ということを断っておく。]

何處やらに魚族奴等が涙する燻製にほふ夜半は乾きて 中島敦

    夢さめて再び眠られぬ時よめる歌
何處(どこ)やらに魚族奴等(いろくづめら)が涙する燻製(くんせい)にほふ夜半(よは)は乾(かわ)きて

[やぶちゃん注:「和歌(うた)でない歌(うた)」歌群の一首。]

灰色の蝦蟇 大手拓次

 灰色の蝦蟇

ちからなくさめざめとうかみあがり、
よれからむ祕密(ひみつ)のあまいしたたりをなめて、
ひかげのやうなうすやみに、
あをい灰色(はひいろ)の蝦蟇(がま)はもがもがとうごいた。
おほきなこぶしのやうな蝦蟇(がま)だ、
うみのなかのなまこのやうな
どろどろにけむりをはきだす蝦蟇(がま)だ、
たましひのゆめを縫(ぬ)つてとびあるく蝦蟇(がま)だ。
その肌(はだ)は ざらざらで、
そのくちびるはくろくただれ、
しじゆうびつしよりとぬれてゐる。
まよなかに黄色(きいろ)い風(かぜ)がふくと、
この灰色(はひいろ)の蝦蟇(がま)は
みもちのやうにふくらんでくるのだ。
蝦蟇(がま)よ おまへのからだを大事(だいじ)にして
そのくるしみをたへしのんでくれ。
さよなら さよなら
わたしのすきなおほきな蝦蟇(がま)よ。

[やぶちゃん注:「みもち」身持ち。妊娠すること。]

鬼城句集 夏之部 コレラ

コレラ   幾人のコレラ燒しや老はつる

[やぶちゃん注:「老はつる」とあることから、直近の明治期のコレラ流行(後述)ではなく、江戸末期のパンデミックを背景とすると考える。ウィキの「コレラ」から推測すると、安政五(一八五八)年から三年に亙った2度目の大流行(最初の世界的大流行の日本波及は文政五(一八二二)年。この2回目は九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで一〇万人死亡という文献もあるとする)及びその時の残存菌によるとされる四年後の文久二(一八六二)年の3度目のパンデミック(死者五十六万人を出したとあるが、この時、江戸には感染拡大しなかったという文献と、江戸だけでも七万三千人から数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が世情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多いとある)が考えられる(この句の創作時期は「鬼城句集」発刊の大正六(一九一七)年前であるから、この発刊年でさえ既に鬼城は数え五十三歳である)、凡そ六十年ほど前になり、その際の遺体処理に関わった当時は若かった人物ならば八十を越えて「老いはつる」に相応しいと私は思うし、その遠い昔語りの様子が句背に見えてくる気が私はする。なお、これらのパンデミックの江戸への感染拡大が疑問視されるのは、『コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている』とあり、事実、明治元(一八六八)年に幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は二、三年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続いたとある。因みに、明治一二(一八七九)年 と明治一九(一八八六)年には死者が一〇万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ。明治二三(一八九〇)年には日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われ、また明治二八(一八九五)年には軍隊内で流行して死者四万人を記録しているとある。この明治期の流行をこの句の背景としてもよいとは思うが、その場合、凡そ四十年から二十年前のこととなり、対する話者の「老はつる」さまが(私は)生きてこない気がするのである(慶応元(一八六五)年で、句作当時の鬼城を借りに五十前後に措定すると、話し相手の老人は有意に、鬼城よりも遙かに年老いていないとおかしいと私は思うのである)。但し、このコレラの幕末のパンデミックが江戸に拡大していなかったとすると、それは明治の初期のパンデミックを背景とすると言わざるを得ない。この老人が当時、実際に多量に死者を出した関西に当時いたと仮定するならば問題ないのだが、実は鬼城は殆んど生地高崎から出ていないからである(自ずとこの老人も関東の人間で当時江戸若しくは東京にいた確率が高くなるからである)。逆にこの老人の思い出がその幕末のパンデミックの思い出語りであったとすると、俄然、そのパンデミックが江戸へ拡大していた証しともなることになる。たかが一句、されど一句である。そうした歴史の真実への興味からも、私はこの句の中の情景のその場に、居て見たかった気がしてくるのである。]

僕は「歳時記」なるものが、実は嫌いである。博物学書のように季語素材を解説しながら、その実、それは上っ面の退屈なインク臭い解説に過ぎないクソだからである。
例えば、この句にに歳時記的注を附すとすると、「コレラ」を凡庸な博物書のように解説して、太平洋戦争敗戦直後の復員などによる大流行で俳句の季語としての地位を確立したなどどいらぬことを語ることにもなるであろう。
しかし、本当に知りたいのは、この老人の懐古するコレラのパンデミックが何時のことであるかであり、そうして真にこの句を味わえるのは、それが事実とすれば歴史の疑義が氷解するかも知れないという点にこそあるのではあるまいか?
季語をこねくり回して知ったかぶりするような歳時記的評釈(いや、普段の僕の句注はまさにそうじゃないかと指弾されかも知れぬ。そう言われればそうであろう。否定はしない。ただ僕は僕が不確かで分からないことでなければ注は附さない主義である。僕の注は僕自身の学びのための方途であって目的ではないのである)なら、せぬ方がずっとマシである。

2013/06/23

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十 「……」と「――」は違う!

■原稿96

       十

 

[やぶちゃん注:「十」は4字下げ。本文は2行目から。]

 

 「どうしたね? けふは又妙にふさいでゐるぢ

やないか?」

 〈或〉 その火事のあつた翌日(よくじつ)です。僕は〈僕の家の長椅子に〉*卷煙草を

啣(くは)へなが*ら、僕の〈家(いへ)の〉客間(きやくま)〔の〈長〉椅子〕に〈尻〉腰(こし)を〈下(おろ)〉おろした学生

のラツプにかう言ひました。實際又ラツプは

右の脚の上へ左の脚をのせたまま、腐つた嘴(くちばし)

も見えないほど、〈ぢつと〉*ぼんやり*床(ゆか)の上〈を〉*ばかり*見てゐたの

です。

〈 「どうしたと《云》→言ふのに。         〉

 

■原稿97

 「ラツプ君、どうしたねと言へば。」

 「いや、何、つまらないことな〈《んだよ》→のだよ〉*のですよ*。―――」

 ラツプはやつと頭(あたま)を擧げ、〈鼻〉悲(かな)しい鼻聲(はなごゑ)を出

しました。

 「僕はけふ窓の外を見ながら、『おや虫取り

菫(すみれ)が咲いた』と〔何気(なにげ)なしに〕呟いたのです。すると僕の妹は

急に顏色(かほいろ)を變へたと思ふと、『どうせわたしは

〈と〉**り菫よ』と当(あた)り散らすぢやありま〈せ〉**んか

? 〈《そこへ》→そこへ〉*おまけに*又僕のおふくろも大(だい)の妹贔屓(いもうとびいき)で

すから、やはり僕に食つてかかるのです。」

[やぶちゃん注:

●「〈《んだよ》→のだよ〉*のですよ*」の部分は便宜上、かく表示したが、実際には二度目の書き換えの状態の「のだよ」の「の」はそのまま生かしておいて「のですよ」と最終的に丁寧表現に改めてある。]

 

■原稿98

 「虫取り菫が咲いたと云ふことはどうして妹

さんには不快なのだね?」

 「さあ、夛分雄の河童を〈追つかけ〉*摑まへ*ると云ふ意味

にでもとつた〈ん〉**でせう。そこへお〈く〉**くろ〈の〉**仲(なか)

惡い叔母(おば)も喧嘩の仲間入りをしたの〈で〉**すか

ら、愈大騷動になつてしまひました。〈それ〉*しか*

年中(ねんぢう)醉つ〔拂つ〕てゐるおやぢはこの喧嘩を聞きつけ

ると、誰彼の差別なしに毆り出したので〈す。〉

*す。*それだけでも〈弱つてゐる〉*始末のつか*ない所(ところ)へ僕の弟

はその間(あひだ)におふくろの〈財〉**布を盜む〈が〉**早い

 

■原稿99

か、キネマか何かを見に行つてしまひまし〈た。〉

た。僕は………ほんたうに僕はもう、………」

 ラツプは兩手(れうて)に顏(かほ)を埋(うづ)め、何も言はずに泣

いてしまひました。僕の同情したのは勿論で

す。〈が、〉同時に又家族〈主義〉*制度*に對する詩人のトツク

の輕蔑〈を思ひ出〉したのも勿論です。僕はラツプの肩を

叩き、一生懸命に慰めました。

 「そんなことはどこでもあり勝ちだよ。〈■〉

あ勇氣を出し給へ。」

 「しかし………しかし嘴でも腐つてゐなけれ

 

■原稿100

ば、……」

 〈そんな〉*それは*あきらめる外はないさ。さあ、トツ

ク〈君〉の家へでも行かう。」

 「トツクさんは僕を軽蔑してゐます。〈」〉僕はト

ツクさんのやうに〈奔放〉*大膽*に家族を捨てることが

出來ませんから。」

 「ぢやクラバツク君の家へ行かう。」

 僕はあの音樂會以來、クラバツクとも友だ

ちになつてゐましたから、兎に角この大音樂

〈の〉**家へラツプをつれ出すことにしま〔し〕た。ク

 

■原稿101

ラバツクはトツクに比べ〈ると〉*れば*〈常人に近い暮らしを〉*遙かに贅澤に暮ら*してゐます。〈僕〉と云ふのは〈《何も会社の》→硝子〉*資本家のゲ*

ルのやうに暮らしてゐると云ふ意味ではあり

ません。唯いろいろの骨董を、―――タナグラ

の人形やペルシアの陶噐〈や〉**部屋一ぱいに並べ

た中(なか)にトルコ風(ふう)の長椅子を据ゑ、クラバツク

自身の肖像畫の下(した)にいつも子供たちと遊んで

ゐるのです。が、けふはどうしたのか両腕

を胸へ組んだまま、苦(にが)い顏をして坐つてゐま

した。のみならずその又足もとには紙屑が一

 

■原稿102

面(めん)に散〈つて〉*らばつ*てゐました。ラツプ〈はクラバツクとは〉*も詩人のトツク*と一しよに度たびクラバツクには會つて

ゐる筈です。しかしこの容子に恐れた〈と〉**

え、けふは丁寧にお時宜をしたなり、默つて

部屋の隅に腰を〈下(おろ)し〉*おろし*ました。

 「どうしたね? クラバツク君。」

 僕は殆ど挨拶の代りにかう大音樂家へ問〈ひ〉

かけました〈。〉

 「どうするものか? 批評家の阿呆め! 僕

の抒情詩はトツクの抒情詩と比べものになら

 

■原稿102

ないと言やがるんだ。」

 「しかし君は音樂家だし、………」

 「それだけならば我慢も出來る。僕〈のリイド

やシムフォニイは通俗〉*はロツクに比べれば、〈音〉*音樂家の名に價しないと

言やがるぢやないか?」

 ロツクと云ふのはクラバツクと度たび比べ

られる音樂家です。が、生憎超人倶樂部の会

員に〈は〉なつてゐ〈ませんから〉*ない關係上*、僕〈と〉は一度〔も〕話(はな)し

たことはありません。〈も〉尤も〈反〉嘴の反り〈上〉*上(あが)*

た、一癖あるらしい顏だけは度たび寫眞でも

 

■原稿104

見かけてゐました。

 「ロツクも天才には違ひない。しかしロツク

の音樂〈は〉**君の〔音樂に溢れてゐる〕近代的情熱〈がない。」〉*を持つ*てゐない。」

 「君はほんたうにさう思ふか?」

 「さう思ふとも。」

 するとクラバツクは立ち上(あが)るが早いか、タ

ナグラ〔の〕人形をひつ摑み、いきなり床(ゆか)の上(うへ)に叩(たた)

きつけました。ラツプは余程驚いたと見え、

何か声を擧げて〈立ち〉*逃げ*ようとしました。が、ク

ラバツクは〈僕〉ラツプや僕にちよつと「驚くな」と云

 

■原稿105

ふ手眞似をした上(うへ)、今度は冷かにかう言ふの

です。

 「それは君も亦俗人のやうに耳を持つてゐな

いからだ。僕はロツクを恐れてゐる。………」

 「君が? 〈それは空〉*謙遜家を*気どるのはやめ給へ。」

 「誰が謙遜家を氣どるものか? 一君たち

に気どつて見せ〈ても〉*る位ならば*〈何の役にも立たないぢ

やないか?〉*批評家たちの前(まへ)に気どつて見せて*ゐる。僕は―――クラバツクは天

才だ。〈ロツク〉その点ではロツク〈恐〉を恐れてゐない。」

 「では何を恐れてゐるのだ?」

[やぶちゃん注:

●「冷か」は初出及び現行では、

 冷やか

である。

●「君が? 〈それは空〉*謙遜家を*気どるのはやめ給へ。」というクラバックの辛辣な台詞、元は

 君が? それは空気

と書いた可能性を示唆する。即ち、現在の形とは全く違ったものが龍之介の脳内の最初の台詞だった可能性があるということである。]

 

■原稿106

 「何か正体の知れないものを、―――言はばロ

ツクを支配してゐる星(ほし)を。」

 「どうも僕には腑(ふ)に落ちないがね。」

 「ではかう言へばわかるだらう。ロツクは僕

の影響を受けない。が、僕はいつの間(ま)にかロ

ツクの影響を受けてしまふのだ。」

 「それは君の感受性の………。」

 「まあ、聞き給へ。感受性などの問題ではな

い。ロツクはいつも安んじて〔あいつだけに出來る仕事をして〕ゐる。しかし僕

は苛(い)ら〈苛〉**々するのだ。それはロツクの目から

 

■原稿107

見れば、或は一歩の差かも知れない。けれど

も僕には十哩(マ〈■〉イル)も違ふのだ。」

 「〈そんな〉*しかし*先生の英雄曲(えいゆうき〔よ〕く)は………」

 クラバツクは〔細(ほそ)い目を一層細め、忌々しさうに〕ラツプを睨みつけました。

 「默り給へ。君などに何がわかる? 〈ロツク

は僕の〉*僕はロツクを*知つてゐるのだ。ロツクに平身低頭(へいしんていたう)す

る犬(いぬ)どもよりもロツクを知つてゐるのだ。」

 「まあ少し靜かにし給へ。」

 「若し靜かにしてゐられるならば、………僕は

いつもかう思つてゐる。―――僕等の知らない

 

■原稿108

何ものかは僕を、――クラバツクを嘲る爲に

ロツクを僕の前(まへ)に立たせたのだ。〈《マツグはか

う?》→不思議にも〉*哲學者のマツグは*かう云ふことを何も彼も承知してゐ

る。いつもあの色硝子のランタアンの下(した)に古

ぼけた本ばかり讀んでゐる癖に。」

 「どうして?」

 「この〈マツグの〉近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ

本を見給へ。―――」

 クラバツクは僕に一册の本を渡す―――と

云ふよりも投げつけました。それから又腕を

 

■原稿109

組んだまま、突

つつ)けんどんにかう言ひ〔放ち〕ました。

 「ぢやけふは失敬しよう。」

 僕は〈やはり〉悄気返つたラツプと一しよにも

う一度往來へ出ることにしました。〈往來は不〉*人通りの*

夛い往來は不相變毛生欅(ぶな)の並み木のかげにい

ろいろの店を並べてゐます。僕等は何と云ふ

こともなしに默つて歩いて行きました。する

とそこへ通りかかつたのは髮の長い詩人のト

ツクです。トツクは僕等の顏を見ると、腹の

袋から手巾(ハンケチ)を出し、何度も額(ひたひ)を拭(ぬぐ)ひました。

 

■原稿109下(110)[やぶちゃん注:後注参照。]

 「やあ、暫〈く〉らく會はなかつたね。僕はけふは

〔久しぶりに〕クラバツクを尋ね〔よ〕うと思ふのだが、………」

 僕はこの藝術家たちを喧嘩させては悪いと

思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたこ

とを婉曲(えんきよく)にトツクに話しました。

 「さうか。ぢややめにしよう。何しろクラバ

ツクは神経衰弱だからね。………僕もこの二三

週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」

 「どうだね、〈僕等〉*僕等*と一しよに散歩をしては?」

 「いや、けふはやめにしよう。おや!」

[やぶちゃん注:この原稿は左にナンバリングがなく、手書き鉛筆で、

 109下

とあり、ところがここまで振られている中央罫外の鉛筆書き通し番号が、

 110

となってズレ始める。ここ以下、表記のように標題を表示することとする。]

 

■原稿110(111)

 トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の

腕を〈つか〉*摑み*ました。しかもいつか体中(からだぢう)に冷(ひ)や汗

を流してゐるのです。〈僕等(ら)は〉

 「どうしたのだ?」

 「どうしたのです?」

 「何(なに)、あの〈毛生欅(ぶな)の枝(えだ)の中(なか)に〉*自動車の窓の中(なか)か*ら綠(みどり)いろの猿(さる)が

一匹首を〈見〉**したやうに見えたのだよ。」

 僕は夛少心配になり、兎に角あの醫者のチ

ヤツクに〈トツク〉診察して貰ふやうに勸めました。し

かしトツクは何と言つても、承知する気(けしき)色さ

 

■原稿111(112)

へ見せません。のみならず何か疑はしさうに

僕等の顏を見比べながら、こんなことさへ言

ひ出すのです。

 「僕は決して無政府主義者ではないよ。それ

だけは〔きつと〕忘れずにゐてくれ給へ。………ではさや

うなら。〈」〉チヤツクなどは眞平御免(まつぴらごめん)だ。」

 僕等は〈思はず〉*ぼんやり*佇んだまま、トツクの後ろ姿

を見送つてゐました。僕等は―――いや、「僕

等は」ではありません。學生のラツプはいつの

間(ま)にか往來のまん中(なか)に脚(あし)をひろげ、〈股〉しつきり

[やぶちゃん注:

●「忘れずにゐてくれ給へ。………」のリーダは、初出及び現行では、

 忘れずにゐてくれ給へ。――

ダッシュになっている。細かいようだが、私はここはやはり原稿通り、「……」とすべきところと思う。何故か? ここの、最早、狂気に傾斜しているトックの他の台詞は、皆、リーダだからである! このリーダこそが、トックを摑まえてしまった狂気の標記そのものなのだと私は思うからである!
●『「僕等は」ではありません。』初出及び現行は、
「僕等」ではありません。
である。細かいようだが、これも私は原稿通り
「僕等は」であるべきだと思う。これはまさに芥川龍之介の龍之介らしい書き癖なのである!

 

■原稿112(113)

〈自〉ない自動車や人通りを股目金(まためがね)に覗いてゐるの

です。僕は〈ラツプ〉*この河童*も發狂したかと思ひ、驚い

てラツプを引き〈立て〉*起し*ました。

 「〈何をしてゐる?〉*常談ぢやない。*何をしてゐる?」

 しかしラツプは〈意外にも〉目をこすりながら、意外(いぐわい)に

も落ち着いて返事をしました。

 「いえ、余り憂欝ですから、〈股〉逆(さかさ)まに世の中を

眺めて見たのです。〈しかし〉*けれど*もやはり同じこと

ですね。」

[やぶちゃん注:以下、一行余白。]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 二 雌雄同體 ウミウシ


Umiusi_2


[海牛]

 

 海岸へ行つて見ると、海草のおひ茂つた處に「海牛」といふものが幾らも匍うて居る。体は肥え太つて、頭からは二本の柔い角がはえ、徐々と草の上を匍ひながらこれを食つて歩く樣子は如何にも牛を思ひ出させるが、この動物はやはり「かたつむり」や「なめくぢ」の仲間である。但し海中に住んで居るもの故、鰓を以て水を呼吸する。鰓は體の背部にあるが、柔い褶樣のもので被はれて居るから外からは見えぬ。また鰓を保護するために、薄い皿のような介殼があるが、これも外からは見えぬ。しかしこれが死んで柔い體部が腐れ溶けてしまふと、介殼だけが殘つて濱に打ち上げられる。「立浪貝」と名づける貝はこれである。さてこの海牛の類も生殖器の構造は「かたつむり」と大同小異で生殖孔の位置は稍々後にあるが、精蟲を相手の體内に移し入れるための管狀の交接器は頭の右側の處にあるから、二疋相寄つて互にこれを相手の生殖孔に插し入れようとすれば、勢ひ體を互違ひの方角に向けねばならぬ。春から夏へかけて海水も温くなるやうな淺い處では、海草の間に海牛が二疋づつ恰も二つ巴の如き形になつて繫がつて居るのを屢々見附ける。

[やぶちゃん注:前にも述べたが、「海草」は「海藻」とする方が無難(無論、アマモ場などなら正しい)。

「海牛」ウミウシは軟体動物門腹足綱異鰓上目 Heterobranchia に属する後鰓類(Opisthobranchia:近年はこれに階級を与えないが和名呼称としては親しい。これはラテン語の“opistho”(後ろの)+“brankhia”(鰓)である。)の中でも、貝殻が縮小するか、体内に埋没或いは完全に消失した種などに対する一般的な総称(当該体制を持つ総てを必ずしもウミウシと呼ぶ訳ではない)。特に異鰓上目裸鰓目 Nudibranchia(新分類では裸鰓亜目 Nudibranchia(同綴り))が典型的なウミウシとされることが多く、ウミウシとは裸鰓類のことであるとされることもあるが、裸鰓類以外の後鰓類にも和名にウミウシを含む種は多く、和名にカイ(貝)を含む種でも貝殻が極めて小さく、分類するに際してはウミウシに含められる種も少なくない。参照したウィキの「ウミウシ」には、『ただし、貝殻の退化した後鰓類であっても、翼のような鰭で遊泳するハダカカメガイ(クリオネ)などの裸殻翼足類や、アメフラシの仲間である無楯類がウミウシであるかといった質問に対しては、各個人の背景によって正否両方の答えがあり得る。裸殻翼足類はウミウシに含めないことが多いが、無楯類についてはさまざまで、地域によっては明確に含めることもある』とある。また旧来の図鑑にもウミウシの仲間とし、私などもウミウシと理解していた、空気呼吸を行う貝殻の退化した腹足類であるイソアワモチなどは、現在では異鰓類真正有肺類の収眼目 Systelommatophora に分類されており、生物学的に「ウミウシ」ではないことになっている。

『死んで柔い體部が腐れ溶けてしまふと、介殼だけが殘つて濱に打ち上げられる。「立浪貝」と名づける貝はこれである』この叙述にはかなり問題がある。実際に昔は広く介殻の痕跡を持ったウミウシ類の死後の介殻を「立浪貝」と呼んだのであるが、実は生物種として、ウミウシの仲間とされる「タツナミガイ」が、別に現に存在するからである。後鰓目無楯亜目アメフラシ科タツナミガイ Dolabella auricularia がそれである。以下、ウィキの「タツナミガイ」によれば、体長は二〇~二五センチメートル、近縁の同じ無楯亜目 Anaspidea のアメフラシ類と『基本的な特徴は共通するが、表皮が肥厚して硬く、アメフラシほどの可塑性はない。アメフラシがしなやかに身をくねらせるのに対して、タツナミガイはでんと底質の上に鎮座する。手にとって水から揚げても、しっかりと形状を保つ。ただし時間をかければゆっくりと変形することもできる』。『体型はおおよそ円錐形で、後方へ向けて幅広くなり、後端近くが一番広い。背面は丸く盛り上がり、後端側は斜めに断ち切ったような平面になっており、その面の背面側の縁は低いひれのように突き出している。腹面はほぼ平ら。腹面の足とそれ以外の体表の区別は明確でない。後端は丸く終わり、足の後端が特に広がったりはしない』。『前端部は円筒形の頭部になっており、その前端に一対の頭触手が横につきだし、その後方背面には一対の触角が短く突き出す。それぞれアメフラシのように伸びやかでなく、短い棒状になっている。触角の基部の外側には小さな眼がある。』『胴部の背面は大まかには滑らか。アメフラシ類では胴体の背面に一対の縦に伸びるひれ(側足葉)があり、殻などを覆う。アメフラシ類では側足葉を自由に伸ばしたり広げたりできるものが多いが、タツナミガイでは厚く短くなって背中を覆い、その中央で両側が互いに密着して隙間だけが見える。この隙間は胴体部の前方、右側側面に始まってすぐ中央に流れ、そこから中央を縦断、胴部後方の切断されたような面の中央にいたる。そのうちで前述の切断面の輪郭にあたる部分の前と後ろで左右が離れて丸い開口を作る。水中ではこの穴から水を出し入れして呼吸する。後方のものが出水管で、少しだけ煙突のように突き出る。紫の液もここから出る』。『タツナミガイの全身は褐色から緑や水色を帯び、まだらのような複雑な模様が出るが、はっきりしたパターンは見えない。体表面は小さな樹枝状の突起が多数ある。これらの突起は柔らかいので、陸に揚げると体表はほぼ滑らかで波打っているように見える。このようなタツナミガイの形状と色彩は、周囲の環境に擬態的である』。『体型はおおよそ円錐形で、後方へ向けて幅広くなり、後端近くが一番広い。背面は丸く盛り上がり、後端側は斜めに断ち切ったような平面になっており、その面の背面側の縁は低いひれのように突き出している。腹面はほぼ平ら。腹面の足とそれ以外の体表の区別は明確でない。後端は丸く終わり、足の後端が特に広がったりはしない』。『前端部は円筒形の頭部になっており、その前端に一対の頭触手が横につきだし、その後方背面には一対の触角が短く突き出す。それぞれアメフラシのように伸びやかでなく、短い棒状になっている。触角の基部の外側には小さな眼がある』。『胴部の背面は大まかには滑らか。アメフラシ類では胴体の背面に一対の縦に伸びるひれ(側足葉)があり、殻などを覆う。アメフラシ類では側足葉を自由に伸ばしたり広げたりできるものが多いが、タツナミガイでは厚く短くなって背中を覆い、その中央で両側が互いに密着して隙間だけが見える。この隙間は胴体部の前方、右側側面に始まってすぐ中央に流れ、そこから中央を縦断、胴部後方の切断されたような面の中央にいたる。そのうちで前述の切断面の輪郭にあたる部分の前と後ろで左右が離れて丸い開口を作る。水中ではこの穴から水を出し入れして呼吸する。後方のものが出水管で、少しだけ煙突のように突き出る。紫の液もここから出る』。問題の「殻」の記載。『この背面の穴の内側に、外套膜に半ば包まれた殻がある。隙間を広げて指を入れると、指先に殻の感触を感じることができるが、肉質がかなり硬いので力がいる。アメフラシと同様、殻は退化して薄い板状となり、外からは見えない。ただしアメフラシのそれが膜状に柔らかくなっているのに比べ、タツナミガイのそれは薄いながらも石灰化して硬い。時に砂浜にそれが単体で打ち上げられることもある。そのため貝類図鑑にも載ることがある『その先端に巻貝の形の名残があって渦巻きに近い形になっている。タツナミガイとは立浪貝の意味で、この殻の形を波頭の図柄に見立てたものである』。『殻は扁平で管状の部分がない。おおよそは三角形で、径』三~四センチメートルほどで、『一つの頂点の部分が渦を巻いたようになっている。左巻きである。殻は白で褐色の殻皮に覆われる』。ほぼ年間を通して潮間帯下部から水深二メートル程度の『ごく浅い海岸に出現する。泥質のところに多く、干潟や藻場にも出現する。夜行性で昼間はじっとしているように見える。砂の上にいることも多いが、半ば砂に埋もれていることも多い。岩礁海岸にも見られるが、その場合、波あたりの強いきれいなところでなく、波当たりがなく、細かい泥をかぶる潮だまりの岩の上などに見られる。干潮時には陸にさらされているのも時に見かける』。『動きは遅く、短時間の観察では動作を確認できない程度。強く刺激すると背中の穴から鮮やかな紫色の液汁を出す。これは敵を脅す効果を持つものと考えられる。夜にはより活発になり、海底に生える緑藻類など海藻を食べる』。本章の眼目である「生殖」については、雌雄同体であるが、やはり他個体との交接によって精子卵子を交換する。産卵は五~六月で、『卵は紐の中に多数の卵が入った形で、この紐が団子のようにまとまった卵塊を作る。アメフラシのいわゆるウミソウメンと同じであるが、アメフラシのものが鮮やかな黄色であるのに対して、タツナミガイのものは青緑色を帯びている』とある。

「二疋づつ恰も二つ巴の如き形になつて繫がつて居る」一部のウミウシやアメフラシでは三~五匹が繋がって連鎖交尾を行うことが知られている。参考書などではしばしば目にする図であり、私も油壺のタイドプールでアメフラシの三個体が繫がったものを観察したことがあるが、ネット上の画像ではそれほど一般的ではない。小野にぃにぃの海と島んちゅ生活画像がよくとらえている。必見。]

「らんすゐ」追跡1

8:54の教え子のメール



「すゐ」は、やはり「水」から出た石の名称であると思いたいです、そうでなければこの詩のイメージが崩れます。「殺人事件」で「噴水」を「ふんすゐ」とわざわざひらがなで標記した彼。その詩の第五行の「~~は○○」という体言止め。同じ神経回路の閃きから紡ぎだされた詩句のように感じます。

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
(以下、略)

取り急ぎ、いま感じたことです。



なるほど!
「らん水石」か!
「水石」?!
自然石を台座や水盤に砂をしいて配置して鑑賞する「水石」!
こりゃ、まさに盆景と繋がる!

そこで早速只今、江戸の石フリーク木内石亭の「雲根志」の目次をめくってみた。……残念ながら「らんすい石」と発音するものはなさそうだ。……しかし……何となく、確かにこの「すゐ」は「水」だなあ、という気がしてきたぞ……

因みに、ふと目に止まったのは――

「スランガステヰン」

だった――
あまりご存知ないか? これ、石の名前なんだわ。
オランダ語“slangensteen”(スランガステーン)で「蛇の石」の意である。
江戸時代、オランダ人が伝えた薬の名で、蛇の頭から採取するとされた、黒くて碁石に似た白黒の斑紋を持った石で、腫れ物の膿を吸い、毒を消す力を持つとされ、「蛇頂石」「吸毒石」とも呼んだ。所謂、中国の竜骨で、古代の象やその他何でもかんでも変わった化石は「竜骨」と称したんだな、これは。
流石は石亭、「竜骨記」という、これだけの考証本も書いてるぐらいだ。
感心のある向きは僕の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「龍」
の注でマニアックにしてフリーキーに追跡したものがあるからご覧あれ(かなり長い。ページ内検索に「須羅牟加湞天」(スランカステンと読む)を入れてお捜しあれ)。

何で目に止まったかって?
だってほら!
これ、「らん」と「す」と「ゐ」が入ってるんだわさ!
§(*^o^*)§

……閑話休題。今少し、調べてみよっと!

耳嚢 巻之七 蕎麥は冷物といふ事

 蕎麥は冷物といふ事

 

 蕎麥は冷病(れいびやう)といへる事は、ある醫師に尋(たづね)けるに、其風味冷成(ひえな)る共□□物なれども、醫師の知れる富民、屋敷も廣く畑物抔作りしに、其隣成る民夥しく鷄を飼置(かひおき)て、玉子を取(とり)て是を商ひけるに、彼(かの)隣家も是又不貧(まづしからざる)ものにて屋敷も廣ければ、夥敷(おびただしき)鷄故右屋しき内の者草蟲(くさむし)の類(たぐひ)は悉く喰(くひ)盡し、隣家の鼻物をあらしける故愁ひ斷(ことわり)をなせ共、手廣の屋敷なればかこひ等防(ふせぐ)べき手便(てだて)もなく、承知とはいへ共すべきやふなかりしに、或人かの家のあらされたる者境(さかひ)の鼻へ蕎麥を蒔(まき)給ふべし、蕎麥を喰(くふ)鷄は玉子を産(うま)ずと教(をしへ)にまかせ、境鼻へ蕎麥を蒔しに、其後隣の鷄玉子をうむ事なし。不思議なる事とて知れる人に咄しければ、彼そば鼻を見て、右の通(とほり)蕎麥を喰ひたる鷄は玉子を生(うま)ぬなりといゝしが、せん方なく過(すぎ)し由。冷物(ひえもの)故鷄も玉子を生ざる事、其證なるべしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:話者が医師で、前話の話者の一人も医師であるから、軽く連関する。

・「蕎麥は冷物」「冷物」は「ひえもの」。よく蕎麦は体を冷やす、とは言うが、ここでの謂いは「冷病」(冷え症の類か)ともあって穏やかでない。底本の鈴木氏の注には、もっと過激なことが記されているので、例外的に全文を引く。『蕎麦を食べると死ぬとか、タニシを肥料にした蕎麦は大毒とかいう巷説が流布して、奉行所から取締りの触れが出たのは文化十年のこと(我衣)であるから、本巻の執筆より後である。十年のときは、「手打ちぞと聞いたらそばへ立寄るな命二つの盛り替へはなし」という落首まで出たり、七月中村座上演の芝居には、わざわざ夜鷹蕎麦屋に、そんな噂がございますが、みんな嘘でござりますといわせる場面も入れている程である。漢方の医書にも蕎麦の毒についてはっきり記したものはなく、『延寿類要』には「旡毒、実腸胃益力」とある。』「我衣」は医師で俳諧宗匠でもあった加藤曳尾庵(かとうえびあん 宝暦一三(一七六三)年~?)の随筆。「延寿類要」は室町から戦国期にかけての朝廷侍医竹田定盛(たけだじょうせい 応永二八(一四二一)年~永正五(一五〇八)年)の著作(彼は八代将軍足利義政の病いを治癒して法印となっている)。なお、ネット上の記載では、薬膳の観点から見ると蕎麦は陽性であり、逆に体を温める働きがあるとするが、「web R25の『「体を冷やす」といわれる食べ物はホントに冷える!?』には、蕎麦に含まれている蛋白質消化阻害因子が蛋白質の消化を阻害し、消化によって生ずる熱が減って体温が上がらない可能性がある、という科学的仮説が示されていて面白い。

・「其風味冷成る共□□物なれども」底本には「□□」の右に『(難極カ)』と傍注する。これだと、「その風味冷えなるとも極め難き物なれども」となる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『其(その)風味冷来るとも難思(おもいがたき)物ながら』とある。

・「鼻物」底本には右に『(花カ、端カ)』と傍注するが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『畠物』とあって、この誤記であることが分かる。バークレー校版で訳した。

・「境の鼻へ」底本には「鼻」の右にママ注記がある。ここも以下の「境鼻」「そば鼻」も総て「畠」で採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蕎麦は体を冷すものであるという事

 

 巷で、蕎麦は冷病(れいびょう)の元と申すことにつき、ある医師に訊ねたところ、

「……蕎麦の性質(たち)が体を冷やすものであるかどうかは、これ、極め難きことなれども……そうさ、こんな話が御座った。……

……拙者の知れる小金持ちの農家に、屋敷も広く、畑物なんどを耕しておる者がお御座いまするが、その隣りなる農家も、これ夥しき鶏(にわとり)を飼いおいて、その玉子を取ってはこれを商い致いておる者で御座った。

 この隣りの養鶏致す者も、これまた、相応の小金持ちにて、やはり屋敷も広う御座ったが、まあ、飼(こ)う御座ったは、実に仰山な数の鶏で御座ったゆえ、その者の屋敷内の、これ、ありとある、草やら虫やらの類いは、そのうちにこれ、悉く喰い尽くしてしもうて、遂には隣家の畑の物をも荒し始めて御座った。

 されば我らが知れる当主も甚だ困って、その主人に苦情を述べてはみたものの、言われた隣家の側も、こまい鶏と、手広き屋敷内のことなれば、囲いなんどを漏れなくなして防ぐといった手立ても十分には出来申さず、隣家の迷惑は無論、承知のこととは申せども、鶏の畑地荒らしを断つべき妙案も、これなく、時々、気がつては、隣地に入った鶏を呼び戻すほどのことしか出來なんだと申す。

 するとある日のこと、畑地を荒されて御座った農家の知人の者が、この話しを聴いて、

「――それはまんず、隣家との境いの畑へ蕎麦をお蒔きなさるがよろしい。――蕎麦を喰うた鶏は、これもう、玉子を産まずなるによって、の。――」

と教えくれたによって、その通りに境いの畑へ蕎麦を蒔いてみたと申す。

 暫く致いて、蕎麦の実の生ったれば、隣家の鶏は挙ってこの蕎麦の実を突っつき喰ろう。

 盛んに喰うてはそこで満腹して、鶏ども、もう知人の地所内の畑地へは、それより入り込むことも少のうなったと申す。

 ところが、それからほどのう、隣りの鶏、一切、これ、玉子を産むことが、のうなったと申す。

 卵商い致す主人は驚天動地、不思議なことじゃと、困り果てて、たまたま知れる者の訪ね来たった折りに、隣家とのごたごたなんども含めて相談致いたところ、その者、隣家との境に御座った蕎麦畑を見たとたん、

「……あのように蕎麦が植えられては、のぅ。……蕎麦を喰うた鶏の、玉子を産まずなるは、これ、必定じゃて。……」

と申したそうな。

 養鶏の主人、これを聞いても、鶏が勝手によそさまの蕎麦を食うたる所業の末のことなればこそ、文句の言いようも、これ御座なく、そのままにうち過ぎ、結局、養鶏はやめたとか聞き及んで御座いまする。……

……さすればこそやはり――蕎麦は冷え物ゆえ、鶏も玉子を産まずなった――という、まあ、その証しとも言えば、これ、言えましょうかのぅ。……」

と語って御座ったよ。

栂尾明恵上人伝記 41 峰の嵐に諸一切種と上げたれば谷より告ぐる入逢の鐘

 或る日、華宮殿の緣の畔に經行(きんひん)するに、三密の行法一理の坐禪、共に皆佛法の玄底(げんてい)なり。人と齊(ひと)しからずとも、志の行く處人界の思ひ出でと覺ゆるに、我が大師釋尊染汚(ぜんま)・不染汚(ふぜんま)二種の無知を斷じて、衆生の爲に如理(により)の正法を授けて生死の泥(でい)を出し給ふ。三德圓滿の功德有便(いみじく)思ひ知らるゝ次(ついで)に、昔稚(をさな)かりし時暗に誦せし倶舍頭(ぐしやじゆ)の始に、如來の智・斷・恩の三德を説けるを、晝夜其の文を誦し其の義を學びて、今此の大乘甚深の妙門に入るまで年を積ること哀(あはれ)に覺えて、次に、諸一切種諸冥滅と上げたれば、高くかけつくりたる谷より、入逢(いりあひ)の鐘の聲とりあへず聞ゆれば
  峰の嵐に諸一切種と上げたれば谷より告ぐる入逢の鐘

 後日に人語りて云はく、爲兼卿此の歌を讚(ほめ)て云はく、是こそうるはしき歌にてあれ。歌の手本にすべし。先賢もかく讀めとこそ教へ給ひしか。當世よりすぢりたる物は、皆本意を失へりと嘆き給ひけり。
[やぶちゃん注:「當世よりすぢりたる物」「すぢる」は「筋る」(名詞「筋」の動詞化)で体を捩じり、くねらせる、の意で、昨今のやたらと捻くり回したような和歌は、の意である。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 18 長谷の大佛

 長谷の大佛 鎌倉停車場よりは二十丁ある。江の島電車に乘れば長谷の停留所より五丁御輿ケ嶽の西麓にある。大異山廣德寺と稱し大佛は奈良の大佛と共に吾國著名の銅像である。丈三丈三尺、面長(めんてう)八尺五寸、眼長四尺、耳長六尺六寸、口徑三尺二寸、親指廻り三尺二寸、胴圍(どうまはり)十六間二尺、膝廻り五間三尺ある。胎内に觀音及阿彌陀尊を安置してある。遊覽者は胎内拜觀料二錢を投じて胎内に入る事が出來る。建長四年に鑄造されたとの事であるが如何に當時の美術が進歩してあるかに一驚を喫するのだ。其微笑の温顏勝くるが如く寛容の相以て參詣者を迎ふるは實に明治聖代の如何に大平なるかを表示して居る。

[やぶちゃん注:「丈三丈三尺……」以下の数値をメートル換算しておく。

 

丈三丈三尺      一〇・〇  メートル

面長八尺五寸      二・五七 メートル

眼長四尺        一・二一 メートル

耳長六尺六寸      二・〇  メートル

口徑三尺二寸      〇・九六 メートル

親指廻り三尺二寸    〇・九六 メートル

胴圍十六間二尺    二九・六九 メートル

膝廻り五間三尺    一〇・〇  メートル

 

因みに、現在の高徳院の公式サイトのデータを示しておく。

 

総高(台座を含む) 一三・三五  メートル

仏身高       一一・三一二 メートル

面長         二・三五  メートル

眼長         一・〇〇  メートル

口幅         〇・八二  メートル

耳長         一・九〇  メートル

眉間白毫直径     〇・一八  メートル

螺髪(頭髪)高    〇・一八  メートル

螺髪直径       〇・二四  メートル

螺髪数         六五六  個

仏体重量        一二一  トン

 

数値のずれよりも、計測する目の付け所が異なっており、本作の方が明らかにより庶民的な興味を本位としていて面白い。]

石とならまほしき夜の歌 八首他二首 中島敦

    石とならまほしき夜の歌 八首

 

石となれ石は怖れも苦しみも憤(いか)りもなけむはや石となれ

我はもや石とならむず石となりて冷たき海を沈み行かばや

氷雨降り狐火燃えむ冬の夜にわれ石となる黑き小石に

眼(め)瞑(と)づれば氷の上を凪が吹く我ほ石となりて轉(まろ)びて行くを

腐れたる魚(うを)のまなこは光なし石となる日を待ちて我がゐる

[やぶちゃん注:太字「まなこ」は底本では傍点「ヽ」。]

たまきはるいのち寂しく見つめけり冷たき星の上にわれはゐる

あな暗(くら)や冷たき風がゆるく吹く我は墮ち行くも隕石のごと

なめくぢか蛭のたぐひかぬばたまの夜の闇處(くらど)にうごめき哂(わら)ふ

 

    また同じき夜によめる歌 二首

 

ひたぶるに凝師視(みつ)めてあれば卒然(そつぜん)として距離の觀念失(な)くなりにけり

大小(だいせう)も遠近(ゑんきん)もなくほうけたり未生(みしやう)の我(われ)や斯くてありけむ

[やぶちゃん注:「和歌(うた)でない歌(うた)」歌群内の十首。]

盆景 萩原朔太郎 /……誰か馬鹿な僕の疑問に答えてくれ……

 盆景

春夏すぎて手は琥珀、

瞳(め)は水盤にぬれ、

石はらんすゐ、

いちいちに愁ひをかんず、

みよ山水のふかまに、

ほそき瀧ながれ、

瀧ながれ、

ひややかに魚介はしづむ。

         ――一九一四、八.一〇――

[やぶちゃん注:『地上巡禮』創刊号・大正三(一九一四)年九月号に掲載され、後に詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)に所収された際には、クレジットが外された上、「愁ひをかんず、」が「愁ひをくんず、」(「薫ず」、愁いを香らせてくる、という感覚的謂いなのであろうが、極めて特異な用法と思われる)に変えられ、

 盆景

春夏すぎて手は琥珀、

瞳(め)は水盤にぬれ、

石はらんすゐ、

いちいちに愁ひをくんず、

みよ山水のふかまに、

ほそき瀧ながれ、

瀧ながれ、

ひややかに魚介はしづむ。

となっている。

 さて、私はこの詩が好きである。

 それは私が盆景が好きだからである。

 幼少の頃、祖母が盆景をやり、実際に何度か一緒に盆景を造ったことがあるからである。

 いつもそれは僕の望み通り、砂浜の海岸の風景だった。

 浜辺……地引網を曳く漁師たち……猪牙舟の荷……保前船の水主(かこ)……浦の苫屋と網干場……天秤棒を担ぐ行商人……沖を見下ろす寺や神社……犬や猫――祖母の部屋の戸袋から繰り出してくる驚くべき細工物の数々を見ているだけで僕は恍惚になったものだった。……

 だから――

 僕は――実は今も――この詩の――

「石はらんすゐ、」

の意味が未だに呑み込めずに蒼白になって呆然としているのだ。

 この詩に出逢ってからずっとずっと、僕は考え通しなのだ。

 全集の校訂本文も「らんすゐ、」なんだよ。

 これは一体――何だい???

 嵐翠? 藍水? 爛酔?……僕は何となく――石が緑の風を生むとか――藍色の水を滲み出すとか――そんな勝手なイメージで青春時代からこの初老に至るまで随分永いこと、誤魔化してきたのだった。

 しかし、なまじっか国文学に進んで国語学なんどという神経症的な学問を学んでしまうと、これらは「らんすい」で「らんすゐ」じゃあない、ということに気づいてしまったのだった。

 嵐翠――乱酔――爛酔――濫吹――藍水……どの語彙も「石は」に、本当にダイレクトにしっくりくるもんなんて、ありゃしないじゃないか! 宣長の提唱した「スヰ」表記なんぞ、とっくに誤りとされているんだぜ!?……

 じゃあ「ぬれ」「ながれ」と同じ動詞か?――いや、これが「ゐる」(居る)の連用形「ゐ」であるなら、「らんす」も動詞なら連用形でなくてはならない。「らんす」なんて動詞の連用形はないぞ! 「らんす」なんて日本語の名詞も僕は知らないよ。……

 ――――――

 誰か……絶望的に打ちひしがれているこの僕に……こっそり、そっと、教えて呉れないか?……

『馬鹿だね君は。「らんすゐ」はね……という意味に決まってるじゃないか。』

って……

 ――――――]

湖上をわたる狐 大手拓次

   白い狼

 湖上をわたる狐

みなぎる湖上のうへに
爪をといで啼(な)きわたる狐、
まどろみの窓(まど)をひらいて
とほく冬の國へ啼(な)いてゆく狐、
その肌に刺(とげ)の花をうゑつけて、
ゆたかに蒼茫(さうばう)の衣(ころも)をぬぎかへす。

[やぶちゃん注:「蒼茫」は、ここでは即物的には、ほの蒼暗く妖しいものである妖狐の銜えた衣のイマージュであろうが、同時に、そこを透けて対岸も見えぬ妖しい幻想の湖水の、見渡す限り青々と広がるそれをも、同時にそこに重層化させているのであろう。]

鬼城句集 夏之部 雨乞

雨乞    雨乞や僧都の警護小百人

[やぶちゃん注:「僧都」特定個人をイメージした歴史的な空想句であろう。雨乞いを修した僧都は多いが、ものものしい警護の様子は寧ろ、皮肉に雨乞いの失敗を予感させる(ように私には思われる)ところからは、私は例えば、ことあるごとに弘法大師空海と対立した守敏(しゅびん 生没年不詳)僧都を想起した。ウィキの「敏」によれば、大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学んで真言密教にも通じ、弘仁一四(八二三)年に嵯峨天皇から西寺が与えられたが、同時に東寺を与えられた空海とはことにつけ、対立したとされる人物である。弘仁一五(八二四)年の旱魃の際には、神泉苑で修された雨乞いの儀式に於いて空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったが地蔵菩薩に阻まれたと伝わる(これに因み、現在の羅城門跡の傍らには「矢取地蔵」が祀られている)。同じくして西寺も寂れていったとされる。菊池寛の随筆「弘法大師」に、雑誌社(「キング」)から弘法大師を主人公にした戯曲を依頼された際に、

『もう一つ戯曲になるかと思ったのは、法敵守敏との雨乞争いである。これは、諸君も御承知のごとく、「釈迦に提婆、弘法に守敏」と云う言葉さえある通り、守敏僧都は、当時弘法大師の一大法敵であり、呪力強大な高僧である。

 朝廷でも、相当重んぜられていて、弘法大師に東寺を賜ると同時に、守敏には西寺を賜って居り、僧位も弘法大師の上にいた位である。

 守敏は、学徳高く、法力秀れ、栗を水に入れて呪を誦すれば、栗が茹で栗となり、その栗を食べれば如何なる病者も忽ちに癒えたと云うのだ。嵯峨帝の天長元年の春、天下大旱した。帝が空海に雨乞の祈祷をせよと、勅せられると、守敏が横から異議を説え、<自分は空海より、年齢も上であるが、法位の上である、拙僧へ先に命ぜられるのが順序でござりましょう>と、そこで守敏に勅が下った。守敏欣んで、壇を築き祈雨の法を講ずること一七日、雷鳴轟き、大雨沛然として下った。市民歓呼の声を挙げて嘆賞した。これじゃ、守敏の勝利であるが、そのくせ加茂川の水は少しも増さない。おやと云うので、人を派して検べて見ると、雨が降ったのは、京都市内だけで東山は勿論、嵯峨御室のあたり、鳥羽伏見、どこもポツリとも降っていないので、忽ちインチキ雨であったことが分り、改めて弘法大師に勅が下った。大師は即ち京都二條の神泉苑に秘密の法壇を飾りて、一七日祈雨の法を行ったが、不思議なるかな、少しも効験もない。こんな筈ではないと、大師は定に入って、三千世界を眺め渡してその原因を尋ねて見ると、守敏が世界中の諸龍を瓶の中に封じ、呪力を以て出さないためである事を知り、大いに駭いたが、なおよく見渡すと、天竺無熱池の善女と云う龍王丈が、守敏よりも法力が上であるため、封じられて居ないのを知って、更に二日の日延を乞い、その龍王を召請して丹精を凝らすと、霊験忽ちに現われ、三日三晩の大雨となり、洛中洛外五畿七道の大甘雨となったと云うのである。

 その上、祈祷最中に、善女龍王が八寸ばかりの金色の蛇となり、九尺ばかりの長蛇の頭に乗って現われたと云う。』

とある(以上はサイト「エンサイクロメディア空海」の「空海の目利き人」に掲載された日本出版社二〇〇四年刊の夢枕獏編著「空海曼荼羅」所収のものの孫引きである。なお菊池寛のこの話は、戯曲は結局出来なかったという言い訳のエッセイでもある)。

「小」は接頭語で、数量を表す名詞や数詞に付けて、僅かに及ばないが、その数量に近いことを表す。ほぼ。]

2013/06/22

耳嚢 巻之七 商家義氣幷憤勤の事

 商家義氣幷憤勤の事

 近き比の事也とや。伊勢より一所に江戸え出しとや、又同じ親[やぶちゃん注:ここまで錯文。注を参照されたい。]素(もと)より放蕩者にて親しき智音も無(なく)、傍輩の看病にて部屋内にてありしが、渠(かれ)が女房にて夫の無賴故に、本所邊の四六鄽(しろくみせ)と歟(か)いへる隱賣女(かくしばいた)え賣(うり)て勤居(つとめゐ)けるが、彼(かの)女房來り病躰を見て暫(しばらく)藥を與へ、傍輩へも厚く禮を述(のべ)て歸りしが、又來りて介抱などなしけるに、其病ひよからざりしかば請人(うけにん)の方へ下げければ、猶右の女請人方へ來り介抱をなしけるが、何卒右の方へ引取度(たき)よしを乞(こひ)ければ、當時勤(つとめ)の身にていかゞして引取(ひきとる)べきやと請人もいなみ止めしに、親方へも願ひて裏店(うらだな)をかり置(おき)たり迚(とて)念比(ねんごろ)に尋(たづね)ければ、然(しから)ばとて駕にて乘せて右裏借家(うらじやくや)へ引移り、厚く看病なしけるが終(つひ)にはかなくなりぬれば、彼(かの)死骸は請人方へ取置(とりおき)候由なれども、投込(なげこみ)とかいへる取捨(とりすて)同樣の事と聞(きき)、兼て彼(かの)女の元へ深く馴染來る回向院の塔頭の坊主ありしが、彼女の去難(さりがたき)緣有(ある)者といひて布施抔ほどこし、彼坊主を賴(たのみ)弔ひ囘向して葬りける。右彼、右女極(きはま)る年を切增(きりま)して、右金子を以(もつて)諸事を取(とり)まかなひける由。女房をうかれ女(め)に賣(うり)ける程の男を、死後迄かくなしける事、いやしき女には誠に貞烈たとへん方なしと山本幷(ならびに)我元(わがもと)へ來る者玄榮といへる醫師語(かたる)。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「近き比の事也とや。伊勢より一所に江戸え出しとや、又同じ親」底本には、『(「同じ親」マデハ後出ノ「商家義氣の事」ノ冐頭部分ヲ誤リ寫シタモノカ)』とある。「商家義氣の事」は四つ後に出、確かに冒頭は「近き比の事也とや、伊勢より一所に江戸表に出しとや、また同じ親方に仕へ……」と酷似する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここにはその後の「商家義氣幷憤勤之事」が掲げられており、その直後に、
 鄙婦貞烈の事
という条が入っており、その内容はまさにこの冒頭部を除いて、鈴木氏が錯文とした直後の、「素より放蕩者にて親しき智音も無……」以下と内容がほぼ一致する。その「鄙婦貞烈の事」の冒頭は以下の通り(恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣とした)。
   *
 文化二年の秋成りいしが、山本豫州の大部屋中間(おほべやちゆうげん)、部屋頭(がしら)にて重く煩(わづら)ひけるが、元より放蕩者にて[やぶちゃん注:以下略。]
   *
これが元の正しい文章であったと推測出来るので、題名と冒頭の部分のこちらの「素より」(バークレー校版の「元より」)までは、このバークレー校版によって現代語訳した。
・「文化二年秋」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、ホットな世話物である。
・「山本豫州」(バークレー校版の内容)岩波版長谷川氏注に『伊予守茂孫(もちざね)。文化二年当時田安家家老』とある。
・「四六鄽」四六店・四六見世とも書く。これは夜は「四」百文で昼は「六」百文で遊ばせた謂いで、天明(一七八一年~一七八九年)頃から江戸の吉原や諸所の岡場所(吉原に対しての「傍(おか)」、「わきの場所」の意で、江戸で官許の吉原に対して非公認の深川・品川・新宿などにあった遊里のこと)にあった下等な娼家のことをいう。四六。
・「隱賣女」前注に示した通り、私娼のこと。
・「右彼」底本には右に『(右故カ)』とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にはない。直下の「右女」の衍字ともとれる。
・「極る年を切增して」岩波の長谷川氏注に、『きめていた年季を延長する契約をして。』とある。
・「玄榮」不詳。

■やぶちゃん現代語訳

 田舎の卑賤なる女のすこぶる貞女たりし事

 文化二年の秋のことで御座る。
 山本伊予守茂孫(もちざね)殿の大部屋中間(おおべやちゅうげん)で、部屋頭(へやがしら)を勤めておった者が重う患って御座ったが、もとより、放蕩者にして親しい知音もこれ御座なく、傍輩の看病を受けながら、部屋内に養生致いて御座ったと申す。
 さても、この男の女房は、夫の無頼ゆえに、本所辺りの四六見世(しろくみせ)とか申すところへ、夫がために隠売女(かくしばいた)として売られ、勤めて御座ったと申す。
 ところが、夫が重う患っておると聴きつけたかの女房、伊予守殿の御屋敷中間部屋を訪ね参り、その病勢の重きを見るや、暫くの間、手ずから薬なんどを買い調えて与えたり、かの男の看病をして呉るる傍輩へも、厚く礼を述べては帰ったと申す。
 暫く致いてまた来たっては、介抱などなして御座ったが、かの男の病い、これ、如何にも重篤にてあれば、伊予守殿も最早これまでと、男の請け人の方へと通じ、屋敷よりお下げになられたところが、なおも、かの女は請け人の方へも参って、けなげに介抱致いて御座ったと申す。
 そのうち、その請け人に、
「……何とぞ、妾(わらわ)が方へ引き取りとう存じます。」
と乞うたによって、
「……引き取ると申すが……今の、その、そなたの勤めの身にては……これ、如何にして引き取ると……申すのじゃ?」
と、流石に請け人も、
「……とてものことじゃて……おやめなされ。」
と諭し止(とど)めて御座ったと申す。
 ところが、
「……妾が店の親方へも訳を話しまして、裏店(うらだな)を借り置きて御座いますれば。」とて、切(せち)に懇請して御座ったゆえ、
「……まあ、そこまで、言うのなら、の……」
とて、駕籠にて乗せて、請け人の家より裏借家(うらじゃくや)へと引き移したと申す。
 それからというもの、あさましき身売りの稼業の傍ら、暇まをやり繰り致いては、男の元へと足繁く通って、手厚う看病致いて御座ったと申す。
 されど、その看病の甲斐ものう、男は遂に、儚くなって御座ったと申す。
 さても、かの男の遺体は、請け人方へと引き取るとの話しにて御座ったによって、女もそれに従ったと申す。
 ところが、その後、かの女、その男の遺体が、投げ込みとか申す、所謂、取り捨て同然に扱われたという申すを耳に致いた。
 されば女は、かねてより自分の元へと深(ふこ)う馴染んで通うておった、回向院の塔頭の坊主の御座ったによって、
「……妾の去り難き縁ある者なれば……どうか……どうぞ……」
と涙ながらに相応の布施なんどまで施し渡いて、その坊主になんとか頼み込み、弔い、回向致いて、葬って御座ったと申す。
 そうした次第なればこそ、かの女、決められて御座った年季は、これ、もうとっくに済んで御座ったにも拘わらず、それを自ら延ばし、それで得た金子を以って、男の葬儀と滅後の供養諸事全般を取り賄って御座ったと、申す。

 「……さても……己れを浮かれ女(め)に売り払(はろ)うたほどの男を……死んで後までも、かくなして御座ったこと……これ、賤しき女にしては……いや、まっこと、またとなき貞女の鏡……いやいや……言葉にては、これ、譬えようも御座ない……」
と、山本殿も仰せられ、また、そのことをたまたまよう知って御座った、私のもとへしばしば来たるところの、玄栄と申す医師も、かく語って御座った。

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 九 校正漏れの亡霊が無数に跳梁している!

■原稿79

       九

 

 

[やぶちゃん注:5字下げ。本文は2行目から。

●この原稿には前章冒頭「■原稿69」同様、右罫外上方に赤インクで、

 芥川氏つづき

とある。また、6行目上方罫外に、

 80

という左上方のナンバリングと同じ数字(ノンブル)があるが、これは赤インクでなく本文とは微妙に異なるインクで書かれており、しかもそれが抹消線で消されて右(4~5行目上方罫外)に、

 79

と訂されてある。このナンバリングと同じ手書き数字は、

 109

まで続く。また、この頁の罫外ナンバリング・ノンブル「79」は20行目真上罫外上方と、やけに高い位置にあって、

 ך

型のチェック(?)が右肩に入っている。その左に「改造よ印」のゴム印が打たれ、その直下(罫外左)に本文とは異なるインクによる、

 改造よ印 79 より

と手書きで大書した文字が、ここははっきりと読み取れる(「■原稿69」の様態とコンセプトは似ている)。]

 

 しかし硝子會社の社長のゲエルは人懷こい

河童だつたのに違ひありません。僕は度たび

ゲエルと一しよにゲエルの属してゐる倶樂部

へ行き、愉快に一晩(ばん)を暮らしました。それは

一つにはその倶樂部はトツクの属してゐる超

人倶樂部よりも遙かに居心(いごころ)の善かつた爲〈で〉**

す。のみならず又ゲエルの話は哲學者のマツ

グの話のやうに深みを持つてゐなかつたにせ

よ、僕には全然新らしい世界を、―――廣い世

 

■原稿80

界を覗かせました。ゲエルは、いつもの純金(じゆんきん)の匙

に珈琲(カッフエ)の〈コツプ〉*茶碗*をかきまはしながら、快活に

いろいろの話をしたものです。〈僕は〉

 〈殊に〉*何でも*或霧の深い晩(ばん)、僕は冬薔薇(ふゆばら)を盛(も)つた花

瓶(くわびん)を中(なか)にゲエル〈と〉**話を聞いてゐました。それ

は確か〈《天井も壁も》→室〉*部屋全體は*勿論、椅子やテエブルも白

い上(うへ)に〈金(きん)〉**い金の緣((ふち)をとつたセセツシヨン風の

部屋だつたやうに覺えてゐます。ゲエルはふ

だんよりも得意さうに顏中(かほじう)に微笑を漲らせた

まま、〈《五六年前にこの国》→丁度その頃Quorax *丁度その頃天下を取つてゐた Quorax 黨内閣のことなどを

[やぶちゃん注:この頁、異様に芥川自身によるルビが多い。

●「珈琲(カッフエ)」のルビの「ッ」は明らかに促音表記で有意に小さいが、無論、初出は同大である。現行新字新仮名表記では「カッフェ」である。]

 

■原稿81

話しました。クォラツクス〈黨と〉*と云*ふ言葉は唯意味

のない〈奇〉間投詞(かんたうし)ですから、「おや」とでも〈譯〉**す外

はありません。が、兎に角〈自由主義を〉*何よりも先*に「河童

全体の利益」と云ふことを〈振〉標榜(へうばう)してゐた政黨だ

つたのです。

 「クオラツクス黨〈か〉**支配してゐるものは〈あの〉

名高い〈ロツペ■〉政治家のロツペです。〈《ロツペは》→ビスマルクは〉*『正直は*最良の外交である』とはビスマルク〈■〉**言つた言〈葉〉**でせ

う。しかしロツペは正直を内治の上にも及ぼし

てゐるのです。………」

[やぶちゃん注:

●1行目の「クォラツクス」の「ォ」は「ク」と同じマスの右下に有意に小さく書いているので、かくしたが、実際には6行目で普通に「クオラツクス」と表記しており、この1行目のそれはもしかすると「クラツクス」と脱字したのに挿入表記したものともとれる。]

 

■原稿82

 「けれどもロツペの演説は……」

 「まあ、わたしの言ふことをお聞きな〈■〉〔さ〕い。あ

の演説〈の譃〉は勿論悉く譃です。が、譃と云ふこと

〈を〉**誰でも知つてゐますから、畢竟正直と〈同?〉**

ないでせう。それを一概に譃と云ふのはあな

〈方〉*がた*だけの偏見(へんけん)ですよ。我々河童(かつぱ)はあなた

〈《がた》→方〉*がた*のやうに、………しかしそれはどうでもよ

ろしい。わたしの話したいのはロツペのこと

です。ロツペはクオラツクス黨を支配してゐ

る、その又ロツペを支配してゐるものは〈フ?■〉

[やぶちゃん注:

●「畢竟正直と〈同?〉**らないでせう。」初出及び現行は、

 畢竟正直と變はらないでせう、

と読点である。これは、当然、この原稿通り、句点でよい。これは明らかに校正漏れの亡霊が今日まで生き続けている証しである!

●末尾の抹消2字「〈フ?■〉」の最初は、恐らく「フ」と思われ、「プウ・フウ」という新聞名(若しくはそれに類した名)を当初カタカナ表記しようとしたものと、私は推理している。]

 

■原稿83

 Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』と云ふ言葉もやは

り意味のない間投詞です。〈或は〉*若し*強いて訳(やく)すとすれば、『ああ』とでも云ふ外はありません。)社長

のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主

人と云ふ訣には行きません。クイクイを支配

してゐるものはあなたの前にゐるゲエルです。」

〈 「それは《―――どう失礼》→《僕には意外です。失礼      〉

 「けれども―――これは失禮かも知れ〈ま?〉ませ

ん。けれども〈『〉プウ・フウ新聞は勞動者の味かた

をする新聞でせう。その社長のクイクイも

[やぶちゃん注:

●「訳(やく)すとすれば」初出及び現行は、

 譯(やく)すれば、

である。これは、当然、この原稿通りでよい! これもまた明らかに校正漏れの亡霊が今日まで生き続けているおぞましき証しの一例ではないか!

●「けれども―――これは失禮かも知れ〈ま?〉ません。けれども〈『〉プウ・フウ新聞は勞動者の味かたをする新聞でせう。」特に指示しないが、ここ以下の三箇所は「勞動者」となっている(初出及び現行は「勞働者」に訂されている)。それよりもこの部分、初出及び現行は、

 けれども――これは失禮かも知れませんけれども、プウ・フウ新聞は勞働者の味かたをする新聞でせう。

である。2箇所の相違に着目されたい。初出及び現行は原稿が二文であるのに、「これは失禮かも知れませんけれども」と一続きで「知れません」の後の句点が、ない! また、「けれども」の後の読点は原稿には、ない! 再度、台詞を総て整序して示そう。

【原稿の「僕」の台詞】

 「けれども―――これは失禮かも知れません。けれどもプウ・フウ新聞は勞動者の味かたをする新聞でせう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けてゐると云ふのは、………」

【初出及び現行の「僕」の台詞】

 「けれども――これは失禮かも知れませんけれども、プウ・フウ新聞は勞働者の味かたをする新聞でせう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」

一目瞭然! 否! 朗読してみたまえ! 極めて自然なのはどう考えても、『定本』の初出や現行の「河童」ではない! この原稿の台詞こそ、極めて自然な応答の台詞であることは言を俟たぬ! またしても校正漏れの亡霊の痙攣的な呪い以外の何ものでもない!

 

■原稿84

あなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」

 「プウ・フウ新聞の記者たちは勿論勞動者の味

かたです。しかし記者たちを支配するものは

クイクイの外はありますまい。しかもクイク

イはこのゲエルの後援を受けずにはゐられ

ないのです。」

 〈僕は〉ゲエルは〈不相変〉*不相変*微笑しながら、純金の匙を

おもちやにしてゐます。僕はかう云ふゲエル

を見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウフ

ウ新聞の記者たちに〈何か〉同情の起るのを感じまし

[やぶちゃん注:

●「プウフウ新聞の記者たちに」はママ。「プウフウ」の間の「・」は、ない。校正で臥されたものであろう。]

 

■原稿85

た。するとゲエルは僕の無言(むごん)に忽ちこの同情

を感じたと見え、〈前よりも快活に〉*大きい腹(はら)を膨(ふくら)ませて*かう言ふの

です。

 「何、プウフウ新聞の記者たちも全部勞動者

の味かたではありませんよ。少くと〈も〉**我々河

童と云ふものは誰の味かたをするよりも先に

我々自身の味かたをしますからね。………しか

し更に厄介なことに〈も〉**このゲエル自身さへ

やはり他人の支配を受けてゐるのです。あな

たはそれを誰だと思ひますか? それはわた

●「何、プウフウ新聞の記者たちも」はママ。「プウフウ」の間の「・」は、ない。ここも校正で臥されたものであろう。]

 

■原稿86

しの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」

 ゲエルはおほ声に笑ひました。

 「〈さう云ふ〉*それは寧*ろ仕合せで〈すね。」〉*せう。」*

 「〈《仕合》→《或は》仕合せかも知れません〉*兎に角わたしは滿足してゐます〈よ〉*。しかしこれも

あなたの前だけに、―――河童でないあなたの

前だけに手放しで吹聽出來るのです。」

 「するとつまりクォラ〈ク〉ツクス内閣はゲエル夫人

が支配〈の下(もと)に〉*してゐる*のですね。」

 「さあ、さうも言はれますかね。………しかし

七年前の戰爭などは確かに或雌の河童の爲に

[やぶちゃん注:「クォラ〈ク〉ツクス」の「ォ」は前の「ク」と同マスの右下にある。脱字に気づいて後から書き入れた可能性もある。]

 

■原稿87

始まつたものに違ひありません。」

 「戰爭? この国にも戰爭はあつたのです〈か〉

か?」

 「ありましたとも。将來もいつあるかわかり

ません。何しろ鄰国のある限りは、………」

 〈《僕は》→鄰国と云ふ〉僕は実際この時始めて河童の國〈に〉**國家的〈に〉孤

立してゐないことを知りました。〈■〉ゲエルの説

明する所(ところ)によれば、河童はいつも獺(かはうそ)〈と〉**假設

敵にしてゐると云ふことです。しかも獺は河

童に負けない軍備を具へてゐると云ふことで

 

■原稿88

す。僕はこの獺を相手に河童の戰爭した話に

少からず興味を感じました。(何しろ河童の強

敵に獺(かはうそ)のゐるなどと云ふことは「水〈考〉虎考畧(すゐここうりやく)」の著

者は勿論、「山島民譚志(さんたうみんたんし)」の著者柳田國男さんさ

へ知らずにゐたらしい新事実ですから。)

 「あの戰爭の起る前には勿論両国とも油断せ

ずに〈相手〉ぢつと相手を窺つてゐました。と云ふの

はどちらも同じやうに相手を恐怖してゐたか

らです。そこへ〈或雌の河童が一匹(ぴき)〉*この國にゐた獺が*一匹(ぴき)、或河

童の夫婦を訪問しました。その又〔雌の〕河童〈の雌〉

[やぶちゃん注:「山島民譚志」はママ。「譚」は「集」の誤り。校正で訂されたものであろう。]

 

■原稿89

云ふのは亭主を殺すつもりでゐたのです。何

しろ亭主は道樂者でしたからね。おまけに生

命保險のついてゐたことも多少の誘惑になつ

たかも知れません。」

 「あなたはその夫婦を御存じですか?」

 「ええ、――いや、〈雄〉**の河童だけは知つてゐ

ます。〈その〉わたしの妻などはこの河童〈を〉**惡人のや

うに言つてゐますがね。しかしわたしに言は

せれば、〈寧ろ〉悪人よりも寧ろ雌の河童に摑まるこ

とを恐れてゐる被害妄想の多い狂人です。……

 

■原稿90

…そこでその〈獺は〉雌の河童は亭主のココアの

茶碗の中へ靑化加里を入れて置いたの〈で〉です。そ

れを又どう間違へたか、客の獺に飮ませてし

まつたのです。獺は勿論死んでしまひま〈■〉

た。それから………」

 「〔それから〕戰爭になつたのですか?」

 「ええ、生憎その獺は勳章を持つてゐたもの

ですからね。」

 「戰爭はどちらの勝になつたのですか?」

 「勿論この国の勝になつたのです。三十六萬

 

■原稿91

九千五百匹の河童〔たち〕はその爲に健気にも戰死し

ました。しかし敵国に比べれば、その位の損

害は何ともありません。〈獺は〉*この*國にある毛皮〈の〉**

云ふ毛皮は大抵獺の毛皮です〈よ。〉。わたしも〈こ〉**

の戰爭の時には硝子を製造する外にも〈《盛に《石》→消〉石炭殼

を戰地へ送りました。」

 「石炭殼を何にするのですか?」

 「勿論食糧にするのです。〈我々〉河童は腹さへ減れ

ば、何でも食ふにきまつてゐますからね。」

 「それは―――どうか怒らずに下さい。それ

[やぶちゃん注:

●「〈《盛に《石》→消〉石炭殼」この部分は、「石」を消して書いた「消」の字が実際には抹消されていない。これは推測であるが、当初、芥川は決定稿の「石炭殼」をまず想起し、それを「消(し)炭」と書こうとしたのではなかったろうか?]

 

■原稿92

は戰地にゐる河童〈には〉たちには………〈《第一醜》この国では〉*我々の国*

醜聞ですがね。」

 「この國でも醜聞には違ひありません。しか

しわたし自身かう言つてゐれば、誰も醜聞に

はしないものです。哲學者のマツグ〈が〉**言つて

ゐるでせう。『汝の悪は汝自ら言へ。悪はおの

づから消滅すべし。』………しかもわたしは利益

の外にも愛国心に燃え立つてゐたのですから

ね。」

 丁度そこへはひつて來たのはこの倶樂部の

 

■原稿93

給仕です。給仕はゲエルにお時宜をした後、

朗読でもするやうにかう言ひました。

 「お宅のお鄰に火事がございます。」

 「火―――火事!」

 〈マツグ〉*ゲエル*は驚いて立ち

上りました。僕も立ち上つたのは勿論です。が、給仕は落ち着き拂

つて次の言葉をつけ加へました。

 「しかしもう消〈え〉し止めました。」

 ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑ひに

近い表情をしました。僕は〈その顏〉かう云ふ顏を見る

 

■原稿94

と、いつかこの硝子會社の社長を憎んでゐた

ことに氣づきました。が、〈今は   ゲエル〉*ゲエルはもう今で*

〈もう〉大資本家でも何でもない唯の河童にな

つて立つてゐるのです。僕は花瓶(くわびん)の中(なか)の〔冬(ふゆ)〕薔薇(ばら)

の花を拔き、ゲエルの手(て)へ渡しました。

 「しかし火事は消えたと云つても、奧さんは

さぞお驚きでせう。さあ、これを持つてお帰

りなさい。」

 「難有う。」

 ゲエルは僕の手を握(にぎ)りました。それから急〔に〕

[やぶちゃん注:

●「〈今は   ゲエル〉」ここ空欄3マス。ダッシュを引くつもりだったか?]

 

■原稿95

にやりと笑ひ、小声(こごゑ)にかう僕に話しかけまし

た。

 「鄰(となり)は〈僕の〉わたしの家作(かさく)ですからね。〈保〉火災保險の

金だけはとれるのですよ。」

 〈僕はこの時のゲエルの腹の満月のやうに張〉

 僕は〈未だにこの時〉*この時のゲエル*〈ゲエルの  〉*微笑を―――*輕蔑する

ことも出來なければ、憎惡〈を?〉**ることも出來な

いゲエルの微笑を未だにありありと覚えてゐます。

[やぶちゃん注:以下、一行余白。

●「〈ゲエルの  〉」空欄2マス。奇妙な線が抹消の波線の下に認められるが、芥川はダッシュは3マスであり、有意に反った奇妙な線でダッシュとは思われない。]

修學旅行の記 芥川龍之介 《芥川龍之介未電子化掌品抄》

修學旅行の記 芥川龍之介

[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年五月十三日土曜日、東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)第一学年在学中であった芥川龍之介(満十三歳)の日帰り修学旅行(大森と川崎の間を歩いたもので現在の遠足に相当する)について綴った作文である。

 勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊の「芥川龍之介全作品事典」の中田睦美氏の記載によれば、龍之介の盟友恒藤恭によって、昭和二四(一九四九)年十二月発行の『図書』誌上で、「中学生芥川龍之介の作品」として「猩々の養育院」とともに初めて公に紹介されたものである。恒藤の入手経路の解説によれば、『「関西学院大学法学部の助教授安立忠夫氏が来訪されて、芥川が東京府立第三中学に在学してゐたころの同級生の作文を一つに綴ぢたものを三冊持参された」云々とある』とし、さらに関口安義氏が筑摩書房一九九九年刊の「芥川龍之介とその時代」で、本作を『要を得、堂々としている。回覧雑誌で鍛えた腕の見せどころであったのかも知れない』と評している、と記す。

 岩波版旧全集第十二巻「雜纂」に載るものを底本としたが、上記中田睦美氏の記載によると、この本文の句読点は上記の「中学生芥川龍之介の作品」の『末尾に「筆者ほどこす」とあるように恒藤恭による』ものであることが分かる(この事実は全集後記にはない)。なお、末尾にある『(明治四十一年、中學一年)』は省略した。