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2013/06/30

耳鳴り

耳鳴りというのは恐らく他者に理解出来ないものであろう。そうして独り作業する際に限ってひどく認知されるのもこの特長だ。それはもしかするとハード・ロックをヘッドフォンで音量最大にして無暗に聴いていたその昔――誰かに張り手をくらって鼓膜が破れかけたその昔――ヴェトナムに着いた時の風邪ひきで航空性中耳炎になったその昔――もう誰の話しも聴きたくないと感じて両手で耳を叩き塞いだその昔……そんな僕のずっと昔の有象無象の因果が今になって襲ってきているような気がするのだ……誰彼の話を分かったような「振り」をするのももうやめだ――僕は僕のやるべきことを――ただおぞましい「シーン」という音のする限界の中で――やることしかないのだった――それが僕の遠い日の蜩の声(ね)のような耳鳴りなのだ……

橘南谿「東遊記」より 「鎌倉」

橘南谿「東遊記」より「鎌倉」

 

[やぶちゃん注:「東遊記」(寛政七(一七九七)年に前編五巻を、同九年に続編五巻を板行)は医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。南谿は本名宮川春暉(はるあきら)で、伊勢久居(現在の三重県津市久居)西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二五〇石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任じられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。諸国遍歴を好み、また文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、本書「東遊記」や「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や随筆「北窓瑣談」等で知られている(以上はウィキの「橘南谿」に拠る)。なお、本記載内での時間は天明四(一七八四)年である(ここは「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に拠った)。

 底本は国立国会図書館蔵で同デジタルライブラリーにある学海指針社(明治四四(一九一一)年刊)版を視認して活字化した。詩歌は読み易くするために各詩歌の前後を一行空けにした。漢詩は底本では三段組であるが一段で示し、最初に白文で示し、その後に一字下げ( )で訓点に従って訓読したものを示した。

 なお、この「一、鎌倉」はまさに「東遊記」の巻頭を飾っている(デジタルライブラリー版の3コマ目から)。]

 

東遊記

          橘南谿子著

 

     一、鎌倉

鎌倉は、東武通行の人の見る所にして、珍らしからねど、又したしく其地に遊べば、昔の俤、山川別ては神社佛閣に殘りて、懷古の情にたへず。

先、鶴岡の八幡宮に詣づ。其の壯麗男山につぐべし。佛寺には建長寺など最大刹なり。鶴岡南面のきざはしを登れば、大なるいてふの木あり。昔此宮の別當公曉、將軍實朝公を強弑したる所なりと云。八幡宮の正面通り、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居あり。其の鳥居筋を眞直に下れば、由井が濱に出づ、一の鳥居より、由井が濱まで十八町なり。すべて鎌倉は、皆山にて、地面甚狹し。わづかに谷の間々に、屋敷を構へ、住居せし事と見ゆ。其故に比企が谷(やつ)、大藏がやつ、扇がやつなどゝ谷々の名甚多し。賴朝卿の屋敷跡は、八幡宮の東の方にあり。此地、少し平坦なれど、四三町四五町に過ぎず。其の外の谷々のせまきことおして知るべし。屋敷跡の少し上の方に、賴朝卿の塚あり。今の薩摩侯の寄附の大なる石の手水鉢あり。其岡の東の上の方に薩摩侯の先祖の墓所もあり。此あたり、薩州より寄附の物、品々あり。なほ近きうち、造營もあるべきよしなりとて、鎌倉の人々、悦び居れり。八幡宮の束の方に、滑川とて細き流れあり。靑砥左衞門、錢を落しゝ川なりといふ。其の時の事は、郊外のやうに聞えしが、其の頃は今の世の如く、町家などは無りしにや。義經の腰越も鎌倉を去る事、京と大津計も有べしと、兼ては思ひ居しが、僅に一里計にも足らず。今の江戸の如くならば、町の眞中なるべし。昔は何事も微々なる事にて、鎌倉といへども、今の四五萬石の大名の城下程にも無き事と思はる。およそ、鎌倉は、高山も無く、大河も無く、要害の地といふべからず。只、小き山、數里四方に連りて、波濤の如し。其の間の谷々も甚せまく、打晴たる平地は、絶てなし。但、源氏にはゆゑある地なれば、賴朝の都し給ひしにや。伊豫守賴義、鎭守府將軍に任じ、安倍の貞任征伐の爲に、東國下向の時、石淸水八幡宮を此地に勸請し給ふ。其の後に、又相摸守に任じ、鎌倉に下向ありて、此の所にて、義家、出生し給ふとかや。かく先祖由來のある地ゆゑなるべし。鎌倉と名づけし初は、昔、大織冠鎌足公、鹿嶋參詣の時、此の地の由井の濱に宿し給ひける夜、靈夢によりて祕藏し給ひし鎌を、當所大藏山の松岡に埋め給ふ。此ゆゑに鎌倉郡といふ。又大藏山を鎌倉山とも名づけしなり。其の外、神社佛閣、甚多く、古跡舊蹤、種々の名ある所ひしと並べり。あげしるすにいとまあらず。余も二三日も四五日も逗留して、所々見廻り、寺社の舊記などをも一見せば、面白きことも多かるべきに、余は、戸塚より入り來りて、其の日鎌倉を草々に一見し、直に江の嶋へ出でぬれば、何のいとまもなく、見殘して過ぎぬ。殘り多し。

 

     送人遊相中   服部南郭

  覇跡山川経略勞

  鎌倉客路自蓬蒿

  將門三世荒臺月

  戎馬千年大海濤

  劒氣偏隨星井沒

  笙聲空過鶴陵高

  壯遊知爾因懷古

  慷慨談兵攬佩刀

   (   人を送て相中に遊ぶ   服部南郭

   覇跡 山川 経略勞、

   鎌倉 客路 蓬蒿自す、

   將門 三世 荒臺の月、

   戎馬 千年 大海の濤、

   劒氣 偏に隨ひて 星井に沒す、

   笙聲 空しく過ぎて 鶴陵 高し、

   壯遊 知爾 因懷古、

   慷慨 兵を談し 佩刀を攬る)

 

    鶴岡   安積艮齋

  鴨脚霜凋古廟秋

  荒墳幾處葬公侯

  遺基今日蓬蒿合

  雄略當年魑魃愁

  寶鼎潜移歸細柳

  乾坤一革割鴻溝

  可憐猜忌相屠戮

  覇業銷沈付逝流

   (  鶴岡   安積艮齋

   鴨脚 霜は凋す 古廟の秋、

   荒墳 幾處にか公侯を葬る、

   遺基 今日 蓬蒿 合し、

   雄略 當年 魑魃 愁ふ、

   寶鼎 潜に移りて 細柳を歸す、

   乾坤 一革して 鴻溝を割す、

   憐むべし 猜忌 相 屠戮す、

   覇業 銷沈 逝流に付す、)

 

  昔にもたちこそまされ民の戸の        藤原基綱

      煙にきはふかまくらの里(夫木)

 

  宮柱ふちしきたてゝ萬代に          鎌倉右大臣

      今こそ榮えんかまくらの里(續古今)

 

  年經たる鶴が岡邊の柳原           平 泰時

      あをみにけりな春のしるしに(夫木)

 

  鶴が岡木高き松を吹く風の          源 基氏

      雲井にひゞく萬代の聲(新拾遺)

 

  ことゝはゞ花やしらくも代々の春       宗牧

  ほたる火は百がものありなめり川       梅翁

 

[やぶちゃん注:以下、底本にある頭注を示しておく。

 

男山

 山城男山の石淸水八幡宮

公曉

 實朝の兄の賴家の子

薩摩侯

 先祖島津忠久賴朝より日向大隅薩摩の守護を授けらる

鎌足公

 藤原氏の租中臣鎌足

鹿島神社

 常陸の鹿島町にあり祭神は武甕槌命にして天兒屋根命をも配祀す

 

この内、「鹿島神社」の「武甕槌命」は「たけみかづち」と読み、神産みにおいて伊邪那岐(イサナキ)が妻伊邪那(イサナミ)を死に至らしめた子の軻遇突智(カグツチ)の首を切り落とした際、用いた十束の剣の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の内の一柱。「天兒屋根命」は「あめのこやねのみこと」と読み、天照大御神の岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、岩戸が少し開いた際、天太玉命(あめのふとだまのみこと)とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際には瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根を持った建物」の意味で、託宣を齎す神の居所のことと考えられている。中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された。但し、鹿島神宮本社には祭神ではない。現在、境内外にある摂社坂戸神社が天児屋命を、同じく境内外の息栖(いきす)神社が武甕槌命の娘である「姫」とこの天児屋命の二人(夫婦)を祭神として祀っている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 8 稚児が淵から俎板岩周辺

 翌朝我々は夙く起き、長い往来を通ってもう一軒の茶屋へ行った。ここは実に空気がよく、そして如何にも景色がよいので、私は永久的に一部屋借りることにした。海の向うの富士山の姿の美しさ。このことを決めてから、我々は固い岩に刻んだ段々を登って、島の最高点へ行った。この島には樹木が繁茂し、頂上にはお寺と神社とがあり、巡礼が大勢来る。いくつかの神社の背後で、島は海に臨む断崖絶壁で突然終っている。ここから我々は石段で下の狭い岸に降り、潜水夫が二人、貝を求めて水中に一分と十秒間もぐるのを見た。彼等が水面に出て来た時、我我は若干の銭を投げた。すると彼等はまたももぐつて行った。銅貨ほしさにもぐる小さな男の子もいたが、水晶のように澄んだ水の中でバシャバシャやっている彼等の姿は、中々面白かった。岩にかじりついている貝は、いずれも米国のと非常に異る。海岸の穴に棲んでいる小さな蟹(かに)は吃驚する程早く走る。最初に小石の上を駈け廻っているのを見た時、私は彼等を煤(すす)の大きな薄片か、はりえにしだだろうと思った。彼等は一寸蜘蛛みたいな格好で動き、そしてピシャツとばかり穴の中に駈け込む。

[やぶちゃん注:太字「はりえにしだ」は底本では傍点「ヽ」。稚児が淵や魚板(まないた)石の情景が活写されている。特にこの海士の素潜りの様子やここでの饗応については既に新編鎌倉志巻之六鎌倉攬勝考卷之十一附録」(「魚枚磐」)にも現われており、この凡そ35、6年後のこと、学生時代の芥川龍之介と一緒にここを訪れた友人が、同じように少年や海女に銅銭を投げるシチュエーションが、芥川の「大導寺信輔の半生」(大正一四(一九二五)年発表)の最後に現われる。未読の方は是非どうぞ、私の電子テクストで。

「翌朝我々は夙く起き、長い往来を通ってもう一軒の茶屋へ行った。ここは実に空気がよく、そして如何にも景色がよいので、私は永久的に一部屋借りることにした」私は岩本楼をモースの定宿と以前の注で記したが、実は江の島到着のその日は江の島参道を少し上った左手にあった洋風造りの旅館「立花屋」(現存せず)に泊まったが、翌朝、参道の反対側にある岩本楼立ち寄り、宿をこちらに変えているのである(以上は磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る)。

「銅貨ほしさにもぐる小さな男の子もいたが、水晶のように澄んだ水の中でバシャバシャやっている彼等の姿は、中々面白かった。」原文“Some little boys dived for pennies, and they looked funny enough kicking about below, in water clear as crystal.”。さりげない描写の中に、モースの優しい視線が見え、また実にヴィジュアライズされたよい描写である。

「海岸の穴に棲んでいる小さな蟹」甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科モクズガニ科 Varuninae 亜科イソガニ Hemigrapsus sanguineus

「海岸の穴に棲んでいる小さな蟹は吃驚する程早く走る。最初に小石の上を駈け廻っているのを見た時、私は彼等を煤の大きな薄片か、はりえにしだだろうと思った。」原文は“The little crabs that live in holes on the beach run with amazing rapidity, and when I first saw them scampering over the pebbles I thought they were large flakes of soot, or furze.”。“large flakes of soot”の、煤(消し炭と訳してもよいか)のちょっと大きな欠片(かけら)というのはすんなり分かるが、“furze”はちょっと難解。野生の双子葉植物綱マメ目マメ科ハリエニシダ Ulex europaeus は日当たりのよい荒れ地によく繁殖し、高さ1~2・5メートル程度の常緑低木で初春と秋に黄色い花を咲かせるが、ここでモースが錯誤したのは無論、この時期に咲かない花ではなく、その枝にあったようだ。ハリエニシダはその名の通り枝に緑色の鋭い刺があり、葉も刺と化している(因みに、そのために牧草地に侵入するとこれによって家畜が傷つけられる厄介な植物で極めて繁殖力が強い。以上はウィキハリエニシダに拠った)。ウィキの「イソガニ」によれば、イソガニの通常成体は甲幅2・5センチメートル程度だが、稀に甲幅3・8センチメートルに達する大型個体もいて(これは陸生のアカテガニよりも大きい)、甲の前側縁(両脇)に眼窩の外側も含めて3個の鋸歯を持ち、鉗脚は左右が同じ大きさで、特にオスの鉗脚は大きく発達し、はさみの関節部にキチン質の柔らかい袋を持つ(メスの鉗脚は小さくキチン質の袋もない)。体色は甲表面が緑灰色と紫の斑模様、歩脚も緑灰色と紫の横縞模様(腹面は白色)とあるから、モースはこの色ととげとげしい脚部から、ハリエニシダが岩の上に這うように植生しているものと見紛うたのであろう。

「ピシャツと」ここの全原文は“They go along somewhat like spiders and dart into a hole with a snap.”で、“with a snap”が、プチッ(と:以下同じ。)・ピシッ・ポキッ・ビシッ・パチン・パタンというオノマトペイアに相当する。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 7



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図―119

 私は家屋内の装飾に関する、すべての事実を、記述し度いと思う。我々が往来を歩いていて通り過ぎた、明るく、風通しがよく、そして涼しい一軒の茶店のことを書き留める。天井から糸で細長い金銀の紙をつるしたのが、奇妙な効果を出していた。一寸でも風が吹くと、紙片はくるくる廻ってビカピカ輝き、非常に気持がよい。これ等の紙片は長さ三インチ、幅一インチ、約一フィートの間を置いて天井一面にぶら下っている。天井を飾るもう一つの方法は――もっとも、天井を飾ることはすくない、――大きな扇子の彩色画を以てすることである。十六フィート四方の部屋の天井に、こんな絵が二十も張ってあったが、そのある物は高価で非常に鮮かな色をしていた。日本人が天然物を便化する器用なやり方は顕著である。廊下の手摺板にいろいろな姿をした鶴を切りぬいたのがあった。また日除けには極度に紋切型にした富士と雲との絵がかいてあった(図119)。
[やぶちゃん注:「長さ三インチ、幅一インチ、約一フィートの間」それぞれ長さ約7・6センチメートル、幅約2・5センチメートル、それらの間隔は約30センチメートル相当。
「十六フィート四方」凡そ4・9メートル四方。]



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図―120

 洗面した時、我々は真鍮製の洗面器の横手に、木製の揚子が数木置いてあるのを発見した。それは細い木片で、一端はとがり、他端は裂いて最もこまかい刷毛にしてある。これ等は一度使用するとすてて了うものだが、使えば刷毛の部分がこわれるから、いつでも安心して新しいのを使うことが出来る(図120)。

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図―121

 日本の燭台にはいろいろな形のがあるが、非常に興味が深い。それは真鍮製で、床からの高さが三フィート近くもある(図―121)。
[やぶちゃん注:「三フィート」約90センチメートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 6

 朝飯はあまりうまい具合ではなかった。水っぽい魚のスープ、魚はどっちかというとゴリゴリで、その他の「飾り立て」に至っては手がつけられぬ。やむを得ず私は缶詰のスープ、デヴィルド・ハムやクラッカース等の食糧品や、石油ランプ、ナイフ、フォーク、スプーン等を注文した。この不思議な食物に慣れることが出来たら、どれ程面倒な目にあわずに済むことだろう。私が特にほしかったのは朝の珈琲である。日本人はお茶しか飲まぬ。よって珈琲も買わねばならなかった。

[やぶちゃん注:「魚はどっちかというとゴリゴリで」これはアジかエボダイか何かの干物を焼いたものではなかったか?

「デヴィルド・ハム」原文“deviled ham”。現在もアメリカの“B&G FOOD”から販売されているブランド名“Underwood”の、三叉を持った悪魔のロゴの入ったミートスプレッド缶。肉製品のアンダーウッドは英国人実業家 Mr. William Underwood がボストンで会社を興したのが一八二二年と言われ、スパイスを取り扱う事業からマスタードやケチャップの瓶詰め製品や魚介等の缶詰製品を製造して事業発展した。 一八六八年に息子で二代目の Mr.Underwood が、様々なスパイスで味付けした加工肉製品の缶詰製造に成功、この“Underwood Deviled Ham Spread”が生まれた。“Deviled”とはマスタード・ホットソース・スパイスなどで風味付けをした製品のことを意味し、アンダーウッドの製品だけでなく、辛味づけしたものなどに附す典型的な形容詞である。アンダーウッド・ブランドは全米で人気ナンバー・ワンを誇っており、中でもデビルド・ハム・スプレッドは高い支持を得ている。因みにこの“Devil logo”は一八七〇年に商標登録されており、現在、アメリカに存在する食品商標としては最古の物と考えられている(以上は新宿にある舶来食料品販売の「株式会社 鈴商」の取り扱いブランド紹介のミートスプレッドのアンダーウッドを参照した)。今や老舗のミート缶も当時は発売されて未だ十年ほどであった。相当な高級品と考えてよい(現在でも高い)。

「クラッカース」原文“crackers”これは普通にクラッカーのことである。米語では塩味の強いビスケットの総称として、甘みの強いビスケットであるクッキーに対するものとして使用される。一七九二年にマサチューセッツ州のジョン・ピアスン(John Pearson)なる人物がクラッカーの原型を発明、一種の乾パンで軍隊の糧食などに使われた。その九年後の一八〇一年、同州のパン職人ジョシア・ベント(Josiah Bent)が初めて“cracker”と呼ばれる製品を造った。呼称は焼いて際の「クラック」という音に由来する。後にベントはクラッカー事業をナビスコに売却している(以上はウィキクラッカ食品)に拠った)。]

十年 中島敦

 十年

 

[やぶちゃん注:これは中島敦が横浜高等女学校在勤中に同校校友会雑誌「學苑」の第二号(昭和九(一九三四)年三月発行)に寄稿したものである。当時、満二十四歳であった。二箇所の太字「ふらんす」は底本では傍点「ヽ」。]

 

 十年前、十六歳の少年の僕は學校の裏山に寢ころがつて空を流れる雲を見上げながら、「さて將來何になつたものだらう。」などと考へたものです。大文豪、結構。大金持、それもいゝ。總理大臣、一寸わるくないな。全く此の中のどれにでも直ぐになれさうな氣でゐたんだから大したものです。所でこれらの豫想の外に、その頃の僕にはもう一つ、極めて樂しい心祕かなのぞみがありました。それは「佛蘭西へ行きたい。」といふことなのです。別に何をしに、といふんでもない、ただ遊びに行きたかつたのです。何故特別に佛蘭西を擇んだかといへば、恐らくそれは此の佛蘭西といふ言葉の響きが、今でも此國の若い人々の上にもつてゐる魅力のせゐでもあつたでせうが、又同時に、その頃、私の讀んでゐた永井荷風の「ふらんす物語」と、これは生田春月だか上田敏だかの譯の「ヴェルレエヌ」の影響でもあつたやうです。顏中到る所に吹出した面皰をつぶしながら、分つたやうな顏をして、ヴェルレエヌの邦譯などを讀んでゐたんですから、全く今から考へてもさぞ鼻持のならない、「いやみ」な少年だつたでせうが、でもその頃は大眞面目で「巷に雨の降る如く我の心に涙」を降らせてゐたわけです。さういふわけで、僕は佛蘭西へ――わけても、此の「よひどれ」の詩人が、そこの酒場でアブサンを呷り、そこのマロニエの竝木の下を蹣跚とよろめいて行つた、あのパリへ行きたいと思つたのです。シャンゼリゼエ、ボア・ド・ブウロンニュ、モンマルトル、カルチェ・ラタン、……學校の裏山に寢ころんで空を流れる雲を見上げながら幾度僕はそれらの上に思ひを馳せたことでせう。

 さて、それから春風秋雨、こゝに十年の月日が流れました。かつて抱いた希望の數々は顏の面皰と共に消え、昔は遠く名のみ聞いてゐたムウラン・ルウヂュと同名の劇團が東京に出現した今日、横濱は南京町のアパアトでひとり佗しく、くすぶつてゐる僕ですが、それでも、たまに港の方から流れてくる出帆の汽笛の音を聞く時などは、さすがに、その昔の、夢のやうな空想を思出して、懷舊の情に堪へないやうなこともあるのです。さういふ時、机の上に擴げてある書物には意地惡くも、こんな文句が出てゐたりする。

  ふらんすへ行きたしと思へど

  ふらんすはあまりに遠し

  せめては新しき背廣を着て

  氣ままなる旅にいでてみん……

「ははあ、此の詩人も御多分に洩れず、あまり金持でないと見えるな。」と、さう思ひながら僕も滅入つた氣持を引立てようと此の詩人に倣つて、(佛蘭西へ行けない腹癒せに、)せめては新しき背廣なりと着て、――いや冗談ぢやない、そんな贅澤ができるものか。せめては新しき帽子――いや、それでもまだ贅澤すぎる。えゝ、せめては新しきネクタイ位で我慢しておいて、さて、財布の底を一度ほぢくりかへして見てから、散歩にと出掛けて行くのです。丁度、十年前憶えたヴェルレエヌの句そのまゝ、「秋の日のヴィヲロンの、溜息の身にしみて、ひたぶるにうらがなしい」氣持に充されながら。

 

[やぶちゃん追記:……普段、この若き青年国語教師の授業を受けていた、十四~十六歳の文学少女たちが、この一文を読んで、どう感じたであろう、と私は夢想して見る……つい最近――これは全く知られていないことであるが――中島敦と教え子との間に実は何らかのスキャンダルが存在し、発覚したものの、今に伝わらぬほどにうまく揉み消されたという事実があった――という話を小耳に挟んだ……私はこの文章を読みながら……「いや、そんなことがあったとしても……これ、不思議ではあるまいよ……」……と……思わず独りごちていた……]

白梅に明くる夜ばかりとなりにけり 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

 

  白梅に明くる夜ばかりとなりにけり

 

 天明三年、蕪村臨終の直前に詠じた句で、彼の最後の絕筆となつたものである。白々とした黎明の空氣の中で、夢のやうに漂つて居る梅の氣あひが感じられる。全體に縹渺とした詩境であつて、英國の詩人イエーツらが狙つた所謂「象徴」の詩境とも、どこか共通のものが感じられる。しかしかうした句は、印象の直截鮮明を尊ぶ蕪村として、從來の句に見られなかつた異例である。且つどこかスタイルがちがつて居り、句の心境にも芭蕉風の靜寂な主觀が隱見して居る。けだし晩年の蕪村は、この句によって一の新しい飛躍をしたのである。もしこれが最後の絕筆でなかつたならば、更生の蕪村は別趣の風貌を帶びたか知れない。おそらく彼は、心境の靜寂さにおいて芭蕉に近づき、全體としての藝術を、近代の象徴詩に近く發展させたか知れないのである。そしてこの臆測は、蕪村の俳句や長詩に見られる、その超時代的の珍しい新感覺――それは現代の新しい詩の精神にも共通してゐる――を考へ、一方にまた近代の浪漫詩人や明治の新體詩人やが、後年に至つて象徴的傾向の詩風に入った經過を考へる時、少しも誇張の妄想でないことを知るであらう。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「鄕愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」の掉尾。これは底本とした筑摩版全集第七巻校訂本文を用いた。「郷愁の詩人與謝蕪村」の本文は、蕪村の句を「白梅に明ける夜ばかりとなりにけり」としている点及び末尾「知るであらう。」を「知るのであらう。」としている点で劣ると判断したからである。なお、この句は天明三(一七八三)年十二月二十五日未明、蕪村臨終吟三句のうちの最後の作とされ、枕頭で門人の松村月渓が書きとめたものと伝える。前の二句は、

 

 冬鶯むかし王維が垣根哉

 

 うぐひすやなにごそつかす藪の霜

 

とされる(享年六十八歳。死因は心筋梗塞)のであるが、例えば私の所持する二冊の蕪村句集にはこれら三句はいずれも所収されていない。以上は総てネット上から採取したものである。]

蕭條として石に日の入る枯野哉 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

  蕭條として石に日の入る枯野哉

 句の景象してゐるものは明白である。正岡子規らのいわゆる根岸派の俳人らは、蕪村のこうした句を「印象明白」と呼んで喝釆したが、蕪村の句には、實際景象の實相を巧みに捉へて、繪畫的直接法で書いたものが多い。例へば同じ冬の句で

     寒月や鋸岩のあからさま
     木枯しや鐘に小石を吹きあてる

 など、すべていわゆる「印象明白」の句の代表である。そのため非難するものは、蕪村の句が繪畫的描寫に走つて、芭蕉のやうな澁い心境の幽玄さがなく、味が薄く食ひ足りないと言ふのである。しかし「印象明白」ばかりが、必ずしも蕪村の全般的特色ではなく、他にもつと深奥な詩情の本質してゐることを、根岸派俳人の定評以來、人々が忘れてゐることを責めねばならない。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」より。「喝釆」はママ。「喝采」が正しい。本文途中の二句は底本・親本ではポイント落ち。]

我も死して碑に辺せむ枯尾花 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

  我も死して碑に辺せむ枯尾花

 金福寺に芭蕉の墓を訪うた時の句である。蕪村は芭蕉を崇拜して、自己を知る者ただ故人に一人の芭蕉あるのみと考へてゐた。そして自ら芭蕉の直系を以つて任じ、死後にもその墓を芭蕉の側に竝べて立てさせた。この句はその實情を述べたものであるが、何となく辭世めいた捨離煩惱の感慨がある。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」の掉尾。「郷愁の詩人與謝蕪村」はこの後に「春風馬堤曲」の章と「附錄 芭蕉私見」が続くが、実質上の選句解の掉尾でもある。]

 春雨や小磯の小貝濡(ぬる)るほど 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

 

  春雨や小磯の小貝濡るほど

 

 終日霏々として降り續いてゐる春雨の中で、女の白い爪のやうに、仄かに濡れて光つてゐる磯邊の小貝が、惱ましくも印象强く感じられる。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「鄕愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。]

わかれることの寂しさ 大手拓次

 わかれることの寂しさ

 

あの人(ひと)はわたしたちとわかれてゆきました。

わたしはあの人(ひと)を別(べつ)に好(す)いても嫌(きら)つてもゐませんでした。

それだのに、

あの人がわたしたちからはなれてゆくのをみると、

あの人がなじみのやせた顏(かほ)をもつて去(さ)つてゆくのをおもふと、

わけもないものさびしさが

あはくわたしの胸(むね)のそこにながれてゆきます。

人(ひと)の世(よ)の 生(い)きてわかれてゆくながれのさびしさ。

あの人のほのじろい顏も、

なじみの調度(てうど)のなかにもう見えなくなるのかと思ふと、

さだめなくあひ、さだめなくはなれ、

わづかのことばのうちにゆふぐれのささやきをにごした

そのふしぎの時間(じかん)は、

とほくきえてゆくわたしの足(あし)あとを、

鳥(とり)のはねのやうにはたはたと羽(は)ばたきをさせるのです。

 

[やぶちゃん注:太字「はたはた」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 夏羽織

夏羽織   風呂敷に包んで持てり夏羽織

      老が身の短く着たり夏羽織

2013/06/29

何もすることがない。君は僕を当てにしていい。僕はそれを抱きとめる――

『何もすることがない。君は僕を当てにしていい。僕はそれを抱きとめる』――ジャック・リゴー

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 5 附江の島臨海実験所の同定

M117


図―117

 だが、日本の正餐のことに戻ろう。いくつかの盆の上にひろがったのを見た時、私は食物に対すると同様の興味を、それ等を盛る各種の皿類に対して持った。床に坐り、皿の多くを持ち上げては食うのは甚だ厄介であったし、また箸にはしよっ中注意を払っている必要があったが、すべてに関する興味と新奇さに加うるに激しい食慾があったので、誠に気持のよい経験をすることが出来た。油で揚げた魚と飯とは全く美味だった。各種の漬物はそれ程うまくなく、小さな黒い梅に至っては言語道断だった。大きな浅皿の上には、絹糸でかがった硝子の棒の敷物があった。棒は鉛筆位の太さがあり、敷物は長さ一フィートで、くるくると捲くことが出来る。これは煮魚のような食物の水気を切るには、この上なしの仕掛けである。図117はそれが皿に入っている所を示している。この装置は日本の有名な料理、即ち生きてピンピンしている魚を薄く切った、冷たい生の魚肉に使用される。生の魚を食うことは、我々の趣味には殊に向かないが(だが我々は、生の牡蠣(かき)を食う)、然し外国人もすぐそれに慣れる。大豆、大麦、その他の穀物を醱酵させてつくるソースは、この種の食物のために特別に製造されたように思われる。私はそれを大部食った。そして私の最初の経験は、かなり良好であったことを、白状せねばならぬ。だが、矢田部氏に至っては、一気呵成(かせい)、皿に残ったものをすべて平げて了った。坐って物を食うのは困難な仕事である。私の肘は間もなく疲れ、脚もくたびれて恐ろしく引きつった。私は、どうやらこうやら、先ず満腹という所まで漕ぎつけたが、若しパンの大きな一片とバタとがあったら(その一つでもよい)万事非常に好都合に行ったことと思う。図―118は、我々が食事を終えた時の、床の外見である。食事後我々は実験所に使用する場所をさがしに出かけ、家具の入っていない小さな建物を見つけた。我々はこれを一日三十セントで借りた。今晩、あるいは明日、我々は将来の大学博物館のために、材料の蒐集を始める。

M118

図―118

[やぶちゃん注:「図―118」には多くの手書きキャプションがあるが、私には判読出来ない。もう少し鮮明ならば判読が可能かもしれないと思われる方は、是非、“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback MachineにあるPDF画像で視認してみて戴きたい。よろしくお願い申し上げる。

「硝子の棒の敷物」竹製ではなく、しかも長さ30センチメートル(図から見るとガラス棒一本の長さの方が簀子としての幅よりも長いので恐らくはガラス棒の長さを言っているものと私は判断する)もある非常に太いガラス製の簀子である点、私は正直、この時代に、とちょっと吃驚した。

「我々は実験所に使用する場所をさがしに出かけ、家具の入っていない小さな建物を見つけた。我々はこれを一日三十セントで借りた。」以下、磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の第十章「江ノ島の臨海実験所」に非常に緻密な、この実験所の所在地についての考証があるので、詳細はそちらをお読み戴きたいが、それらの磯野先生のポイントを要約する。

 まず、モースに対して実験所の設置場所として、この江の島を推薦したのは本文に登場している植物学者矢田部良吉であったと推定されておられる。それは矢田部がこの明治一〇(一八七七)年『の一月に海藻の採取に来て実地を』よく知っていたことを挙げられ、また、江ノ島がモースの居留していた『横浜からも近く、外国人が自由に訪問できる「遊歩地域」内で、欧米人がよく避暑に訪れる場所だったことも考慮されたと思う』と記されておられる。この遊歩地域というのは、「外国人遊歩規定」のことを指す。これは江戸幕府が欧米列強と安政五(一八五八)年に結んだ安政五カ国条約の中の、外国人が外国人居留地から外出して自由に活動出来る範囲についての規定を指し、基本的には自由に行動出来る範囲の上限として開港場からの距離最大十里(約四十キロメートル)に定められていた。この条約の内、モースに適応されたアメリカ合衆国と結んだ日米修好通商条約(この条約の失効は日米通商航海条約の発効した明治三二(一八九九)年七月であった)の中では、その第七条の冒頭に(以下、引用は参照したウィキの「外国人遊歩規定」より)、

第七條

 日本開港の場所に於て亞墨利加人遊歩の規程左の如し

 ・神奈川 六郷川筋を限とし其他ハ各方へ凡十里

とある。六郷川は現在の多摩川のことで、この東方向は首都江戸東京のセキュリティのためか、原則から外れて例外的に半分の約五里(二十キロメートル弱)であった。但し、『この規定によって、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域の外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も内地旅行免状が必要であった』とあり、モースの場合はまさに「学問研究目的」で、彼が相当に自由な行動をとっていることからも恐らくは特別な汎用可能の「内地旅行免状」を所持していたものと思われる。『この制限は、攘夷運動など幕末の秩序混乱の時期にあって外国人に危害を加えようとする者との接触を極力避ける目的で設けられた。明治維新によって新政府が成立したのち、列強は居留地外での行動の自由、さらには内地開放を望んだが、その一方で日本では、外国人に対し遊歩規定等を厳格に守らせることにより、不平等条約が列強側にとっても不便であることを痛感させることによって、条約改正に際して、より日本側に有利な条件を引き出そうとする現行条約励行運動(ないし現行条約励行論)を生んだ』。モースに関係する横浜開港場においては、『その西の限界は小田原の東、酒匂川東岸となっていた』とある。

 実験施設として借りた小屋の一日の賃貸料が「三十銭」とあるが、これは非常な高額である。当時は米一〇キログラムが五〇~三七銭、かけ蕎麦一杯が 八厘、大工の一日の手間賃が四五銭の時代で、磯野先生の叙述には、『当時は、東京でも月三~一〇円で建坪二〇坪ほどの二階屋が借りられた』とあり、『月九円はあきれるほど高い借り賃』と断じておられる。場所柄、ただの漁師の船小屋(だから後に見るように相応の大きさがあるのであろう)と考えられ、先生の評言は正しい。

 それではこの江ノ島臨海実験所の正確な位置はどこであったか。これについて、磯野先生は当該書の88頁から90頁にかけて、ピーボディ博物館蔵のモースの日記に記された江ノ島の略図(これは本書の「第六章 漁民の生活」の冒頭に配された「図―146」と酷似する。但し、図―146が絵のみであるのに対し、磯野先生が紹介されている図には“YENOSHIMA”、“Our Zoological Station”(「動物学研究所」の意)といったキャプションが記されてある。但し、当該書の当該図は小さく、筆記体の手書きで判読は極めて難しい。磯野先生が丁寧に日本語に訳されておられるので――例えば次の臨海実験所平面図の中の「点線は石垣を示す」等――私などは辛うじて理解出来るものである。なお、この「図―146」に私が臨海実験所の位置を書き入れたものを以下に示しておくので参照されたい)及び臨海実験所平面図、さらにそれに対応するような江ノ島の古地図2枚(何れも現在の旅館岩本楼が所蔵する文化三(一八〇六)年と明治七(一八七四)~十一(一八七八)年の五年間の間で作成された地図。因みにこの岩本楼はモースの江の島滞在中の宿でもあった。モースは前に『富士山の魅力に富んだ景色がしばしば見られた。かくもすべての上にそそり立つ富士は、確かに驚く可き山岳である』と富士山を絶賛しているが、磯野先生の叙述にはこの岩本楼が『海の彼方に富士を望む場所にあり、その景色の良さがモースの気に入ったの』であると附言しておられる)を掲げて、臨海実験所の同定をなさっておられる。少しく細部を引用させて戴くと、まず、『この小屋の広さは二間×三間の六坪と思われ』(約三・六×五・五メートルで、一坪を畳2畳と換算すると12畳間に相当する。ラボラトリーとしては決して大きいとは言えない)、『海に面した二箇所に窓があり、また海側に石垣が組まれていたこともわかる』とされ、本書の「第六章 漁民の生活」の図―151によって、『たしかに石垣があり、海側に突き出ているようすがはっきりする』とある。なお、この実験所の画像としてはもう一枚、やはり「第六章 漁民の生活」の冒頭に図―147があって、これによって、この実験所は海に突き出た人工の石垣上(この部分は全くの人工ではなく、古地図の地形から見る限りでは、ここら辺りから張り出した南に伸びる海食台があってそれを人工的に護岸したものではないかと思わせる。その北の端の、まさに角縁に実験所はあったのである。そのために東と北の二方向が海になることになるのである)に建っており、2間の東に面した海側に一箇所、3間の北に面した海側に一箇所、長方形の窓(描き方から見ると長方形に開いた窓の中に左右に2本の柱が立ち、例えば左右に雨戸を嵌めると中央に正方形の窓が出来るもののように私は推測する)が附いていることが分かる(以下に図―147及び151をも示しておく)。

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図―146
[やぶちゃん注:江の島の図。三箇所の書き入れは磯野先生が示された日記を参考に私藪野直史がオリジナルに入れたものである。]

M147

図―147
[やぶちゃん注:モースの同部分での叙述及び磯野先生が再構成なされたモースの江の島での日録によれば、恐らくこれは実験所の改装完了当日の絵である。改装落成に快哉したモースであったが、まさにこの当日の7月26日には大型台風が襲来、『採集研究どころではなく、実験所に運び入れたばかりの品々をすべて宿』(岩本楼)『へ持ち帰る騒ぎとな』ったとあり、その風雨の中の臨海実験所の様子を心配して見に行き、その様子を描いたものが、実にこの絵なのである。]

M151

図―151

 磯野先生の考証の結果、当時の実験所のあった所番地は『神奈川県第十六区五小区八十六番地』で(因みに当時の江の島は藤沢宿の領域ではなく、鎌倉の域内であった。実はこの翌年の明治一一(一八七八)年に郡区町村編制法が実施されており、その時、藤沢は高座郡となって高座郡郡役所が置かれているが、この時も江の島は鎌倉郡江島村となっている。その後、遙か昭和八(一九三三)年になって町制施行しても鎌倉郡片瀬町で、昭和二二(一九四七)年になってやっと鎌倉市(鎌倉は昭和一四(一九三九)年十一月に鎌倉町と腰越町が合併して市制を施行、鎌倉市となっていた)から藤沢市へ編入合併されて現在の通りの藤沢市片瀬の一部となったのである)、これは『近年の地番改正によって現在の「江の島一丁目六ー―三二」になったことを明らかにできた』と遂に探り当てておられるのである。現在の当該神奈川県藤沢市江の島1目6―32の地図をリンクする(リンク先は「マピオン」。スケールを最小の1/1500に上げると、明確な位置が把握出来る)。なお、モースの記念碑(付属プレートには「日本近代動物学発祥の地」というキャプションが附されている。山本正道作の研究中のモースとそれを興味深げに見る三人の児童のレリーフ)はこの位置からほぼ北へ一〇〇メートルほど離れた江の島大橋の江の島に向かって直ぐ左手下方、オリンピック記念公園内の橋寄りの西北の隅に設置されている。現在の正しい同定地は民家が立て込んでいたためと磯野先生の解説にある(小さいが一昨年に私が携帯で撮った記念碑の写真を以下に示す)。

20120106130742

[エドワード・S・モース記念碑]

 これについて磯野先生は『この公園の場所はモースが訪れた頃は海のなかであり』、『まさにモースがシャミセンガイを採集したあたりなので、モースはかえって喜んでいるかもしれない』と述べておられ、私も同感である。

 この他にも藤沢市が設置したモース臨海実験所跡の記念プレートが江の島一丁目六―二一東南隅地にあるという記載が磯野先生の記述に現われるが(私も見た記憶はある)、これについてはやや不審な点があるので、いつか個人的に実地調査をしようと思っている。その時はここに注を追加したいと考えている。

 なお、モースはこの小屋を借りた際、同時に内部の改装も依頼している旨、磯野先生の記載にある。]

凧きのふの空の有りどころ 蕪村 萩原朔太郎 (評釈) 

  凧(いかのぼり)きのふの空の有りどころ

 

 北風の吹く冬の空に、凧が一つ揚つて居る。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚つて居た。蕭條とした冬の季節。凍つた鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまく風。硝子のように冷たい靑空。その靑空の上に浮んで、昨日も今日も、さびしい一つの凧が揚つて居る。飄々として唸りながら、無限に高く、穹窿の上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂つて居る!

 この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクが現はれて居る。「きのふの空の有りどころ」という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれて居ることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがつた空に、いつも一つの同じ凧が揚つて居る。即ち言えば、常に變化する空間、經過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメーヂ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在しているのである。かうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーフを表出した哲學的標句として、芭蕉の有名な「古池や」と對立すべきものであらう。尚「きのふの空の有りどころ」といふ如き語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であつて、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外國と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じやうな歐風抒情詩の手法を持つて居たといふことにある。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「冬の部」の巻頭。初出の『生理』の「5」(昭和一〇(一九三五)年二月刊)では(異同部下線はやぶちゃん)、

   *

即ち言えば、常に變化する空間、經過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメーヂ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上実在しているのである。

   *

蕪村の不思議は、外國と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じやうな歐風抒情詩のポエヂイや手法を持つて居たといふことにある。

   *

となっている。

 私の好きな一句であり、芥川龍之介はこの句を、

 

   木がらしや東京の日のありどころ

 

とインスパイアしている(と私は思う)。]

をとめの顔 大手拓次

   木製の人魚

 をとめの顏

あなたのかほは けだかい佛像のやうに
そうそうとしたひかりのわなにかこまれ、
おもはゆげにふしめして、
あかるくわたしの腕をてらす。

鬼城句集 夏之部 生湯

生湯    御佛目鼻もなくて生湯かな

[やぶちゃん注:「生湯」陰暦四月八日の釈迦の誕生日に誕生仏を安置し、甘茶(ミズキ目アジサイ科アジサイ属ガクアジサイの変種アマチャ Hydrangea macrophylla var. thunbergii)またはスミレ目ウリ科アマチャヅル Gynostemma pentaphyllum の葉を乾燥させて煎じ出した飲み物で甘露〈梵語アムリタの漢訳で不死・天酒の意。天上の神々の飲む、忉利天(とうりてん)にあるという不死を得るとされる甘い霊液。ネクター。転じて仏の教えや仏の悟りを意味するものとなった〉に擬えたもの)を注ぎかけて供養する仏生会(灌仏会)のこと。歳時記によっては春・晩春とする。]

王漁洋 広州竹枝詞 中島敦訳詩

南のまちの         遊妓(あそびめ)の

あら異(こと)やうの    髮のさま

遊びて    醉ひて    春の夜の

靑樓にして         臥しにけり

小夜ふけ床(どこ)に    ふと覺めぬ

何の甘さぞ         この匂

傍(かた)へなる妓(こ)が 黑髮に

ジャスミンの花       我は見つ

 

 ※雲盤髻簇宮鴉

 一綫紅潮枕畔斜

 夜半髮香人夢醒

 銀絲開徧素馨花

  王士正「廣州竹枝」

 

[やぶちゃん注:「※」=「髪」-「友」+「春」。「王士正」は清初の詩人王士禎(一六三四年~一七一一年)。本来は「士禛(ししん)」という名であったが、死後に雍正帝が即位しその諱が「胤禛」であったために「士正」と改名された。後の乾隆帝の治世に「士禎」の名を賜ったが、現在は号を以って王漁洋と称されることも多い。

「竹枝」竹枝詞。以下、「竹枝詞 概説 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩」(このサイトは私が最も素晴らしいと思うネット上の漢詩サイトである)によれば、元は民間の歌謡で楚に生まれたものと伝えられる。唐代の北方人にとっては楚は蛮地でもあり、長安の文人には珍しく新鮮に映ったようである。そこで、それらを採録・修正したものが劉禹錫や白居易によって広められて竹枝詞と呼称されるようになり、地方色豊かな民歌として流行った。その後、唱われなくなったが(竹枝詞をうたうことは「竹枝」といわれ「唱」が充てられた)、詩文の、同様の形式や題となって他へ広がった。形式は七言絶句と似ているものが殆どである(二句だけの二句体や六言のものなどもある)。『竹枝を七絶と比較して見てみると、七絶との違いは、平仄が七絶より緩やかであって、あまり気にしていない。謡ったときのリズム感を重視するためか、同じことば(詩でいえば「字」)が繰り返してでてくることが屡々ある。また、一句が一文となっている場合が多く、近体詩の名詞句のみでの句構成などというものはあまりない。聞いていてよく分かるようになっている。これらが文字言語としての詩作とは、大きく異なるところである。また、白話が入ってくることを排除しない。皇甫松や孫光憲のものには、「檳榔花發竹枝鷓鴣啼女兒」のように、「竹枝」「女兒」という「あいのて」があるのも大きな特徴である』。『共通する点は、節奏は、七絶のそれと同じで、押韻も第一、二、四句でふむ三韻。この形式での作詞は根強く、現代でも広く作られている。現代の作品は、生活をうたった、典故を用いない、気軽な七絶という雰囲気である』とあり、更に『竹枝詞の内容は、男女間の愛情をうたうものが多く、やがて風土、人情もうたうようになる。用語は、伝統的な詩詞に比べ、単純で野鄙であり、典故を踏まえたものは少ない。その分、民間の生活を踏まえた歌辞(語句)や、伝承は出てくる。対句も比較的多い。男女関係を唱うものは、表面の歌詞の意味とは別に裏の意味が隠されている。似たフレーズを繰り返した、言葉のリズム、言葉の遊びというようなものが感じられる。また、(近現代の作品を除き)中国語で読んだときにすらっとしたなめらかな感じがあ』って、『これらの特徴は、太鼓のリズムに合わせ、楽器の音曲にのり、踊りながら唱うということからきていよう』と記されておられる。実作例はリンク先の下方に豊富に示されてあるので必見。]

2013/06/28

僕が今欲しいもの

小さな頃――詩的に夢と恐怖を育んで呉れた――「小学館の図鑑」――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 4

 江ノ島は切り立ったような島で、満潮時には水の下になる長い狭い砂洲で、陸地とつながっている。この島は突然見える……というのは、陸地を離れる直前に、我々は長い砂丘を登るので、その頂に立つと江ノ島が海中に浮び、太平洋から押しよせる白波でへり取られた砂浜と共に人の目に入る。この長い砂洲を横切る時、私は初めて太平洋の海岸というものを見た。私は陸上に見るべきものが沢山あるので、それ迄海岸を見ることを、私自身に許さなかったのである。私が子供の時、大切に戸棚に仕舞っておいたり、あるいは博物館でおなじみになったりした亜熱帯の貝殻、例えば、たから貝、いも貝、大きなうずらがい、その他の南方の貝を、ここでは沢山拾うことが出来る。これ等の生物の生きたのが見られるという期待が、如何に私を悦ばせたかは、想像出来るであろう。江ノ島の村は、一本の急な狭い道をなして、ごちゃごちゃに集っているのだが、その道は短い距離をおいて六段、八段の石段がある位、急である。幅は十フィートを越えず、而も木造の茶屋が二階、あるいは三階建てなので、道は比較的暗い。これに加うるに板でつくった垂直の看板、いろいろな形や色をした、これも垂直な布等が、更に陰影を多くするので、道路の表面には決して日が当らず、常にしめっている。路の両側には店舗がぎつしり立ち並んでいて、その多くでは貝殻、海胆(うに)その他海浜で集めたいろいろな物でつくつた土産物を売っている。私は日本の食物で暮すことに決心して、昼飯は一口も食わずに出て来たのであった。一軒の茶屋に入って、部屋に通されると、我々は手をたたいた。これは召使いを呼ぶ普通な方法で、家が明け放しだから、手をたたくと台所までもよく聞える。召使いは「ハイ」と長くひっぱって答える。部直には家具その他が全く無く、あるものは只我々と旅行鞄とだけであった。必ずお茶、次に風味のない砂糖菓子とスポンジ・ケーク(かすてら)に似たような菓子が運ばれた。これ等は我国では、最後に来るのだが、ここでは最初に現われる。我々は床に坐っていた。私は殆ど餓死せんばかりに腹が空いていたので、何でも食う気であった。娘達が何かを差出すごとに、膝をついてお辞儀をする、そのしとやかな有様は、実に典雅それ自身であった。しばらくすると、漆器のお盆にのって食事が出現したが、磁器、陶器、漆器の皿の数の多さ! 箸は割マッチみたいにくっついていて、我我のために二つに割ってくれたが、これはつまり、新しく使い、そして使用後は折ってすてて了うことを示している。箸は図116のようにして片手で持つ。一本は拇指と二本の指とではさみ、物を書く時ペンを動かすようにして前後に動かす。もう一本の箸は薬指と、拇指と人差指との分れ目とで、しつかり押えられる。私はすでに、一寸箸を使うことが出来るようになった。これ等二本の簡単な装置が、テーブル上のすべての飲食用器具の代用をする。肉はそれが出る場合には、適宜の大さに切って膳に出される。スープは、我々の鉢に比べれば、小さくて深くて蓋のある椀に入っている。そして液体は飲み、固形分は箸でつまみ上げる。飯も同様な椀に入っていて、人はその椀を下唇にあてがって口に押し込む。だが、飯には、箸でそのかたまりをつまみ上げることも出来る位、ねばり気がある。飯櫃の蓋は、飯椀を給仕する時、よくお盆として使われる。料理番は、金網や鍋の食物をひっくり返すのに、金属製の箸を使用する。火鉢で使う箸は鉄か真鍮で、一端に環があって連結している。細工人は懐中時計を組み立てるのに細い箸を使う。往来の塵ひろいは、長さ三フィート半の竹の棒を二本持っていて、これで紙屑を拾い、背中にしよった籠の中に入れる。私は一人の老婦人が貝で花をつくるのを見たが、こまかい貝殻をつまみ上げるのに、我々が鑷子(ピンセット)を使用する所を、彼女は精巧な箸の一対を用いていた。若し我国の軍隊で箸の使用法を教えることが出来たら、兵隊の背嚢からナイフ、フォーク、スプーンを取り除くことが出来る。入獄人は一人残らず箸の使い方を教えらるべきである。公共の場所には、必ず箸が備えらるべきである。

図―116

[やぶちゃん注:「たから貝」原文は“Cyprӕa”(“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback MachineにあるPDF版による。“æ”は A E の合字で、中世ヨーロッパに於いて古典ラテン語の二重母音 AE を合字として綴るようになったのを起源とする特殊文字)。現在の“cypraea”は腹足綱直腹足亜綱Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科タカラガイ属 Cypraea の属名で、典型的なタカラガイ類を示す単語である。

「いも貝」原文“Conus”。腹足綱新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属Conus の属名。

「大きなうずらがい」原文“a big Dolium”。腹足綱前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ科ウウズラガイ Tonna perdix。ナマコを捕食する貝として知られ、生体は外套膜が非常に大きい。「沖縄美ら海水族館」の公式サイト内のナマコを食べる貝で生貝の画像を見られる。

「十フィート」約3メートル。

「風味のない砂糖菓子」原文“a flavorless candy”。落雁か?

「スポンジ・ケーク(かすてら)に似たような菓子」「(かすてら)」はルビではない。原文は“and cake, not unlike sponge cake,”で、この「(かすてら)」は訳者石川氏の注である。

「割マッチ」原文“a split match”。今でも見られる“book match”(ブックマッチ)のこと。二つ折りのカバーに紙マッチを挟み込んだもので、一本ずつはぎとって使うタイプのマッチである。

「鑷子(ピンセット)」「(ピンセット)」はルビ。音読みすると「じょうし」又は「ちょうし」と読む。金属製の毛抜きのこと。]

M116

萩原朔太郎「芭蕉私見」初出と「郷愁の詩人 與謝蕪村」に附録された同「芭蕉私見」の冒頭部比較

(萩原朔太郎「芭蕉私見」初出の冒頭部分)

 

 芭蕉私見

 

 僕は少し以前まで、芭蕉が嫌ひであつた。ただ不思議なことに、蕪村だけは昔から好きであつた。蕪村以外には、一般に俳句といふものを毛嫌ひして居た。その理由は、おそらく俳句の詩情してゐる東洋的の枯淡趣味や低徊趣味やが、僕の氣質的な性情と反潑するためであつたのだらう。蕪村だけが好きだつたのも、つまり蕪村の詩情に、萬葉風なロマンチシズムや靑春性があり、その點で他と異つて居た爲なのだらう。友人の室生犀星君や芥川龍之介君は、僕とちがつて俳句が好きで、且つ自分でも常に句作をし、逢へば芭蕉論などをして居たけれども、僕には全く興味がなく、俳句の話になるといつも橫を向いて欠呻をして居た。
 芭蕉に限らず、一體に俳句といふものが嫌ひであつた。しかし僕も、[やぶちゃん注:以下、略。注記参照。]

 

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」の冒頭の一段落。筑摩版全集第七巻の巻末に載る「校異 郷愁の詩人 與謝蕪村」の記載に従って復元した。「反潑」「欠呻」はママ。後の昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では以下のように大幅にカットされて、本来の二段落目がそのままジョイントしている。

   *

  芭蕉私見

 

 僕は少し以前まで、芭蕉の俳句が嫌ひであつた。芭蕉に限らず、一體に俳句といふものが嫌ひであつた。しかし僕も、最近漸く老年に近くなつてから、東洋風の枯淡趣味といふものが解つて來た。或は少しく解りかけて來たやうに思はれる。そして同時に、芭蕉などの特殊な妙味も解つて來た。昔は芥川君と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつたのだが、今では僕も芭蕉フアンの一人であり、或る點で蕪村よりも好きである。年齡と共に、今後の僕は、益 芭蕉に深くひき込まれて來るやうな感じがする。日本に生れて、米の飯を五十年も長く食つて居たら、自然にさうなつて來るのが本當なのだらう。僕としては何だか寂しいやうな、悲しいやうな、やるせなく捨鉢になつたような思ひがする。

   *

私は近い将来、この「芭蕉私見」の初出形を完全復元してみようと思っているが――ともかくも――
『友人の室生犀星君や芥川龍之介君は、僕とちがつて俳句が好きで、且つ自分でも常に句作をし、逢へば芭蕉論などをして居たけれども、僕には全く興味がなく、俳句の話になるといつも橫を向いて欠呻をして居た』
という初出と、
『昔は芥川君と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつた』
という朔太郎の高慢な物謂いには、同じシークエンスとは思えない違和感がある。真実は初出である。気儘我儘で嫌いなために碌な知識もなく欠伸さえこいていた朔太郎が、芭蕉をキリスト・レベルまでディグし得た(と私は思っている)龍之介『と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつた』などというシチュエーションは、逆立ちしても、考えられぬ。『いつも橫を向いて欠呻をして居た』のが朔太郎の真実であったと私は言い切る。朔太郎は四十九になっても、どこかで万年少年の自己肥大を起こしているのである。……まあ、私も自己肥大についちゃあ……こんな朔太郎なんぞ、ものの数じゃあ、ないが、ね……]

指頭の妖怪 大手拓次

 指頭の妖怪

 

あをじろむ指のさきから、

小鳥がまひたつてゆく。

ぎらぎらにくもる地面(ぢめん)の床(とこ)のうへに、

片足でおとろへはてながら、

うづまきながらのしかかつてくる。

まつくろな蛇の腹のやうな太鼓のおとが

ぼろんぼろんとなげくのだ。

わたしのあをじろむ指のさきからにげてゆく月夜の雨、

毛ばだつた秋の果物(くだもの)のやうな

ふといぬめぬめとした頸(くび)をねぢらせ、

なまめく頸をねぢらせ、

秋のこゑをつぶやき、

秋のつめたさをおさへつける。

ぼろんぼろんとやぶれた魂の絲をかきならし、

熱く、ものうく、身をかきむしつて、

さびしい秋のつめたさをおさへつける。

まがりくねつた この秋のさびしさを、

あやしくふりむけるお前のなまなましい頸のうめきに、

たよりなくもとほざけるのだ。

しろくひかる粘液をひいて、

うねりをうつお前の頸に

なげつけられた言葉の世にも稀なにほひ。

ぼろんぼろんと

わたしの遠耳にきこえてくるあやしい太鼓のおと。

[やぶちゃん注:太字「ぬめぬめ」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 鵜飼

鵜飼    じやぶじやぶと鵜繩ひく子や叱らるゝ

[やぶちゃん注:「じやぶじやぶ」は底本では、最初の「じ」が「志」の崩し字に濁点附き、「じやぶ」の後半は踊り字「〱]。]

      鵜飼の火川底見えて淋しけり

2013/06/27

栂尾明恵上人伝記 44

 又天竺魯崎那(ろきな)國に大山あり。山頂より下る事五六十里の外に巡りて山あり。形きびしき墻(かきね)の如し。先聖修道(せんしやうしゆだう)の靈跡多く、香華(かうけ)・名草(めいさう)充滿せり。西北は師子國に連なり、其の外は皆大海なり。國の人羅婆那城(らばなじやう)に准(なぞら)へて是を楞伽山(りようがせん)と名づく。山の頂に三の圓石あり、高さ四五尺、廣さ二丈計りなり。如來の御足(みあし)の跡其の上にあり。金剛智三藏其の遺跡を尋ね見給ふに、文影損缺せり。佛跡に非ざるかと疑ふ。時に五色の雲靄(たなび)きて、其の中に圓光あつて佛跡を照らす。其の時に輪相分明(りんさうぶんみやう)に顯現す。空中に聲有りて告げて云はく、是れ誠の佛跡なり。如來將來の衆生の爲に此の跡を留め置き給へりと云々。三藏其の聲を周くに歡喜の泪(なみだ)せきあへず、此の事思ひ出されてうらやましければ、此の定心石の奧に大盤石あり、其の石の上に佛の御足の跡を彫り付けて供養をなし給ふ。仍て遺跡窟(ゆゐせきくつ)と名づく。
  滿月の面を見ざる悲しさに巖の上に足をこそすれ

 上人或る時讀み給ひける
  生死海に慈悲の釣舟(つりふね)出でにけり漕ぎゆくおとは弱吽鎫斛(じやくうんばんこく)
[やぶちゃん注:「弱吽鎫斛」平泉洸全訳注「明惠上人伝記」の訳文では『四摂菩薩の種子』とある。四摂菩薩とは人々をすくい取る役目を担う四菩薩で、金剛鉤菩薩・金剛索菩薩・金剛鎖菩薩・金剛鈴菩薩を持っており、鉤を掛け、索で捕まえ、鎖で縛りって人々を救いとり、鈴で人々の心を歓喜させることを表象するという。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 22 / 了

 逗子 蘆花氏が小説不如歸(ほとゝぎす)を著して以來、逗子の名は一度にどつと擴がつて、只に自然の風致や、天然の艮氣温に富んだと云ふのみでない、川島武夫と浪子との情緒の密なりしを想ふと共に又如何に悲哀の歷史を作りし浪切不動を探るべく此逗子ケ濱に杖を曳くものは、鎌倉に劣らぬ程數多いのである。鎌倉驛より横須賀線を東に進む約十分間にて、逗子驛に達す。停車場前には常に數十輌の人力車が倂立してゐる。此外尤も安直に便利な數臺の乘合馬車が、列車の着驛毎に、葉山方面と金澤方面とに發車する、俗に「ガタ馬車」と云ふが中々に重寶である。

[やぶちゃん注:「蘆花氏が小説不如歸を著して以來」徳富蘆花の「不如帰」は明治三一(一八九八)年から翌年にかけて「国民新聞」に掲載され、明治三三(一九〇〇)年一月に民友社から初版が出て以来、本書刊行の三年前の明治四二(一九〇九)年三月には百版を重ねた。その後は民友社版だけでも五十万部を突破、日露戦争が始まった明治三七(一九〇四)年には早くもアメリカとイギリスで同時に英訳本“Nami-ko”も出版されている。参照した個人ブログ「古書の森日記 by Hisako 古本中毒症患者の身辺雑記」の「世界に羽ばたいた日本のヒロイン(1)」Hisako 氏は、『それほど日本で売れに売れた『不如帰』は、世界のさまざまな言語に翻訳されている。おそらく、日本の古典を除く(明治当時の)“現代文学”の中で、最も早く外国でも読まれたのがこの『不如帰』ではないか』と述べておられる。]

 又七月一日より運轉を開始したる湘南遊覽自働車は、目下逗子・葉山間、逗子・金澤間を運轉してゐる。遊覽避暑地は兎角に交通不便の地多きを感ずるに、此地に於てかゝる完全なる交通機關を見るのは同地發展の爲め大に喜ぶべき事である。而して此乘合自働車は六人乘りで末々は三浦三崎の半島は勿論、藤澤、鎌倉、戸塚、厚木邊にまで延長するとの事である。

[やぶちゃん注:「自働車」はママ。

「湘南遊覽自働車」不詳。ウィキの「神奈川中央交通」の創業期の項に、二〇〇九年現在の神奈川中央交通が主な営業エリアとしている神奈川県中央部に乗合自動車が走り始めたのは、明治四三(一九一〇)年に佐藤某が設立した合資会社による、厚木と平塚を結ぶ幌つき自動車による路線の開設に端を発するとあり、これに続くように、翌明治四四年には相陽自動車が車両三台で秦野と平塚を結ぶ路線の運行を開始している。しかし、乗合馬車や人力車の方が安かったことや、道路が悪く運転技術も未熟だったことなどから、いずれも一年程度で廃業となっていると記されている。営業域は一致しないが、本書の刊行が明治四五年である点では、すこぶる共時的ではある。]

 逗子停車場を降りて、鎌倉銀行支店前を右折して進めば丁餘にて逗子郵便局がある。郵便局前を右に進めば田越村久木を經て名越隧道より鎌倉に至るのである。更に左に進めば玆處は葉山を通じて三崎に至る往還である。此逗子局前を過ぎて進む事三丁餘にて雪白に塗り上げられた田越橋がある。此橋下を流るゝのが、實に懷古に堪へない田越川である。

 田越川は沼間、池子より流れ來つて、旗亭養神亭前に至りて、海に注ぐのである。小松三位中將維盛の嫡男六代御前が、文治元年秋、北條時政に捕へられて、危く斬り果たされんとしたるを、文覺上人に依つて助けられ、剃髮して、高雄の奧にをはしけるを鎌倉殿に召し捕へられ、此田越川のほとりにて、あたら命を害されて草葉の露と消へられたのである。今尚ほ此川のほとりに六代御前の墓と刻まれた碑ある塚がある。

 田越橋を渡りて川に沿ふて進む數丁、右に富士見の假橋を渡れば、逗子灣に面せる宏壯なる建物がある。之れ即ち同地有數の旗亭養神亭である。

 現在二千餘坪の庭園は、逗子の風光を獨占して、自然の風致到らざるなく、當さに園遊會場として、湘南唯一の好適地であらう。旗亭に登りて巾廣き廊下を傳ひ、淸洒たる海水温浴場を左に見て進めば、玆處は同亭獨特の百疊座敷である。入口階段の左に幹事室あり、正面大廣床に相對して、演藝舞臺の設備等萬事に就きて行屆いてゐる。

 殊に純日本式で廻廊悉く玻璃障子にて東は田越川を隔てゝ、蜒々たる櫻山を望み西廊下に出づれば、廣漠たる大庭園を前にして、烟波漲る相模洋に面し、右は突出せる大崎ケ鼻を隔て、近く江の島の翠黛を指顧の中に眺めて、遙かに富峯の寛容を仰ぎ、左には鳴鶴ケ崎を界して、遠く雲間に翠色烟波と相映ずる大島を見て、眞に一幅の畫圖の樣である。尚ほ避暑避寒に適する樣にと種々なる嗜好を凝した各種の間取りを爲し、就中娯樂場として玉突場、蓄音機其他の餘興機關の具備してあるのは申分がない。

 盛夏期に到れば庭先に沿ふたる白砂に數箇の脱衣場が設けられ、海上には救護舟を浮べて海水浴客の便を圖つて居る。養神亭前を經て更に進む三四丁餘左は櫻山に沿ひ右に田越川の川口を隔てゝ大崎ケ鼻、浪切不動等を見て、だらだらと切通しの小坂を登り詰めて、左り海岸に下れば玆處は鳴鶴(なきつる)ケ鼻と云ひ、右に平田男の別莊を見て左側に旅館日蔭の茶屋がある。此邊より葉山の部落に入るのである。

[やぶちゃん注:完全無欠の養神亭タイアップである。]

 逗子附近には、小坪に住吉城址がある。永正年間上杉顯定の家老長尾爲景が、主顯定を課せんとて薮旗を飜した時、北條早雲が聲援して此城に降した事があると傳られてゐる。沼間には天臺宗の神武寺がある。

 葉山 逗子と相幷んで避暑避寒の好適地である。殊に一帶の長汀曲浦は或は平沙連りて潔く、或は奇巖突出して激浪を嚙んで白沫煙ると思へば、碧波洋々として碧瑠璃のそれの如きあり、且つ江の島を前にして魏然として雲表に資ゆる富嶽を眺めて眞に得も言難き自然の絶景である。此自然の風光に富んで居る其上に冬期は暖かに夏期は涼しいと言ふのであるから、朝野の貴顯紳商の此地に來り、或は淸洒に或は宏壯に思ひ思ひに山手と言わず海岸と言わず各々地を撰んで續々別莊の建築を見るのも無理はない。實に御用邸を此地に選ばれ、畏くも御避暑に御避寒に年々歳々御行啓あらせらるゝを拜するこそ眞に葉山の光榮なれ。

 葉山の舊蹟 字堀の内に至り森戸橋を渡れば右に大理石に疊まれた大鳥居がある。即ち森戸神社である。境内は頗る眺望絶佳にて千貫松、腰掛松、高石等がある。又鎧橋の海岸に鎧摺(よろひづり)城趾あり。上山口には猪俣範綱の碑木古庭畠山には畠山六郎重保の城趾がある。

[やぶちゃん注:底本には、最後に『(別荘一覧以下省略)』とあって終わっている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 3

 南へ行くに従って、江ノ島まで位の短い内であっても、村々の家屋に相違のあるのが認められる。ある村の家は、一軒残らず屋根に茂った鳶尾(とんび)草を生やしていた。この人力車の旅は、非常に絵画的であった。富士山の魅力に富んだ景色がしばしば見られた。かくもすべての上にそそり立つ富士は、確かに驚く可き山岳である。時々我々は花を頂いた、巨大な門を通りぬけた。茶庭や旅籠屋には、よく風雨にさらされた、不規則な形をした木片に、その名を漢字で書いたものが看板としてかけてある。我々の庭で栽培する香のいい一重の石竹が、ここでは路傍に野生している。また非常に香の高い百合(Lilium Japonicum)を見ることも稀でなく、その甘ったるい、肉荳蔲(にくずく)に似た香があたりに漂っている。

[やぶちゃん注:「鳶尾草」原文は“iris”。単子葉類キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum の別名で「とびおぐさ」とも読む。イチハツ(一初)は中国原産の多年草帰化植物で、古く室町時代に渡来して観賞用として栽培されてきた。昔はここに記されたように農家の茅葺屋根の棟の上に植える風習があったが、最近は滅多に見られない(私は三十五年前、鎌倉十二所の光触寺への道沿いにあった藁葺屋根の古民家の棟に開花しているのを見たのが最後であった)。種小名“tectorum”は、「屋根の」の意で、和名はアヤメの類で一番先に咲くことに由来する(主にウィキの「イチハツ」に拠った)。私はここを読むと、この23年後に来日した小泉八雲の「日本瞥見記」(HEARN, LafcadioGlimpses of unfamiliar Japan2vols. Boston and New York, 1894.)の、まさに「第四章 江の島行脚」が思い出されてならないのである。平井呈一先生の名訳でその冒頭を紹介したい(底本は恒文社一九七五刊の「日本瞥見記(上)」を用いた)。

   《引用開始》

 第四章 江の島行脚

        一

 鎌倉。

 木の茂った低い丘つづき。その丘と丘のあいだに、ちらほら散在している長い村落。その下を、ひとすじの堀川が流れている。陰気くさい寝ぼけた色をした百姓家。板壁と障子、その上にある勾配(こうばい)の急なカヤぶき屋根。屋根の勾配には、何かの草とみえて、緑いろの斑(ふ)がいちめんについている。てっぺんの棟のところには、ヤネショウブが青々と繁って、きれいな紫いろの花を咲かせている。暖かい空気のなかには、酒のにおい、ワカメのお汁(つけ)のにおい、お国自慢の太いダイコンのにおいなど、日本の国のにおいがまじっている。そして、そのにおいのなかに、ひときわかんばしい、濃い香のにおいがただよっている。――たぶん、どこかの寺の堂からでもにおってくる抹香のにおいだろう。

 アキラは、きょうの行脚のために、人力車を二台やとってきた。一点の雲もない青空が、大きな弧を描いて下界をかぎっており、大地は、さんさんたる楽しい日の光りに照らされている。それでいながら、われわれが、屋根草のはえた貧しい農家のあいだを流れている小川の土手にそうて、俥を走らせて行く道々、何とも名状しがたい荒涼とした悲愁の思いが、胸に重くのしかかってくるのは、この荒れはてた村落が、かつては将軍頼朝の大きな都どころ――貢物(みつぎもの)を強要にきた忽必烈(クビライ)の使者が、無礼をかどに斬首された、あの封建勢力の覇府の名ごりをとどめいるところだからである。今ではわずかに、当時の都にあまたあった寺院のうち、おそらくは高い場所にあったためか、あるいは境内が広く、深く木立でもあって、炎上する街衢(がいく)から離ていたためかで、十五、六世紀の兵燹(へいせん)を免れて現存しているものが、ほんのいくらかあるに過ぎないというありさまである。荒れほうだいに荒れはて、参詣者もなければ、収入とてもないこの土地の、そうした寺院の深い静寂のなかに、そのかみの都の潮騒(しおさい)のごとき騒音とは似てもつかぬ、いたずらに寂しい蛙の声のみかまびすしい田圃にかこまれがら、古い仏たちが、今もなお依然として住んでいるのである。

   《引用終了》

学者モースの視線が、詩人八雲の潤いに満ちた瞳で、鮮やかにリメイクされている(ように見える)のが素晴らしいではないか。

「時々我々は花を頂いた、巨大な門を通りぬけた」これは実際の花ではあるまい。私の印象では、神社仏閣や和風木造建物の、所謂、支輪(しりん)のことを言っているのではないかと思われる。支輪とは高さの異なった二本の平行材を斜めに連結した湾曲した部材で組み物によって送りだされた軒桁と軒桁の間を斜めにふさいでいる壁のような部位を指す。軒支輪と天井支輪があり、カーブした細い材を数多く並べて作られた支輪を特に蛇腹支輪というそうである(建築会社「丸平建設」の支輪ページを参照されたい)。

「百合(Lilium Japonicum)」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属ササユリ Lilium japonicum。ヤマユリのこと。日本特産。

「肉荳蔲」原文“nutmeg”。なお底本では、「蔲」の「攵」の部分が「支」である。双子葉植物綱モクレン亜綱モクレン目ニクズク科ニクズク Myristica fragrans。綴りでお分かりのように、ナツメグのこと。]

白葵花 高青邱 中島敦訳

しろじろと    庭かげに

ほそぼそと    たゞ一つ

葵(あふひ)ばな 露ふかき

曉(あかつき)の すゞしさよ

人知らぬ     花の色

仄白く      寂しけど

日を戀ふと    伸び行くを

いぢらしと    君見ずや

 

 素彩發庭陰

 涼滋玉露深

 誰懷白衣者

 亦有向陽心

 

[やぶちゃん注:これは底本の「譯詩」の「二」に掲げられているもので作者名がないが、これは高青邱の「白葵花」であることを教え子が知らせてくれた。]

塚も動け我が泣く聲は秋の風 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈) 

 

   塚も動け我が泣く聲は秋の風

 

 芭蕉の悲哀は、宇宙の無限大なコスモスに通じて居る。蕭條たる秋風の音は、それ自ら芭蕉の心靈の聲であり、よるべもなく救いもない、虛無の寂しさを引き裂くところの叫である。釋迦はその同じ虛無の寂しさから、森林に入って出家し、遂に人類救濟の悟道に入つた。芭蕉もまた佛陀と共に、隣人の悲しみを我身に悲しみ、友人の死を宇宙に絶叫して悲しみ嘆いた。しかし詩人であるところの芭蕉は、救世主として世に立つ代りに、萬人の悲しみを心にはぐくみ、悲しみの中に詩美を求めて、無限の寂しい旅を漂泊し續けた。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」の掉尾に配された鑑賞文。私はこの評釈がすこぶる好きである。但し、『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なる。

 塚も動け我が泣く聲は空の風

 友人の追悼句ではあるけれども、實には芭蕉の魂が、宇宙の孤獨と寂寥に對して泣いてるのである。まことに芭蕉の悲哀は大宇宙に住むコスモポリタンの悲哀であつた。それ故に「塚も動け」といふ大きな皷張が切實な情想として表象されて來るのである。

「皷張」はママ。――書き直して遙かによくなってるね。――]]

鏡にうつる裸體 大手拓次

 鏡にうつる裸體

 

鏡(かがみ)のおもてに

魚(うを)のやうに ゆらゆらとうごくしろいもの、

まるいもの、ふといもの、ぬらぬらするもの、べつたりとすひつきさうなもの、

夜(よる)の花びらのやうに なよなよとおよぐもの、さては、うすあかいけもののやうに

のつぺりとしてわらひかけるもの。

ひろい鏡のおもてに

ゆきちがひ、すれちがひ、からみあふもの、

くづれちる もくれんの花のやうに

どろどろに みだれて悲しさをいたはり、

もうもうとのぼるかげろふの靑(あを)みのなかに、

つつみきれない肉のよろこびを咲きほこらせる。

ああ、みだれみだれて うつる白いけむりの肉、

ぼつてりとくびれて、ふくふくともりあがる肉の雨だれ、

ばらいろの蛇、みどり色の犬、

ぬれたやうにひかるあつたかい女のからだ、

ぷつくりとゑみわれる ぼたんの花、

かげはかげを追ひ、

ひかりはひかりをはしらせ、

つゆをふくんでまつくろなゆめをはらませるもの

につちやりと、うたれたやうな音をたてて、

なまめかしいこゑをもらす白いおもいもの、

あのふくれた腹をごらんなさい、

うう、ううとけもののうめきにも似て命をさそふ嘆息のエメロード、

まるくつて、まるくつて、

こりこりと すばやく あけぼのの霧をよぶやうなすずしいもも、

よれよれにからみつく乳房のあはあはしさ、

こほろぎのなくやうに 溶(と)けてゆく

足の指のうるはしさ、

…………………………。

くるぶしはやはらかくゆらめいて

あまく、あまくわたしの耳をうつ。

 

[やぶちゃん注:「エメロード」フランス語“emeraude”。エメラルド、エメラルド色のことであるが、ここでは鮮緑色の色のイメージと読む。

 後ろから三行目のリーダ数は二十七。但し、底本の見た目の配置(両行と比較した長さ)に近づけるためにポイント数を落として示してある。

 さりながら、私はこの詩をデユシャンに読ませたい気がする、さえも……]

蜘蛛のをどり 大手拓次

 蜘蛛のをどり

 

あらあらしく野のをかに歩みをはこぶ

ゆふぐれのさびれたたましひのおともないはばたき、

うすぐらいともしびのゆらめくたのしさにも似(に)て、

さそはれる微笑の釣針(つりばり)のうつくしさ。

うちつける壁(かべ)も扉(とびら)も窓(まど)もなく、

むなしくあを空(ぞら)のふかみの底(そこ)に身をなげ、

世紀(せいき)のあをあをとながれるうれひ顏のうへに、

こともなげに、ひそかにも、

うつりゆく香料のたいまつをもやしつづけた。

いつぴきの黄色い大蜘蛛(おほぐも)は

手品のやうにするすると絲をたれて、

そのふしぎな心の運命(さだめ)を織る。

ああ、

ゆふぐれの野(の)のはてにひとりつぶやく太陽の

かなしくゆがんだわらひ顏、

黄色(きいろ)い蜘蛛はと織りつづける。

女のやうにべつたりとしたおほきな蜘蛛は、

くたびれるのもしらないで、

足も 手も ぐるぐるする眼も

葉ずれの蘆(あし)のやうに、するどくするどくうごいてゐる。

 

[やぶちゃん注:三箇所の太字「た」は底本では傍点「ヽ」。]

盲目の鴉 大手拓次

  盲目の鴉

 

うすももいろの瑪瑙の香爐から

あやしくみなぎるけむりはたちのぼり、

かすかに迷ふ茶色の蛾は

そこに白い腹をみせてたふれ死ぬ。

秋はかうしてわたしたちの胸のなかへ

おともないとむらひのやうにやつてきた。

しろくわらふ秋のつめたいくもり日(び)に、

めくら鴉(がらす)は枝から枝へ啼いてあるいていつた。

裂かれたやうな眼がしらの鴉よ、

あぢさゐの花のやうにさまざまの雲をうつす鴉(からす)の眼よ、

くびられたやうに啼きだすお前のこゑは秋の木(こ)の葉(は)をさへちぢれさせる。

お前のこゑのなかからは、

まつかなけしの花がとびだしてくる。

うすにごる靑磁の皿のうへにもられた兎(うさぎ)の肉をきれぎれに嚙む心地にて、

お前のこゑはまぼろしの地面に生える雜草(ざつさう)である。

羽根をひろげ、爪(つめ)をかき、くちばしをさぐつて、

枝から枝へあるいてゆくめくら鴉(がらす)は、

げえを げえを とおほごゑにしぼりないてゐる。

無限につながる闇の宮殿のなかに、

あをじろくほとばしるいなづまのやうに

めくら鴉(がらす)のなきごゑは げえを げえを げえをとひびいてくる。

 

[やぶちゃん注:太字「げえを」は底本では傍点「ヽ」。]

疾患の僧侶 大手拓次

 疾患の僧侶

みつめればみつめるほど深い穴(あな)のなかに、
凝念(ぎようねん)の心をとかして一心にねむりにいそぐ僧侶、
僧侶の肩に木(こ)の葉(は)はさらさらと鳴り、
かげのやうにもうろうとうごく姿に、
闇をこのむ蟲どもがとびはねる。
合掌の手のひらはくづれて水となり、
しづかにねむる眼(め)は神殿の寶石のやうにひかりかがやき、
僧侶のゆくはれやかな道路(だうろ)のまうへに白い花をつみとる。

底のない穴(あな)のなかにそのすみかをさだめ、
ふしぎの路をたどる病氣の僧侶は、
眼もなく、ひれもなく、尾もあぎともない
深海(しんかい)の魚のすがたに似(に)て、
いつとなくあをじろい扁平(へんぺい)のかたまりとなつてうづくまる。
僧侶のみちは大空(おほぞら)につながり、
僧侶の凝念(ぎようねん)は滿開(まんかい)の薔薇(ばら)となつてこぼれちる。

白い狼 大手拓次

 白い狼

白い狼が
わたしの背中でほえてゐる。
白い狼が
わたしの胸で、わたしの腹で、
うをう うをうとほえてゐる。
こえふとつた白い狼が
わたしの腕で、わたしの股(もゝ)で、
ぼう ぼうとほえてゐる。
犬のやうにふとつた白い狼が
眞赤な口(くち)をあいて、
なやましくほえさけびながら、
わたしのからだぢゆうをうろうろとあるいてゐる。

まるい鳥 大手拓次

 まるい鳥

をんなはまるい線をゑがいて
みどりのふえをならし、
をんなはまるい線をひいて
とりのはねをとばせる。
をんなはまるい線をふるはせて
あまいにがさをふりこぼす。
をんなは鳥だ、
をんなはまるい鳥だ。
だまつてゐながらも、
しじゆうなきごゑをにほはせる。

大手拓次「藍色の蟇」 死顔

死顏(逸見亨畫)

Sinigao

画家逸見亨(へんみたかし)氏(明治二八(一八九五)年~昭和一九(一九四四)年)は、和歌山県出身。中央大学卒業後、ライオン歯磨意匠部に勤務する傍ら、木版画を始め、大正八(一九一九)年の第一回日本創作版画協会展に入選、日本版画協会でも活躍した。「新東京百景」を分担制作、友人であった大手拓次の詩集の装丁・編集も彼が手がけた(講談社「日本人名大辞典」の解説に拠る)。

彼の作品はパブリック・ドメインである。




大手拓次「藍色の蟇」 著者肖像

平野次郎寫

Takuji

大手拓次「藍色の蟇」 表題紙

Hyou

大手拓次 詩集「藍色の蟇」 背表紙

背の部分だけのの金色の質感を出すために補正してある。

Aiir4

大手拓次 詩集「藍色の蟇」 裏表紙

Aiiro2

大手拓次 詩集「藍色の蟇」 表紙

やはり毎日触れているから、手垢にまみれる前に――

因みに、これは復刻本乍ら――僕の所持する書籍の中で、というより、近現代の出版物の中でも――すこぶる附きで偏愛する装幀である――

Aiiro1

林檎料理 大手拓次

 林檎料理

手にとつてみれば
ゆめのやうにきえうせる淡雪(あはゆき)りんご、
ネルのきものにつつまれた女(をんな)のはだのやうに
ふうはりともりあがる淡雪(あはゆき)りんご、
舌(した)のとけるやうにあまくねばねばとして
嫉妬(しつと)のたのしい心持(こゝろもち)にも似(に)た淡雪(あはゆき)りんご、
まつしろい皿(さら)のうへに
うつくしくもられて泡(あわ)をふき、
香水(かうすゐ)のしみこんだ銀(ぎん)のフオークのささるのを待(ま)つてゐる。
とびらをたたく風(かぜ)のおとのしめやかな晩(ばん)、
さみしい秋(あき)の
林檎料理(りんごれうり)のなつかしさよ。

鬼城句集 表紙・背・裏表紙

毎日、手に取っているから、手垢が附いて汚れっちまう前に――

Kijyoukusyu

鬼城句集 夏之部 夏痩

夏瘦    夏瘦や今はひとりの老の友

      雜兵や頰桁落して夏瘦する

[やぶちゃん注:「頰桁」「ほほげた(ほおげた)」は頬骨。頬輔(ほおがまち)。鬼城にこうした時代小説のような想像吟と思しいものが存外多いのは興味深いことである。]

2013/06/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 2

M155


図―115

 契約書はニケ国語で、書かねばならなった。私は二人の書記が忙しく書類を調製する内、事務所に坐つていて、彼等の仕事ぶりを内々スケッチした(図―115)。実験所のために、ガラス瓶、酒精(アルコール)、その他を人々が何をやるのにもゆっくりしているので、辛棒しきれなくなるが、彼等は如何にも気立てがよく、物優しいから、悪罵したり、癇癪を起して見せたりする気にはなれない。植物学教授の矢田部教授――コーネル大学の卒業生で「グレーの摘要」を教えていた――が実験所の敷地を選び、そしてその建設の手配をするために、私と一緒に江ノ島へ行った。この日――七月十七日――は極めて暑かったので、我我は出発を四時までのばした。我々は各々車夫二人つきの人力車に乗った。車夫達は坂に来て立ち止った丈で――我々は下りて歩いた――勢よく走り続けた。殊に最後の村を通った時など、疲労のきざしはいささかも見せず、疾風のように走った。彼等の速力によって起る微風をたのしむ念は、こんな暑い日に走る彼等に対する同情で大部緩和された。彼等が日射病と過労で斃れぬのが不思議な位である。
[やぶちゃん注:「契約書」これは恐らく、東大と結んだ文部省の「外国教師雇入条約文例」に基づく動物生理学教師としての二年契約の約定書を指す。磯野氏の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「9 東京大学との契約」に全訳が掲載されているが、磯野氏は、『何事も最終決定権は日本人側がもつように配慮したことが明白』のもので、『病気の際の規定の厳しさ』(病気理由によって二十日間職務を果たせない場合は、以後、病中の給与は三分の一に減額、発病後六十日を経過しても職務復帰不能の場合は契約を破棄し、以後の給与は支払われない等)『にも驚かされる。現在だったら人権問題であろう』と記されておられる。但し、その給与は三百七十円と相当な高給ではある(磯野氏の記載によれば、矢田部良吉は百円(明治十年八月現在)で、『この頃の東京では、腕のよい大工でも月に十円ぐらいの稼ぎしかなく、二~三円の月収しかない人々が珍しくなかったのだから、御雇い外国人がどんなに優遇されていたかがわかる』ともある。こうした現状にやや後に憤然と嚙みついたのが、イギリスの白人社会で烈しい辛酸を舐めた末に精神病にまで罹患した夏目漱石であった事実も申し添えておくことは意味があろう。
「植物学教授の矢田部教授」驚くなかれ、彼も先の外山正一と並んで「新体詩抄」の作者である植物学者で詩人の矢田部良吉(嘉永四(一八五一)年~明治三二(一八九九)年)である。外山同様、明治一〇(一八七七)年に東京大学初代植物学教授(日本初号)となり、東京植物学会の創立者でもあったが、惜しくも鎌倉の沖で遊泳中に溺死した。享年四十九歳。
「グレーの摘要」不詳であるが、この「グレー」とは十九世紀アメリカで最も知られた植物学者エイサ・グレイ(Asa Gray 一八一〇年~一八八八年)のことではあるまいか?  ウィキの「エイサ・グレイ」によれば、北アメリカの植物分類学の知識を統一するのに尽力した人物で、特に『グレイのマニュアル』として知られた、現在でもこの分野のスタンダードである“Manual of the Botany of the Northern United States”(「北アメリカの植物学マニュアル」一八六三年刊)の著者である。
「彼等の速力によって起る微風をたのしむ念は、こんな暑い日に走る彼等に対する同情で大部緩和された」この部分、日本語としては「軽減された」の部分に表現上の齟齬がある。原文(先程発見した“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machine”に拠る)は、
The enjoyment of the ride with the breeze made by their speed was mitigated by my commiseration for the men running on such a hot day. One wonders why they did not drop dead with sunstroke and fatigue.
とある。確かにこの“mitigate”という動詞は、複数の辞書を見ると、
(怒り・苦痛・悲しみなどのネガティヴな心情を)宥める、和らげる、静める。
(刑罰などを)軽減する。
(熱さ・苛烈さ・罪などを)緩和する、弱める。
の意味で用いられ、語義の元は、
ある感情・現象・行為をより厳格でないようにする、より不愉快でないものにする。
ある感情・現象・行為の持っている深刻さ若しくはネガティヴな程度の重さを相対的に小さくする、或いは小さくしようとする。
という意味であることが分かる。即ち、例えば当初私が感覚的に感じたような、
(あるポジティヴな現象に対して)不利に作用する, 働く。
とあった辞書は一冊だけで、しかもそこには、これは誤った用法とされる、という注意書きさえあった。
 しかしながら、ここはどうみても「大分緩和された」のではなく寧ろ、「かなり弱められた」と訳した方が分かりがいいことは事実である。
 私は以下のように推理する。モースにとって人が馬の代わりになる人力車は、後にアインシュタインが憤然として非人道的乗り物と言い放ち、乗ることを拒否したように、何かある種の罪悪感を強く感じさせるものであったのではなかったか?
……ところがこの…… the dog day ――炎暑の中――この二人引きの人力の異国の男たちは……『人間技とは思えない馬車馬のようおぞましい使われ方で』全力を尽くし、素晴らしい速さで人力を走らせ、そして『私に如何にも心地よい微風を、そよ風を私に送ってくれている』のだ……
――こうした理性的で論理的な潜在的な非人道的なものに乗車しているという罪悪感と――実際の感覚的現実が引き起こすところのすこぶる附きの爽快感が――アンビバレントなものとしてモースの心内にあった―それがこの“mitigate”という単語を選ばせたのではなかったろうか?
 ……人力の疾走する中、そこで起こる微風は熾烈な真夏の陽射しの中、とてもいわく言い難い爽快感を覚えたのであったが……人が馬の代わりに人を曳いているのだ……その「彼等が日射病と過労で斃れぬ」かと思うと、何か、罪悪感の疼きのようなものが、立ち上ってくるのだ……だからそれが、そのせっかくの心地よさに、言い知れぬ陰りを齎したということも事実であった……
とモースは言いたいのではなかったろうか?
 これはそうして、モース自身の心痛であると同時に、モースがこの肌の色が違う異国の人々に感じた、まっこと平等な同情と優しさであったのではあるまいか?
 私は英語は苦手である。大方の識者の御批判を俟つ。]

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十三

■原稿134(135)

     〈《六》→《九》→《八》→九〉十三

 

[やぶちゃん注:「十三」は5字下げに相当。御覧の通り、訂正が甚だしいが、これは何を意味するものか、以下、三箇所連続で「トツク」を「ラツプ」と書き間違えて訂している点も含めて今一つ、不審である。本文は2行目から。]

 

 僕等は〈ラツプ〉*トツク*の家へ駈〈つ?〉**つけました。〈ラツ

プ〉*トツク*は右の手にピストルを握り、〈血だらけにな〉*頭の皿(さら)から血*

を出したまま、〈す?〉**山植物の鉢植ゑの中に仰向

けになつて倒れてゐました。その又側には雌

の河童が一匹、〈ラツプ〉*トツク*の胸に顏を埋め、大声(おほこゑ)

を擧げて泣いてゐました。僕は雌の河童を抱

き起しながら、(一體僕は〈《皮》→河童の皮膚〉*ぬらぬらす*る河童の

皮膚に手を触れること〈は〉**余り好んではゐない

のですが。)「どうしたのです?」と尋ね〈ま〉**した。

 

■原稿135(136)

 「どうしたのだか、わかりません。〈唯〉**何か書

いてゐたと思ふと、いきなりピストルで頭を

打つたのです。ああ、わたしはどうしま〈せ〉**

う? qur-r-r-r-r qur-r-r-r-r」(これは河童の

泣き聲です。)

 「何しろトツク君は〈胃病〉*我儘*だつたからね。」

 〈医者のチヤツクは〉*硝子会社の社長の*ゲエルは〔悲しさうに〕頭(あたま)を振〈り〉**ながら、〈かう言ひました。〉*裁判官のペツプ*にかう言ひました。〈ペツ

プは〉*しかしペ*ツプは何も言はずに金口の巻〈草〉煙草に火を

つけてゐました。すると今まで跪いて〈、〉トツ

[やぶちゃん注:

●「qur-r-r-r-r qur-r-r-r-r」は初出及び現行では、

 qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r
とコンマが入る。現行は筆記体であるが、「r-」の「-」は同様にあって繋がっていない。

●「すると今まで跪いて〈、〉トツクの創口などを調べてゐたチヤツクは」この部分、ちょっと見ると、読点の下のマスに何かを書いて消したようにも見える。校正者もそう思ったものか、ここは初出及び現行では

 すると今まで跪いて、トツクの創口などを調べてゐたチヤツクは

読点が生きている。しかし、よくここを読んでみて頂きたい。この読点は不要である(寧ろ、読点を打つならば「今まで、跪いてトツクの創口などを調べてゐたチヤツクは」とした方がよい)。即ち、この芥川のぐるぐると書いた抹消線の意味が分かってくる。これは、この読点を不要と判断して抹消したのである! その証拠に抹消線は有意に読点にかかっているのである。芥川はこの読点を抹消するに際し、下手に小さな抹消をすると、抹消に見えないことを虞れ、わざわざ大きなぐるぐるを下のマスまで延ばし、『この読点は抹消』という意志を校正者に伝えようとしたのだ! 従って、この読点は現行『定本』からは抹消されてしかるべきである、というのが私の判断である。大方の御批判を俟つものである。]

 

■原稿136(137)

クの創口などを調べてゐたチヤツクは如何に

も醫者らし〈く〉**態度をしたまま、僕等五人に宣

言しました。(實は一人と四匹とです。)

 「もう駄目です。トツク君は元來胃病でした

から、それだけでも憂欝になり易かつたので

す。」

 「何か書いてゐたと云ふことですが。」

 哲學者のマツグは弁解するやうにかう独り

語を洩らしながら、机の上の紙をとり上げま

した。僕等は皆頸をのばし、(尤も僕だけは例

 

■原稿137(138)

外です。)幅の廣いマツグの肩越しに一枚の紙

を覗きこみました。

 「〈岩〉いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。

  岩むらはこごしく、やま水は淸く、

  藥〈草〉**(やくさう)の花はにほへる谷へ。」

 マツグは僕等をふり返りながら、微苦笑と

一しよにかう言ひました。

 「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽竊〈を〉です

よ。するとトツク君の自殺したのは詩人とし

ても疲れてゐたのですね。」

 

■原稿138(139)

 〈そ〉**こへ偶然(ぐうぜん)自動車を乗りつけたのはあの音

〈の〉家のクラバツクです。クラバツクはかう

云ふ光景(くわいけい)を見ると、暫く〈茫然と〉*戸口(とぐち)に*佇ん〈で〉**ゐま

した。が、〈マツグの〉*僕等(ら)の前(まへ)*へ歩み寄ると、怒鳴りつ

けるやうにマツグに話しかけました。

 「それはトツク〈〔君〕〉の遺言状ですか?」

 「いや、最後に書いてゐた詩です。」

 「詩?」

 マツグは〔やはり騷がずに〕髮(かみ)を逆立(さかだ)てた〈マ〉クラバツクに〈一枚〉*トツク*

〈紙〉*詩稿*を渡しました。クラバツクは〈トツク〉*あたり*には目(め)

[やぶちゃん注:

●「マツグは〔やはり騷がずに〕髮(かみ)を逆立(さかだ)てた〈マ〉クラバツクに〈一枚〉*トツク*〈紙〉*詩稿*を渡しました。」初出及び現行と異なる。まず、この原稿部分を整序してみると、

 マツグはやはり騷がずに髮を逆立てたクラバツクにトツクの詩稿を渡しました。

となるが、実際には初出及び現行は、

 やはり少しも騷がないマツグは髮を逆立てたクラバツクにトツクの詩稿を渡しました。

である。これは最終ゲラ校正で芥川が変更したもののように私には思われる。]

 

■原稿139(140)

もやらずに熱心にその詩〔稿〕を読み出し〈ま〉**〈た〉

**。しかもマツグの言葉には殆ど返事さへし

ないのです。

 「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」

 「いざ、立ちて、………僕も亦いつ死ぬかわか

りません。………娑婆界を隔つる谷へ。………」

 「しかしあなたはトツク君とは〈藝術上の〉*やはり*親友

〔の一〈お〉人(ひとり)〕だつたのでせう?」

 「親友? トツクはいつも〈孤〉**独〔だつたの〕です。………娑

婆界を隔つる谷へ、………〈」〉唯トツクは不幸にも、

 

■原稿140(141)

………岩むらはこごしく………」

 「不幸にも?」

 「やま水は〈水〉淸(きよ)く、………あなたがたは幸福です。

………岩むらはこごしく。………」

 僕は未だに泣き声を絶たない雌の河童に同

情しましたから、そつと肩(かた)を抱へるやう〈にゆ〉*にし*

部屋の隅の長椅子へつれて行きました。そこ

には二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らず

に笑つてゐるのです。僕は雌の河童の代(かは)りに

子供の河童をあやしてやりました。するとい

 

■原稿141(142)

つか僕の目にも涙のたまるのを感じ〈まま〉まし

た。僕が河童の国に住んでゐるうちに涙と云

ふものをこぼしたのは前(まへ)にも後(あと)にもこの時だ

けです。

 「しかしかう云ふ我侭な河童と一しよになつ

た家族は気の毒ですね。」

 「何しろあとのこと〈を〉**考へないのですから。」

 裁判官のペツプは不相変新しい〈葉〉巻〔煙草〕に火を

つけながら、資本家のゲエルに返事を〈《し》→しま〉*してゐ

〔ま〕した。すると〈僕〉僕等を驚かせたのは音樂家のク

[やぶちゃん注:

●「何しろあとのこと〈を〉**考へないのですから。」岩波旧全集後記校異には、ここは原稿では、

 何しろあとのことを考へないのですから。

となっている旨の記載があるのだが、明らかに視認する限り、芥川は「も」に訂している。不審である。

●「裁判官のペツプは不相変、新しい〈葉〉巻〔煙草〕に火をつけながら」の部分、初出及び現行は、

 裁判官のペツプは不相変、新しい卷煙草に火をつけながら

と読点が入る。無論、読点があった方がよい。]

 

■原稿142(143)

ラバツクのおほ声です。クラバツクは詩稿を

握つたまま、誰にともなしに呼びかけました。

 「しめた! すばらしい葬送曲(そうそうきよく)が出來るぞ。」

 クラバツクは細い目(め)を赫(かが)〈や〉やかせたまま、ち

よつとマツグの手を握ると、いきなり戸口へ

飛んで行きました。〈のみならずもう〉*勿論もうこの時*には鄰近

所の河童が大勢、トツクの家(うち)の戸口に集〈ま〉**

り、珍らしさうに家(うち)の中を覗いてゐるの〈で〉**

す。しかしクラバツクは〈かう云〉*この河*童たちを遮(しや)二

無(む)二〈押〉左右へ押しのけるが早〈か〉いか、ひらりと自

 

■原稿143(144)

動車へ飛び乗りました。〈と〉同時に又自動車は

爆音(ばくおん)を立てて忽ちどこかへ行つてしまひまし

た。

 「こら、こら、さう覗いてはいかん。」

 裁判官のペツプは巡査の代りに大勢の河童

を押し出した後(のち)、トツクの家の戸をしめてし

まひました。部屋の中はそのせゐか急にひつ

そりなつたものです。僕〔等〕はかう云ふ靜かさの

中(なか)に〔―――〕高山植物の花の香(か)に交つたトツクの血(ち)の

匂(にほひ)〈を感じました。が、〉*の中(なか)に後始末(あとしまつ)のこ*となどを相談しま〔し〕た。し

 

■原稿144(145)

かしあの哲學者のマツグだけはトツクの死骸

を眺めたまま、ぼんやり何か考へてゐ〈ま〉ます。僕

はマツグの肩を叩き、「何を考へてゐるのです

?」と尋ねました。

 「河童の生活と云ふものをね。」

 「河童の生活がどうなのです?」

 「我々河童は何と云つても、河童の生活を完

うする爲には、………」

 マツグは多少羞(はづか)しさうにかう小声(こごゑ)でつけ加

へました。

 

■原稿145(146)

 「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信ず

ることですね。」

 

[やぶちゃん注:以下、8行余白。]

サイト「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動 / 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 1

 

 

HP「鬼火」開設8周年を記念して、カテゴリ「日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳」を創始する。

 

 

日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳

 

[やぶちゃん注:本作は三十年以上前の日記とスケッチをもとにエドワード・モースが一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版した“Japan Day by Day”を石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松。氏の著作権は既にパブリック・ドメインとなっている)が同年(大正六年)に翻訳したものである。
 底本は一九七〇年平凡社刊の東洋文庫版全三巻を用いた。但し、電子化は私の海産無脊椎動物と江の島地誌への個人的興味の関係から、江ノ島臨海実験所の開設と採集(主に来日した明治一〇(一八七七)年七月十七日から八月二十九日までの期間の事蹟)に関わる第五章を最初に行うので、ご容赦願いたい。促音と思われるルビは私の判断で促音化してある。傍点「ヽ」は太字に代えた。
 エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生まれ。少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している。電子化本文一段落目を参照)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は“apanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年刊)や本作「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。
 なお、各形式段落の後に私のオリジナルな注を附し、その後は一行空きとした。注に際しては、磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(有隣堂昭和六二(一九八七)年刊)を一部参考にさせて戴いた。図は適宜相応しい場所に配した。磯野先生は昨年、鬼籍に入られた。この場を以って深く哀悼の意を表するものである。【ブログ始動:2013年6月26日――HP「鬼火」開設8周年の日に――藪野直史】]

 

日本その日その日   E.S.モース(石川欣一訳)

 

 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所

 

 私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。然し日本には三、四十の「種」が知られている。私は横浜の南十八マイルの江ノ島に実験所を設けた。ここは漁村で、同時に遊楽の地である。私がそこに行って僅か数日経った時、若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した。日本語がまるで喋舌(しゃべ)れぬことを述べると、彼は大学の学生は全部入学する前に英語を了解し、かつ話さねばならぬことになっていると答えた。私が彼を見覚えていないことに気がついて、彼は私に、かつて、ミシガン大学の公開講義で私が講演したことを語った。そしてその夜、私はドクタア・ハーマアの家で過したのであるが、その時同家に止宿していた日本人を覚えていないかという。そのことを思い出すと、なる程この日本人がいた。彼は今や政治経済学の教授なのである。彼は私が、ミシガン大学でやったのと同じ講義を、黒板で説明してやってくれと希望した。ズボンと婦人の下ばきとの合の子みたいなハカマを、スカートのようにはき(割ったスカートといった方が適している)、衣服のヒラヒラするのを身に着けた学生が、一杯いる大きな講堂は、私にとっては新奇な経験であった。私はまるで、女の子の一学級を前にして、講義しているような気がした。この講義の結果、私は帝国大学の動物学教授職を二年間受持つべく招聴された。だがその冬、米国で公開講演をする約束が出来ていたので、五ケ月間の賜暇をねがい、そして許された。これが結局日本のためになったと思うというのは、この五ケ月間に、私は大学図書館のために、二万五千巻に達する書籍や冊子を集め、また佳良な科学的蒐集の口火を切ったからである。また私は江ノ島に臨海実験所を開き、創立さるべき博物館のために材料を集めることになっていた。

[やぶちゃん注:「腕足類」冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属オオシャミセンガイ Lingula adamsi やミドリシャミセンガイ Lingula anatina などのシャミセンガイ類や、頂殻(イカリチョウチン)目イカリチョウチン Craniscus japonicas 、有関節亜綱穿殻目穿殻亜目テレブラツラ科シロチョウチンホウズキガイ Gryphus stearnsi や穿殻亜目カンセロチリス科タテスジチョウチンガイ Terebratulina japonicaなどが代表種である(何故か Terebratulina 属はカンセロチリス科であってテレブラツラ科ではない。分類タクソン類は保育社平成四(一九九二)年刊の西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑Ⅰ」に拠った)。一見、二枚貝に似ている海産生物であるが、体制は大きく異なっており、貝類を含む軟体動物門とは全く近縁性のない生物である。化石ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループであるが、その後多様性は減少し、現生種数は比較的少ない。学名“Brachiopoda”(ブランキオポダ)はギリシャ語の“brachium”(腕)+“poda”(足)で、属名“Lingulida”(リングラ)は「小さな舌」の、“Craniscus”(クラニスクス)は「小さな頭蓋」の、“Gryphus”(グリフス)は「鉤鼻の」、“Terebratulina”(テレブラトゥリナ)は「孔を穿つ小さなもの」の意である(学名語源は主に荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の「シャミセンガイ」の項に拠った)。以下、ウィキの「腕足動物」から引用する。『腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物』で、斧足類(二枚貝)のように二枚の殻を持つが、斧足類の殻が体の左右にあるのに対し、『腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる。2枚の殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる』。殻長は5センチメートル前後のものが多く、『腹殻の後端から肉茎が伸びる。肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる』が、種によってはこの『肉茎を欠く種もいる』。『殻は外套膜から分泌されてできる。外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。外套腔は水で満たされていて、触手冠(英語版)がある。触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では1対の腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる』。『消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌(後述)は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる』。『循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされ』、ガス交換は体表で行われる。『1対か2対の腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす』。『神経系はあまり発達していない。背側と腹側に神経節があり、2つの神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる』。生態は『全種が海洋の底生動物である。多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。体を底質に付着させない種もいる』。『餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる』。以下、「繁殖と発生」の項。『有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。わずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体』で、『雌雄異体のものでも、性的二型はあまりない』。『体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。その場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される』。

「フンディの入江」原文“Bay of Fundy”。カナダの東端ノヴァスコシア半島の西側に深く入り込んだフンディ湾のこと。この湾内のミナス海盆(Minas Basin)周辺では世界最大の干満潮差が発生することで有名で、春の大潮時の世界記録は16メートルを超える。

 

「セント・ローレンス湾」(Gulf of Saint Lawrence)は、ノヴァスコシア半島の北方カナダ南東部に位置する大きな湾で、セントローレンス川を経由して五大湖から大西洋への湖水の出口に当たる。サケ・マス・カラフトシシャモをはじめ、セントローレンス水系が齎す有機物や微生物などの豊富な栄養素によって豊かな漁場となっている。

「ノース・カロライナのブォーフォート」恐らくはノースカロライナ州南部の東海岸の広大な砂嘴が形成されたところにあるビューフォート(Beaufort)。現在はウォーター・フロントのリゾートとして知られているようである。

『日本には三、四十の「種」が知られている』代表的なシャミセンガイ類だけを見ても、本邦には9種を産し、穿殻亜目TEREBRATULIDINA にはざっと見ても20種を越える種が日本産としてあり(前掲「原色検索日本海岸動物図鑑Ⅰ」に拠る)、磯野氏の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には腕足類の多産地一つが日本近海で、『馬渡静夫博士が一九六五年に『動物系統分類学』八巻(上)に記しているところでは六五種が日本近海に産する』とあるから、この数字は大袈裟ではない。なお、腕足類の現生種は現在約350種とされる(化石種は何と12000種を超す)。因みに、代表種の一つでモースの調査対象でもあったミドリシャミセンガイ Lingula anatine は有明海では食用として「メカジャ」とも呼ばれるが、これは「女冠者」で、腹背(貝類の左右と異なる大きな体制の違いである)の殼内にある発条樣の多数の繊毛を持った短い触手を持つ触手冠(これによって水中のデトリタスを漉し取って摂餌する)を女性性器に譬えた呼称と思われる。

「十八マイル」約29キロメートル。この時、モースは矢田部良吉と連れだって人力車で横浜のグランドホテルから江の島へ向かっている(磯野前掲書八七頁)。現在の地図上で国道一号線上を藤沢まで辿って江の島に向かうと約27・5キロになるから、非常に正確である(直線距離だと23キロ弱)。

「若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した」さて、読者諸君は、この「若い日本人」の名前を知っている。高校の文学史で近代詩のルーツとして「新体詩抄」(このモースとの出逢いから五年後の明治一五(一八八二)年の刊行)の名前を憶えさせられたであろう。この二十九歳の文学部教授(日本初教授号の一人)こそ、あの作者の一人後の東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て同総長・貴族院議員・第三次伊藤博文内閣文部大臣などを歴任した外山正一(とやままさかず (嘉永元(一八四八)年~(明治三三(一九〇〇)年)なのである。但し、磯野氏が「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で考証されている通り、この江の島で招聘というのはというのはモースの記憶違いで(そもそも外山の名前は本書の「第一章 1877年の東京――横浜と東京」に中に既に『我々は外山教授と一緒に帝国大学を訪れた』(底本「1」の十五ページ上段)に、既知の人物名として突如出てくるのである)、実際には六月十七日夜に汽船「シティ・オブ・トーキョー」で横浜入りして横浜のグランドホテルに入ったモースは、その翌十八日に外山の訪問を受けており、そこで既に講演依頼を受けていたというのが真相である(詳しくは当該書の「8 日本への第一歩」を参照されたい)。……個人的には江の島のシチュエーションの方が絵的には、無論、いいんだけどね♡

「だがその冬、米国で公開講演をする約束が出来ていたので、五ケ月間の賜暇をねがい、そして許された」来日から約五ヶ月後の明治一〇(一八七七)年十一月初めにモースは一時帰国している。ウィキエドワード・S・モースによれば、その際、東大と外務省の了解を得て、自分が発掘した、『大森貝塚の出土品の重複分を持ち帰ったが、この出土品をアメリカの博物館・大学へ寄贈し、その見返りにアメリカの資料を東大に寄贈して貰うという』、今でいう学術的な国際交流を実践しているとある。ここでモースが言っている「私は大学図書館のために、二万五千巻に達する書籍や冊子を集め、また佳良な科学的蒐集の口火を切った」というのがまさにそれを指している。翌年(ウィキの記載は年号が誤っている)の四『月下旬、家族をつれて東京大学に戻っ』ている。

「創立さるべき博物館」現在の国立科学博物館の前身である教育博物館及び現在の国立博物館の前身である明治一四(一八八一)年に上野公園寛永寺本坊跡に本館が建てられる博物館(後に帝室博物館)を指していよう。前者はこの年一月に上野山内の西四軒寺跡(現在の東京芸術大学のある場所)に新館の一部竣工しており、「東京博物館」(有名無実の貧弱なものであった)から「教育博物館」と改称しており(この年をもって現在の国立科学博物館は創立年としている)、また同年九月に学生らと掘り始めた大森貝塚の出土品も、この教育博物館で展示したりしている。]

栂尾明恵上人伝記 43 附絹本著作明恵上人像(国宝)

 又華宮殿の西の谷に一の盤石(ばんじやく)あり、定心石(ぢやうしんせき)と名づく。一株の松あり、繩床樹(じようしやうじゆ)と名づく。其の松打本(もと)二重(ひたへ)にして、坐するに便(たより)あり。常に其の上にして坐禪す。
[やぶちゃん注:これこそ、恐らく最も知られた明恵の肖像である高山寺蔵の国宝「絹本著作明恵上人像」(伝明恵弟子恵日房成忍筆写)のあの場所である。以下に、ウィキに「明恵」にあるパブリック・ドメイン画像を配す。

Semuiji_myoue

ゾルレンの人明恵をよく伝え、私のすこぶる好きな絵である。この樹幹のうねりが明恵の自然の結界となっているのである。]

 同年正月十二日の曉、此の樹下に坐禪す。風烈しく雪霰(ゆきあられ)夥しく降つて袖に霰のたまりければ、出定(しゆつぢやう)の時、
  松が下巖の上に墨染の袖の霰やかけし白玉

 此の歌如何してか天聽(てんちやう)に達しけん、御感(ぎよかん)あつて則ち續後撰集に入れられけり。

大橋左狂「現在の鎌倉」 21 鵠沼・藤沢

 鵠沼 江の島を出でゝ、片瀨電車停留場より、電車に投じて西下すれば、約七分時にして鵠沼停留場に達す。玆處に下車して沙地を南に進めば廣茫たる小松原に、淸酒たる別莊の點々散在するを見るのである。此れ即ち鵠沼別莊地である。此地は今より二十三、四年前即ち明治二十一年頃は全く荒蕪たる沙漠地であつたのである。當時伊藤幹一氏や其他の人々が多くの資を投じて開拓し、最初は草の種まで蒔き付けたとの事である。又風除けには立木も必要であるとの事から一寸二寸位の松苗を植へ付けたのである。かくして鵠沼は漸次に開かれたのであるから其開發程度の遲いのも無理はない。當時は三百歩僅かに一圓位であつたのが二十餘年の今日三百歩一千圓餘の相場を示して居る。別莊も現在九十餘戸に達してゐる。商家も續々殖へて來たのである。
 鵠沼は茅ケ崎と相倂んで、南は海に面し、白沙連なる一帶の海水浴場を爲して居る。而して風光明眉に加ふるに土地高燥にして空氣や新鮮に、且つ飮料水の佳良なる事は大に誇るに足るのである。
 盛夏の候、避暑客の此地に來り、水浴するもの、其數幾千なるかを知り得ない程である。海水浴旅館料理店としては東家、鵠沼館がある。東家の庭内には鵠沼郵便局が設けられて、電話・電信其他一般郵便物の取扱を爲して居る。盛夏の期に至れば、鵠沼一帶の海岸は一芥の塵芥なき程に、砂上は清潔に掃除されて、玆處の更衣所が設けられる。常に水浴客の便を計るべく山上八十八、關根貞二、山上元次郎の三軒の茶屋が出來る。此茶屋は毎年此期には特定されて出來るので一號茶屋、二號茶屋、三號茶屋と稱されてゐる。沙上の一切は此茶屋に依りて何事も辨じられる。海上には堪へず二隻の救護船が浮べられて萬一の危險を豫防して居る。此地産物として農産物の甘藷等があるが名物として鵠沼松露の名高し。
 藤澤 鵠沼より電車に投じて、北に進みて、江の島電車の終點に至れば、玆處は東海道の名驛たる藤澤町である。此地は東海道往還にある商業地丈けに、中々に大きな商家が、町通りに軒を並べて見るやうに往時の面影が思ひ出されるのである。官衙として郡役所あり税務署あり、登記所あり、郵便局、警察署、町役場等皆此地にあり、尚ほ製糸場、釀造場、家畜市場、屠獸場等もある。以て藤澤町現在の發展程度の幾分を知り得るのである。中にも家畜市場は常に四千餘頭の牛豚羊馬を繫畜し得る樣完全に設備してある。而して祭日を除くの外は日々此市場にて家畜の賣買讓與をされてゐる。屠獸場は同地尾島氏の經營に係り屠殺方法に於ても、又消毒方法に於ても、凡てに就て完全なる設備がされてある。故に湘南唯一の模範屠獸場として中々に好評判である。
 藤澤の産出物としては繭、米、麥、大豆及び生糸織物等が首位であるが、尚ほ沿海よりは、鮪、鰯、鯵、其他の魚類がある。殊に沿岸より産出される藤澤松露は名物として遊覽者に評判されてゐる。
 藤澤遊行寺 藤澤停車場を距る約八丁、大鋸橋を渡つて大富町にある。藤澤山淨光寺と稱し、俗に遊行寺と云ふ、時宗の大本山で遊行上人四世の呑海上人の開山である。伽藍は正中年間の建立なるも、其後幾囘となく火災に躍りて幾變遷今日に至つたのである。今尚ほ書院は新築建造中である。此寺は代々の住職が必ず諸國を遊行して布教をするとの宗規があるので遊行寺と名けられたのである。寺寶として後醍醐帝の御像、一遍上人繪詞傳等の國寶がある。尚ほ境内は實に廣壯にして、小栗判官滿重及照天姫を祀れる小栗堂があつて、四時參詣者の踵が絶へない。

HP開設8周年記念 芥川龍之介 (我輩も犬である 名前は勿論ない……)

HP開設8周年記念として「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に芥川龍之介の初期文章「(我輩も犬である 名前は勿論ない……)」を公開した。

海 萩原朔太郎 (初出形)

 海

 海を越えて、人々は向ふに「ある」ことを信じている。島が、陸が、新世界が。
 しかしながら海は、一の廣茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、單調で飽きつぽい景色を見る。
 海の印象から、人々は早い疲勞を感じてしまふ。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向の砂上に寢ころびながら、海を見ている心の隅に、ある空漠たる、不滿の苛だたしさを感じてくる。
 海は、人生の疲勞を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切斷から、限りなく單調になり、想像の棲むべき山影を消してしまふ。海には空想のヒダがなく、見渡す限り平板で、白晝(ひるま)の太陽が及ぶ限り、その「現實」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味氣がない。しかしながら物倦き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
 海を越えて、人々は向ふにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれどもああ! もし海に來て見れば、海は我々の疲勞を反映する。過去の長き、厭はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人々はげつそりとし、ものうくなり、空虛なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくずれてしまふ。
 人々は熱情から――戀や、旅情や、ローマンスから――しばしは海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人々の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬。そして夕方の疲勞から、にはかに老衰して歸つて行く。
 海の巨大な平面が、かく人の觀念を正誤する。

[やぶちゃん注:『日本詩人』第六巻第六号・大正十五(一九二六)年六月号に掲載された。後に昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」及び詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に再録されているが、ここでは初出を示した。但し、「磯草の枯れる砂山の上にくずれてしまふ」の部分は初出では「砂草の枯れる磯山の上にくずれてしまふ」で奇異であり、再録版でもともに「磯草の枯れる砂山の上にくずれてしまふ」となっているので、誤記か植字ミスと判断し、かく標記した。太字「げつそり」は底本では傍点「ヽ」。]

中島敦 孟浩然「早寒江上有懷」訳詩

雁も去り木の葉も落ちぬ

水の上の風の寒さや

ふるさとの雲も離(さか)りて

あはれわが棚無小舟

水と空相合ふあたり

涙のせ流れ行くかな。

日もゆふべ。いづこぞこゝは。

見はるかす海ははるばる。

 

 

  早寒江上有懷

 木落雁南渡


 北風江上寒


 我家襄水曲


 遙隔楚雲端


 郷
涙客中盡


 孤帆天際看


 
迷津欲有問


 平海夕漫漫


     孟浩然

 

[やぶちゃん注:「棚無小舟」「たななしをぶね」と読む。「棚」は船棚(ふなだな)・舷側板(げんそくばん)のことを指す(これは和船の船首から船尾に通す長く厚い板材以外の船の舷側に装着する船板を指す)ので、それがない小船とは造船技術史的には単材の丸木船(一枚棚の小舟)を指すことになる。 

 この詩については底本解題に以下のような解説がある。部分的に引用する。

 

   《引用開始》

 

一の孟浩然「早寒江上有懷」の譯詩は、別に岩田一男藏の『唐詩選』に插し込んであつた紙片にも見られ、それによると第4行目と第5行目とは入れ替つてゐて、「水と空相會ふあたり/あはれ わが棚無小舟」となつてゐる。この『唐詩選』は岩田氏が昭和十三年小樽高商赴任の際、送別の記念に中島より送られたものである。

 

   《引用終了》

 

因みに、この岩田一男氏は、私も高校時代にお世話になった光文社カッパ・ブックス(一九六九年刊)の「英単語記憶術」の、あの英文学者の岩田一男である。岩田一男(明治四三(一九一〇)年~昭和五二(一九七七)年)は横浜生。東京外国語学校英文科卒。横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)教諭から小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)教授となり、その後、一橋大学教授となった。横浜高等女学校時代には中島敦の同僚であった(以上はウィキ岩田一男に拠る)。]

靑狐 大手拓次

 靑狐

 

あをぎつねはあしをあげた、

うすねずみいろの毛(け)ばだつた足(あし)をふうはりとあげた、

そのあしのゆびにもさだめなくみなぎる

いきもののかなしみ。

あをぎつねはしらじらとうす眼(め)をあけて、

あけがたの月をながめた。

鬼城句集 夏之部 蚊遣

蚊遣    蚊遣して馬を愛する土豪かな

      ほそほそと白き煙や蚊遣香

[やぶちゃん注:底本では「ほそほそ」の後半は踊り字「〱」。]

      川端に住で流すや蚊を燒く火

      三たび起きて蚊を燒く老となりにけり

      蚊をいぶしに淺間颪の名殘かな

      水郷や家くゞらする蚊を燒く火

[やぶちゃん注:「くゞらする」の「ゞ」は底本では「〵」に濁点の踊り字。これはユニコードには似たものとして「〴」はあるが、全く同じものはない。]

      大榾の夜々の蚊遣に細りけり

2013/06/25

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十二

■原稿120(121)

       〈《九》→十〉*十二*

 

[やぶちゃん注:「十二」は5字下げ。本文は2行目から。

●この原稿には右罫外上方から14マスほどまで赤インクで、

 改造 三月号 芥川川氏つゞき

と大書してある(かなり滲んでおり、「つゞき」の周囲にはかなりの赤インクによる汚損がある)。また、「十二」に右には普通の鉛筆書きで、

 5で

とある。活字ポイントの校正指示のように見える。更に、この原稿ではナンバリングの直下に手書きの「121」が書かれているが、それはこれまでの黒鉛筆ではなく、青鉛筆による手書きで、これ以降の手書き番号もその青鉛筆によっている。ただ特異なのは、その右手、8行目罫外上方に、

 よ印120

と赤鉛筆で記されている点と、ナンバリング「120」の右肩に赤インクで、

 ך

大型のチェック(?)が入っている点である。]

 

 或割り合に寒い午後です。僕は〈《あ》→《余り退屈で》〉*「阿呆の言葉」も讀み*

〔飽きま〕したから、哲学者のマツグを尋ねに出かけま

した。すると或〔寂しい〕町の角に〈背〉蚊のやうに瘦せた河

童が一匹、ぼんやり壁によりかかつ〈て〉**ゐま

した。しかもそれは紛れもない、いつか僕の

〈銀時計〉*萬年筆*を盜んで行つた河童なのです。僕はし

めたと思ひましたから、〈早速〉*丁度*そこへ通りかか

つた、逞しい巡査を呼びとめました。

 「ちよつとあの河童を取り調べて下さい。あ

 

■原稿121(122)

の河童は丁度一月ばかり前にわたしの〈銀時計〉*萬年筆*

を盜んだのですから。」

 巡査は右手の棒をあげ、(〈河童〉*この國*の巡査は劍

の代りに水松の棒を持つてゐるのです。)〈「〉**

い、〈こら〉**」とその河童へ聲をかけました。〈その〉*僕は*

或はその河童〈が〉**逃げ出しはしないかと思つて

ゐました。が、存外落ち着き拂つて巡査の前

へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだま

ま、〈《如何にも傲然》→巡査の顏や僕の〉*如何にも傲然と僕の顏や巡査の顏*をじろじろ見〈比べ〉てゐるのです。しかし巡査は怒りもせず、〈叮嚀に〉*腹の袋*

 

■原稿122(123)

から手帳を出して〈叮〉早速尋問にとりかかりまし

た。

 「〈君〉*お前*の名は?」

 「グルツク?」

 「職業は?」

 「つひ二三日前までは郵便配達夫をしてゐま

した。」

 「よろしい。そこで〈■〉**の人の申し立てによれ

ば、君はこの〈時〉**〈銀時計〉*萬年筆*を盜んで行つたと

云ふことだがね。」

[やぶちゃん注:「グルツク?」の「?」はママ。初出及び現行では、

 「グルツク。」

である。]

 

■原稿123(124)

 「ええ、一月ばかり前に盜みました。」

 「何の爲に?」

 「子供の玩具にしようと思つたのです。」

 「その子供は?」

 巡査は始めて相手の河童へ鋭い目を注ぎま

した。

 「一週間前に死んでしまひました。」

 「死亡證明書を持つてゐるかね?」

 瘦せた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出

しました。巡査はその紙へ目を通すと、急に

 

■原稿124(125)

にやにや笑ひながら、相手の肩を叩きました。

 「よろしい。どうも御苦勞だつたね。」

 僕は呆氣にとられたまま、巡査の顏を〈■〉**

てゐました。〔しかも〕そのうちに〈もう〉瘦せた河童は何

かぶつぶつ呟きながら、僕等〈を〉**後ろに〔して〕行つて

しまふのです。僕はやつと気をとり直し、か

う巡査に尋ねて見ました。

 「どうしてあの河童を摑まへない〈ん〉**です?」

 「あの河〈■〉**は無罪ですよ。」

 「しかし僕の〈銀時計〉*萬年筆*を盜んだのは………」

 

■原稿125(126)

 「子供の玩具にする爲だつたのでせう。〔〈しかも〉*けれども*〕その

子供は〈もう〉死んでゐるのです。若し何か御不

審だつたら、刑法千二百八十五條をお調べな

さい。」

 巡査はかう言〈つ〉**すてたなり、さつさとどこ

かへ行つてしまひました。〈僕は〉*僕は*仕かたがあり

ませんから、「刑法千二百八十五條」を〈繰り返し〉口の中に

繰り返し、マツグの家へ急いで行(い)きま〔し〕た。哲

学者のマツグは〈不相変古色の色硝子のランタ〉*客好きです。現にけふも薄暗*

い部屋には裁判官のペツプ〈だの〉**医者のチヤツク

 

■原稿126(127)

や硝子会社の社〈会〉長のゲエルなどが集り、〈例

の〉*七色の*色硝子のランタアンの下に煙草の煙を立

ち昇らせてゐました。〈僕は〉そこに裁判官のペツプ

が來〈た〉てゐたのは何よりも僕には好都合〔で〕す。僕

は椅子にかけるが早いか、〈早速にペツプに〉*刑法千二百八*

五條を檢べる代りに早速ペツプへ問ひかけま

した。

 「ペツプ君、甚だ失礼ですが〔ね〕、この国では罪

人を罰しないのですか?」

 ペツプは金口の煙草の煙を〈悠々〉まづ悠々と吹き

[やぶちゃん注:

●「甚だ失礼ですが〔ね〕、」初出及び現行は、この「ね」の挿入を無視して、

 甚だ失礼ですが、

となっている。]

 

■原稿127(128)

〔上〕げ〈た後〉*てから*〈つ〉如何にもつまらなさうに返事をしま

した。

 「罰しますとも。死刑さへ〈あ〉*行はれ*る位ですからね。」

 「しかし僕は一月ばかり前に、………」

 僕は委細を話した後、〔例の〕刑法千二百八十五條

のことを尋ねて見ました。

 「ふむ、それはかう云ふのです。〈■〉―――『如何な

る〔犯〕罪を〈犯し〉*行ひ*たりと雖も、〈その〉*該犯*罪を〈《行せるに至り

し》→行ひたるに〉*行はしめたる*〔相当の〕事情の消失したる後は該犯罪者を〈罰〉處罰す

ることを得ず』つまりあなたの場合〈で〉**言へ

[やぶちゃん注:

●「それはかう云ふのです。〈■〉」「す。」の句点は特に後から書いたようには見えない(インクの色から)から、この直下の抹消は字でない可能性が高い。芥川は句点を最終字と同じマスに打ち、その下のマスを空ける癖があるから、ここに字は書かないのである。ダッシュを引こうとしてペンがやや左寄りに入ってしまい、しかもそこで止めたペン先が右上へ少し跳ね上がってしまったため、抹消して仕切り直しのダッシュを引いたのではなかろうか。

●『如何なる〔犯〕罪を〈犯し〉*行ひ*たりと雖も、〈その〉*該犯*罪を〈《行せるに至り

し》→行ひたるに〉*行はしめたる*〔相当の〕事情の消失したる後は該犯罪者を〈罰〉處罰することを得ず』という刑法1285条の成文過程を見よう。当初のそれは、

 『如何なる罪を犯したりと雖も、その罪を行せるに至りし事情の消失したる後は該犯罪者を罰することを得ず』

であった。それを、

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行ひたるに至りし事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

としいった感じに直し、最終的に、

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる相当の事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

と成文している。ところが実は、初出及び現行の刑法1285条は、

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

なのである。即ち、芥川がわざわざ挿入指示をしてある「相当の」が脱落しているのである。これは実は旧全集後記の異同でも指摘はされているのである。が、しかし旧全集編集者は遂に初出を採って、現在まで河童国刑法1285条はこの誤りのままなのである。私にはその初出表現の採択理由の正統性が全く分からない。私はこの河童国刑法条文の誤りを今こそ正すべき時がきたと思っている。再度正字で示す。

 『如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる相當の事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず』

これこそが正しい「河童國刑法千二百八十五條」である!]

 

■原稿128(129)

ば、その河童は嘗〈て〉**は親だつたのですが、今

は〔もう〕親ではありませんから、犯罪も自然と消滅

するのです。」

 「それはどうも不合理ですね。」

 「常談を言つてはいけません。〈我々は刻々

変〉だつた河童も親である河童も同一に見るのこそ不合理で

す。さうさう、日本の法律では同一に見るこ

とになつてゐるのですね。それはどうも我々

には滑稽です。ふふふふふ〈」〉、ふふふふふ。」

 ペツプは卷煙草を抛り出しながら、気のな

[やぶちゃん注:太字「だつた」及び「である」は底本では傍点「ヽ」。]

 

■原稿129(130)

い薄笑ひを洩らしてゐました。そこへ口を出

したのは法律には緣の遠い〈ヤ〉**

ヤツクです。チヤツクはちよつと鼻眼〈鏡〉金を直し、〈「日本に〉*かう僕*〈尋

ねました〉*質問しました*

 「日本にも死刑〔は〕ありますか?」

 「ありますとも。日本では絞罪です。」

 僕は〈如何〉冷然と構えこんだペツプに多少〈の〉反感

〈持つ〉*感じ*てゐましたから、この機會に〈早速〉皮肉を浴

せてやりました。

 「この国の死刑は日本よりも文明的に出來て

 

■原稿130(131)

ゐるでせうね?」

 「それは勿論文明的です。」

 ペツプはやはり落ち着いてゐました。

 「この国では絞罪などは用ひません。〈大抵〉*稀に*

電気を用ひ〈《ます》→てゐ〉ることもあります。しかし大抵は

電気も用ひません。唯その犯罪の名を言つて

聞かせるだけです。」

 「それ〔だけ〕で河童は死ぬのですか?」

 「死にますとも。我々河童の神經作用はあな

たがたのよりも微妙ですからね。」

 

■原稿131(132)

 「〈さう〉*それ*は死刑ばかりではありません〈。〉よ。殺人

にもその手を使ふの〈です〉*があ*ります。―――」

 社長のゲエルは色硝子の光に顏中紫に染ま

りながら、人懷(な)つこい笑顏(ゑがほ)をして見せました。

 「わ〈し〉たしはこの間〉**も或社會主義者に『貴樣は

〈泥坊〉*盜人(ぬすびと)*だ』と言はれた爲に〈もう少しで息が〉*心臟痲痺を起し*かかつ

たものです。」

 「それは案外多いやうですね。わたしの知つ

てゐた或〈《画家》→小説家〉辯護士などは〈その男〉*やはり*その爲に死んで

しまつたのですからね。」

[やぶちゃん注:2箇所の現行と違う問題点がある。

●「〈さう〉*それ*は死刑ばかりではありません〈。〉よ。」この「よ」は、芥川がわざわざ前の句点を抹消して推敲した結果

それは死刑ばかりではありませんよ。

としたのである。にも拘らず、初出及び現行は、

 それは死刑ばかりではありません。

である。ゲラ校正でまたも芥川が「よ」を削除指示したとは、私には思われないのである、これは校正ミスである可能性がすこぶる大きいと私は考えている。

●「染まりながら、」は初出及び現行は、

 染(そま)りながら、

である。これは校正ミスと断じてよいと私には思われるのである。]

 

■原稿132(133)

 僕はかう口を入れた河童、―――哲學者の〈ゲエル〉*

ツグ*をふりかへりました。マツグはやはりい

つものやうに皮肉な微笑を浮かべたまま、〈僕〉**

の顏も見ずにしやべつてゐるのです。

 「その〈男は〉*河童は*誰かに蛙だと言はれ、―――勿論

あなたも御承知でせう、この国で蛙〈と〉だと言

〈《る位甚しい侮辱のないこと》→るのは人非人の意味と云ふこと〉*れるのは人非人と云ふ意味になること位*は。―――

〈■〉**は蛙かな? 蛙ではないかな?と毎日考へ

てゐるうちにとうとう死んでしまつたもので

す。」

 

■原稿133(134)

 「それはつまり自殺ですね。」

 「〈ええ、つまり自殺〉*尤もその河童を蛙*だと言つたやつは殺すつ

もりで言つたのですがね。〈やはり〉あなたがたの〈国〉**

ら見れば、やはり〈自殺〉それも自殺と云ふ………」

 丁度マツグがかう云つた時です。突然その

部屋の壁の向うに、―――確かに詩人のトツク

の家に鋭いピストルの音が一発、〈何?〉空気〈の〉**〈■〉**

ね返へすやうに響き渡りました。

[やぶちゃん注:以下、2行余白。

●「空気〈の〉**〈■〉**」の判読不能字は漢字で「勹」まで書いて抹消している。何と書こうとしたのか? 「空気の」に続くのであるが、想起出来ない。判読及び推定の出来た方は是非、御一報あれかし。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 20 江の島

 龍口寺の南に、片瀨電車停留所がある。玆處より南して旅館風琴閣、川口村役場、巡査駐在所前を過ぎて、六、七丁餘の平沙を踏めば、江の島長橋に至る。此長橋を渡り詰むれば即ち江の島である。干潮時は此長橋を渡らずとも、平沙を辿りて江の島に至る事が出來る。長橋は川口村の村營である。毎年度の初めに村民に入札せしめて請負はせるのである。然れども毎年鎌倉・江の島の人出尤も多き、七、八月の交豪雨の爲めに潮に押されて、此長橋が流失するので、江の島の景氣に大影響を及ぼす事が往々ある。此等の事より島民は勿論村當局者間には、此長橋を完全なる橋梁にせんとて協議中である。往復渡橋料は三錢である。

[やぶちゃん注:「風琴閣」江ノ電江ノ島駅から江ノ島に向かう洲鼻通りの片瀬写真館の向いにあった旅館。参照した「片瀬写真館」の「江の島・片瀬の古写真」のページによれば、昭和一一(一九三六)年に閉業し、後に火災にあったとある。

「川口村役場」明治二二(一八八九)年の町村制施行により片瀬村と江島村が合併して鎌倉郡川口村となっていた。後、昭和八(一九三三)年に町制施行して鎌倉郡片瀬町となり、昭和二二(一九四七)年には鎌倉市(鎌倉は昭和一四(一九三九)年十一月に鎌倉町と腰越町が合併して市制を施行、鎌倉市となっていた)から藤沢市へ編入合併され、現在の通り、藤沢市片瀬の一部となった。

「交」「かひ(かい)」若しくは「ころ」と読んでいよう。変わり目、頃の意。

「此長橋を完全なる橋梁にせんとて協議中」ここまでの注でも参照させて貰ったウィキの「江の島」によれば、江の島に初めて桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年とあり(但し、砂州の途中から)、明治三〇(一八九七)年に村営棧橋が完成したとある。後、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災によって島全体が二メートル近く隆起、この時、広範囲な海食台が海面上に露出、江の島桟橋は津波で流失したが、すぐに再建され、同年十月には江の島桟橋が川口村営から神奈川県営になった。その後、戦後の昭和二四(一九四九)年四月二五日に、木製であった「江の島桟橋」はコンクリート製橋脚の「江の島弁天橋」(本体は木造で有料)となった。全面コンクリート製となったのは昭和三三(一九五八)年、江の島弁天橋の通行料が無料となるのは昭和三七(一九六二)年の埋立施工によって神奈川県道三〇五号江の島線自動車専用橋「江の島大橋」の開通後のことであった。]

 江の島長橋を渉り詰むれば、上り坂路を右にさかゐや、江戸屋、さぬきや、岩本樓の旅館がある。左り側に北村屋、惠比壽屋の旅館がある。何れも遊覽客を誘ふべく中々に腰が低い。尚ほ旅館の間々に軒を倂べて、江の島名物の貝細工、理木、もずく、鮑の粕漬、さゞゑ等の賣店がある。岩本樓前を僅かに進めば、正面に石段がある。玆處よりは江の島神社の神境で、右を男坂と稱して、參詣の順路である。左り道は女坂と云ひ登り詰むれば、金龜樓の前を經て奧津宮に至るのである。

 江の島 鎌倉停車場より二里十一町、藤澤驛よりは一里二丁ある。何れも電車及人力車の便がある。江の島に至るには片瀨に下車するのである。島は東西六丁、南北五丁、周圍は二十一丁餘ある。島の西濱には漁師町と云ふがある。片瀨・江の島間の長橋を渡り、左右に旅館・賣店等を見て進む事三、四丁石段を右に登れば、下の宮に至る。此宮を更に左に登れば上の宮である。玆處には江の島神社の寶物を陳列して一般參詣人の觀覽を許して居る。之れより更に又左して、相模灘を一時の内に罩むるの眺望絶佳の高地をだらだらと降り金龜樓前を過ぎて進めば、立野岡の右に白木造りの小さな廻欄ある社を見るであらう。此社を本の宮と稱するのである。而して下の宮を邊津宮と稱し、上の宮を中津宮と云ひ、此本の宮を奧津宮と稱してゐる。

[やぶちゃん注:ここの島のデータは関東大震災による隆起前である点に注意。

「東西六丁」約655メートル。現在の地図上で現在の江の島の、稚児が淵の岩礁から湘南港(ヨットハーバー東端の突堤先端)までの東西を計測すると、約1300メートルであるが、西を稚児が淵の碑の辺りから、現在の女性センター背後南方の高い海食崖付近を江の島本体の東端ととって計測すると、約646メートルとなり、この数値に非常に近い。

「南北五丁」約545メートル。現在の地図上で現在の江の島弁天橋の島側の端位置から正中南北で南側の岩礁海岸、ヨットハーバー背後の堤防を下ったところにある大きく張り出した岩礁南端で計測すると、約565メートルある。

「周圍は二十一丁餘」約2・3キロメートル。現行の諸データでは江の島周囲は約4キロメートルと記されてあるが、現在の弁天橋の島側端から江の島の西周囲を滑らかに辿り、東側に突出したヨットハーバー部分を除いた東側海食台に沿って計測してみると、約2キロ強である。東側は海食台直下で断ち切られていたのではなく、砂地で多くの漁師の村落が存在していたから、ここを東に少し張り出して計測すれば、恐らく2・5~3キロとなり、隆起後の状況とも一致してくる。

「立野岡」「立野」というのは、近世、農民の入会利用を禁じた特別な保護地域としての原野や地区を指す語である。

 江の島神社は縣社にして、以上の三社を總稱したのである。世に江の島辨財天と稱するもの、即ち之れである。今尚ほ中津宮に辨財天がある。此辨財天は土御門天皇の御宇、慈覺大師が自作して勸請したるものである。奧津宮の前を進みて坂を降れば、稚兒ケ淵、魚板石等を眼下に眺めて、岩窟に入るのである。岩窟の前にも小棧橋が架して渡賃を取つて居る。此龍窟の入口には御燈明御燈明と叫んで、燈火を勸めて居る。岩窟の廣さ二十尺餘、奧行七十餘間、窟内には胎藏界、金剛界等の二道がある。江の島に詣ずるものは、必ず此龍窟を潛らねば江の島の眞味を解し得られぬとの事である。奧には大日如來を安置してある。

[やぶちゃん注:本書より五年後の大正六(一九一七)年広文堂書店刊の山田史郎「鎌倉江の島地理歴史」(「面白くてためになる小学生読み物」というシリーズの一冊か。「江の島マニアック」から引用)に(コンマとなっている一箇所を読点に代えた)、

   《引用開始》

児が淵から一すじの細い道が奇岩怪石の間に通じ、その先が桟橋になっている。逆巻いて打ち付ける波にゆらゆらする桟橋を渡り、波の飛沫に着物を濡らしながら向こう岸に着く。ここは俗に言う巌窟すなわち龍窟であって、その入り口がおよそ方一丈ばかりある中を覗くと、2、3間先の方が真っ暗だ。案内人が真っ先に立ち、先生が第2番、俺が第3番、その後ろから一同が一列になって続いてくる。洞は次第々々に狭くなり低くなり、人の声、足の音が洞の中に反響してすこぶる物凄い。途中でロウソクをつけ腰をかがめて手探りに進んで行く。暗さが進むにつれてだんだん増して来て、薄気味の悪いことおびただしい。かれこれ1町も来たかと思う頃、細い道が胎臓谷、金剛谷の2つに分かれてまた一つになる。行き止まりの奥に大日如来を安置してある。もしこれから先の小さい穴を無理に進んで行くと、一つは富士山の人穴に出て、一つは月山の峰に出ると案内者が空々しいことを真顔で言う。

   《引用終了》

とある。ウィキには、この「岩屋」について、『江の島南西部の海食崖基部の断層線に沿って侵蝕が進んだ海蝕洞群の総称。古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきた。富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説がある。江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきたが』、昭和四六(一九七一)年三月七日に崩落事故が起き、以来、永く立入禁止措置がとられたが、二十二年を経て、藤沢市の手で安全化改修工事が行われ、一九九三年に『第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設として公開された』。その新規公開の「第一岩屋」は公開区間全長152メートル、『奥で二手に分岐』し、「第二岩屋」は公開区間全長112メートル、入口は二本の洞が並行し、奥で一つになる、とある。

「岩窟の廣さ二十尺餘」約6メートル強。

「奧行七十餘間」約128メートル。]

僕の妹

僕が高校生の時、母が子宮外妊娠をした。女の子だったそうである。僕には十六離れた妹がいたのだった。

――芥川龍之介は僕の偏愛する「點鬼簿」の中で、彼の生まれる前に突然夭折した一人の姉「初ちゃん」のことを記している。……

 

……この姉を初子と云つたのは長女に生まれた爲だつたであらう。僕の家の佛壇には未だに「初ちやん」の寫眞が一枚小さい額緣の中にはひつてゐる。初ちやんは少しもか弱さうではない。小さい笑窪のある兩頰なども熟した杏のやうにまるまるしてゐる。………

 

……僕はなぜかこの姉に、――全然僕の見知らない姉に或親しみを感じてゐる。「初ちやん」は今も存命するとすれば、四十を越してゐることであらう。四十を越した「初ちやん」の顏は或は芝の實家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顏に似てゐるかも知れない。僕は時々幻のやうに僕の母とも姉ともつかない四十恰好の女人が一人、どこかから僕の一生を見守つてゐるやうに感じてゐる。……

僕も時々、芥川と同じように――幻のように僕の年の離れた可愛らしい妹が、僕の背中で人形を抱えて唄を歌っているのを感じることがあるのである――

知れる人の令妹の訃報に

  悼亡

更けまさる火かげやこよひ雛の顏 芥川龍之介

中島敦訳 高青邱詩

宵の雨       はや霽(あが)りしか
梧桐(きり)の葉に 月影ほのか
窓あかり      書(ふみ)讀む聲は
さし竝(な)みの  隣家(となり)の童(わらべ)
ふるさとに     待つ兒もなくて
草枕        旅に病む身は
小夜ふけの     幼き聲に
心傷(むねやぶ)れ 未だも いねず

 月淡梧桐雨後天
 咿唔聲在北窗前
 誰知鄰館無兒客
 病裏聽來轉不眠
         高靑邱

幼なき妹に 萩原朔太郎

 幼なき妹に

いもうとよ、
そのいぢらしき顏をあげ。
みよ兄は手に水桃(みづもゝ)をささげもち、
いつさんにきみがかたへにしたひよる、
この東京の日くれどき、
兄の戀魚は靑らみてゆきて、
日毎にいたみしたゝり、
いまいきもたえだえ、
あい子よ、
ふたり哀しき日のしたに、
ひとしれず草木(そうもく)の種を研ぐとても、
さびしきはげに我等の素脚ならずや。
ああいとけなきおんみよ。
          ―一九一四、五、三―

[やぶちゃん注:『創作』第四巻第六号・大正三(一九一四)年六月号に掲載。]

舞ひあがる犬 大手拓次

 舞ひあがる犬

 

その鼻をそろへ、

その肩をそろへ、

おうおうとひくいうなりごゑに身をしづませる二疋(ひき)の犬。

そのせはしい息をそろへ、

その眼は赤くいちごのやうにふくらみ、

さびしさにおうおうとふるへる二ひきの犬。

沼のぬくみのうちにほころびる水草(すゐさう)の肌のやうに、

なんといふなめらかさを持つてゐることだらう、

つやつやと月夜のやうにあかるい毛なみよ、

さびしさにくひしばる犬は

おうおうとをののきなきさけんで、

ほの黄色い夕闇(ゆふやみ)のなかをまひあがるのだ。

しろい爪をそろへて、

ふたつの犬はよぢのぼる蔓草(つるくさ)のやうに

ほのきいろい夕闇の無言のなかへまひあがるのだ。

そのくるしみをかはしながら、

さだめない大空のなかへゆくふたつの犬よ、

やせた肩をごらん、

ほそいしつぽをごらん、

おまへたちもやつぱりたえまなく消えてゆくものの仲閒(なかま)だ。

ほのきいろい夕空のなかへ、

ふたつのものはくるしみをかはしながらのぼつてゆく。

 

[やぶちゃん注:三箇所の太字「おうおう」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 扇

扇     扇繪やありともなくて銀の浪

      むくつけきをのこが舞へる扇かな

      關取の小さき扇を持ちにけり

       老妓

      老いそめてなほ繪扇の小さなる

2013/06/24

耳鳴りに飽きたから寝ることにする

この五月蠅さはたまらない。
もう、寝よう。

眠りに落ちるまでは地獄だが、落ちれば、後は気にしなくてすむのだ(それが「たかが」耳鳴りの「誰にも理解出来ない」というばかばかしさである)――

起きて居ても面白いこともなさそうだし、一昨日から想えば、厭なことばかりが波状的に押し寄せるのは実に「語るに落ちた」というやつではないか――

では、諸君――随分お休み――

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十一

■原稿113(114)

    十一

 

[やぶちゃん注:「十一」は4字下げ。本文は2行目から。以下の「×」(初出及び現行では「*」である)は5字下げ。]

 

 これは哲學者のマツグの書いた「阿呆の言葉」

の中の〈数節〉*何章(なんしやう)*かです。――

     ×

 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる。

     ×

 我々の〈天〉**然を愛するのは自然は我々を憎ん

だり嫉妬したりしない爲もないことはない。

 

■原稿114(115)

     ×

 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しなが

ら、しかもその〔又〕習慣を〔少しも〕破らないやうに暮らす

ことである。

     ×

 我々の最も誇りたいものは我々の持つてゐ

ないものだけである。

     ×

 何びとも偶像を破壞することに異存(いぞん)を持つ

てゐるものはない。同時に又何びとも偶像に

なることに異存を持つてゐるものはない。し

 

■原稿115(116)

かし偶像の台座の上(うへ)に安んじて〈ゐられ〉*坐つて*ゐられるも

のは最も神々に惠ま〈ま〉れたもの、―――阿呆か、

悪人か、英雄かである。(クラバツクはこの章

の上へ爪(つめ)の痕(あと)をつけてゐました。)

     ×

 我々の生活に必要な思想は三千年前に盡き

たかも知れない。我々は唯古い〈《思想》→薪〉*薪(たきぎ)*に新らし

い炎(ほのほ)を加へるだけであ〈る。〉*らう。*

     ×

 我々の特色は我々自身の意識を超越するの

[やぶちゃん注:前の原稿と繋がらない。初出及び現行は、前の「■原稿114(115)」の「し」を受けて、
 しかし偶像の……
と続く。ゲラで訂されたものか。]

 

■原稿116(117)

を常としてゐる。

     ×

 幸福は苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとす

れば、―――?

     ×

 自己を弁護することは他人を弁護すること

よりも困難である。疑ふものは弁護士を見よ。

     ×

 矜誇(ぎんこ)、愛慾、疑惑―――あらゆる罪は三千

年來、この三者から発してゐる。同時に又〔恐らくは〕あ

[やぶちゃん注:「矜誇(ぎんこ)」の読みはママ。初出及び現行は、

 矜誇(きんこ)

 

である。「矜」の音は「キヨウ(キョウ)/キン・ゴン/クワン(カン)」であり、「ギン」という音はないから芥川の誤記と考えてよい。しかしこの初出と現行の読みも実は一般的ではないのである。これは辞書を見ても「きようこ(きょうこ)」か「きようくわ(きょうか)」(「か」は「誇」の漢音)であって「きんこ」ではない(意味は「矜」「誇」ともに、ほこる、で、誇ること、自慢すること、いばることの意である)。私は秘かに――これは芥川龍之介のみならず、驚くべきことに文選工も植字工もゲラ校正担当者も全員、「矜」という字を「衿」という字と誤って「きん」「ぎん」(但し、「衿」も「キン・コン」で「ギン」という音はない)と読んでいるのではないか?――と疑っているのである。大方の御批判を俟つものであるが、いずれにせよ、ここの読みは「きようこ」とするべきであると私は思う。]

 

■原稿117(118)

らゆる德も。

     ×

 〈平和は〉物質的欲望を〈■〉**ずることは必しも平

和を齎さない。〔我々は〕平和を得る爲には精神的欲望

も減じなければならぬ。(クラバツクはこの章

の上にも爪の痕を殘してゐました。)

     ×

 我々は人間よりも不幸である。人間は〈我々〉*河童*

ほど進〈歩〉**してゐない。(僕はこの〈一〉章を讀んだ

時、〈笑〉**はず〈微〉**つてしまひました。)

[やぶちゃん注:「物質的欲望を〈■〉**ずることは」この抹消字は(てへん)である。これを「持」と措定して推測するなら、芥川はもしかすると、最初、

 平和は物質的欲望を持つ

或いは、

 平和は物質的欲望を持たない

といったコンセプトで書こうとしたのではなかったか?

●「僕はこの〈一〉章を讀んだ時、〈笑〉**はず」は初出及び現行では

 僕はこの章を讀んだ時思はず

と、読点がない。ここは原稿通りに読点を打つべきである。]

 

■原稿118(119)

    ×

 成すことは成し得ることであ〈る。〉*り、*成し得る

ことは成すことである。〔畢竟〕我々の生活はかう云

〈盾〉**環論法を脱することは出來ない。―――

即ち不合理に終始してゐる。

     ×

 ボオドレエルは〈彼の人生観を〉*白痴になつた*後、彼の人生

観をたつた一語に、―――女陰の一語に表〈■〉**

た。〈それは〉*しかし*彼自身を語るものは必しもかう言

つたことではない。寧ろ彼の天才に、―――彼

 

■原稿119(120)

の生活を維〈持〉**するに足る詩的天才に信賴した爲

に胃袋の一語を忘れたことである。(この章に

もやはりクラバツクの爪の痕は残つてゐまし

た。)

     ×

 若し理性に終始するとすれば、我々は〔当然〕我々

〔自身〕の存在を否定しなければならぬ。〈ヴォ〉理性を神

にしたヴォルテェエルの幸福に一生を了つたのは

即ち人間の河童よりも進化してゐないことを

示すものである。

[やぶちゃん注:余りの行なしで本章終わり。

●「〈ヴォ〉」促音表記はママ。

●「ヴォルテェエル」はママ。初出及び現行は普通に、

 ヴオルテエル

である。]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 ミミズ及びヒル


Mimizu_3


[「みみず」の交接]

 

 「みみず」も雌雄同體であるが、その生殖器の模樣は「かたつむり」などのとは餘程違ふ。まづ生殖器が體外に開く孔が數多くある。即ち精蟲の出る孔が一對、卵の出る穴が一對、及び相手から精蟲を受け入れるための穴が二三對もある。但しこの數は「みみず」の種類によつて少しは違ふ。また内部の構造を見ると、「みみず」では卵巣と睾丸とは全く別であつて、各々一對づつ具はり、それから體外へ出るまでの輸卵管も輸精管も一對づつ別になつて居る。それ故、「みみず」では體内で自分の卵に自分の精蟲を合はせることは決して出來ぬ。交接するときには二疋が互違ひに向うて體を相近づけ、皮膚の表面から分泌した濃い粘液で離れぬやうに結び付いて、互に精蟲を相手の體内に送り入れる。精蟲はその際には相手の受精嚢に入るだけでまだ卵とは相觸れず、後に至り卵が生まれるときに初めて受精嚢から出され、親の體外で卵に接する。かくして卵は更に多量の蛋白に包まれ、塊狀がなして地中に産み付けられるのである。「ひる」類も雌雄同體であるが、生殖器の構造は幾分か「みみず」とは違ひ、受精嚢はなく輸精管・輸卵管ともに體外へ通ずる孔は、體の中央線に當つて一づつあるだけで、輸精管の出口の内には管狀の交接器がある。そして交接するときには二匹が相接して、互に自分の交接器を相手の輸卵管の末端に插し入れ、その内へ精蟲を送り込むのである。産卵の模樣は「みみず」によく似て居る。

[やぶちゃん注:「かくして卵は更に多量の蛋白に包まれ、塊狀がなして地中に産み付けられる」この部分については、ウィキミミズの生殖の記載にやや詳しく載る。以下に引用する。『生殖時期になると、二頭の成体が体を逆方向に向けて環帯部分の腹面を接着することにより交接をおこない、精子を交換する。交接後、ミミズは環体の表面に筒状の卵包を分泌し、これと体の隙間に複数の受精卵を産卵して栄養物質を分泌する。産卵と分泌が完了すると、首輪を脱ぐように卵包を頭部の方向に送りだし、頭部から離脱すると、筒状の卵包の前端と後端が収縮して受精卵と栄養物質を密閉する』。

『「ひる」類』前橋工科大学梅津研究室HP内の同大学院阿部泰宜氏HPの蛭・ヒル・ひる編:愉「貝」な仲間たち!によれば、ヒルの交尾の形態は種によって異なり、環形動物門ヒル綱ヒル亜綱吻蛭(ふんひる)目ウオビル科ウオビル Beringobdella rectangulata などの場合には精包を相手の体の表面に付着させて精子は直接に皮膚から侵入、体腔の間隙を縫うように移動して卵巣に達するという交尾形態をとり、顎蛭(がくひる)目ヒルド科 Haemadipsa 属ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica やヒルド科ヒルド属チスイビル Hirudo nipponia Whitmanの場合には陰茎の挿入によって交尾が行なわれているらしい。受精後に環帯で卵嚢が形成され産卵する、とある(分類及び学名は別ソースから引いた)。]

栂尾明恵上人伝記 42 我なくて後に愛する人なくは飛びてかへれね高島の石――「島」を愛し「石」を愛した明恵

 華宮殿の東の高欄の上に一の石を置けり。是は先年紀州に下向の時、海中の嶋に四五日逗留す。其の時西の沖に嶋のかすみて見えたるを天竺に思ひ准(なぞら)へて、「南無五天諸國處々遺跡(ゆなむごてんしょこくしよしよゆいせき)と唱へて泣々禮拜(らいはい)をなす。多くの同法、亦親族の男子等あり。同じく禮拜を進めて告げて曰はく、天竺に如來の千福輪(せんぷくりん)の御足(みあし)の跡を踏み留(とゞ)め給へる石あり。殊に北天竺に蘇婆河(そばが)と云ふ河の邊に如來の御遺跡多くあり。其の河の水も、此の海に入れば同じ塩に染まりたる石なればとて、此の磯の石を取りて蘇婆石(そばいし)と名づけ、御遺蹟の形見と思ひ、七ケ日の間、夜晝松の嵐に眠を覺し、浪の音に聲を調べて、禮拜をなすに、いひしらぬ冠者原(かんじやばら)までも、涙を拭ひて歡喜(くわんぎ)の思ひを成さずといふことなし。誠に衆生は佛性の薫力(くんりき)あれば、是までも如來の慈悲の等流(とうる)なれば、因緣感動も理(ことわり)に覺ゆ。此の磯の石を持して身を放ち給はず。仍て一首思ひつゞけ給ふ。

  遺跡を洗へる水も入る海の石と思へばなつかしきかな

 

 入滅(にふめつ)近く成りて、此の石に自ら書き付け給ひける。

  我なくて後に愛する人なくは飛びてかへれね高島の石

耳嚢 巻之七 鳥の餌に虫を作る事

 鳥の餌に虫を作る事

 

 籾(もみ)を壹貮合たきて地上へ置(おき)、其上へぬれ菰(ごも)を懸置(かけおけ)ば不殘(のこらず)虫に成る。冷粥(ひえがゆ)を右の通りなせば、はさみ虫といへる物になる由。穀氣の變ずるや、又集(あつま)るや、相違なき事のよし、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:何となく繋がっては読める。トンデモ化生説を信じていた(少なくとも否定していない)根岸がちょっとだけ意外である。

・「冷粥」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「ひえがゆ」と平仮名表記で、長谷川氏は注して、『稗の粥』とされる。この方が自然。たかが鳥の餌である。米の粥では勿体ないし、稗は救荒作物として栽培され、実を食用やそのままでも鳥の飼料などに現在もするから、ここは敢えて長谷川氏の注を採って訳した。

・「はさみ虫」知られた昆虫綱ハサミムシ目 Dermaptera の類、またはクギヌキハサミムシ亜目ハサミムシ科ハサミムシ Anisolabis maritime

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鳥の餌に虫を作る事

 

 稲籾を一、二合炊いて、地面の上に置き、その上へ濡らした菰(こも)を懸けておけば、稲籾は残らず鳥の餌になる虫と変ずる。稗を炊いた粥を同じようにすると、鋏虫(はさみむし)と申す、やはり鳥の好んで啄む虫と変ずる由。

 穀物の気が化生して別種のものに変じ、またその気の集合致いて生き物と化す、これ、全く以って事実に相違なきことなる由、さる人の語って御座った。

大橋左狂「現在の鎌倉」 19 長谷寺・由比ヶ浜・稻村ヶ崎・七里ヶ濱・滿福寺・龍口寺

 長谷寺觀音 海光山長谷寺と云ふ。坂東第四の札所である。總門を入れば右に蓮池を前にして宏壯なる方丈がある。左に出世大黑天の堂がある。石段を登り詰むれば觀音堂がある。本尊十一面觀音は佛工春日の作だと云ひ傳られてある。大和國長谷の觀音と同一の楠にて刻まれ高さ三丈餘、志しの賓錢を納めて僧侶に導かれ行けば燈寵を上下して拜觀させるのである。

 

[やぶちゃん注:例の小泉八雲の見たあの情景である。「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 長谷観音」「鎌倉 田山花袋」の私の注を参照されたい。]

 

 

 由井ケ濱 東は亂橋・材木座の海岸より、西は長谷・坂の下の海岸迄に至る灣曲せる一帶の海濱を由比ケ濱又は由井ケ濱と言ふのである。江の島電車小町停留場より八、九丁、由井ケ濱の停留所がある。玆に下車して海濱に出づれば、波は靜かに白砂美しく、東は三浦半島の翠黛を展望し、西は近く江の島の翠微(すゐび)を眺め、遠く大島を隔てゝ相模灘の風景を一眸に罩(こ)め眞に眺望絕佳と叫ばざるを得ないのである。往昔此邊一帶は弓馬の調練所であつたそうだ。今は湘南唯一の海水浴場となつて居るのである。

 

[やぶちゃん注:「翠黛」「すいたい」とは原義は青みがかった色の黛(まゆずみ=眉墨)から美人の眉、美人の謂いであるが、転じて、美しく緑に霞んで見える山色のことをいう。

 

「翠微」薄緑色に見える山色、または遠方に青く霞む山のこと。]

 

 稻村ケ崎 元弘三年五月新田義貞が鎌倉攻めの時、金裝の備刀を此海に投じて干潮を祈つたと云ふ古跡である。卽ち坂の下の南方海中に突出せる岬にて、靈山ケ崎の丘陵を負ふて崎嶇たる峻岬である。西は七里ケ濱に通じて居る由井ケ濱と同じく眺望賞すべきである。

 

[やぶちゃん注:「崎嶇」「きく」は険しいこと。

 

「峻岬」「しゆんかふ(しゅんこう)」と音読みしていよう。険しい岬。]

 

 七里ケ濱 坂の下より西の海濱で稻村ケ崎邊より腰越濱上附近に至る一帶の海濱を云ふのである。沿道には日蓮上人遭難の際、奇瑞多きとて鎌倉に急報する使者と鎌倉より刑場に赴くべき使者との落合つた行合川、日蓮雨乞の靈跡などがある。由井ケ濱に劣らぬ眺望絕佳の沙汀である。

 

 滿福寺 江の島電車にて七里ケ濱を過ぎ腰越地域に入ると、滿福寺と云ふ停留場がある。停留場の右の石段を登れば此寺である。義經の鎌倉に入らんとした時此地迄來たのである。然し賴朝の怒りに觸れたので何うしても鎌倉に入る事を許されなかつたのである。卽ち玆に滯つて辨慶に陳情書を書かせて賴朝に送つたのである。此陳狀書は腰越狀と云ふのである。今尚同寺の寺寶として辨慶の草した腰越狀が藏されてある。境内に現の池、腰掛石等がある。

 

 

 片瀨龍口寺 片瀨の龍の口にある。日蓮宗で寂光山と號してある。龜山帝の文永八年九月賴綱日蓮上人を松葉ケ谷の庵室に捕へ、大路を打ち渡し龍の口にて刑せんとした時、電光天に閃めき怪風地を拂つて、三郞直重の振上げた蛇胴丸の名刀が鍔元から不思議や三つに折損して散る事が出來なかつたので遂に上人を赦免したと云ふ舊跡である。寺内の五重塔は十三年間の苦心にて信徒十萬人の寄附よりなつたので四十三年の建築である。

山に登る 萩原朔太郎 (初出形)

 山に登る
         旅よりある女に送る

山の山頂にきれいな草むらがある
その上でわたしたちはねころんでゐた
眼をあげてとほい麓の方を眺めると
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた
空には風がながれてゐる
おれは小石をひろつて口にあてながら
どこといふあてもなしに
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのである

           詩集「月に吠える」より

[やぶちゃん注:『感情』第二年一月号・大正六(一九一七)年一月号に掲載された。末尾にかくあるが、感情詩社・白日社出版部共刊の詩集「月に吠える」初版刊行は大正六(一九一七)年二月である。これは言わば、詩集が公刊される前のフライング公開である。なお、同詩集では、

 山に登る
         旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寢ころんで居た。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろつて口(くち)にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた、

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのである。

と表記されている。これ以降の詩集類でも更に一部表記の改変がなされているが、最早それら改作されたものに私は興味がない。これは私の感懐であると同時に、皮肉の意を込めて言うなら、既に萩原朔太郎自身の「自作詩の改作について」での見解にもよるものである、ということを断っておく。]

何處やらに魚族奴等が涙する燻製にほふ夜半は乾きて 中島敦

    夢さめて再び眠られぬ時よめる歌
何處(どこ)やらに魚族奴等(いろくづめら)が涙する燻製(くんせい)にほふ夜半(よは)は乾(かわ)きて

[やぶちゃん注:「和歌(うた)でない歌(うた)」歌群の一首。]

灰色の蝦蟇 大手拓次

 灰色の蝦蟇

ちからなくさめざめとうかみあがり、
よれからむ祕密(ひみつ)のあまいしたたりをなめて、
ひかげのやうなうすやみに、
あをい灰色(はひいろ)の蝦蟇(がま)はもがもがとうごいた。
おほきなこぶしのやうな蝦蟇(がま)だ、
うみのなかのなまこのやうな
どろどろにけむりをはきだす蝦蟇(がま)だ、
たましひのゆめを縫(ぬ)つてとびあるく蝦蟇(がま)だ。
その肌(はだ)は ざらざらで、
そのくちびるはくろくただれ、
しじゆうびつしよりとぬれてゐる。
まよなかに黄色(きいろ)い風(かぜ)がふくと、
この灰色(はひいろ)の蝦蟇(がま)は
みもちのやうにふくらんでくるのだ。
蝦蟇(がま)よ おまへのからだを大事(だいじ)にして
そのくるしみをたへしのんでくれ。
さよなら さよなら
わたしのすきなおほきな蝦蟇(がま)よ。

[やぶちゃん注:「みもち」身持ち。妊娠すること。]

鬼城句集 夏之部 コレラ

コレラ   幾人のコレラ燒しや老はつる

[やぶちゃん注:「老はつる」とあることから、直近の明治期のコレラ流行(後述)ではなく、江戸末期のパンデミックを背景とすると考える。ウィキの「コレラ」から推測すると、安政五(一八五八)年から三年に亙った2度目の大流行(最初の世界的大流行の日本波及は文政五(一八二二)年。この2回目は九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで一〇万人死亡という文献もあるとする)及びその時の残存菌によるとされる四年後の文久二(一八六二)年の3度目のパンデミック(死者五十六万人を出したとあるが、この時、江戸には感染拡大しなかったという文献と、江戸だけでも七万三千人から数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が世情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多いとある)が考えられる(この句の創作時期は「鬼城句集」発刊の大正六(一九一七)年前であるから、この発刊年でさえ既に鬼城は数え五十三歳である)、凡そ六十年ほど前になり、その際の遺体処理に関わった当時は若かった人物ならば八十を越えて「老いはつる」に相応しいと私は思うし、その遠い昔語りの様子が句背に見えてくる気が私はする。なお、これらのパンデミックの江戸への感染拡大が疑問視されるのは、『コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている』とあり、事実、明治元(一八六八)年に幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は二、三年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続いたとある。因みに、明治一二(一八七九)年 と明治一九(一八八六)年には死者が一〇万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ。明治二三(一八九〇)年には日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われ、また明治二八(一八九五)年には軍隊内で流行して死者四万人を記録しているとある。この明治期の流行をこの句の背景としてもよいとは思うが、その場合、凡そ四十年から二十年前のこととなり、対する話者の「老はつる」さまが(私は)生きてこない気がするのである(慶応元(一八六五)年で、句作当時の鬼城を借りに五十前後に措定すると、話し相手の老人は有意に、鬼城よりも遙かに年老いていないとおかしいと私は思うのである)。但し、このコレラの幕末のパンデミックが江戸に拡大していなかったとすると、それは明治の初期のパンデミックを背景とすると言わざるを得ない。この老人が当時、実際に多量に死者を出した関西に当時いたと仮定するならば問題ないのだが、実は鬼城は殆んど生地高崎から出ていないからである(自ずとこの老人も関東の人間で当時江戸若しくは東京にいた確率が高くなるからである)。逆にこの老人の思い出がその幕末のパンデミックの思い出語りであったとすると、俄然、そのパンデミックが江戸へ拡大していた証しともなることになる。たかが一句、されど一句である。そうした歴史の真実への興味からも、私はこの句の中の情景のその場に、居て見たかった気がしてくるのである。]

僕は「歳時記」なるものが、実は嫌いである。博物学書のように季語素材を解説しながら、その実、それは上っ面の退屈なインク臭い解説に過ぎないクソだからである。
例えば、この句にに歳時記的注を附すとすると、「コレラ」を凡庸な博物書のように解説して、太平洋戦争敗戦直後の復員などによる大流行で俳句の季語としての地位を確立したなどどいらぬことを語ることにもなるであろう。
しかし、本当に知りたいのは、この老人の懐古するコレラのパンデミックが何時のことであるかであり、そうして真にこの句を味わえるのは、それが事実とすれば歴史の疑義が氷解するかも知れないという点にこそあるのではあるまいか?
季語をこねくり回して知ったかぶりするような歳時記的評釈(いや、普段の僕の句注はまさにそうじゃないかと指弾されかも知れぬ。そう言われればそうであろう。否定はしない。ただ僕は僕が不確かで分からないことでなければ注は附さない主義である。僕の注は僕自身の学びのための方途であって目的ではないのである)なら、せぬ方がずっとマシである。

2013/06/23

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十 「……」と「――」は違う!

■原稿96

       十

 

[やぶちゃん注:「十」は4字下げ。本文は2行目から。]

 

 「どうしたね? けふは又妙にふさいでゐるぢ

やないか?」

 〈或〉 その火事のあつた翌日(よくじつ)です。僕は〈僕の家の長椅子に〉*卷煙草を

啣(くは)へなが*ら、僕の〈家(いへ)の〉客間(きやくま)〔の〈長〉椅子〕に〈尻〉腰(こし)を〈下(おろ)〉おろした学生

のラツプにかう言ひました。實際又ラツプは

右の脚の上へ左の脚をのせたまま、腐つた嘴(くちばし)

も見えないほど、〈ぢつと〉*ぼんやり*床(ゆか)の上〈を〉*ばかり*見てゐたの

です。

〈 「どうしたと《云》→言ふのに。         〉

 

■原稿97

 「ラツプ君、どうしたねと言へば。」

 「いや、何、つまらないことな〈《んだよ》→のだよ〉*のですよ*。―――」

 ラツプはやつと頭(あたま)を擧げ、〈鼻〉悲(かな)しい鼻聲(はなごゑ)を出

しました。

 「僕はけふ窓の外を見ながら、『おや虫取り

菫(すみれ)が咲いた』と〔何気(なにげ)なしに〕呟いたのです。すると僕の妹は

急に顏色(かほいろ)を變へたと思ふと、『どうせわたしは

〈と〉**り菫よ』と当(あた)り散らすぢやありま〈せ〉**んか

? 〈《そこへ》→そこへ〉*おまけに*又僕のおふくろも大(だい)の妹贔屓(いもうとびいき)で

すから、やはり僕に食つてかかるのです。」

[やぶちゃん注:

●「〈《んだよ》→のだよ〉*のですよ*」の部分は便宜上、かく表示したが、実際には二度目の書き換えの状態の「のだよ」の「の」はそのまま生かしておいて「のですよ」と最終的に丁寧表現に改めてある。]

 

■原稿98

 「虫取り菫が咲いたと云ふことはどうして妹

さんには不快なのだね?」

 「さあ、夛分雄の河童を〈追つかけ〉*摑まへ*ると云ふ意味

にでもとつた〈ん〉**でせう。そこへお〈く〉**くろ〈の〉**仲(なか)

惡い叔母(おば)も喧嘩の仲間入りをしたの〈で〉**すか

ら、愈大騷動になつてしまひました。〈それ〉*しか*

年中(ねんぢう)醉つ〔拂つ〕てゐるおやぢはこの喧嘩を聞きつけ

ると、誰彼の差別なしに毆り出したので〈す。〉

*す。*それだけでも〈弱つてゐる〉*始末のつか*ない所(ところ)へ僕の弟

はその間(あひだ)におふくろの〈財〉**布を盜む〈が〉**早い

 

■原稿99

か、キネマか何かを見に行つてしまひまし〈た。〉

た。僕は………ほんたうに僕はもう、………」

 ラツプは兩手(れうて)に顏(かほ)を埋(うづ)め、何も言はずに泣

いてしまひました。僕の同情したのは勿論で

す。〈が、〉同時に又家族〈主義〉*制度*に對する詩人のトツク

の輕蔑〈を思ひ出〉したのも勿論です。僕はラツプの肩を

叩き、一生懸命に慰めました。

 「そんなことはどこでもあり勝ちだよ。〈■〉

あ勇氣を出し給へ。」

 「しかし………しかし嘴でも腐つてゐなけれ

 

■原稿100

ば、……」

 〈そんな〉*それは*あきらめる外はないさ。さあ、トツ

ク〈君〉の家へでも行かう。」

 「トツクさんは僕を軽蔑してゐます。〈」〉僕はト

ツクさんのやうに〈奔放〉*大膽*に家族を捨てることが

出來ませんから。」

 「ぢやクラバツク君の家へ行かう。」

 僕はあの音樂會以來、クラバツクとも友だ

ちになつてゐましたから、兎に角この大音樂

〈の〉**家へラツプをつれ出すことにしま〔し〕た。ク

 

■原稿101

ラバツクはトツクに比べ〈ると〉*れば*〈常人に近い暮らしを〉*遙かに贅澤に暮ら*してゐます。〈僕〉と云ふのは〈《何も会社の》→硝子〉*資本家のゲ*

ルのやうに暮らしてゐると云ふ意味ではあり

ません。唯いろいろの骨董を、―――タナグラ

の人形やペルシアの陶噐〈や〉**部屋一ぱいに並べ

た中(なか)にトルコ風(ふう)の長椅子を据ゑ、クラバツク

自身の肖像畫の下(した)にいつも子供たちと遊んで

ゐるのです。が、けふはどうしたのか両腕

を胸へ組んだまま、苦(にが)い顏をして坐つてゐま

した。のみならずその又足もとには紙屑が一

 

■原稿102

面(めん)に散〈つて〉*らばつ*てゐました。ラツプ〈はクラバツクとは〉*も詩人のトツク*と一しよに度たびクラバツクには會つて

ゐる筈です。しかしこの容子に恐れた〈と〉**

え、けふは丁寧にお時宜をしたなり、默つて

部屋の隅に腰を〈下(おろ)し〉*おろし*ました。

 「どうしたね? クラバツク君。」

 僕は殆ど挨拶の代りにかう大音樂家へ問〈ひ〉

かけました〈。〉

 「どうするものか? 批評家の阿呆め! 僕

の抒情詩はトツクの抒情詩と比べものになら

 

■原稿102

ないと言やがるんだ。」

 「しかし君は音樂家だし、………」

 「それだけならば我慢も出來る。僕〈のリイド

やシムフォニイは通俗〉*はロツクに比べれば、〈音〉*音樂家の名に價しないと

言やがるぢやないか?」

 ロツクと云ふのはクラバツクと度たび比べ

られる音樂家です。が、生憎超人倶樂部の会

員に〈は〉なつてゐ〈ませんから〉*ない關係上*、僕〈と〉は一度〔も〕話(はな)し

たことはありません。〈も〉尤も〈反〉嘴の反り〈上〉*上(あが)*

た、一癖あるらしい顏だけは度たび寫眞でも

 

■原稿104

見かけてゐました。

 「ロツクも天才には違ひない。しかしロツク

の音樂〈は〉**君の〔音樂に溢れてゐる〕近代的情熱〈がない。」〉*を持つ*てゐない。」

 「君はほんたうにさう思ふか?」

 「さう思ふとも。」

 するとクラバツクは立ち上(あが)るが早いか、タ

ナグラ〔の〕人形をひつ摑み、いきなり床(ゆか)の上(うへ)に叩(たた)

きつけました。ラツプは余程驚いたと見え、

何か声を擧げて〈立ち〉*逃げ*ようとしました。が、ク

ラバツクは〈僕〉ラツプや僕にちよつと「驚くな」と云

 

■原稿105

ふ手眞似をした上(うへ)、今度は冷かにかう言ふの

です。

 「それは君も亦俗人のやうに耳を持つてゐな

いからだ。僕はロツクを恐れてゐる。………」

 「君が? 〈それは空〉*謙遜家を*気どるのはやめ給へ。」

 「誰が謙遜家を氣どるものか? 一君たち

に気どつて見せ〈ても〉*る位ならば*〈何の役にも立たないぢ

やないか?〉*批評家たちの前(まへ)に気どつて見せて*ゐる。僕は―――クラバツクは天

才だ。〈ロツク〉その点ではロツク〈恐〉を恐れてゐない。」

 「では何を恐れてゐるのだ?」

[やぶちゃん注:

●「冷か」は初出及び現行では、

 冷やか

である。

●「君が? 〈それは空〉*謙遜家を*気どるのはやめ給へ。」というクラバックの辛辣な台詞、元は

 君が? それは空気

と書いた可能性を示唆する。即ち、現在の形とは全く違ったものが龍之介の脳内の最初の台詞だった可能性があるということである。]

 

■原稿106

 「何か正体の知れないものを、―――言はばロ

ツクを支配してゐる星(ほし)を。」

 「どうも僕には腑(ふ)に落ちないがね。」

 「ではかう言へばわかるだらう。ロツクは僕

の影響を受けない。が、僕はいつの間(ま)にかロ

ツクの影響を受けてしまふのだ。」

 「それは君の感受性の………。」

 「まあ、聞き給へ。感受性などの問題ではな

い。ロツクはいつも安んじて〔あいつだけに出來る仕事をして〕ゐる。しかし僕

は苛(い)ら〈苛〉**々するのだ。それはロツクの目から

 

■原稿107

見れば、或は一歩の差かも知れない。けれど

も僕には十哩(マ〈■〉イル)も違ふのだ。」

 「〈そんな〉*しかし*先生の英雄曲(えいゆうき〔よ〕く)は………」

 クラバツクは〔細(ほそ)い目を一層細め、忌々しさうに〕ラツプを睨みつけました。

 「默り給へ。君などに何がわかる? 〈ロツク

は僕の〉*僕はロツクを*知つてゐるのだ。ロツクに平身低頭(へいしんていたう)す

る犬(いぬ)どもよりもロツクを知つてゐるのだ。」

 「まあ少し靜かにし給へ。」

 「若し靜かにしてゐられるならば、………僕は

いつもかう思つてゐる。―――僕等の知らない

 

■原稿108

何ものかは僕を、――クラバツクを嘲る爲に

ロツクを僕の前(まへ)に立たせたのだ。〈《マツグはか

う?》→不思議にも〉*哲學者のマツグは*かう云ふことを何も彼も承知してゐ

る。いつもあの色硝子のランタアンの下(した)に古

ぼけた本ばかり讀んでゐる癖に。」

 「どうして?」

 「この〈マツグの〉近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ

本を見給へ。―――」

 クラバツクは僕に一册の本を渡す―――と

云ふよりも投げつけました。それから又腕を

 

■原稿109

組んだまま、突

つつ)けんどんにかう言ひ〔放ち〕ました。

 「ぢやけふは失敬しよう。」

 僕は〈やはり〉悄気返つたラツプと一しよにも

う一度往來へ出ることにしました。〈往來は不〉*人通りの*

夛い往來は不相變毛生欅(ぶな)の並み木のかげにい

ろいろの店を並べてゐます。僕等は何と云ふ

こともなしに默つて歩いて行きました。する

とそこへ通りかかつたのは髮の長い詩人のト

ツクです。トツクは僕等の顏を見ると、腹の

袋から手巾(ハンケチ)を出し、何度も額(ひたひ)を拭(ぬぐ)ひました。

 

■原稿109下(110)[やぶちゃん注:後注参照。]

 「やあ、暫〈く〉らく會はなかつたね。僕はけふは

〔久しぶりに〕クラバツクを尋ね〔よ〕うと思ふのだが、………」

 僕はこの藝術家たちを喧嘩させては悪いと

思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたこ

とを婉曲(えんきよく)にトツクに話しました。

 「さうか。ぢややめにしよう。何しろクラバ

ツクは神経衰弱だからね。………僕もこの二三

週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」

 「どうだね、〈僕等〉*僕等*と一しよに散歩をしては?」

 「いや、けふはやめにしよう。おや!」

[やぶちゃん注:この原稿は左にナンバリングがなく、手書き鉛筆で、

 109下

とあり、ところがここまで振られている中央罫外の鉛筆書き通し番号が、

 110

となってズレ始める。ここ以下、表記のように標題を表示することとする。]

 

■原稿110(111)

 トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の

腕を〈つか〉*摑み*ました。しかもいつか体中(からだぢう)に冷(ひ)や汗

を流してゐるのです。〈僕等(ら)は〉

 「どうしたのだ?」

 「どうしたのです?」

 「何(なに)、あの〈毛生欅(ぶな)の枝(えだ)の中(なか)に〉*自動車の窓の中(なか)か*ら綠(みどり)いろの猿(さる)が

一匹首を〈見〉**したやうに見えたのだよ。」

 僕は夛少心配になり、兎に角あの醫者のチ

ヤツクに〈トツク〉診察して貰ふやうに勸めました。し

かしトツクは何と言つても、承知する気(けしき)色さ

 

■原稿111(112)

へ見せません。のみならず何か疑はしさうに

僕等の顏を見比べながら、こんなことさへ言

ひ出すのです。

 「僕は決して無政府主義者ではないよ。それ

だけは〔きつと〕忘れずにゐてくれ給へ。………ではさや

うなら。〈」〉チヤツクなどは眞平御免(まつぴらごめん)だ。」

 僕等は〈思はず〉*ぼんやり*佇んだまま、トツクの後ろ姿

を見送つてゐました。僕等は―――いや、「僕

等は」ではありません。學生のラツプはいつの

間(ま)にか往來のまん中(なか)に脚(あし)をひろげ、〈股〉しつきり

[やぶちゃん注:

●「忘れずにゐてくれ給へ。………」のリーダは、初出及び現行では、

 忘れずにゐてくれ給へ。――

ダッシュになっている。細かいようだが、私はここはやはり原稿通り、「……」とすべきところと思う。何故か? ここの、最早、狂気に傾斜しているトックの他の台詞は、皆、リーダだからである! このリーダこそが、トックを摑まえてしまった狂気の標記そのものなのだと私は思うからである!
●『「僕等は」ではありません。』初出及び現行は、
「僕等」ではありません。
である。細かいようだが、これも私は原稿通り
「僕等は」であるべきだと思う。これはまさに芥川龍之介の龍之介らしい書き癖なのである!

 

■原稿112(113)

〈自〉ない自動車や人通りを股目金(まためがね)に覗いてゐるの

です。僕は〈ラツプ〉*この河童*も發狂したかと思ひ、驚い

てラツプを引き〈立て〉*起し*ました。

 「〈何をしてゐる?〉*常談ぢやない。*何をしてゐる?」

 しかしラツプは〈意外にも〉目をこすりながら、意外(いぐわい)に

も落ち着いて返事をしました。

 「いえ、余り憂欝ですから、〈股〉逆(さかさ)まに世の中を

眺めて見たのです。〈しかし〉*けれど*もやはり同じこと

ですね。」

[やぶちゃん注:以下、一行余白。]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 二 雌雄同體 ウミウシ


Umiusi_2


[海牛]

 

 海岸へ行つて見ると、海草のおひ茂つた處に「海牛」といふものが幾らも匍うて居る。体は肥え太つて、頭からは二本の柔い角がはえ、徐々と草の上を匍ひながらこれを食つて歩く樣子は如何にも牛を思ひ出させるが、この動物はやはり「かたつむり」や「なめくぢ」の仲間である。但し海中に住んで居るもの故、鰓を以て水を呼吸する。鰓は體の背部にあるが、柔い褶樣のもので被はれて居るから外からは見えぬ。また鰓を保護するために、薄い皿のような介殼があるが、これも外からは見えぬ。しかしこれが死んで柔い體部が腐れ溶けてしまふと、介殼だけが殘つて濱に打ち上げられる。「立浪貝」と名づける貝はこれである。さてこの海牛の類も生殖器の構造は「かたつむり」と大同小異で生殖孔の位置は稍々後にあるが、精蟲を相手の體内に移し入れるための管狀の交接器は頭の右側の處にあるから、二疋相寄つて互にこれを相手の生殖孔に插し入れようとすれば、勢ひ體を互違ひの方角に向けねばならぬ。春から夏へかけて海水も温くなるやうな淺い處では、海草の間に海牛が二疋づつ恰も二つ巴の如き形になつて繫がつて居るのを屢々見附ける。

[やぶちゃん注:前にも述べたが、「海草」は「海藻」とする方が無難(無論、アマモ場などなら正しい)。

「海牛」ウミウシは軟体動物門腹足綱異鰓上目 Heterobranchia に属する後鰓類(Opisthobranchia:近年はこれに階級を与えないが和名呼称としては親しい。これはラテン語の“opistho”(後ろの)+“brankhia”(鰓)である。)の中でも、貝殻が縮小するか、体内に埋没或いは完全に消失した種などに対する一般的な総称(当該体制を持つ総てを必ずしもウミウシと呼ぶ訳ではない)。特に異鰓上目裸鰓目 Nudibranchia(新分類では裸鰓亜目 Nudibranchia(同綴り))が典型的なウミウシとされることが多く、ウミウシとは裸鰓類のことであるとされることもあるが、裸鰓類以外の後鰓類にも和名にウミウシを含む種は多く、和名にカイ(貝)を含む種でも貝殻が極めて小さく、分類するに際してはウミウシに含められる種も少なくない。参照したウィキの「ウミウシ」には、『ただし、貝殻の退化した後鰓類であっても、翼のような鰭で遊泳するハダカカメガイ(クリオネ)などの裸殻翼足類や、アメフラシの仲間である無楯類がウミウシであるかといった質問に対しては、各個人の背景によって正否両方の答えがあり得る。裸殻翼足類はウミウシに含めないことが多いが、無楯類についてはさまざまで、地域によっては明確に含めることもある』とある。また旧来の図鑑にもウミウシの仲間とし、私などもウミウシと理解していた、空気呼吸を行う貝殻の退化した腹足類であるイソアワモチなどは、現在では異鰓類真正有肺類の収眼目 Systelommatophora に分類されており、生物学的に「ウミウシ」ではないことになっている。

『死んで柔い體部が腐れ溶けてしまふと、介殼だけが殘つて濱に打ち上げられる。「立浪貝」と名づける貝はこれである』この叙述にはかなり問題がある。実際に昔は広く介殻の痕跡を持ったウミウシ類の死後の介殻を「立浪貝」と呼んだのであるが、実は生物種として、ウミウシの仲間とされる「タツナミガイ」が、別に現に存在するからである。後鰓目無楯亜目アメフラシ科タツナミガイ Dolabella auricularia がそれである。以下、ウィキの「タツナミガイ」によれば、体長は二〇~二五センチメートル、近縁の同じ無楯亜目 Anaspidea のアメフラシ類と『基本的な特徴は共通するが、表皮が肥厚して硬く、アメフラシほどの可塑性はない。アメフラシがしなやかに身をくねらせるのに対して、タツナミガイはでんと底質の上に鎮座する。手にとって水から揚げても、しっかりと形状を保つ。ただし時間をかければゆっくりと変形することもできる』。『体型はおおよそ円錐形で、後方へ向けて幅広くなり、後端近くが一番広い。背面は丸く盛り上がり、後端側は斜めに断ち切ったような平面になっており、その面の背面側の縁は低いひれのように突き出している。腹面はほぼ平ら。腹面の足とそれ以外の体表の区別は明確でない。後端は丸く終わり、足の後端が特に広がったりはしない』。『前端部は円筒形の頭部になっており、その前端に一対の頭触手が横につきだし、その後方背面には一対の触角が短く突き出す。それぞれアメフラシのように伸びやかでなく、短い棒状になっている。触角の基部の外側には小さな眼がある。』『胴部の背面は大まかには滑らか。アメフラシ類では胴体の背面に一対の縦に伸びるひれ(側足葉)があり、殻などを覆う。アメフラシ類では側足葉を自由に伸ばしたり広げたりできるものが多いが、タツナミガイでは厚く短くなって背中を覆い、その中央で両側が互いに密着して隙間だけが見える。この隙間は胴体部の前方、右側側面に始まってすぐ中央に流れ、そこから中央を縦断、胴部後方の切断されたような面の中央にいたる。そのうちで前述の切断面の輪郭にあたる部分の前と後ろで左右が離れて丸い開口を作る。水中ではこの穴から水を出し入れして呼吸する。後方のものが出水管で、少しだけ煙突のように突き出る。紫の液もここから出る』。『タツナミガイの全身は褐色から緑や水色を帯び、まだらのような複雑な模様が出るが、はっきりしたパターンは見えない。体表面は小さな樹枝状の突起が多数ある。これらの突起は柔らかいので、陸に揚げると体表はほぼ滑らかで波打っているように見える。このようなタツナミガイの形状と色彩は、周囲の環境に擬態的である』。『体型はおおよそ円錐形で、後方へ向けて幅広くなり、後端近くが一番広い。背面は丸く盛り上がり、後端側は斜めに断ち切ったような平面になっており、その面の背面側の縁は低いひれのように突き出している。腹面はほぼ平ら。腹面の足とそれ以外の体表の区別は明確でない。後端は丸く終わり、足の後端が特に広がったりはしない』。『前端部は円筒形の頭部になっており、その前端に一対の頭触手が横につきだし、その後方背面には一対の触角が短く突き出す。それぞれアメフラシのように伸びやかでなく、短い棒状になっている。触角の基部の外側には小さな眼がある』。『胴部の背面は大まかには滑らか。アメフラシ類では胴体の背面に一対の縦に伸びるひれ(側足葉)があり、殻などを覆う。アメフラシ類では側足葉を自由に伸ばしたり広げたりできるものが多いが、タツナミガイでは厚く短くなって背中を覆い、その中央で両側が互いに密着して隙間だけが見える。この隙間は胴体部の前方、右側側面に始まってすぐ中央に流れ、そこから中央を縦断、胴部後方の切断されたような面の中央にいたる。そのうちで前述の切断面の輪郭にあたる部分の前と後ろで左右が離れて丸い開口を作る。水中ではこの穴から水を出し入れして呼吸する。後方のものが出水管で、少しだけ煙突のように突き出る。紫の液もここから出る』。問題の「殻」の記載。『この背面の穴の内側に、外套膜に半ば包まれた殻がある。隙間を広げて指を入れると、指先に殻の感触を感じることができるが、肉質がかなり硬いので力がいる。アメフラシと同様、殻は退化して薄い板状となり、外からは見えない。ただしアメフラシのそれが膜状に柔らかくなっているのに比べ、タツナミガイのそれは薄いながらも石灰化して硬い。時に砂浜にそれが単体で打ち上げられることもある。そのため貝類図鑑にも載ることがある『その先端に巻貝の形の名残があって渦巻きに近い形になっている。タツナミガイとは立浪貝の意味で、この殻の形を波頭の図柄に見立てたものである』。『殻は扁平で管状の部分がない。おおよそは三角形で、径』三~四センチメートルほどで、『一つの頂点の部分が渦を巻いたようになっている。左巻きである。殻は白で褐色の殻皮に覆われる』。ほぼ年間を通して潮間帯下部から水深二メートル程度の『ごく浅い海岸に出現する。泥質のところに多く、干潟や藻場にも出現する。夜行性で昼間はじっとしているように見える。砂の上にいることも多いが、半ば砂に埋もれていることも多い。岩礁海岸にも見られるが、その場合、波あたりの強いきれいなところでなく、波当たりがなく、細かい泥をかぶる潮だまりの岩の上などに見られる。干潮時には陸にさらされているのも時に見かける』。『動きは遅く、短時間の観察では動作を確認できない程度。強く刺激すると背中の穴から鮮やかな紫色の液汁を出す。これは敵を脅す効果を持つものと考えられる。夜にはより活発になり、海底に生える緑藻類など海藻を食べる』。本章の眼目である「生殖」については、雌雄同体であるが、やはり他個体との交接によって精子卵子を交換する。産卵は五~六月で、『卵は紐の中に多数の卵が入った形で、この紐が団子のようにまとまった卵塊を作る。アメフラシのいわゆるウミソウメンと同じであるが、アメフラシのものが鮮やかな黄色であるのに対して、タツナミガイのものは青緑色を帯びている』とある。

「二疋づつ恰も二つ巴の如き形になつて繫がつて居る」一部のウミウシやアメフラシでは三~五匹が繋がって連鎖交尾を行うことが知られている。参考書などではしばしば目にする図であり、私も油壺のタイドプールでアメフラシの三個体が繫がったものを観察したことがあるが、ネット上の画像ではそれほど一般的ではない。小野にぃにぃの海と島んちゅ生活画像がよくとらえている。必見。]

「らんすゐ」追跡1

8:54の教え子のメール



「すゐ」は、やはり「水」から出た石の名称であると思いたいです、そうでなければこの詩のイメージが崩れます。「殺人事件」で「噴水」を「ふんすゐ」とわざわざひらがなで標記した彼。その詩の第五行の「~~は○○」という体言止め。同じ神経回路の閃きから紡ぎだされた詩句のように感じます。

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
(以下、略)

取り急ぎ、いま感じたことです。



なるほど!
「らん水石」か!
「水石」?!
自然石を台座や水盤に砂をしいて配置して鑑賞する「水石」!
こりゃ、まさに盆景と繋がる!

そこで早速只今、江戸の石フリーク木内石亭の「雲根志」の目次をめくってみた。……残念ながら「らんすい石」と発音するものはなさそうだ。……しかし……何となく、確かにこの「すゐ」は「水」だなあ、という気がしてきたぞ……

因みに、ふと目に止まったのは――

「スランガステヰン」

だった――
あまりご存知ないか? これ、石の名前なんだわ。
オランダ語“slangensteen”(スランガステーン)で「蛇の石」の意である。
江戸時代、オランダ人が伝えた薬の名で、蛇の頭から採取するとされた、黒くて碁石に似た白黒の斑紋を持った石で、腫れ物の膿を吸い、毒を消す力を持つとされ、「蛇頂石」「吸毒石」とも呼んだ。所謂、中国の竜骨で、古代の象やその他何でもかんでも変わった化石は「竜骨」と称したんだな、これは。
流石は石亭、「竜骨記」という、これだけの考証本も書いてるぐらいだ。
感心のある向きは僕の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「龍」
の注でマニアックにしてフリーキーに追跡したものがあるからご覧あれ(かなり長い。ページ内検索に「須羅牟加湞天」(スランカステンと読む)を入れてお捜しあれ)。

何で目に止まったかって?
だってほら!
これ、「らん」と「す」と「ゐ」が入ってるんだわさ!
§(*^o^*)§

……閑話休題。今少し、調べてみよっと!

耳嚢 巻之七 蕎麥は冷物といふ事

 蕎麥は冷物といふ事

 

 蕎麥は冷病(れいびやう)といへる事は、ある醫師に尋(たづね)けるに、其風味冷成(ひえな)る共□□物なれども、醫師の知れる富民、屋敷も廣く畑物抔作りしに、其隣成る民夥しく鷄を飼置(かひおき)て、玉子を取(とり)て是を商ひけるに、彼(かの)隣家も是又不貧(まづしからざる)ものにて屋敷も廣ければ、夥敷(おびただしき)鷄故右屋しき内の者草蟲(くさむし)の類(たぐひ)は悉く喰(くひ)盡し、隣家の鼻物をあらしける故愁ひ斷(ことわり)をなせ共、手廣の屋敷なればかこひ等防(ふせぐ)べき手便(てだて)もなく、承知とはいへ共すべきやふなかりしに、或人かの家のあらされたる者境(さかひ)の鼻へ蕎麥を蒔(まき)給ふべし、蕎麥を喰(くふ)鷄は玉子を産(うま)ずと教(をしへ)にまかせ、境鼻へ蕎麥を蒔しに、其後隣の鷄玉子をうむ事なし。不思議なる事とて知れる人に咄しければ、彼そば鼻を見て、右の通(とほり)蕎麥を喰ひたる鷄は玉子を生(うま)ぬなりといゝしが、せん方なく過(すぎ)し由。冷物(ひえもの)故鷄も玉子を生ざる事、其證なるべしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:話者が医師で、前話の話者の一人も医師であるから、軽く連関する。

・「蕎麥は冷物」「冷物」は「ひえもの」。よく蕎麦は体を冷やす、とは言うが、ここでの謂いは「冷病」(冷え症の類か)ともあって穏やかでない。底本の鈴木氏の注には、もっと過激なことが記されているので、例外的に全文を引く。『蕎麦を食べると死ぬとか、タニシを肥料にした蕎麦は大毒とかいう巷説が流布して、奉行所から取締りの触れが出たのは文化十年のこと(我衣)であるから、本巻の執筆より後である。十年のときは、「手打ちぞと聞いたらそばへ立寄るな命二つの盛り替へはなし」という落首まで出たり、七月中村座上演の芝居には、わざわざ夜鷹蕎麦屋に、そんな噂がございますが、みんな嘘でござりますといわせる場面も入れている程である。漢方の医書にも蕎麦の毒についてはっきり記したものはなく、『延寿類要』には「旡毒、実腸胃益力」とある。』「我衣」は医師で俳諧宗匠でもあった加藤曳尾庵(かとうえびあん 宝暦一三(一七六三)年~?)の随筆。「延寿類要」は室町から戦国期にかけての朝廷侍医竹田定盛(たけだじょうせい 応永二八(一四二一)年~永正五(一五〇八)年)の著作(彼は八代将軍足利義政の病いを治癒して法印となっている)。なお、ネット上の記載では、薬膳の観点から見ると蕎麦は陽性であり、逆に体を温める働きがあるとするが、「web R25の『「体を冷やす」といわれる食べ物はホントに冷える!?』には、蕎麦に含まれている蛋白質消化阻害因子が蛋白質の消化を阻害し、消化によって生ずる熱が減って体温が上がらない可能性がある、という科学的仮説が示されていて面白い。

・「其風味冷成る共□□物なれども」底本には「□□」の右に『(難極カ)』と傍注する。これだと、「その風味冷えなるとも極め難き物なれども」となる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『其(その)風味冷来るとも難思(おもいがたき)物ながら』とある。

・「鼻物」底本には右に『(花カ、端カ)』と傍注するが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『畠物』とあって、この誤記であることが分かる。バークレー校版で訳した。

・「境の鼻へ」底本には「鼻」の右にママ注記がある。ここも以下の「境鼻」「そば鼻」も総て「畠」で採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蕎麦は体を冷すものであるという事

 

 巷で、蕎麦は冷病(れいびょう)の元と申すことにつき、ある医師に訊ねたところ、

「……蕎麦の性質(たち)が体を冷やすものであるかどうかは、これ、極め難きことなれども……そうさ、こんな話が御座った。……

……拙者の知れる小金持ちの農家に、屋敷も広く、畑物なんどを耕しておる者がお御座いまするが、その隣りなる農家も、これ夥しき鶏(にわとり)を飼いおいて、その玉子を取ってはこれを商い致いておる者で御座った。

 この隣りの養鶏致す者も、これまた、相応の小金持ちにて、やはり屋敷も広う御座ったが、まあ、飼(こ)う御座ったは、実に仰山な数の鶏で御座ったゆえ、その者の屋敷内の、これ、ありとある、草やら虫やらの類いは、そのうちにこれ、悉く喰い尽くしてしもうて、遂には隣家の畑の物をも荒し始めて御座った。

 されば我らが知れる当主も甚だ困って、その主人に苦情を述べてはみたものの、言われた隣家の側も、こまい鶏と、手広き屋敷内のことなれば、囲いなんどを漏れなくなして防ぐといった手立ても十分には出来申さず、隣家の迷惑は無論、承知のこととは申せども、鶏の畑地荒らしを断つべき妙案も、これなく、時々、気がつては、隣地に入った鶏を呼び戻すほどのことしか出來なんだと申す。

 するとある日のこと、畑地を荒されて御座った農家の知人の者が、この話しを聴いて、

「――それはまんず、隣家との境いの畑へ蕎麦をお蒔きなさるがよろしい。――蕎麦を喰うた鶏は、これもう、玉子を産まずなるによって、の。――」

と教えくれたによって、その通りに境いの畑へ蕎麦を蒔いてみたと申す。

 暫く致いて、蕎麦の実の生ったれば、隣家の鶏は挙ってこの蕎麦の実を突っつき喰ろう。

 盛んに喰うてはそこで満腹して、鶏ども、もう知人の地所内の畑地へは、それより入り込むことも少のうなったと申す。

 ところが、それからほどのう、隣りの鶏、一切、これ、玉子を産むことが、のうなったと申す。

 卵商い致す主人は驚天動地、不思議なことじゃと、困り果てて、たまたま知れる者の訪ね来たった折りに、隣家とのごたごたなんども含めて相談致いたところ、その者、隣家との境に御座った蕎麦畑を見たとたん、

「……あのように蕎麦が植えられては、のぅ。……蕎麦を喰うた鶏の、玉子を産まずなるは、これ、必定じゃて。……」

と申したそうな。

 養鶏の主人、これを聞いても、鶏が勝手によそさまの蕎麦を食うたる所業の末のことなればこそ、文句の言いようも、これ御座なく、そのままにうち過ぎ、結局、養鶏はやめたとか聞き及んで御座いまする。……

……さすればこそやはり――蕎麦は冷え物ゆえ、鶏も玉子を産まずなった――という、まあ、その証しとも言えば、これ、言えましょうかのぅ。……」

と語って御座ったよ。

栂尾明恵上人伝記 41 峰の嵐に諸一切種と上げたれば谷より告ぐる入逢の鐘

 或る日、華宮殿の緣の畔に經行(きんひん)するに、三密の行法一理の坐禪、共に皆佛法の玄底(げんてい)なり。人と齊(ひと)しからずとも、志の行く處人界の思ひ出でと覺ゆるに、我が大師釋尊染汚(ぜんま)・不染汚(ふぜんま)二種の無知を斷じて、衆生の爲に如理(により)の正法を授けて生死の泥(でい)を出し給ふ。三德圓滿の功德有便(いみじく)思ひ知らるゝ次(ついで)に、昔稚(をさな)かりし時暗に誦せし倶舍頭(ぐしやじゆ)の始に、如來の智・斷・恩の三德を説けるを、晝夜其の文を誦し其の義を學びて、今此の大乘甚深の妙門に入るまで年を積ること哀(あはれ)に覺えて、次に、諸一切種諸冥滅と上げたれば、高くかけつくりたる谷より、入逢(いりあひ)の鐘の聲とりあへず聞ゆれば
  峰の嵐に諸一切種と上げたれば谷より告ぐる入逢の鐘

 後日に人語りて云はく、爲兼卿此の歌を讚(ほめ)て云はく、是こそうるはしき歌にてあれ。歌の手本にすべし。先賢もかく讀めとこそ教へ給ひしか。當世よりすぢりたる物は、皆本意を失へりと嘆き給ひけり。
[やぶちゃん注:「當世よりすぢりたる物」「すぢる」は「筋る」(名詞「筋」の動詞化)で体を捩じり、くねらせる、の意で、昨今のやたらと捻くり回したような和歌は、の意である。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 18 長谷の大佛

 長谷の大佛 鎌倉停車場よりは二十丁ある。江の島電車に乘れば長谷の停留所より五丁御輿ケ嶽の西麓にある。大異山廣德寺と稱し大佛は奈良の大佛と共に吾國著名の銅像である。丈三丈三尺、面長(めんてう)八尺五寸、眼長四尺、耳長六尺六寸、口徑三尺二寸、親指廻り三尺二寸、胴圍(どうまはり)十六間二尺、膝廻り五間三尺ある。胎内に觀音及阿彌陀尊を安置してある。遊覽者は胎内拜觀料二錢を投じて胎内に入る事が出來る。建長四年に鑄造されたとの事であるが如何に當時の美術が進歩してあるかに一驚を喫するのだ。其微笑の温顏勝くるが如く寛容の相以て參詣者を迎ふるは實に明治聖代の如何に大平なるかを表示して居る。

[やぶちゃん注:「丈三丈三尺……」以下の数値をメートル換算しておく。

 

丈三丈三尺      一〇・〇  メートル

面長八尺五寸      二・五七 メートル

眼長四尺        一・二一 メートル

耳長六尺六寸      二・〇  メートル

口徑三尺二寸      〇・九六 メートル

親指廻り三尺二寸    〇・九六 メートル

胴圍十六間二尺    二九・六九 メートル

膝廻り五間三尺    一〇・〇  メートル

 

因みに、現在の高徳院の公式サイトのデータを示しておく。

 

総高(台座を含む) 一三・三五  メートル

仏身高       一一・三一二 メートル

面長         二・三五  メートル

眼長         一・〇〇  メートル

口幅         〇・八二  メートル

耳長         一・九〇  メートル

眉間白毫直径     〇・一八  メートル

螺髪(頭髪)高    〇・一八  メートル

螺髪直径       〇・二四  メートル

螺髪数         六五六  個

仏体重量        一二一  トン

 

数値のずれよりも、計測する目の付け所が異なっており、本作の方が明らかにより庶民的な興味を本位としていて面白い。]

石とならまほしき夜の歌 八首他二首 中島敦

    石とならまほしき夜の歌 八首

 

石となれ石は怖れも苦しみも憤(いか)りもなけむはや石となれ

我はもや石とならむず石となりて冷たき海を沈み行かばや

氷雨降り狐火燃えむ冬の夜にわれ石となる黑き小石に

眼(め)瞑(と)づれば氷の上を凪が吹く我ほ石となりて轉(まろ)びて行くを

腐れたる魚(うを)のまなこは光なし石となる日を待ちて我がゐる

[やぶちゃん注:太字「まなこ」は底本では傍点「ヽ」。]

たまきはるいのち寂しく見つめけり冷たき星の上にわれはゐる

あな暗(くら)や冷たき風がゆるく吹く我は墮ち行くも隕石のごと

なめくぢか蛭のたぐひかぬばたまの夜の闇處(くらど)にうごめき哂(わら)ふ

 

    また同じき夜によめる歌 二首

 

ひたぶるに凝師視(みつ)めてあれば卒然(そつぜん)として距離の觀念失(な)くなりにけり

大小(だいせう)も遠近(ゑんきん)もなくほうけたり未生(みしやう)の我(われ)や斯くてありけむ

[やぶちゃん注:「和歌(うた)でない歌(うた)」歌群内の十首。]

盆景 萩原朔太郎 /……誰か馬鹿な僕の疑問に答えてくれ……

 盆景

春夏すぎて手は琥珀、

瞳(め)は水盤にぬれ、

石はらんすゐ、

いちいちに愁ひをかんず、

みよ山水のふかまに、

ほそき瀧ながれ、

瀧ながれ、

ひややかに魚介はしづむ。

         ――一九一四、八.一〇――

[やぶちゃん注:『地上巡禮』創刊号・大正三(一九一四)年九月号に掲載され、後に詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)に所収された際には、クレジットが外された上、「愁ひをかんず、」が「愁ひをくんず、」(「薫ず」、愁いを香らせてくる、という感覚的謂いなのであろうが、極めて特異な用法と思われる)に変えられ、

 盆景

春夏すぎて手は琥珀、

瞳(め)は水盤にぬれ、

石はらんすゐ、

いちいちに愁ひをくんず、

みよ山水のふかまに、

ほそき瀧ながれ、

瀧ながれ、

ひややかに魚介はしづむ。

となっている。

 さて、私はこの詩が好きである。

 それは私が盆景が好きだからである。

 幼少の頃、祖母が盆景をやり、実際に何度か一緒に盆景を造ったことがあるからである。

 いつもそれは僕の望み通り、砂浜の海岸の風景だった。

 浜辺……地引網を曳く漁師たち……猪牙舟の荷……保前船の水主(かこ)……浦の苫屋と網干場……天秤棒を担ぐ行商人……沖を見下ろす寺や神社……犬や猫――祖母の部屋の戸袋から繰り出してくる驚くべき細工物の数々を見ているだけで僕は恍惚になったものだった。……

 だから――

 僕は――実は今も――この詩の――

「石はらんすゐ、」

の意味が未だに呑み込めずに蒼白になって呆然としているのだ。

 この詩に出逢ってからずっとずっと、僕は考え通しなのだ。

 全集の校訂本文も「らんすゐ、」なんだよ。

 これは一体――何だい???

 嵐翠? 藍水? 爛酔?……僕は何となく――石が緑の風を生むとか――藍色の水を滲み出すとか――そんな勝手なイメージで青春時代からこの初老に至るまで随分永いこと、誤魔化してきたのだった。

 しかし、なまじっか国文学に進んで国語学なんどという神経症的な学問を学んでしまうと、これらは「らんすい」で「らんすゐ」じゃあない、ということに気づいてしまったのだった。

 嵐翠――乱酔――爛酔――濫吹――藍水……どの語彙も「石は」に、本当にダイレクトにしっくりくるもんなんて、ありゃしないじゃないか! 宣長の提唱した「スヰ」表記なんぞ、とっくに誤りとされているんだぜ!?……

 じゃあ「ぬれ」「ながれ」と同じ動詞か?――いや、これが「ゐる」(居る)の連用形「ゐ」であるなら、「らんす」も動詞なら連用形でなくてはならない。「らんす」なんて動詞の連用形はないぞ! 「らんす」なんて日本語の名詞も僕は知らないよ。……

 ――――――

 誰か……絶望的に打ちひしがれているこの僕に……こっそり、そっと、教えて呉れないか?……

『馬鹿だね君は。「らんすゐ」はね……という意味に決まってるじゃないか。』

って……

 ――――――]

湖上をわたる狐 大手拓次

   白い狼

 湖上をわたる狐

みなぎる湖上のうへに
爪をといで啼(な)きわたる狐、
まどろみの窓(まど)をひらいて
とほく冬の國へ啼(な)いてゆく狐、
その肌に刺(とげ)の花をうゑつけて、
ゆたかに蒼茫(さうばう)の衣(ころも)をぬぎかへす。

[やぶちゃん注:「蒼茫」は、ここでは即物的には、ほの蒼暗く妖しいものである妖狐の銜えた衣のイマージュであろうが、同時に、そこを透けて対岸も見えぬ妖しい幻想の湖水の、見渡す限り青々と広がるそれをも、同時にそこに重層化させているのであろう。]

鬼城句集 夏之部 雨乞

雨乞    雨乞や僧都の警護小百人

[やぶちゃん注:「僧都」特定個人をイメージした歴史的な空想句であろう。雨乞いを修した僧都は多いが、ものものしい警護の様子は寧ろ、皮肉に雨乞いの失敗を予感させる(ように私には思われる)ところからは、私は例えば、ことあるごとに弘法大師空海と対立した守敏(しゅびん 生没年不詳)僧都を想起した。ウィキの「敏」によれば、大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学んで真言密教にも通じ、弘仁一四(八二三)年に嵯峨天皇から西寺が与えられたが、同時に東寺を与えられた空海とはことにつけ、対立したとされる人物である。弘仁一五(八二四)年の旱魃の際には、神泉苑で修された雨乞いの儀式に於いて空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったが地蔵菩薩に阻まれたと伝わる(これに因み、現在の羅城門跡の傍らには「矢取地蔵」が祀られている)。同じくして西寺も寂れていったとされる。菊池寛の随筆「弘法大師」に、雑誌社(「キング」)から弘法大師を主人公にした戯曲を依頼された際に、

『もう一つ戯曲になるかと思ったのは、法敵守敏との雨乞争いである。これは、諸君も御承知のごとく、「釈迦に提婆、弘法に守敏」と云う言葉さえある通り、守敏僧都は、当時弘法大師の一大法敵であり、呪力強大な高僧である。

 朝廷でも、相当重んぜられていて、弘法大師に東寺を賜ると同時に、守敏には西寺を賜って居り、僧位も弘法大師の上にいた位である。

 守敏は、学徳高く、法力秀れ、栗を水に入れて呪を誦すれば、栗が茹で栗となり、その栗を食べれば如何なる病者も忽ちに癒えたと云うのだ。嵯峨帝の天長元年の春、天下大旱した。帝が空海に雨乞の祈祷をせよと、勅せられると、守敏が横から異議を説え、<自分は空海より、年齢も上であるが、法位の上である、拙僧へ先に命ぜられるのが順序でござりましょう>と、そこで守敏に勅が下った。守敏欣んで、壇を築き祈雨の法を講ずること一七日、雷鳴轟き、大雨沛然として下った。市民歓呼の声を挙げて嘆賞した。これじゃ、守敏の勝利であるが、そのくせ加茂川の水は少しも増さない。おやと云うので、人を派して検べて見ると、雨が降ったのは、京都市内だけで東山は勿論、嵯峨御室のあたり、鳥羽伏見、どこもポツリとも降っていないので、忽ちインチキ雨であったことが分り、改めて弘法大師に勅が下った。大師は即ち京都二條の神泉苑に秘密の法壇を飾りて、一七日祈雨の法を行ったが、不思議なるかな、少しも効験もない。こんな筈ではないと、大師は定に入って、三千世界を眺め渡してその原因を尋ねて見ると、守敏が世界中の諸龍を瓶の中に封じ、呪力を以て出さないためである事を知り、大いに駭いたが、なおよく見渡すと、天竺無熱池の善女と云う龍王丈が、守敏よりも法力が上であるため、封じられて居ないのを知って、更に二日の日延を乞い、その龍王を召請して丹精を凝らすと、霊験忽ちに現われ、三日三晩の大雨となり、洛中洛外五畿七道の大甘雨となったと云うのである。

 その上、祈祷最中に、善女龍王が八寸ばかりの金色の蛇となり、九尺ばかりの長蛇の頭に乗って現われたと云う。』

とある(以上はサイト「エンサイクロメディア空海」の「空海の目利き人」に掲載された日本出版社二〇〇四年刊の夢枕獏編著「空海曼荼羅」所収のものの孫引きである。なお菊池寛のこの話は、戯曲は結局出来なかったという言い訳のエッセイでもある)。

「小」は接頭語で、数量を表す名詞や数詞に付けて、僅かに及ばないが、その数量に近いことを表す。ほぼ。]

2013/06/22

耳嚢 巻之七 商家義氣幷憤勤の事

 商家義氣幷憤勤の事

 近き比の事也とや。伊勢より一所に江戸え出しとや、又同じ親[やぶちゃん注:ここまで錯文。注を参照されたい。]素(もと)より放蕩者にて親しき智音も無(なく)、傍輩の看病にて部屋内にてありしが、渠(かれ)が女房にて夫の無賴故に、本所邊の四六鄽(しろくみせ)と歟(か)いへる隱賣女(かくしばいた)え賣(うり)て勤居(つとめゐ)けるが、彼(かの)女房來り病躰を見て暫(しばらく)藥を與へ、傍輩へも厚く禮を述(のべ)て歸りしが、又來りて介抱などなしけるに、其病ひよからざりしかば請人(うけにん)の方へ下げければ、猶右の女請人方へ來り介抱をなしけるが、何卒右の方へ引取度(たき)よしを乞(こひ)ければ、當時勤(つとめ)の身にていかゞして引取(ひきとる)べきやと請人もいなみ止めしに、親方へも願ひて裏店(うらだな)をかり置(おき)たり迚(とて)念比(ねんごろ)に尋(たづね)ければ、然(しから)ばとて駕にて乘せて右裏借家(うらじやくや)へ引移り、厚く看病なしけるが終(つひ)にはかなくなりぬれば、彼(かの)死骸は請人方へ取置(とりおき)候由なれども、投込(なげこみ)とかいへる取捨(とりすて)同樣の事と聞(きき)、兼て彼(かの)女の元へ深く馴染來る回向院の塔頭の坊主ありしが、彼女の去難(さりがたき)緣有(ある)者といひて布施抔ほどこし、彼坊主を賴(たのみ)弔ひ囘向して葬りける。右彼、右女極(きはま)る年を切增(きりま)して、右金子を以(もつて)諸事を取(とり)まかなひける由。女房をうかれ女(め)に賣(うり)ける程の男を、死後迄かくなしける事、いやしき女には誠に貞烈たとへん方なしと山本幷(ならびに)我元(わがもと)へ來る者玄榮といへる醫師語(かたる)。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「近き比の事也とや。伊勢より一所に江戸え出しとや、又同じ親」底本には、『(「同じ親」マデハ後出ノ「商家義氣の事」ノ冐頭部分ヲ誤リ寫シタモノカ)』とある。「商家義氣の事」は四つ後に出、確かに冒頭は「近き比の事也とや、伊勢より一所に江戸表に出しとや、また同じ親方に仕へ……」と酷似する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここにはその後の「商家義氣幷憤勤之事」が掲げられており、その直後に、
 鄙婦貞烈の事
という条が入っており、その内容はまさにこの冒頭部を除いて、鈴木氏が錯文とした直後の、「素より放蕩者にて親しき智音も無……」以下と内容がほぼ一致する。その「鄙婦貞烈の事」の冒頭は以下の通り(恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣とした)。
   *
 文化二年の秋成りいしが、山本豫州の大部屋中間(おほべやちゆうげん)、部屋頭(がしら)にて重く煩(わづら)ひけるが、元より放蕩者にて[やぶちゃん注:以下略。]
   *
これが元の正しい文章であったと推測出来るので、題名と冒頭の部分のこちらの「素より」(バークレー校版の「元より」)までは、このバークレー校版によって現代語訳した。
・「文化二年秋」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、ホットな世話物である。
・「山本豫州」(バークレー校版の内容)岩波版長谷川氏注に『伊予守茂孫(もちざね)。文化二年当時田安家家老』とある。
・「四六鄽」四六店・四六見世とも書く。これは夜は「四」百文で昼は「六」百文で遊ばせた謂いで、天明(一七八一年~一七八九年)頃から江戸の吉原や諸所の岡場所(吉原に対しての「傍(おか)」、「わきの場所」の意で、江戸で官許の吉原に対して非公認の深川・品川・新宿などにあった遊里のこと)にあった下等な娼家のことをいう。四六。
・「隱賣女」前注に示した通り、私娼のこと。
・「右彼」底本には右に『(右故カ)』とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にはない。直下の「右女」の衍字ともとれる。
・「極る年を切增して」岩波の長谷川氏注に、『きめていた年季を延長する契約をして。』とある。
・「玄榮」不詳。

■やぶちゃん現代語訳

 田舎の卑賤なる女のすこぶる貞女たりし事

 文化二年の秋のことで御座る。
 山本伊予守茂孫(もちざね)殿の大部屋中間(おおべやちゅうげん)で、部屋頭(へやがしら)を勤めておった者が重う患って御座ったが、もとより、放蕩者にして親しい知音もこれ御座なく、傍輩の看病を受けながら、部屋内に養生致いて御座ったと申す。
 さても、この男の女房は、夫の無頼ゆえに、本所辺りの四六見世(しろくみせ)とか申すところへ、夫がために隠売女(かくしばいた)として売られ、勤めて御座ったと申す。
 ところが、夫が重う患っておると聴きつけたかの女房、伊予守殿の御屋敷中間部屋を訪ね参り、その病勢の重きを見るや、暫くの間、手ずから薬なんどを買い調えて与えたり、かの男の看病をして呉るる傍輩へも、厚く礼を述べては帰ったと申す。
 暫く致いてまた来たっては、介抱などなして御座ったが、かの男の病い、これ、如何にも重篤にてあれば、伊予守殿も最早これまでと、男の請け人の方へと通じ、屋敷よりお下げになられたところが、なおも、かの女は請け人の方へも参って、けなげに介抱致いて御座ったと申す。
 そのうち、その請け人に、
「……何とぞ、妾(わらわ)が方へ引き取りとう存じます。」
と乞うたによって、
「……引き取ると申すが……今の、その、そなたの勤めの身にては……これ、如何にして引き取ると……申すのじゃ?」
と、流石に請け人も、
「……とてものことじゃて……おやめなされ。」
と諭し止(とど)めて御座ったと申す。
 ところが、
「……妾が店の親方へも訳を話しまして、裏店(うらだな)を借り置きて御座いますれば。」とて、切(せち)に懇請して御座ったゆえ、
「……まあ、そこまで、言うのなら、の……」
とて、駕籠にて乗せて、請け人の家より裏借家(うらじゃくや)へと引き移したと申す。
 それからというもの、あさましき身売りの稼業の傍ら、暇まをやり繰り致いては、男の元へと足繁く通って、手厚う看病致いて御座ったと申す。
 されど、その看病の甲斐ものう、男は遂に、儚くなって御座ったと申す。
 さても、かの男の遺体は、請け人方へと引き取るとの話しにて御座ったによって、女もそれに従ったと申す。
 ところが、その後、かの女、その男の遺体が、投げ込みとか申す、所謂、取り捨て同然に扱われたという申すを耳に致いた。
 されば女は、かねてより自分の元へと深(ふこ)う馴染んで通うておった、回向院の塔頭の坊主の御座ったによって、
「……妾の去り難き縁ある者なれば……どうか……どうぞ……」
と涙ながらに相応の布施なんどまで施し渡いて、その坊主になんとか頼み込み、弔い、回向致いて、葬って御座ったと申す。
 そうした次第なればこそ、かの女、決められて御座った年季は、これ、もうとっくに済んで御座ったにも拘わらず、それを自ら延ばし、それで得た金子を以って、男の葬儀と滅後の供養諸事全般を取り賄って御座ったと、申す。

 「……さても……己れを浮かれ女(め)に売り払(はろ)うたほどの男を……死んで後までも、かくなして御座ったこと……これ、賤しき女にしては……いや、まっこと、またとなき貞女の鏡……いやいや……言葉にては、これ、譬えようも御座ない……」
と、山本殿も仰せられ、また、そのことをたまたまよう知って御座った、私のもとへしばしば来たるところの、玄栄と申す医師も、かく語って御座った。

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 九 校正漏れの亡霊が無数に跳梁している!

■原稿79

       九

 

 

[やぶちゃん注:5字下げ。本文は2行目から。

●この原稿には前章冒頭「■原稿69」同様、右罫外上方に赤インクで、

 芥川氏つづき

とある。また、6行目上方罫外に、

 80

という左上方のナンバリングと同じ数字(ノンブル)があるが、これは赤インクでなく本文とは微妙に異なるインクで書かれており、しかもそれが抹消線で消されて右(4~5行目上方罫外)に、

 79

と訂されてある。このナンバリングと同じ手書き数字は、

 109

まで続く。また、この頁の罫外ナンバリング・ノンブル「79」は20行目真上罫外上方と、やけに高い位置にあって、

 ך

型のチェック(?)が右肩に入っている。その左に「改造よ印」のゴム印が打たれ、その直下(罫外左)に本文とは異なるインクによる、

 改造よ印 79 より

と手書きで大書した文字が、ここははっきりと読み取れる(「■原稿69」の様態とコンセプトは似ている)。]

 

 しかし硝子會社の社長のゲエルは人懷こい

河童だつたのに違ひありません。僕は度たび

ゲエルと一しよにゲエルの属してゐる倶樂部

へ行き、愉快に一晩(ばん)を暮らしました。それは

一つにはその倶樂部はトツクの属してゐる超

人倶樂部よりも遙かに居心(いごころ)の善かつた爲〈で〉**

す。のみならず又ゲエルの話は哲學者のマツ

グの話のやうに深みを持つてゐなかつたにせ

よ、僕には全然新らしい世界を、―――廣い世

 

■原稿80

界を覗かせました。ゲエルは、いつもの純金(じゆんきん)の匙

に珈琲(カッフエ)の〈コツプ〉*茶碗*をかきまはしながら、快活に

いろいろの話をしたものです。〈僕は〉

 〈殊に〉*何でも*或霧の深い晩(ばん)、僕は冬薔薇(ふゆばら)を盛(も)つた花

瓶(くわびん)を中(なか)にゲエル〈と〉**話を聞いてゐました。それ

は確か〈《天井も壁も》→室〉*部屋全體は*勿論、椅子やテエブルも白

い上(うへ)に〈金(きん)〉**い金の緣((ふち)をとつたセセツシヨン風の

部屋だつたやうに覺えてゐます。ゲエルはふ

だんよりも得意さうに顏中(かほじう)に微笑を漲らせた

まま、〈《五六年前にこの国》→丁度その頃Quorax *丁度その頃天下を取つてゐた Quorax 黨内閣のことなどを

[やぶちゃん注:この頁、異様に芥川自身によるルビが多い。

●「珈琲(カッフエ)」のルビの「ッ」は明らかに促音表記で有意に小さいが、無論、初出は同大である。現行新字新仮名表記では「カッフェ」である。]

 

■原稿81

話しました。クォラツクス〈黨と〉*と云*ふ言葉は唯意味

のない〈奇〉間投詞(かんたうし)ですから、「おや」とでも〈譯〉**す外

はありません。が、兎に角〈自由主義を〉*何よりも先*に「河童

全体の利益」と云ふことを〈振〉標榜(へうばう)してゐた政黨だ

つたのです。

 「クオラツクス黨〈か〉**支配してゐるものは〈あの〉

名高い〈ロツペ■〉政治家のロツペです。〈《ロツペは》→ビスマルクは〉*『正直は*最良の外交である』とはビスマルク〈■〉**言つた言〈葉〉**でせ

う。しかしロツペは正直を内治の上にも及ぼし

てゐるのです。………」

[やぶちゃん注:

●1行目の「クォラツクス」の「ォ」は「ク」と同じマスの右下に有意に小さく書いているので、かくしたが、実際には6行目で普通に「クオラツクス」と表記しており、この1行目のそれはもしかすると「クラツクス」と脱字したのに挿入表記したものともとれる。]

 

■原稿82

 「けれどもロツペの演説は……」

 「まあ、わたしの言ふことをお聞きな〈■〉〔さ〕い。あ

の演説〈の譃〉は勿論悉く譃です。が、譃と云ふこと

〈を〉**誰でも知つてゐますから、畢竟正直と〈同?〉**

ないでせう。それを一概に譃と云ふのはあな

〈方〉*がた*だけの偏見(へんけん)ですよ。我々河童(かつぱ)はあなた

〈《がた》→方〉*がた*のやうに、………しかしそれはどうでもよ

ろしい。わたしの話したいのはロツペのこと

です。ロツペはクオラツクス黨を支配してゐ

る、その又ロツペを支配してゐるものは〈フ?■〉

[やぶちゃん注:

●「畢竟正直と〈同?〉**らないでせう。」初出及び現行は、

 畢竟正直と變はらないでせう、

と読点である。これは、当然、この原稿通り、句点でよい。これは明らかに校正漏れの亡霊が今日まで生き続けている証しである!

●末尾の抹消2字「〈フ?■〉」の最初は、恐らく「フ」と思われ、「プウ・フウ」という新聞名(若しくはそれに類した名)を当初カタカナ表記しようとしたものと、私は推理している。]

 

■原稿83

 Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』と云ふ言葉もやは

り意味のない間投詞です。〈或は〉*若し*強いて訳(やく)すとすれば、『ああ』とでも云ふ外はありません。)社長

のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主

人と云ふ訣には行きません。クイクイを支配

してゐるものはあなたの前にゐるゲエルです。」

〈 「それは《―――どう失礼》→《僕には意外です。失礼      〉

 「けれども―――これは失禮かも知れ〈ま?〉ませ

ん。けれども〈『〉プウ・フウ新聞は勞動者の味かた

をする新聞でせう。その社長のクイクイも

[やぶちゃん注:

●「訳(やく)すとすれば」初出及び現行は、

 譯(やく)すれば、

である。これは、当然、この原稿通りでよい! これもまた明らかに校正漏れの亡霊が今日まで生き続けているおぞましき証しの一例ではないか!

●「けれども―――これは失禮かも知れ〈ま?〉ません。けれども〈『〉プウ・フウ新聞は勞動者の味かたをする新聞でせう。」特に指示しないが、ここ以下の三箇所は「勞動者」となっている(初出及び現行は「勞働者」に訂されている)。それよりもこの部分、初出及び現行は、

 けれども――これは失禮かも知れませんけれども、プウ・フウ新聞は勞働者の味かたをする新聞でせう。

である。2箇所の相違に着目されたい。初出及び現行は原稿が二文であるのに、「これは失禮かも知れませんけれども」と一続きで「知れません」の後の句点が、ない! また、「けれども」の後の読点は原稿には、ない! 再度、台詞を総て整序して示そう。

【原稿の「僕」の台詞】

 「けれども―――これは失禮かも知れません。けれどもプウ・フウ新聞は勞動者の味かたをする新聞でせう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けてゐると云ふのは、………」

【初出及び現行の「僕」の台詞】

 「けれども――これは失禮かも知れませんけれども、プウ・フウ新聞は勞働者の味かたをする新聞でせう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」

一目瞭然! 否! 朗読してみたまえ! 極めて自然なのはどう考えても、『定本』の初出や現行の「河童」ではない! この原稿の台詞こそ、極めて自然な応答の台詞であることは言を俟たぬ! またしても校正漏れの亡霊の痙攣的な呪い以外の何ものでもない!

 

■原稿84

あなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」

 「プウ・フウ新聞の記者たちは勿論勞動者の味

かたです。しかし記者たちを支配するものは

クイクイの外はありますまい。しかもクイク

イはこのゲエルの後援を受けずにはゐられ

ないのです。」

 〈僕は〉ゲエルは〈不相変〉*不相変*微笑しながら、純金の匙を

おもちやにしてゐます。僕はかう云ふゲエル

を見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウフ

ウ新聞の記者たちに〈何か〉同情の起るのを感じまし

[やぶちゃん注:

●「プウフウ新聞の記者たちに」はママ。「プウフウ」の間の「・」は、ない。校正で臥されたものであろう。]

 

■原稿85

た。するとゲエルは僕の無言(むごん)に忽ちこの同情

を感じたと見え、〈前よりも快活に〉*大きい腹(はら)を膨(ふくら)ませて*かう言ふの

です。

 「何、プウフウ新聞の記者たちも全部勞動者

の味かたではありませんよ。少くと〈も〉**我々河

童と云ふものは誰の味かたをするよりも先に

我々自身の味かたをしますからね。………しか

し更に厄介なことに〈も〉**このゲエル自身さへ

やはり他人の支配を受けてゐるのです。あな

たはそれを誰だと思ひますか? それはわた

●「何、プウフウ新聞の記者たちも」はママ。「プウフウ」の間の「・」は、ない。ここも校正で臥されたものであろう。]

 

■原稿86

しの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」

 ゲエルはおほ声に笑ひました。

 「〈さう云ふ〉*それは寧*ろ仕合せで〈すね。」〉*せう。」*

 「〈《仕合》→《或は》仕合せかも知れません〉*兎に角わたしは滿足してゐます〈よ〉*。しかしこれも

あなたの前だけに、―――河童でないあなたの

前だけに手放しで吹聽出來るのです。」

 「するとつまりクォラ〈ク〉ツクス内閣はゲエル夫人

が支配〈の下(もと)に〉*してゐる*のですね。」

 「さあ、さうも言はれますかね。………しかし

七年前の戰爭などは確かに或雌の河童の爲に

[やぶちゃん注:「クォラ〈ク〉ツクス」の「ォ」は前の「ク」と同マスの右下にある。脱字に気づいて後から書き入れた可能性もある。]

 

■原稿87

始まつたものに違ひありません。」

 「戰爭? この国にも戰爭はあつたのです〈か〉

か?」

 「ありましたとも。将來もいつあるかわかり

ません。何しろ鄰国のある限りは、………」

 〈《僕は》→鄰国と云ふ〉僕は実際この時始めて河童の國〈に〉**國家的〈に〉孤

立してゐないことを知りました。〈■〉ゲエルの説

明する所(ところ)によれば、河童はいつも獺(かはうそ)〈と〉**假設

敵にしてゐると云ふことです。しかも獺は河

童に負けない軍備を具へてゐると云ふことで

 

■原稿88

す。僕はこの獺を相手に河童の戰爭した話に

少からず興味を感じました。(何しろ河童の強

敵に獺(かはうそ)のゐるなどと云ふことは「水〈考〉虎考畧(すゐここうりやく)」の著

者は勿論、「山島民譚志(さんたうみんたんし)」の著者柳田國男さんさ

へ知らずにゐたらしい新事実ですから。)

 「あの戰爭の起る前には勿論両国とも油断せ

ずに〈相手〉ぢつと相手を窺つてゐました。と云ふの

はどちらも同じやうに相手を恐怖してゐたか

らです。そこへ〈或雌の河童が一匹(ぴき)〉*この國にゐた獺が*一匹(ぴき)、或河

童の夫婦を訪問しました。その又〔雌の〕河童〈の雌〉

[やぶちゃん注:「山島民譚志」はママ。「譚」は「集」の誤り。校正で訂されたものであろう。]

 

■原稿89

云ふのは亭主を殺すつもりでゐたのです。何

しろ亭主は道樂者でしたからね。おまけに生

命保險のついてゐたことも多少の誘惑になつ

たかも知れません。」

 「あなたはその夫婦を御存じですか?」

 「ええ、――いや、〈雄〉**の河童だけは知つてゐ

ます。〈その〉わたしの妻などはこの河童〈を〉**惡人のや

うに言つてゐますがね。しかしわたしに言は

せれば、〈寧ろ〉悪人よりも寧ろ雌の河童に摑まるこ

とを恐れてゐる被害妄想の多い狂人です。……

 

■原稿90

…そこでその〈獺は〉雌の河童は亭主のココアの

茶碗の中へ靑化加里を入れて置いたの〈で〉です。そ

れを又どう間違へたか、客の獺に飮ませてし

まつたのです。獺は勿論死んでしまひま〈■〉

た。それから………」

 「〔それから〕戰爭になつたのですか?」

 「ええ、生憎その獺は勳章を持つてゐたもの

ですからね。」

 「戰爭はどちらの勝になつたのですか?」

 「勿論この国の勝になつたのです。三十六萬

 

■原稿91

九千五百匹の河童〔たち〕はその爲に健気にも戰死し

ました。しかし敵国に比べれば、その位の損

害は何ともありません。〈獺は〉*この*國にある毛皮〈の〉**

云ふ毛皮は大抵獺の毛皮です〈よ。〉。わたしも〈こ〉**

の戰爭の時には硝子を製造する外にも〈《盛に《石》→消〉石炭殼

を戰地へ送りました。」

 「石炭殼を何にするのですか?」

 「勿論食糧にするのです。〈我々〉河童は腹さへ減れ

ば、何でも食ふにきまつてゐますからね。」

 「それは―――どうか怒らずに下さい。それ

[やぶちゃん注:

●「〈《盛に《石》→消〉石炭殼」この部分は、「石」を消して書いた「消」の字が実際には抹消されていない。これは推測であるが、当初、芥川は決定稿の「石炭殼」をまず想起し、それを「消(し)炭」と書こうとしたのではなかったろうか?]

 

■原稿92

は戰地にゐる河童〈には〉たちには………〈《第一醜》この国では〉*我々の国*

醜聞ですがね。」

 「この國でも醜聞には違ひありません。しか

しわたし自身かう言つてゐれば、誰も醜聞に

はしないものです。哲學者のマツグ〈が〉**言つて

ゐるでせう。『汝の悪は汝自ら言へ。悪はおの

づから消滅すべし。』………しかもわたしは利益

の外にも愛国心に燃え立つてゐたのですから

ね。」

 丁度そこへはひつて來たのはこの倶樂部の

 

■原稿93

給仕です。給仕はゲエルにお時宜をした後、

朗読でもするやうにかう言ひました。

 「お宅のお鄰に火事がございます。」

 「火―――火事!」

 〈マツグ〉*ゲエル*は驚いて立ち

上りました。僕も立ち上つたのは勿論です。が、給仕は落ち着き拂

つて次の言葉をつけ加へました。

 「しかしもう消〈え〉し止めました。」

 ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑ひに

近い表情をしました。僕は〈その顏〉かう云ふ顏を見る

 

■原稿94

と、いつかこの硝子會社の社長を憎んでゐた

ことに氣づきました。が、〈今は   ゲエル〉*ゲエルはもう今で*

〈もう〉大資本家でも何でもない唯の河童にな

つて立つてゐるのです。僕は花瓶(くわびん)の中(なか)の〔冬(ふゆ)〕薔薇(ばら)

の花を拔き、ゲエルの手(て)へ渡しました。

 「しかし火事は消えたと云つても、奧さんは

さぞお驚きでせう。さあ、これを持つてお帰

りなさい。」

 「難有う。」

 ゲエルは僕の手を握(にぎ)りました。それから急〔に〕

[やぶちゃん注:

●「〈今は   ゲエル〉」ここ空欄3マス。ダッシュを引くつもりだったか?]

 

■原稿95

にやりと笑ひ、小声(こごゑ)にかう僕に話しかけまし

た。

 「鄰(となり)は〈僕の〉わたしの家作(かさく)ですからね。〈保〉火災保險の

金だけはとれるのですよ。」

 〈僕はこの時のゲエルの腹の満月のやうに張〉

 僕は〈未だにこの時〉*この時のゲエル*〈ゲエルの  〉*微笑を―――*輕蔑する

ことも出來なければ、憎惡〈を?〉**ることも出來な

いゲエルの微笑を未だにありありと覚えてゐます。

[やぶちゃん注:以下、一行余白。

●「〈ゲエルの  〉」空欄2マス。奇妙な線が抹消の波線の下に認められるが、芥川はダッシュは3マスであり、有意に反った奇妙な線でダッシュとは思われない。]

修學旅行の記 芥川龍之介 《芥川龍之介未電子化掌品抄》

修學旅行の記 芥川龍之介

[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年五月十三日土曜日、東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)第一学年在学中であった芥川龍之介(満十三歳)の日帰り修学旅行(大森と川崎の間を歩いたもので現在の遠足に相当する)について綴った作文である。

 勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊の「芥川龍之介全作品事典」の中田睦美氏の記載によれば、龍之介の盟友恒藤恭によって、昭和二四(一九四九)年十二月発行の『図書』誌上で、「中学生芥川龍之介の作品」として「猩々の養育院」とともに初めて公に紹介されたものである。恒藤の入手経路の解説によれば、『「関西学院大学法学部の助教授安立忠夫氏が来訪されて、芥川が東京府立第三中学に在学してゐたころの同級生の作文を一つに綴ぢたものを三冊持参された」云々とある』とし、さらに関口安義氏が筑摩書房一九九九年刊の「芥川龍之介とその時代」で、本作を『要を得、堂々としている。回覧雑誌で鍛えた腕の見せどころであったのかも知れない』と評している、と記す。

 岩波版旧全集第十二巻「雜纂」に載るものを底本としたが、上記中田睦美氏の記載によると、この本文の句読点は上記の「中学生芥川龍之介の作品」の『末尾に「筆者ほどこす」とあるように恒藤恭による』ものであることが分かる(この事実は全集後記にはない)。なお、末尾にある『(明治四十一年、中學一年)』は省略した。最後に簡単な注を附した。]

 

 修學旅行の記


 明治三十八年五月十三日、東京府立第三中學校に修學旅行の擧あり。我等第一學年生徒は、中島、神山、小林、須藤、内野、鹿瀨の六訓導に引率せられて、大森、川崎間を旅行す。當日の略記下の如し。

 「氣を付け」。處は新橋停車場前の廣場、時は明治三十八年五月十三日午前八時三十分。府立第三中學校第一學年生徒の修學旅行。出發の當時「右へ習へ」、「直れ」、「番號」、「一二三四……」、「右向け――右」、「前へ進め」。我が丙組は淸水組長の號令の下に二列縱隊を組み、隊伍堂々、歩武蕭々として停車場内に入り、群集の雜踏せる間を過ぎて、豫め我等の來車として定められし三等客車の内に入り、靜に發車をまつた、汽笛一聲出發を報じ、黑煙團々列車は徐に進行し始めぬ。右手(メテ)を望めば、土曜の空蒼々と晴れ渡りて、愛宕山より芝公園に連るの新綠殊に色深く、左手(ユンデ)を眺れば、渺々たる東京灣の波穩にして、目に映ずるものは水天一碧、海上を走る眞帆片帆は落花の風に舞ふが如く、翩々として翻々たり。

 列車は新月なりの海岸をめぐりて品川に着し、更に此處を發して進む事二里餘りにして大森に着す。一行直に下車して池上なる本門寺に至る。ここぞ今より六百五十年の昔、法華經の行者日蓮の寂滅せし處にして、境内廣く淸くして、參詣者常に絶ず。内野先生は靑葉若葉の茂り合ひし間より朱ぬりの大堂宇の屹然として聳えたる好景を鉛筆畫のスケッチに筆を振れぬ。ここに休憩する事約三十分、編上げの靴の紐をしめ直して新田神社に向ふ。こは南朝の忠臣新田義興の忠魂を祀れる處なり。義興は義貞の第三子にして智勇兼備の良將なりしも、奸雄持氏の己を謀るを知らず、遂に其術中に陷り六郷川に無限の恨を呑みて完ンぬ。其の社大ならず、境内廣からずと雖も、老樹森々として、そゞろに神威の尊きを想しむ。それより矢口の渡船場に出で、こゝにて食事をしたゝむ。食後フートボールに汗を流し、スケッチに涼をむさぼる。

 後渡船に乘じて對岸に渡るに、小林先生巧に「さほ」を操らる。

 進む一里餘、畝路を傳ひ、麥畝を穿ち、林の暗きを過ぎ、稻田の明きに出で、川崎の町を通り、電車線路に沿ひつ。かくて川崎の大師に至る。高屋雲にそびへ、商賈店を並べ、參詣人引きもきらず。世人の云ふ大師は弘法に奪ると。宜なる哉。

 少憩後、疲れたる足を引づりつ、川崎停車場に至り、四時三十分の汽車にて無事歸宅す。

           一年丙組 芥川龍之介

 

  

 

[やぶちゃん注:「歩武蕭々」「歩武」の「歩」は六尺または六尺四寸、「武」はその半分をいう。わずかの距離。咫尺(しせき)の意。「蕭々」は本来、主に状況の音に対してのものさびしいさまを言う語で、きちんと並んで恭しく静かに進むことを「隊伍粛々」というから、「肅々」の誤りのようにも思われるが、実は「日本国語大辞典」電子版の「歩武堂堂」例文に荒畑寒村の文章が引用されており、そこには「或は軍歌を唱へつつ、隊伍蕭々、歩武堂々として」とある(正確には有料サイトなので全文は見えない。私は書籍の旧版「日本国語大辞典」を所持しているが、そこには載らない。大部の旧版を持っている私は業腹なので電子有料版を購読する気はないので引用の杜撰は悪しからず)から、誤用ではないようである。

「畝路」「うねみち」と訓じているか。

「麥畝」これで「むぎせ」とも読むようである。それとも、そのまま素直に「むぎうね」か。

「大師号を賜った高僧は数多いが、通常、単に「大師」というと空海のことを指すことから、かく言った。続けて「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる。そしてまた、三蔵は玄奘に奪わる」とか、講談や落語では「祖師は日蓮に奪われ、大師は弘法に奪われ、名奉行は大岡に奪われ、義士は四十七士に奪わる」などとも言った。]

蛇つかひ 萩原朔太郎

 

 蛇つかひ 

 

わたしは蛇つかひ

 

女のまつ白いえりくびから

 

むくくり肥えた乳房

 

白いもりあがつた乳房にかけて

 

だんだん下の方へと

 

そろそろとしづしづとわた靑白い蛇をははしてゆく

 

おれはああ だんだんとそろそろと下の方へゆくにしたがひ

 

蛇はそつと

 

いんよくの眼が眼をつぶる、

 

蛇がそつと瞳をとぢづる、のからだが靑くなる→むらさきになるざめくなる。 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻「未發表詩篇」所収(三三六頁)。「むくくり」はママ。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。なお、編者注によれば、題名「蛇つかひ」の上部には次の二行の記載がある、とある。 

 

 ほとばしりいづるもの

 

 をとめの上の 

 

「をとめ」はママ。]

 

 

香料の顏寄せ 大手拓次

 香料の顏寄せ

 

とびたつヒヤシンスの香料、

おもくしづみゆく白ばらの香料、

うづをまくシネラリヤのくさつた香料、

夜(よる)のやみのなかにたちはだかる月下香(テユペルウズ)の香料、

身にしみじみと思ひにふける伊太利の黑百合(くろゆり)の香料、

はなやかな著物をぬぎすてるリラの香料、

泉(いづみ)のやうに涙(なみだ)をふりおとしてひざまづくチユウリツプの香料、

年(とし)の若(わか)さに遍路(へんろ)の旅にたちまよふアマリリスの香料、

友(とも)もなくひとりびとりに戀にやせるアカシヤの香料、

記憶をおしのけて白(しろ)いまぼろしの家をつくる絲杉(シプレ)の香料、

やさしい肌をほのめかして人の心をときめかす鈴蘭の香料。

 

[やぶちゃん注:「シネラリヤ」キク亜綱キク目キク科キク亜科ペリカリス属シネラリア Pericallis × hybrida。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・靑・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることから忌まれるためである。しかし乍ら、“Cineraria”という語は“cinerarium”、実に「納骨所」の複数形であるから、“Florist's Cineraria”とは「花屋の墓場」という「死の意味」なのである――余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか?

「月下香(テユペルウズ)」月下香(Tubereuse)の香料に既注。

「伊太利の黑百合」これは私の憶測であるが(私はフローラ系は守備範囲でない)、所謂、我々の知っているクロユリ(単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属クロユリ Fritillaria camschatcensis)とは、別な種を指しているように思われる(分布域からみてイタリアには植生しないのではないか)。識者の御教授を乞う。

「絲杉(シプレ)」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科イトスギ属 Cupressus。ギリシア神話では美少年キュパリッソスが姿を変えられたのがこの木とされ、また、イエス・キリストが磔にされた十字架はイトスギで作られたものという伝説がある。花言葉は死・哀悼・絶望。欧米では上記のキュパリッソスの逸話から、死や喪の象徴とされる。文化や宗教との関係が深く、古代エジプトや古代ローマでは神聖な木として崇拝されていたほか、キプロス(Kypros 英語:Cyprus)島の語源になったともされる。イタリアイトスギ Cupressus sempervirens から精製した香料はウッディーで軽いスパイシー感を持ち、主に男性用香水として用いられる(ウィキイトスギ」を一部参照した)。]

鬼城句集 夏之部 梅干

梅干    小百姓の梅したゝかに干しにけり

      梅干や中山道の小家勝ち

2013/06/21

丘淺次郎 生物學講話 第七章 本能と智力 HP版

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に丘淺次郎「生物學講話 第七章 本能と智力」HP版を公開した。

栂尾明恵上人伝記 40 戲れの窓をも月は進むらんすます友には暗き夜はこそ

 同じ比(ころ)、峯の禪室に入りて坐禪す。曉に及び、定を出でて緣の邊(ほとり)に佇(たゝず)み立つに、松風朗月(らうげつ)此の峰にのみ限らじなれども、人しれず獨り詠(なが)めて、
  月影は何れの山とわかじかど澄ます峯にや澄みまさるらん

 同じ比、月の末に、禪室より出でて欄干(らんかん)にたゝずむに曇れる空の闇深くして、都(すべ)て星も見えず又風の音もせず。風月の情けは狂言綺語の友ともなり、遊戲放逸の媒(なかだち)ともなる。然れども、幽閑限りなき山中に身を宿(やど)すには、すめる心の外は風月も友に非ず。亦、正しく繩床(しようしやう)に踵(あなうら)を結べる間は、眼(まなこ)に色を見ず、心空しく境寂(しづま)りぬれば、風月の興(きやう)も唯立ち出でたる時の假(かり)の事なり。去れば暗々たるくらき闇の歌枕にも非ず、遊戲の便(たより)にもなし。深き谷を直下したれば邊(ほとり)も覺えず、梢(こずゑ)も見えざる闇は中々心澄みて覺ゆれば、
  戲れの窓をも月は進むらんすます友には暗き夜はこそ

大橋左狂「現在の鎌倉」 17 光明寺から由比ヶ浜を中心とした観光の梗概

 光明寺は停車場より二十六町を距てゝ材木座にある。天照山と云ふ淨土宗關東總本山で、記主禪師の開基、北條經時の建立である。境内には經時の墓がある。山門高く聳ゆるところ天照山と題せる扁額は後花園帝の御宸筆である。光明寺前を由井ケ濱に沿ふて南に進めば飯島岬を右に見て矢の根井戸と云ふがある。之より峠を南すれば小坪・逗子・葉山に出ずるのである。
[やぶちゃん注:「出ずる」はママ。]
 鎌倉に遊覽する者は、誰れしも第一に鶴ケ岡八幡宮を拜するのである。同時に長谷の大佛、觀音に詣でそれより江の島に至るのである。鎌倉停車場前に江の島電氣鐵道部の小町停留場がある。之れより電車に投ずれば長谷に下車して大佛、觀音、日朗土牢、權五郎神社、星月夜井戸等を見物し、更に長谷より藤澤行電車にて江の島に往くのである。又電車の便を捨てゝ徒歩するのは、鎌倉驛に下車せば眞直に小町電車停留場に出でゝ右に折れ進むこと二丁餘にて、横須賀線鐵橋の下を過ぎれば玆に又四辻がある。正面は一の鳥居を經て由井ケ濱海岸に至るの道である。左すれば延命寺前より大町・材木座に出るのである。玆四辻を右に進めば大町原に出る。大町原の右に由緣ありげな多くの地藏尊が路傍に立てられてある。之の地藏尊は六地藏と云ふのである。六地藏を右折すれば扇ケ谷に通じて居る。六地藏の南方二丁餘の處に數株の小松を植付られた小丘がある。此處には和田義盛一族の塚がある。更に六地藏前を西に長谷通を進めば七町餘にして長谷の觀音に至るのである。觀音より半丁手前に大佛と記したる道しるべの石標がある。此石標を右折して二丁餘にて有名なる長谷の大佛がある。それから觀音より大佛に至る間に光則寺と云ふ寺院がある。境内に日用上人の土牢がある。觀音の裏門より權五郎神社に至り景政の手玉石や矢立松を見て、坂の下に入れば星の井がある。極樂寺坂を超せば玆には極樂寺がある。同寺より左折して西に進めば四、五丁にして日蓮袈裟掛の松、大館又五郎主從十一名の墓地等を見て、新田義貞、鎌倉攻めの際、躬ら帶せし金作りの太刀を脱ぎて、海中に投じ干潮を祈りしと云ふ稻村ケ崎を過ぎ、追揚より七里ケ濱に出るのである。
[やぶちゃん注:「躬ら」は「みづから」と読む。]
 西を仰げば洋々たる蒼波を隔てゝ近くは關東の靈山大山を、遠く芙蓉の峰の莞爾として雲表に聳ゆるを見、南遙かに雲霰の中に微かに大島を眺め東に稻村、飯島の岬を隔てゝ逗子・葉山の一帶三浦半島を望み、江の島は恰かも掌中にあるが如く實に眺望絶佳筆舌に盡せない程である。尚ほ西にして行合橋を渡れば峰ケ原と云ひ玆處に二軒の茶店がある。此茶店より日蓮雨乞の靈跡田邊ケ池の案内をして居る。腰越に入れば、源義經腰越状の舊跡滿福寺がある。片瀨に至りては龍口寺の名刹がある。此より南八、九丁平砂を辿りて延々たる長橋を渉れば江の島に至るのである。
[やぶちゃん注:「雲霰」ママ。底本右に『(霞ヵ)』と傍注。]

憐れみ讚ふるの歌 17首 中島敦

    憐れみ讚ふるの歌

ぬばたまの宇宙の闇に一ところ明るきものあり人類の文化

玄々(げんげん)たる太沖(たいちゆう)の中に一ところ温(あたた)かきものありこの地球(ほし)の上に

[やぶちゃん注:「太沖」「荘子」内篇「応帝王篇」に「太沖莫勝(たいちゅうばくしょう)」という語があり、これは価値差別対立闘争の一切無い虚無の相をいう。]

おしなべて暗昧(くら)きが中に燦然と人類の叡智光るたふとし

この地球(ほし)の人類(ひと)の文化の明るさよ背後(そがひ)の闇に浮出て美し

たとふれば鑛脈(くわうみやく)にひそむ琅玕(らうかん)か愚昧の中に叡智光れる

[やぶちゃん注:「琅玕」暗緑色又は青碧色の半透明の硬玉。]

幾萬年人生(あ)れ繼ぎて築(きづ)きてしバベルの塔の崩れむ日はも

人間の夢も愛情(なさけ)も亡びなむこの地球(ほし)の運命(さだめ)かなしと思ふ

學問や藝術(たくみ)や叡智(ちゑ)や戀愛情(こひなさけ)この美しきもの亡びむあはれ

いつか來む滅亡(ほろび)知れれば人間(ひと)の生命(いのち)いや美しく生きむとするか

みづからの運命(さだめ)知りつゝなほ高く上(のぼ)らむとする人間(ひと)よ切なし

弱き蘆弱きがまゝに美しく伸びんとするを見れば切なしや

人類の滅亡(ほろび)の前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり

しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の若しかりとも

[やぶちゃん注:「しかすがに」然すがに。副詞(副詞「しか」+サ変動詞「す」+接続助詞「がに」が元とされる)そうはいうものの。そうではあるが。]

あるがまゝ醜きがまゝに人生を愛せむと思ふ他(ほか)に途(みち)なし

ありのまゝこの人生を愛し行かむこの心よしと頷きにけり

我は知るゲエテ・プラトン惡(あ)しき世に美しき生命(いのち)生きにけらずや

吃(きつ)として霜柱踏みて思ふこと電光影裡(でんくわうえいり)如何に生きむぞ

[やぶちゃん注:「和歌(うた)でない歌(うた)」歌群の十七首。]

純粹詩としての新古今集 萩原朔太郎

 純粹詩としての新古今集

 

 幾夜われ浪にしをれて貴船川袖に玉散る物思ふらむ  (新古今集藤原良經)

 しるべせよ跡なき浪に漕ぐ舟の行方も知らぬ八重の汐風  (新古今集 式子内親王)

 

 新古今集の歌の美しさこそ、東西古今の抒情詩中で、この世のたぐひなきものであらう。ここにはあらゆる文化人が思念する詩歌のフオルムの、絶頂的最高峰に行き盡したものがある。それは「詩」といふ文學の中から、そのすべての文學的素材を除去して、言葉を純粹の音樂に代へてしまつたのである。ゲーテは音樂についてかう述べてゐる。「藝術の品位は、音樂に於ておそらく最も高貴に現れてゐる。その故は、音樂には取除かねばならぬやうな素材がないからである。音樂は全く形式と内容だけで、その表現する一切のものを氣高くする。」

 ところで西洋近代の詩人たちは、抒情詩からその文學的素材を除去して、詩を純粹形式の音樂にすることをイデーした。これが即ちヴアレリイ等の言ふ「純粹詩」である。純粹詩こそは、おそらく詩の文化的高峰に咲く理念であらう。だがその花の開花は、季節の好き日を待たねばならぬ。それは或る特殊の文化が熟爛して、内容の意味と素朴を失ひ、その空虛に美しい形骸のままで、正に地に落ちて凋落しようとする秋の、悲しいデカダンスの季節にのみ、最後の返り花を咲かせるのである。

 外國では、現代佛蘭西が正にさういふ季節にある。そして本朝日本に於ては、後鳥羽院の院政された王朝末期の沒落期が、正にさうした文化の熟爛したデカダンスの季節であつた。そして新古今集が、丁度さういふ時期に生れたのである。それは八代集最後の歌集で、萬葉以來徐々に進歩し變化した、日本の歌の最後の登りつめた最高頂に立つものだつた。新古今集を限りとして、事實日本の美しい歌は、歴史的に亡び失はれてしまつたのである。

 新古今集では、音樂に於ける如く、内容と形式とが、全く一の不離のものになつてるのである。そこでは文學に於ける如き意味での、素材といふものが殆んど無い。すべての素材は取り除かれてゐる。有るものはただ「形式」と「内容」だけである。しかもその内容は、それ自身が既に形式なのであるから、これこそ徹底的フオルマリズムの抒情詩と言ひ得るだらう。

 いかに讀者は、貴船川の歌の美しさを表現し得るか。「八重の汐風」の歌が調べる音樂の悲しさは、何に譬へやうもなくリリカルである。しかもその悲しさと美しさは、これを思想に表現することの言葉を持たない。なぜなら此等の詩には、普通に言ふやうな概念での、「意味」といふものが無いからである。文學上に言はれる「意味」といふことは、すべて皆「素材」に屬してゐる。然るに此等の歌には、初めから素材が除去されてゐるのであるから、したがつて、また意味があり得ないのである。「意味の無い詩こそ、この世で最上の詩である。」とヴアレリイが言ふことの眞理は、僕等日本人にとつては、新古今の歌をよんでのみ、初めて理解できるのである。なぜならこの場合に言はれる無意味といふことは、詩の形式(音樂)が、それ自身として奏するところのリリツクであり、それこそが實の内容なのであるから。

 

  有馬山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

 

 芥川龍之介をして、日本抒情詩中の絶唱であり、近代佛蘭西詩にもまさる美學的な詩だと言はせたこの歌は、しかし我等の古典中には、決して稀らしいものではない。

 我等の日本人は、過去にすべての美しい物を所有してゐた。今日二十世紀の紅毛人が、十九世紀の遺産を經て漸く到達し得た最後の美學と抒情詩とを、遠く既に十一世紀に所有してゐた。我等の詩人は、どんなに誇張して世界に誇つても、尚未だ及ばないことを恐れるのである。

 

[やぶちゃん注:『文藝世紀』第一巻第四号・昭和一四(一九三九)年十二月号に掲載され、後に、一部改されてエッセイ集「歸郷者」(昭和一五年十月白水社刊)に所収された。「歸郷者」では、「有馬山」の和歌の「ゐな」が「いな」となっているが、改訂本文に従った。さて実は、この「後拾遺和歌集」の「恋」に載り、「百人一首」の第五十八番歌でもある大弐三位の和歌を、『日本抒情詩中の絶唱であり、近代佛蘭西詩にもまさる美學的な詩だ』と絶賛している芥川龍之介の文章が、これ、何であるか、奇妙に探しあぐねて甚だ氣持ちが悪い。是非とも識者の御教授を乞うものである。

Wistaria の香料 大手拓次

  Wistaria の香料 

 

銀のはりねずみをあそばせて、

なめらかな象牙(ざうげ)の珠(たま)をころがすやうに、

孤獨な物思ひはすることもなくたたずんでゐる。

いううつはくものあゆみのやうにひろがり、

竹笛をならすうたがひがしのびよる。

 

 

[やぶちゃん注:「Wistaria」藤の花。真正バラ類であるマメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ Wisteria floribunda である。標準和名はノダフジ(野田藤)とも。フランスのファッション・ブランド LANVIN(ランバン:一八八九年創業。)の“ÉCLAT D’ARPÈGE”(エクラ・ドゥ・アルページュ:「アルペジオ(分散和音)の華麗さ」といった意味か。)などには、このウィステリアの香料が使われているそうである。今度、買ってみよっと!]

 

鬼城句集 夏之部 裸

裸     裸身や灸だになくて大男

      裸身の一枚肋見はやしぬ

[やぶちゃん注:「一枚肋」「いちまいあばら」と読み、肋骨の並びが一枚の骨のようになって見えることを謂い、一般には「二枚腰」とともに理想的な力士の体形を評した語。胸から胴にかけてが肉身豊かで、恰も肋骨が一枚板のように見えるさまを讃した語である。言わずもがなであるが、二句とも相撲の景である。]

2013/06/20

河童について 南方熊楠

 

       河童について 

 

 熊野地方に、河童をカシャンボと呼ぶ。火車坊の義か。川に住み、夜厩に入って牛馬を悩ますこと、欧州のウェルフ等のごとし。その譚を聞くに全く無根とも思われず。南米に夜間馬の血を吸い、いたくこれを困憊せしむる蝙蝠(こうもり)二種ありと聞けど(『大英類典』二七巻八七七頁)、わが邦にそんな物あるべくもあらず。五年前五月、紀州西牟婁郡満呂村で、毎夜カシャンポ牛部屋に入り、涎を牛の全身に粘付し、病苦せしむることはなはだしかりければ、村人計策して、一夕灰を牛舎辺に撒き、晨(あした)に就いて見れば、蹼(みずかき)を具せる足跡若干を印せり。よってその水鳥様の物たるを知れりと、村人来たり話せり。頃日(このごろ)滕成裕の『中陵漫録』を読むに、「薩州の農家にては、獺を殺さば、もし殺す時は馬に祟りをなす。祟ること七代にしてようやく止むという。大いに恐れてあえて殺す者なし、云々」とあり。予かつて獺を畜いしを見るに、すこぶる悪戯を好むものなれば、時に厩舎に入って家畜を悩ますを河童と心得るに至りしにて、少なくとも満呂村の一例は獺の行為たること疑いなしと思う。

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年五月岡書院刊「南方随筆」より。末尾に『(明治四十五年一月『人類学雑誌』二八巻一号)』とある。

「カシャンボ」またはカシャボ。ウィキカシャンボ」によれば、紀伊南部(現在の和歌山県周辺)などで伝承される妖怪で、山に移り住んだ河童が進化したものとする説が有力である。六、七歳ほどの子供程度の背丈で、頭に皿を被り(頭は芥子坊主のようであるともいう)、青い衣を身に着けており、犬はその姿を見ることが出来るが、人間の目には見えない。人間の唾を嫌う。和歌山県東牟婁郡高田村(現在の新宮市)のある家では、毎年新宮川を遡って来た河童が挨拶に訪れ、姿は見えないが家に小石を投げ込んで知らせ、山へ入ってカシャンボになるという。性質は河童と変わらず悪戯者で、山中で作業をしている馬を隠したり、牛小屋にいる牛に涎のようなものを吐きかけて苦しめるという。牛小屋の戸口に灰を撒いておいたところ、そこに残されていたカシャンボの足跡は水鳥のようだったという(南方の記載と酷似するが、引用元は柳田國男「山島民譚集」とある)。和歌山県西牟婁郡富里村(現在の田辺市)では、カシャンボは雪の降った翌朝に一本足の足跡を残すもので、人に相撲をとろうと持ちかけるが、唾をつけてやると勝つことができるなどと、河童と一本だたらが混同されたかのように伝承されている。二〇〇四年春、和歌山県白浜町富田の田畑で謎の足跡が発見され、四本足の動物ではあり得ない足跡であったことから、カシャンボの仕業と地元の新聞などで報道された。國學院大學民俗学研究会が一九七七年に発刊した『民俗採訪』によれば、紀伊では河童のことをゴウライ、あるいは五来法師と呼び、冬の間は山篭りをしておりその間はカシャンボと呼ばれる。カシャンボという名称については悪戯者であることから、「くすぐる」を意味する方言の「かしゃぐ」に由来するとか、古典的妖怪としられる火車や、独特の頭部をいう頭(かしら)などを由来とする諸説がある。いくつかの文献では、河童以外にもカシャンボとして言及している資料があり、複数の説が存在する。但し、これ以外にも、夏はゴウラ、冬にはカシャンボとなり、毛深い人間のような姿のもの妖怪で、別説に山姥のことを指すという説(東洋大学民俗研究会一九八一年刊「南部川の民俗」)、マヘンのものと呼ばれる魔物で、冬は山へ、春は川へ行く移動性のもの(近畿民俗学会一九八五年刊「近畿民俗」)、カシャンポは山に棲み、河童とは違う(郷土研究社一九一六年刊「郷土研究」)といった河童との別種説もある、とある。

「ウェルフ」英語“elf”(エルフ)であろう。ゲルマン神話に起源を持つ、北欧の民間伝承に登場する種族である。本邦では妖精或いは小妖精と訳されることも多い。本来は自然と豊かさを司る小神族だった。エルフはしばしば、とても美しく若々しい外見を持ち、森や泉、井戸や地下などに住むとされる。また彼らは不死あるいは長命であり、魔法の力を持っている(名称は印欧祖語で「白い」を意味する“albh”に由来すると考えられ、“albh”はまた、ラテン語で「白い」を意味する“albus”、ポルトガル語・英語等の「アルビノ」(白化体)の語源でもある。参照したウィキエルフ」の記載の中では、本話の河童との相似性に於いて、ドイツのそれが興味深い。『ドイツの民間伝承では、エルフへは人々や家畜に病気を引き起こしたり、悪夢を見せたりする、ひと癖あるいたずら者だとされる。ドイツ語での「悪夢(Albtraum)」には、「エルフの夢」という意味がある。より古風な言い方、Albdruckには、「エルフの重圧」という意味がある。これは、エルフが夢を見ている人の頭の上に座ることが、悪夢の原因だと考えられていたためである』(詳細は引用元を参照されたい)。

「南米に夜間馬の血を吸い、いたくこれを困憊せしむる蝙蝠二種あり」獣亜綱コウモリ目陽翼手亜目ウオクイコウモリ下目ウオクイコウモリ上科チスイコウモリ科チスイコウモリ属ナミチスイコウモリ Desmodus rotundus などを指す。参照したウィキの「ナミチスイコウモリ」によれば、『本種は人間の血液も吸うことがあるが、外界から遮断された人家の中に侵入することは困難なこと等から人を襲うことは稀。獲物を死に至らしめるほどの大量の血液を吸う訳ではないが、家畜を複数の個体で襲い衰弱させたり、咬み傷から狂犬病等のウィルスや伝染病を媒介することもあるため害獣とされる』とある。信用し得るネット上の記載では吸血性コウモリは全世界でも南米に三種しかいないともある。

「西牟婁郡満呂村」昭和二五(一九五〇)年に万呂村その他が田辺市に編入されるという記載がある。現在の田辺市内の田辺駅東北直近。


「滕成裕の『中陵漫録』」「滕成裕」は水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。その「卷之十二」に以下のようにある(底本は国書刊行会昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成 第三期第3巻」所収のものを用いたが、恣意的に正字化した)。


   《引用開始》


   〇獺祟ㇾ馬

薩州の農家にては、獺を殺さず。若し殺す時は馬に祟りを爲す。祟る事、七代にして漸く止むと云。大に恐れて敢て殺す者なし。案るに、獺は水に屬す。故に水より火を克するは自然の理なり。其馬に祟るは同類を求む事、眞に信ずべし。

   《引用終了》]

大橋左狂「現在の鎌倉」 16 本覚寺から大町・材木座辺り

 大巧寺の南に續いて、四時御題目の太鼓の音絶間なき寺院がある。本覺寺と云ふ。山門を入りて右方に日蓮上人の分骨せる分骨堂がある。永享八年身延日朝上人の師三島日出上人の再建で初めて寺名を稱へたのである。日出上人の滅後日朝上人が承けて宗祖の其骨を移して東身延と稱したのである。關八州の僧祿に任じ國本山として結緣の道場である。俗に日朝樣と云ふ眼病者の尊信する寺院である。其寺前の滑川に架してある橋は夷堂橋と云ふのである。此橋を渡れば大町に入る。夷堂橋を渡つて本覺寺と相對して東に高く見ゆるのが比企ケ谷長興山妙本寺である。日朗上人の開祖である。建長五年日蓮上人房州より鎌倉に入り名越の窟に在つた時當時の北條氏の儒官であつた比企大學三郎能本(よしもと)を度されたのである。能本は賴朝の乳母比企尼の孫にて判官能員の子である。姉若狹局賴家將軍の側女となり一幡及將軍賴經の御臺所竹の御前を産む。源氏の末流は皆北條氏の毒手に罹り、一幡・若狹局又變に死す。能本菩提の爲めに一宇を建てたのが此抄本寺である。境内に一幡の袖塚、賴經將軍夫人、比企能貞等の塞がある。又小御所、竹御所、蛇形池(じやがたいけ)等の舊跡がある。同寺を出でゝ大町通りを南に進めば左側に牡丹餠寺・八坂神社等を見て大町の四辻に出る。此辻を西に進めば延命寺がある。南に進めば亂橋材木座通りに出で、淨土宗關東總本山光明寺に至るのである。東すれば別願寺、安養院を經て、名越の峠に出で逗子に通ずるのである。名越の手前に松葉谷と云ふがある。玆處に妙法寺、安國論寺のニケの法華宗寺院がある。安國論寺は日朗上人の開基で、建長五年日蓮が小湊を出で鎌倉に來りたるも一泊さへ貸すものないので、此松葉ケ谷に自然の岩窟を見出し、假の庵として雨露を凌いだ舊趾である。世に知らるゝ立正安國論は此岩窟の中にて草されたのである。名越踏切りの先にも長勝寺と云ふ同宗の寺がある。更らに又大町四辻を南に歩を運び、本奧寺、補陀落寺を左に八幡舊趾、啓運寺、向福寺を右に見て進めば四丁餘にして光明寺に達するのである。
[やぶちゃん注:「國本山」不詳。相模国に於ける本山格ということか。
「本奧寺」は「本興寺」の誤り。]

栂尾明恵上人伝記 39 浪の上(へ)に咲(ゑみ)を含みし顏(かん)ばせを想像(おもひや)るにも袖はぬれけり

 元仁二年〔乙酉〕佛生會(ぶつしやうゑ)の式之を草す。

 此の山寺の後に三町計り去つて、一の峰を卜(し)めて楞伽山(りようがせん)と名づく。楞伽山と云ふは羅婆那夜叉王(らばなやしやわう)の住處(じゆうしよ)、南海の島なり。得通(とくつう)の人にあらざれば登ることなし。如來此の島にして五法。三性(じやう)・八識・二無我の法門を説き給ひき。愚身天性(ぐしんてんしやう)の受くる處、山水に馴れて人事に疎し。之に依りて、此の峰閑寂の地たるに依りて、常に此の處に栖む。如來説法の處其の數多き中に、殊に此の名を付くる故は、諸經の序品は何れも皆如來説法の儀式なれば、是を聞くごとに滅後の悲しみを休めずと云ふ事なし。此の中に楞伽經の序品を開くに、如來在世の粧(よそほひ)殊に目近き心地す。大海龍王宮の中にして七日の説法終りし時、無量の大菩薩・大比丘竝に釋・梵・諸天・龍神共に、龍宮を出て、南海楞伽山の麓に出で給ふ。羅婆那夜叉無量の眷屬と共に華宮殿(けぐうでん)に乘じて、無量の伎樂歌詠を(ぎがくかえい)を調べて、山頂より下りて如來を請じ奉る。如來大衆又華宮殿に乘じて、無量の伎樂を調べて、山頂に登り給ひき。夜叉も眷屬も又華宮殿に華殿の 數を重ねて、虛空の中に充滿せり。思惟の處に滅後の恨を休めつべし。仍て此の山に二宇 の草庵を結びて、上をば華宮殿(けくうでん)と名づけ、下をば羅婆坊(らばばう)と號す。華宮殿にしては一向(ひたすら)に坐禪をし、羅婆坊にしては三時の行法を勤む。華宮殿の形を見ては、八萬億の莊嚴(しやうごん)の功德を念じ、羅婆坊の名を聞きては、見佛聞法(けんぶつもんぱふ)の有緣(うゑん)を羨めり。又爰に經文を開くに、哀れになつかしきことあり。爾時(そのとき)に世尊遙に楞伽山の上を見上げ給ひて、金山の面に咲(ゑみ)を含み給ふと説けり。此の經は如來内證智(によらいないしようち)の法門なれば、所表所詮(しよひゃうしよせん)皆大乘甚深の妙理なれば、在世の昔戀しくて、
  浪の上に咲を含みし顏ばせを想像(おもひや)るにも袖はぬれけり

 極月(ごくげつ)十日餘の夜、天曇り、月暗きに、上の坊に入りぬ。漸く半夜に至りて、出定(しゆつぢやう)の後、下の坊へ歸るに、空晴れ月さやかにて、松風たくいてわりなきに、
  心月(しんげつ)の澄むに無明(むみやう)の雲晴れて解脱の門(かど)に松風ぞ吹く

耳嚢 巻之七 銕物の疵妙藥の事

 銕物の疵妙藥の事

 針釘の類踏(ふみ)たて怪我なしたる妙藥夫々有(ある)事を、同寮にて咄し合(あひ)しに、右の藥はかまきりを押(おし)潰し付(つく)れば、殘れる銕氣(かなけ)を呼出(よびいだ)し奇々妙々快(こころよき)よし。かま切を干置(ほしおき)て貯へ、付てよし。又は黑燒にいたし置、付(つく)べしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。所謂、破傷風などを重篤な症状を視野に入れたものであろうが、カマキリでは……。なお、本話は短いながら、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版とちょっと叙述が異なる。以下に全文を正字化、読みを歴史的仮名遣に代えてして示しておく。「なまなれば猶奇功有よし」などは文脈上はこちらよりしっくりくるのである。

     銕物(かなもの)の疵(きず)妙藥の事
 針または釘を踏(ふみ)たて怪我なしたる妙藥、まゝある事を、同寮(どうりやう)にて咄合(はなしあひ)し。右の藥はかまきりを押潰(おしつぶ)しつくれば、殘れる銕氣(かなけ)を吸出し奇妙に快(こころよき)よし。かまきりを干置(ほしおき)貯へ、付(つけ)てよし。なまなれば猶(なほ)奇功有(ある)よし。或る人の語りぬ。

・「銕物」は「かなもの」と読む。金物。
・「同寮」底本では右に『(同僚)』と傍注する。

■やぶちゃん現代語訳

 金物(かなもの)の傷の妙薬の事

 針・釘の類を踏み抜いて怪我を致いた場合の妙薬は、これ、さまざまにあるということを、同僚らと話し合って御座った折り、その際の藥としては、生きた蟷螂(かまきり)を押し潰して傷口に塗付すれば、創内(きずうち)に残った金気(かなっけ)を自然に吸い出して外へ出だし、奇妙絶妙に快癒する由。蟷螂を干し置いて貯えたものを、塗ってもよく、また、蟷螂を黒焼きにして貯えおいたものをつけてもよいとのことであった。

指さきに吸ひつく魚のこゝろよりつめたく秋は流れそめたり 萩原朔太郎

指(ゆび)さきに吸(す)ひつく魚(うを)のこゝろよりつめたく秋(あき)は流(なが)れそめたり

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月十日附『上毛新聞』に「夢みるひと」の署名で、「秋思」という総標題で掲載された五首の巻頭歌。これは原型が底本全集の第二巻所収の自筆ノート「習作集第九卷(一九一三、九)」に、「中秋雜詠」の総標題で載る十九首の巻頭歌として記されており、そこでは、

 ゆびさきに吸ひつく魚のこゝろより
 つめたく秋は流れそめたり

と、一部平仮名表記で、分かち書きルビなしで載る。]

河馬の歌(12首) 中島敦

[やぶちゃん注:以下の「河馬」歌群は動物園での嘱目吟の連作であるが、横浜高等女学校の東京都恩賜上野動物園への社会見学の可能性を私は考えている(但し、昭和一二年以前の中島敦の手帳日記にはそうした事実は今のところ、発見出来ずにいる)。なお、本カテゴリの最初の注でも述べたが、底本の解題によればこれに限らず中島敦のこれらの歌稿の大半は、驚くべきことに昭和一二(一九三七)年十一月初旬から同十二月中旬にかけて一気になったもの、とある。因みにこの翌昭和一三年に、上野動物園では日本初のカバの繁殖に成功している。掲げた写真は中国在住の教え子が撮った上海動物園の河馬である。すこぶる迫力がある。中島敦も併載を喜んで呉れること請け合いである。 
 なお、本歌稿の嘱目時の情景を小説化したと思われる草稿が、底本全集第三巻の「ノート・斷片」の「ノート 第五」に見出せるので以下に引用しておく。取消線は抹消を示す。

 動物園 象の前にも河馬の前にも、呆氣にとられたまゝ三十分以上立ちつくす、匆々に彼の手を引張つてにげ出した。チンパンジーの前でに立つて、ゲラゲラ笑ひ乍ら出す。チンパンジーは横になつたまゝ、横目で彼の方にぢつと視線を注いでゐる。如何にも賢者らしげな愼重な目付で、ゲラく笑つてゐる異樣な人間を見てゐる、この二つを並べて見てゐる中に何だか變な気がして來た。氣が付くと、檻の前の見物人はどうやら、肝心のチンパンジーよりも、それを見てゐる彼の方を眺めて笑つてゐるやうだ。彼と並んで立つてゐる私も衆人のワラヒの視線にさらされてゐたことは勿論である。

標題の「動物園」の太字はママ。「ゲラゲラ」の後半は底本では踊り字「〱」。なお、解題によると、このノートには「註解東京見聞錄」(「註解」の字は右から左への横書きでポイント落ち)という表題が記されているものの、それらしきものはこの引用部分(底本指示標記で同ノートの『第二十一丁裏』相当部)に『一箇所書き込まれてゐるのみである』とある。]

Kaba1

     河馬の歌

うす紅くおほに開(ひら)ける河馬の口にキャベツ落ち込み行方知らずも

ぽつかりと水に浮きゐる河馬の顏郷愁(ノスタルヂア)も知らぬげに見ゆ

この河馬にも機嫌不機嫌ありといへばをかしけれどもなにか笑へず

赤黒きタンクの如く竝びゐる河馬の牝牡(めすをす)われは知らずも

水の上に耳と目とのみ覗きゐていぢらしと見つその小さきを


[やぶちゃん注:ここに一行行空け有り。]

    

わが前に巨(おほ)き河馬の尻むくつけく泰然として動かざりけり

無禮(なめ)げにも我が眼(め)の前にひろごれる河馬の臀(ゐしき)のあなむくむくし
[やぶちゃん注:「臀(ゐしき)」「居敷き」とも書き、①座。座る場所。座席。② 尻(しり。無論、ここは尻の意。次の句の「ゐさらひ(いさらい)」(「いざらい」とも)同じく尻の意。「むくむくし」の後半の「むく」は底本では踊り字「〱」。]

臀(ゐさらひ)のたゞ中にして三角の尻尾かはゆし油揚のごと

これやこのナイルの河のならはしか我に尻向け河馬は糞(まり)する

事終り小さき尻尾がパシヤパシヤと尻を叩きぬ動きこまかに
[やぶちゃん注:「パシヤパシヤ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

丘のごと盛上(もりあが)る尻をかつがつも支へて立てる足の短かさ
[やぶちゃん注:「かつがつ」の後半は底本では踊り字「〲」。「かつがつ」は「且つ且つ」で、少しずつ、ぼつぼつと、の意。]

三角の尻尾の先端(さき)ゆ濁る水のまだ滴(したた)りて河馬は動かず

Kaba2



共時的に創作された可能性がある漢詩、「春河馬」二首がある(リンク先は僕の「中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈」の当該詩評釈)。

香料の墓場 大手拓次

 香料の墓場

 

けむりのなかに、

霧(きり)のなかに、

うれひをなげすてる香料の墓場、

幻想をはらむ香料の墓場、

その墓場には鳥(とり)の生(い)き羽(ばね)のやうに亡骸(なきがら)の言葉がにほつてゐる。

香料の肌のぬくみ、

香料の骨のきしめき、

香料の息(いき)のときめき、

香料のうぶ毛のなまめき、

香料の物言ひぶりのあだつぽさ、

香料の身振(みぶ)りのながしめ、

香料の髮のふくらみ、

香料の眼にたまる有情(うじやう)の涙、

雨のやうにとつぷりと濡(ぬ)れた香料の墓場から、

いろめくさまざまの姿はあらはれ、

すたれゆく生物(いきもの)のほのほはもえたち、

出家した女の移り香をただよはせ、

過去へとびさる小鳥の羽(はね)をつらぬく。

鬼城句集 夏之部 夏帽

夏帽     老仲間

      白頭を大事にかけよ夏帽子

2013/06/19

耳嚢 巻之七  放屁にて鬪諍に及びし事

 放屁にて鬪諍に及びし事

 

 是も同比(おなじころ)の事、或町家に獨住の(ひとりずみ)者ありしが、其隣に夫婦幷七八歳の娘壹人都合三人ぐらしの者有(あり)しが、彼(かの)妻、夫は留守にて大き成る放屁(はうひ)をなしける。隣の獨り住の男聞(きき)て、女にて人もなげ成る放屁也迚、嘲(あざけ)り誹(そし)りけるを、彼女房聞て以の外憤り、彼獨り住なる者の方え至り、我宿にて屁をひるを何の嘲り笑ふ事や、いらざる世話なりと罵りしより事起り、互に聲高(こわだか)に爭ふを、相店(あひだな)の者立集(たちあつま)り引分(ひきわけ)事鎭(しづま)りしが、彼女房は洗湯(せんたう)に至りし留守へ夫歸りけるに、七八歳の娘留守におかしき事にてさわがしかりしと申(まうし)ければ、如何成(いかなる)事哉(や)と尋(たづね)しに、隣のおぢさんとかゝさんものいゝ有(あり)し由、然れ共、おん身にはかならず沙汰致す間敷(まじき)とかたくいわれたりと譯いわざれば、扨は隣の男と女房姦通なしけると心中に憤り、湯より女房歸りても物いわず、彼是申(まうし)爭ひ出刄庖丁を以て妻の頭へ疵付(つけ)、あたり隣家よりかけ來りて引わけ、彼獨り男も來りて取おさへけるに、是も疵付、公邊(こうへん)に成りなんとしけるが、段々の譯よくよく聞(きか)ば有(あり)の儘ゆへ異見する者有(あり)て、内々にて濟(すまし)けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:冒頭の「是も同比の事」で、前話と同時期、文化二(一八〇五)年の夏の出来事で連関。落語みたような話であるが、二人も出刃包丁によって傷害を受けており、あり得た印象の強い事実譚らしき噂話ではある。

・「相店」相借家(あいじゃくや)。同じ棟の中にともに借家すること。また、その住人。

・「おかしき事」近世もこの頃になると、「おかし」(正しくは「をかし」)には現代語のような、変だ、怪しい、怪しむべきことだ、というニュアンスを含意するようになり、また、本来の古語の意味でも、子どもには真の意味が分からないながら、普通と変わって何だか面白そうで興味がそそられた、という意味合いも読み取れる言葉であろう。

・「さわがしかりし」「さわがし」という形容詞には単に騒々しい、やかましい、の意以外に、混乱してごたごたが生じる、不穏だ、不安だ、などの意味がある。父親はその、何か問題のあるダークな人間関係の混乱や不穏のニュアンスを「さわがし」という言葉に感じてしまったものともとれる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 放屁が原因で乱闘に及んだ事

 

 これも同じく文化二年の夏頃のことで御座る。

 とある町家に独り住まいの者があったが、その隣りには、夫婦(めおと)と七、八歳になる娘が一人、都合三人暮らしの家族が住んで御座った。

 その妻が、ある日のこと、夫の留守に、

――ブブブゥーーーッツ! ブッ!!

と、これまた大きな屁(へ)を放ったと思し召されい。

 折しも在宅であった隣りの独り住みの男、これを安長屋の薄き壁越しに聞きつけ、

「女のくせに、何とも、これ――人のものとも思えぬ――ぶっ魂消(たまげ)た――凄(すげ)え、屁じゃが! 屁! どぅじゃ! へへへヘッツ! どうじゃ! てへ屁(ぺ)ろ!」

と、これもまた壁越しに、さんざんに嘲り誹って大笑い致いた。

 かの女房、それを耳にするや、以ての外に憤り、その独り住みの男の方へと尻をはしょって走り込むと、

「我が家(や)で屁をひるを、何の、嘲り笑うかッツ! いらぬ世話じゃッツ!」

とこれまた、金切り声を挙げて罵ったから、たまらぬ。

 売り言葉に買い言葉、二人、声高(こわだか)なる言い争いと相い成って、隣近所の相店(あいだな)の者どもも、すわ、何事かと、皆々たち集(つど)う。

 ともかくも摑みかからんばかりの二人を引き離して鎮め、何とか、そこはことなきを得て御座ったと申す。

 さて、その暮方近(ちこ)うになって、かの女房は銭湯へと参り、その留守に夫はお店(たな)へ帰って御座った。

 すると、七、八歳になる娘が、

「……父ちゃん、留守に……そのぅ……変なことがあって……何だか……さわがしいことに……なったん……」

と如何にも、言いたいのか、言いたくないのか、妙なしなを作って言うたによって、

「あん? どんなことじゃ?」

と訊いたところが、

「……そのぅ……隣りの、ね……おじさんと、ね……かかさんが、ね……なんだか、ね……よう分からんけど、なんか……けんかみたいに、二人でうなり声を挙げてたの……だけど……このこと、ゼッタイ、父ちゃんには言っちゃダメだ! って……かかさんが、言うてたから…………」

と、それ以上、口籠ったまま黙ってしもうた。

 それを聞いた夫は、

『さては……隣りの男と……あの売女(ばいた)め! 皮つるみしておったかッ?……』

と心中憤り、銭湯より女房が帰ってからも、一言も口を利かず、あれこれ、妄想と憤怒が先走った、訳の分からぬことを言っては女房に嚙みつき、果ては大喧嘩と相い成った。

 夫は思わず、水屋に飛び下りて握りしめた出刃包丁でもって、妻の頭を、

――シャッツ!

と傷つけた!

 女房は頭から血を吹き出し、

――ギャッッツ!!!

と叫ぶや半狂乱となった!

 その騒ぎに向こう三軒両隣り、長屋連中、皆、駆け込んで参り、なんぞ浄瑠璃みたような修羅場を、皆して何とか、引き分けて御座った。

 と、そこへ、かの隣の独り者の男も来合せ、血みどろの顔に泡を吹き、手足をばたつかせて門口に倒れ込んで御座った女房を静めんと、肩を抱だくように押さえて御座った。

 それを部屋内から、血走った眼ですかさず垣間見た夫は、押さえつけて御座った男衆を跳ね除けるや、脱兎の如く路地へと飛び出いで、出刃振り上げて、

――シャシャッツ!

と、かの男にも切りつけたから、もう、たまらぬ!!

――一瞬にして平和な長屋は

――ザンバラ

――血飛沫(ちしぶき)

――阿鼻叫喚

――まさに地獄絵と化して御座ったと申す。

 さても、当然、刃傷なればこそ、表沙汰にもなるが必定、で御座った。

……ところが……これ……不幸中の幸いと申すものか、妻も、隣りの男も、傷は思ったほどには深(ふこ)うもなく、じきに血も収まって、また、わけも分からず修羅場を目の前にして青うなって昏倒致いて御座った子どもも、正気付かせ、それぞれ四人の者に、これ、段々に、それぞれの言い分をよくよく聞いてみたところが……まあ、以上に述べた――まんず、繰り返すまでもなき、アホらしき顛末で御座ったことが明白となったればこそ――鯱鉾(しゃっちょこ)ばった、訴え出るが筋、と申す輩に対し、

「……それは如何にもアホらしいゼ。……お前(めえ)さんら、だいたい、お白洲に出て、この一件の証人に立つざまを想像して御覧な?! ええっ?……儂(あっし)らの長屋から――屁の争いで刃傷と相い成った呆け野郎を出す――そんな恥を、これ、晒すんが正道かっ、てえんでぇ!?!……」

と、異見する者が御座ったによって、これ、内々に済まして、結局、表沙汰にはならずに済んだとか、申すことで御座った。

栂尾明恵上人伝記 38 詩賦風流の面白さは修行の妨げ

 又上人語りて云はく、我れ先師の命に依りて、十八歳まで詩賦を稽古して風月に嘯(うそぶ)きしに、其の興味深くして他事を忘るる程なりき。然る間、自ら非を知りて、此の道を打ち捨ててき。然れども雪月の節(せつ)に引かれて、時々胸に浮べども取合(とりあひ)て一首を作ることは稀なりきと。

 其の年の秋、一人の比丘尼願を發して、此の山寺にして二十口(く)の僧侶を屈して、四十華嚴經一部如法(によはふ)書寫の行を始む。其の寫功(しやこう)巳に畢つて、上人啓白(けいびやく)あり。法華如法經は古より今に絶えず。華嚴經如法書寫本朝に未だ之を聞かず。大唐の傳記には多く見えたり。修德禪師精懃(せいごん)して書寫せしかば、開講の日其の經光を放ちて七十里を照すと云々。
[やぶちゃん注:「其の年」底本には右に『(貞應年中)』という編者傍注がある。]

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 八 現行「河童」のルビの決定的誤りを発見!

この「八」の一箇所――「笑ひ声を後に」の「後」を初出及び現行の「河童」が「うしろ」とルビしているのは「あと」の――ほぼ100%誤りである!

御存じでない方のために一言申し上げておくと、例えば泉鏡花などは自筆原稿も総ルビで、自分で驚くべき緻密さでルビを振っているのであるが、実は近代の作家の多くは、こう読んでほしいという部分にしか原稿にルビを振らないのである。
芥川の場合もそうである。
では総ルビの作品のルビは誰が振るのか?
文選工や植字工であり、それをゲラ校正者が確認し訂正、作者がそれを以って最終校正してOKするのである(だから作者にも責任は勿論ある)。
ちょっと意外な気がされる方も多いと思うが、それが実情である。

だからこそ、最初の岩波の芥川龍之介全集(元版と呼ばれる)の編集者の一人であった弟子の堀辰雄は、全作品をルビなしで、という編集提案をしているのである(しかしこれは結局、通らなかった)

だから実は、総ルビという読み易く見える作品群は、実は作者の読みとは違うリブが振られてしまい、そこまでいちいち見るのをおろそかにしたり、見落としたりしれば、それがそのままその作者の金科玉条の「定本」となってしまうというリスクが格段に高かったのである。

今回の発見はそうした一つであると私は信じて疑わない。論理的な証拠も示した。お暇な時にでも、そこだけでも管見して戴けると恩幸これに過ぎたるはない。



■原稿69

       〈七〉**

 

[やぶちゃん注:「八」は五字下げ。

●一行目の罫外上方やや右寄りから、四マス目にかけて赤インクで、

 芥川氏つづき

とあり、同じく赤インクで「八」の右手に

 2ポ

の校正指示がある。また、この頁の左罫外ナンバリング・ノンブル「69」は最20行目7マスの左側と、やけに低い位置にあって、その上に本文とは微妙に異なるインクによる

 ך

型のチェック(?)が入っており、その上には左上方の斜めになった「改造よ印」のゴム印のすぐ下に大書した同じ、
 改造よ印
の手書き文字がごく薄く読み取れる(鉛筆書きのものを消しゴムで消したようにも見えるが、字の続き方から見るとペン書きのものが薄くなったものらしい)。なお、最初の赤インクによるものと思われる汚損が、3~4行め中間に有意に濃く左上から右下へ向かって直線状に約二センチメートルあり、また4~5行目の行間を中心に上下合わせて9箇所近く、さらに原稿罫外左下方にも認められる。

 

 僕は硝子會社の社長のゲエルに〈勿論反感〉*不思議にも好意*

持つてゐました。ゲエルは資本家中の資本家

です。恐らくはこの國の河童の中でも、ゲエ

ルほど大きい腹をした河童は一匹もゐなかつ

たのに違ひありません。しかし茘枝に似た細

君や胡瓜に似た子供を〈ひきつれ〉*左右にし*ながら、〈にこ

にこ笑つて散歩し〉*安樂椅子に坐つ*てゐる所は殆ど幸福そのも

のです。僕は時々〈■〉**判官のペツプや〈医者のチヤツクにつれられて〉医者のチヤツクにつれられてゲエル〈の〉家(け)の晩餐へ出か

[やぶちゃん注:当初、芥川が、

 僕は硝子會社の社長のゲエルに勿論反感を持つてゐました。

としていた事実に着目すべきであろう。確かに実は、続く逆接の、

 しかし茘枝に似た細君や胡瓜に似た子供をひきつれながら、にこにこ笑つて散歩してゐる所は殆ど幸福そのものです。

という叙述は、ここが「反感」であってこそ自然であったことに気づくのである。そうして社長資本家であるゲエルへ「勿論反感」を持っていた、と突如切り出すところに、芥川龍之介の当時の赤裸々な立ち位置が明瞭にみて取れたはず、であったのだ。そこを芥川はお茶濁ししていることに着目したい。しかし同時に、「僕は硝子會社の社長のゲエルに勿論反感を持つてゐました」という謂いは、これ、如何にもな食えない投げであって、芥川的ではない――龍之介が嫌った直情径行的表現――であることも、これまた、事実なのである。]

 

■原稿70

[やぶちゃん注:以下の3行目と4行目の「+」記号部分は行を繫げる「」の校正指示があることを元の空マスの数分で示した私の記号である。]

けました。又ゲエルの紹介状を持つてゲエル

やゲエルの友人たちが多少の関係を持つてゐ

るいろいろの工場〈を〉**見て歩きました。〈その〉++++

+そのいろいろの工場の中でも殊に僕に面白

かつたのは書籍製造会社の工場です。僕は〈まだ年

の若い〉*年の若い*河童の技師とこの工場の中へはいり、水力電

気を〈利用した〉*動力にし*〈無数〉*、大きい*機械を眺めた時、今更

のやうに河童の国の機械工業の進歩に驚嘆し

ました。何でもそこでは一年間に七百萬部の

本を製造するさうです。が、僕を驚かしたの

[やぶちゃん注:

●4行目は当初、推敲で改行して新しい段落を作っていたものを、また元通りに続けたことを意味している。]

 

■原稿71

は本の部數ではありません。それだけの本を

製造するのに少しも手数のかからないことで

す。何しろこの國では本を造るのに唯〈大きな〉

機械の〈中へ〉漏斗形の口へ紙とインクと灰色をした

粉末〔と〕を入れるだけなのですから。〈《機械はそ

れ》→無数の機械は〉*それ等の原料*は機械の中へはいると、〈まだ〉*殆ど*五分とたたな

いうちに菊版、四六版、菊半截版〈等の〉*など*の無数

の本になつて出て來るのです。僕は〈《その無数

の本が》《中に》→《瀑の》やうに流れ落ちるの〉*瀑のやうに流れ落ちるいろいろの本*を眺め〈て〉**

ら、〈《ちよつとした》→僕を案内した〉*反り身になつた*河童の技師にその灰色の粉

 

■原稿72

末は何と云ふものかと尋ねて見ました。する

と技師は黒光りに光つた機械の前に佇んだま

ま、つまらなさうにかう返事をしました。

 「これですか? これは馿馬の腦髓で〔す〕よ。え

え、一度乾燥させてから、ざつと粉末にした

だけのものです。時價は一噸二三戔ですがね。」

 〈《僕は》→それはほんの一例です。〉*〈しかし〉**勿論**かう云ふ工業上*の奇蹟は〈製〉書籍製造会

社にばかり起つてゐる訣ではありません。繪

畫製造會社にも、音樂製造會社にも、同じや

うに起つてゐるのです。實際又〈■〉*ゲエルの話*によれば、こ

 

■原稿73

の国では平均一箇月に七八百種の機械が新案

され、何でもずんずん人手を待たずに大量生

産が行はれるさうです。從つて又職工の〈■〉**

されるのも四五萬匹を下らないさうです。〈僕〉

の癖まだこの国では〈罷業があつたと云ふこと

を聞きません〉*毎朝新聞を讀んでゐても、一度も罷*業と云ふ字に出會ひません。僕

はこれを妙に思ひ〈■〉**したから、或時又〈チ〉**ツプ

やチヤツクとゲエル〔家〕の晩餐に招かれた機会に

このことをなぜかと尋ねて見ました。

 「それはみんな食つてしまふのですよ。」

 

■原稿74

 〈ゲエルは〉食後の葉卷を啣へたゲエルは如何にも無造

作にかう言ひました。しかし「食つてしまふ」と

云ふのは何のことだかわかりません。すると

〈チヤツクは〉鼻眼鏡をかけたチヤツクは僕の不審を察した

と見え、横あひから説明を加へてくれました。

 「その職工を〈皆〉みんな殺してしまつてね、肉を

食料に〈する〉*使ふ*のです。〈よ。〉 〈今朝(けさ)の〉*ここにある*新聞を御覽なさ

い。今月は〔丁度〕六萬四千七百六十九匹の職工が解

雇されましたから、それだけ肉の價段も下つ

た訣です〈。」〉よ。」〈そら、さつき我々の食べた燒き〉

[やぶちゃん注:ここには、2箇所の初出・現行との有意な相違がある。

●「鼻眼鏡」初出及び現行「河童」では、「鼻眼金」。

●「殺してしまつてね、」初出及び現行「河童」では、

 殺してしまつて、

と「ね」がない。]

 

■原稿75

 「職工は默つて殺されるのですか?」

 「それは騷いでも仕かたはありません。職工

屠殺法があるのですから。」

 これは山桃の鉢植ゑを後ろに苦(にが)い顏をして

ゐたペツプの言葉です。僕は勿論不快を感じ

ました。しかし主人公のゲエルは勿論、ペツ

プやチヤツクもそんなことは當然と思つてゐ

るらしいのです。現にチヤツクは笑ひなが

ら、嘲るやうに僕に話しかけました。

 「つまり餓死したり自殺したりする手数〈は〉**

 

■原稿76

家的に省略〈するので〉*してやる*のですね。ちよつと有毒

〈斯〉**を嗅がせるだけですから、大した苦痛

はありませんよ。」

「けれどもその肉を食ふと云ふのは、………」

「常談を言つ〈ちや〉*ては*いけません。あのマツグに

聞かせたら、さぞ大笑ひに笑ふでせう。あな

たの国で四階級の娘たちは賣笑婦になつ

てゐるではありませんか? 職工の肉を食ふ

ことなど〈を〉**憤慨〈するのは〉*したりす*るのは感傷主義です

よ。」

[やぶちゃん注:

●「〈斯〉**」の訂正元の字は(つくり)「斤」になっていない。誤字訂正である。]

 

■原稿77

 かう云ふ問答を聞いてゐたゲエルは手近い

テエブルの上にあつたサンド・ウィツチの皿を

勸めながら、恬然と僕にかう言ひました。

 「どうです? 一つとりませんか? これも

職工の肉ですがね。」

 僕は勿論辟易しました。いや、そればかり

ではありません。〈ベ〉ペツプやチヤツクの笑ひ声

を後にゲエル家の客間を飛び出しました。そ

れは丁度家々の空に星明りも見えない荒れ模

樣の夜です。僕はその闇の中を僕の住居へ帰

[やぶちゃん注:ここには、次の2箇所の初出・現行との相違がある、と私は思う。

●「サンド・ウィツチ」この促音「ィ」は明らかに他に比して小さく書かれている。従って、初出及び現行もそうなってよいはずであるが、実際には初出も現行も、

 サンド・ウイツチ

である。促音表記をしないという統一規制が勝手に働いたものか。

●「笑ひ声を後に」私はこれは「わらひこゑをあとに」と素直に読む。ところが、初出及び現行では、なんと、

 笑ひ聲を後(うしろ)

とルビが振られているのである(下線部やぶちゃん)。芥川は、ここより前で、これを「うしろ」と読ませる場合には、通常は「後ろ」と、「ろ」を送っているのである(芥川に限らず、現在の標準的な送り仮名でもそうである)。私はこれは文選工・植字工・ゲラ校正担当者のミスであり、芥川自身もそれに気づかなかったのではあるまいか、と考えている。これはもう、ルビの誤りとしか、私には言いようがないのである!

●「〈ベ〉ペ」便宜上、かく標記したが、実際には「べ」と濁点「゛」を打ったその濁点のみをペンで修正して、半濁音「ぺ」の記号「゜」にしている。]

 

■原稿78

りながら、〈《■》→苦?〉**べつ幕なしに嘔吐(へど)を吐〈き〉**まし

た。夜目にも白じらと流れる嘔吐を。

[やぶちゃん注:この原稿の右罫外上には薄い1センチ5ミリ程の赤インクのやや薄い縦筋の跡が見える。但し、これは原稿用紙の裏側に附着した赤インクの透過した滲みのようにも見える。以下、8行余白。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 15 円覚寺から亀ヶ谷・扇ヶ谷を経て寿福寺/鎌倉宮から十二所まで駆足/宝戒寺から突如傍題なる日蓮辻説法跡解説そして大巧寺縁起へ

久々の更新である。



 圓覺寺 は東慶寺の西約一丁餘の大船街道にある。鎌倉停車場を距る事二十七町、鎌倉五山の第二位、圓覺寺派の大本山で弘安五年北條時宗の建立に係り宋の佛光禪師の開山である。總門の瑞麓山と題してある額は、後光嚴帝の御眞筆で、圓覺興聖禪師と題した山門上の大額は、花園天皇の御親筆である。西外門を入つて山門、金堂を右に見、左りに護國塔、池水を見て進めば左に佛日庵あり、玆には北條時宗の廟所がある。正續院、座禪堂、續燈院、黄梅院、舍利殿等は此奧にある。東外門より入れば右に臥龍院、歸源院を見て進めば赤き鳥居がある。此處を右に登れば絶頂の眺望絶佳の箇所に洪鐘が据えられてある。此洪鐘は北條貞時の鑄造に係ると云ひ傳へてある。高さ八尺掛けの鐵鐸は劍工正宗の作れるなりと云ふ。實に洪大のものである。鳥居の前を僅かに進んで左折すれば、此處には藏六庵、庫裡、書院、方丈等續いて建てられてある。此名刹の寺域は廣き事湘南寺院の第一位である。

[やぶちゃん注:「圓覺興聖禪師」の「師」は「寺」の誤り。]

                                        

 更に歩を轉じて長壽寺前に戻り、龜ケ谷坂を登り詰めて、湘南第一の眺望に名ある要山(かなめやま)香風園や養氣園の前を過ぎりて南すれば右には藥王寺がある。左には淨光明寺がある。此淨光明寺境内には冷泉爲相卿の塞がある。養氣園の前を左に下る半町の鐵道線路側に一小辻堂がある。此辻堂の板壁に十大の井の指導札が張付けてあるのを見て右に折れたる道を行き線路を踏切れば、四、五丁にして扇谷山(せんこくざん)海藏寺に至る。海藏寺境内の左一丁の山麓に十六の井と云ふのがある。此井は弘法大師が穿たれたと傳へられてる。海藏寺の二、三丁前を左に折れて進めば七切通の一なる假粧坂に出る。其絶頂の右横途に進めば、「落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の櫻狩り云々」と有名な東下りの長歌を詠じた南朝の忠臣左中辨藤原の俊基朝臣を祀れる、藤原岡神社がある。再び指導標ある辻堂側を南せば扇ケ谷上杉定正の邸趾なる英勝寺と云ふのがある。定正の家臣太田道灌邸跡も此寺の境内にある。

[やぶちゃん注:「藤原岡神社」の「藤」は「葛」の誤り。]

 壽福寺 英勝寺の南に在りて、鎌倉停車場より約六丁、鎌倉五山の第三位である。境内に政子の墓、實朝の墓がある。壽福寺の西に聳ゆる山は源氏山と云ふ、俗に白旗山と稱するのは此山である。此寺の前を南に進めば御用邸前を過ぎて大町原から長谷に出る通路がある。

 鎌倉宮 大塔宮とも云ひ二階堂にある。停車場を拒る事約十八丁、官幣中社に列せられてある。宮は後醍醐帝の第三皇子大塔宮護良親王の尊靈を祀つてある。親王の薨じ玉ひてより五百餘年の明治二年七月勅に依りて始めて創建せられたる社殿である。輪奐は敢て壯麗と云ふを得ざるも質素高潔の肅然たる自ら襟を正さしむるのである。石段を登つて左りすれば村上義光及南の方の社がある。社後に廻れば嚴肅なる扉が鎖されいとも神々しく感じられる木柵内に一個の土牢がある。坑内は四坪以上もありて晝尚暗澹として當時親王が逆臣足利尊氏の爲めに此土牢に幽閉され、建武二年其臣淵邊義博の毒刄に罹らせられ、可惜(あたら)二十八才の御齡を最後として、千載の御恨を呑んで薨じ玉ひしこと聞くも無慘の極である。境内の東南に首塚、首洗井戸がある。

[やぶちゃん注:「輪奐」「りんかん」と読む。「輪」は高大、「奐」は大きく盛んな意で、建築物が広大で立派なこと。

「村上義光」(むらかみよしてる ?~元弘三(一三三三)年)は信濃源氏の武将。元弘の乱の際、子の義隆とともに護良親王に従って幕府軍と戦い、正慶二・元弘三年の閏二月一日に吉野の落城が迫ると親王に脱出を勧め、自身はその身代わりとなって自決した。

「南の方」護良親王側室雛鶴姫(ひなづるひめ)。持明院藤原保藤娘。]

 鎌倉宮の鳥居より北に折れて藥師堂が谷を五丁餘進めば鷲峰山覺園寺がある。又大塔宮前を東に進めば七、八丁にして關乘十刹の第二位なる錦屏山瑞泉寺がある。足利基氏の建立に係り開山は夢窗窓國師である。寺後には基氏、氏滿の墓がある。大塔宮社前を西に歩めば大倉山麓に荏柄の天神社、大江廣元、島津忠人の墓、源賴朝公の墓地がある。それより金澤街道に出づれば杉本寺、報國寺、熊野社、淨明寺、足利公方屋敷、明王院、光觸寺、十二所神社等がある。淨明寺は鎌倉五山の第五位で、足利貞氏の墓は此寺の境内にある。

[やぶちゃん注:「島津忠人」の「人」は「久」の誤り。

「淨明寺」この二箇所は明らかに寺名であるから「淨妙寺」の誤り。同寺のある周辺の地名は寺名を憚って浄明寺ではある。]

 金澤街道を束に戻り大倉の部落を過ぎて雪の下に出でんとする左側に一大古刹がある。天台宗で金龍山寶戒寺と云ふのである。寶戒寺の裏手に小富士山と命名された山がある。此小富士山は元右府賴朝屋敷の庭先にあつたそうで當時政子夫人の乞ひに依り富士の牧狩の再演を此山にされた事があるので、爾來小富士山と命名されたそうだ。寶戒寺の前を南に一丁の箇所に右横を東に折れ滑川を渡たれば高時腹切のやぐらに出るのである。又停車場を降りて八幡道に出で、左二の鳥居前を右折して小町通りに出で、小町氏神惠比壽社前を北に進めば、一丁餘にして日蓮上人辻説法の古跡がある。廻らすに木柵を以てし上人が説法の腰掛なりと云ふ石が今尚ほ存してある。此辻説法靈跡に付き由緣の一章を記すのも、同宗善男善女の爲めに無益の事でないと信ぜられる。妙法蓮華經勸持品に白く、「佛滅度の後恐怖惡世の中に於て、我等當さに廣く説くべし、諸々の無智の人の惡口罵詈等し、及び刀杖を加る者あらん、我等皆當さに忍ぶべし、濁劫惡世の中には多く諸々の恐怖あらん、惡鬼其身に入て、吾等を毀辱せん、吾等佛を敬信して、當さに忍辱の鎧を着るべし、此の經を説かんが爲の故に、此諸々の難事を忍ばん、吾身命を愛せず但(た)ゞ無上道を憎む、吾れは世尊の使なり、衆に處するに畏るゝ所なし」と、又種々御振舞抄に曰く、「幸なるかな、法華經の爲めに身を捨てん事よ、臭き頭をはなたれなば、沙に金をかへんが如し、あらおもしろや平左衞門が物に狂ふを見よ、殿原よ只今ぞ日本國の柱をたをす」と、實に日蓮上人は常に此小町の辻に立つて、聲を限りに、同宗の眞價を絶叫しつゝあつた舊跡である。

[やぶちゃん注:筆者大橋左狂氏、何者か不明ながら、明らかに熱狂的な日蓮宗徒であることが判明する。前の辻説法跡の叙述辺りからぷんぷんしていた。]

 更に鎌倉停車場より小町電車停留所に出づるや、正面に赤煉瓦で疊み上た西洋館の鎌倉銀行と幷んで朱塗の大門がある。此門を入れば眞言宗より法華宗に改宗した大巧寺がある。境内に産女(うぶめ)の寶塔がある。人呼んで「おんめ樣」と稱して安産の祈願をかけるのである。此産女の緣起を尋ねて見ると、其昔し當山五世の日棟上人が、學德共に高くあつて、遠近の歸依者も頗る多かつたのである。天文元年四月、或る日の朝の事であつた。上人が滑川の畔を通行された。此時二人の年若き婦人が兒を懷いて路傍に泣きつゝあつたのを見られた。顏色蒼衰、形容枯槁し、腰下は血に染みて、紅蓮の泥より出たるが如き有樣であつたので懇ろに之を問はれて、大倉の邑秋山勘解由の室産に難みて世を去り、地獄の苦を受けてゐるとの事で直ちに濟度されたとの事である。越へて三日、婦又上人の前に姿を現はした。艷麗桃花の如き笑を含みて謝して日く、上人の濟度に由り那落の苦を免がれ今天上の樂を受く、高恩に報ひん爲め生前蓄へた金子を以て寶塔を建てたしと消ゆ。即ち上人が秋山氏に謀つて塔を建てられたとの事である。鎌倉誌に載する所の産女の塔は此れである。

[やぶちゃん注:「天文元年」西暦一五三二年。

「難みて」は「なやみて」と読んでいよう。

「鎌倉誌に載する所の産女の塔」新編鎌倉志七」の「大巧寺」の項に、

産女(うぶめ)の寶塔(ほうたふ) 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女の寶塔と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋(えびすだうばし)の脇より、産女の幽魂出て、日棟に逢ひ、廻向に預つて苦患を免(まぬか)れ度(た)き由を云ふ。日棟これが爲に廻向す。産女、※金一包(ひとつつみ)を捧げて謝す。日棟これを受て其の爲に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱(はしばしら)の跡と云て今尚存す。夷堂橋の少し北なり。

「※」=「貝」+「親」。「※金」は「シンキン」と読み、施しのための金を言う。ここでは自身の廻向のための布施。この一連の説話については、大功寺公式サイトの「沿革」に詳細な現代語のPDFファイル「産女霊神縁起」がある。一読をお薦めする。]

ブログ・カテゴリ「中島敦」創始 / 夢歌群十二首

 ブログ・カテゴリ「中島敦」を創始する。既にある中島敦漢詩全集」などと有機的に絡み合わせて、中島敦の精神世界を垣間見る便(よすが)としたい。まずは彼の短歌群を電子化する。底本は筑摩書房昭和五七(一九八二)年増補版「中島敦全集」を使用した。

 短歌群(底本の「歌稿 その他」パート)はブログではランダムに公開するが、将来的には底本に掲載されたような編年整序する予定である。

 因みに、これらの短歌群や、彼の漢詩の多くは昭和一一(一九三六)年から翌昭和一二年に創作されたものらしい。当時の敦は満二十七~二十八歳で、私立横浜高等女学校教員3~4年目、昭和一一年八月八日から三十一日までは中国各地を旅している(その間に歌稿「朱塔」を書き上げている)。昭和一二年一月十一日に長女正子が生まれるが、三日後の十三日に死亡している(手帳日記による。底本年譜では十三日出生とするが、従わない)。同年十一月から十二月にかけて「和歌五百首」を成したと底本年譜にある(但し、底本歌稿には「和歌五百首」という呼称のものはない。この歌稿のほぼ全体を含むものの謂いか? この問題を含め、底本解題等の語り口が重くはっきりしないのは、実はこれら歌稿や漢詩その他の原本資料が、何と第一次全集刊行以後、行方不明(?!)のままであることに起因しているようだ。今もこれら多量の中島敦詩歌自筆稿が何処か誰かの筐底に忘れられたままにしまい置かれているのである)。

夢歌群十二首

[やぶちゃん注:底本ではこの十二首は連続して掲載されている。]

    夢

何者か我に命じぬ割り切れぬ數を無限に割りつゞけよと

無限なる循環小數いでてきぬ割れども盡きず恐しきまで

無限なる空間を墮(お)ちて行きにけり割り切れぬ數の呪を負ひて

我が聾に驚き覺めぬ冬の夜のネルの寢衣(ねまき)に汗のつめたさ

無限てふことの恐(かし)こさ夢さめてなほ暫(しま)らくを心慄へゐる

この夢は幼き時ゆいくたびかうなされし夢恐しき夢

今思(も)へば夢の中にてこの夢を馴染(なじみ)の夢と知れりし如し

ニイチェもかゝる夢見て思ひ得しかツァラツストラが永劫囘歸

むかしわれ翅(はね)をもぎける蟋蟀(こほろぎ)が夢に來りぬ人の言葉(くち)きゝて

何故(なにゆゑ)か生理にされ叫べども喚(わめ)けど呼べど人は來らず

戀を戀する人 萩原朔太郎 (初出形) /[やぶちゃん注: 意外なことに萩原朔太郎の詩には薔薇を詠み込んだ作品が殆んどない事実を発見した。]

 戀を戀する人

わたしはくちびるにべにをぬつて、

あたらしい白楊の幹に接吻した、

よしんば私が美男であらうとも、

わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、

わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない。

わたしはしなびきつた薄命男だ、

ああ なんといふいぢらしい男だ。

けふのかぐはしい初夏の野原で、

きらきらする木立の中で、

わたしは水色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、

腰にこるせつとをはめてみた。

かうしてひつそりとしなをつくりながら、

わたしは娘たちのするやうに、

こころもちくびをかしげて、

あたらしい白楊の幹に接吻した。

くちびるにばらいろのべにをぬつて、

まつしろの高い樹木にすがりついた。

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第六号・大正四(一九一五)年六月号に掲載された。太字は底本では傍点「ヽ」。後に詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)に掲載されたが、そこでは以下のように改変されている。

 戀を戀する人

わたしはくちびるにべにをぬつて、

あたらしい白樺の幹に接吻した、

よしんば私が美男であらうとも、

わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、

わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、

わたしはしなびきつた薄命男だ、

ああ、なんといふいぢらしい男だ、

けふのかぐはしい初夏の野原で、

きらきらする木立の中で、

手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、

腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた、

襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、

かうしてひつそりとしなをつくりながら、

わたしは娘たちのするやうに、

こころもちくびをかしげて、

あたらしい白樺の幹に接吻した、

くちびるにばらいろのべにをぬつて、

まつしろの高い樹木にすがりついた。

因みに、萩原朔太郎の詩には調べてみると、意想外に、バラ(薔薇)を詠んだり、その語を詠み込んだ作品が殆んどない。これはその数少ない「ばら」の語を含む一篇である。]

佛蘭西薔薇の香料 大手拓次

 佛蘭西薔薇の香料

 

まつしろな毛(け)なみをうたせて

はひまはる秋(あき)の小兎(こうさぎ)、

うさぎの背(せ)にのびる美貌(びばう)のゆめ、

ふむちからもなくうなだれてあゆみ、

つつしみの嫉妬(しつと)をやぶり、

雨(あめ)のやうにふる心(こゝろ)のあつかましさに

いろどりの種(たね)をまいて、

くる夜(よる)の床(とこ)のことばをにほはせる。

 

[やぶちゃん注:「佛蘭西薔薇」フランス原産の薔薇であるラ・フランス“La France”のこと。ピンクの花弁は四十五枚とも言われ、幾重にも重なる大輪である。フルーティーな香りが強い。一八六七年にリヨンの育種家ジャン=バティスト・ギヨ・フィス(Jean-Baptiste Guillot fils 一八二七年~一八九三年)により発表されたハイブリッド・ティーローズ(四季咲きで大輪一輪咲きの品種のこと。現代のバラの切り花一輪咲きは、殆んどがこの系統)第1号のバラである。本邦では明治から大正時代にかけては「天地開」と呼ばれていた。因みに、このラ・フランス誕生以前のバラを「オールドローズ」(Old Roses)、誕生以降のバラを「モダンローズ」(Modern Roses)と呼称するのだそうである。以上はウィキの「ラ・フランスバラ)に拠った。

 

Rosa_sp_164

 

上の画像は同ウィキにある Kurt Stüber 氏の、

Species: Rosa sp.

Family: Rosaceae

Cultivar: La France, Guillot Fils 1867 Image No. 165

の写真でクリエイティブ・コモンズ利用許諾作品である。]

鬼城句集 夏之部 編笠

編笠    編笠に靑山をふり仰ぎけり

      編笠に二日の旅の孤客かな

2013/06/18

中島敦漢詩全集 十二

      十二

馥郁南廂下
薔薇赫奕奢
淺黄眞冷艶
深纏正豪華
蝶翅嬉珠蕾
蜂腰沒彩葩
可嗤貧寠士
能栽富貴花

○やぶちゃんの訓読

馥郁(ふくいく)たり 南廂(なんさう)の下(もと)
薔薇(さうび) 赫奕(かくやく)として奢たり
淺黄(あさぎ) 眞(まさ)に冷艶
深纏(しんてん) 正(まさ)に豪華
蝶翅(てふし) 珠蕾(しゆらい)に嬉(よろこ)び
蜂腰(ほうえう) 彩葩(さいは)に沒す
嗤(わら)ふべし 貧寠士(ひんろうし)
能く栽(う)う 富貴花(ふうきくわ)

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「赫奕」美しく光輝く様子。「赫」は輝くさま、「奕」は盛大なさまである。
・「奢」制限なく金銭を遣うこと、若しくは度が過ぎていること。ここでは惜しみなく豪華に花が咲いている様子を指す。
・「深纏」この語は前句の「淺黄」と対を成していると取るべきである。「廣漢和辭典」の「纏」の項には、ほとんど最後、六番目の字義ではあるが、「=繵」(音、タン・ダン)とある。この「繵」という字は「単衣(ひとえ)」「纏う」「縄」の意味のほかに、紫色の意を有する。日本古来の紫が赤味が強いものであったこと、英語の“purple”が赤味がかった色であること、濃紫や江戸紫色の薔薇を一般的にはイメージし難いことなどから、ここは「深紅」と解釈する。真紅の薔薇の花弁と、その間の吸いこまれるような深く暗い紫に紛う怪しい色を想起しても、強ち作者のイメージからかけ離れているとは思われない。
・「嬉」遊ぶこと、戯れること。
・「沒」沈むこと、隠れること。
・「彩葩」「葩」は花。従ってこれは色鮮やかな花。
・「嗤」嘲笑すること。
・「貧寠」貧乏であること。
・「富貴花」中国の古典文学では、「富貴花」といえば牡丹か、もしくは花海棠(ハナカイドウ)を指す場合が多い。しかし、ここは明らかに貧乏な詩人の姿と対照的な豪華なバラを指している。

〇T.S.君による現代日本語訳[やぶちゃん注:添えた二葉の薔薇の写真は孰れもT.S.君が中国に於いて、この詩に私と彼が取り組む前に、奇しくも撮影したものである。]

 

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南の軒下に香り高く
豪華に輝く私のバラ
薄黄―― なんという冷艶……
深紅―― なんという豪奢……
蝶の羽根は珠のような蕾と戯れ
蜂の身体は花弁に深く包まれる
オイどうだ、可笑しいか?
この貧乏文士が花の主さ!

 

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〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 中島敦漢詩全集「二」における、四月の庭に咲き乱れる花々を歌った色盡くしの七律が想起される。庭の豪華さと詩人に対する周囲の目との落差を、若干の得意の念を添えつつ、半ば自嘲気味に指摘して詩を終える点も共通している。但し、そこに歌われていたのはバラでなく、ヒヤシンスとチューリップであった。また、そこで言及された色のイメージは、紅・紫・朱・黄・緑・蒼・金と、いわば躁状態における色彩の乱舞であった。
 かの詩に比べ、この詩における詩人の視線は対象への集注度が高い。花はバラ、色彩は薄い黄色と深紅の二種類のみである。視線は浅黄と深紅のバラに固定される。そしてその花弁を深く深く見つめる。すると……、情念を包み込むようなその妖しい色彩が詩人の心と同期し始める。

 さあ、ここからだ。詩人は色彩の奥へ奥へと入っていく。まるで無意識の深層へと降りていくように……。
 すると、どこからか蝶が舞い降りてくる。
 鱗粉にまぶされた蝶の羽根が黄色の花弁に戯れかかる。
 この羽根は紋白蝶の白なのだろうか? 紋黄蝶の黄なのだろうか? それともアゲハの白と黒の縞模様に赤や緑や紺を配した豪華な錦織なのだろうか? いや、ここに至っては……もう、何色でも構わない! 読者の想像されるがままに……
 いずれにしても造物主のつくり給うた霊妙なる深い色彩が、冷艶な浅黄や妖しい深紅と戯れるのだ。 読者は一種の酩酊状態に見舞われるに違いない。
 するとさらには、今度は蜂がやって来る。
 黄を基調に黒い陰影を帯びた蜂の身体が、取り澄ましたような優雅な黄色や、高級なビロードのような深紅の妖しい花弁に吸い込まれていく。
 ああ、なんという恍惚! クロース・アップの画面が、我々を蜂にさせ、花弁の襞の中へと吸い込まれるような強烈な眩暈に襲われるではないか!……

 詩人はこの詩で、妖しい豪華な豊饒を歌う。そんな目くるめく世界に自分で自分を駆り立てていく。そして、ひと時、この白けて色褪せた現世を去るのである。

 最後の二句。詩人は自らを貧しい文士と嘲り、その文士がこの豊饒世界を所有していることの意外性を、詩句に定着する。但し、この皮肉めいた物言いに、ひねくれた翳はどうも感じられない。それは詩人がこの瞬間に限って、豊饒な世界への耽溺、それだけで充足しているからだ……。

 この色彩の豊饒を、私は何に例えればいいのだろうか? 梅原龍三郎の「薔薇図」?[やぶちゃん注:リンク先はグーグル画像検索「梅原龍三郎 薔薇図」。それぞれに御自身の好きな一枚を選ばれよ。]――この視覚芸術は、たしかに豪華さでは決して詩に引けを取らない。この世ならぬ豊饒の世界に違いない。しかし、しかしである。果たして絵画は、豊饒を超えた向こう側にある虚無の彼岸まで表現しているかどうか?……私には感じられてならないのだ。詩こそ/だけは、豊饒の極点を超え、人をして虚無に誘い込む力まで備えているのだ、と。……私の幻覚だろうか?……そうかもしれない……そうだとしても……いや、そうであるならば尚更、私の感性を妖しく刺激して現実の崖っぷちまで誘い出し、虚無の奈落を覗き込んだと信じ込ませる力を持つ“文芸”というものの恐ろしい可能性を、私はここに見る思いがする。……

 「二」における漢詩と同様、私はこの詩によって強烈な眩暈に襲われ、この世ならぬ豊饒世界を垣間見ることができた。しかし……長居は無用かもしれない。私は苦しいのだ。酸素の濃度が高すぎるのだ。目も眩むほどなのだ。色彩が鮮烈すぎるのだ。果たして読者も、この息詰る世界に窒息しそうにならないであろうか。これほどの豊饒世界に住むことは、人間には許されていないのかもしれない。

 ふと我に返った私は、この詩の強烈な原色の世界を胸に、人情の淋しさと、人生の果敢なさという現実を改めて直視せざるを得ないのでいる。……もしかしたら、中島敦は、そこまで読者に感得させることを、想定していたのかもしれない……そんな気さえ、してくる……

 そうして――薔薇――といえば、私にはどうしても『或は病める薔薇』という副題を有する、佐藤春夫の『田園の憂鬱』が思い出されてしまうのだ。

 「おお、薔薇、汝病めり!」……

 あの薔薇は病んでいた……。
 そう、現実は常に病んでいるものだ。
 病んでいてこそ現実なのだ。
 この詩世界にあるような完璧な豊饒世界はどこにあるのか……。
 もしかしたら、人それぞれの心の中にしか創り出し得ない架空のものなのかもしれない。

 この漢詩に接した後で私が改めて感じた、人情というものの淋しさ、現実世界の虚ろな佇まい。これを表現してくれる文芸作品として、同じ佐藤春夫の詩を掲げよう。
 併せてこの漢詩と、この佐藤春夫の詩との対比によって、漢詩の息詰る豊饒を再度浮き彫りにしたいと思う……。
 私の日常は、いつもこの佐藤春夫の「うつろなる五月」のような微温的なものなのだ。
 だからこそ、中島敦の、この漢詩に、私は強く憧れてしまうのであると告白しておく。

   *

 うつろなる五月

  世に美しき姉妹ありき。わがよき友なりしが、程なく
  故ありてまた相見るべくもなしと告げ來たりしかば。

君を見ずして 何(なん)の五月(ぐわつ)
きらめける空いたづらに
いぶせき窗をひらくとも
翻(ひるがへ)るかの水色の裳(もすそ)見えず。

君なくして 何(なん)の薔薇(さうび)
みどりの木(こ)かげいたづらに
求めたづねて行き行くとも
涼かぜのかの笑ひをきかず。

うつろなる心に ひねもす
おん身たちの影を描(ゑが)き、思へ
わが薰りなき安煙草(やすたばこ)の
むなしく空に消ゆるさまを。

[やぶちゃん注:底本は岩波文庫昭和一一(一九三六)年刊の昭和三八(一九六三)年改版になる佐藤春夫著「春夫詩抄」に拠った。詩前に配された詞書風の部分は表記通り、本文よりポイント落ちで全体が二字下げで、その改行も底本に従った。]

教え子のノート

先週の土曜、横浜緑ヶ丘時代の最後の担任だった8年前の教え子のI君とO君二人と快飲した。O君がやおらカバンから取り出したのは……僕の現代文の授業のノートだった。そこには既に僕は野人になるに際して、すべて廃棄してしまった「山月記」や「こゝろ」が、プリントも含め、しかも僕が口頭で述べた脱線に至るまで書かれてあった……思わず僕はうるうるとなったことを告白しておく……

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 七 僕もハンパねえ我鬼の覚悟になりつつある……

先週末、気がついたら眼を酷使し過ぎたのか、結膜下出血のために右目の白目が半分以上、血みどろ(充血なんてハンパなもんじゃない、完全な血の色で真っ赤)になっていて慄っとした。赤インクを「相棒」の米沢のように推理したのが祟ったか?……しかし、こればかりはやめられない。

今や殆んど僕も我鬼の覚悟で芥川龍之介の原稿に向っている――



■原稿60

     七

[やぶちゃん注:5字下げ。本文は2行目から。

●この原稿には右罫外上方に赤インクで、

 芥川氏つづき

とあり、更にほぼ7~8行目の間の上方罫外に、

 60

という左上方のナンバリングと同じ数字(ノンブル)が手書きで赤インクで記されている。この数字は「■原稿78」まで、だいたい同じ位置に「78」まで同様に記されている(それぞれの数字の近くには幽かな数箇所の赤い滲み痕があるが、これは後ろに重ねた原稿の数字から裏側から滲み移ったものと思われる)。また、この原稿には6行目19マス及び7行目18マスと20マス、8行目17マスに赤インクの染みが認められるが(一部行間に掛かる。国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿のコマ番号「32」右)、一部字のように見える箇所もあるが、これは校正痕ではなく、単なる汚れと思われる。実は前の「■原稿59」のここより高い位置(2行目7・8マスと11・12マス、3行目6・7マスと12・13マス及びそれらの行間部)に裏側からの赤インクの滲み痕が認められるのであるが(国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿のコマ番号「31」左)、これらはそのままの位置ではこの原稿の赤インク染みとは一致しないものの、「■原稿59」の裏からの滲みのうち、下部(2行目11・12マス、3行目12・13マス及びそれらの行間部)のインク滲み痕は、この「■原稿60」の下部のインク染み(6行目19マス及び7行目18マスと20マス及びその行間部)を反転させたものと対応したよく似た形状を示しているように見受けられる。これは当該原稿同士が重ねられていた状態(和装冊子化される以前)で、「■原稿60」の「芥川氏つづき」以下の手書きノンブルを赤インクで書いた際、うっかり汚したものの上に、まだ乾かないうちに「■原稿59」を不揃いに重ねた結果、その裏側に赤インクが附着して表へ現れたもののように見受けられる。]

 僕は又詩人のトツク〈学生のトツ〉*と度たび音樂*会へも出

かけました。が、未だに忘れられないのは〈二〉**

度目に聽きに行つた音樂会のことです。〈会場の

容子は〉*尤も會場の容*子などは余り日本と変つてゐま〈せ〉**

ん。やはりだんだんせり上つた席に男女の河

童が三〈百匹〉*四百*匹、いづれもプログラムを手にし

ながら、〈熱心〉*一心*に耳を澄ませてゐるのです。僕

はこの三度目の音樂会の時には〈髮の毛の長い詩人〉*トツクやトツクの雌河童*の外にも〈哲学者のマツグ〉*哲學者のマツグ*と一しよ〈に〉**

[やぶちゃん注:この部分、二箇所に初出や現行と異なる箇所がある。

●「男女の河童」初出や現行「河童」では、

 雌雄の河童

となっている。大々的に後から行われた書き換えコンセプトとして正しい。

●「トツクの雌河童」初出や現行「河童」では、

 トツクの雌の河童

となっており、以下、次の「■原稿63」及び「■原稿66」に現われる「雌河童」も皆、「雌の河童」となっている。現行の「河童」には外で「雌河童」という語は用いられておらず、総て「雌の河童」であるから、統一はとれた書き換えではある。しかし、私はここが、

――トックの女――

という限定的謂いを含んだ表現であることに注目したいのである(自由恋愛家であるトックは正妻を持たない)。ここは、

――トックの愛人であるところの雌の河童――

なのである。その場合、

――トックの女の河童――

――トックの雌の河童――

という表現が如何にもお洒落じゃないとは感じないだろうか? 私には、寧ろ、同格の「の」を排した、

――トックの女河童――

若しくは

――トックの雌河童――

の方が如何にもしっくりと『愛人』のニュアンスを伝えると思うのである。私は、芥川が男女という表現で書いて来たものを何故、一律に雌雄としてしまったのか、今一つ、腑に落ちないでいる。河童という異生物体としての印象を大事にしたかったのか? 河童世界が明白な現実の当時の日本・人間社会のカリカチャア(但し、それは正立像であったり倒立像であったりする)であることは読者の誰もが理解したはずであるから、そこに「異界」性を持ち込むことのファンタジアが「雌雄」の意味であったものか? いや、寧ろ、芥川は人間社会の「男女」という語に付与されるところの甘いロマンティシズムなぞは、所詮、幻想であり、種の保存とニンフォマニア的神経症的性欲充足が「男女」というものの真相である、ヒトの男女も所詮、動物の雄雌以外の何ものでもないということを表現したかったのであろうか? 大方の識者の御意見を俟つものである。]

■原稿61

り、一番前の席に坐つてゐました。するとセ

ロの獨奏が終つた後、妙に目の細い河童が一

匹、無造作に譜本を抱へたまま、壇の上へ上

つて來ました。こ〈れは〉*の河*童はプログラム〈によれ

ば〉*の教へる通り*、名高いクラバツクと云ふ作曲家です。プ

ログラムの教へる通り、――いや、プログラ

ムを見るまでもありません。クラバツクはト

ツクが〈属〉**してゐる超人倶樂部の會員〈中でも〉*ですから*

〈《最も》→超人ぶりを発揮する上には最も大膽な河童な

のですから。              〉

[やぶちゃん注:は最終行残り14マス余白を抹消している。]

■原稿62

僕も亦顏だけは知つてゐるのです。

 「Lied ――― Craback 」(この國の音樂会のプ

ログラムも大抵は獨逸語を並べてゐました。)

 クラバツクは盛んな拍手の中にちよつと我

々へ一礼した後、靜かにピアノの前へ歩み寄

りました。それからやはり無造作に自作のリ

イドを彈きはじめました。クラバツクはトツ

クの言葉によれば、この国の生んだ音樂〈家〉**

中、前後に比類のない天才ださうです。僕は

クラバツクの音樂は勿論、〈クラツ〉*その又*余技(ぎ)の抒情

[やぶちゃん注:「Craback」の綴りは「Lied」同様に筆記体であるが、「Cra」「ba」「c」「k」は続かずに切れている。なお、この部分にも、二箇所に初出や現行と有意に異なる箇所がある。

●「この國の音樂会のプログラム」初出や現行「河童」では、

 この國のプログラム

となっており、「音樂会」がない。除去する必然性が感じられない。私は校正時の脱落で芥川はゲラ校で見落とした可能性を考えている。

●「靜かにピアノの前へ」初出や現行「河童」では、

 靜にピアノの前へ

となっており、送り仮名「か」がない。続く「■原稿67」の同様のミスを除く他にある「河童」の中の10箇所は、総てが「靜か」と「か」を送っているのである。これは明白にして単純な植字ミスとしか言いようがない。私も個人的に「か」から送りたい人間である。しかも、この原稿との異同は旧全集校異表の中にはない。余りに些末と思ったものか。しかしであれば、何故、初出でなく、原稿に従ってここと次に「か」を送って統一した定本本文としなかったのか? いろいろな点で不思議と言わざるを得ないのである。]

■原稿63

詩にも興味を持つてゐましたから、大きい弓

なりのピアノの音に熱心に耳を傾けてゐまし

た。〈トツクや〉*トツクや*マツグも恍惚としてゐたことは

或は僕よりも勝つてゐたでせう。が、あの

美しい(少くとも〈トツク〉*河童た*ちの話によれば)雌河童だ

けはしつかりプログラムを握つた〈まま〉*なり*、時々

さも苛ら立たしさうに長い舌をべろべろ出し

てゐました。これは〈■〉マツグの話によれば、〈《何》→前

《度か》→《でも、》《クラバツクを摑まへかかつ》た《ところ、》→→前に一度クラバツクを摑まへるばかりになつたところ、生憎往來に落ちてゐた、     〉

[やぶちゃん注:

●最後の部分の書き換えは非常に複雑である(国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿のコマ番号「33」左)。推定してみる。あくまで取消線の切れ目などからの私の推定である。まず芥川は、

 何度かクラバツクを摑まへかかつたところ、

までを一気に書いたが、そこを、

 何でも、クラバツクを摑まへかかつたところ、

としたのではなかったかと思われ、しかも、それをさらに、

何でも、クラバツクを摑まへたところ、

と更に切り詰めた。しかし、どうも気に入らず、頭から、

 前に一度クラバツクを摑まへるばかりになつたところ、生憎往來に落ちてゐた、

までを一気に書いた。しかし、最終的に気に入らない。ところが最早、推敲訂正する余地が原稿用紙になくなってしまったため、総てを削除した。実は削除線をし忘れているのが、

 9行目頭の「でも、」

なのであるが、これを消し忘れたのは、実は彼の頭の中に次の原稿冒頭にある通り、最終決稿をまさにこの、

 何でも

で始めることが頭にあったからではなかったか、と私は推理ものである。]

■原稿64

何でも彼是十年前にクラバツクを摑まへそこ

なつたものですから、未だにこの音樂家を目

の敵(かたき)にしてゐるのだとか云ふことです。

 クラバツクは全身に情熱をこめ、戰ふやう

にピアノを彈きつづけました。すると突然會

場の中に神鳴りのやうに〈鳴り〉*響き*渡つたのは「演奏

禁止」と云ふ声です。僕は〈前〉**の声にびつくり

し、思はず後ろをふり返りました。声の主は

紛れもない、一番後ろの席にゐる〈、小肥りに〉*身の丈拔群*

の巡査です。巡査は僕がふり向いた時、〈もう〉*悠然*

[やぶちゃん注:二箇所の校正ミス。

●「〈鳴り〉*響き*渡つたのは」またしても校正ミスである。初出及び現行「河童」では、

 響渡つたのは

と送り仮名「き」が送られていない。

●「〈前〉**」恐らく「前」で間違いない。後の「後ろ」に対応した表現をしようとしたものであろう。

「思はず後ろを」「一番後ろの」またしても二箇所の校正ミスである。初出及び現行「河童」では、二箇所とも、

 

と、送り仮名「ろ」が送られていない。この校正ミスは最早、文選工・植字工・ゲラ校正者の確信犯としか思われない。総ルビ指示があるから「ろ」を送らずともよいと判断したものか? しかし、他では「後ろ」とちゃんと原稿通り送って植字している箇所がこれ以前(「一」の「僕の後ろにある岩の上には畫にある通りの河童が一匹」、「二」の「それから誰か後ろにゐる河童へ Quax quax」)にも以後(「十」の「トツクの後ろ姿を見送つてゐました」、「しかもそのうちに瘦せた河童は何かぶつぶつ呟きながら、僕等を後ろにして行つてしまふのです」等4箇所)にもあるのであるから、これどう考えてみても非常にマズい。やったりやらなかったりする文選工・植字工・ゲラ校正者の移り気な恣意的校正はどう考えても許されるものではあるまい。このミスは後の「八」などでも現われるのである。]

■原稿65

と腰をおろしたまま、もう一度前よりもおほ

声に「演奏禁止」と怒鳴りました。それから、――

 それから先は大混亂です。「警官横暴!」「ク

ラバツク、彈け! 彈け!」「莫迦!」〈「〉**畜生

!」「ひつこめ!」「負けるな!」―――かう云

ふ聲の湧き上つた中に椅子は倒れる、プログ

ラムは飛ぶ、おまけに誰が投げるのか、サイ

ダアの空罎や〈馬胡瓜さへ〉*石ころや噛*ぢりかけの胡瓜さへ

〈飛〉**つて來るのです。僕は呆つ気にとられまし

〔たから、トツクにその理由を尋ねようとしました。が、トツクも〕

[やぶちゃん注:

●「〈馬胡瓜さへ〉」ここは芥川の茶目っ気が出ている面白いところである。お盆の精霊馬(しょうりょううま)が投げられるのはすこぶる附きで面白いのだが、「サイダアの空罎」「石ころ」と並列させるには戯画的過ぎて齟齬を感じたものか? 私は如何にも切り捨てるに勿体ない気がしてならないのであるが。

●最終行は左罫外に大枠のみを一行分手書きで増補した長方形の枠(上の罫から「松屋製」の上まで)に読点も含めて29字分が書かれている。しかし、この挿入も異例な上に、かなり不審である。何故なら、本来の20行目が次の「■原稿66」の冒頭とは全く以って続いていないからである。これはこの自筆原稿以外に下書きがあり、それを写した際、改頁となるここで「たから、トツクにその理由を尋ねようとしました。が、トツクも興奮し」の計32字分を誤って飛ばして写し、慌てて挿入したのではないか、という推理が立てられなくはない。そういう観点から見ると、挿入箇所の冒頭と「■原稿66」の冒頭は、

 たから、

 たと見え、

と同じ「た」から始まっているやや似た句末で、疑おうと思えば疑えるとは言えまいか?]

■原稿66

〔興奮し〕たと見え、椅子の上に突つ立ちながら、「クラ

バツク、彈け! 彈け!」と〈叫び〉*喚き*つづけてゐま

す。〈それから〉*のみなら*ずトツクの雌河童もいつ〈か〉*の間(ま)に*敵意

を忘れた〈と見〉*のか*、「警官横暴」と叫んでゐることは

少しもトツクに変りません。僕はやむを得ず

マツグに向かひ、「どうしたのです?」と尋ねて

見ました。

 「これですか? これは〈よくあ〉*この国*ではよくある

ことですよ。〈」〉 〈■〉**來画だの文藝だのは………」

 〈《マツグはかう言》→《*マツグは空き罎の*雨の下に時々に》〉マツグは何か飛んで來る度にちよつと

[やぶちゃん注:

●「雌河童」先に示した通り、初出及び現行「河童」では、「雌の河童」。

●「〈■〉」この抹消字、読めそうで読めない。何かピンとこられた方の御教授を乞う。]

■原稿67

頸を縮め〔ながら〕、不相変靜かに説明しました。

 「元來画だの文藝だのは誰の目にも何を表は

してゐるかは兎に角ちやんとわか〈ります■〉*る筈です*

ら、この國では决して發賣禁止や展覽禁止には

〈あはせ〉*行はれ*ません。その代りにあるのが演奏禁

止です。〈音樂だけは〉*何しろ音樂*と云ふものだけはどんな

に風俗〔を〕壞亂する〈もの〉**でも、耳のない河童には

わかりませんからね。」

 「しかしあの巡査は〈音樂家〉*耳があ*るのですか?」

 「さあ、それは疑問ですね。多分〈あ〉**の旋律を

[やぶちゃん注:

●「靜かに」先に示した通り。初出の校正ミスであるにも拘わらず、現行「河童」も「靜に」である。

●「〈ります■〉*る筈です*」ここは取消線の相違からの推測であるが、「ります」と最初に書き、「りま」を傍線で抹消、「る筈」と書いて、すでに書いた「す」を「です」で使おうとしたが、マスがずれるのを嫌って「す」をぐりぐりと消し、「で」を書いた。その下のマスに「す」を二画目の頭まで書きかけて(確定は出来なかったので「■」としてある)、やはり綺麗に改訂した部分を右側に並べようと、それを消して「る筈です」と記したのではあるまいか。

●「展覽禁止には〈あはせ〉*行はれ*ません」ここは初出以降、

 展覽禁止は行はれません

で、「に」は削除し忘れ。逆に文選工・植字工・ゲラ校正者に救われたものかも知れない。]

■原稿68[やぶちゃん注:「★」部分は原稿にない箇所が現行「河童」にはあることを示す。]

聞いてゐるうちに細君と一しよに寢てゐる時

の心臟の鼓動でも思ひ出したのでせう。」

 「〈その国〉*そんな*檢閲は亂暴〈すぎますね。」〉*ぢやありま*せんか?」

 「何、どの国の檢閲〈も大抵これと〉*よりも却つて*進歩してゐ

る位ですよ。〈」〉たとへば日本を御覽なさい。現

につひ一月ばかり前にも、………」

 マツグはかう言ひかけた途端、〉*丁度かう言ひかけた途端です。マツグは生憎*腦天に空罎が落ちたものですから、〈あつと云つて■〉*quack(これは唯*

投詞です)と一声(こゑ)叫んだぎり、とうとう氣を失

つてしまひました。

[やぶちゃん注:

★以下に、ここに挿入される原稿にない初出及び現行「河童」に現われる段落を岩波旧全集から引用して示す。底本は総ルビであるが五月蠅いので私が振れないと判断する読みは排除してある。「いよいよ」の読みの後半は底本では踊り字「〱」である。

 かう云ふ間にも大騷ぎは愈(いよいよ)盛んになるばかりです。クラバツクはピアノに向つたまま、傲然と我々をふり返つてゐました。が、いくら傲然としてゐても、いろいろのものの飛んで來るのはよけない訣(わけ)に行(い)きません。從つてつまり二三秒置きに折角の態度も變つた訣です。しかし兎に角大體としては大音樂家の威嚴を保ちながら、細い目を凄(すさ)まじく赫(かが)やかせてゐました。僕は――僕も勿論危險を避ける爲にトツクを小楯(こだて)にとつてゐたものです。が、やはり好奇心に驅られ、熱心にマツグと話しつづけました。

本原稿には挿入を示すような記号も何もない。従って、これは、この決定稿の改造社への送付後からゲラ校正終了迄の間に、芥川龍之介から、この箇所への追加挿入原稿が示されたか、ゲラ校正に張り付けられた、何れかである。総字数288字(ダッシュは芥川の癖で3字とるから一字加えてある)であるから、当該使用原稿用紙で一枚と約一行半(総22行分)である。この挿入指示に関わる書簡などが残っていれば嬉しいところだが、残念ながらない。彼が最後にここを挿入したくなった理由はいろいろ考えられよう。ここで壇上の傲然たるクラバックを描かぬのは、如何にも舞台として淋しいことは勿論である。しかし、他に何かある。それが何であるか、今のところ私には判然としない。ただ、この著名な作曲家にして詩人で芸術至上主義者であるクラバックは私のモデル推定ではすこぶる同定し難いハイブリッドなのである。私は当初その原型を、実際の作曲家山田耕筰辺りに求めたが、実はこのキャラクターはダブル・キャストで音楽もよくした萩原朔太郎を感じさせ、後半では、かなり明らかに、自死する詩人トックと同じく『萩原朔太郎や志賀直哉』に比定されような、しかも『芥川龍之介自身の相互互換的モデル』としても機能しているように感じられるのである。ここで示した傲然たるクラバックは、もしかすると芥川龍之介自身の当時の文壇や現実社会への態度のカリカチャアであった可能性を私は嗅ぎ分けているのである、とだけ申し添えておきたい。

●「反つて」初出及び現行は「却つて」。芥川自身のゲラ校での変更によるか。

●「〈あつと云つて■〉」この最後の判読不能字の(へん)は「糸」(いとへん)である。]

すみれの葉の香料 大手拓次

 すみれの葉の香料

ものすごくしめりをおびて

わきおこる惱亂(なうらん)の靑蜘蛛(あをぐも)、

柩車(きうしや)のすべりゆくかげとかたちと、

よりそひ かさなりあつて、

ながい吐息(といき)をもらす。

時をたべつくし、

亡(ほろ)びをよみがへらせる思(おも)ひでの牝犬(めいぬ)。

[やぶちゃん注:「靑蜘蛛」単なる大手拓次のイメージの産物であるのかもしれないが、イメージ対象としては実在する。クモ綱クモ目オオツチグモ科コバルトブルー(コバルトブルータランチュラ) Haplopelma lividum Smith, 1996 である。ウィキ「コバルトブルータランチュラ」によれば、体長は♂で四センチメートル、♀で六センチメートル、脚を含めた全長(レッグ・スパン)は♂が八センチメートル、♀は十二センチメートル。体色は金属光沢のある青・緑青色などの変異がある。地中に棲む。現在はペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されているが、性質が荒い上に動きが非常に素早く、毒性も強いため扱いには注意が必要、とある(画像が見たい方のみ自己責任でをクリック。グーグルの「Haplopelma lividum」の画像検索。確かに怪しくソソる色ではある)。]

鬼城句集 夏子部 柏餅

柏餅    酒飮まぬ豪傑もあり柏餅

2013/06/17

科學と日本人 萩原朔太郎

 科學と日本人
         日本は科學國たり得るか

 東洋に科學がない。詳しくいへば、東洋人に科學的知性がない。といふやうな考は、言ふ迄もなく、歷史を知らない人の迷妄である。古代エヂプト人は、紀元前何世紀の昔に於て、驚嘆すべき大科学を所有して居た。希臘の最も偉大な哲學者、アリストテレスのやうな人でさへも、科學知識に関する限り、エヂプトから多くを學んで居たのであつた。古代アラビアの科學は、もつと輝かしいものであつた。彼等の發達した数學や、天文學や、物理學やは、さうした科學的知識の全然なかつた、十字軍の歐羅巴人を驚かせ、彼等をその宗教的迷信の闇から救つた。しかし就中、支那は世界の最も偉大な科學國であつた。すべて西洋人が、近世の終りになつて發明した多くの物、即ち紙、火藥、活字、印刷術、磁石等の物は早く数千年前の昔に於て、支那人の發明したものであつた。硝子のやうな物でさへも、太古の支那人が發明して、最初にその製法を知つて居たのであつた。「すべて西洋に今有るものは、昔の支那に全部有つた。」と、多くの支那人が豪語してることは、決して必しも誇張にすぎた自尊ではない。
 しかしかうした東洋文化は、或る不可思議な事情の爲に、支那に於ても、他國に於ても悉く廢滅してしまつたのである。過去に硝子の製法を發明した支那人が、今日西洋から舶來した硝子を見て、物珍らしげに驚異の眼を見張るといふことほど、文化の興亡の歷史に於ける、皮肉な進化論的宿命を語るものはないであらう。上古にあつて、それほどにも絢爛(けんらん)としてゐた大文明が、今日跡形もなく消滅し、その一つの痕跡すらも殘して居ないといふことは、不思議に何か有り得べからざる、奇異な幻覺的の感じをあたへる。事實とは、いつでもその同じ場所に、感覺が常存するといふ信念である、といつたロツク・ヒユームの哲學は、東洋の歷史について、しばしば或る虛妄な幻想を抱かせるのである。
 今日東方諸邦の中で、眞に科學を有してゐる唯二の國は、實に我が日本だけである。勿論今の日本の科學は、大部分が西洋の模倣であり、西洋人の傳へた技術と學理を、孜々として學習してゐる程度にすぎない。しかし過去の日本に於て、全然科學といふものがなく、支那、エヂプトに於ける如き、光輝あるその文化史が無かつたことを考へれば、全く新しい出發としての、日本の學習現狀は當然である。今や現代の日本は、軍事的、經濟的、工業的、醫學的、その他の樣々の必要な事情にかられて、他動的に否應なく、科學國にならざるを得ない狀態にある。大多數の日本人が、それを欲する欲しないとに關らず、將來の新日本が、益〻科學國になるべきことは明らかである。
[やぶちゃん注:「孜々と」「ししと」と読む。熱心に努め励むさま。]
 さて此所で提出される問題は、我々日本人が人種的に科學的才能の天分をもち、その方面の知性に於て、人種の遺傳的優越性を持つてるか否かといふこと、文明の將來の競爭に於て、世界の科學國たる獨逸や佛蘭西やを、よく凌駕することが出來るか否かといふ疑問である。思ふにかうした疑問は、今日多くの日本人――大衆も知識階級者も――が、意識的または無意識に、漠然と考へてることにちがひない。なぜなら過去の日本文化には殆んど全く、科學がオミツトされて居たからである。エヂプト、アラビア、印度、支那等の東方諸國の中で、古來眞の哲學的瞑想と科學的技術を知らなかつた國民は、不思議にもただ日本一國であつた。支那、印度の翻案以外、眞の獨創的な哲學を持たなかつた日本人は、同時にまた眞の科學をも知らなかつた。しかもその日本人が、今日東洋諸國に於ける、唯一の科學國民たらうとして、日夜に孜々として勉めて居るのだ。果してそれが成功するかは、何人も一考する疑問であらう。なぜなら無から有は生じないし、人種的遺傳の素因なしに、新しい文化的創造はできないから。
 しかしこの疑問については、近い頃の歷史に照して、可成に樂觀的の見方ができる。すくなくとも究理的知性の點に於て、日本人の天稟的な優秀性は疑はれない。近世の日本歷史は、さうした多くの事實を實證してゐる。德川三百年の鎖國時代にさへ、いかに多くの科學的發明や新機械が、日本人の手によつて創作されたことであらう。すべての科學的研究や新發明が、切支丹の邪教と同一現され、嚴重に監視されて居たその頃でさへも、平賀源内等を始めとして、多くの隱れた科學者が民間に居た。それらの人々の中には、飛行機や、電氣機械や、蒸汽ポンプや精巧な時計を製作した人が居た。特に醫學と植物學等の自然科學は、江戸末期に於て著るしく發達した。勿論その多くは、長崎の狹い門戸を通じて傳はつて來た、西歐知識の仄かな微光を賴りとして、半ば手探りで創見した物であつたが、そのことの反證は、日本人の科學的探求の熱心さと、さうした智能の優秀性を語るのである。
 ペルリが浦賀に上陸した時、その頃西洋で發明された、多くの珍らしい科學機械を公開して、日本の役人たちに見物させた。その中には一種の原始的な蓄音機もあり、模型のレールを走る汽車もあつた。日本の役人たちが、それを見て如何に驚き、如何に不思議がつたかといふことは、ペルリの航海記に詳記してある。彼等の日本人たちは、蓄音機の内箱を開け、原理の詳しい物理的解説を聞くまでは、機械を調べることを止めなかつた。そして模型の汽車の屋根の上に、多くのチヨンマゲに結つた武士たちが、馬乘りになつて試乘することを強要した。ペルリはそれを見て大に驚き、すべての有色人種の中で、これほど好奇心が強く、究理に熱心な國民を見たことがないといひ、ひそかに大統領に書を送つて、日本人の將來恐るべしと警告した。十七世紀の始め、日本に漂泊して家康の知遇を得た三浦安針のウイリアム・アダムスは、その故郷の妻に手紙を送つて、家康との對話を詳しく書いてる。家康が彼に質問したことは、世界の政治的情勢の外、主として天文、物理、幾何學に關する知識であつたが、特にその幾何學に關する家康の質問は、知識の深く正確なことに於て、阿蘭陀船の水先案内を驚嘆させた。要らく極東の有色人種が、ユークリツドの敷學に興味と造詣とを持つてることは、彼の豫想しないことであらう。そしてその頃日本に來た若干の外國人は、多くの日本の知識階級者から、種々なる科學上の原理について、執念深く熱心に質問された。
 すべてかうした事實は、日本人が天稟的な科學人種であり、素質的にその研究を好むところの、學問的知性人であることを實證して居る。しかもかうした日本人の才能と好學心とは、或る政治的の事情によつて、長い間爲政者から禁壓されてた。もしくはまた、それを發育するチヤンスに志まれなかつた。然るに明治の開國以來、すべての禁壓から解放され、自由の研究を許された日本人が、滔々としてその研究に向つた時、どんな驚くべき結果を生ずるかは明らかである。開國以來半世紀にして、我等は忽ちに西洋科學と物質文明の全部を學んだ。醫學も、戰術も、電氣學も、建築學も、工業化學も、すべて我等の技術と學問とは、今日決して西洋に劣つて居ない。しかもそれは奇蹟――無から生じた有――ではなく、始から素因的にあつた種が、環境の適所を得て自然に發育した開花であつた。
 だがしかし、すべて此等の事實と成功にもかかはらず、科學國としての日本の未來に、私は尚大きな疑問をもつものである。なぜなら日本人の科學する心意や態度(目的意識そのもの)が、本來極めて非科學的であるからである。小泉八雲のラフカヂオ・ヘルンは、日本の將來に多大の希望をかけながらも日本人の科畢的精神にづいては、不可知論的な疑問をかかげて、その學習の困難さを指摘して居る。歐洲にある日本の留學生について、彼は次のやうな觀察を述べてる。多くの日本の留學生等は、科學の純粹な學理については、殆んど全く興味を持たないやうに思はれる。彼等が眞に興味をもつて熱心に研究するのは、醫學と戰術だけであり、他には航海術等の應用科學のみであると。幕末の日本に來て、日本人に物理學の初歩を教へたシーボルトは、彼の生徒であつた靑年武士等が、最初に先づ質問するところのことが、極つて「それが何の役に立つか」「どんな實益になるか」といふ類の件であり、科學の眞の目的であるところの、純正な知的探求に關しては、殆んど興味を示さないやうに見えたと書いてる。
 かうした外國人の觀察は、今日科學を學んでる一般の日本學生に對しても、昔と同じく眞實であると思はれる。工科の生徒も、理科の生徒も、何の爲に學問するかといふ問に對して、おそらくその技術の習得から、社会的地位や職業を得る爲と答へるだらう。そしてさらに彼等の中、もつと浪漫的の抱負を持つたものは、その研究や知識によつて、國家社會の爲に貢獻し、日本に奉公する爲と答へるだらう。だがその何れの答も、眞に科學を學ぶものの態度ではない。
 元來「學問」といふ日本語は、西洋のそれと大に意味を異にして、特殊の内容を持つた言葉であつた。日本の封建時代に於て、一般に「學問」といはれたものは、四書五經を讀むことであり、修身齊家の德ををさめ、倂せて經世治民の要綱を知ることだつた。即ち日本語の「學問」とは、實踐倫理學と實踐政治學とを意味して居た。そして要するに、現實社會の實利に役立ち、直ちに以て利用厚生に益することの知識であつた。そしてそれ以外に、日本に「學問」と呼ばれるものは無かつた。それ故にこそ、シーボルトに學んだ武士たちが、その知識の實利的な「用」を問ふまで、決してそれを「學」と思はなかつたのも當然だつた。
 かうした儒教的功利主義が、長い間の遺傳的薰育によつて、日本人の知的意向を觀念づけ、一種の民族的道德觀と結びついた。それからして日本人は、本能的に非實用的な知識や、洩沒倫理的な思想を毛嫌ひする。何等かの意味に於て、それが國利民福に稗益を與へ、直接の實生活に役立たなければ、決して彼等はその學を承認しない。さうした非實利的の發明や研究やは、むしろ有閑無益の「惡」とさへ考へられてゐる。それ故昔の日本で、留學の新しい治療法を研究した孝者は、幕府や庶人から感謝されたが、飛行機を發明した獵奇人は、何等の報いを得ないばかりか、危ふく獄罰されたかも知れないのである。然るに科學的發明の再出發は、すべて實生活の利害と何の關係もないところの、純粹の知的探求、純粹の獵奇心、そして要するに純粹の浪漫的精神にもとづいてゐる。寫眞機も、幻燈も、蓄音機も、はたまた進化論や地動説も、すべて實生活の功利とは關係なく、純粹の知的獵奇心によつて發明された。おそらくそれらの發明者等は、過去の日本政府から叱責され過去の一般民衆からは、有閑無用事に耽る愚人として、侮辱的に嘲笑されたであらう。そして「過去」ばかりではない。現代二十世紀の日本に於ても、この遺傳的な儒學思想は、尚深く政府當局者の頭腦に沁みこんでゐる。その一つの事實は、最近政府が宣言して、科學者をその研究室たる「象牙の塔」から迫ひ出し、街に活躍させようとしたことでも明らかである。
[やぶちゃん注:この最後の一文は、本作発表の前月、昭和一六(一九四一)年十月に学徒動員のための繰上げ卒業(長引く戦局の為の兵員不足を補う為に全国の大学・専門学校などの修業期間を一六年度は三ヶ月短縮して十一月一日卒業とする。本作発表の十一月には次年度の繰上げが発表されておりそこでは六ヶ月短縮の九月卒業となる)などを指すものか。それとも理系研究者の軍部や民間への出向奨励のようなものがあって、それを指したものか。識者の御教授を乞う。]
 明治時代の靑年は、學校に入らうとする出發の日に、「男子志ヲ立テテ郷關ヲ出ヅ。學モシ成ラズンバ死ストモ歸フラジ。」と悲壯な聲をあげて詩吟した。おそらくその時、彼等は頭に鉢卷をし、腰に日本刀を帶び、敵陣に切り込むやうな氣概で劍舞をした。學問を學ぶといふことは、さうした靑年たちにとつて、戰場へ出陣する武士の氣持と同じであつた。第一議會の選擧の時、自由民權黨の壯士たちが、拔刀して敵の壯士と渡り合ひ、多くの死傷者を出したのを見て、小泉八雲がかう言つてる。日本の政事靑年たちは、自己の理性の判斷によつて、主義や政見のために戰ふのでなく、彼等の心服する黨統のために、忠義を盡さうとして戰ふのであると。實際日本の政鬪史は、明治以來最近に至る迄、八雲の觀察した通りであつた。多くの熱狂的な政事靑年等は、理性によづて行爲したのではなく、總裁の人格や温情に感激し、義によつて身命を捧げようとしたのであつた。丁度その心情は淸水次郎長一家のものが、向鉢卷に白襷をして、敵陣へ乘り込んで行くのと同じであつた。板垣退助に率ゐられた自由黨の壯士たちも、所詮は次郎長一味の「若い者」と同じであつた。そこで「日本人は黨に忠義を表すために政爭する。」と批評した小泉八雲は、悲壯な劍舞をする靑年を見て、同じくまた「日本人は忠義のために學問する。」と言つた。學問と戰爭とを同一親し、日本刀を抱へて大學へ入學する靑年は、世界におそらく日本人より外にないであらう。さうした靑年等の氣概は、爆彈を抱いて敵陣へ突進する決死隊の氣魄であり、主君のために仇を報じようとして、悲壯な決心をした四十七士の氣概であつた。八雲の言葉は、外國人の眼から見て、それが甚だ奇怪であり、ユーモラスでもあることを意味してゐる。
 小學校の生徒たちは彼自身の意見をもたない。彼等は先生や年長者の教訓を、無意識に反誦するにすぎない。しかし「何のために學問するか」といふ問に對して、西洋の生徒たちはかう答へる。獨立獨歩の精神を養ふために、或は紳士としての教養を學ぶために、或は公明正義の觀念を把持するためにと。然るに日本の小學生は、殆んど一人殘らずかう答へる。お國の役に立つ人物となるためにと。そしてこの小學生の答は、日本の民衆一般の思想を代表して居るのである。
 即ちその學に志す出發の日に、悲壯な聲をあげて劍舞をする靑年の心情には、何かしら涙ぐましい、日本人的な感傷性が感じられる。だがさうした種類の感傷性は、おそらく嚴正科學の研究心とは、全く緣もゆかりもないものである。彼等の學生たちが、その感傷性と日本刀を捨てない限り、到底西洋科學の眞髓は學び得ない。
 幕末歐洲に派遣された留學生が、常に日本刀を帶びて教室に入り、機械學や電氣學の講義を聽きながら、一一悲壯な慷慨をしてゐたといふことは、結局彼等が、科學を理解しなかつたことを意味して居る。
 男子志を立てて郷關を出た靑年は、學もし成らずば死すとも故郷に歸らなかつた。しかしその「學が成る」といふことは、結局學校を卒業して、立身出世をするといふことを意味して居た。さうした靑年たちの理想は、政府の重要な地位につき、官吏となつて八字髭をはやし、馬車に乘つて街上を驅走するといふことだつた。即ち學問の目的は、結局「立身出世」といふのだつた。それ故、前の詩吟の對句は、「錦ヲ看テ故郷ニ歸ル」といふ言葉になつてゐる。明治時代の新派劇や書生芝居は、かうした時代の風潮をよく寫實して居た。主人公はたいてい貧乏な苦學生であり、人力車夫などになつて勉強してゐる。それを或る義俠の人士――多くの場合は藝者である――が、ひそかに保護して救援し、遂に學校を卒業させる。そこで昨日の苦學生は、一躍政府の官員となり、鼻下に髭を生やして洋服を看、山高帽子を被つて堂々たる紳士になる。そして劇の終幕には、昔の情人や保護者と廻合し、その零落を救つて報恩するといふ筋になつてる。
 かうしたストーリイの新派悲劇は、今日既に廢つてしまつた。だが學問の目的を「立身出世」におく學生の氣風と社會思潮は、今日でも尚依然として同じであり、明治以來少しも變化したところがない。ただ多くの學生の理想が、山高帽子の官員から、會社のサラリイマンになつたといふだけの變化にすぎない。そしてかかる社會思潮の根源には、「身を立て名をあぐ。これを孝の終とす。」といふ、儒教の倫理學が潛在してゐることを知らねばならない。即ち「忠義」のために學問する日本人は、同時にまた「孝行」のために學問して居るのである。そして要するに、日本人にとつての學問とは、「仁義忠孝の道」に外ならない。
 學問に對する、かうした日本人の觀念は、西洋人にとつて理解できない不思議であらう。小泉八雲は、それを神國日本の大和魂だといつて賞頌して居るが、同時にまた彼は、さうした精神の所有者が、西洋の知識や文化を學ぶために、いかに不都合で困難であるかを懸念し、科學日本の未來に對して、同情のある悲觀的の疑問を述べてゐる。たしかに、すくなくもかうした意味の「大和魂」は、西洋の科學精神と根本的に一致しない。なぜなら眞の科學精神(知的究理心)は、忠義の爲でも孝行の爲でもなく、むしろそんな人情や道德觀を、全然超越したものであるからである。
 日本人が學問好きの國民であり、好奇心が強く、技術に巧みに、科學的研究心の盛んな民族であることは、前既に述べた通り、歷史の事實に照して明らかである。だがかうした知的天性は、常にその道德情操の基調となつてる、儒教の功利主義によつて指導され、或る一定の方向にのみ磁力的に引きつけられてゐる。好學將軍の德川吉宗も、水戸學を興した徳川光圀も、その學問的精神の本質は、すべて皆儒教の功利主義にもとづいて居た。たとへ彼等が、いかに和蘭陀の醫書や兵書を讀んだところで、西洋の科學やその文化の本質する精神は、到底理解できなかつたことであらう。要するに日本人の學問する目的意識は、次の三階段の上に成立して居る。印ち、その直接な個人的の目的は、第一に先づ立身出せといふことであり、次にこれが社會的に展開して、國利民福を計るところの、經世利用の爲の學となり、さらにまた倫理學に高揚して忠義や親孝行の爲といふことになるのである。即ちその三階段は、「立身出世」と「經世利民」と「忠孝仁義」といふ順序になつてる。たしかにこれは、大和魂の學問精神にちがひない。爆彈三勇士や赤穗四十七士の忠義の氣概はかうした學問精神と本質的に一致して居り、それ故にこそ靑年たちは、入學の日に劍を拔いて悲壯な詩吟を歌ふのである。
 しかしかうした精神は、冷靜な知的探求を目的とするところの、嚴正科學の研究には不都合である。科學する精神には、道德も倫理も政治もなく、眞理の追求といふ良心しかない。日本人的な學問意識は、本質的に科學の良心と矛盾する。さうした儒教意識を捨てない限り、おそらく日本の科學は、將來に於ても眞の第一義的なものに成らないだらう。即ちそれは、第二義的な知識としての、應用科學の範圍にしか出ないであらう。詳しくいへば、外國人の發明を改良したり、一層巧みに模倣したり、もつと實用上に便利にしたり、機械を巧みに操縱したり、運轉の技術をおぼえたりすることの、第二義的な學術以上に出ないであらう。
 そしてダルヰンや、ニユートンや、エヂソンやガリレオやの大科學者は、容易に現はれる日がないであらう。今日、日本が、西洋の科學と物質文明の全部を學得したといふことも、表面上の事實を除けば、單に模倣し盡したといふことであり、應用の技術を覺えたといふだけである。
 要するに儒教のモラルと功利主義とが、日本を眞の科學的發達から妨げ、且つ多くの日本民衆を、非科學的國民にしてゐるのである。
 支那に於ても、上古にあれほど發達した大科學が、中途に全く廢滅してしまつたのは、おそらく儒教の災ひした結果であらう。儒教が未だ一般に行はれず、政府の規定する國教とならない昔に、支那人は紙や火藥を發明した。儒教のモラルと科學精神とは、本質的に兩立できない矛盾がある。そこで今の日本は、儒教を捨てるか科學を捨てるかといふ、一つの苦しいヂレンマに陷つてゐる。それを「苦しい」といふわけは、今日、日本人の觀念を爲してゐる主要の要素、即ち普通に「大和魂」と呼ばれてゐるものの要素は、資質的には殆んど皆封建時代に習得された、長い歷史の遺傳的教養の果實であり、しかもその教養の根本を爲してゐるものは、日本化した儒教そのものに外ならないから。
 我等の常識的に知らなければならないことは、およそ日本人的な感傷性に訴へられ、その倫理情感を刺激する一切のもの、即ちたとへば俠客無賴のやくざ仁義や、赤穗浪士の復讐美談やがすべてその倫理情操の本質に於て、同じ一つの儒教的教養に基づいて居るといふことである。(それ故に國定忠治と赤穗浪士とを、その米飯の種としてゐる浪花節は、いつでむ日本人の大衆に歡迎される。)もちろん今日の儒教は、封建時代のそれと外觀の樣式を異にして居る。だが本質上の精神に於て、それは今日の爲政者と大家の心の中に、拔きがたく嚴存して居るのである。もし現代の日本から、さうした儒教的エスプリを根絶すれば、おそらくあの忠勇義烈な日本兵も無くなるだらうし、我が子の戰死を激勵する大和魂の所有者も無くなるだらう。それは保存しなければならない。だがそれを保存する以上、日本は眞の科學國たり得ないかも知れぬ。識者はこのヂレンマを如何にして解決するか。自分が常に懷疑して答案を得ず識者の啓示を仰ぎたいと思つてゐるのは實にこの一疑問に外ならない。

[やぶちゃん注:『文学界』第八巻第十一号・昭和一六(一九四一)年六月号に掲載された。同年十二月八日未明、日本は真珠湾に奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争に突入した。翌、昭和一七年五月十一日、萩原朔太郎は急性肺炎のために満五十五歳で亡くなっている。しばしば後期の朔太郎が批判される「日本主義」が所謂、国粋主義とは一線を画していることがこの論調からは読み取れる。寧ろ、ここで語られる内容はすこぶるリベラルなものとして私には腑に落ちるものである。これを朔太郎がこの時に発表しているということは、もっと考察されてしかるべきであるように思われる。――何れにしても、私は朔太郎は戦後まで生き延びずによかったように感ぜられる。彼は、あの戦後の文壇の戦犯探しの嵐には、うんざりし、恐らくは耐え得なかったに違いない、と感ずるからである。――]

香料のをどり 大手拓次

 香料のをどり

木立(こだち)をめぐる鬼面(きめん)の闇(やみ)、
河豚(ふぐ)のやうなうめきをそよりたてて、
ものしづかにのぼる新月(しんげつ)、
饐(す)えたるものかげは草のやうに生ひたち、
ふりみだす髮、
かきならす髮、
よろこびにおどろく髮、
野生(やせい)の馬(うま)のやうに香氣ある肢體をながして
うつりゆく影のすがたは、
いよいよふくらみ形(かたち)をこめてつぶやく。
香料の寶石(はうせき)、
香料の寢間(ねま)、
地のうへをはふ祕密の息(いき)のやうに、
あでやかにをどりながら、
墓石(ぼせき)に巣(す)くふ小鳥のかげをひらめかす。

[やぶちゃん注:「そよりたてて」やや特異な用法である。「そより」は副詞で、多く「と」を伴って、物が軽く触れあって立てる、幽かな音を表わす語である。一般には「一叢(むら)の修竹(しうちく)が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫でたので」(夏目漱石「草枕」のように、風が静かに吹き過ぎていくさまをいうことが多い。ここではフグの絞り立てるような鳴き声(フグは釣り上げた時など危険を感じると威嚇のためにグーっと鳴く)を表現しているものらしい。水泳中に、怒って鳴きながらパンパンに膨れ上がったクサフグ(恐らくは子を守るために)に腰を嚙みつかれた経験のある(こういう経験者は多くはないと思われる)私にはすこぶる自然な表現に読めるのである。]

鬼城句集 夏之部 虫干

虫干    虫はみし机もありぬ土用干
[やぶちゃん注:「虫」はママ。]

2013/06/16

鈴蘭の香料 大手拓次

 鈴蘭の香料

みどりのくものなかにすむ魚(うを)のあしおと、

過去のとびらに名殘(なごり)の接吻(ベエゼ)をするみだれ髮(がみ)、

うきあがる紫紺(しこん)のつばさ、

思ひにふける女鳥(をんなどり)はよろめいた。

まつさをな鉤(かぎ)をひらめかし、

とほくたましひの宿(やど)をさそふ女鳥(をんなどり)、

もやもやとしたなやましいおまへの言葉の好(この)ましさ、

しろい月のやうにわたしのからだをとりまくおまへのことば、

霧(きり)のこい夏(なつ)の夜(よ)のけむりのやうに、

つよくつよくからみつく香(にほひ)のことばは、

わたしのからだにしなしなとふるへついてゐる。

[やぶちゃん注:太字「しなしな」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 圓座

圓座    君來ねば圓座さみしくしまひけり
[やぶちゃん注:底本では「しまひけり」の方の「し」は「志」を崩した草書体表記である。「圓座」は円形の座ぶとんであるが、元来は男子専用のもので、この「君」も男性と見てよいであろう。]

2013/06/15

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 六 芥川龍之介「河童」の本文は再度徹底的に校合されなければならない!

■原稿50

     〈《五》→《六》→七〉**

[やぶちゃん注:5字下げ。本文は2行目から。]

 實際又河童の〈■〉**愛は我々人間の戀愛とは余

程趣を異にしてゐます。〈女〉**の河童はこれぞと

云ふ〈男〉**の河童を見つけるが早いか、〈男〉**の河童

を捉へるのに如何なる手段も顧〈り■〉*みま*せん。一

番正直な〈女〉**の河童は遮二無二〈《女》→男〉**の河童を追ひ

かけ〈ま〉*るので*す。現に僕は氣違ひのやうに〈男〉**の河童

を追ひかけてゐる〈女〉**の河童を見かけま〔し〕た。い

や、そればかりではありません。〈《女の河童 》→若い女の河〉*若い雌の女河*

童は勿論、その河童の〈《両》→《女》〉**親や兄弟まで一しよ

[やぶちゃん注:

●「〈《女の河童 》→若い女の河〉*若い雌の女河*童」の箇所は説明を要する。その複雑な推敲過程を記号では示し切れていないからである。芥川はまず、

 女の河童

まで書いて筆を留めた。これは9行目19字目で下の20マス目が空いた状態であった(先んじて抹消された「女河童」の下に一字空けしたのはその意味を示そうとしたもの)。そして、

 若い女の河童

と右に訂したが、その時6字目の「河童」の「河」の字は空いていた20マス目に入れたのである。

ところが後に河童の性別表記を「男」「女」から「雄」「雌」に書き換える際(この大きな全体に関わる改変をどこまで書いた時点で行ったものかはまだ判然としないが、管見によれば原稿の「九」に訂正無しの「雌」が現われるところから、それ以前の「七」「八」辺りでかとも思われる。考察続行中)、ここを更に訂して、左側に、

 若い雌の女河童

としようとした。その際、既に正規にマスに入れていた9行目20マス目の「河」を生かして続けたのである(即ち、私が便宜上「若い女の河」として削除に入れてある「河」の字は字としては削除されずに生きてるのである)。美事な節約術であると言えよう。

 さらに実は大きな問題点がここにはある。御覧の通り、ここは原稿通りならば、「若い雌の女河童は勿論」と植字しなくてはならないという点である。この左の挿入箇所ははっきりと「若い雌の女」と書いてあり、「女」は抹消されていないという事実である。しかし、初出も現行の「河童」も、ここは、

 若い雌の河童は勿論、その河童の兩親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです。

なのである。「雌の女河童」というのは、確かに屋上屋ではある。実際にこの「五」の掉尾では、芥川自身が「女河童」の「女」を抹消しているのである。ではここは文選工・植字工ゲラ校正者によって排除されたものか?

 私は最初に勤務した学校でずっと学校新聞の顧問を担当していたが、その際、担当の印刷会社の植字担当(校正も総て兼務)の方が社会科の教員の書いた記事の中国関連の記事の「首相」を、勝手に「主席」に変えてしまい、困った記憶がある。今でこそ中国に首相がいるのは万民の知るところだが、その担当者は頑なな思い込みがあり、「中国に首相はいない。こんな間違いは社会科の教師として恥ずかしいよ。」と言って中々譲らず、板挟みとなって閉口した覚えがある(それ以外では、とてもよくしてくれた担当者ではあった。――「柏陽新聞」――私の懐かしい思い出である)。学校新聞と芥川龍之介では比較にはなるまいが、文選・植字・ゲラ校正担当者によって実際にそうしたことが行われていた可能性が、この記憶によって私には否定出来ないのである。

 ただ、ここまでこの原稿を見てきて、一つ、大きな疑問が生じている。――この自筆決定原稿は綺麗過ぎる――のだ。冒頭の一枚には明らかに赤字のポイント指示やカット挿入の校正が行われている様子なのに、本文には一切、そうした校正の手入れがなされていないというのは如何にも変だ。考えにくいことであるが、実は校正上の問題箇所は別紙にでも記されていったものなのではないか、という気がしてきてもいるのである(普通はそんあことはしない)。識者の御意見を乞うものである。]

■原稿51

になつて追ひかけるのです。〈男〉**の河童こそ見

じめです。何しろさんざん逃げまはつ〈た〉**

句、運〈《よ》→《好》〉**くつかまらずにすんだとしても、二

三箇月は床(とこ)についてしまふのですから〈。〉。僕は

或時僕の〈部屋〉**にトツクの詩集を讀んでゐまし

た。するとそこへ駈けこんで來たのはあの〈《勢》→勢〉

〈《ツプと云ふ学生》→の好いラツプ〉*ツプと云ふ学生*です。ラツプは僕の〈部屋〉**〈は

ひる〉*轉げこむ*と、床の上へ倒れたなり、息も切れ切れ

にかう言ふのです。

 「大變だ、! とうとう僕は〈つかまつ〉*抱きつかれ*てしまつ

[やぶちゃん注:

●「あの〈《勢》→勢〉**〈《ツプと云ふ学生》→の好いラツプ〉*ツプと云ふ學生*です。」という箇所については途中で次行に移っていることからやや分かり難いかもしれない。最初の抹消の「勢」の字は左上の8画目まで書いて抹消しているが、ここは当初、芥川は、

 あの勢の好いラツプと云ふ学生です。

としたものと思われる。しかしこの「勢(いきおい)の好い」という形容が気に入らず(私もこなれていない形容と感じる)、抹消してシンプルに、

 あのラツプと云ふ学生です。

としたに過ぎないのである。]

■原稿52

た!」

 僕は〈早速戸口へ飛び出〉*咄嗟に詩集を投げ出*し、〈しつか〉*戸口の*錠を〈下〉**

〔して〕しまひました。〈その時〉*しかし*鍵穴から覗い〈て〉**見る

と、硫黄の粉末を顏に塗つた、背の低い〈女〉**

河童が一匹、まだ〈《残念さうにうろつゐてゐました》→戸口に立つてゐます〉*戸口にうろついてゐるのです*〈ト〉**ツプはその日から何週間か僕の床の

上に寐て〈■〉ゐました。のみならずいつか〈嘴が〉*ラツプの嘴は*

つかり腐つて落ちてしまひました。

 〈しかし〉*尤も*又時には〈女〉**の河童を一生懸命に追ひ

かける〈男〉**の河童も〈ゐ〉ないわけではありません。し

[やぶちゃん注:

●「まだ〈《残念さうにうろつゐてゐました》→戸口に立つてゐます〉*戸口にうろついてゐるのです*。」これも複雑で記号では示し得ない。推敲過程を推理する。当初、芥川は、

 まだ残念さうにうろつゐてゐました。

とした。その後、「残念さうにうろつゐてゐ」及び次行上の「した」を抹消、「ま」だけを残して、右に、

 戸口に立つてゐます。

としたと思われる。それでも不服で、さらに「戸口に立つて」を削除、「ゐ」だけを残して、

 戸口にゐます。

とシンプルにしてみた。しかし、今度は削ぎ落とし過ぎたのが逆に不満になったものか、今度は左側に、マスに最後まで残っていた初筆の「ま」も抹消し(この抹消は明白なものではなく、吹き出し線の最後を「ま」の上に延ばすことで示されている)、

 戸口にうろついてゐるのです。

という決定稿になったものであろう。]

■原稿53

かしそれ〈《は■》→《もと■》→も事実上〉*もほんたうの所は*追ひかけずにはゐられない

やうに〈女〉**の河童が〈し?〉**向けるのです。僕はやは

り気違ひのやうに〈女〉**の河童を追ひかけてゐる

〈男〉**の河童〈を見〉*も見*かけました。〈女〉**の河童は逃げて

行くうちにも、時々わざと立ち止まつた見た

り、〈生殖噐を見せ〉*四つん這ひに*なつ〈《たり》→て見た〉*たりし*て見せ〔るので〕す。お

〈■〉**に丁度好い時分になると、さもがつかり

したやうに〈わざ〉*樂々*とつかまつてしまふの〔で〕す。僕

の見かけた〈男〉**の河童は〈女〉**の河童を抱いた〔〈■〉→な〕り、

暫くそこに轉がつてゐました。が、やつと起

[やぶちゃん注:

●「時々わざと立ち止まつた見たり、」はママ。勿論、初出は「時々わざと立ち止まつて見たり、と訂されてある。文選工・植字工・ゲラ校正者によるものであろう。

●「〈生殖噐を見せ〉*四つん這ひに*なつ〈《たり》→て見た〉*たりし*て見せ〔るので〕す。」芥川は恐らく「四」での伏字は予期した確信犯であろうと私は踏んでいるのであるが、逆にここでは伏字を期した意識的な書き換えに苦労している様子が窺われて面白い(と私は思っている)。

●「樂々とつかまつてしまふの〔で〕す。」ここは初出及び現行「河童」では、

 樂々とつかませてしまふのです。

となっている。これは並べてみると、どう見てもこの決定稿の「つかまつてしまふのです」の方が自然ではあるまいか?]

■原稿54

き上つたのを見ると、失望と云ふか、後悔と

云ふか、兎に角何とも形容出來ない、気の毒

な顏をしてゐました。しかしそれはまだ好い

のです。これも〈見かけ〉*僕の見か*けた中に小さい〈男〉**

河童が一匹、〈女〉**の河童を追ひかけてゐ〈ま〉**

た。〈女〉**の河童は例の通り、誘惑的遁走をして

ゐるのです。するとそ〈のうちに向う〉*こへ向うの街*から大き

〈男〉**の河童が一匹、鼻息を鳴らせて歩いて來

ました。〈女〉**の河童は何かの拍子にふとこの〈男〉**

の河童を見ると、「大變です! 助けて〈下〉**

■原稿55

い! あの河童はわたしを殺さうとするので

す!」と金切り聲を出して叫びました。勿論大

きい〈男〉**の河童は忽ち小さい河童をつかまへ、

往來のまん中へねぢ伏せました。小さい河童

は水搔きのある手に二三度空を摑んだなり、

とうとう死んでしまひました。けれどももう

その時には〈女〉**の河童はにやにやしながら、大

きい河童の頸つ玉へしつかりしがみついてし

まつてゐ〈《■》→る〉**のです。

 僕の知つてゐた〈男〉**の河童は誰も皆言ひ合は

■原稿56

せたやうに〈女〉**の河童に追ひかけられま〔し〕た。勿

論妻子を持つてゐるバツグでもやはり追ひか

けられたのです。のみならず二三度〈つ〉**つかま

つたのです。唯マツグと云ふ〔哲〕學者だけは(これ

はあのトツクと云ふ詩人の鄰に〈住ん〉*ゐる*河童です。)

一度もつかまつたことはありません。これは

一つには〈トツ〉*マツグ*位、醜い河童も少ない爲でせ

う。しかし又一つにはマツグ〔だけ〕は餘り往來へ〔顏を〕出

〔さ〕ずに家(うち)にばかりゐる爲です。僕はこのマツグ

の家へも時々〈話〉**しに出かけました。マツグは

[やぶちゃん注:

●「しかし又一つにはマツグ〔だけ〕は餘り往來へ〔顏を〕出〔さ〕ずに家(うち)にばかりゐる爲です。」に着目してもらいたい。特に「さ」などは特異的に9行目の罫外に手書きで罫を引いて挿入してある。これは実は挿入箇所を外して(ルビも一緒に外しておく)みると、

 しかし又一つにはマツグは餘り往來へ出ずに家にばかりゐる爲です。

というシンプルな表現への手入れであったことが分かるのである。]

■原稿57

〈《狭い家の中に》→いつも奥深い〉*いつも薄暗い*部屋に〈小さい〉*七色の*色硝子のランタア

ンをともし、脚の高い机に向ひながら、〈何か〉

厚い本〔ばかり〕を讀んでゐるのです。僕は或時かう云

ふマツグと河童の戀愛を論じ合ひました。

 〈《■》→僕?〉 「なぜ〈君?〉**府は〈女〉**の河童が〈男〉**の河童を追ひ

かけるのをもつと嚴重に取り締らない〈かね?〉*のです

*

 〈マツグ〉 「それは〈政府の役人に〉*一つには官吏*の中に〈女〉**の河

童の少ない爲ですよ。〈女〉**の河童〈も〉**〈男〉**の河童よ

りも一層嫉妬心は強いものですからね。〈《もう》→女の〉*雌の*

[やぶちゃん注:

●二つの台詞の前の削除はお分かりの通り、話者を示すためのものであったことが分かる。それぞれの台詞「僕」のそれが3字下げ、マッグのそれが5字下げの位置から始まっており、活字化されたとすると、却って見にくいものではある。なお、芥川は鍵括弧を一マス取らないのでそれぞれ4マス目・5マス目の右肩に鍵括弧が入り、当該マスから字を書き始めている。

●「厚い本〔ばかり〕を讀んでゐるのです。」ここは初出及び現行「河童」では、格助詞「を」がなく、

 厚い本ばかり讀んでゐるのです。

となっている。一般には目的格「を」がなくてもよいが、私は芥川の文体からして、「を」がある方が彼らしいと感じている。]

■58

河童の官吏さへ殖ゑれば、きつと今よりも〈男〉**

の河童は追ひかけられずに〈すむ〉*暮らせるでせう。し

かしそ〈れも〉*の効*力も知れたものですね。なぜと言

つて御覽なさい。官吏〈で〉同志でも〈女〉**の河童は〈男〉**

の河童を追ひかけますからね。」

〈僕〉 「ぢやあなたのやうに暮ら〈す外には必ず

つかまつてしまふ訣です〉*してゐるのは一番幸福な訣ですね。*

 するとマツグは椅子を離れ、〈《二三度部屋の》→僕の肩へ手を

置い〉*僕の兩手を握つ*たまま、ため息と一しよにかう言ひまし

た。

[やぶちゃん注:

●二箇所に現われる「暮らせる」「暮らして」は、孰れも初出では「暮せる」「暮して」になっている。これはその校正者の(若しくは当時の改造社の校正担当者の)統一原則――恐らくは筆者の各個同意を必要としない)ででもあったものか?

――しかし、残念ながら、そうではないのである――

「五」には二箇所「如何にも、気樂さうに暮らしてゐました」「親子夫婦兄弟などと云ふのは悉く互に苦しめ合ふことを唯一の樂しみにして暮らしてゐるのです。」と現われるが、ここは原稿通り、初出も孰れも「暮らし」と送っているのである。最早、「河童」の『改造』初出及びそれを底本としている現行の「河童」は、再度、この芥川龍之介自筆原稿を底本として初出と校合し、正しく校訂されなければならないという気が、ここにきて既に、今の私には強くしてきていることを、告白する。私は本テクストの冒頭注で「細かな注で文章が分断されるため、最終的には別に、煩瑣な神経症的注を除去した読み易い通読閲覧用原稿準拠版も供したいと考えている」と記したが、ここで更に、

 芥川龍之介「河童」最終原稿完全準拠版「河童」

最終的にもう一つ、作成する決心をしていることをここに掲げおきたい。

 ただそれでもまだ「河童」の真の決定稿とは言えないこともここに添えて置かねばなるまい。何故なら、今一つの芥川龍之介自筆の『改造』切抜への著者訂正書入れ(日本近代文学館蔵)が存在するからである。これは恐らく在野の一介の私などには近代文学館は見せて呉れまい。それをこれに校合出来れば、最も芥川龍之介が望んだ決定版「河童」の完全テクストが日の目を見るのであるが……。まあ、何れは、どこかのアカデミストがそれをやっては呉れるのかも知れないが――]

■原稿59

 「あなたは我々河童ではありませんから、お

わかりにならないのも尤もです。しかしわた

しもどうかすると、〈《追ひかけられたい気も》→あの恐しい女の河童に〉*あの恐ろしい雌の〈女〉河童に*

ひかけられたい氣も起るのですよ。」

[やぶちゃん注:

●「〈《追ひかけられたい気も》→あの恐しい女の河童に〉」の二度目の大きな書き換えは単に、「女の河童に」を「雌の女河童に」に書き換えるためだけのものである。ここで「女」を芥川が自分で抹消している点、先に述べたが、注意されたい。以下、6行余白。なお、頁ナンバリング「59」の下に大きな黑インで大きな「ㇾ」点が入っているが、意味は不明。筆者によるものかどうかも分からないが、少なくとも本文使用のものと同系のインクではある。更にこの原稿には裏から滲んだと思しい赤インクの滲みがあるが、それについては次の原稿の冒頭で考証する。]

顏 萩原朔太郎

 

 

 

淺草公園活動寫眞のくらやみに
耳なき白き犬は殺されたり
慘酷にも殺されたりしが
殺されたる白き犬の幽靈をば
プラチナの映畫は繰返せり、

 

[やぶちゃん注:底本第二巻にある「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」(五二四頁)に載る。標題部は「白晝の幻」を「顏」と改題したことを示す。なお、この詩と酷似するものが、底本第三巻の「未發表詩篇」(二六九頁)に載る。以下に示す。

 

 

 

淺草公園活動寫眞のくらやみに、
耳なき白き犬は殺されたり、
慘酷にも殺されたり、しが、
殺されたる白き犬の幽靈を、ば、
プラチナの映畫は繰返せり。
        ――東京遊行詩扁、五――
 (東京遊行詩扁一、二、三の三扁は地上巡禮十二月號に所載)

 

取り消し線は抹消を示すが、この抹消は少し特異である。底本の記号に従ったのであるが、これだと、それぞれ3・4行目は、
 「慘酷にも殺されたり、」と書いた後に、「しが、」と書いて抹消
 「殺されたる白き犬の幽靈を、」と書いた後に「ば、」と書いて抹消
したということを示している。ノートと未発表詩という性質を時系列から考えるなら、掲げたノートが先にあって、この未発表なのであろうが、だとすると二箇所の、この書き込みと抹消は聊か妙な感じがする(のは私だけだろうか?)。]

ナルシサスの香料 大手拓次

 ナルシサスの香料

くらやみを裂(さ)くひびきのやうに、

絹(きぬ)のすれあふささやきのやうに、

わたしの心を驚(おどろ)きと祕密(ひみつ)へひきこむ手管(てくだ)、

そこにちひさなまつしろい小犬(こいぬ)がゐて、

にこにこわらひながら、

迷(まよ)ひ入(い)るわたしの背中(せなか)に黄色(きいろ)い息(いき)をはきかけた。

わたしはぶるぶるとふるへた。

[やぶちゃん注:「ナルシサス」単子葉植物クサスギカズラ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科スイセン連スイセン属 Narcissus に属するスイセン類の総称。狭義には和水仙の基本種であるスイセン Narcissus tazetta (ナルシサス・タゼッタ)や、その変種であるニホンズイセン Narcissus tazetta var. chinensis(ナルシサス・タゼッタ・キネンシス:“chinensis”は「中国原産の」の意。)を単にスイセンと呼称する。中でも、スイセン(房咲き水仙) Narcissus tazetta やクチベニズイセン Narcissus poeticus(ギリシア神話では学名の由来ともなっているナルキッソスの生まれ変わりとされる種で、種小名“poeticus”は「詩人の」の意)やジョンキルスイセン(Narcissus jonquilla cv.:“cv.”は“cultivar”(栽培変種植物)の略で園芸品種であることを示す。種小名“jonquilla”はフランス語(若しくは近世ラテン語)で黄水仙を指す“jonquille”に由来する。)などの香りは実際に抽出されて香水の原料にもなっており、知られた“Narcisse Noir”(「ナルシスソワール」:一九一一年発売。調香師エルネスト・ダルトロフ。本邦では「黒水仙」の名で知られる。)やChanelNo.5”(一九二一年発売。調香師エルネスト・ボー。)にも用いられている。さらにその甘い香りには優れた鎮静作用があるとも言われる。]

鬼城句集 夏之部 衣更

衣更    衣更野人鏡を持てりけり



まさか僕を読んだ句に邂逅するとは思わなんだわ。

2013/06/14

自作詩の改作について 萩原朔太郎

 自作詩の改作について

 昔自分が作つた著作の詩や文章を、後に手を入れて改作するといふことは、もとより作家の自由權内であり、他から文句を入るべきことではない。しかしその改作が、原作に比して甚だ拙い改惡だつたり、もしくは原作の情趣を破壞した別作だつたりする場合は、その原作の愛讀者にとつて、貴重の寶石を傷つけられたやうな寂しさと憤りを感じさせる。この場合に作家の方では、自分の作つた自分の物を、自分で壞すのだから勝手であると言ふだらうが、既に發表されて讀者の公有となつたものは、美術館に陳列された名畫と同じで、いかに作者の畫家と雖も、勝手に墨を塗ることはどうかと思ふ。もちろん作家自身は原作が意に充たないから手を入れるので、自ら改惡を意識して改惡する人は、狂人に非ざる限り無い筈である。だが往々にしてその結果が、作家自身の意に反するので、此處に作者自身の主觀批判と、讀者の側の客觀批判とが、鑑賞上の法廷に對決して、正邪の判決を爭ふ必要が生じて來る。
 此處で自分が、特にかういふ問題を提出したのは、詩人に於てそれが著るしく、改正是非の問題論が、絶えず詩壇にあるからである。詩は他の散文とちがつて、言葉の一言一句に修辭を凝らし、一語一語が内容の生命となる文學だから、少しく藝術的良心に富んだ詩人は、常に自分の作品を反省して、多少でも意に充たない個所を發見すると、改作せずには居られない焦慮と義務を感ずるのである。そこで過去の詩集や作品やが、後に再度發表刊行されるやうな場合になると、殆んど先づ大抵の詩人が、原作の幾分かを改正するのが普通である。その結果として、原作の未熟や生硬が修正され、一層完美した藝術品と成る場合と、逆に原作の美を傷つけ、あたら寶玉を汚損する場合とがある。
 ところで問題は、その「改良」と「改惡」とが、どんな原因事情によつて、どうして區別を生ずるかといふことである。この宿題を説くためには、人間の意識生活が、常に流動變化してゐるものだといふこと、したがつて意識主體としての個人は、永久不變の一人者でなく、年齡や境遇の變化によつて、資質的に別な人物となつてることを、前提に常識しておかねばならない。そこでこれを具體的に説明すれば「若きエルテル」を書いた靑年時代のゲーテは、後に自らこれを否定して、愚にもつかぬ感傷主義と自嘲した老年時代のゲーテと、全くその意識内容を異にしてゐる二人の別な藝術家だつた。この場合にもし老年のゲーテが、「若きエルテル」を改作したらどうであらうか。おそらく彼はその舊作を、ぺたぺたに墨で塗りつぶしてしまふか、もしくはそれを全く原作とちがふところの、別な情趣の物に書き直してしまふであらう。そしてこれが、一般に「改惡」と言はれるものの場合である。即ち原則的に言ふと、その舊作を書いた時とは、全く人生觀を異にし、思想感情を變化してしまつた後の作者が、後の立場に於て、前の舊作を加筆訂正した場合がさうなのである。この場合には、藝術に對する鑑賞の方式やイデーやも、過去に舊作を書いた時とは、おのづから別のものになつてゐるから、その後の立場で前の原作を改正するのは、全く藝術上の主義流派を異にする他の作家が、自分と別派に屬する他の人の作品を、勝手に自己流に書き改めるやうなものである。
 ところでかうしたことが、二人の全く別な作家の間に起つた時、たとへばAといふ一人の作家が、自分と全く主義傾向を異にする、他のBといふ作家の創作を、自己流の藝術批判で加筆訂正した場合は、明らかに原作者への冒瀆であり、一種の著作權侵害になる。たとへば最近の歌壇で、アララギ派の歌人たちが、石川啄木の歌に加へた冒瀆の如き、その最も著るしい惡例であつた。子規の寫生主義をモットオとしてゐる現歌壇人は、「明星」の浪漫主義を系統した啄木の詩精神とは、全く藝術上の對蹠的關係に立つものであり、和歌に於ける鑑賞上の美學イデーを逆にしてゐる。にもかかはらず前者のアララギ歌人は、啄木の歌を稚拙として誹謗するため、故意にその歌を添削加筆し、以てやや歌の體を得たりと嘲弄した。だが彼等が改作して、歌の體を得たりと爲したものは、啄木の原作とは全く似もやらぬ駄歌であつて、原作の詩的な情熱やヒユーマニチイが、殆んど跡形もなく消滅され、代へるに平淡無味の散文精神が、アララギ的寫生歌の形式で表現されたものであつた。即ちその改作されたものは、石川啄木の歌ではなくして、實際にアララギ歌人の和歌であつた。
 かうした場合、啄木がもし地下に生きて居たら、その無理解な改作者等に向つて、藝術上の冒瀆罪を訴訟し得る。だがこれが上述のゲーテの如く、同一作者の場合ならどうであらうか。この場合には、改作した人とされた人と、冒頭した人と冒瀆された人とが、同一個體に屬する作家であるから、責任者への民事訴訟は成立しない。しかし啄木が死んだ後にも、啄木の藝術の愛好者が居るやうに、ゲーテが感傷主義を捨てた後にも「若きエルテル」の愛讀者は多數に居る。さうした作家と作品の愛讀者は、彼等の寶石を汚損する者に對しては、それが他人であると同一作家であるとに關らず、ひとしく一樣に、冒瀆者としての憤りを感ずるのである。
 さて私が、此處にこんなことを長々と敍べたのは、明治大正の詩壇に於て、私の最も崇敬愛慕する先輩の詩人たちが、現にしばしばさうした「改惡」を反覆して、折角に貴重な原詩を汚損し、珠玉を壞して瓦石に變へるの愚を爲して居るからである。たとへば私の知つてる範圍で、薄田泣菫氏や蒲原有明氏がその例である。特に、蒲原有明氏は、この惡癖(?)が甚だしく、氏の藝術の誠意ある愛好者等を、常に怨めしく歎かせて居る。有明氏の作品が、改作する毎に惡くなつて來るのは、天下の詩人識者が皆知るところで、いやしくも氏の藝術を愛する讀者が、口をそろへて惜しみ悲しむところである。もつともそれだつたら、改作の方の詩を見ないで、原作の舊版を讀めば好いわけだが、悲しいことに、原作の舊版詩集は、今日悉く絶版して、全く市場に影を絶つてるので、今日の讀者たちは、否應なしに改作の新版を讀まねばならぬ。現に第一書房から出てゐる「有明詩集」も、岩波文庫や新潮文庫の「有明詩抄」も、悉く皆後に幾度か手を入れた改作詩集で、その多くの詩篇は、殆んど原作の純な詩情を喪失して居る。そのため私の如きも、前から久しく蒲原有明論を意圖しながら、文獻に缺乏して、今日まで手をつけかねてる有樣である。(昔持つてゐた初版本は、概ね手許から散失してしまつた。)
 世評に對して敏感な有明氏は、かうした世の非難に應へるために、幾度か自ら釋明を試みて居る。氏はかう言つてゐる。詩は言葉の藝術であり、言葉を洗煉修辭し、言葉を一層深く彫琢づけることによつて、同時に内容のポエトリイを充實させることができるのである。それ故に自分が、新版毎に著作を添削するのは、それによつて自分の詩藝術を、より充實したものに完璧させようとするところの、止むを得ない藝術的良心によるのであると。まことに詩といふ藝術は、氏の言ふ通りのものであり、また氏の潔癖にして熾烈な藝術的良心に對しては、何人も畏敬の念を禁じ得ないことであるが、しかも氏の改作の精神に關しては、容易に同感できない疑問がある。

 詩が改作によつて善くなる場合と、改作によつて惡くなる場合があることは、前に既に敍べた通りであるが、改作によつて善くなる場合は、過去にその舊作を書いた當時の意識内容(感情や、思想や、藝術觀や、人生觀や)が、依然として人格の本質に一貫してゐながら、文學する修辭上の技術だけが、習練によつて一層老巧になつた場合である。たとへばボードレエルの或る多くの詩篇の如きは、改作によつて初めて初期の稚拙を脱し、世界的の名詩となつたと言はれて居るが、この場合のボードレエルは、初期の浪漫的な抒情精神を、一貫してその意識内容に持つてゐたのである。然るに有明氏の場合は、これと事情が異なるやうに思はれる。今日の老境に入つた有明氏には、おそらく初期の「草わかば」や「獨絃哀歌」時代の抒情精神――ロセツチの影響を受けたあの若々しいリリシズム――が、殆んど多分に涸燥してゐると思はれる。今の有明氏は、ずつと遙かにクラシツクの美を尊ぶ、主知的形式主義者になつたにちがひない。さうした今日の有明氏が、今の心境による美學批判の鑑賞眼で、過度の全く別な心境で書いた舊作の詩を讀む時、多くの苦々しい不滿と缺陷を感ずるのは當然だが、それによつて著作を添削するのは、晩年のゲーテが「若きエルテル」を抹殺し、アララギ派の歌人たちが、石川啄木の歌を改作するのと同じやうに、明らかに自作への冒瀆を爲す業である。先輩に對する非禮を犯し、あへて氏に獎めたいことは、かかる改作を試みるよりは、むしろ現在の氏の心境で、現在の氏の美學と詩精神によつて、別の新しい詩を創作されたいことである。
 かつて北原白秋氏の歌集「桐の花」が、久しい絶版の後で復刻した時、白秋氏もまた有明氏と同じ心境から、その著作に對する不滿を敍べられ、加筆添削の意あることを語られたので、私は一應反對の意見を敍べたが、聰明にも白秋氏は、自ら反省して意をひるがへし、全く元の原作のままで再版した。之れに反して與謝野晶子氏は、新版の出づる毎に、しばしば舊作の歌を添削される。たとへば最近、改造紅から出版された文庫中の「みだれ髮・小扇・戀衣」中で、氏はその有名な「和肌の熱き血潮」の歌と竝んで、「みだれ髮」中の代表作と言はれた「春みじかし何に不滅の命ぞと力ある乳を手に握らせぬ」を「春みじかし何に不滅の命ぞと力ある血をおさへずわれは」と改作されてるが、詩操上からも修辭上からも、舊作の方が格段にすぐれてることは明らかである。尚晶子氏は、その選集の後書にかう話してゐる。「現在と過去とを分けるのに、昨日と今日といふ言葉を用ゐるなら、私の初めの頃の歌を云ふには、一昨日といふ假定を設けなければならない。私はこの一昨日を厭はしく思つてゐる。人から傳記を求められるのに筆を取らぬのも、更に甚だしく、一昨日を惡む情があるからである。咋日のことについては、訂正すべきはするが、一昨日といふものは手のつけられない過去で、自分の歌が非常に疎い他人の作としか思はれない。」と。ゲーテが晩年になつて想念した靑年時代も、おそらくこの晶子氏と同じ「一昨日」であつたらう。晶子氏が自白してゐる通り、さうした一昨日の自分は、現在の自分とは別の人格に屬する作家で、「非常に緣の疎い他人」としか思へないものであらう。のみならずその上にも、現在の自分にとつて、むしろ厭はしく忌むべき者にちがひない。ゲーテがエルテルを否定したのも當然だし、晶子氏が舊作を厭ふ氣持ちも自然である。しかしまたそれ故にこそ、さうした現在の作家たちは、過去の別人格に屬する自己の舊作を、自由に改作する權利がないのである。藝術上にもし法律といふものがあるならば、さうした作家等の自由權利を、適度に制限する條文があつてもよい。
 私の崇敬する先輩の詩人中で、かうした點に最も聽明な見識を持つて居られるのは、實に島崎藤村氏一人である。藤村の選詩集は、文庫その他で澤山出版されてゐるけれども、殆んど皆原作通りで、後から手を入れたと思はれるものが無い。多少添別されたと思惟されるものも、却つてむしろ舊作以上に善くなつてゐる。これは藤村氏が聰明であることよりも、實には文學者としての藤村氏が――龜井勝一郎氏の言ふ如く――詩人としての出發以來、終始一貫して「漂泊者の旅情」を精神してゐる爲であらう。つまり抒情詩を書いた頃の藤村氏と、今日の小説を書いてる藤村氏とは、年齡の差を除いて、文學上のエスプリには全く同一人者なのである。私がかつてある小論で、藤村氏を「永遠の詩人」と呼んだのはこの爲であつた。しかし風聞する所によると、近くその藤村氏が、過去に書いた「新生」、「春」等の小説を、新たに改作して書き直すさうであるが、どうした心境の變化かわからない。詩と小説はちがふけれども、文學としての本質點では同じだから、やはりその改作に對して、私は疑問をもたずには居られない。

[やぶちゃん注:『知性』第三巻第三号・昭和一五(一九四〇)年三月号に初出し、後にエッセイ集「歸郷者」(昭和一五年十月白水社刊)に所収された。底本第十一巻の校訂本文を用いた(『帰郷者』本文との異同の六箇所は総て表記上誤りか、不自然による納得出来る改訂であるため)。冒頭行の「だが往々にしてその結果が、作家自身の意に反するので」というところに、萩原朔太郎の既にしてこれから語るべき本音が示されていることに注目されたい。]

ベルガモツトの香料 大手拓次

 ベルガモツトの香料

ほろにがい苦痛の滋味をあたへる愛戀(あいれん)、

とびらはそこに閉ざされ、

わたしの歩みをしぶりがちにさせる。

はりねずみの刺(とげ)に咲(さ)く美貌(びぼう)の花のように

戀情(れんじやう)のうろこをほろほろとこぼしながら、

かぎりなくあまい危(あや)ふさのなまめかしさを強(し)ひてくる。

[やぶちゃん注:「ベルガモツト」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ベルガモットCitrus × bergamia (学名では自然(交)雑種の場合、自然(交)雑種は(交)雑種の印である小文字の乗法記号 × 印を附し、種間雑種の場合はこの例のように種の前に、属間雑種の場合は属の前に附す)。以下、ウィキベルガモット」によれば、ミカン科の常緑高木樹の柑橘類で主産地はイタリア・モロッコ・チュニジア・ギニア。「ベルガモット」の名はイタリアのベルガモからとも、また、トルコ語で「梨の王」の意となる“Beg armudi”からとも言われる。コロンブスがカナリア諸島で発見してスペイン・イタリアに伝えたとされる。近年のDNA解析によってダイダイ(Citrus aurantium)とマンダリンオレンジ(Citrus reticulata)の交雑種であると推定されている。ベルガモットの果実は生食や果汁飲料には使用されず、専ら精油を採取し、香料として使用される。紅茶のアールグレイはベルガモットで着香した紅茶であり、フレッシュな香りをもつためにオーデコロンを中心に香水にもしばしば使用される。なお、シソ科に同名のベルガモット(Monarda didyma。和名タイマツバナ)というハーブがある。これは葉がベルガモットの精油と良く似た香りを持つことから同じ名前を持っている。樹高は2~5メートル程になり、葉は他の柑橘類と同様、表面に光沢があり、他の柑橘類よりもやや細長い形をしていて先が尖っている。夏に芳香のある五枚の花びらを持つ白い花を咲かせる。果実は蔕(へた)の部分が出っ張った洋ナシ形か若しくはほぼ球形を成し、凹凸がある。果実の色は最初は緑色であるが、熟すにつれて徐々に黄色・橙色へと変化する。果実の果皮から精油が得られ、これを香料として使用する。果実はまだ果皮が緑色をしている十一月から黄色く熟す三月にかけて収穫され、圧搾法で抽出、黄色を帯びた精油を得る。ほかの柑橘類の精油がd-リモネンを主成分としているのと大きく異なり、ベルガモットの精油はl-リナロールとl-酢酸リナリルを主成分としする。心理効果(鎮静と高揚の両方の効果を持つ)・消化器系不調改善・皮膚殺菌作用・防虫効果を持つが、強い皮膚刺激性と光毒性を有するため日中の使用は注意が必要である、とある。この詩に相応しい印象を私は受ける。]

鬼城句集 夏之部 蚊帳

蚊帳    高く吊つて蚊帳新しき折目かな

      蚊帳の中に親いまは亡し月あがる

       悼吾雲兄愛兒

      枕蚊帳の翠微に魂のかへり來よ

[やぶちゃん注:「吾雲」『浦野芳雄の「創作の森」守る会』の俳人「浦野芳雄のプロフィールに、大正元(一九一二)年三月に群馬県立高崎中学校を卒業、同四年には中学校の恩師村上成之(俳号蛃魚(へいぎょ))『及び村上鬼城、岩瀬吾雲の三氏と共に紫苑会に拠り、のち同一三年三月『村上成之氏が高崎中学を辞任するに当たり、村上鬼城と蝌蚪(かと=おたまじゃくし)の会、のちに五日会を起こし、鬼城氏の死去する昭和』一三(一九三八)『年に至るまで句作、俳論等を続ける』という中に現われる俳人の知音であろう。「枕蚊帳」は子供の枕元を覆うのに用いる小さな蚊帳のこと。「翠微」は音読みで「すいび」、「大辞泉」によれば、①薄緑色にみえる山のようす。また、遠方に青くかすむ山。例文「目睫の間に迫る雨後の山の翠微を眺めていた」(徳田秋声「縮図」より)。②山の中腹。八合目あたりのところ。例文「麓に細き流れを渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして」(芭蕉「幻住庵記」)とある。この場合は、特異的に死児の顔に添えられた枕蚊帳の青緑色のそれを、山に擬えたものであろう。]

個人的に僕は、この三句ともに非常に好きである。

2013/06/13

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 五 初出の誤りを続々発見

■原稿39

       〈四〉**

 

[やぶちゃん注:5字下げ。本文は2行目から。]

 

 僕はこのラツプと云ふ河童にバツグにも劣

らぬ世話になりました。が、その中でも忘れ

られないのはトツクと云ふ河童に紹介された

ことです。トツクは河童仲間の詩人です。詩

人が髮を長くしてゐることは我々人間と変り

ません。僕は時々トツクの家へ退屈凌ぎに遊

びに行きました。トツクはいつも狭い部屋に

髙山植物の鉢植ゑを並べ、〈■〉**を書いたり煙草

をのんだり、如何にも、〈■〉**樂さうに暮らしてゐ

[やぶちゃん注:

●「〈■〉**」この抹消字は「詩」ではない。(へん)が「月」であることが判読出来るから、ここは何かトックの別内容の紹介描写を続けようとしたのかも知れないと思わせる。]

 

■原稿42

ました。その又部屋の隅には〈女〉**の河童が一〈匹〉

**、(トツクは自由〈■〉**愛家ですから、細君と云

ふものは持たないのです。)編み物か何かをしてゐ

ました。トツクは僕の顏を見ると、いつも微

笑してかう言ふのです。(尤も河童の微笑する

のは餘り好いものではありません。少くとも

僕は最初のうちは寧ろ無気味に感じた〈■〉**ので

す。)

 「やあ、よく來たね。まあ、その椅子にかけ

給へ。」

■原稿43

 トツクはよく河童の生活だの河童の藝術だ

〈■〉**話をしました。〈我々人間の言葉を使う〔へ〕ば、〉*トツクの信ずる所によれ

〈ト〉ば、当り前の河童の生活位、莫迦げてゐるも

のはありません。〈《殊に》→《夫婦》〉*親子*夫婦兄弟などと云ふの

は悉く互に苦しめ合ふことを唯一の樂しみに

して暮らしてゐるのです。殊に家族制度と云

ふもの〈ほど〉*は莫*迦げてゐる以上に〈恐しいもの〉*も莫迦げてゐ*るの

です。トツクは或時窓の外を指さし、「見給〈へ〉

**。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すやうに

言ひま〈■〉した。窓の外の往来にはまだ年の若

[やぶちゃん注:

●「〈我々人間の言葉を使〔へ〕ば、〉*トツクの信ずる所によれ〈ト〉ば、当り前の河童の生活位……」の部分の改稿は興味深い。芥川は最初、

 我々人間の言葉を使ば、トツク

と書きかけて「ト」で止め、脱字に気づいて、

 我々人間の言葉を使へば、ト

と訂したものの、どうも気に入らず、「〈我々人間の言葉を使う〔へ〕ば、ト〉」をすべて削除するともりで、

 トツクの信ずる所によれば、

と訂したのだが、抹消した2行目最後の後の空欄(芥川は句読点を前のマスの中に打って直下のマスを空ける癖があり、この最終20マス目は空いていた)に、この「よれば」の「れ」を書いたため、見かけ上、表記のような複雑な形になったものである。空欄1マスさえ無駄にしない倹約家芥川の一面が見て取れるのである。]

 

■原稿44

い河童が一匹、両親らしい河童を始め、〈十三〉*七八*

匹の〈男女〉*雌雄*の河童を頸のまはりへぶら下〈け〉**

がら、息も絶え絶えに歩いてゐました。しか

し僕は〈その《若》→河〉*年の若い河*童の犠牲的精神に感心しました

から、反つてその健気(けなげ)さを褒め立てました。

 「ふん、君は〈善良なる〉*この國でも*市民になる資格を持つ

てゐる。………時に君は〈《〔民主的〕社會》〉社會〈的民主〉主義者かね?」

 僕は勿論〈ク〉 qua(これは河童の使ふ言葉では

「然り」と云ふ意味を現すのです。)と荅へました。

 「では百人の〈《阿呆》→莫迦〉*凡人*の爲に甘んじて一人〈賢人〉

[やぶちゃん注:

●「〈十三〉」の「三」はやや自信がないが、これが「十三」だとすれば、恐らく芥川にとって何らかの意味のある数字であった可能性が極めて高い。芥川は映像的に無理があるから減らしたのであろうが、それにしても「七八匹」でも想像しにくい。私は「河童」を初読した高校時代から、ずっとここには違和感を持っている。だからこそ「十三」という限定数には意味がある、と感じてしまうのである。

●「〈ク〉 qua」「ク」は判読に迷ったが、間違いない気がする。これは当初、河童語の“Oui”(フランス語「ウィ」)“Yes”“Ja”(ドイツ語「ヤ」)“Да”(ロシア語「ダ」)に当たる、“qua”「クヮ」とでも表記しようとしたものであろう。河童語については多少、『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』で解析を試みているので、興味のある方はそちらを管見されたい。

●「〈《〔民主的〕社會》〉社會〈的民主〉主義者」の推敲過程も相当に苦労の跡が認められる。まず、最初は実は、決定稿の、

 社會主義者

としているのである。それに

 民主的社會主義者

と右に挿入したものの、気に入らず、「民主的社会」を総て抹消し、左に、

 社會的民主

としたのだが、結局、「的民主」をまた抹消して、

 社會主義者

の最初に回帰したのである。

 ここには一種の芥川自身の、当時のリベラリストの思潮潮流、プロレタリアや芸術派の文壇の喧騒、日本のファシズムへの傾斜などによる、芥川の抱いたバイアスが感電的に加わっているように思われるが、如何であろう。]

 

■原稿45

天才を犧牲にすることも顧みない筈だ。」

 「では君は何主義者だ? 誰(たれ)かトツク君の信

條は無政府主義だと言つてゐたが、………」

 「僕か? 僕は超人(直訳すれば〔超河童〕です。)だ。」

 トツクは昂然と言ひ放ちました。かう云ふ

トツクは藝術の上にも独特な考へを持つてゐ

ます。トツクの信ずる所によれば、藝術は何

〈とも〉*もの*の支配をも受けない、藝術の爲の藝術で

ある、從つて藝術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬと云ふの

[やぶちゃん注:

●「超河童」が後からの挿入であることに注目されたい。即ちここは元、

 「僕か? 僕は超人(直譯すればです。)だ。」

であったのだ。我々は永くここに芥川の理知的なユーモアを嗅いできたし、確かにそれは正当なのであるが、実は当初、芥川は河童語の一般代名詞としての、河童世界に於ける至高の「河童」という生物集団を包括する単語は『直訳』したとしたら、寧ろそれは、正しく実は「超人」となるはずである。「超河童」というのは『直訳』ではなくて、人間、それも日本語を母語とする日本人から表現した場合に限って、人間ではない妖怪として「河童」の中の超越した河童、「超河童」となるのである。従って、ここは実は芥川が愚昧な読者をくすぐるために挿入した、如何にもな下らない洒落に過ぎないのだということに気づくのである。馬鹿にされていたのは、かく言われた超河童本人ではなくて、実は安楽椅子に座って「河童」を読んで分かったように笑みを浮かべている有象無象の読者どもであったのである――]

 

■原稿46

す。尤もこれは必しもトツク一匹の意見では

ありません。トツクの仲間の詩人たちは大抵

同意〈見〉**を持つてゐるやうです。現に僕はトツ

クと一しよに度(たび)たび超人倶樂部へ遊びに行き

ました。超人倶樂部に集まつて來るの〈は〉**

人、小説家、戯曲家、批評家、〔画家、音樂家、彫刻家、〕〈文藝〉*藝術*上の素人

等(とう)です。しかしいづれも超人です。彼等は電

燈の明るいサロンにいつも快活に話し合つてゐま

した。のみならず時には得々と彼等の超人ぶ

りを示し合つてゐました。たとへば或〈《河童》→批評家〉*彫刻家*

[やぶちゃん注:

●冒頭「す。」はママ。「■原稿45」の末尾は

 藝術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬと云ふの

であるから、ここは、

 です。

で始まらなければおかしいのである。珍しい芥川の「で」の脱字である。無論、初出は「です。」となっている。これは恐らく文選工・植字工・ゲラ校正者が補正して呉れたものであろう。

●「超人倶樂部に集まつて來るの〈は〉**詩人、小説家、戯曲家、批評家、〔画家、音樂家、彫刻家―〕〈文藝〉*藝術*上の素人等(とう)です。」の箇所は校正大きな疑義がある。初出の「河童」では末尾は、

 ……畫家、音樂家、彫刻家、藝術上の素人等(ら)です。

なのである。滅多にルビを振っていない芥川がここでわざわざ「とう」とルビしているのに、「ら」としているのは、どう考えても文選工・植字工・ゲラ校正者の誤りとしか思われない。まあ、冒頭の「で」を補正して呉れたから痛み分けというところか。なお、挿入部分の末尾であるが、底本とした国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿の国立国会図書館デジタルライブラリーのコマ番号「25」コマ目の6行目の右側の吹き出しを視認して見ると、その「彫刻家」の後は一見、「―」のように見え、とても読点には見えないものである。ただ、芥川は今まで見てきたようにダッシュには有意に長いもの(通常3マス分)を用いるので、これは短いダッシュでもないから(そんなものは今まで用いていない)、読点と判読する外はないであろう。]

 

■原稿47

どは大きい鬼羊歯の鉢植ゑの間に年の若い河

童をつかまへながら、頻に男色を弄んでゐま

した。又或雌の小説家などはテエブルの上に

立ち上つた〈まま〉*なり*、アブサントを六十〈杯?〉本飮んで

見せました。尤もこれは六十本目にテエブル

の下へ轉げ落ちるが早いか、忽ち〈死んで〉*往生し*てし

まひましたが。

 僕は或月の好い晩、詩人のトツクと肘を組

〈みながら〉*んだまま*、超人倶樂部から歸つて來ま〔し〕た。ト

ツクはいつになく沈みこんで一ことも口を

■原稿48

利かずにゐました。そのうちに僕等は火かげ

のさした、小さい窓の前を通りかか〈〔り〕〉まりまし

た。その又窓の向うには夫婦らしい雌雄(めすをす)の河

童が二匹、〈《小さ》→三匹の子供の河童と一しよに〉*三匹の子供の河童と一しよに*晩餐のテエブルに向つてゐるのです。するとトツ

クはため息をしながら、突然かう僕に話しか

けました。

 「僕は超人〔的戀愛家〕だと思つてゐるがね、ああ云ふ家

庭の容子を見ると、やはり〈羨し→羨ま〉*羨ま*しさを感

〈ず〉**るんだよ。」

[やぶちゃん注:

●「〈羨し→羨ま〉*羨ま*しさを」この部分は最初に、

 羨し

としたが送り仮名を「ま」から振ろうとして、「羨」という漢字の書体が気に入らなかったものか、「羨」を右に書き直し、「し」を「ま」にしたものの、周辺がすっかり汚くなったのが今度は気に障ったのか、結局、それらも総て抹消して、新たに新しいマスから、

 羨ましさを

と続けたものと思われる。ところが、初出では何と、

 羨しさを

と――「ま」がない――のである。現在、例えば今この瞬間に用いているマイクロソフトのオフィス2010の場合、「うらやむ」を変換すると「羨む」であり、「うらやましい」の場合は「羨ましい」と送り仮名が出るからこれが標準の送り仮名であろう(因みに何故「ま」から送るかというと、「羨しい」は「ともしい」(乏しいと羨ましいの両義を持つ)と「うらやましい」の二様の訓読みがあることによるものと思われる)。芥川は正当であった。ところが、ここも勝手に文選工・植字工・ゲラ校正者がかくしてしまったものと思われる。芥川の繊細な書き換えは、それによって全く無化されてしまったのである。

●「夫婦らしい雌雄(めすをす)の河童が二匹、〈《小さ》→三匹の子供の河童と一しよに〉*三匹の子供の河童と一しよに*晩餐のテエブルに向つてゐる」今回、如何にも鈍感な私はやっと気づいた。この三人の子供と夫婦とは、芥川の三人の子らと龍之介と文以外の何者でもなかったのである……]

 

■原稿49

 「しかしそれはどう考へても、矛盾してゐる

とは思はないかね?」

 けれどもトツクは月明(あか)〈の〉**の下(した)にぢつと腕を

組んだまま、あの小さい窓の向うを、―――平

和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守

つてゐました。それから暫くしてかう荅へま

した。

 「あすこにある〈オムレツ〉*玉子燒*は何と言つても、〈超〉**

〈《人》→愛→〉*愛など*よりも〈現実〉*衛生*的だからね。」 〈《少なくと恋愛》→或〉

[やぶちゃん注:

●掉尾に着目されたい。もともと終わりの鉤括弧を打たず、実は芥川はこのトックの台詞をもっと続けようと一瞬考えたことが分かるのである。以下、1行余白。]

自我 萩原朔太郎 (詩集「宿命」の「鏡」の初出)

 自我

 鏡のうしろへ廻つてみても、私はそこに居ないのですよ。
 お孃さん!

[やぶちゃん注:『日本詩人』第六巻第六号・大正一五(一九二六)年六月号に掲載された。後の詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)では、標題を「鏡」に変え、『私』を括弧書きにして、以下のように一行詩として標記し直されてある。

 鏡

 鏡のうしろへ廻つてみても、「私」はそこに居ないのですよ。お孃さん!

 なお、ここで本ブログの他の電子化作品をも読まれている方に申し上げておきたいのだが、私の使用しているニフティのブログではユニコード統合漢字の一部が使用出来ない(因みにメールでも同じで送付先では文字化けする。私としては何とかして貰いたいというのが本音である)。この「廻」の正字である、「回」が「囘」となっている字体(U+2231E)も使用不能で、この漢字は種々の既テクストに頻出している。私の各種原稿では(U+2231E)を使用しつつ、ブログ公開版では「廻」に入れ替えて公開している。HP版を予定しているものについては総て、その(U+2231E)に置き換えるようにしているので、悪しからず。]

月下香(Tubereuse)の香料 大手拓次

   香料の顏寄せ

   月下香(Tubereuse)の香料

手(て)をひろげてものを抱(だ)く、

しろく匍(は)ひまはる化生(けしやう)のもの。

それは舟(ふね)のうへのとむらひの歌、

あたらしい憂(うれ)ひをのせてながれゆく、

身重(みおも)の夜(よる)の化生(けしやう)のもの。

[やぶちゃん注:「月下香(Tubereuse)」「げつかかう(げっかこう)」と読むが、ここはフランス語を附してあるので「チュべローゼ」と読むべきか。但し、綴りは“Tubéreuse”が正しい(創元文庫版はアクサンテギュなし、岩波文庫版はあり)。単子葉植物クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科チューベローズ Polianthes tuberosa L.。メキシコ原産。晩春に鱗茎から発芽、草丈は一メートルほどまで伸びる。八月頃、白い六弁花からなる穂状花序をつける。花穂は四五センチメートルにも達し、エキゾチックな甘いフローラル系の強い香りを放つ。特に夜間に香りが強くなる。園芸種は八重咲きのものが多いが、一重咲きの方が香りが高い(戦中に流行った中国の歌謡曲「夜来香(イエライシャン)」で知られたものと混同されたが、あれは蔓性植物であるガガイモ科テロスマ属Telosma cordata で別種である)。抽出物を香水に用いるため、ハワイや熱帯アジアなどで栽培され、現在も現地ではレイや宗教行事用に用いられている。ヴィクトリア朝時代のハワイでは葬儀花とされた。種小名 “tuberosa”はラテン語で「ふくらんだ・塊根状の」の意で、球根を形成することに由来する。異名にオランダ水仙(私の所持する仏和辞典は意味にそう書く)があるが、これは正統な単子葉類クサスギカズラ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科スイセン属 Narcissus のある複数の種を通称する異名でもあり、また、この「月下香」という和名も現在では殆んど使われないものと思われる(以上は主にウィキチューベローズに拠った)。]

鬼城句集 夏之部 夏籠

夏籠    夏籠や假りに綴ぢたる薄表紙

      夏籠や月ひそやかに山の上

[やぶちゃん注:「夏籠」は「げごもり」と読む。夏安居(げあんご)のこと。僧衆が夏の雨期の一定期間、外出せずに一所にこもって通常は集団で修行をすること。夏籠もり。夏行(げぎょう)。]

2013/06/12

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 四 岩波芥川龍之介全集後記の誤りを発見せり

■原稿30

       〈三〉**

 

 僕はだんだん河童の使ふ日常の言葉を覚え

〔て來〕ました。〈実は〉*從つ*て河童の風俗や習慣も〈会得〉*のみ*こめ

〈と〉**うになつて來ました。その中でも一番不

思議だつたのは〈何で〉*河童*は我々人間の眞面目に思

〈もの〉*こと*を可笑しがる、同時に我々人間の可笑

しがる〈もの〉*こと*を眞面目に思ふ―――かう云ふと

んちんかんな習慣です。たとえば我々人間は

正義とか人道とか云ふことを眞面目に思ふ、

しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかか

[やぶちゃん注:

●「〔て來〕」この3行目の挿入は律儀に3行目の上部罫外に縦長の一マスを書いて原稿本文と同じ大きさで「て來」と綺麗に書き入れている。]

■原稿31

へて笑ひ出すのです。つまり彼等の滑稽と云

ふ觀念は〈全然〉我々の滑稽と云ふ観念と全然標

準を異にしてゐるの〈せ〉**せう。僕は或時〈一匹の

河童と、――《バツクと云ふ名の→僕の最初に會つた》バツクと云ふ

《やつと→河童と》〉*醫者のチヤツクと〈孝行〉*産児制限*の話をしてゐました。すると〈バツ

ク〉*チヤツク*〈《びつくりするほど》→のけぞつたまま、〉*大口をあいて、〈大きい口をあいて〉*鼻眼金の落ちるほど、*

ひ出しました。僕は勿論腹が立ちました〈か〉**

ら、何が可笑しいかと詰問しました。何でも

〈バツク〉*チヤツク*の返答は大體かうだつたやうに〈記?〉**えて

ゐます。〈何しろまだその頃は僕も河童の使ふ〉*尤も夛少細かい所は間違つてゐるか*

[やぶちゃん注:

●この原稿の右下の手書き鉛筆の右罫外の右端には、ゴム印と思われる編集者か校正者かの人名ゴム印の一部(?)かとも思われる、

 

の朱判がある。「■原稿9」のそれは「」だった――これは何だろう?――この原稿までは私が見たというサインの一部か? それとも版組や印刷に関わる何らかの記号か? 気になって仕方がない。よろしく識者の御教授を乞うものである。

●ここで我々は意外な事実を知ることになる。この、現行の「河童」で、医師チャックと「僕」によって議論される「産児制限」問題は、プロトタイプは、チャックではなくバックが相手で、しかもそれは「産児制限」問題ではなく、親子の「孝行」の問題であった意実である。確認しよう。初期の成形を成した文章は以下と推定出来るのである(一部の読点は私の判断で打った)。

 僕は或時、僕の最初に會つたバツクと云ふ河童と孝行の話をしてゐました。するとバツクはのけぞつたまま、大きい口をあいて笑ひ出しました。僕は勿論腹が立ちましたから、何が可笑しいかと詰問しました。何でもバツクの返答は大體かうだつたやうに覺えてゐます。

「孝行」ならばまだ漁師のバックが相手でも遜色ないが、「産児制限」となると医師のチャックの方が専門性が高く、議論の昂まりが自然に想起出来る。「産児制限」議論ならばもうチャックを相手とするのが至当であろう。しかもこの「産児」に密接に関わる形で直後にまさにバックの妻の出産シーンが用意されており、しかもそこではバックという河童が自分の息子(胎児)にさえ父として拒否されるような情けない一面を持っていることが暴露されてしまうことを考えると、その直前に「産児制限」を議論する相手が、他ならぬそのバックであるというのでは、語るに落ちた馬鹿話になってしまうのである。ただ、ここで我々は原型の『バック』とのそれが「孝行」の議論であったことを記憶しておかなくてはならない。これについては次の原稿「■32」の台詞と相俟って、深い別な意味を持ってくるからである。]

■原稿32

も知れません。何しろまだその頃は僕も河童

の使ふ言葉をすつかり理解してゐなかつた

のですから。

 「しかし〔兩〕親の都合ばかり考へてゐるのは可笑

しいですからね。〈」〉どう〈《考へ》→も滑稽〉*も餘り手前*勝手です〔から〕ね。」

 その代りに我々人間から見れば、實際又河

童のお産位、可笑しい〔もの〕はありません。現に僕

〈バツクの細〉*暫くたつて*から、バツグの細君のお産をす

る所を〈わざわざ見物に出かけ〉*バツグの小屋へ見物に行き*ました。河童も

〔お産をする時〔に〕は我々人間と〕〈お?〉**じことです。やはり医者や産婆などの助け

[やぶちゃん注:

●台詞とその直後の部分の最初期の芥川の脳内の原型を復元してみる。

 「しかし親の都合ばかり考へてゐるのは可笑しいですからね。」

 その代りに我々人間から見れば、實際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕はバツクの細君のお産をする所をわざわざ見物に出かけました。

私は何故、この原型を示したのか? それは、この台詞なら、当初、芥川が想定していたバック(チャックとではない!)との「孝行」の問題(産児制限のではない!)の議論の果てのバックの(チャックのではない!)答えとして、おかしくないからである! その証拠に直後で、この原型案ではバック自身は、その台詞通りの、子の都合から考えた新しい「孝行」の形を一つの理由として掲げているのであると私は思うのである。何故、誕生拒否が「孝行」と言い得るか? 簡単である。胎児が語るように、彼が遺伝性の精神病発症や胎児性梅毒感染のリスクあったとすれば、もしかすると生まれてから親に迷惑をかけるかも知れない。従って「産児制限」という純然たる「滑稽」で「餘り手前勝手な」「親の都合」とい短期的観点からではなく、「孝行」という中長期的観点から言えば、誕生を拒否することは、これ――立派な河童世界的「孝行」――と言えるではないか! この牽強付会的な私のトンデモ説、大方の御批判を俟つものではあるが、私は万事が人間世界とは反定立的で天邪鬼な論理から出来上がっている『河童世界の哲学』に則って考えていることもお忘れになられぬように――。

●「〔お産をする時〔に〕は我々人間と〕」これは実は10行目の左罫外に吹き出しで挿入されているものである。実は今回、本原稿をざっと管見した際、大きな疑問が一つあった。それは、岩波旧全集版の「河童」の「後記」にある異同表との大きな齟齬であった。そこではこの部分について、

   《引用開始》

・三一五頁4行 河童もお産をする時には我々人間と同じことです。――(原)河童も同じことです。

   《引用終了》

これは見てお分かり頂けるものと思うが、岩波旧全集は初出の『改造』を底本として、本国立国会図書館蔵の自筆原稿(但し、現物ではなく昭和四七(一九七二)年中央公論社発行の複製版らしい)と『改造』切抜への著者訂正書入れを参照して校訂本文が作られてある(初出+自筆決定原稿+初出公開後の著者による更なる訂正書入れというのは殆んど望みえない至高の校訂素材であると言える)のだが、この異同注記は

『改造』初出には、『河童もお産をする時には我々人間と同じことです。』とあるが、自筆原稿は、ただ、『河童も同じことです。』とあるだけである

と言っているのである。

 これは頗るおかしいのだ。

 国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿の国立国会図書館デジタルライブラリーのコマ番号「18」コマ目を視認して戴きたい。ちゃんと左上罫外のナンバリング「32」の直下に

『お産をする時には我々人間と』

はあるのである。

 どういうことか?

 以下は、私の推理である。

 この国会図書館蔵の原稿をよく見て戴きたい。

 原稿の左(右頁では右)に6つもの穴が開いているのが分かる(撮影時の平面化のために綴じ紐は外され、散佚の危険を避けるために一番上の穴一箇所に緩く綴じ紐が通されてあるだけである)。同資料を「1」コマ目に移して戴くと分かるが、表紙には和装用の穴は通常通り4つしか開いていない。ところが本文原稿用紙には総て6つの穴が開いている。この穴の内、上から1番目と3・4・6番目が和装用の表紙の穴である。ということは、この原稿はもしかすると残る2・5番目の穴部分に綴じ紐が通されて本体原稿総て(105コマ目の最後の原稿用紙に書かれた永見の「縁起」というのは、画像を見る限りでは本体とは別で、和装の裏表紙の右手に台紙を設け、そのそれと裏表紙の上に原稿を張り付ているように見える)が閉じられていた可能性を示唆する。仮にそうだとすると、それに加えて表紙の通常の4箇所の穴を用いた和綴じがなされていた場合、この「18」コマ目の左側の罫外挿入の部分は、このデジタルライブラリー版のように総ての綴じ紐を外さないと読めないことが分かる。私は旧全集編者が参照したという中央公論社発行の複製版を見たことがないが、それはもしかすると、和装で閉じられたままのものを画像化したのではなかったか? その結果、原稿「32」と「33」の『のど』の部分(本の各頁が背に接する部分)が殆んど全く開かず、「32」の左罫外の挿入吹き出しが全く写っていなかったのではなかろうか? 中央公論社発行複製版を所持される方、是非、ここの部分を現認して頂き、出来れば画像を私宛に送って下さると、恩幸、これに過ぎたるはない。よろしくお願い申し上げる次第である。]

■原稿33

を借りてお産をするのです。けれどもお産を

するとなると、父親は電話でもかけるやうに

母親の生殖噐に口をつけ、「お前はこの世界へ

生れて來るかどうか、よく考へた上で返事

をしろ。」と大きな聲で尋ねるのです。バツグも

やはり膝をつきながら、何度も繰り返してか

う言ひました。それからテエブルの上にあつ

た消毒〈剤〉**の水藥で嗽ひをしました。すると

細君の腹の中の子は〈■〉夛少氣兼〈をするやうに

かう言つ〉*でもしてゐると見え、*かう小聲に返事をしました。

[やぶちゃん注:

●「母親の生殖噐に口をつけ、」は初出『改造』では、

  母親……………つけ、

と五文字分が15点リーダの伏字になっている(因みに、当時の検閲官が律儀に伏字にした文字数が何字であるかわかるように伏字にしているところが、実は検閲者の検閲への後ろめたさを如実に示しているようでとても面白いと思う。否――これはよく言われることであるが――寧ろ、伏せることによって性的妄想が異常に拡張され、猥雑性が倍加するとも言えるのだと私は確信している。検閲者とはまさに真正の性的倒錯者なのである。]

■原稿34

 「僕は生れたくはありません。〈元?〉**一僕のお

父さんの遺傳は〈黴毒〉*精神病*だけでも大へんです。そ

の上僕は河童的存在を惡いと信じてゐますか

ら。」

 バツグはこの返事を聞いた時、てれたやう

に頭を搔いてゐました。が、そこにゐ合せた

産婆は忽ち細君の生殖噐へ太い硝子の管を突

きこみ、何か液体を注射しました。すると〈忽

ち細君の原は水素瓦斯を拔いた風船のやうに

へたへたと縮んでしまひました。     

[やぶちゃん注:

●「〈元?〉**」抹消字を「元」としたが、「第」の略字である「」かも知れない。

●「僕は生れたくはありません。〈元?〉**一僕のお父さんの遺傳は〈黴毒〉*精神病*だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を惡いと信じてゐますから」私は既に『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』でこの胎児の台詞について注釈を施している。特に原稿上で「黴毒」から「精神病」へと変えられている点について考察しているので、ここにそれをそのまま引用しておくのが最も相応しいと思う。

   《引用開始》

芥川龍之介が養子に出された原因でもある実母フクの精神異常は頓に知られ、芥川龍之介の自殺の原因の一つに遺伝による精神病発症(発狂)恐怖が挙げられるほどである。私は実は、フクの病状は遺伝が疑われるような精神病であったとは思われず、芥川のそれは所謂、精神病に対するフォビアに起因するノイローゼであったと考えている。「點鬼簿」の「一」の冒頭及び「序」の注に引用した「或阿呆の一生」の「母」等を参照されたい。但し、この部分、原稿では「黴毒」としたものを「精神病」と訂しているとあり、そうすると胎児が言う精神病は先天性梅毒による進行麻痺(麻痺性痴呆)のリスクを言っており、バックは梅毒に罹患していることを意味する。それが真相だと考えた時、私はバックが「てれてように頭を掻いてゐ」た理由が腑に落ちるのである(若き日に「河童」を読んだ時から、私は遺伝性精神病を言われて照れるバックが如何にも変に感じられたのである)。ここで彼が梅毒を書き換えたのは、芥川自身のフォビアの規制であると私は思う。だからおかしなままに残ってしまったのだと思う。これは「五」の注で、後に明らかにする。ともかくもこの胎児は真正の厭世主義者である。胎内性先天性梅毒に罹患していた場合、胎児梅毒では当初から奇形であったり、母体内で胎児水腫を発症、死産・流産・生後早期の死亡の可能性が高い。出産後の発症となる乳児梅毒では生後一ヶ月頃に鼻炎や皮膚発疹が始まって骨変形が出現、四肢運動の有意な低下が見られるようになる。それよりも後になって発現するタイプ(遅延梅毒)では学童・思春期に発症が始まり、骨・皮膚・粘膜・内臓等広範囲に病変が認められるようになる。かつては罪なき多数のこうした悲惨な子供たちがこの世に生を受けた。

   《引用終了》

『「五」の注で、後に明らかにする』というのは詳しくは『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』の「五」の当該注(「僕は超人(直譯すれば超河童です。)だ」の注)を読んで頂きたいが、簡潔に述べると、芥川には、哲学者ニーチェに強い関心のあったのは、その超人哲学もさることながら、その狂気、ニーチェ自身の梅毒による早発性痴呆による発狂をも含む興味であったこと、そして私は芥川の最大の関心――恐怖(フォビア)――こそ、この梅毒による発狂にこそあったと睨んでいることを指す。

●「細君の生殖噐へ」は初出『改造』では、

  細君の………へ

と三文字分が9点リーダの伏字になっている。]

■原稿35

細君はほつとしたやうに太い息を洩らしまし

た。同時に又〈《細君》→盛り上つてゐ〉*今まで大きかつ*た腹は水素瓦斯を

拔いた風船のやうにへたへたと縮んでしまひ

ました。

 かう云ふ返事をする位ですから、〈勿論〉河童の子

供は生れるが早いか、勿論歩いたりしやべつたりするのです。何でも〈バツク〉*チヤツク*の話では出

産後二十六日目に神の有無に就いて講演をし

た子供もあ〈る〉**たとか云ふことです。尤もその

〈供〉**は二月目には〈自殺し〉*死ん*で〔し〕まつたと云ふこと

[やぶちゃん注:

●芥川は現行の「四」章の前半シークエンスを、当初、殆んど完全にバックと掛け合いとしようとしていたことが分かる。「僕」の(芥川の)バックへの親近感は我々が想像する以上に深いのである。此のバックが誰をモデルにしているのか、未だに私は推理出来ずにいる(「河童」の登場人物及び登場河童のモデル同定に興味のある方は私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』の冒頭に配した「登場河童一覧〈例外として獺一匹を含む。「登場人物」も前に附した〉」を参照されたい)。]

■原稿36

ですが。

 お産の話をした次手ですから、僕がこの国

へ來た三月目に偶然或街の角(かど)で見かけた、大

きいポスタアの話をしませう。その大きいポ

スタアの下には喇叭を吹いてゐる河童だの劍

を持つてゐる河童だのが十二三匹描いてあり

ました。それから又上には河童の使ふ、丁度

時計のゼンマイに似た螺旋文字が一面に並べ

てありました。この螺旋文字を飜訳すると、

大体かう云ふ意味になるのです。これ〈《は》→も〉**或は

細かい所は間違つてゐるかも

■原稿37

知れません。が、兎に角僕としては僕と一し

よに歩いてゐた、ラツプと云ふ河童の學生が

大聲(おほごゑ)に読み上げてくれる〈の〉*言葉*〈そのまま〉*一々ノオ*トにと

つて置いたのです。

遺傳的義勇隊を募る!!!

健全なる男女の河童よ!!!

悪遺傳を撲滅する爲に

不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!


 僕は勿論その時〔に〕もそんなことの行はれない

ことをラツプに話して聞かせました。〈ラツプ〉すると

[やぶちゃん注:

●「遺傳的義勇隊を募る!!!/健全なる男女の河童よ!!!/悪遺傳を撲滅する爲に/不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!」の全四行が四角に囲まれている。上辺は1マス目の下線部で4と5行目の及び8と9行目の行間部を含み、同じ範囲で下辺が18下マス目下線(下から2マス目の上線)――8行目の「……結婚せよ!!!」の一字下である――に、その左右を立てに降ろして繋げた長方形の枠である。ブログでは文字サイズ「中」で閲覧して頂ければ私が望んだ形に近いものが視認出来る。]

■原稿38

ラツプばかりでは〈あ?〉ない、ポスタアの近所にゐ

た河童は悉くげらげら笑ひ出しました。

 「行はれない? だつてあなたの話ではあな

たがたもやはり我々のやうに行つてゐると思

ひますがね。あなたは令息が女中に惚〈れ〉**

り、令孃が運轉手に惚れた〈り〉**するのは何の爲

だと思つてゐるのです? あれは皆無意識的

に惡遺傳を撲滅してゐるのですよ。第一この

間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よ

りも、―――一本の鐵道を奪ふ爲に互に殺し合

ふ義勇隊ですね、―――ああ云ふ義勇隊に比べ

れば、ずつと〈髙〉僕たちの義勇隊は髙尚では

ないかと思ひますがね。」

 ラツプは眞面目にかう言ひながら、しかも

太い腹だけは可笑しさうに絶えず浪立たせて

ゐました。〈が、僕〉*が、僕*は笑ふどころか、慌

てて或河童を摑まへようとしました。それは

僕の油斷を見すまし、その河童〈が〉**僕の〈銀時計〉*萬年筆*

を盜んだことに気がついたからです。しかし

〈滑かな河童の皮膚に〉*皮膚の滑かな河童*は容易に我々には摑まり

[やぶちゃん注:

●「萬年筆」ここで「銀時計」としたのを訂して以降、この盗まれたものは総て原稿では「銀時計」を「萬年筆」と訂されている(最終登場は「十二」章「■原稿124」)。少なくともそこまで書いた後にこの改訂を行っていることが分かる。何故、「萬年筆」を「銀時計」としたのか? 盗んだ河童は「十二」の警察官の訊問で盗品を「子供の玩具にしようと思つたのです。」と述べている。万年筆より銀時計の方が圧倒的に子どもは喜ぶであろうとは思う。ただ、そうした論理性よりも、「僕」がまさに人間界の時間を忘れ去って、河童世界の時間の中に生きるためには、この人間界の拘束を象徴するところの「時計」は盗まれなくてはならなかったのではないか? と私は考えたりするのである。大方の御批判を俟つものである。]

■原稿40

ません。その河童もぬらりと辷り〈拔と〉**けるが

早いか一散に逃げ出してしまひました。丁

度蚊のやうに瘦せた体を〈ちらり〉*倒れる*かと思ふ位の

めらせながら。

[やぶちゃん注:以下、6行空白。]

26歳の僕の肖像

ついさっき、いっとう最初に担任を持った時の女子生徒から、
自分の昔のデッサン帳を整理していたところ、高校時代の、担任だった僕をモデルに描いたものを見つけ、
「懐かしいので送ります」
とメッセージと画像が届いた!(本人の掲載許諾済)

………………

1001061_136431383223305_804280388_n

      ♪♪♪ うひゃあ♡ ♪♪♪

これは実に30年前の、26歳になったばかりの、体重50キロの瘦せた、若き日の僕である!!!

モデルをやったのも思い出した!
これは文庫本を読んでいたような気がするが、
如何にも深刻ぶった、ブルージーな、気障な僕がよく描けてるじゃあないか!!!

とっても気に入った! ありがとう、♡♡ちゃん!

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 三

■原稿25

       三

[やぶちゃん注:「三」は4字下げ。本文は2行目から。]

 僕はこの先を話す前にちよつと河童と云ふ

ものを説明して置かなければなりません。河

童は未だに実在するかどうかも疑問になつて

ゐる動物です。が、それは僕自身が彼等の間

に住んでゐた以上、〔少しも〕疑ふ余地〈など〉はない筈で

す。では又どう云ふ動物かと云へば、〈大体は古來画に描いてあ〉*頭に短い毛のあるのは勿論、手足に水掻きの

〈ついてゐる〉ついてゐることも「水虎考畧」などに出てゐ*るのと〈大した〉*著しい*違ひはありま

せん。身長もざつと一メエトルを越えるか越えるか越えぬ位で〈■〉せう。体重は医者のチヤツクによ

[やぶちゃん注:「〈ついてゐる〉」とダブって抹消しているのは、恐らく最初に、

出来上がっていた、

 では又どう云ふ動物かと云へば、大体は古來画に描いてあるのと大した違ひはありません。

の一文を推敲した際、長くなり、当初「ついてある」の改稿部分を8行目真上の罫外に書いてしまい、続く改稿文が書けなくなってしまった上に、文選工・植字工・ゲラ校正者の読み違えの虞れをも考慮し、削除、新たに8行目右に書き直したと考えてよいと思われる。この辺りは、配慮が行き届いていると私は思う。]

■原稿26

〈長椅子に坐り、悠々と巻煙草をふかせ→**な〔が〕ら、

往來の河童を眺めてゐました。河童は身長一メエトルを越えるか越えぬ位でせう。体〈長〉重は

チヤツクの話によ〉れば、二十ポンドから三十

ポンドまで、―――稀には〈四〉**十何ポンド位の大

河童もゐると言つてゐました。それから頭の

まん中には楕円形の皿(さら)があり、その又皿(さら)は年

齢により、だんだん固さを加へる〈■■〉やうで

す。現に年をとつたバツグの皿は若いチヤツ

クの皿などとは全然手ざはりも違ふ〈■■〉ので

[やぶちゃん注:冒頭の長い削除部分は、既に「■原稿26」に示されたシーンの別ヴァージョンの続きであることが分かる。これによって我々は失われた「■原稿26プロトタイプ」の存在を知るのである。芥川は恐らく、「僕」の河童概説的な導入である現在のものとはかなり違う、チャックとの会話によって河童の外的形相を叙述しようとしていたに違いない。私などは何か、その幻の別稿を無性に夢想してみたくて、たまらなくなってしまうのである。]

■原稿27

〈バツクの皿は若いバ→**ヤツクの皿などとは全然

手ざはりも違ふので〉す。)しかし一番不思議な

〈ことは〉*のは河*童の皮膚の色のことで〈す→せう〉*せう*。河童は我々

人間のやうに一定の皮膚の色を持つてゐませ

ん。何でもその周囲の色と同じ色に変つてし

まふ、―――たとへば艸の中にゐる時には草の

やうに緑色(みどりいろ)に変り、岩の上にゐる時には岩の

やうに灰色に変るのです。これは勿論河童に

限らず、カメレオンにもあることです。或は

河童は〈カメレオン〉*皮膚組織の*上に何かカメレオンに近い

[やぶちゃん注:2行目の「す。)」の丸括弧閉じは抹消し忘れである。この丸括弧の始まりはこれ以前にはない。初出には無論、校正者によって除去されている。

●この冒頭の抹消本文も前の「■26」末尾とダブっていておかしい。前伊に注した丸括弧の始まりがないのも不審である。芥川はもしかすると、前の「■25」「■26」のプロトタイプ原稿をそのまま草稿としていたのかも知れないという気がしてくる。その場合、丸括弧の始まりは失われた「■25」の幻の稿にあったのかも知れない。この「■27」も従ってそれらに続く草稿としてあった、それを安易に反故にせず、決定稿に巧みに構成して入れ込んだのかも知れないという気さえしてくるのである。芥川龍之介は、僕らが安易に思い浮かべるところの――原稿用紙を書いてはくしゃくしゃと丸めて抛り投げ、それが書斎を埋め尽くしているような陳腐な小説家のイメージ――とは全く異なった、巧緻な原稿用紙の倹約家ででも、あったような気がしてくるのである。]

■原稿28

所を持つてゐるのかも知れません。僕はこの

〈事実〉*事実*を発見した時、西国の河童は緑〈色〉**(みどり〈いろ〉*いろ*)であ

り、東北の河童は赤いと云ふ民俗〈学〉**上の記録

を思ひ出しました。のみならずバツグを追ひ

かける時〈に〉、突然どこへ行つたのか、見えな

くなつたことを思ひ出しました。しかも河童

は皮膚の下に餘程厚い〈■〉**肪を持つてゐると見

え、この地下の国の温度〈の〉**比較的低いのにも

関らず、(平均華氏五十度前後です。)着物と云

ふものを知らずにゐるのです。勿論〈チヤツク〉*どの河童*

■原稿29

も目金をかけたり、卷煙草の箱を携へたり、

金入れを持つたりはしてゐるのでせう。しかし

河童はカンガルウのやうに腹に袋を持つてゐ

ますから、それ等のものをしまふ時にも格別

不便はしないのです。唯僕に可笑しかつたの

は腰のまはりさへ蔽はないことです。僕は或

時この習慣をなぜかとバツグに尋ねて見まし

た。するとバツグはのけぞつたまま、いつま

でもげらげら笑つてゐました。おまけに

「わたしは〔お前さんの隱してゐるのが〕可笑しい」と返事をしました。

[やぶちゃん注:最終行の原型が「わたしは可笑しい」というものであったのは、意味の分かる目的語を必要としない河童語の本質を知る上では面白いと私は勝手に思っている。本原稿は丁度、10行目で終っているため、行の残しはない。]

この頃の思ひ 萩原朔太郎

この頃の思ひ

 僕は元來、政治家といふ人種が嫌ひであつた。なぜなら彼等は、いつも一時的の現象しか考へないで、政畧や俗衆を煽情する目的から、眞の永遠の眞理や、哲人、詩人の言葉を歪曲して、卑俗な方便主義に利用するからである。ところがこの頃になつて、僕が何よりも日本に欲しいと思ふのは、哲學者でもなく詩人でもなく、さうした「俗衆指導者」の政治家である。僕にもし實行的才能があるならば、ゲーテのやうに、僕自身が政治家にさへ成りたいと思ふ位である。これは僕自身の心境の變化だらうか、否、おそらくは、日本の現狀に於ける、社會環境の著るしい變化であらう。そして僕ばかりではなく、すべての日本人と日本の有識者とが、同じことを考へてるのではないだらうか。

[やぶちゃん注:本作は初出誌紙名も年月日も一切が不明である。底本は筑摩版萩原朔太郎全集第十一巻の「隨筆」所収のものを校異表を見て初出に復元して用いた。同巻「隨筆」パートでは、この後に先に示した「我等何をなすべきか――靑年の爲に――」が同パートの掉尾として配されており、その前に並ぶ随筆群は不明の一篇を除き、すべて昭和一三(一九三八)年から昭和一七年のものであるから、全集編者はこの間の雑誌若しくは新聞等に掲載されたものと推定していることが分かる。――それにしても――議員になった萩原朔太郎――都知事になった萩原朔太郎……想像するだにおぞましい……そういう輩が現実に日本の政治家になり、文学者や芸能人がメディアのコメンテーターとして好き勝手放題のことを言っている今の日本を朔太郎が見たら――さて、何と言うんだろう……]

手の色の相 萩原朔太郎

 手の色の相

手の相は暴風雨(あらし)のきざはしのまへに、
しづかに物語(ものがた)りをはじめる。
赤はうひごと、
黄はよろこびごと、
紫は知らぬ運動の轉回、
靑は希望のはなれるかたち、
さうして銀(ぎん)と黑(くろ)との手の色は、
いつはりのない狂氣の道すぢを語る。
空にかけのぼるのは銀とひわ色のまざつた色、
あぢさゐ色(いろ)のぼやけた手は扉(とびら)にたつ黄金の王者、
ふかくくぼんだ手のひらに、
星かげのやうなまだらを持つのは死の豫言(よげん)、
栗色(くりいろ)の馬の毛のやうな艷(つや)つぽい手は、
あたらしい僞善(ぎぜん)に耽る人である。
ああ、
どこからともなくわたしをおびやかす
ふるへをののく靑銅の鐘のこゑ。

鬼城句集 夏之部 繭

繭     繭搔の茶話にまじりて目盲(めしひ)かな
[やぶちゃん注:「繭搔」は「まゆかき」と読む。養蚕では春蚕(はるご)が蛹化の兆候を見せ始めると、一つ一つを拾い、蚕簿(まぶし:蚕が繭を作る際の足場にさせる人工物。ボール紙などを井桁状に組んで区画した一つに一匹を割り当てる。「蔟(ぞく)」とも呼ぶ。)に、分けて移し替える。これを「蚕の上蔟(あがり)」と呼ぶ。上蔟から一週間ほどで蚕簿から繭をもぎ取るが、これを繭搔きという。それより質・量ともに落ちる夏蚕・秋蚕は近代の産物である。かつては世界一だった日本の繭生産量は現在では最盛期の一%以下になった。]

2013/06/11

肉吸いという鬼 南方熊楠

 
 

〇 肉吸いという鬼 紀州田辺住、前田安右衛門、今年六十七歳、以前久しく十津川辺で郵便脚夫を勤めた。この人話(はなし)に、むかし東牟婁郡焼尾(やけお)の源蔵という高名の狩人が果無山(はてなしやま)を行くと狼来たってその袖を咬み引き留める。その時十八、九の美しき娘、ホーホー笑いながら来たり近づき、源蔵火を貸せという。必定妖怪と思い、やむをえずんば南無阿弥陀仏の弾丸で撃つべしと思ううち、何ごともなく去る。しかる時、狼また袖を咬み行くべしと勧むる様子に、源蔵安心して歩みだした。その後また二丈ほど高き怪物の遇い、南無阿弥陀仏と彫りつけた丸(たま)で撃つと、大きな音して僵(たお)れたのを行って見れば白骨のみ残りあった、と。また二十五年前、前田氏、北山の葛川(くずかわ)郵便局に勤めおった時、ある脚夫、木の本の付近寺垣内(てらがいと)より笠捨(かさすて)という峠まで四里のウネ(東山の背)を夜行し来たるに、後より一八、九の若い美女ホーホー笑いながら来て近づく。脚夫は提燈と火繩持ちあった。その火繩を振って打ち付けると女はうしろへ引き返した。脚夫は葛川の局へ来たり、恐ろしければこの職永く罷むべしと言うのゆえ、給料を増し六角(六発の訛称、拳銃のこと)を携帯せしめて、依然その職を勤めかの山を夜行したが一向異事なかった由。これは肉吸いという妖怪で人に触るればたちまちことごとくその肉を吸い取るとのこと。熊楠かつて二十年前に出たウェルスか誰かの小説に、火星世界の住人、この地球に来たり乱暴する体を述べて、その人支体(したい)に章魚(たこ)の吸盤ごとき器を具し、地上の人畜に触れてたちまちその体の養分を吸い奪い、何とも手に合わぬはずところ、かの世界に絶えてなくてこの世界にあり余ったバクテリアが、かの妖人を犯して苦もなく仆しおわる、とあったと記憶するが、その外に類似の噺を聞いたことなく、肉吸いという名も例の吸血鬼(ヴァンムパヤー)などと異なり、すこぶる奇抜なものと思う。

[やぶちゃん注:「南方随筆」の「紀州俗伝」の最終章「十五」の掉尾。末に『(大正七年二月『人類学雑誌』三三巻二号)』とある。

「肉吸い」ウィキの「肉吸(妖怪)によれば、肉吸い『は三重県熊野市山中や和歌山県の華無山に伝わる妖怪』で、『人間に近づき、その肉を吸い取る妖怪といわれる。夜遅くに提灯を灯して山道を歩く人間に対しては、』十八か十九に見える『美しい女性の姿に化け「火を貸してくれませんか」と言って提灯を取り上げ、暗闇の中で相手に食らいつき、肉を吸い取ったという。そのためにこの地方の人々は、火の気なしに夜道を歩くことは避け、どうしても夜道を行く際には提灯と火種を用意しておき、肉吸いに提灯を奪われたときには火種を振り回して肉吸いに打ちつけたという』(和田寛「紀州おばけ話」一九八四年名著出版刊よりとする)とって、南方のこの本文の梗概を示し、次に近藤瑞木編「百鬼繚乱 江戸怪談・妖怪絵本集成」(国書刊行会二〇〇二年刊)に所収する天明五(一七八五)年板行の「百鬼夜講化物語(ひゃっきやこうばけものものがたり)」(古狼野干筆・江戸伊勢屋治助板)に載る「肉吸い」を語るが、幸いにして私は当該書籍を所持しているので以下に示す(画像はウィキの「肉吸(妖怪)にある同書のパブリック・ドメイン画像)。

   *

Jisuke_nikusui

肉吸(にくすい)

心神(しんじん)おとろへたる人にはかならず妖怪(ようくはい)ひまをうかゞふもの也

されば地黄(ぢわう)をのむ人の美(うつく)しき看病(かんびやう)人は遠慮(ゑんりよ)すべし

「モシモシ おひんなりませ あごのしたにはゐがたかつております」

「おぬし故のじんきよとおもへばうらみはない」

   *

「おひんなる」は「御昼んなる」で、「御昼(ひ)なる」とも。もと、お昼になるの意で、朝起きる意の尊敬語。

 近藤氏は同書で、南方の本話の話を示された上で、『これは本図のイメージからはいささか遠い。本図の依拠するところは、男と交わりその精を枯らす好色な妖怪のイメージではなかろうか』として、多くの類話を挙げ、『本図は男が腎虚になりそうな美人を』それら類話に見るような『妖怪に擬したものと思われる』とされ、そうした話の一つが載る「圃老巷説菟道園(ほろうこうせつうじのその)」の作者頭光(つむりひかる)の「夷歌百鬼夜狂」(天明五(一七八五)年板行の四方赤良(大田南畝)を始めとした当代十六人の人気狂歌師による百物語戯歌集)所載の、ずばり「肉吸」と題した以下の狂歌を掲げられ、

 から傘のあばら骨のみ殘りけりあら肉吸ひの夜の嵐や

『ここにもセクシャルなニュアンスが感じられよう』と記される。南方の文章は珍しくそうしたセクシャルな感じを殆んど匂わせていないが、近藤氏のこの解説を読んだら、妙に――やっぱり!――という感じがした。スミマセン、南方センセ――でもH.G.ウェルズからヴァンパイアまで出して呉れちゃうセンセが、私は、大好きなんです!

「果無山」紀伊半島の中央部に位置する果無山脈。以下、ウィキ果無山脈によれば、広義には田辺市から北東に向かって西牟婁郡と日高郡の境の虎ヶ峯山脈の山々(行者山・三里ヶ峰等)を含むが、一般には笠塔山より東に転じ、和田ノ森から安堵山を経て、東端で熊野川まで東西十八キロメートルに亙って列なる山脈を指す。古くは大和国と紀伊国の国境であり、この間にあって熊野川・日置川・富田川・日高川の四つの分水嶺を分けている。『そうした山々に果無という名が生じたのは、江戸時代の地誌『日本輿地通誌』に「谷幽かにして嶺遠し、因りて無果という」と説かれたように、行けども行けども果てなく山道が続く様子からであると言われている』が、『地元の民俗伝承は果無の名を地理的な特徴ではなく、この地方に伝わる一本だたらの怪異譚によるものとして』おり、『それによれば、果無山脈にはある怪物が棲んでいた。その怪物はハテ(年末』の二十日『過ぎ)になると現れ、旅人を喰ったことから、峠越えをする者がなくなった(ナシ)という。ここからハテナシの名がついたと』ある。

「北山の葛川」和歌山県東牟婁郡北山村葛川か。但し、この葛川は現在は地名ではなく、河川名のようである。

「木の本の付近寺垣内」現在の奈良県吉野郡下北山村の寺垣内。

「笠捨という峠」奈良県吉野郡下北山村浦向に傘捨山があり、寺垣内からは西南西に直線でも六キロメートル以上あり、ピークの北方を現在走る国道四二五号を一部使って、この傘捨山附近までを大まかに測ると、徒歩では十キロメートルを有に越すから「四里」は大袈裟ではない。]

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 二

■原稿15

       〈三〉**

[やぶちゃん注:一行目5字下げ。今回、気がついたのがこうした字下げが各章で一定していない意外な事実であった。前回では6字下げ、例えば次の「三」では4字下げである。文豪はこうい形式的統一という些末な部分には意を解さないことが分かる。以下、本文は2行目から。]

 〈僕は〉*そのうちに*やつと気〈づいつ〉*がつい*て見ると、僕は仰向け

に倒れたまま、大勢の河童にとり圍まれてゐ

ました。のみならず〈目の大きな→目金をかけた〉*太い嘴の上に鼻眼金をかけた*〈河〉**童が一匹、

〈僕〉**の側へ跪きながら、僕の胸へ聽信噐を当て

てゐました。その河童は僕が目をあいたのを

見ると、〈そ〉**に「靜かに」と云ふ手眞似をし、それ

から誰か後ろにゐる河童へ q* Q *uax quax と声を

かけました。するとどこからか河童が二匹、

擔架を持つて歩いて來ました。僕はこの擔架

[やぶちゃん注:

●「のみならず〈目の大きな→目金をかけた〉*太い嘴の上に鼻眼金をかけた*〈河〉**童が一匹」の部分は極めて複雑である。初筆のインクの濃さの統一感から、芥川は恐らくこの原稿をある程度まで書いた後から推敲しているように思われる。ここは初めて、朦朧としながらも、ある意味で、主人公が冷静に近距離の河童を見る重要なシーンである。芥川が殊の外拘ったと考えて間違いない。以下は一つのシチュエーションの可能性である。……

……筆を止めた龍之介の目に、

 のみならず目の大きな河童が一匹、

の部分が留まった。

 芥川はこの「目の大きな」の部分が河童の個別的性質が表われてないと考えて抹消し、

 のみならず目金をかけた大きな河童が一匹、

と変えて右に書いた。

 しかしどうも納得出来ない。

 これでは読者は眼鏡をかけた人間の顔を想起してしまうだけではないか?

 そこで、それを直ぐにまた抹消し(抹消線のリズムが「のみならず目の大きな」のものと共時的である)、今度は左に、

 太い嘴の上に鼻眼金をかけた大きな河童が一匹、

とした。

 一応、腑に落ちた。

 すぐに吹き出し挿入の枠を囲ったが、誤って「……鼻眼金を」の下で吹き出しを閉じてしまった。そこで、その吹き出しにチェックをした上で、「かけた」に追加の吹き出しを附した。

 相当にごちゃごちゃになってしまった原稿を見るうちに、その下の「河童」の「河」の字の崩し方が、何だか神経に触った。

 執筆のリズムを取り戻す意味もあって、「河」をしっかりした(さんずい)で書き直した(彼のそれは前後を見てもこんなにしっかり点を打ってはいない)。――

 芥川は徐に次の行にとりかかる。リズムのブレイクが彼を苛立たせる。

 「僕」と書こうとして、途中で何か苛立って消し、右にしっかりとした「僕」の字を書いた(実際に一回目の抹消された「僕」の字は9画ほどまで書いてあるのに抹消されている。特に崩れているわけでもないのに、である)……

……書斎……河童の嘴ならぬ……龍之介の鼻の先……そこに夕日が、暮れ残っている……

 なお、初出では「鼻目金」は「鼻眼鏡」である。この表記は芥川の中では揺れている。旧全集後記にそのブレが示されているが、特にここでは問題にせず、問題の箇所で注記することとする。

●「q* Q *uax quax」ここで芥川は、河童語の言語体系や文法を構築するという発想を想起したのではなかったか? 単なる発音おアルファベット表記ではなく、その最初の文字を大文字に変えることで、である。]

■原稿16

にのせられたまま、大勢の河童の群がつた中

を靜かに何町か進んで行きました。僕の兩側

に並んでゐる町は少しも銀座通りと違ひあり

ません。やはり毛生欅(ぶな)の並み木のかげにいろ

いろの店が日除けを並べ、その又並み木に挾

まれた道を自動車が何台も走つてゐる〈で〉**

のです。

 やがて僕を載せた擔架は細い横町を曲つた

と思ふと、或家の中へ舁ぎこまれました。そ

れは後(のち)に知つた所によれば、あの鼻眼金を〔かけ〕た

■原稿17

河童の家(うち)、――チヤツクと云ふi医者の家だつ

たのです。チヤツクは僕を小綺麗なベツドの

上へ寐かせました。それから何か透明な水藥

を一杯飮ませました。僕はベツドの上に横た

はたつたなり、チヤツクのするままになつてゐ

ました。實際又僕の〈体〉**は碌に身動きも出〈來〉**

いほど、節々(ふしぶし)が痛んでゐたのですから。

 チヤツクは一日に二三度は必ず僕を診察に

來ました。又三日に一度位は僕の最初に見か

けた河童、――バツグと云ふ漁師も尋ねて來

■原稿18

ました。河童は我々人間が河童のことを知つ

てゐるよりも遙かに人間のことを知つてゐま

す。それは我々人間が河童を捕〈獲〉**することよ

りもずつと河童が人間を捕獲することが夛い

爲でせう。捕獲と云ふのは当らないまでも、

我々人間は僕の前にも度々河童の国へ來てゐ

るのです。のみならず一生河童の国に住んで

ゐたものも夛かつたのです。なぜと言つて御

覽なさい。僕等は唯河童ではない、人間であ

ると云ふ特権の爲に働かずに食〈ふことも出來〉*つてゐられる*

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「夛」は「多」の異体字。無論、現行はすべて「多」に直されている。

●「〈獲〉**」の最初の「獲」はこの通りの字体であるが6画ほどまで書いて抹消、決定した「獲」の字体は(くさかんむり)が全体に掛かっている。次の「捕獲」の「獲」も全体に掛かっている字体で、この誤った字体を芥川は好んだものらしい。]

■原稿19

のです。現に〈河童の言葉→マツ〉*バツグの話*によれば、或若い道

路工夫などはやはり偶然この国へ來た〈ぎり〉**

〈死ぬ→雌の〉*雌の*河童を妻に娵り、死ぬまで住んでゐたと

云ふことです。尤もその〔又〕雌の河童は〈大へんに→この国㐧一〉*この国第一の*

美人だつた〈と〉**、夫の道路工夫を〈瞞〉誤魔化すの

〈に妙を得てゐ〉*にも妙を極め*てゐた〈さうですが〉*と云ふこと*です。

 僕は一週間ばかりたつた後、この国の法律

の定める所により、「特別保護住民」としてチヤ

ツクの鄰に住むことになりました。僕の家は

小さい割に如何にも瀟洒と出來上つてゐまし

[やぶちゃん注:

●「〈河童の言葉→マツ〉」この書き換え抹消は非常に興味深い。何故なら、ここまででは河童は「チヤツク」と「バツク」しか登場していないからである。「マツ」という抹消は明らかにずっと後の「六」に登場する哲学者「マツグ」としか考えられず、これが「バツク」の単なる書き間違いでないとすれば(ない、と私は思うのであるが)、芥川はここで既に、後に続く河童人間関係図を既に構築していたと考えられる。さらに言えば、この道路工夫とその妻の雌河童のディグされたゴシップは、身分の低い、素朴な漁師バックの話す内容というより、寧ろ、哲学者で、河童は勿論、「僕」から見ても非常に醜くい形相をしている醜河童(ぶかっぱ)で独身のマッグが語るに確かに相応しいと言えるであろう。ただ、この文脈では唐突過ぎるので、仕方なくバックの台詞に変えたものと私は推理するのである。

●「〈瞞〉」は「目」ではなく「口」に見える。「瞞(だま)す」としようとしたか。]

■原稿20

た。勿論この國の文明は我々人間の国の文明

―――少くとも日本の文明などと余り大差は

ありません。〈客間の隅には→絨氈を敷いた〉*往來に面した*客間の隅には小さ

いピアノが一台あり、〈壁にはエツチングだの

水彩画だのが→椽へ入れた河童〉*それから又壁には〈小〉額椽へ入れたエツ*ティングなども懸つてゐまし

た。唯肝腎の家をはじめ、テエブルや椅子の

寸法も河童の身長に合はせてありますから、

子供の部屋に入れられたやうにそれだけは不

便に思ひました。

 僕はいつも日暮れがたになると、〈窓の側の〉*この部屋*

[やぶちゃん注:「〈壁にはエツチングだの水彩画だのが→椽へ入れた河童〉*それから又壁には〈小〉額椽へ入れたエツ*」の推敲過程は極めて複雑で説明を要する。

まず芥川は、

 壁にはエツチングだの水彩画だのが

というところまで書いた。しかし気に入らず、決定稿に残るところの、

 それから又壁には小額椽へ入れた河童

と左側に訂正した(何故に左側かというと前行の「往來に面した」という左に記した訂正本文が「壁に」辺りまで掛かってしまっていたからである)。ところが「小額椽」(本文の「椽」は以前に述べた通りの芥川の「緣」の慣用誤字)という熟語が如何にもリズムが悪いと感じたものか(私はそう感じる)、ここで「小」を抹消してみた。しかし、それでもしっくりこなかった芥川は、この後半部の五行目訂正行頭の6文字と正規のマスに書き入れた「童」の字を含む都合「椽へ入れた河童」7文字をさらに抹消して、

 椽へ入れたエツ[やぶちゃん注:ここまで7文字。]ティングなども……

と続けたのである。

 こここそ、芥川マジックたる原稿用紙上での実に緻密な推敲戦法が鮮やかに学べるパートなのである。]

■原稿21

にチヤツクやバツグを迎へ、河童の言葉を習

ひました。いや、彼等ばかりではありませ

ん。特別保護住民だつた僕〈は〉**誰も皆好奇心

を持つてゐましたから、〈毌→**日チヤツクに來て貰つては血壓を調べて貰つ〉*毎日血壓を調べて貰ひにわざわざチヤツクを*呼び寄せる、ゲエ

ルと云ふ硝子會社の社長などもやはりこの部

屋へ顏を出したものです。しかし最初の半月

ほどの間に一番僕と親しくしたのはやはりあ

のバツグと云ふ漁夫だつたのです。

 或生暖かい日の暮です。僕はこの部屋のテ

[やぶちゃん注:「**」としたが、この右側の訂正は最終的に削除線をし忘れている。

●ここでは決定稿の校正上のミスが発見された。現行の「河童」では、原稿の3行目以降の一文が次のようになっている。

   *

★現行「河童」(下線やぶちゃん)

特別保護住民だつた僕に誰も皆好奇心を持つてゐましたから、毎日血壓を調べて貰ひにわざわざチヤツクを呼び寄せるゲエルと云ふ硝子會社の社長などもやはりこの部屋へ顏を出したものです。

   *

原稿を削除部分その他記号を除去して繋げてみよう。

   *

★決定稿「河童」(下線やぶちゃん)

特別保護住民だつた僕に誰も皆好奇心を持つてゐましたから、毎日血壓を調べて貰ひにわざわざチヤツクを呼び寄せるゲエルと云ふ硝子會社の社長などもやはりこの部屋へ顏を出したものです。

   *

読点が二箇所で異なっているのである。平仮名続きを読み易くするという点では、現行の読点は『普通に正当』ではあるが、私は現行より芥川の決定稿の方が、よりよい読点――ゲエルという新登場の河童を引き立てる点に於いて――であると思うのであるが、如何か?]

■原稿22

エブルを中に漁夫のバツグと向ひ合つてゐま

した。するとバツグはどう思ふ〈た〉**たか、急に

默つてしまつた上、大きい目を一層大きくし

てぢつと僕を見つめました。〈のみならず〉*僕は勿論妙*に思

ひましたから、「Quax, Bag, Q*q*uo Q*q*uel Q*q*uan ?」と言

ひました。これは〈我々〉*日本*語に飜訳すれば、〈「〉**

い、バツグ、どうしたんだ?」と云ふこ〈と〉**

す。が、バツグは返事をしません。のみなら

ずいきなり立ち上ると、べろりと舌を出した

〈まま〉*なり*、丁度蛙の刎ねるやうに〈僕〉**びかかる気色(けしき)

[やぶちゃん注:「〈のみならず〉」としたが抹消線は「ず」まで延びていない。

●「Q*q*」の訂正も、先とは逆に文頭と固有名詞でない構文の綴りを英語やフランス語のように、小文字化して正規文法を意図したニュアンスが感じられる。]

■原稿23

さへ示しました。僕は〈た〉**無気味になり、そつ

と椅子から立ち上ると、一足飛びに戸口へ飛

び出さうとしました。丁度そこへ顏を出した

のは幸ひにも医者のチヤツクです。

 「こら、バツグ、何をしてゐるのだ?」

 チヤツクは鼻眼金をかけたまま、かう云ふ

バツグを睨みつけました。〈バツクは〉*するとバ*ツグは〈驚〉**

れ入つたと見え、何度も頭へ手をやり〈な〉**

ら、かう言つてチヤツクにあやまるのです。

 「どうも〔まことに相〕すみません。実はこの旦那の気味悪

[やぶちゃん注:

●チャックの台詞の鉤括弧の初めの括弧に「こら、」までかかる大きな赤インクと思われる朱の鉤括弧が入っている。意味不明。校正にお詳しい方の御教授を乞うものである。]

■原稿24

がるのが面白かつたものですから、つい調子

に乘つて悪戯をしたのです。どうか旦那も堪

忍して下さい。」

[やぶちゃん注:以下、7行空白。]

耳囊 卷之七 狸欺僕天命を失ふ事

 

 

 狸欺僕天命を失ふ事

 

 駿河臺に金森何某迚(とて)有(あり)。親類本所に住けるが、小身にて僕從も不多(おほからず)。壹人の下人召仕ふ下女と密通しけるを主人心付(こころづき)て、下男をば暮に本鄕邊に使(つかひ)に遣(つかは)し、右留守に家風に不合(あはず)とて、下女に暇を申渡し宿へ引渡し遣しける。彼(かの)下男夜に入(いり)歸らんとしける道にて、彼下女に行逢(ゆきあふ)故、今比(いまごろ)爰(ここ)迄來りしやと尋(たづね)ければ、主人より暇出(いで)て宿へ下りしが、御身に逢(あは)んと跡を慕ふて爰迄來りしと語りければ、夫(それ)は是悲なき事也、然れ共、彼是(かれこれ)咄し合(あふ)事も有之間(これあるあひだ)、先(まづ)我(わが)部屋迄内々立歸り候へ迚、友(とも)なゐ皈(かへ)りしが、元より蚊屋もなければ蚊をゑぶして、越方行末(こしかたゆくすへ)をかたらひ□りて、五つ半時比(ころ)にもなりし、蚊遣の火もえ立(たち)て部屋内に照(てら)しけるに、彼女の面(おもて)あらぬ化物なれば大きに驚きしが、氣丈なる者にてやがて組付て押ふせ、聲をかぎりに人を呼(よび)ければ、無人なれ共(ども)ある限りの男女主人迄も火をともし駈(かけ)集り、烑灯(ちやうちん)にて是を見れば古狸にて有(あり)し故、打殺しけると也。文化丑の年夏也。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。狐狸譚。言わずもがな乍ら、どうも狸は抜けていて分が悪く、何とも憎めずに何がなし哀れな気がしてくる話が多い。五十年も昔、私の幼少の頃は、この鎌倉の植木でも、傍の切通しで狸がよく轢かれて死んでいたものだった。何より、私には、緑ヶ丘高校在勤中のバスケットボール部の夏合宿の夜、巡回中、校内をうろつく狸(アナグマの可能性の方が大きいが)を逆に驚かした実体験もあるのである。以下、私の怪談奇談集成録「淵藪志異」より引用しておこう。

 

   *

 

 一九九九年七月我籠球部合宿にて學校に泊せり。夜十一時頃本館見囘れり。夜間も本館一階電氣は點燈せしままなるが定法也。體育館を出でて會議室橫入口より本館へ入りし所間隔短きひたひたと言ふ足音のせり。左手方見るに正に校長室前を正面玄關方へ茶褐色せる不思議なる塊の左右に搖れつつ動けるを見る。黑々したる太き尾あり。目凝らしたるもそは犬でも無し猫でも無し。狸也。若しくはアナグマやも知れず。素人そが區別は難かりけりとか聞く。彼我に氣づかざれば思はず狸臆病なるを思ひ出だし「わつ!」と背後より叱咤せり。狸物の美事に右手にコテンと引つ繰り返らんか物凄き仕儀にて玄關前化學室が方へ遠く逃れ去れり。我聊か愛しくなるも面白くもあり。つとめて廊下にて出勤せる校長と擦れ違へり。我思はず振り返りて校長が尻に尻尾無きか見し事言ふまでも無し。そが狸の棲み家と思しき所テニスコウト向かひが土手ならんや。されど此處五六年宅地化進めり。我に脅されし哀れ狸とそが一族も死に絕えたらんか。これこそ誠あはれなれ。

 

   *

 

なお、擬古文が苦手な御方は、同話の口語原話『文化祭「藪之屋敷」に捧げる横浜×××高校の怪談』の「3」をどうぞ――。

 

・「狸欺僕天命を失ふ事」は「狸(たぬき)、僕を欺(あざむ)き天命を失ふ事」と読む。

 

・「金森某」不詳。耳囊 卷之二 猥に人命を斷し業報の事に金森姓は出る。

 

・「是悲なき」ママ。是非なき。

 

・「かたらひ□りて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『かたらひ契りて』。これで採る。

 

・「文化丑の年」文化二(一八〇五)年乙丑(きのとうし)。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから一年前のホットな都市伝説。この頃は狸も江戸のド真ん中で頗る、意気軒昂ではあったわけだ。

 

・「五つ半時」不定時法の夏の夜の五ツ半は午後九時頃。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 狸の下僕を欺くも天命を失(うしの)うた事

 

 駿河台に住まう金森某(ぼう)と申す私の知人がおる。

 

 その親類が、本所に住んで御座った。

 

 かの者、小身(しょうしん)の身なれば、家来・下人なども多くは御座らなんだ。

 

 その主人、ある時、一人の下男が屋敷内の下女と密通致いておることに気づいたによって、その日も暮方になってから、その下男を本郷辺りまで使いに出だいて、その留守に、かの相手となった下女を呼び、

 

「……密通の儀――これ、露見致いた。不届き――これ、家風に合わはざる。――」

 

と諭して、暇まを申し渡し、請け人をも呼び、実家へと引き渡し下げた。

 

 さて、かの下男、夜も遅うなった、その帰るさの道にて、かの下女の向こうより来たるに出逢(お)うたによって、 

 

「……何でこんな夜遅うに……また、こんなところまで、来たんじゃ?」

 

と訊ねた。

 

 と、下女は、

 

「……我らがこと……ご主人さまに知られ……先程、お暇まを出されて……実家へと戻ったものの……あんさんに逢いとうて……後を追ってここまで……来ました……」

 

と申す。

 

「……そ、それは……何とも……致し方なきことじゃが……そうか……されど、これより我ら二人、どうするか……儂(わし)にも考えのあるによって……いろいろと相談致すことも、これ、ある!……泣くな!……悪いようにはせん!……ともかくも……屋敷の、儂の部屋まで、一緒に、こっそりと帰ると致そうぞ!」 

 

と、宥めて、連れ帰った。

 

 もとより、小身者の貧乏屋敷の長屋なれば、蚊帳もなく、うるさく襲い来たる蚊を仰山な蚊遣りで燻(いぶ)しつつ、二人の越し方行く末、しんみりと話し合って御座ったと申す。

 

 かくするうち、五つ半時頃にもなった頃、積み置いた蚊遣りが、火種のうちに

 

――ゴソッ

 

と崩れて、

 

――パチパチ

 

と急に燃え上がったかと思うと、赫奕(かくやく)と部屋内(うち)を照らし出した。

 

 意気消沈して項垂れたまま膝を見つめておった下男が、この時、ふと、顔を上げて女の顏を見た――

 

――と!

 

――その顔

 

――これ、かの女の顔では――ない!

 

――いや、かの女どころか――女の顔――人の顔――でさえ

 

――ない!

 

――ごわごわと!

 

――毛(けえ)の生えた!

 

――化け物のそれであった!!

 

 男は大きに驚いたが、腕っぷしも相応の、主人自慢の気丈な者でも御座ったゆえ、即座にその化け物に組みついて押し倒し、ぐっと捻じ伏せて、声を限りに人を呼ばわった。

 

 小人数(こにんず)なれども、ある限りの屋敷内の男女、果ては主人までもが、火を点して駈け集った。

 

 それらの提灯の灯の照らし出したそれを見れば――

 

――これ

 

――大きなる古狸

 

で御座った。

 

 されば、その場にて、即座に打ち殺した、と申す。

 

 丁度一年前の、文化二年の夏のこと、で御座る。

 

萩原朔太郎 無題(ひとのこゝろがつめたくなる……)

 

 

 

ひとのこゝろがつめたくなる

 

ひととひととがにくむことになるみをかんずる

 

ひととは私のことだ

 

わたしは猿のやうだ

 

わたしは掌をなめ

 

わたしは木のぼりを習ふためけいこしたいと思ふ

 

[やぶちゃん注:底本第三巻の未発表詩篇より。無題。取り消し線は抹消を示す。抹消部を除去すると、

 

ひとのこゝろがつめたくなる

 

ひととひととがにくみをかんずる

 

ひととは私のことだ

 

わたしは猿のやうだ

 

わたしは掌をなめ

 

わたしは木のぼりをけいこしたいと思ふ

 

となる。]

 

罪惡の美貌 大手拓次

 罪惡の美貌

めんめんとしてつながりくる火(ひ)の柱(はしら)、
異形のくろい人かげは火のなかにみだれあうて、
犬の遠吠(とほぼえ)のやうにうづまく。
くろいからだに
眞珠の環(わ)をかざり、
あをいサフィイルの頸環(くびわ)をはめ、
くちびるに眞紅(しんく)の眼(め)をにほはせ、
とろ火(ひ)のやうにやうやうともえる火の柱のなかに、
あるひは めらめらとはひのめる火(ひ)の蛇(へび)のうそぶきに、
罪の美貌の海鼠(なまこ)は
いよいよくさり、
いよいよかがやき
いよいよ美(うつく)しく海(うみ)にしづむ。

[やぶちゃん注:視認可能な句読点を表記した。「眞珠の環をかざり、」の読点は他と異なり、殆んどカンマそっくりでしかも有意に薄く掠れているが、読点として採った。「サフィイル」サファイア。青玉。フランス語の“saphir”忠実な音訳(英語は“sapphire”)。]

鬼城句集 夏之部 新茶

新茶      宇治の茶、萬古の急須、相馬の茶碗、

        美濃の柿、伊香保の盆、かぞへ來れば

        なかなかに勿體なし

      新茶して五ケ國の王に居る身かな

[やぶちゃん注:「萬古」三重県四日市市の代表的な地場産業である萬古焼(ばんこやき)。万古焼とも書く。葉長石(ペタライト:耐熱性に富むケイ酸塩鉱物。)を使用して造られ、陶器と磁器の間の性質を持った半磁器(「炻器(せっき)」とも呼ぶ)。耐熱性に優れ、紫泥の急須や土鍋で知られる(ウィキ萬古焼に拠る)。

「相馬」福島県浜通り北部の浪江町大堀で焼かれる陶器。大堀相馬焼。青ひび(鈍色の器面に広がる不定型な罅で、後にひびに墨を塗り込むために黒く見える)・二重焼(ふたえやき:轆轤成形で外側と内側を別に作り、焼成前に被せる手法でこれで製した湯呑茶碗は冷めにくいされる大堀相馬焼に特異的な製法)・走り駒意匠などの特徴を持つ。二〇一一年三月の福島第一原子力発電所事故によって福島第一原発から一〇キロメートル圏内に位置していた大堀は強制退去を余儀なくされ、協同組合諸共、二本松の小沢工業団地内に移転させられている。(ウィキの「大堀相馬焼に拠る)。]

2013/06/10

海産生物古記録集■7 「守貞謾稿」に表われたるナマコの記載

■7 「守貞謾稿」に表われたるナマコの記載

[やぶちゃん注:「守貞謾稿」は風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?)が書いた風俗・事物を解説した類書(現在で言うなら一種の百科事典)。起稿は天保八(一八三七)年、その後約三十年間に亙って書き続けた。全三十五巻(前集三十巻・後集五巻)。一六〇〇点にも及ぶ付図と詳細な解説によって近世風俗史の基本文献とされる(ここまでは主にウィキの「守貞謾稿」に拠った)。これは明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された(これ以降、守貞の事蹟は「日本歴史人物事典」に拠る)。

 喜田川守貞は本姓石原、名は庄兵衛。喜田川は北川の代字かとも言われる。大坂生まれであるが、当初も商売で江戸と頻繁に往来したと推測されている。天保八(一八三七)年には江戸深川に仮寓したと思われ、同一一年九月以降は江戸に定住し、砂糖を商う北川家を嗣いで京・大坂・江戸三都の人情風俗を比較しながら本記録をものしたらしい(その詳細な事蹟は不明である)。

 底本は岩波文庫版宇佐美英機校訂「近世風俗志(守貞謾稿)」の第一巻(一九九六年刊)及び第四巻(二〇〇一年)を用いたが、私のポリシーに則り、国立国会図書館デジタルライブラリー版の昭和九(一九三四)年更生閣書店刊「類聚近世風俗志:原名守貞謾稿」を参照して正字化して示した(当初、国立国会図書館近代デジタルライブラリー版のこれを含む三種を底本候補に考えたが、電子化した場合、岩波文庫版と比してどれも読者には読み難い感じを覚えたのでとりやめた)。

 最初の「1」とした海鼠の販売についての叙述は「卷之六 生業 下」の中に、後の「2」とした土竜打ちの記載は「卷之二十七 夏冬」(夏季及び冬季の各地の祭事・行事・風習及びそれに纏わる物品を採り上げている)の「十二月二十八日 報恩講」という見出しのある記事の後半部に現われる。]

 また大坂にては、生海鼠(なまこ)を白晝に賣らず、申刻(さるのこく)以後にのみこれを賣る。また大坂にては金海鼠を賣こと、およびこれを食すこと嚴禁なり。これ唐蘭の來舶は長崎の官市なり。かの價物には昆布を第一とし、金海鼠をもこれを用ふ。昔年、かの土に遣るに金海鼠多からず。故にこれを食すを禁ず。一時の假令永制となりて、今に至りて嚴禁たり。白晝生海鼠を賣り巡らざるもこの故なり。京・江戸は白日もこれを賣る。また金海鼠の禁なし。

 節分の夜、大坂の市民、五、六夫あるひは同製の服を着し、あるひは不同の服もこれあり。その中一人、生海鼠(いきなまこ)に細繩をつけ、地上を曳(ひ)き巡る。その餘三、四夫は各銅鑼(どら)・鉦(かね)・太鼓等を鳴らして曰く、「うごろもちは内にか、とらごどんのおんまひじや」と呼び、自家および知音の家にも往きて祝すことあり。うごろもちは、土竜(もぐら)を云ふなり。江戸にては、むぐろもちと云ふ。坂人、今夜のみ生海鼠をとらごどの、虎子殿と云ふ。傳へ云ふ、これを行ふ年は、その家土竜地を動かさず、云々。最も古風を存せり。

□やぶちゃん注

・「生海鼠(なまこ)」の「なまこ」は「海鼠」の部分のルビである。

・「申刻」午後四時頃。

・「金海鼠」これは「きんこ」と読み、ナマコの一種であるナマコ綱 Dendrochirotacea 亜綱樹手目キンコ科キンコ Cucumaria frondosa var. japonica。但し、我々が一般に見知っているマナマコStichopus japonica Aspidochirotacea 亜綱の温帯・熱帯性の種を多く含む楯手目で、亜綱レベルで異なるので注意されたい。対する北方種であるこのキンコは本川達雄他「ナマコガイドブック」(阪急コミュニケーションズ二〇〇三年刊)の「樹手目 DENDOROCHIROTIDA」の項に以下のように載る。

   《引用開始》

キンコ[キンコ科 Cucumariinae

キンコ Cucumaria frondosa var. japonica  Semper, 1868

 体長1020cm。体は概して丸く茄子形で、腹面はやや膨らみ、背面はやや扁平である。体色は灰褐色のものが多いが、黄白色から濃紫色までと色彩変異の幅が大きい。体前部には同大の大きな10本の触手がある。腹面の歩帯には不規則な2~4列の管足、背面の歩帯には2列の管足がある。腹面の間歩帯には管足はなく、背面には少しある。茨城県以北、千島、サハリンに分布。浅海の礫の間に生息する。食用種;二杯酢で生食するほか、煮て乾かして「いりこ」とする。

   《引用終了》

なお、キンコについては、私の古い電子テクストに、蘭学者芝蘭堂大槻玄澤(磐水)の文化七(一八一〇)の版行になる詳細なキンコの古記録「仙臺 きんこの記」があるので、参照されたい。

・「官市」は「くわんし(かんし)」で本来は律令制時代における官設の市場(藤原京・平城京・平安京に東西の二市が置かれて市司の管理下にあった)指すが、これは出島に於ける幕府の長崎貿易のことを特異的に指している。

・「價物」長崎では第四代将軍徳川家綱の時代、明暦元(一六五五)年から寛文一一(一六七一)年にかけて、一時的に自由貿易が許されたが、その際、主な輸入品であった生糸の代価として多量の国内の金銀が国外へ流出した。その後の一貫した管理貿易下では銅・俵物との物々交換、代物替(しろものがえ)による決済がなされたが、この代物替用の俵物の中に昆布や煎海鼠(いりこ)が含まれていた(ご想像がつくと思われるが特に対唐人貿易ではこの煎海鼠の需要が非常に高かった)。ウィキの「代物替」によれば、『これらの品は貿易用の代価とするため、全て長崎会所に納めねばならないことになっており、市民相互間の売買は一切禁止されていた。これらを僅かでも買ったり貯えたりしておくと、抜荷を企んででいるのではないかと疑われた』とあり、この制度は元禄期に固まって整備されたことから、ここで筆者が「故にこれを食すを禁ず」としたのはその頃のことと考えられる。

・「京・江戸は白日もこれを賣る。また金海鼠の禁なし」というのは、何故だろう? 特に大阪に限ってそのような禁忌(タブー)が残るのには、特殊な理由があるはずである。今のところ、思いつかぬ。識者の御教授を乞うものである。

・本条については、前の「海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載」及び注を参照されたい。

・「うごろもちは内にか、とらごどんのおんまひじや」は「土竜(うごろもち)は内にか、虎子殿(どん)の御舞ひぢや」の意であろう。「海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載」注を参照。

・「その家土竜地を動かさず」私はこの言葉にあるニュアンスを感じている。そもそもこれが地方の田畠を所有し、実際に土竜に地面を掘り返されることを忌み嫌う(前に述べたようにその実損被害はそれほど甚大なものとは思われないが)農家ではなく、圧倒的に商家の多かった大坂での行事の中で、こう言い伝える場合、これはどう考えても、庭や邸内に土竜が来なくなるなんどという話ではあるまい。私は「その家土竜地を動かさず」とは地震除けの呪(まじな)い、地震による屋敷内の損害予防の呪いとして、これが意識されていたのではなかったかと考えるのである。大方の御批判を俟つものである。

・なお、この大坂の土竜打(うごろもちう)ちについて、荒俣宏氏は「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」の「ナマコ」の「土龍打(うごろもちうち)」の項で、前に私の引いた「和漢三才図会」、次にこの「守貞満稿」から主旨の現代語訳引用をされた後に、大田(おおた)才次郎編「日本児童遊戯集」(明治三四(一九〇一)年刊)から、主旨引用して、この守貞の記した大阪の節分の奇習は『明治になっても続けられ、節分の夜になると、小学生の男子が石油の空缶を打ちならしながら、「ナマコ殿の御見舞じや、おごろもちゃ逃げさんせ」という唄をうたい、あちこちを練りまわった』と近代の様子を記しておられる。流石に最早、現在ではこの風習(少なくとも実物のナマコを用いてのそれ)は残存していないようである。]

■やぶちゃん現代語訳

 また、大阪に於いては、活海鼠(いきなまこ)を昼間に売らず、やっと申のを過ぎる頃になってから、やおら棒振(ぼてぶ)りが海鼠を担ぎ出して売り始める。
 また、大阪に於いては、金海鼠(きんこ)を売ること、及びこれを食用とすることを厳しい禁忌としている。 これは何故かというに、少々説明が必要である。
 まず、中国やオランダの舶来品の売買は、これ、現下、長崎でのお上のお取引に限られている。
 かの輸入品の代価には代物替のお取決めによって、俵物が使われるが、そこでは昆布を一番の代物として汎用し、さらに、この金海鼠という特別な海鼠を乾したものをも用いる。
 ところが、かつて出島での貿易がお上の差配によって行われた当初の頃は、かの大陸や南蛮に代物として遣わすに、この金海鼠、必ずしも多くは採れなかった。
 そのため、この金海鼠を食用として食すことを厳しく禁じていた。
 今では、代物替の内容も豊富となり、そんなことはなくなったのであるが、一時の仮の厳禁のお触れが永く庶民を制する慣習となって、今に至っても売り買いするも食することも相変わらず厳禁とされているのである。
 昼間に如何にも似たような形の海鼠を売り歩かぬというのも、こういう訳なのである。
 但し、京都・江戸にては、昼間も普通にこれを打っている。また、金海鼠の売買摂食の禁というものも全くない。

 節分の夜、大坂の市井の民草は、四~六人で一隊となり、時には同じ印半纏の如きものを着(ちゃく)し――場合によっては別に不揃いの服のこともある――、その中の一人が、活海鼠(いきなまこ)に細い繩の先に縛り付け、地面の上を曳きずって町内を巡る。
 残りの三~五人の者は各々、銅鑼(どら)・鉦(かね)・太鼓なんどを鳴らしながら、
「♪うごろもちは内におるか♪ ♪虎子殿(とらごどん)の御舞(おんま)いじゃ♪」
と唄を歌い、自分の家から昔馴染みの知人の家にまで練り歩いて行っては言祝ぎをするという風習がある。
 この「うごろもち」とは土竜(もぐら)のことを言うのである。江戸に於いては「むぐろもち」と言うておる。
 大阪人は、今夜に限って、活海鼠(いきなまこ)のことを「とらごどの」「虎子殿」と言うのである。
 伝承によれば、
『これをちゃんと行なった年には、その言祝ぎを受けた家の屋敷内にては、土竜は地を動(ゆるが)すことはない。』
と言い伝えておるとのこと。
 実に最も古風の風習を保存している好例である。

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 一

■原稿5

      二

[やぶちゃん注:

●1行目6字下げ。実は「■原稿15」の次の章は「三」と書いたものを「二」に訂している。芥川は当初「序」を一章分と数えてナンバーを打ち始めたが、「二」章の途中か最後でその違和感(「一」がなくなる)に気づき、章番号を訂したものと思われる(「三」は正しく「三」であることからそう言える)。従ってここは校正漏れとなる。但し、『改造』初出では正しく「一」となっている。以下、本文は2行目から。]

 二三年前の夏のことです。僕は人並みにリ

ユツク・サツクを背負ひ、あの上髙地(かみかうち)の温泉宿

から〈※〉**高山(ほたかやま)へ登らうとしました。〈※〉**高山へ登

るのには御承知の通り梓川を溯る外はありま

せん。僕は前に〈※〉**高山は勿論、槍ケ岳にも登

つてゐましたから、〈案内者もつれずにたつた

一人、〉**朝霧の下りた梓川の〈岸〉**を案内**者もつれずに登つて行きました。朝霧の

下りた梓川の〈岸〉**を―――しかし〈朝?〉**の霧はいつ

までたつても晴れる〈景〉**色(けしき)は見えません。のみ

[やぶちゃん注:「※」は「禾」(へん)に、(つくり)は高い確率で「方」である。無論、こんな漢字はない。]

■原稿6

ならず反つて深くなるのです。僕は一時間ば

かり歩いた後、〈一そ→ちよつともう一度〉*一度(ど)は*上髙地(かみかうち)〔の温泉宿〕へ引き返

すことにしようかと思ひました。〈しかし〉*けれど*も上

高地(かみかうち)へ引き返すにしても、兎に角霧の晴れる

のを待つた上にしなければなりません。と云

つて霧は一刻毎にずんずん深くなるばかりな

のです。〈僕は〉「ええ、一そ登つてしまへ。」―――

僕はかう考へましたから、梓川の〈岸〉**を離れな

いやうに熊笹の中を分けて行きました。

 〈僕がせつせと歩んいてゐるのは毛生欅(ぶな)や樅(もみ)〉

[やぶちゃん注:

●「二三年前の夏」この冒頭は何故か、初出では「三年前の夏」になっている。現行の「河童」は総てこの全集に倣っているから、総て「三年前の夏」であるが、私は原稿通り、「二三年前の夏」とするのが正しい「河童」である、と思うのである。既にしてこの主人公の中では、現実の人間界の時間は有意性を持たないことの証左となるからである。この私の見解には大方の御批判を俟つものであるが、私は「河童」をそのようなものとして読み続けてきたのである。

●最後の「の」には抹消線は伸びていない。抹消洩れである。決定稿では無論、存在しない。]

■原稿7

 しかし僕の目を遮るものはやはり深い霧ば

かりです。尤も時々霧の中から太い毛生欅(ぶな)や

樅(もみ)の枝(えだ)が靑(あを)あをと〈枝〉**を垂らしたのも見えなか

つた訣ではありません。それから又放牧(ほうぼく)の馬

や牛も突然僕の前へ顏を出しました。けれど

もそれ等(ら)は見えたと思ふと、忽ち又濛々とし

た霧の中(なか)に隱れてしまふのです。そのうちに

〈足〉**もくたびれて來れば、腹(はら)もだんだん減(へ)りは

じめる、―――おまけに霧に濡(ぬ)れ透(とほ)つた登山服

〈マント〉*毛布*なども並み大抵の重さではありませ

[やぶちゃん注:既にしばしば見られた現象だが、やや崩れた「足」(特に五・六画目を略している感じ。それでも判読出来ないことはない)を再度正確な画数で「足」と書き直している。芥川は書いた字の形が気に入らないと書き直す癖がある。妙な律儀さとも見られるのだが、しかし後文を見ると、まさにそのひどい崩し方の「足」を平気で用いている箇所も散見されること、どうみても非常に綺麗な同字を消してまた繰り返している箇所も多いことからは、実はこれは――字が気に入らないから――ではなく――芥川の推敲の立ち止まり――を示している――と、とるのが正しいようにも思われるのである。]

■原稿8

ん。僕はとうとう我(が)を折りましたから、岩に

せかれてゐる水の音を便りに梓川の谷へ下り

ることにしました。

 僕は水ぎはの岩に腰かけ、とりあへず食事

にとりかかりました。コオンド・ビイフの罐を

切つたり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――

―そんなことをしてゐるうちに彼是十分はた

つたでせう。〈すると〉*その間(あひだ)*にどこまでも意地の惡い霧

はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕は

パンを嚙ぢりながら、ちよつと腕時計を覗い

■原稿9

て見ました。時刻はもう一時二十分過〈ぎ〉**

す。が、それよりも驚いたのは何か氣味の惡

い顏が一つ、圓い腕時計の硝子の上へちらり

と影を落したことです。僕は驚いてふり返り

ました。すると、―――僕が河童と云ふものを

見たのは實にこの時が始めてだつた■■ので

す。僕の後ろにある〈崖〉**の上には画にある通り

の河童が一匹、片手は白樺の幹を抱(かか)へ、片手

は目の上にかざした〈まま〉*なり*、珍らしさうに僕を

見おろしてゐました。

[やぶちゃん注:「■■」は抹消線を用いず、ぐりぐりと字を潰している。小さいので平仮名と考えられる。拡大してみると、「から」と書かれているようにも見える。

●この原稿の右下の手書き鉛筆の通し番号のすぐ右上(原稿の殆んど右端)には、ゴム印と思われる編集者(?)の人名ゴム印の一部(?)かとも思われる、

 

のやや斜めになったと朱判がある。]

■原稿10

 僕は呆つ気にとられたまま、暫くは身動き

もしずにゐました。〈河→しかし河童〉*河童もやは*り驚いたと見

え、目の上の手さへ動かしません。そのうち

に僕は飛び立つが早いか、〈崖〉**の上の河童へ躍

りかかりました。〈河童も〉*同時に*〈河〉**童も逃げ出し

ました。いや、恐らくは逃げ出したの〈で〉**

う。実はひらりと身(み)を反(かへ)したと思ふと、忽ち

どこかへ消えてしまつたのです。僕は愈驚き

ながら、熊笹の中を見まはしました。すると

河童は〈二〉逃げ腰をしたなり、二〔三〕メエトル〈はかり〉*隔つた*

[やぶちゃん注:

●最終行「はかり」はママ。]

■原稿11

向うに僕を振り返つて見てゐるのです。それ

は不思議でも何でもありません。しかし僕に

意外だつたのは河童の体(からだ)の色のことです。〈河

童は〉*岩の上*に僕を見てゐた河童は一面に灰色を帶び

てゐました。けれども今は体中(からだぢう)すつか〈り〉**綠(みどり)い

ろに變つてゐるのです。僕は「畜生!」とおほ声

を挙げ、もう一度河童へ飛びかかりま〔し〕た。河

童が逃げ出したのは勿論です。〈■〉それから僕〈等〉

は三十分ばかり、熊笹を〈探して〉*突きぬ*け、〈毛生〉*岩を*飛び

越え、遮二無二河童を追ひつづけました。

[やぶちゃん注:

●「すつか〈り〉り」の「り」の抹消再記は、「り」の右部分がインクがかすれて出なかったことによると推定される。

●「〈探して〉突きぬけ」の訂正は複雑である。まず「探して」と書いたものを、「探し」を抹消して右に「突き」と直し、「て」を単独にぐるぐると潰して左に「ぬ」として以下「け、」と続く。これはここで芥川龍之介が書き淀み、まず「突き」と直した後にまた、考え込んで、「ぬけ、」続けたことを示している。彼の一語一句の産みの苦しみが分かる部分である。その結滞は、直下で「長生欅」(ぶな)と書こうとしてやめて、「岩を飛び越え」と続けていることからも分かる。このさりげない対句表現を生み出すのにも、これだけの苦労が芥川にはあったという事実は、凡庸な私などにはすこぶる新鮮な驚きなのである。]

■原稿12

 河童も亦足の早いことは決して猿(さる)などに劣

りません。僕は〈何度も〉*夢中に*なつて追ひかける間(あひだ)に

何度もその姿を見失はうとしました。のみな

らず足を辷らして轉がつたことも度た〈び〉**

す。が、大きい椽(とち)の木が一本、太(ふと)ぶとと枝を

張つた下(した)へ來ると、幸ひにも放牧(ほうぼく)の牛〈か〉**

匹、河童の往(ゆ)く先(さき)へ立ち塞がりました。しか

〈も〉**それは角の太(ふと)い、目を血走らせた牡(を)牛なの

です。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を

擧げながら、〈熊笹〉*一き*は髙い熊笹の中へもんどり

[やぶちゃん注:

●「椽」はママ。初出は「橡」である。校正者によって直されたものであろう。芥川はこの「椽」という字を好んで「緣側」の「緣」の代わりに用いる(これは慣用として他の作家でも見られる)。「橡」と書いたつもりの誤字と推測される。

●「〈熊笹〉」の「笹」の字は七画目まで書いて抹消している。]

■原稿13

を打つやうに飛び〈こみ〉*こみ*ました。僕は、―――僕

も「しめた」と思ひましたから、いきなりそのあ

とへ追ひすがりました。するとそこには僕の

知らない穴でもあいてゐたので〈あ〉**う。僕は滑

かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思

ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに轉げ落

ちました。が、我々人間の心はかう云ふ〈急〉**

一髮の際にも途方もないことを考へるもので

す。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上髙地(かみかうち)の温泉

宿の側(そば)に「河童橋」と云ふ橋があるのを思ひ出し

[やぶちゃん注:

●一行目「飛びこみ」の平仮名はママ。ところが初出は「込み」で、現行の「河童」は総て「込み」と漢字表記になっている。つまらないことではあるが、芥川が書き淀んでいるところでもあり、特に指摘しておきたい。下らぬ拘り――であろうか?――因みに、「河童」ではその他の部分で「込む」という動詞に漢字は一箇所も使われていないのである。私はこの現行流布の「河童」の、――ここの「込み」は「こむ」と『訂正』されねばならない――と考えているのである。大方の御批判を俟つ。
●「河童橋」及びその後の「と云ふ橋」の「橋」は、原稿では「木」(へん)に「髙」(つくり)、の所謂「はしごだか」であるが、本ニフティのブログでは当該ユニコード表示が不可能であるため、ここでは「橋」としてある。]

■原稿14

た。それから、―――それから先(さき)のことは覚え

てゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たもの

を感じたぎり、いつ〈か〉**間にか正気を失つてゐ

ました。

[やぶちゃん注:

●前の原稿からの続きの部分である「思ひ出した。」はママ。初出もこうなっているが、岩波の最初の全集(一般に「元版全集」と呼ぶ)の編纂時に「思ひ出しました。」と変えられた。これは岩波版旧全集(一九七八年刊)でも同じであるが、この改変は実は、現在、日本近代文学館が所蔵する芥川龍之介自身による初出『改造』書き入れにも拠っているので、問題のない正当にして正統な改訂である。

●以下、6行空白。]

思想と肉情 萩原朔太郎

思想と肉情  だれでも自分の「思ひ」を聞いてくれる人がなく、またこつちから話しかけるほどの人も居ない時、つまりが孤獨でゐて感情のはけ口を失つてゐる時、我等は思想の過剩に苦しんでくる。あの配偶者をもたない獨身者が、いつも肉慾の過剩に惱んでゐるやうに。

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第一放射線」より。「10」のナンバーを持つ。下線「はけ口」は底本では傍点「ヽ」。――なるへそ!――デユシャンの“La Mariée mise à nu par ses célibataires, même”(彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも)とは思想の過剰であったか!!!――]

僧衣の犬 大手拓次

 僧衣の犬

くちぶえのとほざかる森のなかから、
はなすぢのとほつた
ひたひにしわのある犬が
のつそりとあるいてきた。
犬は人間の年寄(としより)のやうに眼をしめらせて、
ながい舌をぬるぬるとして物語つた。
この犬は、
その身にゆつくりとしたねずみいろの僧衣(そうい)をつけてゐた。
犬がながい舌をだして話しかけるとき、
ゆるやかな僧衣(そうい)のすそは閑子鳥(かんこどり)のはねのやうにぱたぱたした。
あかい あかい 火(ひ)のやうな空のわらひ顏、
僧衣(そうい)の犬はひとこゑもほえないで默(だま)つてゐた。

鬼城句集 夏之部 霍亂

 
霍亂    霍亂や里に一人の盲者醫者
 
[やぶちゃん注:「霍亂」は漢方で日射病を指す。また、広く、夏に発症し易い、激しい吐き気や下痢などを伴う急性の病態をも言ったことから、夏の季語となった。]

2013/06/09

耳嚢 巻之七 溺死の者を助る奇藥の事

 溺死の者を助る奇藥の事

 栗原翁の先人旅行の筋、天流川の河端に溺死の者有(あり)し由にて立騷ぐ故、其所へ至りてみれば、大の男絶死の樣子故、不便の事ととりどり囁やきける所へ、所の老人來り、其邊の畑に有しねぎを以て鼻の中をつきて見けるに、是は助(たすか)るべし迚、何歟(なにか)黑燒を口へつき込しに、水を吐(はき)て息出し故助(たすかり)しとなん。是栗原子見て、右老人を其泊りの旅宿へ招き、右の藥の法を乞(こひ)しに、始はいなみけるが、下﨟(げらう)故(ゆへ)流石(さすが)金三兩與へければ傳授しけると也。其藥用(もちゐる)事、葱にて鼻の中を宜(よく)見て、其先に血付候て右藥を用ゆべし。若(もし)血出ざれば用ひて益なしと彼(かの)老人語りしと也。右藥を今の栗原子貯へ居(をり)しに、門前を大の男水死して口抔明(あけ)、絶命と見へしと、兩人にて荷ひ、母と見へて女跡より泣(なき)ながら來るを見て、立添ふ者に知人有(ある)ゆへ聲をかけて尋(たづね)ければ、水泳して溺死せし由、早速呼入(よびいれ)て右の法に療治ければ、葱の先に血付ければ彼藥を與へければ息出しとて追々(おひおひ)の知らせにて、翌日は厚禮をなして、一族來り謝しけると也。右法を切に需(もとめ)ければ、左の通(とおり)別記なり。〔是は追寫すよし。原本に不見(みえず)。〕

□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法第三弾。二つ前から栗原翁の直談でも連関。それにしても旅先でぽんと三両出すところなど、軍書読みの栗原翁の父というこの人物、これ相応に裕福な者であったものと思われる。これを読んで思い出したのは、上野正彦「死体は語る」(一九八九年時事通信刊)にあった「耳の奥の頭蓋底の部分に、中耳や内耳をとり囲む錐体という骨があり、溺死の際にその骨の中に出血が生じていることがわかった。錐体内出血である。溺死の五~六割に見られる特有の所見」という記載である。但し、これは例えば鼻から水が入った場合に耳管の反応が間に合わず、耳管から中耳に水が入ってしまい、入った水によって中耳内圧力が急激に上がって壁が押しつぶされて内出血を起こし、その出血によって平衡を掌る三半規管が機能低下を生じて眩暈等を起こし、溺れてしまうという因果関係の中での出血である(但し、錐体内出血は必ずしも溺死体特有のものではない)。
・「天流川」天竜川で採って訳した。
・「是は追寫すよし。原本に不見(みえず)」以下、記載なし。岩波版長谷川氏注にも、『底本別記なし。集成本にもなし』とある。これは「耳嚢」の書写担当者の添書きであろう。根岸は後から書き写して貼付するつもりであったのをし忘れたもの、と解釈しておく。

■やぶちゃん現代語訳

 溺死の者を助くる奇薬の事

 栗原翁の父君(ふくん)がかつて旅行の途次、天竜川の川端にて、溺死者が出た由にて立ち騒いで御座ったゆえ、そこへ行ってみると、これ、大の男が既に息絶えた様子で横たわっておったによって、野次馬連中も三々五々、可哀そうになんどと囁やき合って御座った所へ、在の老人がやって参り、その辺りの畑に植えてあった葱を引き抜いて、それを以って鼻の中を突き、何かを調べたかと思うと、
「――これは助るであろう。」
と申し、何かの黒焼きを口へ突っ込んだところ、水を吐いて息を吹き返したゆえ、助かった。
 これを栗原殿、見て、その老人を自身がお泊りになっておられた旅宿へと招き、その薬の製法を乞うた。
 始めは断ったものの、身分賤しき者でござったゆえ、流石に金三両をその老人の前に並べたところが、伝授し呉れた、とのことで御座った。
「……この薬を用いる際には、葱を以って溺れて意識を喪(うしの)うておる者の、鼻の中へと差し入れ、それを引き出だいて、よくよく調べて見――その葱の先に血が付いて御座った時のみ――この薬を用いるのがよう御座る。もし血が出でておらねば、最早、これを用いても効果は御座らぬ。――土左衛門――で御座る。」
と、その老人は語ったとのことで御座った。
 この薬を現在の子の栗原氏も貯えておらるる由。
 そんなある日のこと、その今の栗原氏の屋敷門前を、大の男の水死せしとて、口なんども力なく大きに開けて、最早、絶命と見ゆるのを、二人して担ぎ、母親と思しい女、その後より泣きながら来たるを、栗原翁たまたま見たところが、その母らしい人に付き添って御座った者の中に、知り人の御座ったによって、
「如何致いた?」
と声をかけて尋ねたところが、
「……水泳の最中に……溺死致いて……」
との由なれば、早速に屋敷内へと呼び入れ、かの法にて療治致いたところ、ぐっと差し入れた葱の先には、確かにこれ、血の付いて御座ったゆえ、かの家伝の薬を与えて、帰した。
 しばらく致いた頃、
「息を吹き返しまして御座る!」
とのこと。次第に快方に向かっておるとの度々の知らせをも受け、翌日には厚き礼を携えて、一族郎党、栗原翁の元へ参じて、拝謝致いたとのことで御座った。
 その施法を私も切(せち)に求めたところ、栗原翁の教えて呉れたは、左に記す通り。別に仔細の診断・施術・処方の記も御座る。〔書写担当者注:これは「追って引き写す」という意味であろう。しかしながら、筆写した「耳嚢」の原本には一切、見当らなかった。〕

芥川龍之介「河童」決定稿原稿電子化プロジェクト始動 /「河童」序 《20130611リロード》

芥川龍之介「河童」決定稿原稿を電子化する 藪野直史

 

[やぶちゃん注:私は既に2010年12月に昭和2(1927)年3月発行の『改造』に発表された「河童 附草稿及び『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』の電子化を行っているが、今回は国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿(和装。末尾に永見徳太郎筆になる「河童原稿縁起記」一枚を貼付)を独自に視認した電子化テクストを試みる(そこでは芥川龍之介の書き癖なども可能な限り再現するつもりである)。

 判読に際しては、既に『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』にも主要部分を注記引用した岩波書店刊一九七八年刊「芥川龍之介全集 第八巻」の後記に示された異同を一部参考にしたが、あくまで私の視認を第一則とした。同校異に疑義のある場合は逐一補注してある。なお、岩波版の校異は底本とした『改造』初出との異同に限られたものである。例えば、今回最初に手掛けた「序」の削除部分などは、無論、載っていない。

 

 使用原稿は松屋製の20×20=200字詰原稿用紙。25㎝×17.5㎝(底本画像下のスケールで確認)。罫の色はやや明るいロイヤル・ブルー。右下罫外に、

 (SM印  B…1)  10…20

という規格表示があり、左罫外下方に、

 松屋製

と同じ色で印刷されている。因みに、この原稿用紙は芥川龍之介の遺書に用いられたものと同一である。

 各原稿の左罫外の上方に原稿の通し番号(既成アラビア数字の判印)が打たれているが、位置は一定していない(例えば「1」は左罫外の上から4マス目左辺り、「2」は1マスマス目左辺り、「4」は原稿用紙の左罫外上の罫の上方)。なお、この数字を電子化では冒頭に「■原稿1」という風に示すこととする。なお、これと同じ数字が対角線の位置、右罫外下方に外に類を見ない普通の鉛筆による手書きで加えられている。

 更にこの数字の左横若しくは上辺りに、青スタンプで小さく

 改造よ印

とある(この位置も一定しない)。「よ印」の意味は不明。

 以上は、どの原稿にも共通するので、原則として注記しない。

 

 以下、凡例を示す。

一、底本とした画像と照応し易くするため、原稿の1行20字を原則とした。芥川が原稿に書き入れている読みはブログ版では( )で示した。なお、芥川は鍵括弧や丸括弧を1マスとらない癖があったりするため、訂正のない箇所でも単純に20字に一致はしない。

二、漢字のうち、明らかに現在の新字と全く同様と判断したもののみ、新字で示した。迷うものは総て正字で示した。従って現在知られる「河童」の校訂本文とは異なる箇所がある(例えば、芥川は「號」は明確に「号」と書いている)。

三、〈 〉は抹消を示す。

 抹消が数行に続いてなされていると判断される場合は、その初めから最後までを〈 〉で括った。

二、〈 〉の抹消部の中でも、部分的に先立って推敲抹消された箇所は《 》で括った。

三、〈 → 〉は、ある語句の明らかな書き換えが、ともに末梢されたことを示す。

四、ある語句を消去して書き換え、それが決定稿の生きている部分に繋がっている場合、その書き換えた生きている「吹き出しで加えられた推敲の新しいパート」(若しくは削除部の代わりに書かれたと判断される続く本文パート)については、それがなるべく分かるように、その語句を「*」で挟んだ。それが入れ子構造になってしまう場合には、「**」のようにアスタリスクを増やしたもので対応させて挟んで区別した。これは、箇所によっては判断が難しかったので、その範囲について疑義があられる場合は、必ず原本画像を確認されるようお願いする。

五、〔 〕は後から欄外に挿入されたものを示す。

六、判読不能の抹消字は「■」で示した。識者の御教授を乞うものである。

七、私が判読に迷ったものは「?」を附し、判読出来なかった字は抹消字でない場合(無論、活字となっている決定本文ではなく、抹消その他書き入れの判読を指している)は「□」で示した。これも切に識者の御教授を乞うものである。

八、以上の抹消その他の方法に特異な点がある箇所は、なるべく原稿画像を見なくても分るようにその状態を注で解説した。

九、原稿には種々の校正による書き入れや各種指示があるが、これについては可能な限り、当該箇所と書き入れ指示内容を適当と思われる位置に注で示した。

十、注の後は一行空けた。その他にブラウザ上での見易さで行空けした箇所については、注で指示した。

 

 但し、国立国会図書館の蔵書印等は再現していない。因みに「1」にあるそれは、3~4行目欄外から2マス目にかけて、

 方形朱印の『國立國會圖書冠舘藏書』という蔵書印

及び、原稿内右下端1~2行目の19~20マス目に、

 丸型上部に『国立国会』

 中段に『26.3.12』の年月日

 『図書館』とある青い受入印

が打たれている。これは末尾の永見徳太郎「河童原稿縁起記」のクレジットが「昭和二六年春の花咲く頃」とあることからも、

 昭和二六(一九五一)年三月十二日受入

を指すものと考えてよい。

 

 孤独な作業である。牛歩はお許しあれ。

 細かな注で文章が分断されるため、最終的には別に、煩瑣な神経症的注を除去した読み易い通読閲覧用原稿準拠版も供したいと考えている。【作業開始:2013年6月9日】]

 

芥川龍之介「河童」決定稿原稿

 

■原稿1

 

  河  童

   どうか Kappa と發音して下さい。

          芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:以下、周辺部の校正記載を示す。

●右罫外1マス目と同位置から赤インクで、

 總八ポ二段廿一行 ルビツキ

とあり、罫外上部右角に同じく赤インクで、

 

とあり(表記通り、鍵括弧状の記号が左下にある)、その左に大きく、右から左に向かって赤インクで、

 カット

とあり、その左には「」の赤印、その左に「黒屋」という校正者と思しい人物の朱の捺印がある。この「カット」は左右下を箱型に赤インクで囲まれており、上部はこの箱型の赤い左右をスラーのように繋げてその上にブルー(青鉛筆と思われる)で左右に線を引き、その上に右から左に、

 三寸五分

と書き、同じく箱型の右外に、

 二寸二分

また、箱型の左外上方に

 よ印

とある(三つともすべて青鉛筆手書き)。

また、左上方20行目真上罫外から左罫外に赤インクで、

 □で

二通

とある(□は判読出来なかった)。

この「望」はカット希望の意味なのかどうかは不明。「よ印」の意味は不明。校正に詳しい方の御教授を乞う。

●「河童」二字下げ行間。字はほぼ行間を含む2行分の4マスを1スペースとしてやや左寄りに大きく書かれている。「童」の字の上部は「立」ではなく、「大」で。「﨑」と「崎」の(つくり)の上部の違いと同様の書き癖で、本文でも拡大して見ると「大」としていることが分かる。左に赤インクで

 ――一――

のポイント指示(校正の決まり。縦書原稿でアラビア数字で「1」と書くと範囲表示のダッシュと判別がつかなくなるため)。

●「どうか Kappa と發音して下さい。」は5字下げ。「Kappa」は3マスに筆記体風(但し、“K”はイタリックで、二つの“p”の間が切れている)で、表記のように前後に半角ほどの余裕を入れて記す。右に、赤インクで、

 ――4――

のポイント指示。これは但し、一回目「4」として抹消、右に「3」として再び抹消して、さらに右に再び「4」とポイントとしてある。

●「芥川龍之介」は11字下げ。右に、

 ――4――

のポイント指示。これは但し、一回目「4」として抹消して「3」としてある。]

 

       序

 

[やぶちゃん注:「序」の字は5行目5字下げ。以下の本文は6行目から始まる。]

 

 これは或精神病院の患者、―――㐧二十三号

が誰にでもしやべる話である。彼はもう三十

を越してゐるであらう。が、一見した所は如

〈何にも若々しい狂人である。《彼の→僕は》彼と向《ひ》かひ

合ったまま、愉快に《夏→夏→初冬》の半日を暮ら〔し〕た。  〉

■原稿2

何にも若々しい狂人である。彼の半生の經驗

は、―――いや、そんなことはどうでも〔善〕い。

〈僕〉**ぢつと兩膝をかかへ、時々窓の外へ目を

やりながら、(鐵格子をはめた窓の外には枯れ

葉さへ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に

枝を張つてゐた。)院長のS博士や僕を相手に

長々とこの話をしやべりつづけた。尤も身ぶ

りはしなかつた訣ではない。彼はたとへば「驚

いた」と言ふ時には急に顏をのけ反らせたりし

た。………

[やぶちゃん注:

●芥川は原稿ではダッシュやリーダは概ね3マス「―――」・「………」で用いている。リーダの数は必ずしも一定せず、例えばこの最後のものは13点リーダであるが、「■原稿43」に現われるものは3マス10点リーダである(以下、リーダ数の変化までは述べず、リーダはマス数のみ一致させ、1マスのリーダ数は原稿に関係なく3点リーダとする)。

●多量の抹消部(原稿は波線)を確認出来る。「■原稿1」末の行は残った2マスにも抹消が及んでいることから、当初はここ改行しようとした可能性がすこぶる高いものと考えられる。ところが、ここまで書いてみて、後半が気に入らなくなった。そこで削除が入ったのだが、この削除方法から、また、芥川の極めて緻密な、ある意味ではすこぶる節約的な推敲方法が見えてくるのである。彼は三行目末から始まる「如何にも」の「如」を残して、「■原稿2」の書き出し「何にも……」と絶妙に繋げて訂している点に着目されたい。彼は書き出した冒頭の勢いを大事にしたのであろう、原稿を反故にせずに、かくしているのである。恐らく私を含めて殆どの人は、まず廃棄して全部書き直すであろう。このまま書き直す場合でも、推敲直後に「如」を残して2枚目に繫げるという判断は普通はなかなか出来ない。なぜなら通常人の推敲は――気に入らない部分を思わず先に抹消してしまうことから始めてしまう――からである。芥川は(少なくともここでは)不服な後半を凝っと見つめながら、頭の中で推敲し出来上がった段階で、抹消し、書き入れている点に気づいて戴きたいのである。また、この抹消部は「夏」「夏」「初冬」とエピローグの風景に腐心した跡が見える。決定稿は季節を言わず、直ぐ後の「鐵格子をはめた窓の外には枯れ葉さへ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張つてゐた」として美事な荒涼感を演出した。抹消部のような形で夏、しかも「愉快に夏の半日を暮らした」という話者の何となく悪意に満ちた皮肉が示されていたとしたら、読者の、不思議な主人公(河童国へ行った主人公)へのシンパサイズは、私は著しく低減させられていまい、イントロダクションとしては失敗していただろうと思うのである。

●最後のリーダの2文字には書きかけて消した跡がある。これは彼の癖からいって、改行せず文章を続けようとしたことが明白である。抹消した字は判読出来ないが明らかに次の「■原稿3」段落冒頭の「僕」の字では、ない。]

■原稿3

 僕はかう云ふ彼の話を可〈也■〉*なり*正確に寫した

つもりである。若し又誰か僕の筆記に飽き足

りない人があるとすれば、東京市外××村の

S精神病院を尋ねて見るが善い。年よりも若

い㐧二十三号はまづ丁寧に頭〈を〉**下げ、〈木製の〉*蒲團の*ない

椅子を指さすであらう。それから憂欝な微笑

を浮かべ、〈靜〉**かにこの話を繰り返すで〈■〉あら

う。最後に、―――僕は〈最後に〉*この話*を終つた時の彼

の顏色を覺えてゐる。彼は最後に身を起すが

早いか、忽ち拳骨をふりまはしながら、誰〈に〉**

■原稿4

でもかう怒鳴りつけるで〈せ?〉**らう。―――「出て行

け! この惡黨めが〔!〕。 貴樣も莫迦な、嫉妬深

い、猥褻な、圖々しい、うぬ惚れきった、〈險→隱險?〉**

〈險〉**な、蟲の善い動物なんだらう。出て行

! この惡黨めが!」

[やぶちゃん注:

●「隱險」の字は一字が重なったように圧縮されており、私の判読には疑義を持たれる向きも多いかも知れない。芥川がこの『陰険で残酷な人間全般』の形容部に拘ったことが窺われる。

●以下、5行空白。]

栂尾明恵上人伝記 37 善知識の邊を離れて、片陰に閑眠せんと云ふ心の付きたらば、大魔王の心中に依託せりと知りて、僅に一念も萌さば、敵を去るが如く拂ひ除くべし

 又五門禪要幷に達磨多羅禪經(だるまたらぜんぎやう)等を開き、禪法要解一部自筆を以て書寫して、是を開き見給ひて心を養ひ給ひけり。笠置の解脱上人此の事を聞き給ひて、我佛法に於いて其の至要を探るに、我が安立(あんりう)する處に遙かに以て府合せりとて泪(なみだ)を流し給ひけり。

 又圓覺經三觀二十五輪の方軌に依りて圓覺性を觀ずるに、其の好相(かうさう)を得る事あり。或は華嚴の六地・十二因緣・唯識唯心幷に三無差別の妙理・法界緣起の圓觀に於て行を立て營み給ふ。又入解脱門義一部二卷之を草す。

 同三年〔辛巳〕秋の比、後高倉の法皇の院宣に依りて、又賀茂の佛光山に移住し、華嚴信種義(けごんしんしゆうぎ)一卷之を撰び、即ち信光(しんくわう)の表相(へうさう)を顯はし、一乘圓信(ゑんしん)の行を立つ。

 貞應元年〔壬午〕夏の比、善知識供(ぜんちしきく)を始行(しぎやう)し給ふ。生々世々善知識知遇(しやうじやうせゝぜんちしきちぐう)の勝業(しようごふ)の爲、且は衆生をして知識の緣を結ばしめんが爲に、上人自ら祭文を草し、其の式を定め行ひ、終に高山寺の恆例の勤めとなる。
                   
 上人常に語り給ふ、病者は醫師の傍(そば)にて益あるべし。學道の人は善知識の邊(ほとり)に居せずは成し難かるべし。誠に深切の志を立て行道を勵むべくば、眞正の知識の爲に、頭目髓腦(づもくずいなう)をも惜しまず、麁食薄衣(そじきはくえ)を忍び閑寂冷然にこらへ、交衆の悤誼(そうけん)をも猒(いと)はず、恥辱煩惱を事とせず、只久長(きうちやう)の志を提(さ)げて、今日極めずは明日、今月悟らずは來月、今年相應せずは明年、今生(こんじやう)に證せずば來生(らいしやう)と、深く退屈せず、火を鑽(き)るが如くすべし。未だ煖氣(だんき)遲きに依りて退屈せざれ、既に煙を得て足りぬと思ひて緩(たゆ)む事なかれ。直(ぢき)に火を揉み出しても、是を炭薪(たんしん)に燒き付けずばあるべからず。都(すべ)て火を揉みそめしより、火を得て物に應じ樣々の用に至るまで、徒に過ごす時節有るべからず。若し暫くも間斷(けんだん)あらば、勞して功成り難し。されば眞正の善知識によらずば、西に行くと思ひて東に歩み、北を指すと思ひて南に向ふ誤り有るべし。虛空の面(めん)に方角の銘なし。何を以てか證とせん。されば獨り山中に嘯(うそぶ)くと雖も、老狐(らうこ)の塚に眠るに何ぞ異ならん。末世末法の拙(つたな)き比(ころ)なりと雖も、流石(さすが)正知識(しやうちしき)門下には尋ね來り訪ひ去る人繁く、肩を並べ膝をつめて喧(さはが)しき習ひなり。さるにつけてはうるさき事も多く、むつかしき節も少なからず。或は恥ぢがましき事も有り、或は腹の立たるゝ便(たより)もあり、或は軌矩(きく)のきびしき所もあり、或は惡衆(あくしゆう)の交る難(なん)もあり。然れども大事の前に小事なし。實に此の生死一大事の爲、又は限りなき佛恩を報ぜんが爲に、志を起し願を立て、既に釋門に入れり。更に目に懸(か)くべからず。金を取る者は人を見ざる諺(ことわざ)あり。げに志深くばかゝる小事共の心に懸かる事は更に有あるまじきなり。唯半信半不信にして無道心なるが故なり。さればかゝる事を猒ひて善知識の邊を離れて、片陰(かたかげ)に閑眠(かんみん)せんと云ふ心の付きたらば、大魔王の心中に依託(えたく)せりと知りて、僅に一念も萌(きざ)さば、敵を去るが如く拂ひ除くべし。拙きかな、受け難き人身(にんしん)を受けて、聞き難き教法を聞き、遇ひ難き善知識にあへり。然るに只(たゞ)身の安からん事をのみ求め、適(たまたま)家を出づと雖も、道を專らにすることなし。一度人身を失ひては万劫を經(ふ)とも歸らず、是如來の誠言なり。豈疑ふことあらんや。日々に志を勵まし、時々に鞭をすゝめて、大願を立て、善知識の足下(そつげ)に頭をつかへて、身命を惜しまずして道行(だうぎやう)を勵ますべし。
[やぶちゃん注:「誠に深切の志を立て」底本「に」の部分空白。諸本で補った。
「悤誼」冷ややかで思いやりがないさま。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 14

 建長寺を西に進めば民家軒を並ぶる山の内である。約二丁餘にして左に登るべき小坂路(せうはんろ)がある。此を登れば龜ケ谷(やつ)坂で、要山香風園は此上にある。尚ほ歩を進めて漸次降れば温泉米新亭及養氣園がある。龜谷坂上り口の角建長寺總門より丁餘の手前に臨濟宗關東十別の第一長壽寺がある。足利尊氏の建立に係り往時は頗る大寺であつたそうだ。西の山際には尊氏の塔がある。長壽寺を出でゝ西に進めば右方に廣漠たる小丘の畠を見るであらう。此處は名にし負ふ上杉管領の屋敷趾にて、當時上杉管領も權勢の鬪爭より、山の内、扇ケ谷の兩上杉に分れ相矢簇した事がある、即ち山の内上杉家の舊趾である。今尚ほ此邊の村落は山の内と稱されて居るのも因緣深き思出の種となるのである。龜ケ谷を登つて東南の小丘は一帶扇ケ谷上杉家の館趾である。上杉定正の屋敷は此處に在つたのである。扇ケ谷上杉とし云へば誰人も先づ此時代に於ける、關東の偉傑、文武兼備の勇將たる、而かも武將に稀なる歌道に堪能なる太田持資入道道灌を想出すであらう。今尚ほ扇ケ谷英勝寺の山麓に道灌の邸跡がある。

[やぶちゃん注:「米新亭」先に引いた浪川幹夫氏の『「三橋旅館」について その1』に香風園近くにあった鉱泉旅館とある。

「養氣園」不詳。識者の御教授を乞う。書き方からは米新亭と同様の鉱泉旅館と読める。

「上杉定正」による太田道灌謀殺については、「鎌倉攬勝考卷之八」の歴代管領の「上杉民部大輔顯定」の条及び私の注を参照されたい。]

 山の内上杉管領屋敷蹟を右に見て進めば、之れより明月院に行くとの指導標がある。此處を右折すれば明月院に至るのである。明月院も長壽寺と倂んで關東十刹の一に數へられてあるのだ。此寺寶として見るべきものは、上杉重房の衣冠束帶の木像、時賴の泥柵(でいさく)等である。當寺の境内には時賴の墓がある。再び通りに戻つて大船・戸塚・横濱に至るの街道を進めば左に鎌倉五山の第四位にて師時の建立に係る淨智寺が鬱蒼たる松杉の林内に寂しく古の面影を殘して、頗る廢頽して見ゆるのは遺憾である。此より一丁餘に靑色塗りの鐵柵を廻らして土地柄珍しきハイカラ式の門構へした寺院が左の高丘にある。之れぞ有名なる古刹、尼寺の名響く松ケ岡東慶寺と云ふ、後醍醐皇女用堂和尚の墓、秀賴息女天秀和尚の墓は玆處(ここ)にある。

[やぶちゃん注:「泥柵」塑像のことだが、ちょっと見かけない語である。「柵」は木や竹を組んだ矢来の意味があるので、そうした竹木を骨格として粘土で作った泥塑の像の意味であろう。]

南方熊楠による黒猫の話関連二篇 + やぶちゃんの大脱線注「レンデルシャムの森」事件

南方熊楠による黒猫の話関連二篇

〇 田辺で黒き猫を腹に載すれば、癪(しゃく)を治すと言う。明和頃出版?『壺菫』という小説に、鬱症(きやみ)の者が黒猫を畜(か)うと癒る、とあった。予がかつてドイツ産れのユダヤ人に聞きしは、鬱症に黒猫最も有害だ、と。また猫畜う時年期を約束して養(か)うと、その期限尽くればどこかへ去る。また猫長じて一貫目の重量(めかた)に及べば祝う。いずれも田辺の旧習なり。

[やぶちゃん注:「南方随筆」の「紀州俗伝」の「二」の掉尾。末に「(大正二年五月『郷土研究』一巻三号)』とある。

「壺菫」源温故(未詳)作寛政六(一七九四)年板行になる怪談読本。後に「怪談※(このごろ)草子」(「※」=「日」+「頃」)に、次いで「奇談情之二筋道」と改題されている。その「巻之三」の「梅の下風」の中で、主人公に密かに恋する上﨟の娘が、

何となく心あしきとて、しかしか物もまいらず、なやみかちにて、髮(かみ)なと取あくるも物うげにのみし給へば、ふたおやいたうあんじて、「かゝるとしのほどは、氣(き)のむすほゝれ、ろうかひなといふ病(やまひ)のいでくる物也。少(すこ)しあたゝかにもなりなば、野邊(のへ)へともなひ、若菜(わかな)なとつみ侍らば、をのづから心(こゝろ)よくなり侍らん。かゝる人には黑(くろ)き猫(ねこ)こそよけれときゝし。もとめて朝夕(あさゆふ)手(て)なれさせよ。……

とあって、主人公の男の飼っていた猫を譲るというシーンが出てくる(引用は国書刊行会二〇〇〇年刊高田衛監修「江戸怪異綺麗想文芸大系1 初期江戸読本怪談集」に拠ったが恣意的に正字化、踊り字「〱」は正字とした)。「ろうかひ」は労咳。]

   *

 黒猫で癪を治す(三号一七五頁)

 黒猫は癪(しゃく)や鬱症(きやみ)を癒すと、本邦で言うにドイツ生れのユダヤ人は、鬱症に黒猫最も有害だ、と予に語った。しかしこの一事をもって、西洋で一汎に猫を病人に有害とすと言う訳に往かぬ。その証(しるし)は一八九五年六月の『フォークロール』に出た、グルーム博士の英国サッフォーク州の俗医方の中に喘息を病む者、ネコを畜い愛翫すると喘息猫に移り、ついに死ぬが、病人は全く治る、とある。

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月岡書院刊「続南方随筆」の「『郷土研究』一至三号を読む」の「三」より。「三号一七五頁」はまさに前掲の「南方随筆 紀州俗伝 二」の掉尾の初出を指す。

「英国サッフォーク州」ロンドンの東北約一〇〇キロメートル、イギリスのイースト・オブ・イングランド地方に位置する行政州サフォーク(Suffolk)。但し、一八八九年~一九七四年までは東サフォーク州と西サフォーク州に分割されていた。――【注意! 以下は学術的に南方論文に興味があってここに来られた方、UFOに全く関心がない方はお読みになる必要がありませんが、相応に面白いとは存じます。】――全く関係ないが大脱線だが、この州の名はUFOに魅せられたことのある御仁ならば即座に次の事件を思い出されるに違いない。一九八〇年の暮、サフォーク州ウッドブリッジ駐留米軍空軍基地司令官が秘密裏に近くのレンデルシャム(Rendlesham)の森(かねてよりしばしばUFOの目撃があった)で宇宙人と会見したとする、英国版ロズウェル事件と騒がれた「レンデルシャムの森事件」である。個人ブログ「実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話」の三回連続の「レンデルシャム事件」が、侮れない科学的な(それでいてすこぶる分かり易い)緻密な考証で真相を暴いているので、あの事件への根っからの懐疑派には必読である。一方、この事件にやはり裏の隠された真相を期待される向きには、ユウ様のブログ「ホーエンシュタウフェン」のカテゴリ「UFO」が本事件をメインに書いておられて、画像満載、十二分に楽しめる。超、お薦め!――少し民俗学的にインキ臭い方に戻るなら――このレンデルシャム近辺には七世紀アングロサクソン時代の船葬墓サットン・フーがあったり、何より、M..ジェイムズの怪談「猟奇の戒め」(“A Warning to the Curious”)の中に、この地を治めていたサクソン王家によって欧州諸外国の侵入を防ぐための結界として三つの王冠が埋められ、そのうちの一つだけが今もどこかに埋められているという伝承を語る牧師の台詞の中に、『この地方のことを書いたガイドブックや歴史の本を見ると一六八七年レンドルシャムで、イースト・アングリアの王レッドウォルドの宝冠が発掘されたとありますが、なんとそれは記録にとどめられるまえに鋳つぶされてしまったというのですよ。レンドルシャムは海岸線に沿った場所ではありませんが、それほど離れてもいず、敵がこの土地へ上陸する場合、いわば中枢といった場所でしてな。わたしは、それが例の宝冠の一つだったに相違ないと見ております』(東京創元社「M..ジェイムズ傑作集」紀田順一郎訳より。「レンドルシャム」はママ。初期のUFO報道でもこの表記が見られたと記憶する。話はその後、この宝冠を掘り起こそうとすた罰当たり連中が恐るべき魔物に惨殺されるカタストロフで終る)と出てくるのだ。私は遅まきながら一九九二年にこのジェイムズの短編を読んだのだが、この「レンドルシャム」の地名を見て、思わず釘付けになったものだった。原初的無意識の象徴的産物として「空飛ぶ円盤」を考察したユングなら、悦んで飛びつきそうではないか!――鏡花の「沼夫人」じゃあないが――「この森は可怪(あや)しいな。」――]

文學の本質問題/詩人風の作家 萩原朔太郎

       ●文學の本質問題

 人が自分の中に居る感傷家や、甘たるい純情家や、子供らしい理想主義者(イデアリスト)や、熱し易い感激主義者(パツシヨニスト)や、それから特に、言葉がすぐ韻文的に舞いあがつてしまふやうな、詩人風の浪漫主義者(ロマンチスト)やなどに反感して、自分の中の稚態を憎み、自分の詩人を虐殺してしまはうと考へる時、彼等は初めて一人前の小説家になり、眞實の散文家として、レアリズム文學の出發點に立つのである。

 レアリズム文學の本質は、不幸にも我が國の文壇で、常に誤つて考へられてゐる。文學者に於けるレアリスチツクの精神とは、世間ずれのした俗物意識や、そんな點での經驗から、苦勞人の物解り好さを誇ることや、別してまた茶飮話の退屈さで、感動もなく熱情もなく、人生を身邊雜記的に見ることの習得でもない。文學が意味する現實主義とは、詩的ロマンチシズムヘの反語であつて、或る冷酷な強い意志から、すべての生ぬるい陶醉を蹴り飛ばし、より寒冷な山頂へ登らうとするところの、文學に於ける鐵製の意識であつて、言わば抒情詩的(リリカル)のものに逆説する、他の別種の詩的精神に外ならない。

 それ故に文學者は、彼が本質的にセンチメンタルの人間であり、詩人的殉情のロマンチストであればあるほど、逆にその一方では、彼自身に反撃する冷酷無情のレアリストとして、小説家の偉大な成功を克ち得るだらう。實際にまた、外國の多くの作家がその通りである。彼等のあらゆる典型的小説家とレアリストが、いかに殆ど例外なく、その若い時代に於て純情の詩人であつたかを見よ! 後に小説家となつてからも、その描寫のあらゆる確實な現實性と、殘酷にまで意地惡く見通してゐる眞實の把握の影で、いかにその詩人的情熱を高調し、時にまた隱しがたく抒情詩的(リリカル)でさへあるかを見よ!

 一般に言つて、詩的精神こそは文學の本質である。すくなくとも氣質の上で、詩人的なる何物かを持たないものは、小説家にも戲曲家にも、斷然文學者たる資格がない。――餘はすべて俗物のみ。

        ●詩人風の作家

 その抒情的精神だけを知つて、これに逆説する叙事詩的精神を持たないやうな文學者は、すくなくとも小説家として、最高の榮譽を保証し得ない。通例彼等は「詩人風の作家」と呼ばれる。そしてこの称呼は、必ずしも小説家にとって名譽でない。

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「藝術に就いて」より連続する二章。芥川龍之介の死後のものであるが、私はここに萩原朔太郎が芥川龍之介の中に見ていたもの(若しくは錯覚していたもの、または詩の定義の自己合理化過程)が見えるような気がしてきている。]

嫉妬の馬 大手拓次

 嫉妬の馬

かかへるやうな大きな幻想樂(フアンタアジア)、
わたしのからだは いま つぶやきの色をかへ、
あてどもなく夢の穴をほる。
濃いむらさきの細い角(つの)と
眞黄色(まつきいろ)な蹄(つめ)とをもつた女體(によたい)の馬(うま)は、
わたしの魂をおしつぶしおしつぶし、
絹(きぬ)のきもののなかをかけめぐる。
おまへは毛虫のやうな妖怪(えうくわい)だ!
うつくしいふにやふにやした妖怪だ!

[やぶちゃん注:太字「ふにやふにや」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 晝寐

晝寐    松風に近江商人晝寐かな

[やぶちゃん注:無論、松尾芭蕉の名吟「行く春を近江の人と惜しみける」が句背にあるが、死後も偏愛した義仲所縁の近江義仲寺に葬ることを遺言するほどに芭蕉は近江を愛した(それについては個人サイト「いこいの広場」の「芭蕉と近江」によく纏められている。必読)。また、「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)ややり手商人(あきんど)として「近江泥棒伊勢乞食」と揶揄された近江商人の思想や行動哲学については、勝海舟「氷川清話」に、「芭蕉の教導訓示によりて出来たもの」と言う談話が残されている、とウィキの「近江商人」にある。]

2013/06/08

本日閉店 (附 僕が「会う」と書かず「逢う」と書く理由)

本日翠嵐高校山岳部OB昼食会也昔日の教子にして山の仲間と邂逅せんとす依つて暫し閉店致し候 店主敬白

[やぶちゃん字注:僕は「会」も「會」も嫌いな漢字だ。「會」の字は凝っと見ていると、何だか「会いたくない」人がそこには一杯居て、古寺のように黴と抹香の臭いがして、おまけにその「會場」の畳には虫がわんさと湧いている――そんな座敷で人と「會ふ」ような生理的不快感を覚えるのである。ところが逆に「会」というすっかり去勢された文字は、心触れ合うこともなく、金ずくで、肩書を印刷したぺらぺらの名刺なんぞを、殺風景なオフィスのべたべたするビニール張りのソファーに座ってやりとりしているような、やり切れない空虚感に襲われるのである。だから仕事で人と「会う」以外には僕は「会う」という字は使わない。僕はもう無職だから人と「仕事で会う」ことは殆んどない。だから僕の中では「会う」という漢字表記は死語に近いのだ。「相棒」のゴースト・ライターの回じゃあないが、僕は決まって「逢う」と書きたがる癖がここ数年続いている。さて、人と「逢う」と僕は決まって別れる際の淋しさを思う。三木清が語ったように、誰かに逢いにゆくということは、その別れを同時に味わうことによって漂泊の感情を伴うのである。誰かと逢うということはその誰かの中に――僕の知っている誰かの中に――僕の知らないその誰かを新たに見出すことをも――同時に期待しているのである。ゆえに、僕にとってそれが予め定められた「会合」であったとしても、その場に居る人々が僕が「逢いたい」と思う相手である以上は、常に思いがけない出逢いを僕は求めているのである。だから――ここでやっと僕が何故、「字注」を附したかがお分かりになられるであろう――だからこそ僕にとっては誰かと「逢う」ことは常に「邂逅」なのである。僕はこの如何にも書くのに時間もかかる、荘重で事大主義的な面持ちの「邂逅」という文字と響きが、すこぶる附きで好きなのである。僕にとって、自律的に「逢おう」とする相手は常に素敵な「邂逅」を齎して呉れる人々なのである。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 13 建長寺

 建長寺 北條時賴の建立で宋の大覺禪師の開山である。圓覺寺と相倂んで鎌倉時代に於ける新佛教禪宗の創立地である。寺域五千二百餘坪總門を入りて建長興國禪寺と題せる額高く聳ゆる山門を通れば、玆には佛殿がある。佛殿格天井の群鳥畫は狩野法眼の筆、欄間の天女は左甚五郎の名作彫刻物である。時賴公自作の自己の衣冠束帶の木像もある。之れは同寺の國寶となつて居る。殿の左倉庫に賴朝公の富士の牧狩に用ゐた直徑六尺の太鼓と鐘がある。一打千里に轟くとの評判だが敢て千里は響くまいが三里餘方は大丈夫轟く樣に信ぜられる。佛殿の前に七株の白槇及び蓮花の銅盤等があつて一層懷古の念に堪へざらしむるのである。佛殿より法堂庫裡、龍王殿を右に眺め左に學林、廣德院〔、〕龍華院、大源院、佛國々師墓を見て寶藏を右折すれば斜坂に數戸の茶店が軒を幷べてある。そうして黄ばみ走つた妙聲を張り擧げて參詣者に便利を與ふべく、晝餐の用意や草履を召せと勸誘して居る。茶屋前を上れば數百の櫻樹を植付けられた大廣場に出る。前には仰ぎ見る雲間に幾百と數へ切れぬ石段がある。此石段の登り詰めに半僧坊社が鎭座して其奧の院迄は尚ほ一層高くなる。毎年二月の節分には年男の豆撤する追儀式が行はれる。毎月十七日は其緣日なので數萬の善男善女が參詣する。此南の奧院に上りて眺望すれば鎌倉の山水、相模灘の風光が一時の中に早められて實に絶快と絶叫するより外はない。

[やぶちゃん注:「〔、〕」は私が補った。この半僧坊の描写、私のテクストを熱心にお読み戴いている方は、デジャヴがあろう。あの大和田建樹の「散文韻文 雪月花」「汐なれごろも」が如何に名文であったかがよく分かるのである。]

栂尾明恵上人伝記 36 小賢しい連中が世にみちみちて心を養う人はもういない……

 又上人常に語り給ひけるは、惠學(ゑがく)の輩は國に滿ちて踵(きびす)を繼ぐと雖も、定學(ぢやうがく)を好む人世に絶えたり。行解(ぎやうげ)の知識缺けて、證道(しようだう)の入門、據(よりどころ)を失へりとぞ歎き給ひける。
[やぶちゃん注:「惠學」慧学。悟りを得るための修学である戒・定(じょう)・慧(え)の三学の一つ。真実清浄の智慧を磨く修学。
「定學」精神を集中して心を乱さない修学修練。三昧(さんまい)や禅定と同義。
「行解」(真の正しい)修行と学解(がくげ宗学上の深い知識や見識)。
「證道」聖道。悟りの道。]

桃太郎伝説 南方熊楠

       桃太郎伝説

 犬を伴れて島を伐(う)った話は南洋にもある。ヴァイツおよびゲルラントの『未開民史(ゲシヒテ・デル・ナチュルフォルケル)』(一八七二年板、六巻二九〇頁)にいわく、「タヒチ島のヒロは塩の神で、好んで硬い石に穴を掘る。かつて禁界の制標たる樹木を引き抜いて、守衛二人を殺し、巨鬼に囚えられたる一素女を救い、また多くの犬と勇士を率いて一船に乗り、虹神の赤帯を求めて島々を尋ね、毎夜海底の怪物、鬼魅と闘う。ある時窟中に眠れるに乗じ、闇の神来たりてかれを滅ぼさんとするを見、一忠犬吠えてヒロを寤(さ)まし、ヒロ起きて衆敵を平らぐ。ヒロの舟と柁(かじ)ならびにかの犬化して山および石となれるがその島に現存す、云々」。桃太郎が犬つれて鬼が島を攻めた話にも、諸国に多い、忠犬、主を寤まして殺された話にも、似たところがある。タヒチ島は日本とはよほど隔たりおるが、神話や旧儀に日本上古の事物と似たことが多い。しかし、予はこのゆえに、ただちに桃太郎の鬼が島攻めはタヒチから日本へ移ったとも、日本からかの地へ伝えたとも即断するものでない。篤(とく)と調べたら、他の諸国にも多く似た譚があるのであろう。また以前あって今絶えたのもあろう。

(大正三年九月『郷土研究』二巻七号)

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年岡書院刊「南方随筆」より。「ゲシヒテ・デル・ナチュルフォルケル」はルビ。底本では総て同ポイントであるが、底本自体のポリシーに忠実に従い、私の判断で二箇所を拗音表記とした。

「素女」「そにょ」と読む。一般名詞としては白衣の女の意で、ここでは英雄神ヒロに対する仙女というニュアンスで用いられていよう。本来の「素女」は九天玄女とともに黄帝に房中術を教えた、性愛と養生を司る道教の仙女をいう。後世、その房中術と称する性書「素女経」「素女方」などが書かれた。中国古代神話の四大美女(女媧・西王母・素女・嫦娥)の一人でもある。

 なお、このヒロの話は南方の「十二支考」の「犬に関する伝説」の掉尾にもほぼ同じものが載る。以下に示す。

 桃太郎の話は主として支那で鬼が桃を怖るるという信念、それから「神代巻」の奘尊が桃実を投げて醜女を却(しりぞ)けた譚などに拠る由は古人も言い、また『民俗』一年一報、柴田常恵君の説に、田中善立氏は福建にあった内、支那にも非凡の男児が桃から生まれる話あるを聞いた由でその話を出しおる。それらは別件として、ここにはただ桃太郎が鬼が島を伐つに犬を伴れ行ったという類話が南洋にもある事を述べよう。タヒチ島のヒロは塩の神で、好んで硬い石に穴を掘る。かつて禁界を標示せる樹木を引き抜いて守衛二人を殺し、巨鬼に囚われた一素女を救い、また多くの犬と勇士を率いて一船に打ち乗り、虹の神の赤帯を求めて島々を尋ね、毎夜海底の妖怪鬼魅と闘う。ある時ヒロ窟中に眠れるに乗じ闇の神来って彼を滅ぼさんとす。一犬たちまち吠えて主人を寤(さま)し、ヒロ起きて衆敵を平らぐ。ヒロの舟と柁(かじ)、並びにかの犬化して山と石になり、その島に現存すというのだ(一八七二年ライプチヒ板ワイツおよびゲルラントの『未開民史(ゲシヒテ・デル・ナチュルフォルケル)』六巻二九〇頁)。

「奘尊」は「イザナキノミコト」と読む。「伊奘冉尊」と書くのが正しい(「未開民史」のルビと処理は前記通り)。]

山吹や笠にさすべき枝の形 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 

 

 山吹や笠にさすべき枝の形(なり)

 

 芥川君の愛誦して居た句であり、同君の詩の一行にも歌はれて居る。前の「寂しさや」の句と同巧同趣のもので、仄かに漂泊とした旅愁にあはれさを感じさせる佳句である。蕪村が主として萬葉集から學んで居るに反し、芭蕉のかうした句が、新古今の幽玄體から學んでることに注意すべきである。

 

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」より。『以下芭蕉の句の中から僕の愛吟するもの若干を評釋しよう。』とある二句目の評釈。「同巧同趣」の「巧」はママ。

 

 『前の「寂しさや」の句』とは、この直前で鑑賞している「寂しさや華のあたりのあすならふ」を指す。

 

 「芥川君の愛誦して居た句であり、同君の詩の一行にも歌はれて居る」とは、

 

 

   山吹

 

あはれ、あはれ、旅びとは

 

いつかはこころやすらはん。

 

垣ほを見れば「山吹や

 

笠にさすべき枝のなり。」

 

を指す。この詩はこの詩は、龍之介自死の直後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された(但し、もともとの掲載予定原稿)「東北・北海道・新潟」に以下のように現われ、萩原朔太郎が見たのは、恐らくはこの時であろうと思われる。

 

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

 

  あはれ、あはれ、旅びとは

 

  いつかはこころやすらはん。

 

  垣ほを見れば「山吹や

 

  笠にさすべき枝のなり。」

 

ただ、この詩自体は大正一一(一九二二)年五月に書かれたものとする情報がある(私の芥川龍之介詩集」の当該詩の注を参照)。

 

 なお、この「芭蕉私見」は、後に「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に附録として載るが、その際、朔太郎はこの『僕の愛吟するもの若干』の評釈部分を大々的に総て書き換え、これも以下のように大きく改稿している。そこでは龍之介云々のパートは削除されてしまった。

 

 山吹や笠に挿すべき枝の形(なり)

 

 ひとり行く旅の路傍に、床しくも可憐に咲いてる山吹の花。それは漂泊の芭蕉の心に、或る純情な、涙ぐましい、幽玄な「あはれ」を感じさせた。この山吹は少女の象徴であるかも知れない。あるいは実景であるかも知れない。もし實景であるとすれば、少女の心情に似た優美の可憐さを、イマヂスチツクに心象しているのである。蕭條とした山野の中を、孤獨に寂しく漂泊して居た旅人芭蕉が、あはれ深く優美に咲いた野花を見て、「笠に挿すべき枝のなり」と愛(いとほ)しんだ心こそ、リリシズムの最も純粹な表現である。

 

評釈はより評釈らしくはなっているが、龍之介へのオマージュが消えたことに加えて、私に言わせれば、言わずもがなな、『この山吹は少女の象徴であるかも知れない。あるいは実景であるかも知れない。もし實景であるとすれば、少女の心情に似た優美の可憐さを、イマヂスチツクに心象しているのである』という部分など、語るに落ちたと言いたくなるような、今どきの凡百の鑑賞書にありがちな、「評釈のための評釈」という気がして、すこぶる厭な感じがする。]

あをざめた僧形の薔薇の花 大手拓次

 あをざめた僧形の薔薇の花

もえあがるやうにあでやかなほこりをつつみ、
うつうつとしてあゆみ、
うつうつとしてわらつてゐた
僧形(そうぎやう)のばらの花、
女の肌にながれる乳色のかげのやうに
うづくまり たたずみ うろうろとして、
とかげの尾のなるひびきにもにて、
おそろしいなまめきをひらめかしてうかがひよる。
すべてしろいもののなかに
かくれふしてゆく僧形(そうぎやう)のばらの花、
ただれる憂鬱、
くされ とけてながれる惱亂の花束(はなたば)、
美貌の情欲、
くろぐろとけむる叡智(えいち)の犬、
わたしの兩手はくさりにつながれ、
ほそいうめきをたててゐる。
わたしのまへをとほるのは、
うつくしくあをざめた僧形(そうぎやう)のばらの花、
ひかりもなく つやもなく もくもくとして、
とほりすぎるあをざめたばらの花。
わたしのふたつの手は
くさりとともにさらさらと鳴(な)つてゐる。

鬼城句集 夏之部 團扇

團扇    君來ねば柱にかけし團扇かな

2013/06/07

アイヌの珍譚 南方熊楠

 暫く行っていなかった南方熊楠の短編の諸論文の電子化を気の向くまま、ランダムにブログで開始する(先日の海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載での「田鼠除け」の引用で焼けぼっくいに火が点いた)。底本は特に注記をしない限り、「南方熊楠選集」(全六巻別巻一・平凡社一九八四年刊)を用いている。各段落末にオリジナルな注を附してその後を行空けしてある。

 まずは、熊楠の真骨頂たるセクスロジーと、僕の電子化している「耳嚢」絡みで「アイヌの珍譚」から。すこぶるセクシャル且つ衝撃的な内容(私の注も)であるので自己責任でお読み頂きたい。但し、長く引用したアフリカでの生殖器切除の習俗の深刻さは以前から私が心を痛めて来た悪習である。多くの人に知って頂きたいと思っている。

      アイヌの珍譚

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年五月岡書院刊「南方随筆」より。]

『人類学雑誌』二九巻五号二九六頁に吉田君いわく、沙流アイヌの老人常に語るらく、メノコ・コタン島、女子のみ住んで男なし、云々、「最上徳内この島に入って怪を探る。女陰に歯あり、秋葉凋落と共に脱(お)つ。かくして年々生ず。試みに短刀の鞘をもってす。鞘疵つくを見るに人歯の痕に異ならず」。かかる話、蝦夷近き奥州にも行なわれたは、根岸守信の『耳袋』巻一に出たので知れる。いわく、「津軽の家土語りけるは、右道中にカナマラ大明神とて黒鉄の陽物を崇敬し、神体と崇めける所あり。古えこの所に一人の長ありしが、夫婦の中に独りの娘を持ち、成長に従い風姿類なし。外に男子もなければ聟を撰んで入れけるに、いかがなることにや、婚姻整え侍る夜即死しけり。それよりかれこれと聟を入れけるに、あるいは即死しあるいは逃げ帰りて閏房空しくのみなりしゆえ、父母娘にわけを尋ぬれば、交りの節あるいは即死しまたは怖れて逃げ帰りぬ、われもそのわけ知らずと答えければ、父母も歎き暮らしけるが、逃げ帰りし男に聞きし者の語りけるは、右女の陰戸に鬼牙ありてあるいは食い切りあるいは疵を蒙りしという。このことおいおい沙汰ありければ、ある男このことを聞いてわれ聟にならんとて、黒鉄にて陽物を拵え、婚姻の夜交りの折から右の物を入れしに、右黒鉄の陽物に食いつきしに牙ことごとく砕け散って残らず抜けけるゆえ、その後は尋常の女となりし由。右黒鉄の陽物を神と祝い、今に崇敬せしと語りし」。

[やぶちゃん注:「吉田君」底本編者割注によれば吉田巌。帯広市図書館公式サイト内の吉田巖についてに以下のようにある人物であろう。吉田巖(明治一五(一八八二)年~昭和三八(一九六三)年)は小学校教師でアイヌ研究家。福島県宇多郡中村(現在の福島県相馬市)生れで、アイヌ教育に当るために教職に就き、虻田実業補習学校・平取町荷負尋常小学校・庁立日新尋常小学校(昭和六(一九三一)年廃校)などで長年に亙って学力向上・生活環境改善等に尽力、それぞれの任地でアイヌの父兄や児童から日常生活・言語・伝承等を聴き取りし、学会に発表したとある。

「沙流」現在の北海道(日高国)日高振興局の郡、沙流郡(さるぐん)。

「最上徳内」(もがみとくない 宝暦五(一七五五)年~天保七(一八三六)年)は北方探検家。出羽(山形県)の農家に生まれたが、生来、学を好み、天明元(一七八一)年、江戸に出て幕府医師の家僕となり、数学者で経世家(経済学者)の本多利明(ほんだとしあき)に学んだ。本多は同五年に老中田沼意次から蝦夷調査団派遣を命ぜられた際、利明を推挙、幕吏とともに国後島に至り、翌年は単身択捉島とウルップ島を踏査、ロシア人に千島事情を聞いて北辺の急を幕府に報告するも、田沼意次の失脚のために採用されず、失職する。寛政元(一七八九)年のアイヌの騒乱の際にはいち早く急を報じ、再び採用され千島に至っている。その後、上司青島俊蔵の失策によって徳内も投獄されるが、疑いが晴れて逆に重用されて樺太関連の探索に従事、文化四(一八〇七)年にロシア船が来航すると、外国奉行の配下である支配調役として、広く北方警備事情を監察、またアイヌ交易の改善にも努力した。また松前藩の禁令にも拘わらず、アイヌに文字を教え、通詞にアイヌ語辞書を出版させたりもしている。蘭医シーボルトの信頼が厚く、シーボルトの著書「日本」によって徳内の名は外国にも知られた。代表作「蝦夷草紙」は著名(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠った)。

「根岸守信の『耳袋』巻一に出たので知れる」「根岸守信」は誤りではなく、根岸鎮衛の別名である。以下の記事は、私の「耳嚢 巻之一」「金精神の事」を参照(「金精神の事」の方のリンク先には同類話柄で次に載る「陽物を祭り富を得る事」も併載してある)。]

 これらいずれも誇大に過ぎた話だが、発達不完全等で多少本話類似の障礙ある女体世に少なからず。本邦にも現に往々その例あるはしばしば医師より聞くところだから、アイヌ譚も津軽の伝説も全く根拠なきにはあらじ。すべて民族人種の異なるに随い、彼処(かしこ)の相好結構また差異あり。例せばハーンの目撃談に、北米のデネ・インジアンのある族人が他族人を殺してその屍を扱うの法、猥にして語るに堪えず。殺されし者女人なる時ことにはなはだし。これ他族の女根全く自族の者と異様なりとて、これを評論審査するによる、と(Morise,La Femme chez les Dénés,Transactions du Congrés international des Americanistes,Québec, 1907, p. 374)。かつて信ずべき人より、日本女と支那女は単に陰相見たのみで識別し得と聞いた。また仏経に五不女を説くうちに「角なるものは、物あって角のごとし、一に陰挺」と名づく。これは Otto Stoll,Das Geschlechtsleben in der Völkerpsychlogie,Leipzig, 1908, S. 546 に南アフリカ、北アメリカ、南洋等のある民族に普通だと見えた、陰唇の異常に普通だと見えた、陰唇の挺出したものだろう。その最も著名なは、南アフリカのホッテントットの婦人の特徴たる肥臀(ステアトピギア)に伴う前垂(タブリエー)だ(‘Encyclopædia Britannica,11 th, ed., vol, xiii, p. 805)。一六七三年筆、オランダ東インド会社の医士の経験譚にいわく、ホッテントット婦人の陰唇懸下して陰嚢のごとし。本人これを美として誇ることはなはだしく、外人その廬(いえ)に来たれば皮裳を披いてみずからその陰相を示す、と(William Ten Ryme,An Account of the Cape of Good Hope and the Hottentotes,in Churchill,A Collction of Voyages and Travels,vol. vi, p. 768, 1752)。

[やぶちゃん注:「ハーンの目撃談に……」「ハーン」は小泉八雲のことと思われるが、ざっと管見した限りでは知られた著作「仏領西インドの二年間」にはないようである。現在、調査続行中。「デネ・インジアン」は本来はアメリカ・インディアンの話す言語の語族を示すもので、ナ・デネ語族(Na-Dené languages)が正しい。アラスカ・カナダ西部の広い範囲とアメリカ合衆国本土太平洋岸北部及び合衆国南西部で用いられている言語で、合衆国南西部のナバホ語の話者が最も多い(ウィキの「ナ・デネ語族」に拠る)。

「五不女」漢方で先天性不妊症若しくは先天性生殖器奇形及び異常の五種を指すものらしい。「小林漢方有限会社勉強会情報」の「第二十回勉強会・不妊症」に『不妊症でも原因が「螺(または緊)、紋、鼓、源、脈」という五種の“五不女”は、大抵女子生殖器の先天性欠陥があり薬では治らない』とある。

「ホッテントットの婦人の特徴たる肥臀(ステアトピギア)に伴う前垂(タブリエー)」よく知られたホッテントット族(南アフリカ共和国からナミビアの海岸線から高原地帯及びカラハリ砂漠などに居住する民族。現在はコイコイ人(英語“Khoikhoi”)と呼ぶのが正しい)の「ホッテントットのエプロン」(“hottentot apron”)と称した小陰唇伸長を指す。これはしばしば伸張を目的として人工的に工夫したと誤解されているが、全くの誤りであって、これは彼らの身体的特徴であり、ここに示された臀部が極端に後方に突出する「ステアトパイジア」(“Steatopygia。リンク先は英語版ウィキ)も同様である。なおかつて、コイコイ人の男性は睾丸の片方を除去する半去勢と呼ばれる通過儀礼をも行っていた(主にウィキの「コイコイ人」に拠った)。]

 一入〇四年ロンドン板 Sir John Barrow,Travels in Southern Africa,vol. ii, pp. 278-279 にいわく、ホッテントット婦人に名高き陰相はブシュメンにもあり。予輩かつてブシュメンの一群に遭いしにこの相なき婦人一人もなく、少しも風儀を害せず容易にこれを観察し得たり。この諸女の小陰唇延長すること年齢と習慣とに随いて差あり。この相、嬰児においてわずかにこれを認むるが、年長ずるに随って著しく、中年の婦人その長さ五インチなるを見たり。しかるに実はこれよりも長きもの多しという。その色黝青にして帯赤あたかも七面鳥の冠のごとく、形および大きさまたこれに類し、外見男勢の萎垂せるに似たり。欧州婦人のこの部は皺摺せるに、この土人のは全く平滑なり。したがってその刺激機能を失えるものらしきも、また男子の強凌を捍(ふせ)ぐの利ありて、かかる畸態の機関ある婦女は男子その同意また協力を得るにあらずんば和合の理なし、と。Cornelius de Pauw, Recherches Philosophiques sur les Américains,Cleves, 1772, tom. ii, pp. 135-136 に、アフリカの諸国の女子の小陰唇を切り除く俗行なわるるは、もとこの畸形を除いて婚姻に便を与うるためだったろう、と論じおる。その作法の詳細は Dr. Ernest Godard, Egypte et Palestine,1867, p. 58 已下(いか)に出おり、エジプトのカイロ府では十二、三歳の女子この方を受け、また田舎では七、八歳の女子の時施術するに多くに産婆これを行なう、とある。わが邦にも茄子陰と称して陰唇挺出せる女がある。

[やぶちゃん注:「ブシュメン」現在はサン人(San)と呼ぶのが正しい。南部アフリカのカラハリ砂漠に住む狩猟採集民族でアフリカ最古の住民と考えられている。ここに記されたように、内部に多量の脂肪組織を蓄積した後方に突出する臀部を持つ(ウィキの「サン人」に拠る)。

「黝青」「ユウセイ」と音読みしているものと思われる。「黝」は青黒い色をいう。

「帯赤」「タイセキ」と音読みしているものと思われる。赤味を帯びていることをいう。

「男勢の萎垂せる」男子の萎縮した陰茎が垂下しているように、の意。

「皺摺」「シュウショウ」と音読みしているものと思われる。皺がよって襞状になっていることをいう。

「女子の小陰唇を切り除く俗行」近年、女性虐待との批判が挙がっている風習で、主に現在でもアフリカを中心に行われている女性器切除(Female Genital Mutilation:略称・FGM)若しくは女子割礼(Female Circumcision)と呼ばれるものを指す。以下、参照したウィキの「女性器切除」によれば、歴史的には二〇〇〇年に亙ってアフリカの赤道沿いの広い地域で行われてきた風習で、現在でもアフリカの二十八ヶ国に於いて、主に生後一週間から初潮前の少女に対して行われている。欧米に於いては、この慣習の存在する地域から移民した人々の間においてもFGMが広く行われていることが昨今の調査で明らかになり、それに対して法的な規制を制定する国も増えてきている。大人の女性への通過儀礼の一種で、それが結婚の条件とされている。施術によって結婚までの純潔や処女性が保たれ、女性の外性器を取り去ることで性感を失わせることで、女性の性欲をコントロールできる、などと信じられている。一般に伝統的助産婦によって剃刀やナイフ・鋭利に欠いた石などを使用して、母親や親族の女性に押さえつけられて行われる。不衛生な状況下で大抵は麻酔や鎮痛剤なしで行われることが多いが、エジプトなどでは医療関係者が行っていることが分かり、問題となった。止血には泥や灰などが用いられることもある。国際会議などでは、WHO(国際保健機構)の定義を使うことで同意されており、以下のような分類が行われている。

〈タイプ1 クリトリデクトミー(clitoridectomy)〉

クリトリスの一部または全部の切除。

〈タイプ2 エクシジョン (excision)〉

クリトリス切除と小陰唇の一部または全部の切除。地域によっては出産を楽にするため称して膣までも切除されるケースがあるが、実際には逆のリスクが高まる場合が多い。伝統的に成年に達した際の儀式として行われるが、最近では若年化が進み、もっと幼い少女に行われる。FGMを受けさせらる少女は上記二種でほぼ八十五%に当たる。

〈タイプ3 陰部封鎖・ファラオリック割礼(infibulation)〉

外性器(クリトリス・小陰唇・大陰唇)の一部または全部の切除及び縫合による膣口の狭小化または封鎖。その際、尿や月経血を出すための小さな穴を残す。術後は両脚を縛りつけて数週間傷が癒えるまで固定する。主に四歳から八歳の少女に行われ、こちらも若年化が進んでおり、生後数日に行なわれた例もある。FGMを受けさせらる少女の約十五%がこの過酷な施術を受けているとされる。ソマリアでは「女性は二本の足の間に悪い物をつけて生まれた」と言われており、この陰部封鎖を施しているとあり、また、この場合は結婚初夜に夫が縫い閉じられた陰部を切り開く部族がおり、自力で花嫁の陰部を開いて性交を果たせなければ面目を失う、という。

〈タイプ4 その他の施術〉

タイプ1~3に属さない、治療を目的とせずに文化的理由のもとで女性外性器の一部若しくは全部を切除すること及び女性の生殖器官を意図的に傷つける行為の総てを含む。

この切除に伴う弊害としては、杜撰で不衛生な術式が圧倒的に多いために、大量出血・施術中の激痛・回復まで続く痛み及び様々な感染症などが施術時にあり(術中のショックで意識不明や死亡にケースもある)、後遺症として排尿痛・失禁・性交時の激痛・月経困難症・難産による死亡・HIV感染リスクの上昇の他、トラウマとしての性交恐怖症などが挙げられている。国際社会では、特に一九七〇年代頃から著しい女性虐待であるとして非難の声が強く上がっていた。対する当事国は、そうしたプレッシャーは自国の文化を否定するものとして文化相対主義的論議が起こった。しかし昨今では国際的世論とアフリカ連合内からの廃絶の声とが手を取り合った動きが活発化し始めている。二〇〇三年にはモザンビークの首都マプトにおいて、女性器切除の含めたあらゆる性暴力・性差別を禁じ、男女同権を定めた、人及び人民の権利に関するアフリカ憲章に関する「マプト議定書」(Maputo Protocol)が採択されたが、近年は、西アフリカの指導者やケニアなどが性器切除を禁止しているものの、その後は全く実効が上がっていない。FGM廃絶の国際運動を行っているワリス・ディリーは、一九九九年に発表したデータで、年間二〇〇万人、一日当たり五五〇〇人近い少女が現在も性器切除を受けており、性器切除された女性の総数は一億三千万人以上、累計十三億人にも達すると推定している。

「茄子陰」「なすほと」「なすぼぼ」とでも読むか。「隠語大辞典」(木村義之・小出美河子編 皓星社二〇〇〇年刊)の「茄子(なすび)」の項に、

   《引用開始》

1.病気にて子宮が陰部の外に表はれ出でたるをいふ。

2.茄子。陰核異常に長きもの。或は子宮の陰門外に脱出して形状茄子の如きものをいふ。俗語。なすびぼぼ。「色道禁秘抄」に「茄子は和漢同名にて産せし時児頭にて陰肉をすり破り外へ翻出して乾枯したる形を以て名くる也」とあり。「女才学絵抄」に「玉中の袋はりいでたる病ものにて玉門冷たく道具ととのはざる故なれば味ひ到つてあしし」。又「阥阦手事巻」に「なすびぼぼといふものにて開中のふくろはりいで行ふの邪魔になりてへのこ出入するにさはりあり」。「植えぬのにひよんな所へ茄子はえ」「かはらけと茄子夜陽に誘ひ合ひ」。

3.子宮脱。

   《引用終了》

とある。「阥阦手事巻」は不詳。「いんようてごとのまき」とでも読むか(「阥阦」は「陰陽」と同字)。この辞書、ネット上での閲覧であるが、なかなかに凄い。]

 吉田君が一九五頁に述べられた大酋長の美娘の陰部霊異あって、眠中人来たり逼る時声を放ってこれを警戒す。しかも娘自身は知らずというアイヌ語の根本は、上述の陰挺あるブシュメン婦女は、本人の同意また協力を得ずして、これと会する事を得ずと言えると類似の、ある畸態を具せる娘が実在せしにあったのでなかろうか。

(大正三年九月『人類学雑誌』二九巻九号)

【追記】

 前文に、予ホッテントット人等の婦女の畸態陰相タブリエーを「前垂れ」と評しおいた。頃日(このごろ)当田辺町の川端栄長という老人、若き時大阪堂島で相場を事とし、その間博く松島の遊廓を見た懐旧譚をするを聞くうち、「また前垂れ陰と名づくるを僅々数回見た」という冒頭で説く様子、バローが「かかる畸態の機関ある婦女は男子その同意また協力を得るにあらずば和合の望みなし」と言えるに符合したので、わが邦人にもこの畸態あるを知り、あわせて予の訳語の偶中を悦んだ。さて『根本説一切有部毘奈耶雑事』一三、また『大宝積経』の入胎蔵会一四の一に「あるものは産門駝口のごとし」とあるはこの前垂陰であろう。茄子陰は、『善見毘婆裟律』一三に「根の長く崛(そばだ)ち両辺に出でしもの」で、「女根中、肉長く出でて毛あり。また角なるものは、物あって角のごとし、一に陰梃と名づく」は吉舌特に長きものであろう。L.Martineau Leçons sur les Déformations Vulvaires et Anales,’(Paris, 1886)に六つまでその図を出しある。(大正五年二月『人類学雑誌』三一巻二号)

[やぶちゃん注:「僅々」「キンキン」と音読みしているか。ごく僅かながら。

「偶中」は「ぐうちゅう」で、偶然に的中すること、まぐれ当り。

「根本説一切有部毘奈耶雑事」は「こんぽんせつびなやざつじ」と読み(「根本説一切有部毘奈耶薬事」と表記するものもあるが、別物か同一のものか不明)、「大蔵経」の中にある仏典注釈書の一つ(以下も同じ)。

「大宝積経」「だいほうしゃくきょう」と読む。

「善見律毘婆沙」「ぜんけんりつびばしゃ」と読む。

「吉舌」「きちぜつ・きつぜつ」と読む。先に引いた「隠語大辞典」に、

   《引用開始》

1.吉舌。陰核をいふ。「ひなさき」に同じ。同条参照。「和名抄」に「揚子漢語抄云吉舌和名比奈佐岐」と出づ。「さへずり草」に「吉舌和名ひなさきといへるは関東の俗に左禰といふものなるべし、扨て実とは菓の核仁に似たるよしの名なるべし」とあり。 

2.陰核。 

3.女子陰核のこと。小根ともいう。古語では、「ひなさき」という。ドイツ語でも「恥かしい小さな舌」といっている。つまりキツレルである。

   《引用終了》

「キツレル」“Kitzler”(キッツラァ)はドイツ語で陰核のこと。この音の類似はすこぶる面白い。]

【補遺】

 沙流アイヌと奥州津軽に行なわれた女陰に歯ある譚を、吉田巌君の記と『耳袋』から引いたが、その後『能登名跡志』坤の巻を見るに、入左近の子太郎なる者、唐土の王女かかる畸態ある者に会い、津軽の伝説同様の妙計もて常態とならしめ、その婿となった次第を載せある。委細は、大正六年四月発行『大日本地誌大系』諸国叢書北陸の一の三三九頁について見るべし。(大正六年十月『人類学雑誌』三二巻一〇号)

[やぶちゃん注:「能登名跡志」は安永六(一七七七)年の序を有する太田頼資(道兼)の手になる加賀国能登地方の地誌。「追記」と「補遺」のクレジットは底本では最終行下インデント。]

文藝に於ける道德性の本質 萩原朔太郎 (朔太郎の龍之介の「侏儒の言葉」への批判)

 文藝に於ける道德性の本質

 

 自分がこの標題のことを考へたのは、かつて數年前、故芥川龍之介のアフオリズム「侏儒の言葉」を讀んだ時以來であつた。當時自分は、芥川君の作品を愛讀して居た。もつとも自分の讀んだのは、死前二三年前の作品(河童、齒車、西方の人など)であり、その以前の小説については、ごく初期のもの以外に、殆んど知らないといふ方が好い位であつた。

 ところで「侏儒の言葉」は、そのアフオリズムの形式からが、日本では珍らしく類のない文學なので、當時やはりその種の文學を書いてた自分は、特に注意して精讀し、毎號それを卷頭に連載した雜誌「文藝春秋」を、殆んど缺かさずに讀み通した。前にも言ふ通り、當時自分はその作者の小説が好きだつたので、このアフオリズムにも期待するところが多かつた。然るにその讀後感は、いつも自分の期待を裏切り、甚だ物足らないものが多かつた。單に物足らないといふだけではなく、何かしら自分の反感をそそり、或る漠然たる怒りを感じさせるものがあつた。何故にその斷片語錄(アフオリズム)が、自分の感情を刺激し、義憤に似た反感を感じさせたのだらうか。

[やぶちゃん注:「斷片語錄(アフオリズム)」の「アフオリズム」は底本ではルビ。]

 當時自分は、その不思議な原因を色々に考へてみた。勿論その原因は、自分と作者との間に於ける、思想上の異論や衝突にあるのではなかつた。實際またそのアフオリズムには、作者のドグマを強要的に主張するやうな箇所は少しもなかつた。のみならず作者の言ふところは、理性上に於てすべて皆肯定された。だがそれにもかかはらず、自分の中の或る「道德心」が、ひどくそれを良心的に反感した。或る漠然たる、言葉に言へない判斷性が、許しがたくそれを「反道德の文學」と命名した。そのくせその斷片語錄には、普通の意味で破倫的のことや、非道德的の箇所は少しもなかつた。

 その時以來、自分は文學に於ける道德性の本質を考へて來た。そもそも文藝上に於けるモラリチイとは何だらうか。長い間、この疑問が漠然と心の隅に殘つて居た。ところで最近、偶然また芥川全集を通讀して、古い疑問への解決を發見した。自分が改めて讀んだものは、乃木大將のことを書いた「將軍」、細川ガラシヤ夫人のことを書いた「絲女覺え書」、それから「或る日の大石内藏介」等々であつた。何れも皆、一氣に讀み終つたほど面白かつた。しかもその讀後に殘つた感想は、何かの或る漠然たる、物足らなさの不滿であつた。しかもその不滿の底には、前にアフオリズムを讀んで感じたやうな、同じ種類の道德的反感が實在して居た。

 そこで初めて、自分は一つの原理に到達し得た。つまりこの作者の場合では、對象への「同情(シムパシイ)」が缺けてるのである。乃木大將といふ一人物を、作者はモノマニア的○○思想に憑かれた一奇人として、意地惡くカリカチユルに描き出してる。その限りに於て、この小説は讀者に諷刺文學的の興味をあたへる。しかしそこには、乃木大將の戲畫だけが描かれて居て、その一將軍の生きてる人間が書かれて居ない。歴史上で貞婦の鑑と言はれる細川ガラシヤ夫人は、絲女なる侍女の覺え書によつて、作者から散々にやつつけられ、鼻もちのならない倨傲の女に書かれて居る。それは世の定説を裏返し、逆の一新説を立てたことに於て、たしかに讀者の興味をひく。しかしその興味は、定説を裏返すことの興味に盡きてる。將軍に對すると同じやうに、ガラシヤ夫人に對してもまた、作者は少しもその實の人間を書いて居ない。

[やぶちゃん注:「同情(シムパシイ)」の「シムパシイ」は底本ではルビ。]

 すべての善き文學者は、一面に於ての非人情と殘酷さを持たねばならない。多くの偉大なる作家たちは、果敢に道德を蹴り飛ばして、惡魔と共に同棲して居る。意地惡さは文學の特色である。そこでゾラやモーパツサンやは、聖人を凡俗化し、英雄を小人化し、人間性のあらゆる卑劣さと醜惡とを、殘忍に意地惡くムザムザと暴露させてる。だがしかし彼等の場合は、その對象される物の中に、普遍的なる一般の人(人間性の本相)を描き出してるのである。彼等の作者は、決してその對象を憎んで居るのではない。反對に彼等は、そのモデルの中に自我の人間性を見てゐるのである。ドストイエフスキイの小説は、時に醜劣無慚の獸慾漢や、人間中での最下等の破廉恥漢やを、最もひどく暴露的に描き出してる。しかもその一人一人の人物が、何れも作者の分身であると思はれるほど、深い人間性の理解と同情をもつて書いてるのである。

 それ故に文學の本質は、結局シムパシイといふことに存するのである。文學のモラルチイには、初めから善惡の觀念は存在しない。ただ對象(人間、社會、自然)に對する同感(シムパシイ)があるばかりである。或る文學者は、對象の惡ばかりを好んで暴露し、或る文學者は、反對に善ばかりを摘出する。しかし何れの場合にせよ、作者はひとしく自己の魂を書いてるのである。對象と作者は一つである。故にまた文學の本質は、個性の狹い窓を通じて、萬有にひろがるところの共感であり、同情であり、そして要するに「愛」なのである。

[やぶちゃん注:「共感(シムパシイ)」の「シムパシイ」は底本ではルビ。]

 芥川龍之介の小説やアフオリズムに對して、自分の漠然と感じた不滿は、實にこの文學的モラリチイの缺乏から來る不滿であつた。乃木大將に對しても、ガラシヤ夫人に對しても、作者は何の共感を感じて居ないのである。單に對象の人物を、皮肉に意地惡く見ようとして、反定説的の興味で書いてるにすぎないのである。

 「侏儒の言葉」に至つては、それが最もひどく極端だつた。それは作者の人生觀や文明觀やを、斷章的な思想に書いたアフオリズムで、もとより小説とは別であつた。しかしその人生觀や文明觀やは、小説の人物に對する作者の見方と、全く同じやうな見方であり、共感性のモラリテイが全く缺けて居るのである。文學上に於ては、抽象上の概念思想といふものは存在しない。思想する文學者は、詩や小説を書く文學者と同じであり、主觀の個性的な窓を通して、普遍の人間相や文明相やを見て居るのである。故に或る對象を罵るものは、罵る所に作者のイデアと良心が發見される。然るに「侏儒の言葉」には、その良心が少しもなく、單に江戸ツ子風の氣の利いた皮肉によつて、文明や社會に厭やがらせを言つてるのである。それには多くの學識と機智があつた。しかも文學の本質すべき、魂のモラルが喪失してゐるのであつた。自分がそれに對して、漠然たる道德的反感(良心の怒り)を感じたのは、つまり自分の中のストイツクな藝術家が、許しがたい魂の冒瀆を、それの中に見たからであつた。

 そこで文學上に於ける道德性とは、つまり言つて萬有への共感性、同情性といふことになるのであらう。しかしその共感性は、結局自己の人間性に本質して居り、自我の「眞實の魂」を書くといふことになるのであるから、要するにまたレアリズムといふことにも同じになる。要するに藝術上では、美も、眞實も、現實も、イデアも、モラルも、個性も、すべて皆本質上では同じ一つの言葉に過ぎない。ただ文藝に對して、倫理上の見地から批判する場合にのみ、それがヒユーマニズムの解説をとるのである。

 

[やぶちゃん注:初出誌未詳。エッセイ集「歸郷者」(昭和一五年十月白水社刊)に所収。本テクストは底本の校異に従って「歸郷者」の表記そのままに戻してある。太字「良心的に反感」は底本では傍点「ヽ」。――朔太郎よ、君は何故、気づかない?――龍之介はちゃんと言ってるじゃあないか、そこで!――『良心とは嚴肅なる趣味である。』――『良心は道德を造るかも知れぬ。しかし道德は未だ甞て、良心の良の字も造つたことはない。』――『良心もあらゆる趣味のやうに、病的なる愛好者を持つてゐる。さう云ふ愛好者は十中八九、聰明なる貴族か富豪かである。』――『或一群の藝術家は幻滅の世界に住してゐる。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のやうに無何有の砂漠を家としてゐる。その點は成程氣の毒かも知れない。しかし美しい蜃氣樓は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵藝術には幻滅してゐない。いや、藝術と云ひさへすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も實は思ひの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない。』――『わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。』と――。]

鼻を吹く化粧の魔女 大手拓次

 鼻を吹く化粧の魔女

水仙色のそら、
あたらしい智謀と靈魂とをそだてる暮方(くれがた)の空のなかに、
こころよく水色にもえる眼鏡(めがね)、
その眼鏡にうつる向うのはうに
豐麗な肉體を持つ化粧の女、
しなやかに ぴよぴよとなくやうな女のからだ、
ほそい にほはしい線のゆらめくたびに、
ぴよぴよとなまめくこゑの鳴くやうなからだ、
ねばねばしたまぼろしと
つめたくひかる放埓とが、
くつきりとからみついて、
あをくしなしなと透明にみえる女のからだ、
ものごしの媚びるにつれて、
ものかげの夜(よる)の鳥(とり)のやうに、
ぴよぴよと鳴くやうな女のからだ、
やさしいささやきを賣る女の眼、
雨(あめ)のやうに情念をけむらせる女の指(ゆび)、
闇のなかに高い香料をなげちらす女の足の爪、
濃化粧の魔女のはく息は、
ゆるやかに輪をつくつて、
わたしのつかれた眼をなぐさめる。

鬼城句集 夏之部 麦刈

麥刈    麥刈や娘二人の女わざ

      麥刈の大きな笠に西日かな

      麥刈れば水到り田となりぬ

      麥打の轉子に飛べるてふてふかな

[やぶちゃん注:底本では「てふてふ」の後半は踊り字「〱」。「轉子」は恐らく「てんし」と読んでおり、麦や大豆などの脱穀作業に用いる農具の一種、唐棹・殻竿(からざお/さお 唐竿・連枷・くるりなどとも呼称し、長い竹竿の先端に回転する短い棒を取り付けた形状をし、この竿を持って莚の上に広げた穀物を短い棒を回転させながら叩いて脱穀する。このような脱穀方法を千歯扱きなどの「梳(す)き」に対して「打穀」と呼ぶ)自体、若しくはその先端の回転部分を指していると考えられる(唐棹の解説はウィキ唐棹」に拠った)。]

2013/06/06

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 二 雌雄同體

あの――

♪角出せ 槍出せ♪

――の「槍」とは――このキューピッドの矢(英語“Love-darts”)――だったんだねえ! 目から鱗! 蝸牛から恋(こい)の矢!



     二 雌雄同體

 雌雄同體とは一疋の個體で雌雄兩性の生殖器官を兼ね具へて居ることである。雌雄異體のものに比べると、その種類の數は遙に少いが、世人の通常知つて居る動物の中にも幾つも例がある。「かたつむり」・「なめくぢ」・「みみず」・「ひる」などは皆雌雄同體であるが、その他「ジストマ」・「さなだむし」の如き寄生蟲も、一匹ごとに兩性の生殖器を具へて居る。これらの動物では、一匹の身體の内に睾丸と卵巣とがあつて、精蟲と卵細胞とが兩方とも生ずるから、場合によつては自分の卵細胞に自分の精蟲を加へて、一疋で完全に生殖をすることも出來る。しかし二疋相寄つて互に精蟲を相手の體内に入れ合ふのが殆ど規則である。雌雄異體の動物とは違ひ、この仲間の動物は二疋出遇ひさへすれば必ず生殖が出來るといふ便利がある。運動の速な動物に雌雄同體のものが一種もなく、一疋で兩性を兼ねたものは悉く遲く匍匐する種類ばかりであるのも一つはこの故であらう。

Katasei1

[   「かたつむり」の生殖器

(い)卵巣兼睾丸   (ろ)肝

(は)輸精管兼輸卵管 (に)蛋白腺

(ほ)輸精管     (へ)輸卵管

(と)受精嚢     (ち)膣の續き

(り)鞭狀腺     (ぬ)陰莖のある邊

(る)矢の嚢     (を)膣

(わ)粘液腺     (か)嗉嚢

(よ)眼(引込みました)]

[やぶちゃん注:「(か)嗉嚢」「嗉」は画像からの識別が困難を極めたが、カタツムリの消化器官構造を調べるうち、「素嚢」=「嗉嚢(そのう)」をカタツムリが持っていることを発見し、同定に漕ぎつけた。鳥類の消化器官として最も知られる嗉嚢は、消化管の一部分で管壁が肥厚、図のように膨らんだものとなり、消化に先立って摂餌したものを一時的に貯留するための器官として特化したものである。

 実は以上のキャプションと図は本文底本としている大正十五(一九二六)年東京開成館刊の第四版の184コマ右にある『「かたつむり」の生殖器』を示してある。これまで使用してきた講談社学術文庫版の画像及びキャプションとは全く完全に異なっているためである。

 今回、上記の図の画像については国立国会図書館の底本画像の使用許可を事前に得たので示すことが出来た(ブログ使用許可番号国図電1301044-1-2355 号・許可証をダウンロード)。心より感謝申し上げる。なお、見易くするために画像の明度を補正し、汚れを除去してある。

 以下、比較参考までに講談社学術文庫版にある図及び、それとほぼ完全に同じ(「いろは」のもじのフォントが異なる)図を載せる国立国会図書館蔵の本書の大正五(一九一六)年の初版(185コマ)のキャプションを視認して示しておく。

Katasei2  

  かたつむりの生殖器

(い)卵巣兼睾丸   (ろ)輸精管兼輸卵管

(は)蛋白腺     (に)輸精管

(ほ)輸卵管     (へ)受精嚢

(と)同管      (ち)輸精管の續き

(り)付屬腺     (ぬ)矢の嚢

(る)触手      (を)輸精管の末端

(わ)口       (か)鞭狀腺

(よ)足       (た)腸の前部

(れ)心       (そ)外套膜

(つ)腸の後部    (ね)筋肉

(な)外套膜の緣

この内、「(と)同管」というのがよく分からない。位置関係から見ると膣から受精嚢に続く部分であるから、これは「導管」の謂いだろうか? 識者の御教授を乞うものである。後者は解剖図としては生殖器以外の他の内臓も示されており体制構造を知る上では情報をよく与えていると言えるが、前者は極めて立体的な交尾状況下で生殖器官に特化した解剖図で、しかも外観の一部が示され、引っ込んだ眼まで示されているという(「引込みました」という台詞があったかい!)、博物的観点からも非常に貴重な解剖図であると言えるように思われる。なお、カタツムリの生殖器の恐らく最新の生物学的な美事な図譜を以下のページで見ることが出来る。必見! 素晴らしい!]

 「かたつむり」の類はすべて雌雄同體であつて、これを解剖して見ると内部の生殖器は種々の部分から成り頗る複雜ある。まづ最も奧に位するのは卵巣兼睾丸ともいふべき器官で、卵細胞も精蟲も均しくその内で生ずる。輸卵管と輸精管とは始め共通で途中から別々になるが、その末端はふたたび合して一つの孔となり、頭部の右側で體外に開く。この孔は口より少し後へ寄つた處であるから、強ひえ人間に比べていへば恰も右の頰か頸筋位の處に當る。孔の内は直に輸卵管に續く方と輸精管に續く方との二途に分れて居るが、輸精管に續く方は稍々細くて、内に一本の長く柔い陰莖があり、常には隱て居るが、二疋交接するときにはこれを生殖孔から突き出して、相手の生殖孔に插し入れる。また輸卵管に續く方は相手の陰莖を受けるためにの膣であつて、その奥には相手から入り來つた精蟲を一時貯へて置くための小さな嚢が續いて居る。なほその外に、粘液を分泌する腺、蛋白を生ずる腺などがあり、複雜になつて居るが、特に面白いのは膣の出口に近い處、即ち相手の陰莖の入り來る處の傍に一つの嚢があつて、その中に「戀愛の矢」と名づける鋭く尖つた針が藏まつてある。キュピッドの放つ戀愛の矢は心臟を刺すさうであるが、「かたつむり」の戀愛の矢は直接に相手の交接器を刺戟して、輸精管の筋肉を收縮せしめ、精蟲をださせるやうに働く。「かたつむり」が交接するときには、二疋相接近して長い間互に體を寄せ絡(から)み合せなどして、如何にも戀愛の情に堪へぬらしい擧動を續けた後に、生殖孔を互に密接せしめ、雙方から交接器を相手の體内に插し入れる。生殖孔は頭の右側にあるから、これを互に密接せしめたときは、恰も頰を摺り合せて居るかの如き體裁である。獸類の交接を交尾といふならば、「かたつむり」の交接は寧ろ交頭と名づけねばならぬ。かくして暫く相繫がつて居た後に、交接器を拔き取り自分の體内に收めて別れて行く。卵を産むのはそれから後のことで、そのときには、各自勝手に柔い土の處に一塊として産むのである。「なめくぢ」の交接も全くこれと同樣である。

[やぶちゃん注:『膣の出口に近い處、即ち相手の陰莖の入り來る處の傍に一つの嚢があつて、その中に「戀愛の矢」と名づける鋭く尖つた針が藏まつてある』私は陸産貝類は守備範囲でないため、この「恋矢(れんし)」という特殊器官について、今回、初めて知った。調べて見れば、実に不思議な器官であることが分かって大いに勉強になった。学術的な記載が苦手な方には「所さんの目がテン!」のライブラリーにある「刀も平気!? カタツムリ 第885回 2007年6月3日」の中に、短いが、写真入りで分かり易く書かれている。ここでは、私の所持する参考書の中で最もまとまって恋矢について記載がある「日本動物大百科 無脊椎動物」(日高敏隆監修/奥谷喬司・武田正倫・今福道夫編集委員/平凡社一九九七年刊)の黒住耐二氏の執筆になる「陸生巻貝類」の項の、「針で突きあう交尾」の章を引用しておきたい(コンマ・ピリオドを句読点に代えた。読みは底本ではポイント落ちである。下線部はやぶちゃん)。

   《引用開始》

 雌雄異体の前鰓類、雌雄同体の有肺類とも、交尾による生殖を行なう体内受精である。前鰓類では、オスがペニスをもち、メスの生殖孔に挿入する。雌雄同体の有肺類でも、生殖器官にオスの部分とメスの部分があり、互いにペニスを相手の生殖孔に入れて、交尾が行なわれる。また、オカミミガイ類では、雌雄の生殖孔は別々に開口しており、数個体がつながる連鎖交尾を行なうことも確認されている。

 交尾に至る前に、ミスジマイマイ類などでは、木の幹などで、頭瘤(とうりゅう)と呼ばれる頭部の一部分をふくらませている光景が見られる。2個体が遭遇すると、オナジマイマイなどでは、互いに相手の触角や頭部をふれあわせたり、相手の体をかじったりするようなディスプレイ行動を1時間ほどのあいだに何回もくりかえし行なうのが見られる。このあとに、頭部を向きあわせる形で静止し、ペニスが挿入される。同時に、恋矢(れんし)という石灰質の数㎜程度の針形の器官で交尾相手を弱く突き刺す。この恋矢による突き刺しの行動は、交尾行動の刺激となると考えられている。恋矢は、オナジマイマイ科の種には存在するが、かならずしも有肺類すべてに存在するわけではない。

 また、同属の種間交尾も時には飼育条件下で見られており、ニッポンマイマイとヒメタマゴマイマイの例では、一方が交尾後死亡したことが観察されている。

 野外における交尾の時期は、オナジマイマイやウスカワマイマイでは春と秋にピークをもつことが知られ、とくに後者では冬眠から覚醒(かくせい)後すぐに交尾が観察されている。1日のうちでは、前者が黄昏(たそがれ)時、後者が午前中に行なうという相違もある・

 有肺類は雌雄同体であるが、ほとんどの種は他家受精を行ない、わずかな種のみが自家受精をする。ナミコギセル、ナメクジ、オナジマイマイ、ウスカワマイマイなどで自家受精が確認されている。このうち、ナミコギセルとナメクジでは、自家受精個体の産卵(産仔)数は他家受精個体と大きく変わらないようである。一方、オナジマイマイとウスカワマイマイでは、自家受精個体の産卵数はいちじるしく減少することが知られている。

   《引用終了》

ウィキの「カタツムリ」には、『リンゴマイマイ科やオナジマイマイ科など一部のグループでは生殖器に恋矢(れんし)と呼ばれる石灰質の槍状構造を持ち、交尾の際にはそれで相手を刺して刺激することが知られている。またオナジマイマイ科やニッポンマイマイ科では、生殖期に大触角の間の「額」の位置が盛り上がって瘤(こぶ)状になっているのが見られることがある。これは頭瘤(とうりゅう)と呼ばれるもので、性フェロモンを分泌すると考えられている』とあり、「いろいろな形の恋矢(れんし)とその断面」の画像が示されている(リンク先は同精密画像)。なお、英語版ウィキにはちゃんと“Love dartのページがあり、そこには学術用語かとも思われる“gypsobelum”という呼称も示されている。]

[「かたつむり」の交接]

Katakoubi

耳嚢 巻之七 病犬に被喰し奇藥の事

 病犬に被喰し奇藥の事

 

 金魚をすり潰し、其所えぬれば直に快驗なす由。其證は金魚を犬猫も一切不喰(くはざる)也。是(これ)犬の嫌ひ候所、其愁ひを去(さる)事しるべしと人の語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間療法シリーズ直連関。犬による咬傷の民間療法は既に「耳嚢 巻之六 病犬に喰れし時呪の事」に既出。類感呪術的な如何にもな意味づけである。試みに金魚を漢方薬とするかどうか(してもおかしくはないが)ネット検索を掛けてみたが、どうも見つからない。見つけた方は是非、御教授を乞うものである。

・「病犬に被喰し」は「やまいぬにくはれし」と読む。「病犬」は「耳嚢 巻之六 病犬に喰れし時呪の事」の私の注を参照されたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪しき犬に咬みつかれた際の奇薬の事

 

 金魚を摺り潰し、咬まれた箇所に塗れば、直ちに快癒するとのこと。

 その効験(こうげん)の証左はと言えば、犬猫は金魚を一切食わないことにある。

 これは犬が金魚を嫌い、忌避して御座ることを証明するものである。従って、その咬傷の悪化をも、これ、防ぐことが出来るのであると理解出来よう、と人が語って御座った。

大橋左狂「現在の鎌倉」 12 鶴岡八幡宮 円応寺

 鶴ケ岡八幡宮 鎌倉驛に下車して小町停留場に出て、江の島電車の鐵路を反對に左折すれば苦しを偲ばるゝ老松の並樹が兩側に並列して何處迄も見透しが屆かぬ樣に見受けられる、一丁餘にして石鳥居と稱す。それより一段高く土が築かれて八幡社前に至る五丁餘の芝草敷かれた中央路を俗に段葛と稱してある兩側の通路には商家軒を並べて居る。殊に左側には旅館及名物の貝細工店等が數多くある。社前の鳥居を入れば大鼓の胴の如くに反りたる石橋がある。由緣の神橋で赤橋と稱して居る。境内の兩側には一帶の蓮池がある。庭の中央に靜御前の舞ひし拜殿あり、正面石段を登れば左側に三代將軍實朝公を弑した別當公曉の隱銀杏樹(かくれいてう)の神木がある。登り詰むれば樓門あり左右に廻廊あり殿宇の莊嚴肅然たる本社あり、玆には源氏に緣故深き數百種の寶物陳列しありて一般公衆の縱覽に供しあり、拜觀料一人十錢なりと云ふ。本社には應神天皇、神功皇后、大仲媛神(おおなかひめがみ)の三神を祀り、石段下の若宮には仁德天皇を祀り、白旗の宮には右大將賴朝を祀つてある。本社は康平六年源賴義が束征の砌り山城なる石淸水の八幡を勸請したるに起因し、後ち治承四年に到り右府賴朝の鎌倉に入るや更に今の大臣山麓下に遷したのである。而して賴朝幕下の諸將が武運長久の祈願所となり漸次其名が束國に轟いたのである。今は國幣中社の社格で毎年祈年祭には奉幣使の參向がある。

[やぶちゃん注:「一丁」一町で約一〇九メートル。

「石鳥居と稱す」の「稱す」の右に底本では『(ママ)』注記がある。]

 鶴ケ岡八幡の境内を出でゝ三の鳥居に戻れば、赤橋の東に三橋旅館の支店たる薄水色に塗り上げた和洋折衷の三層樓と軒を竝べて角正(かどせう)旅館がある。角正旅館を東に折れて約一丁に鐵(かね)の井がある。鎌倉十井の一名井である。此處より南北に道路が岐れてある。北すれば有名なる鎌倉七切通の一なる巨福呂坂を登り詰めて左に石段高き處に、日本最初新居子育閻魔王と刻まれた大きな右横が建てられてある。之れぞ鎌倉五山の第一位なる臨濟宗建長寺派の大本山巨福山建長寺の末寺新居閻魔堂である。圓應寺と云ひ建長二年の建立であるそうだ。堂内には本尊の大閻魔王を初めとし七箇の閻魔王が倂列されてある。何れも運慶の作と稱してある。其内四體は國寶となつてある。寺院の住職は語つて言ふ、此寺の本尊大間魔王は其苦し近郷の惡埀兒(あくだれご)が餘りに母親の言ふ事をきかないので、母親が此閻魔王に食べて呉れと祈つたそうだ、或日の事母親は惡埀兒が見へなくなつたので、もしやと閻魔堂に來て見れば、愛兒の着物の付紐が閻魔王の口から埀れてあるので一驚其場で氣絶したそうだ。其彼此閻魔王の口からは絶えず赤き付紐が埀れてあつたそうだ、明治に至つて此埀紐を除いたとの事である。參詣者は此大本尊が眼を瞋らし口を開きて大喝せる樣は見るものをして如何に驚愕せしむる事ぞ。名も子育閻魔王と云ふ丈けに、近郷近在の善男善女は産前産後に此閻魔王に參詣して安産を祈願し又は赤兒の命名を受くるそうだ。此寺より命名を受けた赤兒は非常に健康で生長するとの事である。此寺を出でゝだらだらと坂を降れば、右に見ゆるはこれぞ臨濟宗五山の座位を定めし時第一位に置かれた、禪宗建長寺派の大本山巨福山建長寺である。

[やぶちゃん注:「三橋旅館」明治から大正にかけて海浜院ホテル(後の海浜ホテル)とともに鎌倉で最大規模を誇った長谷にあった旅館。参照したサイト「e-ざ鎌倉・ITタウン」内の浪川幹夫氏の『「三橋旅館」について』(この論文は雑誌『鎌倉』七十八号の氏の「所謂『三橋旅館』について」をもとに書き改められたものであるが、(1)(2)(3)(4)まである詳細を極めた図版・写真も豊富な素晴らしいもので、是非、一見せられたい)によれば、『文化六年(一八〇九)扇雀亭陶枝の「鎌倉日記」に、「長谷なる三ッ橋といへるにて、ひるのしたゝめする。生々しき鰺を火とらす爰は泊宿有所なり」と見えており、文化年間には既に宿屋を営んでいた』らしい老舗旅館で、福沢諭吉・原敬・伊藤博文・南方熊楠・巖谷小波・饗庭篁村・市川左団次ら、錚々たる面々が宿泊した。

「角正旅館」三橋旅館の「三橋出張」(支店)であった対鶴館角正。前に示した浪川幹夫氏の『「三橋旅館」について の2に明治二九(一八九六)年発行の『「相摸国鎌倉名所及江之嶋全図」には長谷の本館のほかに、若宮大路に「三橋出張」が描かれています。この旅館は明治三十八年横浜郵便局から発行された『横浜横須賀電話番号簿 附特設電話番号簿』によりますと、雪ノ下265(現雪ノ下1―8―35、36)に所在し、経営者は伊東右朔といいました。三十三年の同支店の広告には三階建てとあり、鶴岡八幡宮前角正旅館の並びの、薄水色に塗り上げた和洋折衷の豪壮な建物であったようです』とある。前注と同じサイトで同じく浪川氏の筆になる「古き鎌倉再見」シリーズの「その7」「その8」(ページ標題の「6」は誤り)などにも、その記載や写真がある。また、Carte watcher 氏の「鵜の目・鷹の目・絵葉書の目」の「鎌倉 鶴岡八幡宮入口 三の鳥居付近 角正旅館」には明治三〇(一八九七)年頃と推定される同旅館がはっきりと写った彩色絵葉書が見られる。これによって現在の八幡宮の三の鳥居前の、向かって左側にある駐車場に対鶴館角正はあったことがよく分かる。この写真も必見!]

俳句は抒情詩か ? 萩原朔太郎

俳句は抒情詩か ?

 

 かつて或る俳句雜誌で、「俳句は抒情詩か」といふ質問が提出され、一人の俳人と一人の小説家とが、互に反對の意見を述べて議論した。その内容はよく覺えてないが、要するに抒情詩といふ言葉の概念について、解釋の相違を論じたものにすぎなかつた。

 元來言へば、俳句が抒情詩かといふやうな質問は、櫻が顯花植物の一種かとか、人間が哺乳動物の一種であるかといふ類の質問と同じく、常識的には解り切つた自明のことで、質問それ自體が馬鹿らしく思はれるのである。しかし人間の心理は不思議なもので、あまりに明白に解り切つたことが質問されると、却つて何かそこに深遠な哲理があるやうに思はれ、質問の本意がパラドツクスに解されるのである。たとへば「人間は動物の一種であるか」といふ質問を、改めて識者から提出されると、だれも皆急には返事ができなくなる。もし「然り」と答へたら、質問の深遠なイロニイさへも理解し得ない、小學生的痴人と思はれるからである。俳句が抒情詩であることは、それがポエヂイの本質に於て、侘しをりや寂しをりやの所謂俳味を本領する詩であること、そしてこの俳味(侘びや寂びや)が、それ自ら一種の東洋的リリシズムであることを考へれば、たれでも常識的に解り切つた話である。だがこの質問が、改めて世の識者やジャーナリストから出される時、不思議にまた人々が明答を避け、懷疑的になることも事實である。

 そこで故意にむづかしく考へれば、人間が動物でないといふことの辨證が、神學者によつて立派に立つと同じく、俳句が抒情詩でないといふ辨證も、考へ方によつては立つのである。なぜなら「抒情詩」といふ言葉は、元來西洋の一詩形であるリリツクを詳した飜譯語であり、そして日本の俳句は、本來西洋の所謂リリツクではないからである。もつと詳しく説明すれば、西洋のリリツクといふ詩形は、他の敍事詩や劇詩やバラツドやに對して、一種特別の規約づけられた詩學的形式を具へ、かかる一定の詩形態によつてフオルムされた詩を言ふのである。然るにそのリリツクの規約された詩形態は、日本の俳句と全く押韻やシラブルの方則を異にしてゐる。即ち言へば、俳句はリリツクの詩形態に屬しないところの、別個の詩文學に屬するのである。

 しかしかうした辨證は、言ふ迄もなくスコラ的、唯名論的であり、事物の本質を概念の名辭によつて判定するものにすぎない。「抒情詩(リリツク)」といふ飜譯語によつて、僕等が觀念に浮べてるのは、さうした西洋詩學の規約するフオルムではなく、かうした詩文學の本質してゐる詩精神なのである。そこでこの詩精神の本質上から、俳句が果して抒情詩といふ西洋詩のイデーに當るか否かを、今一應念のために考へてみよう。

 抒情詩(リリツク)といふ言葉は、西洋近代の意味――すくなくとも十八世紀末葉以來の意味――では、二つの重要な特色を要素としてゐる。一つは、他の敍事詩や物語詩と異り、主觀の情緒、意志、イメーヂ、氣分等のものを、主觀それ自身の表象として直接に表現することであり、他の一つは――これが可成重要のことであるが――特に他の詩にまさつて、言葉の音樂性や旋律感やを、痛切に要求するところの詩精神を、内容に必然してゐるといふことである。そこでこのイデーから見ると、俳句が大體に於て抒情詩の一種であることは疑ひない。すくなくとも俳句は、西洋の敍事詩や物語詩ではなく、また警句詩や諷刺詩の類ともちがふ。

 

  さびしさや花のあたりのあすならふ  (芭蕉)

  この秋は何で年よる雲に鳥      (芭蕉)

  秋ふかき隣は何をする人ぞ      (芭蕉)

 

といふ類の俳句が、作者の主觀的な情緒(寂しさや悲しさ)の、沁々とした詠歎であり、したがつてまたその詩語に音樂的のメロヂイが強く要求されてることは、表現された作品の節奏を見ても解るのである。だがしかし、一方ではまた俳句の中に、比較的かうした抒情性が稀薄して居り、代りに知性的の印象性が克つたものもある。

 

  草の葉をすべるより飛ぶ螢かな

  蜻蛉や飛びつきかねし草の上

  鶯のあちこちとするや小家がち

  夕立や草葉をつかむ群雀

[やぶちゃん注:「草の葉を」「蜻蛉や」は芭蕉の、「鶯の」「夕立や」は蕪村の句である。なお、底本(筑摩版全集第十一巻)の「引用詩文引用一覽」には、「草の葉を」は、「いつを昔」に、

  艸(くさ)の葉を落(おつ)るより飛(とぶ)螢哉

とあるとし、また「蜻蛉や」は、「笈日記」に

  蜻蜒(とんぼう)やとりつきかねし草の上

である、とする。]

 

 この種の俳句は、前の抒情的の物に比して、著るしく繪畫的である。或はスナップ寫眞的である。したがつてまた詩の節奏する音樂性も、前の物に比して稀薄であり、ややメロヂアスの美を缺いてる。詩の意圖してゐる效果は、むしろその言葉のメロヂイにあるのでなく、語の表象する印象性の強調にある如く思はれる。即ち言へば、それは音樂的であるよりも繪畫的である。

 所で問題は、かうした繪畫的、客觀描寫的の詩が、嚴正の意味でリリツクと言ひ得るかといふ點にある。すくなくともこの種の俳句は、西洋詩學の定義する如き「主觀の直接な表現」ではない。もちろん西洋にも、かうした類の自然風物詩はたくさんあるが、それがやはり抒情詩の一種と目されてるのは(たとへばワルズオーヅやホイツトマンの詩などのやうに)それが純粹の自然描寫でなく、その自然美を取材として、作者の思想する人生觀や社會觀やを、主觀のムキ出しにした情熱で書いてるからである。つまり言へばこの種の詩は、前例に掲出した芭蕉の俳句や「古池や蛙とびこむ水の音」などと、本質に於て同じものである。ただ異なる點は、芭蕉等の思想が東洋的虛無觀を本體とし、その情操する音樂の音色が、胡弓のやうな物悲しいぺーソスを帶びてるのに反し、ホイツトマンなどの西洋詩人が、キリスト教的ヒユーマニズムの思想を把持し、したがつてまたその樂器の音色が、彼我大いに異なるといふ一事にすぎない。

 しかし他の別の俳句、「草の葉をすべるより飛ぶ螢かな」といふ類の詩には、上述の芭蕉の俳句に見るやうな、主觀のリリカルの詠歌もなく、主觀の思想する哲學もない。この種の俳句は、單に自然を自然として、その有るがままの印象や現象やを、繪畫の如く客觀的にスケツチしたものに過ぎない。そしてかういふ妙な詩といふものは、西洋には殆んど類がないのである。したがつてそれは、西洋人の思惟する「抒情詩(リリツク)」といふ觀念からは、少しく別趣の風變りな文學に屬するだらう。前に述べた或る日本の文學者(横光利一氏?)が、俳句は抒情詩に非ずと言つた理由も、おそらくこの點の見解にちがひないのだ。

 さて此處まで考へると、俳句が抒情詩であるかといふ質問も、結局その質問自身の中に、論理上の矛盾が指摘されてくる。つまりかうした質問は、日本の床の間が西洋のマンテルピースであるかとか、日本の大名が西洋のキングであるかといふ質問に同じことで、本來異質的の別な物を、強ひて同じ言語に概念させようとすることから、避けがたく生ずるところの非論理なのだ。つまり言へば日本の俳句は、西洋のエピツクやリリツクといふ言葉によつては、正確に飜譯のできないところの、世界に類なき特殊のポエムなのである。ただ確實に言へることは、それが西洋の詩の中では、リリツクに最もよく類似した特質を持つてるところの、言はば抒情詩風の詩だといふことだけである。

 そこで結論として、かういふことが言へると思ふ。

(俳句の或る多くのものは、本質に於て、まさしく西洋の抒情詩と同じであり、したがつてそれは抒情詩の一種である。だが俳句の或るものは、多少ある點で、西洋の抒情詩とちがつて居り、抒情詩といふ名稱に適切しない場合もある。)

 

 しかし西洋の詩といふものも、近頃はよほど妙なものに變つて來た。特に最近の佛蘭西あたりの詩には、抒情詩だか警句詩だか、ちよいと僕等に見當のつかないものが多い。この頃ルナアルの「博物誌」といふのを讀んだら、次のやうな句文が澤山あつた。二三の例をあげて見よう。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げである。たまたま底本全集の一行字数にすべて収まったに過ぎないのであるが、底本では総てが一行で示されている。その結果、引用の本文の文頭が一字下げであるかどうかが不明である点は注意されたい。私は種々の分析から一字下げを行わずに示した。また、かくアフォリズムの間を一行空けた。「驢馬」の「大人になつた兎」の後に句点がないのはママ。]

 

   蚯蚓

こいつはまた精いつぱい伸びをして、長々と寢そべつてゐる――上出來の卵饂飩のやうに。

 

   やまかがし

いつたい誰の腹から轉がり出たのだ、この腹痛は?

 

   驢馬

大人になつた兎

 

   蝶

二つ折の戀文が、花の番地を探してゐる。

 

   蟻

一匹一匹が、3といふ數字に似てゐる。それも、ゐること、ゐること!

どのくらゐかといふと、33333333…ああ、きりがない。

 

   あぶら蟲

鍵穴のやうに、黑く、ぺしやんこだ。

 

   蚤

彈機(ばね)仕掛けの煙草の粉(こな)。

 

   鯨

コルセツトを作るだけの材料は、ちやんと口のなかにもつてる。が、なにしろ、この、胴まはりぢや……。

 

「にんじん」や「葡萄畑の葡萄作り」で知られてるルナアルは、詩人よりは小説家として定評されてゐる作家であるし、かうした「博物誌」のやうなものも、その自然觀察の印象的覺え書として出したもので、詩といふ銘題で發表されたものではない。だがそれにもかかはらず、かうした一種の文學が、佛蘭西では詩壇的に問題にされ、日本の俳句から啓示された(註1)HAIKAI(警句的抒情詩)のエスプリとも、文學的に通ずるものと見られてるらしい。實際また、彼等のハイカイ詩と稱するものを、その飜譯を通じて見る限りでは、内容上に於て、たいてい皆この種の文學である。

[やぶちゃん注:「註1」は底本では「HAIKAI」の右上に傍注される。なお、これらは後述されるように、岸田國士が本作の公開の前年の昭和一四(一九三九)年に発表したルナール「博物誌」(白水社刊)の訳を用いている。但し、私の所持する昭和二六(一九五一)年新潮文庫版(新字新仮名版)では(そこでは以下のように総て本文の一字下げが行われている)、

 

     驢馬

 大人になつた兎。

 

で句点があり、「蝶」の「探して」は「捜して」(正字ならば「搜して」)で、「蟻」(これは本来は「蟻 1」である)も(正字正仮名に変換した)、

 

     蟻

 一匹一匹が、3といふ數字に似てゐる。

 それも、ゐること、ゐること!

 どのくらゐかといふと、333333333333…ああ、きりがない。

 

改行の相違及び「3」の数が12と、ここよりも5つ多い(ルナールの原文は無論、12である。以下のリンク先で確認されたい)。「鯨」は最後の部分が「……。」ではなく、「……!」(因みに原文“LA BALEINE”は“Elle a bien dans la bouche de quoi se faire un corset, mais avec ce tour de taille !...”である。以上の岸田の「博物誌」訳文全文(Jules Renard の“Histoires Naturelles”の原文とボナールの挿絵全図と私の注附)は電子テクストを参照されたい。ただ、私は岸田の初訳の「博物誌」を所持していないので、これらの相違が後の岸田の改稿による違いである可能性は排除出来ないことは申し添えておく。]

 だが日本人の詩學では、かういふ文學を俳句とは考へないし、もつと嚴重の意味では、本質的の詩とも考へない。上例のやうな文學は、譯者の岸田國士氏も言つてるやうに、ルナアルの日記等に現はれてる、作者の自然觀や人生觀の思想的背景を考へることなく、單にこれだけの物として讀んでは、詰らぬ機智の玩弄文學で、單に氣の利いた洒落といふだけの物にすぎないのである。然るに日本の俳句といふ文學は、決してこんな機智や思ひ附を本領とするものではない。俳句の本領とするところは、侘びや寂びやの詩的情感を、自然の風物に寄せて吟詠するにある。上例の、「蝶」「やまかがし」「蚤」「鯨」のやうなもの――單に思ひ附の機智を主意にしたもの――は、芭蕉以前に於ける談林派等の俳句には多分に有つたが、芭蕉の革改によつて、日本詩歌の正しい觀念から、眞の「詩に非ざるもの」として除外されてしまつたのである。

 所が西洋では、このルナアルの「博物誌」の如きが、その新奇の故に悦ばれて、數十版を重ねた上に、集中の句が多くの音樂家によつて作曲され、最近文壇の代表的名詩の一に數へられてゐるといふのだから、僕等の日本詩人にとつては、いささか意外の感に耐へないのである。日本でもし、かうした詩集を出版した人があつたとしたら、詩壇はせいぜい好意に評して、二流の上位ぐらゐにしか買はないだらう。

 ひとりルナアルだけではない。最近佛蘭西あたりの詩は(堀口大學君などの譯詩によつて見ても)かうした機智や思ひ附を主要素とする、輕いサロン文學的のものが多いらしい。ヴアレリイやコクトオなどの詩でさへも、少し苛酷に批評すれば、機智文學の上乘のものにすぎないだらう。すくなくとも彼等は、頭腦の詩人であつて心臟の詩人ではないかも知れぬ。西洋の詩の史家は、時にしばしば、ボードレエルを「浪漫派最後の詩人」と呼ぶけれども、この評語をややイロニイに普遍すれば、ボードレエルを「最後の佛蘭西詩人」と呼ぶ意味にもなるかも知れない。とにかく二十世紀に入つてから、歐羅巴は文化的に腐敗し盡して、眞の健全な詩精神を喪失したことは事實である。

 談が餘事に入つたが、とにかく西洋の近代詩中には、嚴重の意味で――といふのは、言葉の正統な解義によつて――抒情詩と呼ぶことの出來ないものが、益々多くなつて來るらしい。しかも彼等は、さうした短篇の近代詩を、警句詩とも諷刺詩とも呼ばず、また勿論、敍事詩とも物語詩とも呼んでゐない。西洋の詩壇では一般にさうした近代詩を概稱して、やはり「抒情詩」と呼んでるのである。して見れば日本の俳句が、近代的の意味に於て、西洋の所謂抒情詩に屬することは、櫻が顯花植物に屬する如く、當然すぎるほど當然の話である。況んや註1の如く、西洋人自身が俳句を稱して、一種の抒情詩と呼んでるのであるから。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで、全体が一字下げ。]

 註1 日本の俳句は、西洋の詩人によつて「警句的抒情詩」と稱されてゐる。警句詩即ちエピグラムは、西洋詩の中で最も短い形式のものであるから、この譯語の意味は「最短詩形の抒情詩」即ち「珠玉的抒情詩」といふ意味だと思ふが、彼等の所謂 HAIKAI 詩を讀んで推察すると、この「警句的」といふ言葉が、單に短詩形といふだけではなく、詩の内容上の意味にも關してゐる如く思はれる。つまり彼等の西洋人は、俳句の本領たる侘びや寂びのリリツクよりも、むしろその機智の警句的な閃めきを悦ぶらしい。だから彼等が眞に理解し得るものは、芭蕉や蕪村の俳句(眞の抒情詩としての俳句)でなくして、機智の思ひ附や洒落を主とするところの、芭蕉以前の談林俳句や、江戸末期の宗匠俳句なのである。この種の俳句は、嚴重に言つて抒情詩といふべきよりは、むしろ警句詩といふ方が正しく、さらに一層適切には、西洋人の譯した如く、正に「警句的抒情詩」なのである。

 

[やぶちゃん注:『知性』第三巻第三号・昭和一五(一九四〇)年三月号に初出し、後にエッセイ集「歸郷者」(昭和一五年十月白水社刊)に所収された。

 芥川龍之介がこれ以前、恐らくこのルナールの「博物誌」をインスパイアして(未確認ながら岸田が部分的に発表した「博物誌」の訳があったとして、それを参考にした可能性もすこぶる大)、「動物園」(大正九(一九二〇)年)や「新緑の庭」(大正一三(一九二四)年)を書いていることを考えると、それらを意識して朔太郎が亡き友で『詩を熱情してゐる小説家』と評した芥川のそれらをも、批判的視野に於いて書いている可能性がすこぶる大きいと考えてよい。

 それにしても――『歐羅巴は文化的に腐敗し盡して、眞の健全な詩精神を喪失した』という言い方は――私などには――「ふーん、あの朔太郎が言うかねぇ」――という気がしてくる。この頃の所謂、朔太郎の『日本への回帰』――日本主義者というレッテルの中身が、何となく見えてくる気が、私にはするのである。……]

鬼城句集 夏之部 人事 田植

  人事

 

田植    水の邊や大鍬(おんぐは)はづして田植馬

[やぶちゃん注:「大鍬(おんぐは)」特異な読みである。高崎地方の方言か。茨城方言に「犂・大鍬」の意で「おーが」というのがある(昔の茨城弁集/茨城方言大辞典/おに拠る)。]

      小さき子に曳かれていばふ田植馬

[やぶちゃん注:「いばふ」「嘶ふ」はヤ行下二段動詞「いばゆ」の音が変化してハ行下二段化したもの。嘶(いなな)く、の意。]

幻想文学ベスト3夢

どこかの学校である。
国語教師らしいが、授業するシーンはなく、生徒や同僚との雑多なで退屈な日常的なシーンが延々と続く。
映像としてはすこぶる退屈な夢だった(各シチュエーションを幾つか覚えているがあまりにつまらないので説明する気も起らない体(てい)のものである)。

が、面白いのはその中で――僕はどうやら勝手にさりげなく「僕の幻想文学ベスト●」を選ぼうと意識している――らしいことが伝わってくる――ということであった。退屈なストーリーの中で僕は妙に意識的に作家名と作品を会話の中に仕組んでいるのである。

微妙に面白いのは「幻想文学ベスト●」という言葉を夢の中の僕は口にしない点である。
これは実は――夢を見ている僕の意識が『この夢の中の僕は自分の最良と思われる「幻想文学ベスト●」を選ぼうとしているな。』とはっきり意識していた点にあるのである。

後は結果を発表して終わろう。
夢の中の僕が会話の中で口にしたそれは、

1 ロバート・ネイサン「ジェニーの肖像」

2 ロバート・シェイクリー「蛭」

3 世阿弥「葵上」[やぶちゃん注:能のそれである。世阿弥が改作したものとも伝えられる。]

であった。

[やぶちゃん注:一つだけ、この3の夢のシークエンスを試みに説明する。]――私は教室で、そこの学校の校長に頼まれて本作の説明をしようとしているのである。たまたまその時読んでいた本の中に出てくるので、それがどこに載っているかを捜しながら僕は、校長に能の「葵上」の語るのであるが、それを聴いていたその教室にいる男子生徒が、「先生、全然、違いますよ。そこは、これこれこうです。」と誤りを指摘されるのである。そうしてやっと探し当てたページには、確かに今、生徒が言った通りのことが書いてあるのであった。――(ここで目が醒めた)


*覚醒後分析

覚醒直後に僕は
『さっきの夢は「幻想文学ベスト10」を選ぶ夢だったのに、3つで終って残念だったなあ、後、7作が知りたかったなあ』
と思ったのだが、ベスト10であったのか、もともとベスト3だったのかは実ははっきりしなかった。
ともかくも上記の3作を、どうも『夢の中の僕』は「僕の幻想文学ベスト入り作品だ」と表明したかったらしいことだけは、分かったのである(そこで一応、この夢の標題を「幻想文学ベスト3夢」とした)。

問題はその『夢の中の僕』が選んだ三つの作品である。

1 ロバート・ネイサン「ジェニーの肖像」
これは問題ない。恐らく覚醒時の僕が、愛読書を10冊、と言われたら、本作を間違いなく挙げる。恐らく、これを僕は過去、十回以上読んでいるからだ(最初の入口は実は小学生の時に見たこの映画版(1948年)のジェニファー・ジョーンズの美しさにあったことは自白する)。タイム・スリップの恋愛幻想文学として、フィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」とともに「僕の幻想文学ベスト10」に入ることも間違いない作品である。

2 ロバート・シェイクリー「蛭」(通常は平仮名の「ひる」で知られる)
「ウルトラQ」の「バルンガ」や映画「エイリアン」への影響が疑われ、先行する「遊星からの物体X」の原作ジョン・キャンベル「影が行く」辺りが影響を与えているようにも思われる本作は、善悪を越えた存在としてのエイリアンというシチュエーションが――好き――ではある。しかし覚醒時の僕は残念ながらこれを決して「僕の幻想文学ベスト10」に入れることは――今も昔もこれからも――ない。
ベスト10でもし僕がSFを入れるとすれば(しかしSFは多分、入れないのだが)――クラークの「2001年宇宙の旅」――あとは――レムの「惑星ソラリス」――を入れるか入れないかであろう


3 世阿弥「葵上」
問題はこれだ。
僕は能の「葵上」を見たことが――ない
僕は簡単な梗概を管見したことはあるが、能の謠本の「葵上」を持ってはいるが――読んだことが――ない
「源氏物語」の、所謂、車争いから六条御息所の葵上への憑霊の場面は、僕のいっとう好きなシークエンスで、授業や保護者向けのカルチャー教室でもオリジナルなものやったことはあるけれど――「僕の幻想文学ベスト10」にそれを入れるかと言われれば……いや?……確かに「僕の幻想文学ベスト10」というなら……「源氏物語」の「葵」なら、これ、入れても、いいかも……という気に今はなってる――しかし無論――見たことも聴いたことも読んだこともない能の「葵上」を挙げるはずは――絶対ない

因みに、実は僕はベスト・ランキングをあまり好まないのだ。
だからここでも――『覚醒時の僕の』幻想文学ベスト3――は挙げないことにしよう。いや……やり出すとまたまた一日……それで潰すことにも、なりかねないから、ね。……

未明の夢が、こうして今朝の曙の時間、たっぷり僕を楽しませてくれたのであった。……

2013/06/05

栂尾明恵上人伝記 35

 同六年〔戌寅〕秋、聊か喧譁(かまびすし)き事有るにより、栂尾より賀茂(かも)の神山(かみやま)に移り給ふ。塔(たふ)の尾(を)の麓に四五間の庵室を結び、經藏一宇を立て、神主能久(よしひさ)之を施與(せよ)し奉る。是に暫く住み給ひけり。或人の許より、栂尾を住み捨て給ふ事なんど、歎き訪ひ申したりしかば、
  浮雲は所定めぬ物なればあらき風をもなにかいとはん
此の處をば佛光山(ぶつくわうざん)と名つけ給ひける。爰に一年計り栖み給ひて、同法達(どうばうだち)を留守に置き、又栂尾へ歸り給ふ。
[やぶちゃん注:「同六年」建保六(一二一八)年。満四十五歳。
「賀茂の神山」上賀茂神社(正式には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ))の真北の後背地にある、現在は神山(こうやま)と呼称される上賀茂神社の神体山(しんたいさん)。かつては「かもやま」と読んだという。現在の北区柊野(ひらぎの)にあって標高は三〇一・五メートル。上賀茂神社の祭神賀茂別雷命が降臨した山とされ、頂上に降臨石と名付けられた岩塊が残存する。歌枕。
「塔の尾」岩波版「明恵上人集」の諸注を勘案すると、この神山の近くにあった尾根かピークの名らしい。
「神主能久」賀茂能久(承安元(一一七一)年~貞応二(一二二三)年)賀茂別雷神社の神主。権禰宜から建保二(一二一四)年に神主職となった。後鳥羽上皇の近臣で、後の承久の乱では幕府軍と戦って六波羅に捕縛され、太宰府に流罪となってそこで没した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

 承久二年の比、石水院にして重て菩薩戒を興行(こうぎやう)して、香象の梵網の疏を談ず。毎日、諸衆集會(しふゑ)の次(ついで)でを以て、梵網の戒本・十重の文竝に四十八輕戒の内四五戒を副(そ)へ講ずる事數遍なり。其の間、或る時は瑞光を現じ、或る時は梵僧來る。或るは夢に數十人の梵僧、説戒の時刻を待つて天井の上に集會して向ひ給ふと見る。又大聖文殊(だいしやうもんじゆ)現じて、持戒淸淨(ぢかいしやうじやう)の印明(いんみやう)を授け奉り給ふ。彼の山に今に相承せり。
[やぶちゃん注:「或るは夢に」日常の秘蹟の中に、何の違和感もなく夢(無論、明恵の夢である)の中の出来事が並列して書かれる辺り、流石は夢記(ゆめのき)の明恵上人の伝記である、という気がして面白い。
 以下の一段は底本では全体が二字下げの注のような感じで、平泉洸全訳注「明惠上人伝記」の訳文では頭に『(後補)』とある。]
大聖文殊影現の事紀州白上峰(しらがみみね)に於てなり。今に彼の遺跡に文殊影嚮(もんじゆやうかう)と號する松あるなり云々

時計台之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)


Tokeidai1
Tokeidai2時計台之圖

 

 永遠の孤獨の中に悲しみながら、冬の日の長い時をうつてる時計台―。避雷針は空に向つて泣いて居るし、街路樹は針のやうに霜枯れて寂しがつてる。見れば大時計の古ぼけた指盤の向うで、冬のさびしい海景が泣きわびて居るではないか。 

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年版畫莊刊「定本靑猫」より(そこでは「台」であり、「臺」ではない)。「時計台之圖」は厳密には詩題ではなく、版画のキャプションで、絵の下中央に右から左へ記されてあり、詩はその下に縦書されている。提示した版画画像は最初の薄く摺りなしたものが、

●新潮社昭和四一(一九六六)年刊「日本詩人全集14 萩原朔太郎」所収の「時計台之図」

 

で、二番目の摺りの極めて濃いものが、底本とした

 

●筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郎全集 第二卷」所収の「時計臺之圖」

 

である。摺りによって甚だしく印象が極端に異なるので二種ともに掲げた。

 

 当該の図と散文詩は、底本の「定本靑猫」では親本と同位置である、詩「大井町」と「吉原」の間に配されいる。参考までにそれぞれの詩を示す。 

 

 大井町

 

おれは泥靴を曳きずりながら

 

ネギや ハキダメのごたごたする

 

運命の露路をよろけあるいた。

 

ああ 奧さん! 長屋の上品な嬶(かかあ)ども

 

そこのきたない煉瓦の窓から

 

乞食のうす黑いしやつぽの上に

 

鼠の尻尾でも投げつけてやれ。

 

それから構内の石炭がらを運んできて

 

部屋中いつぱい やけに煤煙でくすぼらせろ。

 

そろそろ夕景が薄(せま)つてきて

 

あつちこつちの屋根の上に

 

亭主のしやべるが光り出した。

 

へんに紙屑がぺらぺらして

 

かなしい日光の射してるところへ

 

餓鬼共のヒネびた聲がするではないか。

 

おれは空腹になりきつちやつて

 

そいつがバカに悲しくきこえ

 

大井町織物工場の暗い軒から

 

わあツ! と言つて飛び出しちやつた。

 

 

 

[やぶちゃん注:ここに「時計台之圖」。]

 

 

 吉原

 

高い板塀の中にかこまれてゐる

 

うすぐらい陰氣な區域だ。

 

それでも空地に溝がながれて

 

木が生え

 

白き石炭酸の臭ひはぷんぷんたり。

 

吉原!

 

土堤ばたに死んでる蛙のやうに

 

白く腹を出してる遊廓地帶だ。 

 

かなしい板塀の圍ひの中で

 

おれの色女が泣いてる聲をきいた

 

夜つぴとへだ。

 

それから消化不良のうどんを食つて

 

煤けた電氣の下に寢そべつてゐた。

 

「また來てくんろよう!」 

 

曇つた絕望の天氣の日でも

 

女郎屋の看板に寫眞が出てゐる。 

 

[やぶちゃん注:太字「しやべる」は底本では傍点「ヽ」。]

市街之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)

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Sigai2_2

 

市街之圖

 

散步者のうろうろと步いてゐる
十八世紀頃の物わびしい裏町の通があるではないか
靑や 赤や 黃色の旗がびらびらして
むかしの出窓にブリキの帽子が並んでゐる。
どうしてこんな 情感の深い市街があるのだらう。
         ――荒寥地方――

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年版畫莊刊「定本靑猫」より。「市街之圖」は厳密には詩題ではなく、版画のキャプションで、絵の下中央に右から左へ記されてあり、詩はその下に縦書されている。提示した版画画像は最初の薄く摺りなしたものが、

●新潮社昭和四一(一九六六)年刊「日本詩人全集14 萩原朔太郎」所収の「市街之圖」

で、二番目の摺りの極めて濃いものが、底本とした

●筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郎全集 第二卷」所収の「市街之圖」

である。摺りによって甚だしく印象が極端に異なるので二種ともに掲げた。
 当該の図と散文詩は、底本の「定本靑猫」では親本と同位置である、詩「艶めかしい墓場」と「くずれる肉體」の間に配されいる。参考までにそれぞれの詩を示す。

 

 艶めかしい墓場

 

風は柳を吹いてゐます
どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。
なめくぢは垣根を這ひあがり
見はらしの方から生(なま)あつたかい潮みづがにほつてくる
どうして貴女(あなた)はここに來たの?
やさしい 靑ざめた 草のやうにふしぎな影よ。
貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない
さうしてさびしげなる亡靈よ!
貴女のさまよふからだの影から
まづしい漁村の裏通りで 魚のくさつた臭ひがする。
その腸(はらわた)は日にとけてどろどろと生臭く
かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。
ああ この春夜のやうになまぬるく
べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ
妹のやうにやさしいひとよ。
それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 眞理でもない
さうしてただ なんといふ悲しさだらう。
かうして私の生命(いのち)や肉體はくさつてゆき
「虛無」のおぼろげな景色のかげで
艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。

 

[やぶちゃん注:ここに「市街之圖」。]

 

 くづれる肉體

 

蝙蝠のむらがつてゐる野原の中で
わたしはくづれてゆく肉體の柱(はしら)をながめた。
それは宵闇にさびしくふるへて
影にそよぐ死(しに)びと草(ぐさ)のやうになまぐさく
ぞろぞろと蛆蟲の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。
ああこの影を曳く景色のなかで
わたしの靈魂はむずがゆい恐怖をつかむ
それは港からきた船のやうに 遠く亡靈のゐる島島を渡つてきた。
それは風でもない 雨でもない
そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ。
さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に
わたしのくづれてゆく影がさびしく泣いた。

 

「死びと草」「なまぐさく」とあるから恐らくドクダミと思われる。シビトグサの異名を持つものとしては他にヒガンバナがある。
 私は中学時代、この末尾の「荒寥地方」という言葉の響きと「寥」という見慣れぬ奇体な漢字に、当時私がいた、北陸の冬の海の響きを感じて、異様な偏愛感を抱いていた。今も私は「荒寥地方」という絶対零度の反響が好きである。]

海港之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)

Kaikou1
Kaikou2
海港之圖

 

 

 港へ來た。マストのある風景と、浪を蹴つて走る蒸汽船と。

 

 どこへもう! 外の行くところもありはしない。

 

 はやく石垣のある波止場を曲り

 

 遠く沖にある帆船へ歸つて行かう。

 

 さうして忘却の錨をとき、記憶のだんだんと消えさる港を訪ねて行かう。

 

       ――まどろすの歌――

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年版畫莊刊「定本靑猫」より。「海港之圖」は厳密には詩題ではなく、版画のキャプションで、絵の下中央に右から左へ記されてあり、散文詩はその下に縦書されている。後半の「まどろすの歌」というのは、「定本靑猫」のこの版画位置よりも後にある詩篇の一部を、このために、やや改変したものを用いている。提示した版画画像は最初の薄く摺りなしたものが、

 

●新潮社昭和四一(一九六六)年刊「日本詩人全集14 萩原朔太郎」所収の「海港之図」

 

で、二番目の摺りの極めて濃いものが、底本とした

 

●筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郞全集 第二卷」所収の「海港之圖」

 

である。摺りによって甚だしく印象が極端に異なるので二種ともに掲げた。

 

 当該の図と散文詩は、底本の「定本靑猫」では親本と同位置である、詩「桃李の道」と「風船乘りの夢」の間に配されいる。参考までにそれぞれの詩を示す。 

 

 桃李の道
      老子の幻想から

 

聖人よ あなたの道を敎へてくれ

 

繁華な村落はまだ遠く

 

鷄(とり)や犢(こうし)の聲さへも霞の中にきこえる。

 

聖人よ あなたの眞理をきかせてくれ。

 

杏の花のどんよりとした季節のころに

 

ああ私は家を出で なにの學問を學んできたか

 

むなしく靑春はうしなはれて

 

戀も 名譽も 空想も みんな泥柳の牆(かき)に涸れてしまつた。

 

聖人よ

 

日は田舍の野路にまだ高く

 

村村の娘が唱ふ機歌(はたうた)の聲も遠くきこえる。

 

聖人よ どうして道を語らないか?

 

あなたは默し さうして桃や李やの咲いてる夢幻の鄕(さと)で

 

ことばの解き得ぬ認識の玄義を追ふか。

 

ああ この道德の人を知らない

 

晝頃になつて村に行き

 

あなたは農家の庖厨に坐るでせう。

 

さびしい路上の聖人よ

 

わたしは別れ もはや遠くあなたの沓音(くつおと)を聽かないだらう

 

悲しみのしのびがたい時でさへも

 

ああ 師よ! 私はまだ死なないでせう。 

 

[やぶちゃん注:ここに「海港之圖」。] 

 

 風船乘りの夢

 

夏草のしげる叢(くさむら)から

 

ふはりふはりと天上さして昇りゆく風船よ

 

籠には舊曆の曆をのせ

 

はるか地球の子午線を越えて吹かれ行かうよ。

 

ばうばうとした虛無の中を

 

雲はさびしげにながれて行き

 

草地も見えず 記憶の時計もぜんまいがとまつてしまつた。

 

どこをめあてに翔けるのだらう!

 

さうして酒瓶の底は空しくなり

 

醉ひどれの見る美麗な幻覺(まぼろし)も消えてしまつた。

 

しだいに下界の陸地をはなれ

 

愁ひや雲やに吹きながされて

 

知覺もおよばぬ眞空圈内へまぎれ行かうよ。

 

この瓦斯體もてふくらんだ氣球のやうに

 

ふしぎにさびしい宇宙のはてを

 

友だちもなく ふはりふはりと昇つて行かうよ。 

 

太字「ぜんまい」は底本では傍点「ヽ」。]

 

 

ホテル之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)

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             ホテル之圖

 ホテルの屋根の上に旗が立つてる。何といふ寂しげな、物思ひに沈んだ旗だらう。鋪道に步いてる人も馬車も、靜かな郷愁に耽りながら、無限の「時」の中を徘徊してゐる。そして家家の窓からは、閑雅なオルゴールの音が聞えてくる。この街の道の盡きるところに、港の海岸通があるのだらう。すべての出發した詩人たちは、重たい旅行鞄を手にさげながら、今も尚このホテルの五階に旅泊して居る。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年版畫莊刊「定本靑猫」より。「ホテル之圖」は厳密には詩題ではなく、版画のキャプションで、絵の下中央に右から左へ記されてあり、散文はその下に縦書されている。提示した版画画像は最初の薄く摺りなしたものが、
●新潮社昭和四一(一九六六)年刊「日本詩人全集14 萩原朔太郎」所収の「ホテル之圖」
で、二番目の摺りの極めて濃いものが、底本とした
●筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郎全集 第二卷」所収の「ホテル之圖」
である。摺りによって甚だしく印象が極端に異なるので二種ともに掲げた。
 当該の図と散文詩は、底本の「定本靑猫」では親本と同位置である、詩「群集の中を求めて步く」と「靑猫」の間に配されいる。参考までにそれぞれの詩を示す。

 群集の中を求めて步く

私はいつも都會をもとめる
都會のにぎやかな群集の中に居るのをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ。
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ。
ああ 春の日のたそがれどき
都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。
みよ この群集のながれてゆくありさまを
浪は浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり、日影はゆるぎつつひろがりすすむ。
人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと、みなそこの日影に消えてあとかたもない。
ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影
たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは淚ぐましい。
いま春の日のたそがれどき
群集の列は建築と建築との軒をおよいで
どこへどうしてながれて行かうとするのだらう。
私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影。
ただよふ無心の浪のながれ
ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
もまれて行きたい。

[やぶちゃん注:ここに「ホテル之圖」。]

 靑猫

この美しい都會を愛するのはよいことだ
この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい娘等をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の竝木
そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。
ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一匹の靑い猫のかげだ
かなしい人類の歷史を語る猫のかげだ
われらの求めてやまざる幸福の靑い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

太字「ぐるうぷ」は底本では傍点「ヽ」。]

耳嚢 巻之七 打身くじきの妙藥の事

 打身くじきの妙藥の事

 

 櫻の葉を摺りて燒酎にてねり痛(いたむ)所へ塗(ぬり)、能(よく)かはかし、又乾けば又ぬるに、忽(たちまち)に快驗をする事也。栗原翁しれる者、荷をかつぎ薪の間(あひだへ)倒れ、惣身を打候哉(や)存外なやみける也。田舍より來ぬる老人、夫(それ)はかくかくなせば宜敷(よろしき)とて即座に其效を現はせしと語りぬ。櫻の葉なき時は皮を粉にして用(もちゐ)る也と言(いふ)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。本文には「櫻の葉」が出、後に「皮」でもよいとあるが、皮は古来、「桜皮(おうひ)」と呼ばれて漢方薬として用いられてきた。漢方系サイトの記載によれば、六~七月頃にサクラの樹皮を剝したものを乾燥したり、日干しにして生薬として市販されているとある。「桜皮」にはタンニンやサクラニン(Sakuranin:フラボノイドの一種。)が含まれており、腫れ物・蕁麻疹・水虫・二日酔・皮膚病・肩こりなどに効果があるとある。特に湿疹では患部に塗ると効果があるとあり、本記載とは異なり、多くは皮膚疾患の効能を謳っている。

・「又乾けば又ぬるに」病態と効果から考えて、重ね塗りではなく、乾燥して剥離したら、の謂いであろう。

・「栗原翁」このところ御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクテイヴな情報屋で、既に何度も登場している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 打身・挫きの妙薬の事

 

 桜の葉を摺(す)って焼酎を用いて練り、痛む箇所へ塗って、よく乾燥させ、それが十分に乾いて剥離したら、再び、同じ箇所に塗る。すると、即座に快癒するということで御座る。

 例の栗原翁――彼の知人の者、荷を担いだままに積み置かれた薪の山の中へ倒れ込んで、全身をしたたか打ったとかで、殊の外、痛みを訴えて御座ったところ、さる田舍より出でて御座った老人が、

「それは、桜の葉を以ってかくなさば、よろしゅう御座る。」

と申したによって、言われた通りになしたところが、即座にその効果が現われた――と語って御座った。

 時節柄、桜の葉が散ってなき時には、桜の樹皮を剝して粉とし、処方致いてもよい、とのことで御座る。

大橋左狂「現在の鎌倉」 11 名所古蹟 序

     名所古蹟

 

 新橋驛を發した下り列車と、神戸・大坂・名古屋方面よりの上り列車が靜岡・國府津の各驛を通過して、大船驛に着きぬ。此處は横須賀支線の分岐點である。驛長・車掌・驛夫等が熱心に乘換方面の案内をして居る。各列車から吐出された數百の旅客は右往左往思ひくの方面に乘換した。やがて驛鈴の合圖と共に横須賀行きと記された汽車は、黑烟を吐ひて軌り出した。逆風に黑姻を吹き込む車窓から呑氣に頸を出して四方の風景を大聲擧げて賞して居る赤毛布達(あかげつれれん)もある。此次驛は鎌倉驛だと騷がしく甲から乙へ乙から丙へと傳言する遊覽團員もある。フロックコート山高帽子の紳士、白髮銀髯(ぎんせん)の元老も、正裝を擬した新婚旅行の若夫婦もある。赧顏(しやがん)嚴めしき海陸の軍人もある。客車内は百人千種の話しに囂しい。間もなく列車は轟々と隨道(とんねる)内に入つた。此隊道を扇ケ谷の隨道又は尾藤ケ谷の隨道とも言ふ。此邊は上杉管領時代に於て、扇ケ谷上杉の舊館趾で其れに續いて尾藤景綱の邸跡もある。列車は絹を劈ひた樣な汽笛を幾囘となく鳴して隨道を出ると漸次に徐行して鎌倉驛構内に停車した。數百の遊覽團體、一日の日曜を利用した箇々の遊覽客、一家族を引連れた避暑客等數へ切れぬ多くの下車客が潮の如く押しつ押されつ改札口から出た。

[やぶちゃん注:「大船驛」明治二一(一八八八)年十一月一日、官設鉄道駅として開業。旧東海道沿いに駅を置くべきとの意見が明治新政府内部にあったため、最後まで大船駅の設置については紛糾した。当初は旅客取り扱いのみの旅客駅であった。駅正面は当時は西側(観音側)のみであった。明治二二(一八八九)年六月十六日に横須賀線が横須賀駅まで開通して分岐駅となった。貨物取り扱い開始は明治二七(一八九四)年から(ウィキの「大船駅」に拠る)。

「赤毛布」赤ゲット。「ゲット」は「ブランケット」の略で、田舎から都会見物に来た人、お上りさんをいう語。語源は明治初期の東京見物の地方旅行者の多くが赤い毛布を羽織っていたことに由来する。

「赧顏(しやがん)」の読みは底本のママ。これは「たんがん」と読むのが正しい。本来は顔を赤くすること、恥じること、赤面の謂いであるが、恐らくはこれ、「赭顏(しやがん)」の親本の誤植であろう。軍人の日に焼けた赤銅色の赤味がかった顔、赤ら顔の謂いと思われる。

「扇ケ谷の隨道又は尾藤ケ谷の隨道」「尾藤ケ谷」とは「尾頭谷」ともいい、伝山ノ内管領屋敷の向かい側、浄智寺の東の谷、本文通り、現在の横須賀線が北鎌倉から鎌倉へ抜けるトンネル(正式名は「扇ガ谷トンネル」か)に進入する谷を指す。「新編鎌倉志卷之三」に、

○尾藤谷 尾藤谷(びとうがやつ)は、管領屋敷の向ひ、淨智寺の東鄰の谷(やつ)也。里人の云く、昔し尾藤(びとう)左近將監景綱(かげつな)此に居す。又圓覺寺額(がく)の添狀に、延慶元年十一月七日、進上、尾藤左衞門尉殿、越後の守貞顯とあり。此尾藤歟。又佛日菴に、小田原よりの文書あり。鼻頭谷(びとうがやつ)と書けり。

とある。但し「吾妻鏡」によれば、その時既に泰時の邸内に彼が住居を構えていた旨の記載があり、泰時邸は当時の幕府正面、現在の宝戒寺のある位置であることが判明しているので、ここをもし尾藤の居宅とするならば、彼が身内の事件に端を発して出家した嘉禄三(一二二七)年以降のことかとも思われる。しかし彼は病没する前日まで家令として幕政実務を取り仕切っていたことも分かっており、彼をこの谷名の同定候補(少なくとも屋敷跡の谷とすること)とするのには私には疑問が残る。なお、この忘れられた谷(皆、電車で通過するばかりで訪れる人は殆んどない)には多くのやぐら遺構が現在も見られる。「鎌倉旅行 クチコミガイド」内にあるドクターキムル氏執筆の「鎌倉山ノ内尾藤谷のやぐら」に尾藤景綱の事蹟も含め、詳細な解説と写真がある。

「尾藤景綱」(びとうかげつな ?~文暦元(一二三四)年)は北条泰時の被官。藤原秀郷の子孫知景の子で通称を尾藤次郎といった。左近将監。承久の乱に際して、泰時が十八騎を従えて出立した際の一人。元仁元(一二二四)年に泰時が執権に就任すると初代の家令となって公文所を統括した。北条氏御内人(みうちにん)として平盛綱・諏訪盛重らとともに、朝廷との折衝・御家人統制に貢献し、条例制定や義時追福の伽藍建立などの様々な行事の奉行人を務めるなど、泰時の懐刀であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「尾藤景綱」を参照した)。]

 驛前の構内には百餘の人力車が並べられてある。而して此人力車は殆んど新式のゴム輪(わ)である。車輪の體裁が良いので一見乘車賃迄が高價の樣に考へる田舍赤毛布達もあるが、決して京濱其他の地方より高價の事はないのである。人力車の取締役・世話役は絶えず構内に出張して、多くの輓子が乘客に不都合のない樣監督をして居る。停車場を出でゝ眞直に往けば玆には江の島電車が置いてある。小町停留場と云ふてこれより長谷、七里ケ濱、江の島、藤澤に往くのである。

[やぶちゃん注:先の「人力車」の力の入った記載といい、ここでのダメ押しの褒め言葉といい、どうもタイアップ広告の臭いがぷんぷんする。]

停車場之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)

Teisya1
Teisya2
             停車場之圖

 無限に遠くまで續いてゐる、この長い長い柵の寂しさ。人氣のない構内では、貨車が靜かに眠つて居るし、屋根を越えて空の向うに、遠いパノラマの郷愁がひろがつて居る。これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年版畫莊刊「定本靑猫」より。「停車場之圖」は厳密には詩題ではなく、版画のキャプションで、絵の下中央に右から左へ記されてあり、散文はその下に縦書されている。提示した版画画像は最初の薄く摺りなしたものが、
●新潮社昭和四一(一九六六)年刊「日本詩人全集14 萩原朔太郎」所収の「停車場之圖」
で、二番目の摺りの極めて濃いものが、底本とした
●筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郎全集 第二卷」所収の「停車場之圖」
である。摺りによって甚だしく印象が極端に異なるので二種ともに掲げた。残念ながら私は当該詩集「定本靑猫」の初版は所持していないので親本の摺りの状態を知ることは出来ない。
 当該の図と散文詩は、底本の「定本靑猫」では親本と同位置である、詩「家畜」と「漁夫」の間に配されいる。参考までにそれぞれの詩を示す。

 家畜

花やかな月が空にのぼつた
げに大地のあかるいことは。
小さな白い羊たちよ
家の屋根の下にお這入り
しづかに涙ぐましく 動物の足調子をふんで。

[やぶちゃん注:ここに「停車場之圖」。]

 農夫

海牛のやうな農夫よ
田舍の屋根には草が生え、夕餉(ゆふげ)の煙ほの白く空にただよふ。
耕作を忘れたか肥つた農夫よ
田舍に飢饉は迫り 冬の農家の壁は凍つてしまつた。
さうして洋燈(らんぷ)のうす暗い廚子(づし)のかげで
先祖の死靈がさむしげにふるへてゐる。
このあはれな野獸のやうに
ふしぎな宿命の恐怖に憑(つ)かれたものども
その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈(かさ)がかかる。
冬の寒ざらしの貧しい田舍で
愚鈍な 海牛のやうな農夫よ。

 なお、朔太郎はその自序の掉尾に、この挿絵について数言を費やしている。以下に自序の最後のクレジットと署名を含めて示しておく。

插繪について 本書の插繪は、すべて明治十七年に出版した世界名所圖繪から採録した。畫家が藝術意識で描いたものではなく、無智の職工が寫眞を見て、機械的に木口木版(西洋木版)に刻つたものだが、不思議に一種の新鮮な詩的情趣が縹渺してゐる。つまり當時の人人の、西洋文明に對する驚き――汽車や、ホテルや、蒸汽船や街路樹のある文明市街やに對する、子供のやうな悦びと不思議の驚き――が、エキゾチツクな詩情を刺激したことから、無意識で描いた職工版畫の中にさへも、その時代精神の浪漫感が表象されたものであらう。その點に於て此等の版畫は、あの子供の驚きと遠い背景とをもつたキリコの繪と、偶然にも精神を共通してゐる。しかしながらずつと古風で、色の褪せたロマンチツクの風景である。
 見給へ。すべての版畫を通じて、空は靑く透明に晴れわたり、閑雅な白い雲が浮んでゐる。それはパノラマ館の屋根に見る靑空であり、オルゴールの音色のやうに、靜かに寂しく、無限の郷愁を誘つてゐる。さうして鋪道のある街街には、靜かに音もなく、夢のやうな建物が眠つてゐて、秋の巷の落葉のやうに、閑雅な雜集が徘徊してゐる。人も、馬車も、旗も、汽船も、すべてこの風景の中では「時」を持たない。それは指針の止つた大時計のやうに、無限に悠悠と靜止してゐる。そしてすべての風景は、カメラの磨硝子に寫つた景色のやうに、時空の第四次元で幻燈しながら、自奏機(おるごをる)の鳴らす侘しい歌を唄つてゐる。その侘しい歌こそは、すべての風景が情操してゐる一つの郷愁、即ちあの「都會の空に漂ふ郷愁」なのである。

  西曆一九三四秋

               著者

以上の本版画の親本発行年度の記載から、本版画の著作権は失われていると考えてよいと思われる。
 私は初めて十一歳の秋、北国の黴臭い校内の図書館で、この「停車場之図」とその散文詩を読んだ時の、あの素敵に慄っとした孤独な感覚を、今も忘れられないでいる。――この図と――「これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である」――という台詞こそが――私と朔太郎の宿命的邂逅の瞬間であったからである。]

軍歌その他の音樂について 萩原朔太郎

 軍歌その他の音樂について

   時局と詩歌人

 今度の事變に際して、僕等の詩人が一見極めて冷靜であり、時局に關する憂國詩や愛國詩の作品が無いのに反し、歌壇の連中が筆をそろへて時局を歌ひ、さかんに戰爭や出征の歌を作つてるのは、まことに興味のある對照である。或る人々はこの現象を歸納して、歌人の至誠な愛國心に歸してるけれども、自分は必しもさう思はない。もつとも日本の和歌といふものは、昔から皇室を中心として榮えたもので、傳統的に國粹主義の精神を持つものだから、西洋輸入の自由詩や新體詩のエスプリとは、文學の本質上で多少異るものがあるだらうし、實際また歌人の仲間に國粹主義者が多いことも事實である。しかし今の歌人等が作る時局の歌が、眞の憂國至誠の熱情から生れたものとは、いかにしても考へられない。端的に言ふと、彼等は歌を一つの手藝として、單なる職業的レトリツクの手藝として、常に殆んど何の詩的情感なしに作つて居るのだ。彼等の生活は、その身邊のあらゆる周圍に、絶えず作歌の題材を探さうとして、いつも何か事あれかしと、蚤取り眼できよろきよろしてゐることだけである。そこで例へば、子供が病氣したと言つては歌を作り、妻が里歸りしたと言つては歌を作り、障子を張り代へたと言つては、歌を作る。毎朝の新聞紙とラヂオのニユースは、彼等にとつて缺くべからざる歌の資料である。何所そこに大火事があつたとか、地震があつたとか、電車が脱線したとか、人殺しがあつたとか、某工場でストライキが起つたとかいふ類の社會事變は、悉く皆彼等の歌の逸材となりミソヒトモジの散文に手際よく構成される。かつて二・二六事件があつた時、殆んど全歌壇の人々が總動員でニュースに飛びつき、この好餌を逃すまいとして何百千の歌を作つた。今度の支那事變に際して、歌人等が盛んに時局を取材し、何かの愛國歌のやうなもの、憂國歌のやうなものを亂作するのは當然である。此所で「やうなもの」と言ふのは、それが眞の熱情からほとばしつたものでなく、彼等の使ひ慣れた手法によつて、儀禮的に表情を裝つたものにすぎないからだ。正直に觀察して、自分はこんな歌人等よりも、却つて沈默してゐる詩人の方が、ずつと深く眞劍に時局を考へ、眞の憂國の情を抱いてるところの、純眞の愛國者であると思ふ。彼等が容易に筆を取らないのは、時局の性質が深酷であり、容易に昂奮ができないほど、實質的に重大なものであることを知つてるからだ。皮相な感激に浮れ上つて、御座なりの詩歌を亂作するほど僕等の仲間は單純な子供等ではない。

        露營の歌と愛國行進曲

 「露營の歌」と「愛國行進曲」とは今度の時局が生んだ二つの名軍歌であつた。特に前者の「露營の歌」が、日本の津々浦々に行き亙り、老幼男女を通じて歌はれてるのは、實に驚くべきものである。この歌謠が大衆に悦ばれるのは、歌詞と作曲とが共に哀調を帶びてぴつたり一致し、よく日本人の民族的趣味に通するからである。「物のあはれ」の傳統以來、日本人の音樂趣味は哀傷風なセンチメンタリズムで、一貫してゐる。日淸戰爭の時の「雪の進軍」日露戰爭の時に流行つた「戰友」(此所は御國を何百里)、共に皆哀調を帶びた悲しい歌であつた。軍歌に限らず、大衆に受ける近頃の流行歌曲は、たいてい皆哀調の短音階だが、今度の「露營の歌」もまたハ調短音階で、流行歌曲風の旋律を巧みに取り入れて編曲されてる。つまり軍歌と流行歌謠の合の子見たいなものであり、大衆がまたそこを悦ぶのである。しかしこの歌謠のセンチメンタリズムは、日露戰爭の時の「戰友」と何所か質がちがつて居る。「戰友」はその歌詞が琵琶歌風な敍事詩であるばかりでなく、曲譜がまた單純な琵琶歌的悲調のものであつたが、今度の「露營の歌」は、歌詞も曲譜も共に純抒情詩的で、デスぺラートの絶望感が深く、哀傷の質が甚だ深酷である。つまり今度の時局に伴ふ國民のニヒルの不安が、そのままリリツクとなつてこの歌曲に反映されてるので、戰爭の質が深酷であるだけ、日露戰爭時代の單純な軍歌に此して、情緒の内容が複雜深酷になつてるのである。
 それ故にかうした歌謠は、藝術としては正に本筋の物――大衆の眞實な心を正直に反映する作品は、常に藝術として本筋の物であるにちがひないが、所謂國民精神總動員の「士氣を鼓舞する」目的からは、むしろ禁止令に觸れるべきものかも知れない。昨冬僕は伊豆の伊東温泉に滯留し、南京陷落の日に行はれた市民の旗行列を見物したが、小學校の女生徒等が、この歌謠を唄つて行進するのを見、一種異樣な感じがした。南京陷落、日本大勝利を祝する目出度い日に、かかるニヒリスチックな悲哀の歌を合唱するのは、いかにしても、場合に適はしくないからである。すくなくともかかる場合は、もつと勇壯で力に充ちた、明るい光明的な軍歌がほしい。それかあらぬか知らないが、政府は今度「愛國行進曲」を大仕掛で宣傳し始めた。老軍樂士瀨戸口氏の作曲になるこの歌は、たしかに國民精神總動員の主旨に適ひ極めて雄健明朗であり、その上に莊重の趣さへもある。
 此所で僕は、行進曲作者としての瀨戸口氏の天才的獨創性を今さらの如く考へずに居られない。前に述べた如く、由來日本人は悲調を帶びた哀傷風の音樂が好きであり、この國民的大衆性に投じない歌謠は、決して普遍的に流行することができないのである。現に日々新聞で一等に入選(露營の歌は二等であつた)した陸軍軍樂隊作曲の行進曲の如き、政府がレコード會社と共に盛んに宣傳したにかかはらず、大衆は一向に之れを唄はず、却つて二等の「露營の歌」ばかりが唄はれてる有樣である。然るに不思議なことは、獨り瀨戸口氏の作曲だけは、極めて明朗勇壯であるにかかはらず、よく日本人の趣味に適ひ、何等哀傷的の悲調なくして、しかも大衆に悦んで唄はれるのである。前に氏の作つた「軍艦マーチ」もさうであつたが、今度の「愛國行進曲」もまたさうである。つまり瀨戸口氏の作曲は、日本古等來の雅樂調や、日本俗謠の特色たるラグタイムやを、隨所に巧みに取り入れることによつて、洋樂の行進曲を、日本人の傳統的血液中によく融化してゐるのである。そしてこれは、天才のオリヂナリチイに非ずば不可能な仕事である。音樂でも映畫でも大衆小説でも同じであるが、感傷好きな日本人を口説くのには、いつも「お涙頂戴」の一手に限る。この一手さへ使つてゐれば、たいていの凡庸作家でも大衆に相當受けるのである。しかし「お涙頂戴」以外の手で、大衆を動かすことのできる人は稀れであり、それが出來る人は天才である。今や國家非常の時、日本の大衆の心を捉へ、よく人心を鼓舞する歌謠を作り得るもの、瀨戸口氏を置いて他になしとすれば、この人の存在が一層貴重に感じられる。しかも氏は老齡七十歳である。此所にもまた深酷の感なきを得ない。
 普佛戰爭の時、祖國敗亡の危難に際して、ナポレオン一世に仕へた老軍樂士等が、奮然立つて幾多愛國の行進曲を作曲したが、今や老齡七十歳、日露戰爭時代の軍服を着た白髮の老樂手が、祖國の非常時に際して奮起し、この勇しくも美しい愛國行進曲を作つたことは、西洋の戰爭小説にでもある如きドラマチックの悲壯美を感じさせ、深く僕等の心を打つものがある。僕はあの行進曲の第三節「ああ悠遠の神代より」といふところを聞く毎に、作曲者瀨戸口氏のことを思うて涙湧きくるものがある。
 しかしこの作曲の名譽に比して、あの歌詞の拙いことはどうだ。僕はローマ字論者でもなく漢字廢排論者でもないが、この「愛國行進曲」の歌詞のむづかしさには、心から反感をもたざるを得ない。「見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば」などと、歌ひ出しから既にチンプンカンプンで、一昔前に流行つた一高の寮歌と同じく、漢字を見なければ語意がまるで解らない。宜なる哉。大衆の唄ふのを聞くに、殆んど歌詞を完全に覺えてる者は一人も居ない。皆うろ覺えでデタラメに唄つてるのだ。そこへ行くと「露營の歌」の方は質に歌詞がよく出來て居り、曲の旋律と合つて意味がぴつたり迫つてくる。折角の名行進曲も、歌詞が惡くては仕方がない。この歌詞は朝日新聞の懸賞募集で、選者の中には佐佐木信網氏や河井醉茗氏などの大先輩も居た筈なのに、一體何うしたといふことなのだらう。

       琵琶・詩吟・その他の事

 琵琶唄といふもの、日露戰爭の時には全盛的に流行したが、今度の時局ではあまり唄はれなくなつたやうだ。實際僕等が聞いてもあの音樂の旋律はあまり單調で纖弱にすぎ、悲壯美を感ずるよりは、むしろ卑俗な安センチメンタリズムを感ずるのみだ。つまり日露戰爭の時の軍歌「此所は御國を何百里」が、今日の大衆にとつて興味がなく、單純にすぎて悲壯美を感じなくなつたやうに、琵琶唄が時代の情操から遲れたのである。之れに反して「詩吟」といふものは、今日でも尚依然として流行し、僕等が聞いても一種特別の悲壯美を感じさせる。特に底力のある男聲で、あまり節をつけぬ素朴な朗吟には、何とも言へない魅力があり、漢詩風の東洋的悲壯美を強く感じさせる。琵琶唄の旋律も詩吟と似たやうなものであるが、詩吟のエスプリを忘れてこれを音樂化した爲に、却つて安感傷主義に墮したのである。
 尚聞くところによれば、政府は今度所謂股旅物の映畫流行唄を始め、あまり情痴的のものやセンチメンタルなものに制限を加へるさうである。その理由は色々あるだらうが、つまりこの非常時に際して國民精神總動員の士氣を鼓舞し、民心を颯爽たるヒロイズムに導く爲に、之れと反するやうなものを控へるのであらう。しかしさうなつて來ると、在來の傳統的な日本歌謠、特に三味線音樂的の物は、町のレコード小唄と共に概ね制限されねばならない。そして代りに、否でも西洋音樂が專制的に採用される。なぜなら在來の日本音樂は、情痴的に非ずば感傷的であり、一も士氣を鼓舞する如き颯爽たるものがないからである。(その原因は、日本が島國に鎖國して、外敵の侵略を受けず、長く平和で居たからである。)
 この一例を見ても解る如く、世界戰場に進出した今日、現代の日本主義は表面或る點で傳統に反逆し、或る程度まで舊國粹的なるものを揚棄することによつて、逆に國粹日本主義を止揚する立場にある。ヘーゲル流の辨證論的パラドツクスは、今日現代の日本が避けがたいヂレンマである。それ故に政府當局者は、一方で女の洋裝やパーマネントを毛嫌ひしながら、一方では活動に便利な洋服的ユニホームを銃後の日本女性に求め、一方で國粹傳統主義を稱へながら、一方で股旅式の義理人情を排斥したり、洋樂の行進曲を宣傳してゐる。そしてしかもこのヂレンマは、日本の正しい世界的地位を自覺してゐる者にとつて、何の矛盾でもないのである。かつて日露戰爭の時、「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思ふ世になど浪風の立ち騷ぐらむ」と詠まれた明治大帝の御製に對し、畏れ多くもこれを不合理の自家撞着だと評した外國人の記者があつたが、今日、日本の世界的使命を知り、倂せて自己の立場を自覺してゐる僕等にとつては、この明治大帝の御歌が、そのヂレンマの深遠の哲理を知る故に、却つていよいよ哀切深く、悲壯美の幽玄なリリシズムとして感じられるのである。

[やぶちゃん注:『新日本』第一巻第三号・昭和一三(一九三八)年三月号に所載された。この七ヶ月前の昭和一二(一九三七)年七月に盧溝橋事件に端を発した支那事変(現在は日中戦争と呼称する場合が多い。両国が宣戦布告を行なっていないことから当時の日本政府は「事変」と公称した)。この非常に面白い文章(私は読みながらゲリラ戦の多様にして奇抜な奇襲法を何故か思い出していた)を読むと、「詩人」という存在が全体主義国家の中で生存するための「生物学的戦略」(萩原朔太郎自身の顕在的意志の中には必ずしもそれが企まれたものとして意識されていたとは実は私は全く以って思ってはいない)ということを考えた。]

彫金の盗人 大手拓次

 彫金の盗人

おめおめとたちさわぐあをい蓮華(れんげ)の花びら、
かぎりなく耳をふさいでをれば、
あをさびた彫金(てうきん)のちひさな花びらは、
餌をもとめる魚のやうにさびしさにおとろへる。
わたしは形(かたち)のよいわたしの耳をおさへて、
たましひの寂(さ)びのとほのくのを待つてゐる。
あをくさびた佛(ほとけ)の眼(め)のやうなこの花びらは、
蘆(あし)の葉(は)のなかに浮く木精(こだま)のやうに巣をもとめてゐる。
わたしの耳はかなしみの泡をふき、
おとろへなげく花びらのたましひを盗(ぬす)みかくす。

鬼城句集 夏之部 夏の川

夏の川   馬に乘つて河童遊ぶや夏の川



これを以って「地理」の部は終わる。

2013/06/04

大橋左狂「現在の鎌倉」 10 附:「こゝろ」の「先生」の別荘の貸家料の推定

    現在の賃貸家貸間料

 鎌倉は世界の遊園地として其名海外各國にまで知られ、年々歳々歐米諸國人より成る日本觀光團の此地に遊覽するもの尠なからず、且つ常時外人が間斷なく此地の風光を賞して滯在するものも多く、殊に夏季三伏の期に迫れば、此地に避暑するもの内外人を問はず、實に萬以上に數へられるのである。滯在避暑客が已に此の如くである故、一日歸りの遊覽客は此夏期に於ては平均一日一萬強に數へられるのである。
[やぶちゃん注:因みに単純に平成二三(二〇一一)年の鎌倉への入込観光客数数推計表七・八・九月の総数三、三六四、九四八人を九二日で割ると、
 一日平均  三六、五七五人
となる。これは当時の数値が逆に驚異的であったことを物語っている。]
 鎌倉は夏涼しく冬暖かなるが故に、避暑避寒客も隨て多いのである事は今更論を俟たないのである。鎌倉の地を踏むだ人は、誰れも第一番に一驚を喫するのは、此地の東西南北を問はず到る處に、いとも靜然として吾妻造りに建てられた淸洒たる別莊の數多きを見るのである。人は云ふ鎌倉は風光の鎌倉であるか、古跡の鎌倉であるか、將た又別莊の鎌倉であるかと奇問を發したと云ふ事も又さもあるべき筈である。現代朝野の貴顯紳商が紅塵萬丈の地を避けて、此地の別莊に來り靜居する。白己所有の別莊は四首餘戸あるが、玆には自己の所有別莊ではなく、一時的靜養又は避暑する人の爲めに建てられた、貸別莊の數は記載して其貸家料の標準を案内せんとするのである。
[やぶちゃん注:最後の一文中の「數は」の「は」はママ。]
 鎌倉の貸家數は年々歳々増加するのである。今四十四年十二月盡日に於ける貸家貸間數を調査するに左の通りである。
[やぶちゃん注:底本では次の二行は二段組一行。]
  貸  家  四石二十二戸
  貸  間  百九十六戸(此の間數千三十三あり)
 此貸家と稱するのは中以上の生活者の貸家にて俗に貸別莊と稱する部分である。此貸別莊の外に自分持ちの別莊數は約四百戸もある故に、鎌倉の別莊數は八有餘戸に數へらるゝのである。眞に湘南第一の別莊地である。
 貸家料 鎌倉に多くの貸別莊のある事は前記の通りであるが、今玆には其貸家料即ち家賃を記載して世の避暑避寒客の便に供せんとするのである。元より玆に記載した貸家料は鎌倉一般の標準額である。勿論海岸と山手或は十三字の各位置に依りても多少の相違がある。又は建物の新舊程度にも關係して家代の上下は免かれないのである。例令ば避暑客に對しては海岸の貸家が早く塞がり、避寒客に對しては山手の貸家が自然需要者が多いと云ふ傾きがある故に玆に案内する貸家料は只單に一般に通じた標準額を記したのである。先づ貸家としては三間四間五間乃至十六間等種々であるが、一般多くの避暑避寒客の常用するのは五間乃至八間のものである。又此程度の貸家は一番に需要者が多い。
 鎌倉の貸家として玆に三疊、八疊、六疊、四疊半、六疊の五間數あるとせば、位置等に依りて相當の庭園が付いて居る。鎌倉の家賃は常住相場、夏期相場の二種に分れて居るのである。常住とは先づ一年位は繼續して居るだらうと家主の眼金に入りたるもの、夏期とは一時的夏場所即ち七月八月の兩月か又は八、九の二ケ月位借家する者に定められてある。
 前記五間の常住相場は十圓乃至十五、六圓である。而して夏期相場とせば約ニケ月として四十五圓乃至八十圓位が標準である。要するに夏期に至れば供給者より需要者の多い結果であらうと信ずるのである。故に多少の資産あるものは貸別莊よりは地に建設するのである。年々歳々別莊の建築數が増率を示すのも偶然ではない。夏期相場は常住相場に比して、三倍以上の上値を示して居る。即ち夏期相場は常住相場の半年分を二ケ月に掛けるものである。
 尚ほ二階建七間位の程度にて三十圓乃至五十圓位のものもある。和洋折衷の宏壯なるもので貸家料百圓以上のものもある。兎に角鎌倉貸家の常住相場としては疊一疊五十錢内外が程度である。夏期相場としては一疊一圓乃至二圓五十錢に騰るのである。現に片瀨・腰越附近の貸家貸間は夏期に至れば各室雜居の有樣で非常に混雜するのである。而して疊一枚が一圓二十錢平均になるそうである。而し常住貸家料は矢張り鎌倉に準じて稍々安價である。
[やぶちゃん注:「こゝろ」の先生が借りていたのは『私は其晩先生の宿を尋ねた。宿と云つても普通の旅館と違つて、廣い寺の境内にある別莊のやうな建物(たてもの)であつた。其處に住んでゐる人の先生の家族でない事も解つた』とあることから、独立したコテージ風の別荘ではあるが、そんなに高そうには見えない(「其處に住んでゐる人」というのは、私は一種の管理人兼下男女中ということと解している)。「先生」の避暑期間をせいぜい十日とすると(そんなに長い間、東京に「靜」を一人おいておくとは私には思われない)、ここにある五間の夏期相場の最低額の約ニヶ月「四十五圓」を日割にして計算すると七十五銭になるから、十日賃貸で凡そ七円二十五銭、一円を現在の高い方の換算で二五〇〇円とすれば、この賃貸料(下男女中の雇賃と食費は別)は約一万八千円ほどになる。何となく私は腑に落ちる値段であるが、如何であろう。「こゝろ」でははっきりと『別莊のやうな建物』と言っており、次の貸間という解釈はしなかったことをここに述べておく。万一、そうであった場合でも十日分ならば、四円(約一万円)程度かと思われる。なお、「私」の宿はもっと簡素な廉価のものであったろうことは言うまでもない。]
 貸間料は貸家料の割合に比して稍々高値を示して居る。即ち六疊間四圓のものも夏期に至れば六圓乃至八圓となり、八疊間五、六圓のものも夏期に至りて八圓乃至十二、三圓となるのである。鎌倉の家主連は常に語つて言ふのである、鎌倉は避暑客の入込むのは湘南第一である割合に物價や家賃は高價を示してないと。著者は此處二、三年間鎌倉に生活して種々なる方面より觀察して鎌倉の家賃は安い事はないと斷言するのである。玆には啻に未知の避暑避寒客に對して現在鎌倉に行はれつゝある、家賃間代の標準額を案内して聊か參考に供したのである。
[やぶちゃん注:「啻に」は「ただに」と訓ずる。限定の意である。]

海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載

 

 

■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載

 

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覧」は、『■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載』に既出の「筠庭雑録」の筆者である国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。以下は同書の「巻八 忌避」にある連続する二条である。

 底本は国立国会図書館蔵「嬉遊笑覧 下成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)の電子ライブラリーの画像(コマ番号136)を視認した。頭書の見出しは改行して示した。原文には「ふみ石を打、」以外には句読点がないが、読み易さを考え、私が適宜、鍵括弧や中黒とともに補った。また、「ほうの目、ほうの目」の繰り返し部分は底本では踊り字「〱」である。]

 

俵子

 

〇「俵子」は沙噀(ナマコ)の乾たるなり。正月祝物に用る事、月次のことを記しゝものにも、唯、その形、米俵に似たるもの故、「俵子」と呼て用るよしいへり。俵の形したるものはいくらもあるべきに、これを用るは農家より起りし事とみゆ。庖丁家の書に米俵は食物を納るものにてめでたきもの故、「たはらご」と云ふ名を取て、祝ひ用ゆるなり。

 

鼬鼠うち

 

〇「鼹鼠(ウゴロモチ)うち」とて、沙噀を繩に結付、地上を引く、まじなふこと有。うごろもち、是を怖るといへり。仙臺にては子共等、是を地祭とて、「もぐらもちは内にか。なまこどのゝ、をどりしや。」といひて、錢を乞ひありく。長崎の俗、正月十四日・十五日、「むぐら打」とて、町々男兒共、竹のさきに稻わらを束ね結たるを持、家々の門なるふみ石を打、「むぐら打は科なし。ほうの目、ほうの目。」と祝して錢を乞ふ戲あり。

 

□やぶちゃん注

 

●俵子

 

・「俵子」現在でも漁師の間で用いられているナマコの別名である。因みに「大辞泉」の「正月言葉」の項には、『正月の祝いの言葉。また、正月に使う縁起のよい言葉。海鼠(なまこ)を「俵子(たわらご)」、鼠(ねずみ)を「嫁が君」という類』とあり、古くから米俵を連想させて年始の豊穣を言祝いだものと考えられる。動物学者大島廣先生の私の古くからの愛読書である「ナマコとウニ――民謡と酒の肴の話――」(昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊)の「海参と雲丹と人生」の「製品、その異名と種類」に、この「タワラゴ」には異説がある、とされ、

   《引用開始》

 

 「海鼠(ナマコ)の乾したるなり(中略)其の形少し丸く少し細長く米俵(こめだわら)の形の如くなる故タワラゴと名付けて正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納(おさむ)る物にて、メデタキ物故タワラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり」(伊勢貞丈)[やぶちゃん注:中略。ここに本「嬉遊笑覧」の「俵子」の全文が示されている。]

 

 「俵子は虎子の転じたるにて、ただ生海鼠の義なるべし」(蔀関月)

 

   《引用終了》

 

とある。この伊勢貞丈の引用元は現在探索中であるが、恐ろしいまでに「嬉遊笑覧」の記載と酷似しており、同一ソース若しくは喜多村信節が貞丈のこれを元にしたものと思われる。「蔀関月」(しとみかんげつ 延享四(一七四七)年~寛政九(一七九七)年)は「巴御前出陣図」で知られる大坂の浮世絵師で詩文書道にも堪能で、寛政一一(一七九九)年(没後)刊行の「日本山海名産図会」の挿絵なども手掛けた。

 

・「沙噀」中国語。音「サソン」。「噀」は「水などを吹く・吐く」の意である、この場合は砂の中にいる水を吹き出すものとも、砂を吐くものとも、とれる。どちらもナマコの観察としては違和感がない。「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠」の項には(引用元は私の電子テクストであるが、一部に手を加えた。因みにリンク先の当該項の私の注は、詳細学名附分類以下、相当に力を入れて書いたものである。未見の方は是非、お読み戴きたい)、

 

「寧波府志」に云ふ、『沙噀は、塊然たる一物。牛馬の腸臓の形のごとくにして、長さ五六寸ばかりなるべし。胖軟(はんなん)なり【胖は半軆の肉なり。】。水蟲のごとく、首無く、尾無く、目無く、皮骨無く、但だ能く蠕動す。之に觸れば、則ち縮-小(ちゞ)まり、桃栗のごとく、徐(そろそろ)と復た擁-脹(ふくれ)る。土人、沙盆〔:砂を盛った鉢。〕を以て其の涎腥(ぜんせい)を揉み去り、五辣を雜て之を煮れば、脆美、上味たり。』と。

 

とある。「寧波府志」は明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。

 

・「月次」「げつじ」と読み、辞書的には、毎月・月例の意であるが、ここは所謂、古典的な宿曜・行事・祭礼・農事等を記した月暦みに関わる文書類を指している。

 

・荒俣宏氏は、「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」の「ナマコ」の「俵子(とらご)」(ルビはママ)の項で、本記載を紹介した上で、本山桂川「長崎年中行事」(昭和六(一九三一)年十二月発行『民俗学』第三巻第十二号)から次のように主旨引用されておられる(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した。また文末には以上の書誌データが入って句点(ピリオド)が打たれるが省略した)

 

   《引用開始》

 

 長崎地方では、新年の買いぞめに、俵子、すなわちナマコの俵物を買うと縁起がいいということで、古くから正月二日、近郊からやってきた物売りの女からまず俵子を買わなければ、ほかの買いものはしない風習があったという。また一八七七年(明治一〇)の西南戦争のころまでは、二日の早朝に出入りの魚屋か八百屋が黙って俵子を置いていき、受けとる側でも値を問わず、紙にそれなりの鳥目を包んで水引をかけ、盆に載せて出した。

 

   《引用終了》

 

以上は、長崎習俗である点で、次の「鼹鼠うち」との関係性が窺われる。但し、御覧の通り、長崎のそれは藁でナマコを模したものであるが、ところが以下の注で見るように、実際のナマコが同じ呪いで用いられる地方があるので、一層興味深いのである。

 

●鼹鼠うち

 

・「鼬鼠うち」の「鼬」はママ。本文にある「鼹鼠」が正しい。「鼬鼠」ではイタチになってしまう。単なる頭書(編者によるものか)の誤植と思われる。

 

・「鼹鼠うち」現在でも各地の小正月の行事として「烏追い」と並んで「土竜追(もぐらお)い」「土竜送り」「土竜打ち」などと呼ばれる行事が残る。これは本来は、農作物を害するとされた土竜を音と呪言によって追い出して五穀豊穣を祈る神事であった。鳥追い同様、多く主役は地域の子どもたちで、集団で唄を歌いながら藁を巻きつけた杵や竹竿などで地面を叩いて練り歩いた。この民俗学的な一般認識は恐らくは田圃の畦や畠での土竜塚が目立つことにもよるのであろうが、土竜を害獣とする科学的根拠は実は、ない。寧ろ、益獣である。では、何故の「鼹鼠うち」なのか? 以下、家庭用品メーカー「尾上製作所」公式サイト内の「役立つ豆知識」の「モグラの話」がその総ての疑問を鮮やかに明らかにしてくれているので、以下に引用させて戴く。検索で「土竜打」を掛けて見られると分かるが、これ、侮れない優れた希少なる「鼹鼠うち」のルーツに関わる考証でもあるのである(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。

 

   《引用開始》

 

 モグラは本当に害獣でしょうか。イギリスの『草地の生態と野生生物管理』という本には「モグラの最も大きい害は土を盛り上げるために草刈り機の刃が傷むことである」と書いてあります。それよりも掘り返しによる利益がはるかに多いでしょう。もし害を与えるとしたら、西日本のように水田の多いところよりも、長野や関東の畑作地域こそ被害を受けるでしょうが、この地方は「もぐらうち」がなく、同じ行事が「鳥追い」になっています。さらに、モグラの出ていない旧暦の小正月、地方によってはその前の節分に「もぐらうち」をするのも納得できません。

 兵庫県から山陰にかけてはこの行事が「きつね狩り」となっています。日本の民俗学の先駆者である柳田国男氏の出身地の北隣り、兵庫県神崎町で採録されている、この行事の唱え言葉は次のようなものです。「わりゃなにそうろう」「若宮祭とて、きつねがえりそうろう」「もう一声しようもうしよう」「ワイワイワイ」

  神戸新聞社発行の『兵庫探検・民俗篇』には、このほかいくつもの地区の唱え言葉があげられていますが、神崎町が最もととのっています。つまり、宮中行事にもなっている秋の「亥の子送り」と同じく、山の神を送り出す神事なのです。

 京都、滋賀そして東北の一部では「なまこひき」があります。唱え言葉は、「もぐらどん内にか、なまこどんのお通りじゃ」「オングロモチ(モグラ)送った。マンマコドンのお祝いじゃ、ドンドコドン」このとき引いてまわるのは本物のナマコのこともありますが、だいたいは棒や束ねた藁です。やはり古い行事で、束ねた藁を用いるのに「嫁たたき」があります。花嫁のところへみんなで押しかけ、藁でおしりを叩いて出産を祈るのです。今でも残っている地方もあるといいます。「もぐらうち」のように小正月に行なうところもあったようです。さきの「マンマコのお祝い」はこれと混同したのではないでしょうか。

 世界中、豊作をつかさどる大地の神は、性と出産もつかさどっています。そのお使いがキツネであり、イノシシであり、そしてモグラであったと考えるべきでしょう。[やぶちゃん注:中略。以下、「土を作る」という標題でモグラは害獣どころか、地味の豊穣・土壌の改良に貢献している益獣であることが科学的に示される。省略部には「モグラの種類と名前」と題する博物誌が書かれており、驚きの日本語由来の学名のトンデモ誤り(知ってた? モグラ科モグラ属は“Mogera”――「モゲラ」!!! ヒェ~~~ッ!……「地球防衛軍」!――なんだせ!)など、必見!]

 モグラの穴を直径五センチ、一日二〇メートル掘るとしておきましょう。このモグラの生活空間を三〇メートル四方、地下一メートルまでとすると、彼もしくは彼女の活動範囲は九〇〇立方メートル。一年間に約一五立方メートルの土を掘り返しますから、六〇年に一度の割りで、この範囲の土がかきまぜられていることになります。

 作物を育てるには土を掘り返すことが大切です。植物には肺やエラがありませんから、生きるために必要な酸素はすべてそれぞれの部分が直接に取り入れます。土をかきまぜると土の粒の間に隙間ができ、そこにしみこんだ水や空気が根に活力を与えてくれます。アスファルトやコンクリートで表面を固めた歩道に植えられた木に、元気がない理由のひとつもここにあります。

 土壌改良工事という名で、ブルドーザーやパワーショベルを使って、田んぼの土を掘り返しているのをご覧になったことがあるでしょう。この工事の費用はどれくらい必要かはわかりませんが、それを無料で黙ってやってくれるのがモグラ君です。一ヘクタールに三〇頭のモグラ君がいれば二〇年に一度は土壌改良工事ができる計算となります。

 ミミズはモグラ君の主食ですが、掘り返し作業では有力な協力者です。その上、ミミズは土を食べて糞として出してくれますので、化学的にも物理的にも最良の土ができます。モグラ君よりも体は小さいですが、住んでいる数が多いので、仕事の量はモグラ君以上に働いてくれます。両方が一生懸命動き回れば、十年に一度の土壌改良工事ができるはずです。

 

   《引用終了》

 

ウィキもぐら打ちがあるが、特に加えたい別情報はないものの、広く行われる九州の各県名を指示してあるので引用しておく(但し、脚注の多くはすでに記事が消滅している)。『竹に巻いた藁等で家先や田畑の地面を叩いてまわる九州地方に伝わる伝統行事で』、『元来は田畑を荒らすモグラの害を防ぐために行われていた作業が、五穀豊穣や家内安全を祈る儀式となったものである』とし、福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県『の九州各県で行われ』、地域によって詳細は異なるが、小正月の頃(多くは一月十四日)『に子供たちが家々をまわり、かけ声をかけながら竹に巻いた藁等で家先や田畑の地面を叩く。鹿児島県地方では、まわった家々で子供たちに餅が振る舞われる』とする。更に『なお、時期は異なるものの、東日本で旧暦』十月十日に行われる十日夜(とおかんや)や、西日本で旧暦十月の『亥の日に行われる亥の子でも、地面をたたいてモグラなどを追い払う行事が行われる』とある。本記載の初めの方の仙台のケースは日付がないが、この十月十日に行われる十日夜である可能性が高いか。十日夜は旧暦十月十日の夜に行われる収穫の祭儀で、『「刈上げ十日」などともいわれる。稲の刈り取りが終わって田の神が山に帰る日とされる。北関東を中心に甲信越から東北地方南部にかけて広く分布し、西日本の刈上げ行事である亥の子と対応している』とする。『一般的には、稲の収穫を感謝し翌年の豊穣を祈って、田の神に餅・ぼた餅が献じられるほか、稲刈り後の藁を束ねて藁づとや藁鉄砲を作り、地面を叩きながら唱えごとをする行事が行われる。これは、地面の神を励ますためと伝えられるが、作物にいたずらをするモグラを追い払う意味も持つ』。『地域別の風習の一例として、長野県では、田んぼを見守ってくれた案山子を田の神に見立てて田から内庭に移して供え物をする案山子上げが行われる。また、群馬・埼玉県では、子供が藁鉄砲を持ち、集団で各家を訪れ地面をたたいて歩く。十五夜と同じく月に供え物をする所や、大根の年取りと称してダイコン畑に入るのを忌む所もある。その他、田の神送りの日として』、二月十日『前後の田の神降ろしと一対のものとみなしている所も、福島県を中心にして見られる』。『一方で、藁鉄砲打ちの唱えごとや月への供物の習慣から、この行事は、水田での稲作のみに関わるものではなく、畑作祈願の要素も認められる』。以下、参照引用したウィキ十日夜」には『藁鉄砲打ちの唱えごとの一例』として以下のフレーズが載る。

 

 とおかんや、とおかんや

 

 とおかんやの、藁でっぽう

 

 夕めし食って、ぶっ叩け

 

加えて言っておくとは、旧暦十月(亥の月)の最初の亥の日に主に西日本で行われる「亥の子」祭(餅を作って食べて無病息災子孫繁栄を祈ったり、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回たりする)のウィキ記載には多量の「亥の子の歌」の具体例が示されている。これら「もぐら打ち」「十日夜」「亥の子」更に「鳥追い」の囃し言葉や歌を綜合的に検討すれば、もしかすると隠されたもっと豊かな意味が見えて来るかもしれない。

 なお、本邦では漢字表記(間違ってはいけない。これは日本語に於ける国漢字表記であって、現代中国語ではモグラは科名で「鼴」、通常は「隠鼠」・「鼹鼠」・「盲鼠」・「鼢鼠」などと書き、決して以下のようには書かない)に「土竜」「土龍」を使用するが、これは字からも、また、本家の「本草綱目」にもある通り、「蚯蚓(ミミズ)」のことである。近世以降に表記と概念の誤認識が生じ(モグラの主食がミミズであることとも関係するか)、その誤用例が慣用的に定着してしまったと恐ろしいケースである。

 

・「鼹鼠(ウゴロモチ)」哺乳綱食虫(モグラ)目モグラ科 Talpidae のモグラ類のこと。日本には四属七種が生息している。古くは「うころもち」(「本草和名」に「宇古呂毛知」とある)「うごろもち」と呼称した。江戸期には「むくらもち」や「もぐらもち」の呼び方が定着、現在の「もぐら」になった。なお、ここに書かれたモグラ除けの呪(まじな)いについては、やはり「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠」の項に、

 

凡そ海鼠の性、稻藁(いなわら)を忌む。如(も)し之を犯せば、則ち體、解けて泥のごとし。又、鼴-鼠(うくろもち)、海鼠を畏る。串海鼠の柱を以て花園に椓(くいう:=杭打)てば、鼴、敢て入らず。

 

とある。「串海鼠」は「くしこ」と読み、海鼠を煎って串に刺して干したもの。

 

・「地祭」ネット検索では全く掛かってこない。現在、この呼称は生き残っていない模様である。

 

・荒俣宏氏は「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」の「ナマコ」の「土龍打(うごろもちうち)」の項で、私の引いた「和漢三才図会」、次に「守貞謾稿」(これは次回の本シリーズでテキスト化評釈予定)から同風習を引いた後、江戸期の「庖丁聞書(ほうちょうききがき)」(室町期とするネット情報もある)及び昭和六(一九三一)年十一月発行の雑誌『民俗学』第三巻第十一号から以下のように主旨引用されておられる(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した。また文末には以上の雑誌『民俗学』の書誌データが入って句点(ピリオド)が打たれるが省略した)。

 

   《引用開始》

 

 「庖丁聞書」長崎では土龍打は正月十四日と十五日に催す行事で、男の子たちが竹の先に藁を束ねたものを持ち、家々の門にある踏石を打ちすえながら、「むぐら打(うち)は科(とが)無し、ほうの目々」と唱えて銭を乞うたという。また宮城県仙台の子らは、「もぐらもちは内にか、なまこ殿のおどりじゃ」と唱えた。

 広島市東区愛宕町にも、大晦日の晩、人びとがブリキ缶などを打ちならしながら、口々に「オグラドン(またはウグロドノ)オウチカ、ナマコドンが、オミマイジャ」と叫びながら街を歩きまわる風習があった。

 

   《引用終了》

 

これは、前半に本記載と酷似した内容が示されてある。

 この後、荒俣氏は南方熊楠の俵子についての見解を主旨解説されているが、私の所持する「南方熊楠選集4」(一九八四年平凡社刊)所収の「続南方随筆」にある「『郷土史研究』一乃至三号を読む」から当該論文「田鼠除け」を全文を以下に示しておきたい。標題下の号頁は「二号一一三頁」に載る『郷土史研究』第二号所収の佐藤雄三郎氏の「幸の神祭と土龍よけ」という記事、及び『郷土史研究』第三号の「三号一八四頁」に載る福田文月氏の「彦根町の節分」という二つの記事を読んでの論評であることを示している(記事名と筆者名は底本の編者割注に拠った)。流石は博覧強記の熊楠、この「嬉遊笑覧」をびしっと引用している(彼が凄いのはこういう引用の多くをソラで(!)やれたのである)。但し、この文章、一読、強烈な違和感がある。しかしそれは書いた熊楠のせいではない。これは底本が、その校訂方針そのままに、やるべきでない古文の引用箇所の現代仮名遣化までしてしまった結果であろうと推測される。先に示した通り、「守貞謾稿」の引用部は正しい原文評釈を次回示す予定である。なお、文中の『随筆問答雑誌(ノーツ・エンド・キーリス)』の英誌名はルビである。

 

   *

 

田鼠除け(二号一三三頁および三号三八四頁)

 

 田鼠(もぐらよ)除けの禁厭(まじない)に、小児が金盥等を打ち鳴らして家々へ闖入し、庭中を騒ぎ廻りたちまち去る風が、予の幼時和歌山市にもあった。しかし、唱え詞が彦根や越後と違い、「おごろ様(さん)は内にか、海鼠(なまこ)様はお宿にか」と言ったと覚える。『守貞謾稿』二四に「節分の夜、大坂の市民五、六夫、あるいは同製の服を著し、あるいは不同の服もこれあり、その中一人生海鼠に細繩を付け地上を曳き巡る。その余三、四夫はおのおの銅鑼(どら)、鉦(かね)、太鼓等を鳴らしていう。うごろもちは内にか、とらごどんのおんまいじゃ、と呼び、自家知音の家にも往いて祝すことあり、云々。坂人、今夜のみ生海鼠をとらごどのと言う、伝えて言う、これを行なう年はその家土竜(うごろもち)地を動かさず、云々、最も古風を存せり」。『嬉遊笑覧』巻八、「俵子(たわらご)は沙噀(なまこ)の乾したるなり。正月祝物に用うること、月次のことを記ししものにも、ただその形米俵に似たるものゆえ俵子と呼んで用うる由いえり。俵の形したらんものはいくらもあるべきに、これを用うるは農家より起こりしことと見ゆ。庖丁家の書に、米俵は食物を納るるものにてめでたきものゆえ、俵子という名を取りて用ゆるなり」。次に「鼹鼠(うごろもち)うちとて、沙噀を繩に結びつけ、地上を引きまじなうことあり。鼹鼠これを怖るといえり。仙台にては子供らこれを地祭とて、もぐらもちは内にか、なまこ殿のおどりじゃ、といいて銭を乞いありく。長崎の俗、正月十四日、十五日むぐら打ちとて、町々の男児ども、竹の先に稲藁を束ね結びたるを持ち、家々の門なる踏石を打ち、むぐら打ちは科なし、ほうの目、ほうの目、と祝して銭を乞う戯あり」。これらを合わせ攷うると、むかしは大人もせし行事で、節分にする所と上元にする所とあったと知れる。海鼠を虎子(とらご)と言うのは、『笑覧』の説ごとく、俵の形ゆえ俵子と言うを訛っての名か、またむしろ海鼠の背が虎に似ておるゆえか。いずれにせよ『漫稿』に、今夜のみなまこと言わずに虎子殿と言うとあるは、「正月寅を建つ」の義に縁(ちな)んだらしい。寅の獣たる虎は百獣の君じゃにょって、虎子という海鼠で田鼠を威圧する意味だったろう。

 老友エドワルド・ピーコック言う、英国トレント河畔の俗、田鼠を捉うると殺して柳の枝に懸ける、と。和歌山辺の畑中にも、竿に田鼠の屍を釣り下げることあり。いずれも威(おど)しのためらしい。独人モレンドルフ説に、『遼史』に新年に田鼠を焼いて年中の災(わざわい)を禳(はら)いしことを載すとは、本邦の田鼠打ちに似ておる(明治四十一年十二月五日、ロンドンの『随筆問答雑誌(ノーツ・エンド・キーリス)』、予の「死んだ動物を樹や壁に懸くること」を見よ)。熊野の人、古来狼を獣中の王とし、鼠に咬まれて療法尽きた者が狼肉を煮食えば癒ると信じた。虎子で田鼠を威圧するのと一規だ。

 

   *

 

・「長崎の俗、正月十四日・十五日、「むぐら打」とて、町々男兒共、竹のさきに稻わらを束ね結たるを持、家々の門なるふみ石を打」「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」の「ナマコ」の記載中に(二七八頁)、長崎市立博物館蔵の、文化文政期に成立したとされる饒田喩義(にぐいたゆぎ)述・内橋竹雲(うちはしちくうん)画「長崎名所図絵」の中の「もぐら打ち」の図が載る。そのキャプションに『竹に藁づとをつてたもので門口を打ちまわる正月行事』で、『本来はモグラよけだった』とあるが、そこに描かれた児童は総て男子である。祭礼の参加者が男性に限るという女性参加の禁忌は普通に見られるものであるが、この場合その振り回すものの形状が男根を模しているように私には感じられ、ある種の性的な意味をも付与されているようにも見える(五穀豊穣と性行為が同一視されていたことは周知の通りで、私がイヤラシイからそう考えた訳ではないと言っておく)。

 

・「ほうの目」不詳。前の「科(とが)」に牽かれて「法」か、などと思ってしまうが、であれば歴史的仮名遣では「はふ」でなくてはならず、違う。識者の御教授を乞うものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

俵子(たわらご)

 

〇「俵子」は沙噀(なまこ)を乾燥させて製したものである。

 正月の祝い物に用いることは、毎月の暦みを記したものなどにも、単に

『その形が米俵に似ているゆえに「俵子」と呼んで使用する』

といった簡単な記載がある。

 しかし、俵の形をしている物は他にも幾らもあるにも拘わらず、これのみを、この正月の時期に、特異的限定的に用いるというのは、これが農事の風習から発生した習俗であることを色濃く窺わせるものであると言える。

 料理家の書物にも、

『俵は稲霊(いなだま)たる食物(しょくもつ)を納めるものであって、すこぶる目出度いものであるから、「たわらご」という言祝(ことほ)ぎの心を以って年始を祝うため、食材として用いるのである』

とある。

 

鼹鼠(うごろもち)打ち

 

〇「鼹鼠(うごろもち)うち」と言って、沙噀(なまこ)を繩に結い付け、地面の上を曳きずっては、土竜(もぐら)除けの呪(まじな)とする習慣が各地にある。

 巷間ではうごろもち――土竜・もぐらは海鼠(なまこ)を怖れると伝えられている。

 仙台地方では、子どもらがそれを地祭(じまつり)と称して、

 

「♪もぐらもちは地面の内におるか?♪ ♪海鼠殿が♪ ♪踊ったぞ!♪」

 

と囃しては、各家庭を訪れては祝儀の銭を乞うて廻る。

 また、長崎の習俗では、正月十四日と十五日、「むぐら打」と言って、町々の男の子らが、竹の先に、まるで海鼠そっくりに稲藁を束ねて結んだものを持って、家々の門前にある踏み石をそれで打ち叩き、

 

「♪むぐら打ちには科(とが)はない♪ ♪ほうの目!♪ ♪ほうの目!♪」

 

と言祝いで、やはり同じく祝儀の銭を乞うという遊びがある。

この秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 

   この秋は何で年よる雲に鳥

 

 老の近づくことは悲しみである。だが老年にはまた、老年の幽玄な心境がある。老いて宇宙の神韻と化し、縹渺の詩境に遊ぶこともまた樂しみである。空には白い雲が浮び、鳥は高く飛んでるけれども、時間は流れて人を待たず、自分は次第に老いるばかりになつてしまつたといふ咏嘆である。「何で年よる」といふ言葉の響に、如何にも力なく投げ出してしまつたやうな嘆息があり、老を悲しむ情が切々と迫つて居る。それを受けて「雲に鳥」は、前のフレーズと聯絡がなく、唐突にして奇想天外の着想であるが、そのため氣分が一轉して、詩情が實感的陰鬱でなく、よく詩美の幽玄なハーモニイを構成して居る。かうした複雜で深遠な感情を、僅か十七文字で表現し得る文學は、世界にただ日本の俳句しかない。これは飜譯することも不可能だし、說明することも不可能である。ただ僕らの日本人が、日本の文字で直接に讀み、日本語の發音で吟し、日本の傳統で味覺する外に仕方がないのだ。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「鄕愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」の掉尾に配された鑑賞文。但し、『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なる。

 

 この秋は何で年よる雲に鳥

 

 室生君が推賞して、芭蕉句中絕唱とするものである。「雲に鳥」といふイメーヂは、前の言葉から聯絡がなく、實に奇想天外の着想であり、しかもよく漂渺幽玄の詩想を構成して居る。まことに名人の神品といふ感じである。

 

「漂渺幽玄」の「漂」はママ。「縹」が正しい。]

水草の手 大手拓次

 水草の手

わたしのあしのうらをかいておくれ、
おしろい花のなかをくぐつてゆく花蜂(はなばち)のやうに、
わたしのあしのうらをそつとかいておくれ。
きんいろのこなをちらし、
ぶんぶんとはねをならす蜂のやうに、
おまへのまつしろいいたづらな手で
わたしのあしのうらをかいておくれ、
水草(みづくさ)のやうにつめたくしなやかなおまへの手で、
思ひでにはにかむわたしのあしのうらを
しづかにしづかにかいておくれ。

鬼城句集 夏之部 夏野




夏野    ぐわうぐわうと夏野くつがへる大雨かな


[やぶちゃん注:底本では「ぐわうぐわう」の後半は踊り字「〱」。]



      蓑笠に大雨面白き夏野かな

2013/06/03

エルンスト・フックス夢

今日の未明の夢。



僕は誰かに名を聴かれる。

僕は

「エルンスト・フックス」

と答える。

しかし僕は自分がエルンスト・フックスだと思っているのではない。

僕はエルンスト・フックスを捜しているのに……



多分、エルンスト・フックスを知っている人は、失礼ながら少ないであろう。

自己責任でご覧あれ。

多分、ここがいい。

明恵上人夢記 18

18

一、同、中納言の阿闍梨、歡喜之相を含みて共に歡樂すと云々。

 

[やぶちゃん注:「同」は「17」に続くこと、「19」に「同十四日」とあることから、「17」に次いで、元久二(一二〇五)年の十月十一日に見た二番目の夢か、若しくは十二日か十三日の何れかの日を失念したものかと思われる。「17」に次いで同日中に見たとすれば、その関連性が考察される必要はあろう。私は書き方からみて、二番目と採る。

「中納言の阿闍梨」不詳。明恵も顔を出す中里介山の「法然行伝」に「中納言阿闍梨尋玄(じんげん)」なる人物が登場する。これは「法然上人行状画図」の第八巻に(引用は浄土宗林宗院公式サイトの「経蔵」にある「法然上人行状画図」から恣意的に正字化して引用させて戴いた)、

上人元久二年正月一日より、靈山寺にして、三十七日の別時念佛をはじめ給ふに、燈なくして光明あり、第五夜にいたりて、行道するに、勢至菩薩、おなじく列にたちて、行道し給ひけり。法蓮房夢の如くに、これを拜す。上人に、このよしを申に、さる事侍らんと答給。餘人はさらに拜せず。

同年四月五日、上人月輪殿に、まいり給て、數尅御法談ありけり。退出のとき、禪閤庭上にくづれおりさせ給て、上人を禮拜し、御ひたひを、地につけて、やゝひさしくありて、おきさせ給へり。御涙にむせびて、仰られていはく、上人地をはなれて、虚空に蓮花をふみ、うしろに頭光現じて、出給つるをば見ずやと。右京權大夫入道(法名戒心)中納言阿闍梨尋玄(號本蓮房)二人御前に候ひける。みな見たてまつらざるよしを申。池の橋をわたり給ひけるほどに、頭光現じけるによりて、かの橋をば頭光の橋とぞ、申ける。もとより、御歸依ふかゝりけるにこの後は、いよいよ佛のごとくにぞ、うやまひたてまつられける。

とあるのに基づくものであろう。まさに元久二年、この人物と見て間違いあるまい。但し、当該人物が如何なる御仁かは調べ得なかった。識者の御教授を乞うものである。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

18

一、同十一日、続けて見た二つ目の夢。

「中納言の阿闍梨様が、如何にも歓喜満面という御尊顔で、この私と楽しそうに談笑なさっておられる。……」

栂尾明恵上人伝記 34 秘蹟陸続

 同年四月に、栂尾の西峰の上に一宇の庵室を構へて練若臺(れんにやだい)と號す。其の後の北に三段計り下りて、谷に一宇の庵を結びて、一兩の侍者爰に栖む。坐禪行道の外他事無し。或時は上人額(ひたい)より光を放ち、或時は脇・膝より光を放ち給ふを見る。此の外の不思議奇特(きどく)勝(あ)げて計るべからず。上人窮めて痛み給ひしかば披露に及ばず。然れども侍者の僧ども禁(とゞむ)るに處なくして、少し語り傳ふる事どもあり。或時は護法天(ごはふてん)等來りて語り、或時は辨才天來臨して謁す。

 此の庵に栖み給ひし比(ころ)、學生七八人列參(れつさん)して、圓覺經(ゑんがくきやう)の圭峰(けいはう)禪師の略疏(りやくそ)四卷、上人に對して之を談ず。上人此の次(ついで)に自筆を以て、彼の疏に點(てん)を加へらる。殊に圓覺の普眼章(ふげんしよう)の、尋思如實(じんしによじつ)の觀(くわん)乃至三重法界觀(さんじゆうほつかいくわん)等により結業禪誦(けつごふぜんじゆ)す。

 此の練若臺に住み給ふ事三ケ年に及ぶ。然るに山高くして嵐風(らんぷう)烈しく、涯(がけ)嶮(さかし)くして雲霧覆ひ、室内濕氣(しつけ)し墻壁(しやうへき)破却(はきやく)せり。上人此に依りて頭痛の煩ひあり。仍て是を栖捨(すみす)てゝ石水院(しやくすゐん)に移り給ふ。是に於て又圓覺經の略疏竝に修證義(しゆうしやうぎ)是を談ず。又梵網菩薩戒本香象(ぼんまうぼさつかいほんかうず)の疏竝に南山の淨心誡觀(じやうしんかいくわん)等之を談ず。

大橋左狂「現在の鎌倉」 9 人力車

     人 力 車

 

 鎌倉の交通機關として尤も成功して居るのは人力車である。勿論鎌倉の交通機關の内には電話・電信・郵便等の官有はあるものゝ、此等は鎌倉の交通機關の例外として別段掲載するの要はない。今玆に尤も成功したる鎌倉の人力車に就て現在の活動振りを紹介するのも敢て無益でないと信ずるのである。鎌倉とし云へば一概に北は山の内、西は腰越・江の島附近も鎌倉である樣に承知する人も尠くない。然れども鎌倉と云へば別項にも記した通り雪の下、小町、大町、扇ケ谷、長谷、坂の下、由井ケ濱、極樂寺、材木座、二階堂、西御門、淨明寺、十二所の十三字を玆には指したのである。

 現在鎌倉には人力車は幾臺あるか、輓子は何人あるかと、今此の營業者の取締りで玆に二十三年間熱心に鎌倉斯業界にて同業の發展獎勵に力め幾多の辛酸を嘗めて漸くに鎌倉現在の事柄の改良を見るに至つた功勞者とも言ふべき停車場前鈴木與四郎氏に就きて四十五年四月一日現在の車輌數を調査するに、前記十三字即ち鎌倉組合に屬するものにて總車輛數百十臺、内新式ゴム輪(わ)臺百臺、舊式鐵輪臺を修正した半改良ゴム輪臺七臺、他は從來の車臺である。鎌倉として新式ゴム輪臺車柄の斯く多いのは實に彼等斯業者が他地に見ざるの大奮發、大決心にて改良に力めた結果である。鎌倉に遊覽するものは第一に停車場を下車すれば忽ち眼に映ずるのは、ブラットホーム出口の構内に銀光輝く車輪が日光に映じて眩ゆく整々として一區畫をなして倂立する人力車に一驚するであらう。而して鐵道構内の人力車として常に八十四臺は準備されてあるのだ。鎌倉の人力車輓子と云へば自己の車輪を輓くと、營業者に雇はれて輓子するとを合して百十以上の數を見るが、鎌倉の輓子が他地方の輓子と差異のあるのは、特別に記して讀者に紹介するの必要がある。それは鎌倉の輓子は大部分一輛の車臺を持つて居て七、八名を除くの外は皆自己所有の車輛を輓くのである。中には數戸の貸別莊等を所有して「僕の此間新築した別莊は某華族に貸した、君が某銀行の重役に貸してあつた坂の下の貸別莊は未だ二百圓の家賃にしてあるか」等と身分柄實に壯快の談話を立聞きする事が往々ある。以て鎌倉の人力車夫等が他國に見る能はざる相當資産を有して居る事が判斷されるのである。隨て彼等の營業振りは確實である。其上に此頃は取締役の鈴木與四郎、世話役の金子和三郎の兩名が雨の日も風の夜も毎日日出より日沒迄鎌倉驛構内に出張して遊覽者に不都合のない樣にと、乘客の需に對し萬事に拔目のない活動振りはやがて二十世紀人力車營業者の營業振りの模範を示すであらうと信じられる。今左に多くの人が往復する箇所箇所の人力車賃金表を記載して不案内者の重寶に充てんとするのである。

[やぶちゃん注:これはとんでもなく面白い記述である。今や、我々は当時の人力車輓きの日常(現在、鎌倉に営業している観光用車夫は自ずから全く別物である。私の言うこの範疇ならば寧ろタクシー運転手の方々こそが相応しいであろう)を見ることも、その料金や営業実態を知ることも、最早、ないからである。私にはその車輪の銀光が見える! そしてそれに乗りこもうとする芥川龍之介や夏目漱石が! そして「先生」や「私」が!……。

「ブラットホーム」底本では右に『(ママ)』注記がある。

「箇所箇所」の後半は底本では踊り字「〲」であるから「がしよ」と濁音でお読みになられたい。

 以下の行先運賃表示は底本では三段組である。因みに、明治四五・大正元(一九一二)年当時の物価を示しておくと、白米十キログラムが一円七八銭~三八銭、かけ蕎麦一杯三銭、大工の一日の手間賃が一円一八銭で、だいたい一銭は現在の十二円~二十五円相当と考えられる。]

 鎌倉停車場より

  長谷附近    十五錢

  大佛附近    十七錢

  坂の下附近   二十錢

  極樂寺追揚   三十錢

  海岸橋     十二錢

  亂橋      十二錢

  飯島     二十五錢

  光明寺     二十錢

  八幡附近     十錢

  大蔵附近    十三錢

  大塔宮     十六錢

  建長寺     十七錢

  圓覺寺    二十三錢

  大船驛    三十五錢

  藤澤驛     五十錢

 片瀨停留場より人力車に乘車すれば

  鎌倉驛     五十錢

  八幡附近   五十五錢

  建長寺     六十錢

  大塔宮     六十錢

  圓覺寺    六十五錢

  大船停車場  七十五錢

  藤澤停車場  二十五錢

  片瀨洲鼻     七錢

  江の島     十六錢

  腰越神戸     十錢

  極樂寺     三十餞

  大佛附近   四十二錢

  長谷寺     四十錢

  光明寺    五十五錢

  亂橋附近   五十五錢

 前記は鎌倉人力車組合から屆出した定賃金である。此賃金を標準として乘車すれば間違はないのである。

[やぶちゃん注: 「こゝろ」の「私」の『宿は鎌倉でも邊鄙(へんぴ)な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた』とある。漱石が実際に避暑に来ていた光明寺の運賃を見て頂きたい。ズバリ、「二十錢」である。
「片瀨洲鼻」は片瀬海岸の砂嘴の突先、現在の江ノ電江ノ島駅から江ノ島方向にに商店街を行って中程を右に折れた片瀬川畔辺りに同定出来る。満潮時の船渡し場であった。放哉と芳衛も、きっとここまで藤沢から人力で来たに違いない……そして二人が小船に乗って江ノ島へ渡ってゆくのが見える……そうして……そうして吉衛の乗った人力車がだんだんに小さくなってゆく……「わかれを云いて幌おろす白いゆびさき」……

「腰越神戸」「神戸」は神戸(ごうど)川。江ノ電腰越駅近くを流れ、腰越漁港の桟橋で相模湾に入る。]

 尚ほ岐路に入る一人乘一人輓(びき)一里に付き二十五錢以内とし、一日雇上げ規定十時間以内は一日二圓三十錢、半日雇上げ五時間以内は八十錢、一時間雇上四十錢、半時間二十五錢、一時間待賃八錢と定めてある。二人輓は凡て前記金額の二倍である。又三歳以上十歳未滿の子供で同乘させることは、定額賃金の三分一增賃するとの事である。手荷物三貫目以上大貫目以内の物を携帶の際は矢張二分增賃となる。橋錢・船渡錢等は一切乘客にて支拂を受くる事に定てある。其外雪雨暴風夜間等は其れ其れ割增はあるが凡て五割以内である。

[やぶちゃん注:「其れ其れ」の後半は底本では踊り字「〲」であるから「それぞれ」と濁音でお読みになられたい。]

(無題) 萩原朔太郎 (「月に吠える」時代の最古草稿2)

 

 

 

さびしくてさびしくて町に出で

 

さびしくてさびしくて町を出で

 

利根川べりの若艸に身をなげ出す

 

さびしくてさびしくて眺むれば

 

ふるさとは白たへの山なみ

 

そのいたゞきをけむりはひ

 

吾が胸に泪はふれる

 

吾が心しみじみあはれ

 

さびしくてさびしくて眺をつぶる。 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻の「未發表詩篇」の二番目(最初は既に示した「悲しみにたえざるものが夕べである」で始まる詩)に配された萩原朔太郎の最古の未発表詩の一つ(大正三年頃の製作と推定される「月に吠える」時代の草稿)。無題。取り消し線は抹消を示す。「はふれる」「眺」はママ。校訂本文は抹消部を除去した上、それぞれ「あふれる」「眼」に補正、さらに、「若艸」を「若草」、「いたゞき」を「いただき」に変えてしまっている。後の二つはやり過ぎで、最早、萩原朔太郎の原詩とは言えない。筑摩版全集校訂本文は定本テクストとは言えないのである!!!

 

 

小用してゐる月 大手拓次

 小用してゐる月

 

濃(こ)いみどりいろの香水(かうすゐ)のびん、

きもちのいい細長(ほそなが)いこのびんのほとりに、

すひよせられてうつとりとゆめをみるなまけもの。

びんのあをさは月のいろ、

びんのあをさは小用(こよう)してゐる月のしかめづら、

びんのあをさは野菜畑(やさいばたけ)の月のいろ、

ねむさうなあかい眼をしてあるく月のいろ、

びんのあをさは胡弓(こきう)のねいろ、

びんのあをさは小魚(こうを)の背(せ)につく虫(むし)のうた、

びんのなかには Jacinthe (ジヤサント)の

つよいかをりが死のをどりををどつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「Jacinthe (ジヤサント)」フランス語でヒヤシンスのこと。女性名詞。単子葉植物綱ユリ目ユリ科ヒヤシンス Hyacinthus orientalis。ヒアシンスの名はギリシャ神話の美青年ヒュアキントスに由来する。同性愛者であった彼は、愛する医学の神アポロンと一緒に円盤投げに興じていたが、その楽しそうな様子を見ていた、やはりヒュアキントスに恋慕していた西風の神ゼピュロスが嫉妬して風を起こし、アポロンが投げた円盤はそれに煽られてヒュアキントスの額を直撃、亡くなってしまう。その時、流れた大量の血からヒヤシンスは生まれたとされる。花言葉は「悲しみを超えた愛」(以上はウィキヒアシンスに拠った)。]

鬼城句集 夏之部 夏の川

夏の川   馬に乘つて河童遊ぶや夏の川

これを以って「地理」の部を終わる。

2013/06/02

中島敦漢詩全集 十一

   十一

 

 夜懷 二首

 

自憐身計諒蹉

數歳沈痾借債多

春寒陋巷蕭々雨

燈前獨唱飯牛歌

 

 

曾嗟文章拂地空

舊時年少志望隆

文譽未身疲病

十有餘年一夢中

 

〇やぶちゃんの訓読

 

自(みづ)から憐み 身計(しんけい) 蹉(さた)を諒(ゆる)す

數歳 沈痾(ちんあ) 借債(しやくさい) 多し

春寒 陋巷 蕭々たる雨

燈前 獨唱 飯牛歌

 

 

曾つて嗟(さ)したる文章 地を拂つて空し

舊時 年少(わか)くして 志望のみ隆かりき

文譽(ぶんめい) 未だ(あが)らず 身 疲病(ひへい)せり

十有餘年 一夢の中(うち)

 

[やぶちゃん注:今回は訓読には各所で手こずった。T.S.君と何度かのやりとりを経て、二首目の転句については訓読がどうしても冗長に流れることから、反則技ながら、「文の譽れ」から「文名」と同義ととって「ぶんめい」と意読することにした(「文譽(ぶんよ)」と突っ慳貪に突き出すような仕儀は私どもには出来ないのである)。その他の訓読部も含め、大方の御批判を俟つものではある。]

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「自憐」自分を憐れむこと。

・「身計」自分のために慮ること。

・「」許すこと。

・「」無為に過ごすこと、時期を逸すること

・「數歳」数年。

・「沈痾」久しく治癒しない病い。

・「陋巷」みすぼらしい横丁。

・「蕭々」多く風の音や馬の嘶きの形容に遣われる擬音語。通常は寂しげな気分を伴う。ここでは淋しい雨音を形容している。

・「飯牛歌」中国の古い歌の名。飯角歌とも。春秋時代の衛国の人寧戚(ねいせき)が、斉(せい)の国の城門外において夜を明かしつつ、牛にえさをやりながら(「牛を飯(やしな)ふ歌」)歌ったとされる。斉国の名君桓公は夜半に城門を出て来て彼の歌を聴き、即座に彼の非凡なことを悟り、その後、重く用いたという。すなわちこの歌は、「まだ世に認められぬ者が、将来その価値を認められ重用されるのを待つ」というイメージを濃厚に帯びているのである。この詩については原詩を見出し得ぬが、個人ブログ「Manontanto」の『陶淵明の「商音」について』の「【商歌は悲しい調子の歌】」の部分に詳しい考証がある。また、個人サイト「つばめ堂通信」の「涅槃会」のページにある李白の「秋浦歌」全詩の詳細な評釈(「其十五」の「白髪三千丈」ばかりが突出して人口に膾炙するものの、この詩の全詩評釈をされている方はネット上では少ない。それだけでも非常に貴重である)の「其七」(訓読は岩波版中国史人選集の武部俊男氏のものを附したが、読みは歴史的仮名遣とした)、

 醉上山公馬

 寒歌寧戚牛

 空吟白石爛

 淚滿黑貂裘

  酔うて上る 山公の馬

  寒うして歌う 寧戚の牛

  空しく吟ず 白石爛(あき)らかなりと

  淚は滿つ 黑貂(こくてう)の裘(かはごろも)

の注で、『飯牛歌(うしをやしなう歌)または牛角歌 二首』として、以下の二首の訳詩を示しておられる(読みや注はママ。原詩などは示されていない)。

   《引用開始》

 

 その一

南山(なんざん)矸(かん、キラキラ) 白石(はくせき)爛(らん、ピカピカ)。

生まれて遭(あ)わず 堯(ぎょう、古の聖帝)と舜(しゅん、古の聖帝)とに。

短布(たんぷ)の単衣(ひとえ)は 

適(たまたま、ちょうど) 骭(かん、すね)に至る。

昏(たそがれ)より牛に飯(くわ)せて 夜半に薄(いた)り

長夜(ちょうや) 漫漫(まんまん、長い)として

何(いづれ)の時にか 旦(あ)くる。

 

 その二

蹌踉(そうろう、河名)の水は 白石燦(さん、キラキラ)たり

中に 鯉魚(りぎょ、魚名)有りて 長さ尺と半ばなり。

弊布(へいふ、ボロ布)の単衣(ひとえ)は、裁ちて骭(かん、すね)に至り

清朝(せいちょう) 牛に飯(くわ)せて 夜半に至る。

黄なる犢(こうし)は 阪を上りて 且(しばら)く休息

吾 まさに汝を舎(さしお)きて 斉の国を相(たす)けんとす。

 

   《引用終了》

これは中文サイト「中国古代詩人百科」の「寧戚」に載る以下の詩の訳と思われる。但し、三首とあり、また一部に異同がある(当該ページの簡体字を正字化して示す)。

 

 飯牛歌 三首

南山矸、白石爛、生不逢堯與舜禪。

短布單衣適至骭、從昏飯牛薄夜半、長夜漫漫何時旦?

滄浪之水白石粲、中有鯉魚長尺半。

敝布單衣裁至骭、清朝飯牛至夜半。

黄犢上坂且休息、吾將舎汝相齊國。

出東門兮厲石班、上有松柏靑且闌。 

粗布衣兮縕縷、時不遇兮堯舜主。

兮努力食細草、大臣在爾側、吾當與汝適楚國。

 

・「」ため息をつくこと、吟ずる、和して続けること。ここは「文章を吟じる」と取る。

・「拂地」文字通り地を払うこと、すなわち、一掃されてなくなってしまうこと。

・「」「揚」と同音同義。揚がること。この詩句は、「未だに誉れが上がらない」、つまり「未だに名を成さない」という意味となる。

・「疲病」困窮・疾病若しくは疲労が溜まり病いも抱えていること。

・「一夢」ここでは「黄粱一炊の夢」すなわち「邯鄲の夢」「邯鄲の枕」という故事(道士から枕を借りて眠ったところ富貴を極めた人生を送った夢を見たが、目覚めてみるとまだ黄粱すら炊き上がっていなかった。すなわち、人生の栄枯盛衰のはかない喩え)が持つイメージを濃厚に有している。

 

T.S.君による現代日本語訳(二首の流れを恣意的に三連に分けた。これは、第一首目にある病と夜と雨のイメージが二首全体にかかるものであると判断し、これらのモチーフを用いて冒頭に独立した連を立てることにより、その影響力が隅々まで及ぶよう工夫したためである。)

 

……春寒のみすぼらしいこの路地に夜の雨が降りそぼる……。ひとり机のランプの静かな光に向かい、俺は今でも夢見る。自分の文章がいつかは世に認められることを。……

 

……俺は昔から才能がないことを恐れて自分を磨こうともせず、才能を半ば信ずるがゆえに世間に揉まれることをも避けてきた。その結果、俺は持っていたはずの才能をすっかり空費してしまった。……もう何年になるだろう。……その結末がこの通り、病いと借財に塗れた毎日さ。……

 

……かつて書き散らかした数多の文章は価値なきものとなり、風に吹き払われて、その所在はもはや分からなくなっていよう。若い頃は沸き立つ志を胸に人生の一歩を踏み出したものだった。……それが見てくれ……貧窮と病いに苛まれるこの有様。……この十数年は、まさに夢のように……失われたのさ。……

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 初見から数日間、ふたつのことがずっと心に引っ掛かっていた。

 ひとつは、私がこの詩から受ける印象、すなわち、『決して全面的な絶望を歌うのではない』という感想が本物かどうか、ということであった。

 みすぼらしい路地で淋しい夜の雨の音を聞きながら、独り机に向かう彼は、何の実りもなかった自らの十数年を自嘲する。

 そんな惨めな境遇ながらも、しかし、世に認められぬ不遇に対して不平を口にする『心の余裕』はまだ残されているのだ。

 なんと、彼が口にするのは「飯牛歌」である。

 運命に完全には打ち負かされてなど、いないのだ。今でも自分は世に認められる価値があると信じ、もしかしたら将来、いつか眼力ある人の目に留まるのではないかと期待しているだ。

 惨めな失意にくるまれているようでいて、実は内面では自ら恃むところは揺らいでいない。

 そして当然、そこから生ずるのは、己れの価値を認めない俗な世間に対する反発と侮蔑であろう。

 したがって、いくら淋しい夜の雨に押し籠められてはいても、詩人の心の中では自尊心の火が燃えているのである。

 こうした私の印象は的外れとは言えまい……。

 

 すると……今一つの私の気がかりが、俄然、意味を持って浮き上がってくるのである。

 

 それは、この詩をどこかで読んだことがある、という既視感(デジャヴ)だ。

 何だろう……。どこで会ったのだろう……。

 この詩と対峙すること三日目、私は――『あの丸眼鏡の』肖像――中島敦の肖像写真を――ぼんやりと思い浮かべていた。

 私はこんなことを思っていた。

 

「彼と初めて巡り合ったのはいつだったのか?……そう……彼と出逢ったのは高校の現代国語の教科書だ……作者の解説のところに、『あの顔写真』が掲載されていたっけ……そうだ……あれは忘れもしない「山月記」ではないか! 「山月記」……?!……あっ! そうだ。そうに違いない!」……

 私は、ここに至ってやっと気づいたのだった。

「……『この詩を心に抱いた』詩人その人に……私は遠い、あの高校時代に、一度、対面していたのだ!……そうして……そうして、この詩は……まさに、あの「山月記」のネガ・フィルムではないか!!……」

 

 なぜ、「山月記」か――。

 かの作品のあらすじを、いま一度なぞってみたい。

 主人公李徴は若くして科挙に合格し、将来を嘱望されるも、拝命した賤しい官職に満足できず、詩作の道に身を投じる。しかし文名はなかなか揚がらず、焦りが募る。自分の才能に半ば絶望した彼は、家計を支えるために再度、地方官の口に甘んじることにした。しかし、かつての秀才の名を恣(ほしいまま)にした彼には、年齢に比して余りにも低いその職務のために著しく自尊心を傷つけられ、悶々と過ごすうち、ついに発狂し、虎に変身してしまう。

 その後しばらくして、心さえ殆ど虎と化した彼は、旧友袁傪に偶然巡り合い、辛うじて残された人間としての彼が、おぞましい変身の実態を語る。しかも彼には最早、人間としてやり直せる余地は残されていない。今少しすれば心まで完全に虎と化し、全ての可能性は失われてしまう。その瀬戸際に、改めて彼が披露した即席の詩は、やはり第一級の水準を保っていた。

『……こんな素晴らしい詩を作ることができるなんて……李徴よ、お前は紛れもなく得がたい才能を持っていたのだ。それなのに……。尊大な自尊心といびつな心のために大成することができなかったなんて……。なんという悔恨か……』

 しかし、同時に袁傪は感じた。

『……それらの詩は確かに素晴らしい出来だ。だが、第一流の作品となるのには、何か、欠けるものがあるのではないか?……』、と。

 そうして、クライマックス、李徴は自分自身の実相を冷徹に告白し、己の内なる『虎』に思い至る。

 後、暁を前に、短い再会の時を終えて、虎となった李徴と友は――永遠に――別れていくのであった……。

 

 文名が容易に揚がらず、焦りが募る李徴の姿。これこそ、この詩に歌われる半ば自嘲に満ちた詩人の内面ではないか……。

 同時に、自分の才能に半ば絶望したとは言いながら、最後まで己れの文学に自信を持ち続けた李徴の姿(もし完全に自信を失った者なら、頼まれてもいないのに旧作約三十編を友に自ら披露したりなどするはずがない!)。

 これこそ、自身の才能に対する信頼を完全には失わず、「飯牛歌」を呟きつつ、運命に抗い続ける詩人の姿ではないか……。

 「山月記」と、この「十一」の漢詩を改めて並べてみることによって、この漢詩が若い詩人の純粋な自信と、なかなか世に認められない焦りを素直に詠んでいるものなのだという実感が、改めて強く湧いてくる。

 無駄にしてしまった十数年と、病いと貧窮とを、夜の闇と雨の音に包まれて、淡々と歌うのである。

 自ら恃むところ頗る厚い若い詩人の、直線的な焦りと自嘲――加えて俗な世間に対する漠然とした敵愾心を、実に素直に詠んだ詩なのである。

 

 この漢詩は、「山月記」世界に擬えるなら、李徴が虎に変身する以前、『文名容易に揚がらず、焦りが募り始めた頃の作中の李徴の詩である』と『同定』し得るであろう。

 まさに自らの潜在意識に沈んでいる〈愛〉に対して詩人は、未だ無自覚であることもその証左と言える。

 ただ自らの文学とその才能に対する信頼だけが、低い音調で計八句を通じて一貫して響いており、自嘲がところどころで小さな飛沫を上げている――そんな『李中島敦徴』の詩――なのではないだろうか?

 

 そう解釈した瞬間、この漢詩から遥か数段階進んだ位相を現出させたところの「山月記」世界が、逆にこの詩とその作者とを鮮やかに逆照射して、そこに明確なあるシルエットが立ち現れてくるのである。

 「山月記」において中島敦は、過去を振り返る李徴に、自尊心と羞恥心に囚われ、不遇に喘いでいた自分を自嘲させている。ここまでならこの「十一」の詩の世界と同じ深さに過ぎない。しかしその上で、作品の後半、殆ど虎になりかけた李徴は傲慢であった自分を十全に客体化し、絶対零度の自省を、恐ろしい深淵の中で呟いているのだ。

 そうして、自分のことよりも遺される家族を思うことこそが人としてあるべき姿であるとさえ述懐している。

 つまり、土壇場の李徴は、絶対の孤独の只中に屹立しながら、何もかも悟っていたのだ。

 そして、これはすなわち「山月記」を著したときの中島敦も、十分に悟っていた、ということをも意味していよう。

 しかし、全てを悟った李徴でさえ、虎に変身する道を引き返すことは許されなかったのだった!……

 何故だろう?……

 何という恐ろしい過酷な運命ではないか?……

 

 そこで思い合わされるのは、李徴の詩が第一流として世に残るためには、決定的に欠けていたものとは一体、何だったのかという素朴な疑問である。この疑義を私は高校時代に強く感じたことを思い出したのだった。

 この度(たび)、評釈に取り組む私は、ホームページに掲載された藪野先生の授業ノートを拝見する機会に恵まれ、この問題に関して次のようなくだりがあることを知った。すなわち、『李徴の内面の問題性があり、それが作品に表れたため』という説明は、『教師用指導書にしばしば書かれてあるが、如何にもな下らぬ言説である』というのである。やはり、そうであったのか……。そして、私は改めて考え始めた。

 

 あの頃の私が漠然と思い込んでいた、ある答えは、あった。

――欠けていたのは、周囲に対する思い遣りの心、自分を犠牲にしても他者を愛する心なのではないか――と。

 しかし、よく考えると、やはりこれは、いかにも教科書的に出来すぎた胡散臭い回答ではないか。しかも矛盾を孕んでさえいる。

 なぜなら、そもそも李徴は、そういう心の欠如をこそ自ら反省しているではないか。

『飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己(おのれ)の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮おとすのだ。』

と。

 心が欠如した者が、諭されてもいないのに反省などしようはずもない。

 彼は、実は暖かい心をしっかりと内に秘めた人であったからこそ、この自嘲は口を衝いて出たのである。

 自分が獣に完全に変身しようというその刹那にさえ、家族のことを思い遣る彼。

 そんな彼を指して、人間らしい暖かい心が足りない、などと本当に指弾できるだろうか?!

 人生の途上で味わう様々な矛盾や葛藤をそのまま飲み込んだり、誤魔化したりしながら生きている大多数の人々と比べて、一体、彼が人間らしくないなどと、誰が言えるのだろうか?!

 私は、決してそうは思わない。

――彼はあまりにも人間らしかった

――過度に人間らしかった

のだ! ただ、

――自我に正直だっただけ

なのだ!

 これにある人は次のように反論するかもしれない。

「変身が致命的に確定せざるを得ない直前になってやっと彼は悟ったのだろうが、昔の彼は人間として問題があったのだ。」

と。――しかし、それはおかしい。

 暖かい愛に目覚めた彼が、心の通わないような駄作を堂々と披露するというのでは、この厳粛な悲劇の中にあって、まるでぶち壊し、噴飯物の間(あい)狂言だ。

 そもそもが、彼が再就職した地方官の地位に甘んじたのは家族を支えるためであったではないか。

 いや、何より、すべてを悟った彼に対して虎への変身という最も残酷な最終処刑を――「是」たるはずの天道が――これを執行するであろうか?……

 

 それでは……『第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺け』ていたというそれは、一体何だったのか?……

 この問いに答えるのは、今の私の力では……到底無理なようだ。親友袁傪は、果たしてそれを特定し得たのであろうか。当然ながら物語の話者である中島敦の中では、明確なものとして、あったに違いない。それをはっきり言わなかったのは何故だろう。言わなくても読者は当然感知し得るものと判断したのだろうか。それとも……言っても無益であると考えたのだろうか。つまりそれは……まさか「理解し得る者にはそもそも敢えて説明する必要などなく、理解し得ない者には百万言を費やしても到底了解し得ない」ということなのだろうか。――もしもそうであるなら、本当にそうであるなら……私は――、文学に憧れながら文学というものを理解する力に欠け、芸術に想いを寄せながら芸術というものを自分自身の世界とすることを認められなかったあまりにも惨めな存在、ということになる……。何と恐ろしい裁断! そしてその時こそ……、この私は、哀しい厳然たる事実を、甘んじて受け入れねばならないであろう。私は今固く眼を閉じ、軽々しい言葉を弄することを、もう此処までにしたいと思うのである。

[やぶちゃん注:もうお気づきのことと思うが、T.S.君に現代国語の授業で「山月記」を教えたのは当時二十六歳であった担任の私、藪野直史である。今回の評釈のために私は私の『中島敦「山月記」授業ノートを公開したのであるが、ここで一つ断っておかなくてはならない重要な事実がある。それは、ここでT.S.君が問題にしている、『第一流の作品となるには欠けているところがあるのはなぜか?』という発問への答えの部分である。公開したノートで私は、当該箇所の板書として、

①言葉では表現できない芸術的霊感に欠けているからか?=〈才能不足〉

②李徴の内面の問題性があり、それが作品に表れたためか?=〈後段への伏線的要素〉

*所詮は①である/でしかない。

②は教師用指導書にしばしば書かれてあるが、如何にもな下らぬ言説であることを暴露しておくこと。

と記してあるのであるが(「*」は私のメモ)、実はこの当時(教員になって二度目か三度目の「山月記」の授業であったと記憶している)、私は①を示さず、教師用指導書を鵜呑みにして②を理由として板書して平然としていたことを告白せねばならないのである。しかもご丁寧に、私は「山月記」の結末近くでは、その欠けていたものは「愛」であったのかも知れない、なんどと、口頭で、まことしやかに述べていたことさえも自白しておかねばならぬ。私がこの②を否定するようになるためには、もう少し、私が無為に年をとり、私から創作者としての野心が微塵もなくなり、その結果として、私の中での「山月記」の私なりの素直な自律的な読みが熟成する必要であったのである(『授ノート』のような形になったのは四十代以降のことと記憶している)。

 因みに②を全否定するという私の立場とは難しいことではない。単に――李徴にミューズは霊感の桂冠を授けなかった――詩人の光栄は李徴に遂に訪れなかった――という世間的事実が、ここでは「山月記」の李徴という悲劇的存在を、さらに悲惨に駄目押しする効果を与えている、若しくは与えているに過ぎない――と私は今は解釈している――ということである。なお、同様の内容を持った追記をこれに先立って『中島敦「山月記」授業ノートの上記引用直後に補注として附しておいたので、それも参照して「戴けるならば、自分にとつて、恩倖(おんかう)、之に過ぎたるは莫(な)い」。]

 

 最後に「山月記」より、李徴が自分の過去を客観視しつつ、語る核心部分を引用しておく。私が現代語訳を綴る際に、この小説の幾つかの語句を意識的にそのまま借用したことは、既に読者の知るところではあろう。[やぶちゃん注:引用は私が本評釈のために公開した私の「山月記」電子テクスト(親本筑摩版全集版)からT.S.君が指示した部分を引用した。太字「ふとらせる」の部分は底本では傍点「ヽ」。]

   *   *   *

 何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。人間であつた時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。己(おれ)は詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。己(おのれ)の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己(おのれ)の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。己(おれ)は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによつて益〻己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。今思へば、全く、己(おれ)は、己の有(も)つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだつたのだ。己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己は今も胸を灼かれるやうな悔を感じる、己には最早人間としての生活は出來ない。たとへ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。まして、己(おれ)の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。さういふ時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。己は昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。しかし、獸どもは己の聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、哮(たけ)つてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の氣持を分つて呉れる者はない。恰度、人間だつた頃、己の傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

   *   *   *

 しかし、もしかしたら、私は「山月記」の世界に少々立ち入り過ぎたのかもしれない。

 

 もう一度本題の漢詩に立ち戻ろう。

 

 そうして、気難しい不恰好な自尊心が、暗闇の底で夜の雨に降り籠められているというこの漢詩のイメージとして、私が真っ先に思い浮かべた音楽を最後の最後にご紹介したいのである。

 

 抜群の才能を持ち、自ら恃むところ頗る厚く、周囲の人々を常に思い切り傷つけたくせに、その実、内には人を想う炎が常に燃えていた、ある作曲家の手になるピアノ・ソナタである。

 臆病な自尊心と尊大な羞恥心の塊だった高校時代の私が、雨の夜、いつも独りきりで聴き入っていた、心の友ともいうべき懐かしい曲――

 

――ベートーヴェンの第十五ピアノソナタ ニ長調 作品二十八(やぶちゃん注*)

――その第二楽章

 

である。

[やぶちゃん注:リンク先はT.S.君が指示した“Wilhelm Backhaus plays Beethoven Sonata No.15, Op.28 'Pastorale' (mono, 1950-4)”のモノラル演奏である。重厚なバックハウスの演奏による第二楽章は6分40秒から始まる。]

耳嚢 巻之七 老僕奇談の事

 老僕奇談の事

 

 本郷信光寺店(たな)、又古庵(こあん)長屋抔といへる片□町有て、予親族山本某も彼側(かのそば)に住(すみ)けるが、文化貮年の春、右町に三河屋といへる質店(しちだな)有(あり)し。夫(それ)が元に年久しく仕へて年比(としごろ)五十餘になれる僕ありしが、甚だ實體(じつてい)にて數年私(わたくし)なく仕へ、主人もあわれ成(なる)者に思ひけるが、文化元の暮か同貮の春か、右邊に聊(いささか)出火ありて一兩軒燒失せし。彼(かの)老僕其(その)以前此邊火災あるべし、彼僕三河屋抔は氣遣ひといへるを、傍輩なる者嘲り笑ひし事有しが、果して火災ありしが、彼僕三河やは氣遣ひなき間、諸道具片付るに不及迚(およばずとて)制しゝが、間もなく火も靜まりて、三河やより無程(ほどなく)盜賊火付改勤ける戸川大學に、右僕被捕糺(とらへられただし)もありけれど、素よりなせる惡事もあらざれば無程(ほどなく)ゆるし返されけると也。彼(かの)僕常に二階に臥(ふせ)りけるが、夜更(よふけ)て人と物語り抔する事の氣(け)しき度々有しをあるじもきゝ、いかなる事と尋(たづね)けるに、そこつにいわざりしが切に尋ければ、誰(たれ)も名はしらず、山伏やふの人來りて物語抔する事有(あり)、我(われ)年若(わかく)ば召連(めしつれ)て諸國を見すべけれど、老人なれば其事ももだしぬと、懇意に色々咄し抔なせる。火事の事も彼(かの)やま伏の語りしと申(まうし)ける故、左あらば重(かさね)て右の客仁(きやくじん)來らば我等も引合(ひきあはせ)よと、若き手代抔懇望をなせど、右客仁に不聞(きかず)しては難成(なりがたし)とて、其元(そこもと)たちは如何と、其後客仁に逢しに、決(けつし)て他人は逢事難成(あふことなりがたし)、其方(そのはう)は見る處ありてかくかく物語れども、人には猥りに沙汰なすなといへる也迚斷りしが、其後は如何成りしや不知(しらず)と語りぬ。一説に、右近邊に屋しきの内、狸の怪ありし事あり。右狸のいたづらにやあらんと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:孰れも火付盗賊改方が実名で登場する話で連関する。この文、何だか、無駄な繰り返しが多く読みづらい(錯文のようにも思われる)が、すっきりしたカリフォルニア大学バークレー校版を参考にしながら、くどくならぬように意訳を添えながらなるべく底本全文を訳すように心掛けた。

・「信光寺」真光寺の誤り(訳では訂した)。この寺は戦後に世田谷に退転して同地にはないが、桜木神社や本郷薬師を境内に持っていた大きな古寺で、現在の真砂町の「真」はこの寺の名をとったもの、とウィキの「ノート:本郷(文京区)」の記載にはある。底本の鈴木氏注には、『天台宗。薬師堂があり、本郷の薬師と呼ばれて有名だった。同寺と小笠原佐渡守中屋敷との間に、古庵屋敷と呼ばれた所があった。幕府の御寄合医師余語古庵拝領の地で、その一部が町屋となったもの。文京区真砂町に属する』とある。

・「古庵長屋」菊坂の与太郎氏の「本郷の回覧板 『昔空間散歩の薦め』」というサイトの『「小笠原佐渡守屋敷跡Ⅲ」補完編』に、「東京名所図会」の「余語古庵屋敷」に、これは寄合医師余語古庵の先祖が宝永元(一七〇七)年に幕府から賜った物で総面積約四二六坪の内、半ばを住地、残りを町屋敷として、同年中に町奉行の支配に属してより「本郷古庵屋敷」と唱えるようになった、と記す。リンク先には詳しい旧古庵拝領屋敷の同定・現在地の画像、更には古庵の墓の写真までも拝める。必見。なお、そこにも記されているが、彼の名は森鷗外の「伊沢蘭軒」の「その六十三」に『余語(よご)氏は世(よゝ)古庵の號を襲(つ)いだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。當時の武鑑には、「五百石、奥詰御醫師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある』と載る。なお、ちょっと吃驚したが、不動産会社「ジェイ・クオリス 東京賃貸事情」のサイトにも古庵屋敷」の解説が載っており、『[現]文京区本郷四丁目』『本郷二丁目代地の西に位置し、本郷三丁目の北で中山道から西に折れる通りの北に沿う片側町。北は寄合医師余語古庵の屋敷、通りを挟んで南は久保長貞の屋敷と早川蔵人の屋敷、西は肥前唐津藩小笠原家の中屋敷。宝永元年(一七〇四)に余語古庵の先祖が拝領した地(四二六余)のうち、二四七坪余を町屋としたのが当町で、当初から古庵屋敷とよんで町奉行支配であった(御府内備考)。文政町方書上によれば、町内は東西の表間口が一九間余、南北は東側が二〇間余、西側が一一間余。家数九、うち家守一・地借六・店借二。公役は三人役を勤めた。本郷真光寺(ほんごうしんこうじ)門前と同様、俗に御弓(おゆみ)町ともよばれた。明治二年(一八六九)本郷真砂(ほんごうまさご)町となる』という堅実な考証記事が載っているのであった。侮れない! 凄い!

・「片□町」底本には右に『(側カ)』と傍注、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にも『片側町(かたかわまち)』とする。それで採った。「片側町」は一般名詞で、岩波の長谷川氏注に『道の片側だけ家並がある町』とある。

・「文化貮年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、比較的新しい都市伝説である。

・「間もなく火も靜まりて、三河やより無程(ほどなく)盜賊火付改勤ける……」脱文が疑わられる。カリフォルニア大学バークレー校版では『まももなく火も鎮(しずま)りて、三河屋は無難なりける。盜賊火付改(ひつけあらため)を勤(つとむ)る』と続く。ここはバークレー校版で採る。

・「戸川大學」底本の鈴木氏注に、『寛政当時の戸川大学は逵旨(ミチヨシ)。八年(四十八歳)家督、戸川逵旨(みちよし)。八年(四十八歳)家督、千五百石。十年、中奥番士から御徒頭に転じている』とあり、岩波の長谷川氏注には、同人として『文化元年(一八〇四)三月先手鉄砲頭、同五月当分火付改加役御免』とある。

・「そこつに」は軽はずみなにも、軽率なことに、また、失礼にも、の謂いであるが、ここは簡単には、といった意味であろう。失礼なことに、ではきつ過ぎる。

・「もだしぬ」「默しぬ」で、口をつぐむ、黙る、又は、黙って見逃す、そのままに捨ておく、の意。

・「右客仁に名聞しては難成」の「不聞」は底本では「名聞」だが、これでは読めない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『不聞』を採った。しかも、ここも文章の繋ぎが頗る悪い。バークレー校版では、

「右客仁に不聞(きかず)しては難成(なりがたし)」とて、「其後客仁に聞しが、決(けつし)て外人は逢ふ事は難成。其方(そのほう)は見る所ありて斯物語(かくものがたれ)ども、人には猥(みだ)りに沙汰すべからず」と斷りしが、

と至って問題がない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老僕の奇談の事

 

 本郷真光寺店(だな)、一般に古庵長屋(こあんながや)などと称しておる片側町(かたがわまち)があって、私の親族である山本某(ぼう)もそのごく近くに住んでおる。

 文化二年の春のことであった。

 その町屋に三河屋と申す相応の商売をなしておった質屋が御座った。

 その店の使用人に、永年仕えた、年の頃、五十余歳にもなろうかという下僕(しもべ)があったが、はなはだ実直なる者にて、特にこの数年は、下僕の鏡の如、私(わたくし)なく仕えて内外の評判もよく、三河屋主人(あるじ)も、この下僕、初老ともなったれば、殊の外、目を掛けて御座ったと申す。

 さて――この辺りが記憶があやふやなのじゃが――その前年の文化元年の暮れのことであったか――それとも直近の同二年の、その直前の春のことであったか失念致いたのじゃが――その辺りにて、いささか、出火のことあって、左右二軒ほどが全焼致いたことが御座った。

 その折り、かの老僕――まずは火事騒ぎの起こる、それより前のある日のこと、

「……この近くにて近々、火事が、これ、ありそうじゃ。……我らのご主人さまのお店(たな)など、何とも心配なことじゃ……」

と呟いて御座ったのを、傍輩が小耳に挟んで、

「何ぃ? 火事じゃ? 阿呆か! 縁起でもない!」

と嘲り笑(わろ)うたことがあったと申す。

 暫く致いて、はたして向こう三軒先の店(たな)より火が出でたが、その折には、今度は老僕、

「……へえ! この三河屋へは延焼の気遣い、これ、御座(ぜ)えやせん。されば、諸道具など、片付けも及びませぬ。――」

と、慌てふためく家内の者どもを、逆に制して御座った。

 が、はたして間もなく火も鎮まり、三河屋へは火の粉も降り懸からずに無難に済んで御座った。

 この言動が如何にも怪しいと誰彼が噂致いて、ほどのう、火付盗賊改方をお勤めになられて御座った戸川大学殿のお耳へも、これ、届き、かの老僕、一応、召し捕えられて御取調べの儀、これ、御座ったれど、もとより、その二つの言動以外には、何の不審なることも、これ、御座なく、だいたいからして、火付けの嫌疑もなし、何か、この火事に乗じて他の悪事をなそうした形跡も御座らなんだによって、じき、許されて三河屋へと無事に戻ったと申す。

 この下僕、常に三河屋の二階の一室を寝所と致いて御座ったが、夜も更けて後、その部屋の辺りより、何やらん、誰かと物語りなどするような声や気配が、これ、たびたび御座ったによって、また、三河屋主人(あるじ)も実際にその不思議なる会話をしばしば聴いて御座ったれば、

「……夜更けの二階のことなれば、寝言か何かなら、これは、どうということもないが……どうもそうは聴こえぬ。……どういうことじゃ?」

と質いたが、なかなかはっきりとは申さぬ。

 よほど、何か隠しているものとみた主人(あるじ)が、少しきつうにしきりに糺いたところ、

「……その……誰(たれ)とも名は存じませぬが……山伏の様なる御仁が、時に夜中に儂(あっし)の部屋へ参りやす。……そうして、その御仁とは……まあ、その……いろいろと物語なんど、致すことも御座(ぜ)えやす。……その山伏の曰く、

『……そなたが年若であれば、召し連れて諸国の面白きことなんども大いに見せること、これ、出来るのじゃが。まあ、そなたも大分な老人なれば、の。……そんな無理を言うも憚られる。……されば仕方のぅ、ちょいと面白き話をするばかりじゃ。』

と、昵懇に色々と話しなど致しやすんで。……先般の火事のことも……これより、いつ頃、何処其処で火事が起きそうじゃ、とか……その火事は何処其処まで焼け広ごれども、誰それの屋敷までは類焼に及ばぬ、とか……その山伏の語って御座(ぜ)えやしたことで……。」

と申したによって、傍らで聴いて御座った店の手代の若い衆などが、

「――そんなら、また、その客人が来たならば、どうぞ、我らも是非に、引き合わせておくんない!」

と、面白半分、我も我もと懇望致いた。

 すると老僕は、

「……いや、それは……かの客人に伺ってみないことには、難しゅう御座る。」

とのことであった。

 暫く致いて、老僕が若い衆に言うたことには、

「……実は昨晩、かの山伏の参って逢(お)うたによって、

『其元(そこもと)らと逢(おう)うて貰(もろ)うて、法力によって自在に諸国漫遊なんどさするは、これ、如何(いかん)?』

と切り出してみたところが、

『決して下々の者どもと逢(お)うことは、これ、あってはならぬことなのじゃ。……その方儀は、これ、老人ながら……特に見どころのある者じゃったによって、逢いもし、またいろいろなことも教えはした。……が……向後は、我らがこと……濫りに他人に喋ったりしてはならん!……』

ときつう言われたによって……だめや。――」

とのことで御座った由。

   *

 その後、この老人がどうなったかは、とんと、聴いては御座らぬ――とは、私の知れる者の語って御座った話。

 その者の付け加えた一説に――かの古庵長屋近辺の別な屋敷内には、何でも、狸の怪が、これ、あったとのこと――されば、その山伏とやらも――実は――その狸の悪戯にては御座るまいか――とのことで御座った。

栂尾明恵上人伝記 33 山中のたった独りの涅槃会

 同三年〔乙亥〕二月十五日、殊に志を勵まして涅槃會を栂尾に於いて行ひ給へり。昔時(そのかみ)山林深谷に跡をくらまし給ひし時も、山中の樹を莊(かざ)りて菩提樹と號し、瓦石(ぐわせき)を重ねて金剛座とす。至れる所を道場として西天(さいてん)今夜の風儀(ふうぎ)を寫し、終夜佛號を唱へて雙林拔提河(さうりんばつだいが)の景氣を學ぶ。菩提樹と號する木の下に石を重ね積みて、其の上に一丈許なる率都婆(そとば)を立てゝ、上人自ら南無摩竭提國(なむまかだこく)・伽耶城邊(かやじやうへん)・菩提樹下(ぼだいじゆげ)・成佛寶塔(じやうぶつはうたふ)と書き給ふ。更に其の前に木の葉を重ねて、講經説法の座とす。彼の西天菩提樹下の今夜の儀式を聞くに、國王・王子・群臣・黎庶(れいしよ)、覺樹(かくじゆ)枯衰を見るに、終夜悲戀に堪へずして、各々蘇合(そがふ)・油香(ゆかう)・香乳(かうにう)を灑(そゝ)ぐらん有樣、哀(あはれ)に悲き儀を想像して、泣く泣く水を以て樹下に洒(そゝ)ぎ、供養を述ぶ。哀れなるかな、其儀式淺きに似たりといへども、併(しかしなが)ら戀慕悲歎の志より起れり。上人自ら四卷式を草し給へり。今世間に流布して多く之を用ふ。
[やぶちゃん注:「同三年」建保三(一二一五)年。明恵、満四二歳。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 8 江の島の電車

     鎌倉の交通機關

 

 鎌倉の地は風光佳絶加ふるに到る處名勝古蹟ならざるはない。此の樣な地に於ける交通機關は到つて不完全のものであることは各國名勝地に於て常に見ることである。然るに鎌倉の交運機關は案外發達して居るのである。鎌倉の交運機關とし言へば、先づ江の島電車及人力車であらう。此外に海濱院ホテルに自働車及馬車もある。玆には江の島電車と人力車に就て案内する事にした。

[やぶちゃん注:本文中の二箇所の「交運」はママ。標題から見ても親本の誤植であろう。]

 

     江の島の電車

 

 現在鎌倉停車場前より大町を經て由比ケ濱・七里ケ濱の沿岸に通じて、片瀨、鵠沼より藤澤停車場に達する尤も便利なる。而かも遊覽電車の名高き江の島電車は明治三十五年九月の創業である。當時は片瀨・藤澤間の運轉で延長二哩(まいる)一二であつた。翌三十大年六月に至り片瀨・行合間一哩七八を延長し、尚ほ同年七月行合より追揚迄〇哩四七の延長をしたのである。三十七年四月に至り追揚より極樂寺迄〇哩四四、又四十年八月更に大町停留場迄一哩三四の延長を爲し、最近四十三年十月現在の鎌倉停車場前小町停留場迄〇哩二九の延長を見たのである。

[やぶちゃん注:横須賀線で鎌倉に向かう観光客が圧倒的に多い現在、実は江ノ電のルートこそが江戸時代以前の鎌倉への最も一般的な路程であったことを常識的に認識している人はそう多くはないように思われる。実際、江戸以前の古記録や紀行はこの藤沢片瀬から鎌倉へ向かうものが殆んどで、その他では江戸から金沢文庫や八景を巡って朝比奈越えをして十二所から入るルートが次いでいる。江ノ電は鎌倉史から見れば新しくて古い「路」線なのである。以下、文中の当該駅間マイル表示をメートルに換算して示し、後に現在の江ノ電の当該駅間(廃止・改名駅の場合は直近の駅若しくは改名駅に拠った)データ等による営業キロ数を★で提示しておく(ウィキの「江ノ島電鉄線」の駅一覧データの数値を用いて計算した)。因みに、リンク先を見て頂けばお分かりの通り、現在でも一〇キロメートルの営業区間に十五の駅があってこの手の地方都市線では多い方であるが、実に当時の江ノ電は後述される通り、細かい駅がもっとびっちりあって、その数実に三十九駅(当時の営業距離はやや長く一〇・二七キロメートル)、単純に計算すると二六〇メートル間隔で、ちょっとばっかりゴトゴト走っては止まる、また「ゴトゴト」と走っては止まる、という実にのどかな電車であったのである。

●藤沢駅―片瀬(現・江ノ島)駅間[明治三五(一九〇二)年九月一日開業区間]

       「二哩一二」≒三・四キロメートル

★藤沢駅―江ノ島駅間    三・三キロメートル

●片瀬(現・江ノ島)駅―行合橋(現・七里ヶ浜)駅間[明治三六年六月二十日開業区間]

       「一哩七八」≒二・九キロメートル

★江ノ島駅―七里ヶ浜駅間  二・三キロメートル

●行合(現・七里ヶ浜)駅―追揚駅(「追揚」駅は現在の七里ヶ浜駅と稲村ヶ崎駅の間にあった。昭和一九(一九四四)年廃止)[同明治三六年七月十七日開業区間]

       「〇哩四七」≒  七五〇メートル

★現在の七里ヶ浜駅―稲村ヶ崎駅間は一・二キロメートルである。

●追揚駅(廃駅)―極楽寺駅間[明治三七年四月一日開業区間]

       「〇哩四四」≒  七〇八メートル

★現在の七里ヶ浜駅―極楽寺駅間では二キロメートル、稲村ヶ崎駅―極楽寺駅間では八〇〇メートルであるから廃駅となった追揚駅は現在の稲村ヶ崎駅にかなり近い位置にあったと考えられる。

●極楽寺駅―大町駅(鎌倉駅前から延びる御成商店街が由比ガ浜商店街に接する江ノ電の踏切近くにあった。昭和一九(一九四四)年廃止。現在、跡地に標識がある)[明治四〇(一九〇七)年八月十六日開業区間]

       「一哩三四」≒二・二キロメートル

★現在の極楽寺駅から和田塚駅までが一・六キロメートルあり、そこから地図上で現在の路線上を旧大町駅まで計測してみると、凡そ四一〇メートル程ある。とすれば、

 極楽寺駅―旧大町駅間   二・〇キロメートル

と概算される。以上、当時の路線及び駅位置は微妙に異なっていたと思われるので、この延長距離はすこぶる正確な数値であると見てよい。なおかつ、延長開業区間の年号年月にも全く誤りがない。ここまでの幾つかの誤りに比して、これはやはりすこぶる附きで凄い正確さと言える。大橋氏、貴殿、実は鉄ちゃんだったんじゃあ、ない?]

 斯く江の島電車が數囘に渉つて延長を計り、現在に於て鎌倉・藤澤間の鐵道院との連絡運轉を見るに至つた其間の苦心は思ひやられるのである。何時も文明機關の發展せんとするや必ず多くの迫害を受くるのである。江の島電車は實に此難澁の關所を超へて漸く今日の成功を見たのである。吾人は由比ケ濱・七里ケ濱の風光を賞すべく、江の島の絶勝地に遊ぶべく、將又龍の口の舊跡を探るべく、大佛觀音に詣づべく何時も此便利の電車に乘車して瞬時間に遊覽目的を全ふするを得るを思ふに付けて、現時及以前此會社に盡せし職員諸君に對し其勞を慰ふのである。而して此會社は以前江の島電氣鐵道株式會社と稱されて、青木正太郎氏先頭に、石井虎之助、野中萬助、永島喜代司、雨宮敬次郎の諸氏が交る交るに社長の椅子を占めて居たのである。

 此江の島電車が獨立して鎌倉・藤澤間を運轉して居るのは文明の今日發展上不利ありとして四十四年十月三日横濱電氣株式會社に合併して、横濱電氣株式會社江の島電氣鐵道部と改稱されたのである。現在客車十八臺・貨車二臺を以て雨の日展の夜も間斷なく毎日運轉して居るのである。車掌・運轉手は目下三十餘人ある。何れも土地生れの正直者だから其勤務振りも確實精勵である。土地生れ剥出し丈けあつて稍々世間馴れない傾きがある。

[やぶちゃん注:この最後の部分は何だか微笑ましい。ウィキの「江ノ島電鉄」によれば、明治三三(一九〇〇)年十一月「江之島電氣鐵道株式会社」設立総会、翌十二月に高座郡藤沢大坂町で同株式会社設立(現在とは別法人)、明治三五(一九〇二)年九月一日に藤沢駅―片瀬(現・江ノ島)駅間を開業後(因みにウィキの「江ノ島電鉄線」の方の記載には開業当日鵠沼で脱線事故を起こしたとある)、以後順次延伸され、明治四三(一九一〇)年十一月四日に小町駅(後の鎌倉駅で横須賀線のガードを潜った大巧寺前にあった。昭和二四(一九四九)年三月一日にこの鎌倉駅を国鉄鎌倉駅構内に移転して国鉄鎌倉駅への乗り入れを開始した)まで開業した。明治四四(一九一一)年十月三日に電力会社「横浜電気株式会社」に買収されて「横浜電気株式会社江之島電気鉄道部」の運営となった。現在の法人である江ノ島電気鉄道株式会社の設立は大正一五(一九二六)年七月のことであった。]

 江の島電車が鎌倉より藤澤に通じてゐる事は前記の通りであるが、此鎌倉・藤澤間を十二區に區畫してある。即ち鎌倉驛前小町停留場を起點として記せば、原の臺、長谷、極樂寺、稻村ケ崎、行合、七里ケ濱、腰越、片瀨、西方、鵠沼、川袋、藤澤の順次である。而して一區毎を二錢とし外に通行税一錢を附加するのである。例せば小町より長谷に至る間は二區となり四錢に通行税を加へて五錢となるのである。又小町より片瀨迄八區即ち十六錢に通行税を加へて十七錢の乘車賃となるが如きである。又貸切車とせば一區毎に通行税共九十錢、特別貸切車は一區毎に一円二十五錢と定めてある。此外軍人・學生其他の團體を優遇すべく三十人以上に限り普通賃金の五割引を爲して居る。尚ほ囘數乘車劵、往復乘車劵もある。それから鐵道連絡切符は片瀨、長谷の兩停留場にて發賣して居る。此途中下車場としては長谷、行合、七里ケ濱、鶴沼、片瀨の五停留場がある。

[やぶちゃん注:私は鉄ちゃんではないので、最後の部分が分からない。「鐵道連絡切符は片瀨、長谷の兩停留場にて發賣して居る」という「鐡道」とは国鉄のことであろうが、ということはこの両駅から乗った場合のみ、国鉄鎌倉駅への連絡乗車券が買えたということか? 「此途中下車場としては長谷、行合、七里ケ濱、鵠沼、片瀨の五停留場がある」というのも分からない。何の途中下車場なのか? 「鵠沼」の位置が順序だっていないのも不審である。識者の御教授を乞うものである。]

 此會社には江の島電車の外に江の島電燈なるものがある。目下藤澤、鵠沼、片瀨、鎌倉、腰越、大船、戸塚町の各所に電燈を布設して、其燈數一萬燈に達して旭日の勢力を示して居る。尚ほ記す横濱電氣株式會社は横濱市に本社を置き鎌倉郡川口村片瀨に江の島電氣鐵道部を置いてある。

ブログ470000アクセス記念 萩原朔太郎「斷橋の嘆――芥川龍之介氏の死と新興文壇――」

先程、
10:07:03

「Blog鬼火~日々の迷走:山本幡男(カテゴリ)」
を閲覧されたあなたが、
2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、
270000アクセスのキリ番
であられました。
向後ともよろしくお願い申し上げます。

ここのところ、アクセス数が増えて、今回は前回の260000アクセス突破から丁度一ヶ月で10000超となった。この世界にのみ生きている僕としては嬉しい限りである。その他の奇特な方々も、末永くよろしくお願い申し上げる。

ブログ470000アクセス記念は既に用意万端整っているので、只今、恐らく今まででは最速の記念公開を行う。

ブログ470000アクセス記念は「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の
萩原朔太郎「斷橋の嘆――芥川龍之介氏の死と新興文壇――」である。

例の如く、頑なに――芥川龍之介は詩人ではなかった――と言いながら――芥川龍之介を詩を理解出来る稀有の小説家として――そして――詩と、新しき真の文学としての文壇を架橋し得た唯一無二の芸術家として――悲しく叫んでいる……。
僕はこういう萩原朔太郎が好きで好きでたまらないのである。

敷島の日本の國に人二人ありとし思はば何か嘆かむ 萩原朔太郎 (評釈)

敷島の日本(やまと)の國に人二人ありとし思はば何か嘆かむ

 世界の中にただ二人、君と我とが愛し合つてる。人生の憂苦何するものぞ。我等尚戰はん! 戀愛歌としてこれほど力強く、感情の高調した表現は外にない。萬葉集戀歌の壓卷である。

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年第一書房刊「恋愛名歌集」より。一般に「思はば」は「もはば」と詠む。当該歌は「万葉集」の巻第十三の三二四九番歌で、前の三二四八番歌とともに(引用は中西進氏の講談社文庫版を正字化して示した)、

   相聞

磯城島(しきしま)の 日本の國に 人多(さは)に 滿ちてあれども 藤波の 思ひ纏(まつ)はり 若草の 思ひつきにし 君が目に 戀ひや明かさむ 長きこの夜を

    反歌

磯城島の日本の國に人二人ありとし思(も)はば何か嘆かむ

同巻「相聞」の冒頭に配されてある。
 但し、私はこの朔太郎の解は誤読を招く虞があるように思われる。この反歌の意は、「世界は二人のために」と甘く囁く、どこぞの古い脳天気な歌謡曲なんどとは全く訳が違うのである(私はあの糞甘ったるい歌がすこぶる附きで大嫌いである)。これは修辞的にも明白な反実仮想の技法であって――この世に、恋しい人が二人いるとしたら、一体、何を歎く必要があるであろう、その、必要はあるまい……しかし、私が恋する相手は、あなた一人しかこの世にはいないのだ――というのである。老婆心ながら附記しておく。]

雜草の脣 大手拓次

 雜草の脣

たふれて手をなげだし、
いぎたなくねそべつて、
こゑをひそめ、かたちをひそめ、
まるく ぐねぐねと海蛇(うみへび)のやうにねむりをむさぼる、
この定身(でうしん)のものをこふ憂(うれ)ひのねがひ、
秋の日の空(そら)をかける小鳥(ことり)のながい口笛(くちぶえ)、
雜草の手のひらは雲のやうにのびあがり、
蜘蛛手(くもで)のやうにたぎりたつあをい花びらのうへにおほひかさぶる。
くろくのびちぢむ雜草の脣(くちびる)は、
まるまるとゆたかな笑ひをたたへて、
なまめかしくおきあがり、
あたりにはびこるともがらのために水をぬらす。

[やぶちゃん注:「定身(でうしん)」はママ。正しくは「ぢやうしん」である。但しそれでも、この行は意味が採りにくい。何故なら「定身」という一般的な熟語はないからである。真言宗では弘法大師の遺体のことをかく呼称するのは聴いたことがあるから、少なくとも私は初読時、亡くなった聖人の遺体を想像した(それは大手拓次の詩想にもたまたま合致したから)。従って私は勝手にこの行を、
この雑草が孕んでいる、この、聖者の御遺体を乞うという、病みついた愁いの希求
という意味で採っている。大方の御批判を俟つものである。]

鬼城句集 夏之部 大雨

夏野    ぐわうぐわうと夏野くつがへる大雨かな

      蓑笠に大雨面白き夏野かな

2013/06/01

大橋左狂「現在の鎌倉」 7 國寶に充たされたる鎌倉

      國寶に充たされたる鎌倉

 

 鎌倉は誰れも知る右府源頼朝基を此地に開いて以來、三代の將軍實朝の公曉に拭され給ひて源氏は全く正統を絶へたのであるが、北條氏が外戚の故を以て天下の權を握り居たるも高時又滅び、足利公方、兩上杉等皆々代る代るに此地を根據として政權を擅にして居たのである。即ち鎌倉時代に於ける武門政治の策源地であつたのである。故に古跡名所の多いのは不思議の筈はない。隨て一時は天下に呼號して大權威を振り蒔いた場所丈けに多くの偉傑が此地に往來したのである。今此鎌倉の神社佛閣内に保管されつゝある國寶の數多いのも理の當然と考へられるとは言へ、現在鎌倉に五十餘種の國寶を見るのは、實に國寶に充たされたる鎌倉と言はねばならぬ。左に各社寺に就き其保管する國寶を案内して遊覽者の便に供せん。

[やぶちゃん注:以下の各寺社の目録は底本では二段組であるが、一段で示す。後掲部も同じ。この注を略す。]

 鶴ケ岡八幡宮 に詣て、廻廊に登れば數百種の寶物が陳列してある。其内國寶に編入されて居るのは

  一、螺鈿蒔繪硯箱        一筥

  一、杏葉蒔繪平胡籙及矢     二個

  一、螺鈿蒔繪太刀        二振

  一、龜山法皇卸寄附五衣    十三領

  一、丹塗弓           一張

  一、菩薩面           一面

  一、鶴ケ同社務記錄       二卷

  一、鶴ケ岡八幡宮修營目論見繪圖 一舗

 鎌倉五山の一建長寺 に至れば左記九種の國寶が保管されてある。

  一、十六羅漢圖         八幅

  一、釋迦三尊像         一體

  一、觀音應身像       三十餘幅

  一、北條時賴木彫坐像      一體

  一、大覺禪師像         二幅

  一、法語規則          二幅

  一、大覺禪師諷誦文       一幅

  一、食堂内須彌壇        一臺

  一、鐘             一鈎

 更に鎌倉五山の二圓覺寺 に至れば

  一、圓覺寺境内繪圖       一幅

  一、北條高時書狀        二幅

  一、圓覺寺年中用米注進狀    一幅

  一、佛涅槃圖          一幅

  一、羅漢圖         三十三幅

  一、虛空藏像          一幅

  一、富田庄圖          一幅

  一、定額寺官符         一幅

  一、華嚴塔勸緣疏        一卷

  一、夢窓國師像         一幅

  一、尊氏筆法華經        一卷

 鎌倉五山の第五位淨智寺 に行けば

  一、地藏菩薩木彫坐像      一體

 子育(こそだて)閻魔堂 にては

  一、閻魔王坐像         一體

  一、初江王坐像         一體

  一、倶生神像          一體

 明月院 にては

  一、上杉重房木彫坐像      一體

  一、名月椀

  一、明月院繪圖         一舗

 東慶寺 にては

  一、正觀音木彫立像       一體

 杉本寺 にては

  一、十一面觀音木彫立像     二體

 光觸寺 にては

  一、頰燒阿彌陀緣紀       二卷

 光明寺 にては

  一、後宇多帝御宸筆勅額     一面

  一、後土御門帝御宸筆勅額     一面

  一、當麻鼻曼茶羅緑紀      二卷

 廣德寺(長谷大佛) にては

  一、阿彌陀如來銅座像      一體

 極樂寺 にては

  一、金銅三鈷          一個

  一、金銅五鈷鈴         一個

  一、釋迦如來木彫立像      一體

 淸淨光寺 にては

  一、後醍醐天皇御肖像      一幅

  一、一遍上人繪詞傳       十卷

 以上の外各社寺には社寶寺寶として數多き寶物がある。

[やぶちゃん注:幾つかの記載内容や表記・数値等に疑義があるが、記載そのものが網羅的なものではなく、単なる例示的記載なので、ここでは特に指摘せずにおく。]

毛がはえる 大手拓次

 毛がはえる

あたまに毛がはえる。
手にも毛がはえる。
あたまのなかのはらんでゐる水母に、
ぼうつとした月がさす。
舌なめづりをする妄念が
うわうわとうかみだす。

鬼城句集 夏之部 地理 夏の山

  地理

夏の山   石段に根笹はえけり夏の山

      夏山や鍋釜つけて湯治馬

 

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