大橋左狂「現在の鎌倉」 17 光明寺から由比ヶ浜を中心とした観光の梗概
光明寺は停車場より二十六町を距てゝ材木座にある。天照山と云ふ淨土宗關東總本山で、記主禪師の開基、北條經時の建立である。境内には經時の墓がある。山門高く聳ゆるところ天照山と題せる扁額は後花園帝の御宸筆である。光明寺前を由井ケ濱に沿ふて南に進めば飯島岬を右に見て矢の根井戸と云ふがある。之より峠を南すれば小坪・逗子・葉山に出ずるのである。
[やぶちゃん注:「出ずる」はママ。]
鎌倉に遊覽する者は、誰れしも第一に鶴ケ岡八幡宮を拜するのである。同時に長谷の大佛、觀音に詣でそれより江の島に至るのである。鎌倉停車場前に江の島電氣鐵道部の小町停留場がある。之れより電車に投ずれば長谷に下車して大佛、觀音、日朗土牢、權五郎神社、星月夜井戸等を見物し、更に長谷より藤澤行電車にて江の島に往くのである。又電車の便を捨てゝ徒歩するのは、鎌倉驛に下車せば眞直に小町電車停留場に出でゝ右に折れ進むこと二丁餘にて、横須賀線鐵橋の下を過ぎれば玆に又四辻がある。正面は一の鳥居を經て由井ケ濱海岸に至るの道である。左すれば延命寺前より大町・材木座に出るのである。玆四辻を右に進めば大町原に出る。大町原の右に由緣ありげな多くの地藏尊が路傍に立てられてある。之の地藏尊は六地藏と云ふのである。六地藏を右折すれば扇ケ谷に通じて居る。六地藏の南方二丁餘の處に數株の小松を植付られた小丘がある。此處には和田義盛一族の塚がある。更に六地藏前を西に長谷通を進めば七町餘にして長谷の觀音に至るのである。觀音より半丁手前に大佛と記したる道しるべの石標がある。此石標を右折して二丁餘にて有名なる長谷の大佛がある。それから觀音より大佛に至る間に光則寺と云ふ寺院がある。境内に日用上人の土牢がある。觀音の裏門より權五郎神社に至り景政の手玉石や矢立松を見て、坂の下に入れば星の井がある。極樂寺坂を超せば玆には極樂寺がある。同寺より左折して西に進めば四、五丁にして日蓮袈裟掛の松、大館又五郎主從十一名の墓地等を見て、新田義貞、鎌倉攻めの際、躬ら帶せし金作りの太刀を脱ぎて、海中に投じ干潮を祈りしと云ふ稻村ケ崎を過ぎ、追揚より七里ケ濱に出るのである。
[やぶちゃん注:「躬ら」は「みづから」と読む。]
西を仰げば洋々たる蒼波を隔てゝ近くは關東の靈山大山を、遠く芙蓉の峰の莞爾として雲表に聳ゆるを見、南遙かに雲霰の中に微かに大島を眺め東に稻村、飯島の岬を隔てゝ逗子・葉山の一帶三浦半島を望み、江の島は恰かも掌中にあるが如く實に眺望絶佳筆舌に盡せない程である。尚ほ西にして行合橋を渡れば峰ケ原と云ひ玆處に二軒の茶店がある。此茶店より日蓮雨乞の靈跡田邊ケ池の案内をして居る。腰越に入れば、源義經腰越状の舊跡滿福寺がある。片瀨に至りては龍口寺の名刹がある。此より南八、九丁平砂を辿りて延々たる長橋を渉れば江の島に至るのである。
[やぶちゃん注:「雲霰」ママ。底本右に『(霞ヵ)』と傍注。]
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