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2013/06/05

停車場之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)

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             停車場之圖

 無限に遠くまで續いてゐる、この長い長い柵の寂しさ。人氣のない構内では、貨車が靜かに眠つて居るし、屋根を越えて空の向うに、遠いパノラマの郷愁がひろがつて居る。これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年版畫莊刊「定本靑猫」より。「停車場之圖」は厳密には詩題ではなく、版画のキャプションで、絵の下中央に右から左へ記されてあり、散文はその下に縦書されている。提示した版画画像は最初の薄く摺りなしたものが、
●新潮社昭和四一(一九六六)年刊「日本詩人全集14 萩原朔太郎」所収の「停車場之圖」
で、二番目の摺りの極めて濃いものが、底本とした
●筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郎全集 第二卷」所収の「停車場之圖」
である。摺りによって甚だしく印象が極端に異なるので二種ともに掲げた。残念ながら私は当該詩集「定本靑猫」の初版は所持していないので親本の摺りの状態を知ることは出来ない。
 当該の図と散文詩は、底本の「定本靑猫」では親本と同位置である、詩「家畜」と「漁夫」の間に配されいる。参考までにそれぞれの詩を示す。

 家畜

花やかな月が空にのぼつた
げに大地のあかるいことは。
小さな白い羊たちよ
家の屋根の下にお這入り
しづかに涙ぐましく 動物の足調子をふんで。

[やぶちゃん注:ここに「停車場之圖」。]

 農夫

海牛のやうな農夫よ
田舍の屋根には草が生え、夕餉(ゆふげ)の煙ほの白く空にただよふ。
耕作を忘れたか肥つた農夫よ
田舍に飢饉は迫り 冬の農家の壁は凍つてしまつた。
さうして洋燈(らんぷ)のうす暗い廚子(づし)のかげで
先祖の死靈がさむしげにふるへてゐる。
このあはれな野獸のやうに
ふしぎな宿命の恐怖に憑(つ)かれたものども
その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈(かさ)がかかる。
冬の寒ざらしの貧しい田舍で
愚鈍な 海牛のやうな農夫よ。

 なお、朔太郎はその自序の掉尾に、この挿絵について数言を費やしている。以下に自序の最後のクレジットと署名を含めて示しておく。

插繪について 本書の插繪は、すべて明治十七年に出版した世界名所圖繪から採録した。畫家が藝術意識で描いたものではなく、無智の職工が寫眞を見て、機械的に木口木版(西洋木版)に刻つたものだが、不思議に一種の新鮮な詩的情趣が縹渺してゐる。つまり當時の人人の、西洋文明に對する驚き――汽車や、ホテルや、蒸汽船や街路樹のある文明市街やに對する、子供のやうな悦びと不思議の驚き――が、エキゾチツクな詩情を刺激したことから、無意識で描いた職工版畫の中にさへも、その時代精神の浪漫感が表象されたものであらう。その點に於て此等の版畫は、あの子供の驚きと遠い背景とをもつたキリコの繪と、偶然にも精神を共通してゐる。しかしながらずつと古風で、色の褪せたロマンチツクの風景である。
 見給へ。すべての版畫を通じて、空は靑く透明に晴れわたり、閑雅な白い雲が浮んでゐる。それはパノラマ館の屋根に見る靑空であり、オルゴールの音色のやうに、靜かに寂しく、無限の郷愁を誘つてゐる。さうして鋪道のある街街には、靜かに音もなく、夢のやうな建物が眠つてゐて、秋の巷の落葉のやうに、閑雅な雜集が徘徊してゐる。人も、馬車も、旗も、汽船も、すべてこの風景の中では「時」を持たない。それは指針の止つた大時計のやうに、無限に悠悠と靜止してゐる。そしてすべての風景は、カメラの磨硝子に寫つた景色のやうに、時空の第四次元で幻燈しながら、自奏機(おるごをる)の鳴らす侘しい歌を唄つてゐる。その侘しい歌こそは、すべての風景が情操してゐる一つの郷愁、即ちあの「都會の空に漂ふ郷愁」なのである。

  西曆一九三四秋

               著者

以上の本版画の親本発行年度の記載から、本版画の著作権は失われていると考えてよいと思われる。
 私は初めて十一歳の秋、北国の黴臭い校内の図書館で、この「停車場之図」とその散文詩を読んだ時の、あの素敵に慄っとした孤独な感覚を、今も忘れられないでいる。――この図と――「これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である」――という台詞こそが――私と朔太郎の宿命的邂逅の瞬間であったからである。]

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