肉吸いという鬼 南方熊楠
〇 肉吸いという鬼 紀州田辺住、前田安右衛門、今年六十七歳、以前久しく十津川辺で郵便脚夫を勤めた。この人話(はなし)に、むかし東牟婁郡焼尾(やけお)の源蔵という高名の狩人が果無山(はてなしやま)を行くと狼来たってその袖を咬み引き留める。その時十八、九の美しき娘、ホーホー笑いながら来たり近づき、源蔵火を貸せという。必定妖怪と思い、やむをえずんば南無阿弥陀仏の弾丸で撃つべしと思ううち、何ごともなく去る。しかる時、狼また袖を咬み行くべしと勧むる様子に、源蔵安心して歩みだした。その後また二丈ほど高き怪物の遇い、南無阿弥陀仏と彫りつけた丸(たま)で撃つと、大きな音して僵(たお)れたのを行って見れば白骨のみ残りあった、と。また二十五年前、前田氏、北山の葛川(くずかわ)郵便局に勤めおった時、ある脚夫、木の本の付近寺垣内(てらがいと)より笠捨(かさすて)という峠まで四里のウネ(東山の背)を夜行し来たるに、後より一八、九の若い美女ホーホー笑いながら来て近づく。脚夫は提燈と火繩持ちあった。その火繩を振って打ち付けると女はうしろへ引き返した。脚夫は葛川の局へ来たり、恐ろしければこの職永く罷むべしと言うのゆえ、給料を増し六角(六発の訛称、拳銃のこと)を携帯せしめて、依然その職を勤めかの山を夜行したが一向異事なかった由。これは肉吸いという妖怪で人に触るればたちまちことごとくその肉を吸い取るとのこと。熊楠かつて二十年前に出たウェルスか誰かの小説に、火星世界の住人、この地球に来たり乱暴する体を述べて、その人支体(したい)に章魚(たこ)の吸盤ごとき器を具し、地上の人畜に触れてたちまちその体の養分を吸い奪い、何とも手に合わぬはずところ、かの世界に絶えてなくてこの世界にあり余ったバクテリアが、かの妖人を犯して苦もなく仆しおわる、とあったと記憶するが、その外に類似の噺を聞いたことなく、肉吸いという名も例の吸血鬼(ヴァンムパヤー)などと異なり、すこぶる奇抜なものと思う。
[やぶちゃん注:「南方随筆」の「紀州俗伝」の最終章「十五」の掉尾。末に『(大正七年二月『人類学雑誌』三三巻二号)』とある。
「肉吸い」ウィキの「肉吸(妖怪)」によれば、肉吸い『は三重県熊野市山中や和歌山県の華無山に伝わる妖怪』で、『人間に近づき、その肉を吸い取る妖怪といわれる。夜遅くに提灯を灯して山道を歩く人間に対しては、』十八か十九に見える『美しい女性の姿に化け「火を貸してくれませんか」と言って提灯を取り上げ、暗闇の中で相手に食らいつき、肉を吸い取ったという。そのためにこの地方の人々は、火の気なしに夜道を歩くことは避け、どうしても夜道を行く際には提灯と火種を用意しておき、肉吸いに提灯を奪われたときには火種を振り回して肉吸いに打ちつけたという』(和田寛「紀州おばけ話」一九八四年名著出版刊よりとする)とって、南方のこの本文の梗概を示し、次に近藤瑞木編「百鬼繚乱 江戸怪談・妖怪絵本集成」(国書刊行会二〇〇二年刊)に所収する天明五(一七八五)年板行の「百鬼夜講化物語(ひゃっきやこうばけものものがたり)」(古狼野干筆・江戸伊勢屋治助板)に載る「肉吸い」を語るが、幸いにして私は当該書籍を所持しているので以下に示す(画像はウィキの「肉吸(妖怪)」にある同書のパブリック・ドメイン画像)。
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肉吸(にくすい)
心神(しんじん)おとろへたる人にはかならず妖怪(ようくはい)ひまをうかゞふもの也
されば地黄(ぢわう)をのむ人の美(うつく)しき看病(かんびやう)人は遠慮(ゑんりよ)すべし
「モシモシ おひんなりませ あごのしたにはゐがたかつております」
「おぬし故のじんきよとおもへばうらみはない」
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「おひんなる」は「御昼んなる」で、「御昼(ひ)なる」とも。もと、お昼になるの意で、朝起きる意の尊敬語。
近藤氏は同書で、南方の本話の話を示された上で、『これは本図のイメージからはいささか遠い。本図の依拠するところは、男と交わりその精を枯らす好色な妖怪のイメージではなかろうか』として、多くの類話を挙げ、『本図は男が腎虚になりそうな美人を』それら類話に見るような『妖怪に擬したものと思われる』とされ、そうした話の一つが載る「圃老巷説菟道園(ほろうこうせつうじのその)」の作者頭光(つむりひかる)の「夷歌百鬼夜狂」(天明五(一七八五)年板行の四方赤良(大田南畝)を始めとした当代十六人の人気狂歌師による百物語戯歌集)所載の、ずばり「肉吸」と題した以下の狂歌を掲げられ、
から傘のあばら骨のみ殘りけりあら肉吸ひの夜の嵐や
『ここにもセクシャルなニュアンスが感じられよう』と記される。南方の文章は珍しくそうしたセクシャルな感じを殆んど匂わせていないが、近藤氏のこの解説を読んだら、妙に――やっぱり!――という感じがした。スミマセン、南方センセ――でもH.G.ウェルズからヴァンパイアまで出して呉れちゃうセンセが、私は、大好きなんです!
「果無山」紀伊半島の中央部に位置する果無山脈。以下、ウィキの「果無山脈」によれば、広義には田辺市から北東に向かって西牟婁郡と日高郡の境の虎ヶ峯山脈の山々(行者山・三里ヶ峰等)を含むが、一般には笠塔山より東に転じ、和田ノ森から安堵山を経て、東端で熊野川まで東西十八キロメートルに亙って列なる山脈を指す。古くは大和国と紀伊国の国境であり、この間にあって熊野川・日置川・富田川・日高川の四つの分水嶺を分けている。『そうした山々に果無という名が生じたのは、江戸時代の地誌『日本輿地通誌』に「谷幽かにして嶺遠し、因りて無果という」と説かれたように、行けども行けども果てなく山道が続く様子からであると言われている』が、『地元の民俗伝承は果無の名を地理的な特徴ではなく、この地方に伝わる一本だたらの怪異譚によるものとして』おり、『それによれば、果無山脈にはある怪物が棲んでいた。その怪物はハテ(年末』の二十日『過ぎ)になると現れ、旅人を喰ったことから、峠越えをする者がなくなった(ナシ)という。ここからハテナシの名がついたと』ある。
「北山の葛川」和歌山県東牟婁郡北山村葛川か。但し、この葛川は現在は地名ではなく、河川名のようである。
「木の本の付近寺垣内」現在の奈良県吉野郡下北山村の寺垣内。
「笠捨という峠」奈良県吉野郡下北山村浦向に傘捨山があり、寺垣内からは西南西に直線でも六キロメートル以上あり、ピークの北方を現在走る国道四二五号を一部使って、この傘捨山附近までを大まかに測ると、徒歩では十キロメートルを有に越すから「四里」は大袈裟ではない。]