敷島の日本の國に人二人ありとし思はば何か嘆かむ 萩原朔太郎 (評釈)
敷島の日本(やまと)の國に人二人ありとし思はば何か嘆かむ
世界の中にただ二人、君と我とが愛し合つてる。人生の憂苦何するものぞ。我等尚戰はん! 戀愛歌としてこれほど力強く、感情の高調した表現は外にない。萬葉集戀歌の壓卷である。
[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年第一書房刊「恋愛名歌集」より。一般に「思はば」は「もはば」と詠む。当該歌は「万葉集」の巻第十三の三二四九番歌で、前の三二四八番歌とともに(引用は中西進氏の講談社文庫版を正字化して示した)、
相聞
磯城島(しきしま)の 日本の國に 人多(さは)に 滿ちてあれども 藤波の 思ひ纏(まつ)はり 若草の 思ひつきにし 君が目に 戀ひや明かさむ 長きこの夜を
反歌
磯城島の日本の國に人二人ありとし思(も)はば何か嘆かむ
同巻「相聞」の冒頭に配されてある。
但し、私はこの朔太郎の解は誤読を招く虞があるように思われる。この反歌の意は、「世界は二人のために」と甘く囁く、どこぞの古い脳天気な歌謡曲なんどとは全く訳が違うのである(私はあの糞甘ったるい歌がすこぶる附きで大嫌いである)。これは修辞的にも明白な反実仮想の技法であって――この世に、恋しい人が二人いるとしたら、一体、何を歎く必要があるであろう、その、必要はあるまい……しかし、私が恋する相手は、あなた一人しかこの世にはいないのだ――というのである。老婆心ながら附記しておく。]
« 雜草の脣 大手拓次 | トップページ | ブログ470000アクセス記念 萩原朔太郎「斷橋の嘆――芥川龍之介氏の死と新興文壇――」 »