日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 3
南へ行くに従って、江ノ島まで位の短い内であっても、村々の家屋に相違のあるのが認められる。ある村の家は、一軒残らず屋根に茂った鳶尾(とんび)草を生やしていた。この人力車の旅は、非常に絵画的であった。富士山の魅力に富んだ景色がしばしば見られた。かくもすべての上にそそり立つ富士は、確かに驚く可き山岳である。時々我々は花を頂いた、巨大な門を通りぬけた。茶庭や旅籠屋には、よく風雨にさらされた、不規則な形をした木片に、その名を漢字で書いたものが看板としてかけてある。我々の庭で栽培する香のいい一重の石竹が、ここでは路傍に野生している。また非常に香の高い百合(Lilium Japonicum)を見ることも稀でなく、その甘ったるい、肉荳蔲(にくずく)に似た香があたりに漂っている。
[やぶちゃん注:「鳶尾草」原文は“iris”。単子葉類キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum の別名で「とびおぐさ」とも読む。イチハツ(一初)は中国原産の多年草帰化植物で、古く室町時代に渡来して観賞用として栽培されてきた。昔はここに記されたように農家の茅葺屋根の棟の上に植える風習があったが、最近は滅多に見られない(私は三十五年前、鎌倉十二所の光触寺への道沿いにあった藁葺屋根の古民家の棟に開花しているのを見たのが最後であった)。種小名“tectorum”は、「屋根の」の意で、和名はアヤメの類で一番先に咲くことに由来する(主にウィキの「イチハツ」に拠った)。私はここを読むと、この23年後に来日した小泉八雲の「日本瞥見記」(HEARN, Lafcadio“Glimpses of unfamiliar Japan”2vols. Boston and New York, 1894.)の、まさに「第四章 江の島行脚」が思い出されてならないのである。平井呈一先生の名訳でその冒頭を紹介したい(底本は恒文社一九七五刊の「日本瞥見記(上)」を用いた)。
《引用開始》
第四章 江の島行脚
一
鎌倉。
木の茂った低い丘つづき。その丘と丘のあいだに、ちらほら散在している長い村落。その下を、ひとすじの堀川が流れている。陰気くさい寝ぼけた色をした百姓家。板壁と障子、その上にある勾配(こうばい)の急なカヤぶき屋根。屋根の勾配には、何かの草とみえて、緑いろの斑(ふ)がいちめんについている。てっぺんの棟のところには、ヤネショウブが青々と繁って、きれいな紫いろの花を咲かせている。暖かい空気のなかには、酒のにおい、ワカメのお汁(つけ)のにおい、お国自慢の太いダイコンのにおいなど、日本の国のにおいがまじっている。そして、そのにおいのなかに、ひときわかんばしい、濃い香のにおいがただよっている。――たぶん、どこかの寺の堂からでもにおってくる抹香のにおいだろう。
アキラは、きょうの行脚のために、人力車を二台やとってきた。一点の雲もない青空が、大きな弧を描いて下界をかぎっており、大地は、さんさんたる楽しい日の光りに照らされている。それでいながら、われわれが、屋根草のはえた貧しい農家のあいだを流れている小川の土手にそうて、俥を走らせて行く道々、何とも名状しがたい荒涼とした悲愁の思いが、胸に重くのしかかってくるのは、この荒れはてた村落が、かつては将軍頼朝の大きな都どころ――貢物(みつぎもの)を強要にきた忽必烈(クビライ)の使者が、無礼をかどに斬首された、あの封建勢力の覇府の名ごりをとどめいるところだからである。今ではわずかに、当時の都にあまたあった寺院のうち、おそらくは高い場所にあったためか、あるいは境内が広く、深く木立でもあって、炎上する街衢(がいく)から離ていたためかで、十五、六世紀の兵燹(へいせん)を免れて現存しているものが、ほんのいくらかあるに過ぎないというありさまである。荒れほうだいに荒れはて、参詣者もなければ、収入とてもないこの土地の、そうした寺院の深い静寂のなかに、そのかみの都の潮騒(しおさい)のごとき騒音とは似てもつかぬ、いたずらに寂しい蛙の声のみかまびすしい田圃にかこまれがら、古い仏たちが、今もなお依然として住んでいるのである。
《引用終了》
学者モースの視線が、詩人八雲の潤いに満ちた瞳で、鮮やかにリメイクされている(ように見える)のが素晴らしいではないか。
「時々我々は花を頂いた、巨大な門を通りぬけた」これは実際の花ではあるまい。私の印象では、神社仏閣や和風木造建物の、所謂、支輪(しりん)のことを言っているのではないかと思われる。支輪とは高さの異なった二本の平行材を斜めに連結した湾曲した部材で組み物によって送りだされた軒桁と軒桁の間を斜めにふさいでいる壁のような部位を指す。軒支輪と天井支輪があり、カーブした細い材を数多く並べて作られた支輪を特に蛇腹支輪というそうである(建築会社「丸平建設」の「支輪」のページを参照されたい)。
「百合(Lilium Japonicum)」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属ササユリ Lilium japonicum。ヤマユリのこと。日本特産。
「肉荳蔲」原文“nutmeg”。なお底本では、「蔲」の「攵」の部分が「支」である。双子葉植物綱モクレン亜綱モクレン目ニクズク科ニクズク Myristica fragrans。綴りでお分かりのように、ナツメグのこと。]