栂尾明恵上人伝記 39 浪の上(へ)に咲(ゑみ)を含みし顏(かん)ばせを想像(おもひや)るにも袖はぬれけり
元仁二年〔乙酉〕佛生會(ぶつしやうゑ)の式之を草す。
此の山寺の後に三町計り去つて、一の峰を卜(し)めて楞伽山(りようがせん)と名づく。楞伽山と云ふは羅婆那夜叉王(らばなやしやわう)の住處(じゆうしよ)、南海の島なり。得通(とくつう)の人にあらざれば登ることなし。如來此の島にして五法。三性(じやう)・八識・二無我の法門を説き給ひき。愚身天性(ぐしんてんしやう)の受くる處、山水に馴れて人事に疎し。之に依りて、此の峰閑寂の地たるに依りて、常に此の處に栖む。如來説法の處其の數多き中に、殊に此の名を付くる故は、諸經の序品は何れも皆如來説法の儀式なれば、是を聞くごとに滅後の悲しみを休めずと云ふ事なし。此の中に楞伽經の序品を開くに、如來在世の粧(よそほひ)殊に目近き心地す。大海龍王宮の中にして七日の説法終りし時、無量の大菩薩・大比丘竝に釋・梵・諸天・龍神共に、龍宮を出て、南海楞伽山の麓に出で給ふ。羅婆那夜叉無量の眷屬と共に華宮殿(けぐうでん)に乘じて、無量の伎樂歌詠を(ぎがくかえい)を調べて、山頂より下りて如來を請じ奉る。如來大衆又華宮殿に乘じて、無量の伎樂を調べて、山頂に登り給ひき。夜叉も眷屬も又華宮殿に華殿の 數を重ねて、虛空の中に充滿せり。思惟の處に滅後の恨を休めつべし。仍て此の山に二宇 の草庵を結びて、上をば華宮殿(けくうでん)と名づけ、下をば羅婆坊(らばばう)と號す。華宮殿にしては一向(ひたすら)に坐禪をし、羅婆坊にしては三時の行法を勤む。華宮殿の形を見ては、八萬億の莊嚴(しやうごん)の功德を念じ、羅婆坊の名を聞きては、見佛聞法(けんぶつもんぱふ)の有緣(うゑん)を羨めり。又爰に經文を開くに、哀れになつかしきことあり。爾時(そのとき)に世尊遙に楞伽山の上を見上げ給ひて、金山の面に咲(ゑみ)を含み給ふと説けり。此の經は如來内證智(によらいないしようち)の法門なれば、所表所詮(しよひゃうしよせん)皆大乘甚深の妙理なれば、在世の昔戀しくて、
浪の上に咲を含みし顏ばせを想像(おもひや)るにも袖はぬれけり
極月(ごくげつ)十日餘の夜、天曇り、月暗きに、上の坊に入りぬ。漸く半夜に至りて、出定(しゆつぢやう)の後、下の坊へ歸るに、空晴れ月さやかにて、松風たくいてわりなきに、
心月(しんげつ)の澄むに無明(むみやう)の雲晴れて解脱の門(かど)に松風ぞ吹く