大橋左狂「現在の鎌倉」 15 円覚寺から亀ヶ谷・扇ヶ谷を経て寿福寺/鎌倉宮から十二所まで駆足/宝戒寺から突如傍題なる日蓮辻説法跡解説そして大巧寺縁起へ
久々の更新である。
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圓覺寺 は東慶寺の西約一丁餘の大船街道にある。鎌倉停車場を距る事二十七町、鎌倉五山の第二位、圓覺寺派の大本山で弘安五年北條時宗の建立に係り宋の佛光禪師の開山である。總門の瑞麓山と題してある額は、後光嚴帝の御眞筆で、圓覺興聖禪師と題した山門上の大額は、花園天皇の御親筆である。西外門を入つて山門、金堂を右に見、左りに護國塔、池水を見て進めば左に佛日庵あり、玆には北條時宗の廟所がある。正續院、座禪堂、續燈院、黄梅院、舍利殿等は此奧にある。東外門より入れば右に臥龍院、歸源院を見て進めば赤き鳥居がある。此處を右に登れば絶頂の眺望絶佳の箇所に洪鐘が据えられてある。此洪鐘は北條貞時の鑄造に係ると云ひ傳へてある。高さ八尺掛けの鐵鐸は劍工正宗の作れるなりと云ふ。實に洪大のものである。鳥居の前を僅かに進んで左折すれば、此處には藏六庵、庫裡、書院、方丈等續いて建てられてある。此名刹の寺域は廣き事湘南寺院の第一位である。
[やぶちゃん注:「圓覺興聖禪師」の「師」は「寺」の誤り。]
更に歩を轉じて長壽寺前に戻り、龜ケ谷坂を登り詰めて、湘南第一の眺望に名ある要山(かなめやま)香風園や養氣園の前を過ぎりて南すれば右には藥王寺がある。左には淨光明寺がある。此淨光明寺境内には冷泉爲相卿の塞がある。養氣園の前を左に下る半町の鐵道線路側に一小辻堂がある。此辻堂の板壁に十大の井の指導札が張付けてあるのを見て右に折れたる道を行き線路を踏切れば、四、五丁にして扇谷山(せんこくざん)海藏寺に至る。海藏寺境内の左一丁の山麓に十六の井と云ふのがある。此井は弘法大師が穿たれたと傳へられてる。海藏寺の二、三丁前を左に折れて進めば七切通の一なる假粧坂に出る。其絶頂の右横途に進めば、「落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の櫻狩り云々」と有名な東下りの長歌を詠じた南朝の忠臣左中辨藤原の俊基朝臣を祀れる、藤原岡神社がある。再び指導標ある辻堂側を南せば扇ケ谷上杉定正の邸趾なる英勝寺と云ふのがある。定正の家臣太田道灌邸跡も此寺の境内にある。
[やぶちゃん注:「藤原岡神社」の「藤」は「葛」の誤り。]
壽福寺 英勝寺の南に在りて、鎌倉停車場より約六丁、鎌倉五山の第三位である。境内に政子の墓、實朝の墓がある。壽福寺の西に聳ゆる山は源氏山と云ふ、俗に白旗山と稱するのは此山である。此寺の前を南に進めば御用邸前を過ぎて大町原から長谷に出る通路がある。
鎌倉宮 大塔宮とも云ひ二階堂にある。停車場を拒る事約十八丁、官幣中社に列せられてある。宮は後醍醐帝の第三皇子大塔宮護良親王の尊靈を祀つてある。親王の薨じ玉ひてより五百餘年の明治二年七月勅に依りて始めて創建せられたる社殿である。輪奐は敢て壯麗と云ふを得ざるも質素高潔の肅然たる自ら襟を正さしむるのである。石段を登つて左りすれば村上義光及南の方の社がある。社後に廻れば嚴肅なる扉が鎖されいとも神々しく感じられる木柵内に一個の土牢がある。坑内は四坪以上もありて晝尚暗澹として當時親王が逆臣足利尊氏の爲めに此土牢に幽閉され、建武二年其臣淵邊義博の毒刄に罹らせられ、可惜(あたら)二十八才の御齡を最後として、千載の御恨を呑んで薨じ玉ひしこと聞くも無慘の極である。境内の東南に首塚、首洗井戸がある。
[やぶちゃん注:「輪奐」「りんかん」と読む。「輪」は高大、「奐」は大きく盛んな意で、建築物が広大で立派なこと。
「村上義光」(むらかみよしてる ?~元弘三(一三三三)年)は信濃源氏の武将。元弘の乱の際、子の義隆とともに護良親王に従って幕府軍と戦い、正慶二・元弘三年の閏二月一日に吉野の落城が迫ると親王に脱出を勧め、自身はその身代わりとなって自決した。
「南の方」護良親王側室雛鶴姫(ひなづるひめ)。持明院藤原保藤娘。]
鎌倉宮の鳥居より北に折れて藥師堂が谷を五丁餘進めば鷲峰山覺園寺がある。又大塔宮前を東に進めば七、八丁にして關乘十刹の第二位なる錦屏山瑞泉寺がある。足利基氏の建立に係り開山は夢窗窓國師である。寺後には基氏、氏滿の墓がある。大塔宮社前を西に歩めば大倉山麓に荏柄の天神社、大江廣元、島津忠人の墓、源賴朝公の墓地がある。それより金澤街道に出づれば杉本寺、報國寺、熊野社、淨明寺、足利公方屋敷、明王院、光觸寺、十二所神社等がある。淨明寺は鎌倉五山の第五位で、足利貞氏の墓は此寺の境内にある。
[やぶちゃん注:「島津忠人」の「人」は「久」の誤り。
「淨明寺」この二箇所は明らかに寺名であるから「淨妙寺」の誤り。同寺のある周辺の地名は寺名を憚って浄明寺ではある。]
金澤街道を束に戻り大倉の部落を過ぎて雪の下に出でんとする左側に一大古刹がある。天台宗で金龍山寶戒寺と云ふのである。寶戒寺の裏手に小富士山と命名された山がある。此小富士山は元右府賴朝屋敷の庭先にあつたそうで當時政子夫人の乞ひに依り富士の牧狩の再演を此山にされた事があるので、爾來小富士山と命名されたそうだ。寶戒寺の前を南に一丁の箇所に右横を東に折れ滑川を渡たれば高時腹切のやぐらに出るのである。又停車場を降りて八幡道に出で、左二の鳥居前を右折して小町通りに出で、小町氏神惠比壽社前を北に進めば、一丁餘にして日蓮上人辻説法の古跡がある。廻らすに木柵を以てし上人が説法の腰掛なりと云ふ石が今尚ほ存してある。此辻説法靈跡に付き由緣の一章を記すのも、同宗善男善女の爲めに無益の事でないと信ぜられる。妙法蓮華經勸持品に白く、「佛滅度の後恐怖惡世の中に於て、我等當さに廣く説くべし、諸々の無智の人の惡口罵詈等し、及び刀杖を加る者あらん、我等皆當さに忍ぶべし、濁劫惡世の中には多く諸々の恐怖あらん、惡鬼其身に入て、吾等を毀辱せん、吾等佛を敬信して、當さに忍辱の鎧を着るべし、此の經を説かんが爲の故に、此諸々の難事を忍ばん、吾身命を愛せず但(た)ゞ無上道を憎む、吾れは世尊の使なり、衆に處するに畏るゝ所なし」と、又種々御振舞抄に曰く、「幸なるかな、法華經の爲めに身を捨てん事よ、臭き頭をはなたれなば、沙に金をかへんが如し、あらおもしろや平左衞門が物に狂ふを見よ、殿原よ只今ぞ日本國の柱をたをす」と、實に日蓮上人は常に此小町の辻に立つて、聲を限りに、同宗の眞價を絶叫しつゝあつた舊跡である。
[やぶちゃん注:筆者大橋左狂氏、何者か不明ながら、明らかに熱狂的な日蓮宗徒であることが判明する。前の辻説法跡の叙述辺りからぷんぷんしていた。]
更に鎌倉停車場より小町電車停留所に出づるや、正面に赤煉瓦で疊み上た西洋館の鎌倉銀行と幷んで朱塗の大門がある。此門を入れば眞言宗より法華宗に改宗した大巧寺がある。境内に産女(うぶめ)の寶塔がある。人呼んで「おんめ樣」と稱して安産の祈願をかけるのである。此産女の緣起を尋ねて見ると、其昔し當山五世の日棟上人が、學德共に高くあつて、遠近の歸依者も頗る多かつたのである。天文元年四月、或る日の朝の事であつた。上人が滑川の畔を通行された。此時二人の年若き婦人が兒を懷いて路傍に泣きつゝあつたのを見られた。顏色蒼衰、形容枯槁し、腰下は血に染みて、紅蓮の泥より出たるが如き有樣であつたので懇ろに之を問はれて、大倉の邑秋山勘解由の室産に難みて世を去り、地獄の苦を受けてゐるとの事で直ちに濟度されたとの事である。越へて三日、婦又上人の前に姿を現はした。艷麗桃花の如き笑を含みて謝して日く、上人の濟度に由り那落の苦を免がれ今天上の樂を受く、高恩に報ひん爲め生前蓄へた金子を以て寶塔を建てたしと消ゆ。即ち上人が秋山氏に謀つて塔を建てられたとの事である。鎌倉誌に載する所の産女の塔は此れである。
[やぶちゃん注:「天文元年」西暦一五三二年。
「難みて」は「なやみて」と読んでいよう。
「鎌倉誌に載する所の産女の塔」「新編鎌倉志卷之七」の「大巧寺」の項に、
産女(うぶめ)の寶塔(ほうたふ) 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女の寶塔と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋(えびすだうばし)の脇より、産女の幽魂出て、日棟に逢ひ、廻向に預つて苦患を免(まぬか)れ度(た)き由を云ふ。日棟これが爲に廻向す。産女、※金一包(ひとつつみ)を捧げて謝す。日棟これを受て其の爲に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱(はしばしら)の跡と云て今尚存す。夷堂橋の少し北なり。
「※」=「貝」+「親」。「※金」は「シンキン」と読み、施しのための金を言う。ここでは自身の廻向のための布施。この一連の説話については、大功寺公式サイトの「沿革」に詳細な現代語のPDFファイル「産女霊神縁起」がある。一読をお薦めする。]
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