芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十 「……」と「――」は違う!
■原稿96
十
[やぶちゃん注:「十」は4字下げ。本文は2行目から。]
「どうしたね? けふは又妙にふさいでゐるぢ
やないか?」
〈或〉 その火事のあつた翌日(よくじつ)です。僕は〈僕の家の長椅子に〉*卷煙草を
啣(くは)へなが*ら、僕の〈家(いへ)の〉客間(きやくま)〔の〈長〉椅子〕に〈尻〉腰(こし)を〈下(おろ)〉おろした学生
のラツプにかう言ひました。實際又ラツプは
右の脚の上へ左の脚をのせたまま、腐つた嘴(くちばし)
も見えないほど、〈ぢつと〉*ぼんやり*床(ゆか)の上〈を〉*ばかり*見てゐたの
です。
〈 「どうしたと《云》→言ふのに。 〉
■原稿97
「ラツプ君、どうしたねと言へば。」
「いや、何、つまらないことな〈《んだよ》→のだよ〉*のですよ*。―――」
ラツプはやつと頭(あたま)を擧げ、〈鼻〉悲(かな)しい鼻聲(はなごゑ)を出
しました。
「僕はけふ窓の外を見ながら、『おや虫取り
菫(すみれ)が咲いた』と〔何気(なにげ)なしに〕呟いたのです。すると僕の妹は
急に顏色(かほいろ)を變へたと思ふと、『どうせわたしは
虫〈と〉*取*り菫よ』と当(あた)り散らすぢやありま〈せ〉*せ*んか
? 〈《そこへ》→そこへ〉*おまけに*又僕のおふくろも大(だい)の妹贔屓(いもうとびいき)で
すから、やはり僕に食つてかかるのです。」
[やぶちゃん注:
●「〈《んだよ》→のだよ〉*のですよ*」の部分は便宜上、かく表示したが、実際には二度目の書き換えの状態の「のだよ」の「の」はそのまま生かしておいて「のですよ」と最終的に丁寧表現に改めてある。]
■原稿98
「虫取り菫が咲いたと云ふことはどうして妹
さんには不快なのだね?」
「さあ、夛分雄の河童を〈追つかけ〉*摑まへ*ると云ふ意味
にでもとつた〈ん〉*の*でせう。そこへお〈く〉*ふ*くろ〈の〉*と*仲(なか)
惡い叔母(おば)も喧嘩の仲間入りをしたの〈で〉*で*すか
ら、愈大騷動になつてしまひました。〈それ〉*しか*も
年中(ねんぢう)醉つ〔拂つ〕てゐるおやぢはこの喧嘩を聞きつけ
ると、誰彼の差別なしに毆り出したので〈す。〉
*す。*それだけでも〈弱つてゐる〉*始末のつか*ない所(ところ)へ僕の弟
はその間(あひだ)におふくろの〈財〉*財*布を盜む〈が〉*が*早い
■原稿99
か、キネマか何かを見に行つてしまひまし〈た。〉
た。僕は………ほんたうに僕はもう、………」
ラツプは兩手(れうて)に顏(かほ)を埋(うづ)め、何も言はずに泣
いてしまひました。僕の同情したのは勿論で
す。〈が、〉同時に又家族〈主義〉*制度*に對する詩人のトツク
の輕蔑〈を思ひ出〉したのも勿論です。僕はラツプの肩を
叩き、一生懸命に慰めました。
「そんなことはどこでもあり勝ちだよ。〈■〉ま
あ勇氣を出し給へ。」
「しかし………しかし嘴でも腐つてゐなけれ
■原稿100
ば、……」
「〈そんな〉*それは*あきらめる外はないさ。さあ、トツ
ク〈君〉の家へでも行かう。」
「トツクさんは僕を軽蔑してゐます。〈」〉僕はト
ツクさんのやうに〈奔放〉*大膽*に家族を捨てることが
出來ませんから。」
「ぢやクラバツク君の家へ行かう。」
僕はあの音樂會以來、クラバツクとも友だ
ちになつてゐましたから、兎に角この大音樂
家〈の〉*の*家へラツプをつれ出すことにしま〔し〕た。ク
■原稿101
ラバツクはトツクに比べ〈ると〉*れば*、〈常人に近い暮らしを〉*遙かに贅澤に暮ら*してゐます。〈僕〉と云ふのは〈《何も会社の》→硝子〉*資本家のゲ*エ
ルのやうに暮らしてゐると云ふ意味ではあり
ません。唯いろいろの骨董を、―――タナグラ
の人形やペルシアの陶噐〈や〉*を*部屋一ぱいに並べ
た中(なか)にトルコ風(ふう)の長椅子を据ゑ、クラバツク
自身の肖像畫の下(した)にいつも子供たちと遊んで
ゐるのです。が、けふはどうしたのか両腕
を胸へ組んだまま、苦(にが)い顏をして坐つてゐま
した。のみならずその又足もとには紙屑が一
■原稿102
面(めん)に散〈つて〉*らばつ*てゐました。ラツプ〈はクラバツクとは〉*も詩人のトツク*と一しよに度たびクラバツクには會つて
ゐる筈です。しかしこの容子に恐れた〈と〉*と*見
え、けふは丁寧にお時宜をしたなり、默つて
部屋の隅に腰を〈下(おろ)し〉*おろし*ました。
「どうしたね? クラバツク君。」
僕は殆ど挨拶の代りにかう大音樂家へ問〈ひ〉
かけました〈。〉。
「どうするものか? 批評家の阿呆め! 僕
の抒情詩はトツクの抒情詩と比べものになら
■原稿102
ないと言やがるんだ。」
「しかし君は音樂家だし、………」
「それだけならば我慢も出來る。僕〈のリイド
やシムフォニイは通俗〉*はロツクに比べれば、〈音〉*音樂家の名に價しないと
言やがるぢやないか?」
ロツクと云ふのはクラバツクと度たび比べ
られる音樂家です。が、生憎超人倶樂部の会
員に〈は〉なつてゐ〈ませんから〉*ない關係上*、僕〈と〉は一度〔も〕話(はな)し
たことはありません。〈も〉尤も〈反〉嘴の反り〈上〉*上(あが)*つ
た、一癖あるらしい顏だけは度たび寫眞でも
■原稿104
見かけてゐました。
「ロツクも天才には違ひない。しかしロツク
の音樂〈は〉*は*君の〔音樂に溢れてゐる〕近代的情熱〈がない。」〉*を持つ*てゐない。」
「君はほんたうにさう思ふか?」
「さう思ふとも。」
するとクラバツクは立ち上(あが)るが早いか、タ
ナグラ〔の〕人形をひつ摑み、いきなり床(ゆか)の上(うへ)に叩(たた)
きつけました。ラツプは余程驚いたと見え、
何か声を擧げて〈立ち〉*逃げ*ようとしました。が、ク
ラバツクは〈僕〉ラツプや僕にちよつと「驚くな」と云
■原稿105
ふ手眞似をした上(うへ)、今度は冷かにかう言ふの
です。
「それは君も亦俗人のやうに耳を持つてゐな
いからだ。僕はロツクを恐れてゐる。………」
「君が? 〈それは空〉*謙遜家を*気どるのはやめ給へ。」
「誰が謙遜家を氣どるものか? 㐧一君たち
に気どつて見せ〈ても〉*る位ならば*、〈何の役にも立たないぢ
やないか?〉*批評家たちの前(まへ)に気どつて見せて*ゐる。僕は―――クラバツクは天
才だ。〈ロツク〉その点ではロツク〈恐〉を恐れてゐない。」
「では何を恐れてゐるのだ?」
[やぶちゃん注:
●「冷か」は初出及び現行では、
冷やか
である。
●「君が? 〈それは空〉*謙遜家を*気どるのはやめ給へ。」というクラバックの辛辣な台詞、元は
君が? それは空気
と書いた可能性を示唆する。即ち、現在の形とは全く違ったものが龍之介の脳内の最初の台詞だった可能性があるということである。]
■原稿106
「何か正体の知れないものを、―――言はばロ
ツクを支配してゐる星(ほし)を。」
「どうも僕には腑(ふ)に落ちないがね。」
「ではかう言へばわかるだらう。ロツクは僕
の影響を受けない。が、僕はいつの間(ま)にかロ
ツクの影響を受けてしまふのだ。」
「それは君の感受性の………。」
「まあ、聞き給へ。感受性などの問題ではな
い。ロツクはいつも安んじて〔あいつだけに出來る仕事をして〕ゐる。しかし僕
は苛(い)ら〈苛〉*々*々するのだ。それはロツクの目から
■原稿107
見れば、或は一歩の差かも知れない。けれど
も僕には十哩(マ〈■〉イル)も違ふのだ。」
「〈そんな〉*しかし*先生の英雄曲(えいゆうき〔よ〕く)は………」
クラバツクは〔細(ほそ)い目を一層細め、忌々しさうに〕ラツプを睨みつけました。
「默り給へ。君などに何がわかる? 〈ロツク
は僕の〉*僕はロツクを*知つてゐるのだ。ロツクに平身低頭(へいしんていたう)す
る犬(いぬ)どもよりもロツクを知つてゐるのだ。」
「まあ少し靜かにし給へ。」
「若し靜かにしてゐられるならば、………僕は
いつもかう思つてゐる。―――僕等の知らない
■原稿108
何ものかは僕を、――クラバツクを嘲る爲に
ロツクを僕の前(まへ)に立たせたのだ。〈《マツグはか
う?》→不思議にも〉*哲學者のマツグは*かう云ふことを何も彼も承知してゐ
る。いつもあの色硝子のランタアンの下(した)に古
ぼけた本ばかり讀んでゐる癖に。」
「どうして?」
「この〈マツグの〉近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ
本を見給へ。―――」
クラバツクは僕に一册の本を渡す―――と
云ふよりも投げつけました。それから又腕を
■原稿109
組んだまま、突
つつ)けんどんにかう言ひ〔放ち〕ました。
「ぢやけふは失敬しよう。」
僕は〈やはり〉悄気返つたラツプと一しよにも
う一度往來へ出ることにしました。〈往來は不〉*人通りの*
夛い往來は不相變毛生欅(ぶな)の並み木のかげにい
ろいろの店を並べてゐます。僕等は何と云ふ
こともなしに默つて歩いて行きました。する
とそこへ通りかかつたのは髮の長い詩人のト
ツクです。トツクは僕等の顏を見ると、腹の
袋から手巾(ハンケチ)を出し、何度も額(ひたひ)を拭(ぬぐ)ひました。
■原稿109下(110)[やぶちゃん注:後注参照。]
「やあ、暫〈く〉らく會はなかつたね。僕はけふは
〔久しぶりに〕クラバツクを尋ね〔よ〕うと思ふのだが、………」
僕はこの藝術家たちを喧嘩させては悪いと
思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたこ
とを婉曲(えんきよく)にトツクに話しました。
「さうか。ぢややめにしよう。何しろクラバ
ツクは神経衰弱だからね。………僕もこの二三
週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」
「どうだね、〈僕等〉*僕等*と一しよに散歩をしては?」
「いや、けふはやめにしよう。おや!」
[やぶちゃん注:この原稿は左にナンバリングがなく、手書き鉛筆で、
109下
とあり、ところがここまで振られている中央罫外の鉛筆書き通し番号が、
110
となってズレ始める。ここ以下、表記のように標題を表示することとする。]
■原稿110(111)
トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の
腕を〈つか〉*摑み*ました。しかもいつか体中(からだぢう)に冷(ひ)や汗
を流してゐるのです。〈僕等(ら)は〉
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「何(なに)、あの〈毛生欅(ぶな)の枝(えだ)の中(なか)に〉*自動車の窓の中(なか)か*ら綠(みどり)いろの猿(さる)が
一匹首を〈見〉*出*したやうに見えたのだよ。」
僕は夛少心配になり、兎に角あの醫者のチ
ヤツクに〈トツク〉診察して貰ふやうに勸めました。し
かしトツクは何と言つても、承知する気(けしき)色さ
■原稿111(112)
へ見せません。のみならず何か疑はしさうに
僕等の顏を見比べながら、こんなことさへ言
ひ出すのです。
「僕は決して無政府主義者ではないよ。それ
だけは〔きつと〕忘れずにゐてくれ給へ。………ではさや
うなら。〈」〉チヤツクなどは眞平御免(まつぴらごめん)だ。」
僕等は〈思はず〉*ぼんやり*佇んだまま、トツクの後ろ姿
を見送つてゐました。僕等は―――いや、「僕
等は」ではありません。學生のラツプはいつの
間(ま)にか往來のまん中(なか)に脚(あし)をひろげ、〈股〉しつきり
[やぶちゃん注:
●「忘れずにゐてくれ給へ。………」のリーダは、初出及び現行では、
忘れずにゐてくれ給へ。――
とダッシュになっている。細かいようだが、私はここはやはり原稿通り、「……」とすべきところと思う。何故か? ここの、最早、狂気に傾斜しているトックの他の台詞は、皆、リーダだからである! このリーダこそが、トックを摑まえてしまった狂気の標記そのものなのだと私は思うからである!
●『「僕等は」ではありません。』初出及び現行は、
「僕等」ではありません。
である。細かいようだが、これも私は原稿通り、「僕等は」であるべきだと思う。これはまさに芥川龍之介の龍之介らしい書き癖なのである!
]
■原稿112(113)
〈自〉ない自動車や人通りを股目金(まためがね)に覗いてゐるの
です。僕は〈ラツプ〉*この河童*も發狂したかと思ひ、驚い
てラツプを引き〈立て〉*起し*ました。
「〈何をしてゐる?〉*常談ぢやない。*何をしてゐる?」
しかしラツプは〈意外にも〉目をこすりながら、意外(いぐわい)に
も落ち着いて返事をしました。
「いえ、余り憂欝ですから、〈股〉逆(さかさ)まに世の中を
眺めて見たのです。〈しかし〉*けれど*もやはり同じこと
ですね。」
[やぶちゃん注:以下、一行余白。]
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