鬼城句集 夏之部 雨乞
雨乞 雨乞や僧都の警護小百人
[やぶちゃん注:「僧都」特定個人をイメージした歴史的な空想句であろう。雨乞いを修した僧都は多いが、ものものしい警護の様子は寧ろ、皮肉に雨乞いの失敗を予感させる(ように私には思われる)ところからは、私は例えば、ことあるごとに弘法大師空海と対立した守敏(しゅびん 生没年不詳)僧都を想起した。ウィキの「守敏」によれば、大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学んで真言密教にも通じ、弘仁一四(八二三)年に嵯峨天皇から西寺が与えられたが、同時に東寺を与えられた空海とはことにつけ、対立したとされる人物である。弘仁一五(八二四)年の旱魃の際には、神泉苑で修された雨乞いの儀式に於いて空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったが地蔵菩薩に阻まれたと伝わる(これに因み、現在の羅城門跡の傍らには「矢取地蔵」が祀られている)。同じくして西寺も寂れていったとされる。菊池寛の随筆「弘法大師」に、雑誌社(「キング」)から弘法大師を主人公にした戯曲を依頼された際に、
『もう一つ戯曲になるかと思ったのは、法敵守敏との雨乞争いである。これは、諸君も御承知のごとく、「釈迦に提婆、弘法に守敏」と云う言葉さえある通り、守敏僧都は、当時弘法大師の一大法敵であり、呪力強大な高僧である。
朝廷でも、相当重んぜられていて、弘法大師に東寺を賜ると同時に、守敏には西寺を賜って居り、僧位も弘法大師の上にいた位である。
守敏は、学徳高く、法力秀れ、栗を水に入れて呪を誦すれば、栗が茹で栗となり、その栗を食べれば如何なる病者も忽ちに癒えたと云うのだ。嵯峨帝の天長元年の春、天下大旱した。帝が空海に雨乞の祈祷をせよと、勅せられると、守敏が横から異議を説え、<自分は空海より、年齢も上であるが、法位の上である、拙僧へ先に命ぜられるのが順序でござりましょう>と、そこで守敏に勅が下った。守敏欣んで、壇を築き祈雨の法を講ずること一七日、雷鳴轟き、大雨沛然として下った。市民歓呼の声を挙げて嘆賞した。これじゃ、守敏の勝利であるが、そのくせ加茂川の水は少しも増さない。おやと云うので、人を派して検べて見ると、雨が降ったのは、京都市内だけで東山は勿論、嵯峨御室のあたり、鳥羽伏見、どこもポツリとも降っていないので、忽ちインチキ雨であったことが分り、改めて弘法大師に勅が下った。大師は即ち京都二條の神泉苑に秘密の法壇を飾りて、一七日祈雨の法を行ったが、不思議なるかな、少しも効験もない。こんな筈ではないと、大師は定に入って、三千世界を眺め渡してその原因を尋ねて見ると、守敏が世界中の諸龍を瓶の中に封じ、呪力を以て出さないためである事を知り、大いに駭いたが、なおよく見渡すと、天竺無熱池の善女と云う龍王丈が、守敏よりも法力が上であるため、封じられて居ないのを知って、更に二日の日延を乞い、その龍王を召請して丹精を凝らすと、霊験忽ちに現われ、三日三晩の大雨となり、洛中洛外五畿七道の大甘雨となったと云うのである。
その上、祈祷最中に、善女龍王が八寸ばかりの金色の蛇となり、九尺ばかりの長蛇の頭に乗って現われたと云う。』
とある(以上はサイト「エンサイクロメディア空海」の「空海の目利き人」に掲載された日本出版社二〇〇四年刊の夢枕獏編著「空海曼荼羅」所収のものの孫引きである。なお菊池寛のこの話は、戯曲は結局出来なかったという言い訳のエッセイでもある)。
「小」は接頭語で、数量を表す名詞や数詞に付けて、僅かに及ばないが、その数量に近いことを表す。ほぼ。]