十年 中島敦
十年
[やぶちゃん注:これは中島敦が横浜高等女学校在勤中に同校校友会雑誌「學苑」の第二号(昭和九(一九三四)年三月発行)に寄稿したものである。当時、満二十四歳であった。二箇所の太字「ふらんす」は底本では傍点「ヽ」。]
十年前、十六歳の少年の僕は學校の裏山に寢ころがつて空を流れる雲を見上げながら、「さて將來何になつたものだらう。」などと考へたものです。大文豪、結構。大金持、それもいゝ。總理大臣、一寸わるくないな。全く此の中のどれにでも直ぐになれさうな氣でゐたんだから大したものです。所でこれらの豫想の外に、その頃の僕にはもう一つ、極めて樂しい心祕かなのぞみがありました。それは「佛蘭西へ行きたい。」といふことなのです。別に何をしに、といふんでもない、ただ遊びに行きたかつたのです。何故特別に佛蘭西を擇んだかといへば、恐らくそれは此の佛蘭西といふ言葉の響きが、今でも此國の若い人々の上にもつてゐる魅力のせゐでもあつたでせうが、又同時に、その頃、私の讀んでゐた永井荷風の「ふらんす物語」と、これは生田春月だか上田敏だかの譯の「ヴェルレエヌ」の影響でもあつたやうです。顏中到る所に吹出した面皰をつぶしながら、分つたやうな顏をして、ヴェルレエヌの邦譯などを讀んでゐたんですから、全く今から考へてもさぞ鼻持のならない、「いやみ」な少年だつたでせうが、でもその頃は大眞面目で「巷に雨の降る如く我の心に涙」を降らせてゐたわけです。さういふわけで、僕は佛蘭西へ――わけても、此の「よひどれ」の詩人が、そこの酒場でアブサンを呷り、そこのマロニエの竝木の下を蹣跚とよろめいて行つた、あのパリへ行きたいと思つたのです。シャンゼリゼエ、ボア・ド・ブウロンニュ、モンマルトル、カルチェ・ラタン、……學校の裏山に寢ころんで空を流れる雲を見上げながら幾度僕はそれらの上に思ひを馳せたことでせう。
さて、それから春風秋雨、こゝに十年の月日が流れました。かつて抱いた希望の數々は顏の面皰と共に消え、昔は遠く名のみ聞いてゐたムウラン・ルウヂュと同名の劇團が東京に出現した今日、横濱は南京町のアパアトでひとり佗しく、くすぶつてゐる僕ですが、それでも、たまに港の方から流れてくる出帆の汽笛の音を聞く時などは、さすがに、その昔の、夢のやうな空想を思出して、懷舊の情に堪へないやうなこともあるのです。さういふ時、机の上に擴げてある書物には意地惡くも、こんな文句が出てゐたりする。
ふらんすへ行きたしと思へど
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣を着て
氣ままなる旅にいでてみん……
「ははあ、此の詩人も御多分に洩れず、あまり金持でないと見えるな。」と、さう思ひながら僕も滅入つた氣持を引立てようと此の詩人に倣つて、(佛蘭西へ行けない腹癒せに、)せめては新しき背廣なりと着て、――いや冗談ぢやない、そんな贅澤ができるものか。せめては新しき帽子――いや、それでもまだ贅澤すぎる。えゝ、せめては新しきネクタイ位で我慢しておいて、さて、財布の底を一度ほぢくりかへして見てから、散歩にと出掛けて行くのです。丁度、十年前憶えたヴェルレエヌの句そのまゝ、「秋の日のヴィヲロンの、溜息の身にしみて、ひたぶるにうらがなしい」氣持に充されながら。
[やぶちゃん追記:……普段、この若き青年国語教師の授業を受けていた、十四~十六歳の文学少女たちが、この一文を読んで、どう感じたであろう、と私は夢想して見る……つい最近――これは全く知られていないことであるが――中島敦と教え子との間に実は何らかのスキャンダルが存在し、発覚したものの、今に伝わらぬほどにうまく揉み消されたという事実があった――という話を小耳に挟んだ……私はこの文章を読みながら……「いや、そんなことがあったとしても……これ、不思議ではあるまいよ……」……と……思わず独りごちていた……]
« 白梅に明くる夜ばかりとなりにけり 蕪村 萩原朔太郎 (評釈) | トップページ | 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 6 »