盆景 萩原朔太郎 /……誰か馬鹿な僕の疑問に答えてくれ……
盆景
春夏すぎて手は琥珀、
瞳(め)は水盤にぬれ、
石はらんすゐ、
いちいちに愁ひをかんず、
みよ山水のふかまに、
ほそき瀧ながれ、
瀧ながれ、
ひややかに魚介はしづむ。
――一九一四、八.一〇――
[やぶちゃん注:『地上巡禮』創刊号・大正三(一九一四)年九月号に掲載され、後に詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)に所収された際には、クレジットが外された上、「愁ひをかんず、」が「愁ひをくんず、」(「薫ず」、愁いを香らせてくる、という感覚的謂いなのであろうが、極めて特異な用法と思われる)に変えられ、
盆景
春夏すぎて手は琥珀、
瞳(め)は水盤にぬれ、
石はらんすゐ、
いちいちに愁ひをくんず、
みよ山水のふかまに、
ほそき瀧ながれ、
瀧ながれ、
ひややかに魚介はしづむ。
となっている。
さて、私はこの詩が好きである。
それは私が盆景が好きだからである。
幼少の頃、祖母が盆景をやり、実際に何度か一緒に盆景を造ったことがあるからである。
いつもそれは僕の望み通り、砂浜の海岸の風景だった。
浜辺……地引網を曳く漁師たち……猪牙舟の荷……保前船の水主(かこ)……浦の苫屋と網干場……天秤棒を担ぐ行商人……沖を見下ろす寺や神社……犬や猫――祖母の部屋の戸袋から繰り出してくる驚くべき細工物の数々を見ているだけで僕は恍惚になったものだった。……
だから――
僕は――実は今も――この詩の――
「石はらんすゐ、」
の意味が未だに呑み込めずに蒼白になって呆然としているのだ。
この詩に出逢ってからずっとずっと、僕は考え通しなのだ。
全集の校訂本文も「らんすゐ、」なんだよ。
これは一体――何だい???
嵐翠? 藍水? 爛酔?……僕は何となく――石が緑の風を生むとか――藍色の水を滲み出すとか――そんな勝手なイメージで青春時代からこの初老に至るまで随分永いこと、誤魔化してきたのだった。
しかし、なまじっか国文学に進んで国語学なんどという神経症的な学問を学んでしまうと、これらは「らんすい」で「らんすゐ」じゃあない、ということに気づいてしまったのだった。
嵐翠――乱酔――爛酔――濫吹――藍水……どの語彙も「石は」に、本当にダイレクトにしっくりくるもんなんて、ありゃしないじゃないか! 宣長の提唱した「スヰ」表記なんぞ、とっくに誤りとされているんだぜ!?……
じゃあ「ぬれ」「ながれ」と同じ動詞か?――いや、これが「ゐる」(居る)の連用形「ゐ」であるなら、「らんす」も動詞なら連用形でなくてはならない。「らんす」なんて動詞の連用形はないぞ! 「らんす」なんて日本語の名詞も僕は知らないよ。……
――――――
誰か……絶望的に打ちひしがれているこの僕に……こっそり、そっと、教えて呉れないか?……
『馬鹿だね君は。「らんすゐ」はね……という意味に決まってるじゃないか。』
って……
――――――]