雜草の脣 大手拓次
雜草の脣
たふれて手をなげだし、
いぎたなくねそべつて、
こゑをひそめ、かたちをひそめ、
まるく ぐねぐねと海蛇(うみへび)のやうにねむりをむさぼる、
この定身(でうしん)のものをこふ憂(うれ)ひのねがひ、
秋の日の空(そら)をかける小鳥(ことり)のながい口笛(くちぶえ)、
雜草の手のひらは雲のやうにのびあがり、
蜘蛛手(くもで)のやうにたぎりたつあをい花びらのうへにおほひかさぶる。
くろくのびちぢむ雜草の脣(くちびる)は、
まるまるとゆたかな笑ひをたたへて、
なまめかしくおきあがり、
あたりにはびこるともがらのために水をぬらす。
[やぶちゃん注:「定身(でうしん)」はママ。正しくは「ぢやうしん」である。但しそれでも、この行は意味が採りにくい。何故なら「定身」という一般的な熟語はないからである。真言宗では弘法大師の遺体のことをかく呼称するのは聴いたことがあるから、少なくとも私は初読時、亡くなった聖人の遺体を想像した(それは大手拓次の詩想にもたまたま合致したから)。従って私は勝手にこの行を、
この雑草が孕んでいる、この、聖者の御遺体を乞うという、病みついた愁いの希求
という意味で採っている。大方の御批判を俟つものである。]
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