栂尾明恵上人伝記 35
同六年〔戌寅〕秋、聊か喧譁(かまびすし)き事有るにより、栂尾より賀茂(かも)の神山(かみやま)に移り給ふ。塔(たふ)の尾(を)の麓に四五間の庵室を結び、經藏一宇を立て、神主能久(よしひさ)之を施與(せよ)し奉る。是に暫く住み給ひけり。或人の許より、栂尾を住み捨て給ふ事なんど、歎き訪ひ申したりしかば、
浮雲は所定めぬ物なればあらき風をもなにかいとはん
此の處をば佛光山(ぶつくわうざん)と名つけ給ひける。爰に一年計り栖み給ひて、同法達(どうばうだち)を留守に置き、又栂尾へ歸り給ふ。
[やぶちゃん注:「同六年」建保六(一二一八)年。満四十五歳。
「賀茂の神山」上賀茂神社(正式には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ))の真北の後背地にある、現在は神山(こうやま)と呼称される上賀茂神社の神体山(しんたいさん)。かつては「かもやま」と読んだという。現在の北区柊野(ひらぎの)にあって標高は三〇一・五メートル。上賀茂神社の祭神賀茂別雷命が降臨した山とされ、頂上に降臨石と名付けられた岩塊が残存する。歌枕。
「塔の尾」岩波版「明恵上人集」の諸注を勘案すると、この神山の近くにあった尾根かピークの名らしい。
「神主能久」賀茂能久(承安元(一一七一)年~貞応二(一二二三)年)賀茂別雷神社の神主。権禰宜から建保二(一二一四)年に神主職となった。後鳥羽上皇の近臣で、後の承久の乱では幕府軍と戦って六波羅に捕縛され、太宰府に流罪となってそこで没した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]
承久二年の比、石水院にして重て菩薩戒を興行(こうぎやう)して、香象の梵網の疏を談ず。毎日、諸衆集會(しふゑ)の次(ついで)でを以て、梵網の戒本・十重の文竝に四十八輕戒の内四五戒を副(そ)へ講ずる事數遍なり。其の間、或る時は瑞光を現じ、或る時は梵僧來る。或るは夢に數十人の梵僧、説戒の時刻を待つて天井の上に集會して向ひ給ふと見る。又大聖文殊(だいしやうもんじゆ)現じて、持戒淸淨(ぢかいしやうじやう)の印明(いんみやう)を授け奉り給ふ。彼の山に今に相承せり。
[やぶちゃん注:「或るは夢に」日常の秘蹟の中に、何の違和感もなく夢(無論、明恵の夢である)の中の出来事が並列して書かれる辺り、流石は夢記(ゆめのき)の明恵上人の伝記である、という気がして面白い。
以下の一段は底本では全体が二字下げの注のような感じで、平泉洸全訳注「明惠上人伝記」の訳文では頭に『(後補)』とある。]
大聖文殊影現の事紀州白上峰(しらがみみね)に於てなり。今に彼の遺跡に文殊影嚮(もんじゆやうかう)と號する松あるなり云々