芥川龍之介「河童」決定稿原稿 二
■原稿15
〈三〉*二*
[やぶちゃん注:一行目5字下げ。今回、気がついたのがこうした字下げが各章で一定していない意外な事実であった。前回では6字下げ、例えば次の「三」では4字下げである。文豪はこうい形式的統一という些末な部分には意を解さないことが分かる。以下、本文は2行目から。]
〈僕は〉*そのうちに*やつと気〈づいつ〉*がつい*て見ると、僕は仰向け
に倒れたまま、大勢の河童にとり圍まれてゐ
ました。のみならず〈目の大きな→目金をかけた〉*太い嘴の上に鼻眼金をかけた*〈河〉*河*童が一匹、
〈僕〉*僕*の側へ跪きながら、僕の胸へ聽信噐を当て
てゐました。その河童は僕が目をあいたのを
見ると、〈そ〉*僕*に「靜かに」と云ふ手眞似をし、それ
から誰か後ろにゐる河童へ 〈q〉* Q *uax quax と声を
かけました。するとどこからか河童が二匹、
擔架を持つて歩いて來ました。僕はこの擔架
[やぶちゃん注:
●「のみならず〈目の大きな→目金をかけた〉*太い嘴の上に鼻眼金をかけた*〈河〉*河*童が一匹」の部分は極めて複雑である。初筆のインクの濃さの統一感から、芥川は恐らくこの原稿をある程度まで書いた後から推敲しているように思われる。ここは初めて、朦朧としながらも、ある意味で、主人公が冷静に近距離の河童を見る重要なシーンである。芥川が殊の外拘ったと考えて間違いない。以下は一つのシチュエーションの可能性である。……
……筆を止めた龍之介の目に、
のみならず目の大きな河童が一匹、
の部分が留まった。
芥川はこの「目の大きな」の部分が河童の個別的性質が表われてないと考えて抹消し、
のみならず目金をかけた大きな河童が一匹、
と変えて右に書いた。
しかしどうも納得出来ない。
これでは読者は眼鏡をかけた人間の顔を想起してしまうだけではないか?
そこで、それを直ぐにまた抹消し(抹消線のリズムが「のみならず目の大きな」のものと共時的である)、今度は左に、
太い嘴の上に鼻眼金をかけた大きな河童が一匹、
とした。
一応、腑に落ちた。
すぐに吹き出し挿入の枠を囲ったが、誤って「……鼻眼金を」の下で吹き出しを閉じてしまった。そこで、その吹き出しにチェックをした上で、「かけた」に追加の吹き出しを附した。
相当にごちゃごちゃになってしまった原稿を見るうちに、その下の「河童」の「河」の字の崩し方が、何だか神経に触った。
執筆のリズムを取り戻す意味もあって、「河」をしっかりした(さんずい)で書き直した(彼のそれは前後を見てもこんなにしっかり点を打ってはいない)。――
芥川は徐に次の行にとりかかる。リズムのブレイクが彼を苛立たせる。
「僕」と書こうとして、途中で何か苛立って消し、右にしっかりとした「僕」の字を書いた(実際に一回目の抹消された「僕」の字は9画ほどまで書いてあるのに抹消されている。特に崩れているわけでもないのに、である)……
……書斎……河童の嘴ならぬ……龍之介の鼻の先……そこに夕日が、暮れ残っている……
なお、初出では「鼻目金」は「鼻眼鏡」である。この表記は芥川の中では揺れている。旧全集後記にそのブレが示されているが、特にここでは問題にせず、問題の箇所で注記することとする。
●「〈q〉* Q *uax quax」ここで芥川は、河童語の言語体系や文法を構築するという発想を想起したのではなかったか? 単なる発音おアルファベット表記ではなく、その最初の文字を大文字に変えることで、である。]
■原稿16
にのせられたまま、大勢の河童の群がつた中
を靜かに何町か進んで行きました。僕の兩側
に並んでゐる町は少しも銀座通りと違ひあり
ません。やはり毛生欅(ぶな)の並み木のかげにいろ
いろの店が日除けを並べ、その又並み木に挾
まれた道を自動車が何台も走つてゐる〈で〉*で*
のです。
やがて僕を載せた擔架は細い横町を曲つた
と思ふと、或家の中へ舁ぎこまれました。そ
れは後(のち)に知つた所によれば、あの鼻眼金を〔かけ〕た
■原稿17
河童の家(うち)、――チヤツクと云ふi医者の家だつ
たのです。チヤツクは僕を小綺麗なベツドの
上へ寐かせました。それから何か透明な水藥
を一杯飮ませました。僕はベツドの上に横た
はたつたなり、チヤツクのするままになつてゐ
ました。實際又僕の〈体〉*体*は碌に身動きも出〈來〉*來*な
いほど、節々(ふしぶし)が痛んでゐたのですから。
チヤツクは一日に二三度は必ず僕を診察に
來ました。又三日に一度位は僕の最初に見か
けた河童、――バツグと云ふ漁師も尋ねて來
■原稿18
ました。河童は我々人間が河童のことを知つ
てゐるよりも遙かに人間のことを知つてゐま
す。それは我々人間が河童を捕〈獲〉*獲*することよ
りもずつと河童が人間を捕獲することが夛い
爲でせう。捕獲と云ふのは当らないまでも、
我々人間は僕の前にも度々河童の国へ來てゐ
るのです。のみならず一生河童の国に住んで
ゐたものも夛かつたのです。なぜと言つて御
覽なさい。僕等は唯河童ではない、人間であ
ると云ふ特権の爲に働かずに食〈ふことも出來〉*つてゐられる*
[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「夛」は「多」の異体字。無論、現行はすべて「多」に直されている。
●「〈獲〉*獲*」の最初の「獲」はこの通りの字体であるが6画ほどまで書いて抹消、決定した「獲」の字体は(くさかんむり)が全体に掛かっている。次の「捕獲」の「獲」も全体に掛かっている字体で、この誤った字体を芥川は好んだものらしい。]
■原稿19
のです。現に〈河童の言葉→マツ〉*バツグの話*によれば、或若い道
路工夫などはやはり偶然この国へ來た〈ぎり〉*後*、
〈死ぬ→雌の〉*雌の*河童を妻に娵り、死ぬまで住んでゐたと
云ふことです。尤もその〔又〕雌の河童は〈大へんに→この国㐧一〉*この国第一の*
美人だつた〈と〉*上*、夫の道路工夫を〈瞞〉誤魔化すの
〈に妙を得てゐ〉*にも妙を極め*てゐた〈さうですが〉*と云ふこと*です。
僕は一週間ばかりたつた後、この国の法律
の定める所により、「特別保護住民」としてチヤ
ツクの鄰に住むことになりました。僕の家は
小さい割に如何にも瀟洒と出來上つてゐまし
[やぶちゃん注:
●「〈河童の言葉→マツ〉」この書き換え抹消は非常に興味深い。何故なら、ここまででは河童は「チヤツク」と「バツク」しか登場していないからである。「マツ」という抹消は明らかにずっと後の「六」に登場する哲学者「マツグ」としか考えられず、これが「バツク」の単なる書き間違いでないとすれば(ない、と私は思うのであるが)、芥川はここで既に、後に続く河童人間関係図を既に構築していたと考えられる。さらに言えば、この道路工夫とその妻の雌河童のディグされたゴシップは、身分の低い、素朴な漁師バックの話す内容というより、寧ろ、哲学者で、河童は勿論、「僕」から見ても非常に醜くい形相をしている醜河童(ぶかっぱ)で独身のマッグが語るに確かに相応しいと言えるであろう。ただ、この文脈では唐突過ぎるので、仕方なくバックの台詞に変えたものと私は推理するのである。
●「〈瞞〉」は「目」ではなく「口」に見える。「瞞(だま)す」としようとしたか。]
■原稿20
た。勿論この國の文明は我々人間の国の文明
―――少くとも日本の文明などと余り大差は
ありません。〈客間の隅には→絨氈を敷いた〉*往來に面した*客間の隅には小さ
いピアノが一台あり、〈壁にはエツチングだの
水彩画だのが→椽へ入れた河童〉*それから又壁には〈小〉額椽へ入れたエツ*ティングなども懸つてゐまし
た。唯肝腎の家をはじめ、テエブルや椅子の
寸法も河童の身長に合はせてありますから、
子供の部屋に入れられたやうにそれだけは不
便に思ひました。
僕はいつも日暮れがたになると、〈窓の側の〉*この部屋*
[やぶちゃん注:「〈壁にはエツチングだの水彩画だのが→椽へ入れた河童〉*それから又壁には〈小〉額椽へ入れたエツ*」の推敲過程は極めて複雑で説明を要する。
まず芥川は、
壁にはエツチングだの水彩画だのが
というところまで書いた。しかし気に入らず、決定稿に残るところの、
それから又壁には小額椽へ入れた河童
と左側に訂正した(何故に左側かというと前行の「往來に面した」という左に記した訂正本文が「壁に」辺りまで掛かってしまっていたからである)。ところが「小額椽」(本文の「椽」は以前に述べた通りの芥川の「緣」の慣用誤字)という熟語が如何にもリズムが悪いと感じたものか(私はそう感じる)、ここで「小」を抹消してみた。しかし、それでもしっくりこなかった芥川は、この後半部の五行目訂正行頭の6文字と正規のマスに書き入れた「童」の字を含む都合「椽へ入れた河童」7文字をさらに抹消して、
椽へ入れたエツ[やぶちゃん注:ここまで7文字。]ティングなども……
と続けたのである。
こここそ、芥川マジックたる原稿用紙上での実に緻密な推敲戦法が鮮やかに学べるパートなのである。]
■原稿21
にチヤツクやバツグを迎へ、河童の言葉を習
ひました。いや、彼等ばかりではありませ
ん。特別保護住民だつた僕〈は〉*に*誰も皆好奇心
を持つてゐましたから、〈毌→*毎*日チヤツクに來て貰つては血壓を調べて貰つ〉*毎日血壓を調べて貰ひにわざわざチヤツクを*呼び寄せる、ゲエ
ルと云ふ硝子會社の社長などもやはりこの部
屋へ顏を出したものです。しかし最初の半月
ほどの間に一番僕と親しくしたのはやはりあ
のバツグと云ふ漁夫だつたのです。
或生暖かい日の暮です。僕はこの部屋のテ
[やぶちゃん注:「*毎*」としたが、この右側の訂正は最終的に削除線をし忘れている。
●ここでは決定稿の校正上のミスが発見された。現行の「河童」では、原稿の3行目以降の一文が次のようになっている。
*
★現行「河童」(下線やぶちゃん)
特別保護住民だつた僕に誰も皆好奇心を持つてゐましたから、毎日血壓を調べて貰ひに、わざわざチヤツクを呼び寄せるゲエルと云ふ硝子會社の社長などもやはりこの部屋へ顏を出したものです。
*
原稿を削除部分その他記号を除去して繋げてみよう。
*
★決定稿「河童」(下線やぶちゃん)
特別保護住民だつた僕に誰も皆好奇心を持つてゐましたから、毎日血壓を調べて貰ひにわざわざチヤツクを呼び寄せる、ゲエルと云ふ硝子會社の社長などもやはりこの部屋へ顏を出したものです。
*
読点が二箇所で異なっているのである。平仮名続きを読み易くするという点では、現行の読点は『普通に正当』ではあるが、私は現行より芥川の決定稿の方が、よりよい読点――ゲエルという新登場の河童を引き立てる点に於いて――であると思うのであるが、如何か?]
■原稿22
エブルを中に漁夫のバツグと向ひ合つてゐま
した。するとバツグはどう思ふ〈た〉*つ*たか、急に
默つてしまつた上、大きい目を一層大きくし
てぢつと僕を見つめました。〈のみならず〉*僕は勿論妙*に思
ひましたから、「Quax, Bag, 〈Q〉*q*uo 〈Q〉*q*uel 〈Q〉*q*uan ?」と言
ひました。これは〈我々〉*日本*語に飜訳すれば、〈「〉*「*お
い、バツグ、どうしたんだ?」と云ふこ〈と〉*と*で
す。が、バツグは返事をしません。のみなら
ずいきなり立ち上ると、べろりと舌を出した
〈まま〉*なり*、丁度蛙の刎ねるやうに〈僕〉*飛*びかかる気色(けしき)
[やぶちゃん注:「〈のみならず〉」としたが抹消線は「ず」まで延びていない。
●「〈Q〉*q*」の訂正も、先とは逆に文頭と固有名詞でない構文の綴りを英語やフランス語のように、小文字化して正規文法を意図したニュアンスが感じられる。]
■原稿23
さへ示しました。僕は〈た〉*愈*無気味になり、そつ
と椅子から立ち上ると、一足飛びに戸口へ飛
び出さうとしました。丁度そこへ顏を出した
のは幸ひにも医者のチヤツクです。
「こら、バツグ、何をしてゐるのだ?」
チヤツクは鼻眼金をかけたまま、かう云ふ
バツグを睨みつけました。〈バツクは〉*するとバ*ツグは〈驚〉*恐*
れ入つたと見え、何度も頭へ手をやり〈な〉*な*が
ら、かう言つてチヤツクにあやまるのです。
「どうも〔まことに相〕すみません。実はこの旦那の気味悪
[やぶちゃん注:
●チャックの台詞の鉤括弧の初めの括弧に「こら、」までかかる大きな赤インクと思われる朱の鉤括弧が入っている。意味不明。校正にお詳しい方の御教授を乞うものである。]
■原稿24
がるのが面白かつたものですから、つい調子
に乘つて悪戯をしたのです。どうか旦那も堪
忍して下さい。」
[やぶちゃん注:以下、7行空白。]