耳囊 卷之七 狸欺僕天命を失ふ事
狸欺僕天命を失ふ事
駿河臺に金森何某迚(とて)有(あり)。親類本所に住けるが、小身にて僕從も不多(おほからず)。壹人の下人召仕ふ下女と密通しけるを主人心付(こころづき)て、下男をば暮に本鄕邊に使(つかひ)に遣(つかは)し、右留守に家風に不合(あはず)とて、下女に暇を申渡し宿へ引渡し遣しける。彼(かの)下男夜に入(いり)歸らんとしける道にて、彼下女に行逢(ゆきあふ)故、今比(いまごろ)爰(ここ)迄來りしやと尋(たづね)ければ、主人より暇出(いで)て宿へ下りしが、御身に逢(あは)んと跡を慕ふて爰迄來りしと語りければ、夫(それ)は是悲なき事也、然れ共、彼是(かれこれ)咄し合(あふ)事も有之間(これあるあひだ)、先(まづ)我(わが)部屋迄内々立歸り候へ迚、友(とも)なゐ皈(かへ)りしが、元より蚊屋もなければ蚊をゑぶして、越方行末(こしかたゆくすへ)をかたらひ□りて、五つ半時比(ころ)にもなりし、蚊遣の火もえ立(たち)て部屋内に照(てら)しけるに、彼女の面(おもて)あらぬ化物なれば大きに驚きしが、氣丈なる者にてやがて組付て押ふせ、聲をかぎりに人を呼(よび)ければ、無人なれ共(ども)ある限りの男女主人迄も火をともし駈(かけ)集り、烑灯(ちやうちん)にて是を見れば古狸にて有(あり)し故、打殺しけると也。文化丑の年夏也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。狐狸譚。言わずもがな乍ら、どうも狸は抜けていて分が悪く、何とも憎めずに何がなし哀れな気がしてくる話が多い。五十年も昔、私の幼少の頃は、この鎌倉の植木でも、傍の切通しで狸がよく轢かれて死んでいたものだった。何より、私には、緑ヶ丘高校在勤中のバスケットボール部の夏合宿の夜、巡回中、校内をうろつく狸(アナグマの可能性の方が大きいが)を逆に驚かした実体験もあるのである。以下、私の怪談奇談集成録「淵藪志異」より引用しておこう。
*
一九九九年七月我籠球部合宿にて學校に泊せり。夜十一時頃本館見囘れり。夜間も本館一階電氣は點燈せしままなるが定法也。體育館を出でて會議室橫入口より本館へ入りし所間隔短きひたひたと言ふ足音のせり。左手方見るに正に校長室前を正面玄關方へ茶褐色せる不思議なる塊の左右に搖れつつ動けるを見る。黑々したる太き尾あり。目凝らしたるもそは犬でも無し猫でも無し。狸也。若しくはアナグマやも知れず。素人そが區別は難かりけりとか聞く。彼我に氣づかざれば思はず狸臆病なるを思ひ出だし「わつ!」と背後より叱咤せり。狸物の美事に右手にコテンと引つ繰り返らんか物凄き仕儀にて玄關前化學室が方へ遠く逃れ去れり。我聊か愛しくなるも面白くもあり。つとめて廊下にて出勤せる校長と擦れ違へり。我思はず振り返りて校長が尻に尻尾無きか見し事言ふまでも無し。そが狸の棲み家と思しき所テニスコウト向かひが土手ならんや。されど此處五六年宅地化進めり。我に脅されし哀れ狸とそが一族も死に絕えたらんか。これこそ誠あはれなれ。
*
なお、擬古文が苦手な御方は、同話の口語原話『文化祭「藪之屋敷」に捧げる横浜×××高校の怪談』の「3」をどうぞ――。
・「狸欺僕天命を失ふ事」は「狸(たぬき)、僕を欺(あざむ)き天命を失ふ事」と読む。
・「金森某」不詳。「耳囊 卷之二 猥に人命を斷し業報の事」に金森姓は出る。
・「是悲なき」ママ。是非なき。
・「かたらひ□りて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『かたらひ契りて』。これで採る。
・「文化丑の年」文化二(一八〇五)年乙丑(きのとうし)。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから一年前のホットな都市伝説。この頃は狸も江戸のド真ん中で頗る、意気軒昂ではあったわけだ。
・「五つ半時」不定時法の夏の夜の五ツ半は午後九時頃。
■やぶちゃん現代語訳
狸の下僕を欺くも天命を失(うしの)うた事
駿河台に住まう金森某(ぼう)と申す私の知人がおる。
その親類が、本所に住んで御座った。
かの者、小身(しょうしん)の身なれば、家来・下人なども多くは御座らなんだ。
その主人、ある時、一人の下男が屋敷内の下女と密通致いておることに気づいたによって、その日も暮方になってから、その下男を本郷辺りまで使いに出だいて、その留守に、かの相手となった下女を呼び、
「……密通の儀――これ、露見致いた。不届き――これ、家風に合わはざる。――」
と諭して、暇まを申し渡し、請け人をも呼び、実家へと引き渡し下げた。
さて、かの下男、夜も遅うなった、その帰るさの道にて、かの下女の向こうより来たるに出逢(お)うたによって、
「……何でこんな夜遅うに……また、こんなところまで、来たんじゃ?」
と訊ねた。
と、下女は、
「……我らがこと……ご主人さまに知られ……先程、お暇まを出されて……実家へと戻ったものの……あんさんに逢いとうて……後を追ってここまで……来ました……」
と申す。
「……そ、それは……何とも……致し方なきことじゃが……そうか……されど、これより我ら二人、どうするか……儂(わし)にも考えのあるによって……いろいろと相談致すことも、これ、ある!……泣くな!……悪いようにはせん!……ともかくも……屋敷の、儂の部屋まで、一緒に、こっそりと帰ると致そうぞ!」
と、宥めて、連れ帰った。
もとより、小身者の貧乏屋敷の長屋なれば、蚊帳もなく、うるさく襲い来たる蚊を仰山な蚊遣りで燻(いぶ)しつつ、二人の越し方行く末、しんみりと話し合って御座ったと申す。
かくするうち、五つ半時頃にもなった頃、積み置いた蚊遣りが、火種のうちに
――ゴソッ
と崩れて、
――パチパチ
と急に燃え上がったかと思うと、赫奕(かくやく)と部屋内(うち)を照らし出した。
意気消沈して項垂れたまま膝を見つめておった下男が、この時、ふと、顔を上げて女の顏を見た――
――と!
――その顔
――これ、かの女の顔では――ない!
――いや、かの女どころか――女の顔――人の顔――でさえ
――ない!
――ごわごわと!
――毛(けえ)の生えた!
――化け物のそれであった!!
男は大きに驚いたが、腕っぷしも相応の、主人自慢の気丈な者でも御座ったゆえ、即座にその化け物に組みついて押し倒し、ぐっと捻じ伏せて、声を限りに人を呼ばわった。
小人数(こにんず)なれども、ある限りの屋敷内の男女、果ては主人までもが、火を点して駈け集った。
それらの提灯の灯の照らし出したそれを見れば――
――これ
――大きなる古狸
で御座った。
されば、その場にて、即座に打ち殺した、と申す。
丁度一年前の、文化二年の夏のこと、で御座る。

