ホテル之圖 萩原朔太郎 (版画2タイプ掲示)
ホテルの屋根の上に旗が立つてる。何といふ寂しげな、物思ひに沈んだ旗だらう。鋪道に步いてる人も馬車も、靜かな郷愁に耽りながら、無限の「時」の中を徘徊してゐる。そして家家の窓からは、閑雅なオルゴールの音が聞えてくる。この街の道の盡きるところに、港の海岸通があるのだらう。すべての出發した詩人たちは、重たい旅行鞄を手にさげながら、今も尚このホテルの五階に旅泊して居る。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年版畫莊刊「定本靑猫」より。「ホテル之圖」は厳密には詩題ではなく、版画のキャプションで、絵の下中央に右から左へ記されてあり、散文はその下に縦書されている。提示した版画画像は最初の薄く摺りなしたものが、
●新潮社昭和四一(一九六六)年刊「日本詩人全集14 萩原朔太郎」所収の「ホテル之圖」
で、二番目の摺りの極めて濃いものが、底本とした
●筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郎全集 第二卷」所収の「ホテル之圖」
である。摺りによって甚だしく印象が極端に異なるので二種ともに掲げた。
当該の図と散文詩は、底本の「定本靑猫」では親本と同位置である、詩「群集の中を求めて步く」と「靑猫」の間に配されいる。参考までにそれぞれの詩を示す。
群集の中を求めて步く
私はいつも都會をもとめる
都會のにぎやかな群集の中に居るのをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ。
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ。
ああ 春の日のたそがれどき
都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。
みよ この群集のながれてゆくありさまを
浪は浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり、日影はゆるぎつつひろがりすすむ。
人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと、みなそこの日影に消えてあとかたもない。
ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影
たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは淚ぐましい。
いま春の日のたそがれどき
群集の列は建築と建築との軒をおよいで
どこへどうしてながれて行かうとするのだらう。
私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影。
ただよふ無心の浪のながれ
ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
もまれて行きたい。
[やぶちゃん注:ここに「ホテル之圖」。]
靑猫
この美しい都會を愛するのはよいことだ
この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい娘等をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の竝木
そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。
ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一匹の靑い猫のかげだ
かなしい人類の歷史を語る猫のかげだ
われらの求めてやまざる幸福の靑い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。
太字「ぐるうぷ」は底本では傍点「ヽ」。]