大橋左狂「現在の鎌倉」 21 鵠沼・藤沢
鵠沼 江の島を出でゝ、片瀨電車停留場より、電車に投じて西下すれば、約七分時にして鵠沼停留場に達す。玆處に下車して沙地を南に進めば廣茫たる小松原に、淸酒たる別莊の點々散在するを見るのである。此れ即ち鵠沼別莊地である。此地は今より二十三、四年前即ち明治二十一年頃は全く荒蕪たる沙漠地であつたのである。當時伊藤幹一氏や其他の人々が多くの資を投じて開拓し、最初は草の種まで蒔き付けたとの事である。又風除けには立木も必要であるとの事から一寸二寸位の松苗を植へ付けたのである。かくして鵠沼は漸次に開かれたのであるから其開發程度の遲いのも無理はない。當時は三百歩僅かに一圓位であつたのが二十餘年の今日三百歩一千圓餘の相場を示して居る。別莊も現在九十餘戸に達してゐる。商家も續々殖へて來たのである。
鵠沼は茅ケ崎と相倂んで、南は海に面し、白沙連なる一帶の海水浴場を爲して居る。而して風光明眉に加ふるに土地高燥にして空氣や新鮮に、且つ飮料水の佳良なる事は大に誇るに足るのである。
盛夏の候、避暑客の此地に來り、水浴するもの、其數幾千なるかを知り得ない程である。海水浴旅館料理店としては東家、鵠沼館がある。東家の庭内には鵠沼郵便局が設けられて、電話・電信其他一般郵便物の取扱を爲して居る。盛夏の期に至れば、鵠沼一帶の海岸は一芥の塵芥なき程に、砂上は清潔に掃除されて、玆處の更衣所が設けられる。常に水浴客の便を計るべく山上八十八、關根貞二、山上元次郎の三軒の茶屋が出來る。此茶屋は毎年此期には特定されて出來るので一號茶屋、二號茶屋、三號茶屋と稱されてゐる。沙上の一切は此茶屋に依りて何事も辨じられる。海上には堪へず二隻の救護船が浮べられて萬一の危險を豫防して居る。此地産物として農産物の甘藷等があるが名物として鵠沼松露の名高し。
藤澤 鵠沼より電車に投じて、北に進みて、江の島電車の終點に至れば、玆處は東海道の名驛たる藤澤町である。此地は東海道往還にある商業地丈けに、中々に大きな商家が、町通りに軒を並べて見るやうに往時の面影が思ひ出されるのである。官衙として郡役所あり税務署あり、登記所あり、郵便局、警察署、町役場等皆此地にあり、尚ほ製糸場、釀造場、家畜市場、屠獸場等もある。以て藤澤町現在の發展程度の幾分を知り得るのである。中にも家畜市場は常に四千餘頭の牛豚羊馬を繫畜し得る樣完全に設備してある。而して祭日を除くの外は日々此市場にて家畜の賣買讓與をされてゐる。屠獸場は同地尾島氏の經營に係り屠殺方法に於ても、又消毒方法に於ても、凡てに就て完全なる設備がされてある。故に湘南唯一の模範屠獸場として中々に好評判である。
藤澤の産出物としては繭、米、麥、大豆及び生糸織物等が首位であるが、尚ほ沿海よりは、鮪、鰯、鯵、其他の魚類がある。殊に沿岸より産出される藤澤松露は名物として遊覽者に評判されてゐる。
藤澤遊行寺 藤澤停車場を距る約八丁、大鋸橋を渡つて大富町にある。藤澤山淨光寺と稱し、俗に遊行寺と云ふ、時宗の大本山で遊行上人四世の呑海上人の開山である。伽藍は正中年間の建立なるも、其後幾囘となく火災に躍りて幾變遷今日に至つたのである。今尚ほ書院は新築建造中である。此寺は代々の住職が必ず諸國を遊行して布教をするとの宗規があるので遊行寺と名けられたのである。寺寶として後醍醐帝の御像、一遍上人繪詞傳等の國寶がある。尚ほ境内は實に廣壯にして、小栗判官滿重及照天姫を祀れる小栗堂があつて、四時參詣者の踵が絶へない。
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