耳嚢 巻之七 放屁にて鬪諍に及びし事
放屁にて鬪諍に及びし事
是も同比(おなじころ)の事、或町家に獨住の(ひとりずみ)者ありしが、其隣に夫婦幷七八歳の娘壹人都合三人ぐらしの者有(あり)しが、彼(かの)妻、夫は留守にて大き成る放屁(はうひ)をなしける。隣の獨り住の男聞(きき)て、女にて人もなげ成る放屁也迚、嘲(あざけ)り誹(そし)りけるを、彼女房聞て以の外憤り、彼獨り住なる者の方え至り、我宿にて屁をひるを何の嘲り笑ふ事や、いらざる世話なりと罵りしより事起り、互に聲高(こわだか)に爭ふを、相店(あひだな)の者立集(たちあつま)り引分(ひきわけ)事鎭(しづま)りしが、彼女房は洗湯(せんたう)に至りし留守へ夫歸りけるに、七八歳の娘留守におかしき事にてさわがしかりしと申(まうし)ければ、如何成(いかなる)事哉(や)と尋(たづね)しに、隣のおぢさんとかゝさんものいゝ有(あり)し由、然れ共、おん身にはかならず沙汰致す間敷(まじき)とかたくいわれたりと譯いわざれば、扨は隣の男と女房姦通なしけると心中に憤り、湯より女房歸りても物いわず、彼是申(まうし)爭ひ出刄庖丁を以て妻の頭へ疵付(つけ)、あたり隣家よりかけ來りて引わけ、彼獨り男も來りて取おさへけるに、是も疵付、公邊(こうへん)に成りなんとしけるが、段々の譯よくよく聞(きか)ば有(あり)の儘ゆへ異見する者有(あり)て、内々にて濟(すまし)けると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:冒頭の「是も同比の事」で、前話と同時期、文化二(一八〇五)年の夏の出来事で連関。落語みたような話であるが、二人も出刃包丁によって傷害を受けており、あり得た印象の強い事実譚らしき噂話ではある。
・「相店」相借家(あいじゃくや)。同じ棟の中にともに借家すること。また、その住人。
・「おかしき事」近世もこの頃になると、「おかし」(正しくは「をかし」)には現代語のような、変だ、怪しい、怪しむべきことだ、というニュアンスを含意するようになり、また、本来の古語の意味でも、子どもには真の意味が分からないながら、普通と変わって何だか面白そうで興味がそそられた、という意味合いも読み取れる言葉であろう。
・「さわがしかりし」「さわがし」という形容詞には単に騒々しい、やかましい、の意以外に、混乱してごたごたが生じる、不穏だ、不安だ、などの意味がある。父親はその、何か問題のあるダークな人間関係の混乱や不穏のニュアンスを「さわがし」という言葉に感じてしまったものともとれる。
■やぶちゃん現代語訳
放屁が原因で乱闘に及んだ事
これも同じく文化二年の夏頃のことで御座る。
とある町家に独り住まいの者があったが、その隣りには、夫婦(めおと)と七、八歳になる娘が一人、都合三人暮らしの家族が住んで御座った。
その妻が、ある日のこと、夫の留守に、
――ブブブゥーーーッツ! ブッ!!
と、これまた大きな屁(へ)を放ったと思し召されい。
折しも在宅であった隣りの独り住みの男、これを安長屋の薄き壁越しに聞きつけ、
「女のくせに、何とも、これ――人のものとも思えぬ――ぶっ魂消(たまげ)た――凄(すげ)え、屁じゃが! 屁! どぅじゃ! へへへヘッツ! どうじゃ! てへ屁(ぺ)ろ!」
と、これもまた壁越しに、さんざんに嘲り誹って大笑い致いた。
かの女房、それを耳にするや、以ての外に憤り、その独り住みの男の方へと尻をはしょって走り込むと、
「我が家(や)で屁をひるを、何の、嘲り笑うかッツ! いらぬ世話じゃッツ!」
とこれまた、金切り声を挙げて罵ったから、たまらぬ。
売り言葉に買い言葉、二人、声高(こわだか)なる言い争いと相い成って、隣近所の相店(あいだな)の者どもも、すわ、何事かと、皆々たち集(つど)う。
ともかくも摑みかからんばかりの二人を引き離して鎮め、何とか、そこはことなきを得て御座ったと申す。
さて、その暮方近(ちこ)うになって、かの女房は銭湯へと参り、その留守に夫はお店(たな)へ帰って御座った。
すると、七、八歳になる娘が、
「……父ちゃん、留守に……そのぅ……変なことがあって……何だか……さわがしいことに……なったん……」
と如何にも、言いたいのか、言いたくないのか、妙なしなを作って言うたによって、
「あん? どんなことじゃ?」
と訊いたところが、
「……そのぅ……隣りの、ね……おじさんと、ね……かかさんが、ね……なんだか、ね……よう分からんけど、なんか……けんかみたいに、二人でうなり声を挙げてたの……だけど……このこと、ゼッタイ、父ちゃんには言っちゃダメだ! って……かかさんが、言うてたから…………」
と、それ以上、口籠ったまま黙ってしもうた。
それを聞いた夫は、
『さては……隣りの男と……あの売女(ばいた)め! 皮つるみしておったかッ?……』
と心中憤り、銭湯より女房が帰ってからも、一言も口を利かず、あれこれ、妄想と憤怒が先走った、訳の分からぬことを言っては女房に嚙みつき、果ては大喧嘩と相い成った。
夫は思わず、水屋に飛び下りて握りしめた出刃包丁でもって、妻の頭を、
――シャッツ!
と傷つけた!
女房は頭から血を吹き出し、
――ギャッッツ!!!
と叫ぶや半狂乱となった!
その騒ぎに向こう三軒両隣り、長屋連中、皆、駆け込んで参り、なんぞ浄瑠璃みたような修羅場を、皆して何とか、引き分けて御座った。
と、そこへ、かの隣の独り者の男も来合せ、血みどろの顔に泡を吹き、手足をばたつかせて門口に倒れ込んで御座った女房を静めんと、肩を抱だくように押さえて御座った。
それを部屋内から、血走った眼ですかさず垣間見た夫は、押さえつけて御座った男衆を跳ね除けるや、脱兎の如く路地へと飛び出いで、出刃振り上げて、
――シャシャッツ!
と、かの男にも切りつけたから、もう、たまらぬ!!
――一瞬にして平和な長屋は
――ザンバラ
――血飛沫(ちしぶき)
――阿鼻叫喚
――まさに地獄絵と化して御座ったと申す。
さても、当然、刃傷なればこそ、表沙汰にもなるが必定、で御座った。
……ところが……これ……不幸中の幸いと申すものか、妻も、隣りの男も、傷は思ったほどには深(ふこ)うもなく、じきに血も収まって、また、わけも分からず修羅場を目の前にして青うなって昏倒致いて御座った子どもも、正気付かせ、それぞれ四人の者に、これ、段々に、それぞれの言い分をよくよく聞いてみたところが……まあ、以上に述べた――まんず、繰り返すまでもなき、アホらしき顛末で御座ったことが明白となったればこそ――鯱鉾(しゃっちょこ)ばった、訴え出るが筋、と申す輩に対し、
「……それは如何にもアホらしいゼ。……お前(めえ)さんら、だいたい、お白洲に出て、この一件の証人に立つざまを想像して御覧な?! ええっ?……儂(あっし)らの長屋から――屁の争いで刃傷と相い成った呆け野郎を出す――そんな恥を、これ、晒すんが正道かっ、てえんでぇ!?!……」
と、異見する者が御座ったによって、これ、内々に済まして、結局、表沙汰にはならずに済んだとか、申すことで御座った。

