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2013/06/24

鬼城句集 夏之部 コレラ

コレラ   幾人のコレラ燒しや老はつる

[やぶちゃん注:「老はつる」とあることから、直近の明治期のコレラ流行(後述)ではなく、江戸末期のパンデミックを背景とすると考える。ウィキの「コレラ」から推測すると、安政五(一八五八)年から三年に亙った2度目の大流行(最初の世界的大流行の日本波及は文政五(一八二二)年。この2回目は九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで一〇万人死亡という文献もあるとする)及びその時の残存菌によるとされる四年後の文久二(一八六二)年の3度目のパンデミック(死者五十六万人を出したとあるが、この時、江戸には感染拡大しなかったという文献と、江戸だけでも七万三千人から数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が世情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多いとある)が考えられる(この句の創作時期は「鬼城句集」発刊の大正六(一九一七)年前であるから、この発刊年でさえ既に鬼城は数え五十三歳である)、凡そ六十年ほど前になり、その際の遺体処理に関わった当時は若かった人物ならば八十を越えて「老いはつる」に相応しいと私は思うし、その遠い昔語りの様子が句背に見えてくる気が私はする。なお、これらのパンデミックの江戸への感染拡大が疑問視されるのは、『コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている』とあり、事実、明治元(一八六八)年に幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は二、三年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続いたとある。因みに、明治一二(一八七九)年 と明治一九(一八八六)年には死者が一〇万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ。明治二三(一八九〇)年には日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われ、また明治二八(一八九五)年には軍隊内で流行して死者四万人を記録しているとある。この明治期の流行をこの句の背景としてもよいとは思うが、その場合、凡そ四十年から二十年前のこととなり、対する話者の「老はつる」さまが(私は)生きてこない気がするのである(慶応元(一八六五)年で、句作当時の鬼城を借りに五十前後に措定すると、話し相手の老人は有意に、鬼城よりも遙かに年老いていないとおかしいと私は思うのである)。但し、このコレラの幕末のパンデミックが江戸に拡大していなかったとすると、それは明治の初期のパンデミックを背景とすると言わざるを得ない。この老人が当時、実際に多量に死者を出した関西に当時いたと仮定するならば問題ないのだが、実は鬼城は殆んど生地高崎から出ていないからである(自ずとこの老人も関東の人間で当時江戸若しくは東京にいた確率が高くなるからである)。逆にこの老人の思い出がその幕末のパンデミックの思い出語りであったとすると、俄然、そのパンデミックが江戸へ拡大していた証しともなることになる。たかが一句、されど一句である。そうした歴史の真実への興味からも、私はこの句の中の情景のその場に、居て見たかった気がしてくるのである。]

僕は「歳時記」なるものが、実は嫌いである。博物学書のように季語素材を解説しながら、その実、それは上っ面の退屈なインク臭い解説に過ぎないクソだからである。
例えば、この句にに歳時記的注を附すとすると、「コレラ」を凡庸な博物書のように解説して、太平洋戦争敗戦直後の復員などによる大流行で俳句の季語としての地位を確立したなどどいらぬことを語ることにもなるであろう。
しかし、本当に知りたいのは、この老人の懐古するコレラのパンデミックが何時のことであるかであり、そうして真にこの句を味わえるのは、それが事実とすれば歴史の疑義が氷解するかも知れないという点にこそあるのではあるまいか?
季語をこねくり回して知ったかぶりするような歳時記的評釈(いや、普段の僕の句注はまさにそうじゃないかと指弾されかも知れぬ。そう言われればそうであろう。否定はしない。ただ僕は僕が不確かで分からないことでなければ注は附さない主義である。僕の注は僕自身の学びのための方途であって目的ではないのである)なら、せぬ方がずっとマシである。

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