生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 二 雌雄同體
あの――
♪角出せ 槍出せ♪
――の「槍」とは――このキューピッドの矢(英語“Love-darts”)――だったんだねえ! 目から鱗! 蝸牛から恋(こい)の矢!
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二 雌雄同體
雌雄同體とは一疋の個體で雌雄兩性の生殖器官を兼ね具へて居ることである。雌雄異體のものに比べると、その種類の數は遙に少いが、世人の通常知つて居る動物の中にも幾つも例がある。「かたつむり」・「なめくぢ」・「みみず」・「ひる」などは皆雌雄同體であるが、その他「ジストマ」・「さなだむし」の如き寄生蟲も、一匹ごとに兩性の生殖器を具へて居る。これらの動物では、一匹の身體の内に睾丸と卵巣とがあつて、精蟲と卵細胞とが兩方とも生ずるから、場合によつては自分の卵細胞に自分の精蟲を加へて、一疋で完全に生殖をすることも出來る。しかし二疋相寄つて互に精蟲を相手の體内に入れ合ふのが殆ど規則である。雌雄異體の動物とは違ひ、この仲間の動物は二疋出遇ひさへすれば必ず生殖が出來るといふ便利がある。運動の速な動物に雌雄同體のものが一種もなく、一疋で兩性を兼ねたものは悉く遲く匍匐する種類ばかりであるのも一つはこの故であらう。
(い)卵巣兼睾丸 (ろ)肝
(は)輸精管兼輸卵管 (に)蛋白腺
(ほ)輸精管 (へ)輸卵管
(と)受精嚢 (ち)膣の續き
(り)鞭狀腺 (ぬ)陰莖のある邊
(る)矢の嚢 (を)膣
(わ)粘液腺 (か)嗉嚢
(よ)眼(引込みました)]
[やぶちゃん注:「(か)嗉嚢」「嗉」は画像からの識別が困難を極めたが、カタツムリの消化器官構造を調べるうち、「素嚢」=「嗉嚢(そのう)」をカタツムリが持っていることを発見し、同定に漕ぎつけた。鳥類の消化器官として最も知られる嗉嚢は、消化管の一部分で管壁が肥厚、図のように膨らんだものとなり、消化に先立って摂餌したものを一時的に貯留するための器官として特化したものである。
実は以上のキャプションと図は本文底本としている大正十五(一九二六)年東京開成館刊の第四版の184コマ右にある『「かたつむり」の生殖器』を示してある。これまで使用してきた講談社学術文庫版の画像及びキャプションとは全く完全に異なっているためである。
今回、上記の図の画像については国立国会図書館の底本画像の使用許可を事前に得たので示すことが出来た(ブログ使用許可番号国図電1301044-1-2355 号・許可証をダウンロード)。心より感謝申し上げる。なお、見易くするために画像の明度を補正し、汚れを除去してある。
以下、比較参考までに講談社学術文庫版にある図及び、それとほぼ完全に同じ(「いろは」のもじのフォントが異なる)図を載せる国立国会図書館蔵の本書の大正五(一九一六)年の初版(185コマ)のキャプションを視認して示しておく。
かたつむりの生殖器
(い)卵巣兼睾丸 (ろ)輸精管兼輸卵管
(は)蛋白腺 (に)輸精管
(ほ)輸卵管 (へ)受精嚢
(と)同管 (ち)輸精管の續き
(り)付屬腺 (ぬ)矢の嚢
(る)触手 (を)輸精管の末端
(わ)口 (か)鞭狀腺
(よ)足 (た)腸の前部
(れ)心 (そ)外套膜
(つ)腸の後部 (ね)筋肉
(な)外套膜の緣
この内、「(と)同管」というのがよく分からない。位置関係から見ると膣から受精嚢に続く部分であるから、これは「導管」の謂いだろうか? 識者の御教授を乞うものである。後者は解剖図としては生殖器以外の他の内臓も示されており体制構造を知る上では情報をよく与えていると言えるが、前者は極めて立体的な交尾状況下で生殖器官に特化した解剖図で、しかも外観の一部が示され、引っ込んだ眼まで示されているという(「引込みました」という台詞があったかい!)、博物的観点からも非常に貴重な解剖図であると言えるように思われる。なお、カタツムリの生殖器の恐らく最新の生物学的な美事な図譜を以下のページで見ることが出来る。必見! 素晴らしい!]
「かたつむり」の類はすべて雌雄同體であつて、これを解剖して見ると内部の生殖器は種々の部分から成り頗る複雜ある。まづ最も奧に位するのは卵巣兼睾丸ともいふべき器官で、卵細胞も精蟲も均しくその内で生ずる。輸卵管と輸精管とは始め共通で途中から別々になるが、その末端はふたたび合して一つの孔となり、頭部の右側で體外に開く。この孔は口より少し後へ寄つた處であるから、強ひえ人間に比べていへば恰も右の頰か頸筋位の處に當る。孔の内は直に輸卵管に續く方と輸精管に續く方との二途に分れて居るが、輸精管に續く方は稍々細くて、内に一本の長く柔い陰莖があり、常には隱て居るが、二疋交接するときにはこれを生殖孔から突き出して、相手の生殖孔に插し入れる。また輸卵管に續く方は相手の陰莖を受けるためにの膣であつて、その奥には相手から入り來つた精蟲を一時貯へて置くための小さな嚢が續いて居る。なほその外に、粘液を分泌する腺、蛋白を生ずる腺などがあり、複雜になつて居るが、特に面白いのは膣の出口に近い處、即ち相手の陰莖の入り來る處の傍に一つの嚢があつて、その中に「戀愛の矢」と名づける鋭く尖つた針が藏まつてある。キュピッドの放つ戀愛の矢は心臟を刺すさうであるが、「かたつむり」の戀愛の矢は直接に相手の交接器を刺戟して、輸精管の筋肉を收縮せしめ、精蟲をださせるやうに働く。「かたつむり」が交接するときには、二疋相接近して長い間互に體を寄せ絡(から)み合せなどして、如何にも戀愛の情に堪へぬらしい擧動を續けた後に、生殖孔を互に密接せしめ、雙方から交接器を相手の體内に插し入れる。生殖孔は頭の右側にあるから、これを互に密接せしめたときは、恰も頰を摺り合せて居るかの如き體裁である。獸類の交接を交尾といふならば、「かたつむり」の交接は寧ろ交頭と名づけねばならぬ。かくして暫く相繫がつて居た後に、交接器を拔き取り自分の體内に收めて別れて行く。卵を産むのはそれから後のことで、そのときには、各自勝手に柔い土の處に一塊として産むのである。「なめくぢ」の交接も全くこれと同樣である。
[やぶちゃん注:『膣の出口に近い處、即ち相手の陰莖の入り來る處の傍に一つの嚢があつて、その中に「戀愛の矢」と名づける鋭く尖つた針が藏まつてある』私は陸産貝類は守備範囲でないため、この「恋矢(れんし)」という特殊器官について、今回、初めて知った。調べて見れば、実に不思議な器官であることが分かって大いに勉強になった。学術的な記載が苦手な方には「所さんの目がテン!」のライブラリーにある「刀も平気!? カタツムリ 第885回 2007年6月3日」の中に、短いが、写真入りで分かり易く書かれている。ここでは、私の所持する参考書の中で最もまとまって恋矢について記載がある「日本動物大百科 無脊椎動物」(日高敏隆監修/奥谷喬司・武田正倫・今福道夫編集委員/平凡社一九九七年刊)の黒住耐二氏の執筆になる「陸生巻貝類」の項の、「針で突きあう交尾」の章を引用しておきたい(コンマ・ピリオドを句読点に代えた。読みは底本ではポイント落ちである。下線部はやぶちゃん)。
《引用開始》
雌雄異体の前鰓類、雌雄同体の有肺類とも、交尾による生殖を行なう体内受精である。前鰓類では、オスがペニスをもち、メスの生殖孔に挿入する。雌雄同体の有肺類でも、生殖器官にオスの部分とメスの部分があり、互いにペニスを相手の生殖孔に入れて、交尾が行なわれる。また、オカミミガイ類では、雌雄の生殖孔は別々に開口しており、数個体がつながる連鎖交尾を行なうことも確認されている。
交尾に至る前に、ミスジマイマイ類などでは、木の幹などで、頭瘤(とうりゅう)と呼ばれる頭部の一部分をふくらませている光景が見られる。2個体が遭遇すると、オナジマイマイなどでは、互いに相手の触角や頭部をふれあわせたり、相手の体をかじったりするようなディスプレイ行動を1時間ほどのあいだに何回もくりかえし行なうのが見られる。このあとに、頭部を向きあわせる形で静止し、ペニスが挿入される。同時に、恋矢(れんし)という石灰質の数㎜程度の針形の器官で交尾相手を弱く突き刺す。この恋矢による突き刺しの行動は、交尾行動の刺激となると考えられている。恋矢は、オナジマイマイ科の種には存在するが、かならずしも有肺類すべてに存在するわけではない。
また、同属の種間交尾も時には飼育条件下で見られており、ニッポンマイマイとヒメタマゴマイマイの例では、一方が交尾後死亡したことが観察されている。
野外における交尾の時期は、オナジマイマイやウスカワマイマイでは春と秋にピークをもつことが知られ、とくに後者では冬眠から覚醒(かくせい)後すぐに交尾が観察されている。1日のうちでは、前者が黄昏(たそがれ)時、後者が午前中に行なうという相違もある・
有肺類は雌雄同体であるが、ほとんどの種は他家受精を行ない、わずかな種のみが自家受精をする。ナミコギセル、ナメクジ、オナジマイマイ、ウスカワマイマイなどで自家受精が確認されている。このうち、ナミコギセルとナメクジでは、自家受精個体の産卵(産仔)数は他家受精個体と大きく変わらないようである。一方、オナジマイマイとウスカワマイマイでは、自家受精個体の産卵数はいちじるしく減少することが知られている。
《引用終了》
ウィキの「カタツムリ」には、『リンゴマイマイ科やオナジマイマイ科など一部のグループでは生殖器に恋矢(れんし)と呼ばれる石灰質の槍状構造を持ち、交尾の際にはそれで相手を刺して刺激することが知られている。またオナジマイマイ科やニッポンマイマイ科では、生殖期に大触角の間の「額」の位置が盛り上がって瘤(こぶ)状になっているのが見られることがある。これは頭瘤(とうりゅう)と呼ばれるもので、性フェロモンを分泌すると考えられている』とあり、「いろいろな形の恋矢(れんし)とその断面」の画像が示されている(リンク先は同精密画像)。なお、英語版ウィキにはちゃんと“Love dart”のページがあり、そこには学術用語かとも思われる“gypsobelum”という呼称も示されている。]
[「かたつむり」の交接]