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2013/06/27

大橋左狂「現在の鎌倉」 22 / 了

 逗子 蘆花氏が小説不如歸(ほとゝぎす)を著して以來、逗子の名は一度にどつと擴がつて、只に自然の風致や、天然の艮氣温に富んだと云ふのみでない、川島武夫と浪子との情緒の密なりしを想ふと共に又如何に悲哀の歷史を作りし浪切不動を探るべく此逗子ケ濱に杖を曳くものは、鎌倉に劣らぬ程數多いのである。鎌倉驛より横須賀線を東に進む約十分間にて、逗子驛に達す。停車場前には常に數十輌の人力車が倂立してゐる。此外尤も安直に便利な數臺の乘合馬車が、列車の着驛毎に、葉山方面と金澤方面とに發車する、俗に「ガタ馬車」と云ふが中々に重寶である。

[やぶちゃん注:「蘆花氏が小説不如歸を著して以來」徳富蘆花の「不如帰」は明治三一(一八九八)年から翌年にかけて「国民新聞」に掲載され、明治三三(一九〇〇)年一月に民友社から初版が出て以来、本書刊行の三年前の明治四二(一九〇九)年三月には百版を重ねた。その後は民友社版だけでも五十万部を突破、日露戦争が始まった明治三七(一九〇四)年には早くもアメリカとイギリスで同時に英訳本“Nami-ko”も出版されている。参照した個人ブログ「古書の森日記 by Hisako 古本中毒症患者の身辺雑記」の「世界に羽ばたいた日本のヒロイン(1)」Hisako 氏は、『それほど日本で売れに売れた『不如帰』は、世界のさまざまな言語に翻訳されている。おそらく、日本の古典を除く(明治当時の)“現代文学”の中で、最も早く外国でも読まれたのがこの『不如帰』ではないか』と述べておられる。]

 又七月一日より運轉を開始したる湘南遊覽自働車は、目下逗子・葉山間、逗子・金澤間を運轉してゐる。遊覽避暑地は兎角に交通不便の地多きを感ずるに、此地に於てかゝる完全なる交通機關を見るのは同地發展の爲め大に喜ぶべき事である。而して此乘合自働車は六人乘りで末々は三浦三崎の半島は勿論、藤澤、鎌倉、戸塚、厚木邊にまで延長するとの事である。

[やぶちゃん注:「自働車」はママ。

「湘南遊覽自働車」不詳。ウィキの「神奈川中央交通」の創業期の項に、二〇〇九年現在の神奈川中央交通が主な営業エリアとしている神奈川県中央部に乗合自動車が走り始めたのは、明治四三(一九一〇)年に佐藤某が設立した合資会社による、厚木と平塚を結ぶ幌つき自動車による路線の開設に端を発するとあり、これに続くように、翌明治四四年には相陽自動車が車両三台で秦野と平塚を結ぶ路線の運行を開始している。しかし、乗合馬車や人力車の方が安かったことや、道路が悪く運転技術も未熟だったことなどから、いずれも一年程度で廃業となっていると記されている。営業域は一致しないが、本書の刊行が明治四五年である点では、すこぶる共時的ではある。]

 逗子停車場を降りて、鎌倉銀行支店前を右折して進めば丁餘にて逗子郵便局がある。郵便局前を右に進めば田越村久木を經て名越隧道より鎌倉に至るのである。更に左に進めば玆處は葉山を通じて三崎に至る往還である。此逗子局前を過ぎて進む事三丁餘にて雪白に塗り上げられた田越橋がある。此橋下を流るゝのが、實に懷古に堪へない田越川である。

 田越川は沼間、池子より流れ來つて、旗亭養神亭前に至りて、海に注ぐのである。小松三位中將維盛の嫡男六代御前が、文治元年秋、北條時政に捕へられて、危く斬り果たされんとしたるを、文覺上人に依つて助けられ、剃髮して、高雄の奧にをはしけるを鎌倉殿に召し捕へられ、此田越川のほとりにて、あたら命を害されて草葉の露と消へられたのである。今尚ほ此川のほとりに六代御前の墓と刻まれた碑ある塚がある。

 田越橋を渡りて川に沿ふて進む數丁、右に富士見の假橋を渡れば、逗子灣に面せる宏壯なる建物がある。之れ即ち同地有數の旗亭養神亭である。

 現在二千餘坪の庭園は、逗子の風光を獨占して、自然の風致到らざるなく、當さに園遊會場として、湘南唯一の好適地であらう。旗亭に登りて巾廣き廊下を傳ひ、淸洒たる海水温浴場を左に見て進めば、玆處は同亭獨特の百疊座敷である。入口階段の左に幹事室あり、正面大廣床に相對して、演藝舞臺の設備等萬事に就きて行屆いてゐる。

 殊に純日本式で廻廊悉く玻璃障子にて東は田越川を隔てゝ、蜒々たる櫻山を望み西廊下に出づれば、廣漠たる大庭園を前にして、烟波漲る相模洋に面し、右は突出せる大崎ケ鼻を隔て、近く江の島の翠黛を指顧の中に眺めて、遙かに富峯の寛容を仰ぎ、左には鳴鶴ケ崎を界して、遠く雲間に翠色烟波と相映ずる大島を見て、眞に一幅の畫圖の樣である。尚ほ避暑避寒に適する樣にと種々なる嗜好を凝した各種の間取りを爲し、就中娯樂場として玉突場、蓄音機其他の餘興機關の具備してあるのは申分がない。

 盛夏期に到れば庭先に沿ふたる白砂に數箇の脱衣場が設けられ、海上には救護舟を浮べて海水浴客の便を圖つて居る。養神亭前を經て更に進む三四丁餘左は櫻山に沿ひ右に田越川の川口を隔てゝ大崎ケ鼻、浪切不動等を見て、だらだらと切通しの小坂を登り詰めて、左り海岸に下れば玆處は鳴鶴(なきつる)ケ鼻と云ひ、右に平田男の別莊を見て左側に旅館日蔭の茶屋がある。此邊より葉山の部落に入るのである。

[やぶちゃん注:完全無欠の養神亭タイアップである。]

 逗子附近には、小坪に住吉城址がある。永正年間上杉顯定の家老長尾爲景が、主顯定を課せんとて薮旗を飜した時、北條早雲が聲援して此城に降した事があると傳られてゐる。沼間には天臺宗の神武寺がある。

 葉山 逗子と相幷んで避暑避寒の好適地である。殊に一帶の長汀曲浦は或は平沙連りて潔く、或は奇巖突出して激浪を嚙んで白沫煙ると思へば、碧波洋々として碧瑠璃のそれの如きあり、且つ江の島を前にして魏然として雲表に資ゆる富嶽を眺めて眞に得も言難き自然の絶景である。此自然の風光に富んで居る其上に冬期は暖かに夏期は涼しいと言ふのであるから、朝野の貴顯紳商の此地に來り、或は淸洒に或は宏壯に思ひ思ひに山手と言わず海岸と言わず各々地を撰んで續々別莊の建築を見るのも無理はない。實に御用邸を此地に選ばれ、畏くも御避暑に御避寒に年々歳々御行啓あらせらるゝを拜するこそ眞に葉山の光榮なれ。

 葉山の舊蹟 字堀の内に至り森戸橋を渡れば右に大理石に疊まれた大鳥居がある。即ち森戸神社である。境内は頗る眺望絶佳にて千貫松、腰掛松、高石等がある。又鎧橋の海岸に鎧摺(よろひづり)城趾あり。上山口には猪俣範綱の碑木古庭畠山には畠山六郎重保の城趾がある。

[やぶちゃん注:底本には、最後に『(別荘一覧以下省略)』とあって終わっている。]

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