大橋左狂「現在の鎌倉」 13 建長寺
建長寺 北條時賴の建立で宋の大覺禪師の開山である。圓覺寺と相倂んで鎌倉時代に於ける新佛教禪宗の創立地である。寺域五千二百餘坪總門を入りて建長興國禪寺と題せる額高く聳ゆる山門を通れば、玆には佛殿がある。佛殿格天井の群鳥畫は狩野法眼の筆、欄間の天女は左甚五郎の名作彫刻物である。時賴公自作の自己の衣冠束帶の木像もある。之れは同寺の國寶となつて居る。殿の左倉庫に賴朝公の富士の牧狩に用ゐた直徑六尺の太鼓と鐘がある。一打千里に轟くとの評判だが敢て千里は響くまいが三里餘方は大丈夫轟く樣に信ぜられる。佛殿の前に七株の白槇及び蓮花の銅盤等があつて一層懷古の念に堪へざらしむるのである。佛殿より法堂庫裡、龍王殿を右に眺め左に學林、廣德院〔、〕龍華院、大源院、佛國々師墓を見て寶藏を右折すれば斜坂に數戸の茶店が軒を幷べてある。そうして黄ばみ走つた妙聲を張り擧げて參詣者に便利を與ふべく、晝餐の用意や草履を召せと勸誘して居る。茶屋前を上れば數百の櫻樹を植付けられた大廣場に出る。前には仰ぎ見る雲間に幾百と數へ切れぬ石段がある。此石段の登り詰めに半僧坊社が鎭座して其奧の院迄は尚ほ一層高くなる。毎年二月の節分には年男の豆撤する追儀式が行はれる。毎月十七日は其緣日なので數萬の善男善女が參詣する。此南の奧院に上りて眺望すれば鎌倉の山水、相模灘の風光が一時の中に早められて實に絶快と絶叫するより外はない。
[やぶちゃん注:「〔、〕」は私が補った。この半僧坊の描写、私のテクストを熱心にお読み戴いている方は、デジャヴがあろう。あの大和田建樹の「散文韻文 雪月花」の「汐なれごろも」が如何に名文であったかがよく分かるのである。]
« 栂尾明恵上人伝記 36 小賢しい連中が世にみちみちて心を養う人はもういない…… | トップページ | 本日閉店 (附 僕が「会う」と書かず「逢う」と書く理由) »