山吹や笠にさすべき枝の形 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)
山吹や笠にさすべき枝の形(なり)
芥川君の愛誦して居た句であり、同君の詩の一行にも歌はれて居る。前の「寂しさや」の句と同巧同趣のもので、仄かに漂泊とした旅愁にあはれさを感じさせる佳句である。蕪村が主として萬葉集から學んで居るに反し、芭蕉のかうした句が、新古今の幽玄體から學んでることに注意すべきである。
[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」より。『以下芭蕉の句の中から僕の愛吟するもの若干を評釋しよう。』とある二句目の評釈。「同巧同趣」の「巧」はママ。
『前の「寂しさや」の句』とは、この直前で鑑賞している「寂しさや華のあたりのあすならふ」を指す。
「芥川君の愛誦して居た句であり、同君の詩の一行にも歌はれて居る」とは、
山吹
あはれ、あはれ、旅びとは
いつかはこころやすらはん。
垣ほを見れば「山吹や
笠にさすべき枝のなり。」
を指す。この詩はこの詩は、龍之介自死の直後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された(但し、もともとの掲載予定原稿)「東北・北海道・新潟」に以下のように現われ、萩原朔太郎が見たのは、恐らくはこの時であろうと思われる。
羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」
あはれ、あはれ、旅びとは
いつかはこころやすらはん。
垣ほを見れば「山吹や
笠にさすべき枝のなり。」
ただ、この詩自体は大正一一(一九二二)年五月に書かれたものとする情報がある(私の「芥川龍之介詩集」の当該詩の注を参照)。
なお、この「芭蕉私見」は、後に「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に附録として載るが、その際、朔太郎はこの『僕の愛吟するもの若干』の評釈部分を大々的に総て書き換え、これも以下のように大きく改稿している。そこでは龍之介云々のパートは削除されてしまった。
山吹や笠に挿すべき枝の形(なり)
ひとり行く旅の路傍に、床しくも可憐に咲いてる山吹の花。それは漂泊の芭蕉の心に、或る純情な、涙ぐましい、幽玄な「あはれ」を感じさせた。この山吹は少女の象徴であるかも知れない。あるいは実景であるかも知れない。もし實景であるとすれば、少女の心情に似た優美の可憐さを、イマヂスチツクに心象しているのである。蕭條とした山野の中を、孤獨に寂しく漂泊して居た旅人芭蕉が、あはれ深く優美に咲いた野花を見て、「笠に挿すべき枝のなり」と愛(いとほ)しんだ心こそ、リリシズムの最も純粹な表現である。
評釈はより評釈らしくはなっているが、龍之介へのオマージュが消えたことに加えて、私に言わせれば、言わずもがなな、『この山吹は少女の象徴であるかも知れない。あるいは実景であるかも知れない。もし實景であるとすれば、少女の心情に似た優美の可憐さを、イマヂスチツクに心象しているのである』という部分など、語るに落ちたと言いたくなるような、今どきの凡百の鑑賞書にありがちな、「評釈のための評釈」という気がして、すこぶる厭な感じがする。]