大橋左狂「現在の鎌倉」 14
建長寺を西に進めば民家軒を並ぶる山の内である。約二丁餘にして左に登るべき小坂路(せうはんろ)がある。此を登れば龜ケ谷(やつ)坂で、要山香風園は此上にある。尚ほ歩を進めて漸次降れば温泉米新亭及養氣園がある。龜谷坂上り口の角建長寺總門より丁餘の手前に臨濟宗關東十別の第一長壽寺がある。足利尊氏の建立に係り往時は頗る大寺であつたそうだ。西の山際には尊氏の塔がある。長壽寺を出でゝ西に進めば右方に廣漠たる小丘の畠を見るであらう。此處は名にし負ふ上杉管領の屋敷趾にて、當時上杉管領も權勢の鬪爭より、山の内、扇ケ谷の兩上杉に分れ相矢簇した事がある、即ち山の内上杉家の舊趾である。今尚ほ此邊の村落は山の内と稱されて居るのも因緣深き思出の種となるのである。龜ケ谷を登つて東南の小丘は一帶扇ケ谷上杉家の館趾である。上杉定正の屋敷は此處に在つたのである。扇ケ谷上杉とし云へば誰人も先づ此時代に於ける、關東の偉傑、文武兼備の勇將たる、而かも武將に稀なる歌道に堪能なる太田持資入道道灌を想出すであらう。今尚ほ扇ケ谷英勝寺の山麓に道灌の邸跡がある。
[やぶちゃん注:「米新亭」先に引いた浪川幹夫氏の『「三橋旅館」について その1』に香風園近くにあった鉱泉旅館とある。
「養氣園」不詳。識者の御教授を乞う。書き方からは米新亭と同様の鉱泉旅館と読める。
「上杉定正」による太田道灌謀殺については、「鎌倉攬勝考卷之八」の歴代管領の「上杉民部大輔顯定」の条及び私の注を参照されたい。]
山の内上杉管領屋敷蹟を右に見て進めば、之れより明月院に行くとの指導標がある。此處を右折すれば明月院に至るのである。明月院も長壽寺と倂んで關東十刹の一に數へられてあるのだ。此寺寶として見るべきものは、上杉重房の衣冠束帶の木像、時賴の泥柵(でいさく)等である。當寺の境内には時賴の墓がある。再び通りに戻つて大船・戸塚・横濱に至るの街道を進めば左に鎌倉五山の第四位にて師時の建立に係る淨智寺が鬱蒼たる松杉の林内に寂しく古の面影を殘して、頗る廢頽して見ゆるのは遺憾である。此より一丁餘に靑色塗りの鐵柵を廻らして土地柄珍しきハイカラ式の門構へした寺院が左の高丘にある。之れぞ有名なる古刹、尼寺の名響く松ケ岡東慶寺と云ふ、後醍醐皇女用堂和尚の墓、秀賴息女天秀和尚の墓は玆處(ここ)にある。
[やぶちゃん注:「泥柵」塑像のことだが、ちょっと見かけない語である。「柵」は木や竹を組んだ矢来の意味があるので、そうした竹木を骨格として粘土で作った泥塑の像の意味であろう。]
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