この秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)
この秋は何で年よる雲に鳥
老の近づくことは悲しみである。だが老年にはまた、老年の幽玄な心境がある。老いて宇宙の神韻と化し、縹渺の詩境に遊ぶこともまた樂しみである。空には白い雲が浮び、鳥は高く飛んでるけれども、時間は流れて人を待たず、自分は次第に老いるばかりになつてしまつたといふ咏嘆である。「何で年よる」といふ言葉の響に、如何にも力なく投げ出してしまつたやうな嘆息があり、老を悲しむ情が切々と迫つて居る。それを受けて「雲に鳥」は、前のフレーズと聯絡がなく、唐突にして奇想天外の着想であるが、そのため氣分が一轉して、詩情が實感的陰鬱でなく、よく詩美の幽玄なハーモニイを構成して居る。かうした複雜で深遠な感情を、僅か十七文字で表現し得る文學は、世界にただ日本の俳句しかない。これは飜譯することも不可能だし、說明することも不可能である。ただ僕らの日本人が、日本の文字で直接に讀み、日本語の發音で朗吟し、日本の傳統で味覺する外に仕方がないのだ。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「鄕愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」の掉尾に配された鑑賞文。但し、『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なる。
この秋は何で年よる雲に鳥
室生君が推賞して、芭蕉句中絕唱とするものである。「雲に鳥」といふイメーヂは、前の言葉から聯絡がなく、實に奇想天外の着想であり、しかもよく漂渺幽玄の詩想を構成して居る。まことに名人の神品といふ感じである。
「漂渺幽玄」の「漂」はママ。「縹」が正しい。]