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2013/06/02

耳嚢 巻之七 老僕奇談の事

 老僕奇談の事

 

 本郷信光寺店(たな)、又古庵(こあん)長屋抔といへる片□町有て、予親族山本某も彼側(かのそば)に住(すみ)けるが、文化貮年の春、右町に三河屋といへる質店(しちだな)有(あり)し。夫(それ)が元に年久しく仕へて年比(としごろ)五十餘になれる僕ありしが、甚だ實體(じつてい)にて數年私(わたくし)なく仕へ、主人もあわれ成(なる)者に思ひけるが、文化元の暮か同貮の春か、右邊に聊(いささか)出火ありて一兩軒燒失せし。彼(かの)老僕其(その)以前此邊火災あるべし、彼僕三河屋抔は氣遣ひといへるを、傍輩なる者嘲り笑ひし事有しが、果して火災ありしが、彼僕三河やは氣遣ひなき間、諸道具片付るに不及迚(およばずとて)制しゝが、間もなく火も靜まりて、三河やより無程(ほどなく)盜賊火付改勤ける戸川大學に、右僕被捕糺(とらへられただし)もありけれど、素よりなせる惡事もあらざれば無程(ほどなく)ゆるし返されけると也。彼(かの)僕常に二階に臥(ふせ)りけるが、夜更(よふけ)て人と物語り抔する事の氣(け)しき度々有しをあるじもきゝ、いかなる事と尋(たづね)けるに、そこつにいわざりしが切に尋ければ、誰(たれ)も名はしらず、山伏やふの人來りて物語抔する事有(あり)、我(われ)年若(わかく)ば召連(めしつれ)て諸國を見すべけれど、老人なれば其事ももだしぬと、懇意に色々咄し抔なせる。火事の事も彼(かの)やま伏の語りしと申(まうし)ける故、左あらば重(かさね)て右の客仁(きやくじん)來らば我等も引合(ひきあはせ)よと、若き手代抔懇望をなせど、右客仁に不聞(きかず)しては難成(なりがたし)とて、其元(そこもと)たちは如何と、其後客仁に逢しに、決(けつし)て他人は逢事難成(あふことなりがたし)、其方(そのはう)は見る處ありてかくかく物語れども、人には猥りに沙汰なすなといへる也迚斷りしが、其後は如何成りしや不知(しらず)と語りぬ。一説に、右近邊に屋しきの内、狸の怪ありし事あり。右狸のいたづらにやあらんと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:孰れも火付盗賊改方が実名で登場する話で連関する。この文、何だか、無駄な繰り返しが多く読みづらい(錯文のようにも思われる)が、すっきりしたカリフォルニア大学バークレー校版を参考にしながら、くどくならぬように意訳を添えながらなるべく底本全文を訳すように心掛けた。

・「信光寺」真光寺の誤り(訳では訂した)。この寺は戦後に世田谷に退転して同地にはないが、桜木神社や本郷薬師を境内に持っていた大きな古寺で、現在の真砂町の「真」はこの寺の名をとったもの、とウィキの「ノート:本郷(文京区)」の記載にはある。底本の鈴木氏注には、『天台宗。薬師堂があり、本郷の薬師と呼ばれて有名だった。同寺と小笠原佐渡守中屋敷との間に、古庵屋敷と呼ばれた所があった。幕府の御寄合医師余語古庵拝領の地で、その一部が町屋となったもの。文京区真砂町に属する』とある。

・「古庵長屋」菊坂の与太郎氏の「本郷の回覧板 『昔空間散歩の薦め』」というサイトの『「小笠原佐渡守屋敷跡Ⅲ」補完編』に、「東京名所図会」の「余語古庵屋敷」に、これは寄合医師余語古庵の先祖が宝永元(一七〇七)年に幕府から賜った物で総面積約四二六坪の内、半ばを住地、残りを町屋敷として、同年中に町奉行の支配に属してより「本郷古庵屋敷」と唱えるようになった、と記す。リンク先には詳しい旧古庵拝領屋敷の同定・現在地の画像、更には古庵の墓の写真までも拝める。必見。なお、そこにも記されているが、彼の名は森鷗外の「伊沢蘭軒」の「その六十三」に『余語(よご)氏は世(よゝ)古庵の號を襲(つ)いだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。當時の武鑑には、「五百石、奥詰御醫師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある』と載る。なお、ちょっと吃驚したが、不動産会社「ジェイ・クオリス 東京賃貸事情」のサイトにも古庵屋敷」の解説が載っており、『[現]文京区本郷四丁目』『本郷二丁目代地の西に位置し、本郷三丁目の北で中山道から西に折れる通りの北に沿う片側町。北は寄合医師余語古庵の屋敷、通りを挟んで南は久保長貞の屋敷と早川蔵人の屋敷、西は肥前唐津藩小笠原家の中屋敷。宝永元年(一七〇四)に余語古庵の先祖が拝領した地(四二六余)のうち、二四七坪余を町屋としたのが当町で、当初から古庵屋敷とよんで町奉行支配であった(御府内備考)。文政町方書上によれば、町内は東西の表間口が一九間余、南北は東側が二〇間余、西側が一一間余。家数九、うち家守一・地借六・店借二。公役は三人役を勤めた。本郷真光寺(ほんごうしんこうじ)門前と同様、俗に御弓(おゆみ)町ともよばれた。明治二年(一八六九)本郷真砂(ほんごうまさご)町となる』という堅実な考証記事が載っているのであった。侮れない! 凄い!

・「片□町」底本には右に『(側カ)』と傍注、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にも『片側町(かたかわまち)』とする。それで採った。「片側町」は一般名詞で、岩波の長谷川氏注に『道の片側だけ家並がある町』とある。

・「文化貮年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、比較的新しい都市伝説である。

・「間もなく火も靜まりて、三河やより無程(ほどなく)盜賊火付改勤ける……」脱文が疑わられる。カリフォルニア大学バークレー校版では『まももなく火も鎮(しずま)りて、三河屋は無難なりける。盜賊火付改(ひつけあらため)を勤(つとむ)る』と続く。ここはバークレー校版で採る。

・「戸川大學」底本の鈴木氏注に、『寛政当時の戸川大学は逵旨(ミチヨシ)。八年(四十八歳)家督、戸川逵旨(みちよし)。八年(四十八歳)家督、千五百石。十年、中奥番士から御徒頭に転じている』とあり、岩波の長谷川氏注には、同人として『文化元年(一八〇四)三月先手鉄砲頭、同五月当分火付改加役御免』とある。

・「そこつに」は軽はずみなにも、軽率なことに、また、失礼にも、の謂いであるが、ここは簡単には、といった意味であろう。失礼なことに、ではきつ過ぎる。

・「もだしぬ」「默しぬ」で、口をつぐむ、黙る、又は、黙って見逃す、そのままに捨ておく、の意。

・「右客仁に名聞しては難成」の「不聞」は底本では「名聞」だが、これでは読めない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『不聞』を採った。しかも、ここも文章の繋ぎが頗る悪い。バークレー校版では、

「右客仁に不聞(きかず)しては難成(なりがたし)」とて、「其後客仁に聞しが、決(けつし)て外人は逢ふ事は難成。其方(そのほう)は見る所ありて斯物語(かくものがたれ)ども、人には猥(みだ)りに沙汰すべからず」と斷りしが、

と至って問題がない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老僕の奇談の事

 

 本郷真光寺店(だな)、一般に古庵長屋(こあんながや)などと称しておる片側町(かたがわまち)があって、私の親族である山本某(ぼう)もそのごく近くに住んでおる。

 文化二年の春のことであった。

 その町屋に三河屋と申す相応の商売をなしておった質屋が御座った。

 その店の使用人に、永年仕えた、年の頃、五十余歳にもなろうかという下僕(しもべ)があったが、はなはだ実直なる者にて、特にこの数年は、下僕の鏡の如、私(わたくし)なく仕えて内外の評判もよく、三河屋主人(あるじ)も、この下僕、初老ともなったれば、殊の外、目を掛けて御座ったと申す。

 さて――この辺りが記憶があやふやなのじゃが――その前年の文化元年の暮れのことであったか――それとも直近の同二年の、その直前の春のことであったか失念致いたのじゃが――その辺りにて、いささか、出火のことあって、左右二軒ほどが全焼致いたことが御座った。

 その折り、かの老僕――まずは火事騒ぎの起こる、それより前のある日のこと、

「……この近くにて近々、火事が、これ、ありそうじゃ。……我らのご主人さまのお店(たな)など、何とも心配なことじゃ……」

と呟いて御座ったのを、傍輩が小耳に挟んで、

「何ぃ? 火事じゃ? 阿呆か! 縁起でもない!」

と嘲り笑(わろ)うたことがあったと申す。

 暫く致いて、はたして向こう三軒先の店(たな)より火が出でたが、その折には、今度は老僕、

「……へえ! この三河屋へは延焼の気遣い、これ、御座(ぜ)えやせん。されば、諸道具など、片付けも及びませぬ。――」

と、慌てふためく家内の者どもを、逆に制して御座った。

 が、はたして間もなく火も鎮まり、三河屋へは火の粉も降り懸からずに無難に済んで御座った。

 この言動が如何にも怪しいと誰彼が噂致いて、ほどのう、火付盗賊改方をお勤めになられて御座った戸川大学殿のお耳へも、これ、届き、かの老僕、一応、召し捕えられて御取調べの儀、これ、御座ったれど、もとより、その二つの言動以外には、何の不審なることも、これ、御座なく、だいたいからして、火付けの嫌疑もなし、何か、この火事に乗じて他の悪事をなそうした形跡も御座らなんだによって、じき、許されて三河屋へと無事に戻ったと申す。

 この下僕、常に三河屋の二階の一室を寝所と致いて御座ったが、夜も更けて後、その部屋の辺りより、何やらん、誰かと物語りなどするような声や気配が、これ、たびたび御座ったによって、また、三河屋主人(あるじ)も実際にその不思議なる会話をしばしば聴いて御座ったれば、

「……夜更けの二階のことなれば、寝言か何かなら、これは、どうということもないが……どうもそうは聴こえぬ。……どういうことじゃ?」

と質いたが、なかなかはっきりとは申さぬ。

 よほど、何か隠しているものとみた主人(あるじ)が、少しきつうにしきりに糺いたところ、

「……その……誰(たれ)とも名は存じませぬが……山伏の様なる御仁が、時に夜中に儂(あっし)の部屋へ参りやす。……そうして、その御仁とは……まあ、その……いろいろと物語なんど、致すことも御座(ぜ)えやす。……その山伏の曰く、

『……そなたが年若であれば、召し連れて諸国の面白きことなんども大いに見せること、これ、出来るのじゃが。まあ、そなたも大分な老人なれば、の。……そんな無理を言うも憚られる。……されば仕方のぅ、ちょいと面白き話をするばかりじゃ。』

と、昵懇に色々と話しなど致しやすんで。……先般の火事のことも……これより、いつ頃、何処其処で火事が起きそうじゃ、とか……その火事は何処其処まで焼け広ごれども、誰それの屋敷までは類焼に及ばぬ、とか……その山伏の語って御座(ぜ)えやしたことで……。」

と申したによって、傍らで聴いて御座った店の手代の若い衆などが、

「――そんなら、また、その客人が来たならば、どうぞ、我らも是非に、引き合わせておくんない!」

と、面白半分、我も我もと懇望致いた。

 すると老僕は、

「……いや、それは……かの客人に伺ってみないことには、難しゅう御座る。」

とのことであった。

 暫く致いて、老僕が若い衆に言うたことには、

「……実は昨晩、かの山伏の参って逢(お)うたによって、

『其元(そこもと)らと逢(おう)うて貰(もろ)うて、法力によって自在に諸国漫遊なんどさするは、これ、如何(いかん)?』

と切り出してみたところが、

『決して下々の者どもと逢(お)うことは、これ、あってはならぬことなのじゃ。……その方儀は、これ、老人ながら……特に見どころのある者じゃったによって、逢いもし、またいろいろなことも教えはした。……が……向後は、我らがこと……濫りに他人に喋ったりしてはならん!……』

ときつう言われたによって……だめや。――」

とのことで御座った由。

   *

 その後、この老人がどうなったかは、とんと、聴いては御座らぬ――とは、私の知れる者の語って御座った話。

 その者の付け加えた一説に――かの古庵長屋近辺の別な屋敷内には、何でも、狸の怪が、これ、あったとのこと――されば、その山伏とやらも――実は――その狸の悪戯にては御座るまいか――とのことで御座った。

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