文學の本質問題/詩人風の作家 萩原朔太郎
●文學の本質問題
人が自分の中に居る感傷家や、甘たるい純情家や、子供らしい理想主義者(イデアリスト)や、熱し易い感激主義者(パツシヨニスト)や、それから特に、言葉がすぐ韻文的に舞いあがつてしまふやうな、詩人風の浪漫主義者(ロマンチスト)やなどに反感して、自分の中の稚態を憎み、自分の詩人を虐殺してしまはうと考へる時、彼等は初めて一人前の小説家になり、眞實の散文家として、レアリズム文學の出發點に立つのである。
レアリズム文學の本質は、不幸にも我が國の文壇で、常に誤つて考へられてゐる。文學者に於けるレアリスチツクの精神とは、世間ずれのした俗物意識や、そんな點での經驗から、苦勞人の物解り好さを誇ることや、別してまた茶飮話の退屈さで、感動もなく熱情もなく、人生を身邊雜記的に見ることの習得でもない。文學が意味する現實主義とは、詩的ロマンチシズムヘの反語であつて、或る冷酷な強い意志から、すべての生ぬるい陶醉を蹴り飛ばし、より寒冷な山頂へ登らうとするところの、文學に於ける鐵製の意識であつて、言わば抒情詩的(リリカル)のものに逆説する、他の別種の詩的精神に外ならない。
それ故に文學者は、彼が本質的にセンチメンタルの人間であり、詩人的殉情のロマンチストであればあるほど、逆にその一方では、彼自身に反撃する冷酷無情のレアリストとして、小説家の偉大な成功を克ち得るだらう。實際にまた、外國の多くの作家がその通りである。彼等のあらゆる典型的小説家とレアリストが、いかに殆ど例外なく、その若い時代に於て純情の詩人であつたかを見よ! 後に小説家となつてからも、その描寫のあらゆる確實な現實性と、殘酷にまで意地惡く見通してゐる眞實の把握の影で、いかにその詩人的情熱を高調し、時にまた隱しがたく抒情詩的(リリカル)でさへあるかを見よ!
一般に言つて、詩的精神こそは文學の本質である。すくなくとも氣質の上で、詩人的なる何物かを持たないものは、小説家にも戲曲家にも、斷然文學者たる資格がない。――餘はすべて俗物のみ。
●詩人風の作家
その抒情的精神だけを知つて、これに逆説する叙事詩的精神を持たないやうな文學者は、すくなくとも小説家として、最高の榮譽を保証し得ない。通例彼等は「詩人風の作家」と呼ばれる。そしてこの称呼は、必ずしも小説家にとって名譽でない。
[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「藝術に就いて」より連続する二章。芥川龍之介の死後のものであるが、私はここに萩原朔太郎が芥川龍之介の中に見ていたもの(若しくは錯覚していたもの、または詩の定義の自己合理化過程)が見えるような気がしてきている。]
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