芥川龍之介「河童」決定稿原稿 九 校正漏れの亡霊が無数に跳梁している!
■原稿79
九
[やぶちゃん注:5字下げ。本文は2行目から。
●この原稿には前章冒頭「■原稿69」同様、右罫外上方に赤インクで、
芥川氏つづき
とある。また、6行目上方罫外に、
80
という左上方のナンバリングと同じ数字(ノンブル)があるが、これは赤インクでなく本文とは微妙に異なるインクで書かれており、しかもそれが抹消線で消されて右(4~5行目上方罫外)に、
79
と訂されてある。このナンバリングと同じ手書き数字は、
109
まで続く。また、この頁の罫外ナンバリング・ノンブル「79」は20行目真上罫外上方と、やけに高い位置にあって、
ך
型のチェック(?)が右肩に入っている。その左に「改造よ印」のゴム印が打たれ、その直下(罫外左)に本文とは異なるインクによる、
改造よ印 79 より
と手書きで大書した文字が、ここははっきりと読み取れる(「■原稿69」の様態とコンセプトは似ている)。]
しかし硝子會社の社長のゲエルは人懷こい
河童だつたのに違ひありません。僕は度たび
ゲエルと一しよにゲエルの属してゐる倶樂部
へ行き、愉快に一晩(ばん)を暮らしました。それは
一つにはその倶樂部はトツクの属してゐる超
人倶樂部よりも遙かに居心(いごころ)の善かつた爲〈で〉*で*
す。のみならず又ゲエルの話は哲學者のマツ
グの話のやうに深みを持つてゐなかつたにせ
よ、僕には全然新らしい世界を、―――廣い世
■原稿80
界を覗かせました。ゲエルは、いつもの純金(じゆんきん)の匙
に珈琲(カッフエ)の〈コツプ〉*茶碗*をかきまはしながら、快活に
いろいろの話をしたものです。〈僕は〉
〈殊に〉*何でも*或霧の深い晩(ばん)、僕は冬薔薇(ふゆばら)を盛(も)つた花
瓶(くわびん)を中(なか)にゲエル〈と〉*の*話を聞いてゐました。それ
は確か〈《天井も壁も》→室〉*部屋全體は*勿論、椅子やテエブルも白
い上(うへ)に〈金(きん)〉*細*い金の緣((ふち)をとつたセセツシヨン風の
部屋だつたやうに覺えてゐます。ゲエルはふ
だんよりも得意さうに顏中(かほじう)に微笑を漲らせた
まま、〈《五六年前にこの国》→丁度その頃Quorax 〉*丁度その頃天下を取つてゐた Quorax 黨内閣のことなどを
[やぶちゃん注:この頁、異様に芥川自身によるルビが多い。
●「珈琲(カッフエ)」のルビの「ッ」は明らかに促音表記で有意に小さいが、無論、初出は同大である。現行新字新仮名表記では「カッフェ」である。]
■原稿81
話しました。クォラツクス〈黨と〉*と云*ふ言葉は唯意味
のない〈奇〉間投詞(かんたうし)ですから、「おや」とでも〈譯〉*譯*す外
はありません。が、兎に角〈自由主義を〉*何よりも先*に「河童
全体の利益」と云ふことを〈振〉標榜(へうばう)してゐた政黨だ
つたのです。
「クオラツクス黨〈か〉*を*支配してゐるものは〈あの〉
名高い〈ロツペ■〉政治家のロツペです。〈《ロツペは》→ビスマルクは〉*『正直は*最良の外交である』とはビスマルク〈■〉*の*言つた言〈葉〉*葉*でせ
う。しかしロツペは正直を内治の上にも及ぼし
てゐるのです。………」
[やぶちゃん注:
●1行目の「クォラツクス」の「ォ」は「ク」と同じマスの右下に有意に小さく書いているので、かくしたが、実際には6行目で普通に「クオラツクス」と表記しており、この1行目のそれはもしかすると「クラツクス」と脱字したのに挿入表記したものともとれる。]
■原稿82
「けれどもロツペの演説は……」
「まあ、わたしの言ふことをお聞きな〈■〉〔さ〕い。あ
の演説〈の譃〉は勿論悉く譃です。が、譃と云ふこと
〈を〉*は*誰でも知つてゐますから、畢竟正直と〈同?〉*変*ら
ないでせう。それを一概に譃と云ふのはあな
た〈方〉*がた*だけの偏見(へんけん)ですよ。我々河童(かつぱ)はあなた
〈《がた》→方〉*がた*のやうに、………しかしそれはどうでもよ
ろしい。わたしの話したいのはロツペのこと
です。ロツペはクオラツクス黨を支配してゐ
る、その又ロツペを支配してゐるものは〈フ?■〉
[やぶちゃん注:
●「畢竟正直と〈同?〉*変*らないでせう。」初出及び現行は、
畢竟正直と變はらないでせう、
と読点である。これは、当然、この原稿通り、句点でよい。これは明らかに校正漏れの亡霊が今日まで生き続けている証しである!
●末尾の抹消2字「〈フ?■〉」の最初は、恐らく「フ」と思われ、「プウ・フウ」という新聞名(若しくはそれに類した名)を当初カタカナ表記しようとしたものと、私は推理している。]
■原稿83
Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』と云ふ言葉もやは
り意味のない間投詞です。〈或は〉*若し*強いて訳(やく)すとすれば、『ああ』とでも云ふ外はありません。)社長
のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主
人と云ふ訣には行きません。クイクイを支配
してゐるものはあなたの前にゐるゲエルです。」
〈 「それは《―――どう失礼》→《僕には意外です。失礼 〉
「けれども―――これは失禮かも知れ〈ま?〉ませ
ん。けれども〈『〉プウ・フウ新聞は勞動者の味かた
をする新聞でせう。その社長のクイクイも
[やぶちゃん注:
●「訳(やく)すとすれば」初出及び現行は、
譯(やく)すれば、
である。これは、当然、この原稿通りでよい! これもまた明らかに校正漏れの亡霊が今日まで生き続けているおぞましき証しの一例ではないか!
●「けれども―――これは失禮かも知れ〈ま?〉ません。けれども〈『〉プウ・フウ新聞は勞動者の味かたをする新聞でせう。」特に指示しないが、ここ以下の三箇所は「勞動者」となっている(初出及び現行は「勞働者」に訂されている)。それよりもこの部分、初出及び現行は、
けれども――これは失禮かも知れませんけれども、プウ・フウ新聞は勞働者の味かたをする新聞でせう。
である。2箇所の相違に着目されたい。初出及び現行は原稿が二文であるのに、「これは失禮かも知れませんけれども」と一続きで「知れません」の後の句点が、ない! また、「けれども」の後の読点は原稿には、ない! 再度、台詞を総て整序して示そう。
【原稿の「僕」の台詞】
「けれども―――これは失禮かも知れません。けれどもプウ・フウ新聞は勞動者の味かたをする新聞でせう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けてゐると云ふのは、………」
【初出及び現行の「僕」の台詞】
「けれども――これは失禮かも知れませんけれども、プウ・フウ新聞は勞働者の味かたをする新聞でせう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」
一目瞭然! 否! 朗読してみたまえ! 極めて自然なのはどう考えても、『定本』の初出や現行の「河童」ではない! この原稿の台詞こそ、極めて自然な応答の台詞であることは言を俟たぬ! またしても校正漏れの亡霊の痙攣的な呪い以外の何ものでもない!]
■原稿84
あなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」
「プウ・フウ新聞の記者たちは勿論勞動者の味
かたです。しかし記者たちを支配するものは
クイクイの外はありますまい。しかもクイク
イはこのゲエルの後援を受けずにはゐられ
ないのです。」
〈僕は〉ゲエルは〈不相変〉*不相変*微笑しながら、純金の匙を
おもちやにしてゐます。僕はかう云ふゲエル
を見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウフ
ウ新聞の記者たちに〈何か〉同情の起るのを感じまし
[やぶちゃん注:
●「プウフウ新聞の記者たちに」はママ。「プウフウ」の間の「・」は、ない。校正で臥されたものであろう。]
■原稿85
た。するとゲエルは僕の無言(むごん)に忽ちこの同情
を感じたと見え、〈前よりも快活に〉*大きい腹(はら)を膨(ふくら)ませて*かう言ふの
です。
「何、プウフウ新聞の記者たちも全部勞動者
の味かたではありませんよ。少くと〈も〉*も*我々河
童と云ふものは誰の味かたをするよりも先に
我々自身の味かたをしますからね。………しか
し更に厄介なことに〈も〉*は*このゲエル自身さへ
やはり他人の支配を受けてゐるのです。あな
たはそれを誰だと思ひますか? それはわた
●「何、プウフウ新聞の記者たちも」はママ。「プウフウ」の間の「・」は、ない。ここも校正で臥されたものであろう。]
■原稿86
しの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」
ゲエルはおほ声に笑ひました。
「〈さう云ふ〉*それは寧*ろ仕合せで〈すね。」〉*せう。」*
「〈《仕合》→《或は》仕合せかも知れません〉*兎に角わたしは滿足してゐます〈よ〉*。しかしこれも
あなたの前だけに、―――河童でないあなたの
前だけに手放しで吹聽出來るのです。」
「するとつまりクォラ〈ク〉ツクス内閣はゲエル夫人
が支配〈の下(もと)に〉*してゐる*のですね。」
「さあ、さうも言はれますかね。………しかし
七年前の戰爭などは確かに或雌の河童の爲に
[やぶちゃん注:「クォラ〈ク〉ツクス」の「ォ」は前の「ク」と同マスの右下にある。脱字に気づいて後から書き入れた可能性もある。]
■原稿87
始まつたものに違ひありません。」
「戰爭? この国にも戰爭はあつたのです〈か〉
か?」
「ありましたとも。将來もいつあるかわかり
ません。何しろ鄰国のある限りは、………」
〈《僕は》→鄰国と云ふ〉僕は実際この時始めて河童の國〈に〉*も*國家的〈に〉孤
立してゐないことを知りました。〈■〉ゲエルの説
明する所(ところ)によれば、河童はいつも獺(かはうそ)〈と〉*を*假設
敵にしてゐると云ふことです。しかも獺は河
童に負けない軍備を具へてゐると云ふことで
■原稿88
す。僕はこの獺を相手に河童の戰爭した話に
少からず興味を感じました。(何しろ河童の強
敵に獺(かはうそ)のゐるなどと云ふことは「水〈考〉虎考畧(すゐここうりやく)」の著
者は勿論、「山島民譚志(さんたうみんたんし)」の著者柳田國男さんさ
へ知らずにゐたらしい新事実ですから。)
「あの戰爭の起る前には勿論両国とも油断せ
ずに〈相手〉ぢつと相手を窺つてゐました。と云ふの
はどちらも同じやうに相手を恐怖してゐたか
らです。そこへ〈或雌の河童が一匹(ぴき)〉*この國にゐた獺が*一匹(ぴき)、或河
童の夫婦を訪問しました。その又〔雌の〕河童〈の雌〉と
[やぶちゃん注:「山島民譚志」はママ。「譚」は「集」の誤り。校正で訂されたものであろう。]
■原稿89
云ふのは亭主を殺すつもりでゐたのです。何
しろ亭主は道樂者でしたからね。おまけに生
命保險のついてゐたことも多少の誘惑になつ
たかも知れません。」
「あなたはその夫婦を御存じですか?」
「ええ、――いや、〈雄〉*雄*の河童だけは知つてゐ
ます。〈その〉わたしの妻などはこの河童〈を〉*を*惡人のや
うに言つてゐますがね。しかしわたしに言は
せれば、〈寧ろ〉悪人よりも寧ろ雌の河童に摑まるこ
とを恐れてゐる被害妄想の多い狂人です。……
■原稿90
…そこでその〈獺は〉雌の河童は亭主のココアの
茶碗の中へ靑化加里を入れて置いたの〈で〉です。そ
れを又どう間違へたか、客の獺に飮ませてし
まつたのです。獺は勿論死んでしまひま〈■〉し
た。それから………」
「〔それから〕戰爭になつたのですか?」
「ええ、生憎その獺は勳章を持つてゐたもの
ですからね。」
「戰爭はどちらの勝になつたのですか?」
「勿論この国の勝になつたのです。三十六萬
■原稿91
九千五百匹の河童〔たち〕はその爲に健気にも戰死し
ました。しかし敵国に比べれば、その位の損
害は何ともありません。〈獺は〉*この*國にある毛皮〈の〉*と*
云ふ毛皮は大抵獺の毛皮です〈よ。〉。わたしも〈こ〉*あ*
の戰爭の時には硝子を製造する外にも〈《盛に《石》→消〉石炭殼
を戰地へ送りました。」
「石炭殼を何にするのですか?」
「勿論食糧にするのです。〈我々〉河童は腹さへ減れ
ば、何でも食ふにきまつてゐますからね。」
「それは―――どうか怒らずに下さい。それ
[やぶちゃん注:
●「〈《盛に《石》→消〉石炭殼」この部分は、「石」を消して書いた「消」の字が実際には抹消されていない。これは推測であるが、当初、芥川は決定稿の「石炭殼」をまず想起し、それを「消(し)炭」と書こうとしたのではなかったろうか?]
■原稿92
は戰地にゐる河童〈には〉たちには………〈《第一醜》この国では〉*我々の国*で
醜聞ですがね。」
「この國でも醜聞には違ひありません。しか
しわたし自身かう言つてゐれば、誰も醜聞に
はしないものです。哲學者のマツグ〈が〉*も*言つて
ゐるでせう。『汝の悪は汝自ら言へ。悪はおの
づから消滅すべし。』………しかもわたしは利益
の外にも愛国心に燃え立つてゐたのですから
ね。」
丁度そこへはひつて來たのはこの倶樂部の
■原稿93
給仕です。給仕はゲエルにお時宜をした後、
朗読でもするやうにかう言ひました。
「お宅のお鄰に火事がございます。」
「火―――火事!」
〈マツグ〉*ゲエル*は驚いて立ち
上りました。僕も立ち上つたのは勿論です。が、給仕は落ち着き拂
つて次の言葉をつけ加へました。
「しかしもう消〈え〉し止めました。」
ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑ひに
近い表情をしました。僕は〈その顏〉かう云ふ顏を見る
■原稿94
と、いつかこの硝子會社の社長を憎んでゐた
ことに氣づきました。が、〈今は ゲエル〉*ゲエルはもう今で*
は〈もう〉大資本家でも何でもない唯の河童にな
つて立つてゐるのです。僕は花瓶(くわびん)の中(なか)の〔冬(ふゆ)〕薔薇(ばら)
の花を拔き、ゲエルの手(て)へ渡しました。
「しかし火事は消えたと云つても、奧さんは
さぞお驚きでせう。さあ、これを持つてお帰
りなさい。」
「難有う。」
ゲエルは僕の手を握(にぎ)りました。それから急〔に〕
[やぶちゃん注:
●「〈今は ゲエル〉」ここ空欄3マス。ダッシュを引くつもりだったか?]
■原稿95
にやりと笑ひ、小声(こごゑ)にかう僕に話しかけまし
た。
「鄰(となり)は〈僕の〉わたしの家作(かさく)ですからね。〈保〉火災保險の
金だけはとれるのですよ。」
〈僕はこの時のゲエルの腹の満月のやうに張〉
僕は〈未だにこの時〉*この時のゲエル*の〈ゲエルの 〉*微笑を―――*輕蔑する
ことも出來なければ、憎惡〈を?〉*す*ることも出來な
いゲエルの微笑を未だにありありと覚えてゐます。
[やぶちゃん注:以下、一行余白。
●「〈ゲエルの 〉」空欄2マス。奇妙な線が抹消の波線の下に認められるが、芥川はダッシュは3マスであり、有意に反った奇妙な線でダッシュとは思われない。]