塚も動け我が泣く聲は秋の風 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)
塚も動け我が泣く聲は秋の風
芭蕉の悲哀は、宇宙の無限大なコスモスに通じて居る。蕭條たる秋風の音は、それ自ら芭蕉の心靈の聲であり、よるべもなく救いもない、虛無の寂しさを引き裂くところの叫である。釋迦はその同じ虛無の寂しさから、森林に入って出家し、遂に人類救濟の悟道に入つた。芭蕉もまた佛陀と共に、隣人の悲しみを我身に悲しみ、友人の死を宇宙に絶叫して悲しみ嘆いた。しかし詩人であるところの芭蕉は、救世主として世に立つ代りに、萬人の悲しみを心にはぐくみ、悲しみの中に詩美を求めて、無限の寂しい旅を漂泊し續けた。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」の掉尾に配された鑑賞文。私はこの評釈がすこぶる好きである。但し、『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なる。
塚も動け我が泣く聲は空の風
友人の追悼句ではあるけれども、實には芭蕉の魂が、宇宙の孤獨と寂寥に對して泣いてるのである。まことに芭蕉の悲哀は大宇宙に住むコスモポリタンの悲哀であつた。それ故に「塚も動け」といふ大きな皷張が切實な情想として表象されて來るのである。
「皷張」はママ。――書き直して遙かによくなってるね。――]]