大橋左狂「現在の鎌倉」 9 人力車
人 力 車
鎌倉の交通機關として尤も成功して居るのは人力車である。勿論鎌倉の交通機關の内には電話・電信・郵便等の官有はあるものゝ、此等は鎌倉の交通機關の例外として別段掲載するの要はない。今玆に尤も成功したる鎌倉の人力車に就て現在の活動振りを紹介するのも敢て無益でないと信ずるのである。鎌倉とし云へば一概に北は山の内、西は腰越・江の島附近も鎌倉である樣に承知する人も尠くない。然れども鎌倉と云へば別項にも記した通り雪の下、小町、大町、扇ケ谷、長谷、坂の下、由井ケ濱、極樂寺、材木座、二階堂、西御門、淨明寺、十二所の十三字を玆には指したのである。
現在鎌倉には人力車は幾臺あるか、輓子は何人あるかと、今此の營業者の取締りで玆に二十三年間熱心に鎌倉斯業界にて同業の發展獎勵に力め幾多の辛酸を嘗めて漸くに鎌倉現在の事柄の改良を見るに至つた功勞者とも言ふべき停車場前鈴木與四郎氏に就きて四十五年四月一日現在の車輌數を調査するに、前記十三字即ち鎌倉組合に屬するものにて總車輛數百十臺、内新式ゴム輪(わ)臺百臺、舊式鐵輪臺を修正した半改良ゴム輪臺七臺、他は從來の車臺である。鎌倉として新式ゴム輪臺車柄の斯く多いのは實に彼等斯業者が他地に見ざるの大奮發、大決心にて改良に力めた結果である。鎌倉に遊覽するものは第一に停車場を下車すれば忽ち眼に映ずるのは、ブラットホーム出口の構内に銀光輝く車輪が日光に映じて眩ゆく整々として一區畫をなして倂立する人力車に一驚するであらう。而して鐵道構内の人力車として常に八十四臺は準備されてあるのだ。鎌倉の人力車輓子と云へば自己の車輪を輓くと、營業者に雇はれて輓子するとを合して百十以上の數を見るが、鎌倉の輓子が他地方の輓子と差異のあるのは、特別に記して讀者に紹介するの必要がある。それは鎌倉の輓子は大部分一輛の車臺を持つて居て七、八名を除くの外は皆自己所有の車輛を輓くのである。中には數戸の貸別莊等を所有して「僕の此間新築した別莊は某華族に貸した、君が某銀行の重役に貸してあつた坂の下の貸別莊は未だ二百圓の家賃にしてあるか」等と身分柄實に壯快の談話を立聞きする事が往々ある。以て鎌倉の人力車夫等が他國に見る能はざる相當資産を有して居る事が判斷されるのである。隨て彼等の營業振りは確實である。其上に此頃は取締役の鈴木與四郎、世話役の金子和三郎の兩名が雨の日も風の夜も毎日日出より日沒迄鎌倉驛構内に出張して遊覽者に不都合のない樣にと、乘客の需に對し萬事に拔目のない活動振りはやがて二十世紀人力車營業者の營業振りの模範を示すであらうと信じられる。今左に多くの人が往復する箇所箇所の人力車賃金表を記載して不案内者の重寶に充てんとするのである。
[やぶちゃん注:これはとんでもなく面白い記述である。今や、我々は当時の人力車輓きの日常(現在、鎌倉に営業している観光用車夫は自ずから全く別物である。私の言うこの範疇ならば寧ろタクシー運転手の方々こそが相応しいであろう)を見ることも、その料金や営業実態を知ることも、最早、ないからである。私にはその車輪の銀光が見える! そしてそれに乗りこもうとする芥川龍之介や夏目漱石が! そして「先生」や「私」が!……。
「ブラットホーム」底本では右に『(ママ)』注記がある。
「箇所箇所」の後半は底本では踊り字「〲」であるから「がしよ」と濁音でお読みになられたい。
以下の行先運賃表示は底本では三段組である。因みに、明治四五・大正元(一九一二)年当時の物価を示しておくと、白米十キログラムが一円七八銭~三八銭、かけ蕎麦一杯三銭、大工の一日の手間賃が一円一八銭で、だいたい一銭は現在の十二円~二十五円相当と考えられる。]
鎌倉停車場より
長谷附近 十五錢
大佛附近 十七錢
坂の下附近 二十錢
極樂寺追揚 三十錢
海岸橋 十二錢
亂橋 十二錢
飯島 二十五錢
光明寺 二十錢
八幡附近 十錢
大蔵附近 十三錢
大塔宮 十六錢
建長寺 十七錢
圓覺寺 二十三錢
大船驛 三十五錢
藤澤驛 五十錢
片瀨停留場より人力車に乘車すれば
鎌倉驛 五十錢
八幡附近 五十五錢
建長寺 六十錢
大塔宮 六十錢
圓覺寺 六十五錢
大船停車場 七十五錢
藤澤停車場 二十五錢
片瀨洲鼻 七錢
江の島 十六錢
腰越神戸 十錢
極樂寺 三十餞
大佛附近 四十二錢
長谷寺 四十錢
光明寺 五十五錢
亂橋附近 五十五錢
前記は鎌倉人力車組合から屆出した定賃金である。此賃金を標準として乘車すれば間違はないのである。
[やぶちゃん注: 「こゝろ」の「私」の『宿は鎌倉でも邊鄙(へんぴ)な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた』とある。漱石が実際に避暑に来ていた光明寺の運賃を見て頂きたい。ズバリ、「二十錢」である。
「片瀨洲鼻」は片瀬海岸の砂嘴の突先、現在の江ノ電江ノ島駅から江ノ島方向にに商店街を行って中程を右に折れた片瀬川畔辺りに同定出来る。満潮時の船渡し場であった。放哉と芳衛も、きっとここまで藤沢から人力で来たに違いない……そして二人が小船に乗って江ノ島へ渡ってゆくのが見える……そうして……そうして吉衛の乗った人力車がだんだんに小さくなってゆく……「わかれを云いて幌おろす白いゆびさき」……
「腰越神戸」「神戸」は神戸(ごうど)川。江ノ電腰越駅近くを流れ、腰越漁港の桟橋で相模湾に入る。]
尚ほ岐路に入る一人乘一人輓(びき)一里に付き二十五錢以内とし、一日雇上げ規定十時間以内は一日二圓三十錢、半日雇上げ五時間以内は八十錢、一時間雇上四十錢、半時間二十五錢、一時間待賃八錢と定めてある。二人輓は凡て前記金額の二倍である。又三歳以上十歳未滿の子供で同乘させることは、定額賃金の三分一增賃するとの事である。手荷物三貫目以上大貫目以内の物を携帶の際は矢張二分增賃となる。橋錢・船渡錢等は一切乘客にて支拂を受くる事に定てある。其外雪雨暴風夜間等は其れ其れ割增はあるが凡て五割以内である。
[やぶちゃん注:「其れ其れ」の後半は底本では踊り字「〲」であるから「それぞれ」と濁音でお読みになられたい。]
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