大橋左狂「現在の鎌倉」 20 江の島
龍口寺の南に、片瀨電車停留所がある。玆處より南して旅館風琴閣、川口村役場、巡査駐在所前を過ぎて、六、七丁餘の平沙を踏めば、江の島長橋に至る。此長橋を渡り詰むれば即ち江の島である。干潮時は此長橋を渡らずとも、平沙を辿りて江の島に至る事が出來る。長橋は川口村の村營である。毎年度の初めに村民に入札せしめて請負はせるのである。然れども毎年鎌倉・江の島の人出尤も多き、七、八月の交豪雨の爲めに潮に押されて、此長橋が流失するので、江の島の景氣に大影響を及ぼす事が往々ある。此等の事より島民は勿論村當局者間には、此長橋を完全なる橋梁にせんとて協議中である。往復渡橋料は三錢である。
[やぶちゃん注:「風琴閣」江ノ電江ノ島駅から江ノ島に向かう洲鼻通りの片瀬写真館の向いにあった旅館。参照した「片瀬写真館」の「江の島・片瀬の古写真」のページによれば、昭和一一(一九三六)年に閉業し、後に火災にあったとある。
「川口村役場」明治二二(一八八九)年の町村制施行により片瀬村と江島村が合併して鎌倉郡川口村となっていた。後、昭和八(一九三三)年に町制施行して鎌倉郡片瀬町となり、昭和二二(一九四七)年には鎌倉市(鎌倉は昭和一四(一九三九)年十一月に鎌倉町と腰越町が合併して市制を施行、鎌倉市となっていた)から藤沢市へ編入合併され、現在の通り、藤沢市片瀬の一部となった。
「交」「かひ(かい)」若しくは「ころ」と読んでいよう。変わり目、頃の意。
「此長橋を完全なる橋梁にせんとて協議中」ここまでの注でも参照させて貰ったウィキの「江の島」によれば、江の島に初めて桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年とあり(但し、砂州の途中から)、明治三〇(一八九七)年に村営棧橋が完成したとある。後、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災によって島全体が二メートル近く隆起、この時、広範囲な海食台が海面上に露出、江の島桟橋は津波で流失したが、すぐに再建され、同年十月には江の島桟橋が川口村営から神奈川県営になった。その後、戦後の昭和二四(一九四九)年四月二五日に、木製であった「江の島桟橋」はコンクリート製橋脚の「江の島弁天橋」(本体は木造で有料)となった。全面コンクリート製となったのは昭和三三(一九五八)年、江の島弁天橋の通行料が無料となるのは昭和三七(一九六二)年の埋立施工によって神奈川県道三〇五号江の島線自動車専用橋「江の島大橋」の開通後のことであった。]
江の島長橋を渉り詰むれば、上り坂路を右にさかゐや、江戸屋、さぬきや、岩本樓の旅館がある。左り側に北村屋、惠比壽屋の旅館がある。何れも遊覽客を誘ふべく中々に腰が低い。尚ほ旅館の間々に軒を倂べて、江の島名物の貝細工、理木、もずく、鮑の粕漬、さゞゑ等の賣店がある。岩本樓前を僅かに進めば、正面に石段がある。玆處よりは江の島神社の神境で、右を男坂と稱して、參詣の順路である。左り道は女坂と云ひ登り詰むれば、金龜樓の前を經て奧津宮に至るのである。
江の島 鎌倉停車場より二里十一町、藤澤驛よりは一里二丁ある。何れも電車及人力車の便がある。江の島に至るには片瀨に下車するのである。島は東西六丁、南北五丁、周圍は二十一丁餘ある。島の西濱には漁師町と云ふがある。片瀨・江の島間の長橋を渡り、左右に旅館・賣店等を見て進む事三、四丁石段を右に登れば、下の宮に至る。此宮を更に左に登れば上の宮である。玆處には江の島神社の寶物を陳列して一般參詣人の觀覽を許して居る。之れより更に又左して、相模灘を一時の内に罩むるの眺望絶佳の高地をだらだらと降り金龜樓前を過ぎて進めば、立野岡の右に白木造りの小さな廻欄ある社を見るであらう。此社を本の宮と稱するのである。而して下の宮を邊津宮と稱し、上の宮を中津宮と云ひ、此本の宮を奧津宮と稱してゐる。
[やぶちゃん注:ここの島のデータは関東大震災による隆起前である点に注意。
「東西六丁」約655メートル。現在の地図上で現在の江の島の、稚児が淵の岩礁から湘南港(ヨットハーバー東端の突堤先端)までの東西を計測すると、約1300メートルであるが、西を稚児が淵の碑の辺りから、現在の女性センター背後南方の高い海食崖付近を江の島本体の東端ととって計測すると、約646メートルとなり、この数値に非常に近い。
「南北五丁」約545メートル。現在の地図上で現在の江の島弁天橋の島側の端位置から正中南北で南側の岩礁海岸、ヨットハーバー背後の堤防を下ったところにある大きく張り出した岩礁南端で計測すると、約565メートルある。
「周圍は二十一丁餘」約2・3キロメートル。現行の諸データでは江の島周囲は約4キロメートルと記されてあるが、現在の弁天橋の島側端から江の島の西周囲を滑らかに辿り、東側に突出したヨットハーバー部分を除いた東側海食台に沿って計測してみると、約2キロ強である。東側は海食台直下で断ち切られていたのではなく、砂地で多くの漁師の村落が存在していたから、ここを東に少し張り出して計測すれば、恐らく2・5~3キロとなり、隆起後の状況とも一致してくる。
「立野岡」「立野」というのは、近世、農民の入会利用を禁じた特別な保護地域としての原野や地区を指す語である。]
江の島神社は縣社にして、以上の三社を總稱したのである。世に江の島辨財天と稱するもの、即ち之れである。今尚ほ中津宮に辨財天がある。此辨財天は土御門天皇の御宇、慈覺大師が自作して勸請したるものである。奧津宮の前を進みて坂を降れば、稚兒ケ淵、魚板石等を眼下に眺めて、岩窟に入るのである。岩窟の前にも小棧橋が架して渡賃を取つて居る。此龍窟の入口には御燈明御燈明と叫んで、燈火を勸めて居る。岩窟の廣さ二十尺餘、奧行七十餘間、窟内には胎藏界、金剛界等の二道がある。江の島に詣ずるものは、必ず此龍窟を潛らねば江の島の眞味を解し得られぬとの事である。奧には大日如來を安置してある。
[やぶちゃん注:本書より五年後の大正六(一九一七)年広文堂書店刊の山田史郎「鎌倉江の島地理歴史」(「面白くてためになる小学生読み物」というシリーズの一冊か。「江の島マニアック」から引用)に(コンマとなっている一箇所を読点に代えた)、
《引用開始》
児が淵から一すじの細い道が奇岩怪石の間に通じ、その先が桟橋になっている。逆巻いて打ち付ける波にゆらゆらする桟橋を渡り、波の飛沫に着物を濡らしながら向こう岸に着く。ここは俗に言う巌窟すなわち龍窟であって、その入り口がおよそ方一丈ばかりある中を覗くと、2、3間先の方が真っ暗だ。案内人が真っ先に立ち、先生が第2番、俺が第3番、その後ろから一同が一列になって続いてくる。洞は次第々々に狭くなり低くなり、人の声、足の音が洞の中に反響してすこぶる物凄い。途中でロウソクをつけ腰をかがめて手探りに進んで行く。暗さが進むにつれてだんだん増して来て、薄気味の悪いことおびただしい。かれこれ1町も来たかと思う頃、細い道が胎臓谷、金剛谷の2つに分かれてまた一つになる。行き止まりの奥に大日如来を安置してある。もしこれから先の小さい穴を無理に進んで行くと、一つは富士山の人穴に出て、一つは月山の峰に出ると案内者が空々しいことを真顔で言う。
《引用終了》
とある。ウィキの「江の島」には、この「岩屋」について、『江の島南西部の海食崖基部の断層線に沿って侵蝕が進んだ海蝕洞群の総称。古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきた。富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説がある。江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきたが』、昭和四六(一九七一)年三月七日に崩落事故が起き、以来、永く立入禁止措置がとられたが、二十二年を経て、藤沢市の手で安全化改修工事が行われ、一九九三年に『第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設として公開された』。その新規公開の「第一岩屋」は公開区間全長152メートル、『奥で二手に分岐』し、「第二岩屋」は公開区間全長112メートル、入口は二本の洞が並行し、奥で一つになる、とある。
「岩窟の廣さ二十尺餘」約6メートル強。
「奧行七十餘間」約128メートル。]