アイヌの珍譚 南方熊楠
暫く行っていなかった南方熊楠の短編の諸論文の電子化を気の向くまま、ランダムにブログで開始する(先日の『海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載』での「田鼠除け」の引用で焼けぼっくいに火が点いた)。底本は特に注記をしない限り、「南方熊楠選集」(全六巻別巻一・平凡社一九八四年刊)を用いている。各段落末にオリジナルな注を附してその後を行空けしてある。
まずは、熊楠の真骨頂たるセクスロジーと、僕の電子化している「耳嚢」絡みで「アイヌの珍譚」から。すこぶるセクシャル且つ衝撃的な内容(私の注も)であるので自己責任でお読み頂きたい。但し、長く引用したアフリカでの生殖器切除の習俗の深刻さは以前から私が心を痛めて来た悪習である。多くの人に知って頂きたいと思っている。
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アイヌの珍譚
[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年五月岡書院刊「南方随筆」より。]
『人類学雑誌』二九巻五号二九六頁に吉田君いわく、沙流アイヌの老人常に語るらく、メノコ・コタン島、女子のみ住んで男なし、云々、「最上徳内この島に入って怪を探る。女陰に歯あり、秋葉凋落と共に脱(お)つ。かくして年々生ず。試みに短刀の鞘をもってす。鞘疵つくを見るに人歯の痕に異ならず」。かかる話、蝦夷近き奥州にも行なわれたは、根岸守信の『耳袋』巻一に出たので知れる。いわく、「津軽の家土語りけるは、右道中にカナマラ大明神とて黒鉄の陽物を崇敬し、神体と崇めける所あり。古えこの所に一人の長ありしが、夫婦の中に独りの娘を持ち、成長に従い風姿類なし。外に男子もなければ聟を撰んで入れけるに、いかがなることにや、婚姻整え侍る夜即死しけり。それよりかれこれと聟を入れけるに、あるいは即死しあるいは逃げ帰りて閏房空しくのみなりしゆえ、父母娘にわけを尋ぬれば、交りの節あるいは即死しまたは怖れて逃げ帰りぬ、われもそのわけ知らずと答えければ、父母も歎き暮らしけるが、逃げ帰りし男に聞きし者の語りけるは、右女の陰戸に鬼牙ありてあるいは食い切りあるいは疵を蒙りしという。このことおいおい沙汰ありければ、ある男このことを聞いてわれ聟にならんとて、黒鉄にて陽物を拵え、婚姻の夜交りの折から右の物を入れしに、右黒鉄の陽物に食いつきしに牙ことごとく砕け散って残らず抜けけるゆえ、その後は尋常の女となりし由。右黒鉄の陽物を神と祝い、今に崇敬せしと語りし」。
[やぶちゃん注:「吉田君」底本編者割注によれば吉田巌。帯広市図書館公式サイト内の「吉田巖について」に以下のようにある人物であろう。吉田巖(明治一五(一八八二)年~昭和三八(一九六三)年)は小学校教師でアイヌ研究家。福島県宇多郡中村(現在の福島県相馬市)生れで、アイヌ教育に当るために教職に就き、虻田実業補習学校・平取町荷負尋常小学校・庁立日新尋常小学校(昭和六(一九三一)年廃校)などで長年に亙って学力向上・生活環境改善等に尽力、それぞれの任地でアイヌの父兄や児童から日常生活・言語・伝承等を聴き取りし、学会に発表したとある。
「沙流」現在の北海道(日高国)日高振興局の郡、沙流郡(さるぐん)。
「最上徳内」(もがみとくない 宝暦五(一七五五)年~天保七(一八三六)年)は北方探検家。出羽(山形県)の農家に生まれたが、生来、学を好み、天明元(一七八一)年、江戸に出て幕府医師の家僕となり、数学者で経世家(経済学者)の本多利明(ほんだとしあき)に学んだ。本多は同五年に老中田沼意次から蝦夷調査団派遣を命ぜられた際、利明を推挙、幕吏とともに国後島に至り、翌年は単身択捉島とウルップ島を踏査、ロシア人に千島事情を聞いて北辺の急を幕府に報告するも、田沼意次の失脚のために採用されず、失職する。寛政元(一七八九)年のアイヌの騒乱の際にはいち早く急を報じ、再び採用され千島に至っている。その後、上司青島俊蔵の失策によって徳内も投獄されるが、疑いが晴れて逆に重用されて樺太関連の探索に従事、文化四(一八〇七)年にロシア船が来航すると、外国奉行の配下である支配調役として、広く北方警備事情を監察、またアイヌ交易の改善にも努力した。また松前藩の禁令にも拘わらず、アイヌに文字を教え、通詞にアイヌ語辞書を出版させたりもしている。蘭医シーボルトの信頼が厚く、シーボルトの著書「日本」によって徳内の名は外国にも知られた。代表作「蝦夷草紙」は著名(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠った)。
「根岸守信の『耳袋』巻一に出たので知れる」「根岸守信」は誤りではなく、根岸鎮衛の別名である。以下の記事は、私の「耳嚢 巻之一」の「金精神の事」を参照(「金精神の事」の方のリンク先には同類話柄で次に載る「陽物を祭り富を得る事」も併載してある)。]
これらいずれも誇大に過ぎた話だが、発達不完全等で多少本話類似の障礙ある女体世に少なからず。本邦にも現に往々その例あるはしばしば医師より聞くところだから、アイヌ譚も津軽の伝説も全く根拠なきにはあらじ。すべて民族人種の異なるに随い、彼処(かしこ)の相好結構また差異あり。例せばハーンの目撃談に、北米のデネ・インジアンのある族人が他族人を殺してその屍を扱うの法、猥にして語るに堪えず。殺されし者女人なる時ことにはなはだし。これ他族の女根全く自族の者と異様なりとて、これを評論審査するによる、と(Morise,“La Femme chez les Dénés,”Transactions du Congrés international des Americanistes,Québec, 1907, p. 374)。かつて信ずべき人より、日本女と支那女は単に陰相見たのみで識別し得と聞いた。また仏経に五不女を説くうちに「角なるものは、物あって角のごとし、一に陰挺」と名づく。これは Otto Stoll,‘Das Geschlechtsleben in der Völkerpsychlogie,’Leipzig, 1908, S. 546 に南アフリカ、北アメリカ、南洋等のある民族に普通だと見えた、陰唇の異常に普通だと見えた、陰唇の挺出したものだろう。その最も著名なは、南アフリカのホッテントットの婦人の特徴たる肥臀(ステアトピギア)に伴う前垂(タブリエー)だ(‘Encyclopædia Britannica,’11 th, ed., vol, xiii, p. 805)。一六七三年筆、オランダ東インド会社の医士の経験譚にいわく、ホッテントット婦人の陰唇懸下して陰嚢のごとし。本人これを美として誇ることはなはだしく、外人その廬(いえ)に来たれば皮裳を披いてみずからその陰相を示す、と(William Ten Ryme,‘An Account of the Cape of Good Hope and the Hottentotes,’in Churchill,“A Collction of Voyages and Travels,”vol. vi, p. 768, 1752)。
[やぶちゃん注:「ハーンの目撃談に……」「ハーン」は小泉八雲のことと思われるが、ざっと管見した限りでは知られた著作「仏領西インドの二年間」にはないようである。現在、調査続行中。「デネ・インジアン」は本来はアメリカ・インディアンの話す言語の語族を示すもので、ナ・デネ語族(Na-Dené languages)が正しい。アラスカ・カナダ西部の広い範囲とアメリカ合衆国本土太平洋岸北部及び合衆国南西部で用いられている言語で、合衆国南西部のナバホ語の話者が最も多い(ウィキの「ナ・デネ語族」に拠る)。
「五不女」漢方で先天性不妊症若しくは先天性生殖器奇形及び異常の五種を指すものらしい。「小林漢方有限会社勉強会情報」の「第二十回勉強会・不妊症」に『不妊症でも原因が「螺(または緊)、紋、鼓、源、脈」という五種の“五不女”は、大抵女子生殖器の先天性欠陥があり薬では治らない』とある。
「ホッテントットの婦人の特徴たる肥臀(ステアトピギア)に伴う前垂(タブリエー)」よく知られたホッテントット族(南アフリカ共和国からナミビアの海岸線から高原地帯及びカラハリ砂漠などに居住する民族。現在はコイコイ人(英語“Khoikhoi”)と呼ぶのが正しい)の「ホッテントットのエプロン」(“hottentot apron”)と称した小陰唇伸長を指す。これはしばしば伸張を目的として人工的に工夫したと誤解されているが、全くの誤りであって、これは彼らの身体的特徴であり、ここに示された臀部が極端に後方に突出する「ステアトパイジア」(“Steatopygia”。リンク先は英語版ウィキ)も同様である。なおかつて、コイコイ人の男性は睾丸の片方を除去する半去勢と呼ばれる通過儀礼をも行っていた(主にウィキの「コイコイ人」に拠った)。]
一入〇四年ロンドン板 Sir John Barrow,‘Travels in Southern Africa,’vol. ii, pp. 278-279 にいわく、ホッテントット婦人に名高き陰相はブシュメンにもあり。予輩かつてブシュメンの一群に遭いしにこの相なき婦人一人もなく、少しも風儀を害せず容易にこれを観察し得たり。この諸女の小陰唇延長すること年齢と習慣とに随いて差あり。この相、嬰児においてわずかにこれを認むるが、年長ずるに随って著しく、中年の婦人その長さ五インチなるを見たり。しかるに実はこれよりも長きもの多しという。その色黝青にして帯赤あたかも七面鳥の冠のごとく、形および大きさまたこれに類し、外見男勢の萎垂せるに似たり。欧州婦人のこの部は皺摺せるに、この土人のは全く平滑なり。したがってその刺激機能を失えるものらしきも、また男子の強凌を捍(ふせ)ぐの利ありて、かかる畸態の機関ある婦女は男子その同意また協力を得るにあらずんば和合の理なし、と。Cornelius de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Américains,’Cleves, 1772, tom. ii, pp. 135-136 に、アフリカの諸国の女子の小陰唇を切り除く俗行なわるるは、もとこの畸形を除いて婚姻に便を与うるためだったろう、と論じおる。その作法の詳細は Dr. Ernest Godard, ‘Egypte et Palestine,’1867, p. 58 已下(いか)に出おり、エジプトのカイロ府では十二、三歳の女子この方を受け、また田舎では七、八歳の女子の時施術するに多くに産婆これを行なう、とある。わが邦にも茄子陰と称して陰唇挺出せる女がある。
[やぶちゃん注:「ブシュメン」現在はサン人(San)と呼ぶのが正しい。南部アフリカのカラハリ砂漠に住む狩猟採集民族でアフリカ最古の住民と考えられている。ここに記されたように、内部に多量の脂肪組織を蓄積した後方に突出する臀部を持つ(ウィキの「サン人」に拠る)。
「黝青」「ユウセイ」と音読みしているものと思われる。「黝」は青黒い色をいう。
「帯赤」「タイセキ」と音読みしているものと思われる。赤味を帯びていることをいう。
「男勢の萎垂せる」男子の萎縮した陰茎が垂下しているように、の意。
「皺摺」「シュウショウ」と音読みしているものと思われる。皺がよって襞状になっていることをいう。
「女子の小陰唇を切り除く俗行」近年、女性虐待との批判が挙がっている風習で、主に現在でもアフリカを中心に行われている女性器切除(Female Genital Mutilation:略称・FGM)若しくは女子割礼(Female Circumcision)と呼ばれるものを指す。以下、参照したウィキの「女性器切除」によれば、歴史的には二〇〇〇年に亙ってアフリカの赤道沿いの広い地域で行われてきた風習で、現在でもアフリカの二十八ヶ国に於いて、主に生後一週間から初潮前の少女に対して行われている。欧米に於いては、この慣習の存在する地域から移民した人々の間においてもFGMが広く行われていることが昨今の調査で明らかになり、それに対して法的な規制を制定する国も増えてきている。大人の女性への通過儀礼の一種で、それが結婚の条件とされている。施術によって結婚までの純潔や処女性が保たれ、女性の外性器を取り去ることで性感を失わせることで、女性の性欲をコントロールできる、などと信じられている。一般に伝統的助産婦によって剃刀やナイフ・鋭利に欠いた石などを使用して、母親や親族の女性に押さえつけられて行われる。不衛生な状況下で大抵は麻酔や鎮痛剤なしで行われることが多いが、エジプトなどでは医療関係者が行っていることが分かり、問題となった。止血には泥や灰などが用いられることもある。国際会議などでは、WHO(国際保健機構)の定義を使うことで同意されており、以下のような分類が行われている。
〈タイプ1 クリトリデクトミー(clitoridectomy)〉
クリトリスの一部または全部の切除。
〈タイプ2 エクシジョン (excision)〉
クリトリス切除と小陰唇の一部または全部の切除。地域によっては出産を楽にするため称して膣までも切除されるケースがあるが、実際には逆のリスクが高まる場合が多い。伝統的に成年に達した際の儀式として行われるが、最近では若年化が進み、もっと幼い少女に行われる。FGMを受けさせらる少女は上記二種でほぼ八十五%に当たる。
〈タイプ3 陰部封鎖・ファラオリック割礼(infibulation)〉
外性器(クリトリス・小陰唇・大陰唇)の一部または全部の切除及び縫合による膣口の狭小化または封鎖。その際、尿や月経血を出すための小さな穴を残す。術後は両脚を縛りつけて数週間傷が癒えるまで固定する。主に四歳から八歳の少女に行われ、こちらも若年化が進んでおり、生後数日に行なわれた例もある。FGMを受けさせらる少女の約十五%がこの過酷な施術を受けているとされる。ソマリアでは「女性は二本の足の間に悪い物をつけて生まれた」と言われており、この陰部封鎖を施しているとあり、また、この場合は結婚初夜に夫が縫い閉じられた陰部を切り開く部族がおり、自力で花嫁の陰部を開いて性交を果たせなければ面目を失う、という。
〈タイプ4 その他の施術〉
タイプ1~3に属さない、治療を目的とせずに文化的理由のもとで女性外性器の一部若しくは全部を切除すること及び女性の生殖器官を意図的に傷つける行為の総てを含む。
この切除に伴う弊害としては、杜撰で不衛生な術式が圧倒的に多いために、大量出血・施術中の激痛・回復まで続く痛み及び様々な感染症などが施術時にあり(術中のショックで意識不明や死亡にケースもある)、後遺症として排尿痛・失禁・性交時の激痛・月経困難症・難産による死亡・HIV感染リスクの上昇の他、トラウマとしての性交恐怖症などが挙げられている。国際社会では、特に一九七〇年代頃から著しい女性虐待であるとして非難の声が強く上がっていた。対する当事国は、そうしたプレッシャーは自国の文化を否定するものとして文化相対主義的論議が起こった。しかし昨今では国際的世論とアフリカ連合内からの廃絶の声とが手を取り合った動きが活発化し始めている。二〇〇三年にはモザンビークの首都マプトにおいて、女性器切除の含めたあらゆる性暴力・性差別を禁じ、男女同権を定めた、人及び人民の権利に関するアフリカ憲章に関する「マプト議定書」(Maputo Protocol)が採択されたが、近年は、西アフリカの指導者やケニアなどが性器切除を禁止しているものの、その後は全く実効が上がっていない。FGM廃絶の国際運動を行っているワリス・ディリーは、一九九九年に発表したデータで、年間二〇〇万人、一日当たり五五〇〇人近い少女が現在も性器切除を受けており、性器切除された女性の総数は一億三千万人以上、累計十三億人にも達すると推定している。
「茄子陰」「なすほと」「なすぼぼ」とでも読むか。「隠語大辞典」(木村義之・小出美河子編 皓星社二〇〇〇年刊)の「茄子(なすび)」の項に、
《引用開始》
1.病気にて子宮が陰部の外に表はれ出でたるをいふ。
2.茄子。陰核異常に長きもの。或は子宮の陰門外に脱出して形状茄子の如きものをいふ。俗語。なすびぼぼ。「色道禁秘抄」に「茄子は和漢同名にて産せし時児頭にて陰肉をすり破り外へ翻出して乾枯したる形を以て名くる也」とあり。「女才学絵抄」に「玉中の袋はりいでたる病ものにて玉門冷たく道具ととのはざる故なれば味ひ到つてあしし」。又「阥阦手事巻」に「なすびぼぼといふものにて開中のふくろはりいで行ふの邪魔になりてへのこ出入するにさはりあり」。「植えぬのにひよんな所へ茄子はえ」「かはらけと茄子夜陽に誘ひ合ひ」。
3.子宮脱。
《引用終了》
とある。「阥阦手事巻」は不詳。「いんようてごとのまき」とでも読むか(「阥阦」は「陰陽」と同字)。この辞書、ネット上での閲覧であるが、なかなかに凄い。]
吉田君が一九五頁に述べられた大酋長の美娘の陰部霊異あって、眠中人来たり逼る時声を放ってこれを警戒す。しかも娘自身は知らずというアイヌ語の根本は、上述の陰挺あるブシュメン婦女は、本人の同意また協力を得ずして、これと会する事を得ずと言えると類似の、ある畸態を具せる娘が実在せしにあったのでなかろうか。
(大正三年九月『人類学雑誌』二九巻九号)
【追記】
前文に、予ホッテントット人等の婦女の畸態陰相タブリエーを「前垂れ」と評しおいた。頃日(このごろ)当田辺町の川端栄長という老人、若き時大阪堂島で相場を事とし、その間博く松島の遊廓を見た懐旧譚をするを聞くうち、「また前垂れ陰と名づくるを僅々数回見た」という冒頭で説く様子、バローが「かかる畸態の機関ある婦女は男子その同意また協力を得るにあらずば和合の望みなし」と言えるに符合したので、わが邦人にもこの畸態あるを知り、あわせて予の訳語の偶中を悦んだ。さて『根本説一切有部毘奈耶雑事』一三、また『大宝積経』の入胎蔵会一四の一に「あるものは産門駝口のごとし」とあるはこの前垂陰であろう。茄子陰は、『善見毘婆裟律』一三に「根の長く崛(そばだ)ち両辺に出でしもの」で、「女根中、肉長く出でて毛あり。また角なるものは、物あって角のごとし、一に陰梃と名づく」は吉舌特に長きものであろう。L.Martineau ‘Leçons sur les Déformations Vulvaires et Anales,’(Paris, 1886)に六つまでその図を出しある。(大正五年二月『人類学雑誌』三一巻二号)
[やぶちゃん注:「僅々」「キンキン」と音読みしているか。ごく僅かながら。
「偶中」は「ぐうちゅう」で、偶然に的中すること、まぐれ当り。
「根本説一切有部毘奈耶雑事」は「こんぽんせつびなやざつじ」と読み(「根本説一切有部毘奈耶薬事」と表記するものもあるが、別物か同一のものか不明)、「大蔵経」の中にある仏典注釈書の一つ(以下も同じ)。
「大宝積経」「だいほうしゃくきょう」と読む。
「善見律毘婆沙」「ぜんけんりつびばしゃ」と読む。
「吉舌」「きちぜつ・きつぜつ」と読む。先に引いた「隠語大辞典」に、
《引用開始》
1.吉舌。陰核をいふ。「ひなさき」に同じ。同条参照。「和名抄」に「揚子漢語抄云吉舌和名比奈佐岐」と出づ。「さへずり草」に「吉舌和名ひなさきといへるは関東の俗に左禰といふものなるべし、扨て実とは菓の核仁に似たるよしの名なるべし」とあり。
2.陰核。
3.女子陰核のこと。小根ともいう。古語では、「ひなさき」という。ドイツ語でも「恥かしい小さな舌」といっている。つまりキツレルである。
《引用終了》
「キツレル」“Kitzler”(キッツラァ)はドイツ語で陰核のこと。この音の類似はすこぶる面白い。]
【補遺】
沙流アイヌと奥州津軽に行なわれた女陰に歯ある譚を、吉田巌君の記と『耳袋』から引いたが、その後『能登名跡志』坤の巻を見るに、入左近の子太郎なる者、唐土の王女かかる畸態ある者に会い、津軽の伝説同様の妙計もて常態とならしめ、その婿となった次第を載せある。委細は、大正六年四月発行『大日本地誌大系』諸国叢書北陸の一の三三九頁について見るべし。(大正六年十月『人類学雑誌』三二巻一〇号)
[やぶちゃん注:「能登名跡志」は安永六(一七七七)年の序を有する太田頼資(道兼)の手になる加賀国能登地方の地誌。「追記」と「補遺」のクレジットは底本では最終行下インデント。]
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