河童について 南方熊楠
河童について
熊野地方に、河童をカシャンボと呼ぶ。火車坊の義か。川に住み、夜厩に入って牛馬を悩ますこと、欧州のウェルフ等のごとし。その譚を聞くに全く無根とも思われず。南米に夜間馬の血を吸い、いたくこれを困憊せしむる蝙蝠(こうもり)二種ありと聞けど(『大英類典』二七巻八七七頁)、わが邦にそんな物あるべくもあらず。五年前五月、紀州西牟婁郡満呂村で、毎夜カシャンポ牛部屋に入り、涎を牛の全身に粘付し、病苦せしむることはなはだしかりければ、村人計策して、一夕灰を牛舎辺に撒き、晨(あした)に就いて見れば、蹼(みずかき)を具せる足跡若干を印せり。よってその水鳥様の物たるを知れりと、村人来たり話せり。頃日(このごろ)滕成裕の『中陵漫録』を読むに、「薩州の農家にては、獺を殺さば、もし殺す時は馬に祟りをなす。祟ること七代にしてようやく止むという。大いに恐れてあえて殺す者なし、云々」とあり。予かつて獺を畜いしを見るに、すこぶる悪戯を好むものなれば、時に厩舎に入って家畜を悩ますを河童と心得るに至りしにて、少なくとも満呂村の一例は獺の行為たること疑いなしと思う。
[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年五月岡書院刊「南方随筆」より。末尾に『(明治四十五年一月『人類学雑誌』二八巻一号)』とある。
「カシャンボ」またはカシャボ。ウィキの「カシャンボ」によれば、紀伊南部(現在の和歌山県周辺)などで伝承される妖怪で、山に移り住んだ河童が進化したものとする説が有力である。六、七歳ほどの子供程度の背丈で、頭に皿を被り(頭は芥子坊主のようであるともいう)、青い衣を身に着けており、犬はその姿を見ることが出来るが、人間の目には見えない。人間の唾を嫌う。和歌山県東牟婁郡高田村(現在の新宮市)のある家では、毎年新宮川を遡って来た河童が挨拶に訪れ、姿は見えないが家に小石を投げ込んで知らせ、山へ入ってカシャンボになるという。性質は河童と変わらず悪戯者で、山中で作業をしている馬を隠したり、牛小屋にいる牛に涎のようなものを吐きかけて苦しめるという。牛小屋の戸口に灰を撒いておいたところ、そこに残されていたカシャンボの足跡は水鳥のようだったという(南方の記載と酷似するが、引用元は柳田國男「山島民譚集」とある)。和歌山県西牟婁郡富里村(現在の田辺市)では、カシャンボは雪の降った翌朝に一本足の足跡を残すもので、人に相撲をとろうと持ちかけるが、唾をつけてやると勝つことができるなどと、河童と一本だたらが混同されたかのように伝承されている。二〇〇四年春、和歌山県白浜町富田の田畑で謎の足跡が発見され、四本足の動物ではあり得ない足跡であったことから、カシャンボの仕業と地元の新聞などで報道された。國學院大學民俗学研究会が一九七七年に発刊した『民俗採訪』によれば、紀伊では河童のことをゴウライ、あるいは五来法師と呼び、冬の間は山篭りをしておりその間はカシャンボと呼ばれる。カシャンボという名称については悪戯者であることから、「くすぐる」を意味する方言の「かしゃぐ」に由来するとか、古典的妖怪としられる火車や、独特の頭部をいう頭(かしら)などを由来とする諸説がある。いくつかの文献では、河童以外にもカシャンボとして言及している資料があり、複数の説が存在する。但し、これ以外にも、夏はゴウラ、冬にはカシャンボとなり、毛深い人間のような姿のもの妖怪で、別説に山姥のことを指すという説(東洋大学民俗研究会一九八一年刊「南部川の民俗」)、マヘンのものと呼ばれる魔物で、冬は山へ、春は川へ行く移動性のもの(近畿民俗学会一九八五年刊「近畿民俗」)、カシャンポは山に棲み、河童とは違う(郷土研究社一九一六年刊「郷土研究」)といった河童との別種説もある、とある。
「ウェルフ」英語“elf”(エルフ)であろう。ゲルマン神話に起源を持つ、北欧の民間伝承に登場する種族である。本邦では妖精或いは小妖精と訳されることも多い。本来は自然と豊かさを司る小神族だった。エルフはしばしば、とても美しく若々しい外見を持ち、森や泉、井戸や地下などに住むとされる。また彼らは不死あるいは長命であり、魔法の力を持っている(名称は印欧祖語で「白い」を意味する“albh”に由来すると考えられ、“albh”はまた、ラテン語で「白い」を意味する“albus”、ポルトガル語・英語等の「アルビノ」(白化体)の語源でもある。参照したウィキの「エルフ」の記載の中では、本話の河童との相似性に於いて、ドイツのそれが興味深い。『ドイツの民間伝承では、エルフへは人々や家畜に病気を引き起こしたり、悪夢を見せたりする、ひと癖あるいたずら者だとされる。ドイツ語での「悪夢(Albtraum)」には、「エルフの夢」という意味がある。より古風な言い方、Albdruckには、「エルフの重圧」という意味がある。これは、エルフが夢を見ている人の頭の上に座ることが、悪夢の原因だと考えられていたためである』(詳細は引用元を参照されたい)。
「南米に夜間馬の血を吸い、いたくこれを困憊せしむる蝙蝠二種あり」獣亜綱コウモリ目陽翼手亜目ウオクイコウモリ下目ウオクイコウモリ上科チスイコウモリ科チスイコウモリ属ナミチスイコウモリ Desmodus rotundus などを指す。参照したウィキの「ナミチスイコウモリ」によれば、『本種は人間の血液も吸うことがあるが、外界から遮断された人家の中に侵入することは困難なこと等から人を襲うことは稀。獲物を死に至らしめるほどの大量の血液を吸う訳ではないが、家畜を複数の個体で襲い衰弱させたり、咬み傷から狂犬病等のウィルスや伝染病を媒介することもあるため害獣とされる』とある。信用し得るネット上の記載では吸血性コウモリは全世界でも南米に三種しかいないともある。
「西牟婁郡満呂村」昭和二五(一九五〇)年に万呂村その他が田辺市に編入されるという記載がある。現在の田辺市内の田辺駅東北直近。
「滕成裕の『中陵漫録』」「滕成裕」は水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。その「卷之十二」に以下のようにある(底本は国書刊行会昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成 第三期第3巻」所収のものを用いたが、恣意的に正字化した)。
《引用開始》
〇獺祟ㇾ馬
薩州の農家にては、獺を殺さず。若し殺す時は馬に祟りを爲す。祟る事、七代にして漸く止むと云。大に恐れて敢て殺す者なし。案るに、獺は水に屬す。故に水より火を克するは自然の理なり。其馬に祟るは同類を求む事、眞に信ずべし。
《引用終了》]