芥川龍之介「河童」決定稿原稿 五 初出の誤りを続々発見
■原稿39
〈四〉*五*
[やぶちゃん注:5字下げ。本文は2行目から。]
僕はこのラツプと云ふ河童にバツグにも劣
らぬ世話になりました。が、その中でも忘れ
られないのはトツクと云ふ河童に紹介された
ことです。トツクは河童仲間の詩人です。詩
人が髮を長くしてゐることは我々人間と変り
ません。僕は時々トツクの家へ退屈凌ぎに遊
びに行きました。トツクはいつも狭い部屋に
髙山植物の鉢植ゑを並べ、〈■〉*詩*を書いたり煙草
をのんだり、如何にも、〈■〉*気*樂さうに暮らしてゐ
[やぶちゃん注:
●「〈■〉*詩*」この抹消字は「詩」ではない。(へん)が「月」であることが判読出来るから、ここは何かトックの別内容の紹介描写を続けようとしたのかも知れないと思わせる。]
■原稿42
ました。その又部屋の隅には〈女〉*雌*の河童が一〈匹〉
*匹*、(トツクは自由〈■〉*戀*愛家ですから、細君と云
ふものは持たないのです。)編み物か何かをしてゐ
ました。トツクは僕の顏を見ると、いつも微
笑してかう言ふのです。(尤も河童の微笑する
のは餘り好いものではありません。少くとも
僕は最初のうちは寧ろ無気味に感じた〈■〉*も*ので
す。)
「やあ、よく來たね。まあ、その椅子にかけ
給へ。」
■原稿43
トツクはよく河童の生活だの河童の藝術だ
の〈■〉*の*話をしました。〈我々人間の言葉を使う〔へ〕ば、〉*トツクの信ずる所によれ
〈ト〉ば、当り前の河童の生活位、莫迦げてゐるも
のはありません。〈《殊に》→《夫婦》〉*親子*夫婦兄弟などと云ふの
は悉く互に苦しめ合ふことを唯一の樂しみに
して暮らしてゐるのです。殊に家族制度と云
ふもの〈ほど〉*は莫*迦げてゐる以上に〈恐しいもの〉*も莫迦げてゐ*るの
です。トツクは或時窓の外を指さし、「見給〈へ〉
*へ*。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すやうに
言ひま〈■〉した。窓の外の往来にはまだ年の若
[やぶちゃん注:
●「〈我々人間の言葉を使〔へ〕ば、〉*トツクの信ずる所によれ〈ト〉ば、当り前の河童の生活位……」の部分の改稿は興味深い。芥川は最初、
我々人間の言葉を使ば、トツク
と書きかけて「ト」で止め、脱字に気づいて、
我々人間の言葉を使へば、ト
と訂したものの、どうも気に入らず、「〈我々人間の言葉を使う〔へ〕ば、ト〉」をすべて削除するともりで、
トツクの信ずる所によれば、
と訂したのだが、抹消した2行目最後の後の空欄(芥川は句読点を前のマスの中に打って直下のマスを空ける癖があり、この最終20マス目は空いていた)に、この「よれば」の「れ」を書いたため、見かけ上、表記のような複雑な形になったものである。空欄1マスさえ無駄にしない倹約家芥川の一面が見て取れるのである。]
■原稿44
い河童が一匹、両親らしい河童を始め、〈十三〉*七八*
匹の〈男女〉*雌雄*の河童を頸のまはりへぶら下〈け〉*げ*な
がら、息も絶え絶えに歩いてゐました。しか
し僕は〈その《若》→河〉*年の若い河*童の犠牲的精神に感心しました
から、反つてその健気(けなげ)さを褒め立てました。
「ふん、君は〈善良なる〉*この國でも*市民になる資格を持つ
てゐる。………時に君は〈《〔民主的〕社會》〉社會〈的民主〉主義者かね?」
僕は勿論〈ク〉 qua(これは河童の使ふ言葉では
「然り」と云ふ意味を現すのです。)と荅へました。
「では百人の〈《阿呆》→莫迦〉*凡人*の爲に甘んじて一人〈賢人〉の
[やぶちゃん注:
●「〈十三〉」の「三」はやや自信がないが、これが「十三」だとすれば、恐らく芥川にとって何らかの意味のある数字であった可能性が極めて高い。芥川は映像的に無理があるから減らしたのであろうが、それにしても「七八匹」でも想像しにくい。私は「河童」を初読した高校時代から、ずっとここには違和感を持っている。だからこそ「十三」という限定数には意味がある、と感じてしまうのである。
●「〈ク〉 qua」「ク」は判読に迷ったが、間違いない気がする。これは当初、河童語の“Oui”(フランス語「ウィ」)“Yes”“Ja”(ドイツ語「ヤ」)“Да”(ロシア語「ダ」)に当たる、“qua”「クヮ」とでも表記しようとしたものであろう。河童語については多少、『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』で解析を試みているので、興味のある方はそちらを管見されたい。
●「〈《〔民主的〕社會》〉社會〈的民主〉主義者」の推敲過程も相当に苦労の跡が認められる。まず、最初は実は、決定稿の、
社會主義者
としているのである。それに
民主的社會主義者
と右に挿入したものの、気に入らず、「民主的社会」を総て抹消し、左に、
社會的民主
としたのだが、結局、「的民主」をまた抹消して、
社會主義者
の最初に回帰したのである。
ここには一種の芥川自身の、当時のリベラリストの思潮潮流、プロレタリアや芸術派の文壇の喧騒、日本のファシズムへの傾斜などによる、芥川の抱いたバイアスが感電的に加わっているように思われるが、如何であろう。]
■原稿45
天才を犧牲にすることも顧みない筈だ。」
「では君は何主義者だ? 誰(たれ)かトツク君の信
條は無政府主義だと言つてゐたが、………」
「僕か? 僕は超人(直訳すれば〔超河童〕です。)だ。」
トツクは昂然と言ひ放ちました。かう云ふ
トツクは藝術の上にも独特な考へを持つてゐ
ます。トツクの信ずる所によれば、藝術は何
〈とも〉*もの*の支配をも受けない、藝術の爲の藝術で
ある、從つて藝術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬと云ふの
[やぶちゃん注:
●「超河童」が後からの挿入であることに注目されたい。即ちここは元、
「僕か? 僕は超人(直譯すればです。)だ。」
であったのだ。我々は永くここに芥川の理知的なユーモアを嗅いできたし、確かにそれは正当なのであるが、実は当初、芥川は河童語の一般代名詞としての、河童世界に於ける至高の「河童」という生物集団を包括する単語は『直訳』したとしたら、寧ろそれは、正しく実は「超人」となるはずである。「超河童」というのは『直訳』ではなくて、人間、それも日本語を母語とする日本人から表現した場合に限って、人間ではない妖怪として「河童」の中の超越した河童、「超河童」となるのである。従って、ここは実は芥川が愚昧な読者をくすぐるために挿入した、如何にもな下らない洒落に過ぎないのだということに気づくのである。馬鹿にされていたのは、かく言われた超河童本人ではなくて、実は安楽椅子に座って「河童」を読んで分かったように笑みを浮かべている有象無象の読者どもであったのである――]
■原稿46
す。尤もこれは必しもトツク一匹の意見では
ありません。トツクの仲間の詩人たちは大抵
同意〈見〉*見*を持つてゐるやうです。現に僕はトツ
クと一しよに度(たび)たび超人倶樂部へ遊びに行き
ました。超人倶樂部に集まつて來るの〈は〉*は*詩
人、小説家、戯曲家、批評家、〔画家、音樂家、彫刻家、〕〈文藝〉*藝術*上の素人
等(とう)です。しかしいづれも超人です。彼等は電
燈の明るいサロンにいつも快活に話し合つてゐま
した。のみならず時には得々と彼等の超人ぶ
りを示し合つてゐました。たとへば或〈《河童》→批評家〉*彫刻家*な
[やぶちゃん注:
●冒頭「す。」はママ。「■原稿45」の末尾は
藝術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬと云ふの
であるから、ここは、
です。
で始まらなければおかしいのである。珍しい芥川の「で」の脱字である。無論、初出は「です。」となっている。これは恐らく文選工・植字工・ゲラ校正者が補正して呉れたものであろう。
●「超人倶樂部に集まつて來るの〈は〉*は*詩人、小説家、戯曲家、批評家、〔画家、音樂家、彫刻家―〕〈文藝〉*藝術*上の素人等(とう)です。」の箇所は校正大きな疑義がある。初出の「河童」では末尾は、
……畫家、音樂家、彫刻家、藝術上の素人等(ら)です。
なのである。滅多にルビを振っていない芥川がここでわざわざ「とう」とルビしているのに、「ら」としているのは、どう考えても文選工・植字工・ゲラ校正者の誤りとしか思われない。まあ、冒頭の「で」を補正して呉れたから痛み分けというところか。なお、挿入部分の末尾であるが、底本とした国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿の国立国会図書館デジタルライブラリーのコマ番号「25」コマ目の6行目の右側の吹き出しを視認して見ると、その「彫刻家」の後は一見、「―」のように見え、とても読点には見えないものである。ただ、芥川は今まで見てきたようにダッシュには有意に長いもの(通常3マス分)を用いるので、これは短いダッシュでもないから(そんなものは今まで用いていない)、読点と判読する外はないであろう。]
■原稿47
どは大きい鬼羊歯の鉢植ゑの間に年の若い河
童をつかまへながら、頻に男色を弄んでゐま
した。又或雌の小説家などはテエブルの上に
立ち上つた〈まま〉*なり*、アブサントを六十〈杯?〉本飮んで
見せました。尤もこれは六十本目にテエブル
の下へ轉げ落ちるが早いか、忽ち〈死んで〉*往生し*てし
まひましたが。
僕は或月の好い晩、詩人のトツクと肘を組
〈みながら〉*んだまま*、超人倶樂部から歸つて來ま〔し〕た。ト
ツクはいつになく沈みこんで一ことも口を
■原稿48
利かずにゐました。そのうちに僕等は火かげ
のさした、小さい窓の前を通りかか〈〔り〕〉まりまし
た。その又窓の向うには夫婦らしい雌雄(めすをす)の河
童が二匹、〈《小さ》→三匹の子供の河童と一しよに〉*三匹の子供の河童と一しよに*晩餐のテエブルに向つてゐるのです。するとトツ
クはため息をしながら、突然かう僕に話しか
けました。
「僕は超人〔的戀愛家〕だと思つてゐるがね、ああ云ふ家
庭の容子を見ると、やはり〈羨し→羨ま〉*羨ま*しさを感
〈ず〉*じ*るんだよ。」
[やぶちゃん注:
●「〈羨し→羨ま〉*羨ま*しさを」この部分は最初に、
羨し
としたが送り仮名を「ま」から振ろうとして、「羨」という漢字の書体が気に入らなかったものか、「羨」を右に書き直し、「し」を「ま」にしたものの、周辺がすっかり汚くなったのが今度は気に障ったのか、結局、それらも総て抹消して、新たに新しいマスから、
羨ましさを
と続けたものと思われる。ところが、初出では何と、
羨しさを
と――「ま」がない――のである。現在、例えば今この瞬間に用いているマイクロソフトのオフィス2010の場合、「うらやむ」を変換すると「羨む」であり、「うらやましい」の場合は「羨ましい」と送り仮名が出るからこれが標準の送り仮名であろう(因みに何故「ま」から送るかというと、「羨しい」は「ともしい」(乏しいと羨ましいの両義を持つ)と「うらやましい」の二様の訓読みがあることによるものと思われる)。芥川は正当であった。ところが、ここも勝手に文選工・植字工・ゲラ校正者がかくしてしまったものと思われる。芥川の繊細な書き換えは、それによって全く無化されてしまったのである。
●「夫婦らしい雌雄(めすをす)の河童が二匹、〈《小さ》→三匹の子供の河童と一しよに〉*三匹の子供の河童と一しよに*晩餐のテエブルに向つてゐる」今回、如何にも鈍感な私はやっと気づいた。この三人の子供と夫婦とは、芥川の三人の子らと龍之介と文以外の何者でもなかったのである……]
■原稿49
「しかしそれはどう考へても、矛盾してゐる
とは思はないかね?」
けれどもトツクは月明(あか)〈の〉*り*の下(した)にぢつと腕を
組んだまま、あの小さい窓の向うを、―――平
和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守
つてゐました。それから暫くしてかう荅へま
した。
「あすこにある〈オムレツ〉*玉子燒*は何と言つても、〈超〉*恋*
〈《人》→愛→〉*愛など*よりも〈現実〉*衛生*的だからね。」 〈《少なくと恋愛》→或〉
[やぶちゃん注:
●掉尾に着目されたい。もともと終わりの鉤括弧を打たず、実は芥川はこのトックの台詞をもっと続けようと一瞬考えたことが分かるのである。以下、1行余白。]