生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 二 雌雄同體 ウミウシ
海岸へ行つて見ると、海草のおひ茂つた處に「海牛」といふものが幾らも匍うて居る。体は肥え太つて、頭からは二本の柔い角がはえ、徐々と草の上を匍ひながらこれを食つて歩く樣子は如何にも牛を思ひ出させるが、この動物はやはり「かたつむり」や「なめくぢ」の仲間である。但し海中に住んで居るもの故、鰓を以て水を呼吸する。鰓は體の背部にあるが、柔い褶樣のもので被はれて居るから外からは見えぬ。また鰓を保護するために、薄い皿のような介殼があるが、これも外からは見えぬ。しかしこれが死んで柔い體部が腐れ溶けてしまふと、介殼だけが殘つて濱に打ち上げられる。「立浪貝」と名づける貝はこれである。さてこの海牛の類も生殖器の構造は「かたつむり」と大同小異で生殖孔の位置は稍々後にあるが、精蟲を相手の體内に移し入れるための管狀の交接器は頭の右側の處にあるから、二疋相寄つて互にこれを相手の生殖孔に插し入れようとすれば、勢ひ體を互違ひの方角に向けねばならぬ。春から夏へかけて海水も温くなるやうな淺い處では、海草の間に海牛が二疋づつ恰も二つ巴の如き形になつて繫がつて居るのを屢々見附ける。
[やぶちゃん注:前にも述べたが、「海草」は「海藻」とする方が無難(無論、アマモ場などなら正しい)。
「海牛」ウミウシは軟体動物門腹足綱異鰓上目 Heterobranchia に属する後鰓類(Opisthobranchia:近年はこれに階級を与えないが和名呼称としては親しい。これはラテン語の“opistho”(後ろの)+“brankhia”(鰓)である。)の中でも、貝殻が縮小するか、体内に埋没或いは完全に消失した種などに対する一般的な総称(当該体制を持つ総てを必ずしもウミウシと呼ぶ訳ではない)。特に異鰓上目裸鰓目 Nudibranchia(新分類では裸鰓亜目 Nudibranchia(同綴り))が典型的なウミウシとされることが多く、ウミウシとは裸鰓類のことであるとされることもあるが、裸鰓類以外の後鰓類にも和名にウミウシを含む種は多く、和名にカイ(貝)を含む種でも貝殻が極めて小さく、分類するに際してはウミウシに含められる種も少なくない。参照したウィキの「ウミウシ」には、『ただし、貝殻の退化した後鰓類であっても、翼のような鰭で遊泳するハダカカメガイ(クリオネ)などの裸殻翼足類や、アメフラシの仲間である無楯類がウミウシであるかといった質問に対しては、各個人の背景によって正否両方の答えがあり得る。裸殻翼足類はウミウシに含めないことが多いが、無楯類についてはさまざまで、地域によっては明確に含めることもある』とある。また旧来の図鑑にもウミウシの仲間とし、私などもウミウシと理解していた、空気呼吸を行う貝殻の退化した腹足類であるイソアワモチなどは、現在では異鰓類真正有肺類の収眼目
Systelommatophora に分類されており、生物学的に「ウミウシ」ではないことになっている。
『死んで柔い體部が腐れ溶けてしまふと、介殼だけが殘つて濱に打ち上げられる。「立浪貝」と名づける貝はこれである』この叙述にはかなり問題がある。実際に昔は広く介殻の痕跡を持ったウミウシ類の死後の介殻を「立浪貝」と呼んだのであるが、実は生物種として、ウミウシの仲間とされる「タツナミガイ」が、別に現に存在するからである。後鰓目無楯亜目アメフラシ科タツナミガイ Dolabella auricularia がそれである。以下、ウィキの「タツナミガイ」によれば、体長は二〇~二五センチメートル、近縁の同じ無楯亜目 Anaspidea のアメフラシ類と『基本的な特徴は共通するが、表皮が肥厚して硬く、アメフラシほどの可塑性はない。アメフラシがしなやかに身をくねらせるのに対して、タツナミガイはでんと底質の上に鎮座する。手にとって水から揚げても、しっかりと形状を保つ。ただし時間をかければゆっくりと変形することもできる』。『体型はおおよそ円錐形で、後方へ向けて幅広くなり、後端近くが一番広い。背面は丸く盛り上がり、後端側は斜めに断ち切ったような平面になっており、その面の背面側の縁は低いひれのように突き出している。腹面はほぼ平ら。腹面の足とそれ以外の体表の区別は明確でない。後端は丸く終わり、足の後端が特に広がったりはしない』。『前端部は円筒形の頭部になっており、その前端に一対の頭触手が横につきだし、その後方背面には一対の触角が短く突き出す。それぞれアメフラシのように伸びやかでなく、短い棒状になっている。触角の基部の外側には小さな眼がある。』『胴部の背面は大まかには滑らか。アメフラシ類では胴体の背面に一対の縦に伸びるひれ(側足葉)があり、殻などを覆う。アメフラシ類では側足葉を自由に伸ばしたり広げたりできるものが多いが、タツナミガイでは厚く短くなって背中を覆い、その中央で両側が互いに密着して隙間だけが見える。この隙間は胴体部の前方、右側側面に始まってすぐ中央に流れ、そこから中央を縦断、胴部後方の切断されたような面の中央にいたる。そのうちで前述の切断面の輪郭にあたる部分の前と後ろで左右が離れて丸い開口を作る。水中ではこの穴から水を出し入れして呼吸する。後方のものが出水管で、少しだけ煙突のように突き出る。紫の液もここから出る』。『タツナミガイの全身は褐色から緑や水色を帯び、まだらのような複雑な模様が出るが、はっきりしたパターンは見えない。体表面は小さな樹枝状の突起が多数ある。これらの突起は柔らかいので、陸に揚げると体表はほぼ滑らかで波打っているように見える。このようなタツナミガイの形状と色彩は、周囲の環境に擬態的である』。『体型はおおよそ円錐形で、後方へ向けて幅広くなり、後端近くが一番広い。背面は丸く盛り上がり、後端側は斜めに断ち切ったような平面になっており、その面の背面側の縁は低いひれのように突き出している。腹面はほぼ平ら。腹面の足とそれ以外の体表の区別は明確でない。後端は丸く終わり、足の後端が特に広がったりはしない』。『前端部は円筒形の頭部になっており、その前端に一対の頭触手が横につきだし、その後方背面には一対の触角が短く突き出す。それぞれアメフラシのように伸びやかでなく、短い棒状になっている。触角の基部の外側には小さな眼がある』。『胴部の背面は大まかには滑らか。アメフラシ類では胴体の背面に一対の縦に伸びるひれ(側足葉)があり、殻などを覆う。アメフラシ類では側足葉を自由に伸ばしたり広げたりできるものが多いが、タツナミガイでは厚く短くなって背中を覆い、その中央で両側が互いに密着して隙間だけが見える。この隙間は胴体部の前方、右側側面に始まってすぐ中央に流れ、そこから中央を縦断、胴部後方の切断されたような面の中央にいたる。そのうちで前述の切断面の輪郭にあたる部分の前と後ろで左右が離れて丸い開口を作る。水中ではこの穴から水を出し入れして呼吸する。後方のものが出水管で、少しだけ煙突のように突き出る。紫の液もここから出る』。問題の「殻」の記載。『この背面の穴の内側に、外套膜に半ば包まれた殻がある。隙間を広げて指を入れると、指先に殻の感触を感じることができるが、肉質がかなり硬いので力がいる。アメフラシと同様、殻は退化して薄い板状となり、外からは見えない。ただしアメフラシのそれが膜状に柔らかくなっているのに比べ、タツナミガイのそれは薄いながらも石灰化して硬い。時に砂浜にそれが単体で打ち上げられることもある。そのため貝類図鑑にも載ることがある『その先端に巻貝の形の名残があって渦巻きに近い形になっている。タツナミガイとは立浪貝の意味で、この殻の形を波頭の図柄に見立てたものである』。『殻は扁平で管状の部分がない。おおよそは三角形で、径』三~四センチメートルほどで、『一つの頂点の部分が渦を巻いたようになっている。左巻きである。殻は白で褐色の殻皮に覆われる』。ほぼ年間を通して潮間帯下部から水深二メートル程度の『ごく浅い海岸に出現する。泥質のところに多く、干潟や藻場にも出現する。夜行性で昼間はじっとしているように見える。砂の上にいることも多いが、半ば砂に埋もれていることも多い。岩礁海岸にも見られるが、その場合、波あたりの強いきれいなところでなく、波当たりがなく、細かい泥をかぶる潮だまりの岩の上などに見られる。干潮時には陸にさらされているのも時に見かける』。『動きは遅く、短時間の観察では動作を確認できない程度。強く刺激すると背中の穴から鮮やかな紫色の液汁を出す。これは敵を脅す効果を持つものと考えられる。夜にはより活発になり、海底に生える緑藻類など海藻を食べる』。本章の眼目である「生殖」については、雌雄同体であるが、やはり他個体との交接によって精子卵子を交換する。産卵は五~六月で、『卵は紐の中に多数の卵が入った形で、この紐が団子のようにまとまった卵塊を作る。アメフラシのいわゆるウミソウメンと同じであるが、アメフラシのものが鮮やかな黄色であるのに対して、タツナミガイのものは青緑色を帯びている』とある。
「二疋づつ恰も二つ巴の如き形になつて繫がつて居る」一部のウミウシやアメフラシでは三~五匹が繋がって連鎖交尾を行うことが知られている。参考書などではしばしば目にする図であり、私も油壺のタイドプールでアメフラシの三個体が繫がったものを観察したことがあるが、ネット上の画像ではそれほど一般的ではない。「小野にぃにぃの海と島んちゅ生活」のここの画像がよくとらえている。必見。]