日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 4
江ノ島は切り立ったような島で、満潮時には水の下になる長い狭い砂洲で、陸地とつながっている。この島は突然見える……というのは、陸地を離れる直前に、我々は長い砂丘を登るので、その頂に立つと江ノ島が海中に浮び、太平洋から押しよせる白波でへり取られた砂浜と共に人の目に入る。この長い砂洲を横切る時、私は初めて太平洋の海岸というものを見た。私は陸上に見るべきものが沢山あるので、それ迄海岸を見ることを、私自身に許さなかったのである。私が子供の時、大切に戸棚に仕舞っておいたり、あるいは博物館でおなじみになったりした亜熱帯の貝殻、例えば、たから貝、いも貝、大きなうずらがい、その他の南方の貝を、ここでは沢山拾うことが出来る。これ等の生物の生きたのが見られるという期待が、如何に私を悦ばせたかは、想像出来るであろう。江ノ島の村は、一本の急な狭い道をなして、ごちゃごちゃに集っているのだが、その道は短い距離をおいて六段、八段の石段がある位、急である。幅は十フィートを越えず、而も木造の茶屋が二階、あるいは三階建てなので、道は比較的暗い。これに加うるに板でつくった垂直の看板、いろいろな形や色をした、これも垂直な布等が、更に陰影を多くするので、道路の表面には決して日が当らず、常にしめっている。路の両側には店舗がぎつしり立ち並んでいて、その多くでは貝殻、海胆(うに)その他海浜で集めたいろいろな物でつくつた土産物を売っている。私は日本の食物で暮すことに決心して、昼飯は一口も食わずに出て来たのであった。一軒の茶屋に入って、部屋に通されると、我々は手をたたいた。これは召使いを呼ぶ普通な方法で、家が明け放しだから、手をたたくと台所までもよく聞える。召使いは「ハイ」と長くひっぱって答える。部直には家具その他が全く無く、あるものは只我々と旅行鞄とだけであった。必ずお茶、次に風味のない砂糖菓子とスポンジ・ケーク(かすてら)に似たような菓子が運ばれた。これ等は我国では、最後に来るのだが、ここでは最初に現われる。我々は床に坐っていた。私は殆ど餓死せんばかりに腹が空いていたので、何でも食う気であった。娘達が何かを差出すごとに、膝をついてお辞儀をする、そのしとやかな有様は、実に典雅それ自身であった。しばらくすると、漆器のお盆にのって食事が出現したが、磁器、陶器、漆器の皿の数の多さ! 箸は割マッチみたいにくっついていて、我我のために二つに割ってくれたが、これはつまり、新しく使い、そして使用後は折ってすてて了うことを示している。箸は図116のようにして片手で持つ。一本は拇指と二本の指とではさみ、物を書く時ペンを動かすようにして前後に動かす。もう一本の箸は薬指と、拇指と人差指との分れ目とで、しつかり押えられる。私はすでに、一寸箸を使うことが出来るようになった。これ等二本の簡単な装置が、テーブル上のすべての飲食用器具の代用をする。肉はそれが出る場合には、適宜の大さに切って膳に出される。スープは、我々の鉢に比べれば、小さくて深くて蓋のある椀に入っている。そして液体は飲み、固形分は箸でつまみ上げる。飯も同様な椀に入っていて、人はその椀を下唇にあてがって口に押し込む。だが、飯には、箸でそのかたまりをつまみ上げることも出来る位、ねばり気がある。飯櫃の蓋は、飯椀を給仕する時、よくお盆として使われる。料理番は、金網や鍋の食物をひっくり返すのに、金属製の箸を使用する。火鉢で使う箸は鉄か真鍮で、一端に環があって連結している。細工人は懐中時計を組み立てるのに細い箸を使う。往来の塵ひろいは、長さ三フィート半の竹の棒を二本持っていて、これで紙屑を拾い、背中にしよった籠の中に入れる。私は一人の老婦人が貝で花をつくるのを見たが、こまかい貝殻をつまみ上げるのに、我々が鑷子(ピンセット)を使用する所を、彼女は精巧な箸の一対を用いていた。若し我国の軍隊で箸の使用法を教えることが出来たら、兵隊の背嚢からナイフ、フォーク、スプーンを取り除くことが出来る。入獄人は一人残らず箸の使い方を教えらるべきである。公共の場所には、必ず箸が備えらるべきである。
図―116
[やぶちゃん注:「たから貝」原文は“Cyprӕa”(“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machine”にあるPDF版による。“æ”は A と E の合字で、中世ヨーロッパに於いて古典ラテン語の二重母音 AE を合字として綴るようになったのを起源とする特殊文字)。現在の“cypraea”は腹足綱直腹足亜綱Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科タカラガイ属 Cypraea の属名で、典型的なタカラガイ類を示す単語である。
「いも貝」原文“Conus”。腹足綱新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属Conus の属名。
「大きなうずらがい」原文“a big Dolium”。腹足綱前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ科ウウズラガイ Tonna perdix。ナマコを捕食する貝として知られ、生体は外套膜が非常に大きい。「沖縄美ら海水族館」の公式サイト内の「ナマコを食べる貝」で生貝の画像を見られる。
「十フィート」約3メートル。
「風味のない砂糖菓子」原文“a flavorless candy”。落雁か?
「スポンジ・ケーク(かすてら)に似たような菓子」「(かすてら)」はルビではない。原文は“and cake, not unlike sponge cake,”で、この「(かすてら)」は訳者石川氏の注である。
「割マッチ」原文“a split match”。今でも見られる“book match”(ブックマッチ)のこと。二つ折りのカバーに紙マッチを挟み込んだもので、一本ずつはぎとって使うタイプのマッチである。
「鑷子(ピンセット)」「(ピンセット)」はルビ。音読みすると「じょうし」又は「ちょうし」と読む。金属製の毛抜きのこと。]
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