修學旅行の記 芥川龍之介 《芥川龍之介未電子化掌品抄》
修學旅行の記 芥川龍之介
[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年五月十三日土曜日、東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)第一学年在学中であった芥川龍之介(満十三歳)の日帰り修学旅行(大森と川崎の間を歩いたもので現在の遠足に相当する)について綴った作文である。
勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊の「芥川龍之介全作品事典」の中田睦美氏の記載によれば、龍之介の盟友恒藤恭によって、昭和二四(一九四九)年十二月発行の『図書』誌上で、「中学生芥川龍之介の作品」として「猩々の養育院」とともに初めて公に紹介されたものである。恒藤の入手経路の解説によれば、『「関西学院大学法学部の助教授安立忠夫氏が来訪されて、芥川が東京府立第三中学に在学してゐたころの同級生の作文を一つに綴ぢたものを三冊持参された」云々とある』とし、さらに関口安義氏が筑摩書房一九九九年刊の「芥川龍之介とその時代」で、本作を『要を得、堂々としている。回覧雑誌で鍛えた腕の見せどころであったのかも知れない』と評している、と記す。
岩波版旧全集第十二巻「雜纂」に載るものを底本としたが、上記中田睦美氏の記載によると、この本文の句読点は上記の「中学生芥川龍之介の作品」の『末尾に「筆者ほどこす」とあるように恒藤恭による』ものであることが分かる(この事実は全集後記にはない)。なお、末尾にある『(明治四十一年、中學一年)』は省略した。最後に簡単な注を附した。]
修學旅行の記
明治三十八年五月十三日、東京府立第三中學校に修學旅行の擧あり。我等第一學年生徒は、中島、神山、小林、須藤、内野、鹿瀨の六訓導に引率せられて、大森、川崎間を旅行す。當日の略記下の如し。
「氣を付け」。處は新橋停車場前の廣場、時は明治三十八年五月十三日午前八時三十分。府立第三中學校第一學年生徒の修學旅行。出發の當時「右へ習へ」、「直れ」、「番號」、「一二三四……」、「右向け――右」、「前へ進め」。我が丙組は淸水組長の號令の下に二列縱隊を組み、隊伍堂々、歩武蕭々として停車場内に入り、群集の雜踏せる間を過ぎて、豫め我等の來車として定められし三等客車の内に入り、靜に發車をまつた、汽笛一聲出發を報じ、黑煙團々列車は徐に進行し始めぬ。右手(メテ)を望めば、土曜の空蒼々と晴れ渡りて、愛宕山より芝公園に連るの新綠殊に色深く、左手(ユンデ)を眺れば、渺々たる東京灣の波穩にして、目に映ずるものは水天一碧、海上を走る眞帆片帆は落花の風に舞ふが如く、翩々として翻々たり。
列車は新月なりの海岸をめぐりて品川に着し、更に此處を發して進む事二里餘りにして大森に着す。一行直に下車して池上なる本門寺に至る。ここぞ今より六百五十年の昔、法華經の行者日蓮の寂滅せし處にして、境内廣く淸くして、參詣者常に絶ず。内野先生は靑葉若葉の茂り合ひし間より朱ぬりの大堂宇の屹然として聳えたる好景を鉛筆畫のスケッチに筆を振れぬ。ここに休憩する事約三十分、編上げの靴の紐をしめ直して新田神社に向ふ。こは南朝の忠臣新田義興の忠魂を祀れる處なり。義興は義貞の第三子にして智勇兼備の良將なりしも、奸雄持氏の己を謀るを知らず、遂に其術中に陷り六郷川に無限の恨を呑みて完ンぬ。其の社大ならず、境内廣からずと雖も、老樹森々として、そゞろに神威の尊きを想しむ。それより矢口の渡船場に出で、こゝにて食事をしたゝむ。食後フートボールに汗を流し、スケッチに涼をむさぼる。
後渡船に乘じて對岸に渡るに、小林先生巧に「さほ」を操らる。
進む一里餘、畝路を傳ひ、麥畝を穿ち、林の暗きを過ぎ、稻田の明きに出で、川崎の町を通り、電車線路に沿ひつ。かくて川崎の大師に至る。高屋雲にそびへ、商賈店を並べ、參詣人引きもきらず。世人の云ふ大師は弘法に奪ると。宜なる哉。
少憩後、疲れたる足を引づりつ、川崎停車場に至り、四時三十分の汽車にて無事歸宅す。
一年丙組 芥川龍之介
[やぶちゃん注:「歩武蕭々」「歩武」の「歩」は六尺または六尺四寸、「武」はその半分をいう。わずかの距離。咫尺(しせき)の意。「蕭々」は本来、主に状況の音に対してのものさびしいさまを言う語で、きちんと並んで恭しく静かに進むことを「隊伍粛々」というから、「肅々」の誤りのようにも思われるが、実は「日本国語大辞典」電子版の「歩武堂堂」例文に荒畑寒村の文章が引用されており、そこには「或は軍歌を唱へつつ、隊伍蕭々、歩武堂々として」とある(正確には有料サイトなので全文は見えない。私は書籍の旧版「日本国語大辞典」を所持しているが、そこには載らない。大部の旧版を持っている私は業腹なので電子有料版を購読する気はないので引用の杜撰は悪しからず)から、誤用ではないようである。
「畝路」「うねみち」と訓じているか。
「麥畝」これで「むぎせ」とも読むようである。それとも、そのまま素直に「むぎうね」か。
「大師号を賜った高僧は数多いが、通常、単に「大師」というと空海のことを指すことから、かく言った。続けて「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる。そしてまた、三蔵は玄奘に奪わる」とか、講談や落語では「祖師は日蓮に奪われ、大師は弘法に奪われ、名奉行は大岡に奪われ、義士は四十七士に奪わる」などとも言った。]
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