萩原朔太郎「芭蕉私見」初出と「郷愁の詩人 與謝蕪村」に附録された同「芭蕉私見」の冒頭部比較
(萩原朔太郎「芭蕉私見」初出の冒頭部分)
芭蕉私見
僕は少し以前まで、芭蕉が嫌ひであつた。ただ不思議なことに、蕪村だけは昔から好きであつた。蕪村以外には、一般に俳句といふものを毛嫌ひして居た。その理由は、おそらく俳句の詩情してゐる東洋的の枯淡趣味や低徊趣味やが、僕の氣質的な性情と反潑するためであつたのだらう。蕪村だけが好きだつたのも、つまり蕪村の詩情に、萬葉風なロマンチシズムや靑春性があり、その點で他と異つて居た爲なのだらう。友人の室生犀星君や芥川龍之介君は、僕とちがつて俳句が好きで、且つ自分でも常に句作をし、逢へば芭蕉論などをして居たけれども、僕には全く興味がなく、俳句の話になるといつも横を向いて欠呻をして居た。
芭蕉に限らず、一體に俳句といふものが嫌ひであつた。しかし僕も、[やぶちゃん注:以下、略。注記参照。]
[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」の冒頭の一段落。筑摩版全集第七巻の巻末に載る「校異 郷愁の詩人 與謝蕪村」の記載に従って復元した。「反潑」「欠呻」はママ。後の昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では以下のように大幅にカットされて、本来の二段落目がそのままジョイントしている。
芭蕉私見
僕は少し以前まで、芭蕉の俳句が嫌ひであつた。芭蕉に限らず、一體に俳句といふものが嫌ひであつた。しかし僕も、最近漸く老年に近くなつてから、東洋風の枯淡趣味といふものが解つて來た。或は少しく解りかけて來たやうに思はれる。そして同時に、芭蕉などの特殊な妙味も解つて來た。昔は芥川君と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつたのだが、今では僕も芭蕉フアンの一人であり、或る點で蕪村よりも好きである。年齡と共に、今後の僕は、益〻芭蕉に深くひき込まれて來るやうな感じがする。日本に生れて、米の飯を五十年も長く食つて居たら、自然にさうなつて來るのが本當なのだらう。僕としては何だか寂しいやうな、悲しいやうな、やるせなく捨鉢になつたような思ひがする。
私は近い将来、この「芭蕉私見」の初出形を完全復元してみようと思っているが――ともかくも――
『友人の室生犀星君や芥川龍之介君は、僕とちがつて俳句が好きで、且つ自分でも常に句作をし、逢へば芭蕉論などをして居たけれども、僕には全く興味がなく、俳句の話になるといつも横を向いて欠呻をして居た』
という初出と、
『昔は芥川君と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつた』
という朔太郎の高慢な物謂いには、同じシークエンスとは思えない違和感がある。真実は初出である。気儘我儘で嫌いなために碌な知識もなく欠伸さえこいていた朔太郎が、芭蕉をキリスト・レベルまでディグし得た(と私は思っている)龍之介『と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつた』などというシチュエーションは考えられぬ。『いつも横を向いて欠呻をして居た』のが朔太郎の真実であったと私は言い切る。朔太郎は四十九になっても、どこかで万年少年の自己肥大を起こしているのである。……まあ、私も自己肥大についちゃあ……こんな朔太郎なんぞ、ものの数じゃあ、ないが、ね……]
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