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2013/07/31

中島敦漢詩全集 十五

  十五

 

 日曜所見

 

落葉空林徑

相逢碧眼孃

嬌嫣牽狗去

猶薰素馨香

 

○やぶちゃんの訓読

 

落葉 空林の徑(こみち)

相ひ逢ふ 碧眼の孃

嬌嫣(けいえん)として狗(いぬ)を牽きて去んぬ

猶ほ素馨香(そけいかう)の薰んずるがごとし

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「空林」悉く落葉した林。

・「碧眼」ここでは白色人種の青い瞳を指す。

・「」ここでは年若い女性を指す。

・「嬌嫣」「嬌」は愛くるしい。「嫣」は容貌が美しい。従って、美しく愛くるしいさま。

・「」犬

・「」「~のようである」との意の他に、「いまだに」との意がある。この詩では前者の意で捉えることもできるが、読者に陶酔をもたらす詩の余韻が増幅されることを期待し、敢えて「いまだに残り香が漂っている」というニュアンスを大幅に意識したい。

・「」「草花の香り」という名詞的用法もあるが、動詞として「熏」と同音同義で用いられることもある。すなわち、いぶすこと、鼻をつくこと。ここでは動詞として解釈し、「香る」という意に捉えたい。

・「素馨」ソケイ、別名ジャスミン。なお、現代中国語で花の名としてのジャスミンは「茉莉花」である。

 

T.S.君による現代日本語訳

 

 ある日曜の邂逅

 

幹と枝だけの疎林に冬陽が射し込む キラキラと――梢に透ける天空――

落葉散り敷く小径で行き遇ったのは――異国の少女 ブルーの瞳輝く――

犬を引く――その愛くるしい顔 スラリと伸びた手足 ステップ軽く――

擦れ違う――刹那私の顔を撫でたジャスミンの淡い夢 消えぬ残り香――

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 顔に当たる微風の、透明な、乾いた、肌に心地よい冷たさ――。

 どんな小さな音をも遠くまで忠実に伝える、適度な緊張を孕んだ冬の大気――。

 ふと道端の、どこまでも明るい疎林の奥を見透かせば、冬の陽が、樹々の間を縫って、しっかり斜めに射し込み、地面に達しているのが見える。その光線の眩い燦めき――。

 気づけば、冬の雑木林の底に積もった落ち葉を踏みしめる、乾いた私の足音――。

 

 さて、そこへいつの間にか別の乾いた足音が混じる。ああ、向こうから少女がやって来たのだ。それにしては、どうも足音が多い……。そうか、犬も一緒なのか。そういえば犬の息も聞こえるではないか。彼らはぐんぐん近づいて来る。ああ、青い瞳――異国の少女! そして彼女の子鹿のような肢体と、取り澄ましながらも頬はやや上気した愛くるしいその表情が、あっという間に私と擦れ違って行く。

 

 西洋の少女が持つ、日本の少女が持ち得ない軽やかさ――言うまでもなく、肌や眼や髪の色、洋服などに起因する軽み(仮にここを日本の少女で代替してみよう。詩世界が一気に瓦解するのが、読者にもお分かりいただけるであろう)――。

 同時に、西洋の少女だからこそ詩人や読者に感得させられること……、日本の土地から遊離することで実現する夢――お伽話的な魔法による、風土への絆との一時的遮断――。

 そして、犬を連れての散策であることから生じる心理的な軽やかさ――同時に、犬の速い足に合わせるための物理的な足取りの軽さ――。

 また、愛くるしい少女に触発された詩人の泡立つ心――。

 最後に――ほのかに、しかしいつまでも漂う――淡く、軽く、心持ち華やかなジャスミンの芳香――。しかも――それは、体温を持ち、溌溂と生きている生身のその少女から発せられた微香――。

 

 全ての舞台設定がこんなにも素直に、そしてこんなにも見事に、詩世界の構築に寄与しているなんて! しかも、全ては当たり前のようにごく自然に立ち現れる。作為的な場面設定の仕儀を全く感じさせないのだ。その結果、詩人の歩む林は、いつの間にか、西洋の少女にこそ似つかわしい林、すなわち国木田独歩(中島敦が生まれた前年にこの世を去った)が発見し定着させた『武蔵野』の林――近代的景観としてのスマートなそれが、読者の心の中に見事に立ち上がる。以下、当該作中の絶唱(私はそう信じている)とも言うべき二箇所を引用する[やぶちゃん注:二箇所の引用はT.S.君の指定箇所に従い、作成した「武蔵野」初版本底本のテクストより引用した。一部にある脱字補填の記号を省略した。]。

 

   *   *   *

 

楢の類だから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私語く。凩(こがらし)が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲へば、幾千萬の木の葉高く大空に舞ふて、小鳥の群かの如く遠く飛び去る。木の葉落ち盡せば、數十里の方域に亘(わた)る林が一時に裸體(はだか)になつて、蒼(あを)ずんだ冬の空が高く此上に垂れ、武藏野一面が一種の沈靜に入る。空氣が一段澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞へる。

 

       §

 

鳥の羽音、囀る聲。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ聲。叢(くさむら)の蔭、林の奧にすだく虫の音。空車(からぐるま)荷車(にぐるま)の林を廻(めぐ)り、坂を下り、野路(のぢ)を横ぎる響。蹄で落葉を蹶散(けち)らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乘に出かけた外國人である。何事をか聲高(こわだか)に話しながらゆく村の者のだみ聲、それも何時しか、遠ざかりゆく。獨り淋しさうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲聲。隣の林でだしぬけに起る銃音(つゝおと)。自分が一度犬をつれ、近處の林を訪ひ、切株に腰をかけて書(ほん)を讀んで居ると、突然林の奧で物の落ちたやうな音がした。足もとに臥(ね)て居た犬が耳を立てゝきつと其方を見つめた。それぎりで有つた。多分栗が落ちたのであらう、武藏野には栗樹(くりのき)も隨分多いから。

 

   *   *   *

 

 私たちは、この詩の出来事を、いかにも実際に経験しそうではないか。いや、そうではない! 本当に、昔どこかで経験したのではないだろうか? 誰にもそんなデジャ・ヴュを感じさせるものが、この詩には、確かに、ある。

[やぶちゃん注:私はこの漢詩と、次に示す中島敦の「小笠原紀行」の二首に現われる少女がオーバー・ラップすることを禁じ得ないということをここに特に注しておきたく思う(「帰化人部落」という前書を持った三首より二首。一首目の前にある前書も示した)。

  

    奧村に歸化人部落あり、もと捕鯨を業とする亞米利加人なりしといふ

小匝(こばこ)もち娘いで來ぬブルネット眼も黑けれど長き捷毛や

紅(あか)き貝茶色の貝(かひ)と貝つ物(もの)吾にくるゝとふ歸化人娘

 

リンク先は私のブログの当該歌群三首。]

 

 詩人はリラックスしている。肩に力など入っていないし、拳を握ってなんかいない。眉間に皺など寄せていないし、ため息などついてもいない。……

――冬の低い太陽に照らされた詩人の顔が

――口元にほんの少し湛えられた笑みが

見える。……

――足を止め、耳を澄ませて、少女の去った小路を振り返り

――ただ静かに佇んで眺めている詩人の姿が

見える。……

 

 中島敦という詩人が持っていた懐は、実は非常に深いのだ。こんなにも明るい、塵労を感じさせない、きらめく一種の情趣を、顔を上げて、ひたすらに自然体で歌うこともできるなんて……。そして驚くべきことに、純粋で確固たるこの詩境!

 私には、かすかに聞こえる。この情景には、他でもない、ショパンが、最も似合うのではないか……。曲は――? そう、エチュード十三番変イ長調……。

[やぶちゃん注:ショパンのエチュードの傑作中の傑作、第十三番変イ長調(Op.25-1)「エオリアンハープ」(シューマンの命名)はまた、「牧童」という別名をも持つ。これはショパンが雨宿りの牧童が静かに笛を吹く姿を想像して作ったという伝聞に基づく。リンク先は、私が選んだ“Wilhelm Backhaus plays Chopin Etudes Op.25”である。]

 

 なお、私はこの詩を、敢えて対比させることはしたくない……当時の日本の世相――頭に血が上って視野が狭まり、全世界を相手にヒステリックな喧嘩を売りまくろうとしていた世の中――とは……。そんなことは、決してしたくないのだ。この詩はこれだけでもう、完璧なのだ。ほかの何ものの付加も説明も要らない。ましてや、大上段に構えた抽象的な社会のことなど、いかなる理由があっても、何があっても、偉そうに改めて持ち出したくないのだ……。

 

 ところで、私は『詩世界の構築』と書いた。しかし、この詩世界は、殊更に作為された痕跡が殆ど見られず、この上なく自然であるように感じられる。これはまた、架空の設定ではなく、詩人が実際に経験した事実に基づくものであるからに違いない。

 彼は横浜に住んでいた。西洋人も多かった。大戦前の世情騒然としつつある時代でも、横浜には多くの外国人が住んでいた。とりわけ、彼が奉職していた学校のあった元町に隣接した山手の丘の上には、明治以来の日本にあって、独特の異国情緒豊かな一角があった。

 そして林。山手の丘の上で林といえば、我々は真っ先に根岸森林公園を想起する。しかしそこは旧根岸競馬場であった。中島敦が亡くなった一九四二年に中止されるまで、競馬は開催されていたらしいから、詩の舞台として、直接結びつける訳にはいかない。しかし、山手の丘の上は、今よりずっと長閑で、雑木林なども点在していたと考えてよかろう。少なくとも、急な傾斜地まで何かに憑かれたように宅地造成してしまう現代とは明らかに異なっていた。

 日本でありながら、日本でないような空気を、呼吸できる街――私はそんな『横浜』を想う……。ただし、誤解しないでいただきたい。私は『今の横浜』を言っているのでは、ない……。私が幼い頃、まだ現実にそんな片鱗が残っていたのではないかと思えるような、私の中に何か切なく懐かしくあるところの、『イメージとしてのヨコハマ』を、である……。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 21 西南戦争に赴く兵士たち

 東京への途中、兵隊が多数汽車に乗って来た。東京へ着いて見ると、道路は南方の戦争、即ち薩摩の叛乱から帰って来る軍隊で一杯であった。停車場の石段には将校が何人かいたが、みな立派な、利口そうな顔をしていて、ドイツの士官を思い出させた。私は往来の両側を、二列縦隊で行進する兵士の大群――多分一連隊であろう――を見たが、私が吃驚する暇もなく、私の人力車夫は片側に寄らず、もう一台の人力車の後について行列の間に入って了い、この隊伍の全長に沿うて走った。私は兵士達を見る機会を得た。色の黒い、日にやけた顔、赤で飾った濃紺の制服、白い鳥毛の前立をつけた短い革の帽子……これが兵士であり、士官はいい男で、ある者はまるで子供みたいだが、サムライの息子達で、恐れを知らぬ連中である。私を大いに驚かせ、且つよろこばせたのは、私に向って嘲笑したり、声をかけたりした者が、只の一人もなかったという事実である。彼等は道足で行進しつつあり、ある者は銃を腕にのせ、ある者は肩にになっていたが、それにしてもこれ程静かな感じのする、規律正しい人々を見たのはこれが最初である。事実彼等は皆紳士なので、行為もそれにふさわしかった。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、これは西南戦争の出兵の様子である。これは磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の復元日録から察するに、恐らく八月十八~二十一日前後の出来事ではないかと推測されるが(後述)、当時の西南の役は西郷隆盛が南進を始める(八月二十二日)直近、九月一日の城山籠城戦への突入直前という最終局面に達しつつあった(西郷の自刃は九月二十四日)。この描写された征討部隊も、後にこの籠城の最終戦に参加した人々とも思われる。
「彼等は道足で行進しつつあり、」原文は“They were marching along in fatigue fashion ;”である。「道足」という日本語がよくわからないが、「並足(なみあし)」(普通の足並み)のことか? しかしこの“in fatigue fashion”という語にそのような意味があるのだろうか? “fatigue”には軍事用語として、特に罰としての雑役“fatigue duty”、作業衣・野戦服“combat fatigue”の意があるから、寧ろ私は、
 野戦服に身を包んで並んで後進しつつあり、
と訳したくなるのだが(但し、通常、野戦服の場合は複数形を用いると辞書にはあるが)。識者の御教授を乞う。
 なお日の同定については、八月十八日が教育博物館(国立科学博物館の前身)の開館式であったことから(但し、磯野先生は『モースの出欠は不明』とされておられる)、同月二十一日は、モースが東京上野で開かれた第一回内国勧業博覧会開会式に出席していることにより、私が前後あえて言ったのは、磯野先生が二十一日の条に『この頃彼は東大に行き、生物学関係の教室と研究室を下見した』とあることによる。実は次の次の段落にその下見の様子が描かれており、本段落もその同日の直前の実見記であるようにも読めるのである(モースが別の日の記憶を繫げた可能性も捨てきれないが)。]

教育? 萩原朔太郎

          ●教育?

 教育は、猿を人間にしない。ただ見かけの上で、人間によく似た樣子をあたへる。猿が、教育されればされるほど、益〻滑稽なものに見えてくる。
 もとより猿に關しては、初めの目的がそれである。充分の愛矯であり、道化者であることが、猿芝居における、教育の最終の理想である。これが人間の場合にあつては、別の理想が考へられてる。但し恐らくは、ただの理想にすぎないところの、ずつと超自然的な目的が!
 人間どもの、悲しき夢の一つである。

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「社會と文明」より。]

少年とタコノキ 三首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    更に奧村を行けば十歳ばかりの少年

    馴々しく話しかけわが爲に章魚木の

    實をとらむとて木に攀づ

章魚木(たこのき)にのぼる童の眼は碧く鳶色肌の生毛(うぶげ)日に照る

ナイフ光り實は落ちにけり少年もとびおりたれど砂にまろびぬ

根上りし章魚木の東根に背を凭(も)たせやゝに汗ばむ少年の顏

[やぶちゃん注:前書は一文前が連続であるが、適宜改行した。先に注で示した通り、タコノキは夏に数十個の果実が固まったパイナップル状の集合果をつけ、果実は秋にオレンジ色に熟し、茹でて食用としたり、食用油を採取する原料とする。この記載(ウィキタコノキ」に拠る)では季節的に(中島敦の来島は三月下旬)どうかと思ったが、こちらの方の三月十六日附(二〇〇九年)の小笠原旅行中のブログに、熟したタコノキの実がそこここにあり、実のなっている画像も示されている。]

あなたの一言にぬれて 大手拓次

 あなたの一言にぬれて

まどはひかりをよびかはして、
ことごとにかなしみのうつりがを消し、
あゆみもおそく たそがれをあはくぼかして、
うるはしくながれのなかにとけてゆく。

鬼城句集 夏之部 蛞蝓

蛞蝓    蛞蝓の歩いて庭の曇かな

      蛞蝓の土くれを落ちてしじまりぬ

[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記、「じ」は踊り字「〵」の濁点のあるもの。「しじまりぬ」の「しじむ」は「蹙む・縮む」で、ちぢむ、小さくなるの意。]

2013/07/30

明恵上人夢記 19

19
 同十四日、丹波殿の事に依りて京に出づ。同十五日、對面を辭退して山に登る。其の夜、夢に云はく、或る處に法會を行じて、之を聽聞す。法智房(ほふちぼう)が云はく、「入我我滅之佛事よ」と云々。成佛房(じやうぶつばう)、導師と爲(な)りて、神分(じんぶん)之處、發句に云はく、「入滅之砌(みぎり)なれば」と云々。又、教化之發句に、「鏑矢(かぶらや)を射るが如し」と云々。其の後、座を起(た)ちて、やはら成辨之頭を踏む事三度、又、傍にある人の頭を三返、之を踏むと云々。

[やぶちゃん注:「同十四日」元久二(一二〇五)年十月十四日。
「丹波殿」不詳。文脈上、「對面を辭退し」た相手はこの「丹波殿」ととっておく。
「法智房」底本の注に、『明恵の同行者の一人、性実。文応元年(一二六〇)入寂。八十三歳。』とあるから、当時、法智房は満二十七歳(明恵は満三十二歳)。
「入我我滅」仏法の真実の域に身を委ねて自己を滅却、仏と一体化すること。
「成佛房」不詳。
「神分」仏事法要の部分名。広狭二義に用いる。法要の導師が諸天諸神のためにその解脱増威を祈願する句を唱えるのが狭義の神分で「総神分(そうじんぶん)」とも称する。「大梵天王帝釈天王を始め奉り……」などと名号を挙げて「……に至るまで、離業証果(りごうしようが)せしめ奉らんがために、総神分に般若心経、大般若経名」などと結ぶ。仏教に於いては神の世界は迷界の六道の一つであって神通力はあるものの、業苦を離れられないため、功徳を求めて法要の場に来臨している、と考える。そこで、その神々のために経文や経題を唱誦することから「神の分」と言うのである(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

■やぶちゃん現代語訳

19
 同十四日、丹波殿のことに関わって京に出た。同十五日、結局、丹波殿との対面を辞退して筏立の山に戻った。その夜、見た夢。
『ある所にて法会が行(ぎょう)ぜられている。それを私は聴聞している。
 法智房がいて
「入我我滅の仏事であることよ!」
と讃嘆している。
 見ると成仏房が導師となっている。
 彼は丁度、神分(じんぶん)を唱誦しているところで、その発句は、
「入滅の砌りなれば!」
であった。また教化の箇所の発句には、
「鏑矢を射るが如し!」
と高らかに誦した。
 と、その直後、成仏房は座を起って、やおら、私の頭を踏むこと、三度――また、傍らにあった御仁(誰であったかは失念)の頭を同じく三返、これを踏むのであった。』

栂尾明恵上人伝記 53 仏法の不審又は生死に関わる問題以外は面会謝絶

 又、僧俗來りて對面を望む人には、侍者を出して、何事の御用候哉。若し法門御不審の事候か、又生死一大事を仰せ合せられ候はん爲に候か、若し然らざれば只雜談(ざふだん)の御料(ごりやう)に候か、徒に雜談は若(わか)くよりし候はじと、聊か心中に願を立て侍り、今更破るべきに候はずとて歸されけり。

『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 12 兒が淵

 

    ●兒が淵

 

新編鎌倉志に云く龍穴へ行く坂の巖下。右の方の海水碧潭如藍なる所を云ふなり。昔建長寺の廣德菴に、自休藏主と云ふ僧あり奧州志信の人なり。江の島へ百日參詣しけるに。雪相承院白菊と云ふ兒。是も江の島へ參詣しけるに。自休藏主邂逅してけり。いかにもして忍びよるべき便りを云けれとも。絕(たえ)て其の返事たになし。猶さまさま云聞かすれは。白菊せんかたなくて。或夜まぎれ出で。又江の島へ行。扇子に歌を書て。渡守(わたしもり)を賴み。我を尋ぬる人あらは見せよとて。

 

 白菊としのふのさとの人とはゞ思ひ入江の島とこたへよ

 

 うきことを思ひ入江の島かけに捨(すつ)る命は波の下くさ

 

と詠(よみ)て此淵に身を投たり。自休尋ね來て此事を聞き。かく思ひ續けゝる。

 

[やぶちゃん注:以下は底本では連続して書かれ、全体が一字下げであるが、七言律詩であるので、二段組で行分けした。]

 

 懸崕嶮處捨生涯。  十有餘霜在刹那。

 

 花質紅顏碎岩石。  娥眉翠黛委塵沙。

 

 衣襟只濕千行淚。  扇子空殘二首歌。

 

 相對無言愁思切。  暮鐘爲孰促歸家。

 

又歌に

 

 白菊の花のなきけの深き海にともに入江の島そ嬉しき

 

と詠みて其儘海に沈むとなん。故に兒が淵と名くとなり。岩の間に白菊が石塔あり。右詩題は滑稽詩文に載たり。自休が像法華堂にあり。

 

[やぶちゃん注:「碧潭如藍」碧潭、藍のごとく。

 

「志信」「しのぶ」と読む。信夫郡。陸奥国及び後に分立した岩代国(現在の福島県)にあった。

 

 さて、自休の七律は、私の「新編鎌倉志卷之六」のそれとは以下の異同がある。

 

・「懸崕嶮處捨生涯」の「崕」は「崖」

 

・「娥眉翠黛委塵沙」の「委」は「接」

 

いずれが正しいかは不詳。「新編鎌倉志卷之六」で訓読したものを参考にして以下に書き下しを示す。

 

 懸崕 嶮しき處 生涯を捨つ

 

 花質 紅顏 岩石に碎け

 

 十有餘霜 刹那 在り

 

 娥眉翠黛 塵沙に委ぬ

 

 衣襟 只だ濕ふ 千行の淚

 

 扇子 空しく留む 二首の歌

 

 相ひ對して言ふ無し 愁思 切なり

 

 暮鐘 孰(た)が爲にか 歸家を促す

 

 以下、筆者が「新編鎌倉志卷之六」をほぼそのままに引用したように、私が新編鎌倉志卷之六」で施した注をそのまま引用しておく。

 

 西御門にある来迎寺には抜陀婆羅尊者(ばったばらそんじゃ)木像があるが、これは別伝でこの自休和尚の像とされる。実は来迎寺本尊如意輪観音像とこの像は、その過去を辿ってみると、報恩寺→太平寺→法華堂→来迎寺と目まぐるしく鎌倉内を移動している。特にここで法華堂が直前の所蔵であったことに着目したい。来迎寺に迎えられたのは実は明治の廃仏毀釈令以降であることが分かっている。そしてそれまで近世の法華堂は鶴岡八幡宮の管理下にあったことも分かっている。しかも、この話柄の主人公美少年白菊は鶴岡八幡宮寺二十五坊の一つ「雪下相承院」の稚児なのである。本文最後の「自休が像、法華堂にあり」とは、島内にあったかも知れない法華堂ではなく、正に鎌倉西御門の法華堂であることを意味していると考えてよい。私が言いたいのは、この来迎寺の像が自休像であるかないかの実証とは無関係に、本記載の最後に言う「自休が像」と来迎寺に現存する抜陀婆羅尊者木像(伝自休和尚像)は同一物であるということである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 20 祭文語り



M185
図―185

 

 私の頭は大きな貝を共鳴器として使用する歌い手、或は話し家に関係する騒音と新奇さとで、ガンガンする程である。彼の写生図(図185)は割によく似ている。彼は学生達の招きに応じて、往来の向うから、私の部屋へ入って来た。学生達は、私がこの男の立てつつある音に興味を感じたのに気がついて、呼んだのである。彼は低い、机に似た将棋盤の前に坐って恐ろしく陰気な音で吹き続けた。その音は、犢(こうし)の啼くのを真似したら出来そうであるが、然し調子には規則正しい連続があり、私にはそれが明かに判った。時に彼は咳をしては声を張り上げ、息を吸い込む時には、悲哀のドン底に沈んでいる人みたいな音を立てた。貝殻をプープーやると同時に、彼は片手に、木の柄に何かの金属をつけて作った、奇妙なガランガランいう一種の鳴鐘器を持っていた。この金属の一端は半インチ足らず前後に動いて、カランカランと弱々しい音を立てた。しばらくこのような音を立てた上で、彼は喇叭(ラッパ)を下に置き、歌を唄ったのと同じ調子で吟誦し、徐々に談話に移って行ったが、それにも時々歌と、それから貝殻が出す憂鬱な音とが入り込んだ。日本の学生達は彼の談話のある所々で、笑いを爆発させた。私は彼の貝殻、小さな木のかたまり、及び彼がビシャツと机を叩いて話に勢をつける扇形の木箆(へら)を更によく見ようと思ったので、彼のこの演技に対して十セント支払った。すると彼は私がこれ等の物品に興味を持っていることを知り、お礼がいいのを有難く思って、私に木片と、例の叩く物とを呉れた。図186は話し家の道具の一つを示している。

 



M186
図―186

 

[やぶちゃん注:これは「祭文語り」「祭文読み」の末裔である。祭文語りはもとは地方遍歴の山伏などが祈禱の際に、法螺貝や錫杖などを鳴らして祭文を語って、門付して歩いたものをいうが、これが大衆に迎えられて芸能化し、江戸の初期には、遊里などで法螺貝の代わりに三味線を伴奏に流行歌謡や浄瑠璃を取り入れた人情物(歌祭文)を語る芸人と化した。そうした義大夫節・豊後節の諸浄瑠璃から江戸長唄に取り入れられて残ったのが「歌祭文」となり、内容が極端に卑俗化したものが「ちょぼくれ節」とになって分れた。「貝祭文」とか「でろれん祭文」と称したが、「でろれん」は法螺貝は口に当てるだけで吹かず、客の方がその擬音である「でろれん!」の合いの手を入れたことによる。参照した三谷一馬「江戸商売図絵」(一九九五年刊中公文庫版)によれば、法螺貝を吹き鳴らした(若しくは吹く真似をした)後に『錫杖を握ってガチガチと調子を合わせて歌い出』『すが、発声に「ヘェー」といってから文句にかかる』のが特徴であったとある。浪曲の源流ともいわれる。

「図186」は張扇である。以下、今の「ハリセン」の正統なルーツは知らなかったので、以下に参照したウィキ扇」から、引用しておく。張扇(はりおうぎ・はりせん)は『能楽や講談、落語(上方落語)においてものをたたいて音を立てるためにつくられた専用の扇子のことをいう。能楽では「はりおうぎ」、講談では「はりせん」ということが多い』。『古く雅楽において笏によって拍子をとる笏拍子なる役掌が見られ、古浄瑠璃にも同様の扇拍子と呼ばれるものがあったことを見てもわかるように、拍子楽器として近世以前の日本でもっとも広くかつ簡便に用いられたのは、手に持つ道具によって手のひらを打つことであった。近世以降、鼓を中心とする打楽器の飛躍的な発達と流布によって扇拍子は徐々に下火になっていったが、その簡便さから専用の張扇によって扇拍子の残った例も少なくない』『能楽では、アシライと称して、稽古や申合せの際に、小鼓・大鼓・太鼓を扇拍子で間に合わせることがある。これはあくまで略式の演奏であるとされるが、特に大鼓のように道具の準備に時間のかかる楽器においてはすぐれた代替法として用いられており、音色よりも間を尊重する能楽の楽器にあっては当を得た奏法であるといえる。それぞれ専門の職掌の者が行うほかに、謡の稽古の際に師匠がアシライをすることもある。なお、張扇を用いることはないが、舞台上で鼓が破れた場合には扇拍子でアシライを打つのが正規の代替法であり、江戸期までは素謡の席で地頭が扇拍子をとって地を統率することもあった』。『講談では釈台を張扇で叩いて、場面転換の合図にしたり、山場で調子を出したりするときに用いる。上方落語における用法もだいたいはこれに準じているといえる。史実を無視した荒唐無稽な作り話を「張扇の音と一緒に叩き出した」「張扇の音がする」などというのは、このため』である。能楽の扇拍子は、『通常の扇子を二つに割り、全体に紙を巻き、さらに上から皮もしくは紙で化粧貼りをした上で、要のあたりに持手をつける。二本一対で用い、欅製などの拍子板を打つ』。講談などの張扇は『だいたいは能楽のそれと同様だが、最初から張扇専用に、かなり大き目のものをつくる。場合によっては、単に扇のかたちをしているだけで、紙貼などによって型で作ることもある。基本的に一本で使用し、釈台や見台を叩』いて使用する、とある。]

耳嚢 卷之七 幽靈恩謝する事 その二

 

   又

 

 多喜安長へ隨身(ずゐじん)なしける醫師、安長世話致、松浦(まつら)家へ貮拾四歲にて抱(かかへ)に成りしが、無程(ほどなく)痛疽(つうそ)の病にて身まかりぬ。病中も安長厚(あつく)世話致(いたし)、療治不屆(とどかず)相果(あひはてし)故不便(ふびん)に思ひ居(をり)しに、或夜安長が許へ出入藥種屋藤藏、彼(かの)醫師相果し事しらず、與風(ふと)道中にて右醫師に行合(ゆきあひ)にける。扨々久々にて對面なしたり、我も病氣にて久々引込居(ひきこみをり)たり、扨安長に數年世話にも成り、松浦家へも右口入(くちいれ)にて抱られ、病中も厚世話に成(なり)、誠に其恩可謝(しやすべき)に限(かぎり)なし。何卒安長へ至りなば、我斯(かく)申遣(まうしつかは)しと厚(あつく)咄し禮謝しを賴入(たのみい)る由申(まうし)けるにぞ承諾して立別(たちわかれ)、其日にもや明日にや安長方へ至りしに、彼醫師に行逢(ゆきあひ)しに言傳(ことづて)禮の趣(おもむき)語りければ、其者はいついつ相果ぬると語りければ、右藥種屋も大きに驚き、安長方にても何れも驚きしは、忘念(ばうねん)殘りてかゝる事もありしや、哀(あはれ)なる事也(なり)。いづれも袖をぬらしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:亡魂謝礼譚その二。

・「多喜安長」不詳。名前からしても医師である。

・「松浦家」肥前国平戸藩。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であり、そうすると「甲子夜話」で知られた第九代藩主松浦清(静山)がまさに隠居した年である。「耳嚢」と並ぶ画期的な随筆集「甲子夜話」(正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻)はこの十五年後の文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜に執筆が開始されている。……ここをかりて何気に申しておくと、近い将来、私はこの「甲子夜話」の全テキスト化を始めようと目論んでいる。……

・「痛疽」前章注で述べた通り、文字通りならば、背中などに出来る激痛を伴う悪性の腫れ物、癰(よう)の類を指そう。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『瘴疳』とし、前章の注で示した通り、長谷川氏によるとバークレー校版は「*」[やぶちゃん字注:「*」=「疒」+(「降」-「阝」)。](「★」[やぶちゃん字注:「★」=「疒」+「争」。]とも見える字)『を書き瘴と訂正している』とある。「瘴疳」とはやはり前章注で示した通り、「傷寒」で高熱を伴う疾患をいう。

・「禮謝しを」底本では「しを」の右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『厚く咄し禮謝しを賴入(たのみいる)」由申けるにぞ』とある(引用に際して正字化した)。

・「忘念」底本では右に『(亡念)』と訂正注記を附す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幽霊の恩謝する事 その二

 

 医師多喜安長(たきあんちょう)殿に弟子として従って御座った医師某(ぼう)は、安長殿がお世話致されて、松浦(まつら)家へ二十四の歳にてお抱えの医師となったが、ほどのう、痛疽(つうそ)の病のために身罷ったと申す。

 病中も師安長殿が厚く世話致されたが、薬石効なく、相い果てて御座ったゆえ、安長殿も殊の外、不憫に思っておられたと申す。

 ある夜のことで御座った。

 安長の許へ出入致いておる薬種屋藤蔵(とうぞう)なるもの――彼は、かの医師が既に相い果てて御座ったことを知らなんだ――、ふと往来にて、かの医師に行き合うたと申す。

 すると亡くなったはずの、かの医師は、

「これは、藤蔵殿! さてさて久々に対面(たいめ)致いた。我らも病気にて久しく引っ込んでをりましたゆえ。……さても、安長さまには、まっこと、数年来お世話になり、松浦家へもかくの如くご紹介戴いて、目出度く抱えられもし……かの病中にも、厚きお世話を頂戴致いて――まっこと、その恩、謝すべきに限り御座らぬ。……何卒、安長さまの元へ参らるることが御座いましたら、我らがかく申して御座ったと、くれぐれも宜しゅう……礼謝のほど……きっと、お頼み致しまする……」

と、申したによって、請けがった上、そこ場は別れたと申す。

 さて――その日か、その翌日のことか――藤蔵、安長方へ参ったによって、

「○○さまに往来にて行き逢いまして――」

と、先の言伝(ことづ)ての趣きを語り出だいたところが、安長殿、

「……その者は……いついつ……とおに……相い果てて御座るが……」

と語ったればこそ、この薬種屋藤蔵も、安長殿も、孰れも大きに驚き、

「……死後の魂の念が、これ、残って御座ったものか。……このようなこともあるのじゃのぅ。……いや、全く以って哀れなることじゃ……」

と、二人して袖を濡らいたと、話に聴いて御座る。

自殺の恐怖 萩原朔太郎 (「自殺の恐怖」初出形)

 

 

 自殺の恐怖

 

 自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。

 

 だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い舗石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!

 

 この幻想の恐ろしさから、私はいつも幽靈のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語る者が少なくあるまい。彼等はすべて墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。 

 

[やぶちゃん注:『セルパン』創刊号・昭和六(一九三一)年五月号に掲載された。但し、「斷じて自分は死にたくない。死にたくない。死にたくない。」の最後の「死にたくない。」は「死にくない。」で脱字であることから補って示した。太字「はつきり」は底本では傍点「ヽ」。後に、詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に所収されたが、そこでは標題が「自殺の恐ろしさ」に変わり、以下に見るように幾つかの細部に変更が加えられている(その間の「絶望への逃走」(昭和一二年第一書房刊)にも「自殺の恐ろしさ」とした「宿命」版に近い中間形態のものが存在するが、ここでは特に問題とせず、以下を本散文詩の一つの最終形と捉えておく)。

 

   *

 

 自殺の恐ろしさ 

 

 自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。

 

 だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、雷光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!

 

 この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。

   *

 私は高校二年の時、二篇の小説を書いたのを覚えている(後に廃棄し手元にはない)。その一つは「飢餓海峡」のエンディングの続きと思しいシチュエーションで、一人の男が青函連絡船から入水自殺を図りながら、突如、死にたくなくなり、その死の恐怖に襲われつつ、手錠のままに海の藻屑となるまでの十数分間の男の意識を描いたものだった。今一つは、定年退職した老数学教授が全く無理由に厭世的になり、マンションのベランダから投身自殺をするのだが、その落下から舗道への激突と死に至る数分の中で、「ポアンカレ予想」(「単連結な三次元閉多様体は三次元球面Sに同相である」という命題)が解けてしまう、というものであった(これは後に、二〇〇二年から二〇〇三年にかけて、ロシア人数学者グリゴリー・ペレルマンによって証明されたとウィキポアンカレ予想」にある。私がこの小説を書いたのは1973年であった)。……このアフォリズムを読みながら、そんなことや、芥川龍之介のことや、「こゝろ」の先生のことを思い出していた……]

 

 

帰化人部落 三首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    奧村に歸化人部落あり、もと捕鯨を業とする亞米利加人なりしといふ

奧村のパパイヤの蔭に歸化人の家靑く塗り甘煮植ゑたり


小匝(こばこ)もち娘いで來ぬブルネット眼も黑けれど長き捷毛や


[やぶちゃん注:「ブルネット」ここは英語“brunet”(男性)の女性形“brunette”で褐色がかった髪のこと。“brunet”はフランス語“brun”(brown)+指小辞“-et”が語源。]


紅(あか)き貝茶色の貝(かひ)と貝つ物(もの)吾にくるゝとふ歸化人娘


[やぶちゃん注:「貝つ」の「つ」は格助詞で所属などを示すが、ここは、貝という貝を、という助数詞「つ」(個・箇)のニュアンスを含ませたか。

「歸化人」はウィキ欧米系島民に詳しい。この「欧米系島民」とは小笠原諸島に居住していたかつて外国籍(但し、ハワイ人やポリネシア人が含まれていて欧米系白人のみではない)を持っていて日本に帰化した(明治一五(一八八二)年に居住していた二十戸七十二人全員が帰化し日本人となっている)人々とその子孫を指す語である。小笠原への本格的入植は日本からではなく、一八三〇(文政一三)年のイタリア出身のイギリス人と称するマテオ・マザロを団長とするイギリス人二名・アメリカ人二名・デンマーク人一名の五名及びハワイ人男女二十五名(十五人とするものもある)がホノルルから出向、六月二十六日に父島に到着し、入植したのが最初とされ、マテオ・マザロからの報告を受けたサンドイッチ諸島イギリス領事代理は、入植地に原住民はいなかった、と同年の報告書に記しているとある(但し、十九世紀初頭に来島した者の航海日誌や探検報告書によれば小笠原諸島に自ら住みついた白人やカナカ人(色の黒い人)住人がいたことが記されており、一八二七(文政一〇)年には難破した捕鯨船の乗組員が数年居住した事実もウィキに記されてある)。小笠原は一八三〇年の『入植後も各国の捕鯨船が頻繁に寄港しており、物資や手紙のやりとりを託す連絡船として機能していた』が、文久元年十二月十七日(一八六一年十一月十六日)に江戸幕府が列国公使に小笠原の開拓を通告、一八六二年一月(文久元年十二月)には外国奉行水野忠徳の一行が咸臨丸で小笠原に派遣されている。明治九(一八七六)年に明治新政府は小笠原島を内務省所轄とし、日本の統治を各国に通告、それを受けて先に示した全欧米系島民の帰化が明治一五年になされた。『第二次世界大戦中、戦火が間近に迫っていることから小笠原諸島の全住民は、欧米系島民も含め本土へ疎開した』が、『戦後アメリカの統治下に置かれると、小笠原諸島は日本の施政権から切り離される。そして欧米系島民のみが帰島を許された。アメリカ統治時代は英語が公用語とされ、義務教育課程校のラドフォード提督初等学校で英語による教育を受けた』。昭和四三(一九六八)年六月二十六日の日本への『返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存している。アメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住したものもいる』。なお、『現在、欧米系島民の姓として代表的なものは、セイヴァリー→瀬掘・奥村(アメリカ系)、ワシントン→大平・木村・池田・松澤(アメリカ系)、ウェッブ→上部(アメリカ系)、ギリー→南(アメリカ系)、ゴンザレス→岸・小笠原(ポルトガル系)、ゲーラー→野沢などがあげられる』が、四~六世代目を『迎えた現在、大多数は日本人との混血となっており、外見上は日本人とほとんど変わらない人も少なくない。今でも小笠原の電話帳などでみられる、これらの姓は欧米系島民の入植者の子孫である』とある。『欧米系島民と呼ばれるものの、その出自は出版された航海日誌などで確認できるものとしては、アメリカ合衆国、ハワイ、イギリス、ドイツ、ポルトガル、デンマーク、フランス、ポリネシア原住民など多種多様』であるともある。この褐色の髪と黒き瞳の少女――存命ならば八十歳を越えておられよう――逢ってみたい気がする……]

思ひ出はすてられた舞踏靴 大手拓次

 思ひ出はすてられた舞踏靴

 

それは わたしの心(こゝろ)にくろいさくらの咲きつづく

うすぐもりした春(はる)の日(ひ)でした。

みどりの小石(こいし)をつづつて

しろい小羽根(こばね)のしたにあたためてゐたのに、

おともなく

あらしのまへのそよかぜのやうに、

あなたのすがたはみえなくなつてしまひました。

あなたの白文鳥(しろぶんてう)のやうなみぶりが、

きえたわたしの橋のうへに

たえだえにすぎてゆきます。

さきこぼれるしろばらのゆふやみのやうなあなたのかほは

わたしの手鏡(てかゞみ)のなかに

ふしぎな春(はる)のぼんぼりをともしてゐます。

まどろみからさめたあなたの指(ゆび)が

みがかれた象牙(ざうげ)のやうにあをじろんで、

ほろにがい沈丁花(ぢんちやうげ)のにほひをうつしてゐます。

ああ 思(おも)ひではすてられた銀(ぎん)の舞踏靴(エスカルパン)のやうに

くさむらのなかによろけながら、

月(つき)のかげをおしつぶしてゐます。

ただ あなたの指(ゆび)にふれたばかりで

はかなくわかれてしまつた戀人(こひびと)よ、

わたしは蜘蛛(くも)のやうにきずつけられて、

まだらのみを

風(かぜ)のなかにうごかしてゐるのです。

 

[やぶちゃん注:「白文鳥」スズメ目スズメ亜目カエデチョウ科ブンチョウ Padda oryzivora のアルビノの品種。ハクブンチョウとも呼ぶ。ブンチョウはジャワ島やバリ島が原産地であるが、本種は江戸期に中国から輸入されたブンチョウが明治期に突然変異して風切り羽の白い文鳥が生まれ、その後それが固定化されたものである(愛知県弥富市が「ハクブンチョウ」発祥の地とされる)。全身が白く、嘴と目の周囲が赤く、身体に丸みがある(帯広どうぶつ園の鳥  鳥図鑑」記載ウィキブンチョウ」を参照した)。

「舞踏靴(エスカルパン)」“escarpin”フランス語。現在は専ら婦人用パンプスを指す。]

鬼城句集 夏之部 金魚 / 蛍 

金魚    金魚の王魚沈で日暮るゝ

[やぶちゃん注:「金魚の王」蘭鋳(ランチュウ)のことか。私は想像しただけで、あの畸形身体には虫唾が走る。]

螢     さみしさや音なく起つて行く螢

[やぶちゃん注:名句と思う。]

       悼吾雲兄愛兒

      螢來よ來よ魂も呼で來よ

[やぶちゃん注:「來よ來よ」の後半は底本では踊り字「〱」。同じ夏の部の「蚊帳」の同じ「悼吾雲兄愛兒」という前書を持つ「枕蚊帳の翠微に魂のかへり來よ」の句の注を参照されたい。]

      市中になぐれて高き螢かな

[やぶちゃん注:「なぐる」には、横の方へそれる、の他に、おちぶれる・身を持ち崩す、売れ残る、仕事にあぶれる、といった意味がある。無論、横にそれて飛び消えてゆく嘱目のそれであるが、「市中」というロケーションの特異性が、蛍の持つ「さみしさ」と相俟って、「なぐれて」の意をそれ以外の意味をもずらして感じさせているようにも思われる。「村上鬼城記念館」公式サイト「鬼城草庵」の鬼城俳句と自画讃で雷神の絵を添えた短冊が見られる。

2013/07/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 19 仏壇/理髪業の携帯道具入

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図―183

 図183は家庭内の祠(ほこら)を、写生したものである。小さなテーブルの上にならんでいるコップは真鍮製で、赤い色をした飯が盛ってある。右の下には薩摩芋と、一種の蕪とに四本の木の脚をつけて、豚みたいな形にしたものがある。中の段には米の塊が二つと、桃をのせた皿とがあるが、先祖の中に虎疫(コレラ)で死んだものがありとすれば、桃の一皿はまことに暗示的なお供物であろう。もっともあまり気持のよくない思い出させではあるが――。祠の中央には仏陀の美しい像があった。これは最もみすぼらしい小舎にあった祠である。
[やぶちゃん注:「米の塊」底本では以下に『〔餅のことであろう〕』という石川氏の割注がある。
「桃をのせた皿とがあるが、先祖の中に虎疫(コレラ)で死んだものがありとすれば、桃の一皿はまことに暗示的なお供物であろう」意味不明。水で冷やした桃はコレラの感染源たり得ることはあるが、ここまでは言うまい。何か、コレラと桃との間に、それもモースのような一般的アメリカ人の人口に膾炙した虚偽の病因関連説があったとしか思われない。識者の御教授を乞うものである。]

 今朝私はサミセンガイを調べに実験所へ行ったが、昨夜極く僅かしか眠ていないので、起きていることが全く出来ず、断念して部屋へ帰り、短くて不安定なハンモックが提供する範囲で、最も気持のよい昼寝をした。明日で、家庭を離れてから恰度三ケ月になるが、その間、ホテルとドクタア・マレーの家とに泊った数夜を除くと、私は寝台という贅沢品を経験していない。三ケ月間の一部分は、米国大陸を横断する寝台車にいた。また十七日間は、汽船の最も狭い寝床で暮した。そして其後はありとあらゆる品物を枕の代用品として、ハンモックか、固い畳の上かに寝ているのである。

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図―184

 今迄に私は理髪店というものを見たことがない。床屋は移動式で、真鍮を張った、剃刀(かみそり)その他を入れる引き出しのある箱(図184)を持って廻る。この箱は何か色の黒い材木で出来ていて、真鍮の模様があり、油とびんつけの香がぶんぷんする。鋏は我国で羊の毛を切る鋏に似ている。剃刀は鋼鉄の細長くて薄い一片で、支那の剃刀とはまるで違う。剃刀をとぐ砥石(といし)は、箱の下の方に見えている。引き出しには留針や、糸や、頭髪等が一杯入っている。箱の上の木製の煙出しに入っている、焼串のような棒は、頭髪を一時的一定の形に置くものであり、煙出しの端からぶら下っている真鍮の曲った一片ほ、顔を剃る時、こまかい毛を入れるもので、床屋はこの端に剃刀をこすりつける。私は学生の一人が剃らせるのを見た。顔を剃ることは前に述べたが、床星がまぶたを剃ろうとは思わなかった。勿論まつ毛は剃りはしないが、顔中、鼻も頰もまぶたも、剃るのである。ここみたいな村の往来で写生をしようとすると、老幼男女が周囲を取り巻いて、ベチャクチャ喋舌り続けるから、非常に不愉快である。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。図184の道具は「鬢盥(びんだらい)」と呼ぶ。髪結いが小道具一式を入れて持ち歩いた引き出しつきの手提げ箱である。廣野郁夫氏の「本のメモ帳」の「続・樹の散歩道 鬢付け油は何を原料としているのか」の最後に、これとよく似た「台箱」と一緒に「守貞漫稿」に載る図が紹介されてある。本文も含め、興味深く、必見である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 18 「はうどおゆうどお」と「ぐつどばい」/硬い桃

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図―182

 図182は実験所の流し場を、外から見た所である。この家を建てた人は、水の吐口ということを丸で考えなかったので、このような突出部を取りつけ、そこから水を自由に流すようにした。

 ここ二週間、私は米と薩摩芋と茄子(なす)と魚とばかり食って生きている。私はバタを塗ったパンの厚い一片、牛乳に漬けたパンの一鉢その他、現に君達が米国で楽しみつつある美味(うま)い料理の一皿を手に入れることが出来れば、古靴はおろか、新しい靴も皆やって了ってもいいと思う。

 この村の先生が私を訪問して、儀式ばった態度で“How do you do?”といった。そのアクセントは、彼が英語を僅かしか知らぬことを示していたが、後で彼が白状したことによると、彼の英語の知識はこの挨拶と“God-bye”とに限られているのである。彼が英語を知っている以上に、私が日本語を知っている――といった所で大したものではないが――と思うと、一寸気が楽になる。昨夜私は数週間前、最初に泊った向う側の宿屋の人々を訪問した。私は富士山が更によく見える場所をさがしている時、彼等と知り合いになったのである。結局私が坂をずっと上った所に宿を定めたに拘らず、彼等は私に会うと、前と同様気持よくお辞儀をした。行って見ると、家族は非常に忙しそうにしていた。彼等の中の四人はその日の会計をやりつつあって、銭を数えたり、帳面づけをしたりしていた。彼等は、いう迄もなく、床に坐っていたが、机は低い腰かけに似ていて、一人がその前に膝をついていた。日本の家産の照明は至極貧弱なので、この時も暗すぎて、写生をする訳には行かなかった。私は日本人が、子供達に親切であることに、留意せざるを得なかった。ここに四人、忙しく勘定をし、紙幣の束を調べ、金を数え等しているその真中の、机のすぐ前に、五、六歳の男の子が床に横たわって熟睡している。彼等はこの子の身体を越して、何か品物を取らねばならぬことがあるのに、誰も彼をゆすぶって寝床へ行かせたりして、その睡眠をさまたげようとはしない。彼等は私に酒を出した。そして番頭の一人が、奇麗に皮をむいた桃を二つ皿にのせて持って来てくれたが、それは非常に緑色で煉瓦みたいに固かった。一口嚙(かじ)ってから、私は気持が悪いことを表示し、無言劇の要領で胃のあたりを撫でて見せたら、彼等はその意味をすぐ悟った。今これを書いている時、往来の向うで召使いが二人、廊下の手摺によっかかって桃を食っている。この桃は未熟なので、嚙むごとに事実その音がここ迄聞える程である。彼等はまるで最も固い林檎を食ってでもいるかの如く、桃をしっかり握りしめている。

 私はこれ等の優しい人々を見れば見る程、大きくなり過ぎた、気のいい、親切な、よく笑う子供達のことを思い出す。ある点で日本人は、恰も我国の子供が子供染ているように、子供らしい。ある種の類似点は、誠に驚くばかりである。重い物を持上げたり、その他何にせよ力の要る仕事をする時、彼等はウンウンいい、そして如何にも「どうだい、大したことをしているだろう!」というような調子の、大きな音をさせる。先日松村氏が艪を押したが、その時同氏はとても素敵なことでもしているかのように、まるで子供みたいに歯を喰いしばってシッシッといい、そしてフンフン息をはずませた。ある点で彼等は我国の子供によく似ているが、他の点では大きに違う。悲哀に際して彼等が示す沈着――というより寧ろ沈黙――は、北米のインディアンを想わせる。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 17 鮫を追う漁師たち



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M181

図―181

 

 今日は曳網の運が、あまりよくなかった。私はサミセンガイを求めて、我々の入江に戻り、目的の貝を沢山と、大きなオキナエビス若干その他を得た。網を引いている問に、突然驟雨が襲って来て、私はずぶ濡れになったが、すぐ太陽が現われ、やがて衣類が乾いた。日本の舟夫達は優秀だとの評判があるにかかわらず、非常に臆病であるらしく、容易なことでは陸地から遠くへ出ない。今日私は遠方へ行くので、彼等を卑怯者といわねばならなかった。漁船は二マイルばかりの所に列をなしている。三十マイル程離れた大島へ行こうといい出したら、彼等は吃驚して顔色を変え、如何にも飛んでもない思いつきだと、いうように笑った。曳網を引き廻している最中に、舟から遠からぬ場所に、大きな魚が、長くて黒い鰭(ひれ)を僅か水面に出して、さっと過ぎて行った。さア大変! 舟夫の一人が艪を棄て、舳に近く坐っている私の所へ来て、熱心にこの魚を追いかけさせてくれとたのんだ。私には彼が何をいっているのか、丸で判らなかったが、彼の懇願的な態度は間違う可くもないので、私は「ヨロシイ」といった。そこで大活動が始った。曳網の綱が三十五尋(ひろ)入っていたので、先ず網を手ぐり入れるものと思った所が、彼等は長い竿三本を縛りつけ、曳網綱の末端をこの急造浮標(うき)に結んで、海の中に投げ込んだ。私は綱が解けるか、或はこれを発見することが出来ないと困るなと多少心配した。我々は鮫(さめ)――大きな魚は、鮫だった――を追って元気よく動き出した。銛(もり)は長い竿のさきに、鉄の槍をいい加減にくっつけた物で、綱がついているから、使用後には竿を引きぬき、倒鉤のある槍さき丈を、魚の身体に残すのである。小さな魚類が鮫を恐れて、共通な一点を中心に、かたまり合っているのは誠に興味があった。一網打尽ということが出来たであろう。我々は死者狂(しにものぐる)いで追いかけたが、鮫は遂に逃げ去った。で、舟夫達はもとの場所に帰り、安々と曳網の浮標を見つけた。彼等が鮫を追っている間に、私は漁船二、三を写生したが、まだ私は正しい線をつかんでいないので私の写生図には実物の優雅さが欠けている。図180の前帆は、舷側を越えている。帰途についた時風が出た。そこで竹の釣竿を翼桁とし、ダブダブな帆を環紐でそれに通して、これを竿を檣(マスト)にしたものに取りつけ、帆の下端は手に持つという、実に莫迦らしい真似をしながらも、景気よく走ったものである。図181は舟中から見たその帆である。日本の舟には竜骨が無く、底荷を積みもしないが、めったに椿事(ちんじ)が起らない。よしんば顚覆したにしても、舟はそれに縋りついていられる丈の人数の漁夫達と一緒に、ポカポカ浮いているし、水はあたたかく、漁夫は魚みたいに水に馴れているから、幾日でも舟にかじりついた儘でいられる。入江に帰った時、サミセンガイを求めて曳網を入れ、百五十個を獲た。又、珍しいものも入っていた。終日それ等を研究して来た所である。いろいろな新しい事実が判明して来ることは、驚く程である。私はノース・キャロライナの「種」は、かなり詳しく研究されているものと思っていたが、ここで捕れたのはノース・キャロライナのに非常によく似ているが、もっと透明であり、私はそれ迄に腕足類で見たことのない新しい器官をいくつか見た。

[やぶちゃん注:「オキナエビス」誤訳である。原文は“Pleurotoma”で、これは腹足綱前鰓亜綱新腹足目イモガイ超科クダマキガイ科 Pleurotoma 属の属名で、生きた化石として知られる「オキナエビス」は腹足綱古腹足目オキナエビス超科オキナエビスガイ科オキナエビスガイ属オキナエビス(オキナエビスガイ)Mikadotrochus beyrichii Hilgendorff, 1877 で全く異なる。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の再現日録によって、この採集は七月十五日のドレッジであることが分かるが、そこには『午前中よりドレッジ。シャミセンガイ一五〇匹とクダボラを採集。』とある。これは本書以外に松村任三の日記が参考にされているので、この種名の確実度は高く、クダボラは同じクダマキガイ科のクダボラ Turris crispa crispa を指すことになり、モースの言う“Pleurotoma属はちょっと違うことになる。グーグル画像検索の「Turris crispa crispaをご覧あれ。すらりとした美しい貝形である。手に採ったモースの笑顔が見えるようだ。

 因みに、この語訳のオキナエビスガイは江の島と深い縁があるのでここで特に記しておきたい。モースが来日するこの二年前の明治八(一八七六)年に東京大学博物学教授であったドイツ人ヒルゲンドルフがまさに後にモースの定宿となる岩本楼そばの江の島の土産物屋で本種の死貝を購入、調べたところが未記載の新珍種であることが判明し、化石種としてしか知られていなかったオキナエビスガイが現在も日本に産することを学会に報告、それを受けて大英博物館は東京大学に採集依頼をし、後にモースのこの江の島臨界実験場が理念的淵源となって創設される(直接的な前後身の関係にはない)東京帝国大学三崎臨海実験所(明治一九(一八八六)年開所)の採集人として「三崎の熊さん」として名を知られるようになる青木熊吉氏が翌明治九年春に江の島沖で生貝を採集、大学から大金四十円の謝礼を貰った。この時、熊さんが思わず「まるで長者になったようじゃ。」と言ったことから、本種の和名は一旦「チョウジャガイ」と定められたが、後に天保一五(一八四三)年に著された武蔵石壽の貝類図譜「目八譜」の第七巻第二図に「オキナエビス」として掲載されていることが分かり、命名法規約により、最初に武蔵石壽の命名した「オキナエビス」が正式和名となった。但し、現在でも熊さんの逸話とともにチョウジャガイという別名が普通に通用している。なおこの生体のオキナエビスガイの発見は、カリブ海で本科のヒメオキナエビスガイ属ヒメオキナエビスガイ Perotrochus quoyanus Fischer et Bernardi, 1856 の発見に遡ること十二年で、本オキナエビスガイ類に於ける最古の現生種の発見捕獲命名の記録でもある。

「二マイル」約3・2キロメートル。

「三十マイル」約48・3キロメートル。江の島から大島最北端の乳が崎沖までは50キロ以上ある。江の島の漁師ならずとも、私でも(この絵に載るような小舟ではなおのこと)「飛んでもない」ことと驚きますよ、モース先生(せんせ)!

「ヨロシイ」原文は“" Yoroshii " (all right)”。

「三十五尋」64メートル。

「急造浮標」原文“extemporized float”。

「鮫」原文は“the shark”であるが、これ、本当にサメだろうか? 背鰭を見たとたんに漁師たちがこぞって捕獲を懇請し、執拗に追っ駆けているところを見ると、私はどうしても食用としてはより美味い(無論、鮫も食えることは食えるし、蒲鉾の材料にもなるけれど)イルカではあるまいか? と疑ってしまうのだが。識者の御意見を俟つものである。

「倒鉤」読み不明。原文は“the barbed point”で、これは、釣り針などの顎(あご)・掛り(かかり)・逆棘(さかとげ)・返(かえ)しのある部分の謂いである。中国語でも「倒鉤標槍」というと何ヶ所も返しのついた槍の穂先のことを言うようだから、これで石川氏はまさに「かかり」「さかとげ」「かえし」などと読ませているのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。

「翼桁」原文“a spar”。“spar”海事用語で帆柱・帆げたなどの円材を指す。翼桁(よくけた)というのは、航空機用語で翼の骨組の内、翼幅方向の主要部材を指す語であり、適切な訳とは言い難い。

「環紐」原文“loops”。ヘルメットやハンモックなどの用語としてあり、「わひも」と読むらしい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 16 松村任三描く童子図

M178

図―178

  私の部屋の廊下に而して、家が面白い形に積み重なっている(図178)。これ等の建物中の三つは耐火建築で、村が火事の時火を避けるように、ここに建てたのである。然し若し我々のいる建物が火を出せば、家はみな密接している上に、非常に引火しやすい材料で出来ているから、村中燃え上って了うことであろう。
[やぶちゃん注:「三つの耐火建築」図中の屋号らしき印のついた二つと、左中央の木に隠れた一つ、孰れも土蔵のことを指している。このスケッチであるが、岩本楼の位置と絵の山腹の描写から考えると、この右手奥に描かれているのは児玉神社の鳥居と拝殿ではあるまいか? 則ち、岩本楼の二階から江島神社参道(は恐らく画面の下方で描かれていない)を挟んだ向かい側の斜面(南東方向)を描いているように思われる。識者の御教授を乞うものである。]

M179

図―179
[やぶちゃん注:本文にある通り、これはモースの描いたものではなく、助手の松村任三の筆による描画である。その筆致は今の僕らにとってさえ実に素晴らしいではないか。]

 松村は日本人の多くと同様、絵を措くことに趣味を持っている。図179は彼が子供を写生したものであるが、その筆致が如何に純然たる日本風であるかに注意せられたい。日本人の絵画に力強さと面白味とを与える一つの原因は、それが必ず筆で描かれることで、従って仕事の上に、太さの異る明瞭な線と、大なる自由とを得るのである。彼等が選ぶ主題、例えば木の葉とか人物とかは、彼等の持つ技術によって、写実的に描かれる。彼等の描く人物は、みなゆるやかな、前で畳み合せる衣服を着ている。男が普通に着るのは、典雅に垂れ下る一種の寛衣(かんい)であり、彼等の帽子は絵画的である。木の葉、竹、竹草、松、花その他は力強く、勢よく描かれる結果、日本の絵は非常に人を引きつける。
[やぶちゃん注:「彼等の帽子は絵画的である」原文は確かに“and their hats are picturesque”であるが、これは例えば前の図178を見ると氷塊する。手前の階段を上る人物と、それより上で下りかけている人物、そしてその階段上の群像の中央で何か大きなものを両手で抱えてこちらを向いている人物の頭部を見て頂きたい。前二者の頭部には明らかに角状に出っ張ったものが描かれ、階段上の人物は何かを巻いているのが見てとれる。これらは所謂、手ぬぐいや鉢巻の類いであろう。それが“their hats”「彼等の帽子」の正体である。]

耳囊 卷之七 幽靈恩謝する事

 

 

 幽靈恩謝する事

 

 

 文化貮年の八月の事成るよし。神田橋外津田何某の先代召仕ひし妾(せふ)、隱居にて(かの)彼屋敷に住(すみ)ける。彼妾年比(としごろ)いとけ無(なき)より召仕ひし小女、音曲(おんぎよく)を好み琴彈(ひか)ん事を願ひしに、右の隱居申けるは、かろきもの音曲にて奉公せんも、中々一通りにては其業(わざ)を申立(まうしたつる)には至らじ、讀(よみ)もの縫(ぬひ)はりこそ輕きものゝ片付(かたづけ)ても用にたつべしと教(をしへ)ける。素より資才の生れ故、讀もの縫針の事心を用ひ勤しに、無程(ほどなく)あつぱれ手利(てきき)手書(てかき)となんなりぬれば、主人の姥(うば)もかれが兼て望(のぞみ)の琴彈せんとて、彼屋しきへ立入(たちいり)、娘子達に指南抔せし瞽者(こしや)を賴教(たのみをしへ)貰ひしに、是も無程其心を得うけしに、哀なる哉、風のこゝちにて、八月中(ちう)身まかりし由。右風邪初(はじめ)の程は左(さ)までもなかりしが、段々隱症(いんしやう)の㾡痲と也てなやみける故に、橘宗仙院の弟子宇山隆琢を賴(たのみ)、藥用深切なれ共、當人其しるしなき故、隆琢も下宿(したやど)致させ可然(しかるべし)とて申ぬれど、年久しく召使ひ哀がりいなみいなみとゞめて、暫くは屋しきにありしが、兎角よからず迚人々の申(まうす)にまかせ、深川の親元へ下げけるが、或夜陰居の老人の夜更(よふけ)寢覺(ねざめ)せしに、枕元に彼女すわれ居けるにうつゝの如覺(ごとくおぼえ)、汝は病氣なりしにいかに成しと尋(たづね)し。彼(かの)女さめざめと泣(なき)て、誠にいとけなきより厚(あつき)御惠みにて人並々に生立(おひたち)し事、海山(うみやま)の御恩いつか報じ奉らんと明暮思ひ侍りしに、最早今を限りの命に候へ共、思ひし甲斐もなければせめて御禮を申(まうす)なりと申(まうし)けれ。主人姥も、いかで去(さる)あらたなりし事申者哉(まうすものかな)、年比隱(へ)だてなく我に仕(つかへ)し也(や)、心にそむくことなきは、此方より禮をこそ申(まうす)べけれ、煩ふ事ありては我も朝夕不自由に覺(おぼえ)侍れば、年も若き事能(よく)養生し早く快氣せよと答へければ、あり難仰事(がたきおほせごと)身に餘りぬと申けるが、形も消(きえ)夢のこゝちにて夜明(あけ)ぬれば、人をして親元へ尋(たづね)けるに、昨夜見まかりぬと答へぬれば、主人も深く歎きかなしみぬ。其明(あく)る日、彼立入の瞽女(ごぜ)來りて、今日は外へ用事有(あり)てまかり候へ共、少々御目に掛り度(たき)事あり來(き)ぬるといゝし故早速呼入(よびいれ)、彼瞽女も深川ものなれば、右の女の事尋(たづね)ければ、其事にて候、今朝彼親元へまかりしに、右女夜中に相果(あひはて)ぬ、夜半の比(ころ)かゝへおこし吳(くれ)候樣せちに申ぬる故、いろいろいなみけれど、達(たつ)て願ひにまかせ抱(だき)おこしければ手をつき、いとけなきよりの厚恩をくり返し赦し、何歟(か)人ある躰(てい)に其答へ抔いたし、最早心殘りなしと臥しけるが、程なく身まかりしと申ける。主人姥の夜(よ)べ夢うつゝと無(なく)、彼女と應對なしけると凡(およそ)違ひなければ、扨は精心のあらわれ通ひけるにぞと、深く哀れを催し老姥はさら也、あたりの袖を濡しける。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。正統なる霊異譚で、如何にもしみじみとした極上の心霊情話に仕上がっている。

 

・「文化貮年の八月」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、一年前の都市伝説である。

 

・「神田橋外津田何某」底本の鈴木氏の指示に従って、私の所持する尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図の「飯田橋駿河台小川町絵圖」を見ると、神田橋御門から北東へ八〇〇メートル程の位置(現在の地下鉄淡路町駅付近)に津田栄次郎という人物の屋敷がある。ここだとすれば、根岸の屋敷の直近である。鎭衞の自宅はここから真西へ六〇〇メートル程の位置にある。

 

・「是も無程其心を得うけしに」底本には「得うけ」の右に『(ママ)』表記。

 

・「段々隱症の㾡痲と也て」不詳。しかし不詳のままでは訳せないため、

 

「隱症」は、とりあえず、「性質(たち)の悪い、悪性の」の意

 

で訳しておいた。この「㾡痲」については、まず岩波のカリフォルニア大学バークレー校版原文では、

 

『*疳』[やぶちゃん字注:「*」=「疒」+(「降」-「阝」)。]

とあり、長谷川氏は注で、

『底本★[やぶちゃん字注:「★」=「疒」+「争」。]とも見える字で、次章に同字を書き瘴と訂正しているので、ここも瘴疳であろう』(下線やぶちゃん)

 

と推測なさって、次の「又」の章の、同

 

「瘴疳」の注では『傷寒。高熱を伴う疾患』

 

とされておられる。しかしながら、こちらの底本では、

 

次章のそれは『痛疽』

 

とある。これは文字通りならば、

 

背中などに出来る激痛を伴う悪性の腫れ物、癰(よう)の類

 

をいう。本底本を無心に見るならば、少なくとも本底本では

 

この章の病いと次章の病いは、異なったものとして書かれている

 

ようにしか見えない(本章の病名との相同性は立証出来ない)が、訳の理解し易さを第一として、ここは暫く、長谷川氏の傷寒(しょうかん)説をとって訳しおくこととする。なお、

 

傷寒

 

とは漢方で、

 

広義には、体外の環境変化により経絡が侵された状態

 

を広く指す語で、

 

狭義には、重症の熱病、或いは、現在の腸チフスの類

 

を指すようだが、この場合は直前の病態などから見て、

 

感冒が重症化したもの、恐らくは肺炎が死因となるようなものを指している

 

ように私には思われる。

 

・「橘宗仙院」岩波版で長谷川氏は奥医で法印であった橘元周(もとちか 享保一三(一七二八)年~?)かと記す。彼は寛政一〇(一七九八)年に七十一歳で致仕している。次の代ならば元春になる。それ以前の代の「橘宗仙院」は卷之三 橘氏狂歌の事」に既注済。

 

・「宇山隆琢」不詳。

 

・「枕元に彼女すわれ居けるに」底本には「すわれ居ける」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『居(すは)り居(ゐ)ければ』(読みは歴史的仮名遣化した)である。

 

・「せめて御禮を申なりと申けれ。」底本には「申けれ。」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『せめては御禮を申(まうす)也」と申けるにも、』(正字化して読みは歴史的仮名遣化した)である。

 

・「いかで去あらたなりし事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『いかでさる改りし事』である。バークレー校版で訳した。

 

・「いとけなきよりの厚恩をくり返し赦し」底本では「赦し」の右に『(謝カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は確かに『謝し』とある。]

 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 幽霊の恩謝する事

 

 文化二年の八月のことであった由。

 

 神田橋外(そと)、津田何某(なにがし)殿の御先代の召し仕っておられた御側室が、隠居して同屋敷内(うち)に住んでおった。

 

 その御側室は年来(としごろ)、幼(いとけな)き折りより召し仕(つこ)うておった小女(こおんな)があり、年頃となるに従い、音曲(おんぎょく)を好み、琴を弾くことを願って御座った。

 

 それを隠居の媼(おうな)の聴いて、

 

「――身分の賤しき者が、音曲をもって武家などへ奉公せんとしても、なかなか一通りのことにては、その技芸を以ってして身を立てるまでには至るまい。――まずは読み書き・縫い物をこそ身にしかりとつけておれば、そなたらの身分にて、相応のお方へ縁づいたとしても、これ、十二分に役に立つことじゃて。」

 

と諭して、媼、手ずから、それらを教えた。

 

 もとより相応の才能の生れであったゆえ、読み書き縫い針(はり)のこと、これ誠心を込めて習練に勤めたところ、ほどのう、あっ晴れの縫い物上手・上手の手書きとなって御座ったによって、主人の媼も、それではと、かの小女が兼ねてより望んで御座った琴を弾かせんものと、御屋敷へ出入り致し、主人が娘子たちに琴の指南など致いて御座った盲人(めしい)の者に頼んで、小女へ琴を教えて貰うことと致いた。

 

 こちらの方も、ほどのう、師匠の奥義をも体得し得て御座ったと申す。

 

   *

 

 ところが――哀れなるかな、この小女――ふと、風邪気味となったかと思うと――八月中、瞬く間に――儚くも身罷ってしもうた――由で御座る。

 

 その風邪、初めのうちはさほどのものではなかったものが、だんだんに悪うなって参り、ついには性質(たち)の悪い傷寒の症状と相い成って、日々の立ち居にも、如何にも苦しそうに致いて御座ったゆえ、媼は奥医橘宗仙院さまの御弟子であられた、宇山隆琢さまを頼み、直々に療治をお願い致いた。

 

 宇山さまは施方施術に深く心をお砕き下すったものの、患者には一向にその効果が現われぬゆえ、隆琢さまは、

 

「――これはまず、実家へお帰しになられ、じっくりと療養さするがよろしかろう。」

 

との見立てで御座ったが、媼は、年久しゅう召し使い、可愛がって参った小女で御座ったゆえ、ついつい、それに対して首を縦に振らずに、ずるずると引きとめ、結果、暫くは前の通り、屋敷内に留めおいて御座ったが、宇山さまも遂に、

 

「――いや、ともかくも、かの者の病態は尋常では御座らぬ!……」

 

と、きつく申され、また媼の周囲の者どもも口々に宿下がりをお薦め申したによって、媼はしぶしぶ、深川の小女の親元へと、下げ帰して御座ったと申す。

 

   *

 

 さて、それから暫く致いた、とある夜陰のことで御座った。

 

 隠居所の媼、夜更けにふと目覚めた。

 

 と――枕元に、かの小女が、坐っておるさまが、これ、現(うつつ)の如くはっきりと見えた。

 

「……そなたは病気で宿下がり致いたはずであったに、どうして、ここに……」

 

と訊ねたところ、彼の小女は、さめざめと泣きくれ、

 

「……まことに幼(いとけな)きより厚き御恵みを頂戴致し……賤しき我らなれど……もう人並に生い立つことも出来まして御座いました……忝(かたじけな)き海山ほどの御恩……いつか報い奉らんものと明け暮れ思おて参りましたが……最早……今を限りの命にて御座います……されど……御恩に報いんとの思いの甲斐ものうなったとなっては……これ……せめて御礼(おんれい)を申すばかりにて……御座いまするぅ……」

 

と申す。

 

 主人媼も、

 

「……どうしてそのようなことを……そんなに改まって申そうとするかのう。……年来(としごろ)、隔てのう、我らに仕えて呉れたではないか?!……我らが心に一度たりとも背くことの御座らなんだこと、これ、却って我らの方(かた)より礼をこそ申したきほどじゃった。……そなたが患うてよりこの方、我らも朝夕、何かと不自由を覚えておるのじゃ、え。……そなたはまだ年も若(わこ)うなれば、よく養生し、早(はよ)う快気致いて戻っておくれ。」

 

と諭したところ、

 

「……ありがたき仰せごと……身に余り……まして……御座いまするぅ…………」

 

と申したかと思うと、

 

――ふっと

 

姿形も消え入っておった。……

 

……と、そこで夢見心地にて確かに目覚めたところ、夜もすっかり明けて御座った。

 

 されば、何やらん、気懸りなれば、人を遣わして、かの小女の親元を訪ねさせたところが、戻った下男が、

 

「……昨夜……身罷った……とのことで御座いました。……」

 

と告げたによって、主人媼も深く歎き、悲しみに沈んで御座ったと申す。

 

   *

 

 その明くる日のことであった。

 

 かの小女の琴の師匠にして屋敷出入りの瞽女(ごぜ)が屋敷に参って、

 

「……今日は外の用事の御座いまして、こちらさま罷り越しましたが……実は少々、ご隠居さまにお目に掛りたきことの、これ、御座いますによって参上致しまして御座いまする。……」

 

と申すゆえ、早速に隠居所の奥座敷へと呼び入れたが、媼、はた、と、気づき、

 

「……そうじゃ。……そなたも確か、深川に住まい致いて御座ったの。……実は……我らの召し使(つこ)うておった、あの、そなたのお弟子のことじゃが……一昨夜……」

 

と言いかけたところが、

 

「――はい。そのことで御座います。今朝、かの親元へ罷り越しましたところ、母御(ははご)ぜの申されますに……

 

   ――――――

 

……娘は一昨夜の中(うち)に、相い果て申しました。

 

……夜半のころ、急に我らを呼びましたによって、病床に参りますと、

 

「……母(かか)さま――どうか――抱え起こして下さいまし!……」

 

……と、切(せち)に請いますゆえ、

 

「体に障ることなれば、今は、深夜ぞ――」

 

……なんどと、いろいろ、いなんで落ち着かせんと致しましたが、

 

「――達(たつ)ての願いにて御座いまする!……」

 

……と申しましたによって、抱き起こしてやりました。

 

……すると

 

……三つ指……ついて、

 

……誰か、目の前に人のあるかの体(てい)にて、

 

「――まことに幼(いとけな)きより厚き御恵みを頂戴致し……」

 

……と、それを繰り返し、繰り返し謝しては、

 

……その言葉を聴いた見えぬ誰(たれ)かの返答に、また答えなど致いておりましたが、

 

「――最早……心残り御座いませぬ。」

 

……と、

 

――はたり――

 

と臥しました。

 

……それから、ほどのぅして

 

……身罷りまして、御座いました。…………

 

   ――――――

 

とのお話で御座いました。……」

 

と申す。

 

 主人媼は、かの夜(よ)べ、夢現(うつつ)とのう、かの娘と応対致いたことと、凡そ寸分も違(たが)うことの、これ、なければこそ、

 

「……さては……真心の魂となってあくがれ出で……我らが元へと……通うて参ったのじゃ、のぅ……」

 

と、深く哀れを催し、老媼はさらなり、瞽女も、お側に控えて御座った者どもも皆、袖を濡したと申すことじゃった。……

 

 

創作と勞働  / あしき趣味   萩原朔太郎

       創作と勞働

 創作は天才の自由な飛翔である。創作は勞働ではない。そして勞働は創作ではない。――さて、あらゆる「藝術的なもの」を、あの汗くさい「勞働的なもの」から隔離せよ。詩人は勞働者の仲間ではない。

       あしき趣味

 勞働の讚美は、近代に於ける最も惡しき趣味の一つである。

[やぶちゃん注:『文學世界』創刊号・大正一一(一九二二)年十月号に掲載されたアフォリズム「孤獨者の手記から」三篇の内、後の二篇。底本の筑摩書房版全集第三巻の「アフォリズム拾遺」より。]

防風林にて 五首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    防風林にて 五首

立枯の防風林のヤラボの根根上り著(しる)く歩き難しも

[やぶちゃん注:既出の「タマナ」(ツバキ目オトギリソウ科テリハボク Calophyllum inophyllum の小笠原諸島での地方名)の南西諸島での方言名。ヤラボ・ヤラブ・ヤラブギー・ヤナブ(沖縄広域)、ヤロー(竹富・宮古・多良間)などとも呼称するが、原義は不明。]

暫(しま)しくを防風林にまどろみぬ覺(さ)めておどろく海の蒼さや

目覺むればヤラボの影のだんだらの縞に染められわがい寢てゐし

海の上を靑き炎(ほのほ)が燃えゆれて今し日は午後に移らんとする

顫へ光る蒼さの中を一文字カヌーにかあらむ過(よぎ)り馳せくる

遠い枝枝のなかに 大手拓次

 遠い枝枝のなかに

はひまつはる微笑(びせう)のかたかげに
わたしは さむいあをざめたきものをきて、
さびしさにぬれてひたりながら、
巣(す)をうばはれた野(の)のはだか鳥(どり)のやうに
羽(は)ばたいてはおち、羽ばたいてはきずつき、
遠(とほ)い枝枝(えだえだ)のなかに、
うしなはれたあなたの心(こゝろ)をさがしてゐます。

秋 大手拓次

 秋

ひとつのつらなりとなつて、
ふけてゆくうす月(づき)の夜(よ)をなつかしむ。
この みづにぬれたたわわのこころ、
そらにながれる木(こ)の葉(は)によりかかり、
さびしげに この憂鬱(いううつ)をひらく。

鬼城句集 夏之部 時鳥

時鳥    手燭して妹が蠶飼や時鳥

[やぶちゃん注:「蠶飼」は「こがひ(こがい)」で蚕の世話をすること。この語は単独では春の季語となる。]

    傘にいつか月夜や時鳥

[やぶちゃん注:「傘」は「からかさ」と読んでいる。]

       是非もなき身の

      時鳥鳴くと定めて落居けり

2013/07/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 15 どおき君の手紙

 私が小使に新鮮な塩水(fresh salt water)を取って来てくれと頼んだら、彼はそれを混ぜるのかと聞いた。彼は英語で十まで勘定することを覚え、fresh water salt water 及び all right ということが出来る。松村氏も fresh salt water とは変だと思ったのである。そこで私は彼に真水は日本語で何かと質ねたら、それは「真実の水」で、他は「塩の水」であるとのことであった。これは最もいい呼びようらしく思われる。欧州人は真水を sweet water というが、真水は決して甘くはない。
[やぶちゃん注:底本では以下のように石川氏の割注が入っている。
「fresh water〔真水〕」
「salt water〔塩水〕]
「松村氏も fresh salt water とは変だと思ったのである〔fresh water は真水であるが、fresh なる形容詞には「新鮮」の意味がある〕。」
「sweet water〔甘い水〕」
「真実の水」原文“true water”。]

 私が部屋でやることのすべてが、他の部屋にいる好奇心の強い人々には、興味があるらしく、私の部屋を見ては、私の一挙手一投足を見詰める。彼等のやることが私に珍しいと同様に、私のやることも彼等には物珍しいのだということは、容易に理解出来ない。日本に来た外国人が先ず注意するのは、ある事柄をやるのに、日本人が我々と全く反対なことである。我々は、我々のやり方の方が疑もなく正しいのだと思うが、同時に日本人は、我々が万事彼等と反対に物をすることに気がつく。だが、日本人は遙かに古い文化を持っているのだから、或は一定のことをやる方法は、彼等のやり方の方が本当に最善なのかも知れない。
 日本人が知識を得ようとする熱心さは、彼等が公開講演の会場を充満する有様でも知られるが、更に若い人達が、我々の為に働き、自分が受けた教えに対しては、日本語を訳す手伝いをしたり、家の内外で仕事をしたりして報いようとして、努めることでも分る。先日若い男が一人、私の家へやって来て、一通の手紙を置いて行くことを許され度いと願った。彼は加賀から東京まで、二百マイル近くも歩いて来たのである。この手紙は日本紙に筆で――これはむずかしい仕事である――立沢な英語で書いてあった。それは学生が、外国の知識を得ようとする野心を示していると同時に、彼が私の「科学的動作」を観察することの重要さを、如何に感じているかを示して、興味が深い。
[やぶちゃん注:「二百マイル」約322キロメートル。これは単純に地図上での東京と加賀間の直線距離をとったものであろう(試みに現在の東京駅と加賀駅で計測すると直線で凡そ310キロメートルになる)。彼がどのルートで来たものか分からないが、歩行距離ならばこれでは全く足りない。恐らく400キロを遙かに越えていたはずである。
「それは学生が、外国の知識を得ようとする野心を示していると同時に、彼が私の「科学的動作」を観察することの重要さを、如何に感じているかを示して、興味が深い。」この一文の原文を示すと、“The letter is interesting as showing the ambitions of a student in regard to foreign studies and the high estimate he placed on the importance of observing my "scientific actions" !”で、もとは感嘆符があることに注意しておきたい。次のその手紙の引用部は前後に有意な一行空けが施されている。]

「先生、どうか私の乱暴な言葉と悪い文法とをお許し下さい。私の名前はT・DOKIであります。私は石川県から勉強するために東京へ送られた学生の一人であります。私は多くの理由によって自然の科学の一つを勉強する決心をしました。然しこれをする為に私は第一に、物理、化学、地質学、生理学、植物学、動物学その他の一般的科学を多少知っていなくてはなりません。そして私はこれ等の科学の知識は殆ど何も持っていません。そこで私が考えますに、私は先ずこれ等の準備的教課を勉強しなくてはならぬと思いますが、その為にはよい先生を得ねばなりません。然し私は色々な理由で東京大学の学生になることを欲しませんので私にこれ等の課目を教えて下さる程親切で暇のある先生を見出すことが出来ません。
 あなたが有名な博物学者で我々の為に多くのよいことをなされ、またもっとなさろうとの御希望であることをききました。私は以下の請願のお許しを乞わずにはいられません。
 あなたが非常にお忙しいということはよく知っておりますので、あなたが私を半召使い半学生としてお宅に生活させて下され、そしてお暇の時に一週間に三時間か四時間ずつ私が読んで判らぬ所を説明して下さらんことを希望いたします。かくて私は単に困難な点を説明して頂けるのみでなくあなたの科学的言辞を聞き、あなたの科学的動作を観察するの利益を得ることが出来ます。若しあなたが御親切に私のねがいを入れて下さるのならば私はよろこんで以下の条件に私自身を置きます――。
 一 私は毎日二、三時間あなたの為に何でも(出来ることは)いたします。
 二 私は以下の三条以外に何物をも要求いたしません。第一に毎週あなたの時間を三、四時間、第二にどんなものでも生きるに足る食物、第三にどんなのでも住むに足る場所。
 三 私は若しあなたがお受取りになるなら三円以下に於て如何なる金額をも差出します。
 これ等は私が自身を置こうとする条件のすべてではありませんが、一ケ月三円以内の費用でこれ等の課目をいい先生の下で学ぶことが出来さえすれば私は如何なる条件にも服します。御慈悲深く御許可下さい。御慈悲深く御許可下さい。」
[やぶちゃん注:「T・DOKI」不詳。土岐か土生の読み誤りか? 識者の御教授を乞うものである。……彼の『後の事しりたや』……]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 14 按摩

 日光へ行った時、マッサージをやらせて、気持よくなったことを覚えていた私は、非常に疲れていたので、めくらのアンマ(マッサージ師はこう呼ばれる)を呼び入れ、彼は私の身体をこね廻したり、撫でたり、叩いたりした。松村氏は私の横に坐り、私は彼を通じて、色々な質問を発した。このアンマは、天然痘で盲目になったのである。天然痘は、この国で一時は恐るべき病疫であったが、辛いにも今は統制されている。外国人の渡来はよいことと思うかと聞いたら、彼は勢よく「然り」と答え、そして「若し外国人が二十五年も前に来ていたら、私を初め何千人という者が、盲目にならずに済んだことであろう」とつけ加えた。彼はまた、外国人は非常に金を使うともいった。同一の服装をしていても、日本人と外国人との区別がつくかと聞くと、彼は即座に「出来ます、外国人は足が余程大きい」と答えた。だが、若し外国人が小さな足をしていたらというと、「足の指がくっついていて、先の方が細い」との返事であった。彼は大きな太った男で、頭は禿げているというよりも、奇麗に剃ってある。仕事にとりかかると同時に、私に詫をいいながら衣を脱いだ。撫でる時には指が変に痙攣(けいれん)的にとび上って、歯科医が使用する充填機械に似た運動をする。

[やぶちゃん注:「天然痘」ウィキの「天然痘」によれば、十八世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) が一七九八年に天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった(ジェンナーが我が子に接種して効果を実証したとする逸話があるが、実際には彼は使用人の子に接種している。因みに、本邦では医学界ではかなり有名な話として、ジェンナーに先だって日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔がジェンナーの牛痘法成功に遡ること六年前の寛政四(一七九二)年に秋月の大庄屋天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施して成功させている)。日本で初めて牛痘法が行われるのは文化七(一八一〇)年のことで、ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後に田中正右偉門の娘イクに施したのが最初である。しかし、中川五郎治は牛痘法を秘密にしたために広く普及することはなく、三年後の文化一〇(一八一三)年にロシアから帰還した久蔵が種痘苗を持ち帰って、広島藩主浅野斉賢にその効果を進言しているが、まったく信じて貰えなかったという普及阻害の事実がある。その後、日本で本格的に牛痘法が普及するのは嘉永二(一八四九)年に佐賀藩がワクチンを輸入してからで、足守藩士の蘭方医で適塾を開いた近代医学の祖緒方洪庵が治療費を取らずに牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行ったのを濫觴とする。安政五(一八五八)年四月に洪庵の天然痘予防の活動は幕府公認となり、牛痘種痘施術が免許制となっている。明治一〇(一八七七)年から「二五年」前は嘉永五(一八五二)年でああるが、これはこの按摩をしている人物がこの嘉永五(一八五二)年以降に天然痘に罹患して盲目になったことを意味している。すると可能性が極めて高いのは安政四(一八五七)年十二月の天然痘のパンデミックであろう。特に幼少時の失明率が高いから、この按摩の年齢は当時まだ二〇代であった可能性が高い。この按摩は少なくとも若いのである。

「撫でる時には指が変に痙攣的にとび上って、歯科医が使用する充填機械に似た運動をする。」原文“In rubbing they have a curious, spasmodic jump of the fingers, making a movement not unlike that made by the dentist's mechanical filler.”この“dentist's mechanical filler”というのは、恐らくは我々の見慣れた歯科用コンポジットレジン用(CR)充填器という器具(グーグル画像検索「CR充填器」。歯科へのフォビアがある人は閲覧要注意)のことを指している。削った箇所にぐりぐりと充填剤を押し込む際の動きと指圧の指の運動が似ているというのである。すこぶる面白い表現である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 13 LとRの発音

 Lの音が日本語にないことは、不思議に思われる。日本人が英語を書く際に、最も困難を感じることの一つは、LとRの音の相違を区別することで、何年間も英語を書いていた人でさえ、RのかわりにLを使い、又はその逆のことをする。日本人にはLを発音するのが恐ろしくむずかしい。外山の友人に、Parallel と発音して御覧なさいといった所が、彼は私がどんな風にそれを行うかと熱心に私を見つめながら、舌と両唇とを一生懸命に動かし、最後に絶望の極断念して了った。これは吃驚する程だった。反対に支那人は、Rの音を持っていないので、それを発音する困難さは、日本人のLに於ると同様である。
[やぶちゃん注:視点が全く逆なのではあるが(モース先生とは反対に日本人はR音の発音がなかなか出来ないとする立場)、すこぶる興味深いのので、今度は「教えて!goo」の質疑応答から引用する(これも消失の可能性があるのでリンクは示さない)。質問者はuenonoamaguri 氏。
   《引用開始》
何度も出ている質問かと思いましたが、検索してもみつけられませんでした。
アメリカで生活を始めたばかりなのですが、今まできちんとした英語の教育を受けたことがありません。
どうしても英語の聞き取りは頭の中でひらがなの50音に置き換えて聞いてしまいます。
そこで質問なのですが、Rをどんなに注意して聞いても、何度も口や舌の動きを教えてもらっても、どうしても私の発音はLなのだそうです。
ここで文章で説明していただけるようなコツはありますか?
よろしくお願いいたします。
   《引用終了》
これに対する Ganbatteruyo 氏の回答。
   《引用開始》(一部にある行空け・字空けを省略し、末尾の一部を省略した)
アメリカに36年住んでいる者です。私なりに書かせてくださいね。
ご自分で問題点をはっきりかかれていますよ。「頭の中でひらがなの50音に置き換えて」と言っていますね。聞き取りは、と一応条件をつけているように聞こえはしますが、しゃべるときもこれを無意識にこの「自分の音」を作り上げてしまっているのです。
つまり、lightであろうとrightであろうと「ラ」だと思ってしまっているのだと思います。 correctであろうとcollectであろうと「レ」だと思っているのではないかと思います。 頭では分かっているつもりでも、いざ発音する時にはそうなってしまっているのではないかと推測します。
ローマ字で「ラリルレロ」を書くとra-ri-ru-re-ruになりますよね。
ではアドバイスに入ります。
まず、Lの発音の事は気にしないこと。日本人には全く問題のないとも言える子音だと私は思います。普通の日本人がlightのLを日本語式に発音するとちゃんとLに聞こえるのです。たしかにちょっと違いはあります。しかし、ネイティブの耳で聞くとRには決して聞こえなく、Lに近い、Lを言っているんだろう、とも聞こえる発音をしているのです。ですから、これを上達させるのは後からでもかまわない、と言うことです。
しかし、Rの場合は違います。LとRの発音は全く違う物です。ネイティブからしたら、「何でRとLの違いが分からないんだよ、はっきりした違いじゃないか」と思うわけです。まず、このことを頭に入れてください。Rはラリルレロとは全く関係のない子音なんだと言い聞かせてください。このことを無意識に感じない限りいつまでたっても上達しません。
なんで、ラ行とLが似ているのかというと、日本人のほとんどの人がラ行を発音する時に舌の先が上あごのどこかにくっついているのです。ですから、その状態で発音されたラ行の音はLに聞こえるのです。
では、Rは?というと付いていないのです。良く「巻き舌にする」という説明がありますが、それはやっていません。舌の先をただどこにもつけないで発音してください。(後で分かると思いますが、下の両側が上あごや歯についているのが分かります)
舌先をつけるかつけないかで一瞬にしてネイティブには違いを感じ取る事ができるのです。 まずこのはっきりした違いを伝える事で単語を伝える事ができるのです。
つまり、まずこの小さな舌の動きでこんなにも大きな問題点が解決出来るのです。発音は一つ一つ問題点を感じ取りそれを解決する事で聞き取りも自然に分かる様になります。英語の発音は日本語の発音とは全く違う物であり、ローマ字は英語勉強の壁だくらいに持ってください。
   《引用終了》
Ganbatteruyo 氏の分析と練習法をモース先生が聴いたら、間違いなく賞賛の拍手を惜しまないであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 11 失われた鐘の銘

    ●鐘の銘

舊下宮の左側にありしが神佛分離の際(さい)之を毀(こぼ)てり。鐘銘は諸書に載せたれは左に掲く。

[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が一字下げ。]

   奉冶鑄金龜山與願寺宇賀辨才天女下宮鐘銘

大日本國東海道相摸州江島者。從金輪際湧出之靈島歟。福神託居之巖窟焉。加之人王三十代欽明天皇十三壬申歳自四月十二日戌刻。當于江野南海湖水之水門。雲霞暗掩海上。日夜大地六種震動。天女顯現雲上。童子侍立左右。諸天龍神水火雷電山神鬼魅夜叉羅刹從天降盤石。從海擧砂礫。電光輝空。火焔交白浪。同及于二十三日辰刻。雲去霞散。見海上有島山耳。今之三神山是也。抑此神將王者天地之起々。陰陽之初々也。聞法年舊誰知空王往事。利生日新何如尊神現德乎。本地則等覺妙覺之尊。大慈大悲之濟渡幾久迹。天童天女之體。與官與福。利益是新矣。因玆役優婆塞詣此山。越知泰澄居當島傳教窗前發願影向。弘法床上對請恒臨。慈覺念時常隨給仕。安然行場應滿知。所以顯密權實宗宗々被冥助。文武商農家家々仰靈驗矣。肆信心之檀越等。攸奉冶鑄。蒲牢一聲上徹梵天頂。下響地輪底。此土耳根利故遍用聲塵。三寶證明之。諸天衛護之。總而天長地久。御願圓滿。別而施主懸志於辨天本願。任誠於大悲誓約。所祈善願令悉地成就。而已。維時寛永十四丁丑曆閏彌生吉祥日。天台傳燈三部都法大阿闍梨法印生順謹書。下宮別當職權大僧都法印長伸稽首敬白。

[やぶちゃん注:「從金輪際湧出之靈島歟」の最後の「歟」は底本ではカスレた「與」と思しい字である。「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘で「歟」に訂した。

「大慈大悲之濟渡幾舊久迹」「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘では「久」ではなく「舊」である。

「亦天童天女之體」「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘では頭に「亦」が入る。

「與官與福。之利益是新矣」「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘では間に「之」が入り、「與官與福之利益是新矣」と連続した文章となっている。

「役優婆塞請此山」「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘では「役優婆塞詣此山」である。誤植の可能性が高いように思われるがママとした。

 以下、「新編鎌倉志卷之六」で私が注で示した本文の訓読を参考にしながら、ここでの訓点に従って鐘銘を我流に書き下したものを示す。

 

  冶鑄(やちう)し奉る 金龜山與願寺宇賀辨才天女 下の宮の鐘銘

大日本國東海道相摸の州江の島は、金輪際より湧出するの靈島か、福神託居の巖窟なり。加之(しかのみな)らず、人王三十代欽明天皇十三壬申の歳、四月十二日戌の刻より、江野(がうや)の南海、湖水の水門に當りて、雲霞、暗に海上を掩(おほ)ひ、日夜、大地六種震動す。天女、雲上に顯現し、童子左右に侍立す。諸天龍神・水火雷電・山神鬼魅・夜叉羅刹、天より盤石を降らし、海より砂礫を擧ぐ。電光、空に輝き、火焔、白浪に交ぢる。同二十三日辰の刻に及びて、雲去つて、霞散じ、海上に島山有るを見るのみ。今の三神山、是れなり。抑(そもそも)此の神將王は、天地の起々、陰陽の初々なり。聞法(もんぱう)、年、舊(ふ)りて、誰(たれ)か空王の往事を知らん。利生、日々に新たなり。尊神の現德を何如せんや。本地は則(ち)等覺妙覺の尊、大慈大悲の濟渡、幾(やうや)く久しく迹たり。天童天女の體(てい)、官を與へ、福を與ふ。利益、是れ、新たなり。玆に因りて役の優婆塞、此山を請ひ、越知の泰澄、當島に居り、傳教、窗前に影向(やうがう)を發願(ほつぐわん)し、弘法、床上に恒に臨みて對して請ひ、慈覺、念時に常に隨ひて給仕す。安然の行場、應に滿知すべし。所以(このゆへ)に、顯密權實の宗、宗々、冥助を被り、文武商農の家、家々、靈驗を仰ぐ。肆(かかるがゆへ)に信心の檀越(だんをつ)等、冶鑄し奉る攸(ところ)なり。蒲牢一聲、上は梵天の頂きに徹し、下は地輪の底に響く。此の土、耳根、利なり。故に遍く聲塵を用ゆ。三寶、之を證明し、諸天、之を衛護す。總じては天長地久、御願圓滿。別しては施主、志を辨天の本願に懸け、誠を大悲の誓約に任せ、祈る所の善願、悉地(しつち)成就せしめんと、まくのみ。維れ、時、寛永十四丁丑の曆、閏彌生吉祥日。天台傳燈三部都法大阿闍梨法印生順、謹みて書す。下の宮の別當職權大僧都法印長伸、稽首し敬ひて白(いは)く。

 

「欽明天皇十三壬申歳」は西暦五五二年。「寛永十四丁丑の暦」西暦一六三七年。]

故郷や臍の緒に泣く歳の暮 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 故郷や臍の緒に泣く歳の暮

 芭蕉がその故郷に歸り、亡くなつた父母の慈愛のことを考へ、昔の有りし日の慈愛を思ひ出して作つた句である。「臍の緒に泣く」といふ言葉の中に、幼時の懷かしい思ひ出や、父母の慈愛の追懷やが忍ばれて、そぞろに悲しみをそそる俳句である。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なっている。

  故郷や臍の緒に泣く歳の暮

 生涯を旅に暮した芭蕉も、やはり故郷のことを考へ、懷かしく追懷して居たのである。或る寒い年の暮に、彼は到頭その生れた故郷に歸つて來た。そして亡き父母の慈愛を思ひ、そぞろに感慨深くこの句を作つた。「臍の緒に泣く」といふ言葉は奇警であつて、しかも幼時の懷かしい思ひ出や、父母の慈愛深い追懷やが、切々と心情から慟哭的に歌はれて居る。

批評家然として句との距離を置き、事大主義的に「追懷」を二度繰り返し、「奇警」「切々と心情から慟哭的に」などといった如何にもな言辞を粉飾したこれよりも、初出の方が遙かに初読印象の直感的感銘を素直に伝えていると私は思う。]

農業試驗所及びその裏山にて 八首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    農業試驗所及びその裏山にて 八首

硝子透(とほ)し陽(ひ)はしみらなり水を出(で)て鰐魚(アリゲーター)の仔ら眠りゐる

[やぶちゃん注:「しみらなり」暇なく続いて、終日(ひねもす)、一日を通じてずっとその場いっぱいに、の意。万葉以来の古語であるが、形容動詞としての使用は極めて異例で、通常は副詞として「しみらに」(若しくは「しめらに」)で使用する。「しみら」はもともと、「茂・繁」を訓じた「しみ」「しみみ」に、状態を示して形容動詞語幹を作る接尾語「ら」の付いたものであるから、形容動詞としての用法には見た目、違和感はない。「鰐魚(アリゲーター)」当時の小笠原農業試験場(現在の呼称は小笠原亜熱帯農業センター)ではワニ目正鰐亜目アリゲーター科アリゲーター亜科アリゲーター属 Alligator のワニの実験飼育をしていたものらしい。皮革利用目的のためかとも思われるが、識者の御教授を乞うものである。]

護謨(ゴム)の葉にとまる小鳥の名も知らず日の豐(ゆた)けさに黑光りゐる

空に海に光の微粒粉(こな)をぶちまけて明るきかもよ丘べに立てば

見かへれば檳榔(びらう)の葉越しキララキララ海の朝霧はれ行くが見ゆ

[やぶちゃん注:「キララキララ」の後半は底本では踊り字「〱」。「檳榔」は被子植物門単子葉綱ツユクサ類 commelinids に属するヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu。「ビンロウジュ」(檳榔樹)とも言うが、類似音の「ビンロウジ」はこのビンロウの実をいうので注意。実はアルカロイドを含み、ガムのように噛む嗜好品として知られる。]

道の上の崖の端(は)にして巨(おほ)いなる龍舌蘭の葉の厚き見つ

[やぶちゃん注:「龍舌蘭」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属 Agave に属する、厚い多肉質の葉からなる大きなロゼットを形成する熱帯性植物。]

肉厚き葉の上に白き粉をふけり龍舌蘭の巨き簇(むらが)り

赭粘土の(あかつち)崖の崩(くづ)れにたかだかと章魚木(たこ)の氣根の根節(ふし)あらはなり

[やぶちゃん注:「章魚木(たこ)」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ Pandanus boninensis。「蛸の木」「露兜樹」などと書く。小笠原諸島固有種で雌雄異株。海岸付近に植生する。種名“boninensis”は、小笠原諸島の英名“Bonin Islands”に由来する。小笠原諸島の海岸近くに自生し、高さ一〇メートルまで達する。タコノキ科植物全般に見られる特徴であるが、気根が支柱のように幹を取り巻き、それが蛸の足のように見えることから、本種はタコノキ目の基準種となっている。葉は細長く、一メートルほどになり、大きくて鋭い鋸歯を持つ。初夏に白色の雄花・淡緑色の雌花をつけ、夏に数十個の果実が固まったパイナップル状の集合果をつける。果実は秋にオレンジ色に熟し、茹でて食用としたり、食用油を採取する原料とする。『本種は小笠原諸島の固有種であるが、八丈島等に移出されて定着している他、葉の美しさから観葉植物として種苗が販売されている。 南西諸島に多く生育するアダンの近縁種であるが、アダンの葉には鋸歯が小さいなどの違いで見分けることができる』(以上、引用を含め、ウィキタコノキ」に拠った)。]

墓地へ行く道のかたへの崩崖(くえがけ)に章魚木(たこ)の根引けどさ搖るぎもせず

秋 大手拓次

 秋

ひとつのつらなりとなつて、
ふけてゆくうす月(づき)の夜(よ)をなつかしむ。
この みづにぬれたたわわのこころ、
そらにながれる木(こ)の葉(は)によりかかり、
さびしげに この憂鬱(いううつ)をひらく。

鬼城句集 夏之部 蚊

蚊     蚊を打つて大きな音をさせにけり

鬼城句集 夏之部 蚊柱


蚊柱    蚊柱や吹きおろされてまたあがる


 
[やぶちゃん注:「蚊柱」水辺で、双翅目糸角亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae の形成するものが有名(老婆心ながらユスリカの♀は刺さない)であるが、広くカの仲間や他の双翅類(ガガンボダマシ科やヒメガガンボ科)が軒下などに群れて柱状に長く延び上がり、上下しながら飛ぶ生殖行動に伴う現象をいう。刺すカ科の仲間でもアカイエカ・コガタアカイエカなどが顕著な蚊柱を作る。七~八月ころの夕方や朝、羽音をたてながら二〇~五〇匹時には数百匹の♂が群飛する(則ち、本来の蚊柱を形成するのは♂であるから蚊柱の蚊は刺さない)と、そこに♀が入ってきて交尾が行われ、蚊柱は凡そ四、五十分で消失する。♂は♀の入来を♀固有の羽音で感知するといわれている。蚊の産卵には水が必要で、蚊には低気圧が近づいて湿度が高まり、蒸し暑くなると本能的に生殖活動を行うプログラムがなされているらしく、蚊柱が立つと一日二日のうちに雨の降ることが多いとも言われる(以上は平凡社「世界大百科事典」及び個人サイト「観天望気」の蚊柱立てば雨を一部参考にさせて頂いた)。]

2013/07/27

セシウム、原発地下道で23億ベクレル検出:日本経済新聞

セシウム、原発地下道で23億ベクレル検出:日本経済新聞 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG27012_X20C13A7CC0000/

比較対照して容易く理解出来るものを見つけた。
http://blogs.yahoo.co.jp/pphhiiloo/3623102.html

それによれば……
...
以下は各放射性物質1グラム当たりの放射能量である。

プルトニウム239 2300000000ベクレル(←!!!)
ウラン235            80000ベクレル
ウラン238            12000ベクレル

以下は各放射性物質の年摂取限度の値

ウラン238          14ミリグラム……
ウラン235           2ミリグラム……

プルトニウム239       0.000052ミリグラム……

ご参考まで……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 12 筆は直角に持つ!

M177


図―177

 日本人は漢字で文章を書くが、優秀な学生は三千字、四千字を知っている。これ等全部に書かれる時の形がある。日本人は同時に、四十八字のアルファベットを持っていて、それで言葉を発音通りに綴る。だが私はこのことを余りよく知らないから、興味を持つ読者は、ヘップバーンの「日英辞典」の序言を参照されるとよい。漢字の多くは、一つの点や線によって相違する。外山教授は大学へ手紙を出して網をたのんでやったが、先方はその漢字を、私が沢山持っている綱と読み違えた。日本人の手紙には Dear Sir も Dear friend もなく、突然始る。物を書く時には、図177のように筆を垂直に持つ。
[やぶちゃん注:モースは恐らく頭語が改行されない本邦の手紙を見て、それがぶっきらぼうに直ちに要件を記しているように見えたものであろう。若しくは、モースが多く実見した多くの事務手続き上の書状の「前略」の意味を聴いてそう判断してしまったものかも知れない。
『ヘップバーンの「日英辞典」』原文は“Hepburn's "Japanese and English Dictionary."”。これは明治学院の創始者でローマ字のヘボン式で知られる、米国長老派教会系医療伝道宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn 一八一五年~一九一一年)が一八六七年にロンドンで出版した辞典であろう。ヘボンは安政六(一八五九)年十月に来日、モースが来日した際もまだ日本にいた。彼は明治二五(一八九二)年十月に妻の病気を理由に離日したが、実にその滞在期間は三十三年に及んだ。実に日本の近代化を蔭で支えてくれた外国人の一人であった。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 11 モース「ハスタ・ラ・ビスタ、ベイビィ!」

M176

図―176

 この島の東端に、漁夫の家がかたまっていて、私はその何軒かを写生しようとしたが、老若男女が私の周囲にぎっしりかたまって了ったので、とうとう断念せざるを得なかった。彼等が喋舌(しゃべ)ったの喋舌らぬの! そして五歳ばかりの子供も大きな大人のように厳然たる口のききようをした。彼等は明かに、どの小舎をが写生しつつあるかを、議論していた。最初私は、ある名前がハッキリいわれるのを聞くが、写生図(図176)に例えば大きな魚の籠といったような、新しい細部をつけ加えると、非常に誇りがましい笑い声が起る。だが、大きな魚の籠は一つより多くあるので、今度は別の主張者が叫び声をあげる番になる。私は小舎を三軒写生した丈で、辛棒がしきれなくなったが、頭髪のもしゃもしゃした、皮膚の黒ずんだ土人達の長い人間道(ひとあいみち)を通じて(まったく私はその間から向うを見ねばならなかった)見る光景は、不思議なものであった。私によっかかった者の一人、二人に対して、私がスペイン語で呪詛したら、彼等は哄笑した。
[やぶちゃん注:「私は小舎を三軒写生した丈で、辛棒がしきれなくなったが、頭髪のもしゃもしゃした、皮膚の黒ずんだ土人達の長い人間道(ひとあいみち)を通じて(まったく私はその間から向うを見ねばならなかった)見る光景は、不思議なものであった。」原文は“I could stand it only long enough to get three cabins in my sketch, but it was an odd sight to look through this long lane of tangle-haired, dark-skinned natives, through which I had to sketch.”。比べてみると、石川氏が何とか分かり易く訳そうなさっているのが見て取れる。
「私がスペイン語で呪詛したら、彼等は哄笑した。」原文は“One or two leaned on me whereupon I swore at them in Spanish at which they laughed heartily.”。これってもしかしてターミネターの“Hasta la vista, baby!”だったりして!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 10 地引網見学

M174

図―174

M175


図―175

 昨日長い砂浜で、漁師達が、長さ数千フィートの繩がついている、大きな網を引きあげた。殆ど全部が裸の、漁夫や男の子達が、仕事を手伝っている所は、誠に興味があった(図174)。大きなうねりがさかまいて押しよせた。人々は面白い思いつきの留木を用いて、繩にぶら下った。それは六フィートばかりの繩で、一端は輪になっており、これを腹のまわりにまきつけ、他端には大きなボタンみたいな木の円盤がついている。このボタンを巧みに投げると、それが網の繩にまきついて、しっかりと留まる。私は図175でそれを明瞭にしようと試みた。我国の漁夫も、この方法を知っているかも知れないが、もし知らぬならば真似をすべきである。これは繩を非常にしっかりとつかみ、取り外しも至極楽で、また速に繩にくつつけることが出来る。網が見え出すと、多数の人が何が捕れたかを見る為に、集って行った。私はこの裸体の人々の集団の中に無理に入って行って、バケツに一杯、各種の海産物を取った。私はそれ迄、自発的の群衆がこれ程密集し得るとは知らなかった。まるで鰯(いわし)の缶詰である。
[やぶちゃん注:図175に示された道具は「腰板」とか「こしび」と呼ばれるものであるらしい。「ヤフー」の「知恵袋」で(消失する可能性があるのでリンクは示さない)、
  《引用開始》(記号の一部を変更した)
地引網(地曳網)で使う道具の名前を教えてください。
腰に付け、地引網のロープに巻きつけると握力が無くても楽に引っ張れる道具です。
その道具は7、8センチメートルくらいの四角い板の真ん中に穴があいており、そこにロープを通してくくり付け、ロープの先端にとめてあります。
地引網の太いロープにくるりと巻くと引っかかり、一定の方向に対してはいくら引っ張っても取れません。
ロープの手元は大き目の輪になっており、腰(というより骨盤の辺り)に巻いて体全体で引っ張れます。
便利だなぁと思っていたのですが名前を忘れてしまいました。
どなたか宜しくお願いします。
   《引用終了》
という kaishain110 氏の質問に対して、pantan0724 氏が以下のように答えておられる。
   《引用開始》
どのような形状かなど詳しいことが解らないのですが、以前 地引網の道具に【腰板】というのがあり、腰の力で網を引っ張るためのものだという説明を聞いたことがあります。
ただ、実際に見た訳ではないので 説明を聞いてもピンと来ず、質問者さんのいう道具と同じモノかは全く解りませんが、なかなか回答も付かないみたいなので なにかの役に立つかもとおもい回答させて頂きました。
   《引用終了》
とあり、その下に『参考』として『広報とうほく』の二〇〇六年三月号に載る「氷下曳網漁」3ページ右下に写真付きで説明があると記され、『ただ 板の名前はここには載っていなくて、板を使い腰で引く引き方が【コシビキ】という方法で有ることが載っています』。『こちらは 淡水のようですが、千葉の九十九里(海)の方での曳網もコシビキという方法で網をよせるらしく、このとき巻き付けるロープの部分を“こしび”と呼んでいるらしいです』。とあり、質問者もそれで間違いないと思われる、と返している。質問者の説明がまさにこのモースの叙述と絵に美事に一致するではないか!……「腰板」で検索しても、この道具の画像は遂に出て来なかった。……日本を愛したモースの霊を私は真近に感じたような気がした……
「数千フィート」原文は“several hundred feet long”であるから「数百フィート」の誤訳である。100フィートは30・48メートルであるから、日本語の「数千」の感覚(3000から6000程度の漠然とした数をいう)に直せば、92~183メートルとなる。当時の船を用いないタイプの地引網の長さは片側が90メートルから、長くても200メートルほどであったと思われ、流石にドレッジをするモースは的確に長さを目測している。
「六フィート」約1・8メートル。]

印象 とある都會の上空にて 萩原朔太郎 (「青空」初出形)

 印象
    とある都會の上空にて

このながい煙突は
女の圓い腕のやうで
空にによつきり
空は靑明な球形ですが
どこにも重心の支へがない。
この全景は象(ざう)のやうで
妙に澎大の夢をかんじさせる。

[やぶちゃん注:『日本詩人』第一巻第三号・大正一〇(一九二一)年十二月号に掲載された。後に詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)に所収するに際し、以下のように、標題その他表記表現を微妙に改変している。

 靑空
    表現詩派

このながい烟筒(えんとつ)は
をんなの圓い腕のやうで
空にによつきり
空は靑明な弧球ですが
どこにも重心の支へがない
この全景は象のやうで
妙に澎大の夢をかんじさせる。

初出及び「靑猫」の「澎大」はいずれもママ。筑摩書房全集版では勿論、「膨大」に訂されてある。因みに私は文句なしに初出形を支持するものである。]

小学校終業式 三首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

   今日は小學校の終業式なりけり、校庭の周邊には

   柵を打たずして熱帶植物もて固めり、木の名を問

   へばタマナといふ。如何なる字を宛つるならむ

通信簿人に見せじと爭ひつゝ子ら出できたるタマナの蔭ゆ

[やぶちゃん注:太字「タマナ」は底本では傍点「ヽ」。これはツバキ目オトギリソウ科テリハボク Calophyllum inophyllum の小笠原諸島での地方名。太平洋諸島・オーストラリア・東南アジア・インド・マダガスカルなどの海岸近くに分布し、世界の熱帯・亜熱帯地域に於いて広く栽培されている。日本では南西諸島と小笠原諸島に自生するが、これらは移入によるとも考えられている。成長は遅いが、高さは一〇~二〇メートルに達する。葉は対生で、長さ一〇~一五センチメートルほどの楕円形で光沢があり(和名の由来)、裏面の葉脈が目立つ。花は直径二~三センチメートル、一〇個前後が総状花序に開く。花弁は白く四つあり、黄色い多数の雄蕊を持ち、芳香がある。果実は径四センチメートルほどの球形の核果で、赤褐色に熟し、大きい種子を一つ持つ。沖縄では見かけのよく似たオトギリソウ科フクギ Garcinia subelliptica とともに防風林として植えられる。観賞用にも栽培されるほか、材は硬く強いので家屋・舟・道具の材料に用いられる。小笠原諸島では「タマナ」の名称で親しまれ、材を用いてカノー(アウト・リガー・カヌー)を造った。種子からは油が採れ、食用にはならないが外用薬や化粧品原料に用いられ、灯火用にもされる。現在はバイオディーゼル燃料に適するとして注目されている。なお、「如何なる字を宛つるならむ」と中島敦は言っているが、安部新氏の「小笠原諸島における日本語の方言接触:方言形成と方言意識」(2006年南方新社刊)によれば、タマナは他に「メールトマナ」「ヒータマナ」とも呼ばれ、これは実は日本語ではなく、英語の“male”・“he”+ハワイ語“kamani”・古代ポリネシア語“tamanu”の合成語(孰れもテリハボクを指すものと思われる)であるらしい。]

今日はしも終業式ぞ紋付の子も打交り白き道行く

紋付も半ズボンもありおのがじし通信簿もち騷ぎ連れ行く

足 大手拓次

 足

うすいこさめのふる日(ひ)です、
わたしのまへにふたりのむすめがゆきました。
そのひとりのむすめのしろい足(あし)のうつくしさをわたしはわすれない。
せいじいろの爪(つま)かはからこぼれてゐるまるいなめらかなかかとは、
ほんのりとあからんで、
はるのひのさくらの花(はな)びらのやうになまめいてゐました。
こいえびちやのはなをがそのはなびらをつつんでつやつやとしてゐました。

ああ うすいこさめのふる日(ひ)です。
あはい春(はる)のこころのやうなうつくしい足(あし)のゆらめきが、
ぬれたしろい水鳥(みづどり)のやうに
おもひのなかにかろくうかんでゐます。

鬼城句集 夏之部 まひまひ

まひまひ  まひまひのきりきり澄ます堰口かな

      月浮いてまひまひ遊ぶ野川かな

      まひまひや影ありありと水の底

[やぶちゃん注:「まひまひ」の後半は標題の季語も含め、底本では四箇所総てが踊り字「〱」。この「まひまひ」は前項の「水馬」の注で示した通り、「舞舞虫」のことで、鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属する甲虫ミズスマシの仲間の別称。「堰口」は「せきぐち」で字余りである。「いねぐち」「ゆぐち」という特殊な読み方が存在するが、であれば鬼城はルビを振るはずである。]

鬼城句集 夏之部 水馬

水馬    まひまひに勝つて遡(のぼ)れり水馬

[やぶちゃん注:底本では「まひまひ」の後半は踊り字「〱」。「水馬」は有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目 Heteroptera に属するアメンボ科アメンボ亜科アメンボ Aquarius paludum 他のアメンボ類の総称。は正式和名はアメンボであるが、水黽・水馬・飴坊などと漢字表記し、アメンボウとも呼ぶ。カメムシ類ほどではないが臭腺を持っており、捕えると飴のような甘い匂いを放つことに由来する「水黽」の「黽」(音ボウ)は蛙で水面を滑る蛙の謂いであろう。ここでも無論、音数律から「あめんぼう」と読んでいる。この「まひまひ」はシチュエーションからお分かりの通り、カタツムリではあり得ない。実はこれは「舞舞虫」のことで、鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属する甲虫ミズスマシの仲間の別名である。アメンボは六本の脚の先で立ち上がるように浮くのに対し、ミズスマシは水面に腹ばいになって浮く(また、アメンボは幼虫も水面で生活するが、ミズスマシの幼虫は水中で生活するという違いもある。以上のミズスマシの叙述部分はウィキミズスマシ科」に拠った)。因みに、ややこしいことに「まひまひ(まいまい)」はアメンボの別名でもある。]

      水泡を跳り越えけり水馬

      相逐うて流れを上る水馬

鬼城句集 夏之部 井守

井守    石の上にほむらをさます井守かな

2013/07/26

中島敦漢詩全集 十四

   十四

 

 聽初汎(シヨパン)夜想曲

 

溪泉時哽咽

幽窅又琳々

夜獨聞初汎

悽々客恨深

 

○やぶちゃんの訓読

 

 初汎(シヨパン)夜想曲を聽く

 

溪泉 時に哽咽(かういん)

幽窅(いうえう) 又 琳々(りんりん)

夜(よ) 獨り聞く 初汎(シヨパン)

悽々(せいせい)として 客恨(かくこん)深し

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「」小川と泉。ここでは、ショパンの音楽を、涸れることなく湧き出し流れていく流と泉に喩えている。

・「時」時には。

・「哽咽」現代仮名遣の読みでは「こういん」で、涙に咽ぶこと。すすり泣くこと。

・「幽窅」現代仮名遣の読みでは「ゆうよう」で、静かで仄暗く奥深いこと。

・「琳々」「琳」は美しい玉(ぎょく)の意。若しくは美しい玉がぶつかり合う音をも指す。ここでは、ショパンのピアノ曲の音の粒が、さながら玉が響き合い音を立てる様子に喩えている。

・「初汎」ショパン。日本における漢字音を用いて、人名に当てたものと思われる。現代中国語では「肖邦」「蕭邦」と表記している。

・「悽々」寂しいさま。悲しいさま。

・「客恨」さすらう人の愁い。ここでは人生の漂泊者たる詩人自身の心に湧く憂愁を指す。

 

T.S.君による現代日本語訳

涸れることなきせせらぎ  ときにすすり泣きの声

仄暗く深い空間の広がり 玉(ぎょく)が揺らぎ発する神韻

夜ひとり耳を傾ける――  ああ私のショパンよ――

深い憂愁が立ち込め――  胸はかきむしられる――

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 ショパンの夜想曲を漢詩で歌う!

 詩というものは、何を歌っても構わないのだ。

 そうと分かっていてもこの詩想は新鮮だ。詩が作られたのは、現代ほど前衛的な芸術表現が一般的でなかったと思われる戦前のことである。しかも東洋的情調が濃厚に宿る漢語定型詩によってここで歌われる対象は、純粋な西洋音楽なのだ。しかも選りによってロマン派の巨星ショパン!

 こんなことに驚く私は、もしかしたら頭が堅すぎるのかもしれない。そもそも中国詩の歴史を見ても、前例のない新しい事物を素材として詠み込むということには一貫して非常に寛容だ。

 例えば、宋詩を見よう。ミミズや虱まで歌った梅堯臣は極端な例かもしれないが、それまでの詩に比較して、日常のあらゆる事物を歌うことについて遥かに躊躇しなかった。また清朝末期には、赴任などで接した日本の事物などを積極的に歌った黄遵憲なども思い出される。……

 そう考えれば、中島敦は素材の新奇性など全く気にせずに作詩に臨んだかもしれないとも思える。

 しかし少なくとも対象は純粋な西洋音楽である。伝統的素材とはかなり異質だ。詩人がそれを意識しなかった筈はない。ショパンという人名の表記にさえ、いろいろと気を遣ったであろう。新奇な試みとはなるけれども、そんな敷居を乗り越えてでも、ショパンに触発された心の妖しい動きを漢詩に託したいと願った詩人の強い思いは本物だ。これを誰も疑うことはできまい。

 

 さらに私がどうしても気になったのは、歌う対象自体が、そもそも完結した芸術作品であるということだ。――

 詩とは多くの場合、何らかの素材、言い換えれば人生の路傍に転がっている原石を見出してそれを徹底的に磨き、心の深層までをも照らし出す輝きを引き出した、その結果としての言葉の魔術である。若しくはそれらの原石に触発されて動いた詩人の心を提示し、読者の心にも何らかの化学反応を齎す魔法だ。詩人は、人が迂闊にも素通りしがちなそれら原石の存在に気づき、研磨した上で、言葉という手段を用いて読者の目の前にぬっと突き出す。その驚異的な営みに、我々はしばしば眼を見張る。

 

 しかし、この詩は違う。

 既にしてショパンというひとつの詩的世界は普く人口に膾炙されている。

 本来的には、読者はその音楽世界を詩人の手など借りずとも感知することができるのである。

 ショパンを直接聞けば十全なはずだ。

 しかし、詩人は、その音楽に自分の魂をこすり付けた際に発した心の色彩を、敢えて漢字二十字に定着したのである。

 従って、改めて以下の通り結論づけることができるだろう。

――詩人が歌いたかった主眼は、ショパンの音楽以上に、詩人自身の魂にあるのだ――と。

 

 それにしても、洋の東西を問わぬ彼の広汎な教養や、世界に向けて大きく開かれた彼の融通無碍な審美眼には驚かされる。彼が鬱蒼たる西洋古典文学の森を渉猟していたことは幾つかの記録から明らかであるし、日本語訳を試みてさえいる。また、西洋古典音楽への共感などを短歌に読み込んだりもしている。芸術として善きもの、紛うかたなきものであれば、表現形態を問わず見事に味わい、消化することができたのだ。なんと逞しい胃の腑を持ち合わせていたことだろう!

 それに比べて、私自身の胃のなんと虚弱なことか……。中島敦の星やバラや河馬の詩はなんとか味わい、自分なりに消化することができた。しかし、正直に申し上げよう。このショパンには、恥ずかしいことに戸惑ってしまった。

 

 私はショパンが決して嫌いなのではない。では何故戸惑ったのか。それは、中島敦の詩心に対して私が抱いていたイメージと、ショパンの音楽についての私なりの印象が、かなり異なるものだったからである。

 彼の文学を振り返ってみていただきたい。永遠の宇宙を目前にして宿命に思いを致し立ち尽くす詩人。そんな詩人の姿がすっくと立ち上がる星空の詩! または、色彩の奥に極限まで集中しかつ沈潜した果てにこの世の向こう側を垣間見る――すなわち、純化に純化を重ね徹底的に煮詰めることを通して、普段人が見ることができない奈落を覗き込むというバラの詩! そして……彼の幾篇かの小説――運命に抗い深い傷を負いながらも自分に対して誠実に人生を歩んで行こうとする登場人物。有限で卑小な存在である人間が、表面的な価値判断や善悪を超えた無慈悲な(そもそも“慈悲”など人間が勝手に作り上げた幻影に過ぎない)宇宙の運行の中で、抗い、傷つき、それでも背筋を伸ばしたまま滅んで行く――。そんな悲壮な、しかし静謐な物語!

 私は中島敦という詩人を、そんなイメージで塗り固めて眺めていたのだ。

 こんなイメージならば、仮にバッハやベートーヴェンとなら共通項を見出しやすい。世界を構築するように壮大な音の建築物を組み上げることで、永遠を提示し、宇宙を歌い、同時に対極にある有限の人生を肯定するバッハ。傷つき、泥に塗れても、立ち上がる力さえ失われても……如何なることがあっても、前方を睨み付け、背筋を伸ばして希望と理想と真心を歌い続けるベートーヴェン。彼らの壮大さ、悲壮さが、中島敦のイメージとどこかで結びつくのだ。

 

 しかし、ショパンの音楽の主眼はそんなところにない。彼は今直面している時間の流れに真正面から向き合っている。少なくとも彼の表面上の意識は、そのことで占められている。まさに今この時に、聴く者の心の中で渦巻く様々な情動を、深いところでしっかり捉える。時にそれを優しく撫でたかと思うと、またある時はそれを解放せよと激しく唆すのだ。彼は憂愁に捉われた人の心にしっかりと寄り添う。そしてその人の心を代弁して歌う。時に想いを純化し、何倍にも増幅しながら……。

 私はショパンを聴くとき、必ずある態度で向き合う。バッハやベートーヴェンを聴くときとは異なる独特な構えだ。心の襞を妖しく撫でるような半音を主体とした翳のある音の移ろい、リズムの揺らぎ……。こういった特性を持つ彼の音楽に、自分の秘めた情動を敢えて直接晒し、湿らせ、浸らせる……こんな風に聴くのである。するとショパンは、情動の核心部分を慰撫し、刺激し、翻弄してくれる。そうして恍惚の中で緊張が累積して行き、高潮を迎える。ある時はまた、そこからの解放を伴うことすらある。腹を見せて上向きに寝ている猫のような無防備な、どこかマゾヒスティックな私自身の態度――。

 ショパンの音の流れには、淀みはあるが、渋滞はない。リズムが緩慢になる際には直後に反動としての加速を伴っていることが通常だ。そして聴く者は時にそれを予想し、期待しながら聴く。期待は概ね報いられる。丸みを帯びた音の粒がいくつも連なり、光に包まれながら目の前を流れて行く。

 いくつかの長調の曲の除き、彼の音楽は大抵憂愁の翳を色濃く宿している。その翳は、生温かく、境界線が不分明なものである。また触感は極めて幽かであり、色でいえば中間色である。流水で即座に洗い流されてしまうような、粘着度の低い、良質の何かである。この翳が濃くなるところでは音楽の速度が落ち、嗚咽が漏れるようにメロディが搾り出されて来ることもある。またその向こうに何もない虚ろな空間だけが拡がっていることもある。体温に近いその翳に包まれていると、人は目先の視界を遮られ、微量の麻薬を吸引したかのように、振幅の大きい多彩な夢を見ることができるのだ。

 

 中島敦とショパン……、実に刺激的な組み合わせではないか!そして、中島敦という詩人……!遥か遠くを見据え、永遠というものと人間の宿命を歌うかと思えば、今このときの感情の奔流に身を委ね、深い陶酔に自らを投げ入れる……。なんとも懐の深い、振幅の大きい、恐るべき男ではないか!

 

 私は思う。

 詩人もまた、ショパンの音の粒に包まれ、憂愁の翳に酔ったのだ。起句の「溪泉」、承句の「琳々」は、涸れることなき音楽の流れと燦めく音の粒を物語る。また起句の「哽咽」、承句の「幽窅」は憂愁の翳が齎した様々な効果を想起させる。

 彼が聴いているのは特定の夜想曲なのだろうか。「溪泉」「琳々」「哽咽」「幽窅」など、全ての要素を有するような一曲は、なかなか見出せないように思われる。では遺作を含めた二十一曲の夜想曲全てなのか。私は全曲でもないと思う。当時は全曲を通して聴けるようなレコードは珍しかったであろう。全曲を続けて演奏すると所要時間は二時間弱である。そんなに長い間、集中して聴き続けていられたのだろうか。いや恐らく、著名な何曲かを続けて聴いているのだ。また、起承句二句のみのたった十文字で印象を凝縮して述べるところから受ける印象でも、著名な数曲を、それほど長くはない時間に、集中して聴いたという感じがするのである。

 これは私の個人的な印象であるが、「溪泉」「琳々」は殆ど全ての曲に当てはまるような気がする。まさに尽きせぬメロディと音の粒の輝きは、ショパンの真骨頂ではないだろうか。そして「哽咽」は有名な第一番、そして第十一番を思い起こさせるし、「幽窅」はまるで遺作である第二十番を聴いているかのようだ……。

 

 さて私は

――中島敦はショパンを表現しようと思ったわけではない――自分の心を歌いたいのだ――

と結論付けたのであった。

 彼の心――それは……それこそは、まさに――ショパンの夜想曲から感じられる憂愁そのもの――であったのだろう。

 夜ひとり自分をショパンに晒していれば、淋しさや悲しさが否応なく掻き立てられ、心は悽々」たる状態に凍りつき、さすらい人の愁いは極度に募ったであろう。

 私は思う。

 ショパンの音楽は、人の心を掻き立てるという点において、古来の幾篇もの漢詩の絶唱とその効果を同じくする。

 本物の芸術は、極点さえ捕らまえてしまえば、表現形式の如何を問わず、接する者の心を大きく揺さぶるのだ。

[やぶちゃん注:リンクはショパン好きの私が勝手に施した。力の弱さ・音の細さがどうしても気になるが、私が若き日に最初に全曲を聴いたArthur Rubinstein の演奏を第一番と第十一番に選び、第二十番は抜群の透明感から Vladimir Ashkenazy を採った。なお全曲演奏はこのアシュケナージのものMaurizio Pollini のものがある。個人的にはアシュケナージをお薦めする。ポリーニのギリシャ彫刻のようなエッジの硬さは私はショパンには向かないと今も昔も思っている。また、音楽の演奏が演奏者自身の全人格的で生活史的なものをも含むものとするもの(私はそうである)であるとすれば、第二十番をより多くの人に心理的にブラッシュ・アップした、かの「戦場のピアニスト」の主人公である Wladyslaw Szpilmanウワディスワフ・シュピルマンの第二十番の演奏をもここに掲げるべき必要を私は感ずるものである。]

 

 形式の差異など、実に取るに足りないものではないか……。

 ただし、その極点を捉えることの如何に至難であるか――

……それをまた、私は今、痛切に感じるのである。

 そういえば、あれほどの博学才穎を誇った李徴でさえ、詩人として、後世に名を残すことができなかった。そればかりか、却って自らの才能に、いわば自ら食い殺されてしまったのである……。

 中島敦という第一級の東洋の詩人が、同じく第一級の西洋の詩人であるショパンを聴いて、どれほどあやしく心が動かされたか……。私はこんな想像をして、ひとり背筋を寒くするのである。今夜、私もまた独り、ショパンの夜想曲を聴きながら……。

耳嚢 巻之七 かくいつの妙藥の事

 

 ※いつの妙藥の事

 

[やぶちゃん注:「※」=「疒」+「各」。]

 

 坂野(さかの)の喜六郎租母、かくいつの病(やまひ)をうれゐて、諸醫師手を盡しぬれど其印なし。或人、まるめろをたくはへ絶(たえ)ず用ゆれば、快といふにまかせ、なまはさら也、砂糖漬抔になして朝夕用ひけるに、やがて快(こころよく)なりて八十餘歳迄存命なせしと、喜六かたりける。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:民間療法シリーズ四連発。

 

・「※いつ」[「※」=「疒」+「各」。]「かくいつ」は膈噎。「膈」は食物が胸につかえ吐く病気。「噎」は食物が喉につかえて吐く病気をいう。現在の胃癌又は食道癌の類と推測されている。「かくやみ」「かくやまい」とも。底本の鈴木氏も岩波の長谷川氏もそう(しかも両者ともに癌と断定しておられる)注して終わりとする。では、本当にこの老婆は現在でいう胃癌か食道癌であったかと言えば、これは読む者は誰もそうは思わない。この老女、全快しており、しかもその後も有意に長生きしたことを考えると(治って直ぐに老衰で死んだというようには「読めない」。膈噎の全快後、有意に数十年は生きたのでなければ「やがて快なりて八十餘歳迄存命なせし」とは「書かない」)、これは癌ではない。これは所謂、嚥下障害としてとらえるべき病態である。しかも、一定の時期を経て完治し、再発していない点では器質的機能的な原因ではなく、心理的なものや精神疾患の一症状が疑われる(だからこそプラシーボ効果としても本療法の効果があったとも考えられる)。ウィキの「嚥下障害」によれば、神経因性食欲不振症など摂食障害、認知症や鬱病などで食欲制御が傷害されている場合に症状として現われる、とある。精神疾患を持たない人の嚥下障害有病率が六%であるのに対し、精神疾患患者の三二%が嚥下障害を持っているとし、窒息事故の割合もはるかに高く、認知症ではしばしば食事をしたことを忘れるが、食事をしたことを忘れても食欲制御が傷害されていなければ異常な量の摂食は困難である。研究は少ないが、嚥下造影検査の分析から認知症では八四%の患者が何らかの嚥下障害を持っている、という報告がある、とある。先人である鈴木氏や長谷川氏に文句を言うのではない。しかし本来、注というものが読者への一つの編著者の配慮であるのだとするならば、ここまで語らなければ私は注とは言えないと考えているのである。それが私があらゆる注を施す際に常に心懸けている「節」であるということを、この場を借りて表明させて頂く。

 

・「坂野の喜六郎」坂野孝典(たかつね 寛延元・延享五(一七四八)年~?)。寛政二(一七九〇)年御勘定組頭。「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年に存命ならば五十八歳である。

 

・「まるめろ」バラ科ナシ亜科マルメロ Cydonia oblonga 。榲桲(まるめろ)は中央アジア原産のバラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ Chaenomeles speciosa や同じボケ属のカリン Chaenomeles sinensis に近縁な果樹で、栽培が盛んな長野県諏訪市など一部の地域では「カリン」と呼ばれている。リンゴや西洋ナシとも比較的、縁が近い。果実は偽果(普通の果実は子房の肥厚したものであるが、子房本体ではなく、その隣接組織に由来する部分が果実状化したものを指す。例えばイチジクはイチジク状果と呼ばれる偽果、リンゴやナシのようなナシ状果では我々が果実と思っている食している部分が偽果で、食べ捨てている芯の部分が真の果実)で、熟した果実は明るい黄橙色で洋梨形をしており、長さ七~一二センチメートル、幅六~九センチメートルのやや上部がくびれて小さい洋ナシのような形を成す。果実は緑色で灰色若しくは白色の軟毛(大部分は熟す前に脱落する)で被われている。果実は芳香があるが強い酸味があり、硬い繊維質と石細胞のため生食は出来ないが(このお祖母ちゃんは生食したとあるから凄い。お祖母ちゃんが可哀そうなので訳では薄く切って差し上げた)、カリンと同じ要領でカリン酒に似た香りの良い果実酒とする。他にも蜂蜜漬けやジャム(ポルトガル語でこれらのデザート系の加工品を“marmelada”(マルメラーダ)と呼称するが、これが今日の「マーマレード」の語源である)などが作られる(ここまでは主にウィキの「マルメロ」「偽果」に拠った)。カリンと同じく漢方では鎮咳などに効果があるとする。因みに、「マルメロ」という和名は本種(の果実?)を指すポルトガル語の“marmelo”に由来する。これは恐らくギリシア語由来で、ギリシャ語では“melimelon”と言い、“meli”(甘い)+“melon” (リンゴ)の意味であるという。属“Cydonia”はクレタ島の古代都市キドン Cydon に由来するとされ(但し、マルメロの原産地は中央アジアからイランで、ギリシア・ローマの時代から移入されて栽培されたために間違った産地名を属名に用いてしまったケースである)、種小名の“oblonga” は「長楕円形の」という意味で、実の形に由来している(以上は高橋俊一氏の「世界の植物-植物名の由来-」のこちらのページの「マルメロ」の記載を参照させて戴いた)。漢名「榲桲」は音では「オツボツ」と読む。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 膈噎(かくいつ)の妙薬の事

 

 坂野(さかのの)喜六郎殿の租母は、永く、飲食の際の困難や嘔吐といった膈噎の病いを患って、諸医師が手を尽くして療治致いたものの、全く以って、その効果が見られなんだと申す。

 

 ところが、ある人が榲桲(まるめろ)を貯えてそれを絶えず服用致さば快癒間違いなし、と申したによって、ごく薄く切っての生食は言うまでもなく、砂糖漬なんどに致いて、朝夕欠かさず用いたところが、暫くすると、すっかり快よくなり、一切の膈噎の症状は、これ、全くなくなって、その後は何と八十余歳まで矍鑠として存命であったとは、喜六殿御自身が語って御座った話で御座る。

 

怠惰の曆 萩原朔太郎

 

 怠惰の曆

 

いくつかの季節はすぎ

もう憂鬱の櫻も白つぽく腐れてしまつた

馬車はごろごろと遠くをはしり

海も 田舍も ひつそりとした空氣の中に眠つてゐる

なんといふ怠惰な日だらう

運命はあとからあとからとかげつてゆき

さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる

もう曆もない 記憶もない

わたしは燕のやうに巣立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。

むかしの戀よ 愛する猫よ

わたしはひとつの歌を知つてる

さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げやう

ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。

 

[やぶちゃん注:詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)の「閑雅な食慾」の巻頭詩。それが初出である。「投げやう」はママ。]

トマト 三首 他白き珊瑚道一首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

小笠原の彌生はトマト赤らみて靑水無月(あをみなづき)の心地こそすれ
父島にトマトを買へば椰子の葉に包みてくれし音のゆゝしさ
トマト提げてわが行く道は乾きたり測候所の白き屋根も見えくる
この道に白きは珊瑚の屑といふ海傳ひ行き踏めば音する

風のなかに巣をくふ小鳥 大手拓次

 風のなかに巣をくふ小鳥
       ――十月の戀人に捧ぐ――

あなたをはじめてみたときに、
わたしはそよ風(かぜ)にふかれたやうになりました。
ふたたび みたび あなたをみたときに、
わたしは花(はな)のつぶてをなげられたやうに
たのしさにほほゑまずにはゐられませんでした。
あなたにあひ、あなたにわかれ、
おなじ日(ひ)のいくにちもつづくとき、
わたしはかなしみにしづむやうになりました。
まことにはかなきものはゆくへさだめぬものおもひ、
風(かぜ)のなかに巣(す)をくふ小鳥(ことり)、
はてしなく鳴(な)きつづけ、鳴(な)きつづけ、
いづこともなくながれゆくこひごころ。

鬼城句集 夏之部 蝙蝠

蝙蝠    蝙蝠や飼はれてちゝと鳴きにけり

      山寺や蝙蝠出づる緣の下

      蝙蝠や三十六坊飯の鐘

[やぶちゃん注:「三十六坊」知られた寺院で三十六坊を擁したのは上野寛永寺。ウィキ寛永寺」によれば、江戸後期の最盛期の寛永寺は寺域三十万五千余坪、寺領一万千七百九十石を有し、子院は三十六箇院に及んだとある(現存するのは十九)。]

      蝙蝠や並んで打てる投網打ち

2013/07/25

2013年8月7日にアトムは僕らを救ってくれるか?

岡崎武志「昭和三十年代の匂い」(ちくま文庫2013年5月刊)の「5 科学の未来が明るかった時代」の中に「鉄腕アトムは二〇一三年の話」という章がある。

岡崎氏は、『少年』の昭和34(1959)年2・3月号に掲載された「鉄腕アトム」の「月のうらの秘密の巻」があるが、これは後に「イワンのばか」と改題され、アメリカの一九六九年の月面着陸成功後の単行本化の際、手塚治虫が話の前に加筆、『手塚治虫自身が月の絵をバックに語り出』し、そこにアトムが登場し、仕事机に坐って振り返って笑う手塚に「先生は 月が死の世界ではなく 空気があって 植物もあるって このマンガにかいたでしょ あたりませんでしたね」と背後から語りかける。手塚は「そんなものはないことはわかっていたよ でも月の夢物語ををつくるのはほんとうにたのしかったな」と答える、とある。
実はこの加筆シーンは僕の持っている講談社の「手塚治虫漫画全集」(昭和1980年刊行)の「鉄腕アトム6」の「イワンのばか」の巻には載っていない。これは発表時の原型で掲載されたもので、この加筆はないからである。
僕はこの加筆を見たかどうかと言われると、高い確率で読んでいないように思われる。しかし、僕は小学生の低学年の時(月面着陸は僕が中学一年の夏である)に改題された「イワンのばかの巻」を読んで、題名とロボット・イワンの造形と最終コマの雪の降る(!)月面の廃船と十字架が、何故かひどく哀しく印象に残ったのを覚えているのである。

さて、岡崎氏は特にこの「イワンのばかの巻」を詳述せずに続けて、四方田犬彦の「鉄腕アトム」の時代設定考証の論(1992年刊講談社コミックス版『鉄腕アトム 第三巻』解説)を引き、「鉄腕アトム」の『舞台になっている東京は、どうやら二十一世紀の初頭、年代にしてみると二〇〇七年から二〇一〇年ぐらいではないか、とわたしは睨んでいる』と提示する。
ところがその直後に唐突に岡崎氏は、
『じつは、あるシーンで、『鉄腕アトム』の時代は二〇一三年とはっきり特定されている。』(「昭和三十年代の匂い」97ページ)
と記されているのである。

まさに――2013年――今年である――

その後は、やはり四方田氏によるアトム誕生は「地上最大のロボットの巻」(『少年』昭和39(1964)年6月号~昭和40年1月号連載)で、産みの親天馬博士がアトムに対して言う「十四年前におまえは科学省で生まれた」という台詞から『一九九三年から九六年くらいの間に造られた計算になる』という考証を示してアトムを平成生まれと規定する。但し、残念ながら私の所持する講談社版全集及び浦沢直樹「プルートゥ」の附録版――後者は初出の冒頭に加筆があり、やはり手塚治虫が登場している――では『十四年前』という台詞は書き変えられて、「科学省の精密機械局……その台の上で誕生したのだよ」となったものと思われる。

[*やぶちゃん補注:この改変事実からも分かるように、ある時から手塚治虫は『鉄腕アトム』時代設定に関わるような部分を手直ししたり、抹消したりしている事実が判明する。それは恐らく初期設定から時間が経過するに従って、現在に著しく近づいてくることによる違和感を払拭する狙いがあったものと思われるが、これは初出誌を持つことを誇りとするようなファンではない(しかし手塚治虫をつい「先生」と呼びたくなる)僕のようなフリークではない人間にとっては、作品を読解するにはすこぶる困った仕儀であったのである。]

その後に岡崎氏の本でも提示されるように、原作の公式設定では、現在、

アトムの誕生日 2003年4月7日

と規定されているのである(ウィキの「鉄腕アトム」参照)。

だとすれば今日、2013年7月25日現在で、アトムは満10歳である。

ここで少し、修正された原時代設定の一つを考察してみたい。
実はその大きな論拠になるのが冒頭に示した「イワンのばかの巻」なのである。ここでは何と正確な年代が話中に示されるのである(以下は1980年刊講談社全集版に拠る)。
アトムは小学校の春休み(掲載時期から推定)に宇宙旅客艇のボーイとしてアルバイトとして乗り組むが、隕石に激突して5人の乗客とともに月の裏側へ不時着して救助を待つことになる(空気も水も植物も存在する)。アトムは探索中にクレバスに落ちた旧式の宇宙船を発見、そこで残されたテープ・レコーダーの録音を再生すると、その宇宙船は

1960年

にソ連政府の極秘命令を受けて月の裏側に出発した単独有人月ロケット「ウラル」であり、飛行士は若きミーニャ・ミハイローヴナソ連空軍の女性中尉であったことが判明するのである。まだ起動しているロボット・イワンはアトムをミーニャと錯誤し、アトムの世話をしようと押し留めるのを何とか振り切り、仲間避難客のもとへと帰還、事情を述べる。アトムから聴いた内容を避難客の少年が他の連中に説明するシーンで、少年は、

「そうです 五十年前不時着したソ連のロケットです」

と言うのである。ということはこの

「イワンのばかの巻」の作中時間は2010年

に確定される(「五十年前」という台詞をどんぶり勘定の数値とする要素は読む限りに於いて殆んどないと断言出来る)。

ところでここに別に今一つ、「鉄腕アトム」の解析では沢山おられるであろう緻密な研究家のお一人の考察をネット上で見ることが出来る。手塚治虫とは昆虫学でまず繋がっておられる中谷憲一氏のサイト「がたろ写真帳」の中の「お茶の水博士の誕生年」という考証である。そこで非常に重要な考察として、実は原作者の手塚には元来、「鉄腕アトム」の『時代設定を厳密にする気が無かったのであろうと推測』されること、また『アトムの生年月日が明確に設定されたのは何らかの理由があったからだ』という提起がなされている点である。「鉄腕アトム」の全話構成が編年的体裁をとらねばならない理由は無論ないし、また「鉄腕アトム」を一つの文化的メルクマールとして良い意味でも悪い意味でも何らかの主義主張の求心的動力として利用しようという存在にとっては、アトムの生年月日を特定することは確かに有意にして有価値な厳とした目的が存在することは言を俟たない。それは中谷氏やその他のフリーキーな人々の内的欲求とは限らない。もっと外延的な政治的経済的科学技術的な「妖しい目的」をその背後に嗅ぎ取ることが出来るが、今は敢えてその問題に深入りはしない(但し、いつかはそれをせねばならない僕は思っているのだが)。
中谷氏はそこで、この「イワンのばかの巻」について以下のように叙述されておられる。
   《引用開始》
「イワンのばかの巻」(手塚,1987a)では,1965年に月の裏側に不時着したソ連の月ロケット「ウラル」の事故の50年後という設定である。つまり,2015年が舞台となっている。ただ,この月ロケット「ウラル」に乗っていた女性宇宙飛行士,ミーニャ・ミハイローヴナ空軍中尉の娘(ウラル事故当時10歳前後)が,月の女王になろうとして事件を起こす「ホットドッグ兵団の巻」(手塚,1987b)は,「ウラル」の事故から30年後の設定である。「ウラル」が1965年だとすると,アトム誕生以前の1995年が舞台となり,矛盾する。これは,60歳前後の女性が月の女王をもくろんで精力的に悪事を働くと設定するよりも,女盛りの40歳前後であるほうが自然であるからだろう。「ホットドッグ兵団の巻」の場合,時代設定は明示されていないが,鉄腕アトムの他のストーリーと同様に2015年前後と見るべきだろう。したがって,この場合の「ウラル」事故は1985年頃となる。
   《引用終了》
ここで中谷氏が使用している『(手塚,1987a)』というのは、記事末にある「文献」によってKCスペシャル305「鉄腕アトム第1集」講談社1987年刊の「イワンのばかの巻」であことが示されてある。ここで中谷氏は「ウラル」の打ち上げを、

1965年

と記しておられ、従って、

「イワンのばかの巻」の作中時間は2015年

にずれ込んでいることが分かる。
講談社全集版は1980年、この講談社KCスペシャル版は1987年の刊行である。
――深入りはしないと、前に述べたが、少しだけ述べさせてもらうならば、僕は検証した訳でもなんでもないが、手塚はアトムの漠然とした時代設定を現実に接することのない漸近線的なものとして漠然と少しずつ、先へ先へと押し遠ざけていたのではなかったかと思うのである。そうしてそれは現実の未来、その科学技術が齎してしまうところの恐怖の現実を、半ば無意識的に、無垢の存在である愛するアトムから、遠ざけるためではなかったろうかとも思うのである。――

これだけを見てもお分かりの通り、初出からその後の書き換え・加筆版及び現行、そして公式設定まで、総てのデータを並べて考証するには、およそフリークでオタクでない限り、無理な相談である。そうした違いを論って何かを主張することは僕にはとても出来そうもない。いや、実はする気もあんまり(あんまりではあるが)ないのである。

では、何故、今、こうして論考を書いているか?

それは実はこの、岡崎氏が「昭和三十年代の匂い」で呟いた、

『じつは、あるシーンで、『鉄腕アトム』の時代は二〇一三年とはっきり特定されている。』

がひどく気になったからのである。
この『あるシーン』とはどの話であるのか?
実は岡崎氏は述べていなかったからでもある。
そうして僕は何か直感的に、この『あるシーン』とはあの話の中ではないか? と思い至ったからでもある。
そうしてそれが「あの話」だとしたら……それは僕にとって、とても激しい動揺を起こさせるに足る――則ち、何かもを書かずにはいられなくなるほどの驚愕的事実となるものなのであった。
実は先に引用した中谷憲一氏の「お茶の水博士の誕生年」は昨日、それを調べるうちに発見したのであり、そこには岡崎氏の言う『あるシーン』がどの話しであるかが具体的に記されてあったのである。
そうして僕の直感はまさに当たっていたのである――
しかも――ここでも先と同じく作中時間の操作が行われていた形跡がはっきりと見つかったのである。

――「鉄腕アトム」の時代は今年2013年――

であり、しかも!……これからやってくる

――今年2013年8月7日のカタストロフ前後がその「鉄腕アトム」の作中時間に設定されている――

作品があるのである!

それは『少年』昭和28(1953)年5月号~11月号に連載された、

――「鉄腕アトム 赤いネコの巻」――

なのである。これについては実は先の中谷氏の「お茶の水博士の誕生年」の先の引用の直前に『「赤い猫の巻」(手塚,1987d)は2013年の武蔵野が舞台である』と記しておられ、恐らくはアトム・ファンの間では周知の事実なのであろう。この中谷氏の『(手塚,1987d)』はやはり「文献」欄によって講談社1987年刊「鉄腕アトム第7集」の「赤い猫の巻」(「ネコ」が「猫」と表記が異なっている)であることが分かる。ところが僕の所持する講談社版全集の「赤いネコの巻」には、実は、

――2013年とはどこにも書いてない――

のである。
「じゃあ、お前のさっきのの2013年8月7日というのは何じゃい?!」
と言われるであろう。
ここから僕のオリジナルな考証を示したいのである。

まず「赤いネコの巻」のストーリーを示す。これは僕の古いブログ「國木田獨歩 武藏野 又は 鉄腕アトム 赤いネコ」で行った僕の纏めた梗概に一部新たに手を加えたものである。……。原作の吹き出しの台詞の呼吸を一部再現するために空欄を設けた。台詞の傍点は下線に代えた。

*   *   *

冒頭、ナレーションのような吹き出し。
――二〇〇〇年の東京に立ってまず外人はめんくらう………――
――二十一世紀的文明と二十世紀の古さがごちゃまぜになったおかしな大都会だ………――
そして……
……殺伐とした未来都市東京を散策するヒゲオヤジによって以下のように朗読される。「武蔵野を 歩く人は 道をえらんでは いけない」「ただその道を あてもなく 歩くことで 満足できる」「その道はきみをみょうなところへみちびく……」「もし人に道をたずねたら……」「その人は大声で 教えてくれるだろう おこっては ならない」「その道は 谷のほうへ おりてゆく」「武蔵野には いたるところ……」「谷があり 山があり 林がある」「頭の上で鳥がないていたら きみは幸福である」……それと共に描かれるコマが皮肉な映像であることは言うまでもない……。 

彼は、「赤いネコ」とサインされた葉書を受けて、古びた洋館に呼び出されて来た五人の少年達を保護する。彼等の父親たちは、皆、新東京開発の関係者であった……。

赤いネコを探索追跡するヒゲオヤジとアトムは、山中の洞窟で動物学者Y教授の白骨死体を発見する。Y教授の友人であった御茶ノ水博士は「いつも この武蔵野が どんどんきりはらわれて 都会になってゆくのを なげいていました」と語り、ネコは教授の可愛がっていた「チリ」であると言う……。[やぶちゃん注:少し残念なのは、この教授のネームがそっけないイニシャルであることか。いや、これは「やぶちゃん」の「Y」なのかもしれないな。【2013年7月25日追記:ウィキの「鉄腕アトム」によれば、講談社の手塚治虫漫画全集版以降「Y」という不自然な名前になっているこれは、もともとは「四足教授」であったものが、差別用語に抵触する虞れから、そのイニシャル一文字に変更されたものである、とある。】]

その晩、チリがヒゲオヤジの寝所に現われ、「私の 主人は あの 美しい 野山が ビルディングの町になるのを くやしがって死んだのです」「お願いですから ビルの建築を やめさせて……」「きいてもらえなければ あなた はじめ みんなを のろい殺しますよ」と人語を操り、彼の銃撃をもかわして消え去る……。

日比谷の建設省のセンター開発公団を訪ねたヒゲオヤジは、公団の総裁[やぶちゃん注:ここで演ずるは、手塚のスターシステムの「ロック公」である。以下、彼をロック公と呼称する。]から、Y教授がこよなく愛していた武蔵野の一角「笹が谷」の開発工事が、一時はY教授の嘆願もあり、ロック公の判断でとり止められたにも拘らず、他の多数意見によって結局開始されてしまったことに恨みを持っていたという事実を聞かされる……。

学校。ガキ大将の四部垣以下は、ヒゲオヤジ先生にビルを建てられたら僕たちの遊び場がなくなる、反対! と詰め寄っている[やぶちゃん注:本当にあの頃は空き地がいっぱいあったし、そこは僕らのワンダーランドだった。]。放課後、四部垣は秘密の宝物を工事が入る空地に埋めていたのを思い出す。行って見たところが、野犬に襲われ、間一髪のところにアトムがやってくる。ネコの面を付けた男が現われ、誤って襲わせたことを詫びながら、姿を消す……。

怪しいとにらんだアトムはその空地に秘密の地下通路を見出し、四部垣と侵入するが、逆にネコ男に捕まって軟禁される。描かれるその地下基地は、多くの動物が収容され、まさにノアの箱舟の再現であった……。

抵抗するアトムの腕のジェット噴射で、男の面がはがれた。それは、死んだはずのY教授であった。地上に逃げ延びた二人が出たのは、少年達が呼び出されたあの洋館、Y教授の家であった……。

Y教授の生存が確認された今、田鷲警部は逮捕状の申請を主張するが、お茶ノ水博士はそれを抑え、自ら単身、洋館を訪れる……。

現われたY教授は、お茶の水博士の説得に対して、こう反論する。「大自然の 精が わしにかわって 人間たちに 復讐しているんだ これはずっと これからも つづくんだ」……そうして開発を中止しなければ8月7日に恐ろしいことがあると告げて去ってゆくのだった……。

ヒゲオヤジは、役人(先の「ロック公」)に、工事のとりあえずの中止を進言するが、彼は言い放つ。「都の命令がない以上むだんでやめられないのですよ」「私はやります」「東京の名誉のためにも」……。

8月7日。

ありとあらゆる動物達が、突如として一糸乱れぬ反乱を起こし、東京はパニックに陥る。アトムは下級生の子供たちを救おうとして、ビルに激突、突き刺さったまま、機能を停止してしまう……。

捨て身の四部垣と駆けつけたお茶の水博士によって復活したアトムは[やぶちゃん注:ここで再生したアトムはまぶしく光っており、抱きつこうとした四部垣に博士が「いまアトムのからだは原爆とおなじようなもんじゃ」と制止する台詞は伏線以外にも意味深長である。]Y教授を探し出し、そこにあった動物を遠隔操作していた超短波催眠装置を破壊して、彼と対決する。……

アトムに飛びついた「チリ」は、触れて瞬時に死に、破れかぶれととなったY教授は、ダイナマイトを、誘拐した隣室の子供たち投げつけようとし、その瞬間、アトムの機転で自爆してしまう……。

その頃、建設省では意外な事実を、お茶の水博士が暴露している。公団総裁のロック公は、口ではY教授の嘆願を受け入れたようなことを言っていながら、その実、全くの私利私欲のために「笹が谷」開発の強制執行に踏み切った張本人なのであった。丁度その頃、窓外の動物の群れは、すでに鎮静を取り戻していた……。

回生病院。廊下。歩くお茶ノ水博士と医師。

お茶の水博士「Y教授はどうだね? 爆弾でやられたのだからそうとうひどかろう」

医師「とてももちませんな あと二日か三日生きればいいほうです」

病室。Y教授のベッド。

お茶の水博士「Yくん わしじゃ わかるか」

Y教授(うわ言で)「ムサシノを かえ…せ…」

お茶の水博士(書類を掲げて)「心配ない Yくん 建設省から約束の書類をとってきたよ 見えるかい……もうだれも あの森には 手をつけないんだよ」

Y教授(目を開け、黒こげとなったチリを抱いて横たわっているが)「あ……ありがたい チリや あれを ごらんよ…」

お茶の水博士「Yくん 元気になってくれな」

Y教授「お願いだ わしが死んだら あの森の中へ 埋めておくれ……たのむ」

Y教授(オフで。画面にはベッドの端にたたずむヒゲオヤジが後の窓を振り返っている。窓外には森を背景に、左を向いた淋しそうなアトムが立っている。)「わしは 武蔵野を 土に なって 守りたい」……。[やぶちゃん注:この作、お分かりのようにアトムは狂言回しの役どころでしかないように見える。しかし、そうではない。このコマのアトムこそが、人間とロボットという二律背反に引き裂かれてしまった、まさに「人としてのアトム」のディレンマの表現であったのだと思うのである。]

……並木道。散策するヒゲオヤジ。ヒゲオヤジは呟く。

「武蔵野を 歩く人は 道を えらんでは いけない」

「ただその道を あてもなく 歩くことで 満足できる」

「その道はきみを みょうな ところへ みちびく……」

森。佇むヒゲオヤジの前に苔むした墓がある。

「そこは森の 中の 古い墓場……」

「こけむした 石碑がさびしく うずもれている だろう」

墓。フルショット。その墓石に刻まれた「Y教授墓」の字。

「頭の上で 鳥がないて いたら きみの 幸福である」

見上げるヒゲオヤジ。森の上を、鳥がねぐらへと帰ってゆく……。

ヒゲオヤジ(以下の台詞は一見「武蔵野」の一節であるように描かれている)「武蔵野は滅びない どんなに文化が 進んでも……」「この大自然はいつまでも きみたちを 待っているだろう」

最終コマ。数枚の落葉のある、地面に置かれた「国木田独歩 著 武蔵野」の本。その上に、一枚の枯葉が散っている……。

*   *   *

因みに、僕の本作への強い思い入れは、ブログ「國木田獨歩 武藏野 又は 鉄腕アトム 赤いネコ」に記したように、僕の中では国木田独歩の「武蔵野」への偏愛とのハイブリッドなものだからである。

さて、問題はこの作中時間が

――何故本年2013年

と特定出来るのかである。何よりも恐らく、先に中谷氏の示された、

講談社1987年刊「鉄腕アトム第7集」の「赤い猫の巻」の冒頭のナレーションは「2010年」ではなく「2013年」となっている

ものと推測出来る(他には2013年であることを示すデーティルは僕の全集版ではどこにも見当たらないことは既に述べた)から「事実」としてそうなのである(が僕は確認してはいないのである)。岡崎氏と中谷氏の二人が別個に述べておられるのだから間違いない。
「だったらそれでいいではないか?」
ということになるかも知れない。
しかしそれでは僕は、人の褌で相撲をとるようなものですこぶる気持ちが悪いのである。
そしてだからこそ、それでも、僕はしかし、この

――先行する「二〇〇〇年」と冒頭に書かれている講談社全集版の「赤いネコの巻」の作中時間さえも2013年であると断ずる

のである。何故か?

そもそも冒頭のナレーションであるが、これは吹き出しの形状(コマ外の作者が語っているタイプのものと知覚されるように描かれている)や3コマあるその描写(2コマ目には台詞がない)や、その台詞の内容、直後のヒゲオヤジの「武蔵野」の朗読音との絡みから考えても、ヒゲオヤジの台詞ではない。作者の口上なのである。

そしてそのナレーションの内容を再度見てみるならば、

――二〇〇〇年の東京に立ってまず外人はめんくらう………二十一世紀的文明と二十世紀の古さがごちゃまぜになったおかしな大都会だ………――

この「二〇〇〇年」とはかっちりとした狭義の西暦2000年とは僕には読めないのである。そもそも実際の2000年に皆が意外だったように、「2000年」は20世紀であって21世紀は「2001年」なのである(だからこそ「2001年宇宙の旅」は2001年なのである)。則ち、このナレーションの謂わんとするところは、

――2001年を過ぎ、21世紀に入ったばかりのこの東京にやって来て、その景観を眺めた外国人は必ず面食らうのである。………それはミレニアムから高々数年が経過したこの東京という「大都会」が、「大都会」とはいうものの、21世紀的文明と20世紀から連綿と受け継いできた何とも言えぬ日本的な古さが、ごちゃまぜになったところの、如何にも奇妙な「大都会」だからである………――

と言っていることは間違いないからである(因みに、作中の少年たちはメンコをしており、その背景は板塀であり、その脇に立っているのは木製電柱である。Y教授の秘密の抜け穴に繋がっているゴミ箱は総木作り、四部垣らが守ろうとするのは消滅してしまった遊び場としての懐かしい空き地である。これは総てまさに懐かしい昭和20年代末から30年代の風景なのである)。
とすれば、2001年以降でまだまもないのは、2013年であってよい。
「あっていいが、それなら2001年(クソのようなミレニアム問題など実はどうでもいいので2000年からとしてもよい)から2020年、いいや、2030年でもよかろうよ!」
と反論されるであろう。

しかし――それでもこれは2013年なのである。――

何故か?
梗概をもう一度見て戴きたい。
開発業者の少年たちが呼び出される葉書がある。これが不吉な本話の導入であるのだが、その「赤いネコ」とサインされた葉書には、実は

「十三日十三時東京都第四区一三丁め十三番地のうちへきたれ」

と書かれているのである(これは絵のみで28コマ目にアップされる)。
僕は

――この不吉な「13」に拘った葉書から
――本作のカタストロフに最もマッチするこの2001年以降でまだ世紀の初頭といったら
(去年のマヤ暦じゃあないが)、

2013年をおいて――他にはない――と思うのである。

恐らくここまで読んでこられて、がっくり来られた方が大半であろう。如何にもかも知れぬ。それも僕は何だかしみじみと感じるのである。

今日から後――ちょうど――13日後――である。

言っとくが、巧んだものじゃあない。今、数えてみてちょいと慄然としたもんさ……

2013年8月7日――もし――動物たちが――自然が――遂に人類を滅ぼさんとする反乱を起こしたとしたら……

……その僕ら人類を救ってくれるアトムを――僕らは持っていない――のである……

僕はただ――それだけを言いたかったのである……

……ここまで付き合ってくれた奇特なあなたを――僕は全力で――抱きしめる……ありがとう――

岡崎武志「昭和三十年代の匂い」

名古屋への行っている間に妻の持っていた岡崎武志「昭和三十年代の匂い」(ちくま文庫2013年5月刊)を読んだ。

近年稀なる(すこぶる)²附きの面白さであった。

ただ、その面白さは僕と全くの同年齢の方々にのみ推薦する面白さである。これは作者岡崎氏と私が全く同年(僕の方が一ヶ月早い)である点、彼の当時の生活水準が僕の当時の家庭経済と大差ない点に大きく影響されているものだからである(その証拠に巻末のオタッキング岡田斗司夫氏(学年で一年後輩であり、父君が自営業者であったため、相対的に見て、やや当時の僕や岡崎氏より「ええし」の子に属するところの生活環境にあった)との対談では岡崎氏が岡田氏が外食を月一でやっていたとか聴いた辺りから、微妙に言葉がぞんざいになる辺り、思わず、その場に僕もいるような気になってニンマリしたものである(これは僕のような原体験のある人間にしか読んでいても分からないかも知れないが)。

冒頭の「1 エイトマンとたこ焼き」に始まり、

2  おはよう!こどもショーおよび米産アニメの声優
3  あの頃はまだ戦後だった
4  初めてのシングル盤
5  科学の未来が明るかった時代
6  わが家にテレビがやってきた
7  アメリカのホームドラマ
8  少年期を包んだ歌たち
9  お誕生日は不二家のお子様ランチ
10 マンガに見る日本の風景
11 誘拐、孤児、家出の願望
12 昭和三十年代の匂い
13 のら犬と子どもたち
14 大阪市電とトロリーバス
15 汲み取り便所が果たしたこと
16 おじさまの匂い

という章題のラインナップを見て貰えれば、僕が入れ込んだ理由が概ね想像出来よう。
特に「枕草子」の「昭和三十年代版『匂い』物尽くし」ともいうべき、12・15・16章は読みながら、実際に木製のゴミ箱や雨上がりの砂利道や肥溜めや溜め便所の匂いやが、馥郁と匂って来る素晴らしいものであった。
同世代の方々には、これは是非、推薦したい本である。妻は実はまだ読んでいないのであるが、恐らく僕の感銘の1/10も感じられないだろうと預言しておいた。これは妻が所謂、僕と比して相対的には、はるかに「ええし」に属した人間であることもさることながら、やはり作者の男性(男の子)の視点にこそその主な理由はある。されば同世代でも女性には、自信を持ってはお薦めしないと言い添えておこう。

而して僕は本書のブック・レビューを書くことが目的ではない。
本書の中の「ある記述」が目にとまって、どうしてもその「事実」を考証してみたくなったのである。

次のブログで、それについて述べたいと思う。暫し、お時間を頂戴する。

耳嚢 巻之七 蟲さし奇藥の事 (二条)

 蟲さし奇藥の事

 

 ある海邊の在郷に、親は獵(れふ)し得たる烏賊(いか)を料理、いかの墨手中に附居(つきゐ)たりしが、其いとけなき子いかゞせしや、まむしにさゝれしとて鳴(なき)わめく。かたへの人も立(たち)つどひ、親なる者、いづれさゝれしやと烏賊のすみ付(つき)し手にて、其さゝれし所を撫で抔し、誠にわするゝ如く痛去(いたみさり)、無程(ほどなく)痛快(つうかい)なりし。其□□虫さしの□へはいかのすみをぬるに快驗得る事奇々妙也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:疣コロリから蛇咬傷の民間薬シリーズで直連関。イカスミは性関節潤滑・皮膚損傷修復効果や保湿・美肌作用を持つムコ多糖類を多く含み、他にも最近では抗ウイルス性・代謝促進・免疫力向上・抗癌作用などの薬理効果もあるとするようである。漢方では特に補血作用を活かして粉末にしたものを狭心症の治療薬として用いているともある。但し、同じ墨でもタコスミはやめた方が無難である。毒性が認められるからである。私のブログ記事蛸の墨またはペプタイド蛋白を参照されたい。

・「其□□虫さしの□へはいかのすみをぬるに快驗得る事奇々妙也。」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(恣意的に正字化した)、

 其一郷は虫さしの分へはいかの墨をぬるに快驗を得る事奇々妙々の由人の語りぬ。

とある。この部分、大々的にバークレー校版で採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 毒虫に咬まれた際の奇薬の事

 

 ある海辺の在郷でのこと。

 親は今日、漁(すなど)って参った烏賊(いか)を料理して御座って、烏賊の墨が手の中にべったりとついておったと申す。

 ちょうどその折り、頑是ない子(こお)が、いかがしたものか、

「蝮(まむし)に刺されたぁッ!……」

と泣き叫ぶ。

 近所の者どもも駆けつけて見たところが、親なる者が、

「ど、どこを刺されたじゃッ!?……ここかッ?……こ、ここかッツ?……」

としきりに聴いておるものの、子(こお)は泣き叫ぶばかりにて要領を得ぬ。されば結局、烏賊の墨がついた手(てえ)にて、その噛まれた辺りを、ただしきりに撫で回して御座った。

 子(こお)の肌えはみるみる真っ黒――

――と、突然、子(こお)が泣きやみ、

「お父(っとう)……ちいとも、痛う、のうなった。……」

とけろりと致いた。

 まっこと、咬まれたことも忘れたように痛みが全く消え、ほどのう、咬まれたその跡方もなく快癒致いて御座った。

 これより後、その一郷にては、蛇に咬まれた際には烏賊の墨を塗ればたちどころに快癒を得ること、これ、奇々妙々なりと伝えておる由、さる人の語って御座った。

 

   又

 

 まむしはさら也、都(すべ)て虫さししに、ころ柿(がき)を醋(す)に付置(つけおき)て、さゝれし所へ附(つく)るに、是奇々妙也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:蛇咬傷を含む虫刺され民間薬シリーズ連続。

・「ころ柿」転柿・枯露柿などと書く。干し柿のこと。渋柿の皮を剝き、天日で干した後に莚の上で転がして乾燥させたことから。干し柿はビタミンCとビタミンを多量に含んでおり、現在でも、二日酔い・風邪・夜尿症・高血圧・火傷・かぶれ・しもやけ・痔・虫刺され・歯痛に効く、とされている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 毒虫に咬まれた際の奇薬の事 その二

 

 蝮は勿論のこと、総て虫に刺され咬まれた際には、干し柿を酢に漬けおいて、それを刺し咬まれたところへつけると、これ、奇々妙々の効果を発する、とのこと。

記憶を捨てる 萩原朔太郎 (初出形)

 

 記憶を捨てる

 

それは雨(あめ)にぬれてゐる、羊齒(しだ)の葉(は)が這(は)つてゐる。ぞくぞくとした植物(しよくぶつ)が繁茂(はんも)し、森(もり)の中(なか)が奥深(おくふか)く見(み)える。憂鬱(いううつ)な幻想(げんさう)の透視(とうし)に於(おい)て。

かつて生命(せいめい)はその瞳(ひとみ)をもつてゐた。何物(なにもの)かを明(あき)らかにみるところの瞳(ひとみ)を。恐(おそ)らくはその憂鬱(いううつ)なる透視(とうし)に於(おい)て、森(もり)の中(なか)の倒景(たふけい)をさへ。併(しか)し、悲(かな)しみの薄暮(はくぼ)はきた。印象(いんしやう)をして消(け)さしめよ。

森(もり)からかへるとき、私(わたし)は帽子(ばうし)をぬぎすてた。ああ、記憶(きおく)。恐(おそ)ろしく破(やぶ)れちぎつた記憶(きおく)、みじめな、泥水(どろみづ)の中(なか)に腐(くさ)つた記憶(きおく)。さびしい雨景(うけい)の道にふるへる私(わたし)の帽子(ばうし)。背後(はいご)に捨(す)てて行(ゆ)く。

 

[やぶちゃん注:『文章世界』第十四巻第八号・大正八(一九一九)年八月号に掲載された。「倒景(たふけい)」のルビはママ。
「後の散文詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)版では前二連がカットされて、以下のような詩形で所収されている。

   *

 記憶を捨てる

 森からかへるとき、私は帽子をぬぎすてた。ああ、記憶。恐ろしく破れちぎつた記憶。みじめな、泥水の中に腐つた記憶。さびしい雨景の道にふるへる私の帽子。背後に捨てて行く。

   *

他作品に合わせて冒頭一字下げとし、「恐ろしく破れちぎつた記憶、」の読点を句点に変えている。]

三日目の朝六首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    三日目の朝
日や出でし海の上(へ)の濠(もや)金綠(きんりよく)にひかり烟らひ動かんとする
兄島を榜(こ)ぎ囘(た)み行けばちゝのみの父島見えつ朝明(あさけ)の海に
[やぶちゃん注:「榜ぎ」漕ぐの意。当字は櫂や舵の意も持つ。
「囘み」自動詞マ行下二段動詞「たむ」(回む・廻む)で、巡る、周るの意の万葉集以来の古語。]
二日二夜南に榜(こ)ぎてココ椰子のさやぐ浦廻(うらわ)に船泊(は)てにけり
[やぶちゃん注:「泊て」自動詞タ行下二段動詞「はつ」舟が停泊するの意の万葉集以来の古語。]
みんなみの浦に汽船(ふね)泊(は)て白き船腹(はら)ゆ吐き出す水に小さき虹立つ
うす綠二見の浦の水淸み船底透いて搖れ歪(ゆが)み見ゆ
群靑と綠こき交ぜ透く水に寄り來し艀舟(はしけ)搖られてゐるを

悲しみの枝に咲く夢 大手拓次

 悲しみの枝に咲く夢

こひびとよ、こひびとよ、
あなたの呼吸(いき)は
わたしの耳に靑玉(サフィイル)の耳かざりをつけました。
わたしは耳がかゆくなりました。

こひびとよ、こひびとよ、
あなたの眼が星のやうにきれいだつたので、
わたしはいくつもいくつもひろつてゆきました。
さうして、わたしはあなたの眼をいつぱい胸にためてしまひました。

こひびとよ、こひびとよ、
あなたのびろうどのやうな小指(こゆび)がむずむずとうごいて、
わたしの鼻にさはりました。
わたしはそのまま死んでもいいやうなやすらかな心持になりました。

[やぶちゃん注:既出であるが、「靑玉(サフィイル)」はサファイア。青玉。フランス語の“saphir”忠実な音訳(英語は“sapphire”)である。なお、底本ではこのルビは「サフイイル」であるが、既出本文表記から促音化して訂した(ご存知の通り、本邦では現在も続いているが、永くルビの促音表記はなされない(初期は植字の関係上、出来なかったというか、面倒であったというのが正しいかとも思われる)のが常識であったことを多くの人が知っているようには思われないので特に注しておく)。]

鬼城句集 夏之部 蟇

蟇     さいかちの落花に遊ぶ蟇

[やぶちゃん注:「さいかち」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ Gleditsia japonica。別名カワラフジノキ。漢字では「皁莢」「梍」と表記する(但し、「皁莢」は本来は大陸系の別種シナサイカチ Gleditsia sinensis を指す)。日本固有種。幹は真っ直ぐに延び、樹高は一五メートルまで達する。幹や枝には鋭い棘が多数あり、葉は互生。花は雌雄別で初夏に長さ一〇~二〇センチメートルほどの総状花序を開く。花弁は四枚で黄緑色の楕円形をしている。秋には長さ二〇~三〇センチメートルで曲がりくねった灰色の莢豆をつけ、十月には熟す。木材は建家具材とされ、豆は皁莢、「さいかち」または「そうきょう」と読んで生薬とされて去痰薬・利尿薬とする。また、サポニンを多く含むため、古くから洗剤として使われている。豆はおはじきとして子供の玩具にも利用された(以上はウィキイカチに拠った)。]

      蟇夕の色にまぎれけり

2013/07/24

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 9 日本人の描く富士山の心理学的認識実験

M173


図―173

 山を描くにあたっては、どの国の芸術家も傾斜を誇張する――即ち山を実際よりも遙かに嶮しく書き現わす――そうである。日本の芸術家も、確かにこの点を誤る。すくなくとも数週間にわたる経験(それは扇、広告その他の、最もやすっぽい絵画のみに限られているが)によると、富士の絵が皆大いに誇張してあることによって、この事実がわかる。私はふと、隣室の学生達に、富士の傾斜を、記憶によって書いて貰おうと思いついた。この壮麗な山は湾の向うに聳えていて、朝から晩まで人の目を引く一つの対象なのである。先夜、晩飯の時、輝く空を背に、雄々しく、非常に暗くそそり立つこの山を、出来るだけ注意深く描いて見た。そこで鋏を使用して輪郭を切りぬき、そしてそれを持って山にあてがうと私が努力したにもかかわらず、傾斜をあまり急に描き過ぎたことを発見した。私は紙に鋏を入れては山にあてがって見て、ついに輪郭がきちんと合う迄に切り、そこで隣の部屋へ入って、通弁を通じて、出来るだけ正確な富士の輪郭を書くことを、学生達に依頼した。私は紙四枚に、私の写生図に於る底線と同じ長さの線を引いたのを用意した。これ等の生年はここ数週間、一日に何十遍となく富士を眺め、測量や製図を学び、角度、円の弧等を承知している上に特に、斜面を誇張しないようにとの、注意を受けたのである。図173は彼等の努力の結果で、一番下は私の輪郭図である。彼等は彼等のと私のとの輪郭の相違に、只吃驚するばかりであったが、この試験には非常な興味を見せた。彼等は不知不識(しらずしらず)、子供の時から見なれて来たすべての富士山の図の、急な輪郭を思い浮べたのである。彼等の角度が、殆ど同じなのは面白い。学生の一人が持って来て見せた扇には、斜面が正確に近く描いてあった。登山した人がその山の嶮峻さを誇張するのは、山は実際よりも必ず峻しく見えるものだからということが、想像出来る。
[やぶちゃん注:この実験はすこぶる面白い。富士山が世界遺産になって、経済効果やら、とっくに分かっていたはずの環境汚染なんどを採り上げるくらいなら、新聞社は、このモースの、百三十六年も前に行った富士山の認識実験データを記事にした方が、いや、ずっと面白いと、思うがねぇ。……]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 8 犬・川・力士の四股名

 犬の名には赤、黒、白等の色を用いるが、犬は自分の色を知っているらしく思われる! 馬の名で普通なのは「ハルカゼ」(春の風)、「キヨタキ」(清い滝)、「オニカゲ」(悪魔の影)。川の中には「早い」川や、「犀」川や、「大きな井戸」の川や、「天の竜」の川やその他がある。相撲取は、この国では非常に尊敬されるが、「電光」「海岸の微風」「梅の谷」「鬼の顔の山」「境界の川」「朝の太陽の峰」「小さな柳」等の名を持っている。舟にもまた、極めて小さいもの以外は、皆一風変った名前がつけてある。

[やぶちゃん注:「電光」原文“Thunderbolt,”。雷電震右エ門(らいでんしんえもん 天保一三(一八四二)年~明治一七(一八八四)年)。彼は伝説の四股名「雷電」を襲名した最後の力士で、この明治一〇(一八七七)年一月場所で大関に昇進していた。

「海岸の微風」原文“"Seashore Breeze,”。何となく分る四股名ではあるが不詳。識者の御教授を乞うものである。

「梅の谷」梅ヶ谷藤太郎(うめがたにとうたろう 弘化二(一八四五)年~昭和三(一九二八)年)。明治一七(一八八四)年、第十五代横綱となった。

「鬼の顔の山」明治初年の第十二代横綱に鬼面山谷五郎(きめんざんたにごろう、文政九(一八二六)年~明治三(一八七一)年)がいる。

「境界の川」境川浪右衛門(さかいがわなみえもん 天保一二(一八四一)年~明治二〇(一八八七)年)。明治元(一八六八)年に大関、明治一一(一八七八)年に第十四代横綱となった。

「朝の太陽の峰」朝日嶽鶴之助(あさひだけつるのすけ 天保一一(一八四〇)年(天保九年とも)~明治一五(一八八二)年)。この明治一〇(一八七七)年十二月場所で大関に昇進している。

「小さな柳」幕末の名大関に小柳常吉(こやなぎつねきち 文化一四(一八〇七)年~安政五(一八五八)年)がいる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 7 山の名前

 山の名前を知る為に、外山は学生二、三名を応援として呼び込んだ。彼等が、僅か五、六の名を思い出そうとして、一生懸命になったのは、一寸不思議だった。私は殆ど無理に返答をひき出した程であったが、山の名のあるものは英語に訳すことが困難で、殊に「フジ」にはてこずったあげく、これは「富んだサムライ」を意味するといった。サムライは、封建時代、二本の刀を帯びることを許されていた人達である。山の漢字は「ヤマ」と呼ばれる。日本の山の名で、即ち支那語の漢字の名によったものである。現代の支那では、この漢字は、サンと発音する一地方を除いては、シャンである。外山は英語を完全に話し、且つ書くが、而も屢々、正確な英語の同意語を見つけるのに苦しんだ。彼が教えた名前の中のあるものを、以下にあげる。我国の山の名と同じような意味のものが多いことに気がつくであろう――。

 

[やぶちゃん注:ここに有意な一行空け。以下の名前のリストは底本通り、全体を二字下げで示した。なお、底本では省略されているが、リストの前には原文では“Mountain names”とある。]

 

オーヤマ    大きな山

ナンタイサン  男性の身体の山

ハクサン    白い山

カブトヤマ   甲の山

シラネ     白い峰

タテヤマ    直立した山

キリシマヤマ  霧のかかった島の山

ノコギリヤマ  鋸の山

 

 ノコギリはスペイン語の Sierra に相当するが、サクラメント市から見るシラフ山脈は、鋸の歯のようである。

[やぶちゃん注:「富んだサムライ」原文は“rich samurai”。

「山の漢字は「ヤマ」と呼ばれる。日本の山の名で、即ち支那語の漢字の名によったものである。」何だか意味が分かり難い。ここ、以下の部分も含めて示すと原文は“The character for mountain is called yama, the name of mountain in Japan, or after the name of the character in Chinese. To-day, in China, the character is called shan except in one province, where it is san.”であるが、この場合の“name”というのは、後の呼称中国の漢字に対して後で(日本で)命名したところの呼び名、則ち“the Japanese reading (of a Chinese character)”、所謂、訓読みのことを指していると考えるべきであろう。だからここは「訓」を敢えて用いないとすれば、「即ち後から支那語の漢字の名に与えられた日本名である。」とすべきところではなかろうか。

Sierra」原文は“Sierra”(フォント違い)。本文にある通り、スペイン語で鋸・山脈の意である。お馴染みのアメリカのカリフォルニア州東部を縦貫する“Sierra Nevada”シエラネバダ山脈のシエラで、この謂いはネバダ山脈山脈という屋上屋の謂いなのであった。]

「サクラメント市」カリフォルニア州北部サクラメント郡の都市。カリフォルニア州都。

「シラフ山脈」原文“the Sierras”。もうお分かりの通り、まさに“Sierra Nevada”のことで、この山脈はハイシエラ(High Sierra/High Sierras)とも呼ばれるのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 6 日本人の名前

 私は外山と松村に向って、何事にでも「何故、どうして」と聞く。そして時々驚くのは、彼等が多くの事柄に就いて、無知なことである。この事は他の人人に就いても気がついた。彼等が質問のあるものに対して、吃驚したような顔つきをすることにも、気がついた。そして彼等は質問なり、その事柄なりが、如何にも面白いように微笑を浮べる。私はもう三週間以上も外山、松村両氏と親しくしているが、彼等はいまだかつて、我々がどんな風にどんなことをやるかを、聞きもしなければ、彼等が興味を持っているにも係わらず、私の机の上の色々なものが何であるか聞きもしない。而も彼等は、何でもかでも見ようという、好奇心を持っている。学生や学問のある階級の人々は、漢文なり現代文学なりは研究するが、ある都会の死亡率や、死亡の原因などを知ることに、興味も重大さも感じないのであろう。

 外山に頼んで、女の子と男の子の名前――我国の洗礼名に相当するもの――と、その意味とを書いて貰った。

[やぶちゃん注:「女の子と男の子の名前――我国の洗礼名に相当するもの――」ここは一文全部を示すと、“I got Toyama to write down for me a list of girls' and boys' names with their meanings, names corresponding to our Christian names : —”である。「我国の洗礼名に相当するもの」というのはやや違和感を感じるが、ここは所謂、モースの周囲で当時の日本人が普通に用いていた「熊公」とか「山さん」といった渾名や幼名や通称に対する正式な神聖唯一の生涯不変(旧武士階級などでは事実はそうではないが)実名というニュアンスで採っているものらしい。]

 

[やぶちゃん注:ここに有意な一行空け。以下の名前のリストは底本通り、全体を二字下げで示した。なお、原文では左に“Girls' names”、右に“Boy’s names”と二段に組まれている。]

 

   女の子の名前

  マツ  松

  タケ  竹

  ハナ  花

  ユリ  百合

  ハル  春

  フユ  冬

  ナツ  夏

  ヤス  安らかな

  チョウ 蝶

  トラ  虎

  ユキ  雪

  ワカ  若い

  イト  糸

  タキ  滝

 

   男の子の名前

  タロー    第一の男子

  ジロー    第二の男子

  サブロー   第三の男子

  シロー    第四の男子

  マゴタロー  孫の第一の男子

  ヒコジロー  男性第二の男子

  ゲンタロー  泉第一の男子

  カメシロー  亀の子第一の男子

  カンゴロー  検査された第五の男子

  サタシチ   心の固い第七の男子

  カイタロー  見殻第一の男子

 

 女の子は下層民でない場合、普通その名前の前に、尊敬前置称語として「お」をつけ、その他すべての場合「さま」を短くした「さん」を名前の後につける。これは尊敬をあらわす言葉だが、人の名につくばかりでなく、冗談に動物の名の後にもつける。この「さん」はミスミセス、及びミストルの役をする。日本人が「ベビさん」「キャットさん」といっているのを聞くこともある。だが、前置称語の「お」は、女の子の名前にかぎってつける。ミス・ハナは「お はな さん」になる。太郎、次郎等、第一、第二……を意味する男の子の名前はよくあるが、我国のジョンソンなる姓が、「ジョンの息子」なる意味を失ったと同様に、ある点で第一の男子、第二の男子の意味を持たぬようになった。外山氏の話によると、今や男の子達は、クロムウェル時代の風習の如く、忍耐、希望、用心、信実等の如き、いろいろな新しい名前を、沢山つけられているそうである。

[やぶちゃん注:「ヒコジロー  男性第二の男子」は原文“male second boy”で、彦次郎の逐語訳であろう。以下同様。

「ゲンタロー 泉第一の男子」は原文“fountain first boy”。源太郎。

「カメシロー 亀の子第一の男子」は原文“tortoise first boy”。亀四郎か亀次郎を亀一郎と誤ったか。底本では「第一」の下に石川氏の『〔?〕』の割注が入っている。

「カンゴロー 検査された第五の男子」は原文“examined fifth boy”。これは恐らく勘五郎で「勘定」辺りからの通訳の結果であろう。

「サタシチ 心の固い第七の男子」は原文“stable seventh boy”で定七か貞七であろう。

「外山氏の話によると、今や男の子達は、クロムウェル時代の風習の如く、忍耐、希望、用心、信実等の如き、いろいろな新しい名前を、沢山つけられているそうである。」原文“Mr. Toyama tells me, the boys are being given a great many new names after the style of Cromwell's time, such as Patience, Hope, Prudence, Faith, etc.”。英国の「クロムウェル時代の風習」にこうした命名の濫觴があったというか、流行があったというのは初めて知った。因みに『アイアンサイイズ』(Ironsides:鉄奇兵。剛の者。)クロムウェル(Oliver Cromwell)のオリバーとは「平和」の象徴であるオリーブを由来とするとも言われるが、ここに出ている“Hope”以外は、不学にしてそこからどんな名前が生まれたのかよく分からない。識者の御教授を乞うものである。]

栂尾明恵上人伝記 52 空中浮揚

 或る時、木工權頭孝道參られたるに、法談の次(ついで)に命ぜられて云はく、是に亡者(まうじや)の琵琶とて人のたびて候、御覽ぜよとて取り出されけり。甲は華梨(かりん)の木のひたわたりなりけり。能々孝道見て申しけるは、是はよろしき琵琶にて候。一定(いちじやう)能くなりぬと覺え候と云々。上人仰せられけるは、あはれ、緒(を)をかな懸けて彈かせ奉つて聽聞し候はんと宣ふ。孝道、「折節緒を持ち候とて、懷より疊紙(たゝうがみ)取り出して緒をかけて、暫く調べすまして引きすましたりけり。折節靜なる夕暮の程、ことに殊勝に類(たぐひ)無く聞えける。いひ知らぬ下法師迄も感涙を流しけり。上人も感に堪へずして前の緣にかけられたる簾臺(れんだい)の竿(さほ)にそとあがりて、尻をかけ給ひて足さしのべて、簾に拍子打ちてぞ御坐しける。御前の諸人(もろびと)皆奇異の思ひをなしき。又暫く有りて、又そと下り給ひて、空にて聞き候へば、猶殊勝にこそ候へと仰せられける。かゝる神變(しんぺん)がましき事をば隱し給ふ人の、感に堪へず覺えずして、かゝる御振舞のありけるやらむ。
[やぶちゃん注:ここでは明恵は何と、空中浮揚をして簾の細い竿にふうわりと腰かけて聴いたということであろう。だからこそ虚「空にて聞」くとなお素晴らしかったと言っているのであり、人々も「かゝる神變がましき事」と述べているとしか思われない。
「木工權頭孝道」「もくのごんのかみたかみち」と読む。藤原孝道(仁安元(一一六六)年~嘉禎三(一二三七)年)は雅楽家。琵琶の家に生まれ、父孝定および藤原師長(もろなが)に学び、演奏・製作・修理に優れた。長じて師長に仕えて木工頭楽所預に就任して西流の当主となり、琵琶の秘事や口伝に残した(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「緒」弦。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 10 不老門

珍しく、漢文が非常に分かり易く読めた。その顕彰の思いが誰にも分かり易く伝わってくる――だのに――だのにこの門が今やなく、この碑文のみが残っているという皮肉な事実が、まっこと、痛々しいではないか――



    ●不老門

不老門は。舊上宮石階の上に建てる樓寶門の稱なり。辨財天の額を掲け。樓上に妙音辨財天愛染を安置してありしが。今は廢絶して僅かにそが再造の碑石を剩(あま)せり。

[やぶちゃん注:以下、碑文は底本では全体が一字下げ。]

    江島不老門再造記

甚矣哉物之難成也。有其財而無其志則不成也。有其志有其財而無其時則亦不成也。三者兼具而後物得以成矣 甚矣哉物之難成也。不老門之設于今幾許年矣 屢經天災風雨之變。破壞不治。祠主久欲改造之。而力未能也。岡辺君聞之曰。吾爲之耳。廼出其私錢若干萬緡。使工師矢内右兵衛造之。以萬延元年十月始。至翌年四月落成。門樓高若干尺。其大稱是。閎燿壯偉。丹漆刻鏤之文比其舊加美焉。實江島一觀也。其始成也。用人之力若干工。木石銅瓦之材若干枚。不謂不少矣。而君輙曰。既已爲之。費之多少非所可問焉。嗚呼無財者固所不能。已而有財者亦不必爲之也。況澆季之世仁厚之風衰而功利之俗盛。人人唯利是見。雖爲士太夫者。亦或相欺罔以利己。莫復有慈愛羞惡之心。加之近歳風雨不順。五穀不豐。諸品爲之告之。物價騰踴。小民窮絶亦甚矣。方是之時孰復好出不貲之財以爲大造作乎。乃不老門之破壞而久不治由此之故也。君通稱政右衛門。相州津久井勝瀨村邑人也。以有財聞于近郷。又好施。以故決然獨能有斯擧。以使工技服力之小民得食于其功。是豈非具志與財與時而得之者哉。昔宋范文正公。以凶歳大興土木之役監司劾奏之。公乃自陳曰。欲發有餘之財以惠貧者。盖方是之時。工技服力之人仰食于公私者。無慮數萬人。荒政之施莫此爲大。其賢至今稱之。君身非官族。而其用心如是。其大小雖有殊者。亦文正公之遺法也。是不可以不記也。而又君之志也。乃刻之石云。

 文久紀元辛酉夏四月穀旦    永陵酒井光撰幷書

[やぶちゃん注:文久元(一八六一)年に中津宮の社前にあった竜宮城の門と同様な不老門が老朽化していたのを、相州津久井郡勝瀬村の富豪岡部政右衛門が私費を投じて独力で再建した、その再建記念碑である。恐らくは再建して十二年しか経っていない明治六(一八七三)年、おぞましき神仏分離令によって門は破却されてしまったものと思われる。碑だけが今も残る、何とも岡部氏の熱意の実直なればこそ、その達意の永陵酒井氏の顕彰の碑文のみが残ってますます痛々しく哀しいではないか。以下、全く資料がなく、返り点の一部も不審なれば、我流で書き下す。

 

    江の島不老門再造の記

甚だしきかな、物の成り難きや。其の財有るとも、其の志し無ければ、則ち成らざるなり。其の志し有り、其の財も有るとも、其の時、無くんば、則ち亦、成らざるなり。三者兼具して後、物は以て成し得。甚だしきかな、物の成り難きや。不老門の設け、今に幾許(いくばく)の年ぞ。屢々天災風雨の變を經(へ)、破壞して治(ぢ)せず。祠主久しく之を改造せんと欲せども、力、未だ能はざるなり。岡辺君、之れを聞きて曰はく、「吾、之を爲すのみ。」と。廼(すなは)ち其の私錢の若干の萬緡(びん)を出だし、工師矢内右兵衛をして之れを造らしむ。萬延元年十月を以て始め、翌年四月に至りて落成す。門樓、高さ若干尺。其の大いさ是れを稱す。閎燿(くわいうき)壯偉。丹漆刻鏤の文(もん)、其の舊に比して美を加ふ。實(まこと)に江島一の觀なり。其の始め成るや、人の力を用ふること、若干工、木石銅瓦の材、若干枚、少なからずと謂はず。而れども君、輙(すなは)ち曰はく、「既に已に之れ爲る。費への多少、問ふべき所に非ず。」と。嗚呼、財無き者、固(もと)より能はざる所にして、已にして、財有る者も亦、必ずしも之を爲さざるなり。況んや、澆季(げうき)の世、仁厚の風、衰へて、功利の俗のみ盛り、人人、唯だ利のみ、是れ、見る。爲士太夫の者たりと雖も、亦、或ひは相い欺罔(きまう)して以て己れを利するのみ。復た慈愛羞惡の心の有ること莫し。加之(しかのみならず)、近歳は風雨順ならず、五穀豐かならず、諸品、之を爲して之を告げ、物價は騰踴(とうよう)し、小民の窮絶、亦、甚だし。是の時に方(あた)りて、孰れか復た好く不貲(ふし)の財を出だし、以て大造作を爲さんや。乃ち不老門の破壞して久しく治せずは、此の故の由なり。君、通稱、政右衛門、相州津久井勝瀨村の邑人(むらびと)なり。財、有るを以つて近郷に聞こゆ。又、施(し)を好む。故を以て決然として獨り能く斯かる擧(きよ)有り。以て工技服力の小民をして其功に得食せしむ。是れ、豈に志、財と時とをして之を得、具せるところの者に非ずや。昔、宋の范文正公、凶歳を以てするに大いに土木の役を興して、監司して之れを劾奏す。公、乃ち自ら陳じて曰はく、「有餘の財を發して以て貧に惠まんと欲するは、盖(けだ)し、方(まさ)に是の時なり。」と。工技服力の人、公私に仰食する者、無慮(およ)そ數萬人たり。荒政の施(し)、此れに大と爲す莫し。其の賢、今に至るまで之(ここ)に稱せらる。君、身、官族に非ず、而も其の用心是くのごとし。其の大小、殊なる者、有ると雖も、亦、文正公の遺法なり。是れ、以つて記さざるべからざるなり。而して又、君の志なり。乃ち之の石に刻して云ふなり。

 文久紀元辛酉(かのととり)夏四月穀旦(こくたん)    永陵酒井光撰幷びに書

 

「閎燿」現代仮名遣で「こうき」。広く荘厳なる謂いであろう。

「澆季」現代仮名遣で「ぎょうき」は、「澆」が軽薄、「季」が末の意で、道徳が衰えた乱れた世。世の終わり、末世の謂い。幕末の雰囲気を伝える謂いとも言えるか。

「欺罔」「ぎまう(ぎもう)」とも読む。人をあざむいてだますこと。

「不貲」返り点がないので音読みしておいたが、通常はこれで「ㇾ」点を打って「はかられざる」と読み、無数の、数え切れぬほど多いの謂いである。

「服力」とは「能力を身に着けた」という謂いであろう。

「范文正」北宋の政治家范仲淹(はんちゅうえん 九八九年~一〇五二年)の諡(おくりな)。欧陽脩の推薦によって枢密副使・参知政事となった。彼は君子の正道を論じて十策に及ぶ施政改革を訴えた。散文にも優れ、著名な「岳陽楼記」の中の「天下を以つて己が任となし、天下の憂いに先んじて憂へ、天下の楽しみに後(おく)れて樂しむ」という「先憂後楽」(後楽園の由来)、儒学を人格形成の実学に高めた人物として知られる(主にウィキの「范仲淹」に拠る)。

「劾奏」官吏の罪状を暴き、君主に奏上すること。弾劾奏聞。

「穀旦」「穀」は善いこと・幸いの意で、「旦」は日の意。吉日。佳辰。吉旦。

「永陵酒井光」不詳。儒学者か? 僧侶のようには思われない。識者の御教授を乞うものである。]

耳嚢 巻之七 いぼを取奇法の事

 ※を取奇法の事

[やぶちゃん字注:「※」=「疒+「黑」。]

 

 蛇の拔殼(ぬけがら)を糠袋(ぬかぶくろ)に入(いれ)すするに、いゆる事妙也と人の語りしに、折節予家内にていぼ多く、面部へ出來こまりしが、人の教(をしへ)に任せ其通りになせしに、癒ぬる事まの當りに見へしゆへ爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。既に巻之六二例てあ「※」(=「疣(いぼ)」)取り呪(まじな)いの民間療法シリーズである。静岡市葵区太田町の「平松皮膚科医院」の公式サイトのいぼ取りのおまじないのページを見ると(記載によれば伝染性イボは暗示療法によって取れる場合があると記されているから馬鹿にしてはいけない。根岸の妻のケースもこれであろう)、この蛇の抜け殻を用いた疣取りの呪いは採集(ネット)例が多く、北海道・岩手(二件)・茨城・群馬の五ケースが示されている。知られた「いぼ虫(カマキリ)にくわせる。(福島県)」や「巻之六の類型「初雷の鳴った時、箒でなでる。(岩手県)」及び「歳の数の大豆を用意し、名前を唱えいぼとりを祈願をして、その豆をきれいな水の流れに埋める。(宮崎県)」以外で私が面白いと思ったのは、「疣を蜘蛛の糸でしばる。(北海道)」「墓石に溜まった水を疣につけて後ろを振り向かずに帰る。(岩手県)」「墓場の花立カッポの水をイボに付けるととれる。(宮崎県)」そうしてこれらを総集編するような沖縄県の「疣を墓の水で洗う」「雷の日に庭に出て、雷光とともに箒ではたき落とす」「疣と同じ数だけの豆を盗み、金一銭とともに紙に包み道に捨てる」であった。なお、リンク先の最後に出る「耳嚢」所載の豆腐を用いた疣取りの呪いというのは、次の未着手の「卷之八 いぼ呪の事」の記載である。

・「入すするに」「すする」は「こする」の誤りか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『包みこするに』とある。これで採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣を取奇法の事

 

 蛇の抜け殻を糠袋(ぬかぶくろ)に入れて疣の上を擦(こす)ると、忽ち疣の落ちて癒えること奇妙なる、と人が語って御座ったゆえ、折柄、私の家内には疣が多く出でて、特に顔面部分へこれ、多く出来(しゅったい)致いて大いに困って御座ったが、その人の教えに任せて、その通りに致いたところが、美事、癒えること、これ目の当たりに致いたによって、ここに記しおくことと致す。

大空は戀しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ 酒井人眞 萩原朔太郎 (評釈)

  大空は戀しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ

 戀は心の郷愁であり、思慕(エロス)のやる瀨ない憧憬(あこがれ)である。それ故に戀する心は、常に大空を見て思を寄せ、時間と空間の無窮の涯に情緒の嘆息する故郷を慕ふ。戀の本質はそれ自ら抒情詩であり、プラトンの實在(イデヤ)を慕ふ哲學である(プラトン曰く。戀愛によつてのみ、人は形而上學の天界に飛翔し得る。戀愛は哲學の鍵であると。)古來多くの歌人等は、この同じ類想の詩を作つてゐる。例へば萬葉集十二卷にも「思ひ出でて術(すべ)なき時は天雲の奥處(おくが)も知らに戀ひつつぞ居る」等がある。しかし就中この一首が、囘想中で最も秀れた名歌であり、縹渺たる格調の音楽と融合して、よく思慕の情操を盡して居る。古今集戀歌愛歌中の壓感卷である。

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年第一書房刊「恋愛名歌集」より。当該歌は「古今和歌集」の巻第十四に載る七四三番歌で、従五位下土佐守であった酒井人眞(ひとざね ?~延喜一七(九一七)年)の歌。「大和物語」の百二段に土佐守時代の逸話や歌が載るのみである。「思ひ出でて術(すべ)なき時は天雲の奥處(おくが)も知らに戀ひつつぞ居る」は「万葉集」巻十二に載る三〇三〇番歌で、
 思ひ出でて術(すべ)なき時は天雲(あまくも)の奥處(おくか)も知らに戀ひつつぞ居(を)る
が正しい。「奥處(おくか)」の「か」は場所の謂いで、その天空の神秘的な奥深さを言うのであろう。それも知らないように(そうすることをも憚らず恐れずに)果てしなく恋い続ける、憧憬、あくがっている、というのである。私は本来あるべき人の魂が空の彼方へと飛んでゆくという、この「あくがる」という古語が、すこぶる附きで好きである。]

信天翁 八首 中島敦

    薄暮信天翁(あはうどり)を見る

夕ぐるゝ南の海のはてにして我が思ふことは寂しかりけり

夕昏(ゆふぐ)るゝ南の海のさびしさを信天翁(あはうどり)とぶ翼(はね)の大きさ

信天翁(あはうどり)大き弧を畫(か)きとび來りまた飛びて去る夕雲とほく

日を一日(ひとひ)飛び疲れけむ信天翁(あはうどり)しまし憩ふと浪に搖れゐる

夕浪に憩ひ搖るゝと默(もだ)もゐるあはうどりといふものの愛(かな)しさ

[やぶちゃん注:太字「あはうどり」は底本では傍点「ヽ」。]

阿呆鳥と人いふめれど夕遠く飛ぶをし見ればうらがなし鳥

[やぶちゃん注:太字「うら」は底本では傍点「ヽ」。]

汝天を信ぜむとするか信天翁(あはうどり)思ふことなく飛びゐる羨(とも)し

汝天を信ぜむとするか信天翁(あはうどり)醜(しこ)の末世(まつせ)の懐疑者(ピロニスト)われは

[やぶちゃん注:「懐疑者(ピロニスト)」“Pyrrhonist”。古代ギリシャの懐疑主義・不可知論の濫觴ピュロンに由来する。なお、ミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus の和名は、人間への警戒心が弱く、翼が巨大なために飛翔には長距離の助走が必要で容易に飛び立てない上に、その翼のために地表上での歩行バランスが極めて悪く緩慢であることから容易に捕殺されたことに由来する。漢名「信天翁」も空を飛ぶことが苦手(但し、飛翔を開始すれば長距離の飛翔が可能)に見えたため、天から餌が降ってくるのを信じて「翁」(頸部の羽毛)を揃えて口を開け待っているぐうたらな鳥、という俗説に基づく呼称とする。]

祕密の花 大手拓次

 祕密の花

あなたにあへば祕密(ひみつ)の花(はな)がこぼれる。
にほひかなしく
ゆきくれたひとつの あげはのてふのやうに、
こもれるあをと、
ながれながれの黑(くろ)と黄(き)と、
しだれざくらのやうなべにとむらさきとが、
眼(め)のおほきい絹(きぬ)の花(はな)となつて、
わたしのまへにぼんやりとおちる。
こびひとよ、
わたしのにげようとする手(て)をよんでください。

鬼城句集 夏之部 動物 鹿の子

  動物

 

鹿の子   鹿の子のふんぐり持ちて賴母しき

      埓近く鼻ひこつかす鹿の子かな

義父の前立腺癌についてのインフォームド・コンセント

○医師の・イン・フォームド・コンセントと私の質問に対する回答
・CTによって「リンパ節転移」は認められず、骨シンチグラフィによって「骨転移」も認められない(本人が一~二週間まえに腰の痛みが訴えていたのが消長したが、しばしば骨転移では痛みが移動することがあるため)。
・前立腺以外の臓器への「浸潤」はない。
・グリーソン・スコアは10で高い(同数値の最高値であるが無論それは言わない。ここには記さないが、カルテを覗いた当初のPSA数値は所謂「洒落にならない」桁違いのメーター振り切れであった)。
・年齢(義父は大正15(1926)年生で満86歳)から考えてホルモン療法を行いたい。
・放射線外照射療法は効果がない訳ではないが担当が異なるので相談は別日程になる(言外に二つの療法を行うことによるこれといった「画期的な大きな変化」はここまで進んでいる場合は必ずしも期待出来ないといったニュアンスをやや感じた)。
ホルモン抵抗性が生じることで起こる「再燃」(ホルモン療法に全く反応しなくなった病態で去勢抵抗性前立腺癌とも呼称する)は2~3年後には起こる。
ホルモン療法は脳の視床下部・下垂体に作用する男性ホルモン分泌(ここで95%)阻害薬剤の注入と副腎からの分泌(5%)を抑止する服用薬の併用治療である。後者は肝臓機能障害の副作用が起こる場合がある。
・運動その他は全く問題はない。禁忌は一切挙げられない。

○医師の本人に分かり易い美事なイン・フォームド・コンセントの決定打
「年齢的に見て、この病気で亡くなることはありません。」

(於名古屋市立病院)



因みに言っておくが僕は、単なる医療オタクでこんなことを記載しているのではない(昔は医者に成りたかったことは事実である)。以前にも記したのだが、僕の発癌リスク、それも前立腺癌の発癌リスクは、専門医が「ニヤッ」とするほどに、高いのである。だから、これぐらいの知識は身に着けておかないと僕自身にとって話にならんのである。
年齢にもよるが、多様な療法があって前立腺癌告知でもグリーソン・スコア10(100人に1人ともいう)でも、必ずしもガックリくる必要はない、ということを義父のケースで多くの方にお知らせしておきたいとも思うのである。

2013/07/21

暫し閉店

これより、一ヶ月前に前立腺癌の告知を受けた義父の向後の治療プログラムについてのレクチャーを受けるために名古屋へ向かう。随分、御機嫌よう。

ひたすらに南航 五首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    ひたすらに南航
南東風(みなみこち)吹きくれば海の上の皺立ち千々にきらゝけきかも
久方の空に光はみなぎらひ明るき海を白き汽船(ふね)行く
みんなみの陽光(ひかり)うらうらとわたつみの圓(まろ)く明るく滿ち膨れゐる
[やぶちゃん注:「うらうらと」の「うら」後半は底本では踊り字「〱」。]
目くるめく海の靑さや地獄なる紺靑鬼(こんじやうき)狂ひ眼内(めぬち)に躍る
午後三時雲やゝ出でて海の上一ところ白し輕きローリング

朝暾破雲 二首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    朝暾破雲
わだつみの大東(おほひんがし)の五百重雲あからみて裂けて日は出でむとす
[やぶちゃん注:「朝暾」は「てうとん(ちょうとん)」と読み、朝日のこと。「五百重雲」は「いほへぐも(いおえぐも)」と読む。幾重にも重なっている雲。]
白たへの甲板の上に人集ひうづの朝日子をろがみてゐる
[やぶちゃん注:「朝日子」は「あさひこ」で、「こ」は親愛の意を表す接尾語。朝日。]

靑ヶ島を望む 六首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    靑ヶ島を望む 六首

岩岫(いはくき)に波たち煙り靑ヶ島風しまく間(と)に峻嶮(こご)しくを見ゆ

舟がかりせむすべもなし岩崩(いはくえ)に波捲き返り霧けぶり立つ

八丈の南二十里靑鱶の棲むとふ海の荒き島かも

褶(ひだ)深き赭土崖の上にして靑草生えぬ乏しかれども

岩垣の岩片がくれかつがつも道あるが如し人住むといふを

[やぶちゃん注:「かつがつ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

岩崩(くず)す荒き島根も人らゐて道をつくると聞けば哀しき

[やぶちゃん注:「靑ヶ島」は伊豆諸島の南部に位置する島嶼で、現在の住所は東京都青ヶ島村。東京から南へ三五八キロメートル、八丈島の南方六五キロメートルにある周囲約九キロメートルの火山島である。青ヶ島は典型的な二重式カルデラ火山で、島の南部に直径一・五キロメートルのカルデラ(池之沢火口)があり、その中に「丸山(別名オフジサマ)」という中央火口丘があるが、島自体はより大きな海中カルデラ全体の高まりの一つであり、青ヶ島と周辺海域は火口・カルデラ地形が幾つも重なっている。島の最高点はこの丸山を取り囲んでいる外輪山の北西部分に当たる「大凸部(おおとんぶ)」で、外輪山の外側斜面は急な崖となって海岸線に続く。このため、海沿いには殆ど平坦地が無く、高さ五〇~二〇〇メートルほどの直立する海食崖になっていて砂浜はない。集落はカルデラの外、島の北部にあって、村役場を中心に「休戸郷(やすんどごう)」と「西郷(にしごう)」の二つが存在する。現在、日本国内で最も人口の少ない地方自治体であり、二〇一三年五月一日現在の推計人口は一九三人である(以上はウィキの青ヶ島村及び「青ヶ島」に拠った)。]

幻影 大手拓次

   風のなかに巣をくふ小鳥

 幻影

ひとつの水甕(みづがめ)のなかにかげをうゑ、
またひとつの水甕(みづがめ)のなかにかげをうゑ、
ゆくりなくも いのちのいただきに花をうつす。

わかれ 大手拓次

 わかれ

さびしさはぬれてゆきます。
しと しと しととおちる雪のやうにぬれてゆきます。
うすずみいろのおちば、
わかれて わかれて ゆくみのさびしさ。

かなしみ 大手拓次

 かなしみ

まどにちかづく日(ひ)のかなたから、
夜(よる)はあをいいろどりの鳥(とり)をよび、
ほのかにも ほのかにも しめる眼をおほふ

鬼城句集 夏之部 菖蒲太刀

菖蒲太刀   讀孝經
      菖蒲太刀ひきずつて見せ申さばや
[やぶちゃん注:「菖蒲刀」と書いて「あやめがたな」とも読むが、ここは「しやうぶだち(しょうぶだち)」である。端午の節句に飾る太刀を指し、古くは子供がショウブを太刀のようにして帯びる風習があったが、江戸期には柄をショウブの葉で巻いた木太刀や飾りものとして金銀で彩色した木太刀を指すようになった。]



以上を以って「鬼城句集 夏之部」の「人事」の部立を終わる。

鬼城句集 夏之部 幟

幟     門の内馬もつないで幟かな

      鯉幟眼に仕掛けある西日かな

[やぶちゃん注:「眼に仕掛けある」果たして鬼城が具体にそれを指して読んだものかどうかは判然としないが、「鯉幟」の「眼」の書き方には「仕掛け」があるのである。埼玉県加須市で手描き鯉のぼり他を手掛ける「株式会社 橋本弥喜智商店」の公式サイト(加須市は鯉のぼりの生産量日本一とある)の「鯉のぼりができるまで」の中に、二番目の工程(則ち生地への最初の筆入れ)で「目廻し」があるが、そこに『目の大きさは鯉の大きさに比例して決められているので、コンパスを合わせ半径を決めます。目の輪郭は空に泳いだ場合を想定し、黒目が斜め下にくるようにされています。』とある(下線やぶちゃん)。なお、目の色附けは六番目、七番目のキンビキ(金引き:金色で文様を描くこと。因みに鯉幟の文様は時代により変化が見られ、作者の創意と工夫が窺われるとある。)の最後に画龍点晴の墨目入れが行われて鯉が誕生する、とある(その後に腹鰭を装着し真竹を細く割った口輪を附けて完成)。]

      飛驒山の質屋も幟たてにけり

鬼城句集 夏之部 打水

打水    打水や塀にひろがる雲の峯

2013/07/20

栂尾明恵上人伝記 51 独りで石打ち遊び

 上人禪定をのみ好み給ひて、一兩年は少さき桶を一つ用意して、二三日、四五日の食を請ひ入れて、肱(ひじ)にかけ後の山に入り、木の下・石の上・木の空(うつろ)・巖窟などに終日終夜(ひねもすよもすがら)坐し給へり。すべて此の山の中に面(おもて)の一尺ともある石に我が坐せぬはよもあらじとぞ仰せられける。

 建仁寺の長老より茶を進ぜられけるを、醫師に是を問ひ給ふに、茶は困(こん)を遣(や)り食氣(しよくけ)を消(け)して快からしむる德あり。然れども本朝に普(あまね)からざる由申しければ、其の實を尋ねて兩三本植ゑ初められけり。誠に眠りをさまし氣をはらす德あれば、衆僧にも服せしめられき。或る人語り傳へて云はく、建仁寺の僧正御房大唐國より持ちて渡り給ひける茶の子(たね)を進められけるを、植ゑそだてられけると云々。
[やぶちゃん注:「建仁寺の長老」栄西。明恵より二十四歳年上である。]

 或る時は石をひろひて石打を獨りし給ひけり。其の故を人問ひ申しければ、餘りに法文(ほふもん)どもの心に浮かびてむづかしく候程にとぞ答へ給ひける。

 或る時、又人の許より糖桶(あめをけ)を進(まゐ)らせたりけるを、後日に其れこなたへとて前へ取り寄せ給ひけるを、結構の由に上に卷きたる藤の皮をむきて指(さし)出したりければ、やがて泣き給ひて、糖桶は上を卷きたるこそ糖桶のあるべきやうにてあるに、あるべきやうを背(そむ)きたるとて、又いひ出してぞ泣き給ひける。此の如き事常にありけり。
[やぶちゃん注:「結構の由に」持ち来たるよう命ぜられた者が、飴の入った桶を封してあった藤蔓の不恰好な皮を綺麗にむき剝して「体裁をよくして」明恵の前へうやうやしく差し出したのである。「あるべきやうを背きたる」こそが明恵のゾルレンの思想へとダイレクトに通底するのである。]

栂尾明恵上人伝記 50 私は何度も淫らなことをする一歩手前までいった……

 上人常に語り給ひしは、「幼少の時より貴き僧に成らん事をこひ願ひしかば、一生不犯(いつしやうふぼん)にて淸淨ならん事を思ひき。然るに何(いか)なる魔の託するにか有りけん、度々に既に婬事(いんじ)を犯さんとする便(たよ)りありしに、不思議の妨げありて、打ちさましうちさまして終に志を遂げざりきと云々。

耳囊 卷之七 又、久兵衞其術に巧なる事

 

 又、久兵衞其術に巧なる事

 

 享保の比(ころ)は、牛天神邊は今の通(とほり)には無之(これなく)、あさまにて淋しき事也しが、右近邊の武士武術に□りて辻切(つじぎり)抔せしに、又はよからぬ盜賊業(たうぞくわざ)にもあるや、天神の坂のうへより追(おひ)おろし、人をなやます者ありし。久兵衞所用ありて夜中牛天神の坂を上りしに、大男壹人刀を拔(ぬき)て久兵衞に打掛りしに、久兵衞少しもさはがず短刀拔て淸眼(せいがん)に構(かまへ)、彼(かの)惡徒に立向(たちむか)ふ。怺(こら)え難くやありけん、段々跡へしさりしに其儘押行(おしゆく)に、彼者後じさりして天神の崖上より眞さかさまに谷へ落ける故、久兵衞は我宿へ歸りぬ。彼もの所々怪我して暫く惱(なやみ)しが、快(こころよく)なりて近き町家へ多葉粉求(もとめ)に來りしに、久兵衞も同じく多葉粉調へ歸りけるを、彼惡徒能々見て、渠(かれ)こそ此間(このあひだ)牛天神にて出合(であひ)し老人成りと怖しく思ひ、多葉粉屋にて其名を尋(たづね)しに、あれこそ劔術の達人と呼(よば)れし久兵衞なりといふ故、初(はじめ)て驚(おどろき)ける。實に左あるべしと我(わが)惡意を飜(ひるがへ)し、多葉粉屋に去(さる)事語り、何卒世話して弟子と成度(なりたし)と乞(こひ)し故、其事申(まうす)通り弟子に成(なり)、夫(それ)より久兵衞武術の大事等傳授なして後、質實の武士となりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:真木野久兵衛本格武辺譚で直連関。

・「あさまに」は形容動詞「淺まなり」で、浅いさま・奥深くなく、剝き出しになっているさまの謂いであるから、草木もあまり生えていないような、地肌が剝き出しになっている状態を指すのであろう。

・「□りて」底本には『(凝カ)』と右に傍注するが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「誇りて」とあり、この方がよい。これで訳した。

・「牛天神の坂」牛天神(現在の北野神社。切絵図を見ると『別當龍門寺』とあるが明治の廃仏毀釈で消滅した)は水門屋敷の西にあって、神社を下った南に神田上水が流れており、そこから向かって牛天神の左手(西)に安藤坂がある。その安藤坂は牛天神の背後近くで左に鉤の手に折れて伝通院前まで続くが、これを折れずに進むと牛石という大石(現在は神社境内に移されている)にぶつかって右手に折れる牛天神裏の道になる。ここが牛坂である。

・「淸眼」底本には右に『(正眼)』と訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 又 久兵衛その剣術に巧みなる事

 

 享保の頃は、牛天神(うしてんじん)辺りは今のようには開けたところにては、これなく、崖の地肌なんども赤土が剝き出しになった、それは荒れ果てた寂しい場所であった。

 この近くに住んで御座った武士が、己(おの)が武術に誇り、所謂、辻切りなんどを致いて御座った。また、この辺りは普段より、よからぬ盜賊のなす業(わざ)でもあったものか、天神の坂の上より、通行人を南の天神の裏手へと追い落し、金品を奪うなんどといった不逞の輩もたびたび出没しておったと申す。

 さてもある日の夜中、久兵衛、所用の御座って、牛天神の坂を上って行って御座ったところ、突然、大男が一人、太刀を抜き放って、久兵衛にうち掛かって参った。

 久兵衛はしかし、少しも騒がず、短刀を抜いて、右手一本に差し出だし、これを正眼(せいがん)に構え、その悪徒にたち向かって御座った。

 短刀ながら――その微動だにせぬ鋭い先鋒から放たれた、尋常ならざる久兵衛の気魄に――これ、堪(こら)え難くなったものか、悪徒は、

――じりっ――じりっ――

と、後ろへしさって行く。

 久兵衛は変わらぬゆっくりとした速さで、

――すすっ――すすっ――

と前へ進む。

 悪徒と久兵衛が間には、まるで目に見えぬ何かが挟まっておるかの如、久兵衛の進むのと、悪徒が押されてしざるのが、同時に起こるので御座る。

 と!

――ずざざざざざぁざぁッ……

と、かの悪徒は後じさりし過ぎて、天神裏の崖の上より、真っ逆さまに天神の背後の谷底へと落ちてしもうたと申す。

――カチン

久兵衛は短刀を静かに戻すと、何事もなかったかのように己が屋敷へと帰って御座った。

 さて、かの悪徒はと申せば、知らずに崖を後ろ向きに落ちたため、体のあちこちに打ち身やら切り傷を致いて、暫くの間苦しんでおったが、何とか全快致いたと申す。

 その快癒致いた日のこと、近くの町家へ、病み臥せっておったうちは吸えなんだ煙草を求めに参った。

 店に入って、煙草の葉なんどを品定めしておった最中、かの久兵衛も同じく煙草を買いに参って、彼に気づくことものう、親しげに主人と軽い言葉を交わした後、買い調えると店を出て行った。

 かの悪徒はその間、よくよく男の顔を見てからに、

『……か、かの男こそ……この間、牛天神にて出逢った老人ではないかッ?!……』

と悟った。その瞬間、もう体がぶるぶると震え出すほどに怖しゅう感じた。

 久兵衛が去った後、男は煙草屋に、

「……い、今の御仁はどなたで御座る?」

とその名を尋ねたと申す。

 すると主人は、

「あのお方こそ、この辺りにて『剣術の達人』と誉れの高い、真木野久兵衛さまで御座います。」

と答えたゆえ、それを知って今更ながら驚いたと申す。

「……まことに……そうで御座ったか……」

と、この一刹那、己れの太刀への悪しき驕りの気持ちは雲散霧消、その煙草屋主人に去(いん)ぬる日の出来事を包み隠さず語り、

「――何卒、仲介の労をおとり下さるまいか? 何としても――お弟子となりとう御座る!」

と乞うた。

 されば煙草屋主人が仲立ちとなって、久兵衛殿に面会することが叶い、そこでも素直にかの夜の謝罪をなした上、入門の懇請を致いたと申す。

 久兵衛はそれを聴くと、何と、その場にて、即座に入門弟子入りを許した。

 それより久兵衛は当流の武術奥義など、すべてを、この弟子に伝授なしたと申す。

 この高弟はその後も永く、誉れ高き質実剛健の武士として名を残した、とのことで御座る。

 

郵便局の窓口で 萩原朔太郎

 

 郵便局の窓口で

 

郵便局の窓口で
僕は故鄕への手紙をかいた。
鴉のやうに零落して
靴も運命もすり切れちやつた。
煤煙は空に曇つて
けふもまだ職業は見つからない。

父上よ
何が人生について殘つて居るのか。
僕はかなしい空虛感から
貧しい財布の底をかぞへて見た。
すべての人生を銅貨にかへて
道路の敷石に叩きつけた。
故鄕よ!
老いたまへる父上よ。

僕は港の方へ行かう
空氣のやうに蹌踉として
波止場(はとば)の憂鬱な道を步かう。
人生よ!
僕は出帆する汽船の上で
笛の吠えさけぶ響をきいた。

 

[やぶちゃん注:底本は所持する筑摩版全集初版に拠った。昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集第九巻 萩原朔太郎詩集」より。初出は昭和二(一九二七)年六月号『婦人之友』(第二十一巻第六号)であるが、総ルビであることと、数箇所の歴史的仮名遣の誤り及び誤字・脱字・異体字があるだけで、全く同一であると言ってよい(特に初出を示す必要を感じない内容であるということを言いたいのである)。後に「定本 靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)に再録されているが、そこでは、

 

 郵便局の窓口で

郵便局の窓口で
僕は故鄕への手紙をかいた。
鴉のやうに零落して
靴も運命もすり切れちやつた
煤煙は空に曇つて
けふもまだ職業は見つからない。

父上よ
何が人生について殘つて居るのか。
僕はかなしい虛無感から
貧しい財布の底をかぞへて見た。
すべての人生を銅貨にかへて
道路の敷石に叩きつけた。
故鄕よ!
老いたまへる父上よ。

僕は港の方へ行かう
空氣のやうに蹌踉として
波止場(はとば)の憂鬱な道を行かう。
人生よ!
僕は出帆する汽船の上で
笛の吠えさけぶ響をきいた。

 

と、四行目末の句点を消去、「空虛感」を「虛無感」に変更し、「波止場の憂鬱な道を步かう。」を「波止場の憂鬱な道を行かう。」に変更している。]

八丈と小島の水門の潮疾く靑鯖色に激ちさやぐも 中島敦 (「小笠原紀行」より)

  小笠原紀行

[やぶちゃん注:中島敦は横浜高等女学校在勤三年目、満二七歳の昭和一一(一九三六)年の春三月二十三日から二十八日までの六日間、小笠原へ旅しており、本歌群はその時の吟詠である。]

    二日目の朝八丈を過ぐ
八丈と小島の水門(みと)の潮疾(はや)く靑鯖色に激(たぎ)ちさやぐも

さびしい戀 大手拓次

 さびしい戀

戀のこころは やみのなかのひなどりのこゑ、
戀のこころは ゆく雲(くも)のおとすおもかげ、
戀のこころは 水(みづ)に生(は)え 水(みづ)に浮(う)き 水(みづ)にかくれる盲目魚(めなしうを)、
ああ さまよへばとて ゆけばとて、
戀のこころは みづすまし、
戀のこころは くれがたのすゐせんのはな。

鬼城句集 夏之部 乾飯

乾飯    乾飯してかぞふるほどの飯白し

      乾飯に市の雀の小さゝよ

[やぶちゃん注:「乾飯」は「かれいひ(かれいい)」又は「かれひ(かれい)」とも、また「ほしいひ(ほしいい)」又は「ほしひ(ほしい)」とも読めるので、前者を三音、後者を四音でとることも出来るが、私は孰れも「かれいひ」で読みたい。]

2013/07/19

北條九代記 右馬權頭賴茂父子生害

      ○右馬權頭賴茂父子生害

同二十五日、伊賀〔の〕太郎左衞門尉光季(みつすゑ)、飛脚を以て鎌倉に告げけるやう、「大内(おほうち)の守護右馬權頭源賴茂朝臣は、三位入道源賴政が末なり。仙洞の叡慮に背く事あるに依て、官軍を遣して、昭陽舍(せうやうしや)の住所に押寄(おしよせ)らる。賴茂、即ち門を差堅め、郎等を以て防ぎ戰ふ。伴類餘黨の者共、右近將監藤近仲(うこんのしやうげんとうのみちなか)、右兵衞尉源宗眞(むねざね)、前〔の〕刑部〔の〕丞平〔の〕賴國等(ら)、聞付けて、賴茂が方に加勢して、仁壽殿(じんずでん)に入籠り、散々に防ぎ戰ふ。寄手(よせて)、疵を被(かうぶ)り、攻倦(せめあぐ)みて引退(ひきしりぞ)く。京都守護の人々、この由を聞きて、我も我もと馳來り、一日一夜攻(せめ)戦ふ。賴茂は昨日(きのふ)、兵糧(ひやうらう)を使ひける儘(まゝ)にて、晝夜相戰ひ矢種盡きて力(ちから)落ちければ、御殿に火を懸け、面々に自害してこそ臥(ふし)にけれ。廓内殿舎に燃懸(もえかゝ)り、風に煤(ひのこ)の吹(ふき)散りて、雲煙(くもけぶり)と焼上(やけあが)る。されども、人、多く集りて、打消しければ、朔平門(さくへいもん)、神祇官、外記廳(げきのちやう)、陰陽寮(おんやうりやう)、園韓神(そのからかみ)等(とう)は堅固にして、殘りけり。仁壽殿は燒(やけ)崩れて、殿中に安置(あんぢ)せられし觀世音菩薩の尊像、應神天皇の御輿(みこし)、その外大嘗會(だいじやうゑ)御即位の藏人方(くらうどがた)往代(わうだい)の御裝束(ごしやうぞく)、數多(あまた)の靈物(れいもつ)、悉く灰燼(くわいじん)となるこそ悲しけれと語りければ、人々聞き給ひ、禁中に軍(いくさ)起り、殿内に血をあやし、觸穢(しよくゑ)に及ぶ御事は、頗る奇恠(きくわい)の不思議なり、如何樣、只事にあらず、と恐れ思はぬ人はなし。

[やぶちゃん注:「右馬權頭賴茂」は「うまごんおかみよりもち」。「生害」は「しやうがい」と読む。「吾妻鏡」巻二十四の承久元(一二一九)年七月二十五日の条に基づく。これも特に「吾妻鏡」の引用の必要性を感じない。

「右馬權頭賴茂」源頼茂(「よりしげ」とも 治承三(一一七九)年?~承久元(一二一九)年)は源頼政の次男頼兼の長男。ウィキ源頼茂によれば、正五位下大内守護・安房守・近江守・右馬権頭で、父頼兼と同じく都で大内裏守護の任に就く一方、鎌倉幕府の在京御家人となって双方を仲介する立場にあった。しかし、記事の日付に先立つ十二日前の承久元(一二一九)年七月十三日、突如、頼茂が将軍職に就くことを企てたとして後鳥羽上皇の指揮する兵にその在所であった昭陽舎を襲撃された。頼茂は応戦して抵抗したものの、仁寿殿に籠って、火を掛けて自害、子の頼氏は捕縛された。上皇による頼茂急襲の理由は不明とされているが、高い確率で鎌倉と通じる頼茂が、京方の倒幕計画を察知した為であろうと考えられている。また本文にあるように、この合戦による火災によって仁寿殿・宜陽殿・校書殿などが焼失、仁寿殿の観音像や内侍所の神鏡など、複数の宝物が焼失したとされる。「尊卑分脈」には享年四十一歳であったと記す。

「大内(おほうち)の守護」「おほうち」と訓じているが、内裏の守護職のことであるので注意。

「外記廳」外記局(げききょく)。外記(太政官(だいじょうかん)に属して、少納言の下にあって内記(ないき)の草した詔勅の訂正・上奏文起草・先例勘考・儀式執行実務などを掌った官職。大外記と少外記があった)の勤務した役所で内裏の建春門外にあった。

「園韓神」園神社及び韓神社の総称で、いずれも平安京の宮中の宮内省内に鎮座していた神社。ウィキの「園韓神社(「そのからかみのやしろ」と読んでいる)によれば、平安遷都以前から当該地にあったとされる神社で養老年間(七一七年~七二四年)に藤原氏によって創建されたものとされ、天平神護元(七六五)年に讃岐国に園神二十戸・韓神十戸の神封を充てたとし、延暦一三(七九四)年の平安遷都の際には他所へ遷座しようとしたところ、「猶ほ此の地に坐して帝王を護り奉らむ」と託宣があったために遷座させず、皇室の守護神として宮内省に鎮座することになったという。それ以外に貞観元(八五九)年に奈良の漢国神社の祭神(園神・韓神)を宮内省内に勧請したのが園韓神社であるという別伝承もあるらしい。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 9 江島建寺碑

    ●江島建寺碑

此の碑は邊津神社の側に在り。本島中最も高名のものにして。苟も文學に志あるの徒。必ず尋ぬ。高さ五尺許(ばかり)廣さ二尺七寸。厚四寸。篆額に大日本霊迹建寺之記とありて。之を三行に鐫し。四傍に雲龍を彫り。極めて奇古。碑文か楷體なりしより。昔時は十界性人成の五字を存せしこと諸書に載せたれども、今は篆額を幷せ共に剝落して一字も讀へからす。實に惜むべし。又碑文の所中より折れたりを續合せ。此に雨覆(あまおほひ)を施せり。内陰の左右に刻して云ふ。

 當碑文之雨覆幷臺盤石造立寄進

             施主  島田檢校代一

  元祿十四年辛巳歳十二月 別當 法印泰順租世

傳に云く昔時良眞宋朝に至り。慶仁禪師に謁し。此の碑石を傳へ。歸朝の時將來せし者なりといふ。里俗に江島屏風石と呼へり。

案内者は無學のもの多けれは。其の指示此ゝに及はす。むかしも猶ほしかりしと見えて。安藤東野甞て此事を游湘紀事に記して云ふ。處々問建寺之碑。皆曰無有矣。島之勝當盡焉。乃揖視 僧問諸。亦曰無有矣。余乃曰得亡有如墓表而隳者耶。僧乃啞然大笑曰、有矣。公等爲蠻夷之語。使人不可解耳。乃指示其處。余一讀覺えす噴飯せり。
 

[やぶちゃん注:本碑については「新編鎌倉志巻之六」の「江島」の「碑石」で私の注も含め、画像・絵図など詳しい。是非、ご覧あれ。

 
「高さ五尺許廣さ二尺七寸。厚四寸」碑自体の高さ約1・5メートル。幅約81・8センチメートル。厚さ約12センチメートル。

「鐫」は音「セン」。彫に同じい。

「處々問建寺之碑。皆曰無有矣。島之勝當盡焉。乃揖視 僧問諸。亦曰無有矣。余乃曰得亡有如墓表而隳者耶。僧乃啞然大笑曰、有矣。公等爲蠻夷之語。使人不可解耳。乃指示其處。」の「乃揖視 僧問諸」の空欄はママ。明らかな脱字と思われるが、原資料が手元になく、補填不能である。識者の御教授を乞う。我流力技で書き下すために脱字を一応、【寺】と仮定してみた。「揖視」は「正式な礼をして面と向かう」の意か。【2015年10月1日追記】先行する『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」の「江島」の条の電子化中、この脱字は「篆」であることが判明したが、なおのこと分からなくなった。識者の御教授を乞う。

處々にて建寺の碑を問ふも、皆、曰く、「有ること無し。」と。島の勝は當に盡くべければ、乃ち【篆】僧に揖視(ゆふし)して諸々を問ふに、亦、曰く、「有ること無し。」と。余、乃ち曰く、「墓表のごとき隳(くず)るる者の有る亡(な)きを得んか。」と。僧、乃ち啞然としつつも、大笑して曰く、「有り。」と。公(おほやけ)等は蠻夷(ばんい)の語と爲せり。人をして解くべからざらしむのみ。」と。乃ち其の處を指し示めせり。

これなら確かに私でも噴飯ものである。「遊湘紀事」は享保二(一七一七) 年の紀行であるから、実に三百年前に既にこのていたらくであった。]

耳囊 卷之七 嘉例いわれあるべき事

 

 嘉例いわれあるべき事

 

 本所竹藏近所、曾根孫兵衞といへる御旗本有。彼(かの)家、古來より仕來りにて、年々正月三日に餅を舂(つく)事也。いつの比にや、主人申けるは、世の中皆暮に餅を舂事に、我家のみ其事なく人並をはづれ正月三日に餅舂事、何と歟(か)人の思はん所思はしからず、今年は暮に舂とて、家來も仕來成(しきたりなれ)ばと諫むるをも不用、爲舂(つかせ)ける。舂時は何共(なんとも)なし。箕(み)に入(いれ)、座敷へ運ぶと、右餅、一圓、血に染(そ)みて眞赤に成る。見るもいぶせき躰(てい)也。是はいかゞと中間共へ渡せば、元の如く潔白也。又、座敷へ運べば、最前の通りなる故、其後は昔の通、正月三日餅舂事と也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪奇談で連関。これは民俗学で、よく知られる、一部の地方や家系に於いて、餅を食わない、搗かない、或いは、本件のように、世間一般の餅搗きの時期や食す習慣を、微妙にズラすという禁忌風習として、その由来の中の一つとして、実際に語られ、今も存在するものではある。但し、後注でも示した通り、異変の由来の中には、デッチアゲのものもあり、その場合は、正月の関連行事の古式との関係でコジつけたものも多い。

・「本所竹藏」「本所御藏」の俗称。底本後注に、『墨田区東両国三丁目。もと横網町。大川から舟入りがあって、それに続く広い土地を占めていた。敷地の東に南割下水がある』とあった。隅田川から船で運んだ木材や竹の荷を、この堀から引き入れ、御蔵地へと収納するようになっていた、その蔵で、後には米蔵として使用され、現在は国技館・江戸東京博物館などが建っている。この附近(グーグル・マップ・データ)。

・「曾根孫兵衞」同前で、『曾根次彭(ツグモリ)は安永六年』(一七七七年)『(三十七歳)家督、千六百石。寛政九年』(一七九七年)『御書院番から御使番に転じている』とある。

・「正月三日に餅を舂(つく)事也」同前で、『近世にいたって朔日正月の制が一般化し、これが古来からのもののように考えられるようになったが、もちろん新規のものであって、古式では望(もち)の日(十五日)を新しい年の初めとして祝った。両制が折衷並用されたのが、大正月、小正月の例で、大小正月の中間を、餅間(モチアハヒ)などと呼ぶ地方がまだある。古来の望の正月の仕来りを重んじた特別の家や地域では、元日以後に餅をつくことになる。武家では、戦のために餅をつくひまがなかったので、それが家例になったという説明をする例が多い』とあった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 嘉例に謂われあることもある事

 

 本所の御竹蔵の近所に、曽根孫兵衛と申さるる御旗本がある。

 かの家では、古来より、「仕来り」にて、年々、正月三日に、餅を舂(つく)ととなっている。

 何時(いつ)の頃のことであろうか、主人、おっしゃられるには、

「世の中、皆、暮れに餅を舂くことになって御座るが、我が家(や)のみ、その事、御座なく、人並みの習慣を外して、正月三日に、餅ち舂くこととなって御座る。『何(なん)でか、そのようにあるか?』と、人の思わるる所も、思わしからざれば、

「今年は、暮れに舂かん。」

とて、申したところが、家来も、

「仕来りなら)ば。」

と諌めるをも、用いず、舂かせまして御座った。すると、舂いた時は、これ、何(なん)とも御座らなんだ。而して、舂き終えて、箕(み)に入れ、座敷へ運ぶと……かの餅……一円に……血に染みて……真赤に、なる。……いやはや、見るも、いぶせき体(てい)で御座った。

「是は。いかが!?!」

と、中間どもへ渡したところが……元のごとく、潔白なので御座った。ところが、また、座敷へと運んでみると、最前の通り……真っ赤……なればゆえ、その後(のち)は、昔の通り、正月三日、餅を舂く事と致して御座る。」

とのことであった。

 

耳囊 卷之七 眞木野久兵衞町人へ劔術師範の事

 

 

 眞木野久兵衞町人へ劔術師範の事

 

 享保の此、牛天神(うしてんじん)邊にて、劔術の達人と呼れし眞木野久兵衞と言(いふ)者、一刀流の名人有(あり)しが、三年寄(さんとしより)とかや、又は豪家の町人とや、聞及(ききおよび)て三人打連(うちつれ)て劔術の弟子に成(なり)候。尤(もつとも)金銀はいか程にても不惜間(おしまざるあひだ)、直(ぢき)にゆるしを請(こひ)候樣敎(をしへ)給へと理(ことわり)しに、久兵衞答へて成程左樣にも相成べしと答へければ、其後は切に傳授を望(のぞみ)ければ、久兵衞せん方無(かたなく)、來(きたる)幾日供(とも)ども連(つれ)三人は櫻の馬場へ何時(なんどき)に被參(まゐられ)、我も可罷越(まかりこすべし)と約し、彼(かの)日に至り夜(よ)亥(ゐ)子(ね)の比(ころ)、三人の町人櫻の馬場へ至りしに久兵衞も來りて、約束の傳授すべし、我も馳(はせ)候間、御身三人もいかにも此馬場の始より末迄駈(かけ)給ふべしと、敎の儘馳(はせ)ければ、久兵衞も跡より一さんに駈けるが、老人の久兵衞年分にて息切(いきいれ)倒(たふれ)けるを、三人は馬場末迄駈過(すぎ)て、扨立歸り介抱をなして、敎の通(とほり)駈候間(あひだ)傳授あるべしと乞(こひ)けるに、老人とはいゝながら我は半途にて倒れしに、御身は息切候事もなきは、則(すなはち)傳授の極祕に至れり、夫(それ)にて宜敷(よろしき)といふ。三人いへるは、一本の太刀筋傳授も無(なく)、右の樣にて傳授濟(すむ)との事合點ゆかずと答(こたふ)。都(すべ)ての當流、人を切る爲の劔術にあらず、身を守る術也。此方(このかた)より求(もとめ)て向ふにあらず、向ふより又向ふ時は、其愁ひを避け、不從(したがはざる)は破るの劔術也。御身町人なれば武家と違(ちがひ)、身を困(くるし)み侯事迯(にげ)るゝにしくはなし。武士は迯る事ならざる身分なり、町人は迯て不告、今日某(それがし)追付(おひつか)んと思ひぬれ共追付事不能(おひつくことあたはず)、御身三人共あの通り走り候へば迯足達者(にげあしたつしや)といふべし、則右が當流極祕なりと言(いひ)しと也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。滑稽な剣術指南で変則武辺物としてすこぶる面白い。

 

・「眞木野久兵衞」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「久平」とする。

 

・「牛天神」「耳囊 卷之二 貧窮神の事」で既注済。現在の東京都文京区春日(後楽園の西方)にある北野神社。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「牛天神下」とあり、その場合は、北野神社の南一帯を指す。

 

・「享保」西暦一七一六年~一七三六年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、七、八十年も前の古い話である。

 

・「三年寄」江戸の町年寄を世襲した奈良屋・樽屋・喜多村三家のこと。

 

・「と理(ことわり)しに」は底本のルビ。ここ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「と望みしに」となっている。「ことわる」は理を尽くしてという意味としては、請願に「理」はない。ここは「と望みしに、久兵衞、斷わりしに、」それでも度々入門免許を請うて参ったによって、「久兵衞答へて成程左樣にも相成べしと答へければ」と続けると如何にも自然である。かく敷衍訳をした。

 

・「櫻の馬場」幕府の軍馬を調教繋養した馬場の一つ。底本の鈴木氏注に、湯島聖堂の西に隣りあってあり、『お茶の水馬場ともいった。桜ともみじの大木が両側にあった。文京区湯島三丁目』とある。岩波の長谷川氏注では一丁目とする。ピグ氏のブログ「東京ガードレール探索隊」の「桜の馬場」の対照地図によれば一丁目が正しい。

 

・「亥子の比」深夜十時から午前〇時頃。

 

・「身を困み候事」カリフォルニア大学バークレー校版ではここが『身を囲ひ候事』とあって、長谷川氏は『身を守り』と注されている。これは「囲(圍)」の誤字が深く疑われるが、「くるしみ」でも意味は通る。折衷して訳した。

 

・「不告」底本には右に『(ママ)』注記を附す。カリフォルニア大学バークレー校版では「不能」とあって「苦しからず」で意味が通る。これで採る。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 真木野久兵衛の町人へ剣術師範する事 

 

 享保の頃、牛天神辺りに、真木野久兵衛と申す一刀流の達人が御座った。

 

 ある時、江戸の三年寄(さんとしより)であったか、または好事家の豪商の町人連の誰某(だれそれ)であったか、ともかくも、その噂を聴き及んだ三人がともにうち連れて、この久兵衛に弟子入りを願い出て参ったと申す。

 

「謝金は惜しまず幾らでもお出し致しますによって、どうかすぐに免許の段、お許し下さいませ! 秘伝の太刀筋、御伝授下されぃ!――」

 

と望んだものの、久兵衛は断った。

 

 ところが、この三人、性懲りものう、何度となく参っては、五月蠅く、入門免許を懇請致いたれば、ある時何故か、久兵衛、

 

「……なるほど、いや、そのようなことも、これ、ならぬということも……ないわけではないが……」

 

と答えてしもうたによって、両三名、その後はますます足繁く、久兵衛が元へ参っては、切(せち)に伝授を望むことと相い成った。

 

 あまりの日参に久兵衛も詮方のう、遂にある日のこと、

 

「……それでは――来たる○月×日、両三人ともども相い連れだち、△時(どき)、桜の馬場へ参られい。――我らも同時刻に、罷り越す。」

 

と約して御座った。

 

 さてもその当日と相い成った。

 

 時刻は――そうさ、夜も亥(い)か子(ね)の刻頃で御座ったと申す。

 

 三人の町人、桜の馬場へと押っ取り刀で参ったところ、ほどのう、久兵衛も来たって、

 

「――約束の伝授を致そうぞ。」

 

と告げると、

 

「……我ら……これより、この馬場を走って御座る。されば、御身ら三人も、この、馬場の始めより、末の末まで、お駈けなされい!――」

 

と申すが早いか、突然、久兵衛、脱兎の如く、目の前より消える。

 

 されば三名も、教えの通り、駆け出だいた。

 

……が……

 

……あっという間に……

 

……三人は久兵衛を追い越し……

 

……久兵衛はといえば……

 

……それを一散に追っては走るのではあったが……

 

……何分にも久兵衛、老体の身で御座ったれば……

 

……馬場の半ばにて……

 

……息切れし……

 

……これ……

 

……倒れてしもうた――

 

 さても三人はそのまま、馬場の端まで駆け抜ける。

 

……ところが……

 

……振り返って見れば……

 

……久兵衛……

 

……遠くで……

 

……へたばって御座った……

 

ともかくも、また馳せ帰って、泡を吹いて転がって御座った久兵衛を介抱を致いた上、

 

「……さ、さあ! さ、さても! 教えの通り! 駈け抜けましたによって! どうか! 免許、御伝授下さりまっせい!」

 

と乞うたところが、久兵衛は、未だ苦しげな息遣いのまま、

 

「……ハーヒッ……ハーヒッ……はぁ、我(ふわれ)ら……老人(らふじん)とは申(まふ)せ……ハーヒッ……道、半ばにして……ハヒッ……倒(たふ)れた、にィ……ハヒッ……御身らは、い、息切れて御座(ぐぉざ)ることも、これ、ないは……す、則(すなふわ)ち……で、伝授(ドウエンデゅ)の極意……こ、これ、とぅわ、体得(とぅわいとく)至れり……グオッフォ! グオッフォ! ウッグェー!……そ、それにて!……よ、よ、よろしゅう御座る、じゃぁッー!……グヲッホ! ゴホ! ギュウゥゥ……」

 

と応じた。

 

 されば、流石に両三人、

 

「……い、未だ一本の太刀筋の伝授も、これ!……」

 

「……そ、そうじゃ! 未だその伝授もなきに、これ!……」

 

「……か、かように! 伝授相い済んだとは、これ!……」

 

と――口を揃えて、

 

「合点参らぬ!!!……」+「合点参らぬ!!!……」+「合点参らぬ!!!……」

 

と叫んだ。

 

 と、久兵衛、やっと息も落ち着いて参って、徐ろに、

 

「……すべて――我らが流儀は――人を斬るための剣術にては――これ、ない。……

 

――その奥義は――これ、身を守る術である。

 

――こちらの方より求めて相手に向かうものではこれ、ない。

 

――また先方(せんぽう)より仕掛けて参った折りには

 

――これ、その危うい切っ先を避くる。

 

――それでも、そうした対処に相手が従わぬ場合にのみ、相手と斬り合う。

 

……御身らは町人なれば武家とは異なり、身の危うきを大事とお守りなさるるには――逃げるに――若くはない。

 

……しかし――武士と申すは、これ――戦いより逃ぐること、出来ざる身分。

 

……されど御身ら町人は、これ――逃げても決して恥ではない。

 

 さても今日、某(それがし)、御身らに追いつこうと思うたれど――追いつくこと、こで出来なんだ。……

 

――御身ら三人ともに

 

――如何なる対局に於いても

 

――あの通り走って御座ったならば

 

――これ

 

『逃げ足の達者』

 

と申すもので御座る!

 

 則ち――これぞ――我が流の極意である!」

 

と喝破されたとのことで御座る。

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 5 じゃんけんと藤八拳

 前にもいったが、旅館の私の隣室には学生達がいる。実に気持のいい連中である。彼等の大多数は医科の学生で、大学では医学生はドイツ人に教わる為に、かかる若者達は、入学に先立って、ドイツ語を覚えねばならない。英語をすこし話す者もいる。私はちょいちょい彼等の部屋へ行って、彼等が勝負ごとをするのを見るが、それ等はみな我々のよりも、遙かに複雑である。日本の将棋のむずかしさは底知れぬ位で、それに比べると我国のは先ず幼稚園といった所である。碁は我々はまるで覚え込めず、「一列に五つ」は我等のチェッカースと同程度にむずかしい。私は彼等にチェッカースや、チョーキング・オン・ゼ・フロワ、その他四、五の遊びを教えた。腕を使ってやる面白い勝負がある。二人むかい合って坐り、同時に右腕をつき出す。手は掌をひろげて紙を表す形と、人さし指と中指とを延して鋏(はさみ)を表す形と、手を握って石を表す形の、三つの中の一つでなくてはならぬ。さて、紙は石を包み、あるいはかくすことが出来、石は鋏をこわすことが出来、鋏は紙を切ることが出来る。で、「一、二、三」と勘定して同時に腕を打ち振り、三度目に、手は上述した三つの形の中の、一つの形をとらねばならぬ。対手が鋏、こちらが紙と出ると、鋏は紙を切るから、対手が一回勝ったことになる。然しこちらが石を出したとすれば、石は鉄を打ちこわすから、こちらの勝である。続けて三度勝った方が、この勝負の優勝者である。小さな子供達が用をいいつけられた時、誰が行くかをきめるのに、この勝負をするのを見ることがある。この時は只一度やる丈だから、つまり籤(くじ)を抽くようなものである。

[やぶちゃん注:ここに記された所謂、「じゃんけん」は日本が濫觴である。ウィキじゃん」によれば、古来の拳遊び(けんあそび:日本・中国など東アジアを中心に酒宴で行われる遊びとして発達し、後に子供の遊びともなったもの。)がもとになってはいるが、現行の「じゃんけん」は意外に新しく、近代(十九世紀後半)になって誕生したものである。ウィーン大学の日本学の研究者で「拳の文化史」の著者セップ・リンハルトは、現在の「じゃんけん」は江戸時代から明治時代にかけての日本で成立したとしている。「奄美方言分類辞典」に「奄美に本土(九州)からじゃんけんが伝わったのは明治の末である」と記されており、明治の初期から中期にかけて九州で発明されたとする説を裏付けている。また、江戸時代末期に幼少時代を過ごした菊池貴一郎(四代目歌川広重)が往事を懐かしんで、明治三八(一九〇五)年に刊行された「絵本江戸風俗往来」にも「じゃんけん」について記されている。今でも西日本に多く残る拳遊びから(日本に古くからあった三すくみ拳に十七世紀末に東アジアから伝来した数拳の手の形で表現する要素が加わって)考案されたと考えられるとあり、二十世紀に入ると日本の海外発展や柔道など日本武道の世界的普及・日本産のサブカルチャー(漫画・アニメ・コンピュータゲーム等)の隆盛などに伴って急速に世界中に拡がったものとある。

「チョーキング・オン・ゼ・フロワ」原文は“chalking on the floor”であるが、これは恐らく“Hopscotch”(石蹴り)のことである。所謂、本邦で言う「かかし」とか「ケンパ」とか称したあれと酷似したものである。英語版ウィキ“Hopscotch及び Pino 氏のサイト内のケンパ」を参照。懐かしい!!!……これ、最後にやったのは……小学校六年生を卒業した三月、この鎌倉を私が北陸は高岡へ去る、その日の朝……一つ下の近所のなおこちゃんと二人してやったのが……最後だったね……なおこちゃんは……「夜になると王子さまが私のところへやってくる夢を見るの……そしてそれはね……あなたなの……と……僕に呟いたことが……あったけ……]

 

 両手を使ってやる勝負が、もう一つある。膝に両手を置くと裁判官、両腕を鉄砲を打つ形にしたのが狩人、両手を耳に当てて物を聞く形をしたのが狐である。これ等は、片手でやる勝負と、同じような関係を持っている。即ち狐は裁判官をだますことが出来、裁判官は狩人に刑罰を申渡すことが出来、狩人は狐を射撃することが出来る。日本人は非常な速度でこの勝負をする。彼等は三を数えるか、手を三度動かすか、或いは両手を二度叩いて、三度日にこれ等三つの位置の一つをとるが、その動作は事実手だけを使ってやるのである。手をあげ前に出すと狐になり、両手で鉄砲を支えるような形をすると狩人になり、拇を下に向けると裁判官になる。我々には、いくら一生懸命に見ていても、どちらが続けて三度勝ったのかは、とうてい判らない。この勝負は極めて優雅に行われ競技者は間拍子をとって、不思議な声を立てる。多分「気をつけて!」とか「勝ったぞ!」とかいうのであろう。見物人も同様な声を立て、一方が勝つと声を合せて笑うので、非常に興奮的なものになる。

[やぶちゃん注:「狐拳(きつねけん)」である。「裁判官」(原文“the judge”)は庄屋である。狐拳の一種の「藤八拳」はモースの言うように続けて三度勝つと勝者となるから、ここは「藤八拳」と言うべきかも知れない。ウィキの「狐拳」によれば、藤八拳は天保時代に花村藤八という売薬商人が「藤八-五文-奇妙」という呼び声で客引きをしていたのを、通人が狐拳の掛け声に使い始めたという。また、吉原の幇間・藤八が創始したともいう、とあり、ここでモースの言う掛け声も、モースが類推したような意味ではなく、この掛け声であろう。拳遊びのその他の例はウィキに詳しい。]

栂尾明恵上人伝記 49 好きな松茸を生涯断つこと

 上人松茸を食し給ふ由を聞き傳へて、或る人請(しやう)じ申して、松茸を種々に料理してまゐらせられけり。歸り給ひて後、人申しけるは、松茸御愛物にて候由承り傳へて、隨分奔走しける由申しければ、道人(だうにん)は佛法をだにも好むと人に云はるゝは恥なり。まして松茸好むなど云はるゝことあさましきことなり。是を食すればこそかゝる煩ひにも及び候へとて、其の後はふつと是を斷ち給へり。

 又飮食に飽くこと罪業深きことなり。凡そ世間に欲を發(おこ)し、所知(しよち)庄園をほしがり、見苦しき利養に耽り、刄傷殺害(にんじやうせつがい)に及び、或は嶮しき道を凌ぐ時は、牛馬の背に疵(きづ)を生じ、或は荒き浪を渡る時、船人風に肝を消し、農夫汗を流し、織女手を費し、鋤(すき)蟲を殺し、引板(ひた)獸を驚かし、すべて春耕すより秋收むるに至るまで、農夫の艱苦(かんく)勝(あ)げて計るべからず。然るに殺盜婬酒(せつたういんしゆ)などの如くならば、留めてもあらましけれども、生を受くる者一日も食せずんば命保ちがたし。去れば佛一食(いちじき)をすゝめ再食を誡め給へり。是れ併(しかしなが)ら氣をつきて道を行はんが爲なり。然るを無慙無愧(むざんむき)にして放逸の心の引くに任せて、頻にこき味を好み、強ひて飽かんことを願ふ。此の心を改悔(かいげ)せずは何ぞ畜生に異ならん。然る間上人更に飮酒を斷ち、又中(ちゆう)を過ぎて食し給ふことなし。然るに老年に及びて不食(ふじき)の所勞難治の間、時々少しき山藥(さんやく)などを時以後に食し給ふことありき。

楸おふる片山蔭に忍びつつ吹きけるものを秋の夕風 俊恵 萩原朔太郎 (評釈)

  楸(ひさぎ)おふる片山蔭に忍びつつ吹きけるものを秋の夕風

 

 夏の殘暑が尚強い日に、僅かばかりの楸が生えた片山蔭を、かすかにそつと秋風が吹いて通つたと言ふ敍景歌である。「吹きけるものを」といふ言葉によつて、外は尚殘暑の日光が照りつけているのに、有るかなきかの秋風がそつと吹いた氣分を現はして居る。風物歌として新古今集中の秀逸だらう。作者は俊惠法師。敍景歌の名手はいつも僧侶に限られてゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年第一書房刊「恋愛名歌集」より。当該歌は「新古今和歌集」の巻第三の二七四番歌で、

  刑部卿賴輔歌合し侍(はべり)けるに、納涼(だふりやう)をよめる

という詞書を持つ。この歌合せは嘉応元(一一六九)年に行われたもの。俊恵(しゅんえ永久元(一一一三)年~建久二(一一九一)年?)は源俊頼の子。早くに東大寺の僧となったが、白川の自坊を「歌林苑」と名付けて藤原清輔・源頼政・殷富門院大輔など多くの歌人を集めて盛んに歌会・歌合を開催し、衰えつつあった当時の歌壇に大きな刺激を与えた。鴨長明の師で、その歌論は「無名抄」などにもみえる。風景と心情が重なり合った象徴的な美の世界や、余情を重んじて、多くを語らない中世的なもの静かさが漂う世界を、和歌のうえで表現しようとした。同じく幽玄の美を著そうとした藤原俊成とは事なる幽玄を確立したといえる(以上の事蹟はウィキの「恵」に拠った)。「楸」は二種が同定候補としてある。一つはシソ目ノウゼンカズラ科キササゲ Catalpa ovate の古名で、樹高五~一〇メートルに達する落葉高木。六~七月に淡い黄色の内側に紫色の斑点がある花を咲かせる。果実は細長くササゲ(大角豆)に似るのでキササゲ(木大角豆)と呼ばれる(ここはウィキの「キササゲによる)。今一つはキントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ Mallotus japonicas の古名で、樹高五~一〇メートルに達する落葉高木。初夏に白色の花を穂状につける。「赤芽槲」「赤芽柏」という名は新芽が鮮紅色であること、葉が柏のように大きくなることから命名されたもの(ここはウィキアカメガシワ」による)。私は本歌の印象に実が合うという理由から前者を採りたい。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 10 / 了  (11以下は欠)

 

 

          10

 

 智識發生の最初の徴候は、死に對する希求である。此の人生は堪へがたく見える。あるひは到達しがたく見える。人はもはや、死を望むことを恥としない。人は、彼の嫌ふ古い住家から、彼のなほ嫌はねばならぬ新しい住家へと導かれることを禱る。このことの中には、ある信仰の痕跡がある。その推移の間に、偶〻「主(しゆ)」が廊下傳ひに歩いてこられて、この囚人を熟視し給ひ、さて、「此の男を二度と監禁してはならぬ。此の男は余の許に來(く)べきものだ。」とおほせられるかも知れない、信仰の痕跡がある。 

 

[やぶちゃん注:原文。 

 

13

   Ein erstes Zeichen beginnender Erkenntnis ist der Wunsch zu sterben. Dieses Leben scheint unerträglich, ein anderes unerreichbar. Man schämt sich nicht mehr, sterben zu wollen; man bittet aus der alten Zelle, die man haßt, in eine neue gebracht zu werden, die man erst hassen lernen wird. Ein Rest von Glauben wirkt dabei mit, während des Transportes werde zufällig der Herr durch den Gang kommen, den Gefangenen ansehn und sagen: „Diesen sollt Ihr nicht wieder einsperren. Er kommt zu mir.“

 

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。

 

 

 一三 ようやく始まろうとする認識の、最初の兆候のひとつに、死にたいという願望がある。そういうとき、この人生は堪えがたく、別の人生は手が届かないようにみえる。死を望むことをもはや恥とは思わなくなる。嫌でたまらない古い独房から、いずれ嫌になるに決まっている新しい独房へ、なんとか移してほしいと懇願する。そのさいに、信仰のかけらもないようなものも作用しているようだ。護送の途中たまたま通りかかられて、囚人を見て、「この者をふたたび閉じこめてはならない。彼は私の許へ来ることになっている」と言ってくださるだろうと、どこかで信じ続けているのである。

 

 

 以下、私の愛読書であるグスタフ・ヤノーホ著吉田仙太郎訳「カフカとの対話」(筑摩書房一九六七刊)より。

 

   《引用開始》

 

 役所のフランツ・カフカのもとで。

 

 もの倦げに彼は机の向うに坐っていた。垂れ下がった腕、固く閉ざされた唇。

 

 彼は微笑して、手を差し出した。

 

「昨夜は途方もなくひどい夜でした」

 

「医者にお見せになりました?」

 

 彼は口をとがらせた。

 

「医者――ですか……」

 

 彼は右手を、掌を上にしてもち上げ、しずかにそれをおろした。

 

「人は自分自身から逃れることはできない。これが運命です。ゆるされた唯一の可能性は、観客となって、演ぜられているのがわれわれだということを忘れることにあるのです]

 

   《引用終了》

 これをもって中島敦のフランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」の訳は中絶している。]

なやめる薔薇 大手拓次

 なやめる薔薇

おぼろの犬(いぬ)の影(かげ)はこほり、
つめたくひかりの閨(ねや)をゑがく………
ふゆのひの鬱金(うこん)のばらは鐘(かね)のねをひらいてうたふ。
おまへのなやめる身(み)ぶるひのささやきは、
あわだつみどりの鑰(かぎ)を示(しめ)して、
こもごもに奇蹟(きせき)の淵(ふち)におぼれ死ぬ。

鬼城句集 夏之部 葛水

葛水    葛水の冷たく澄みてすずろさみし

[やぶちゃん注:「すずろ」の「ず」は底本では「〵」に濁点。]

      葛水に乏しき葛をときにけり

[やぶちゃん注:「葛水」葛粉に砂糖を入れて葛湯を作りそれを冷した飲み物。酒毒を消し、

胃腸をととのえ、渇きを止め汗の出るのを防ぐ効能がある。以上は「5000季語の検索サイト」という副題を持つサイト季語と歳時記葛水より全文引用させて戴いた。]

蜩4:15

昨日の以下の記載は誤謬――

×今日の蜩の初声は4:31まで後退(ただ左耳の耳鳴りとの同期があるのですこしそれより早いかも知れない)。
×鳴きが遅くなるスピードが例年より加速している気がする。

――先程
――4:15
――蜩の蟬鳴が始まった(7月12日は4:07。そもそも「鳴きが遅くなるスピード」という謂いは正しない。通常、蟬は深夜でも暑いと鳴くことがあり、気温の変化によるものが主であるようだから。そういえば昨日の朝は高原のように異様に涼しかった)
――自然は「事」もなし……か……

2013/07/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 4 磯採集!



M172_2


図―172

 昨日我々は、干潮で露出した磯へ出かけた。水溜りの大きな石の下面を、我々が調べることが出来るように、それを持ち上げてひっくり返す役目の男も、一人連れて行った。収獲が非常に多く、また岩の裂目に奥深くかくれた大きなイソガイ、生きてピンピンしている奇麗な小さいタカラガイ、数個のアシヤガイ(その見殻は実に美しい)、沢山の鮑、軟かい肉を初めて見る、多くの「属」、及びこれ等すべての宝物以外に、変な蟹や、ヒトデや、海百合(ゆり)の類や、変った虫や、裸身の軟体動物や、大型のヒザラガイ、その他の「種」の動物を、何百となく発見する愉快さは、非常なものであった。今日我々はまた磯へ行き、金槌で岩石を打割って、ニオガイ、キヌマトイガイ、イシマテ等の石に穴をあける軟体動物を、いくつか見つけた。私はこれ等の生きた姿を写生するので大多忙であった。我々の建物は追い追い満員になって来て、瓶や槽の多くはもう一杯である。材料の豊富は驚くばかりである。顕微鏡をのぞいてばかりいるのに疲れた私は、休息として我々の小舎を写生した。海岸を見下す窓――というか、とにかく開いた所――で私は勉強するのだが、その外でいろいろな珍しいことが起るので、時としては中々勉強をしていられない。この写生図(図172)によって、実験所の内部の大体が判るであろう――枠に布を張り、その上でヒトデや海胆を乾燥もするが、このような仕事には、とかく、ガタビシャ騒ぎがつきものである。

[やぶちゃん注:これは磯野先生の前掲書によれば、八月十日及び翌十一日(岩礁を破砕して穿孔性の貝類を採取しているシーン)のことである。同書によれば、十一日には地引網も見学、採れた動物をかなり譲って貰ったらしい。実験所の内部のスケッチは奥左の風景から江の島の砂州の方に向かった、西北側を向いて描いたもののように思われる。見ると窓は右の棚の奥にもあるようで、そうすると、当初、私が図―151で想像したのとは違って、中央部は壁になっているようである。

「岩の裂目に奥深くかくれた大きなイソガイ」原文“hidden away in the crevices, large cones,”「イソガイ」は、石川氏が岩礁の岩の割れ目に棲息している貝だから「磯貝」とした可能性と、単純に「イモガイ」を「イソガイ」と誤植した可能性の二様が疑われる。“cone”は腹足綱新腹足目イモガイ科 Conidae に属するイモガイ類の仲間の汎用的な一般総称であるし、既に石川氏はこれを「イモガイ」と訳しておられるので、私は出版社の誤植の可能性が極めて高いように感ずるものである。

「タカラガイ」原文“Cypræa”。腹足綱直腹足亜綱下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeaidae のタカラガイ属 Cypraea に属するタカラガイ類の英語総称の一つ(同属だけで世界で凡そ230種、本邦産は90種弱とされる)。現在、和英辞典では“Cowry”や“Cowrie”と載るが、私はこの学名にもなっている美しい発音の“Cypræa”(キプラエア)で呼びたい欲求に駆られる。この属名はギリシャ語の“Kypris”女神キプリス(ラテン語で“Venus”ヴィーナス=アフロディテ)に基づくラテン語の“Cypria”(キプリア)に由来する。

「アシヤガイ」原文“Stomatella”。誤訳ニシキウズガイ科アシヤガイ Granata lyrata ではないアシヤガイはモースが「実に美しい」(原文“exquisite”)と言うほどに美しくないからである。磯野先生はこれをどうもフルヤガイ Stomatia phymotis に同定なさっておられるように見受けられるのであるが(前掲書の日録の中の採取掲載種の和名列からの類推であるが、この記載は助手の松村任三の記載も参考にしているのでフルヤガイも採取記載にあったものかも知れない)、これも地味な貝で納得出来ない。これは表記通りの属名を持つところのニシキウズガイ科ヒメアワビ亜科ヒメアワビ Stomatella 属の仲間「ヒメアワビ」類ではなかろうか? かなりの小型種であるがヒメアワビ Stomatella varita や、それより大きいヒラヒメアワビ Stomatella impertusa などは、アワビのような孔列もなく、表面も繊細で、何より、内面の真珠光沢が非常に美しいからである。試みにグーグルの画像検索の「Stomatellaのそれらしいものをご覧あれ。……美しいでしょう?……いや、私は美しいと思いますよ。……

「鮑」原文“Haliotis”。原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis の属名。ギリシャ語の“Halios”(海)+“otos”(耳)に由来する。この属名には Nordotis というシノニムがあるようだ。

『軟かい肉を初めて見る、多くの「属」』原文は“and a number of genera, the soft parts of which were new to me;”であるが、貝類の羅列の後の示されていることから、ここは狭義の貝類、それも軟体部(外套膜)を派手に露出する腹足類(巻貝類)の採集種を指しているように思われる。磯野先生の前掲書ではしかし、トコブシを挙げている。確かに潮溜りであればミミガイ上科ミミガイ科トコブシ属フクトコブシ Sulculus diversicolor 亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta か、広く形状の似たミミガイ科の仲間である可能性の方が高い。

「変な蟹」原文“the quaintest crabs”。“quaint”という単語は変な英語だな、と思ったらラテン語由来の古フランス語が元。①古風な趣き(魅力)があって風変わりで美しい、洒落た、粋な。②(皮肉を込めて)風変わりで面白い、珍妙で楽しい。③巧妙に作られた。といった意味を持つ。勿論、これから正しい同定は出来ないものの、モースにとって“quaintest”すこぶる附きで風変わりで面白い奇抜な印象を与え、容易にタイド・プールで採取出来る蟹とするならば、甲羅に海藻を擬装するイソクズガニやヨツハモガニ、外骨格が柔らかい上に歩脚が長くて動作の鈍いトウヨウヤワラガニ、凝っとしている石ころにしか見えない奇体なソデカラッパ、周縁や鋏脚が鮮紅色で美しベニツケガニ(紅付蟹)類などが想起される。モース先生が何を“quaintestといって採り上げられたのか?……私はそこでそれを一緒に見たい気持ちに……無性に駆られているのである……

「海百合の類」原文“Comatulas”。ウミシダと訳すべきところ。棘皮動物門ウミユリ綱ウミシダ目 Comatulida に属するウミシダ類の一属名に“Comatula”がある。例えばアシカケクシウミシダ Comatula pectinata (Linnaeus, 1758) 。ウミシダは羽根のような枝を多数持った、一見、海藻のような姿をした動物である。ウィキの「ウミシダ」によれば、ウミシダ類は多数の腕を中心の体から輪生状に伸ばし、根のような形の枝で他のものにしがみついている動物で、羽根のような腕を広げる姿は、確かにシダ類に似ている。化石を多く含むウミユリ綱の動物の基本的な姿は、丁度、一輪だけ花をつけたユリに似ており、長い茎(柄部)の基部に固着のための腕(仮根)を持つ。花にあたるのは本体である萼部(calyx)と、そこから輪生状に出る腕である。ウミシダはこの萼部から下を切り離した形をしており、別名を無茎ウミユリ類(non-stalked crinoids)とも言われる。ウミユリ類が基本的に固着性であるのに比べ、ウミシダは移動が可能で、種によっては腕を動かして活発に遊泳することも出来る。棘皮動物で遊泳の可能なのは、この類と、近年発見されたごく一部の深海性ナマコだけである。ウミユリ類は古生代からの長い歴史を持ち、かつては非常に繁栄したが、現在では深海にしか見られず、現在の海で広く普通に見られるのはウミシダ類だけである。種数においても現生ウミユリ綱の大半はウミシダである。それらはすべてウミシダ目にまとめられている、とある。以下、「形態」の項。『本体はほぼ円錐形の萼部(crown)からなる。萼部の上面はほぼ扁平な口盤(oral disc)となっており、その中に口と肛門がある。口はほぼ平らな面にあり、これを中心に歩帯溝が配置する。歩帯溝(ambulacral groove)または食溝(food groove)は口の周りでは五本であるが、枝分かれしてそれぞれ腕につながる。肛門は口の横、歩帯溝の間にあり、口盤の面から上に突き出しているのでよく目立つ』。『萼部の下面は中央が下に突き出し、その中心には中背板となっており、その周りに輪生状に巻枝(cirrus)が並ぶ。巻枝は短い腕のようなもので、関節に分かれ、巻くように動く。ウミユリ類ではこれは上向きになっているが、ウミシダでは下向きに伸びて、下向き中央側に巻き込むことが出来る。周辺部には腕の骨盤が並ぶ。腕は基部では五本であるが、萼周辺に向かって分枝して十本、あるいはそれ以上になる。その分枝のようすは萼の下面では骨盤(分岐板列という)の配置で、口盤側では歩帯溝で確認できる』。『腕は細長く、表面は骨板に包まれ、多数の関節を持っている。腕からはさらに細い枝が両側に出て、これを羽枝(pinnule)と呼ぶ。羽板にも多数の関節があり、内向きに巻くように動かせる。羽枝はほぼ腕全体から出るため、全体としては鳥の羽や細長いシダの葉のような姿となる。腕も羽枝も内側に巻き込むことが出来る。口から伸びる歩帯溝は腕の上面中央を腕の先まで走り、ここには管状の管足が並ぶ。管足は吸盤状ではなく、触覚と呼吸、それに排泄の役割を持つ。歩帯溝にはまた繊毛があり、ここでデトリタスなどを口まで運んで食物とする。腕の数は、基本の腕の数の五なので、少なくとも五本の腕を持つ理屈であるが、五本しか持たない例(イツウデウミシダ科など)は少なく、ほとんどが少なくとも一回二叉分枝した十本か、あるいはさらに分枝してより多くになり、100本に達する例もある。分枝は基本的に萼の部分で生じて、腕が遊離してからは分枝しない。なお、腕の基部にある羽枝はより大きく発達し、これは口盤を保護する』。内部形態は『萼内部は広く体腔となっており、それは体腔管として腕の先まで伸びている』。『消化管は口と肛門が共に口盤に開くので、萼の内部の体腔内でU字型となるが、実際にはそこで巻いており、三周ほど巻く例もある。構造的には比較的単純な形をしている』。『神経系は口の下に環状の口下側神経環があり、そこから各腕に放射神経が伸びる。また、中背板から腕に続く腕板と呼ばれる骨片には腕板神経が伸びる』。『循環系としては水管系があり、神経より内側で神経に併走するように環状水管と放射水管がある』。「生態」の項。『一般には不活発な動物であり、海底の岩やサンゴなどの上に巻枝でしがみつき、腕を広げてデトリタスなどを集めて食べる。腕や羽枝の表面の管足でそれらを集め、歩帯溝の繊毛の流れで口まで運ぶが、時折は触手を巻き込んで口のそばまで運ぶのも見られる』。『巻枝は基盤にしがみついているだけなので、これを離せば移動が可能である。巻枝を使って這ったり、腕を伸ばしてたぐるように這うこともある。腕を羽ばたくように動かして泳ぐことが出来る種もある。ただし常に泳いでいるようなものはない。流れ藻について移動する例は知られている』。『ウミシダの腕は折れやすく、刺激を受けると自切することもある。寄生ないし共生する生物もある。スイクチムシやカクレエビなどがその腕の間などに住み着く例がある』。「生殖と発生」の項、『雌雄異体であり、体外受精を行う。生殖巣は腕全体に伸び、羽枝の表面から放卵と放精が行われる。これらは年間の特定の日の特定の時刻に行われる、という風になっている。その際、切り離した腕を実験室の水槽に入れておいても、同じタイミングで放卵放精が見られるという』。『初期の幼生はドリオラリアと言い、楕円形の体の上端に繊毛群を持ち、体の途中に五つの環状の繊毛帯を持つ。この幼生は数日間の浮遊期間の後に上端で海底の基物に固着し、シスチジアン幼生からペンタクリノイド幼生へと進む。これは柄があってウミユリに近い形で、ここから柄を切り捨てるようにして成体の形となる。一部では直接発生をするもの、腕に保育装置を持つものが知られている』。分布的には『世界の海に広く分布するが、熱帯地方に多い。深海に生息するものも、浅い海域に住むものもあり、一部は潮下帯や潮だまりでも観察される。なお、ウミユリ綱で浅い海域に見られるのはこの類だけである』とあり、『日本付近で海岸の潮間帯でも比較的よく見ることができる種としては、大型のものではオオウミシダ Tripiometra afra macrodiscus、ニッポンウミシダ Oxycomanthus japonicus、小型のものではトラフウミシダ Decametra tigrina、ヒガサウミシダ Lamprometra palmataなどがある。外洋性の海岸に見られることが多い』。ウミシダ類はすべてウミシダ目に所属し、ここにウミユリ綱の現生種の大半が含まれる。世界に五五〇ほどの種があり、二亜目十四科ほどに分ける。日本では一〇〇種ほどが知られる、とあって以下、分類表が載る。モースが採取したのがどの種であったものか、私は実際に自然状態でのウミシダを観察実見したことがない。それだけに強く惹かれるのである。

「変った虫」原文は“strange wormsとあるから、環形動物のゴカイやイワムシ類、線形動物のヒモムシ類などを指しているから、「蠕虫」と訳すべきところ。

「裸身の軟体動物」原文“naked mollusks”。後鰓類(ウミウシ)の類である。モース先生の見たのは何だのだろう。すぐには出典を思い出せないのであるが、江の島の現在のヨット・ハーバーのある岩礁の潮下帯上辺の岩の下には、かつて昭和天皇が発見した(のではなかったかと思う)オレンジ色の美しいウミウシが美しく群棲していたそうである。

「ヒザラガイ」原文“chitons”。既出。軟体動物門多板綱新ヒザラガイ目クサズリガイ科ヒザラガイ Acanthopleura japonica またはその近縁種。

「ニオガイ」原文“Pholas”。斧足(二枚貝)綱オオノガイ目ニオガイ科 Pholadidae の標準属名である。但し、よく見かける本邦産の和名ニオガイBarnea (Anchomasa) manilensis inornata やオニニオガイ Barnea (Anchomasa) manilensis は属名が異なる。英語版“Wikisource”のNatural History, Mollusca by Philip Henry Gosse”の“Mollusca(軟体動物)の節に載る、ゴスの“PHOLAS”(ニオガイ類)の穿孔状態の博物画が載る。以下に示す。

Natural_history__mollusca__pholas

「キヌマトイガイ」原文“Saxicava”斧足(二枚貝)綱オオノガイ目キヌマトイガイ上科キヌマトイガイ科 Hiatellidae の貝類は岩石への穿孔や足糸による他物への着生が知られる。現在、本邦のキヌマトイガイは Hiatella orientalis の学名を持つが、これに Saxicava arctica と当てたものを見出したので、同科の仲間であることは間違いない。英語版“Wikisource”のNatural History, Mollusca by Philip Henry Gosse”の“Dimyaria(二筋類)に載る、ゴスの“SAXICAVA”類の穿孔状態の博物画が載る。以下に示す。 

Natural_history__mollusca__saxicava



「イシマテ」原文“
Lithodomus”。斧足(二枚貝)綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イシマテ属Lithophaga 亜属 Leisolenus イシマテ(イシワリ)Lithophaga(Leiosolenus) curta。殻は前後に細長く円筒形、人体の後端背縁でわずかに高まり、殼表は褐色で成長脈のみで外に彫刻はなく、ところどころに石灰層を附着する。切開創は後端が厚く、かつ殻の端よし少しく延長され、腹面には縦襞状に刻まれている。内面には歯も内縁刻も見られない。本類は珊瑚礁や岩石に穿孔して棲息し、甚だしい場合は他個体の殻にも穿孔する。海岸の岩礁帯の無数の小穴は本類の他、先のニオガイやニオガイ科カモメガイ Penitella kamakurensis・同科スズガイ Jouannetia cumingii などが穿孔したものである(以上は昭和三四(一九五九)年保育社刊吉良哲明著「原色日本貝類図鑑」の記載に基づく)。グーグル画像検索「Lithophaga curtaをリンクしておく。

「このような仕事には、とかく、ガタビシャ騒ぎがつきものである。」原文は“and all the clutter that such work entails.”。“clutter”は混乱状態・紛糾の意。“entail”は~を伴う、引き起こす・強いるの意で、まさに石川氏の「~がつきものである」の謂いである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 3 私のコック



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図―171

 私の料理番は階下に、流しと二つの石の火鉢とから成る台所を持っている。これ等の火鉢はある種のセメントか、あるいは非常に軟かい火山岩を切って作ってある。勿論オーヴンは無く、火鉢は単に燃える炭を入れる容器であるに過ぎない。この上で料理番は煮たり焼いたりするが、鶏のローストをつくる時には、四角な葉鉄(ブリキ)を火の上に置いて鶏をのせ、その上に銅の深鍋をひっくりかえしにかぶせて、鍋の底で炭火を起し、一時的のオーブンを設け、鶏がうまくロースト出来る迄、彼は辛棒強く横に立って炭をあおぐ。図171は料理番の簡単な写生図である。鶏の雛は一羽数セント、鯖に似た味のいい魚が一セント。私は何でもが安いことの実例として、これ等の価格をあげる。

[やぶちゃん注:底本では石川氏が訳注として「オーヴン」の後に『〔窯〕』、「ロースト」の後に『〔燔肉〕』と記しておられるが、今や若き読者には、この割注の方に注を附さねばならない世界になってしまったことを、モース氏はどうお思いになられることであろう。]

 車夫二人に引かせて人力で藤沢へ行った結果、私は大きな淡水産の螺(Melnia)の美事な「種」を壺に一杯集めることが出来た。車夫達がまるで海狸(ビーヴァー)のように働いて、これ等の貝を河床からひろい上げたからである。

[やぶちゃん注:これは磯野先生の前掲書によれば、八月九日のことである。

「大きな淡水産の螺Melniaこんな属名はないのでおかしいと思って原文を確認すると“fresh-water snail (Melania), となっている。これは石川氏(または編集・印刷者)の誤りである。Melania 属というのは腹足綱吸腔目オニノツノガイ上科トウガタカワニナ科 Thiaridae(これば別にトゲカワニナ科とも呼称する)に属する。ところがこの属名自体がこれまた現在使われていないので、これまたてこづった。結論から言うと、このお馴染みのカワニナ類に似た(但し、この仲間は知られたカニモリガイ上科カワニナ科 Pleuroceridae のカワニナとは上科レベルで異なる)一種の、旧属名であった。トウガタカワニナ科の多くは九州奄美以南に棲息する南方系種であり、九州以北考えられる種はタケノコカワニナ(筍川蜷)Stenomelania rufescens しかいないので、このモースの記載が正しいとするならならば本種以外には考えられない。]

 私は特別な使を立てて郵便を藤沢へ送った。距離三マイル、賃銀十セント。亭主がやって来て、この使者は走る飛脚だから二セント多くかかるといった。私は丈夫そうな脚をした男がいい勢で売り出し、水を徒渉して向う側へ全速力で姿を消すのを見た。外山氏は郵便局長宛に、私の所へ来た外国郵便を特使で送るよう特に手紙を書き、それを持たせてやったが、その返事は同じ飛脚が、信じ難い程短い時間に持って帰って来た。彼は往復共、全速力で走り続けたに違いない。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳)  第七章 江ノ島に於る採集 2 しゃぼん玉売り

 普通の種類の蠅がいないことは、この国の特長である。時を選ばず、蠅を一匹つかまえるということは、困難であろう。私はファンデイ湾の入口にあるグランド・メーナンに於て、魚の内臓等をあちらこちらにまき散らす結果、漁村は我慢出来ぬ程蠅が沢山いたことを覚えている。江ノ島は漁村であるが、漁夫達は掃除をする時に注意深く※(くずにく)を全部はこび去り、そしてこれを毎日行う。それに彼等は、捕えた物をすべて食うから、棄てられて腐敗するものが至ってすくない。加之、動物とては人間と鶏だけで馬、牛、羊、山羊等はまるでいない。鶏も数がすくなく、夜になると籠を伏せた中に入れられる。夜、牡鶏や牝鶏が人家へやって来て、やがて入れられる籠のまわりを、カッカッいいながら歩き廻り、誰か出て来て一羽一羽籠の中に入れる迄それを続ける所は中々面白い。

[やぶちゃん注:「ファンデイ湾の入口にあるグランド・メーナン」原文“at Grand Manan, at the entrance of the Bay of Fundy,”。「ファンデイ湾」は第五章の冒頭に「フンディの入江」として既出(「ファンデイ湾」はママ)。“Grand Manan”とは、そのフンディ湾の湾口に浮かぶグランド・ナマン島である。

「※(くずにく)」(「※」=「魚」+「荒」)原文は“offal”。この漢字はスズキ亜目ハタ科ハタ亜科アラ Niphon spinosus を指す漢字であるが、ここでは「くずにく」とルビを振っているように、食用に用いる魚の臓物や屑肉のことを指す。

「加之」若い読者には馴染みがなかろうが、これで「しかのみならず」と読む。漢文訓読調で、副詞「しか」+副助詞「のみ」+断定の助動詞「なり」の未然形+打消しの助動詞「ず」で、そればかりでなく、それに加えて、の意。]

 

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図―170

 

 前にも書いたことがあるが、町を行く行商人の呼び声は、最も奇妙で、そしていう進もなく、世界中どこへ行ってもそうだが、訳が判らぬ。ある時、それ迄聞きなれたのとまるで違った呼び声を耳にして駆け出して見ると、一人の男が長い竹の管から、あぶくを吹き出していた。あぶくは、石鹸でつくったものよりも一層美しくて、真珠光に富んでいた。石鹸といえば、日本人は全然石鹸というものを知らない。溶解液は二つのほっそりした手桶に入っていて、それを子供達に売る(図170)。外山氏がこの男に液体の構成を聞いた所によると、いろいろな植物の葉から出来ていて、煙草も入っているとのことであった。裸体の男があぶくを吹き吹き、時々実に奇妙極る叫び声をあげながら往来をのさのさ歩いている有様は、不思議なものだった。

[やぶちゃん注:シャボン玉売りである。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「江戸時代、洗濯に石鹸と洗濯板を使用したか。には、当時のしゃぼん玉は「無患子、芋がら、烟草などを焼いた粉を水に浸し、竹の細い管で吹くと玉が飛んで五色に光ってみえる」(喜多村信節『嬉遊笑覧』)とあるように、南蛮伝来のしゃぼんを使ったものではなかった、とあってここの記載によく合致する。この「無患子」とはバラ亜綱ムクロジ目ムクロジ科 Sapindus mukorossi。果皮はサポニンを含み、泡立つので石鹸の代用とされた。また、「守貞謾稿」(風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?)が書いた風俗・事物を解説した類書、現在で言う一種の百科事典。起稿は天保八(一八三七)年、その後約三十年間に亙って書き続けた。全三十五巻(前集三十巻・後集五巻)。一六〇〇点にも及ぶ付図と詳細な解説によって近世風俗史の基本文献とされる。この記載は主にウィキの「守貞謾稿」に拠った)の「巻之六 生業下」に「さぽん玉賣」として以下の記載がある(本文は国立国会図書館デジタル化資料を視認したが、踊り字「〱」は正字化した)。

 

サボン玉賣 三都トモ夏月專ラ賣之大坂ハ特土神祭祀ノ日専ラ賣來ル小兒の弄物也サホン粉ヲ水ニ浸シ細管ヲ以テ吹之時ニ丸泡ヲ生ス

京坂ハ詞ニ「フキ玉ヤサボン玉吹ハ五色ノ玉ガ出ル云々

江戸ハ詞ニ「玉ヤ玉ヤ玉ヤ玉ヤ

Sabonuri

 

但し、附した図は岩波文庫版の「近世風俗志(一)」(同一書の別題)からスキャンしたものに私がキャプションを原本に合わせて独自に附したものである。]

笛 萩原朔太郎 (「月に吠える」掉尾に配された「笛」の初出形)

 

 

  

 

子供は笛が欲しかつた。

その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。

子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。

子供はひつそりと扉(とびら)のかげに立つて居た。

扉(とびら)のかげにはさくらのはなのにほひがする。

そのとき、おとなはかんがへこんでゐた、

おとなの思想がくるくるとうづまきをした。

ある混み入つた思想のぢれんまおとなの心を痙攣(ひきつけ)させた、

みれば、ですくの上に突つ伏したおとなの額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。

それは春らしい今朝(けさ)の出來事が、そのひとの心をうれはしくしたのである。

本能と良心と。

わかちがたきひとつの心をふたつにわかたんとするおとなの心のうらさびしさよ、

力(ちから)をこめてひきはなされたふたつの影は、いとのやうにもつれあひつつほのぐらい明窓(あかりまど)のあたりをさまよつた、

ああ、みればまたあさましくもつるみかわしてゐるものを、

ひとは自分の頭のうへに、それらの悲しい幽靈のとほりゆくすがたをみた、

透きとほる靑貝のやうな光る死臘の手さきが、そのひとの腦づゐをかすめていつた、

その手のふれるつめたい痛(いた)みから、そのにんげんの心臟が腐りかかつた、

…………かれこそはれうまちすのたぐひにて、ひとびとの良心となづくるもの。

そのときひとつのかげはひとつのかげのうへに重なりあつた、

おとなは恐ろしさに息をひそめながら祈をはぢめた、

「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ、」

けれどもながいあいだ、幽靈は扉(とびら)のかげを出這入りした。

扉(とびら)のかげにはさくらのはなのにほひがした。

そこには靑白い顏をした病身のかれの子供が立つて居た。

子供は笛が欲しかつたのである。

 

     ×

 

子供は扉(とびら)をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。

子供は窓際(まどぎは)のですくに突つぷしたおほいなる父の頭腦をみた、

その頭腦のあたりははなはだしい陰影になつてゐた。

子供の視線が、蠅(はへ)のやうにその塲所にとまつてゐた。

子供のわびしい心がなにものかにひきつけられてゐたのだ。

しだいに子供の心が力(ちから)をかんじはぢめた。

子供は實にはつきりとした聲で叫んだ。

みればそこには笛がおいてあつたのだ。

子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。

 

     ×

 

子供は笛についてなにごとも父に話してはなかつた。

それ故この事實はまつたく隅然の出來事であつた。

おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。

けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。

もつとも偉大なる大人の思想が生み落した笛について。

卓の上に置かれた笛について。 

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第六巻第六号・大正五(一九一六)年六月号に掲載された。太字は底本では傍点「ヽ」、太字下線を施した「良心」のみ傍点「●」である。但し、以下は私の判断で訂した。

 

・ルビの誤字
 ×「痙攣(つきつけ)させた」→○「痙攣(ひきつけ)させた」
・脱字
 ×「わかちがたきひとの心」→○「わかちがたきひとの心」
(但し、初出読者は「ひと」を「人」と読んで違和感を感じなかったものとも思われる。)
・錯字
 ×「つみるかわしてゐるものを、」→○「つるみかわしてゐるものを、」
(但し、歴史的仮名遣の誤り「かわして」は訂さない。私には詩想を変形させることなく間違いなく『読める』からである)
・異体字
 「聲で呌んだ。」→「聲で叫んだ。」
(これでもいいが、若い人は躓くであろうから)
・傍点の脱落
 ×(「めぐりあはせ」の「せ」に傍点「ヽ」がない)→(「せ」を太字とした)

 

 本詩は後に詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の詩集本文の掉尾に所収されたが、その際には以下のように改稿されている。特に前半中間部の削除が大きい(太字は本テクストに準ずる)。 

 

 

 

子供は笛が欲しかつた。

その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。

子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。

子供はひつそりと扉(とびら)のかげに立つてゐた。

扉のかげにはさくらの花のにほひがする。

 

そのとき室内で大人(おとな)はかんがへこんでゐた、

大人(おとな)の思想がくるくると渦まきをした、ある混み入つた思想のぢれんまが大人の心を痙攣(ひきつけ)させた。

みれば、ですくの上に突つ伏した大人の額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。

それは春らしい今朝の出來事が、そのひとの心を憂はしくしたのである。

 

本能と良心と、

わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人(おとな)の心のうらさびしさよ、

力をこめて引きはなされた二つの影は、糸のやうにもつれあひつつ、ほのぐらき明窓(あかりまど)のあたりをさまよひた。

人は自分の頭のうへに、それらの悲しい幽靈の通りゆく姿をみた。

大人(おとな)は恐ろしさに息をひそめながら祈をはじめた

「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ」

けれどもながいあひだ、幽靈は扉(とびら)のかげを出這入りした。

扉のかげにはさくらの花のにほひがした。

そこには聲白い顏をした病身のかれの子供が立つて居た。

子供は笛が欲しかつたのである。

 

子供は扉をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。

子供は窓際のですくに突つ伏したおほいなる父の頭腦をみた。

その頭脳のあたりは甚だしい陰影になつてゐた。

子供の視線が蠅のやうにその場所にとまつてゐた。

子供のわびしい心がなにものかにひきつけられてゐたのだ。

しだいに子供の心が力をかんじはじめた、

子供は実に、はつきりとした聲で叫んだ。

みればそこには笛がおいてあつたのだ。

子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。

 

子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。

それ故この事實はまつたく遇然の出來事であつた。

おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。

けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。

もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について、

卓の上に置かれた笛について。 

 

「ほのぐらき明窓(あかりまど)のあたりをさまよひた。」の「よひた」及び「それ故この事實はまつたく遇然の出來事であつた。」の「遇然」はママ。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 9

 

          9 

 

 人間が、たとへば、一個の林檎について抱き得る觀念の多樣性。單に卓子の上にあるそれを見るためのみにも、その頸をのばさなければならない小兒の眼に映じた苹果と、それを取上げ、主人らしい品位をもつて客の前に差出す、一家の主人の眼に映じた苹果と。

 

 

[やぶちゃん注:「苹果」は音ならば「ヘイクワ(ヘイカ)」又は「ヒヤウクワ(ヒョウカ)」で、当て読みの訓で「りんご」である。林檎の実のこと。中島敦は「りんご」と読ませているように思われる。 

 

原文。

 

 

11.12

   Verschiedenheit der Anschauungen, die man etwa von einem Apfel haben kann: die Anschauung des kleinen Jungen, der den Hals strecken muß, um noch knapp den Apfel auf der Tischplatte zu sehn, und die Anschauung des Hausherrn, der den Apfel nimmt und frei dem Tischgenossen reicht.

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。 

 

 一一/一二 人が抱きうるさまざまな見解の相違。たとえば林檎ひとつをとってもてもそうだ。食卓上の林檎をちらと見るだけのためにも、せいいっぱい背伸びをしなければならない少年見解と、その林檎をとって、自由に食卓仲間にさしだせる一家の主人の見解と。]

 

……そうだ……林檎だ……僕は僕の思いを示そうとしていたに過ぎなかったのに……でも母さんは卒倒し、妹はただ恐懼し嫌悪した……そこへ……そこへ父さんが帰ってきた……

 

   *

 

『「お母さんが気絶したの。でももうよくなったわ。グレゴールがはい出したの」

 

「そうなるだろうと思っていた」と、父親がいった。「わしはいつもお前たちにいったのに、お前たち女はいうことを聞こうとしないからだ」

 

 父親がグレーテのあまりに手短かな報告を悪く解釈して、グレゴールが何か手荒なことをやったものと受け取ったことは、グレゴールには明らかであった。そのために、グレゴールは今度は父親をなだめようとしなければならなかった。というのは、彼には父親に説明して聞かせるひまもなければ、またそんなことができるはずもないのだ。そこで自分の部屋のドアのところへのがれていき、それにぴったりへばりついた。これで、父親は玄関の間からこちらへ入ってくるときに、グレゴールは自分の部屋へすぐもどろうというきわめて善良な意図をもっているということ、だから彼を追いもどす必要はなく、ただドアを開けてやりさえすればすぐに消えていなくなるだろうということを、ただちに見て取ることができるはずだ。

 

 しかし、父親はこうした微妙なことに気づくような気分にはなっていなかった。入ってくるなり、まるで怒ってもいればよろこんでもいるというような調子で「ああ!」と叫んだ。グレゴールは頭をドアから引っこめて、父親のほうに頭をもたげた。父親が今突っ立っているような姿をこれまでに想像してみたことはほんとうになかった。とはいっても、最近では彼は新しいやりかたのはい廻る動作にばかり気を取られて、以前のように家のなかのほかのできごとに気を使うことをおこたっていたのであり、ほんとうは前とはちがってしまった家の事情にぶつかっても驚かないだけの覚悟ができていなければならないところだった。それはそうとしても、これがまだ彼の父親なのだろうか。以前グレゴールが商売の旅に出かけていくとき、疲れたようにベッドに埋まって寝ていた父、彼が帰ってきた晩には寝巻のままの姿で安楽椅子にもたれて彼を迎えた父、起き上がることはまったくできずに、よろこびを示すのにただ両腕を上げるだけだった父、年に一、二度の日曜日や大きな祭日にまれにいっしょに散歩に出かけるときには、もともとゆっくりと歩く母親とグレゴールとのあいだに立って、この二人よりももっとのろのろと歩き、古い外套にくるまり、いつでも用心深く身体に当てた撞木杖(しゅもくづえ)をたよりに難儀しながら歩いていき、何かいおうとするときには、ほとんどいつでも立ちどまって、つれの者たちを自分の身のまわりに集めた父、あの老いこんだ父親とこの眼の前の人物とは同じ人間なのだろうか。以前とちがって、今ではきちんと身体を起こして立っている。銀行の小使たちが着るような、金ボタンのついたぴったり身体に合った紺色の制服を着ている。上衣の高くてぴんと張った襟の上には、力強い二重顎が拡がっている。毛深い眉(まゆ)の下では黒い両眼の視線が元気そうに注意深く射し出ている。ふだんはぼさぼさだった白髪はひどくきちんとてかてかな髪形になでつけている。この父親はおそらく銀行のものだと思われる金モールの文字をつけた制帽を部屋いっぱいに弧を描かせてソファの上に投げ、長い制服の上衣のすそをはねのけ、両手をズボンのポケットに突っこんで、にがにがしい顔でグレゴールのほうへ歩んできた。何をしようというのか、きっと自分でもわからないのだ。ともかく、両足をふだんとはちがうくらい高く上げた。グレゴールは彼の靴のかかとがひどく大きいことにびっくりしてしまった。だが、びっくりしたままではいられなかった。父親が自分に対してはただ最大のきびしさこそふさわしいのだと見なしているということを、彼は新しい生活が始った最初の日からよく知っていた。そこで父親から逃げ出して、父親が立ちどまると自分もとまり、父親が動くとまた急いで前へ逃がれていった。こうして二人は何度か部屋をぐるぐる廻ったが、何も決定的なことは起こらないし、その上、そうした動作の全体がゆっくりしたテンポで行われるので追跡しているような様子は少しもなかった。そこでグレゴールも今のところは床の上にいた。とくに彼は、壁や天井へ逃げたら父親がかくべつの悪意を受け取るだろう、と恐れたのだった。とはいえ、こうやって走り廻ることも長くはつづかないだろう、と自分にいって聞かせないではいられなかった。というのは、父親が一歩で進むところを、彼は数限りない動作で進んでいかなければならないのだ。息切れが早くもはっきりと表われ始めた。以前にもそれほど信頼の置ける肺をもっていたわけではなかった。こうして全力をふるって走ろうとしてよろよろはい廻って、両眼もほとんど開けていなかった。愚かにも走る以外に逃げられる方法は全然考えなかった。四方の壁が自分には自由に歩けるのだということも、もうほとんど忘れてしまっていた。とはいっても、壁はぎざぎざやとがったところがたくさんある念入りに彫刻された家具でさえぎられていた。――そのとき、彼のすぐそばに、何かがやんわりと投げられて落ちてきて、ごろごろところがった。それはリンゴだった。すぐ第二のが彼のほうに飛んできた。グレゴールは驚きのあまり立ちどまってしまった。これ以上走ることは無益だった。というのは、父親は彼を爆撃する決心をしたのだった。食器台の上の果物皿からリンゴを取ってポケットにいっぱいつめ、今のところはそうきちんと狙(ねら)いをつけずにリンゴをつぎつぎに投げてくる。これらの小さな赤いリンゴは、まるで電気にかけられたように床の上をころげ廻り、ぶつかり合った。やわらかに投げられた一つのリンゴがグレゴールの背中をかすめたが、別に彼の身体を傷つけもしないで滑り落ちた。ところが、すぐそのあとから飛んできたのがまさにグレゴールの背中にめりこんだ。突然の信じられない痛みは場所を変えることで消えるだろうとでもいうように、グレゴールは身体を前へひきずっていこうとしたが、まるで釘づけにされたように感じられ、五感が完全に混乱してのびてしまった。だんだんかすんでいく最後の視線で、自分の部屋が開き、叫んでいる妹の前に母親が走り出てきた。下着姿だった。妹が、気絶している母親に呼吸を楽にしてやろうとして、服を脱がせたのだった。母親は父親をめがけて走りよった。その途中、とめ金をはずしたスカートなどがつぎつぎに床にすべり落ちた。そのスカートなどにつまずきながら父親のところへかけよって、父親に抱きつき、父親とぴったり一つになって――そこでグレゴールの視力はもう失われてしまった――両手を父の後頭部に置き、グレゴールの命を助けてくれるようにと頼むのだった。』(「変身」「Ⅱ」掉尾)

 

   *

 

『グレゴールが一月以上も苦しんだこの重傷は――例のリンゴは、だれもそれをあえて取り除こうとしなかったので、眼に見える記念として肉のなかに残されたままになった――父親にさえ、グレゴールはその現在の悲しむべき、またいとわしい姿にもかかわらず、家族の一員であって、そんな彼を敵のように扱うべきではなく彼に対しては嫌悪をじっとのみこんで我慢すること、ただ我慢することだけが家族の義務の命じるところなのだ、ということを思い起こさせたらしかった。

 

 ところで、たとい今グレゴールがその傷のために身体を動かすことがおそらく永久にできなくなってしまって、今のところは部屋のなかを横切ってはい歩くためにまるで年老いた傷病兵のようにとても長い時間がかかるといっても――高いところをはい廻るなどということはとても考えることができなかった――、自分の状態がこんなふうに悪化したかわりに、彼の考えによればつぎの点で十分につぐなわれるのだ。つまり、彼がつい一、二時間前にはいつでもじっと見守っていた居間のドアが開けられ、そのために彼は自分の部屋の暗がりのなかに横たわったまま、居間のほうからは姿が見えず、自分のほうからは明りをつけたテーブルのまわりに集っている家族全員を見たり、またいわば公認されて彼らの話を以前とはまったくちがったふうに聞いたりしてもよいということになったのだった。』(「変身」「Ⅲ」巻頭)

 

   *

 

『「あいつはいなくならなければならないのよ」と、妹は叫んだ。「それがただ一つの手段よ。あいつがグレゴールだなんていう考えから離れようとしさえすればいいんだわ。そんなことをこんなに長いあいだ信じていたことが、わたしたちのほんとうの不幸だったんだわ。でも、あいつがグレゴールだなんていうことがどうしてありうるでしょう。もしあいつがグレゴールだったら、人間たちがこんな動物といっしょに暮らすことは不可能だって、とっくに見抜いていたでしょうし、自分から進んで出ていってしまったことでしょう。そうなったら、わたしたちにはお兄さんがいなくなったでしょうけれど、わたしたちは生き延びていくことができ、お兄さんの思い出を大切にしまっておくことができたでしょう。ところが、この動物はわたしたちを追いかけ、下宿人たちを追い出すのだわ。きっと住居全体を占領し、わたしたちに通りで夜を明かさせるつもりなのよ。ちょっとみてごらんなさい、お父さん」と、妹は突然叫んだ。「またやり出したわよ!」

 

 そして、グレゴールにもまったくわからないような恐怖に襲われて、妹は母親さえも離れ、まるで、グレゴールのそばにいるよりは母親を犠牲にしたほうがましだといわんばかりに、どう見ても母親を椅子から突きとばしてしまい、父親のうしろへ急いで逃げていった。父親もただ娘の態度を見ただけで興奮してしまい、自分でも立ち上がると、妹をかばおうとするかのように両腕を彼女の前に半ば挙げた。』(「変身」「Ⅲ」)

 

   *

 

……その父の首に片手をまきつけて隣り合って坐っていた妹が決然と立ち上がる……ぐっすりと寝入っている母……

 

   *

 

『 自分の部屋へ入るやいなや、ドアが大急ぎで閉められ、しっかりととめ金がかけられ、閉鎖された。背後に突然起った大きな物音にグレゴールはひどくびっくりしたので、小さな脚ががくりとした。あんなに急いだのは妹だった。もう立ち上がって待っていて、つぎにさっと飛んできたのだった。グレゴールには妹がやってくる足音は全然聞こえなかった。ドアの鍵を廻しながら、「とうとうこれで!」と、妹は叫んだ。

 

「さて、これで?」と、グレゴールは自分にたずね、暗闇(くらやみ)のなかであたりを見廻した。まもなく、自分がもうまったく動くことができなくなっていることを発見した。それもふしぎには思わなかった。むしろ、自分がこれまで実際にこのかぼそい脚で身体をひきずってこられたことが不自然に思われた。ともかく割合に身体の工合はいいように感じられた。なるほど身体全体に痛みがあったが、それもだんだん弱くなっていき、最後にはすっかり消えるだろう、と思われた。柔かいほこりにすっかり被われている背中の腐ったリンゴと炎症を起こしている部分とは、ほとんど感じられなかった。感動と愛情とをこめて家族のことを考えた。自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的なものだった。こんなふうに空虚なみちたりたもの思いの状態をつづけていたが、ついに塔の時計が朝の三時を打った。窓の外ではあたりが明るくなり始めたのを彼はまだ感じた。それから、頭が意に反してすっかりがくりと沈んだ。彼の鼻孔(びこう)からは最後の息がもれて出た。』(「変身」「Ⅲ」)

 

   *

 

(引用部分は総てパブリック・ドメインの、「青空文庫」にある筑摩書房昭和三五(一九六〇)年刊「世界文学大系58 カフカ」を底本とする原田義人訳フランツ・カフカ変身 DIE VERWANDLUNGのデータ(入力者・kompass 氏/校正者・青空文庫)の一部をコピー・ペーストさせて戴いている。)]

ひびきのなかに住む薔薇よ 大手拓次

 ひびきのなかに住む薔薇よ

ひびきのなかにすむ薔薇(ばら)よ、
おまへはほそぼそとわだかまるみどりの帶(おび)をしめて、
雪(ゆき)のやうにしろいおまへのかほを
うすい黄色(きいろ)ににほはせてゐるのです。
ふるへる幽靈(いうれい)をそれからそれへと生んでゆくおまへの肌は、
ひとつのふるい柩(ひつぎ)のまどはしに似(に)てゐるではありませんか。
ひびきのなかにすむふくらんだおほきな薔薇よ、
おまへは あの水(みづ)の底(そこ)に鐘(かね)をならす魚(うを)の心(こゝろ)ではないでせうか。
薔薇よ、
ひびきのなかにうろこをおとす妖性(えうせい)の薔薇(ばら)よ、
おまへはわたしのくちびるをよぶ、
わたしのくちびるをまじまじとよんで、
月のひかりをくらくするのです。

うすく黄色(きいろ)い薔薇(ばら)の花(はな)よ、
ぷやぷやとはなびらをかむ羽(はね)のある蛇(へび)が
いたづらな母韻(ぼゐん)の手をとつて、
あへいでゐるわたしのこころに
亡靈(ぼうれい)のゆくすゑをうたはせるのです。

ああ
しろばらよ しろばらよ しろばらよ、
おまへはみどりのおびをしめて、
うすきいろく うすあをく にほつてきました。

蜩4:31 雨になる朝

今日の蜩の初声は4:31まで後退(ただ左耳の耳鳴りとの同期があるのですこしそれより早いかも知れない)。→×【2013年7月19日】
鳴きが遅くなるスピードが例年より加速している気がする。→【2013年7月19日】
今朝は風もあり、妙に涼しい――山の音が聴こえる――雨になる朝……それでも……人々は未だに眠っているのだった……

鬼城句集 夏之部 川狩

川狩    夜振の火うつりて水の黑さかな

      川干や石に根を持つ川原草

[やぶちゃん注:「夜振」は「よぶり」で、闇夜川面で松明やカンテラを燈して振り、その火に寄ってくる魚を獲る川漁の一種。「火振」とも。因みに「夜焚(よたき)」と書くと集魚灯を用いた海漁を指す。「川干」は「かはぼし」(但し、「かはひ」と読むことがある)は、川を堰き止め干し上げて魚を獲る川漁の一種。「川狩(かはがり)」は狭義にはこの漁法を指す場合がある。]

2013/07/17

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 8 江島案内

    ●江島案内

來遊者は。先つ山水の佳絶なるを賞しつゝ。棧橋を渡れは銅製の鳥居あり。是れぞ江島の入口にて。此の鳥居の前に立ちて看望(みあぐ)れは。一線路あり。即ち江島神社に詣つるの道なり。進み行けは。惠比壽樓(ゑびすろう)。岩本樓なと客を呼ふの旅館ありて。兩側に櫛比す。是を茶屋町と唱ふ。行くこと一町半にして。石製(せきせい)の鳥居立てり。こゝより石磴(いしだん)を登れは。前面に碑石(ひせき)あるを見る。上に題して最勝銘といふ。銘に曰く。

  最勝無匹 至妙匪名 起滅來去 香味色色

  事物蕭寂 眞空崢嶸 顯處漠々 暗裏明明

明治甲申原垣山の撰せし所。左方(さはう)に池あり。無熱池と稱す。盍し其名は天竺(てんぢく)の無熱池に象りて名(なづ)けたるものなり。水淺しといへど。旱天(かんてん)に涸れずと云ふ。其の上に巨石あり。蝦蟇石といふ。相傳ふ釋良眞〔慈悲上人〕此の島に參籠せし時。蝦蟇出て障碍(しようげ)を爲しける故。加持せられは。終に此(この)石に化したりと。其の言(げん)荒唐信するに足らず。右の石磴を登れは。江島小學校あり。油漣塗(ぺんきぬり)にて他と異なるなし但し體を具へて微(び)なるものなり。

[やぶちゃん注:「最勝銘」ウィキの「江の島」に「最勝銘碑」として明治一七(一八八四)年に東京大学でインド哲学を教えていた曹洞宗の僧原担山の撰になるものという記載がある。底本には返り点はない。禅僧のものであるから原則総て音で読んでいると考えてよい。

「崢嶸」は「さうくわう(そうこう)」と読み、山谷のけわしいさまをいう。

「江島小學校」ウィキの「江の島」によれば、明治六(一八七三)年島内に江島学舎が開校、明治二二(一八八九)年に江ノ島村と対岸の片瀬村とが合併して鎌倉郡川口村となった際、この江島学舎が川口村立小学校江ノ島分校となったとある。当時のこの分校の位置は辺津宮下の石の鳥居前を右に折れ、裏へ廻る近道の上に架かる桟道の手前の右手、現在の「江の島市民の家」のある位置にあった。後の昭和三六(一九六一)年三月三十一日、当時、藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校は廃止された。江の島・藤沢ポータルサイト「えのぽ」の「思い出の風景」の坂井弘一氏の「二百十日の頃」には、江ノ島には対岸の片瀬小学校の分校があって、小学三年まではこの分教場へ通い、四年生になると島から桟橋を渡って本校へ通学していた、とある。ショウ氏の「湘南の家」の「江の島桟橋」には四年生までとあるが、時代的な差なのかも知れない。それぞれの桟橋の写真や絵葉書は実に素晴らしい。往時の江の島風景として必見である。]

 

右左に折れて自然石より成れる石磴を攀ちて進めは。左方に石あり其の形臥牛(ぐわきう)の如し。福石と呼へり。相傳ふ。昔時の杉山檢校和一參籠して結願(けつぐわん)の日。此石に躓き。松葉の竹管に盛りたるを拾へは福を得ると稱す。是れ福石の名の起れる所以なり。それより石磴を上れは。神祠(じんし)あり。即ち邊津神社にて。むかしは下の宮といへり。社の左側(さそく)に古碑の存(ぞん)するを見るに江島屏風石といふ。是ぞ有名なる江島建寺碑なり〔別項に記載す〕左折して堺内(けうない)を出。阪を下り。金龜樓の前を過き。又石磴を上れは神祠あり。是ぞ中津神社にして。むかしは上の宮と稱せり〔口繪參照〕こゝにて什寶を展列し。諸人の縱覽を許す。社の左に碑あり。酒井雅樂頭の撰文なりといふ。文字苔蒸して讀むべからず。境内(けうない)を過れは。右方に石磴あり。之を攀(よぢ)れは。平地に達す。即ち本島の頂上なり行くこと二丁餘。左方(さはう)は斷崖絶壁にして。風濤の聲脚下に鞺鞳(だうがふ)たり。試みに茶亭(さてい)の筠欄(いんらん)に倚りて一望すれは。相模灘三十六里寸眸の裏に入り。伊豆の大島正面に横(よこたは)りて。遙かに翠螺(すゐら)を浮へ白帆其の間に點在す。風景絶佳人皆嘆賞す。此の處に一遍上人成就水の標石あり。逕路以て通(つう)するも。草莾(そうばう)人を遮り。行歩自由ならず。行くこと二十間許(ばか)りにして。一井あり。蓮華水といふ。相傳ふ一遍上人此の島に參籠の時。加持せし舊蹟なりと。今尚ほ上人自筆の一遍成就水の扁額は。當社に保存せり。傍に蓮華池あり。溪泉湛(たと)ふて池を成し。老樹覆(お)ふて屋を成し。人をして仙境に至れる思あらしむ。聞く近日荊を伐り茅を刈りて。行路を便(べん)にし。此の勝地に通せしむと。是れ亦游覽の一助ならむ。

[やぶちゃん注:「鞺鞳」この字を当てておいたが、実際には「鞳」ではない。「革」に「侖」のような字(カスレている)である。しかしこれは水や波の音の響くさまをいう、「鞺鞳」であることは間違いないので、これを当てた。なお、これはまた本来なら「たふたふ(とうとう)」と読むのが正しい。

「筠欄」青竹の手すり。

「三十六里」約一四一キロメートル強。江の島から伊豆半島南端の石廊崎までを海岸線で計測すると凡そ一二二キロ程度あり、これを可視限界の下田辺りから直線で大島最北端乳が崎まで延ばすとずばり一四一強となる。頗る正確な数値と言えよう。

「翠螺」緑なす山の美称。

「二十間」約三十六メートル強。]

 

舊路を取り。山に沿ふて下れは。幅凡そ三間許り地峽の如き形勢をなせる道に出つ。俗にこゝを山二ツといふ。兩岸(れうがん)の絶壁幾十丈。左右より相迫り。殆(ほと)むと江島の一島をして二島あるか如き觀(くわん)あらしむ。此名ある所以なり。それより迂曲(うくわい)して進めは。平地に達す。是れ奥津神社境内の入口なり。

[やぶちゃん注:「三間」約五・五メートル。]

 

徐ろに神社を拜し了り。左右を顧みれは。道忽ち窮れるがごとし。左方に當りて一標を認む。題して岩屋道といふ。進て歩を移せは。石磴あり。是れ龍窟に達するの道なり。級を拾ふて下れば。道は斷崖の上に出つ。手を額にすれは。富士山巍然(ぎぜん)として雲表に聳へ、豆相の諸山其の前に列し。相引て我に朝(てう)する者に似たり。彼の烏帽子岩の如きは。呼へは將さに應へむとす。此の處を兒か淵といふ。其の由來は載せて別項にあり。淵頭には服部南廓、佐羽淡齋及ひ。芭蕉の詠(えい)を刻せし碑を建てり。

 南廓の詩に云。

  風濤石岸鬪鳴雷。

  直撼樓臺万丈廻。

  被髮釣鼇滄海客。

  三山到處蹴波開。

 淡齋の詩に云。

  瓊砂一路截波通。

  孤嶼崚嶒屹海中。

  潮浸龍王宮裏月。

  花香天女廟前風。

  客樓所鱠絲々白。

  神洞燒燈穗々紅。

  幾入蓬萊諳秘跡。

  不須幽討倩仙童。

 芭蕉の句に云。

  疑ふな潮の花も浦の春

この岸角に龍燈松と稱するがありしが。今は枯れたり。是より岩怪石の間を宛轉(えんてん)して下れば。海岸に到る。尚石骨を蹈て行くこと二丁餘。始て龍窟に達す。其の間左は石塀(いしべい)にして。右は深潭なり。岩頭の老松枝を埀れて。翠濤(すゐたう)の上に沈む。奇絶いふべからず。

[やぶちゃん注:以上の漢詩は底本では二段組であるが、一段で示した。淡齋の漢詩の最終句は底本では「不須幽倩仙童。」となっており、明らかな脱字があって律詩としての体を成さない。ここのみ、別の諸資料によって特別に補って示したことを断っておく。【二〇一四年九月二十日追記:本誌の一番最後に正誤注があり、そこには『●本誌江の島案内の中佐羽淡齋七律結末不須幽倩仙童は不須幽討倩仙童の誤謬に付爰に正誤す』とある。】

「級を拾ふて」「級(きふ)」は階段のこと。石段を一つ一つを数えて。

「巍然」山が高く聳えること。

「朝する」 向かってくる。

「服部南廓」服部南郭(天和三(一六八三)年~宝暦九(一七五九)年)は荻生徂徠の高弟として知られる儒者で画家。詩を我流で書き下す(句点を排除した)。

  風濤 石岸 鳴雷を鬪ふ。

  直ちに樓臺を撼(ゆす)りて 万丈 廻る

  被髮の釣鼇(ちようがう) 滄海の客(かく)

  三山 到る處 波を蹴つて開く

詩中の「被髮の釣鼇」とは釣り上げられた大きな蓑亀。

「佐羽淡齋」二代目佐羽吉右衛門(さばきちえもん 明和九(一七七二)年~文政八(一八二五)年)は商人で漢詩人。絹仲買商で上州三富豪の一人。詩を我流で書き下す(句点を排除した)が、尾聯は脱字もあり、訓読に自信がない。識者の御教授を乞うものである。

  瓊砂(けいさ) 一路 波を截つて通ず

  孤嶼(こしよ) 崚嶒(りようくわい) 屹(きつ)として海中にあり

  潮は浸(ひた)す 龍王 宮裏の月

  花は香る 天女 廟前の風

  客樓 鱠(なます)とする所 絲々(しし)として白く

  神洞 燈を燒きて 穗々(すいすい)として紅(くれなゐ)なり

  幾(ほと)んど蓬萊に入りて 秘跡を諳(そら)んずれば
  須(もち)ひず 幽(ひそ)かに倩(うるは)しき仙童を討(もと)むるを
詩中「崚嶒」は山が高く緩やかに重なりあうこと、「屹」も高く聳えること。「脱身幽討」という語があり、これは塵界を離れ、景色のよい場所を尋ね廻るの意がある。「幾入蓬莱」は海中に屹立する江ノ島への入島を東方海中にあるとする仙境蓬莱山に喩えて言った。「秘跡」は「蓬莱」に掛けて人に知られぬ名跡の意。「討」には求める・尋ねる・探すなどの意があり、ここは稚児が淵伝説に因んで、秘かに尋ね求めたと採る。「倩」には形容詞として美しい・麗しい・愛らしいと意があり、動詞としては借りる・請う・雇うの意がある。実は底本ではこの字の下に「仙童」からの返り点があるのだが、先に示した通り脱字があり、この返り点は信じ難い。ここでは知人の指摘を得て仙童を形容する語、則ち、みめ麗しいの意で採ることとした。従って尾聯は、

  私が入り来たったここはもう、かの仙境蓬莱にほとんど等しい……
  そうして今、この景勝にかくも満足し、詩をそらんじておる……
  さればこそ――私は必要とせぬ――
  伝説の和尚の如、秘かに見目麗しき仙童の稚児を尋ねるなんどということは――

といった感じであろうか(以上、尾聯の訓読及び語釈は知人の助力を得た。ここに記して謝意を表する)。

「疑ふな潮の花も浦の春」は無論、江の島の吟ではなく、「二見の図を拝み侍りて」と前書きがあるので嘱目吟でもないようである。「いつを昔」所収。他にこの句を記した真蹟の「二見文台」(文台に書きつけたもの)には「元禄二仲春」のクレジットがある。

「岩頭の老松」「老」は底本「考」。全くの誤植と判断し、訂した。]

 

抑此の龍窟は。南(みなみ)大洋に面し。遠く大島に對す。窟内凡そ二十間許り。海水常に激入す。故に棧橋を架して通路に便す。俯觀すれは岩根皆紫色を帶びて。水色紺碧。其の美狀(じやう)し難(がた)し。窟の深さ七十三間(案内者は百廿間と稱す)幅三間許。其の高さ最高の處にて四丈八尺なりといふ。進み入ること二十六間にして一小祠あり。是れ多紀理比賣命を祀れる本宮(ほんぐう)なり。大さ僅かに一間半。其の製(せい)亦粗(そ)なり。祠後より窟内閽黑(あんこく)なれは。導者先つ燭(しよく)を秉て進み。各自皆之を手にす。入ること十二間にして淸泉あり。岸壁より落つこれを弘法大師加持水と唱ふ。昔大師參籠の時加持せし水なりとそ。今は樋にて之を引き。祠前の手洗水とせり。水淸冷にして味美なれば。人爭(あらそふ)て掬飮す。是より九間にして窟兩岐に分(わか)る。一を胎藏界一を金剛界といふ。中世浮屠氏の命(めい)せし所なり。右方胎藏界に進むこと數間池あり。橋を架す。又行く七間半入るに隨つて窟漸く狭く。身を屈して進めて。路窮る所に小祠あり天女を祀る。是より踵を旋らして舊路を歩し。左方金剛界に入れは日蓮趺坐石。空海臥石。護摩の爐(いろり)などいへるあり。前頭(ぜんとう)に當りて小祠(せうじ)を安し。天照大神を鎭座し奉る。盖し窟爰に窮るにあらず。石を疊みて限りを爲すのみ。石間より之を窺ふに。暗昧にして其奥を測り難し。前に七十三間と記せしは。此の處までの距離なりと知るべし。

[やぶちゃん注:「抑此の龍窟は……」以下の距離単位をメートル法に換算して以下に示しておく。なお、「窟内凡そ二十間許り」の部分、底本の「二十間」の傍点は「二十」のみであるが誤りとして「間」も太字とした。

・窟内に開口部から海水が流入してくる範囲(満潮時であろう)

   20間≒36メートル

・窟内の見学可能範囲の奥行(最奥の天女を祀る小祠まで)

   73間≒133メートル。

・窟の実際の奥行(案内人の称)

  120間≒218メートル

・窟の幅(開口部附近の数値と思われる)

    3間≒5・5メートル

・窟内の最高点での天井の高さ

  4丈8尺≒14・5メートル

・開口部から本宮までの距離

   26間≒47メートル

・開口部から弘法大師加持水までの距離(加算)

   38間≒69メートル強

・開口部から胎蔵界・金剛界分岐点までの距離(累算)

   47間≒85・5メートル

・開口部から侵入可能な最奥の天女の小祠に入る手前まで(推定累算)

  54間半≒99メートル前後]

 

窟を出れは。前に平坦なる巨岩あり。其の幅七八間之を魚板石といふ其形魚板(ぎよはん)に似たるを以て名づく。竚立(ちよりつ)すれは風光の美なる兒が淵に優(まされ)り。人をして轉〻歸るを忘れしむ。但激浪常に來りて岩角(いはかど)を齧めは。或は全身飛沫を蒙ることあり。

[やぶちゃん注:「幅七八間」「幅」とあるが長さといった方が分かりがよい。約12・7~14・5メートルと幅があるのは潮位の違いによるものであろう。]

 

此邊に潜夫群居して。遊客の爲めに身を逆にし海水に沒入し鮑若しくは海老、榮螺等を捕へ來る。又錢貨を投すれは。兒童水底に入りて之を探り。或は身を水上に飜轉(ほんてん)して。遊客の笑觀に供す。亦一興といふへし。

龍窟の東方は。壁立千仞。其の下に數個の洞穴あり。或は白龍窟或は龍池窟或は飛泉窟と名く。其の他仁田四郎忠常拔穴と稱するものあれども。容易に到る能はず。又探るへきの必要もなければこゝに略せり。

窟前の遊覽を終りて。歸途に就き。中津神社の境内(けいない)を經て。金龜樓の前を過(すぐ)れは。阪ありて下降阪といふ。之を下れは。前記の石の鳥居即ち茶屋町の上に出(い)つ。夫より前路(ぜんろ)を進み行けは。島口鳥居の下に達す。こゝより龍窟の入口まて實に十一町なり。本島より鎌倉に至る道程(みちのり)は。二里にして、腰越より七里か濱を經るを順路とす。鵠沼へは僅かに十五六町にして。片瀨川を越へ。沙岸に沿ふて到るを得べし。東京其の他の地に達する交通は、藤澤に出て汽車に由らざるべからず。而して有志者中には已に片瀨即ち對岸への鉄道敷設の計畫あり。假免狀の下付ありしよしなれば。遊客は早晩一層の便利を得るあらむ。

[やぶちゃん注:「十一町」約1・2キロメートル。現在の地図上で以上のルート(旧金亀楼前の坂を選択)で微細に測定しても現在の第一岩屋入口までは正しくぴったり1・2キロメートルになる。

「十五六町」1・6から1・8キロメートル弱。現在の藤沢市鵠沼海岸一丁目東端までを現在の片瀬橋を渡って計測すると1・7キロメートルになる。但し、当時の片瀬川の架橋はもっと上流であった可能性が高いので、この数値も正確である。

「而して有志者中には已に片瀨即ち對岸への鉄道敷設の計畫あり。假免狀の下付ありしよしなれば。遊客は早晩一層の便利を得るあらむ」ウィキの「江ノ島電鉄」の「歴史」の記載は本雑誌発行(明治三一年八月二十一日)の二年後、明治三三(一九〇〇)年十一月二十五日の「江之島電氣鐵道株式会社」設立総会から始まっているが、それより二年半近く前、本雑誌が編集されていた以前に、既に鉄道敷設の陳情がなされて正式な「假免狀の下付」が公的に認可されいた、ということになる。その後、明治三三年十二月には高座郡藤沢大坂町に於いて「江之島電氣鐵道株式会社」が設立され(但し、現在とは別法人であった)、本誌発行から四年後の明治三五(一九〇二)年九月一日には「藤沢」―「片瀬」(現在の「江ノ島」)間を開業、以後順次延伸され、十二年後の明治四三(一九一〇)年十一月四日には遂に「小町」(大巧寺前にあった。後に「鎌倉」となったが廃止された旧終点)までが開業している。]

夢と子供 萩原朔太郎

       ●夢と子供

 白晝(まひる)における、さまざまなる欲望の抑壓が、夜陰の夢に現はれてくる。夢の現實の中で、人々の充たされない欲情が、蝙蝠のやうに飛翔してゐるのである。
 この悲しき景色が、同じやうに現實の世界に實在している。といふことを、だれもかつて氣付かなかつたらうか? 我々の時代の優生學は、遺傳に就いて皮相の見解しか持つてゐない。親の體質が遺傳するものは、生理上の特色にしか過ぎないのである。個人の本質的な氣質や、趣味、才能等に關して言へば、科學の題目からはづれてしまふ。
 ずつと多くの場合に於て、氣質上の遺傳は體質のものと反對する。親と子との相似は、主として生理上の特徴――容貌や、骨格や、血液や、病氣や――である。しかしながら心理上では、この關係が反對になつてくる、即ち、概して言へば、多數の例に就いて見る如く、天才の子は凡人であり、英傑の子は痴呆に近い。そしてこの逆がまた事實である。
 我々の天才の歷史が教へる如く、べトーベンの父は凡庸なる音樂教師であり、ナポレオンの兩親は言ふにも足らぬ無能の人物にすぎなかつた。そして一般に知る通り、文學者の父は概して俗物であり、精力家の父は怠惰者であり、敏腕家の父は概ねお人好しである。尚且つ、もつと實證すれば、禁欲家の子には色魔が生れ、嚴格家の子には不良少年が多いのである。
 かくこの不思議なる事實は、我々の「夢」に於けると、同じ事情によつて論證し得る。我々の生活(ライフ)が、もしも禁欲を強ひるならば、不斷に抑壓されたる意識が、夢に於ての悲しき飛翔をする如く、丁度そのやうに、親の内密の欲情が、彼の子供にまで遺傳され、子供の現實の氣質となつてくるのである。かくして教育者、その他の嚴格家の子供は、概ね放縱無賴の人物となり、精力家の子は怠惰者となり、その他のすべて反對の氣質や才能が子に現はれてくる。
 それ故に人々は、彼の子供に於てのみ、彼の内密なる、自らそれを意識し得ない、一の悲しき非望を見るであらう。ああいかに寂しいかな! 子供は我々の Life に於ける、夜陰の惡しき蝙蝠である。それのおびただしき飛翔が、夢の中でさへも、我々の安眠をさまたげる。

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「意志と忍從もしくは自由と宿命」より。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 8

 

          8

 

 Aはひどく自惚れてゐた。彼は、自分が德性に於て非常な進步を遂げたと信じてゐた。といふのは、(明らかに、彼がより挑戰的な人間になつたためであるが)彼が、今迄知らなかつた種々な方面から、次第に多くの誘惑が攻めてくるのを見出すやうになつたからだ。だが、本當の說明は、より强力な惡魔が彼を捕へ、さうして、より小さい惡魔共の宿主が、より偉大な惡魔に仕へるために走つて行つたといふことである。

 

[やぶちゃん注:原文。前章で述べた通り、引用元では前章からナンバーのずれが発生し、しかもここも連番で示され、中島の訳とは番号がずれる。

 

9. 10
   A. ist sehr aufgeblasen, er glaubt im Guten weit vorgeschritten zu sein, da er, offenbar als ein immer verlockenderer Gegenstand, immer mehr Versuchungen aus ihm bisher ganz unbekannten Richtungen sich ausgesetzt fühlt. Die richtige Erklärung ist aber die, daß ein großer Teufel in ihm Platz genommen hat und die Unzahl der kleineren herbeikommt, um dem Großen zu dienen.

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。前章同様に以下のように、「9」と「10」が独立して訳されてあり、原文と同じく、以降は中島の訳とは番号がずれる。

 

 九 Aの自惚れようはひどい。彼は、自分が善においておおいに進歩したと信じている。その証拠に、あきらかに自分がひとをひきつけてやまぬ存在となったからこそ、これまでまったく無縁であった方面の誘惑に、しだいに多くさらされるようになったではないか、と言うのである。
 一〇 しかしこの場合の正しい説明は、彼のなかに大悪魔がどっかと居坐ったからこそ、無数の小悪魔たちが大王に仕えるためにやって来はじめた、ということだろう。

 

 一般的な解釈に従えば、「A」とは旧約聖書に登場する、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じるところの『聖典の民』の始祖とされ、ノアの洪水後に神による人類救済の一人として祝福された最初の預言者にしての『信仰の父』である、子孫にカナンの地を与えるという神との契約を受けた、かのアブラハム(Abraham)を指すとされている。参照したウィキの「アブラハム」によれば、ユダヤ人はイサクの子ヤコブを共通の祖先としてイスラエル一二部族が派生したとし、アブラハムを「父」として崇め、また「アブラハムの末(すえ)」を称するとある。
 私はアブラハムとは、終生確執が絶えなかったカフカの父ヘルマンを指しているように思われる。
 カフカとは、父のために自らを犠牲とするイサクであったのではなかったか? 「判決」のように……]

薔薇の誘惑 大手拓次

 薔薇の誘惑

ただひとつのにほひとなつて
わたり鳥(どり)のやうにうまれてくる影(かげ)のばらの花(はな)、
絲(いと)をつないで墓上(ぼじやう)の霧(きり)をひきよせる影のばらの花、
むねせまく ふしぎなふるい甕(かめ)のすがたをのこしてゆくばらのはな、
ものをいはないばらのはな、
ああ
まぼろしに人閒(にんげん)のたましひをたべて生(い)きてゆくばらのはな、
おまへのねばる手(て)は雜草(ざつさう)の笛(ふえ)にかくれて
あたらしいみちにくづれてゆきます。
ばらよ ばらよ
あやしい白薔薇(しろばら)のかぎりないこひしさよ。

鬼城句集 夏之部 井戸替

井戸替   井戸替や櫓かけたる岡の寺
[やぶちゃん注:「井戸替」「いどがへ(いどがえ)」は「井戸浚(さらえ)」「晒し井」などとも称し、井戸水を清めるために井戸の中の水やその他の汚物塵芥を汲み出して掃除をすることであるが、古くは年中行事風に行なうことも多く、七月七日または六月中に行なわれていたことから夏の季語となった。因みにその折りのこの時期の江戸期風物としては、その井戸替えをする井戸の蓋の上に素麺(そうめん)を置いて、井戸の神・水の神に供える風習があり、これを「井戸替えの素麺」と称した。この句もその素麺の白い一点を画面の中に加えて見るのも一興と思われる。]

2013/07/16

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳)  第七章 江ノ島に於る採集 1 片瀬川での採集

フォントの関係上、明朝体で示す。向後、この必要が有る場合は、本注を略にて示す。悪しからず。



 第七章 江ノ島に於る採集



M169

図―169

 昨日は実験所大成功だった。漁夫が、バケツに一杯、生きたイモガイその他の大きな貝や、色あざやかなヒトデや、私が今迄生きているのは見たことがない珍しい軟体動物を持って来た。すっかりで漁夫は二十セントを要求した。我々は何か淡水貝を見つけることが出来るかも知れぬと思って、我々が渡る地頸に近く海に流れ込む川を溯(さかのぼ)りながら採集し、若干の生きたシジミを発見した。また河口に近く、美事な Psammobia 数個と、更に上流で元気のいい、喧嘩早い蟹を何匹か捕えた。女や子供が数名、岸近くの水中を歩きながら、シジミをひろっていたが、これは食用品なのである。私はシジミの入った小さな籠を二つ、一つ二セントずつで買った。これ丈集めるのに、我々なら、半日はかかったであろう。水中のすべての生物は、下層民の食物になるらしい。貝類の全部、海老や蟹の全部、鮫、エイ、それから事実あらゆる種類の魚、海藻、海胆(うに)、海の虫等がそれである。私はハデイラ科のある物を煮たのを食ったが、決して不味くはなかった。あちらこちらに集った、舟や人々を配景として、川は絵画的であった。巡礼が川を下りて来る。老婆がシジミをひろっている。男が網を引いて餌をとっている。我々が戻ろうとしていた時、一般の舟が、江ノ島へ行く巡礼の一隊をのせてやって来た。船頭は二セント出せば、我々四人を渡してやるという。丁度干潮で、川の水がすくなかった為に、我々は何度も飛び下りては、他の人々を助けて舟を押した(図169)ので、我々は文字通り、渡船賃をかせいだようなことになった。

[やぶちゃん注:これは磯野先生の前掲書によれば、八月八日のことである。
「イモガイ」原文“
cones”。腹足綱新腹足目イモガイ科イモガイ亜科 Coninae のイモガイ類。

「我々が渡る地頸に近く海に流れ込む川」「地頸」(原文“the neck of land”)とは両側から海が迫って大陸の一部が極端に狭まった地形、一般には地峡、即ちパナマやスエズのような場所を言うが、ここは砂嘴(通常なら“spit”又は“sand spit”)のことを指しているから、この川は境川(河口付近では片瀬川と呼称)である。

Psammobia」二枚貝綱マルスダレガイ目シオサザナミ科シオサザナミ亜科 Psammobia 属に属するシオサザナミ Psammobia (Gari) truncata やアサヒガイ Psammobia (Gari) weinkauffi などの仲間かと思われる。グーグルの画像検索「Psammobiaで見て戴ければモースが「美事な」と称しているのが(私は納得出来る)お分かり頂けるであろう。

「上流で元気のいい、喧嘩早い蟹」勿論、この叙述だけでは同定は出来ないが、記載の印象としては相応に大きいように思われ、するとやや河口から上流で採取されたという点からは十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニ Eriocheir japonica ではないかと私には思われる。彼等は秋に向かって生殖のために河川を下り始めるからである。

「ハデイラ科のある物」原文は“Trochus”。これはニシキウズガイ科 Trochidae の仲間を指す学名と考えられ、恐らくは腹足綱古腹足亜綱ニシキウズガイ科ニシキウズガイ上科クボガイ科コシダカガンガラ属バテイラ(馬蹄螺)Omphalius pfeifferi pfeifferi のことと私は同定する。中国語ではニシキウズガイ科 Trochidae は「馬蹄螺科」と称する。]

「夜明け前」冒頭勝手校正夢

僕は誰もいない昼下がりのビルの狭い一室の机の上で、島崎藤村の「夜明け前」の冒頭、

 木曾路はすべて山の中である。

の、七ミリ幅の短冊状に切ったものを、写植用の原紙の上に置いて凝っと眺めている。

暫くして、その「山の中」の部分を、カッターで切断し、そこをそのままそこを空きにしておいて、上下に、

 木曾路はすべて     である。

と、「夜明け前」序の章」「一」と標題した原紙に貼り附ける。

そうして……そうしてまた、その空欄を、腕を組んで、凝っと見つめている……

僕は二十の頃、大学の冬休みに、水道橋の印刷会社でしばらくアルバイトをした。最初の仕事は税務法令集増補版の写植原稿の校正であった。この夢のように、追加改正法令を細い短冊状に細かくカットしたものを、糊で貼り付けて挿入、後に繰り送る文を脱文しないように、やはり短冊状に切り抜いて貼り付けてゆくという、如何にも退屈に見える仕事であった。しかし誰にも邪魔されずに個室に一人籠ってせねばならない仕事であり(短冊吹き飛んだりすればお釈迦だから)くなると、実はすこぶる気に入っていた(因みにこの会社では最後には金庫の中の怪しげな帳簿の整理までやらされた)。
この夢は明らかにその時のフラッシュ・バックである。
しかも僕は勝手に藤村のかの、名文として知られた、それを切り張りした上に、何と、
「山の中」
を勝手に変えようとしているのである。

……ちなみに僕は藤村が――嫌い――なのである……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 10 / 了


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図―164

 東洋風の習慣の一つが、路傍なり、又は内々なりで話をして、人々をもてなし廻る公共的の談話家に見られる。日本の話し家は旅をしては、天幕の下にすみやかに聴衆を集める。日本語はまるで判らぬながら、私は話し家と、話しに聞きほれてよろこんでいる聴衆とを見て、楽しんだ。私は旅館に来た話し家の話を三十分間も聞いた(図164)。彼の顔面筋肉は不思議な働きをし、また違う人物を表示するために、突然声の調子を変化させる所は興味が深かった。彼の聴衆である所の学生達は、ある種の人物がゆっくりした、おせっかいな声で表現された時、戸を立てて笑った。すると話し家も同じように嬉しがった。彼は低い机を前にして坐り(これは将棋盤を特に借りて来たのである)そして舞台道具として、三つの品物を持っていた。その一つは扇子で、時に右手で、時に左手で持つ。他の一つは閉じた扇子のような品で、これは薄い木片に紙をまきつけたもの。彼は話に調子をつける為に時々これで、強弱の差をつけて、机をひっぱたく。第三の品物は小さな木片で、彼はこれを屢々取り上げては、カチンカチンと机を叩く。
[やぶちゃん注:これは叙述と図から見て講談師であろう。]

 実験所の世話をやく男は大いに成績がいい。彼は曳網で上げた砂から小さな貝を取り出し、大きなのを洗い、自己の仕事に非常な興味を持っているらしく見える。彼は、一週間一ドル二十五セントという莫大な労銀で、四六時中我々のために、ありとあらゆる仕事をする。

[やぶちゃん注「莫大な労銀」原文は“a princely sum”。この英語は表面上は高額の謂いであるが、実はおどけて小額やはした金の謂いでも用いる。しかし、先に示した通り、明治9(1876)年の為替相場で1米ドルは0.98円であり、当時レートはほぼ1ドル=1円の等価であったこと、明治期の1円が2万円(かそれ以上)ほどの価値を持っていたという事実を考えれば、これはまさに文字通り、額面通りの「莫大な労銀」ということになろう。]

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図―165

 今日(八月十四日)子供達はみな派手な色の着物を奇麗に着ている。何かの祭礼を祝うものと思われる。実験所に行って見ると、小使が自分の子供の頭を剃っている最中であった。一番下の子はすでにその苦難をすごして、姉さんの背中で眠ていた。彼等を写生しようとしている時に、赤坊が目を覚まして泣き始めた。姉さんはそこで腰かけから下り、背中の赤坊を、一種のゴトゴト動かすような運動でゆすぶりながら、歩き廻ったあげく、また腰かけに腰を下した(図165)。今日の祭礼は、彼等の先祖を祭るものだとのことである。午前中、子供は少量の米を、自分の家から持って来るなり、他人に貰うなりして、以前は海岸に置いた大きな釜でそれを煮たものだが、今は家の中で煮る。子供はめいめい塗椀を持って、自分の分け前を貰うために大勢集って来る。図166は子供を背負った婦人を示しているが、子供は手に漆塗りの飯椀を持って、自分の所に御飯の来る番を待っている。御飯には、お祭なので、赤いような色がつけられるが、これは我国の曲馬で売るレモン水が、桃色であるような訳合いなのだろうと思う。この色は米と一緒に煮る豆の一種から出る。私は子供達にまじって写生しようとしたが、彼等はあまりに私に不安を持ち過ぎ、殊に女の子達は私が一番みっともなくないチビ公(彼等は概してあまり奇麗でない)をつかまえようとしたものだから、大いに恐れを抱いて了った。私は日本人が我々の子供の一人を捕えようとしたら、彼等が恐ろしく思うと同じ理由を、この子供達が持っているということを、容易に理解出来なかった。男の子達は私のいることをよろこんだらしく、私は大きな声で笑いながら盛に彼等と騒いだ。

M166

図―166

[やぶちゃん注:江の島の漁民たちは、先にモースが描写した、江の島横浜間での旧暦の盂蘭盆の情景とは異なり、新暦でお盆の行事をしていることが分かる。]

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図――167

 今日実験所の小使が子供の衣類をつくろっていた。彼の細君は私の宿屋の女中をしていて、こんな仕事をする暇がないのである(図167)。

 日本人は実に器用に結びをつくる。彼等は藁で安い繩をつくり、紙で恐ろしく丈夫な紐をつくる。建築をする時の足場はすべて釘を打たずに繩でしばる。釘は材木を弱くするからである。接触点には繩を幾重にもまきかけて、非常に強い定着をつくり上げる。

M168

図――168

 横浜からの路上の一軒の宿屋(図―168)には、外国の麦酒(ビール)があるという小さな英語の看板が出ている。前面の、木造で物置に似た屋根にめぐらした流蘇(ふさ)は、幅三フィートの青い布で、一フィートごとに半分程裂け、風が通るようになっている。

[やぶちゃん注:「流蘇(ふさ)」「ふさ」は当て読みであろう。「りゅうそ」は糸や毛などで組んだ飾りの総(ふさ)のことである。

「三フィート」90センチメートル強。]

あかんぼ 北原白秋

昨日(きのふ)うまれたあかんぼを、
その眼を、指を、ちんぼこを、
眞夏(まなつ)眞晝(まひる)の醜さに
憎(にく)さも憎く睨む時。

何(なに)かうしろに來る音に
はつと恐れてわななきぬ。
『そのあかんぼを食べたし。』と
黑い女猫(めねこ)がそつと寄る。

(「思ひ出」より)

結婚と文學 萩原朔太郎

       結婚と文學

 結婚の利益は、女性の本質を知ることであり、結婚の損失は、女性への幻滅を知ることである。それ故に結婚しない小説家は、未だ女を書くことが出來ない。結婚した詩人は、もはや女を歌ふことができない。

[やぶちゃん注:「絶望の逃走」(昭和一〇(一九三五)年第一書房刊)の「第一章 女性・結婚・戀愛など」より。「出來ない」「できない」はママ。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 7

 

 

          7

 

 惡魔の用ゐる最も有效な誘惑術の一つは爭鬪への挑戰である。それは女との鬪ひに似てゐる。所詮は寢床の中に終るのだ。

 

[やぶちゃん注:原文。引用元では以下のように、ナンバーが連番で示され、以降、中島の訳とは番号がずれる。

 

  7.8

   Eines der wirksamsten Verführungsmittel des Bösen ist die Aufforderung zum Kampf. Er ist wie der Kampf mit Frauen, der im Bett endet.

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。以下のように、「7」と「8」が独立して訳されてあり、同じく以降は中島の訳とは番号がずれる。

 

 七 悪が持っている最も効果的な誘惑手段の一つは、闘争への挑発である。

 

 八 そうした闘争は、ベッドのなかの睦言で終る女たちとの諍いのようなものだ。

 

芥川龍之介言葉」より。

 

       女  人

 

 健全なる理性は命令してゐる。――「爾、女人を近づくる勿れ。」

 

 しかし健全なる本能は全然反對に命令してゐる。――「爾、女人を避くる勿れ。」

 

       又

 

 女人は我我男子には正に人生そのものである。卽ち諸惡の根源である。

 

 

……あるいは……これも……

 

 

 人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に步み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。

 

 

最後に示したものは「侏儒の言葉」のうちの、「人生――石黑定一君に――」の掉尾の抜粋である。

 

 にしても、カフカにもせよ龍之介にもせよ、このアフォリズムとしての命題が、そのベッドの中の睦言に終わる女たちとの男のたたかいが――実は常に女の一人勝ちである――という戦慄的事実の一点に於いて――永遠に宿命的に暗示的である――と私は思うのである。(藪野直史)]

ばらのあしおと 大手拓次

 ばらのあしおと

ばらよ おまへのあしおとをきかしておくれ、

さわがしい雨(あめ)のみづおとのするまよなかに、

このかきむしられるわたしの胸(むね)のなかへ

おまへのやさしいあしおとをきかしておくれ。

ちひさく しろく さびしいかほのばらのはなよ、

わたしのたよりない耳へ、

おまへのやはらかなあしおとをきかしておくれ。

とほく とほく ゆらめいてゐるばらのはなよ、

おまへのまぼろしのあしおとを

おとろへてゆくわたしの胸へきかしておくれ。

鬼城句集 夏之部 泳ぎ

泳ぎ    川風の幔幕を吹く泳ぎかな

      泳ぎ子や胡瓜かぶりて浪の上

2013/07/15

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 9

M158

図―158

 曳網で取った材料を選りわけることが出来たのは、実に助手達が手伝ってくれたからである。海底には海産物が非常に豊富である。で私が大事なサミセンガイを研究している間に、彼等は貝、海胆(うに)、ヒトデ等をそれぞれの区分に分ける。図158は彼等が働いている所を示す。右にいるのは外山教授で、彼は自分で費用を払うが採集の手助をする。中央は松村氏で、彼の費用は大学が払う。左は私が雇った男で、夜は実験所で寝泊りし、昼は新鮮な海水を運んで来たり、雑役をしたりする。この男は、日本人が誰でも一般的に理知的であることの、いい実例になる。彼は甲殻類、軟体動物、棘皮(きょくひ)動物等を説明された後で、材料を適当な瓶に選りわける。其後陸棲(りくせい)の貝を採集に郊外に出かけた時、人力車夫達が私のために採集の手伝いをすることを申し出た。そこで彼等に私がさがしている小さな陸棲貝を示すと、彼等は私と同じ位沢山採集した。私は我国の馬車屋が、このような場合、手伝いをしようと自発的に申し出る場面を想像しようとして見た。私はこの男を貝の多い砂地へ連れて行って、私の欲する顕微鏡的な貝殻を指示して見た。すると彼はこまかい箸を用いて、実に巧にその小さい貝殻をひろい上げたので、私は殆どしょつ中彼に仕事をさせた。

[やぶちゃん注:「顕微鏡的な貝殻」原文は“the almost microscopic shells”所謂、微小貝類と呼ばれるものである。詳しくは「東京大学総合研究博物館ニュース」の佐々木猛智氏の「微小貝の分類学」などをお読み戴きたいが、私はこうしたまさに目立たぬ生物種が(例えば目立つムツゴロウを保護するという名目で葦原を人工干潟に改造したりすることで)、何種類も容易に絶滅させられている事実(エコロジストを標榜しながら何と生物を絶滅させているのだ)を自称エコロジスト達はもっと知らなければならないといつも思っている。]

M159

図―159

 今著(つ)いた新聞紙に台風の惨害が書いてあるが、沿岸で大部船舶が遭難し、人死にも多い。私は江ノ島の大通り――それは事実唯一の通りである――を写生しようとする誘惑に堪え兼ねた(図159)。遠近法がひどく間違っている上に、町の幅を広く書き過ぎたが、これ等の実行上(コミッション)の過誤と共に、この絵には多くの遺脱(オミッション)の過誤もある。私は旗をこの倍も書く可きであり、男、女、子供、猫、犬、鶏も同様である。鶏といえば、私はどの一羽にまでも近づいて行って、捕えることが出来る。捕えられると鶏はギャッギャッと鳴いて反抗の気勢をあげるが、逃げようとはしない。

 嵐があってから、非常に潮の低い時以外には、本土へ渡ることが出来なくなって了ったので、何人かの船頭は団体をなしてやって来る巡礼達(一晩泊るだけのも多い)を渡して、大もうけをしている。巡礼の一隊に従って往来を登って行くと、非常に面白い。この往来にそって建っている家の殆ど全部が遊興の場所らしく、宿やの人々がすべて宿さきに並んで客を引くので、恰もニューヨークで、辻馬車がズラリと並んだ前を歩くような騒ぎである。客引が間断なく立てる音の奇妙さは形容出来ぬ。第一の家で立てる騒音が第二の家で聞え、第二の家のは第三の家で聞え……とにかくいろいろな声で完全なヒンヒン啼きである。

[やぶちゃん注:鳥居手前まで後退した位置からの明治期の写真が、長崎大学付属図書館の「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の「江ノ島神社の鳥居」(「同一タイトルの写真」のボタンを押すと他の同題の写真をあと四枚見られる)や、「江の島マニアック」の「古絵葉書の江の島」の「横浜写真」(専ら外国人向けの土産物として作られた銀鉛白黒写真に筆彩色したもの。ここにあるのはそれを絵葉書にしたものらしい)で見られる(どちらも画面を拡大してご覧になることをお薦めする)。

「……とにかくいろいろな声で完全なヒンヒン啼きである。」原文は“and so on, — a perfect whine of a score of voices.”でリーダではなく、ダッシュで、さらに「ヒンヒン啼き」というのはやや訳として不自然に思われる。“whine”は、哀れっぽい鼻声・啜り泣きの意、“score”はスコア、合奏曲や合唱曲などに於ける総ての声部を記した総譜のことであるから、「声部の、総譜に基づく完璧なる哀れな合唱」といった意味であろう。]

 ここ数日間、私の料理人は何度も叱られた結果、大いに気張って了い、今や私はとても資沢な暮しをしている。今朝私はトーストに鶏卵を落したものと、イギリスのしたびらめに似た魚を焼いたものとを食った。正餐には日本で最も美味な魚である鯛、新しい薩摩芋、やわらかくて美味な塩づけの薑(しょうが)の根、及び一種の小さな瓜と梅干とが出た。

[やぶちゃん注:太字「したびらめ」は底本では傍点「ヽ」。原文は“sole”。条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ亜目ウシノシタ上科のササウシノシタ科 Soleidae 及びウシノシタ科 Cynoglossidae に属する魚類の総称であるウシノシタ類の別称。ウィキの「ウシノシタ」によれば、『ヒラメとはまったく異なる種の魚であるが、体が平たく両目がヒラメのように片側にだけついているので、主に関東を中心にシタビラメと呼ばれ』『英名のSoleや学名のSoleaは「靴底」を意味する語であり、日本の地方名にも同義のものが多い。例えば、九州の有明海・八代海沿岸地域では「くちぞこ」』「くつぞこ」「くっぞこ」『と呼び、岡山県や香川県など瀬戸内地方では主にアカシタビラメを中心に「ゲタ」と呼ばれる』とある(やや疑義があるので手を加えた)。]

 先日の朝、私は窓の下にいる犬に石をぶつけた。犬は自分の横を過ぎて行く石を見た丈で、恐怖の念は更に示さなかった。そこでもう一つ石を投げると、今度は脚の間を抜けたが、それでも犬は只不思議そうに石を見る丈で、平気な撰をしていた。その後往来で別の犬に出喰わしたので、態々(わざわざ)しゃがんで石を拾い、犬めがけて投げたが、逃げもせず、私に向って牙をむき出しもせず、単に横を飛んで行く石を見詰めるだけであった。私は子供の時から、犬というものは、人間が石を拾う動作をしただけでも後じさりをするか、逃げ出しかするということを見て来た。今ここに書いたような経験によると、日本人は猫や犬が顔を出しさえすれば石をぶつけたりしないのである。よろこぶ可きことには、我国の人々も、私が子供だった時に比較すると、この点非常に進歩した。だが、我都市の貧しい区域では無頼漢どもが、いまだに、五十年前の男の子供がしたことと全く同じようなことをする。

 日本人が丁寧であることを物語る最も力強い事実は、最高階級から最低階級にいたる迄、すべての人人がいずれも行儀がいいということである。世話をされる人々は、親切にされてもそれに狎(な)れぬらしく、皆その位置をよく承知していて、尊敬を以てそれを守っている。孔子は「総ての人々の中で最も取扱いの困難なのは女の子と召使いとである。若し汝が彼等に親しくすれば、彼等は謙譲の念を失い、若し汝が彼等に対して控めにすれば彼等は不満である」といった。私の経験は、何等かの価値を持つべく余りに短いが、それでも今迄私の目に触れたのが、礼譲と行儀のよさばかりである事実を考えざるを得ない。私はここ数週間、たった一人で小さな漁村に住み、漁夫の貧しい方の階級や小商人達と交っているのだが、彼等すべての動作はお互の間でも、私に向っても、一般的に丁寧である。往来で知人に会ったり、家の中で挨拶したりする時、彼等は何度も何度もお辞儀をする。往来などでは殆ど並ぶように立ち、お辞儀の方向からいうと相手を二、三フィートも外れていることもある。人柄のいい老人の友人同志が面会する所は誠に観物である。お辞儀に何分かを費し、さて話を始めた後でも、お世辞をいったり何かすると又お辞儀を始める。私はこのような人達のまわりをうろついたり、振返って見たりしたが、その下品な好奇心には全く自ら恥じざるを得ない。これは活動的な米国人には、時間を恐ろしく浪費するものとしか思われない。外山教授の話によると、大学の学生達はこのような礼儀で費す時間を倹約しつつあり、彼等の両親は学生生活は行儀を悪くするものと思っているそうである。

[やぶちゃん注:最後の部分は興味深い。漱石の「こゝろ」の、学生の「私」と両親のことを思い出した。

『孔子は「総ての人々の中で最も取扱いの困難なのは女の子と召使いとである。若し汝が彼等に親しくすれば、彼等は謙譲の念を失い、若し汝が彼等に対して控めにすれば彼等は不満である」といった。』ここには以下に訳者による「論語」の当該部分が、返り点を附して引用されている。これは「論語」「陽貨第十七」の二十五である。

 子曰、唯女子與小人、爲難養也、近之則不孫、遠之則怨。

 子、曰はく、「唯だ女子と小人とは養ひ難しと爲す。之を近づくれば、則ち、不孫、之を遠ざくれば、則ち、怨む。」と。

「二、三フィート」約61~91センチメートル。]

 先夜東京から帰って来た時、江ノ島へ着いたのはもう真夜中に近かった。それは非常に暗い夜で、私は又しても下層民の住家が、如何に陰鬱であるかを目撃した。雨戸を閉めると、夜の家は土牢みたいであろう。開いた炉に火がパチパチ燃えるあの陽気さを、日本人は知らない。僅かな炭火で保温と茶を入れる目的とを達し、台所で料理用に焚く薪は上方の桷(たるき)を煙で黒くする。人力車で村を通過すると、夜の九時、十時頃まで小さな子供が家の前に置いた床几に坐っているのを見る。紙を張ったすべる枠は、昼間は家の外側になり、気持のいい光線を部屋へ入れ、閉ざせば風をふせぐ。部畳に火をつけた蠟燭が沢山ある場合、住んでいる人達がかかる紙の衝立に投げる影には、滑稽なのが多い。北斎は彼の「漫画」に、このような影絵のある物の、莫迦げた有様を描いている。

[やぶちゃん注:磯野先生の前掲書によれば、八月三日にモースは東京へ立ち、翌日、四日の夜半に戻ったとあるから、このシークエンスは四日のそれであろう。

「紙を張ったすべる枠」“The sliding frames covered with paper”は言わずもがなながら、障子のこと。

「北斎は彼の「漫画」に、このような影絵のある物の、莫迦げた有様を描いている」「漫画」は原文では“Mangwa”と綴ってある。これが葛飾北斎のどの絵を指していっているものは今一つ判然としないが、モースの口ぶりからは、春画の類いを言っているようにも思われる。識者の御教授を乞うものである。]

M160

図―160

 私はポケットに百ドル入れ、車夫只一人を伴侶として、夜中暗い竹薮や貧乏な寒村を通り、時々旅人や旅人の群に出会ったが、私に言葉をかける者は一人もなかった。私はピストルはおろか、杖さえも持っていなかったが、この国の人々の優しい性質を深く信じているので、いささかなりとも恐怖の念を抱かなかった。ある殊の外暗い場所で、我々は橋を渡った。それは高く弓形に反っていて、上には芝土があり、手摺はなく、幅は人力車が辛じて通れる位であった(図160)。橋の真中で我々は、酒に酔っていくらか上機嫌な三人の男に出喰わした。その瞬間私は若し面倒なことが起れば、きっとここで起るなと思った。何故かといえば我々を通す為には、彼等は橋の端に立たねばならぬからである。私の大きな日除帽子と葉巻とによって、彼等は私が「外夷」であることを知っていた。で、一押し押せば人力車も何も二十フィート下の河に落ちて了う。だが彼等は何ともいわなかった。最後に私は疲れ切って眠て了った。幸い道路が平坦だったからよかったものの、そうでなかったら私は溝へ投り込まれていたかも知れぬ。目をさましていれば、人はデコボコな路で人力車が前後に揺れる時、無意識に自分の身体の釣合をとる。目をさますと、我々は海岸に来ていた。波が打ち寄せている。そしてあたりは、世界中どこへ行っても、只田舎だけが持つ、あの闇であった。人のいることを示す唯一の表示は、海の向うの家の集団から洩れる僅かな燈火と、海岸の所々にある明るい火――それをかこんで裸体の漁夫が網や舟を修繕している――とだけであった。私の人力車夫は、暗闇のどこからか、大きな籠を二つ見つけて来て、この中に持って来た荷物を入れ、それを長い天秤棒の両端にしばりつけて、煮えくりかえるような磯波の中を、ジャプジャブ渡り始めた。闇の中から一人の男が、これむどこからともなく現われ、私を負って渡ろうといった。そこで私は普通やるように、背中に乗ったが、これではいけないのであった。彼は私を落し、後に廻って彼の頭を私の両脚の問に押し込み、まるで私が小さな子供ででもあるかのように、軽々と持ち上げて肩にのせた。私は彼の濡(しめ)った頭に武者ぶりつくことによってのみ、位置を保つことが出来たが、波が押し寄せて彼がぐらぐらする度ごとに、まだ半分眠っている私は、これはいつ海の中に投げ出されるか判らぬぞと思うのであった。

[やぶちゃん注:図―160のエピソードは私にはツルゲーネフの「猟人日記」の一篇「音がする!」を思い出させた。……あっ……そうか、まだ私はこの好きな一篇をテクスト化していなかったな……では近いうちに必ず。]

M161

図―161

 道路は何度通っても、何か新しいものか、面白いものを見せてくれる。私はある一軒の店で、大きな木槽の辺を越して、図161で示すかような硝子のサイフォンがかけてあるのを見た。この端から出る小さな水沫は、盆に入った小型な西瓜(すいか)を涼しげに濡らしつつあった。小さな小屋がけの店では、西瓜を二つに切り、切った面は薄い日本紙を張りつけて保護する。市場の西瓜は柄に小さな赤いリボンがついている。一度私は一人の男が西瓜を沢山市場へ持って行くのを見たが、一つ残らずこの赤い小さなリボンがついていた。西瓜は丸くて小さく、我国の胡瓜に比べてそう大して大きくはない。そして日本の南瓜(かぼちゃ)に非常によく似ているので、間違えぬように例のリボンをつける。果肉の色は濃い赤(充血したような赤の一種)で、味は我国のに似ているが、パリパリしてはいない。英国人の多くは西瓜の種子も一緒に食って了う。梨は煮て食うと非常に美味だが、梨の味は更にしない。色は朽葉色の林檎に似ていて、形も林檎のように丸い。梅も煮ると非常に美味である。トマトは我国のそれと全く同じ味のする唯一の果実である。馬鈴薯(じゃがいも)は極めて小さく、薩摩芋は我国のによく似ているが、繊維が硬く味は水っぽい。横浜のホテルで、シンガポールから輸入した奇妙な果物がテーブルに出た。その名をマンゴスティーンと呼ぶ(図―162)。皮は黒ずんでいて非常に厚い皮(このスケッチの点線は皮の厚さを示している)の内側は濃紫色で、その内の果肉は、よくかきまわした鶏卵の白味に似た純白である。これは蜜柑(みかん)みたいに小区分に割れ、そして大きな種子を持っている。味はことのほかよく、私が今迄に味った物のどれとも違っているが、ほのかに林檎の風味を思わせる所があり、僅か酸味を帯びている。たしかに最も美味な果実で、フロリダあるいは南カリフォルニアで栽培出来ぬ筈はない。

M162


図―162

[やぶちゃん注:図―162の点線は流石に古き良き近代の博物学者のチェックである。

「西瓜は丸くて小さく、我国の胡瓜に比べてそう大して大きくはない」何だか変な感じがするが、原文も“The melons are round and small in size, not much larger than our cucumber,”で、アメリカの大きな俵型の西瓜よりも遙かに小さい(実際に今のものよも小型の西瓜であるらしい)ものであることを、やはりアメリカ産の太くて大きい(皮は固くて食べられないほど)キュウリと比較をしているらしい。]

M163

図―163

 過日東京へ行く途中、私と同じ車室に、何かの集りへ行く為に盛装した小さな子供が二人いた。彼等は五、六歳にもなっていなかったが、髪を最もこみ入った風に結び、眉毛を奇麗に剃り落し、顔や首は白粉(おしろい)でまっ白。両眼の外端には紅で小さな線を描き、頭は所々剃ってあった。一人の女の子が車室の戸の所に立って外を眺めている所を、急いで写生した(図163)。頭のてっぺんの毛を剃った場所と、小さな辨髪(べんぱつ)がその後にくっついている所とに、お目をとめられ度い。時間の関係上、私は彼女の衣装の簡単な輪郭を写生することしか出来なかったが、縮緬(ちりめん)で出来ていて、鮮かな色の大きな不規則な模様がついていた。腰のまわりの帯は模様のない派手な単色で、重くてかさばり、背後で大きく結ぶが、衣服にはボタンも紐穴もホックも釣眼も紐も留針もない――まことに合理的な考である――ので、只この帯で衣類をひきしめる。長い袂の外側の辺には黄色い絹の紐が、しつけ糸のように通っていて、袂の一隅で黄色い房をなして終っている。

[やぶちゃん注:ここでは上京に汽車を用いている。……しかし、この二人の汽車に乗っている少女は……本当に「何かの集りへ行く為に盛装した」金持ちの家の娘……なのだろうか?……お白粉で真っ白な上に紅までも刺している。……この髪型は妙に独特で、おかっぱに似ているが少し違う。……因みにウィキの「おかっぱ」を見ると、『おかっぱは禿になる前の幼女の髪型、禿はおかっぱを過ぎた少女の髪型として認識された。江戸時代頃になると「禿」は単に少女を指す言葉としても使われるようになり、遊女見習いの少女(実際は禿だけではなく、弁髪も多かった)の事も禿(かむろ)と呼ぶようになった』と書いてある。……少女は何故デッキに立ってぼんやりと車外の風景を見ているのであろう? それは遠ざかってゆく何かを愛おしそうに眺めているようにも見える。……いや、寧ろ、その後ろ姿は、何か淋しそうではないか?……これは私の杞憂であろうか?……識者の御教授を乞うものである。……]

  人力車に乗って田舎を通っている問に、徐々に気がついたのは、垣根や建物を穢なくする記号、ひっかき傷、その他が全然無いことである。この国には、楽書(らくがき)の痕をさえとどめた建物が、一つもない。而も労働者達は、我国のペン、あるいは鉛筆ともいう可きヤタテを持って歩いているから自分の名前や、気に入った文句や、格言を書こうと思えばいくらでも書けるのである。私はこのことを、我国の人々のこの点に関する行為と比較せざるを得なかった。我国の学校その他の建築物がよごれていることは、この傾向を立証している。

 道路で私は、葉のついたままの、長い竹が立っているのを見た。葉には色とりどりの紙片がついている。何かの祭礼の飾りか、あるいは何等かの広告であろう。

[やぶちゃん注:言わずもがな、七夕である。]

耳嚢 巻之七 修驗道奇怪の事

 修驗道奇怪の事

 いつの比にや、神田富山町(とみやまちよう)にて與七と言(いふ)者、富士參詣を企(くはだて)ければ、同店(だな)に威力院といえる有(あり)、立寄(たちより)しに、御身富士え登山なし給はゞ裾野の藥王院え立寄、賴置(たのみおき)候箱を持參致可給(いたしたまふべし)といふ。勿論荷に成るべき程の物ならねば賴(たんおむ)よし申(まうす)故、手紙にても遣し給へといゝければ、夫(それ)には及ばずと威力院より被賴故(たのまれしゆへ)取(とり)に來りしと言(いひ)給へば無違(ちがひなく)渡し候也と申に任せ、則(すなはち)富士登山參詣なして皈(かへ)りに藥王院へ立より、しかじかのよし申ければ、心得候由を答へ、一宿なし翌日出立の節、貮寸四方に足らざる箱を包みて與へける故請取(うけとり)、立歸り候迚(とて)川崎か神奈川に泊りければ、其夜臥りけるに彼(かの)箱聲を出し、今晩大き成(なる)金もふけあり、此奧座にて博奕有、御身も手合(てあはせ)に加(くはは)りわれらが申通りなし給へ、金もふけすべしと言(いふ)。此男も不敵なる者故、奧座敷へ至り見しに博奕ありければ、我もくわゝらんと手合に成りしに、何の目をはり給へと彼箱の内より申ければ其通りなす。果して勝となり、頻りに勝て金五十兩打勝(うちかち)ければ、彼箱申けるは、最早早くやめて出立あれといふ故、其通(とほり)にして出立なしける。重(かさね)ても此箱の内奇怪成る事也とて頻に恐ろしくなり、六郷の渡し場にて右の箱を川中へ投入(なげいれ)、足早に宿元へかえりしに、威力院へ何と申譯なすべきやと今更當惑なしけるが、あからさまに語りて侘(わび)せんにはしかじと、彼威力院へ至り、しかじかのよし藥王院より請取し箱は六郷川へ流したりと申ければ、威力院道中無滯(とどこほりなき)事を賀し、打勝し金は其身の德分(とくぶん)にし給へ、箱は最早我(わが)手へ戻り居るよし、取出し見せける。大きに驚き、いか成(なる)術成るや恐れけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。久々の怪異系都市伝説である。

・「神田富山町」千代田区の町名として現存。JR神田駅北口直近。

・「藥王院」富士信仰や修験道のメッカである、東京都八王子市高尾町にある高尾山薬王院有喜寺と関係した寺院かとも思われるが、所在不詳。識者の御教授を乞うものである。

・「及ばずと」底本では「ずと」の右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、この部分の威力院の台詞は(遣正字化して歴史的仮名遣に直した)、『夫(それ)に及ばず。威力院より賴被(たのまれ)取(とり)に來りしと云(いひ)給へば無相違(さうゐなく)渡し候』とある。

・「六郷の渡し場」現在の東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町との境の多摩川に架橋されている六郷橋のやや下流にあった渡し場。六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長五(一六〇〇)年に徳川家康が六郷大橋を架けさせ、その後数度の架け替えが行われたが、貞享五(一六八八)年の洪水で流失して以後は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられていた(以上は岩波版長谷川氏注とウィキの「六郷橋」に拠った)。

・「六郷川」多摩川の下流部、現在の六郷橋付近から河口までの呼称。

■やぶちゃん現代語訳

 修験道の奇怪なる事

 何時の頃のことであったか、神田富山町(とみやまちょう)の与七と申す者、富士参詣を思い立って、同じお店(たな)の威力院(いりきん)と申す山伏が御座った故、相談に立ち寄ったところ、

「――御身、富士へ登山なされるとならば、裾野の薬王院へ立ち寄り、拙者の頼みおいて御座る、ある箱を帰りに持参致いては下さるまいか。勿論、荷になるような物にては、これ、御座らぬ。どうか一つ、頼まれては呉れぬか?」

と申すによって、与七は、

「それでは一つ、頼み状でも頂戴致しましょうか。」

と答えたところ、

「――いや。それには及ばぬ。『威力院より頼まれたゆえ、取りに来た』とのみ、お伝え下さるれば、間違いなく先方、渡して呉るる手筈となって御座る。」

と請けがったゆえ、与七も気軽に承知した。

 さてもすぐに富士登山参詣をなして、その帰るさ、薬王院へと立ち寄って、しかじかの由、先方へ告げたところ、

「――心得て御座る。」

と応じて、頼みもせぬに一泊させて呉れ、翌日の出立(しゅったつ)の折り、二寸四方にも足らぬ小匣(こばこ)箱を包んで与七に渡したゆえ、これを受け取り、

「確かに。これよりたち帰って、威力院殿へお渡し申しまする。」

と、薬王院を辞した。

 与七、その日は、川崎か神奈川宿辺りにて日も暮れたによって泊って御座ったと申す。

 さて、その夜(よ)のこと、疲れも出でて、早々に横になったところが、何やらん、人の声が聴こえる。

 どこかと探れば、枕元に置きおいた、荷の中からとしか思えぬ。

 開いて見ると、何と――かの預かった小匣が――人語発して――御座った。

 その声の曰く、

「――今晩ハ大キナル金モウケノコトアリ――コノ宿ノ奧座敷ニテ博奕ガコレ有ル――御身モ行キテ勝負ニ加ワリ――ワレラガ申ス通リニナサルルガヨイ――金モフケデキマスルゾ――」

と呟いておる。

 この与七なる男も、これでなかなかに不敵なる者で御座ったゆえ、この妖しき誘いの申すがまま、宿の奧座敷をちょいと覗いてみたところが、ほんに博奕場のあって、盛んに賽を振って御座った。されば、

「――一つ、我らも手合せさせて貰おうか。」

と賭場に坐った。

 賽が振らるる。

――と

手の内に握りしめて、耳に押し当てて御座ったかの小匣が、

「――丁(ちょう)ノ目ヲハリナサレ――」

と微かに呟く。

 その通りになしたところ、

「――四六の丁!」

 果して勝ち――

「――次ハ半――」……

「――五二(ぐに)の半!」

 勝ち――

「――次モ半ジャ――」……

「――四三(しそう)の半!」

 またまた勝ち……

……勝ちに勝って――実に金五十両もの一人勝ちを致いて御座った。

――と

――かの箱がまた囁いた。

「――最早――早クヤメテ――直チニ宿ヲ出立ナサルルガヨイ――」

 されば言われた通りに、未だ夜も明けきっては御座らなんだが、早立ち致いたと申す。

 しかし、与七、明けの街道を歩みながら、

「……どうにもこうにも……五十両からの大金……これが一夜にして転がり込んだ……この小匣の……この内の声は……これ……如何にも奇怪なものじゃて……」

と思い始め、思い始めると、これがまた、しきりに恐ろしゅうなって参った。

 丁度その時、六郷の渡し場へ差し掛かって御座ったが、渡し舟に揺られながら与七は、

「……五十両……この妖しき術なれば……ただ五十両が我らのものになっただけでは済まぬのではないか?……その恐ろしき返報が……これ、ないとは限らぬ!……」

とぐるぐる考えるにつけ――たかが小匣、されど小匣――舟の揺れとは違(ちご)うた、身の内からの震えが与七を激しく襲った。

 されば与七、荷の内の小匣を取り出だすと、それを舟端から川中へと投げ入れてしもうた。

……そのまま、何かに後ろから襲わるるような気がしきりにしたままに、足早に富山町へと立ち帰った。

 しかし、

「……さても……威力院殿へは……何と申し訳致いたらよいものか……」

と今更ながら当惑致すことしきり。

「……いや……しかし……正直に……かの奇体な話を語って……お詫び致すに若くはない。……五十両の泡銭(あぶくぜに)も……これ……小匣を捨てた弁償としてお渡し申すがよかろう……」

と、威力院を訪ね、

「……という訳にて……薬王院より受け取って参った小匣は……これ……恐ろしさのあまり……六郷川へと……流してしもうたので御座いまする……」

と平謝りに謝って御座った。

 ところが、威力院は、

「――いや――富士を拝まれ、その道中も恙のう、よう、お帰り遊ばされた!」

と言祝いだ上、

「――その勝った金は――そこもとの利得となさるるがよかろうぞ!……小匣――ならば――最早――我が手へ戻って御座ればの――」

と、何と、懐から――かの六郷川に確かに投げ捨てたはずの小匣――を、これ、取り出だいて見せた。

 与七は大きに驚き、

「……コ、コ、コレハ如何ナル……ジ、術(ジツ)デ、ゴ、御座ルカアアァ……」

と恐れ入った、ということで御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 8

 

使用フォントの関係上、明朝で示す。



 人はみな煙管(きせる)に火をつけるのに火打石と火打鎌とを使い、台所には必ず火打箱がある。私がこの国で見たマッチはスウェーデン製の安全マッチである。


M153_2

 

図―153

 

 我々は何艘もの舟とすれちがった。釣をしている者も、網を手操り込んでいる者もあったが、皆裸体で、黒く日に焼けた身体と黒い頭髪とからして野蛮人みたいであった。舟の艫(とも)に坐って、船頭四人がいい機嫌で笑いながら調子をそろえて前後に動き、妙な歌を唄って力強く艪を押すのを見ることは実に新奇であった。図153は舟と、仕事中の漁夫が如何に見えたかの大体を示している。

 

 

M154_2

図―154

 

 私のコックが、私のシャツに、焼け穴をつくつて了った。彼は悪気のないニタニタ笑いをしながら、炭火の入った土器とその上に透しのある竹籠の底を上にして被せた物とを見せて、事件を説明した。この籠の上に乾かそうと思う衣類を、図154のようにかけるので、自然炭が跳ねて衣類に焼けこげが出来る。私は一番薄い下着しか着ていないので、これ等はしょっ中洗っては乾かし、洗っては乾かしている。

 

[やぶちゃん注:伏せ籠(ご)である。]

M155



図―155

 


M156

 

図―156

 


M157

 

図―157

 

 ここに出した写生図は、宿屋に於ける私の部屋の三方の隅を示している。図155は私が食事をする一隅である。食卓にお目をとめられ度い――これが大工の外国人のテーブルに対する概念である。椅子は旅行家用の畳み椅子を真似たのであるが、畳めない。テーブルは普通のよりも一フィート高く、椅子は低すぎるので食事をする時、私の頭が非常に好都合にも、皿と同じ高さになる。だが食事をしながら、私は美しい入江と、広い湾と、遠方の素晴しい富士山とを眺める。景色は毎日変るが、今やこの写生をしている時の光景は、何といってよいか判らぬ位である。日没の一時間前で、低い山脈はみな冷かな薄い藍色、山脈の間にたなびく細い雲の流れは、あらゆる細部を驚く程明瞭に浮び出させる太陽の光線によって、色あざやかに照らされ、そのすべてにぬきん出て山の王者が聳えている。部屋の話に立ちかえると、テーブルが非常に高いので、肘をそれにのせぬと楽でない。隅には私の為に棚がつられ、その一つに私は木髄の帽子と麦藁帽子とをのせた。テーブルには朝飯の準備が出来ているのだが、多くの食事の為の食品も全部のっかっている。まるで野営しているようだ。その次の写生(図156)は私の執筆兼仕事テーブルで、塩の瓶に洋燈(ランプ)がのっている。その上の棚には私の顕微鏡が一つ、アルコールの壺、及びパイプ、煙草等を入れた箱が置いてある。床にあるのは予備の曳網を入れたブリキ箱で、私はこれに足をのせる。テーブルの左にのっている瓶には殺虫粉、右の方のにはアルコールが入っていて、夜飛び込んで来る甲虫その他の昆虫を――時に蚤を――つかまえて入れる。この写生図(図157)は、私がここへ来てから混乱皇帝が君臨し続けている(私がいよいよ立ち去る迄はこの通りであろう)一隅である。この世界には、詰らぬことに気を使うべく、余りに多くの仕事がある。写生図は完全にごちゃごちゃな私の大鞄、私が眠る時使う日本の枕、蚊帳(かや)にかぶせた筵、箱に入った双眼鏡、椅子にのせた日本の麦藁帽子を、示している。この帽子は二十五セントだが、八ドルもする木髄製のナポレオン帽よりも遙かに遙かに楽でかぶり心地がいいから、私はしょっ中これをかぶっている。この上なしの目覆になるから、夜でも物を書く時にほかぶる。その上の棚には素晴しい六放海綿(ほっすがい科)を、いくつか入れた箱がのっている。その若干は箱から外につき出ている。

 

[やぶちゃん注:ここで断っておくと、先に示した通り、明治9(1876)年の為替相場で1米ドルは0.98円であり、当時レートはほぼ1ドル=1円の等価であったから、こうした文脈では、モースは「〇円〇〇銭」を「〇ドル〇〇セント」と言っていると(モースもそのつもりで書いていると)考えてよいことになる。


「木髄の帽子」「きずい」と読んでいるものと思われる。原文“
my pith hat”。所謂、僕等が探検家というと即座にイメージするあの帽子、ピス・ヘルメット(Pith helmet)のことである。“Pith”とは木本類の「髄」を指し、原型が南アジア原産のマメ目マメ科マメ亜科に属するAeschynomene aspera 、ソーラ(sola )と呼ばれる植物の髄から作られたことに由来する。それにしても8円もするというのは法外な値段である。

 

「その次の写生(図156)は私の執筆兼仕事テーブルで、塩の瓶に洋燈(ランプ)がのっている。」原文は“The next sketch (fig. 156) shows my writing and work table with the lamp perched up on a salt jar.”でちょっと不親切な訳。「塩を入れた円筒状の瓶の上に据え置いた洋燈がのっている」である。

 

「この写生図(図157)は、私がここへ来てから混乱皇帝が君臨し続けている(私がいよいよ立ち去る迄はこの通りであろう)一隅である。」原文は“The sketch (fig. 157) shows a corner where disorder has reigned since I have been here and will remain so until I pack up for good.”である。「混乱皇帝」は石川氏の洒落たお遊びのようである。「完全なる無秩序が支配している一角である」の意。

「六放海綿(ほっすがい科)」原文“glass sponges (Hyalonema)”。海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi のこと。英名は“glass-rope sponge”とも。柄が長く、僧侶の持つ払子(「ほっす」は唐音。獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもので、本来はインドで虫や塵などを払うのに用いた。本邦では真宗以外の高僧が用い、煩悩を払う法具)に似ていることに由来する。深海産。この根毛基底部(即ち柄の部分)には「一種の珊瑚蟲」、刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目イマイソギンチャク亜目無足盤族 Athenaria のコンボウイソギンチャク(棍棒磯巾着)科カイメンイソギンチャク Epizoanthus fatuus  が着生する。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」のホッスガイの項によれば、一八三二年、イギリスの博物学者J.E.グレイは、このホッスガイの柄に共生するヤドリイソギンチャクをホッスガイ Hyalonema sieboldi のポリプと誤認し、本種を軟質サンゴである花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目 Gorgonacea の一種として記載してしまった。後、一八五〇年にフランスの博物学者A.ヴァランシエンヌにより本種がカイメンであり、ポリプ状のものは共生するサンゴ虫類であることを明らかにした、とあり、次のように解説されている(アラビア数字を漢数字に、ピリオドとカンマを句読点を直した)。『このホッスガイは日本にも分布する。相模湾に産するホッスガイは、明治時代の江の島の土産店でも売られていた。《動物学雑誌》第二三号(明治二三年九月)によると、これらはたいてい、延縄(はえなわ)の鉤(はり)にかかったものを商っていたという』。『B.H.チェンバレン《日本事物誌》第六版(一九三九)でも、日本の数ある美しい珍品のなかで筆頭にあげられるのが、江の島の土産物屋の店頭を飾るホッスガイだとされている』とある。深海産であること、モースがドレッジを始めて数日しか経っていない(少なくともここまでは)ことに加えて、モースが日々行き来した江の島参道の土産物屋にこれらが売られていたことから、この数個体は総てモースがその江の島の土産物屋で買い漁ったものである(生物標本としては外国人学者にとっては非常な希少価値を有するものであった)。……因みに……私は三十五年前の七月、ちょうど今頃のことだ……恋人と訪れた江の島のとある店で、美しい完品のそれを見たのを記憶している。……あれが最後だったのであろうか。……私の儚い恋と同じように……(ホッスガイの画像は例えばこちらをご覧になられたい)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 7

 日本人は会話する時、変なことをする。それは間断なく「ハ」「ヘイ」ということで、一例として一人が他の一人に話をしている時、話が一寸(ちょっと)でもとぎれると後者が「ヘイ」といい、前者が「ハ」という。これは彼が謹聴し、且つ了解していることを示すと同時に、尊敬の念を表すのである。またお互に話をしながら、彼等は口で、熱いお茶を飲んで舌に火傷(やけど)をしたもんだから息を吸い込んで冷そうとでもするような、或は腹の空った子供等が素敵にうまい物を見た時に出すような、音をさせる。この音は卑下か尊敬かを示すものである。

 今朝私は帆のある大きな舟に漁夫四人が乗ったのを手に入れ、朝の八時から午後四時まで曳網をやった。全体の費用が七十五セント、それで船頭達はすこしも怠けず懸命に働いた。外山は舟に酔うので来ず、彼の友人は東京へ帰ったので、私の助手の松村がやって見ようということになったが、出かけて一時間にもならぬ内に彼は曳網に対する興味をすっかり失って了い、その後しばらくしてからは舟酔いのみじめさに身をまかせて舟底に横になった儘、舟が岸に帰り着く迄動かなかった。彼は通弁することも出来ぬ程酔って了ったので、私は一から十まで手まね身振りで指図しなくてはならなかった。太陽が極めて熱く、私はまたひどく火傷をした。私は我国で太陽がシャツを通して人の皮膚を焼くというようなことをする覚えはないが、日本の太陽はこんな真似をする。今日は遙か遠くまで出かけ、曳網を三十五尋(ひろ)の深さに投げ入れ、いく度も曳いた。私は実に精麗な貝殻を採った。その多くは小さいが、あるものは非常に美しかった。正午になると、漁夫達は櫓をはなして昼飯の仕度にとりかかった。彼等は舟底の板を一枚外して、各々前日捕えた魚を手探りでつかまえた。私は漁夫の一人が昼飯を準備するのをよく見た。先ず魚の尻尾を切って海に投げ込み、内臓を取り除くと、大きな、錆びた、木の柄のついた庖丁で頭も目玉も骨も何もかも一緒に小さくきざんで、それを木の鉢に入れる。次に彼は籠をあけて冷たい、腐ったような飯を沢山取り出し、梅干二個とそれとを一緒に刻んでこれを魚の鉢にぶち込んだ。そこで非常に酸(す)い香のする、何でも大豆でつくつた物を醱酵させた物質を箱からかけ、水少量を加えてひっかき廻した。これ程不味(まず)そうな物は見たことがない。然し彼が舌鼓を打って、最後の一粒までも食って了った所から察すると、すくなくとも彼には御馳走であるらしい。魚の生肉は非常に一般的な食料品で、ある種の魚は殊に珍重される。

[やぶちゃん注:これは叙述内容(同行者が助手の松村任三一人である点、昼食を挟んで一日をかけていると思われる点、モースはひどく日焼けをしており、松村が重い船酔いをしている描写からはこのドレッジがかなり沖まで出て行われたものである可能性が高い点など)から、磯野先生の前掲書の日録から見ると、八月『二日 朝八時から夕方まで、モースと松村、七里ヶ浜から沖合にかけてドレッジ。』とあるのがそれであると思われる。最後の漁師たちの沖飯は所謂、手こね寿司の原型である。

「三十五尋」64メートル。かなりの深度である。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 6

 

 

          6

 

 人類の發展に於ける決定的な瞬間とは、繼續的な瞬間の謂である。此の理由からして、彼等の前のあらゆるものを、無なり、空なり、とする、革命的運動は正しい。何となれば、實際には何事も起らなかつたのであるから。

 

[やぶちゃん注:原文。

 

 6

 

Der entscheidende Augenblick der menschlichen Entwicklung ist immerwährend. Darum sind die revolutionären geistigen Bewegungen, welche alles Frühere für nichtig erklären im Recht, denn es ist noch nichts geschehn.

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。

 

 六 人間の発展の決定的瞬間は、一回限りのものではなく、たえず訪れてこようとしている。だから、これまでの一切を無効だとする革命的な精神運動は正当なのである。なぜなら、その時点では、まだなにも生じてはいないのだから。

 

 以下、台詞の引用は総て、私の愛読書であるグスタフ・ヤノーホ著吉田仙太郎訳「カフカとの対話」(筑摩書房一九六七刊)より。

 

 散歩するカフカとヤノーホ。

 

 二人、街路で旗や幟を持った労働者の一団と行き合う。

 

カフカ「この人たちは自負と自信に満ちて揚々としています。彼らは街路を制圧しているので、そのため世界を制圧しているのだと思っています。が本当は思い違いだ。彼らの背後に、すでに書記官が、官吏が、職業政治家が、あらゆる現代のサルタンたちがのぞいている。かれらはその権力への道を拓(ひら)いてやっているのです」

 

ヤノーホ「大衆の力を、あなたはお信じにならないのですか?」

 

カフカ「私には見えるのです――この形の定まらぬ奔放な大衆の力というものが。それは飼い馴らされ、型にはめられることを望んでいます。真の革命の展開が終るところに、つねに一人のナポレオン・ボナパルトが現れるのです」

 

ヤノーホ「ロシア革命がより広く拡大することをお信じにならないのですか」

 

 カフカ、一瞬口をつぐむ。そうして、ゆっくりと次のように語り出す。

 

カフカ「洪水が拡がるほど、水は浅く濁ってゆきます。革命の洪水が干上がる。と、後に残るものは新しい官僚主義の泥濘(ぬかるみ)にすぎないのです。人類を苛(さいな)む足枷は、官庁の書類で出来ています」

 

太字「見える」は底本では傍点「﹅」。]

迷信としての人生 萩原朔太郎

       ●迷信としての人生

 偶然ということは有り得ない。あらゆる事實は、それが有るべき事情によつて、必然の方則に支配される。

 これが科學者の命題である。我々の反駁は、その點で力がなく、論理の立證を持ち得ない。しかしながらもし、人々がそれを信じ、生活上の實感として、疑ひもなく肯定してしまふならば? その時人々は、土耳古人や支那人の乞食と同じく、避けがたく宿命論者になるであらう。なぜと言つて人生は、その前行する必然の事情によつて、どうせ成るようにしかならないのである。人々は方則の支配する社會に於て、必然に生涯の運命を決定される。人がどんなに意志したところで、一も成功する望みはなく、物體に於ける力學の法則と、宇宙の複雜なオルガニズムとで、球突き臺に於ける球のやうに、突かれた方角に轉つて行く。どうにでもせよ。我々自身には自由がなく、自然の機械律に動かされて、捨てばちの生活を送るのみだ。人々はただ、明日の生活に期待をもち、方則の組合す函數律を超越した、未前の「偶然」を信ずることによつてのみ、努力や奮鬪への希望をもち、人生を有意義に感ずるのである。

 それ故に教育は、この點で科學を否定し、偶然の實在するウソの事情を、苦しい詭辯に於てすらも、説かなければならない立場にある。げに「偶然」と「自由意志」とは、人間の主觀に於て、論理を超越した信仰であり、今日の科學的な時代に於ても、避けがたく執拗に支持されてる――そして支持されねはならない――一の人間的な迷信である。

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「意志と忍從もしくは自由と宿命」より。「どうせ」は底本では傍点「ヽ」。三箇所の「方則」、また「未前」はママ。]

手をのばす薔薇 大手拓次

 手をのばす薔薇

ばらよ おまへはわたしのあたまのなかで鴉(からす)のやうにゆれてゐる。

ふしぎなあまいこゑをたててのどをからす野鳩(のばと)のやうに

おまへはわたしの思ひのなかでたはむれてゐる。

はねをなくした駒鳥(こまどり)のやうに

おまへは影(かげ)をよみながらあるいてゐる。

このやうにさびしく ゆふぐれとよるとのくるたびに

わたしの白薔薇(しろばら)の花はいきいきとおとづれてくるのです。

みどりのおびをしめて まぼろしによみがへつてくる白薔薇の花、

おまへのすがたは生(い)きた寶石(はうせき)の蛇(へび)、

かつ かつ かつととほいひづめのおとをつたへるおまへのゆめ、

薔薇はまよなかの手をわたしへのばさうとして、

ぽたりぽたりちつていつた。

鬼城句集 夏之部 日傘

日傘    船中に日陰を作る日傘かな

      日傘して女牛飼通りけり

2013/07/14

清泉女学院入学夢

本未明の夢。

僕は男でありながら、清泉女学院の高校一年生の女子高生として入学するのである。

無論、あの制服で、スカートも穿き、しかも髪は黒々とした三つ編みなのである(それは僕が言うのも何なのだが僕の地毛であることは確かであって所謂カツラのようには見えない美しい緑の黒髪なのであった)。

しかし――顔は高校時代のやさ男の僕であり――しかもおぞましいことに「その僕」は現在の56歳であることを理解しており――僕は男で56歳でありながら、しかも16歳の少年の面影をたたえながら――総てを詐称して完璧な女装で清泉女学院に入学している――のである。

そうして授業が始まるのだが、その授業は何故か航空力学の講義であり、しかも――高高度から下降する飛行機が描く特殊な文字めいた極めて複雑な図形(表現するなら梵字模様を圧縮したような棒と点の組み合わされた暗号のような軌跡であって、それは何か人の顔や心霊写真のシュミラクラのようなものに似ていた)を幾つも並べて、それをアナグラム変換のようにして解読するという実習なのであった。

僕はその担当教官(「相棒」の米沢役の六角精児にすこぶる似ていた)から、目をつけられていて(出来ない生徒として、である。悪しからず)、この授業を落とすと、進級出来なくなるのではないか――とビビっているのであった――



もっと続く夢であったが、今となっては記述に正当性を認めない。今朝4時起きした直後は総てはっきりと覚えていてすぐに記述しようと思ったのだが――「何か」――がそれ阻んだように思う。そのことからも、この夢には解読されては困るような何かの象徴があるのだと僕は実は疑っている。だから、私は検閲によって修正された可能性が高い、それ以降の夢記憶を敢えてカットし、確かな部分だけを以上に記したのである。

なお、清泉女学院は僕の書斎から一キロも離れていない、書斎の窓の向うの山稜の背後にあって、平日は、その校内放送の「御祈りの時間です」といった放送部員の女学生のアナウンスを毎日のように聴いているのである。

さらに言えば、僕の母は小学生の高学年の時、永らく清泉の受付をやっており、毎日のように学校帰りにあそこに寄っては母の仕事が終わるまで、あの学校の中にいたのであった。だから当時の沢山のシスターや先生や女子生徒のお姉さんたちを知っていたのである(特に生物の男の先生がミツバチの巣をそのまま僕に食べさせてくれたのと、母の同僚の若い事務員で鶏肉が嫌いな若い女性で後にシスターになった人や、僕が暇潰しに置いてあったオルガンを弾いていたらとても可愛がってくれた一人の女子高生を今も忘れないのである。暫くは実は日曜学校にさえ通って、そこで善悪の神の狭間で苦しむ少年を描いたクリスマスの芝居の主役も演じたのであった)。

これは僕に如何にも分析しにくい(からこそ意味を持っているのであろう)、奇体な夢といえる。

耳嚢 巻之七 不思議に金子を得し事

 不思議に金子を得し事

 安永の比(ころ)、梅若七郎兵衞といへる能役者ありて、小笠原何某といへる方え心安く立入(たちいり)、目を掛られしが、甚(はなはだ)貧窮のうへ壹年長煩(ながわづらひ)して、夫(それ)は誠に年の暮ながら餅つく事もならず、夫婦共にひとつの衣類をも質入(しちいれ)して困窮なしけるが、十二月廿六日に至り、最早春も來るに、斯(かく)居らんも情(なさけ)なし。小笠原家え參りなば、年々歳暮には三百疋宛(ぴきづつ)給(たまは)るなればまかりなんと、破(や)れながらも小袖を着し、上下(かみしも)はあたりの人にかりて小笠原へ至りければ、能こそ來りける迚、主人も逢可被申(あひまうすべし)迚酒抔出し、漸(しばらく)酩酊にも及(および)ける比、例の目錄給りし故、段々困窮難儀して餅も不舂仕合(つかざるしあはせ)、頂戴の目錄にて年を取可申(とりまうすべく)咄しけるを主人聞(きき)て對面有(あり)、扨々氣の毒なる事難儀成るべしと、金三兩別段に給りければ、誠に活(いき)かえる心地して嬉しさ云ふ計(ばかり)なし。百拜を述(のべ)て立歸(たちかへ)しが、何れの町にやありけん、土腐堀(どぶぼり)へたちて小用(せいよう)を辨じ、扨妻にも喜(よろこば)せんと宿許(やどもと)へ立歸、まづ目錄の三百疋を渡し、扨三兩の金子を見しに、いづちへ行けん、最前小用せし處へ落ける哉(や)、外に覺(おぼえ)なし。尋止る妻をも見かへりもせず、飛(とぶ)が如く彼(かの)小用せし土腐の内不淨をも不顧(かへりみず)多搜しけるを、あたりの町人立出て、何をなし給ふやと尋(たづね)ける故、しかじかの事也と語りければ、燈灯をさげ抔して其邊を搜しけるに、土腐の中より金貮兩取出しける故ちきに□ひ、町人共えも厚く禮を述ければ、今壹兩も尋(たづね)ばあるべきといゝけれど、いやいや貮兩も求(もとめ)難き所を得たれば、此上夜をふかしなんも便(びん)なし迚立歸り、妻にもかくかく事と語りければ悦(よろこび)、まづ足をあらひ給へとて、足を淸め帶をときて衣類をぬぎかへし、不斗(ふと)右着類破れより金三兩最初小笠原家にて貰ひし儘に出(いで)ければ、右三兩は落さず、落せしとて土腐堀にて尋得しは別の金也けりと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特にこれといったものがある訳ではないが、意外な結末の市井譚としては自然に読み継げる。

・「安永」西暦一七七二年~一七八一年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから四半世紀前のやや古い噂話である。

・「梅若七郎兵衞」岩波版長谷川氏注に、『観世座地謡に名あり。安永年代は三十歳台』とある。

・「三百疋」一疋は一〇文で、一〇〇疋は一〇〇〇文。これが一貫文で四貫(四〇〇〇文)が一両になる。江戸後期の一両は凡そ現在の五~六万円相当であるから、三百疋は三七五〇〇~四五〇〇〇円前後に相当する。しかし最終的に三両+二両=五両となれば、三〇万円から三五万円相当で、とんでもない高額である。

・「目錄」進物として贈る金の包み。

・「土腐堀」埼玉県行田市及び羽生市を流れる農業用排水路に「土腐落(どぶおとし)」という名が残るように、江戸時代は「土腐悪水」などと称して、所謂、主に田畑や家庭からの汚水を流す溝(どぶ)や下水に、かくもぐっとくる漢字を当てたものらしい。

・「尋止る妻」底本には右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「止る妻」とある。それで採る。

・「多搜しけるを」底本には右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「搜しけるを」とある(正字に代えた)。それで採る。

・「燈灯をさげ抔して」「燈灯」はママ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「灯び抔(など)出し、提灯をさゝげて」とある(ここはそのまま引用した)。恣意的に「提燈をさげ抔して」と読むこととする。

・「故ちきに□ひ、」底本には「ちき」の右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「大いに喜び」(読点はない)とある。それで採る。

■やぶちゃん現代語訳

 不思議に金子を得たる事

 安永の頃のことで御座る。

 梅若七郎兵衛と申す能役者が御座って、小笠原何某殿と申すお方へ、心安う出入り致いて御座って、いたく目を掛られておったものらしい。

 ところが、その頃、舞台稼ぎも思うにまかせず、はなはだ貧窮致いて御座った上に、一年ばかし、長煩(ながわずら)いもこれ加わって、それこそ、まっこと、年の暮れながらも、餅さえつくこともままならず、夫婦(めおと)とも、たった一つの着替えの衣類さえも質入れ致すまで、困して御座ったと申す。

 さて十二月も押し迫った廿六日に至り、主人七郎兵衛、

「……最早、春も来たると申すに、かくも貧窮の極みのままにおらんも、これ、あまりに情けないことじゃ。……小笠原様御屋敷へ参らば……そうさ――かつては年々、歳暮には三百疋宛(あて)も賜はって御座ったものなれば……いや、まずはともかくも……年末の御挨拶に伺ってみようとぞ、と思う……」

と、恥ずかしくもぼろぼろのものながらも小袖を着し、裃(かみしも)は近所の者に借りて、小笠原屋敷へと向こうた。

「能の梅若七郎兵衛が参りました――」

と、下役が奥へと伝えたところ、主人(あるじ)も、

「おお。これは久しいのぅ。通すがよいぞ。」

とて酒なんどを出ださせ、一くさり、下座にて謡いなんども披露させた上、病み上がりなれば、じきに酩酊に及んで御座った頃、かねての目録をも賜わられたによって、七郎兵衛は酔いも手伝(てつど)うて、あまりの嬉しさゆえ、

「……一年、病みほうけ……困窮難儀致いた上……この年末は、これ、餅をも搗くこと、出来ず仕舞い……なれど……この頂戴致いた目録によって、やっと人並みに年を越すこと、これ、出来ますれば……何とも、ありがたきこと……」

と、つい、目録を下しおいた下役に向(むこ)うて、言うとはなしに口が滑ったを、主人、聞きつけ、

「――これ、七郎兵衛、近う参れ。」

とご対面(たいめ)あって、仔細を訊き質されたによって、畏まって正直に申したところが、小河原殿、

「……さてさて、それは気の毒なること。如何にも難儀にてあろうのぅ。……」

と、別して金三両を賜わって御座ったと申す。

 されば七郎兵衛、まっこと、生き返った心地にて、その嬉しきことたるや、言いようもないほどで御座ったと申す。

七郎兵衛は百拝して御礼申し上げ、それこそ酒も手伝って、浮き足立って御屋敷を後に致いた。

それから――さても何処(いずこ)の横丁で御座ったものか――ふと、尿意を催し、近くの溝堀(どぶぼり)の端で立小便致いた。

 己が小便の湯気の立ち上る中、七郎兵衛。

「――さても!――妻をも喜ばせん!――」

とて、にやついて、一物の滴(しずく)を切るももどかしゅう、そのまま己が屋敷へ立ち戻った。

「――女房!――喜べ!」

と、まずは目録に包まれた三百疋を渡いた上、またしても妙に、にやつきながら、今度はやおら、懐に手を入れて三両の金子を出(いだ)――出そうした……

……が

――ない――

……酔うた目(めえ)で腹の辺りを覗いて見るも……

……これ

――ない――

「……い、一体……どこへいったんじゃ!……どこへ落したんじゃ?……そうじゃ!……最前の、た、立小便のとこかッ!?……外には覚えはない!……あそこから真っ直ぐ帰ったじゃて!……そうじゃ!……ど、ど、溝(どぶ)じゃ! ど、ドブん中じゃッ!……」

と狂気の如き雄叫びを挙ぐると、何やらん、訳も分からぬながら、留めんとする妻をもかえりみず、飛ぶが如く、かの立小便致いたところへひた走り、おぞましきドブ泥の不浄をもなんのその、膨れ上がって浮きおる犬猫の死骸をも素手にて掻き分け、腰まで、ぎらついた糞尿の臭さき悪水溜まりを、手足使(つこ)うて探りに探る。……

 物音と掻き広げた臭さに辺りの町屋の者どもも、何だ何だと、立ち出でて参ったが――

見れば……

――裃を着した鼻筋の通ったやさ男が

――ドブ泥の中で

――何やらん喚きながら格闘して御座る。

さればこそ、恐る恐る、

「……い、一体……な、何をなさっておらるるんで?……」

と恐っかな吃驚り訊いて参った。

 まあ、なんぞの草双紙の怪談にでも出そうな情景なれば、これ、無理も御座るまい。

 されば、ここはと、七郎兵衛も気を落ち着け、しかじかのことにて御座って、この溝(どぶ)内に三両の金子を落とした由、語って御座ったところ、この年末も押し迫った中で、三両と聴き、集まった野次馬の町衆も、

「――そりゃあ、大変(てえへん)だ!」

ってえんで、熊さんも八さんも長屋から繰り出して参り、大勢にて提灯を掲げては、竹竿なんどを持って、しきりにドブ泥を引っ掻き回し、手応えを求めて御座ったと申す。

 すると暫く致いて、七郎兵衛自身、ドブ泥の中より――金二両を――摑み出だいて御座った。

 さればこそ、町人どもへも厚く礼をなしたが、ある者は、

「ここまで皆してやったんじゃ! 今一両、捜さねぇて、手はありゃせんゼ! その掘り抱いた辺りの、きっと近くに、まだありやしょう!」

としきりに申したれど、七郎兵衛曰く、

「いやいや、二両さえも求め得難き所を得たればこそ、この上、夜を徹して捜すと申すは、これ、労多くして、町方衆へも不憫なこと。――ここは一つ、これにて――」

と、平に町方衆へ謝して帰ったと申す。

 帰り着いて、件(くだん)の仕儀を、包み隠さず妻にも語ったところ、

「――それは誰(たれ)にもよきことをなされました。これで五両――つつましゅう致さば、また来年も我ら、相応に暮らせまする。――」

と大いに悦んだ。そうして、

「……ご主人さま……ともかくも少々お臭いに御座いますれば、まんず、御足(おみあし)をお洗い下さいませ。」

と申したによって、桶にて手足を清め、さても、ドブ泥にすっかり汚れてしもうた裃の帯をも解き、

「……かの金子にて――まずは、明日にでも裃の新たなるを買い求め、借り主にお返し申そうず。」

と妻に語りつつ、それらを脱いで、また、汚れを垂らさぬように裏へと返したところが、

……ふと

……かの脱ぎ置いた着衣の合わせの

……その目の破(や)れたところより

――チャリン!

……と……

――金三両

――最初、小笠原家にて貰(もろ)うたそのままに――転げ出でて御座ったと申す。……

……さればこそ、実は、かの三両はもともと落とした訳ではのうて――落としたと大騒ぎ致いてドブ堀にて捜し得たところの――あの――二両は――これ――全く別の――金子で御座った……

……ということにて御座った、と申す。

栂尾明恵上人伝記 48 巻下開始

栂尾明惠上人傳記卷下

 秋田城介(じやうのすけ)入道覺知、遁世して梅尾に栖みける比、自ら庭の薺(なづな)を摘みて味噌水(みそうづ)と云ふ物を結構して上人にまゐらせたりしに、一口含み給ひて、暫し左右を顧みて、傍なる遣戸の緣(ふち)に積りたるほこりを取り入れて食し給ひけり。大蓮房座席に侍ひけるが、不審げにつくづくと守り奉りければ、餘りに氣味の能く候程にとぞ仰せられける。平生、都て美食を好み給ふこと更になかりき。炭おこし燒火(たきび)などしてしとしとと當り給ふことなし。御入滅の年ぞ、病氣により人の勸め申しける間、始めてすびつ塗だれと云ふ物を作られける。

[やぶちゃん注:美味い料理に埃を入れるという部分は「一言芳談」の五十七に、
 或(あるひと)云(いは)く、解脱上人、食事の氣味(きみ)覺(おぼゆ)るをいたみて、調へたる物に水を入れたまひき。
といった類話がある(リンク先は私のテクスト)。
「秋田城介入道覺知」安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)の法名。頼朝の一番の家来で幕府宿老であった安達盛長の嫡男。実朝側近であったが建保七(一二一九)年一月二十七日に実朝が暗殺されると出家、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。但し、出家後も高野山に居ながらにして幕政に参与、承久三(一二二一)年の承久の乱に際しては幕府首脳の一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文は景盛が代読している。北条泰時を大将とする東海道軍に参加、乱後は摂津国守護となっている。北条泰時(乱後の
三代執権)の嫡子時氏に娘松下禅尼を嫁がせ、生まれた外孫の経時や時頼が続けて執権となったため、外祖父としての彼はさらに権勢を強め、宝治元(一二四七)年の宝治合戦では老体をおして高野山を下って鎌倉に戻り、及び腰の義景や孫泰盛を厳しく叱責、遂に三浦一族を滅亡に追い込んだ(ウィキ安達景盛に拠る)。平泉洸全訳注「明惠上人伝記」によれば、承久の乱後の官軍敗残兵を探索の中で、匿った明恵を拘引して六波羅の北条泰時に突き出したのが景盛であったとし、明恵との接点はこの奇遇に始まるようである。本書の末には、明恵の危篤を聴き、慌てて高野山を下った彼が入滅の前日である貞永元(一二三二)年一月十八日の夜、明恵と親しく法話を拝授した、ということが記されてある。

「味噌水」味噌を入れて煮た雑炊。

「塗だれ」塗り屋(家)造りのこと。庇を張り出させた上、断熱のために外壁を土や漆喰などで薄く塗った造りのこと。]

宗教のトリツク 萩原朔太郎

宗教のトリツク  暴風雨や、電光や、雷鳴や、洪水やで、まづ散々に牧場の羊をおびやかしておいて、さてその後でこそ、慈愛にみちた穩やかの春の光を照らすであらう。――すべての宗教の奸計(トリツク)がこれである。

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第五放射線」より。「213」のナンバーを持つ。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 6 最初のドレッジ

 

 

 今朝(七月三十日)私は第一回の曳網を試みた。我々の舟は小さ過ぎた上に、人が乗り過ぎたが、それで外側へ廻って出て、絶え間なく大洋から寄せて来る大きなうねりに乗りながら、曳網を使用しようと試みた。十五尋(ひろ)の深さで数回引っぱったが、我々の雇った二人の船頭は、曳網を引きずり廻す丈に強く艫を押さなかった。これは困難なことではあった。そして外山と彼の友人が船に酔ってグックリと舟底に寝て了ったので、引き上げた材料は私一人で点検しなければならなかった。明日我々は、もっと大きな舟に船頭をもっと多数のせて、もっと深い所へ行く。我等の入江に帰った時、私はそもそも私をして日本を訪問させた目的物、即ち腕足類を捕えようという希望で一度曳網を入れて見た。私は引潮の時、この虫をさがしに、ここを掘じくりかえして見ようと思っていたのである。所が、第一回の網に小さなサミセンガイが三十も入っていたのだから、私の驚きと喜びとは察して貰えるだろう。見るところ、これ等は私がかつて北カロライナ州の海岸で研究したのと同種である。

 

[やぶちゃん注:ここは最後の部分に訳の脱落がある。原文では“Conceive my astonishment and delight when the first haul brought up twenty small Lingula, apparently the same species that I had studied on the coast of North Carolina.”の後に、“A number of hauls brought me up two hundred specimens which I have alive for study.”とある。訳すと、

 

その浅瀬で続きざまに、何度か曳き網を繰り返してみたところ、私は凡そ二百個体の試料を採取したので、研究のために活かしておくことにした。

 

となる。

 

「十五尋の深さで数回引っぱったが、我々の雇った二人の船頭は、曳網を引きずり廻す丈に強く艫を押さなかった。」「十五尋」は約二七・五メートル弱。ここ、なんとなく日本語がおかしいように感じられる。原文は“A few hauls were made in fifteen fathoms of water, but the two men we had hired would not scull hard enough to pull the dredge along.”であるが、この後半部は、水子たちは網を保守するのに手一杯で(深度とその相応の重量によるものであろう)、とても同時に艪を漕いで――“scull”はスカル(両手に一本ずつ持ってこぐオール)で漕ぐという動詞であるが、ここは和船であるから艪(艫)となる――十分曳航されなければ意味がない(効果的採取が出来ない)ドレッジの引き回しが出来なかったということを示している(だからこそ次に「これは困難なことではなった」と言い、「明日我々は」「船頭をもっと多数のせて」と言っているのである)。従ってここは、

 

 二人の船頭は、曳網を効果的に引きずり廻すほどには懸命に艫を漕ぐことができなかった。

 

と訳すべきところである。

 

「腕足類」原文“Brachiopods”は腕足類の英名。ネイティヴの発音を聴き取ると「ブレッキォパォァド」と聴こえる。因みに腕足動物門は Brachiopoda。前章「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」に最初に既注済。

 

「サミセンガイ」原文“Lingula”。シャミセンガイ属 Lingula。発音は「リングラ」。前章「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」に最初に既注済。

 

「見るところ、これ等は私がかつて北カロライナ州の海岸で研究したのと同種である。」「私がかつて北カロライナ州の海岸で研究した」については前章「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」の最初と私の注を参照のこと。なお、「見たところ」「同種である」と述べているが、磯野先生は「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の中で、後に別種と気づく、注しておられる。同じ箇所で磯野先生は『アメリカでモースがシャミセンガイを採取したときには、「一週間近くあちこちと探しまわった末、ようやくシャミセンガイ何匹かを手にすることができた」と彼は論文に記している。それが数回網を入れただけで二〇〇匹、さぞ感激したであろう』と述べられ、私の注でも記した通り、磯野先生はこの採取場所の『正確な位置は分からないが』、と断られた上で、島の北から実験所近くの、「我らの入江に帰った時」(石川氏訳)という叙述からも、『彼の実験所の前あたりとすれば、』先にも私の注で紹介させて戴いたように、『いまモースの記念碑が建てられている公園周辺ではないかと思われる』と記しておられる。無論、磯野先生も述べておられるが、現在の江の島では最早、シャミセンガイは見つからない。『江の島はもとより、湘南海岸のどこを探しても、シャミセンガイの殻ひとつ見当たらない。』一体、我々はどこまで来てしまったのだろう――

 

 以下、一行空けで原注は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 5

 子供が遊んでいるのを見たら、粘土でお寺をつくり、その外側を瓶詰めの麦酒(ビール)その他の蓋になっている、小さな円い錫の板で装飾していた。これは外国人が残して行ったのを、子供達が一生懸命に集め、そしていろいろな方法に利用するのである。お寺の付近には、小さな玩具の石燈籠や鳥居が置かれ、木の葉すこしで周囲を仕上げてあった。数度私は子供が砂や粘土で何かつくるのを見たが、彼等の努力が我国の子供達のと同じ方向に向っていることを見出した。

M152 

図―152

 家々の屋根を眺めてすぐに気がつくのは、煙突がまるで無いことである。また小櫓、円屋根、その他のとび出た物も無い。都会だと屋梁(むね)の上に火事の進行を見るための小さな足場を見受ける。耐火建築は、多少装飾の意味も持つ巨大な端瓦を、屋梁にのせていることもある。図152は私の部屋から見渡した家々の屋根のスケッチで、あるものは萱葺き、他はすでに述べた薄い木片で覆れている。大きな装飾的の屋梁のあるのは耐火建築である。これ等の建物はごちゃごちゃにくつつき合っている。一度火事が起れば即座に何から何まで燃え上って了うことが、了解出来るであろう。

 家の内外を問わず、耳を襲う奇妙な物音の中で、学生が漢文を読む音ぐらい奇妙なものはない。これ等の古典を、すくなくとも学生は、必ず声を出して読む。それは不思議な高低を持つ、妙な、気味の悪い音で、時々突然一音階とび上り、息を長く吸い込む。それが非常に変なので勢い耳を傾けるが、真似をすることは不可能である。

 夜になると部屋は陰鬱になる程暗い。小さな皿に入った油と植物の髄の燈心とが紙の燈寵の中で弱々しく光っている。人はすくなくとも燈籠を発見することは出来る。この周囲にかたまり合って家族が本を読んだり、遊技をしたりする。蠟燭も同様に貧弱である。石油が来たことをどれ程日本人が有難がっているかは、石油及び洋燈の輸入がどしどし増加して行くことによっても判る。

[やぶちゃん注:「紙の燈籠」「燈籠」原文“a paper lantern”“the lantern”で、言わずもがなながら行灯のことである。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 5

 

 

          5

 

 ある點からさきへ進むと、もはや、後戾りといふことがないやうになる。それこそ、到達されなければならない點なのだ。

 

[やぶちゃん注:原文。

                      

 

  5

 

   Von einem gewissen Punkt an gibt es keine Rückkehr mehr. Dieser Punkt ist zu erreichen.

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。

 

 五 ある一点をこえると、もはや後戻りはありえない。この一点に到達することが問題なのだ。

 

 英訳を見てみる(英語版 Wikiquote の“Franz Kafka掲載のもの。ヴァリアントと二種)。

 

 

   Beyond a certain point there is no return. This point has to be reached.

   From a certain point onward there is no longer any turning back. That is the point that must be reached.

 

 “erreichen”という単語は、着く・到達する・得る・獲得する・目的を達成する・意図を実現する・追いつく・匹敵するという希求的達成感を示す単語である。

 

 カフカの残した言葉とされるもの。

 

 歩くことによって道は出来る。

 

Wege entstehen dadurch, dass man sie geht.

 

 英訳。

 

   Paths are made by walking.

 

 

 魯迅「故郷」の掉尾を思い出す。

 

走的人多了、也便成了路。

 

 竹内好訳。

 

   *

 

歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

 

   *]

 

薔薇のもののけ 大手拓次

 薔薇のもののけ

あさとなく ひるとなく よるとなく
わたしのまはりにうごいてゐる薔薇のもののけ、
おまへはみどりのおびをしゆうしゆうとならしてわたしの心をしばり、
うつりゆくわたしのからだに、
たえまない火のあめをふらすのです。

[やぶちゃん注:太字「しゆうしゆう」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 祇園會

祇園會   祇園會や萬燈たてゝ草の中

2013/07/13

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 4

 横浜の海岸に残された暴風雨の影響を見ると、波が如何に猛烈な性質を持っていたかが判る。海壁の重い覆い石は道路に打ち上げられ、道路は砂利や大きな石で一杯になっていた。大きな日本の戎克船(ジャンク)の残骸がホテルの前に散在し、また水路で二ケ月間仕事をしていた大きな蒸気浚渫(しゅんせつ)船は、千フィートばかり押しながされて横っ倒しになり、浚渫バケツが全部むしり取られていた。

[やぶちゃん注:この叙述からもモースが台風一過の翌々日の七月二十八日に横浜に行っている(日帰りでその際に前の連中たちを引き連れてきたのである)ことが分かる。

「大きな日本の戎克船(ジャンク)」原文“a large Japanese junk”。“Junk”は中国における船舶の様式の一つの外国人の呼称で、中国語の「船(チュアン)」が転訛したマライ語の“jōng”、更にそれが転訛したスペイン語・ポルトガル語の“junco”に由来するとされ、確かに漢字では「戎克」と表記するが、これは当て字であって、中国語では「大民船」又は単に「帆船」としか書かない(ウィキの「ジャンク(船)に拠った)。ここはモースが「大きな」と表現しているところから、和船の弁才船(べざいせん)か五大力船(ごだいりきせん)であろう。

「千フィート」凡そ305メートル。]

M150


図―150

 実験所には窓が二つあり、その一つからは海岸が、もう一つからは砂洲に沿うて本土見える。図150は実験所から海岸を見た所で、一番手前は建築中のクラ、又は godown と呼ばれる、耐火建物である。足場は莚をかけ、壁土が早く乾き過ぎるのを防ぐ。砂洲が完全に流されて了ったので人々は舟で渡ったり、徒渉する頑丈な男に背負われたりする。

[やぶちゃん注:語られた通りの細部と遠景がちゃんと描かれている点に着目されたい。

godown」この部分、原文は“Figure 150 is a sketch alongshore from the laboratory ; the first building, which is in process of construction, is a fireproof structure known as kura, or godown.”である。この単語は「ゴーダウン」で、インド及び東南アジアなどに於いて倉庫や貯蔵所を意味する英語として古くから用いられてきた単語である(マレー語の“goding”に由来するという)。「日本人の住まい」(斎藤正二・藤本周一訳・八坂書房一九九一年刊)にも「第一章 家屋」の総説の台所について解説する中で、モースは『中流以上の阿井給が住む家屋の場合には、堅牢なつくりの、厚壁の、平屋(ひらや)もしくは二階建ての、倉 kura と呼ばれる耐火構造の建物が付随している。この倉は、火災が発生したとき、家具家財など動産一切をそのなかに格納するのである。外国人の目には〝倉庫(ゴーダウン)〟として知られているこの種の建物は、小窓が一つ二つあるほか、一つの入り口があり、たいへん重い厚手の開閉扉(シャッター)で鎖(とざ)されている』とある。]

 昨日横浜から来る途中、十八マイルの間で、異る場所に乞食を四人見た。今や道路に巡礼が充ち、今後数週間にわたって尚巡礼が絶えぬので、乞食も出て来るのである。彼等は不思議な有様で物乞いをする。人が見えると同時に、彼等は地面に膝をつき、頭を土にすりつけて、まるで動かず、そのままでいる。私が手真似で車夫に、この男が祈禱でもしているのか、それとも物乞いをしているのか、質問せねばならなかった位である。日本ではめったに乞食を見受けず、また渡り者、浮浪人、無頼漢等がいないことは、田園の魅力を一層大にしている。

[やぶちゃん注:彼は揺られる人力車の中からでも日本を透徹する。とっくにそんな心を失ってしまった日本人である私は、私を嫌悪するのである。]

M151

図―151

 図151は我々の実験所で、私の知っている範囲では、太平洋沿岸に於る唯一の動物研究所の写生である。

 二週間前の私は、かかる性質の研究所のために小舎を借り受ける努力を、書きとめることなどは、価値がないと思っていたであろう。米国にいれば私はイーストポートへかけつけ、波止場の建物の上階を借り、大工を雇って私の希望を伝え、保存罐を買い、かくて半日もあれば仕事に取りかかれるからである。私がドクタア・マレーに向って小さな家を手に入れ、それを特に私の研究のために準備するという案を話した時、彼は意味ありげに笑って、非常に多くの邪魔が入るに違いないといったが、まったくその通りであったといわねばならぬ。第一適当な建物を見つけて、その持主にそれを私の為に支度させるのを承諾させる迄に、大部時間がかかった。彼は来週それをするという。いや、今すぐでなくてはいけない。そうでなければまるで要らないのだ。それから万事通弁を経て説明する。日本にはテーブルなど無いから、田舎の大工の石頭に長いテーブルを壁の所に置くということを叩き込もうとする。日本人は床に坐るので椅子なんどは無いから椅子を四つ作らせる。棚をかけさせ、辷(すべ)る仕切戸でしまる長い窓なるものを説明し、日本人は家に鍵をかけないから、辷る窓とドアとに一々錠前をつけることをいって聞かせる。私に出来た唯一のことは、横浜へ行って南京(ナンキン)錠と鐉(かけがね)とを買い、それを自分で取りつけること丈であったが、同時にアルコール、壺、銅の罐等を手に入れるのも、たしかに一と仕事であった。壺に就いては、私は辛棒しきれなくなって、横浜へ行き、一軒の日本人のやっている古道具屋を見つけ出して、塩の瓶を買おうとした。だが、既に東京から申込みがあったので、他の壺は売れるがこれ等は駄目だという。三日後、東京から私に宛てた重い荷物を背負った男が四人乗り込んで来た。荷を解くと東京の硝子工場で製造した非常に優秀な壺が数箇以外に、私が横浜で買おうとして大いに努めた塩の瓶その物が、四十ばかり入っていた!

[やぶちゃん注:「イーストポート」メイン州東端に位置する漁師町のことか。因みに、ここの沖は西半球最大の渦潮である“Old Sow”(オールド・ソー:年老いた雌ブタ)で知られる。]

 ドクタア・エルドリッジはこの建物と、壺、銅罐、小桶、篩(ふるい)、アルコール箱等の完全な設備を見て驚いていた。来週はドクタア・マレーが来る。私は一刻も早く、彼に、元気と激励と勢の強い言葉との充分な分量さえあれば、実験所の設備は出来上ることを見せたい。私の日本人の助手達は、何でもよろこんでするが、時間の価値をまるで知らぬ。これは東洋風なのだろうと思うが、それにしてもじりじりして来る。今朝三時、私は飛脚に起された。曳網の繩が届いたというのである。私はねむくって受取に署名しない位だったが、然し多くの経験に立脚して、日本人は夜中起されても平気だし、また他人の安眠を妨害することを何とも思わぬ国民だという概括をなす可く、余りにねむくはなかった。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の九二頁の再現日録に、

   《引用開始》

○二十七日 台風一過。実験所は被害なし。早朝磯採集。ドレッジ(底曳き)用の編や標本保存瓶などがやっと到着。この数日、モースは日本人の仕事ぶりののろさにイライラしどおしだった。

   《引用終了》

とあるのは、前段及びこの部分の叙述に基づくものであろう。]



――恐らく誰にも理解出来ないであろうが、今、僕はこのモースの文章の電子化と注釈に、殆んど恍惚と言ってよい至福感を味わっているということだけはどうしてもここで言っておきたくなった――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 3 附注:江の島にモースを訪ねて来た外国人たちの同定

 七月二十九日 日曜日。若干の英国の店が閉められ、また政府の役所も閉められる(外国人に譲歩したのである)、大都会以外にあっては、日曜日を他の日と区別する方法は、絶対に無い。この役所も、私の短い経験によると、入って行けば用を達することが出来る。

[やぶちゃん注:「日曜日」本邦に於ける曜日の概念の導入は意外なことに、平安初期に遡る。以下、ウィキの「曜日」より引用しておく。『日本には入唐留学僧らが持ち帰った「宿曜経」等の密教教典によって、平安時代初頭に伝えられた。宿曜経が伝えられて間もなく、朝廷が発行する具註暦にも曜日が記載されるようになり、現在の六曜のような、吉凶判断の道具として使われてきた。藤原道長の日記『御堂関白記』には毎日の曜日が記載されている。『具註暦では、日曜日は「日曜」と書かれるほかに「密」とも書かれた。これは、中央アジアのソグド語で日曜日を意味する言葉ミール(Myr)を漢字で音写したものであり、当時、ゾロアスター教やマニ教において太陽神とされていたミスラ神の名に由来する』。ところが、『その後江戸時代になると、借金の返済や質草の質流れ等の日付の計算はその月の日にちが何日あるか』(旧暦では二十九か三十日)『がわかればいいという理由で、七曜は煩わしくて不必要とされ、日常生活で使われることはなかった』。『現在のように曜日を基準として日常生活が営まれるようになったのは、明治時代初頭のグレゴリオ暦導入以降である』とある。既に注で示した通り、新暦(グレゴリオ暦)の本邦での採用は本記載に先立つ四年前の明治六(一八七三)年一月一日のことであり、この明治十年頃でも日曜休業という感覚は全く以って普及していなかったことが分かる。]

 旅につかれ、よごれた巡礼達が、神社に参詣するために、島の頂上へ達する狭い路に一杯になっている。各旅籠(はたご)やでは亭主から下女の末に至る迄、一人のこらず家の前にならび、低くお辞儀をしながら妙な、泣くような声を出して客を引く。家々は島帝国のいたる所から来た、このような旅人達で充ち、三味線のチンチンと、芸者が奇怪なつくり声で歌う音とは、夜を安息の時にしない。この狭い混み合う路を通って、私は実験所へ往復する。私はこの村に於る唯一の外国人なので、自然彼等の多くの興味を引くことが大である。彼等は田舎から来ているので、その大多数は疑もなく、それ迄に一度も外国人を見ていないか、あるいは稀に見た丈である。然し私は誰からも、丁寧に、且つ親切に取扱われ、私に向って叫ぶ者もなければ、無遠慮に見つめる者もない。この行為と日本人なり支那人なりが、その国の服装をして我国の村の路――都会の道路でさえも――を行く時に受けるであろう所の経験とを比較すると、誠に穴にでも入り度い気持がする。これ等の群衆は面白いことをしに出て来たのだから、恐ろしく陽気な人達も多いが、酔っぱらいはたった一人見た丈である。彼は路傍に静かに眠ていた。人々は悲しげにへの状態を見て通り、嘲笑する子供などは只の一人もいなかった。このような場合が、私をして二つの文明を心中で比較させ続ける。

[やぶちゃん注:モースの、アメリカ人と日本人の比較に於ける意外な感懐がすこぶる興味を引く。

「島帝国」原文“the Empire”。]

 著述家のノックス氏、『東京タイムス』の主筆ハウス氏、横浜のドクタア・エルドリッジ及びウェルトハイムバア氏が私の宿屋で一日一夜を送った。今朝彼等が出立した時、私は路の終りまで見送りに行った。砂の地頸〔地峡〕が台風で洗われて了ったので、彼等は舟に乗って本土へ越さねばならなかったが、叫び声! 押し方! 引き方! ある者は舳(へさき)に繩をつけて満員の舟を引き出そうとするその騒ぎは大変なもので、私が今迄見たものとは非常に相違していた。宿の主人や召使いもそこに来て、客人達に向って丁寧にお辞儀をし、別れを告げり、御贔屓(ごひいき)を感謝していた。

[やぶちゃん注:「著述家のノックス氏、『東京タイムス』の主筆ハウス氏、横浜のドクタア・エルドリッジ及びウェルトハイムバア氏」原文を示すと、“Mr. Knox, the writer, Mr. House, editor of the "Tokyo Times," Dr. Eldridge, of Yokohama, and Mr.Wertheimber”である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、彼らの江の島来訪は七月二十八日である(この日モースは日帰りで横浜へ行っており、その帰りに彼らを江の島へ招待したものかとも思われる)。同書(九二~九三頁)の解説を参考にしつつ、各人についてデータを記す。

「著述家のノックス氏」トーマス・ウォレス・ノックス(Thomas Wallace Knox 一八三五年~一八九六年)はアメリカ人、作家で旅行家。当時は世界一周旅行の途次であった。

「『東京タイムス』の主筆ハウス氏」エドワード・ハワード・ハウス(Edward Howard House 一八三六年~明治三四(一九〇一)年)は当時の“Tokyo Times”の社主兼編集者。磯野氏の記載は彼について殆んど一ページ分を割いて、その特異な日本愛を語っておられるが、ここでは有限会社オフィス・コシイシの「耳学目学」の「明治人物ファイル」の不動岳志氏の「日本を愛し日本に骨を埋めた一米人ジャーナリスト」という副題を持つE・H・ハウスの記載(一九九九年四月発行の『えんじゅ一号』掲載)という精緻を極めた解説を引用したい。『エドワード・ハワード・ハウスは一八三六年、日本年号の江戸天保七年、米国ボストンで紙幣の彫版職人をしていた父ティモシーとピアノにすぐれた母エレン・マリアの間に生まれた。性格は非常に勝ち気で、学校側と衝突、十三歳の時退学するというエピソードの持ち主である。しばらく父のあとを継ぐべく彫版職見習いをしていたが、飽きたりず、一八五四年にはボストン・クリエール紙の演劇批評を担当する。一八五八年にはニューヨーク・トリビューン紙に移り、演劇評論を担当したあと、奴隷廃止運動の通信員に任命される。やがて南北戦争(一八六一-一八六五)が勃発すると、北軍の通信員として健筆を揮う。戦後一時期劇場の管理人となっていたが、一八六八年(明治元)再びニューヨーク・トリビューン紙の記者とな』っている。折しも、『一八六○年(万延元)一月十三日軍艦奉行木村喜毅は軍艦操練所教授勝海舟らと咸臨丸に乗って米国に向か』い、『サンフランシスコ到着は二月二十六日。三月二十八日には大統領のブカナンと会見する。当時ハウスはニューヨーク・トリビューンの若い記者であり、この日本使節団の取材を行った。この時ハウスは日本人の礼儀正しい態度にいたく感動、これが、以降日本への強い関心を持つ動機となったという』。明治二(一八六九)年、特別通信員として日本へ派遣された『ハウスは日本の自然と人情がいたく気に入り、各地を見聞して歩く。のちこの時の驚きなどを中心に「Japanese Episode」(日本の事情)をボストンで出版する。通信員の傍ら一八七一年(明治四)には大学南校(のちの東京大学)の英語教師に招かれている。病気のために明治六年大学南校をやめアメリカに戻る。この四年にわたる日本滞在中、彼の名を一躍有名にしたのは、明治五年に起こったペルー船籍マリヤ・ルズ号事件であ』った。『同年六月暴風雨に遭い破損したマリヤ・ルズ号が修理のために横浜に入る。船より一人の中国人が逃亡、この船が中国より苦力を運ぶ奴隷船と発覚する。外交問題となるのを恐れ黙視しようとする大半の政府首脳人の中にあって、副島外務卿は敢然と中国人の解放を叫ぶ。結局事件は在外公使の抵抗を押し切り、副島外務卿の努力によって中国人を中国へ送り返すことで決着し、明治新政府初の外交勝利となるが、ハウスは正義ある副島の立場を擁護し、在外公使の非合理的な態度を鋭く批判した』(ウィキの「マリア・ルス号事件」によって補足しておくと、事件の発生は七月九日、ペルー船籍であった“Maria Luz”号は清国の澳門(マカオ)からペルーに向かっており、船内の清国人苦力は実に231名にも上った。なおこの事件は日本が国際裁判の当事者となった初めての事例でもあった)。その後、『一旦祖国へ戻ったハウスであったが、日本の魅力に取り憑かれ、』明治七(一八七四)年に再来日した。『当時日本は漂着した琉球民を虐殺した台湾現地民に対し懲罰を名目として台湾に軍を進めようとしていた』が、ハウスは『台湾蕃地事務局長官に任ぜられていた大隈重信の勧めで記者として派遣軍に参加することになる。日本初めての従軍記者である。のち彼はこの時見聞した記事をまとめて「The Japanese Expedition To Formosa」(征臺紀事)を出版。その後西南戦争の際も従軍し健筆を揮い、明治十年には英字週刊新聞「Tokio Times」(トーキョウ・タイムズ)を自ら刊行した』(まさにモース来日のこの年である)。『当時日本には宣教師、商人を始めとする多くの欧米人が滞在していたが、彼等は大半日本を軽視し傲慢な態度をとっていた。ハウスはこうした欧米人とりわけ偽善家的宣教師に痛烈な批判を浴びせ、日本を擁護し、日本のよさを掘り起こした。とりわけそうした欧米人の中心的人物であった英国公使のパークスを痛烈に批判する』。『ハウスのこうした姿勢は、奴隷解放で見せた不正を嫌うという正義感から来ているものであろうが、同時に西欧人から低く見られている東洋の文化に対する理解がある。日本に関しては理解の範囲を超え、魅力に取り憑かれた感さえする。また、前掲の「征臺紀事」の中にも当時蛮人とされていた台湾現地民に対してその文化を理解する態度が随所に示されている』。『「トーキョウ・タイムズ」は資金難などで三年で廃刊となり、明治十三年アメリカに戻る。再興の夢を捨てきれなかったハウスは十五年に再び日本へ。しかし新聞を再刊することはできず、日本政府への仕官話も断り、わずかに「ジャパン・メール」紙に記事を書く生活を送る。十七年帰国し小説や童謡集などを発表するが、明治二十六年再び日本へやってくる』。『終生独身であった彼は養女に日本女性琴女を迎え、彼女とともに欧米各国を回った。晩年琴女夫妻とともに東京四谷塩町で暮らし、明治三十四年十二月十八日六十五歳でこの世を去る。この琴女をモデルとして書いた小説が「Yone Santo.A Child of Japan」(ヨネ山東)であり、明治維新で没落した大名の娘を主人公に日本の文化を評価した作品である』(講談社「日本人名大辞典」によれば、この養女は青木琴(あおきこと 安政五(一八五八)年~?)は尾張出身で、後に陸軍大学校教授黒田太久馬と結婚、晩年のハウスを引き取って世話した。ハウスの小説“Yone Santo,a Child of Japan”の主人公ヨネ山東のモデル、とある)。『日本がこの正義感あふれるアメリカ人に骨を埋めさせるほど引き付けさせた魅力とは、一体何だったのか。明治以降西欧のまねばかりしてきた我々日本人に問いかけるものは重い』と不動氏は結んでおられる。磯野氏の記載によって補足すると、ハウスは『ディケンズ、ブラウニング、クレマンソー、マーク・トウェーンなどとも親しく、欧米では著名人だった』とし、『明治六年に病を得て帰国したが(このとき、のちに動物学教授となる少年箕作佳吉を伴っている)』とも記しておられる(箕作は海産生物愛好家なら知らぬ人のいない日本近代動物学の草創期の碩学である)。さらに『このハウスはモースと気が合ったらしい。二人とも行動の人で日本にほれこんでいたし、何よりもキリスト教嫌いという共通点があったことなどが理由だろう。『トーキョー・タイムズ』が、明治十年四月二十八日という時点、モースが来日を決意して間もない頃にいち早く彼の来日を報じているところをみると、それ以前からの知り合いとも考えられるが、詳細は不明である。ともかく、モース来日後の消息は『トーキョー・タイムズ』にもっとも詳しい。この翌年、明治十一年にモースの陣両で誕生した東京大学生物学会』『の連載記事も、ほぼ毎回同紙に載っている』とある。モースとハウス――この二人の関係はまだまだディグ出来そうではないか。

「横浜のドクタア・エルドリッジ」ジェームズ・スチュアート・エルドリッジ(James Stuart Eldridge(一八四三年~明治三四(一九〇一)年)はアメリカ人医師。フィラデルフィア生。ジョージタウン大学で学び、明治四(一八七一)年に開拓使顧問ケプロンの書記兼医師として来日、翌年函館医学校の教官、外科医長となったが、明治八年に横浜に移って開業、翌年には横浜一般病院院長、同七年からは横浜十全病院の治療主任を兼ね、亡くなる前年の明治三三(一九〇〇)年には慈恵成医会副会長でもあった。『近世医説』の発刊(著者和名依児度列智(エルドリッチ)とする)や日本在留欧米人の疾病統計といった業績も残しており、故国に日本の解剖模型を送るなど、日米医学交流に尽くした。現在の横浜外国人墓地に眠っている。(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「ウェルトハイムバア氏」出版社「エディション・シナプス」のサイトの「新・近刊洋書案内」の中の“Japan in American Fictionアメリカ小説に描かれた日本の目録の第二巻に“Louis Wertheimber”という作家と作品“A Muramasa Blade”(Boston, 1887, 204pp)という記載を見出すことが出来、この詳細情報“Webcat Plus確認すると、“A Muramasa blade : a story of feudalism in old Japan”(“feudalism”は「封建制」)とあって、何と、同巻に併載されているのはハウスの注で掲げられた“Yone Santo : a child of Japan”である。これはこの人物である可能性が高いように思われる。識者の御教授を乞うものである。因みに彼の名であるが、ルイス・ウェルタンベルと表記するのが原音に近いようである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 2

 昨夕私は机を部屋の真中へ持出し、外山教授、彼の友人生田氏及び私の助手の松村氏を招いて、石油洋燈(ランプ)を享楽させた。これは植物性の蠟燭の、覚束ない光で勉強した後の日本人が、特によろこぶ贅沢(ぜいたく)なのである。生田氏はやりかけの仕事、即ち『月刊通俗科学雑誌』に出ている「古代人の世界観」の翻訳を持ち込んだ。松村氏は私の著した小さな『動物学教科書』を勉強しつつある。外山教授は動物界の分析表を研究していたが、非常に熱心であった。

[やぶちゃん注:二箇所の「生田氏」の下には底本では訳者割注の『〔?〕』が二箇所とも入るが、原文は“Ikkoto”であって“Ikuta”ではない。これは無論、先の注で示した乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)のことである。“Otukotu”は如何にもアメリカ人には発音しにくいし、また本人や外山などが「おっこつ」とも発音・呼称などしていたと仮定すれば、“Okkotu”で、さらにこれをアメリカ人なら発音し易く“Okkoto”と語尾上がりで称したとして不自然ではない。また「乙」は「イツ」とも発音するから、仲間内で彼が例えば「乙(いっ)さん」と呼ばれたりしておれば(彼の名前にはこの字が二箇所も入っているし、名前としては比較的珍しし、日本語でも「乙骨」や「太郎乙」は発音しにくく、私なら「いっさん」と呼びたくなるのである)、それと記憶が混同して“Ikkoto”となったとしてもおかしくないように思われる。なお、乙骨太郎乙は通称で、本名は盈(えい)、別に華陽とも号した。ここで改めて「朝日日本歴史人物事典」の解説を参照して注しておくと、甲府徽典館学頭や江戸城天守番を務めた乙骨耐軒の長男として江戸に生まれ、漢・蘭・英語に通じ、万延1元(一八六〇)年に蕃書調所書物御用出役となり、同所が開成所と改称後は教授手伝から教授へと昇進、維新後は徳川家に従って静岡に移って沼津兵学校教授となっている。明治五(一八七二)年に新政府に徴され、大蔵省翻訳局に勤務し、同八年には退官後、同一一年(本記載の翌年)には海軍省御用掛となって明治二三(一八九〇)年まで各種の軍関係の翻訳に携わった。東大の雑誌『学芸志林』に海外科学記事の紹介を多数載せており、この「月刊通俗科学雑誌」(原文“Popular Science Monthly”。これは『ポピュラーサイエンス』(Popular Science)誌でアメリカの月刊誌として一八七二年に創刊された科学・技術雑誌で現在も続いている)の「古代人の世界観」(原文“What the Ancients Thought of the World”)翻訳というのも、その一連の仕事の一つと思われる。乙骨の業績の中には近代的地質学の濫觴とされるチャールズ・ライエル(Charles Lyell 一七九七年~一八七五年:チャールズ・ダーウィンの友人であり、彼の自然淘汰説の着想にも影響を与えたとされる。)の著わした「地質学原理」の漢訳本『地質浅釈』の訓点書などが挙げられている。晩年は旧幕臣達と漢詩結社『昔社』を結んで風流の日々を送ったという。妻の継は杉田玄白の曾孫であり、先に示した通り、三男の乙骨三郎は音楽家(東京音楽学校教授)である。]

 私が昨日横浜から来る途中で写生した図(図149)程、一般民衆の単純な、そして開放的な性質をよく示すものはあるまい。車夫は横浜市の市境線を離れると、とても暑かったので立止って仕事着を脱いで了った(市内では法律によって、何等かの上衣を着ていなくてはならぬのである)。彼等は外国人に対する遠慮から、裸で東京、横浜その他の大都会へ入ることを許されない。裸といったって、勿論必ず犢鼻褌(ふんどし)はしめている。

M149

図―149

 それを待つ間に、私は夜の燈明がついている神棚をスケッチするため、一軒の家へさまよい入って、その家の婦人が熟睡し、また乳をのませつつあった赤坊も熟睡しているのを見た。私は日本の家が入り込もうとする無遠慮者にとっては、文字通りあけっぱなしである事の例として、この場面を写生せざるを得なかった。若し彼女が起きていたら、私は謝辞なしには入らなかったことであろう。

[やぶちゃん注:図―149はちょっと分かり難いが、夏の暑い盛りであるから、婦人は半裸である(左にあるのは煙草盆であるから、これは上り框のすぐ近くであったのであろう)。失われた無原罪の古き日本の一齣であり、それを描いているモースの優しい青い眸が見えてくる。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 4 附注 グスタフ・ヤノーホ著吉田仙太郎訳「カフカとの対話」よりの引用

 

 
          
4

 

 死んだ人々の影の多くは、死の河の波を啜ることにのみ沒頭してゐる。何故といつて、死の河は我々の所から流出してゐて、なほ我々の海の鹽の味がするからだ。かくして、河は、胸をむかつかせ、逆流して、死人共を再び生に掃きもどす。併し、彼等は狂喜し、感謝の頌歌を唱へ、そして、憤激せる河を抱擁するのである。

 

[やぶちゃん注:原文。

 

 4

Viele Schatten der Abgeschiedenen beschäftigen sich nur damit, die Fluten des Totenflusses zu belecken, weil er von uns herkommt und noch den salzigen Geschmack unserer Meere hat. Vor Ekel sträubt sich dann der Fluß, nimmt eine rückläufige Strömung und schwemmt die Toten ins Leben zurück. Sie aber sind glücklich, singen Danklieder und streicheln den Empörten.

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。

 

 四 おびただしい死者たちの影が、死の河にむらがり、その水をなめることにしか余念がない。死の河が、もともとわれわれ生者から発したもので、われわれの海の塩辛さをまだ保っているからだ。だがやがて死の河は、あまりの嫌らしさにむかっ腹を立てて、逆流しはじめ、死者たちを生の世界へ押しもどしてしまう。ところが、かれらはすっかり幸福になり、感謝の歌をうたい、逆上した死の河をやさしく撫でる。

 

 以下、台詞の引用は総て、私の愛読書であるグスタフ・ヤノーホ著吉田仙太郎訳「カフカとの対話」(筑摩書房一九六七刊)より。

 

 一九二〇年の十一月末か十二月初旬、カフカの結核は進行していた。友人ヤノーホにカフカは近日中(新潮社版全集年譜によれば十二月十八日)にホーエ・タトラ(タトラ高原)のサナトリウムへ療養に赴くことを告げた。ヤノーホが、

 

「できるだけ早くお出かけになることです――可能性がおありなら」

 

と挨拶すると、カフカは悲しげに微笑み、

 

「それは精根を凅らすほどに難しい。じつに多くの生活の可能性があります。ただそのすべてに、己の存在の避け難い不可能が影をおとしているのです」

 

と答え、烈しく咳き込んだが、カフカはそれを素早く鎮めた。ヤノーホが、

 

「そら、その通りです」「すべてがきっとよくなります」

 

と向けると、カフカはゆっくりと、

 

「これで、もういいのです」「私はすべてを肯定したのです。だから苦しみは魅惑となり、死は――、死は甘美な生の、ある一部に過ぎないのです」

 

と答えた。

 

 カフカがタトラへ旅立つ前、別れに行ったヤノーホが、

 

「すっかりよくなって、健康になって帰っていらしゃいます。未来がすべてを償ってくれます。すべてが変わってしまうに違いありません」

 

と挨拶すると、カフカは再び微笑みながら、右手の人差指を自分の胸に当て、

 

「未来はすべて私のここにあるのです。変るということは、隠れた疵が露わになるということにすぎないのです」

 

と答える。不安から黙っていられなくなったヤノーホが思わず、

 

「恢復をお信じにならないのだったら、ではどうして療養所へお出かけになるのです」

 

と投げかけると、カフカは机の上に身を屈めながら、

 

「すべて被告というものは、判決の延期を希って努力するものです」

 

と言った。――

 




 この注は僕にとって非常に意味深いものとなった。何故なら、僕が僕の愛読書たるグスタフ・ヤノーホの「カフカとの対話」を初めて引用したものだからである。
 僕は29の時に本作を読み、唯円の「歎異抄」を読んだ時のような、「こゝろ」の「先生」の生の台詞に不可解な短調の旋律を感じたような、謂わば、
激しい不思議な戦慄を覚えたことを告白しておきたい。
 カフカ好きで、これを読んだことのない方は、是非、お薦めである――というより――読まない方は絶望的に不幸である――と断言しておきたいのである――

 

坂 (散文詩) 萩原朔太郎

 坂 (散文詩)

 坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向うに、別の遙かな地平があるやうに思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。

 坂が――風景としての坂が――何故にさうした特殊な情趣をもつのだらうか。理由(わけ)は何でもない。それが風景における地平線を、二段に別別に切つてるからだ。坂は、坂の上における別の世界を、それの下における世界から、二つの別な地平線で仕切つてゐる。だから我我は、坂を登ることによつて、それの見界(けんかい)にひらけるであらう所の、別の地平線に屬する世界を想像し、未知のものへの浪漫的なあこがれを呼び起す。

 或る晩秋のしづかな日に、私は長い坂を登つて行つた。ずつと前から、私はその坂をよく知つてゐた。それは或る新開地の郊外で、いちめんに廣茫とした眺めの向うを、遠く夢のやうに這つてゐた。いつか一度、私はその夢のやうな坂を登り、切崖(きりがけ)の上にひらけてゐる、未知の自然や風物を見ようとする、詩的な Adventure に驅られてゐた。

 何が坂の向うにあるのだらう? 遂にやみがたい誘惑が、或る日私をその坂道に登らした。十一月下旬、秋の物わびしい午後であつた。落日の長い日影が、坂を登る私の背後(うしろ)にしたがつて、瞑想者のやうな影法師(かげぼふし)をうつしてゐた。風景はひつそりとして、空には動かない雲が浮いてゐた。

 無限に長く、空想にみちた坂道を登つて行つた。遂に登りつめた時に、眼界が一度に明るく、海のやうにひらけて見えた。いちめんの大平野で、芒(すゝき)や尾花の秋草が、白く草むらの中に光つてゐた。そして平野の所所に、風雅な木造の西洋館(せいやうくわん)が、何かの番小屋のやうに建つてゐた。

 それは全く思ひがけない、異常な鮮新な風景だつた。私のどんな想像も、かつてこの坂の向うに、こんな海のやうな平野があるとは思はなかつた。一寸の間(あひだ)、私はこの眺めの實在を疑つた。ふいに思ひがけなく、海上に浮んだ蜃氣樓のやうな氣がしたからだ。

『おーい!』

 理由もなく、私は大聲をあげて呼んでみた。廣茫とした平野の中で、反響がどこまで行くかを試さうとして。すると不意に、前の草むらが風に動いた。何物かの白い姿がそこにかくれてゐたのである。

 すぐに私は、草の中で動くパラソルを見た。二人の若い娘が、秋の侘しい日ざしをあびて、石の上にむつまじく坐つてゐたのだ。

『娘たちは詩を思つてる。彼等の生活をさまたげまい。なぜなら娘たちにとつては、詩が生活の一切だから。けれども僕にとつては! 僕は肯定さるべき所の、何物の觀念でもない!』

 さうして心が暗くなり、悲しげにそこを去らうとした。けれどもその時、背後(うしろ)をふりかへつた娘の顏が、一瞥の瞬間にまで、ふしぎな電光寫眞(でんくわうしやしん)のやうに印象された。なぜならその娘こそ、この頃私の夢によく現はれてくるやさしい娘――悲しい夢の中の戀人――物言はぬお孃さん――にそつくりだから。いくたび、私は夢の中でその人と逢つてるだらう。いつも夜あけ方のさびしい野原で、或は猫柳の涸れてる沼澤地方で、はかない、しづかな、物言はぬ媾曳(あひびき)をしてゐるのだ。

『お孃さん!』

 いつも私が、丁度夢の中の娘に叫ぶやうに、ふいに白日の中(うち)に現はれたところの、現實の娘に呼びかけようとした。どうして、何故(なにゆゑ)に、夢が現實にやつて來たのだらうか。ふしぎな、言ひやうもない豫感が、未知の新しい世界にまで、私を幸福感でいつぱいにした。實にその新しい世界や幸福感やは、幾年も幾年も遠い昔に、私がすつかり忘れてしまつてゐたものであつた。

 しかしながら理性が、たちまちにして私の幻覺を訂正した。だれが夢遊病者でなく、夢を白日に信ずるだらうか。愚かな、馬鹿馬鹿しい、ありふれた錯覺を恥ぢながら、私はまた坂を降つて來た。然り――。私は今もそれを信じてゐる。坂の向うにある風景は、永遠の『錯誤』にすぎないといふことを。

[やぶちゃん注:『令女界』第六巻第九号・昭和二(一九二七)年九月号に所載された。三箇所の太字「のすたるぢや」「あこがれ」「生活」は底本では傍点「ヽ」。初出は総ルビであるが五月蠅いので読みが振れると私が判断したものだけのパラルビとした。

 さて、五段落目であるが、初出の総ルビを復元してみると(踊り字「〲」は正字化した)、

 無限(むげん)に長(なが)く、空想(くうさう)にみちた坂道(さかみち)を登(のぼ)つて行(い)つた。遂(つひ)に登(のぼ)りつめた時(とき)に、眼界(がんかい)が一度(いちど)に明(あか)るく、海(うみ)のやうにひらけて見(み)えた。いちめんの大平野(だいへいや)で、芒(すゝき)や尾花(をばな)の秋草(あきくさ)が、白(しろ)く草(くさ)むらの中(なか)に光(ひか)つてゐた。そして平野(へいや)の所所(ところどころ)に、風雅(ふうが)な木造(もくざう)の西洋館(せいやうくわん)が、何(なに)かの番小屋(ばんごや)のやうに建(た)つてゐた。

である。これ、音読して見ると妙なことに気づく。

いちめんの大平野(だいへいや)で、芒(すゝき)や尾花(をばな)の秋草(あきくさ)が、白(しろ)く草(くさ)むらの中(なか)に光(ひか)つてゐた。

ではおかしくないか?

芒(すゝき)や尾花(をばな)

――これはともにススキのことを指して、屋上屋であるからである。

 実は私は、ここ、朔太郎は、

 芒(のぎ)や尾花(をばな)

と読ませているのではないかと深く疑っているのである。

 即ちここはルビの誤りであると私は解釈するのである。

 総ルビ作品の多くは編集者(校正者)によって施されたものを作家がゲラ校正で確認するのであって、作家自身が入れたものではないことが殆んどである(泉鏡花のように総ルビ原稿を書いた作家もおり、また、特別な読みを要求する場合は作家自身が原稿にルビを振る例外も勿論あるが、朔太郎の未発表詩篇や草稿詩篇を見る限り、彼は滅多にルビを振っていない)。

 「芒」はススキ自体の総名であり、「尾花」はススキの花(穂)を特化して指す語であるが、そう解釈してみたところで、「いちめんの大平野で、芒(すゝき)や尾花(をばな)の秋草が、白く草むらの中に光つてゐた」というのが屋上屋であることに変わりはない。

 そう考えると、実は「芒」は「のぎ」(「ぼう」という音読みでは「おばな」とのバランスが悪い)と読んで――広くイネ科植物類の小穂を構成する鱗片、穎(えい)の先端にある棘状突起からそうした雑草類を総称するところの――「のぎ」を意味していると私は読むのである。従ってここは、

 無限に長く、空想にみちた坂道を登つて行つた。遂に登りつめた時に、眼界が一度に明るく、海のやうにひらけて見えた。いちめんの大平野で、芒(のぎ)や尾花(をばな)の秋草が、白く草むらの中に光つてゐた。そして平野の所所に、風雅な木造の西洋館が、何かの番小屋のやうに建つてゐた。

と校訂される(るびが振られる)のが正しいと考えるものである。なお、底本の初出の上に掲げられた校訂本文では、

「理由(わけ)」

「切岸(きりぎし)」(「切崖(きりがけ)」を誤字として校訂したもの)

「背後(うしろ)」

の三箇所にしかルビが振られておらず、ここはただ「芒や尾花の秋草が」となっているのみである。校訂本文にルビが振られなかったからこそ、実はこれは、今まで問題にされなかったとも言えるように思われる。

 たかが「芒(のぎ)」されど「芒(のぎ)」――]

うしろをむいた薔薇 大手拓次

 うしろをむいた薔薇

ばらよ、
おまへはわたしのしらないまにさいてしまつた。
わたしのむねにありともしない息をふきかけて、
おまへはつつましくさいてしまつた。
にほひのきえようとするはるかなばらのいとほしさよ、
もつとわたしへ手をのばしてください、
ふしめして、うなだれて、うしろをむいた白ばらの花よ。

鬼城句集 夏之部 田草取

田草取   田草取田の口とめて去にゝけり

      二番草取つて八專晴にけり

[やぶちゃん注:「二番草」「にばんぐさ」は田植え後に行う二回目の除草。「八專」暦で干支の十干と十二支の五行が合う比和(ひわ)の日を言う。壬子から癸亥の一二日間のうちで間日(まび:八専の期間内でも同気の重ならない丑・辰・午・戌の四日。)を除いた八日。十干と十二支に五行を割り当てた際に干支の気(五行)が重なる日が全部で十二日あり、そのうちの八日が壬子から癸亥までの十二日間に集中していることから、この期間を特別な期間と考え、「専一」(同一の気を専らにする)と言い、それが八日分あることから「八専」と言う。年に六回あって、本来は吉はますます吉となり、凶はますます凶となるとされていたが、次第に凶の性質のみが強調されるようになり、現在では何事もうまく行かない凶日とされているようである。一説には棟上げは吉、結婚・畜類売買・神事仏事は忌むとする。八専の第一日目を「八専太郎」と称し、この日が雨(晴れ)なら他は晴(雨)とするともあり(以上は中経出版「世界宗教用語大事典」及びウィキの「八専を参照した)、この中七下五の謂いはランドスーケープの鮮やかなヴィジュアルの他に、稲田の二番草が梅雨時期の始めか直前に行われたものとすれば(ただの思い付きでそういう事実については確認はしていない。ネット上で見つかるのは田の除草ではなく牧草の収穫データばかりで、そこでは梅雨時期の後に二番草収穫とする)、その日は抜けるような青空だった、だから後の七日は稲のためにしっかりと雨が降ってくれるという、農民の思いをも意味しているものではなかろうか? 農事識者の御教授を乞うものである。]

2013/07/12

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 1

 第六章 漁村の生活

M146 

図―146

 今朝我々の小実験所が出来上った。曳網の綱と、その他若干の品物とが届きさえすれば、すぐに仕事に取りかかることが出来る。私は戸に南京(ナンキン)錠と鐉(かけがね)とを取りつけた。仕事をしていると男、女、娘、きたない顔をした子供達等が立ち並んで、私を凝視しては感嘆これを久しゅうする。彼等はすべて恐ろしく好奇心が強くて、新しい物は何でも細かに検査する。現に今もこうして書いていると、家の女が三人、おずおず入って来て私が書くのを見つめている。日本人の物の書きようが我々にとって実に並はずれに思われると同様、我々の書きようも珍しいのである。彼等は筆を垂直に持って書くが、行はページの上から下へ到り、ページの右から始めて左の方へ進行する。我々はペン軸を傾けて持ちへ釘のようにするどい金属の尖点を使用して、彼等の濃く黒い印度(インド)インクに比べると水っぽいインクで物を書く。日本のインクは、書くごとに、墨をすってつくらねばならぬのである。これ等の女は、私の机の上の物の一々に就いて、吃驚したような評論を与えた――瓶、壺、顕徴鏡はまだしも、海泡石のパイプは、彼等の小さな、金属の雁首を持つパイプに比べたら、象みたいに大きく思われるに違いない。

[やぶちゃん注:以下、明治一〇(一八七七)年七月二十六日、一時的なものではあったが、モースが「太平洋岸で唯一の動物学研究所」と喜んだ日本最初の臨海実験所の落成の日であった(磯野前掲書)モースらは早速、採集を始めようとしたが、前章末に示した通り、大型台風が接近しており、それどころではなく、折角、配置した諸実験器具も岩本楼へ避難させなくてはならなくなり、モースは一夜にして実験所が波浪に流されてしまう虞れをさえかなり本気で抱いていた事実が分かる。]

M147 


図―147

 戸に南京錠をつけた後、我々はアルコール二罐、私が横浜で買った沢山の硝子(ガラス)の壺、曳網その他、実験所用の材料を運び入れた。この建物は石の海壁のとっぱなに建っていて、前を小径が通っている。図146は江ノ島の略図である。四方すべて高く切り立っているが、只本土に面した方の鳥居を通りぬけて狭い砂洲に出る場所はそうでない。ここ迄書いた時、嵐は叫び声をあげる疾風にまで進んだ。私は実験所がいくらか心配になって来たので、雨外套を着て狭い往来を嵐と戦いながら降りて行き、その下の方では舟をいくつも乗り越した。その付近の家の住民達は、すべて道具類を島の高所にある場所に移して了った。我々の建物の窓から見た光景は物凄かった。大きな波が、今や全く水に覆れた、砂の細長い洲の上に踊りかかっている。その怒号とその光景! 危険の要素が三つあった。実験所の建物が吹き飛ばされるかも知れないこと、故にさらわれるかも知れぬこと、石垣が崩れるかも知れぬことである。我々が番人として雇った男がどうしても実験所で寝ることを肯じないので、彼及び他の人々の手をかりて、我々はその朝荷を解いて並べた壺を沢山の桶につめ込み、アルコール、曳網その他動かせる物を全部持って、やっとのことで本通りへ出、そして私の泊っている宿屋へ持って来た(図147)。床に入った後で、吹きつける雨が、戸がしまっているにも拘らず、私の部屋に入って来たので卓子(テーブル)その他を部屋の反対側へ動かした。私は畳の上に寝ていたが、まるで地震ででもあるかのように揺れ、夜中の間に嵐が直接に私を襲いはしまいかと思われる程であった。目をさますと嵐は去っていたが、海は依然として怒号を続けていた。実験所へ行って見た結果、この建物が、こんなに激しく叩きつけられても平気でいる程、しっかり建てられていることが判った。建物の両側の石垣は、所所流されていたが、幸にも我々の一角はちゃんとしていた。道路の低い場所は、四フィートの深さに完全に押し流されて了った。波は依然として、島と本土とをつなぐ砂洲を洗っているので、人々は両方から徒渉し、背中に人を背負ったのもいた(図148)。向う岸で巡礼の一隊が渡るまいかと思案していたが、大きな笠を手に、巡礼杖を持ち、小さな青旗をヒラヒラさせた所は、笠と杖とが盾と武具とに見えて、まるで野蛮人の群みたいであった。今使者が入って来て、実験所宛にいろいろな品が着いたが、波のために島まで持って来ることが出来ぬと告げた。波が鎮まったら初めて手に入れることになるだろう。

M148

図―148

[やぶちゃん注:「四フィート」約1・2メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 22 了

M144

図―144

 江ノ島で必要とする品物数点を買い求めて正午出発、十八マイルの路を人力車で帰る。実にひどい暑さであった。汗は大きな水滴になって私の顔や手につき、車夫は湯気を立てんばかりであったが、蒸発が速いので耐え忍ぶことが出来る。恰も職人達が群をなして寺々を廻る時節なので(七月末)、街道には多勢巡礼がいた。これは実は田舎を歩き廻ることになるのだが、彼等はこの休暇に神社仏閣を廻って祈禱をいい、銅貨を奉納する信仰的精神をつけ加える。彼等は十数人位の団体をなして出かけ、二、三人ずつかたまってブラブラと道を歩く。彼等はたいてい同じような木綿の衣服――ゆるやかな寛衣(かんい)みたいなもの――を着ているので、制服を着ているようにさえ見える。中には腰のあたりに鈴をつけている者もある。これは一足ごとにチリンチリンいう。暑い時には裾をまくり上げて脚をむき出す。図144は巡礼二人である。彼等はいつでもいい機嫌で、こちらが微笑すると微笑し返す。

[やぶちゃん注:「正午出発」これは翌日の七月二十五日のこと(磯野前掲書に拠る)。

「恰も職人達が群をなして寺々を廻る時節なので(七月末)、街道には多勢巡礼がいた」これは旧暦七月十五日前後に行われていた盂蘭盆(及び盆休み)を指していよう。現在は概ねどこも新暦八月十五日に行っているが、新暦(グレゴリオ暦)の本邦での採用は、本記載に先立つ四年前の明治六(一八七三)年一月一日のことであり、未だこの頃は恐らくそうした切り替えの認識がまちまちで、実際の新暦七月十五日前後に盂蘭盆を行っていたものとも思われる。実際、つい最近まで東京・横浜・静岡旧市街地などにあっては新暦で行っていた地域も多い(ウィキの「お盆」に拠る)。また、七月二十五日の午後(前日の午後も同じルートを逆走している)で藤沢から横浜にかけてとなると、私はモースがこの時見た「巡礼」一行の中には、大山参りの盆山(七月十四日から十七日朝までに阿夫利神社(大山石尊)に参詣する行事)の帰るさに江の島・鎌倉などの寺社を巡っている連中が含まれていたのではないかとも推測する。

「彼等はたいてい同じような木綿の衣服――ゆるやかな寛衣みたいなもの――を着ている」これは図から見るに着流しのようである。]

M145

図―145

 我々は途中で、恐らく寺の燈籠と思われる、大きな青銅の鋳物を運搬して行く群衆に追いついた。その意匠は透し彫だった。それは長い棒からつるされ、棒の前方には横木があって、その両端を一人ずつでかつぎ、後方は多分素敵な力持ちと思われる男が、一人で支えていた(図145)。これ等の人々は白地の衣服を着ていたが、その背中には右の肩から腰にかけて漢字が書いてあり、鋳物にも文字を記した小旗が立ててあった。彼等は休むために荷を下すと、みんなそろって奇妙きわまる、詠歌みたいなものを唄った。路上ではこのような珍しいものにいろいろと、行き違ったり、追いついたりする。

[やぶちゃん注:銅製で透彫りの入った燈籠のようなもの。……図ではごちゃごちゃして事実燈籠であるかどうかは現認出来ない(が、燈籠の可能性は大きいように思われる)。搬出の情景もすこぶる印象的ではないか。……これが何で、何処で観察されたか、そうして何処へ運ばれたものかが分かると面白いのだが。……まだ何処かにこれが残っていることを、私は僅かに期待さえしているのである。……]

 私の部屋から海を越して富士山が実に立派に見える。入江が家から五十フィートの所まで来ているので、面白い形をした舟にのっている漁夫達が常に見える。そして夜、獲物を積んで帰って来る時、彼等は唱応的に歌を唄う。一人が「ヒアリ」というと他の一人が「フタリ」といい――すくなくともこんな風に聞える――そして漁夫達は、片舷片舷交代で漕ぎながら艪(ろ)の一と押しごとにこの叫びを上げる。日本の舟は橈(かい)で漕ぐのでなく舷から艫で漕いでやるのである。

[やぶちゃん注:「五十フィート」約15メートル強。

『一人が「ヒアリ」というと他の一人が「フタリ」といい』原文は“"Hiari!" and the other, "Ftari!"”。……この掛け声はどんなものだったのだろう?……「ヒアリ」は何となく「やれ!」「やあれ!」という感じではある。……ああ、夕暮れの江の島の漁師の帰り舟の艪の音とそれが幻しのように聴こえてくるではないか……]

 横浜からの帰途例の砂洲を横切りながら私は長い、大きなうねりが太平洋から押し寄せて来るのに気がついた。これは外洋で、大きな暴風雨が起りかけていることを示している。其後風は勢を増しつつあったが、今や最大の狂暴を以て吹きつけている。そして、今こうやって書いている私の耳を風と波が一緒になった凄じい怒号が襲う。今日の午前、天地瞑濛(めいもう)になる迄は、長いうねりが堂々と押し寄せ、陸から吹く風が波頭から泡沫のかたまりをちぎり取って、空中高く吹き廻す有様はまことに素晴しかった。入江はすくなくとも五マイルの幅を持っているが、うねりもその長さ全体に及びすくなくとも三百フィートの間隔を置いて、高さも非常に高く、そして寄せて来る半円形の波からちぎられた飛沫(しぶき)は、蒸気のように白くて、私が今迄に見た何物よりも荘厳であり、また海岸で立てる雷のような音は、陸地の数マイルはなれた場所ででも聞えたに違いない。この嵐は台風である。これがどれ程強くなるかは誰も知らないが、とにかく私が今迄経験したどの嵐よりも強く、そして益々狂暴の度を加えつつある。往来の最低部は汲をよけて引き上げた漁夫の舟で完全に閉塞され、家はいずれも雨戸をとざし、空気は暑くて息づまる程である。私の部畳は特に嵐に面していはしないので、雨戸もしめてはない。だから嵐に閉じ籠められながら、私はこの記録を続けて行こう。

[やぶちゃん注:この台風は事実、大型で翌二十六日に襲来(磯野前掲書)、その様子が次の「第六章 漁村の生活」の最初に活写されている。……それにしても! 何て素敵な叙述であることか! モース先生、颱風倶楽部だったんだなぁ!

「五マイル」約8キロ。モースの定宿であった岩本楼の位置から、この「入江」というのは湘南海岸の片瀬川河口から西浜を経て茅ヶ崎東海岸から姥島(烏帽子岩)まで辺りの相模湾を指しているものと考えられる。東海岸の現在ある人口のT字型の突堤までが約7キロメートルで、ここから烏帽子岩まで延ばすと丁度8・5キロメートルほどになる。

「三百フィート」約91メートル。]

新約全書 萩原朔太郎

       ●新約全書

 舊約全書の對照として、イエス・キリストの新約全書は、なんといふ涙ぐましい、愛のセンチメントに充ちた抒情詩だらう。舊約から新約に移つて來る時、吾人は電光の空に閃めく、暗夜の物すごい暴風雨から、急に明るい花園に出て、春の微笑を感ずるやうな、氣温の驚くべき變化を感ずる。それはあの憤怒に燃えてる、殘忍酷薄の神に對して、柔和な博愛の神を畫き、悲壯な惡魔主義の詩に對して、愛のセンチメンタルな詩を歌つてゐる。

 この人道主義の抒情詩は、しかしながら多くの猶太人に悦ばれなかつた。なぜなら耶蘇の説いたところは、猶太人の鬱屈された叛逆心と、その不撓不屈の惡魔的復讐心とに反説して、却つて境遇へのあきらめを説き、敵を愛することを教へ、權力への無抵抗と、愛によつて慰めらるべき、虐たげられた者の悲しい平和とを教へたから。すべてに於てその福音は、猶太人の長い希望を斷念させ、力の及ばない復讐への、無益な妄想を絶望させた。しかもナザレのイエスは、自ら神によつて使はされた、眞の救世主であると稱した。一方で猶太人等は、彼等の病熱的な幻想にまで、どんな救世主を待つてゐたか? 彼等はエホバに於ける如く、憤怒と復讐の狂熱に燃え、火と水と電撃とから、世界の全人類を盡殺して、長く虐たげられたカナンの民を、煉獄から自由に導いてくれるところの、眞の救世主を待つて居たのだ。どうしてあの柔和のイエスが、エホバの實の子で有り得るだろう。イエスは神の豫言を僞わり、彼の同胞たる猶太人を、支配階級の權力者に隷屬させて、反抗もなく復讐もないところの、無力な永遠の家畜――柔和な仔羊にしようとした。のみならず彼は、猶太人の悲痛な希望であるところの、唯一のはかない未來の夢――彼等はただそれのみて生活してゐる――を破壞し、聖書によつて舊約された、すへてのロマンチシズムを幻滅させた。猶太人等がイエスを憎み、欺僞の豫言者として十字架に磔刑したのは、もとより當然すぎる次第であつた。

 しかしながら羅馬人等は、むしろイエスに同情して居た。そして耶蘇の新思想が、正しく理解された後になつては、それが羅馬の國教となり、そして一般に多くの屬國と隷屬民とを有するところの、統治者の國々に採用された。彼等の支配階級者は、それによつて屬邦の民を軟化し、叛逆への意志を絶斷させると同時に、國内に於ける奴隷や貧民やの、多くの逆境にある民を教化し、運命への悲しきあきらめと、無抵抗の平和な滿足とから、統治權に對する不平を抑え、民衆を心服させようとしたのである。しかも世界の中で、獨りただ猶太人だけが、執拗にも彼等の信仰を固持して居り、すべての迫害と強制にかかわらず、斷じて基督教への歸依を拒んで來たのであつた。

 今! 基督教は既に凋落し、新約全書はその信仰と抒情詩をなくしてしまつた。けれども一方の猶太教と、その舊約全書の精神する哀切悲痛な敍事詩的思想とは、何等かの新しき變貌した姿に於て、人類の遠き未來にまで、ずつと永續した信仰をあたへるだらう。我々は尚今日生きて居るヨブについて、その實在の姿を見、傳記を書くことができるのである。

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「意志と忍從もしくは自由と宿命」より。二箇所の太字「あきらめ」は底本では傍点「ヽ」。私はこの最後の朔太郎の謂いに大いに共感するものである。私にとって如何なる宗教者の秘蹟も――退屈で――子供騙しの――大根役者だらけの茶番劇にしか過ぎぬ。――そんな中で私にはヨブが――ただヨブ独りが――ザインとしてのすこぶるリアルな『人間』として――立ち現われてくるのである。――私はユダを復権するべく、今、その伝記が書かれねばならぬという昔からの思い以上に――ヨブの実像をこそ新たに――人が人の物語として書くべきものである――と信じて疑わぬのである。――]

悪魔の書 萩原朔太郎

      ●惡魔の書

 舊約全書! 人間の書いた書物の中で、これほどにも悲壯な、傷ましい、敍事詩的精神の高唱された文學がどこにあろうか! 舊約全書のすべての記事は、神に對する人間の叛逆と、虐たげられたる非力の者の、絶對權力に對する忍從の齒ぎしりで充たされている。

 見よ! 創世記の初めからして、人間は神に逆らい、不逞にも禁斷の果實を盜んで、無慙に樂園を追い出されて居る。しかも彼等の子供たちが、一度でもそれによって後悔し、神への隷屬を誓つたか? 反對に人間は、益〻叛逆の意志を強め、ノアの洪水によつて滅ぼされる迄、あらゆる不逞の罪惡を犯して來た。そして洪水が去つた後では、再度その同じ刑罰から脱れるために、大膽にも神と抗爭して、天に屆くバベルの高塔を建設した。到るところに人間は、神への叛逆を繰返し、そして萬軍の主なるエホバは、憤怒と復讐に熱しながら、彼の憎惡する人間を嚴罰すべく、無限の權力を以て電撃した。

 舊約全書のすべての記事は、人間の虐たげられた非力を以て、全能の神と戰はうとするところの、悲痛な、いたましい、不撓不屈の歷史である。あのヨブ記に於て高調されてる、敍事詩の精神は何を語るか? あれほどにも虐たげられ、神のあらゆる殘忍な刑罰と、運命の執拗な試煉とを受けながら、いかに長い間齒ぎしりして、不撓不屈の忍從を續けて居たか。ヨブ記に書かれた人物こそは、實に舊約全書の精神を表象してゐる、猶太悲壯劇の主人公(ヒーロー)である。(ついでに言つておくが、近時の聖書史家の調査によれば、ヨブは實在の人物であり、しかも聖書に書かれたものと、或る一つの點でちがつてゐる。實在人物としてのヨブは、あらゆる不運な天災にも氣屈しないで、最後まで神を呪ひ、さうした不合理な天意に對して、復讐を絶叫しつつ死んだのである。聖書の記事は、この點で神意をはばかり、別の潤色を加えて居る。)

 舊約全書こそは、明白に猶太人の歷史である。あの虐たげられ、迫害され、國を奪はれて漂泊してゐる民族の、壓制者に對する鬱憤と、あらゆる逆境に忍從して、永遠の復讐を誓つた歷史である。彼等は弱者の非力を以て、萬能の權力に抗爭しつつ、いつかは救世主の出現から、最後の榮光を勝ち得る希望を忘れなかつた。あの怒と復讐の神エホバこそは、すべての猶太人が夢みた幻想であり、正しく天の一方に實在して居た。彼はその全能の力によつて、火と水と電撃とから、地上のあらゆる壓制者と、權威によつて榮える人類の一切とを、いつかは蟲けらのように蹈みつぶし鏖殺し盡さねば止まないだらう。聖書の記者と猶太人とは、その遠い未來を信じ、血みどろの復讐によつて勝利される、最後の審判の物すごい日を、その民族的妄想の幻覺に浮べて居た。まことに舊約全書こそは、人間によつて書かれた書物の、最も深刻悲痛の敍事詩であり、惡魔主義の精神を高調した、世界最高の文學である。

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「意志と忍從もしくは自由と宿命」より。私は二十代に初めて「旧約聖書」の「ヨブ記」を読み、ヨブに激しく心打たれ、ヨブの隣人は勿論、ヤハウェの理不尽さに義憤を覚え、ユングの「ヨブへの答え」を読むに及んで遂に、ヨブは明らかに神を超えていると実感した勝手なヨブの私設親衛隊長である。私はこの萩原朔太郎の恐らくは信者からは冒瀆的とされるであろうヨブへの讃歌に、全面的に共感するものである。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 3

 

 

          3

 

 凡ての他の罪惡がそこから生ずる根元的な罪惡が二つある。性急と怠惰。性急の故に我々は樂園から追出され、怠惰の故に我々はそこへ歸ることができぬ。倂しながら、恐らくはたゞ一つの根元的な罪惡があるのみであらう。性急。性急の故に我々は追放され、又、性急の故に我々は歸ることができない。

 

[やぶちゃん注:原文。

 

 

 3

 

Es gibt zwei menschliche Hauptsünden, aus welchen sich alle andern ableiten: Ungeduld und Lässigkeit. Wegen der Ungeduld sind sie aus dem Paradiese vertrieben worden, wegen der Lässigkeit kehren sie nicht zurück. Vielleicht aber gibt es nur eine Hauptsünde: die Ungeduld. Wegen der Ungeduld sind sie vertrieben worden, wegen der Ungeduld kehren sie nicht zurück.

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。

 

 三 人間には二つの主要な罪があり、他の罪はすべてこれに由来する。すなわち焦りと投げやり。人間は、焦りのために楽園から追われ、投げやりのためにそこへ戻れない。しかしほんとうは、ただ一つの主要な罪、焦りがあるだけかもしれない。焦りのために楽園から追われ、焦りのために戻れないのである。

 

 誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に對する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を傳へたいと思つてゐる。尤も僕の自殺する動機は特に君に傳へずとも善い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の爲に自殺するかを彼自身も知つてゐない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を發見するであらう。しかし僕の經驗によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の爲に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行爲するやうに複雜な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の將來に對する唯ぼんやりした不安である。……附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。

 

芥川龍之介「或舊友へ送る手記より。]

 

4:07の蜩

今日は何故か独りきり――

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 2

 

 

          2

 

 すべての、人間の過失は、性急といふことだ。早まつた、方法の放棄、妄想の妄想的抑壓。

 

[やぶちゃん注:原文。

 

 2

 

Alle menschlichen Fehler sind Ungeduld, ein vorzeitiges Abbrechen des Methodischen, ein scheinbares Einpfählen der scheinbaren Sache.

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。

 

 二 人間のあらゆる誤ちは、すべて焦りからきている。周到さをそうそうに放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる、性急な焦り。

 

 中島敦「山月記」より。

 

……いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に歸臥し、人と交を絕つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに炯々として、曾て進士に登第した頃の豐頰の美少年の俤は、何處に求めやうもない。數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。一方、之は、己をのれの詩業に半ば絕望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。彼は怏々として樂しまず、狂悖の性は愈〻抑へ難くなつた。……

 

引用元は私のテクスト。]

まぼろしの薔薇 大手拓次

 まぼろしの薔薇

   1

まよなかにひらくわたしの白(しろ)ばらよ、

あはあはとしたみどりのおびのしろばらよ、

どこからともなくにほうてくる

おまへのかなしいながしめのさびしさ、

夜(よ)ごと夜(よ)ごとまぼろしに咲くわたしのしろばらの花。

[やぶちゃん注:本詩に就いては、昭和五〇(一九七五)年現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」の当該詩を見ると、

   1

まよなかにひらくわたしの白(しろ)ばらよ、

あはあはとしたみどりのおびのしろばらよ、

どこからともなくにほうてくる

おまへのかなしいながしめのさびしさ、

ああ、

夜(よ)ごと夜(よ)ごとまぼろしに咲(さ)くわたしのしろばらの花。

と、「ああ、」という一行が五行目に存在しており(「咲(さ)く」にルビもあり)、これが正しい詩形と思われる。]

   2

はるはきたけれど、

わたしはさびしい。

ひとつのかげのうへにまたおもいかげがかさなり、

わたしのまぼろしのばらをさへぎる。

ふえのやうなほそい聲でうたをうたふばらよ、

うつくしい惱みのたねをまくみどりのおびのしろばらよ、

うすぐもりした春のこみちに、

ばらよ、ばらよ、まぼろしのしろばらよ、

わたしはむなしくおまへのかげをもとめては、

こころもなくさまよひあるくのです。

   3

かすかな白鳥(はくてう)のはねのやうに

まよなかにさきつづく白(しろ)ばらの花、

わたしのあはせた手のなかに咲(さ)きいでるまぼろしの花、

さきつづくにほひの白ばらよ、

こころをこめたいのりのなかに咲きいでるほのかなばらよ、

ああ、なやみのなかにさきつづく

にほひのばらよ、にほひのばらよ、

おまへのながいまつげが

わたしをさしまねく。

   4

まつしろいほのほのなかに、

おまへはうつくしい眼(め)をとぢてわたしをさそふ。

ゆふぐれのこみちにうかみでるしろばらよ、

うすやみにうかみでるみどりのおびのしろばらよ、

おまへはにほやかな眼をとぢて、

わたしのさびしいむねに花をひらく。

   5

なやましくふりつもるこころのおくの薔薇(ばら)の花よ、

わたしはかくすけれども、

よるのふけるにつれてまざまざとうかみでるかなしいしろばらの花よ、

さまざまのおもひをこめたおまへの祕密のかほが、

みづのなかの月のやうに

はてしのないながれのなかにうかんでくる。

   6

ひとひら、またひとひら、ふくらみかけるつぼみのばらのはな、

そのままに、ゆふべのこゑをにほはせるばらのかなしみ、

ただ、まぼろしのなかへながれてゆくわたしのしろばらの花よ、

おまへのまつしろいほほに、

わたしはさびしいこほろぎのなくのをききます。

   7

朝ごとにわたしのまくらのそばにひらくばらのはな、

きえてゆくにほひをとどめて、

しづかにうれひをひろげるしろばらのはな、

みどりの葉はひとつひとつのことばをのこして、

とほくきえてゆくまぼろしの白ばらのはな。

   8

ゆふぐれのかげのなかをあるいてゆくしめやかなこひびとよ、

こゑのないことばをわたしのむねにのこしていつた白薔薇(しろばら)の花よ、

うすあをいまぼろしのぬれてゐるなかに

ふたりのくちびるがふれあふたふとさ。

ひごとにあたらしくうまれでるあの日のばらのはな、

つめたいけれど、

ひとすぢのゆくへをたづねるこころは、

おもひでの籠(かご)をさげてゆきます。

鬼城句集 夏之部 藥玉

藥玉    藥玉をうつぼ柱にかけにけり

[やぶちゃん注:「藥玉」「くすだま」は端午の節供に用いる飾り物。元は中国から伝来した習俗で、現地では続命縷(しよくめいる)・長命縷・五色縷などと称し、五月五日にこれを肘にかけると邪気を払って悪疫を除き、寿命を延ばすとして古くから用いられてきた(端午の節供の時節は香草・薬草を含む山野草の繁茂する時期で、玉に繋がる五色の糸は万物の運航生成を支配する五行の調和を表象するものであった)。本邦では宮中の習わしとして始まり、当初は菖蒲と蓬(よもぎ)の葉などを編んで玉のように丸く拵え、これに五色の糸を貫いたり、菖蒲や蓬の花を挿し添えて飾りとした。室町より後は薬玉を飾る花は造花となって、皐(さつき)・菖蒲といった季節の花が用いられ、また中には麝香・沈香・丁子(ちょうじ)・竜脳などの薫薬(くんやく)を入れたため、薬玉は匂い入りの玉飾りとなった。この時、飾ったものは九月九日の重陽の節句に香りの減じたそれを新しい茱萸袋(しゅゆぶくろ)に取り替えたりした。現在の祭礼やイベント用のくす玉はこれがルーツである(以上は平凡社「世界大百科事典」及び、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の端午の節供の薬玉の記事を参照させて戴いた)。

「うつぼ柱」空柱。「うつほばしら(うつおばしら)」。雨樋として用いる中空の柱。]

2013/07/11

耳嚢 巻之七 商家義氣の事 (商家義氣幷憤勤の事)

 商家義氣の事

 近き比(ころ)の事也とや、伊勢より一所に江戸表に出しとや、また同じ親方に仕へ、一同に別家の店もちける也。貮人ながら兩替屋を出しけるに、殊の外身上を仕廻し相應に金銀も繰廻し右德にくらしけるが、素より懇意に致(いたし)甚だ心安く、斷琴の交り成(なり)しが、右の内壹人相果て、其子の代になりしに年若故、遊興等に得□身上六ケ敷(むつかしく)、最早戸をも建(たて)んと思ふ心に成しが、去(さる)にても親の代わけて懇意の事故、今壹人の老人の方へ至りて相談なさば元手金(もとで)も合力(こふりよく)なさんもと思ひて、彼(かの)老人申けるは、親仁さまより懇意の事故、其事をも申出しけるが、當時我等迚も金子手廻り候間、貮三百兩の金用立遣し度候得共(たくさふらえども)、親に似ぬ其許(そこもと)にかすべき金はなし、かく恥しめを無念と思ひ給はゞ、何卒心底より改(あらため)稼ぎ給へと申(まうし)けるにぞ、彼もの恥入(はぢいり)詮かたなく宿へ歸りしが、去にても我身を後悔して助力を賴(たのみ)しに、かく恥し事無念の次第也、いかさまにも致(いたし)て身上取直し、此恥を雪(そそぐ)べしと大に怒りて、夫よりは通路(つうろ)もなさず身を□て稼(かせぎ)けるが、其志の爲(なす)所にや、三年程に元の如くの身上と也し由。是を聞て彼老人、金百兩を懷中して、彼若き商人の方へ來りて、三年以前汝を恥しめし以來憤り候と見へて通路もなし、右は其砌金貮百金かし候ても、御身の心根より屈伏無(なき)事故、害は有共(あるとも)長久の謀(くはだ)てなし、されば我恥しめしを忿怒して、斯(かく)身の上も取直されたる段、悦ばしき事也、今百金用立は聊かながら百金は目に立(たつ)福分也とてあたへければ、彼若者も其志しを感伏しけるが、百金は借用も同樣也、當時入用も辨じ候迚相歸しぬ。其後彼老人も身まかり貮代目になりて、此貮代目は遊興等もなさゞりしが、不仕合にて身上しもつれ、前に引替(ひきかへ)貧しくくらしけるを、彼百金を不受(うけず)、親の代の事もあれば助力の事も不申入(まうしいれず)、欝々とくらしけるを、彼若者是を聞て、老人の貮代目の方え來り、志を建(たて)身上取直し給へ、我も親仁の諫行(かんぎやう)に恥て身上取直したり。是を元になし給へと貮百金を借(かし)けるが、此貮代目も其志諫(かん)に勵(はげま)されしや、無程(ほどなく)元の如くに身の上を取直しけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:町屋商家の人情咄で連関。既に示した通り、四つ前の話の冒頭か本話の標題と冒頭とが錯文している。そちらの標題「商家義氣幷憤勤の事」こそがこれに相応しい(四つ前の話は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にある「鄙婦貞烈の事」で、それで訳した)ので、現代語訳はそれを用いた。
・「右德」底本では、右に『(有德)』(「うとく」と読む)と訂する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「有徳」。
・「斷琴の交り」最も心の通い合う友情のこと。春秋時代の琴の名手であった伯牙(はくが)が、自分の奏でる琴の音を心から理解してくれた友人鍾子期が死んだ後は、琴の弦を断って弾かなかったという「列子」湯問篇の故事に由る成句。
・「年若故、遊興等に得□身上六ケ敷、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
 年若(わか)故遊興等に染み段々身上六ケ敷(むつかしく)、
とある。ここはバークレー校版で訳す。なお、この「染み」は「そみ」とも「なじみ」と訓じ得る。
・「建ん」底本では、「建」の右に『(閉)』(「うとく」と読む)と訂する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『たてん』と平仮名書き。
・「去にても親の代わけて懇意の事故、今壹人の老人の方へ至りて相談なさば元手金も合力なさんもと思ひて、彼老人申けるは」底本には、「思ひて」の後の読点の右に『(ママ)』注記がある。そこで岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは(本文と合わせるために恣意的に正字化し、踊り字「〱」は「々」に代え、読みも歴史的仮名遣に直した)、
 「さるにても親の代かけて懇意の事(こと)故、今壱人の老商の方へ至(いたり)て相談なさば元手(もとで)金も合力(かふりよく)なさん」と思ひて、彼(かの)老商の方へ至り、「斯(かく)々の事にて身上もたて續(つづき)がたき」と申(まうし)ければ、彼老商申けるは
となっていて、脱文であることが判明する。ここもバークレー校版で訳した。
・「其事をも申出しけるが、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
 其事をも申出しけるか。
となっている。この方が訳し易い。バークレー校版で採る。
・「かく恥し事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
 斯く恥しめし事
となっている。バークレー校版で採る。
・「身を□て稼けるが、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
 身命を抛(なげうち)て稼(かせぎ)けるが、
となっている。バークレー校版で訳した。
・「雪(そそぐ)」は底本のルビ。
・「謀(くはだ)て」は底本のルビ。
・「此貮代目も其志諫に勵されしや」底本では、「諫に」の右に『(ママ)』注記があるが、これは不審。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も全く同じで長谷川氏は特に注しておられない。鈴木氏はこの直前の、かの男が自分の過去の経験を述べたことを「諫」めとは採れない(実際にはこちらは金を貸しているから)とお考えになったのであろうが、これは私は立派に正しい「諫」めであると、私は思う。
・「目に立福分也」岩波版で長谷川氏は(但し、バークレー校版ではここは『目に見ゆる福分也』となっている)、『以前のように無駄に費消することなく、有効に利益をあげられる。』と注しておられる。
・「當時入用も辨じ候迚相歸しぬ」この部分、私にはすこぶる難解であった。私は取り敢えず百両を受け取ったと解した。大方の御批判を俟つものである。
・「彼百金を不受、親の代の事もあれば助力の事も不申入、欝々とくらしけるを、彼若者是を聞て」この冒頭の「彼百金を不受」は不審。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここが(本文と合わせるために踊り字「〱」は正字に代え、読みも歴史的仮名遣に直した)、
 親代(おやだい)の事もあれば助力の事も不申入(まうしいれず)、うつうつと暮しけるを、彼百金不請(うけざる)若商是(これ)を聞て、
となっており、すこぶる分かり易い。やはり、これで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 商家の仁義并びに発憤して勤めて身上(しんしょう)を取り戻したる事

 近き頃のことであるとか。
 何でも、伊勢より一緒に江戸表へ出て参ったとか申し、また、同じ親方に仕え、同時にまた、暖簾分けを許され、それぞれのお店(たな)を持った二人の商人が御座った。
 二人とも、同じく両替屋の看板を出し、商いも右肩上がり、両人ともに殊の外、富裕なる身と相い成って、相応に蓄財の運用もうまく致し、いやさかに栄えて御座ったと申す。
 が、もとより、二人、昔馴染みなれば、懇意に致いて、はなはだ心安う、謂わば、まさに「断琴(だんきん)の交り」とでも申そうず付き合いで御座ったと申す。
 ところが、このうちの一人が相い果て、そちらは子の代となったれど、年若のことゆえ、遊興なんどにも、つい深く染まって、瞬く間に身上(しんしょう)を潰しかけ、最早、店を畳むしかあるまい、なんどと思い込むほどになったと申す。
 ところがそこで、
 『……あっ……そういえば……お父っあんの代に、別っして懇意にして下すった、あの同業のお方が御座った!……今の、この折り……あのご老人が方へ参って相談致さば……きっと元手金(もとで)なりと、合力(こうりょく)なりと、よきように計ろうて下さるに違いない!……』
と合点致いて、かの両替商の老人が方へと参り、
「……実は……お恥ずかしき話しながら……かくかくの仕儀にて……」
と己れの放蕩の懺悔もし、しおらしゅう、助力懇請を願い出たところが、かの老人の曰く、
「……親仁さまの代より、まっこと、懇意に致いて参ったゆえ、そうしたことをも、申し出て御座られたかいのぅ。……今日日(きょうび)、我等方にては……節制するところは、これ、しっかと節制致いてのぅ。……まあ、相変わらず塩梅よう、金子の廻(めぐ)りも悪うは御座らぬ。……されば……我らが昔馴染みの無二の知音の子(こお)なれば……二、三百両の金を用立てんことは、これ、出来ぬ相談ではない……が……しかし……お前さんのような……遊興にうつつを抜かし……我らと同じほどにあったはずの、かの友が血の小便して一代で気づき上げた身上を……あっという間に潰してしもうたような……凡そ……あの友たる親に似ぬ……そこもとには……これ――貸せる金は――御座ない。さても――かく、我らより恥しめを受けたを――これ、無念と思ひなさったとなれば――何卒、心底(しんそこ)、心を入れ替え、一から稼ぎ直しなさるるが――よいぞ。――」
とけんもほろろに喝破された。
 かの若者、返答の仕様も、これ、御座なく、ただただ、恥じ入って無言のまま、詮方なく、家へとたち帰ったと申す。
 その晩のことで御座る。
 若者は独り、己が家の奥座敷にて、まんじりともせず立ち竦んで御座った。そうしてやおら、
 「……それにしても!……我が身を心より後悔致いて、これ、助力をお頼み申したに!……かくも恥かしめを受けたること!……如何にしても!……無念なることじゃッ!……こうなったら……何としても……我ら独りの手(てえ)で、身上取り戻し……この受けたる恥を雪(すす)がずんばおくものカッ!……」
と、独り大いに怒り叫んで御座ったと申す。
 それより、かの亡父の知音老人とは一切、これ、交わりを断ち、もう、身命(しんみょうあ)を擲(なげう)ったる覚悟にて、商売に精出した。
 その覚悟の志しのまっことなる証しにや、三年ほどのうちに、元の如くの身上を取り戻いて御座った。
 さて、このことを風の便りに聴いた、かの亡き父の盟友が老人、ある日のこと、金百両を懐中致いて、かの亡友の子の、若き商人の方を訪ねて参ったと申す。
 若者は、ここは一つ、かの会稽(かいけい)の恥を雪がんものと、横柄な態度にて老人に向かったところが、老爺の曰く、
「……三年以前、そなたを恥かしめて以来、お憤りになられたと見えて、一切の交わりも、これ、御座らなんだのぅ。――我ら――あの折り、金二百両もお貸し致いてたとて――御身は心底(しんてい)より悔い改めては、これ、御座らなんだによって――その金――そなたに害となるとも、これより先の長く久しき再建の企(くわだ)てが糧(かて)には、これ、一文の足しにはならぬ――と――見抜いた。――されば、我ら、そなたを思いっきり恥しめて御座ったじゃ。――それをそなたは――美事――心底――忿怒致いて――しかして――かくも身の上――取り戻されて御座った! この段、そなたの父の友として、これほど悦ばしきことは――ない!――さても、今や、そなたへ百両の用立てを致す――というは――これ、何の用立てにもならざるように思わるるやも知れぬ――が――この百両は――聊かながら――されど百両!――最早、以前のように無駄に消ゆることもなく――まことの利として――これ、いやさかに増えるところの……そうさ、目に見えて必ず栄える、神仏の与えて御座った『福分福田』にて御座る。――納めらるるが、よいぞ――」
と語ると、懐中より百両を差し出だいた。
 かの若者は、それを聞くや、大いに感服致いて、
「……あなたさまのお心、これ、よう分かり申しました。……さても既に、その百両……これ、とうの昔に……御借用致いたも同様のことと御座まする……されど……いや……確かに今、私どもにとって――大事の入用のもの――と――取り計ろうて、確かに頂戴仕りまする……」
と答え、百両を受け取とると、老人に深く謝した上、お帰し申したと申す。
 さて、それからまた暫く経ってのことで御座る。
 かの亡父知音の老人も、これまた遂に身罷って、今度は、そちらの方の二代目の代となったと申す。
 こちらの二代目の若者は、これ、かの先の若者とは異なり、遊興なんども致さざる実体の者にて御座った。
 が、巡り逢わせの悪しき因縁の者にても御座ったものか、不幸にも、身上、これ、すっかり左前と相い成り、父の代に引き変え、すこぶる貧しき暮しをして御座ったと申す。
 されど、この若者、親が、かの父の知音の息子に対する、厳しき拒絶のことだけを家伝としては聞き知って御座ったばかりなれば、かの亡父知音の若者への助力嘆願なんどということも、これ、決して申し入るることも御座なく、そのまま不如意に鬱々と暮して御座ったと申す。
 ところが、かの起死回生の復帰を遂げた若者、その故老爺の子息の、すこぶる貧窮なるを風の便りに聴くや、その老翁が二代目方へと早速に訪ね参って、
「――どうか、志しをしっかりとお立てになり、身上を取り戻されなさるがよい。我らも、そなたの親仁どのが諌めに恥じ、辛くも身上を取り戻して御座った。……さても一つ――これを――元手金(もとで)となし――お気張りなされい!――」
と、懐より二百両の金を、黙って貸した、と申す。
 この二代目も、その志しと、その諌めとに励まされたものか、程無う、元の如、身上、これ、やはり父と同じように――また――かの若者と同じように――取り戻いた――と――申す。

栂尾明恵上人伝記 47 巻上 了

 同年六月十五日より栂尾の本堂にして梵網菩薩戒本(ぼんもうぼさつかいほん)、兩度の説戒(せつかい)始行せらる。其の戒儀(かいぎ)〔別記あり〕諸僧同じく列坐して共に戒文を誦(じゆ)す。其の説戒の間靈驗多し。見聞し得たること、委しく註するに遑(いとま)あらず。或は異香虛空に薰滿(くんまん)し、或るは靈物(れいもつ)無形にして、異る音聲にて共に誦す。或は異類六歳の小兒に託して齋戒歸依の志を述べ、或は年來重病の者聽聞の砌(みぎり)に或は汗を流し或るは嘔吐(おうと)をして愈(いゆ)る類もあり。或は瘧病(ぎやくびやう)の者爰に臨みて聽聞の間に忽に愈るのみなり。是れ今に高山寺の恒例の勤めとなれり。

 安貞元年〔丁亥〕勸進記上下二卷竝に別記一卷之を作る。又光明眞言を以て土砂を加持し給ふに、土砂照耀(せうえう)す。

 又或時上人、光明眞言土砂加持をせんとて、土砂を取り寄せて加持し給ふに、修中に忽ち不淨の惡相現ずること兩三度あり。上人あやしみて、此の土砂取りける處を問ひ給ふ。即ち土砂の在る所を見せしめ給ふに、傍に野犬の穢したる有りてあたりに散れり。此の由を申しければ、其の後より侍者の僧に仰せて、極めて淸淨なる地を撰びて取りて來るべしとなり。

 同二年〔戊子〕七月の比、石水院後(うしろ)の谷より水出でて濕氣あるに依つて、心地惱ましとて、禪堂院を造りて住み給ひしが、僧坊近くてむつかしとて、又三加禪(さんがぜん)竝に禪河院(ぜんがゐん)なんど云ふ菴を造りて、籠居して坐禪修觀し給へり。護法童子常に現じて、傍に見えけり。

これを以って「栂尾明惠上人傳記卷上」を終わる。

うづまく花 大手拓次

 うづまく花

そらよりみだれかかる紫琅玕(しらうかん)のうはこと、
あかつきの鳥(とり)のきもののひだに悲(かな)しみのうれひをのせ、
とほざかりゆくこのふかいもののかなしみは、
はなれ、とびはなれ、うなだれ、
さて たよりなくそぞろあるきし、
水底(みづそこ)におもかげをうつし、
しづまるこゑの柩(ひつぎ)に
あをじろい漿果(このみ)の酒(さけ)をかもしては、
ところもしらぬひとすぢの國(くに)へといそぎゆく。
ああ うれひは風(かぜ)、うれひは鳥(とり)、
あをざむい春(はる)の日(ひ)のほとりに
うつりつつ消(き)えてゆく心(こゝろ)のまぼろし。

[やぶちゃん注:「紫琅玕」「琅玕」は、希少性の高い高品質の、特別な翡翠(Jadeite ジェダイト・硬玉)の中国名で(「琅玕」とは元来は中国語で「青々とした美しい竹」を意味する語である)、英語では“Imperial Jade”(インぺリアル・ジェイド)と呼ばれる。この英語名は西太后が熱狂的な収集家であったことに由来すると言われる。但し、こうした超高級の「琅玕翡翠」の原産国は、実は中国ではなく、ミャンマーである。]

大手拓次詩集「藍色の蟇」 箱(背) 

Aihikihako1

あをざめた薔薇 大手拓次

   みどりの薔薇

 あをざめた薔薇

ぬれてたはむれる亡魂(ばうこん)の月(つき)しろ、
燭臺(しよくだい)のうへにあをじろむほのほの姿(すがた)、
化生(けしやう)の猫(ねこ)の尾(を)のやうにかをる寂光(じやくくわう)のばら。

大手拓次詩集「藍色の蟇」 箱(表) 

Aihikihako0_2

椅子に眠る憂鬱

 椅子に眠る憂鬱

はればれとその深(ふか)い影(かげ)をもつた横顏(よこがほ)を
花鉢(はなばち)のやうにしづかにとどめ、
搖椅子(ゆりいす)のなかにうづくまる移(うつ)り氣(ぎ)をそそのかして、
死のすがたをおぼろにする。
みどりいろの、ゆふべの搖椅子(ゆりいす)のなやましさに、
みじかい生(せい)の花粉(くわふん)のさかづきをのみほすのか。
ああ、わたしのほとりに匍(は)ひよるみどりの椅子(いす)のささやきの小唄(こうた)、
憂鬱(いううつ)はながれる魚(うを)のかなしみにも似(に)て、ゆれながら、ゆれながら、
かなしみのさざなみをくりかへす。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 7 龍窟

    ●龍窟

龍窟はもと本宮と稱し。天女始て埀跡の神窟と爲せり。龍穴の稱は東鑑に見ゆ。緣起安然記には金窟と書し。北國紀行には蓬莱洞と記せり。神祠(しんし)は其の内に左り。

一説に。此の龍穴は。昔、黄金を鑿取りし蹟ならむといへり湘中紀行に。抑此龍穴傳道昔者有龍出焉。而島故爲天女所棲止自弘法祀天女於此。後人遂以爲天女窟宅。鎌倉盛時雩必於是事見東鑑。余甞聞之。凡瀕海諸州山根往々有穴。皆上世因劚金鐡而成者也。則此穴亦焉知其獨不然哉。但此神之而神。人異之而異。神異可以已矣。又以爲石佛之肆何哉とあり、此事然るや否。其の道の人に聞まほし。

新編相模風土記に云々。

文武帝の四年四月役の小角。窟中に入(いつ)て天女を拜し。利劍を納む。養老七年九月泰澄窟中より天女(てんぢよ)の化現(くわげん)するを拜す。神龜天平の間は道智來たりて誦經(じゆけう)し、天女の化現に逢ふ。弘仁五年二月空海參籠し。神像を造りて社壇に安置し。其下に寶珠を埋む。故に空海を本宮の中興と稱す。仁壽三年三月慈覺天女の生身(せうしん)を拜し、神像を自刻し。五鈷金剛杵を造り。中に寶劍を籠て窟中に納む元慶五年二月より慈覺の舊蹤を尋ねて安然參籠する年あり。壽永元年四月賴朝の本願として、文覺此に辨財天を勸請し。五日供養を行ふ。文覺此日より參籠する二十一日。飮食を斷て懇祈をこらせり。此年北條四郎時政祈願の事ありて。窟中に籠り。一顆の玉を感得す。承元二年夏大旱により。鶴岡の供僧等に禱祀の事を命す。よりて爰に集會して雨を祈る。感應(かんおう)空(むな)しからす雨忽ち降れり。元仁元年六月。陰陽道大監物信賢奉はり又祈雨の祀を行ふ。嘉禎元年十二月將軍賴經不例により。靈所七瀨の祭を行しとき。當所備中大夫重氏勤む。仁治二年六月鶴岡八幡宮別當定親又雨を祈る。文明十八年十月僧萬里金胎の兩洞に入乾滿の二珠及ひ白蛇を見し事あり。天文十八年北條左京大夫氏康參詣の時。當窟の神宮を再興す。同二十年五月玉繩城主北條左衛門大夫綱成殺生禁斷等(とう)の掟を出す。弘治二年八月當宮募緣の事。足利左馬頭義氏か領地は寄進の多少を論せす。其意に任せ勸進すべき由。北條氏より下知を傳ふ。修理落成して正遷宮の時。北條陸奥守氏照奉りて。刀馬等を奉納あり。慶長五年六月東照宮窟中に入らせられ。神像を拜し給ふ。元和元年の冬林道春爰に游記を作る。寶永三年十月社領十五石御朱印を賜へり別當は岩本院司とれり。

[やぶちゃん注:「安然記」不詳。江の島所縁の僧として安然(あんねん)上人がおり、彼は元慶五(八八一)年に春先より江の島(岩屋内と思われる)に参籠、秋口の夜半になって弁才天が示現した、とする(これは個人のHPねえ、どこか行こうよ」の「鎌倉歴史散策・江の島編」に載るものを参考にした)。安然(承和八(八四一)年?~延喜一五(九一五)年?)は天台僧で、出自については不明ながら最澄と同族と伝えられている。初め慈覚大師円仁につき、その死後は遍照に師事して顕密二教のほか戒・悉曇(しったん)を学んだ。元慶元(八七七)年には渡唐を企てたが断念、元慶八(八八四)年に阿闍梨、元慶寺座主となった。晩年は比叡山に五大院を創建、天台教学・密教教学の研究に専念し、台密の大成者として知られる(以上の事実の事蹟はウィキの「安然」に拠る)が、彼の伝記か関連書かとも思われる。識者の御教授を乞うものである。

「左り」は「在り」の誤植であろう。

「湘中紀行」は儒者川村華陽(延享元(一七四四)年~天明四(一七八四)年)の紀行文。以下、引用部を我流で書き下す(返り点には一部不審な箇所があるため、勝手に解釈した部分も多い)。

抑々此の龍穴は傳へて道(い)ふ、昔は龍の出づる有りと。而るに、島、故に、天女をして棲み止むる所と爲(な)し、弘法、此に天女を祀りしより、後人、遂に以つて天女が窟宅と爲(な)せり。鎌倉の盛時、雩(あまごひ)は必ず是(ここ)に於いてする事、「東鑑」に見ゆ。余、甞て之を聞き、凡そ瀕海の諸州の山の根は往々にして穴(あな)有り。皆、上世は因つて金鐡を劚(きりいだ)して成す者なり。則ち、此の穴も亦、焉(これ)、其れ獨り然らざるを知らんや。但し、此れ、之を神として神となし、人、之を異として異となせども、神異は以て已むべし。又、以つて石佛の肆(ほしいまま)と爲すは何んぞや。

後半がよく分からないが、そのように古代に金を採掘した場所で、さればこそ神聖なものとされたとしても、後には神聖な信仰は失われるはずだが、それなのに何故、こんなにも沢山の石仏群が累々とあるのであろう、とでも言っているのであろうか? いや文字通り、『其の道の人に聞まほし』である。漢学者の方、よろしく御教授下されたい。

「仁治二年」西暦一二四一年。

「文明十八年」西暦一四八六年。この間、245年も飛んでいる。

「元和元年の冬林道春爰に游記を作る」彼の「丙辰紀行」は電子化済。]

北條九代記 賴經公關東下向

 

      ○賴經公關東下向

 

閏二月十五日、二位禪尼の御使として、相摸守平時房、上洛あり。扈從(こしよう)の侍一千騎、將軍御下向の御迎(おんむかひ)にぞ参られける。建保七年、京都鎌倉種々の災變(さいへん)に依て、四月十二日改元あり。承久元年とぞ號しける。同六月三口、將軍家、關東御下向あるべき由、宣下せられけり。然れ共、兎角(とかう)日を重(かさね)て、七月九日、一條の亭より六波羅に渡御あり。即ち進發ましまして、同じき十九日に鎌倉に入りて、右京權大夫義時朝臣の大倉の亭に著き給ひけり。其行列の次第、誠に以て嚴重なり。先(さき)は女房各(おのおの)乘輿(じようよ)なり。雜仕(ざふし)一人、乳母(めのと)二人、御局(つぼね)には右衞門督(うゑもんのかみの)局、一條〔の〕局、この外相州の北方、何(いづれ)も花を飾りて出立たれけり。先陣の隨兵(ずゐひやう)は、三浦〔の〕太郎兵衞尉、同じく次郎兵衞尉、天野(あまのゝ)兵衞尉、宇都宮〔の〕六郎、武田〔の〕小五郎以下都合十人、次に三浦〔の〕左衞門尉、後藤〔の〕左衞門尉、葛西、土屋を初て、都合十人は狩装束に御供あり。若君の御輿(みこし)には、佐貫〔の〕次郎、澁谷〔の〕太郎以下の九人皆歩立(かちだち)にて、御輿(おんこし)の左右に列(つらな)れり。殿上人には伊豫(いよの)少將實雅〔の〕朝臣、諸大夫には甲斐(かひの)右馬助宗保以下、後陣の随兵には島津〔の〕左衞門尉、中條(なかでうの)右衞門尉以下十六人、相摸守時房は殿(しつはらひ)にて、前後の行列、搖揃(ゆりそろ)へて靜(しづか)に打てぞ通られける。鎌倉中は云ふに及ばす、諸方より集わたる見物の貴賤は、路(みち)の兩方、垣の如く飽(いや)が上に重りて、錐を立る間(あひだ)もなし。事故なく入御ましくて、殿中外家(ぐわいけ)の賑(にぎはひ)、心も詞(ことば)も及ばれず。文物(ぶんもつ)の盛(さかん)なる事、目を驚かす計(ばかり)なり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十四の建保七(一二一九)年三月十五日及び承久元年七月十九日の条に基づく。本文冒頭の「閏二月十五日」は三月の誤りである。特に「吾妻鏡」の引用や語注の必要性を感じない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 21

M142

図―142

 

 私は前に死んだ縁者を記念するためカミダナ(神の棚)に燈の光を絶やさぬ祭典のことを述べた。道路の両側の家には、いずれも神棚の、神道か仏教の意味を持つ二、三の事物の前に、一列、時としては数列の燈火がある。部屋は低く、神棚の上の木造部は煤けて黒い。図142はこのような家庭内の祠の一つを写生したのである。この上にならべてある品物の数は、多分信心と財布とに比例するのだろうが、非常に差がある。死人にそなえる米を入れた、小さな皿もある。神道の神社で使うかかる器には、釉薬(うわぐすり)がかけてなくまたある種の場合の為には、全然轆轤(ろくろ)を用いず、手ばかりでつくる。花がすこし、それから死人の名前を薄い板に書いたものも棚にのっている。

[やぶちゃん注:「私は前に死んだ縁者を記念するためカミダナ(神の棚)に燈の光を絶やさぬ祭典のことを述べた」「第四章 再び東京へ」の中で、「人々の住宅には仏教の廟を納めた棚――カミダナ、即ち神様の棚と呼ばれる――があり、そこに小さな燈火と食物の献げ物とが置かれる。かくの如き食物は、死んだ友人のために献げられるのである」という記載を指す。ここでもそうだが、モースは仏壇と神棚を一緒くたに描写している。]

M143 


図―143

 

 旗は細長い布で輪によって縦に旗竿にかけられる。題銘はすべての漢字に於ると同様、縦に書かれる。[やぶちゃん注:「書かれる」の「る」の右に原注を示す『*』を附す。]旗をあげる方法は図143に示す通りである。

 

[やぶちゃん注:原注一は前後を一行空けている。以下の原注は、底本では一字半下げでポイント落ちである。]

 

* 忘れてならぬのは、日本人の使用する漢字が厳密に支那のものだということである。私の知るかぎり日本は漢字を一つも発明していない。これは我々が文字を発明しないと同じである。只日本人は漢字の音を使用してアルファベットを発明し、最後にそれ等の漢字を一つの線、あるいは二木の線位にまで単純化した。支那人はこれを全然やっていない。西方の国境にサンスクリットなる、発音による文字の形式の、いい実例を持ちながら、一億の国民の中で、彼等自身のアルファベットを考え出す丈の知恵を持った者が、一人もいなかったのである。大支那学者ドクタア・エス・ウエルス・ウィリアムは、支那を他の国々から隔離した最大の原因は彼等の言語だといい、絵画文字並に象形文字研究の大家、ギヤリツタ・マロレ一大佐は絵文字の使用は文明に属さぬといっている。そこで支那人に関して起る問題は――この国民は彼等の書法の結果として、不活発で且つ文明に遅れているのか、それとも他の方法を採用すべく余りに化石しているか? である。日本の一学者の言によると、日本語は漢字の輸入によって、大いに発達をさまたげられたそうである。

[やぶちゃん注:この「私の知るかぎり日本は漢字を一つも発明していない。これは我々が文字を発明しないと同じである。只日本人は漢字の音を使用してアルファベットを発明し、最後にそれ等の漢字を一つの線、あるいは二木の線位にまで単純化した。支那人はこれを全然やっていない。」の部分は原文が“So far as I know the Japanese never invented a character any more than we have ever invented a letter; the Japanese did, however, invent an alphabet by using Chinese characters in reference to their sound and finally abbreviated them to a single stroke or two; this the Chinese never did.”である。「二木の線」は「二本」の誤植と思われるが、ここは「一画若しくは二画」と訳した方が分かりがよい。変体仮名(若しくは平仮名やカタカナの創出)のことを言っている。

「ドクタア・エス・ウエルス・ウィリアム」サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams 一八一二年~一八八四年)は、十九世紀中葉の中国に四十年余りに亙って滞在した米国人。澳門・広東に滞在した前半の二十年間には広東語を独学で習得しながら、現地の見習い職人を訓練しては伝道印刷所の運営を一人で切り盛りした(見習い工の中には音吉らモリソン号事件で知られる日本人漂流民も含まれていた)。清末の中国のみならず、幕末の日本とも無縁でなく、天保八(一八三七)年のモリソン号渡来と一八五三、四年(嘉永六年、安政元/嘉永七年)のペリー艦隊による黒船騒ぎが起きた際には通訳として活躍したことでも知られる(宮澤眞一氏の論文「S・ウェルズ・ウィリアムズの伝記及び書簡体日記に関する一考察」に拠る)。

「ギヤリツタ・マロレ一」ギャリック・マレリー(Garrick Mallory 一八三一年~一八九四年)は民族学者。北米インディアンの言語や文字、民俗研究で知られる(英語版ウィキ“Garrick Malloryに拠る)]

 

 路傍の茶屋で人々に会う時、彼等のいうことが、一言もこちらに通じないことを、理解させることは、不可能である。彼等はかまわず話し続ける。こっちを聾(つんぼ)と思って、大きな声で喋舌るのが普通である。そうでなければ、馬鹿か低能かとでも思っているような表情を、顔に浮べている。「自分には了解出来ぬ」という意味の日本語「ワカリマセン」を、いくら言っても無駄である。最後に私は熱心な有様で「カンサス・ネブラスカ交譲に関する貴下の御意はどうですか」という。すると彼等は不思議そうに私の顔を眺め、初めて事情が判って、ぶつぶついったり、大いに笑ったりする。

[やぶちゃん注:「カンサス・ネブラスカ交譲に関する貴下の御意はどうですか」原文は“What is your opinion of the Kansas and Nebraska Compromise?”。“the Kansas and Nebraska Compromise”は奴隷制度撤廃に絡んで南北の勢力形成を生み出す結果となった「カンザス・ネブラスカ法(Kansas-Nebraska Act)」のことであろう。ウィ「カンザス・ネブラスカ法によれば、一八五四年にアメリカ合衆国でカンザス準州とネブラスカ準州を創設して新しい土地を開放し、一八二〇年のミズーリ妥協(一八二〇年にアメリカ合衆国議会に於いて奴隷制擁護と反奴隷制の党派の間で成立した取り決めで、西部領土に於ける奴隷制規制が主眼とする。元ルイジアナ準州では奴隷制を禁じながら、ミズーリ州の領域内を例外とするもの)を撤廃し、二つの準州開拓者達がその領域内で奴隷制を認めるかどうかは自分達で決めることを認めた法律である、とある。『この法の当初の目的はアメリカ合衆国中西部を始点にする大陸横断鉄道を建設する機会を生み出すことだった。人民主権が提案された法に書き込まれるまでは問題とするにあたらなかった。この法はイリノイ州選出で民主党のアメリカ合衆国上院議員スティーブン・ダグラスによって考案された』。『この法は人民主権すなわち人民の支配という名前で奴隷制を認めるかを決定する投票を行うことができるようにした。ダグラスは、南部州が新しい準州に奴隷制を拡張できるが、北部州は依然としてその州内で奴隷制を廃止する権利があるために、北部と南部の間の関係を和らげることを期待した。しかし、法案の反対者は南部の奴隷勢力に対する譲歩だと言って非難した。法案に反対して結党したばかりの共和党は奴隷制の拡大を止めることを目指し、間もなく北部で支配的な勢力として台頭した』とある。無論、これは当時からみれば、既に二十年以上前の話であるが、アメリカの近代化への歩みの象徴的出来事として意味のある一文ではある。これは英語に暗い私の印象であるが、この一文の発音には日本語ではそう多くない破裂音や、馴染みのない“r”音が有意に含まれ、英語の固有名詞の持つ独特の波打つようなイントネーションがかなり奇異に感じられる。小五月蠅い日本人を一瞬にしてドンビキさせるための、モースとっておきの呪文であったものと思われる。]

朱塔 中島敦 (中国旅行七十四首連作)

[やぶちゃん注:以下の「朱塔」と題する七十四首からなる歌群は、昭和一一(一九三六)年八月八日、横浜を夜行列車で発って長崎に赴き、十四日に長崎から上海丸で出航、翌日、上海に着き、杭州・蘇州を廻って八月三十一日に神戸に帰着した、二十三日間に亙る中国旅行の際に詠まれたものである。当時満二十七歳、横浜女学校に奉職三年目の夏季休暇中であった。中国では上海で前年に知り合って盟友となった三好四郎が同行している。筑摩書房版全集の第三巻の「來簡抄」の解題で編者郡司勝義氏は、『三好四郎氏は、ある意味では著者中島の文學が今日あることにとつて、缺かすことの出來ない案内役である』と述べ、『著者が一高の先輩であり既に作家として世にある深田』久彌『氏に近附きになれたのは、三好氏のはからひによる所が多かつた』とし、『三好氏は戰時中は中國本土の農村研究に携り、戰後引揚げて來て、昭和四十六年まで愛知大學教授を務めた』とある。私は個人的にこの歌群にとめどない不思議な懐旧の念を感じる。それは恐らく私が心血を注いで電子化した芥川龍之介の「支那游記」群(リンク先は私の芥川龍之介「上海游記」)をフラッシュ・バックさせるからでもあろう。]

 

  朱塔

 

    范石湖

南浦春來綠一川

石橋朱塔兩依然

 

   杭州の歌

 

杭州の街は夜ながら白壁を許多(ここだ)も見たり車の上ゆ

黄昏の街のはたてを忽然(たちま)ちに湖(うみ)展(ひら)けたり夕べしろじろぐと

さし竝(な)みの家に燈入りぬ西湖(うみ)の上は暮れて程經しかゞよひ白く

[やぶちゃん字注:「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

    (於新々旅館)

杭州のホテルの夜を燈を消せばあはれ螢が蚊帳の上に光る

言(こと)さやぐ唐(から)にも螢はゐたりけり我が蚊帳(かや)の上に息づきをるも

 

    ――以下三首 於放鶴亭附近――

こゝにかも龍井茶(ロンチンゾオ)を賞でにけむ梅と鶴とに生きし詩人(うたびと)

梅見れば梅薰りけむ鶴呼べば鶴も舞ひけむこの水の邊に

林處士のおくつき盛花もなき梅の古枝(ふるえ)に苔乾(かわ)きたり

 

    ――以下三首 蘇小小之墓――

西湖なる西冷橋にいにしへの歌姫(うたひめ)の墓まうでけるかも

六朝の金粉今は何處ぞと雕りし柱の丹は褪せにつゝ

いにしへの名妓の墓にあなやおぞ苦力寢たり夏の眞晝を

 

    ――以下 西湖上スケッチ――

蘇東披が築(つ)きたりしとふこの堤(どて)にべンチ置きたり人は見えなく

無懷氏(ぶくわい)の民か西湖の蓮(はす)とると盥にのりて泛べる翁

はちす實の茂みを別(わ)けて蓮とると翁は手もて盥漕ぎ行く

蓮に手の屆かむとして達(とど)かざり盥あやふく傾きてゐる

朝曇り西湖のおもて白々と「西施が淡き粧(よそほ)ひ」をする

 

    若把西湖比西子 淡粧渡抹總相宜 (蘇東坡)

楊柳の下行く轎の柄は長し水なる影も崩れずして走る

楊柳の蔭に舫(ふね)寄せ謹みにける乾隆帝が石碑(いしぶみ)の文字

湖畔(うみばた)の劉氏墓道の槐路(ゑんじゆみち)朝目(あさめ)に白く砂はおちゐる

汀より槐樹(ゑんじゆ)がくれに續きたり劉氏墓道の朝を人無く

 

    ――以下五首 於汪裕泰茶莊――

石づくり夏をつめたく湖岸(うみぎし)に茶を售(う)るこれの汪裕泰(ワンイウタイ)の店

雷峯の麓西湖の南なる汪裕泰の店の涼しさ

みづうみの風吹き入れて心ぐく飮む菊の茶の薰りよろしも

攻塊(まいくわい)の茶をこゝろむと湯を注げばすなはち立ちぬ甘き薔薇(ばら)の香

攻塊は薔薇(ばら)にしありけり吾家(わぎへ)なる紅(あか)き薔薇(さうび)を憶ひ出でつも

    ――於雷峯塔址――

雷峯の塔は跡なく夏草に立ちて乞食の僧が禮(ゐや)する

 

    ――於玉泉――

鯉にあらず鮫にあらぬ長髭の怪魚(けぎよ)さやぎ群れ水湧き返る

 

    ――靈隱山雲林寺に五百羅漢を見る――

金塗の五百羅漢がおのがじし泣ける笑へるものを思へる

打竝ぶ羅漢の中に靈隱の狸幾匹化けてゐるらむ

打竝ぶ五百阿羅漢聲そろへ笑ひはやさむか我轉(まろ)びなば

 

    ――五百羅漢の中にマルコ・ポーロの像も交れり如何なる故なるかを知らず――

マルコ・ポーロは佛弟子ならし雲林寺(うりんじ)の五百羅漢にうち交りたり

うす暗きみ堂の中に眼(まなこ)剝(む)き羅漢と竝ぶマルコ・ポーロはも

碧眼のポーロ尊者は新發意(しんぼち)か髭をみじかく苦笑してゐる

 

    於滬杭甬鐡路車上

ドアを開けて憲兵入り來(く)鞣皮(なめしがは)と埃のにほひかすかにするも

蓮(はす)の實を售(う)る聲きこゆこの驛は松江(スンキヤン)ならむ夕べ近しも

農夫らの水牛牽きて歸る見ゆはやもゆふげの時となりけらし

野を遙か烟立つ見ゆ夕(ゆふべ)なり給仕に命じメニュー持たしめむ

ガイド・ブック讀み厭きにける友と談(い)ふゆふげのスウプ トマトにせむか

城壁と塔の遠影黑みきぬ蒼々として野は昏(く)れむとす

嘉興(カアシン)の塔のシルエットはろかなりトマト・スウプを啜りつゝ見る

匙おきて忽ち明(あか)し汽車の燈(ひ)の入りたりけるよ何かうれしき

窓に倚る食後懶(ものう)きたまゆらをほつと燈は入りぬかろき驚き

空皿(あきざら)のスプーン黄なる灯に光り郷愁に似るものの影する

 

 

   蘇州の歌

 

城壁と蔦と運河と歌姫の古き都に我は來にけり

水際の壁に水照(みでり)はかぎろひて晝をしづけき姑蘇の裏町

橋裡に壁に家内に舫舷(ふなばた)に水照(みでり)ゆらゆらとたゞかぎろへる

水牛は童をのせて行きにけり姑蘇城外川傍(かはぞ)ひの道

水牛の背巾を廣み童(わらはべ)は横坐りしつ手弱女(たをやめ)のごと

反橋(そりはし)は甚(いた)も反りける駿馬の背ゆほとほと我は落ちむとせりき

薄曇る晝のけだるさうさぎ馬も己が影を見る水際(みぎは)去らずて

童顏の花は泛びて動かずよこの水は流れてゐるにかあらむ

[やぶちゃん字注:「ゆらゆら」「ほとほと」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

    (以下三首 於虎邱)

呉王闔閭三千の士を屠りけむ虎邱の寺の荒れまく惜しも

草深き石甃道(しきいしみち)に立ちて仰ぐ虎邱の塔の傾(かし)ぎ著(しる)しも

昔われ水滸傳にて讀みにける魯智深かもよこの大和尚

寒山の古寺を訪ぬとわが來れば石碑は缺けたり鐘も聞こえず

 

寒山寺彌陀の御手(おんて)に鏡置き理髮(かみかり)をるよ鋏ならしつゝ

楓橋の下行く水に婢女が衣(きぬ)濯ぎをり二人また三人

楓橋の狹の町の家暗く麻雀牌(マーヂャンパイ)をつくる女あり

麻雀の牌に字を彫る女瘦せ色蒼くして眼(まなこ)血走る

振り切りて人力車(くるま)走らする背後(そがひ)より叫(をら)び馳せくる乞食(こつじき)の群

石道を離れず追ひ來る赤ら目の乞丐童(きつがいわらべ)トラホームならし

造り岩のこちたき林泉(しま)ぞ留園の廻り廊下は行けど盡きぬかも

草枕旅にあればか園深く鳴く蟬の聲あはれなりけり

報恩寺の塔ゆ夕べを眺むれば白き壁壁また白き壁

白壁の一つ一つに夕陽照り數さへ知らず眼(まなこ)痛しも

目路の限りただ壁白く陽に映えて末は大湖につゞきたるらし

閶門(ツアンメン)の紙屋に紅(あか)き紙竝べ人集ひたり祭近からし

白壁の路地に賭博(ばくち)を打つ男われ咳(しはぶ)けどかへりみざりき

[やぶちゃん注:「マーヂャンパイ」の「ャ」は私の判断で促音化した。

「一つ一つ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

わが雇ふガイド張氏の日本語のあなたどたどし池を川といふ

粟饅頭われ與ふれば畏(かしこ)みて押しいたゞける張氏をかしも

昨日今日蘇州爆撃と聞くからにあはれ張氏は如何しつらむ

[やぶちゃん字注:「たどたどし」の後半の「たど」は底本では踊り字「〱」。]

 

    遙かにチビ助を思ふ

日(け)ならべてチビをし見ねばチビの顏ふとも見たしと思ひなりぬる

敷島の大和の園に吾(あ)を待たむチビ助あはれ家苞(みやげ)何(なに)にせむ

圓(つぶ)ら眼の張子の虎を買ひ行かはチビ助笑ひくつがへらむか

[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年四月二十八日生まれの長男桓(たけし)。旅行当時(昭和一一(一九三六)年三月)は満三歳。]

酒精中害者の死體 萩原朔太郞 (「酒精中毒者の死」初出形 附同詩形全変遷復元)

 

 酒精中害者の死體

 

 

あほむきに死んでゐる酒精中害者(よつぱらひ)の、

 

まつ白い腹のへんから、

 

えたいのわからぬものが流れてゐる、

 

透明な靑い血奬と、

 

ゆがんだ多角形の心臟と、

 

腐つたはらわたと、

 

らうまちすの爛れた手くびと、

 

くにやぐにやした臟物と、

 

そこらいちめん、

 

地べたはぴかぴか光つてゐる、

 

草はするどくとがつてゐる、

 

すべてがラヂウムのやうに光つてゐる。

 

こんなさびしい風景の中にうきあがつて、

 

白つぽけた殺人者の顏が、

 

草のやうにびらびら笑つてゐる。

 

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第六号・大正四(一九一五)年六月号に掲載された。太字「らうまちす」は底本では傍点「ヽ」。標題「中害者」「あほむき」「中害者」「血奬」「くにやぐにや」は総てママ。

 

 後に詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)に所収されたものは以下の通り。

 

   *

 

 

 酒精中毒者の死

 

あふむきに死んでゐる酒精中害者(よつぱらひ)の、

 

まつしろい腹のへんから、

 

えたいのわからぬものが流れてゐる、

 

透明な靑い血醬と、

 

ゆがんだ多角形の心臟と、

 

腐つたはらわたと、

 

らうまちすの爛れた手くびと、

 

ぐにやぐにやした臟物と、

 

そこらいちめん、

 

地べたはぴかぴか光つてゐる、

 

草はするどくとがつてゐる、

 

すべてがらぢうむのやうに光つてゐる。

 

こんなさびしい風景の中にうきあがつて、

 

白つぽけた殺人者の顏が、

 

草のやうにびらびら笑つてゐる。

 

   *

 

太字「らうまちす」及び「らぢうむ」は底本では傍点「ヽ」(以下同じ)。御覧の通り、行空きは、ない。

 

 その後の「月の吠える」再版(大正一一(一九二二)年三月アルス刊)では、

 

   *

 

 酒精中毒者の死

 

あふむきに死んでゐる酒精中毒者(よつぱらひ)の

 

まつしろい腹のへんから

 

えたいのわからぬものが流れてゐる

 

透明な靑い血漿と

 

ゆがんだ多角形の心臟と

 

腐つたはらわたと

 

らうまちすの爛れた手くびと

 

ぐにやぐにやした臟物と

 

そこらいちめん

 

地べたはぴかぴか光つてゐる

 

草はするどくとがつてゐる

 

すべてがらぢうむのやうに光つてゐる。

 

こんなさびしい風景の中にうきあがつて

 

白つぽけた殺人者の顏が

 

草のやうにびらびら笑つてゐる。

 

   *

 

と読点が除去される。

 

 その後の昭和三(一九二八)年三月第一書房刊の「萩原朔太郎詩集」でも、この詩形が維持され、

 

   *

 

 酒精中毒者の死

 

あふむきに死んでゐる酒精中毒者(よつぱらひ)の

 

まつしろい腹のへんから

 

えたいのわからぬものが流れてゐる

 

透明な靑い血漿と

 

ゆがんだ多角形の心臟と

 

腐つたはらわたと

 

らうまちすの爛れた手くびと

 

ぐにやぐにやした臟物と

 

そこらいちめん

 

地べたはぴかぴか光つてゐる

 

草はするどくとがつてゐる。

 

すべてがらぢうむのやうに光つてゐる。

 

こんなさびしい風景の中にうきあがつて

 

白つぽけた殺人者の顏が

 

草のやうにびらびら笑つてゐる。

 

   *

 

と、「草はするどくとがつてゐる。」の箇所に句点が打たれている以外は再版と全く同じである。従って、ここまでの萩原朔太郎自身の意識の中では、本詩の詩形は、この「萩原朔太郎詩集」版が決定稿としてあるものと考えられる。

 

 なお現行の『定本』たる筑摩版全集校訂本文、「月の吠える」の公的な――恣意的に漂白された――決定校訂本文は、

 

   *

 

 酒精中毒者の死

 

あふむきに死んでゐる酒精中毒者(よつぱらひ)の、

 

まつしろい腹のへんから、

 

えたいのわからぬものが流れてゐる、

 

透明な靑い血漿と、

 

ゆがんだ多角形の心臟と、

 

腐つたはらわたと、

 

らうまちすの爛れた手くびと、

 

ぐにやぐにやした臟物と、

 

そこらいちめん、

 

地べたはぴかぴか光つてゐる、

 

草はするどくとがつてゐる、

 

すべてがらぢうむのやうに光つてゐる。

 

こんなさびしい風景の中にうきあがつて、

 

白つぽけた殺人者の顏が、

 

草のやうにびらびら笑つてゐる。

   *

である。私個人としては、見慣れた最後のものが、私の中の萩原朔太郞の「酒精中毒者の死」では、ある。]

今朝の蜩

4時11分 2匹が競い鳴き始めた。

月の麗貌 大手拓次

 月の麗貌

月は窓のほとりに
羽根をかくしてしのびより、
こゑもださず、眼もひらかず
ゆく舟のそよぎのやうに
黄金(きん)の吹雪(ふぶき)の芽をのばす。

鬼城句集 夏之部 日除

日除    日除して百日紅を隱しけり

2013/07/10

栂尾明恵上人伝記 46

 西行法師常に來りて物語して云はく、我歌を讀むは、遙かに尋常に異なり。華・郭公(ほとゝぎす)・月・雪都(すべ)て萬物の興に向ひても、凡そ所有(あらゆる)相(さう)皆是れ虛妄(こまう)なること眼に遮り耳に滿てり。又讀み出す所の言句は皆是れ眞言にあらずや、華を讀むども實に華と思ふことなく、月を詠ずれども實に月と思はず、只此の如くして、緣に隨ひ興に隨ひ讀み置く處なり。紅虹(こうこう)たなびけば虛空色どれるに似たり。白日かゞやけば虛空明かなるに似たり。然れども虛空は本明かなるものにもあらず、又色どれるにもあらず。我又此の虛空の如くなる心の上において、種々の風情を色どると雖も更に蹤跡(しようせき)なし、此の歌即ち是れ如來の眞の形體(けいたい)なり。されば一首讀み出でては一體の佛像を造る思ひをなし、一句を思ひ續けては祕密の眞言を唱ふるに同じ、我此の歌によりて法を得る事あり。若しこゝに至らずして、妄(みだ)りに此の道を學ばゝ邪路(じやろ)に入るべしと云々。さて讀みける
  山深くさこそ心はかよふともすまで哀れはしらんものかは
喜海其の座の末に在りて聞き及びしまゝ之を註す。
[やぶちゃん注:西行が没したのは建久元(一一九〇)年二月十六日、享年七十三歳、当時、明恵は十八歳、末席でこれを直に聞いたとする明恵の直弟子喜海に至っては未だ十三歳で、尚且つ、彼が明恵の弟子になったのは建久九(一一九八)年以後のことであるから、この明恵と西行の本話は後世に仮託された寓話である。しかし、如何にも西行らしい台詞ではある。]

耳嚢 巻之七 其素性自然に玉光ある事

 其素性自然に玉光ある事

 此咄初(はじめ)にも有りといへど、大同小異あれば又記しぬ。明和の比(ころ)とかや、芝口貮町目に、伊勢屋久兵衞といへる者下人勘七、常に實躰(じつてい)に主人の心に叶(かなひ)、商ひの事も精々心に入(いれ)、久兵衞も貮人となく召仕ひしが、一つの癖は病をふのみ也。或日、出入屋敷え商ひ物の代料を取(とり)に遣し、右屋しきにて金七拾兩斗り請取(うけとり)財布に入、懷中なせしが、彼(かの)屋しきにて祝儀事ありて、家來抔勘七に酒をすゝめけるが、素より好(すけ)る酒なればいさゝか酩酊して、能きげんにて暇(いとま)をつげ、途中も快(こころよく)小唄うたひて歸り、途中芝切通し邊にもあらん、夜發(やほつ)出て勘七が袖を扣(ひかへ)しが、常ならば振(ふり)きるべきに酩酊の儘其求(もとめ)に諾(だくし)て、雲雨の交りをなして立出で宿所へ至りしに、彼財布いづ方へか落せしやらん、行衞なければ大きに驚き立歸りて見しに、最早初の夜發も見せ仕舞て壹人もなし。いかにせんと十方に暮しが立歸り、請取(うけとり)し金子を落し申譯なし、いづれ立歸らんと喰(くふ)事もなさず立出るを、主人久兵衞も、彼が平日の實躰中々私なきを知りぬれば、若(もし)や命をも失わんと早々止めけれど、曾て承引せず立出で日夜心を付てもとめしが、翌日又彼夜發の小屋ありし故立(たち)よりしが、過(すぎ)し夜の夜發彼所に立て此男を見付(みつけ)、御身はきのふ來り給ひし人にあらずやと尋ける故、其人也と答(こたへ)しに、おん身落し給いし物なきやと尋ける故、右故に昨日より喰事もせで搜す由を答へければ、其品は何々と其袋幷員數(いんじゆ)等委しく聞(きき)て、嬉しくも尋來(たづねきたり)給ふもの哉(かな)とあたりの人の心付(つか)ざる土中へ埋置(うめおき)しを掘(ほり)、右財布とも金子を渡しける故、誠に命の親なり、おん身はいづれより出るやと尋ければ、鮫ヶ橋にて九兵衞抱(かかへ)なりといへる故、又こそ尋(たづね)んと暇を乞(こひ)て早々宅へ戻り、主人へ右の金子差出し、斯(かく)の事に候よしあり躰(てい)に語りければ、久兵衞甚(はなはだ)感じ、貞婦に賤しき勤(つとめ)させんは便(びん)なしと、金子貮拾兩を懷中して、彼抱主九兵衞方え至り見しに、同人抱の夜發兩人ありて、何用なるやと尋ける故、勘七事を語りて、何れの婦人やと尋しに、右は是成(これなる)よし答(こたへ)ければ、何卒殘る年季を請出(うけいだ)し度(たき)と、右金貮拾兩與へければ、九兵衞答けるは、右女はわけありて賤しき勤すべき者にもあらざれ共、可育(そだてべき)かたなくかくなしぬるなり、給金六兩あれば暇を出し宜敷(よろしき)也、斯(かく)大金は入らず由答ふ。切(せち)に餘金をすゝめけれど、九兵衞も承引せず。女子も賤しからざる生れ故、久兵衞も悦(よろこび)、直(ぢき)にともなゐ歸りて、扨(さて)勘七が年季の貞實をも感じ、最寄に店(たな)をもたせ、彼夜發を妻となし、商ひ元手等を遣し、今は榮へ暮しけると也。彼夜發は麻布邊荒井何某といへる人の娘にて、親沒後兄弟の身持宜敷(よろし)からず、あしき立入(たちいり)のものありて、九兵衞方へ賣(うり)渡しけると也。流石に素性有(ある)女なれば、かゝる事もありなん。親方の九兵衞もいか成(なる)者の果成(はてなる)や、義正(ぎせい)感ずるに絶(たえ)たりと語りける。

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。根岸自身が冒頭で述べている通り、巻二の「賤妓發明加護ある事」と同話であるが、他にも同巻の「正直に加護ある事 附豪家其氣性の事」等、類話に暇がない。当時の江戸庶民が如何にこうした人情話を好んだかがよく分かる。底本注で鈴木氏も、『人情咄として、主人公の親方のきっぷのよさ、ヒロインの泥中の蓮的なけなげさが強調される方向へ発展するのは当然である』と評しておられる。類話を見ずに、一から全く新たに現代語訳した。

・「病をふのみ也」底本には「病をふ」の右に『(病まふ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『酒を好むのみなり』とあり、私はこれを、

 酒を好むてふ病ひ負ふのみなり

の謂いで採りたい。

・「明和」西暦一七六四年から一七七二年。

・「芝口貮丁目」旧芝口二丁目は現在の新橋二丁目に含まれ、現在のJR新橋駅の西直近。

・「芝切通し」底本鈴木氏注に、『切通し坂。長さ七十六間余、幅は坂口約四間一尺、中程で約十四間。青竜寺の南。港区芝西久保広町』とするが、岩波版長谷川注では、『増上寺西北裏に当る。港区虎の門三丁目内』とある。しかしGoogle マップの「東・港区の坂 (坂プロフィール)」では、切通坂として港区芝公園三丁目を挙げている。

・「鮫ケ橋」底本の鈴木氏注に、『鮫河橋谷町。麹町十三丁目の南。岡場所があったが、最も低級で、風儀も悪く情緒などない土地とされ、値段にも定りがなかった。新宿若葉二・三丁目』とあり、岩波版長谷川氏注には、『赤坂離宮の北、新宿区若葉二丁目辺。夜鷹の巣窟であった』とある。現在のJR市ヶ谷駅の東直近。ここは現在からは想像出来ないが、近代まで貧民窟(スラム街)であったらしい。月刊『記録』の「実在した貧民窟・四ッ谷鮫河橋を歩く」に詳しい。

・「義正」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『義心』。「心」の誤字と見る。

■やぶちゃん現代語訳

 本来の素性が自然に玉のような誠実なる光を発するという事

 これによく似た話は、既に初めの巻の二にも掲げて御座るが、主だった部分はすこぶる似て御座れど、細部に違いもあれば、再度、記しおくことと致いた。

 明和の頃とか申す。

 芝口二丁目に、伊勢屋久兵衛(きゅうべえ)と申す者が店を構えて御座った。

 その下人の勘七と申す者、常より実体(じってい)に仕え、主人の心にも叶(かの)うて、商いの方(か)も精心を込めてなし、久兵衛も、またなき下男として召し仕(つこ)うて御座ったと申す。

 ただ、この勘七、一つだけ悪い癖があって、業病とも申すほどの、無類の酒好きで御座った。

 ある日のこと、久兵衛、この勘七に出入りの屋敷へ商い致いた品の代金を取りに遣した。

 かの屋敷にて金七十両ばかりを受け取って財布に入れ、しっかと懐中致いて御座ったが、たまたま、かの屋敷内にて祝儀事の御座ったによって、御家中の家来なんどが面白がって勘七に酒を勧め、もとより三度の飯より好ける酒なればこそ、仰山に呑みに呑み、流石の勘七もいささか酩酊の体(てい)となり、いい加減に切り上げて暇まをつげ、帰るさも快う、小唄なんどを一節歌いつつ千鳥足にてお店(たな)へと向かって御座ったと申す。

 さて、その途中――芝切通しの辺りにても御座ったか――夜発(やほつ)が一人、寄って参り、勘七の袖を引いた。

 勤めの途中にて、しかも七十両もの大金を所持致いておればこそ、常ならば振り切るところが、余りに酩酊の心地よさに、ついその誘いに乗って、手短に雲雨の交りをなし、遅くなるまえに立ち出でて、主人が方へと帰ったと申す。

 ところがかの財布、何処かへ落してしもうたらしく、これ、どこにも――ない。

 大きに驚き、急いでさっきの夜発と皮つるみ致いた辺りへ立ち戻ってはみたものの、最早、かの夜発も店仕舞い、人気も、これ、全く御座らなんだ。

「……こ、これは……さても……どうした……ものか……」

と途方に暮るるままに、とりあえずとって返し、

「……ご主人さま!……受け取りました金子を……これtえ落しまして御座いまする!……申し訳御座いませぬ!……何としても捜し出だし、また必ず戻りまするッ!」

と、夕飯(ゆうめし)の茶碗をとることもせで、また出掛けようと致いたによって、主人久兵衛も、かの男の普段からの実体なる働き、それ、なかなか、私(わたくし)なきことを知って御座ったによって、

『……もしや……金子を捜し得ずんば、これ……命を断つやも知れん!』

と思い、そうそうに押し留めんと致いたが、

「――いえ!――こればかりはッ!――」

と、いっかな承知せず、皆の制止するも振り切って、飛び出だし、一晩中ここかしこ、捜し求めて御座ったと申す。

 しかし――どこにも――これ、ない。

 さて、翌日の夕刻まで、かくなして御座ったが、また昨日の夜発のたむろする掘っ立て小屋に、灯の点っておるを見出したによって、再びたち寄ってみた。

 すると、昨夜、勘七の相手を致いた夜発が中におって、女の方(かた)より勘七を認めたかと思うと、

「――御身(おんみ)は昨日いらっしゃったお人では御座いませぬか?」

と訊ねたゆえ、

「如何にも!」

と答えたところ、

「――御身――何か――お落しなさった物は、これ、御座いませぬか?」

と返したゆえ、勘七、

「……かくかくの体たらくにて!……実に昨日より今に至るまでものも食わいで……捜して御座るッ!……」

と答えたところが、

「その御品(おしな)はどのようなもので御座いまするか?」

と訊き返したによって、

「……これこれの生地の財布に――七十両の金子――これこれの仕様にて――かく入れて御座るものにて……」

などと、勘七が委しく申したところが、それを聞くや、かの夜発、

「嬉しくも、尋ね来たって下すった!」

と、辺りの同業の者に気づかれぬよう、わざわざ少し離れたところの土の中へ埋めおいて御座ったを掘り起して参り、かの財布に入った、一両も欠けざる大枚七十両の金子を、これ、勘七に渡いたと申す。

 さればこそ、勘七は、驚くと同時に歓喜致いて、

「――まっこと、命の恩人じゃ!――御身は一体、何方(いずかた)のお抱えで御座るか?」

と訊いたところ、

「――はい――鮫ヶ橋にて九兵衞(くへえ)殿の抱えにて御座いまする。」

と申したによって、

「……また――必ず参る。それまで!――」

と、まずは暇まを乞いて、早々にお店(たな)へと戻ると、主人久兵衛へかの金子を差し出だし、

「――かくかくしかじかことにて――無事、一両も欠くることのう、取り戻すことが出来まして御座いまする!……」

と、事実を有体に語って、久兵衛に許しを請うた。

 それを聴いた久兵衞も、これ、はなはだ感じ入って、

「――かくなる貞婦に、賤しき勤めをさせおくは、不憫極まりなきことじゃ!」

と、金子二十両を懐中の上、かの抱主たる九兵衛方を尋ねたと申す。

 たまたまその日、勤めに出でざる同人抱えの夜発が二人、そこに御座ったが、九兵衛が、

「何用にて御座いまするか?」

と訊ねたゆえ、久兵衛は勘七の一件を語り、

「この御女中は、今、どこに御座います?」

と質いたところ、

「――ふむ。丁度、その本人より、今と同じ話を、聴いたところで御座った。――それは、それ、この女で御座る。」

と、そこに御座った女を指したによって、久兵衛は、

「何卒、その娘の残る年季を、手前どもにて支払わせて戴き、請け出しとう存ずる!」

と乞うて、金二十両を揃えて九兵衛の前にさし出だいた。

 すると、九兵衛が答えたことには、

「この女は、訳あって――まあ、このような賤しい勤めをするような者にては御座らぬ身分の者でのう。――されど、いろいろ御座って、育てて呉るる方もなく――我らが方へと流れて参って――このような身に堕ちては御座った。……そうさ、給金六両も御座れば――暇まを出だすには、これ、よろしゅう御座る。――さても――このような大金は――結構で御座る。」

と申した。

 せちに残りの十四両もお納めあれと勧めたものの、九兵衛は、

「いや――それは過褒!」

と、いっかな承知せなんだと申す。

 かの女子(おんなご)も見るからに、賤しからざる生れなるは明白で御座ったによって、久兵衛もはなはだ悦び、そのままこの娘を伴って店へと帰った。

 そうして、さても勘七の年季も丁度極まり、この度の貞実なる振舞いにも感じ入って御座った久兵衛は、最寄りの場所へ勘七にお店(たな)を持たせ、かの元夜発を妻と迎えさせた上、商いの元手なんどをも与えて、今は、すっかり繁昌に暮しておる、とのことで御座る。

 その元夜発なる妻とは――これ実は、麻布辺でも知られた名家荒井何某(なにがし)と申した御仁の娘で御座ったが、親の没後、その兄弟の身持が、これ、よろしゅうなく、悪しき輩が家内(いえうち)に立ち入るようになり、果ては女衒(ぜげん)に九兵衛方へと売り渡された者なり――と噂には聴いて御座る。

 流石にそれなりの正しき素性の女性(にょしょう)であったればこそ、かかる仕儀も御座ったに違いないと申すもので御座ろう。

 かの夜発親方九兵衛と申す者も、今はかくなる者なれど――これ、如何なる素性の、いかなる者の果てでも御座ったか――その爽やかなる気風(きっぷ)のよさは、まさに義心を失わざる者なればこそ、勘に絶えぬ立派な御仁で御座った、とは久兵衛の語って御座った話しで御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 20

モースが坂で車の後押しを手伝うシーンが、なんともいい。

M141

図―141

 午後は横浜に向けて出発。途中小村藤沢に立ちよった。江ノ島に一番近い郵便局はここにある。サンフランシスコからの汽船が着いたので、私宛の郵便が転送されていはしまいかと思って寄って見た。我我が郵便局に着いた時、恰度郵便が配付され始めた。図141は郵便局長が、手紙や新聞の雑多なかたまりを前にして、坐っている所を示す。私宛の手紙を日本の小さな村で受取ること、及び局長さんが、私の名を日本語で書いた紙片をつけた手紙の束を、渡してくれた無邪気な態度は、まったく新奇なものであった。私が単に「モースさん」といった丈で、手紙の束が差出された。他の手紙の配分に夢中な局長さんは、顔をあげもしなかった。横浜郵便局長の話によると、日本が万国郵便連合に加入した最初の年に、逓信(ていしん)省は六万ドルの純益をあげ、手紙一本、金一セントなりともなくなったり盗まれたりしなかったというが、これは日本人が生れつき正直であることを証明している。藤沢からの六マイル、私はゆったりして手紙を楽しんだ。だが、元気よくデコボコ路を走る人力車の上で、手紙をみな読もうとしたので、いい加減目が赤くなって了った。私は日本語をまるで話さず、たった一人で人力車を走らせることの新奇さを、考えずにはいられなかった。人人は皆親切でニコニコしているが、これが十年前だったら、私は襲撃されたかも知れぬのである。上衣を脱いでいたので、例の通り、人の注意を引いた。茶を飲むために止ると必ず集って来て、私の肩の上にある不思議な紐帯にさわって見たり、検査したりする。日本の女は、彼等の布地が木綿か麻か絹で織り方も単純なので、非常に我々の着ている毛織物に興味を持つ。彼等は上衣の袖を撫で、批判的に検査し、それが如何にして出来ているかに就いて奇妙な叫び声で感心の念を発表し、最後に判らないので失望して引き上げる。あまり暑いので、私は坂へ来るごとに、人力車を下りて登った。一つの坂で、私は六人の男が二輪車に長い材木をのせて、大いに骨折っているのに追いついた。私の車夫二人は車を置いて、この荷物を押し上げる手伝いをしたが、私もまた手をかして押した時には、彼等は吃驚(びっくり)して了った。坂の上まで行くと、彼等はアリガトウと、ひくいお辞儀との一斉射撃をあびせかけた。その時は八時を過ぎていて月はまんまるで明るく、私は車上の人となり、あけはなした家々の中をのぞきながら、走って行く経験を再びした。
[やぶちゃん注:「逓信省」底本ではこの下に、訳者による『〔駅逓局〕』という割注がある。日本はまさにこの明治一〇(一八七七)年の二月十九日にアジア諸国としては初めて万国郵便連合に加盟している。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 5 八坂神社の祭礼

    ●八坂神社の祭禮

八坂神社は邊津宮の傍らにあり、例年七月十三十四の兩日(りやうじつ)祭禮にて江の島海邊(かいへん)ことのほかの賑ひなり、近郷近在より參詣の客、老若男女(らうじやくなんによ)、おしあひ揉みあひ非常の雜踏を極む。

この八坂の祠(ほこら)は、舊(も)と龍の口にいつきまつりしを、さる年の暴風雨に海綿荒れて、津浪を起し、神社は洗はれてこの江の島に漂着座(ましま)しけるを、島人いぢくも拾ひ奉りて、邊津の宮の傍(かたはら)に勸請(くわんせう)しける。因て當日は龍の口も、この江の島も祭典なり。またおの祭典に就きて有興(おもしろ)き囃子あり。里神樂に似て極めて古風のものなり。口碑に傳ふ、昔一人の翁(おきな)ありけり、身に白衣を着し、道德高き僧なりけり、島民に教ふるにこの囃子方(はやしかた)を以てす素より是れ雲水の客(かく)、後ち翁の行く所を知らずと、其節(そのふし)他に異なりておもしろければ記し置かん、此日江の島東西の獵史町よりは二手に分れて囃(はや)やす。

[やぶちゃん字注:以下は、底本では二段組になっているが一段で示す。ダッシュ「――」で示した仕切り線は底本では波線である。]

 ⦅西町⦆

 ○通り囃子

   豆太鼓(まめたいこ) 四人

   笛          三人(或は四人)

   三味線(さみせん)  三人

   大太鼓(おほたいこ) 一人

   摺り鉦(かね)    三人

   銅鑼         一人

    ――――――――――――――――

 〇のうかん

   〆太鼓(しめたいこ) 三人

   笛          三人

   三味線        二人(或は三人)

   鼓(つゝみ)     二人

    ――――――――――――――――

 〇松囃子(まつはやし)

   〆太鼓        三人

   笛          三人

   太鼓         一人

   銅鑼         一人

    ――――――――――――――――

 〇唐人囃子(とうじんはやし)

   哨吶(チヤルメラ)  二人

   豆太鼓        四人

   笛          三人

   大太鼓        一人

   銅鑼         一人

    ――――――――――――――――

 ⦅東町⦆

 〇神囃子(かんはやし)

   太鼓         三人

   鼓          二人

   笛          三人

   大太鼓        一人

    ――――――――――――――――

 〇松囃子

   前條に同じ

 〇龍神

   哨吶         二人

   鼓          二人

   三味線        三人

    ――――――――――――――――

神輿(みこし)は總朱塗にして、上に鳳凰を宿(しゆく)す、扨て十三日の夜宮には御旅所まで渡御す、十四日には宮の周圍を一週す、此の際天王囃子を奏す、其賑はしさ。斯くて西町を練り行きて、濱邊の一の鳥居際(きわ)まで渡御するや、壯丁(そうてい)は海に馴れたるモグリとて、神輿を舁いて海中に躍り込む、神輿よりは二條の綱を曳き、浮きつ沈みつ西町より東町に渡御す、殘れるものどもはいさ別れよと眞裸體(まはだか)になり互いひに海中に揉み合ふ、また天王囃子(てんわうはやし)を奏す。

昔は腰越(こしこゑ)に神輿渡御の擧(きよ)ありしも、このこと今は稀れになり、七年目の祭禮は殊に賑はしく、汐風に吹き黑ろまされし美人、さては杖に縋(すが)る翁、奇異(あやし)けなる風俗八坂の祭典を見るも、東京への土産ぞかし。

[やぶちゃん注:神輿が海を渡御すること、囃子にチャルメラが用いられることで知られる天王祭(神幸祭)と呼ばれる奇祭である(私は残念ながら見たことがない)。私の御用達の「江の島マニアック」の「八坂神社」でこの祭りの動画で見られる。

「島人いぢくも拾ひ奉りて」「いみじくも」の脱字誤字であろう。

「のうかん」不詳。識者の御教授を乞う。]

○中津神社〔口繪參看〕

[やぶちゃん字注:以下は底本では全体が一字下げ。]

中間の島上(とうじやう)に在り。もと上宮と稱す。銅屋根破風(はふう)造り。朱塗格天井にして。種々の彫刻を施せり。社堂の右に神輿を奉置し。此處にて神寶の展覽を許す。戸扉に其の目錄を表示せり。

[やぶちゃん字注:以下の目録内容は底本では二段組であるが、一段で示す。]

    御神寶目錄

 北條氏康公鎧

 遠山新九郎鎧

 北條氏綱舞樂太鼓

 政子御前如意寶珠

 當山に生したる相生竹

 北條氏綱大身槍

 德川家康公陣太刀

 龜山天皇の勅額

 仁田四郎兜

 北條氏綱舞樂の面

 文覺上人直筆額

 八ツ花御鏡

 一遍上人直筆額

 北條氏政直爭書

 日蓮上人直筆卷

 弘法大師御作獅子

 蓮糸の曼陀羅

 右大將賴朝公像

 鎌倉權五郎景政五人張矢

 北條時政公陣羽織幷旗

 仁田四郎忠常南蠻鐡〔足蹈轡〕

 運慶御作唐獅子

 淸國分捕品

  右展覽を許す        當社

仁壽三年慈覺大師の創立(そうりう)する所にして。寶永三年十月社領十石の御朱印を賜ふ。其の他は片瀨村に在りしといふ。昔時は上之坊之か別當んたり。

[やぶちゃん注:「島

「北條氏政直爭書」の「爭」は「筆」の誤植であろう。

「創立する」の「る」の右上方には傍点「●」があるが、無視した。]

○奥津神社

西南の島頂(たうてう)に在り。もと本宮御旅所と稱す。素木造り組上にて。囘欄を施せり。拜殿には抱一の畫きし八方睨みの龜あり此に維持享和三年龍集昭陽大淵獻夏林鐘之月抱一製と題せり。毎年四月初の巳日に。本宮より神輿を爰に遷(うつ)す。神官等供奉し。伶人樂を奏す。東京あるひは鎌倉金澤。其他近郷より群參する者其の數量るべからず、駐在六ケ月にして。十月初の亥日に還輿あり。創立(そうりう)の年代詳ならず。元は岩本院の前に在りしと云ふ。

[やぶちゃん注:「八方睨みの龜」私はこの絵がすこぶる附きで好きである(但し、現在の拝殿天井のそれは綺麗な模写である。それでも好きである)。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 1

[やぶちゃん注:底本第三巻の「翻譯」所収。原典“Betrachtungen über Sünde, Leid, Hoffnung und den wahren Weg”は「109」の断章から成るが、中島敦は「11」の番号を書いたところで中断している。注でドイツ語版ウィキソースの“Betrachtungen über Sünde, Leid, Hoffnung und den wahren Weg – Wikisourceから原文を引用、次に新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」の飛鷹節氏の当該章の邦訳(氏の邦題は「罪、苦悩、希望、真実の道についての考察」)を示した(翻訳著作権があるが、中島敦の訳との対照のための引用であり、中島のものは十章分しかない。されば引用の許容範囲内と私は判断するが、万一、削除要請があった場合には削除する用意がある。本翻刻では「10」までを示す。]

 

 

          1

 

 

 眞實の道は一本の繩――別に高く張られてゐるわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られてゐる一本の繩を越えて行くのだ。それは人々がその上を步いてゆくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられてゐるやうに思はれる。

 

[やぶちゃん注:原文。

 

                                 1

 

Der wahre Weg geht über ein Seil, das nicht in der Höhe gespannt ist, sondern knapp über dem Boden. Es scheint mehr bestimmt stolpern zu machen als begangen zu werden.

 

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。

 

 一 真実の道は、たかい空中ではなく地面すれすれに張られた一本の綱のうえに伸びてている。それは歩いて渡られるたれるためというより、むしろ躓かせるためにあるようにみえる。

 

 

 私はこのアフォリズムに、

 

……私の以上の諸命題は、私を理解する君が其処を通り、其処の上に立ち、其処を乗り越えて行く時、最後にそれが常識を逸脱していると認めることによって、解明の役割を果たす。(君は、言ってみれば、梯子を登り切った後には、その梯子を投げ捨てなくてはならない。)君はこれらの命題を乗り越えなければならない。その時、君は世界を正しく見ている。

 

という断章が想起されてならない。それは――Ludwing Wittgenstein の「論理哲学論考」終章(6.54)である――

 

 

6.54 Meine Sätze erläutern dadurch, dass sie der, welcher mich versteht, am Ende als unsinnig erkennt, wenn er durch sie - auf ihnen - über sie hinausgestiegen ist. (Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist.) Er muss diese Sätze überwinden, dann sieht er die Welt richtig.

 

 

以上の原文引用はSatohSin 氏の“Ludwig Wittgenstein Tractatus Logico-Philosophicus”に拠る。]

 

蕪村俳句の一考察 萩原朔太郎

 先年、第一書房から出版した僕の『郷愁の詩人與謝蕪村』について、俳壇の人々から、意外に好意ある賞讚や批評をうけたが、書中

 戀さまざま願の糸も白きより

 の句に關する僕の評繹について、「ぬかご」の安藤姑洗子氏から、七夕の句であることを啓蒙注意された。「願の糸」が七夕の祭具であつて、現に歳時記にも載せられてゐるのを、僕が知らずに居たといふのは、いかに門外漢とは言ひながら、無知も甚だしく汗顏羞恥の至りであつた。しかし姑洗子氏のこの句に對する解釋も、僕には納得できない不充分のものであつた。同書にも書いた通り、この句は古來難解の句と稱され、多くの註釋家を惱ましてる蕪村句中のスフインクスで、未だ一として定説づけられた正解がないのである。それ故僕も極めて用心深く、遠慮しながら自分の獨斷的の直感を敍べておいたが、それも自分ながら不安心で、内心びくびくして居た次第であつた。

 その僕の評繹といふのはかうであつた。

[やぶちゃん字注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。前後に行空け。『「さまざま」は』の後に読点があるが、『郷愁の詩人與謝蕪村』にはない。それ以外は忠実な引用である。]

 古來難解の句と許されて居り、一般に首肯される解説が出來て居ない。それにもかかはらず、何となく心を牽かれる俳句であり、和歌の戀愛歌に似た音樂と、蕪村らしい純情のしをらしさを、可憐になつかしく感じさせる作である。私の考へるところによれば、「戀さまざま」の「さまざま」は、「散り散り」の意味であらうと思ふ。「願の糸も白きより」は、純潔な熱情で戀をしたけれども――である。(下略)。

 つまり私は、これを失戀の句と解したのである。しかし現實のレアリスチツクな實感ではなく、遠い日の昔に過ぎ去つた、果敢なく侘しい失戀の追懷への、子守唄に似たノスタルジアの抒情詩と解したのである。

 所で最近、ふと「徒然草」の一節を反讀して、偶然にも蕪村の句の出所につき、はたと思び當る所があつた。

 徒然草の第二十六段に

[やぶちゃん字注:以下の引用は底本では全体が二字下げ。前後に行空け。引用の和歌は、底本では、示したところの上句と下句の有意な間隙とは別に、各字の字間に有意な空けが存在している。]

 風も吹きあへず、移ろふ人の心の花に、なれにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉毎に忘れぬものから、わが世の外になりゆく習ひこそ、亡き人の別れよりまさりて、悲しきものなれ。されば白き糸の染まむことを悲しび、道の巷の別れむ事を歎く人もありけむかし。堀川院の百首の歌の中に、

  昔見し妹が垣根は荒れにけり つばなまじりの菫のみして

 さびしきけしき、さること侍りけむ。

 この章の文意は、昔ちぎつた男女の、後に戀がさめ、心變りして生別れしことを、後日になつて侘しく思ひ出した感慨を抒したのである。

 文中の「白き糸の染まむことを悲しび」といふのは、支那の文獻の故事から引用したのださうであるが、人の心の變り易く、移ろひ易きを言つてるのである。上例の蕪村の句が、この徒然草の文章からモチーヴの暗示を受けてることは、殆んど想像するに難くない。姑洗子氏の教へる如く、「願の糸」が七夕の祭具とすれば、その七夕の日に、神への願ひを捧げる可憐な少女の姿を見て、昔の純潔な戀を思ひ、またその過ぎ去つた果敢ない少年の日のことを侘しがつてゐるのである。

  妹が垣根三味線草の花咲きぬ

といふ蕪村の句も、やはりこれと同想のものであつて、上述の文中にある歌「昔見し妹が垣根は荒れにけりつばなまじりの菫のみして」からヒントを得たものにちがひない。

 かう考へて見ると、「戀さまざま」の句に關する僕の解釋にも根據があり、充分の自信が持てることになる。

 蕪村の俳句の大部分が、過ぎ去つた過去の日への追憶であり、時間の遠い彼岸に對する、魂の侘しいノスタルジアであることは、既に前の著書で詳説した通りであるが、讀者は此等の句を玩味することによつて、さらに深く知る所があると思ふ。

[やぶちゃん注:『句帖』第二巻第九号・昭和一二(一九三七)年九月号に掲載された。太字「はた」は底本では傍点「ヽ」。初出と十箇所の異同が認められるが、総てが誤りの補正と認め得るものであるので、今回は校訂本文を用いた「郷愁の詩人與謝蕪村」の「戀さまざま願の糸も白きより評釈に対する批評を受けて書かれたものであるが、朔太郎の筆鋒は安藤姑洗子の歳時記的凡百批評の鈍刀(なまくらがたな)をチャッと返して、まっこと、小気味よいではないか。

 俳人安藤姑洗子(あんどうこせんし 明治一四(一八八一)年~昭和四二(一九六七)年)は臼田亜浪『石楠』創刊に参加、長谷川零余子の『枯野』に入る。零余子歿後は同誌を『ぬかご』と改題して主宰した(思文閣「美術人名辞典」に拠る)。

 「徒然草」第二十六段について簡単に注しておく。

・「風も吹きあへず、移ろふ人の心の花に」花びらをここぞと散らしてしまう風さえ吹くか吹かぬかという前に、あっという間に色褪せそそくさと散ってしまう花のようはな、移ろいやすい人の心に。「古今和歌集」春の紀貫之の、

   櫻のごと疾く散るものはなしと人の言ひければ、よめる

 櫻花疾く散りぬともおもほえず人の心ぞ風も吹きあへぬ

及び同じく同集春の小野小町の、

   色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける

などを踏まえる。

・「白き糸の染まむことを悲しび、道の巷の別れむ事を歎く」「蒙求」上から生まれた墨子と楊朱の故事成句「墨子悲糸楊朱泣岐」(墨子は糸を悲しみ、楊朱は岐に泣く)に基づく。以下に示す。

〇原文

墨子悲糸、楊朱泣岐。

淮南子曰、「楊子、見逵路而哭之。爲其可以南可以北。墨子、見練糸而泣之。爲其可以黄可以黑」。高誘曰、「憫其本同而未異」。

〇やぶちゃんの書き下し文

 墨子、糸(し)を悲しみ、楊朱、岐(き)に泣く。

 「淮南子」に曰はく、「楊子、逵路(きろ)を見て之に哭す。其の、以つて南すべく、以つて北すべきが爲(ため)なり。墨子、練糸を見て之に泣く。其の、以つて黄(くわう)にすべく、以つて黑にすべきが爲なり。」と。

 高誘(かういう)曰はく、「其の本(もと)同じくして、末(すゑ)異(こと)なれるを憫む。」と。

「高誘」は後漢の「淮南子」の注釈者。

・「堀川院の百首の歌」堀河天皇の康和年中(一〇九九年~一一〇四年)、藤原公実・大江匡房(まさふさ)・源俊頼ら十六人の廷官が題を決めて一人百首計千六百首を詠んで献呈された和歌集。「昔見し……」の和歌は公実の作。「つばな」はイネ科チガヤ Imperata cylindrica、茅(ちがや)の花のこと。]

靑いとんぼ 北原白秋

   靑いとんぼ

靑いとんぼの眼を見れば
綠の、銀の、エメロウド、
靑いとんぼの薄き翅(はね)
燈心草(とうしんさう)の穗に光る。

靑いとんぼの飛びゆくは
魔法つかひの手練(てだれ)かな。
靑いとんぼを捕ふれば
女役者の肌ざはり。

靑いとんぼの奇麗さは
手に觸(さは)るすら恐ろしく、
靑いとんぼの落(おち)つきは
眼にねたきまで憎々し。

靑いとんぼをきりきりと
夏の雪駄で蹈みつぶす。

(昭和25(1950)年新潮文庫「北原白秋詩集」 「思ひ出」より)

鬼城句集 夏之部 沖膾

沖膾    臺灣へ行く舟通る膾かな

十四のをとめ 大手拓次

 十四のをとめ

そのすがたからは空色(そらいろ)のみづがながれ、

きよらかな、ものを吸(す)ふやうな眼(め)、

けだかい鼻(はな)、

つゆをやどしてゐるやうなときいろの頰(ほゝ)、

あまい唾(つば)をためてゐるちひさい脣(くちびる)。

黄金(きん)のランプのやうに、

あなたのひかりはやはらかにもえてゐる。

2013/07/09

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 19 お岩屋探検

M140

図―140

 今朝、外山氏及び二人の彼の友人と共に舟を賃(か)り、我等の入江からこぎ出して、外洋に面した島の岸へ廻った。ここには満潮痕跡に近く一つの洞窟があり、我々はこれを調査したいと思ったのである。鷹揚に我等の舟を上下させる、大洋の悠々たるうねりに乗って帆走するのは、誠に気持がよかった。島の前面の切り立った崖の上に松の木が並んだところは絵のようであった(図140)。汀に近い岩の上には、インディヤンみたいな色をした男の子が十数人、我々の投げ入れる銅貨を潜って取ろうとして、勢い込んで走り廻っていた。洞窟は岩に出来た巨大な割れ目で、以前海中にあった頃、波がまるくしたのに違いないと思われる。今は波は僅かに入口に達する丈である。岩は淡色をしているので、洞窟の暗い入口が一層際立って見える。百五十フィートばかり入った所に金簿を塗った神道の祠(ほこら)があり、これが入口から入り込むいささかな光を反射して、暗い洞窟中で目立っている。この祠は高さも幅も十フィート近く、非常に精巧な彫刻が施してある。この暗い、湿った洞窟は、祠を置くには奇妙な場所であるが、而も日本では顕著な地形の所、例えば此所とか、山の頂上とか、絶壁や深い谷の口とかに、信心深い人達が彼等の教会なり神社なりを立てる。この祠の片側を通りぬけることが出来る。後方はまっ暗で、ここで灯を貰い、我々は数百フィート進んで行ったが、お仕舞(しまい)にはかがまねはならぬようになった。この辺は、我々の蠟燭の覚束ない光を除けば、絶対に暗黒である。洞窟のどんづまりには、ぼろぼろに腐った古めかしい板の壁があつた。この壁の内には木の格子があり、そこからのぞくと直径十二インチばかりの、磨き上げた金属の鏡が見えた。これは神道の祠を代表している。帰りには一つの横穴に入ったが、ここにもどんづまりに格子があり、その間から見ると神社と鏡とがあった。この路は二人が並んで歩くことが困難な位で、壁には石に刻んだとぐろを巻いた竜、その他の神話を象徴した姿があった。私はジャヴア、インド、支那等で、驚く可き岩石彫刻や巨大な寺院を残した、初期の信仰者達の、信仰と敬虔とを思わざるを得なかった。あるいは微光昆虫がいるかと思って、私は注意深く壁を精査したが、暗さが足りないので、典型的な洞窟動物は発見出来なかった。私は二匹の小さな蜘蛛と、二匹の非常に小さなワラジムシとを見つけてうれしく思ったが、殊に二匹の洞窟蟋蟀(こおろぎ)は何よりもうれしかった。これ等は恐ろしく長い触角を持ち、我国のよりも遙かに小さく、鼠色をしていて実にいい複眼を具えている。私は初めて、日本の海水の水たまりを見て楽しんだ。私は引き潮の時、岩から大きなヒザラガイをいくつか拾い上げた。また、それ迄貝殻だけで見知っていた軟体動物が、生きて這い廻っているのを見たのは大いに愉快だった。

[やぶちゃん注:モースはここで現在の第一岩屋及び第二岩屋の原型を踏査している。磯野前掲書(九二頁)によれば、これは七月二四日のことで、外山と二人の友人というのは乙骨と助手の松村任三のことである。モースの嬉々としている様子が如何にも微笑ましい。私はこの場に/この場にこそ、いたかった――。

「百五十フィート」凡そ46メートル。

「高さも幅も十フィート」第一岩屋の当時の内部。高さ幅ともに約3メートルである。

「数百フィート」100フィートは約30メートルで現在の第一岩屋の奥行は公称で152メートル(第二岩屋は56メートル)であるから、この表現はおかしくない。

「洞窟蟋蟀」原文“cave crickets”。

「軟体動物門多板綱新ヒザラガイ目クサズリガイ科ヒザラガイ Acanthopleura japonica またはその近縁種と考えてよい。原文の“chitons”は多板綱 Polyplacophora の英名。扁平な体を持ち、背面に一列に並んだ八枚の殻を持って点が特徴で、現生軟体動物の中では例外的に見た目の体節性を感じさせる体制を持っている。モースが本種にいたく感激しているのは、本種が軟体動物では比較的古形に属するものとされていること、モースの専門である腕足類シャミセンガイ類もかつて『生きている化石』と称されたこと(これは現在では厳密には必ずしも正しい謂いとは言えない。形状の酷似した腕足類の化石生物が多数見つかってはいるが、内部構造がかなり変化していることが確かめられており、実際には現在のものとは別の科名や属名がつけられている)などとの連関が感じられたからに違いない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 18 将棋の王将の駒の絵

M138
図―138

 昨晩私は将棋盤を使ってやる遊技を、三種類習った。学生の一人が私に日本の将棋を教えようと努めたが、私には込み入り過ぎていて了している。将棋駒は黄楊(つげ)材製で着色してない、つまり自然の色のままである。

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図―139

[やぶちゃん注:この「王将」の字の写しが面白いので、回転正立させた画像も示しておきたい。


M139kai

「王」さらに「將」の字が特にデザインのように見えたのに違いない。]

 駒には大小があるが、形はみな同じである。王の一族が一番大きく、兵隊即ち卒が一番小さい。駒は迫持(せりもち)の楔石(くさびいし)に似た形をしていて細い方が薄く、黒漆でその名が書いてある(図139)。数は二十、宮廷関係の駒が第一列を占め、卒は第三列、それから二つの駒がその間、即ち第二列に置かれる。王は四角の第一列の中央に、その左右に黄金の将軍、次に銀の将軍がいる。黄金の将軍は斜に前進するほか、前方、及び左右にはまっ直に進むが、後方には直線に退く丈である。銀の将軍は我国の将棋でいうと僧正の役をつとめるが、同時にまっ直に前進することも出来る。飛竜の将軍は我々のルックのように動き、一枚の斜進する将軍は僧正同様に動く。盤の右隅にいる一つの駒は前進することしか出来ぬが、敵の第三列に入ると黄金の将軍に変身する。馬兵と呼ばれる二つの駒は我々のナイトと全く同様に動くが、只後進することは出来ない。これ等も敵の第三列に入れば、希望によっては、黄金の将軍になることが出来る。勝負の時には駒の細い方の端が敵に面するので、敵味方を区別するのはこれによる丈である。二人の者が植物性の蠟燭のうす暗い光の下で、盤上にそれと同じ様に黒ずんだ駒をのせて勝負している有様は、まことに物珍しい。駒を捕虜にする仕方は、我々と同様だが、只卒は一直線に進んで敵を捕える。この遊技で最も奇妙であり、またこれあるが故に我我の将棋が簡単なものと思わせる点は、捕虜にした敵の駒をいつでも、いかなる場所にでも、使い得ることで、従って形勢不利な場所には、このような囚人が後から後から出て来て敵に当り、攻撃される方でも同様にして敵の囚人を利用することがある。これは最もこみ込った遊技で、理解するには余程の知力を必要とする。脚をむき出しにした人力車夫達が、客を待ちながらこの遊技をしている有様は奇抜なものである。
[やぶちゃん注:底本では「ルック」(ルーク)の後に『〔飛車〕』、「ナイト」の後に『〔騎士〕』の訳者割注が入る。]

中島敦漢詩全集 十三

   十三

夜寒烹藥草

風雪遶茅居

病骨空懷志

今冬復蠹魚

○やぶちゃんの訓読

夜寒(よざむ) 藥草を烹(に)

風雪 茅居(ばうきよ)を遶(めぐ)る

病骨 空懷(くうくわい)の志(こころざし)

今冬(こんとう) 復た蠹魚(とぎよ)たり

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「茅居」あばら家。茅舎。茅屋。

・「」「囲繞(いにょう)」の「繞」の異体字。巻き付くこと、回り道をすること。風雪が茅居を巻き込むように吹き過ぎていく様子を指す。

・「空」実現する見込みのない抱負。かなうことのない願い。

・「蠹魚」(とぎょ)。本ばかり読んでいる人。さらには本を読んでも真意を理解できない人を嘲って言う言葉。元来は昆虫綱無翅類のシミ目 Thysanura に属する昆虫を指す語である。体長約一センチメートル、体はやや細長く、魚を思わせ、腹端に三本の長毛をもつ。湿潤な場所を好み、人家内にも見られ、書物や衣類などの糊のついたものを食害すると考えられたために「衣魚」「紙魚」と書かれ、英名も“bookworm”であるが、確かに障子や本・和紙の表面を舐めるようにして食害するものの、それによって甚大な汚損や損壊が生じることは実はなく、古人は恐らく書物をトンネル状に食い荒らす鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae のシバンムシ類(死番虫:英名“death-watch beetle”に由る和名。この英名は本類に属するヨーロッパ産の木材食のマダラシバンムシ属 Xestobium の成虫は頭部を建材の食害孔の内壁に打ち付けて「カチカチ」「コツコツ」と音を発するが(雌雄の確認行動とされる)、これを “death-watch”(死神の持つ時計)の音とする迷信が欧米にあったことに由来する。)による食害などを、銀色に光って目立つこのシミ類によるものと誤認していた可能性が高い。なお、シミは七~八年は生き、昆虫としては長命と言える。

T.S.君による現代日本語訳

深夜ひとり薬を煎じていると…

小雪混じりの風の叫びが聞える――

虚しい志の火を病身の最奥に点しつつ…

書物を食らう紙魚(シミ)に似た冬の底の私――

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 一読――意味は取りやすい。しかしこの詩、なかなか自分の評釈を定着させることができなかった。中島敦の詩に取り組み始めて以来最大の苦戦である。一体何が原因なのか?

 それは――「蠹魚」――この一語のためである……。

 先日、生れて初めて洗面所で「蠹魚」という名の異形の虫を見た。銀色の光沢を持つ一センチほどの身体は、まるで太ったシラスのようだ。体躯は柔軟性に富んでおり、細い足を奇妙に動かして歩く。触角が神経質に顫動し、どんな暗がりの隙間でも見逃さずにもぐり込む。薄暗くて適度な湿度が維持される場所を好むという、捉えどころのない、なんとも不吉な虫。

 この「蠹魚」という語は、ここではいわば「本の虫」という意味で遣われている。別にこの虫そのものを歌いたいわけではない。単なる比喩である。しかし詩人は、この語を使用することによって生れる全ての効果を納得の上で、詩の要ともなる結句に挿入したのだ。詩人の持つ高い志、強烈な自信、ひとり病と闘う刻苦、寒い夜にも机に向かう文学への強靭な拘り。それらのいずれとも明らかに異質な、この陰湿なイメージを有する、下らない虫けらの名を――敢えて用いた――のだ……。

 私は戸惑ってしまった。起句から転句まで辿るうちに、詩人の姿がランプの光に浮かび上がり、イメージが結実しそうになる。それは、雪交じりの強風が吹く冬の闇の底で、ひとり病と向き合い、文学と対峙する詩人の姿だ。贅肉を削ぎ落とした、硬質な詩の輪郭だ。しかし――結句に到って、「蠹魚」に触れたその刹那、私の中に無視し難い不協和音が立ち上がってくるのだ。……何故、こんな言葉を用いたのだろう? この一語のために、折角のイメージが崩れてしまうではないか?!……。

[やぶちゃん注:以下の中段部の叙述は、T.S.君の心の深奥へと降りてゆく。それは私を含めた余人には語り得ぬ、また理解し得ぬものであることは彼も私も百も承知である。しかし真に価値ある評釈とは、対象の芸術作品と対峙する孤独な自己との、のっぴきならない関係性の中で/でしか生まれない。さればこそ、私はこの晦渋な意味深長な茫漠としたプライベートな述懐部を、敢えてそのままに載せることを彼に教唆したことを、敢えてここで告白しておきたいと思う。]

 私は悩んだ。二十個の漢字の前で毎日唸った。……

 ……そして、評釈が何も明らかな形を得ぬうちに……自分の関心は、少しずつ……漢詩以外の……私自身の生活上の、瑣末な物事の上に移ろっていった。……この詩に対する共鳴が未だ得られぬままであることに、どこか後ろめたいものを感じながら……。

 ……生活上の諸々の煩瑣な課題に、私は心から苦しんでいた。……そしてさらには、人と人との関係を、どうやって維持していくかということに……。

 ……私は疲れていた。……そして今日、私は……私は遂に、自分の理性を封じ込め、自分で自分を貶めてしまった。……私は心のうちで、不快な様々な出来事を耐えなければならない自分が当然受けるべき償いとして、そういう行為を正当化したのだ。……つまり、自分を誤魔化したのだ。……今、私は深夜ひとり机に向かい、自分を振り返っている。――自分で自分を辱めるとは――なんと無惨で卑しいことだったろう。まるで……まるで、暗がりに卑屈に息し、じめじめとした湿気がなければ生きられず、強烈な光を厭う――卑しい虫けらのようではないか!……

 まさか――?

 ああ、そうだ――!

 そうに違いない! これが、これこそが――「蠹魚」――ではないか!

 私はやっと自分を納得させることができたのだ!

 ただし、ひとつ注意しなければならないことは、ある。これは、あくまでも、読者である私個人にとっての「蠹魚」だということだ。詩人が一体どのような目論見を持ってこの語を用いたかということとは実は別問題であるかもしれない、という急所は押えておかねばならないということだ。

 人は、それぞれ自分自身の世界で詩を読み、自分なりの、かつ自分だけの解釈をし、理解をするものだ。その読みが高尚なものか下劣なものかは、その人が心に持つ宇宙の様相によって決まるだろう。……そう言う意味に於いて、私はこの時、明らかに下劣な時空に我が身を置いていた……しかし、同時にその瞬間に鮮やかに見えてきた『詩と真実』ででも……あったのである。

 中島敦よ。

 あなたは、自らを、書籍に巣食う陰湿にしておぞましい虫――蠹魚」――と呼んだ。

 一体どれだけ本気だったのだろう?

 あなたは、一体、どれほどの己の自信を持ち合わせていたのか?

 あなたは、一体、どこまで自分を律することのできる強い人だったのか?

 これは、

『毎日書物に没入していながら、俗人的な成果はまだ得られない』

という、斜に構えた自嘲のポーズだ。

 この語に表現させたいのはあくまでも自嘲の響きだ。

 間違いない。

 なぜなら、強烈な自信を持ち、古今の賢者に比肩するものの如く自らを意識していた彼だもの……。

 虫けらに喩えるという行為は、ほぼ間違いなく自嘲のポーズに違いないのだ。

 しかし私は信じたい(いや……何も証拠は、ないのだけれども……)。

 明確な自嘲の後ろ盾となっている強烈な自信の陰に、ほんの微かだが、人としての弱い部分があったに違いないと。

 そしてさらには、その弱い自分を卑しむ意識が、彼の心の深いところで、動いていたのだと……。

 なぜなら――人というのは本当に弱いもの――だから……。

 少なくとも私は――そういう弱い生き物――であるから……。

 もし、詩人が詩中でこの「蠹魚」という語を用いなかったら、どうであったろうと考えてみるがよい。

 その時この詩は――精励刻苦する、志高き、尊敬すべき『文学の僕(しもべ)』たる詩人の、清冽なる心象世界の絶対の表出のままに、まっこと、めでたく完結していた――ことであろう。

 しかし、詩人は敢えて、この奇体にして醜陋なる語を挿入した。

 それによって、この詩は、弱い人間の――否、弱いという属性を普遍的に持つ存在であるところの人間の――その心底に巣食う醜く惨めな実相をしっかり受けとめる力を与えられたのであった。

 弱き人間が、冬の雪交じりの烈風の底で、ぎちぎちと歯を食いしばって、しぶとくも生きようとせんとする姿を歌う『調べ』となった。……

 私にはそう思える……。

 私は決して弱い自分を正当化したくない。してはいけない。だから、だからこそ、この詩だけは、私の心の奥底にしまっておこう。そうしてこれからの私の生活の中で、常にこの詩を通奏低音として響かせて、いこう。……

 最後に、私の胸に想起した音楽をご紹介したい。ベートーヴェンの歌曲「蚤の歌」作品七十五第三曲。私は昔からこの歌曲を、単に風刺と滑稽を旨とする、取るに足りない作品とみなしてきたことを自白する。世の評価でも、おどけた楽しい歌曲だというのが一般的だ。しかし、今、初めて疑問に思ったのだ。――「蚤」を果たして単なる滑稽なくだらない虫と片付けてしまって良いものなのか?――と。これは、不用意に答えてはならない、すこぶる深刻な問い掛けなのではなかろうか?……。そして、この歌曲は、果たして、そんなに楽しいものなんだろうか?……。今の私には、もう、そんな無神経な通念に与することは、最早、できそうにもないのである……。

[やぶちゃん注:リンク先は、

Ludwig van Beethoven - Scherzlieder - Aus Goethes Faust Op. 75 Nr. 3

Peter Schreier, tenor. Walter Olbertz, piano. Gisela Franke, piano
になるもの。YouTube で最も再生回数の多いものを私が選んだ。]

愁ひつつ丘に登れば花茨 蕪村 / 花茨(いばら)故郷の道に似たる哉 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   愁ひつつ丘に登れば花茨

「愁ひつつ」といふ言葉に、無限の詩情がふくまれて居る。無論現實的の憂愁ではなく、靑空に漂ふ雲のやうな、または何かの旅愁のやうな、遠い眺望への視野を持つた、心の茫漠とした愁である。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憫な野生の姿が、主觀の情愁に對象されてる。西洋詩に見るやうな詩境である、氣宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れて居る。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より三首目。「可憫」「對象」「詩境である、」の読点はママ。]

   花茨(いばら)故郷の道に似たる哉

「愁ひつつ丘に登れば花茨」と類想であつて、如何にも蕪村らしい、抒情味に溢れた作品である。この句には「かの東皐に登れば」といふ前書が付いて居るが、それが一層よく句の詩情を強めて居る。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」の掉尾。「東皐」とは東の丘の意であるが、これは陶淵明の「歸去來辭」の末尾にある
 登東皐以舒嘯
 臨淸流而賦詩
 聊乘化以歸盡
 樂夫天命復奚疑
  東皐に登り 以つて 舒(おもむ)ろに嘯(うそぶ)き
  淸流に臨みて 詩を賦す
  聊(ねが)はくは 化に乘じて 以つて 盡くるに歸し
  夫(そ)の天命を樂しめば 復た奚(なに)をか疑はん
に基づく前書である。]

窓をあけてください 大手拓次

 窓をあけてください

窓(まど)をあけてください。
あなたののこした影(かげ)のにほひのしたはしさに、
わたしはひともとの草(くさ)のやうに生(お)ひそだち、
わたしはねむりのそこにひたつて、そのにほひに追ひすがる。
花のにほひに死ににゆく
羽蟲(はむし)のやうに惱(なや)みのあまさにおぼれて、
そぞろに そぞろに 悲(かな)しみの夕化粧(ゆふげしやう)する。
窓をあけてください、
ほのかなわたしの戀(こひ)びとよ。

鬼城句集 夏之部 甘茶

甘茶    本堂に幕打ち張つて甘茶かな

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 17

 今日外山氏と彼の友人とが来た。彼等が食事をしている時、私も招かれ、そこで煮た烏賊(いか)を食う機会を得た。それは固い軟骨みたいに強敵で、水っぽい海老のような風味がする。私は又生の鮑(あわび)を食おうとして懸命になった。これは薄く切ってあったが、とても固くて嚙み切ることはおろか、味を知ることすら出来なかった。まるでゴムみたいである。ある一つの事実に関して、私は明言することが出来ると思う。それは我々の食物は日本食にくらべてより栄養的、且つ合理的、そして消化しやすいということである。だが、私は脂肪のしみ込んだ食物の多くや、熱いビスケット等をばまで、この声明に入れはしない。日本人は熱心に我々の食物をとり、そしてそれは完全に彼等の口に合うが、我々は自然的に彼等の食物を好むことはない。

[やぶちゃん注:「今日外山氏と彼の友人とが来た」磯野先生の前掲書(九一頁)によれば、これは七月二十三日のことで、外山は外山正一、「彼の友人」とは乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ:旧幕臣の英学者。沼津兵学校教授。音楽家乙骨三郎は彼の息子で、詩人上田敏は甥に当たる。「君が代」を国歌とする提案をした人物としても知られる。)。外山正一は社会学者のイメージが強いが、明治三(一八七〇)年に外務省弁務少記に任ぜられて渡米、翌年には現地において外務権大録になったが、直ちに辞職、ミシガン州アンポール・ハイスクールを経て、ミシガン大学に入学、そこで哲学と科学(磯野先生は化学とする)を専攻、明治九(一八七六)年に帰朝している(ここはウィキの「正一」に拠る)。外山は実にこの後、八月十二日まで二十日間に亙って滞在、モースの採集も手伝っているとあり、もともと化学を学んだだけでなく、生物採集や観察などにも興味があったものと思われる。明治の幸福な学際的雰囲気が伝わってくるようだ。]

 外山氏の友人というのは学者らしい人で、英語は一言も話さないが、実に正確に読み且つ翻訳する。彼は英語の著書をいろいろ日本語に訳した。そしてそれ等はよく読まれる。すでに翻訳された著書を列記したら、たしかに米国人を驚かすに足りよう。曰くスペンサーの『教育論』(これは非常に売れた)、ミルの『自由論』、バックルの『文明史』、トマス・ペインの『理論時代』の一部、バークの『新旧民権党』(すでに一万部売れた)、その他の同様な性質の本である。このような本は我国のある階級の人々には嫌厭されるが、この国では非常な興味を以て読まれる。

[やぶちゃん注:「バックル」イギリスの歴史家ヘンリー・バックル(Henry Thomas Buckle 一八二一年~一八六二年)。ロンドンの富裕な商店主の子として生まれたが、正規の学校教育は一切受けず、父の死後に大陸を旅行、広範な知識と語学力を身につけ、ロンドンに居を構えて万巻の書を読み「イギリス文明史」(一八五七年~一八六一年)を著した。風土などの自然条件を重視し、進歩史観を唱えたこの著作は明治初年の日本において数度にわたって翻訳刊行されて、ギゾーの「ヨーロッパ文明史」と並ぶ文明史ブームを引き起こし、田口卯吉の「日本開化小史」、福沢諭吉「文明論之概略」などに大きな影響を与えた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「トマス・ペインの『理論時代』」イギリス生まれのアメリカの政治哲学者トマス・ペインが理神論(りしんろん deism:創造者としての神は認めるものの、神を人格的存在とせず、啓示を否定する説。)を主張した“The age of reason”(一七九四年勘刊。現在の邦訳題は「理性の時代」)。

「バークの『新旧民権党』」アイルランド生まれで「保守主義の父」として知られる英国の哲学者・政治家エドマンド・バーク(Edmund Burke 一七二九年~一七九七年)の著作と思われるが、原文にある“"Old Whig and the New”という書名に一致するものは見出し得ない。識者の御教授を乞うものである。]

M137

図―137

 図137は江戸湾の地図で、江ノ島の位置を示している。

[やぶちゃん注:図の“YOKIHAMA”とある場所が、まさに横浜の海岸通りにあった旧グランドホテルの位置であり、“ENOSIHIMA”に伸びる点線がほぼ現在の国道一号線と一致していることが分かる。右下には“CAPE KING”とあるのだが、富津岬のことか? 識者の御教授を乞うものである。]

Dinu Lipatti-Bach Cant.No147 Herz und Mund und Tat und Leben 僕はこの曲は……彼の演奏のために……あったのだと思うのだ……

仔山羊の歌 四首 中島敦 / 「河馬」歌群掉尾

    仔山羊の歌
      熱川(あたがは)の浜に
      一匹の仔山羊あり
      海に向ひてしきりに啼く
      その聲あはれなりければ
荒濱に仔山羊が一つ啼きてをりあはれ仔山羊は何を欲(ほ)りする
大島も黑雲がくり隱れけり仔山羊は何を見らむとすらむ
曇り日の海に向ひて立ち啼ける仔山羊は未だ角みじかかり
潮風にみじかき髯を吹かせゐる仔山羊の眼ぬち哀しと思ふ
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の掉尾。詞書は底本では六字下げで一行に続けて書くが、ブログでは何行にもなってしまうため、恣意的に行分けして示した。昭和十二年に熱川に行った記載は手帳日記にはない。「鵜の歌」の私の注の推定からは、やはり四月四日(日)の条に『夕方、熱海ニ行ク』が気になるが、翌日の帰浜であり、一泊二日で熱海から稲取・熱川まで足を延ばしたというのは当時の交通事情から考えると、やや無理があるか。
「ぬち」連語(格助詞「の」+名詞「内(うち)」の付いた「のうち」の音変化)で~の内、の意。]

黑鯛の歌 二首 中島敦

    黑鯛の歌
      ――土肥釣堀にて――
巖陰(いはかげ)はさ靑に透り黑鯛の尾鰭白々と妖(あや)しく翻(かへ)る
洞窟に光は入らず黑き水の湧くが如くに黑鯛群(む)るる
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。前のものと同じ吟詠と推定され、その場合、やはり八月二十九日の可能性が浮上する。]

小蝦の歌 四首 中島敦

    小蝦の歌
      ――土肥海岸所見――
潮ひきし岩のくぼみの水溜り許多(ここだ)小蝦の影ひそみゐる
飴色に陽(ひ)に透きとほる小蝦らの何か驚きにはかに乱る
幾多(ここだく)の小蝦隱れし砂煙やがて靜まり水澄みにけり
砂煙の砂の一粒一粒が音なく沈み蝦隱れけり
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。昭和一二(一九三七)年の手帳日記によれば、
八月二十九日(日)長濱ヘ行ク/美シキ日ナリ。中濱、諸節、籾山、山路、泳イデ居テ、水底ヲ見ル、自分ノ影ガ映ツテヰル、ダボハゼノ逃ゲテ行クノモ見エル、バス滿員、湘南デカヘル、
とあり、この「長濱」とは西伊豆の静岡県沼津市内浦長浜の可能性が高く、土肥に近い。これらの吟詠ともよく一致する。
「諸多(ここだ)」「幾多(ここだく)」は「幾多(ここだ)」に同じ。上代語の副詞で程度や量について甚だしいさまをいう。ここはこんなにも沢山、の謂い。]

鸚鵡の歌 十首 中島敦

    鸚鵡の歌
まどろみゐてふと眼をあけし赤羅(あから)鸚鵡我を見いでて意外氣(おもはずげ)なり
緋衣(ひごろも)の大嘴(おほはし)鸚鵡我を見てまた懶(もの)うげに眼をとぢにけり
娼婦(たはれめ)の衣裳(きぬ)を纒へる哲學者鸚鵡眼をとぢもの思ひをる
いにしへの達磨大師に似たりけり緋衣曳きてものを思へば
眼をとぢて日にぬくもれる緋鸚鵡の頰の毛脱(ぬ)けていたいたしげなり
緋に燃ゆる胸毛に嘴(くち)を挿入れて鸚鵡うつうつ眠りてゐるも
麻の實をついばむ鸚鵡かたへなる我を無視してひた食(は)みに食(は)む
嘴(はし)と嘴疾(と)く動きつゝまつ黑の鸚鵡の舌はまるまりて見ゆ
麻の實の殼を猛烈に彈(はじ)き飛ばす赤羅裳(あからも)鸚鵡ひたむきなるを
年老いし大赤鸚鵡翼(はね)さきの瑠璃色なるが伊達者めきたり
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

鵜の歌 四首 中島敦

    鵜の歌
      豆州稻取海岸にて
山直ちに海に崩れ入る岩の上に飛沫浴びつゝ鵜は立ちてゐる
我が投げし石はとどかず崖下の氷雨(ひさめ)しぶかふ荒磯の鵜に
たちまちに海黑み來ぬ巖(いは)の上の鵜の聲風に吹消されつゝ
雨まじり吹く風強み岩の鵜は翼(つばさ)收めてこらへてをるも
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。昭和一二(一九三七)年の手帳日記の四月四日(日)の条に『夕方、熱海ニ行ク』とあり、翌日帰浜している。位置的にはややずれるが、東伊豆に行った記載は他には同年中にないので一応、掲げておく。]

カメレオン 五首 中島敦

    カメレオン
日に八度(やたび)色を變ふとふ熱帶の機會主義者(オッポチュニスト)カメレオンぞこれ
蠅來ればさと繰出(くりいだ)すカメレオンの舌の肉色瞬間に見つ
長く圓き肉色の舌ひらめくやカメレオンの口はたと閉ぢけり
カメレオンが木に縋りゐる細き尾のくるくると卷く卷きのおもしろ
カメレオンの胴の薄さや肋骨も翠(みどり)なす腹に浮きいでて見ゆ
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。
第四首目の「くるくると」の後半は底本では踊り字「〱」。
最初の一首には「下の」の「下」の右に『*』が附せられ、一首の下部に『*靑き魔術師』と記されている。しかし、これについて底本解題には注記がない。素直に読むならば歌稿自体にこのような中島敦自身の注記記号が附されていることを意味していると読める。即ち、中島敦はこの歌の別案として、

日に八度(やたび)色を變ふとふ熱帶の靑き魔術師カメレオンぞこれ

を案出していたということになる。]

猪 一首 中島敦

    猪
藁屑と泥にまみれてぼやきつゝ猪(ゐのしゝ)の口うごめきあさる
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

梟 二首 中島敦

    梟
何處(いづこ)にか汝(な)が古頭巾忘れ來し物足らぬ氣(げ)ぞ汝(なれ)の頭の
大きなるおどけ眼(まなこ)も陽(ひ)の中に見えぬと思(も)へば哀れなりけり
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

雉 二首 中島敦

    雉
春の陽を豐かに浴びてさ野(ぬ)つ鳥雉子(きぎし)は專(もは)ら砂浴びてゐる
家つ鳥雞(かけ)の匂を思ひけり野つ鳥雉(きじ)の小舍の前にして
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

穴熊 三首 中島敦

    穴熊
うつし世をはかなむかあはれ穴熊は檻(をり)の奧處(ど)にべそをかきゐる
穴熊の鼻の黑きに中學の文法の師を思ひいでつも
穴熊の鼻の黑きが氣になりぬ家に歸りて未(いま)だ忘れず
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

蝙蝠 三首 中島敦

    蝙蝠
小笠原の大蝙蝠は終日(ひねもす)を簑蟲のごとぶら下りたり
晝を寢(ぬ)る倒(さか)さ蝙蝠よく見れば狡(ずる)げなる目をあいてゐにけり
手の骨の細く不氣味(けうと)き蝙蝠はひねこび顏に何をたくらむ
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

鰐魚(わに)の歌 三首 中島敦

    鰐魚(わに)の歌
さきつ年アフリカゆ來し鰐怒り餌(ゑ)を食はずして死ににけりとぞ
故(ゆゑ)もなく處移されて知らぬ人の與ふる食を拒みけむかも
飢ゑ死(し)にし鰐の怒りを我思ふわれの憤(いか)りに似ずとはいはじ
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

象の歌 八首 中島敦

    象の歌
年老いし灰色の象の前に立ちてものうきまゝに寂しくなりぬ
象の足に太き鎖見つ春の日に心重きはわれのみならず
心はれぬ樣(さま)に煎餅を拾ひゐる象はジャングルを忘れかねつや
子供一人菓子も投げねば長き鼻をダラリブラリと象徘徊(たもと)ほる
花曇る四月の晝を象の鼻ブラリブラリと搖れてゐたりけり
徘徊(たもと)ほる象の細目(ほそめ)の賢(さか)し眼(め)に諦觀(あきらめ)の色ものうげに見ゆ
この象は老いてあるらし腹よごれ鼻も節立(ふしだ)ち牙は切られたり
象の顎に白く見ゆる毛剛(こは)げにて口には涎(よだれ)湛(たゝ)へたるらし
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。
「徘徊(たもとほ)る」既注。現代読みでは「たもとおる」で、「た」(語調整調や強意の接頭語)+ラ行四段活用・自動詞「もとほる」(「回る」「廻る」と表記し、巡る・回る・徘徊するの意)で、同じ場所を行ったり来たりして徘徊する、の意。「万葉集」以来の古語。]

熊 二首 中島敦

    熊
立上り禮(ゐや)する熊が月の輪の白きを賞(め)でて芋を與へし
熊立てば咽喉の月の輪白たへの蝶ネクタイとわが見つるかも
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

カンガルー 二首 中島敦

    カンガルー

力無きばつたの如(ごと)も春の陽(ひ)に跳び跳びてをりカンガルー二つ

柵内(さくうち)の砂(すな)乾きゐて春風(しゆんぷう)にカンガルー跳(と)ぶ跳躍(とび)のさぶしも

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。

太字「ばつた」は底本では傍点「ヽ」。

「跳び跳び」の後半は底本では踊り字「〱」。]

ハイエナ(鬣狗) 一首 中島敦

    ハイエナ(鬣狗)

死にし子の死亡屆を書かせける代書屋に似たりハイエナの顏は

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。

詞書の「(鬣狗)」はルビではない。

本歌は、当歌稿群の出来た(昭和一二(一九三七)年十一月から十二月と推定される)年初の、長女正子の死の際の経験を背景とするものと思われる(一月十日出生、三日後に死去。本カテゴリ頭注参照)。]

麒麟の歌 六首 中島敦

    麒麟の歌

黑と黄の縞のネクタイ鮮やけき洒落者(みやびをとこ)と見しは僻目(ひがめ)か

春の夜のシャンゼリゼエをマダム連れムッシュ・ヂラフがそゞろ歩むも

社交界の噂なるらむ麒麟氏が妻をかへりみ何かいふらしき

山高(ダービイ)も持たせまほしき男ぶり麒麟しづしづと歩みたりけり

泥濘(ぬかるみ)を避(よ)けて道行く禮裝の紳士とやいはむ麒麟の歩み

隙もなき伊達男(ダンディ)ぶりやワイシャツの汚れもさぞや氣にかゝりなむ

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。

「しづしづ」の後半は底本では踊り字「〱」。

「山高(ダービイ)」“derby”米語。競馬のダービーと同単語。

「ダンディ」の促音化は前後から私が判断した。]

再び山椒魚について 一首 中島敦

    再び山椒魚について
山椒魚は山椒魚としかなしみをもてるが如しよくよく見れば
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。
「よくよく」の後半は底本では踊り字「〱」。]

大靑蜥蜴 一首 中島敦

    大靑蜥蜴(とかげ)

口あけば大靑蜥蜴舌ほそく閃々(せんせん)として靑焰(せいえん)奔(はし)る

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。

「大靑蜥蜴」現在のトカゲ類のうち、どの種を指しているか不詳。当初は有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目イグアナ科 Iguanidae の何れかの種を指すものかとも考えたが、ここが上野動物園であることが確実なら調べようもあるのだが。]

大蛇 一首 中島敦

    大蛇

うねうねとくねりからめる錦蛇一匹(ひとつ)にかあらむ二匹(ふたつ)にかあらむ

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。

「うねうね」の後半は底本では踊り字「〱」。]

駝鳥 三首 中島敦

    駝鳥

障碍(ハードル)も容易(やす)く越ゆべし汝が脚の逞しくして長きを見れば

何處やらの骨董店(こつとうてん)の店(みせ)さきで見たることあり此奴(こやつ)の顏を

何故(なにゆゑ)の長き首ぞも中ほどをギユウと摑めばギヤアと鳴くらむ

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

ホロホロ鳥 一首 中島敦

    ホロホロ鳥

ホロホロとホロホロ鳥が鳴くといふ霜降色の胸ふくらせて

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。

「ホロホロ鳥」キジ目ホロホロチョウ科ホロホロチョウ Numida meleagris。アフリカに棲息する。全長約五三センチメートル。胴体は黒い羽毛に覆われ(但し、家畜化されたホロホロチョウの羽色は白・茶色・灰色など様々)、白い斑点が入る。頭部には羽毛がなく、ケラチン質に覆われた骨質の突起がある。また咽頭部には赤や青の肉垂がある。雌雄はよく似ているが、肉垂と頭部の突起は雄の方が大きい。草原や開けた森林等に生息し、昼間は地表にいるが、抱卵中のメスを除き夜間は樹上で眠る。群れを形成して生活し、二〇〇〇羽以上もの大規模な群れが確認されたこともある。横一列になって採食を行ったり、雛を囲んんで天敵から遠ざけるような形態をとることもある。繁殖期になるとオスは縄張りを持ち、群れは離散する。危険を感じると警戒音をあげたり走って逃げるが、短距離であれば飛翔することも可能(一般には飛べない鳥とされる)。和名は鳴き声が「ホロ、ホロ」と聞こえることに由来する(以上はウィキの「ホロホロチョウ」に拠った)。]

2013/07/08

火喰鳥 一首 中島敦

    火喰鳥

火くひ鳥火のみか石も木も砂も泥も食はんず面(つら)構へかも

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。

「火喰鳥」ダチョウ目ヒクイドリ科 Casuarius 属ヒクイドリ Casuarius casuarius。和名は喉の赤い肉垂が火を食べているかのように見えたことから名づけられたと考えられる。インドネシア・ニューギニア・オーストラリア北東部の熱帯雨林に分布し、ヒクイドリ科の中では最大で、地球上では二番目に体重の重い鳥類であり、最大個体では体重八十五キログラム、全長一九〇センチメートルに達する。以下、参照したウィキの「ヒクイドリ」によれば、『やや前かがみになっていることから体高はエミューに及ばないが、体重は現生鳥類の中ではダチョウに次いで重い。アラビアダチョウ(Struthio camelus syriacus)およびニュージーランドのモアが絶滅して以降はアジア最大の鳥類である。頭に骨質の茶褐色のトサカがあり、藪の中で行動する際にヘルメットの役割を果たすもの、また暑い熱帯雨林で体を冷やす役割がある』と推測されており、『毛髪状の羽毛は黒く、堅くしっかりとしており、翼の羽毛に至っては羽軸しか残存しない。顔と喉は青く、喉から垂れ下がる二本の赤色の肉垂を有し、体色は極端な性的二型は示さないが、メスの方が大きく、長いトサカを持ち、肌の露出している部分は明るい色をしている。幼鳥は茶色の縦縞の模様をした羽毛を持つ』。『他のダチョウ目の鳥類と同様に、大柄な体躯に比して翼は小さく飛べないが、脚力が強く時速』約五〇キロ程度で走ることが可能。三本の指には大きくて丈夫な刃物のように鋭い一二センチメートル程の爪を有し、『大鱗に覆われた頑丈な脚をもつ。性質は用心深く臆病だが意外と気性が荒い一面がある。この刃物のような鉤爪は人や犬を殺す能力もある』とある。]

鶴 二首 中島敦

    鶴

あさりする丹頂の前にしまらくは目守(まも)りたりけり心淸(すが)しく

水淺く端然と立つ鶴瘦せて口紅(くちべに)ほどのとさかの紅(あか)や

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。

「とさか」の太字は底本では傍点「ヽ」。]

山椒魚 一首 中島敦

    山椒魚
山椒魚は山椒魚らしき顏をして水につかりゐるたゞ何となく
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

禿鷲 六首 中島敦

    禿鷲
プロメトイス苛(さいな)みにけむ禿鷲も今日は寒げに肩を張りゐる
アンデスの巖根(いはね)嶮(こゞ)しき山の秀(ほ)の鋭どき目かもコンドルの目は
ジャングルに生ふる羊齒草(しだくさ)えびかづら間なくし豹はたちもとほるを
短か手(で)を布留(ふる)の神杉(かんすぎ)カンガルー春きたれりと人招くがに
春の陽に汝(な)が短か手を千早ぶるカンガルーは耳を搔かんとするか
去年(こぞ)見しと同じき隅(すみ)に石龜は向ふむきたり埃を浴びて
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。
「プロメトイス」プロメテウス。
「えびかずら」太字は底本では傍点「ヽ」。]

ペリカンの歌 五首及び別案一首 中島敦

    ペリカンの歌
ペリカンは水の浅處(あさど)に凝然と置物のごと立ちてゐるかも
浴(ゆあみ)して櫛梳(くしけづ)りけむペリカンの濡れたる翼(はね)の桃色細毛(ももいろほそげ)
舶來の石鹸の香(か)も匂ひなむうす桃色のペリカンの羽毛(はね)
ペリカンの圓(つぶ)ら赤目を我見るにつひに動かず義眼(いれめ)の如し
長嘴(ながはし)の下の弛(たる)みも凋(しぼ)みたりふくらむものと我は待ちしに
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。最後の一首には「下の」の「下」の右に『*』が附せられ、一首の下部に『*黄なる』と記されている。しかし、これについて底本解題には注記がない。素直に読むならば歌稿自体にこのような中島敦自身の注記記号が附されていることを意味していると読める。即ち、中島敦はこの歌の別案として、

長嘴の黄なる弛みも凋みたりふくらむものと我は待ちしに

を案出していたということになる。]

縞馬 一首 中島敦

    縞馬
縞馬の縞鮮かにラグビイのユニフォームなど思ほゆるかも
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

孔雀の歌 四首 中島敦

     孔雀の歌
よく見れば孔雀の眼(まなこ)切れ上り猛鳥(まうてう)の相(さう)ありありと見ゆ
印度なる葉廣(はびろ)菩提樹の蔭にしてひろげ誇らむこの孔雀(とり)の羽尾(はね)
いと憎き矜恃(ほこり)なりけり孔雀はも餌を拾ふにも尾をいたはりつ
六宮(りくきう)の粉黛(ふんたい)も色を失はむ孔雀一たび羽尾(はね)ひろげなば
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。
「ありあり」の後半は底本では踊り字「〱」。]

駱駝 二首 中島敦

   駱駝
生きものの負はでかなはぬ苦惱(くるしみ)の象徴かもよ駱駝の瘤は
やさし目の駱駝は口に泡ためて首差しのべぬ柵の上より
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

仔獅子 三首 中島敦

   仔獅子

獅子の仔も犬の仔のごと母親にふざけかゝるところがされけり
肉も未(ま)だ締らぬ仔獅子首かしげ相手ほしげに我が顏を見る
親獅子は眠りたりけり春の陽(ひ)に屈託げなる仔獅子の顏や

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

眠り獅子の歌 六首 中島敦

   眠り獅子の歌

何時(いつ)見ても眠るよりほかにすべもなきライオンの身を憐れみにけり
埒(らち)もなき狀(ざま)にあらずや百獸の王の日向に眠れる見れば
うとうとと眠れる獅子の足裏(あなうら)に觸れて見たしとふと思ひけり
海越えてエチオピアより來しといふこのライオンも眠りたりけり
うつゝなき夫(せ)の鼻先に尻を向けこれも眠れり牝(めす)のライオン
汝(な)が國の皇帝(みかど)もすでに蒙塵(もうぢん)と知らでや專(もは)ら獅子眠りゐる
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。
「うとうと」の後半は底本では踊り字「〱」。
「汝が國の皇帝もすでに蒙塵」本歌稿の成立は昭和一二(一九三七)年年末と推定されているが(底本解題)、前年の一九三六年、エチオピアはイタリアに侵攻され、当時の皇帝ハイレ・セラシエ一世(Haile Selassie I 一八九二年~一九七五年)はイギリスに亡命していた(一九四一年にイギリス軍に解放されて復帰)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 16

 江ノ島へ帰って見ると、私の部屋は私の為にとりのけてあった。荷物は安全に到着し、実験所として借りた建物は殆ど完成していた。私はドクタア・マレーに借りたハンモックを部直の柱から縁側の柱へかけ渡した。蚊はいないということだったが、中々もって、大群が乱入して来る。私は顔にタオルをかけ、次に薄い上衣をかけたが、これでは暑くてたまらぬ上に、動いたり何かする為起き上ったりする度ごとに、チョッキ三枚及びズボンをシャツで包んで作った枕が転げ落ち、私は一々それをつくり直さねばならぬ。最後に私は絶望して、ハンモックにねることを思い切った。私のボーイ(日本人)が部屋全体にひろがるような蚊帳を持って来たので、私は畳の上に寝た。その時はもう真夜中を過ぎていた。私がやっと眠りにつくと、心配そうな顔をした男が片手に棒の先につけた提灯を、片手に手紙と新聞紙とを持って、私の部屋へ入って来た。彼は日本語で何か喋舌(しゃべ)ったが、それは恐らく「私が藤沢から特別な使者として持って来たこの包みはあなたに宛てたものか」といったのであろう。起された私は激怒のあまり、若しそれが故郷からの手紙だったら、どんなにうれしいことかを理解さえしなかった。名を見るとダンラップと害いてあるではないか。私はその男に悪魔にでも喰われてしまえといった。その調子で彼はいわれたことを知ったらしく、即座に引き下って行き、私はもう一度眠ろうとして大いに努力した。
[やぶちゃん注:これは本格的なモースの江の島滞在の初日明治一〇(一八七七)年七月二十一日の続きである。
「ドクタア・マレー」恐らくアメリカの教育行政家で数学者・天文学者でもあったお雇い外国人教師ダヴィッド・マレー(David Murray 一八三〇年~一九〇五年)のことと思われる。明治初年に日本に招かれて教育行政制度の基礎作りに貢献した人物である。ニューヨーク州生。同州ユニオン大学に学び、卒業後、オルバニー・アカデミー校長・ラトガース大学数学及び天文学教授を務めた。明治五(一八七二)年に駐米小弁務使森有礼の質問状に回答を寄せたことが契機となって、翌六年に日本に招聘された。以後、文部省学監として五年半に亙って教育行政全般について田中不二麿文部大輔を補助、日本の教育改革に関する諸報告書の中で師範教育・女子教育振興の必要性などを説いて東京大学創設に協力した。この報告書の中でも特に重要な点は彼の学制改革案ともいえる「学監考案日本教育法」で、この中でマレーは学制の急進的教育改革の構想を原則的に支持し、文部省による諸教育機関及び教育内容の統括・公立学校教員資格の制定・教科書の検閲など極端な中央集権化を提唱している。この提言は後に改正教育令(明治一三(一八八〇)年)とその後の文部省諸法令に反映されている。明治一二年に帰国、翌年から十年に亙ってニューヨーク州大学校リージェント委員会幹事として州内の全中等・高等教育機関を監督、ここでも全州統一試験制度の拡充・師範教育の管理強化などの教育行政の中央集権化を推進した。晩年は“The Story of Japan”(1894)年を著したり、ジョンズ・ホプキンズ大学で“Education in Japan”と名打った講演を行うなど、日本の紹介に努めた(以上は「朝日日本歴史人物事典」の吉家定夫氏の記載を参照した)。]

 日本人は夜、家族のある者や客人が、睡眠しているかも知れぬという事を断じて悟らぬらしい。この点で、彼等は我々よりも特に悪いという訳でもないのかも知れぬ。日本人の住居は我々のに比較すると遠かに開放的なので、極めて僅かな物音でも容易に隣室へ聞え、それが大きいと、家中の者が陽気な群衆の唱歌や会話によって、款待されることになる。障子を閉める音、夜一枚一枚押して雨戸をびしゃびしゃ閉める音は、最もうるさい。障子や戸は決して静かに取扱わぬ。この一般的ながたぴしゃ騒ぎからして、私は日本人は眠ろうとする時、こんな風な邪魔が入っても平気なのかと思った。然し訊ねて見た結果によると、日本人だって我々同様敏感であるが、多分あまり丁寧なので抗議などは申し出ないのであろらう。
 ここへ来てから、私は私の衣類を、無理にシャツに押し込んだものを枕として、床の上に寝ている。日本の枕は昼寝には非常に適しているが、慣れないと頸が痛くなるから、私には夜使う丈の勇気がない。
 ここで再び私は蚤の厄介さを述べねばならぬが、大きな奴に嚙まれると、いつ迄も疼痛が残る。私の身体には嚙傷が五十もある。暑い時なのでその痛痒さがやり切れぬ。
 今日食事をしている最中に、激しい地震が家をゆすり、コップの水を動揺させ、いろいろな物品をガタガタいわせた。それは殆ど身の丈四十フィートの肥った男が、家の一方にドサンと倒れかかったような感だった。いろいろな震動が感じられたのは、いろいろな岩磐に原因しているに違いない。震動を惹起する転位は、軟かい岩石と硬い岩石とによって程度の差がある筈である。
[やぶちゃん注:本邦で初めて地震の洗礼を受けた外国人のアメリカ人の貴重な記録である。
「四十フィート」約12メートル。]

★⑤★北條九代記 【第5巻】 鎌倉將軍家居らるべき評定 付 阿野冠者没落 / 卷第五に突入

      ○鎌倉將軍家居らるべき評定 付 阿野冠者没落

右大臣實朝公、非常の禍(わざわひ)に罹りて、薨じ給ひければ、鎌倉には火を打消したるやうになりて、御賢息は一人もおはしまさず。この間には、如何なる事か出來らんずらんと、上下手を握りて、思合(おもひあ)はれ、加藤次判官次郎を以て京都に奏聞(そうもん)申されたり。加藤次は裸背馬(はだせうま)に乘りて、夜晝の境もなく、山川を云はず、乘りける程に、二月二日の申刻ばかりに京に著きて、直(すぐ)に件の有樣を仙洞へ奏し申しければ、大に驚き思召され、關東の事如何にも靜謐の祕計を至すべき旨、北條義時、二位禪尼の御方へ院宣をぞ下されける。洛中には、この事隱なく聞渡し、すはや鎌倉に大事おこり、將軍實朝公滅亡し給ひ、天下は暗(やみ)になりけるぞやといひ出し、何とは知らず、貴賤上下騷ぎ立ちて、軍勢馳違(はせちが)ひければ、仙洞より制し給ひ、「少も子細あるべからず」と仰觸(おほせふ)れられしかば、漸(やうやう)に靜(しづま)りぬ。北條義時、二位禪尼以下評定衆に至るまで一所に集會(しふゑ)して、「關東既に大將なくは如何なる不思議か出来すべき。然るべき大將を申下し、世の靜謐を致さるべし。さて誰人をか定(さだめ)奉らん」とありし所に、二位禪尼申し給ひけるやう、「故右大將賴朝卿の姉公は權中納言藤原能保卿の妻室として、その腹の息女は、後京極攝政藤原良經公の北の政所となり給ひて、光明峰寺の關臼左大臣道家公を生み給ふ。然れば故右大將家の御一族として、道家公の北の政所は西園寺の太政大臣藤原公經(きんつね)公の娘、准(じゆ)三后(ごう)從一位倫子(りんし)と申す。この御腹に男息(なんそく)數多(あまた)おはします。いづれなりとも關東へ申下し將軍に仰ぎ奉らば、當家に於て恥(はづかし)からず」とありしかば、この義、然るべしとて、同二月十三日、信濃守行光を使節として、二位禪尼申さしめ給ひ、宿老の御家人連署(れんじよ)の奏歌を仙洞にぞ奉られける。京都の躰裁(ていたらく)の何となく物騷がしき由聞えければ、伊賀太郎左衞門尉光季、武藏守親廣入道を上洛せしめ、京都の守護にぞ居(す)ゑられける。爰に故賴朝の舍弟全成(ぜんじやう)は、阿野惡禪師(あのあくぜんじ)と號して出家になりておはしけるが、後に逆心(ぎやくしん)の企(くはだて)ありければ、下野國にして生害(しやうがい)せられたり。その子阿野冠者(くわんじや)時元は、此處彼處(こゝかしこ)に忍居(しのびゐ)て成人し、如何にもして世に立たばやと思はれしが、母は北條家の娘なり、所緣に付けては、然るべき取立(とりたて)にも預るべけれども、如何なる故にや、打捨てられておはしけり、實朝公の討れ給ひて後は、賴朝卿の緣(ゆかり)とては我ならで、關東の將軍たるべき者あらず。北條家を打亡(うちほろぼ)し世を取らばやと思ひ立ちて、東國の溢者(あぶれもの)どもを招集め、駿河國の山中に城廓を構へ、近隣を襲(おびやか)し、兵糧を奪取(うばひと)り、院宣を申し給はりければ、是に隨付(したがひつ)く者、漸く數百騎にぞ及びける。駿河國の守護代、飛脚を以て鎌倉に告げたりければ、二位禪尼の仰に依て、金窪(かなくぼ)兵衞尉行親を大將として、御家人等を駿河國に遣さる。同じき二月二十三日、鎌倉勢雲霞の如く城に押寄せて、攻(せめ)かゝれば、城中の集勢(あつまりぜい)、一軍にも及ばす、我先(われさき)にと落失せ、殘る兵僅(わづか)に七、八人、防ぐべき力もなく手負ひ打たれたりければ、大將阿野冠者時元、城に火を懸け、腹搔切(かきき)りて死ににけり。思(おもひ)の外に軍は早く散じたり。天命至らず、時運(じうん)調はざる時は、囘天の威を振ふといへども、その功はなきものなり。只善く變を伺ひ、時を待ちて、本意をば達すべし、時元無用の企に依(よつ)て、多年の思謀(しぼう)を一時(じ)に失ひけるこそ悲しけれ。

[やぶちゃん注:将軍後継者の朝廷への要請は「吾妻鏡」巻二十四の建保七(一二一九)年正月二十八日、二月九日・十三日・十四日に、阿野時元の謀叛と滅亡は巻二十四の同年二月十五日・十九日・二十二日・二十三日などに基づく。

「藤原能保」一条能保(久安三(一一四七)年~建久八(一一九七)年)。従二位権中納言。京都守護。彼は源義朝の娘で頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻に迎えており、鎌倉政権誕生後は頼朝から全幅の信頼を寄せられた上、後白河法皇にも仕えて重用され、妻や娘は後鳥羽天皇の乳母となるなど、朝廷・幕府双方への広い人脈を生かして実力者にのし上がった(以上はウィキ一条能保に拠った)。

「藤原良經」九条良経(嘉応元(一一六九)年~建永元(一二〇六)年)。従一位摂政太政大臣。摂政太政大臣藤原忠通の孫で関白兼実の二男。一条能保の女を妻とした。建久七年の政変で反兼実派の丹後局と源通親らによって父とともに一時失脚したが、正治元(一一九九)年には左大臣として復帰、内覧から土御門天皇摂政となり、建仁四(一二〇四)年には太政大臣となった。

「關臼左大臣道家」九条道家(建久四(一一九三)年~建長四(一二五二)年)従一位摂政関白左大臣。九条良経長男。妻に太政大臣西園寺公経女を迎えている。後の鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経は彼の三男。承久の乱では討幕計画には加わらなかったが摂政は罷免された。後、幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が朝廷での最大実力者として君臨し、政子の死や息子頼経の将軍就任などによって安貞二(一二二八)年には近衛家実の後を受けて関白に任命され、翌年には長女藻壁門院を後堀河天皇の女御として入内させ、権勢を確立した。しかし次第に北条氏得宗家に不満を募らせ、寛元四(一二四六)年の宮騒動で執権北条時頼によって頼経が将軍職を廃され、さらに建長三(一二五一)年の幕府第五代将軍で孫の藤原頼嗣と足利氏を中心とした幕府転覆計画が発覚すると、その首謀者嫌疑をかけられと、間もなく死去した。幕府によって暗殺されたとする説もある(以上はウィキ九条道家に拠った)。

「藤原公經」西園寺公経(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)。第四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・幕府第五代将軍藤原頼嗣曾祖父となった稀有な人物で、姉は藤原定家の後妻で定家の義弟にも当たる。源頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから鎌倉幕府とは親しく、実朝暗殺後は、外孫に当る藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されたが、事前に乱の情報を幕府に知らせて幕府の勝利に貢献、乱後は幕府との結びつきを強め、内大臣から従一位太政大臣まで上りつめ、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。『関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く』、『その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している』(平経高は婿道家の側近であったが反幕意識が強かった)。『なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった』(引用を含め、ウィキ西園寺公経に拠った)。

「倫子」西園寺公経女。「尊卑分脈」では綸子、「百錬抄」では淑子とある。

「信濃守行光」二階堂行光。

「武藏守親廣」大江広元長男。「吾妻鏡」のこの時元平定の六日後の二月二十九日の条に「武藏守親廣入道。爲京都守護上洛。」と早くもこの時、京都守護として上洛した旨の記載がある。その後、朝廷方との関係を構築、承久の乱では後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与して近江で幕府軍と戦ったが敗走、出羽国に隠棲していたと伝えられる。なお、乱後に離別させられた彼の妻竹殿(北条義時娘)は、後に義父源通親(若き日に猶子となっていた)の子土御門定通の側室となっており、定通の甥にあたる後嵯峨天皇の即位と深く関わることになる(以上は主にウィキ大江広」に拠った)。

「阿野全成」(仁平三(一一五三)年~建仁三(一二〇三)年)源義朝と常盤の長男。幼名今若。頼朝の異母弟で義経の同母兄。平治の乱後に醍醐寺で出家、醍醐悪禅師全成と称された。治承四(一一八〇)年に頼朝の挙兵を聞くと直ちに関東に下向し合流、武蔵国長尾寺を与えられ、さらに駿河国阿野を領して阿野法橋と号した。北条時政の娘阿波局を娶り、これが千幡(後の実朝)の乳母になったことから、頼朝没後は千幡の擁立を謀る北条氏と二代将軍頼家との対立に巻き込まれ、建仁三(一二〇三)年五月に頼家に対する謀反の疑いによって常陸国に配流、翌月、下野国で誅殺され、子の頼全(三男であるが、次の注で見るように阿波局の子ではないようである)も京都で討たれた(主に「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠った)。

「阿野冠者時元」阿野全成四男。母は阿波局。四男でありながら、母が北条氏であった事から嫡男とされたと見られる。父全成の謀殺時には外祖父北条時政や伯母の政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国阿野荘に隠棲していた。本章に示された如何にもあっっけない反乱とその滅亡については、参照したウィキ「阿野時元に、『実際にどの程度時元が自ら望んで行動したのか、詳しいことは現在も分かっていない』とし、『時元の子孫は武家の阿野氏として存続するが、この事件の影響もあって振るわず、数代を経て(南北朝期以降)記録から姿を消している。これとは別に、時元の姉妹と結婚していた藤原公佐が阿野荘の一部を相続し、その子孫は公家の阿野家として繁栄している』とある。

 

以下、順を追って「吾妻鏡」を見る。連続する建保七年二月九日・十三日・十四日の記事から。

〇原文

九日丙午。加藤判官次郎自京都歸參。去二日入京。申彼薨御由之處。洛中驚遽。軍兵競起。自仙洞御禁制之間。靜謐云々。

十三日庚戌。信濃前司行光上洛。是六條宮。冷泉宮兩所之間。爲關東將軍可令下向御之由。禪定二位家令申給之使節也。宿老御家人又捧連署奏狀。望此事云云。

十四日辛亥。卯尅。伊賀太郎左衞門尉光季爲京都警固上洛。又同時爲右京兆御願。被修天下泰平御祈等。天地災變祭以下也。

丑尅。將軍家政所燒亡。失火云云。郭内不殘一宇者也。

〇やぶちゃんの書き下し文

九日丙午。加藤判官次郎、京都より歸參す。去ぬる二日、京に入り、彼の薨御の由を申すの處、洛中驚き遽(あは)て、軍兵(ぐんぴやう)、競ひ起こる。仙洞より御禁制の間、靜謐すと云々。

十三日庚戌。信濃前司行光、上洛す。是れ、六條の宮・冷泉宮兩所の間、關東の將軍として下向せしめ御(たま)ふべきの由、禪定二位家、申さしめ給ふの使節なり。宿老の御家人、又、連署の奏狀を捧げ、此の事を望むと云云。

十四日辛亥。卯の尅、伊賀太郎左衞門尉光季、京都警固の爲、上洛す。又、同時に右京兆の御願として、天下泰平の御祈等を修せらる。天地災變祭以下なり。

丑の尅、將軍家の政所、燒亡す。失火と云云。

郭内一宇を殘さざる者なり。

 

 以下、阿野時元の一件。同じく連続する二月十五日と十九日。

〇原文

十五日壬子。未尅。二品御帳臺内。鳥飛入。申尅。駿河國飛脚參申云。阿野冠者時元。〔法橋全成子。母遠江守時政女。〕去十一日引率多勢。構城郭於深山。是申賜宣旨。可管領東國之由。相企云云。

十九日丙辰。依禪定二品之仰。右京兆被差遣金窪兵衞尉行親以下御家人等於駿河國。是爲誅戮阿野冠者也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日壬子。未の尅、二品の御帳臺の内に、烏、飛び入る。申の尅、駿河國の飛脚參じ、申して云はく、

「阿野冠者時元〔法橋全成が子。母は遠江守時政が女。〕去ぬる一日、多勢を引率し、城郭を深山に構ふ。是れ、宣旨を賜はると申し、東國を管領すべきの由、相ひ企つと云云。

十九日丙辰。禪定二品の仰せに依つて、右京兆、金窪兵衞尉行親以下の御家人等を駿河國へ差遣はさる。是れ、阿野冠者を誅戮せんが爲なり。

・「二品」「禪定二品」北条政子。

・「右京兆」北条義時。

・「深山」父阿野全成の遺領駿河国阿野荘。現在の静岡県沼津市今沢から富士市吉原一帯。

 

次に同二月二十二日と二十三日の条。

〇原文

廿二日己未。發遣勇士到于駿河國安野郡。攻安野次郎。同三郎入道之處。防禦失利。時元幷伴類皆悉敗北也。

廿三日庚申。酉刻駿河國飛脚參着。阿野自殺之由申之。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿二日己未。發遣の勇士、駿河國安野郡に到り、安野次郎・同三郎入道を處を攻むるのところ、防禦、利を失ひ、時元幷びに伴類、皆悉く敗北するなり。

廿三日庚申。酉の刻、駿河國の飛脚、參着す。阿野、自殺するの由、之を申す。

・「安野郡」阿野荘のことを指しているか。「角川日本地名大辞典(旧地名編)」の「安野郡」に(コンマを読点に代えた)、この郡名は『古代律令制以来の郡とは異なり、郷と同義に用いられたものと推定される』とし、以上の「吾妻鏡」の条を挙げて、『郡内の一部支配は阿野氏の手にあったようで』(この場合の郡は現在の沼津市に相当する駿河郡若しくは駿東郡を指すか)、『郡の所在地については、駿河国井出(沼津市井出)付近とする説(駿河志料)、同じく大塚(沼津市原)付近とする説もあるが、井出付近とする説が有力とみられる。安野郡は、本来は駿河郡に含まれるもので、この郡名は私的なものであろう』とある。]

白熊 二首 中島敦

   白熊

仰(あふ)向けに手足ひろげて白熊の浮かぶを見ればのどかなりけ
白熊の白きを見ればアムンゼン往(ゆ)きて還(かへ)らぬむかし思ほゆ

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。動物園の白熊にアムンゼンを連想するところが、すこぶる附きのオリジナリティと、作者の強靭な思惟と心身を感じさせるではないか。]

魚臭き村に出けり夏木立 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   魚臭き村に出けり夏木立

 旅中の実詠である。靑葉の茂つた夏木立の街道を通って來ると、魚くさい臭ひのする、小さな村に出たといふのである。家々の軒先に、魚の干物でも乾してあるのだらう。小さな、平凡な、退屈な村であつて、しかも何となく懷かしく、記憶の藤棚の日蔭の下で、永く夢みるやうな村である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。私はこの句が好きだし、この評釈の『思い』も核心に於いては共有出来る。そして私は、朔太郎は実際にこの村に行ったら、その漁村に染みついた強烈な魚臭さに辟易して都会の藤棚の木蔭のチェアを求めてそそくさと去ってゆくのだ。そもそもこの句の鑑賞に「家々の軒先に、魚の干物でも乾してあるのだらう」という如何にもな実際の魚を想起しなくては「魚臭き」村というのを認識出来ないところに(いや、そうした強制的常套思考にこそ)、群馬の都会志向のお坊ちゃまの面目が躍如としている。「記憶の藤棚の日蔭の下で、永く夢みるやうな村」という謂いには、私のような海人族の田舎者は、「ヘン!」と鼻で笑いたくなるのである。]

山のうへをゆくこゑ 大手拓次

 山のうへをゆくこゑ

しろい花、しろいつぼみ、
しろいにほひのこころ、
あなたのこゑはまひるのゆめをゑがいて、
めにもみえない、かなたの山のうへをしづかにとほつてゆきます。
うみのなみのやうにゆれてはしづむわたしのさびしい心に、
きこえないあなたのこゑは、
かすかな月見草(つきみさう)のやうに咲(さ)いてゐます。

鬼城句集 夏之部 心太

 

心太    玉を吐く水からくりや心太

 

[やぶちゃん注:本句は、井上井月の、

   銭取らぬ水からくりや心太

のインスパイアである。何れも心太の曲突きを水機関(みずからくり)に喩えたものである。]

蜩初音

――先程

4:13

――遅い今年の蜩の初音を聴く

(既に一月半前から左耳内には早過ぎた僕の身内の蜩がずっと鳴き続けはているのだが)

またやっと来たノイズキャンセリングの夏――

[やぶちゃん注:僕は戸外や人と話している際に耳鳴りをあまり意識しないのだが、こういう現象を僕はずっと「ノイズキャンセリング」といってきたが、耳鼻科の医師によれば、これは「マスキング」と言うのだそうだ。多く場合、実は耳鳴りは大きな音を聞くと消えてしまう。これをマスキング現象といい、それを応用した耳鳴りの療法にマスカー法というのもあるらしい。序でに言えば、ネットで調べるとこういう現象の後、再び静かになってからも暫くは耳鳴りが治まっていることがある(事実、僕にもある)が、これを「耳鳴りの後抑制」と言うそうだ。――ともかくも僕がコペルニクス的展開点としてそこに聴いたのは耳鳴りが耳で鳴っているのではなくて脳で鳴っている(と感じている)という養老盂蘭司や岸田秀みたような「唯脳唯幻的な音としての耳鳴り」という事実であった。]

2013/07/07

フェイスブックより――獅子頭の持ち主を探しています――


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この獅子頭の持ち主を探しています。多くの人に広めたいのでシェアしてください。これは3・11の震災の後、宮城県牡鹿半島の谷川浜に流れ着いた獅子頭です。多分、牡鹿半島のいずれかの浜の神社で神事につかわれていた獅子頭ではないかと推察しています。お心当たりの方がいらっしゃいましたらご連絡をください。現在、大原中学校の仮設住宅で大切に保管されています。なお、2013年10月末までに申し出がない場合には、現地の神式作法に則り処分させていただきます。ご了解ください。
連絡先) 石井浩介  ike.ishii@tel.c

戀 大手拓次

 戀

わたしの戀(こひ)は水(みづ)のなかにある夕日(ゆふひ)のかほ、
わたしの戀(こひ)は眞夜中(まよなか)のおちばのおもひ、
ことばも こゑも かげもなく。

マント狒 二首 中島敦

   マント狒(ひゝ)

     マント狒は身長三尺餘、毛は長くして

     白色。純白のマントをまとへるが如し。
     但し面部
と臀部のみ鮮かなる紅色(桃
     色に近し)を
呈す。

 

銀白の毛はゆたかなれどマント狒(ひゝ)尻の赤禿包むすべなし

マント狒の尻の赤さに乙女子は見ぬふりをして去(い)ににけるかも

 

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。太字「ふり」は底本では傍点「ヽ」。
「マント狒」哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属マントヒヒ Papio hamadryas。イエメン・エチオピア・サウジアラビア・ジブチ・スーダン西部・ソマリアに分布(古代にはエジプトに棲息したが現在は絶滅)。体長は♂で七〇~八〇、♀で五〇~六〇センチメートル。尾長は四〇~四五センチメートル。体重は♂で二〇、♀で一〇キログラム。メスよりもオスの方が大型になり、顔や臀部には体毛がなく、ピンク色の皮膚が露出している。尻胼胝(しりだこ)が発達する。尾の先端の体毛は房状に伸長。オスの体毛は灰色で、特に側頭部や肩の体毛が著しく伸び、これがマントのように見えることが和名の由来。メスや幼体の体毛は褐色である。草原や岩場に生息する。昼間は一頭のオスと数頭のメスや幼獣からなる小規模な群れで移動しながら摂餌し、夜になると百頭以上にもなる大規模な群れを形成して崖の上などで休む。威嚇やコミュニケーションとして口を大きく開け、犬歯を剥き出しにする行動をとる。食性は雑食で、昆虫類・小型爬虫類・木の葉・果実・種子等を食べる。古代エジプトに於いては神や神の使者として崇められ、神殿の壁やパピルスに記録されたり、聖獣として神殿で飼育され、ミイラも作られた。英名の一つである“Sacred baboon”の“Sacred”(神聖な)も、このことに由来すると思われる(以上はウィキマントヒヒ」に拠った)。]

生物學講話 丘淺次郞 第九章 生殖の方法 サナダムシとジストマ

 「さなだむし」では一節每に雌と雄との生殖器官が一組づつ揃つてあるが、雙方ともに種々の部分から成り頗る複雜である。生殖器の體外に續く穴はたゞ一個であるが、は直に二本の管に分かれて居る。卽ち一方は輸精管の續きで、出口に管狀の交接器を具へ、他の方は交接の際に相手から精蟲の入り來たる膣であつて、その先は輸卵管・殼腺・子宮などに連絡して居る。それ故「さなだむし」では生殖器の出口を閉ぢ、自身の輸精管から自分の膣に精蟲を移して卵を產むことが出來ぬこともない。しかし特に交接器を具えて居る所から考へると、相手を求めて精蟲を交換するのが常であって、自分一個の體内で自分の卵細胞と精蟲とを出遇はせるのは恐らく止むを得ぬ場合に限ることであらう。肝臟や肺臟に寄生する「ヂストマ」の類も、生殖器の構造は「さなだむし」と大同小異であるから、これも恐らく相手を求めて精蟲を遣り取りするのが常であらう。


[やぶちゃん注:サナダムシの生殖に関しては、私の尊敬する寄生虫学者藤田紘一郎氏の「恋する寄生虫」(講談社プラスアルファ文庫二〇〇一年刊)に詳細を極める。是非、御一読あれ。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 4江島神社

    ●江島神社

江島神社は。島上に在り。多紀理比賣命(たきりひめのみこと)。市寸島比賣(いちきしまひめ)命。多岐都比賣(たきづひめ)命を祀る。國幣中社にして。分ちて三社とする。曰く邊津(へつ)神社。曰く中津(なかつ)神社。曰く奥津(おくつ)神社。古事記に。其先所生之神。多紀理比賣命者坐※形之奥津宮。次市寸島比賣命者坐※形之中津宮。次田寸津比賣命者坐※形之邊津宮。とあるに據りて。かくは稱せらるゝなり。[やぶちゃん字注:「※」=(上部左)「匃」+(上部右)「刀」+(全体下部)「月」。]

むかしは辨天社といひ。金龜山與願寺と號し。我國三辨天の一と唱へたり。三辨天とは嚴島、竹生島、江島なり。東海道名所圖會に。江島大艸紙を引(ひき)て云。夫當社の神體は。大巳貴(おほなむち)命と久延彦(くゑひこ)命と仰事ありて。天照大神を尊み。其和魂(にぎたま)を祀りて。富主命(ふぬしひめ)を號給ふ。此神天降り給ひて辨財天女といふ事。江島の神祕とすそれを神系圖(しんけいづ)或は和漢三才圖會に。相州江島の神は素盞嗚(すさのを)尊の御女倉稻魂(くらいなたま)神と書す。これ謬也と。是れ神佛混淆時代の説なる。其の他大緣起に載る所の説の如き。荒唐信するに足らす。

抑神靈の埀跡。其の年代一定せす。江島譜には。開化天皇の六年四月とし。江島緣起には欽明天皇の十三年四月の事とす。其の實は詳にする能はす。之を島中に鎭祀(ちんし)したるは。壽永元年なり東鑑には多く江島明神と稱せり。北條時政甞(かつ)て當社に参籠して。子孫の繁榮を祈りしに、靈驗ありて龍鱗三枚を感得し。遂に家紋と爲せしこと。太平記に見えて。人の普(あまね)く知る所なり建仁元年六月將軍賴家。建保四年三月將軍實朝の夫人。大田左衛門大夫持資。參詣の歸路。鰶魚躍りて舟中に入る。持資祥瑞として江戸川越等の諸城を經始(けいし)せりといふ德川氏政を執るに及ひ。慶安二年八月。一山境内山林竹木諸役免除の御朱印を賜へり。明治中興に際し。辨財天の稱を廢し。江島神社と稱するに至れり。

〇邊津神社

[やぶちゃん字注:以下、底本では全体が一字下げ。]

もと下之宮と稱せり。銅屋根素木造(しらきつく)りにて。江島神社と題せりる扁額を掲げ黑の三鱗の紋を附したる白幕を張れり。右に社務所あり。左に靈符授與の所あり。而して六基の石燈籠社前に列峙せり。

建永元年釋の良眞(慈悲上人)將軍實朝に請ふて。始て社壇を建つ。天文十八年七月。北條氏康白糸二十斤を上下兩社の修理料に充つ。元龜二年修造の爲當國中郡の村々を募緣す、時に大藤某添狀(そへじやう)を出せり。元祿五年社領十石八斗餘の御朱印を賜ふ。獵師町の地即ち是なり。別當は明治の初年まで下の坊之を司れり。

[やぶちゃん注:「古事記に。其先所生之神。多紀理比賣命者坐※形之奥津宮。次市寸島比賣命者坐※形之中津宮。次田寸津比賣命者坐※形之邊津宮。とある」「※」=(上部左)「匃」+(上部右)「刀」+(全体下部)「月」。「古事記」の「上つ巻」のアマテラスオオミカミとスサノヲを物語の「誓約(うけひ)」からの引用である。アマテラスがスサノヲの剣を三つに折った際に生れた宗像三女神。「※」は胸で、「むなかた」、九州の宗像を指す。

 其の先に生まれませる所の神、多紀理比賣命は※形(むなかた)の奥津宮に坐(ま)す。次に市寸島比賣命は※形の中津宮に坐す。次に田寸津比賣命は※形の邊津宮に坐す。

この「奥津宮」は沖津宮で、現在の福岡県宗像市の旧大島村に属した沖ノ島に、「中津宮」は同市筑前大島に、「邊津宮」同市田島にそれぞれ鎮座する。総称して宗像大社と呼び、全国の弁天様の総本宮に当る。

「邊津神社」の沿革の詳細は主にウィキの「江の島の沿革にあるものを参考に以下に示す。

正治 元(一一九九)年 鶴岡八幡宮の供僧良真が江の島で千日余の修行を行う。

建仁 二(一二〇二)年 修業中の良真の眼前で聖天島に弁才天が顕現、山頂の社殿の荒廃を嘆く(岩本院蔵「江ノ島縁起絵巻」第五巻)。

元久 元(一二〇四)年 良真、将軍実朝の命により宋に渡り(実際には渡宋は行われなかったとする説が有力)、慶仁禅師より江の島に因んで授けられたと伝えられる「江島霊迹建寺の碑」を辺津宮境内に建てる。

建永 元(一二〇六)年 良真の請願によって将軍源実朝により下之宮(現在の辺津宮)が創される。

享禄 四(一五三一)年 江の島上之坊を岩本院が兼帯する。

天文一八(一五四九)年 北条氏康が上之宮および下之宮の修造に際し、白糸二十斤を寄進。

元亀 二(一五七一)年 下之宮(現在の辺津宮)の修造料の寄付を募る。

寛永一七(一六四〇)年 岩本院と上之坊との間で利権争いが起こる。その結果、相続権・財政権・後任選任権などを得た岩本院は、幕府から朱印状を手に入れることとなり、上之坊を奴属化させることに成功する。

慶安 元(一六四八)年 岩本院、京都仁和寺の末寺となる。

慶安 二(一六四九)年 岩本院、徳川家光より「江島弁財天境内等諸役免除」の朱印状を受ける。

慶安 三(一六五〇)年 岩本院、江の島に於ける利権支配を確立。

元禄 二(一六八九)年 中津宮再建。三神社(岩本院・上之坊・下之坊)の弁財天総開帳。この年が開帳の始まりとされる。

元禄 五(一六九二)年 本記載によるなら、この年の社領は十石八斗余りとする(次の記事との比較から見て信じられる)。この年には江の島所縁の検校杉山和一が江の島弁才天の神徳を受け、護摩堂を建立している。

宝永 三(一七〇六)年 岩本院、片瀬村において社領十五石の朱印地を与えられる。

明治 六(一八七三)年 神仏分離令によって金亀山与願寺は廃され、神道部分が弁財天信仰を引き継いで江島神社となる。この年、旧岩本院は旅館「岩本楼」として開業した。]

芥川龍之介「河童」決定稿原稿の最後に附せられた旧所蔵者永見徳太郎氏の「河童原稿縁起記」復刻

[やぶちゃん注:永見徳太郎(ながみとくたろう 明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎市立商業学校卒。生家長崎の永見家は貿易商・諸藩への大名貸・大地主として巨万の富を築いた豪商で、その六代目として倉庫業を営む一方、写真・絵画に親しみ、俳句・小説などもものした。長崎を訪れた芥川龍之介や菊池寛、竹久夢二ら文人墨客と交遊、長崎では『銅座の殿様』(銅座町は思案橋と並ぶ長崎の歓楽街)と呼称された。長崎の紹介に努め、南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。(講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「永見徳太郎、長崎ウエブ・マガジン「ナガジン」の真昼銅座巡遊記」を参照した)。
 見開きの四〇〇字詰原稿用紙(罫色は橙色。但し、左下罫外には「10×20」とある。しかし、これは半ページの使用を示すものと思われ。上方罫外のノンブル用下線の位置が左右で中央に寄っていることからも二〇〇字詰を張り合わせたものではない。謂わずもがなであるが、芥川龍之介の原稿とは全く無縁な私も使用したことがあるような現在でも見かける普通の原稿用紙である(但し、左面の左罫外下方19マス辺りに「原稿用紙」と印刷されているものの商標・社名等はない)。一行字数を原稿に合わせた。〔 〕は挿入を示す。一部の読点は一字分をとらずに前の字の同一マスに打たれてある。署名の下に「德見」という落款が朱で押されている。]

 

 河童原稿縁起記

昭和二年七月十五日の朝芥川龍之介〔氏〕スグ

コイの電報が届けられた。田端の澄江堂の二

階にて雑談する前、是を永見氏に進呈しやう

と差出されたのが、この河童原稿であつた。そ

の日二人は夜おそくまで散歩して或一軒の甘い

物屋に入つた。その十日目が、彼氏のパライ

ソ昇天であつた。

歳月は二十数年が過ぎ、昨年の祥月命日、私

は君を偲び、とある店にて二椀のおしるこを

注文し、一ツは君の霊にとさゝげた。その時

たはむれの作歌を胸に染めた。

 ぱらいそに 河童聖人 おはすかや

  椀に汁粉盛り たてまつりてむ

 

    昭和三年春の花さく日

            德 見 記 (落款)

 

[やぶちゃん注:岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この日の夜、芥川は徳見に加えて、小穴隆一と沖本常吉(明治三五(一九〇二)年~平成七(一九九五)年)は郷土史研究家。島根県生。小説家協会・劇作家協会の書記を経て、昭和元・大正十五(一九二六)年に東京日日新聞社に入社、昭和一〇(一九三五)年に郷里津和野に移り、昭和四四(一九六九)年には柳田国男賞を受賞、と新全集人名解説索引の記載にある)と四人で亀戸に遊んだ、とある。]

栂尾明恵上人伝記 45

 又或る時、佛性聖人、楞伽山の草庵に來臨してよめる、

  諸行をば無常なりとて身を捨つる人の心になるよしもがな

 

 上人御返歌、

  常ならぬ世を捨つるとは君ぞ見る物くるはしと人はいふ身を

  跡をくらふして入りにし山の奧なれど君には見せよ峰の白雲

 

 此の聖人自ら前栽(ぜんさい)にくさぐさの華を植ゑて侍りける。其の華の盛りに華にそへて讀みて奉りけり。

  植ゑおきて三世(みよ)の佛に手向けけり華の匂(にほひ)も法と思へば

 

 上人御返歌、

    法の爲に植ゑおく革の種よりぞ妙法蓮華も開けしくべき

[やぶちゃん注:「佛性聖人」岩波文庫「明恵上人集」の歌集の注(二五二頁)によれば、『続群書類従本『鳳笙師傳相承』に見える豊原利秋の一男仏性か』とし(これは小澤サト子氏「東洋文庫蔵 明恵上人歌集 本文と総索引」(国語史研究資料稿第三巻・1967年刊の補注に拠る)、『「南都笙正統。菩提山僧」と注する。なお、利秋は時秋の男。菩提山は伊勢の菩提山神宮寺か』とある。この豊原時秋(康和二(一一〇〇)年~?)は楽人で従五位下右近衛将監。豊原氏は代表的な楽家の一つであり、時秋の祖父時光及び父の時元とも笙の大家として名高かった。時秋は楽所勾当となって篳篥の道で名を上げた。その養子の利秋(弟光秋の子)以降も、豊原氏は代々朝廷に仕える楽家(京方楽人)として続いた(以上の事蹟はウィキ豊原時秋に拠った)。]

 

 松葉の禪門行圓(ぎやうゑん)、關東より上りて在洛の間、常に詣でて法談有りけり。或る時讀みて奉りけり。

  尋ね來て實(まこと)の道に入りぬるも迷ふ心ぞしるべなりける

[やぶちゃん注:ここ底本ではこの歌と次の「上人御返歌、」の詞書の脱落がある。岩波文庫「明恵上人集」及び講談社学術文庫「明惠上人伝記」を確認して補った。「松葉の禪門行圓」は岩波文庫「明恵上人集」の注(二八二頁)によれば、『藤原氏南家乙麿流左衛門尉二階堂行忠の男』で行円と名乗った人物の『祖父行盛、法名行然を誤った』かと同定候補を挙げる。]

 

 上人御返歌、

  尋ね來て實の道に入る人は此より深く奧を尋ねよ

 

 上人或る時讀み給ひける、

  夢の世のうつゝなりせばいかゞせんさめゆく程を待てばこそあれ

 

 上人の讀み給へるを聞きて、同(おなじ)禪門又或時よみて奉りけり。

  世の中はまどろまで見る夢なれやいかにさめてかうつゝなるべき

 

 此等皆世に聞き傳へて續後撰集(ぞくごせんじふ)・續拾遺集(ぞくじふゐしふ)に入れられけり。又なくなりたりける人の手跡の裏に光明眞言を書き給ひて、奧に書き付け給ひける、

  書きつくる跡に光のかゞやけばくらき闇にも人は迷はじ

 

 又或る時物の端に書き付け給ひける、

  いつまでか明けぬ暮れぬと營まん身は限りあり事は盡きせず

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 15

[やぶちゃん注:フォントの関係上、明朝で示す。]

 日本間には、壁の真中に柱が立っているのがよくある。これは屋根を支持する為なのかも知れぬ。屢この柱に長さ五フィート、幅は柱のそれに近い位の、薄い木片がかけてある。そしてこの垂直な狭い表面に、日本の芸術家は絵なり、絵の一部分なりを描き、ちょっと明けた戸から見えるようにする。

[やぶちゃん注:ここは一行空け。次は底本では全体が二字下げでポイント落ち。]

*『日本の家庭』に掲載したものは、杉の木地に松の褐色の幹と緑の葉とを描いたもので、実に美しいというより外はなかった。反対側には別の絵が描いてあった。

[やぶちゃん注:ここは一行空け。

「五フィート」約一メートル五〇センチ。

「『日本の家庭』に掲載したもの」ちょっと分かり難い向きもあろうが、これらは柱隠しのことを言っている。『日本の家庭』は原文注では“Japanese Homes”となっているが、正確にはモースの本書と並ぶ今一つの名著“Japanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年)を指し、当該書の第七章の“fig.299”に当該図がある。私の所持する当該書の翻訳「日本人の住まい」(斎藤正二・藤本周一訳・八坂書房一九九一年刊)から当該図と「柱隠し」の部分のみを引用させて戴く(文化庁は平面的画像を単にそのまま写しただけのものには著作権は生じないという見解を示しており、引用もここの本文理解のための許容の範囲である)。

299図 柱隠し

   《引用開始》

部屋の壁面の中央に位置する柱は、柱幅いっぱいの細長い薄い杉板で飾っている。この板にも何かの絵が描かれている。板製のものではなしに、絹や錦織作りのものは掛け物 kakemono と同様に、中央上部から風帯 kaze-obi 一本だけを垂している。安物は、藁、藺、あるいは薄く細長い竹切れでできている。材料は何であれ、これが柱隠し hasira-kakusi と呼ばれるものである。――文字通り「柱を隠す」意である。木製の柱隠しは、両面に模様を施してあって、一面が汚れると裏返してもういっぽうの面を表にする。材質はふつう木目の整った黒い色の杉で、絵はこの板に直接描かれる。二九九図は、このような柱隠しの両面を示したものである。この柱隠しの装飾に芸術家は丹精を凝らす。これほど扱いにくくかつ限定された表面に絵を描くのに、どのような画題を選ぶべきかとなると、アメリカの芸術家には悩みの種となるだろう。しかし、この点は、日本の装飾家にとっては苦痛ではないのである。かれは、何かこれにふさわしい主題の絵画から、縦に細長くその一部を切り取ってくるにすぎない。たとえば、わずかに開いた戸口越しに一瞥する自然の姿が、この場にふさわしい絵を提供してくれるだろう。-絵の残余を満たすには想像が控えている。これらの柱隠しは、アメリカを市場として販路を見出しているが、その装飾に使われている色が明色であることは、日本ではこれらが大衆向きに描かれたものであることを示している。[やぶちゃん注:以下文章にはあと一文が残るが、ここよりも前の叙述に関わるので省略する。当該書をお読み頂きたい。本書に勝るとも劣らぬ素晴らしい作品で、モースじゃあないが、何より挿絵が実に美しいのである。]

   《引用終了》
引用底本では「風帯」の英文“kaze-obi”の右に訳者によるママ注記がある。これは「ふうたい」と読むのが正しい。掛け物などから垂らす二本の細長い布または紙のこと。]


Hasirakakusi

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 14

[やぶちゃん注:使用フォントの関係で明朝で示す。]


M134

図―134


M135

図―135

 私の部屋の向うに、この家の一角が見える。そこには日本人の学生が四人で一部屋を占領していて、朝は寛かなキモノを着て一生懸命に勉強しているが、方を説明する為に、私の部畳へ来た。午後太陽がカンカン照る時には、裸になって将棊やゴをして遊ぶ。どちらも非常にむずかしい遊びである。彼等はよく笑う、気持のいい連中であって、午前中の会話を開くとドイツ語を学んでいることが判る。一人が「私は明日父に逢いにロンドンへ行く」というと、もう一人がそれをドイツ語に訳していう。このようにして彼等の部屋からは日本語、ドイツ語、英語がこんがらかって聞え、時々フランス語で何かいい、間違えるといい気持そうな笑い声を立てる。彼等の英語は実にしっかりしていて、私には全部判る。

 昨夜学生達の二人が、私の依頼に応じて碁のやり方を説明する為に、私の部屋へ来た。この遊技は元来支那から来たのであるが、今は日本人の方が支那人より上手にやる。熟練した打ち手の間にあっては、一勝負に数日を要し、一つの手に一時間かかることもある。盤は高さ八インチの低い卓子(テーブル)で、四本の丈夫な脚が厚い木の板を支えている(図134)。これは我々のチェッカー盤みたいに、四角にしきってあるが、チェッカー盤に比較すると、四角はより小さく、また濃淡に塗りわけてもなく、おまけにその数は十九に十九で三百六十一ある。棋子(チェッカース)に相当するものはボタンに似た平たい円盤で、黒い石と白い貝殻とから作られ、四角の上に置かずに線の交叉点に置く。打ち手の一人が先ず盤上の好きな点にこの円盤を置いて勝負を始めるが、目的は敵の円盤を、円盤の連続線で包囲して了うにある。一方がこれに成功すると、包囲された円盤は分捕りになり(図135)、そして勝負の終りに四角の数を数える。合戦は碁盤のいたる所で行われる。有名な打ち手には階級がある。第一階級の打ち手は第二級の打ち手に対して、最初一個の代りに二個の円盤を置く権利を与える。恐らく第三級の打ち手は、三個置く権利を持つのであろう。各人二人が、極めて僅かな円盤を碁盤の上に置いて、勝負しているのを見ると、中々奇妙である。長い間状態を研究したあげく、他の石から十数こまも離れた場所や、右手や隅のとんでもない所その他に、石を置いたりするが、その理由は只名人のみがこれを知るので、それに応じて打つ相手方の手も、また同様に憶測出来ぬようなものである。碁を打つ時、彼等は必ず人差指と中指(中指を人差指の上に重ねる)とで円盤をつまみ上げる。碁は最も玄妙な遊技で、これに通達しているが外国人はすくない。コーシェルト氏はこの遊技に関するする一文を書き、八十四枚の挿絵を入れてドイツ・アジア協会の会報に提出した。

[やぶちゃん注:「将棊」は将棋。但し、原文は“chess”である。直後の碁は“go”とイタリックで書かれている。

「八インチ」約20センチメートル。
「コーシェルト氏」明治初期の農商務省お雇いの化学技術者Oskar Korschelt(オスカー・コルシェルト 一八五三年~一九四〇年)。ドイツ生。ドレスデン工芸学校・ベルリン大学で化学を修め、モース来日の前年に当たる明治九(一八七六)年に来日、東京大学医学部製薬科教師兼医学予備門教授となった。一二年十一月からは農商務省地質調査所の分析係長として一七年まで在職。その間に土・岩石・鉱物以外にも窯業・セメント・鉱業・鉱泉などの調査分析を手掛け、さらに酒・漆などの広範多岐の分野で業績を挙げた。明治一三年には兵庫県に落下した「竹ノ内隕石」(日本で最初に科学的に確認された隕石)の鑑定も行っている。しかし業績中最大のものは塩業にあり、ヨーロッパ科学者の眼をもって日本塩業の実態を調査した上、技術から経営にわたる改善策をまとめた「日本海塩製造論」(一八八三年)は、その後の本邦の塩業の発展に大きな影響を与えた。また滞日中に碁を覚え、外国人としては一番の達人と称された。帰国後、ドイツで碁の紹介普及に努めたといわれる(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、没年が不祥とあるため、英語版ウィキOskar Korscheltで確認した)。]

 

M136
図―136

 学生達は私のために、親切にも一勝負やって見せて呉れた。私の方に時間がなかったため、これは急いでやった。一方が七十一個の四角を、他は八十四個の四角を得た。この遊技には私に理解出来なかった点も若干ある。
 同じ碁盤を使ってやる遊技がもう一つある。これは至って簡単で、我国の人々にも面白かろうと思われる。即ち円盤五個を一列にならべようとするのである。これは簡単な遊技ではあるが、人によって上手さに非常な差がある。私は学生達と数回やって見たが、いつでも僅かな石で負かされて了った。次に彼等がやると百個以上の円盤を使用した。若し一方が四個並ぶ線が二本ある状況をつくり上げれば、勝ちになる。相手はその一つをしか止めることが出来ないからである。図136はかかる位置を現わしている。AとBとはここにいう二つの線で、相手はその一本しか止めることが出来ない。碁の勝負と同じく盤上で各様の争点を開始することもある。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 13


M132


図―132

M133

 

図―133

 

 江ノ島は有名な遊覧地なので、店には土地の材料でつくつた土産物や子供の玩具が沢山ある。海胆(うに)の二つでつくつた簡単な独楽がある(図132)。小香甲(こうこう)の殻を共鳴器とし、芦笛をつけた喇叭(らっぱ)(笛というか)もある(図133)。この独楽は長い間廻り、喇叭は長い、高い声を立てた。これ等は丈夫で、手奇麗につくってある。而も買うとなると、私の持っていた最小額の貨幣は日本の一セントだったがおつりを貰うのが面倒なので三つ貰った。小さな箱の貝細工、上からつるした輪にとまった貝の鳥、その他の上品な貝細工のいろいろを見た私は、我国で見受ける鼻持ならぬ貝細工――ピラミッド、記念碑、心臓形の品、ぱてをごてごてくっつけた、まるで趣味の無い、水腫にかかったような箱――を思い出さずにはいられなかった。

[やぶちゃん注:太字「ぱて」は底本では傍点「ヽ」。

「小香甲の殻を共鳴器とし、芦笛をつけた喇叭」原文“a trumpet or whistle was made of a reed with the shell of Eburna as a resonator”。この“Eburna”とは腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科マクラガイ科の一種を指す属名のようだが、図―133の貝の形状を見る限りでは、腹足綱吸腔目バイ科バイ Babylonia japonica 若しくはその近縁種に同定してよいと私は思う。実際にバイ Babylonia japonica は子供用の玩具である「貝笛」として昔から加工されてきた。個人ブログ「海図鑑:貝 喫茶干し蛙」の「バイ(貝)」(下から2/3ほどのところ)に画像附きで載り、『貝独楽(ベーゴマ、またはベイゴマ)という今ではあまり見かけない昔懐かしの玩具があるがこれはバイゴマが転訛したもので鋳鉄製となってからもその名残として殻を模した模様が彫られている』。『つまりベーゴマの起源はバイなどの巻貝の殻で作ったことにある』。『笛にもなるようで貝笛と呼ぶらしい』。『この件についてはまた調べて実際に笛を作ってみようと思う』とある。なお石川氏の訳の「小香甲」はあまりよい訳とは言えない。恐らくは氏は「香甲」を広く巻貝の意で用いているように思われるが、「香甲」は「甲香(こうこう)」「貝香(かいこう)」を指す語で、狭義には吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa を指すからである(和名の漢字表記は本種の蓋を粉末にしたものを保香剤として練り香に用いることによる)。そのうち、私も江の島に行ってこの二種の玩具に近いものを捜してみたいと思っている。江の島で探すことに意味がある。]

放歌十二首 他五首 中島敦

    放歌

我が歌は拙(つた)なかれどもわれの歌他(こと)びとならぬこのわれの歌

我が歌はをかしき歌ぞ人麿も憶良もまだ得詠(よ)まぬ歌ぞ

我が歌は短册に書く歌ならず街を往復(ゆ)きつゝメモに書く歌

わが歌は腹の醜物(しこもの)朝泄(あさま)ると厠(かはや)の窓の下に詠む歌

わが歌は吾が遠(とほ)つ租(おや)サモスなるエピクロス師にたてまつる歌

[やぶちゃん注:「サモス」“Samos”。サモス島。エーゲ海東部のトルコ沿岸にあるギリシャの島。ギリシャ神話の主神ゼウスの正妻ヘーラーの生まれた島とされ、彼女を祀った神殿遺跡が残り、エピクロスやピタゴラスの生地でもある(ウィキの「サモス島」に拠る)。]

わが歌は天子呼べども起きぬてふ長安の酒徒に示さむ歌ぞ

わが歌は冬の夕餐(ゆふげ)の後(のち)にして林檎食(を)しつゝよみにける歌

わが歌は朝(あした)の瓦斯(ガス)にモカとジャヷのコーヒー煮(に)つゝよみにける歌

わが歌はアダリンきかずいねられぬ小夜更牀(さよふけどこ)によみにける歌

わが歌は呼吸(いき)迫りきて起きいでし曉(あけ)の光に書きにける歌

わが歌は麻痺剤強みヅキヅキと痛む頭に浮かびける歌

[やぶちゃん注:「ヅキヅキ」の後半は底本では踊り字「〱」。この「麻痺剤」とは喘息に処方された気管拡張剤と思われる。]

わが歌はわが胸の邊(へ)の喘鳴(ぜんめい)をわれと聞きつゝよみにける歌

 

身體(うつそみ)の弱きに甘えふやけゐるわれの心を蹴らむとぞ思ふ

手(て)・足(あし)・眼(め)とみな失ひて硝子箱に生きゐる人もありといはずや

[やぶちゃん注:これは当時の如何なる情報によるものか、ちょっと捜しあぐねている。識者の御教授を乞うものである。]

ゲエテてふ男(をとこ)思へば面(つら)にくし口惜(くや)しけれどもたふとかりけり

纖(ほそ)く勁(つよ)く太く艷ある彼(か)の聲の如き心をもたむとぞ思ふ (シャリアーピンを聞きて)

[やぶちゃん注:筑摩書房版全集第三巻の年譜等によれば、中島敦は昭和一一(一九三六)年二月六日にシャリアピンの公演バス独唱会を聴いている(於・比谷公会堂。来日期間は同年一月二十七日から五月十三日)。調べて見たところ驚くべきことに彼は事前に演目を決めず、その日の自分の雰囲気で歌う曲を決めたそうであるが、幸いなことに、同第三巻所収の中島敦の「手帳」の「昭和十一年」の当日の記載に詳細な演目を残し於いて呉れた。以下に示す。

   *

二月六日(木) 7.30 p.m.Chaliapin

1. Minstrel (Areusky)2. Trepak (Moussorgsky)3. The Old Corporal4. Midnight Review (Glinka)5. Barber of Seville (Rossini)1"An Old Song (Grieg)2"When the King went forth to War.

1. Don Juan (Mozart)2. Persian Song (Rubinstein)3. Elegie (Massenet)4. Volga Boatman5. Song of Flee (Moussorgsky)1"Prophet (Rimsky-Korsakov)

   *

なお、もしかすると、これは非常に貴重な記録なのかも知れない。ネット上でこの来日時の演目記録を捜したが見当たらなかったからである。]

ゴッホの眼モツァルトの耳プラトンの心兼ねてむ人はあらぬか

百性の生きて働く暑さ哉 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

    百性の生きて働く暑さ哉

 

「生きて働く」という言葉が、如何にも肉體的に酷烈で、炎熱の下に喘ぐやうな響を持つて居る。かうした俳句は寫生でなく、心象の想念を主調にして表象したものと見る方が好い。したがつて「百性」といふ言葉は、實景の人物を限定しないで、一般に廣く、單に漠然たる「人」即ち「人間一般」といふほどの、無限定の意味でぼんやりと解すべきである。つまり言へばこの句に於て、蕪村は「人間一般」を「百性」のイメーヂに於て見て居るので、讀者の側から鑑賞すれば、百姓のヴイジヨンの中に、人間一般の姿を想念すれば好いのである。もしさうでなく、單なる實景の寫生とすれば、句の詩境が限定されて、平面的のものになつてしまふし、且つ「生きて働く」といふ言葉の主觀性が、實感的に強く響いて來ない。ついでに言ふが、一般に言つて寫生の句は、即興詩や座興歌と同じく、藝術として輕い境地のものである。正岡子規以來、多くの俳人や歌人たちは傳統的に寫生主義を信奉して居るけれども、芭蕉や蕪村の作品には、單純な寫生主義の句が極めて尠く、名句の中には殆んど無い事實を、深く反省して見るべきである。詩に於ける觀照の對象は、單に構想への暗示を與へる材料にしか過ぎないのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。「百性」は同「郷愁の詩人與謝蕪村」初版のママ。底本全集や現行同テクストでは総て「百姓」とするが、古くはこうも書いた。誤りとは言えないので復元した。因みに、この評釈に私は、最初から最後まで、すこぶる附きで共感出来る。]

洋裝した十六の娘 大手拓次

 洋裝した十六の娘

 

そのやはらかなまるい肩(かた)は、

まだあをい水蜜桃のやうに媚(こび)の芽(め)をふかないけれど、

すこしあせばんだうぶ毛(げ)がしろい肌にぴちやつとくつついてゐるやうすは、

なんだか、かんで食べたいやうな不思議なあまい食欲をそそる。

 

[やぶちゃん注:太字「ぴちやつ」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 祭

祭     大雨に獅子を振りこむ祭かな

      萬燈を消して侘しき祭かな

2013/07/06

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 最終章 十七 / ブログ版完全電子化復刻完遂+僕の考える正しいトックの詩とは?

これを以ってブログでの芥川龍之介「河童」決定稿原稿の完全電子化復刻を完遂した。

また最後の最後に、大きな発見があった。それは「河童」の最後に示されるトックの詩について、現行のものは実は微妙な点に於いて、『本物のトックの詩』とは異なるという事実である。

その再現も注でしておいた。御笑覧あれ。――いや――僕と芥川龍之介にとっては「笑覧」どころではない――これはすこぶる大事な『誤りの訂正指摘』なのだと――僕は思っているのだ。確かに。


エールを呉れた教え子諸君及び画像転載許可を速やかにして呉れた国立国会図書館にこの場を借りて御礼申し上げる。

これから、HP版の作成及び僕の考える完全正当なる「河童」テクストの公開に向けて、最後のハングした岩山を頂上を目指して孤独に登攀する。随分、御機嫌よう。それではまた、きっとお逢いしましょう、芥川龍之介の、河童の国で…………(何故、こんな『変な』リーダを打つかって? それもお楽しみさ、♪ふふふ♪…………)



■原稿193(194)

     十七

 

[やぶちゃん注:5字下げ。「河童」最終章。本文は2行目から。]

 

 僕は河童の国から帰つて來た後、〈《暫くは》→いつも〉*暫くは*

々人間の皮膚の匀に閉口しました。我々人間

に比べれば、河童は実に淸潔なものです。の

みならず我々人間の頭は河童ばかり見てゐた

僕には如何にも気〈■〉**の悪いものに見えまし

た。これは或はあなたにはおわかりにならな

いかも知れません。しかし目や口は兎〈も〉**

も、この鼻と云ふものは妙に恐しい気を起さ

せるものです。僕は勿論出來るだけ、誰にも

[やぶちゃん注:最後の20行目20マス目に大きなインクの滴の痕がマス目中央にあり、そこから10行目20マス目下方へ向かって、滴の痕よりはっきり区別出来る薄さで有意に太いインク擦過痕が延びる。この汚損はこの9~10行目が書かれる以前の汚損と思われる。それぞれ、9行目末の「さ」も、また10行目末の「も」も、これらの汚損を避けるように書かれているように見受けられるからである。]

 

■原稿194(195)

會はない算段をしました。が、〈いつか我〉*我々人間*にも

いつか次第に慣れ出したと見え、〈一年〉*半年(はんとし)*ばかり

たつうちにどこへでも出るやうになり〈ま〉**〈し〉**

た。唯それでも困つたことは〈何〉**か話をしてゐ

るうちにうつかり河童の国の言葉を口に出し

てしまふことです。

 「君はあしたは家(うち)にゐるかね?」

 「Qua

 「何だつて?」

 「いや、ゐると云ふことだよ。」

[やぶちゃん注:

●「〈ま〉**〈し〉**た」この2字の書き変えは明らかにインクの滲み(手か何かに附着した半乾きのインクが点々と附着したようなもの)による汚損を訂したものである。この原稿の特に5行目までの下半分の部分には同様の汚損が十数ヶ所見受けられる。]

 

■原稿195(196)

 大體かう云ふ調子だつたものです。

 しかし河童の国から帰つて來た後、丁度一

年ほどたつた時、僕は或〈《負債》→事■〉*事業*の〔失敗した〕爲に………

(S博士は彼がかう言つた時、「その話はおよ

しなさい」と注意をした。何でもS博士の〈話に〉*〈に〉*

よれば、彼はこの話をする度に看護人の手に

も了(お)へない位、亂暴になるとか云ふことであ

る。)

 ではその話はやめませう。しかし或事業の

失敗した〈後〉爲に僕は又河童の国へ〈行き〉*帰り*たいと思ひ出

[やぶちゃん注:

●「〔失敗した〕爲に………」この部分、初出及び現行では何故かリーダが4マスに亙っており、

 失敗した爲に…………

となっている。原稿のそれは『今までと全く変わらない3マスを塞ぐリーダ』であるのにも拘わらず、である。ここは統一を図る原則から言えば、初出は『通常の3点リーダの2マス』とするべきである。但し、それを芥川が敢えてゲラ校で、特にこの「十七」章のみ、「僕」の精神病による狂気世界との懸隔を読者に暗示させる一方途として、「3点リーダの4マス・リーダ」を指定した、という可能性を完全には排除することは出来ない。その証拠に、この後の部分に出現する3箇所のリーダが総てこの『奇体な4マス・リーダ』だからである。

●「何でもS博士の」初出及び現行では、

 何でも博士の

で「S」はない。

●「〈話に〉*〈に〉*よれば、」の記号は間違いではない。ここは最初に、

 話は

と書いた。ところがどうも、そこの二字の上を下方向に何かで擦ってしまった結果、字が汚れた。それが気に入らなかったのか、抹消して右に吹き出しで「話に」と訂したのだが、またしても「に」の字を書き損なった。そこで芥川はそれをまた抹消し、そこからこの5行目下方罫外に向かって線を引いた。そこに「に」と訂そうとして書き損じたものらしい。校正過程で誰かが訂したものと思われ、初出及び現行は、

 話によれば、

と普通になっている。

●「河童の国へ〈行き〉*帰り*たい」は書いた直後に変更したものである。何故なら、次の原稿の一文以降では、この謂い方が問題とされているにも拘わらず、修正が全くないからである。]

 

■原稿196(197)

しました。さうです〈、〉**「行きたい」のではありま

せん。「歸りたい」と思ひ出したのです。河童の

国は当時の僕には故郷のやうに感ぜられまし

たから。

 僕はそつと家(うち)を脱け出し、中央線の汽車へ

乘らうとしました。そこを生憎巡査に〈つ〉**

まり、とうとうこの病院へ入れられた〈の〉**

す。僕はこの病院へはひつた当座も〈マツグやチヤツクのことを考〉*河童の国のことを〈考へ〉*思ひ*つづけました。医者のチヤツクはどうしてゐるでせう〈。〉? 哲学者のマツグ〈は〉**

[やぶちゃん注:

●「とうとうこの病院へ」は初出及び現行は、

 とうとう病院へ

である。「この」があった方が自然ではあるが、直後にも「この病院へはひつた当座も」とあり、ゲラ校で芥川自身が五月蠅いと判断して削った可能性がある。そもそも最初に強制入院させられたところから転院したと考えてもすこぶる『自然』であり、とすればこの方が正しい謂いともなろう。

●「思ひつづけました。」は初出及び現行は、

 想ひつづけました。

である。個人的趣味から言うと「想」でよいと思う。芥川がゲラ校で訂した可能性も否定出来ないし、芥川の用字法としても無理がない。]

 

■原稿197(198)

不相変七色の色硝子のランタアンの下に何か

考へてゐるかも知れません。殊に僕の親友だ

つた、嘴の腐つた学生のラツプは、―――或

けふのやうに曇つた午後です。〈僕はこんなこと〉*こんな追憶に耽*

つてゐた僕は思はず声を挙げようとしま〈し〉**

た。それはいつの間(ま)にはひつて來たか、バツ

グと云ふ漁師の河童が一匹、僕の前に佇みな

がら、何度(なんど)も頭(あたま)を下(さ)げてゐたからです。僕は

心をとり直(なほ)した後(のち)、―――泣いたか笑つたかも

覚えてゐません。が、兎に角久しぶりに河童

 

■原稿198(199)

の国の言葉を使ふこと〈を?〉**感動してゐたことは

確かです。

 「おい、バツグ、どうして來た?」

 「へい、お見舞ひに上つたのです。何でも御

病気だとか云ふことですから。」

 「どうしてそんなことを知つてゐる?」

 「ラディオのニウス〈を〉**知つたのです。」

 バツグは得意さうに笑つてゐ〈ました。〉*るのです。*

 「それにしてもよく來られたね?」

 「何、造作(ざうさ)はありません。〔東京の〕〈河〉**や堀割りは河童

[やぶちゃん注:

●「ラディオ」の促音は初出及び歴史的仮名遣版では、

 ラデイオ

である。]

 

■原稿199(200)

には往來も同樣ですから。」

 僕は河童も蛙のやうに水陸兩棲の動物だつ

たことに今更のやうに気がつきました。

 「しかしこの辺(へん)には川はないがね。」

 「いえ、こちらへ上つたのは水道の鐵管を拔

けて來たのです。〈」〉それからちよつと消火栓(せん)を

あけて………」

 「消火栓をあけて?」

 「檀那はお忘れなすつたのですか? 河童〔に〕も

機械屋(や)のゐると云ふことを。」

[やぶちゃん注:

●「消火栓をあけて………」前注で示した通り、初出及び現行は、

 消火栓をあけて…………

『奇体な4マス・リーダ』である。]

 

■原稿200(201)

 それから僕は二三日毎にいろいろの河童〈か?〉**

訪問を受けました。僕の病(やまひ)はS博士によれば

早発性痴呆〔症〕と云ふことです。しかしあの医者

のチヤツクは(〈甚だ〉これは甚だあなたにも失礼に当

〈かも知れ〉*のに違ひあり*ません。)僕は早発性痴呆症〔患者〕ではない、

〈あなたがた〉早発性痴呆症患者はS博士を始め、あなたがた

だと言つてゐ〈るのです。〉*ました。*医者の〈ヤ〉チヤツクも來

る位ですから、〈硝子会社〉学生のラツプや哲学者のマツ

グの〈尋ねて〉*見舞ひに*來たことは勿論です。が、あの漁

師のバツグの外に晝間は誰も尋ねて來ませ

[やぶちゃん注:

●「あなたがた」初出及び現行は、

 あなたがた自身

である。「自身」が入った方がよい。ゲラ校で芥川自身が挿入したものであろう。]

 

■原稿201(202)

ん。〈二三〉殊に二三匹一しよに來るのは夜(よる)、―――そ

れも月のある夜(よる)です。僕はゆうべも月明りの

中(なか)に〈硝子会社の〉*硝子会社の*社長のゲエルや哲学者のマツ

グと話をしました。のみならず音樂家のクラ

バツク〈《の》→は〉*にも*ヴァイオリンを一曲彈(ひ)いて貰ひま〈し〉**

た。そ〈れは〉ら、向うの机の上に黒百合(くろゆり)の花束(はなたば)

〈ある〉*のつてゐる*でせう? あれもゆうべクラバ

ツクが土産に持つて來てくれたものです。……

 (僕は後(うし)ろを振り返つて見た。が、勿論机の

[やぶちゃん注:

●「ヴァイオリン」の促音は初出及び歴史的仮名遣版では、

 ヴアイオリン

である。

●「持つて來てくれたものです。………」前注で示した通り、初出及び現行は、

 持つて來てくれたものです。…………

『奇体な4マス・リーダ』である。]

 

■原稿202(203)

上(うへ)〈それ〉には花束(はなたば)も何ものつてゐなかつた。)

 それからこの本も哲学者のマツグがわざわ

ざ持つて來てくれたものです。ちよつと最初

の詩を讀んで〈■〉**覽なさい。いや、あなたは河

童の国の言葉を御存知になる筈はあ〈り〉**〈ま〉**

ん。〈しか?〉*では*代りに讀んで見ませう。これは〈あの

悲しい詩人の〉*近頃出版になつた*トツクの全集の一册です。―――

 (彼は古い電話帳をひろげ、かう云ふ詩をお

ほ声に読みはじめた。)

―――〈熱帯〉*椰子*の花や竹の中に

[やぶちゃん注:

●「上(うへ)〈それ〉には」この部分、見ていると、芥川は前の原稿の続きがあることを忘れて、次の2行目の内容を書きかけて、気がつき、1マス目に「上」を入れて「それ」を抹消して続けたという事実が判明する。この部分、別に存在した河童の下書稿から筆写していた可能性を示唆するものではなかろうか?

●「―――〈熱帶〉*椰子*の花や竹の中に」の冒頭の「―――」は後から挿入したものである。その証拠に芥川の癖で3文字分のダッシュを引いた結果、実はその頭が(詩は2字下げにしかしていなかったために)、10行目上方罫外へと一字分、はみ出しているのである。また、抹消の「熱帶」であるが、実際には「帶」の字は第一画の横棒しかマスには書かれていない。しかし、文脈と「椰子」の書き換えからも、間違いないと判断して敢えて「帶」と入れたものである。大方の御批判を俟つものである。]

 

■原稿203(204)

   佛陀はとうに眠つてゐる。

 

   〈基督も〉路ばたに枯れた無花果と一しよに

   基督ももう死んだらしい。

 

   しかし我々は〈休〉**まなければならぬ、

   たとひ芝居の背景の前にも。

 

――(その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだら

けのカンヴアスばかりだ。!)―――

[やぶちゃん注:

●「しかし我々は〈休〉**まなければならぬ、」この最後の読点は、初出及び現行では、

 しかし我々は休まなければならぬ

と存在しない。私は私の考えるこの詩の詩想からいって、この読点は打たれねばならないと考えている読点があるのが『唯一正当なトックの詩である』と、私は信じて疑わないのである。これは我鬼となった私の拘りであると言える。

●「――(その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ。!)―――」この部分は非常に問題がある。

 一つは、初出及び現行では、「背景も裏を見れば」が、
 その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ。!

となっていて、大きな相違を示している点である。――これは芥川龍之介自身がゲラ校正でそうしたもの――とは思いたいのであるが、私は個人的にここは、
×背景の裏を見れば
ではなく、
〇背景も裏を見れば
の方が詩想としてしっくりくるように思われるのである。大方の御批判を俟つが、私は勝手にそれが『唯一正当なトックの詩である』と思えてならないのである。
 次いで「カンヴァス」の促音はママ。初出及び現行は「カンヴアス」である。

 さて次に、ここも前後を挟むダッシュは後から加えられたものであって、しかも表記のように、最初のダッシュは2字下げの分にしか附されていない。ところが、現行では(実は初出にはこれはおろか詩の前後のダッシュもない。岩波旧全集はここを底本(初出『改造』版)によらず、この原稿と芥川龍之介自身の『改造』書入れに従って「――」、2マスダッシュを入れているのである)ここは、ダッシュなしで、前と同じ2字下げで、

  (その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴアスばかりだ。!)―――

となっているのである。私はこれは大きな誤りであると考えている。トックのこの詩は最後が散文調の( )附記のようになっているのである。それが『唯一正当なトックの詩である』と私は信じて疑わない。試みに以下に現行のそれと、私の考える『唯一正当なトックの詩』を示す。但し、ダッシュは一般的表記の二マス・ダッシュとし、ルビは排除するものとする。

   *   *   *

【歴史的仮名遣準拠現行版】

 

――椰子の花や竹の中に

  佛陀はとうに眠つてゐる。

 

  路ばたに枯れた無花果と一しよに

  基督ももう死んだらしい。

 

  しかし我々は休まなければならぬ

  たとひ芝居の背景の前にも。

 

  (その又背景の裏を見れば、繼ぎはぎだらけのカンヴアスばかりだ。!)――

 

【私藪野直史が唯一正当と考える詩形】

 

――椰子の花や竹の中に

  佛陀はとうに眠つてゐる。

 

  路ばたに枯れた無花果と一しよに

  基督ももう死んだらしい。

 

  しかし我々は休まなければならぬ、

  たとひ芝居の背景の前にも。

 

――(その又背景も裏を見れば、繼ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ。!)――

 

   *   *   *

 大方の御批判を俟つ。]

 

■原稿204(205)

 〈しかし〉*けれども*僕はこの詩人のやうに厭世的ではあ

りません。河童たち〈は〉**時々來てくれる限りは、

―――ああ、このことは忘れてゐました。あ

なたは僕の友だちだつた裁判官のペツプを覚

えてゐるでせう。あの〈■〉河童は職を失つた後(のち)、

ほんたうに発狂してしまひました。何でも今

は河童の国の精神病院にゐると云ふこ〈と〉**

す。僕はS博士さへ承知してくれれば、見舞

ひに行つてやりたいのですがね………(昭和二・

二・十一)

[やぶちゃん注:「河童」自筆原稿の最後である。この原稿に限って、ナンバリングが左端罫罫外上方(但し以下に示すように不完全)と左罫外3マス目左方と二箇所に打たれている。これは上のものがあまりに左側に寄せ過ぎて打ち損ね「04」となり、3ケタ目の「2」がなくなってしまったため、改めて下方に「204」と打ったものと考えてよい。最終行は10行目で、余白はない。実に無駄のない、芥川龍之介らしい掉尾の原稿ではないか!

●「あの〈■〉河童は」この抹消字は「男」と書きかけたようにも見える。

●「行つてやりたいのですがね………」先に述べた通り、現行及び初出は、

 行つてやりたいのですがね…………

『奇体な4マス・リーダ』である。

●「行つてやりたいのですがね………(昭和二・二・十一)」初出及び現行では、

 行つてやりたいのですがね………… (昭和二・二・十一)

とリーダの後に1マス空けてクレジットとなっている。]

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十六

■原稿184(185)

     十〈一〉**

 

[やぶちゃん注:「十六」は5字下げ。抹消数字は例えば「七」には見えない。有意に一画で強く横に引いている。「一」と考えて間違いない。本文は2行目から。]

 

 僕は〈トツクの自殺し〉*かう云ふ記事を讀ん*だ後、だんだんこの国

にゐることも憂欝になつて來ましたから、ど

うか我々人間の国へ歸ることにしたいと思ひ

ました。しかしいくら探して歩いても、僕の

落ちた穴は見つかりません。そのうちにあの

バツグと云ふ漁師の〈河〉**童の話には〔、〕何でもこの

国の街はづれに或年をとつた河童が一匹、本

を讀んだり、笛を吹いたり、〈靜〉**かに暮らし

てゐると云ふことです。僕はこの河童に尋ね

 

■原稿185(186)

〈童《河》→に尋ね〉て見れば、或はこの国を逃げ出す途

もわかりはしないかと思ひましたから、早速

街はづれへ出かけて行きました。しかしそこ

へ行つて見ると、如何にも小さい家の中に〈や〉

をとつた河童どころか、頭(あたま)の皿も固ま〈ら〉**

い、やつと十二三の河童が一匹、悠々と笛を

吹いてゐました。僕は〈最初は間〉*勿論間違*つた家へはひ

つたではないかと思ひました。が、念の爲に

〈前を尋ね〉*をきいて見*ると、やはりバツグの教へ〈れ〉てくれ

た年よりの河童に違ひないのです。

 

■原稿186(187)

 「しかしあなたは子供のやうですが〈。〉………」

 「〈そ〉お前さんはまだ知らないのかい? わたし

はどう云ふ運命か、母〈親〉**の腹を出た時には〈■〉

髮頭(しらがあたま)をしてゐたのだよ。それからだんだん年

が若くなり、〈■〉今ではこんな子供になつたのだ

よ。〈」〉けれども年を勘定すれば、生まれる前を

〈四〉**〈年〉としても、彼是〈百〉**十五六にはなるかも

知れない。」

 僕は〈狭い〉部屋の中を見まはしました。そこ

には僕の気のせゐ〈や〉**、質素な椅子やテエブル

 

■原稿187(189)

〈や〉**間に何か淸らかな幸福が漂つてゐるやうに

見えるのです。

 「あなたは〈《誰よりもの》→どうも外の〉*どうもほか*の河童よりも仕合せに

暮らしてゐるやうですね?」

 「さあ、それはさうかも知れない。わたしは

若い時は年〈と〉**りだつたし、〈年をとつた時は〉*年をとつた時は*

いものになつてゐる。從つて〈《■》→年〉**よりのやうに

慾にも渇かず、若いもののやうに色にも〈漁〉**

れない。兎に角わたしの生涯は〔たとひ〕仕合せではな

〈までも、安らかだらう。〉*にもしろ、*安らかだつたのに〔は〕違

 

■原稿188(189)

〈ないよ。」〉*あるまい。*

 「成程それでは安らかでせう。」

 「いや、まだそれだけでは〈明〉**らか〈では〉*には*ならな

い。わたしは体も丈夫だつたし、一生食ふに

困らぬ位の財産を持つてゐたのだよ。〈」〉しかし

一番仕合せだつたのはやはり生まれて來た時

に年〈と〉**りだつたことだと思つてゐる。」

 僕は暫くこの河童と自殺した〈ラツプ〉*トツク*の話だ

の毎日醫者に見て貰つてゐる〈《タツパ》→ドツク〉*ゲエル*の話だの

をしてゐました。が、なぜか年とつた河童は

[やぶちゃん注:

●「《タツパ》」ここで芥川は「毎日醫者に見て貰つて」生にすこぶる執着しているところの、今まで全く登場していない「タツパ」という新手河童を登場させようとしていたことが分かる(次の「■原稿189(190)」の3行目の抹消をご覧あれ)。

●「年とつた河童」初出及び現行は、

 年をとつた河童

である。この後、これ以外に同じ表現が4箇所出現するが、いずれも同様の異同が認められるので、ゲラ校正での芥川自身による改訂と思われる。]

 

■原稿189(190)

余り僕の話などに興味のないやうな〈顏〉**をし

てゐました。〈僕は〉

 「ではあなたは〈《ほかの河童》→タツ〉*ほかの河童*のやうに格別生き

てゐることに執着を持つてはゐないのですね

?」

 年とつた河童は僕の顏を見ながら、靜かに

かう返事をしました。

 「わたしもほかの河童のやうにこの国へ生ま

れて來るかどうか、一應父親に尋ねられてか

ら母〈親〉**の胎内を離れたのだよ。」

[やぶちゃん注:前注通り、「年とつた河童」は初出及び現行では「年をとつた河童」。]

 

■原稿190(191)

 「しかし僕はふとした拍子に、この国へ轉げ落

ちてしまつたのです。どうか僕にこの国から

出て行(ゆ)かれる路を教へて下さい。」

 「出て行かれる路は一つしかない。」

 「と云ふのは?」

 「それはお前さんのここへ來た路だ。」

 僕はこの荅を聞いた時になぜか身の毛がよ

だちました。

 「その路が生憎見つからないのです。」

 年をとつた河童は水々しい目にぢつと僕の顏

[やぶちゃん注:前注通り、「年とつた河童」は初出及び現行では「年をとつた河童」。]

 

■原稿191(192)

を見つめました。それからやつと體を起し、

部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下

つてゐた一本の綱を引きました。すると今まで

気のつかなかつた天窓(てんまど)が一つ開きました。そ

の又円い天窓の外には松や檜が枝を張つた向

うに大空(おほぞら)が靑あをと晴れ渡つてゐます。〈■〉

や、大きい鏃(やじり)に似た槍ヶ岳の峯も聳えてゐま

す。僕は飛行機を見た子供のやうに実際飛び

上つて㐂びました。

 「さあ、あすこから出て行くが好い。」

 

■原稿192(193)

 年をとつた河童はかう言ひながら、さつき

の綱を指さしました。今まで僕の綱〈■〉**思つてゐ

たのは実は綱梯子に出來てゐたのです。

 「ではあすこから出さして貰ひます。」

 「唯わたしは前以て言ふが〈、〉〔ね〕。〈■〉出て行つて後悔

しないやうに。」

 「大丈夫です。〔僕は〕後悔などはしません。」

 僕はかう返事をするが早いか、もう綱梯子

を攀ぢ登つてゐました。年をとつた河童の頭(あたま)の

皿(さら)を遙か下に眺めながら。

[やぶちゃん注:前注通り、二箇所の「年とつた河童」は初出及び現行では「年をとつた河童」。以上の最終行は20行目で余白なし。

●「唯わたしは前以て言ふが〈、〉 〈■〉〔ね。〕出て行つて後悔しないやうに。」この台詞の推敲は、当初恐らくは、

 唯わたしは前以て言ふが、

まで書いて、読点を抹消して次のマスから何か書こうとした(判読不能。マスの有意な左部分に強い縦の一画がある)が、やめて抹消、

 唯わたしは前以て言ふが、出て行つて後悔しないやうに。

その後、かなり後になってから「ね。」を挿入して、

 唯わたしは前以て言ふがね。出て行つて後悔しないやうに。

としたのではないかと思われる。何故かというと、この右吹き出しの挿入記号を含めて、この

 ね。

だけが原稿及び推敲に用いられたブラックではなく、かなり明るいブルー・ブラック系によるものであるからである。]

ブログ開設8周年記念 自敍傳(「ソライロノハナ」より) 萩原朔太郎

[やぶちゃん注:以下は、昭和53(1978)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第15巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」に載る初出を底本とした(校訂本文は編集権を侵害する恐れがあるための仕儀であり、従って誤字・脱字と思われる箇所は総てママである。但し、抹消字は省略した。一部読解困難と思われる箇所のみ、校訂本文も参考にしながら注を直後に附した)。この歌集は当該底本で初めて公開され、知られるようになった歌集で、確か、この全集の発刊された前年の昭和52年、萩原家が発見入手したもので、それまで知られていなかった自筆本自選歌集である(死後40年、製作時に遡れば実に60余年を経ての発見であった)。1913年は大正2年で同年4月は朔太郎満27歳である。

 本テクストは私のブログ開設8周年記念としてブログ限定で作成したものである。現在のネット上には電子化テクストはないものと思われる。【藪野直史 2013年7月6日】]

 

自敍傳

 

      一九一三、四

 

私の春のめざめは十四才の春であつた。戀といふものを初めて知つたのもその年の冬であつた、

[やぶちゃん注:「十四才」数えであるから明治32(1898)年。底本年譜にはこの年の記載が全くない。]

若きウェルテルのわづらひはその時から初まる、十五才の時には古今集の戀歌をよんで人知れず涙をこぼす樣になつた。その頃從兄の榮次氏によつて所謂新派の歌なるものの作法を教へられた。鳳晶(オホトリアキ)子の歌に接してから私は全で熱に犯される人になつてしまつた。

十六歳の春、私は初めて歌といふものを自分で作つて見た。此の集の第一貢に出て居る二首がその處女作である。

[やぶちゃん注:「貢」は「頁」の誤字。「鳳晶子の歌」は無論、この明治34(1901)年8月15日に東京新詩社と伊藤文友館の共版で発表された「みだれ髪」である。]

此の時から若きウエルテルの煩ひは作歌によつて慰さめられるやうに成つた

然し又歌そのものが私の生命のオーソリチイであつたも知れない、何となれば私は藝術と實生活とを一致させる爲にどれだけ苦心したか分らないのである

[やぶちゃん注:「あつたも知れない」は「あつたかも知れない」の脱字。]

とうとう私の生活が藝術を要求するのでなく藝術が私の生活を支配して行く樣になつて仕舞つた。春のめざめ時代の少年にとつてこれ程痛ましい事はない

私は朝から晩までミユーズやアポロの聖堂を巡拜するために漂泊して歩かなければならなかつた。

かういふ旅が長い長い間つゞいた

※と疲れで私は幾度も幾度も倒れそうになつた。

[やぶちゃん注:「※」=「飼」-「司」+「旡」。「飢」か「餓」の誤字。]

然し信心深い巡禮は決してこの煩はしい旅から歸ることをしなかつた

戀と情慾と、それからロマンチツクの藝術に對する熱愛とすべて其等のものが若きウエルテルの煩ひの原因であつた。

然しそういふ純美な憧憬の影に、臆病未練な自己慊忌とか厭生とかいふ樣な暗い心の芽生がひそんで居ることをさへ見出さずに終つたら、私は本當に美しいヂレツタントに成つてしまふことが出來たかも知れない。

次第に私は死とか生とか言ふことを眞劍になつて考へるやうに成つて來た。

丁度靄がはれて行くやうに段段と私の心からロマンチツクの幻影が消えて行つた

そして到々本物の世界……醜い怖ろしいあるものが薄氣味惡く笑ひながら私の前に跳出した。

もう斯うなつては、あの神聖なウエルテルのわづらひも晝間のばけもののやうにおどけた者としか見られなくなつてしまつた

若きウエルテルは菫の花束を捧げた手で火酒の盃をあげるやうになつた

藤村や泣菫の詩集を抱いた胸で淫らな女を抱きしめた、

彼は戀よりも肉を慾した

ミユーズやヴイナスの巡禮をやめてバツカスが祠の前に頽唐した官能をふるはして惡の讚美歌を口にするやうになつた。

一しきり私は埈にまみれた場末の居酒屋の繩紺簾を毎晩のやうにくゞつた、

[やぶちゃん注:「埈」は「埃」の、「紺簾」は「暖簾」の誤字。]

ほのぐらい軒燈の下に心細い三味線の音じめを聽きながら耽溺の幾夜を過したことも珍らしくなかつた

ある時はまた怪しげなレストランの窓にもたれてたはかれ時のうすらあかりと自分の宿世をしみしみと淋しものに思ひ比べて見ることもあつた、そういふ時不覺の涙はつめたい盃の中に落ちて漂つた。
[やぶちゃん注:「淋しものに」は「淋しいものに」の脱字であろう。]

例の淺草へは毎日のやうに行つた

活動寫眞の人混みの中で知らない女に手を握られることが私の ADVENTURE を欲する心を滿足せㇾさた

[やぶちゃん注:「ㇾ」はㇾ点である。]

毒々しい繪着板のペンキの匂ひに唆られて※稚なローマンスの世界に憧憬する、可憐な不良少年の幾人かはその邊の支那料理店で毎夜の樣に私と顏を合せた、

[やぶちゃん注:「※」=「糸」+「刀」。「幼」の誤字。「

「繪着板」は「絵看板」の誤字。]

述路のやうなあの東洋のモンマントルをほつき歩くことも花瓦斯の光眩ゆい大門をくゞることも、最早私にとつて何等の意義をもなさない程その頃の神經は荒癈し切つて居た

[やぶちゃん注:「述路」は「迷路」の誤字。「モンマントル」はママ。]

そんな時例の吾妻橋側の酒場(バア)で芳烈な電氣ブランを飮むことを決して忘れなかつた。斯うして私は刺激から刺激を求め歩いた

歡樂の後に歡樂を追ふて止まなかつた、でなければ實際私には生きて居ることが出來なかつたのである。

けれども歡樂を追求するといふ事は實際には苦痛を求めるといふことである

刺激を漁るのはつまり憂愁と死に向つて突貫する樣な者である

軈て私の心のどん底に今まで曾て知らなかつた苦い苦い哀傷と空虛といふ薄氣味の惡い蟲けらがその巣を張りつめて居た事を發見したときに私は何事にも興味を失ふ人と成らなければならなかつた。

私は空(カラ)ンポの盃を充たすあるものを求めやうとして無益に狂ひ廻つて居たことを知つた時に遂に泣くことも出來ない人になつて居た。

[やぶちゃん注:太字「あるもの」は底本では傍点「ヽ」。「廻」は底本では正字(ブログでは表示出来ないため、特に注記した)。]

そして痛々しい程デリケートになつた官能のコイルばかりが晝は晝(ひね)もす夜は夜ぴてえ高麗鼠のやうに、せはしなく紳經の纖線をめぐりめぐつて突いて居た

[やぶちゃん注:「紳經の纖線」校訂本文では「神經の纖維」とする。「纖維」の校訂には微妙に留保をしたい。]

何人に向つて訴へる由もなき此の苦腦、何物を以てしても慰める事の出來ない此の哀傷、かういふいらいらした心のありさまを私は詩や歌に作つて自ら低唄して居る外に方法は無かつた。

[やぶちゃん注:「低唄」校訂本文では「低唱」とする。]

かうした頽唐と憂愁のやる瀨ない日が長い間つゞいた。

「何處へ行く」一扁はすべて此等の日の痛ましき紀念である、歡樂の燈影に光る玉虫のこゝろと憂愁の闇路ににほふ螢の靑きためいきである。

そうして「午後」は「若きウエルテルの煩ひ」が最後の幕と「何處へ行く」序幕との間に奏さるべき INTERMEZZO である、

すなほなる心のうつりかはりはそのテーマを通してすべてのリズムにまでくつきりとあらはれて居ると思ふ

さはさりながら名もなき墨色の花にも似たる私の淋しい生の悲劇はそのカタストロヒイの黑き幕が下るまでにまだ暫らくの間がある。最近の「うすら日」はいはゞ年増女の顏に殘つた粉おしろいの微かなにほひである。きちがひの惡落付とやんまとんぼの眼玉である。

[やぶちゃん注:「惡落付」「わるおちつき」と読む。悪落着とも書き、必要以上に落ち着きはらうこと。まったく動じないことの意。この行、続いているのかも知れないが、底本初出も校訂本文も判然としない。改行ととった。]

若し節をつけて唱つてくれる人があるならば低い投げやりの調子であの寂しいあきらめのモツトオをにほはしてもらひたい。

 空いろの花

Sakujijyo_2

[やぶちゃん注:最後には画像で示した特殊なバーが本文の「ひたい。」の句点位置下に向かって「空いろの花」の次行に打たれてある。]

[やぶちゃん補注:前半「十六歳の春、私は初めて歌といふものを自分で作つて見た。此の集の第一貢に出て居る二首がその處女作である」とあるのは「ソライロノハナ」に、この「自敍傳」の後、「二月の海」の歌物語を挟んだ最初の歌集パートである「若きウエルテルの煩ひ」の冒頭にある以下の二首を指すか。

 

柴の戸に君を訪ひたるその夜より

戀しくなりぬ北斗七星

 

春ここにここに暫しの花の醉に

まどろむ蝶の夢あやぶみぬ

 

ほかにはしっくりくるものが見当たらない。誤っている場合は御教授を願いたい。]

ブログ開設8周年記念 遍歴五十五首 中島敦連作 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:この恐るべき連作は以下に示す通り、中島敦の歌稿の巻頭を飾る「和歌(うた)でない歌(うた)」の巻首にある。最後に附した僕の注は、僕にとって読解に不安が生ずるものに対して、よりよく理解するために調べて附したものであり、読者の総てに親切な注ではない。悪しからず。]

 

  和歌(うた)でない歌(うた)

 

    遍歷

ある時はヘーゲルが如萬有をわが體系に統(す)べんともせし
ある時はアミエルが如つゝましく息をひそめて生きんと思ひし
ある時は若きジイドと諸共に生命に充ちて野をさまよひぬ
ある時はヘルデルリンと翼(はね)竝ベギリシャの空を天翔りけり
ある時はフィリップのごと小(ち)さき町に小(ちひ)さき人々(ひと)を愛せむと思ふ
ある時はラムボーと共にアラビヤの熱き砂漠に果てなむ心
ある時はゴッホならねど人の耳を喰ひてちぎりて狂はんとせし
ある時は淵明(えんめい)が如疑はずかの天命を信ぜんとせし
ある時は觀念(イデア)の中に永遠を見んと願ひぬプラトンのごと
ある時はノヷーリスのごと石に花に奇しき祕文を讀まむとぞせし
ある時は人を厭ふと石の上に默(もだ)もあらまし達磨の如く
ある時は李白の如く醉ひ醉ひて歌ひて世をは終らむと思ふ
ある時は王維をまねび寂(じやく)として幽篁の裡(うち)にひとりあらなむ
ある時はスウィフトと共にこの地球(ほし)の Yahoo(ヤフー)共をば憎みさげすむ
ある時はヴェルレエヌの如雨の夜の巷に飮みて涙せりけり
ある時は阮籍(げんせき)がごと白眼に人を睨みて琴を彈ぜむ
ある時はフロイドに行きもろ人の怪(あや)しき心理(こころ)さぐらむとする
ある時はゴーガンの如逞ましき野生(なま)のいのちに觸ればやと思ふ
ある時はバイロンが如人の世の掟(おきて)踏躪り呵々と笑はむ
ある時はワイルドが如深き淵に墮ちて嘆きて懺悔せむ心
ある時はヴィヨンの如く殺(あや)め盜み寂しく立ちて風に吹かれなむ
ある時はボードレエルがダンディズム昂然として道行く心
ある時はアナクレオンとピロンのみ語るに足ると思ひたりけり
ある時はパスカルの如心いため弱き蘆をば讚(ほ)め憐れみき
ある時はカザノヷのごとをみな子の肌をさびしく尋(と)め行く心
ある時は老子のごとくこれの世の玄のまた玄空しと見つる
ある時はゲエテ仰ぎて吐息しぬ亭々としてあまりに高し
ある時は夕べの鳥と飛び行きて雲のほたてに消えなむ心
ある時はストアの如くわが意志を鍛へんとこそ奮ひ立ちしか
ある時は其角の如く夜の街に小傾城などなぶらん心
ある時は人麿のごと玉藻なすよりにし妹をめぐしと思ふ
ある時はバッハの如く安らけくたゞ藝術に向はむ心
ある時はティチアンのごと百年(ももとせ)の豐けきいのち生きなむ心
ある時はクライストの如われとわが生命を燃して果てなむ心
ある時は眼(め)・耳・心みな閉ぢて冬蛇(ふゆへび)のごと眠らむ心
ある時はバルザックの如コーヒーを飮みて猛然と書きたき心
ある時は巣父の如く俗説を聞きてし耳を洗はむ心
ある時は西行がごと家をすて道を求めてさすらはむ心
ある時は年老い耳も聾(し)ひにけるべートーベンを聞きて泣きけり
ある時は心咎めつゝ我の中のイエスを逐ひぬピラトの如く
ある時はアウグスティンが灼熱の意慾にふれて燒かれむとしき
ある時はパオロに降(お)りし神の聲我にもがもとひたに祈りき
ある時は安逸の中ゆ仰ぎ見るカントの「善」の嚴(いつ)くしかりし
ある時は整然として澄みとほるスピノザに來て眼(め)をみはりしか
ある時はヷレリイ流に使ひたる悟性の鋭(と)き刃(は)身をきずつけし
ある時はモツァルトのごと苦しみゆ明るき藝術(もの)を生まばやと思ふ
ある時は聰明と愛と諦觀をアナトオル・フランスに學ばんとせし
ある時はスティヴンソンが美しき夢に分け入り醉ひしれしこと
ある時はドオデェと共にプロヷンスの丘の日向(ひなた)に微睡(まどろ)みにけり
ある時は大雅堂を見て陶然と身も世も忘れ立ちつくしけり
ある時は山賊多きコルシカの山をメリメとへめぐる心地
ある時は繩目解かむともがきゐるプロメシュウスと我をあはれむ
ある時はツァラツストラと山に行き眼(まなこ)鋭(す)るどの鷲と遊びき
ある時はファウスト博士が教へける「行爲(タート)によらで汝は救はれじ」
遍歴(へめぐ)りていづくにか行くわが魂(たま)ぞはやも三十(みそぢ)に近し

[やぶちゃん注:「ヘルデルリン」詩人ヘルダーリン。
「フィリップ」フランスの小説家シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe 一八七四年~一九〇九年)。死後の一九一〇年に刊行された短編集 “Dans la petite ville” (「小さな町で」)はとみに知られる。
「ある時はゴーガンの如逞ましき野生のいのちに觸ればやと思ふ」の太字「いのち」は底本では傍点「ヽ」。
「アナクレオン」(Anacreon, Anakreon, 紀元前五七〇年頃の生れ)は大酒飲みと賛美歌や抒情歌曲の作詞者として知られるギリシャの詩人。
「ピロン」ピュロン(Pyrrho 紀元前三六〇年頃~紀元前二七〇年頃)は古代ギリシャの哲学者。懐疑論や不可知論の濫觴とされる。
「ある時はティチアンのごと百年の豐けきいのち生きなむ心」の太字「いのち」は底本では傍点「ヽ」。「ティチアン」は「田園の合奏」や「ウルビーノのヴィーナス」で知られた、長命であったイタリア・ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio 一四八八年から一四九〇年頃~一五七六年)のことであろう。
「巣父」「さうほ(そうほ)」と読む。中国古代の伝説上の隠者で樹上に巣を作って住んだことから、かく名指す。「荘子」の「逍遥遊」や「史記」の「燕世家」などにみえる、栄耀を忌み嫌う故事「許由巣父」やそれを画題とした絵で知られるが、中島敦はやや取り違えをしている。許由も同じく伝説的な高士であったが、この許由が聖帝堯から国を譲るとの申し出を受けた際に、「おぞましい話を聴いて耳が汚れた」と言い、自分の耳を水で洗った。それを見た巣父は「そのために川の水が汚れた」と言って牛に水を飲ませずに帰ったという。(……正確を期するなら、
 ある時は許由の如く俗説を聞きてし耳を洗はむ心
 ある時は巣父の如く穢れてし耳洗ふを見牛返す心
とでもするか?……いや、失礼、中島先生……)
「聾(し)ひ」「聾(し)ふ」は「癈ふ」の当て字。動詞「しふ」(ハ行上二段活用)は身体器官の感覚や機能を失う、の意。
「アウグスティン」アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 三五四年~四三〇年)は古代キリスト教の神学者で、古代キリスト教史に於ける最強の理論家として知られる聖人。日本ハリストス正教会では「福アウグスティン」と呼称する。この「燒かれむとしき」というのは恐らく彼の著作「神の国」の第二章から第十章で語られるところの、肉体は燃える火の中で永遠に存在出来るかという問題の考察を指しているように思われる。
「ある時はヷレリイ流に使ひたる悟性の鋭き刃身をきずつけし」の「刃」は底本では「刅」の右の点を除去した字体である。
「大雅堂」は「たいがだう(たいがどう)」で池大雅の雅号の一つ。
「行爲(タート)によらで汝は救はれじ」「行爲(タート)」はドイツ語“Tat”。行為・行い・実行・行動の意。ゲーテの「ファウスト」の最も知られたこの“Tat”の出現する箇所は、メフィストーフェレス出現の直前のファウストの独白で、聖書の「初めに言葉ありき」を捩った第一部1240節に現われる、
“Im Anfang war die Tat!”
であろう。以下に諸家の訳を示す。
「初(はじめ)に業(わざ)ありき。」(森林太郎訳)
「太初に業(わざ)ありき。」(相良守峯訳)
「太初(はじめ)に行(おこない)ありき。」(高橋義孝訳)
「初めに行為ありき」(池内紀訳)
私はドイツ語が出来ないので、この下句に完全一致する台詞が「ファウスト」にあるかどうかは分からない。識者の御教授を得られれば幸いである。]

木製の人魚 大手拓次

 木製の人魚

 

こゑはとほくをまねき、

しづかにべにの鳩(はと)をうなづかせ、

よれよれてのぼる火繩(ひなは)の秋(あき)をうつろにする。

 

こゑはさびしくぬけて

うつろを見(み)はり、

ながれる身(み)のうへににほひをうつす。

 

くちびるはあをくもえて、

うみのまくらにねむり、

むらがりしづむ藻草(もぐさ)のかげに眼(め)をよせる。

鬼城句集 夏之部 鮓

鮓     鮓壓して眞白な石を持ちにけり

      鮓つけてだまつて去にし魚屋かな

2013/07/05

ブログ480000突破記念 芥川龍之介17歳 猩々の養育院(Orangoutang's almshouse)

先程、午後7時23分51秒に、

「夏休み 自由研究四年生」

のフレーズで検索され、僕の

「……小学校4年生の夏休みの自由研究……今から出そう……」

を読まれたあなたが、僕のブログの2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、480000人目の訪問者でした。――

あなたに贈ります。――

芥川龍之介17歳の時に書かれた

「猩々の養育院(Orangoutang's almshouse)」

です。

とっても(!)相応しい記念テクストになりました。

ありがとう♡

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十五

□原稿169(170)

      〈九〉*十五*

 

[やぶちゃん注:「十五」は形の上では「九」を抹消しているので5字下げ(実際には6~7マス目に記載)。本文は2行目から。]

 

 それから彼是一週間の後、僕はふと醫者の

チヤツクに珍らしい話を聞きました。と云ふ

のはあのトツクの家に幽靈の出ると云ふ話な

のです。その頃〔に〕はもう雌の河童〈も〉**〈■〉**か外(ほか)へ

行つてしまひ、〈トツクの家は〉僕等の友だちの詩人の家も〈■〉

〔或〕寫眞〈屋〉**のステュディオに變つてゐました。何でも

チヤツクの話によれば、このステュディオでは寫

眞をとると、〈必ず〉トツクの姿もいつの間にか必ず

〔朦〕朧と〈寫?〉**の後ろに映つてゐると〔か〕云ふこと《〔で〕》〈なの〉で〕です。尤

[やぶちゃん注:

●「〔或〕寫眞〈屋〉**のステュディオに變つてゐました。」初出及び現行では、

 寫眞師のステユデイオに變つてゐました。

で、促音は措くとしても「或」の脱落は見逃せない。個人的な文体への趣味の物問題であるが、私は――私も――そして普通の芥川龍之介も、ここには「或」を入れたくなる。私は入っているのが正しいと思うし、芥川龍之介もそれが彼の真意であると思う。そもそもこの「或」は推敲の末に7行目上罫外に、わざわざ手書きで綺麗に罫を拵えて、そこに「或」と記しているのである。――ゲラ校正段階で最終的に龍之介自身が削除した――などということは、以上から私には絶対にあり得ないことだと直感されるのである。これは総ての校正から漏れたものと私は断ずるものである。

 

■原稿170(171)

〈《チヤツク》→ゲエル〉*チヤツク*は物質主義者ですから、死後の生命

などを信じて〈は〉**ません。現に〈《こ》→こ〉**の話をした時

にも〈目にた〉*悪意の*ある微笑を浮べながら、「〈《「幽靈》→「靈魂〉やは

り靈魂と云ふものも物質的存在と見えます

ね」などと註釈めいたことをつけ加へてゐまし

た。僕も幽靈を信じないことはチヤツクと余

〈《り》→《しかしこの国の心靈学協会は》→僕も幽靈を信じないことは〉*り変りません。けれども詩人の*トツクには親しみを感じてゐましたから、早速本屋の店へ

〈か〉**けつけ、〈新聞や雑誌掲げられた■〉*トツクの幽靈に関する記事*やトツ

クの幽靈の〈寫〉**眞の出てゐる新聞や雑誌を買つ

 

■原稿171(172)

て來ました。成程それ等の〈寫〉**眞を〈見〉**ると、ど

こかトツクらしい河童が一匹、老若男女の河

童の後ろにぼんやりと姿を現してゐま〔し〕た。し

かし僕を驚かせたのは〈かう云ふ〉*トツクの*幽靈の寫眞よ

りもトツクの幽靈に關する記事、―――殊にト

ツクの幽靈に關する心靈学協会の報告〔で〕す。僕

は可也逐語的にその報告を訳して置きました

から、左(さ)に大畧を掲げることにしませう。〈若し

この〉*但し括弧*の中にあるのは僕自身の加へた註釈な

のです。――

[やぶちゃん注:この原稿用紙には右下方罫外右の、13~14マス位置に斜めに、赤いゴム印で、

 

の字が押されている。意味は不明。これは次の原稿にもある。

●「左(さ)に」は初出及び現行は、

 下(しも)に

である。校正過程で変更されたものであろう。]

 

■原稿172(173)

   詩人トツク〔君〕の幽靈に關する報告。(心靈

学協会雑誌第八千二百七十〈五〉**号所載)

 わが心靈〈協〉學協会は先般自殺したる詩人トック

君の舊居にして〈《、》→■〉現在は××寫眞師のステュディオなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を

開催せり。列席せる会員は下の如し。(氏名を畧す。)

 〈上記〉*我等*十七名の会員は〔心靈〔学〕協会々長ペツク氏と共に〕九月十七日午〈後十《二》→二

時〉*前十時三十分*〈同ステュディオに参集せり。〉*我等の最も信賴するメ*ディアム、ホツプ夫人を同伴し、該ステュディオの一室に參集〔せ〕り。ホ

[やぶちゃん注:前原稿注で示した通り、この原稿にも右下方罫外右の、14マス位置と、その斜めやや左下に、前原稿と全く同じ赤いゴム印で、

 

の字が2箇所に押されている。

●「心靈学協会雑誌第八千二百七十〈五〉**号」この変更は妙に気になる。この号数では不都合な理由が、芥川龍之介にはあったのではあるまいか?

●「トック」及び抹消も含めて3箇所の「ステュディオ」、「メディアム」の促音表記は総てママである。勿論、総て初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。]

 

■原稿173(174)

ツプ夫人は該ステュディオに入るや、既に心靈的

空気を感じ、全身に痙攣を催しつつ、嘔吐す

ること数囘に及べり。夫人の語る所〈に〉**よれ

ば、こは詩人トツク君の強烈なる煙草を愛し

たる結果、その心靈的空気も亦ニコティンを含

有する爲なりと云ふ。

 我等会員〈《は》→も〉**ホツプ夫人と共に圓卓を繞りて

〈《坐せることは定例》→言を費するを待たざる可し。〉*默坐したり。*夫人

は三分二十五秒の後、極めて急劇〈に〉*なる*夢遊状態

に陷り、且詩人トツク君の〈靈魂〉*心靈*の憑依する所

[やぶちゃん注:

●「ステュディオ」「ニコティン」の促音はママ。初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。

●「三分二十五秒」初出及び現行は、
 十分二十五秒
となっている。ゲラ校正での改訂か。トランス状態に陥るには確3分25秒よりは10分25秒の方が「リアル」とは言えるように思われる。]

 

■原稿174(175)

となれり。我等会員は年齡順に從ひ、夫人に

憑依せるトツク君の心靈と左の如き問答を開

始したり。

 問 君は何〈を〉故に幽靈に出づるか?

 荅 死後の名声を知らんが爲なり。

 問 〈死後■ 〉君――或は〈君等〉心靈〔諸君〕は死後も尚名声

を欲するや?

 荅 少くとも予は欲せざる能はず。然れど

も予の邂逅したる日本の〈或〉**詩人の如きは死後

の名声を輕蔑し居たり。

 

■原稿175(176)

 問 〈その詩人の名は〉*君はその詩人の姓*名を知れりや?

 荅 〈彼《は》→の名は〉*予は不幸*にも忘れたり。唯彼の好んで

作れる十七字詩の一章を記憶〈す〉**るのみ。

 問 その詩は如何

 荅 「古池や蛙飛びこむ水の音」

 問 君はその詩を佳作〈とする〉*なりと做す*や?

 荅 〈《必しも悪作ならざるべし。》〉*予は必しも惡作なりと做さず。*唯「蛙」を「河童」

とせん乎、〈一層佳作〉*更に光彩*陸離たるべし。

 問 〈その理由は如何?〉*然らばその理由は*如何?

 荅 我等河童は〈蛙よりも河童〉*如何なる藝術*にも河童を求

[やぶちゃん注:

●「知れりや?」の「や」の右下には読点に近い有意に意志的に打たれたペンの跡が原稿にはある。

●「その詩は如何」はママ。初出及び現行は、

 その詩は如何?

と「?」がある。

●「古池や蛙飛びこむ水の音」初出及び現行では、

 「古池や蛙飛びこむ水の音」。

と句点有り。]

 

■原稿176(177)

むること痛切なればなり。

 〈座〉**長ペツク氏はこの〈当〉時に當り、我等十七名

の会員にこは心靈学協会の臨〈■〉**調査会にし

て合評会にあらざるを注意したり。

 問 〈《君等心靈》→諸君〉*〈唯〉心靈諸君*〈の如何に生活するか?〉*の生活は如何?*

 荅 〈無爲にして消光〉*諸君の生活と異*なること無し。

 〈荅〉** 然らば君は君自身の自殺せ〈る〉**を後悔す

るや?

 荅 必しも後悔せず。予は心靈的生活に倦

まば、更にピストルを取りて自活すべし。

[やぶちゃん注:最後の行の太字「自活」は、底本では傍点「ヽ」。

●「異なること無し」初出及び現行は、

 異(ことな)ること無(な)し

と、「な」を送っていない。

●「後悔するや?」の「や」の右下には読点に近い有意に意志的に打たれたペンの跡が原稿にはある。]

 

■原稿

 問 自活〈は〉するは容易〈■〉なりや否や?

 トツク君の心靈はこの問に荅ふるに更に問

を以てしたり。こはトツク君を知れるものに

〈荅〉頗る自然なる應酬なるべし。

 荅 自殺するは容易なりや否や?

 問 〈君等〉*諸君*〈心靈〉の生命は永遠なりや?

 荅 我等〈心靈〉*の生命*に関しては諸説紛々として

〈解〉信ずべからず。幸ひに我等の間にも基督教、

佛教、モハメツド教、拜火教、等〈儒教、〉*の諸*宗あるこ

とを忘るる勿れ。

[やぶちゃん注:最初の行の太字「自活」は、底本では傍点「ヽ」。

●「モハメツド教」初出及び現行は、

 モハメツト教

である。

●「拜火教、等」はママ。初出及び現行には読点はない。]

 

■原稿178(179)

 問 君自身の信ずる所は如何?

 荅 予は常に懷〈義〉**主義者なり。

 問 然れども君は少くとも心靈の存在を疑

はざるべし?

 荅 〈《諸君の》→余は不幸にも諸君の如く〉*諸君の如く確信する能は*ず。

 問 君の交友の多少は如何?

 荅 〔予の交友は〕古今東西に亘り、〈無慮〉三百人を下らざるべ

し。その著名なるものを挙ぐれば、クライス

ト、マインレンデル、ワイニンゲル、………

 〈荅〉** 君〈は自殺者〉*の交友は*自殺者のみなりや?

[やぶちゃん注:

●この原稿には右上罫外に鉛筆書きで、

 棒組

という大書がある。棒組とは、活字組版に於いて版下を作成する際、レイアウトを無視して本文を決められた組み体裁でまず最初に全部組んでしまうことをいう校正用語。組んだものが棒のように細長くなるのでこの名がある。文字校正(棒組みのゲラは棒ゲラという)を済ませてから改めて正式なレイアウト通りに配置する。レイアウトが複雑且つ文字の直しによる大幅な組み替えが予測される場合に、この棒組みにすることが多い(以上は株式会社イーストウエストコーポレーションの「図解DTP用語辞典」の「棒組み」の記載に拠った)。ここは問答形式で問と答が一字下げで、台詞がそこからまた一字下げとなり、それがまた2行に及ぶ場合の字下げなどの問題があったからであろうか(実際には、2行目以降は字下げ無しで1マス目まで上がっている)。しかし、であれば、この問答が始まる「■原稿174(175)」にこそ附されていなくてはならないように思われ、不審である。識者の御教授を乞うものである。

●「君自身の信ずる所は如何?」初出及び現行は、

 君自身の信ずる所は?

である。前後の問の表現表記癖から判断して、原稿が正しいと断言出来る。]

 

■原稿179(180)

 荅 必しも然りとせず。自殺を弁護せるモ

ンテェ〈■〉**ユの如きは予が畏友の一人なり。唯予

〈自殺せざり〉*自殺せざり*し厭世主義者、―――シヨオペン

ハウエルの輩とは交際せず。

 問 シヨオペンハウエル〈の〉**健在なりや?

 荅 彼は〔目下〕心靈的厭世主義を〈講じ〉*樹立し*自活する

可否を論じつつあり。然れどもコレラも黴菌

病なりしを知り、頗る安堵せるものの如し。

 我等会員は相次いでナポレオン、孔子、ド

ストエフスキイ、ダアウィン、クレオパトラ、

[やぶちゃん注:6行目の太字「自活」は、底本では傍点「ヽ」。

●「モンテェ〈■〉**ユ」「ダアウィン」の促音表記はママ。初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。]

 

■原稿180(181)

釈迦、〈ダンテ、〉デモステネス、ダンテ、千の

利休等の心靈の消息を質問したり。然れどもト

ツク君は不幸にも詳細に荅ふることを〈做〉**

ず、反つてトツク君自身に關する種々の〈消〉*ゴシ

ツプ*を質問したり。

 問 予の死後の名声は如何?

 荅 〈群小詩人の一人〉或批評家〈曰?〉は「群小詩人の一人」と言へり。

 問 彼は予が詩集を贈らざりしに怨恨を含

める一人なるべし。予の全集は出版せられしや

 

■原稿181(182)

 荅 君の全集は出版せられたれども、賣行

甚だ振はざるが如し。

 問 予の全集は三百年の後、―――即ち著作

權の失はれたる後、万人の購ふ所となるべ

し。予の同棲せる〈友〉女友だちは如何?

 荅 彼女は〈《目下弁護士のラツク君》→弁護士ラツク君の夫人と〉*書肆ラツク君の夫人と*なれり。

 問 彼女は〔未だ不幸にも〕ラツクの〈眼?〉義眼なるを知らざる

なるべし。予が子は如何?

 荅 國立孤兒院にありと聞けり。

 〈問〉トツク君は暫く沈默せる後、新たに質問を

 

■原稿182(183)

開始したり。

 問 予が家は如何?

 荅 某寫眞〈《師》→家〉**のステュデイオとなれり。

 問 予の机は如何になれ〈りや?〉*るか?*

 荅 如何なれるかを知るものなし。

 問 予は予の机の抽斗に予の祕藏せる一束

の手紙を―――然れども〈こは〉*こは*幸ひにも多忙な

る諸君の関する所にあらず。今やわが心靈界

〈の空には万朶の《黒?墨?》雲→《黒》→の〉*〈徐〉**徐(おも)**ろに薄暮に沈ま*んとす。予は諸君と訣別

すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良な

[やぶちゃん注:

●「ステュデイオ」の促音表記はママ。初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。

●「今やわが心靈界〈の空には万朶の《黒?墨?雲》→黒雲→の〉*〈徐〉**徐(おも)**ろに薄暮に沈ま*んとす。」の部分は複雑で記号で総てを示し得ていない。ここで改めて推敲過程の推定を説明したい。因みに「徐(おも)ろ」というルビはママである。

 まず、芥川は、

 今やわが心靈界の空には万朶の

まで書いて、次に、

 黒

若しくは、その「黒」の(れっか)の下部に有意な横画らしきものが認められる点や「黒」の字がやや上部に書かれているところからは、

 墨

と書いた。恐らくは

 黒雲

のつもりであろう。ともかく気に入らなかった「黒」の字か、誤った「墨」の字を、

 黒

と訂したのである。しかし、結局、この表現全体が気に入らなくなって、

 今やわが心靈界の空には万朶の黒雲

総て抹消し、9行目1マス目右に、

 の

から始まる訂正を施そうとした。ところが、この「の」がまた気に入らずに再び抹消した。仕切り直しのためか、今度は改めて9行目左側冒頭から、

 は徐ろに薄暮に沈まんとす。

と続けたのであった。ところが、今度はこの「徐」の字が何故か気に入らなくなった(最終画辺りで文字が汚く潰れたためか?)。ところが、訂する余白がない。そこで、この字を潰した後、右上へと線を伸ばし、7~8行目上方罫外の余白に、

 徐

と吹き出しのようにして訂正し。ルビを振った。ところがそのルビは、

 おも

「む」がなかった。本文訂正部分は「ろ」しか送っていないから、原稿を見るとこれは、私が示した通り、

 徐(おも)ろに

となってしまうのである。初出及び現行では、

 徐(おもむろ)に

と「ろ」も吸収されている。恐らく校正過程で訂せられたものであろう。因みに私の印象では芥川は、「おもむろ」は「徐ろ」と送る傾向が強かったように思われる。されば芥川としてはこの原稿通りの「徐ろ」としたかったものと判断するものである。]

 

■原稿183(184)

る諸君。

 ホツプ夫人は最後の言葉と共に再び急劇に

覚醒したり。我等十七名の会員はこの問荅の

眞なりしことを上天の神に誓つて保證せんと

す。(尚又我等の〈賴〉信賴するホツプ夫人に對す

る報酬は嘗て夫人が女優たりし時の日当に從

ひて支弁したり。)

[やぶちゃん注:以下、3行余白。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 12 唐紙の意匠の同定について、どなたか是非ご協力をお願い申し上げる!

M130
[やぶちゃん注:以下、フォントの関係上、今回は明朝で示す。]

図―130
M131

図―131

 私は非常に興味を以て壁紙の模様を見た。私が今迄に見たのは平民階級の住宅ので、我国の安い壁紙同様に貧弱極るものであるが、只一つ、我国のよりも優れた点がある。それは決してケバケバしい色彩が使ってないことで、大体に於て薄い色をつけた地紋に、白くて光る模様を置いた丈である。模様は我我のとは全然違う。そしてくるくる巻いては無く、長さ一フィート半の細長い紙片になっている。一部屋で違う紙が何枚か見られることもある。私が写したのには五種類あった。一種は天井一種は壁の上部と部屋の二側、他は、辷る衝立に張ってあった。これは決してよくはなかった。誰かがこの部畳を所謂欧米風にしようとした結果、みじめにも失敗したのである。ある模様には菱形と形式的な花とで充たした不規則な区域があり、その外に燕と蝶と蛾とがあった。図130には Paulownia と呼ぶ水生植物の絵がある。これは徳川家の紋章に描出してある。また撫子、昼顔、葡萄、蔓草等を、雲形の輪郭にゴチャゴチャに入れたものや、小舎に入った兎もある。更にもう一つは川の早瀬を薪を積んだ、而も舟頭のいない舟が流れている所を示しているが、これには何か意味があるのだろう。これ等の模様は錦襴から模写したそうである。私はこれ等が最も目立たぬ点に興味を感じた。紙を余程丁寧に調べないと判らぬ位である。往来を越して見た家の襖は、竹の子の外皮を混じた紙ではってあった。これは松の木の内皮を細かく切った物のように見えたが、非常に濃い褐色で、実に効果的であった(図131)。又、紙をつくる時、繊維紙料に緑色の、糸みたいな海藻を入れることもあるが、これも見た目には非常に美しい。

[やぶちゃん注:「一フィート半」凡そ45センチメートル強。

「辷る衝立」“sliding screens”「すべるついたて」とは、言わずもがなであるが、襖のことである。

「私が写したのには五種類あった」図―130の4種と図―131の1種の謂いと採る。図―130から見る。

 この一番上の意匠が、後文で「菱形と形式的な花とで充たした不規則な区域があり、その外に燕と蝶と蛾とがあった。図130には Paulownia と呼ぶ水生植物の絵がある。これは徳川家の紋章に描出してある」と説明されているもので(但し、後述するようにこの表現には誤りが多い)、右下部に「菱形」があるが、これは小さな菱形複数集まって大きな菱形を形成しているように見える。これはかなり濃い色でネット上で見ると虎屋菱と呼ばれた古い唐紙模様に似ているように思われる(リンク先は京和紙・京唐紙を販売する株式会社山崎商店の「商品詳細見本」ページにあるもの)。「不規則な区域」とはこの点線の部分で恐らくは雲形であろう(中が抜けて桐の花と下部の菱形が覗く)。雲の抜けた中央の左上部呼び菱形左上部に一部が隠れた「形式的な花」「Paulownia と呼ぶ」「植物の絵」とモースが表現する五七の桐紋らしきものが描かれ、また、雲形の手前下部にはまさに空中を飛翔する「燕と蝶と蛾」らしきものが複数描かれている。さて原文ではこの「水生植物」の部分は“a water plant known as Paulownia”となっているが、この“a water plant”は水草の類を指す語でキリは湿地性植物でさえないから誤りである(「Paulownia」については別注する)。何故、彼がこういう誤り(学名まで出している以上、相当な自身を以って記載している、というより学術的なレベルで記す意志が強く見受けられるのに)をしたのか、私には不審である。識者の御教授を乞いたい。また、言わずもがなであるが、桐紋は足利幕府で小判などの貨幣に刻印されて以来、『皇室や足利幕府や豊臣政府など様々な政府が用いており、現在では日本国政府の紋章として用いられている』が、徳川の紋ではない。モースは桐紋の下部の葉の形象部分と葵紋のそれと誤認したものと思われる。

 上から二番目は典型的な双葉葵の唐紙模様である(山崎商店の商品見本の「双葉葵」の画像及びKiso Nagano 氏のブログ「quiet days」の「双葉葵の唐紙」にある名古屋池下の古川為三郎記念館に展示されていた二葉葵の紋の画像を参照)。

 三番目は「撫子、昼顔、葡萄、蔓草等を、雲形の輪郭にゴチャゴチャに入れたものや、小舎に入った兎もある」という唐紙である。よく見て戴くと4箇所の龕のような意匠の中に兎が入っているのが視認出来る。実はこの兎の意匠自体は「花兎」と呼ぶ名物裂(めいぶつぎれ:貿易品として鎌倉から江戸中期までに貿易で舶載された最高級の織物をいう。)の一つである(山崎商店の商品見本の花兎」)。非常に面白いのは、最上段の桐紋入りのものも、この花兎入りのものも、単一意匠でなく複数の、それもモースがやや揶揄して「ゴチャゴチャに入れた」と表現しているように、ちょっと過剰な組み合わせの唐紙である点である。

 最下段の「川の早瀬を薪を積んだ、而も舟頭のいない舟が流れている所を示している」ものは似たものを捜して見たが、のような意匠か?(足袋子氏のブログ「唐長・唐紙フリーク」内にある画像であるが、記事に行き当たれなかったので画像で示した)。

Paulownia」シソ目キリ科キリ Paulownia tomentosa。属名はシーボルトがロシア大公女でオランダ王ウィレム2世の王妃となったアンナ・パヴロヴナ(Anna Paulowna RomanowaАнна Павловна Романова 一七九五年~一八六五年)に献名したものである。

「錦襴」原文“brocade”。「錦襴」は「きんらん」と読ませようとしているようだが、一般的表記ではない。「ブロケード」とは色糸や金糸・銀糸を多彩に使った絹の紋織物。本邦の金襴緞子(きんらんどんす:綾地または繻子地(しゅすじ)に金糸で文様を織り出した織物。)に相当する。

「紙をつくる時、繊維紙料に緑色の、糸みたいな海藻を入れることもある」ウィキの「唐紙」の「江戸から紙」の中の「楽水紙」と呼ばれる唐紙の解説に、『海藻を漉き込んで独特の紋様をつけた、襖障子一枚の大きさのいわゆる三六判の紙を楽水紙という。泰平紙を創製したのは、玉川堂田村家二代目の文平であったが、楽水紙もやはり田村家の創製であった。玉川堂五代目田村綱造の『楽水紙製造起源及び沿革』によると、「和製唐紙の原料及び労力の多きに比し、支邦製唐紙の安価なると、西洋紙の使途ますます多きに圧され、この製唐紙業の永く継続し得べからざるより、ここに明治初年大いに意匠工夫を凝らしし結果、この楽水紙といふ紙を製することを案出し、今は玉川も名のみにて、鳥が鳴く東の京の北の端なる水鳥の巣鴨の村に一つの製紙場を構え、日々この紙を漉くことをもて専業とするに至れり。もっとも此の紙は全く余が考案せしものにはあらず、その源は先代(田村佐吉)に萌し、余がこれを大成せしものなれば、先代号を楽水といへるより、これをそのまま取りて楽水紙と名ずける。」とある』。『玉川堂五代目田村綱造が漉いた楽水紙は、縦六尺二寸、横三尺二寸の大判であった。漉桁の枠に紐をつけ滑車で操作しやすくし、簀には紗を敷き、粘剤のノリウツギを混和して、流し込みから留め漉き風の流し漉きに改良している。さらに染色し、紋様を木版摺りすることも加え、ふすま紙として高い評価を得て需要が急増した。三椏を主原料とした楽水紙にたいして、大阪では再生紙を原料とする大衆向けの楽水紙が漉かれるようになり、新楽水紙と称された。やがて、新楽水紙が東京の本楽水紙を圧迫する情勢となった。やがて東京でも大正二年には十軒を数える業者が生まれている』。『大正12年(1923年)の関東大震災で、復興需要の急増と、木版摺りの版木が焼失したのに伴い、新楽水紙が主流となった。昭和12年(1937年)には、東京楽水紙工業組合が組織され、昭和15年(1940年)には組合員35名、年産450万枚に達していた。太平洋戦争後には、越前鳥の子や輪転機による多色刷りのふすま紙に押されて衰滅した』とある。モースが見たのはまさにこの幻の楽水紙であったに違いない。

 なお、本書と並んでモースの今一つの代表的著作に“Japanese Homes and Their Surroundings”(1885年)があるが、そこでも無論、襖について項を立てて詳述している。特にその意匠の部分について私の所持する斎藤正二・藤本周一訳(八坂書房二〇〇二年刊。邦題は「日本人の住まい」)から当該部を本記載と比較するために引用させて戴く。これは文化庁の許容する「引用」の範囲内と私は理解する。一部に私の注を挿入した。

   《引用開始》

 部屋と部屋とのあいだの可動式間仕切といってもよい襖 fusuma は、その両面に厚手の紙を張ってある。昔は、この紙に中国の紙を用いるのが慣習であったので、この襖は唐紙 kara-kami ――つまり「中国の紙」と呼ばれている。この襖の枠組みは、細い桟を横四ないし五インチ、縦二インチの格子に組んだもので、障子の枠組みによく似ている[やぶちゃん注:「横四ないし五インチ、縦二インチの格子」横約10~12・7センチメートル、縦約5センチメートルの格子。ここは襖の内部の構造を述べている。]。日本の木製品のほとんどがそうであるが、襖の場合も、その外枠は、多くの場合、木地のままである。ただし、この外枠が塗り仕上げのものも珍しくない。この枠組みに張る紙は、丈夫で、厚手の、耐久性を有するものである。また、見事な装飾画を施してある場合が多い。ときには、部屋の横一面全体に、パノラマ風の連続した絵が描かれていることがある。古い城などには、高名な画家の筆になる有名な襖絵がある。絵画に加えて金箔をふんだんに使用すれば、その装飾的効果は豪華でたとえようもない。一般家屋では、襖は、それに絵を描くのではなく、張ってある紙そのもので装飾の工夫をしていることが多い。このような装飾に用いる素材は、じつにさまざまである。――ある種の紙は奇妙な皺模様になっており、なかには、紙の生地に、緑色の繊細な糸状の海草を漉き込んだようなものもある。さらに、筍(たけのこの)濃い褐色の皮を紙に浮き出させたものもある。これなどは見る人に一風変わった楽しさを感じさせるであろう。襖紙はまったく無地であることも多い。たまたま、友人の画家が訪ねてくれたおりなどに、それを記念して襖面に揮毫(きごう)を頼むのである。また、襖の表面の一部に風景や花をつけた枝を描いたものもある。古い旅籠(はたご)では、以上のような仕方で、おそらく自分の宿泊代を支払ったと思われる高名な画家の作品に出会うことがよくある。[やぶちゃん注:以下は襖の唐紙ではなく、襖の構造のヴァリエーションの記載が主となるので略す。本書同様、図が素晴らしい。一読をお薦めする。]

   《引用終了》

 私は和紙には冥い。特に最後の「竹の子の外皮を混じた紙ではってあった。これは松の木の内皮を細かく切った物のように見えたが、非常に濃い褐色で、実に効果的であった」とする図―131は何となくは分かるのであるが、ぴったりしたものを探し当てることが出来なかった。その他にも、このモースの絵やその意匠に私がリンクした以外に、もっとぴったりくるものをご存知の方がおられたなら、是非、画像とともに御教授戴ければ幸いである。宜しくお願い申し上げる次第である。]

死にもせぬ旅寢の果よ秋の暮 / 枯枝に鴉の止りけり秋の暮 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

   死にもせぬ旅寢の果よ秋の暮

   枯枝に鴉の止りけり秋の暮

 曠野の果に行きくれても、芭蕉はその「寂しおり」の杖を離さなかつた。枯枝に止つた一羽の烏は、彼の心の影像であり、ふと止り木に足を留めた、漂泊者の黑い凍りついたイメーヂだつた。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」より。]

黒豹二首 中島敦

[やぶちゃん注:「河馬」歌群より。]

    黑豹
ぬばたまの黑豹の毛もつやつやと春陽(はるび)しみみに照りてゐにけり
[やぶちゃん注:「つやつや」の後半は底本では踊り字「〱」。「しみみに」は副詞「茂に」で茂り満ちて、いっぱいに、の意。]
思ひかね徘徊(たもとほ)るらむぬば玉の黑豹いまだ獨り身(み)ならし
[やぶちゃん注:「徘徊(たもとほ)る」は、現代読みでは「たもとおる」で、「た」(語調整調や強意の接頭語)+ラ行四段活用・自動詞「もとほる」(「回る」「廻る」と表記し、巡る・回る・徘徊するの意)で、同じ場所を行ったり来たりして徘徊する、の意。「万葉集」以来の古語。なお、今更ながらという感じの注であるが、不明な人のために記しておくと、中島敦はこの五年前の昭和七(一九三二)年三月に、たかと結婚している。当時はまだ東京帝国大学国文科三年で満二十二歳であった。翌八年三月に卒業(卒業論文「耽美派の研究」)、四月に同大学院入学(翌九年三月で中退)と同時に横浜高等女学校教諭となっている。翌八(一九三二)年四月には長男桓(たけし)が、この昭和一二(一九三七)年一月には長女正子が生まれている(但し、正子は出生から三日後に亡くなった)。]

夏の夜の薔薇 大手拓次

 夏の夜の薔薇

手に笑(わらひ)とささやきとの吹雪する夏の夜(よる)、
黑髮のみだれ心地(ここち)の眼がよろよろとして、
うつさうとしげる森の身(み)ごもりのやうにたふれる。
あたらしいされかうべのうへに、
ほそぼそとむらがりかかるむらさきのばらの花びら、
夏の夜の銀色(ぎんいろ)の淫縱(いんじゆう)をつらぬいて、
よろめきながれる薔薇の怪物。
みたまへ、
雪のやうにしろい腕(うで)こそは女王のばら、
まるく息づく胴(トルス)は黑い大輪のばら、
ふつくりとして指のたにまに媚をかくす足は鬱金(うこん)のばら、
ゆきずりに祕密をふきだすやはらかい肩(かた)は眞赤(まつか)なばら、
帶のしたにむつくりともりあがる腹はあをい臨終のばら、
こつそりとひそかに匂(にほ)ふすべすべしたつぼみのばら、
ひびきをうちだすただれた老女のばら、
舌と舌とをつなぎあはせる絹(きぬ)のばらの花。
あたらしいふらふらするされかうべのうへに
むらむらとおそひかかるねずみいろの病氣のばら、
香料の吐息をもらすばらの肉體よ、
芳香の淵にざわざわとおよぐばらの肉體よ、
いそげよ、いそげよ、
沈默(ちんもく)にいきづまる歡樂の祈禱にいそげよ。

[やぶちゃん注:「淫縱(いんじゆう)」の「ん」の部分は、底本では植字ミスで空白。訂した。
「胴(トルス)」フランス語“torse”(但し、この語自体がイタリア語“tourso”語源)の音写。]

鬼城句集 夏之部 暑氣あたり

暑氣あたり うち臥して侘めかしけり暑氣あたり

2013/07/04

スタバート・マーテル ペルゴレージ

Pergolesi-Stabat Mater №12 Киевский детский хор РАДОСТЬ

やぶちゃん注:僕はどうもニフティのシステムが面倒で気に入らない。画像も動画もはめ込むのがすこぶる面倒であるからである。それに対してフェイスブックはとてもいい。僕の美術や音楽的嗜好はそちらを是非ご覧頂きたい。

Beethoven - "Pathétique": 2. Adagio cantabile Wilhelm Backhaus

私の最愛の君へ――

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 3 ……たかが雑誌……されど雑誌……なかなか手強いぞ!……

格闘すること半日にしてやっと「江の島」の総説部の電子化と注釈を完了した。
この雑誌……いや! これ、なかなか侮れない! 内容も表現も、頗る高度高尚にして……何より注が如何にもタイヘンなのだ!――なればこそ意欲も湧出致します!――



    ●江の島

江島は。相模国鎌倉郡川口村の海中。即ち相模灘の南端に在る一島にして。周廻二十町三十八間。面積十八町百八十三歩。最近陸地たる片瀨村洲鼻に至る十町。鎌倉雪之下に至る二里とす。

其の形狀たる數十丈の翠巖海上に突立(とつりつ)し綠樹其の巓を蔽ひ、碧潮(へきてう)其の地を洗へり。東は近くして七里濱(しちりがはま)。遠くして房總を望み。南に伊豆の大島。西に箱根の諸山を見。遠く富士山に相對せり。北は近く大山丹澤山等連なりて。風景絶佳と稱す澤元愷の靈龜負蓬莱而浮耶。望之維石瑰暐。琪樹錯綜。樓臺雜比。恍然爲不可至也と。漫游文草に記せしは宜なり。此島一名を金龜いふ。僧大休の游江島詩に。策杖徐行蹈鼈といひ堯惠の手向(たむけ)の歌に。龜の上なる山櫻と詠せしは此が爲めなり。江島の稱舊くは柄(え)、荏(え)、榎(え)或は繪(ゑ) 畫(え)等の文字を用ゐしが。近世に至りて今の文字に定めぬ。然れども詩人は專ら繪畫の字を適用せり。

島の起立(きりつ)幷に沿革は。新編相模国風土記に載(のせ)たれは左に抄出す。島の起立は正史に所見なし。江島譜には。開化帝の六年四月。一宵に海底より涌出せしと云ふ。緣起には。曩昔深澤長江なりし頃惡龍住みて人を殘害せしが。欽明帝の十三年四月十二日より二十三日に至る迄大地震動して。海上に孤島を湧出し。天女降居して遂に彼の惡龍を降伏(かうふく)せしと云へり。固より浮屠氏の妄説なれど。久しく傳聞して人口にも舊く膾炙せり。又湧出の説は伊豆の神津、大隅櫻島の類に據れば深く疑ふべきにもあらす。かくて人跡始めて島中に入りしは。文武帝の四年役小角が至りしを魁(さきがけ)とし。壽永元年賴朝初めて辨財天を窟中に勸請せしより。衆人群集するに至れり。光行か海道記に。固瀨川を渡りて江尻の海汀を過ぐれば江の中に一峰の小山ありと記せるは。即ち此地(このち)なり。曆應元年九月義良親王及び春日中將顯信等奥州に下向せんと。勢洲大湊(おほみなと)より纜(ともづな)を解き。海上にて難風(なんふう)に遭(あひ)衆船多く漂沒せし時。關八郎左衛門尉の軍船。此島に漂泊し。誅せらる。寶德二年四月。上杉右京亮憲忠の老臣大田備中守淸長尾左衛門尉景仲等相(あい)儀して鎌府を襲ふ。管領成氏窃に是を知り。夜中此島に逃る。永祿四年三月。北條善九郎康成より。此島公界所たる間不虞の計策をなし。敵の要害に備ふべき由。坊中に令し。且制札を出(いだ)せり。同六年蜷川帶刀左衛門か出せし制札に據れば。此頃當所に關門(くわんもん)を置き。其の征錢(せいせん)を收しと見ゆ。天正七年北條陸奥守氏照五箇條の掟書(じやうしよ)を出す。此頃にや同人又三箇条の制札を出せり。同十八年小田原陣(おだはらぢん)の時。玉繩の城主の北條左衛門大夫氏勝此島に敵取かゝらば早く中進すへき旨を令す。慶長五年六月東照宮景勝御退治として關東へ御下向の序。藤澤より當所へ渡らせられ。島中を御遊覧あり。明治中興の後は納涼の好適地として。毎年夏季には遊客(ゆうかく)群集す。近年砲台を設け。遊客を拒絶するとの風説を傳へしが。今日に至りては絶(たえ)て之を口にする者なし。依然として山水恙なく帽影釵光舊に仍て島上(とうじやう)に旁たり。

 

[やぶちゃん注:「周廻二十町三十八間。面積十八町百八十三歩。最近陸地たる片瀨村洲鼻に至る十町」換算を示すが、これは関東大震災前のデータである点に注意。

周囲 約2・25キロメートル

面積 約0・18平方キロメートル

洲鼻から江の島までの距離 約1キロ

となる。現行の諸データでは、江の島は

周囲 約4キロメートル

と記されてあるが、現在の弁天橋の島側端から江の島の西周囲を滑らかに辿り、東側に突出したヨットハーバー部分を除いた東側海食台に沿って計測してみると、人工物を配した現在の江の島は、

周囲 約2キロ強

である。東側は海食台直下で断ち切られていたのではなく、砂地で多くの漁師の村落が存在していたから、ここを東に少し張り出して計測すれば、恐らく2・5~3キロとなり、震災による隆起後の状況とも一致してくる。次に現在の江の島は、

面積 0・38平方キロメートル

とある。因みに現在の洲鼻広場から現在の砂嘴中央を通って江の島の弁天橋先の鳥居位置までの距離を試みに測ってみると、

洲鼻広場から江の島の弁天橋先の鳥居までの距離 870メートル

となる。後の隆起を考えればよく一致すると言えよう。

「澤元愷」「たくげんがい」と読み、儒者平沢旭山(享保一八(一七三三)年~寛政三(一七九一)年)のこと。昌平黌の林家に入門、入退塾を繰り返した後に片山北海に学ぶ。一時、蝦夷松前藩主松前道広に仕官し、荷田在満に律令を学んだ。仏教にも通じていたとされる。生涯に文章三千編を書いたといわれ、文章家としても知られている。「漫遊文草」は彼の代表作(以上は「e-短冊.com」のここに拠った)。

「靈龜負蓬莱而浮耶。望之維石瑰暐。琪樹錯綜。樓臺雜比。恍然爲不可至也」以下に我流で書き下す。

 靈龜、蓬莱を負ひて浮くか。之を望むに、維石(いせき)瑰暐(くわいい)として、琪樹(きじゆ)錯綜、樓臺は雜比(ざつぴ)たり。恍然(くわうぜん)として至るべからざらんと爲(する)なり。

「維石、瑰暐」「瑰暐」は「瑰偉」で、元来は心が広く大きく物事にこだわったり屈したりしないことを指すが、ここは連なる岩石の魁偉なることを言うか。「琪樹」元来は中国の西方にある西王母が住む仙山崑崙山の北に生える玉の成る木。蓬莱に掛けて樹木を美称したもの。「樓臺は雜比たり」建物はそれらに入り混じって区別がつかないという謂いか。仙山の景を擬えたものであろう。「恍然」心を奪われてうっとりするさま。

「僧大休」仏源禅師大休正念(嘉定八(一二一五)年~正応二(一二九〇)年)。初め東谷明光に師事し、その後径山の石渓心月に参禅してその法を継いだ。文永六(一二六九)年、幕府執権北条時宗の招聘により来日、後、先師蘭渓を継いで建長寺住職となった。

「游江島詩」返り点に従えば「江の島に游ぶの詩」。正しくは「蘭渓和尚同遊江島帰賦以呈」である。本詩は題から見て、蘭渓の生前の一二六九年から一二七八年の間の早春の作詩と思われる。全文は以下(私の電子テクスト「新編鎌倉志巻之六」の「江島」より)。全文訓読も示し、同テクストの私の注も附しておく。

   *

    蘭溪和尚同遊江島歸賦以呈

               宋 大 休〔仏源禪師〕

 江島追遊列俊髦。  馬蹄獵々擁春袍。

 穿雲分座烹香茗。  策杖徐行蹈巨鼇。

 洞口千尋石壁聳。  龍門三級浪花高。

 須知海角天涯外。  萍水迎懽能幾遭。

 

以下、「新編鎌倉志巻之六」の影印の訓点に従って訓読したものを示す。

    蘭溪和尚と同じく江の島に遊びて歸り賦して以て呈す

               宋の大休〔仏源禪師〕

 江の島追遊して 俊髦 列なる

 馬蹄 獵々として 春袍を擁す

 雲を穿ち 座を分ちて 香茗を烹ニ

 杖を策き 徐ろに行きて 巨鼇を蹈む

 洞口千尋 石壁 聳へ

 龍門 三級 浪花高し

 須らく知るべし 海角天涯の外

 萍水 迎懽 能く幾遭ぞ

 

「蘭溪和尚」は蘭溪道隆(建保元(一二一三)年~弘安元(一二七八)年)。

「同じく」は共に、一緒にの謂いであろう。

「獵々」は風の吹く音。

「袍」は綿入れ。

「俊髦」は「しゆんばう(しゅんぼう)」と読み、「髦」は髪の中の太く長い毛の意。衆に抜きん出て優れた人物。俊英。

「香茗」は「かうみやう(こうみょう)」と読み、香りの高い茶か。「巨鼇」は「きよがう(きょごう)」で大海亀。

「三級」は急崖が三段になっていることを言う。

「海角」とは陸が海に細く突き出した先端の岬を言う。

「萍水」は「へいすい」と読み、ここでは海藻と水を指すが、渡宋僧としての蘭渓道隆と大休正念との出逢いの歓喜をも含意するか。とすれば、これは仏源禪師の訪日からさほど遠くない頃、例えば文永七(一二七〇)年春のことではあるまいか。

「迎懽」は「げいくわん(げいかん)」と読み、喜び迎えるの意。

「幾遭」の「遭」は度数を数える助数詞。

   *

「堯惠の手向の歌に。龜の上なる山櫻と詠せしは此が爲めなり」「堯惠」(大永七(一五二七)年~天正二(一六〇九)年)は戦国は江戸初期の真宗僧。権大納言飛鳥井雅綱三男で室町幕府将軍足利義晴猶子であったが出家、現在の三重県津にある専修せんじゅ寺第十二世として真宗高田派を興隆させた。大僧正。彼は文明十八(一四八六)年五月末に身を寄せていた美濃郡上の東頼数のもとを出て、越中から北陸道を北上、越後から信濃・上野を経て、同年十二月中旬に三国峠を越えて武蔵に入り、翌年二月に鎌倉・三崎等に遊ぶなどして美濃へと戻る旅をしている。この一年半余の紀行「北国紀行」は鎌倉の紀行文として頗る知られたもので、この和歌、

 散らさじと江の島もりやかざすらん龜の上なる山櫻かな

も、それに所収のする一首である。

「江島譜」書誌不詳。識者の御教授を乞う。

「開化帝の六年」紀元前一五二年とする。

「江嶋緣起」十一世紀に延暦寺皇慶(貞元二(九七七)年~永承四(一〇四九)年)が書いたと伝えられる。

「欽明帝の十三年」五五二年。百済から仏像と経文が伝来したとされる年である。

「神津」神津島。伝承によれば、ここは事代主命が伊豆の島々を作る際に神々を集めて相談した島とされ(古くは神集島と書いたとされる)、同島にある天上山では出来上がった伊豆七島の神々が集まって水の分配の会議が行われたという「水配り伝説」もあるという(「神津島村役場オフィシャルサイト」の「神津島について(概要)」によるが、そこでは湧き出すのではなく、神によって「焼き出された」とある。但し、この部分での「湧出」とは、次の桜島と合わせて海底火山の噴火による湧出というすこぶる科学的な謂いかとも思われる。

「文武帝の四年」西暦七〇〇年であるが、現在の伝承ではもっと早く、白鳳元(六七二)年に小角(えんのおづの/おづぬ/おつの 舒明天皇六(六三四)年?~大宝元(七〇一)年?)伝)が開基したとする。なお、ウィキの「江の島」の「沿革」によれば、

天平二一・天平感宝元・天平勝宝元(七四九)年 正倉院に残る庸布墨書によれば、方瀬(片瀬)郷の郷戸主大伴首麻呂、調庸布一端を朝廷に貢進とあり、この地域の公的記録の初出とされる。

とあり、また、

弘仁五(八一四)年 伝承によれば弘法大師空海が金窟(現在の岩屋)に参拝し、国土守護万民救済を祈願、社殿(岩屋本宮)を創建して神仏習合の金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になった。

とする。更に、

仁寿三(八五三)年 伝承によれば慈覚大師円仁が龍窟(現在の岩屋)に籠もって、弁才天よりお告げを受け、上之宮(現在の中津宮)の社殿を創建した。

とある。

「海道記」作者未詳。貞応二(一二二三)年頃の成立。貞応二(一二二三)年四月四日に白河の侘士なる者が京都から鎌倉に下向、同月十七日に鎌倉着、善光寺参りの予定をやめて帰京するまでを描く。「東関紀行」「十六夜日記」と合わせて中世三大紀行文の一つ。

「曆應元年」延元三/暦応元年は西暦一三三八年。なお、この頃、江の島は室町幕府鎌倉府の保護下に入って御料所となった。

「義良親王」「のりよし」又は「のりなが」と読む。後の南朝第二代天皇である後村上天皇(嘉暦三(一三二八)年~正平二三(一三六八)年)。鎌倉幕府滅亡後、父後醍醐天皇が建武の新政を始めると、幼い義良は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かった。建武元(一三三四)年五月に多賀城において親王となるが、翌二(一三三五)年に足利尊氏が新政から離反すると、北畠親子とともに尊氏討伐のために京へ引き返した。建武三(一三三六)年三月に行在所比叡山に於いて元服と同時に三品陸奥太守に叙任、尊氏が京で敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いたが、翌延元二/建武四(一三三七)年に多賀城が襲撃されて危険となり、現在の福島県伊達市と相馬市との境に聳える霊山(りょうぜん)難を逃れる。同年八月に再度上洛を始めて十二月には鎌倉を攻略、延元三/暦応元(一三三八)年に入ると、更に西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破って、伊勢・伊賀方面に転進した後、父後醍醐天皇のいる大和の吉野行宮に入った。父天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自らの皇子を派遣する中、同年九月には義良親王も宗良親王とともに北畠親房・顕信(親房の次男で春日少将と称した)に奉じられて、伊勢国大湊から三たび奥州を目指したが、途中、暴風に遭って離散、親王の船は伊勢に漂着、翌延元四/暦応二(一三三九)年の三月に無事吉野へ帰還、間もなく皇太子となった。同年八月十五日に後醍醐天皇の譲位を受けて践祚している(以上はウィキの「後村上天皇」に拠る)。

「春日中將顯信」の「春日中將」は「春日少將」の誤り。「春日中將」は北畠親房・顕家の家臣の名将春日顕国の別称。

「寶德二年四月……」以下は宝徳二(一四五〇)年四月の「江の島合戦」の発端のシーン。関東管領上杉氏重臣長尾景仲が鎌倉公方足利成氏の政権転覆を計画、辛くも窮地を脱した成氏は鎌倉を脱出して江の島に逃れ、二者の間で攻防戦が展開した。

「北條善九郎康成」後北条氏の家臣の北条氏繁(天文五(一五三六)年~天正六(一五七八)年)の初名。北条綱成嫡男で玉縄城主、後に岩槻城城代や鎌倉代官なども務めた。

「公界所」「くがいじよ」と読む。「公界」当初は鎌倉期に禅寺で公共のものを指す語として用いられたが、南北朝以降は「内」や「私」に対して「世間」「公」の意味で広く一般に使われ、戦国期に入ると人による支配を禁じた場所、俗界から隔離された聖なる場所(アジール)を示す語として用いられた(平凡社「マイペディア」を参照したが、まさにそこにはこの江の島が例として引かれている)。

「同六年蜷川帶刀左衛門か出せし制札」永禄六年は西暦一五六三年。ウィキの「江の島」の「沿革」に同年、蜷川某が岩本院に制札を掲げて関所を設け、江の島を参詣する諸人から関役(せきやく:通行税。本文の「征錢」。)を取らせた、とあることを指す。因みに、同ウィキにはこれに先立つ記事として、

永正 元(一五〇四)年 北条早雲が、江の島に軍勢の乱妨狼藉を禁止する制札を出す。

永正一〇(一五一三)年 八臂弁才天坐像、仏師により彩色等を補修。

享禄 四(一五三一)年 江の島上之坊を岩本院が兼帯。

天文一二(一五四三)年 蜷川康親、江の島岩本坊へ神馬を寄進(ここに出る蜷川はその縁者であろう)。

天文一八(一五四九)年 北条氏康、上之宮及び下之宮の修造に際して白糸二〇斤を寄進。

天文二〇(一五五一)年 北条綱成、江の島岩屋内における鳩の殺生を禁止。

といった記事が載る。

「天正七年北條陸奥守氏照五箇條の掟書を出す」天正七年は西暦一五七九年。北条氏照(天文九(一五四〇)年~天正一八(一五九〇)年)は北条氏康の三男で武蔵国滝山城城主、後に八王子城城主。ウィキの「江の島」の「沿革」によれば、彼はこの年に江の島の岩本坊に不入(ふにゅう:部外者の無断立入禁止。)・留浦(とめうら:戦国時代、他所と隔絶するため、他所者が入ったり、そこに居住する者が他所へ移ることなどを禁止したこと。)など五箇条の特権を認める。

とあるのを指す。

「同十八年」一五九〇年。

「北條左衛門大夫氏勝」(永禄二(一五五九)年~慶長一六(一六一一)年)は北条氏繁の次男。下総国岩富藩初代藩主。豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆国山中城に籠もって戦ったが、豊臣軍の猛攻の前に落城、自害を図るも弟の直重・繁広の諫言に従って城を脱出し、本拠である相模国玉縄城へ戻って籠城した。その後、玉縄城は徳川家康に包囲されるが戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣松下三郎左衛門と、その一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得によって同年四月二十一日に降伏した。以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて、北条方諸城の無血開城の説得に尽力、その後は家康に家臣として仕えるようになり、下総岩富一万石の領主となった。その後領内の基盤整備を進める一方、関ヶ原の戦いなどでも功績を重ねて徳川秀忠の信頼も厚かった(以上はウィキの「北条氏勝」に拠った。因みに私が今これを綴っている書斎は、まさにその玉縄城外郭の西の高みの要衝地に当るのである)。

「慶長五年」西暦一六〇〇年。

「景勝退治」関ヶ原の前哨となった上杉景勝を討つための会津征伐。六月二十八日に藤沢、同二十九日に鎌倉を経ている。新暦では八月七日から八日。夏の暑い盛りであった。

「近年砲台を設け。遊客を拒絶するとの風説を傳へし」実は江の島にはこのずっと後年、太平洋戦争末期に洞窟砲台が作られていたことは知らなかった。「東京湾要塞」のこちらのページでその跡を見ることが出来る。
「帽影釵光舊に仍て島上に旁午たり」「とうじやう」はママ。「釵」の部分は印刷のカスレで活字の中央部が白いために「劒」の字にも見える。そうして「劒」であるなら、「剣光帽影」(けんくわうぼうえい)という四字熟語、剣の光に帽子の影で、軍隊の整列したさまをいう語が思い浮かび、これは一見、直前の砲台建設という風聞と関わってきそうに見えるのだが、それでは実は続く「舊に仍て島上に旁午たり」と続かないのである。ここはやはり「ばうえいさくわうきうによりてたうじやうにばうごたり(ぼうえいさこうきゅうによりてとうじょうにぼうごたり)」は無数の観光客を、男性の帽子の影と女性の釵(かんざし)の輝きで換喩し、それが「旁午」する――縦横十文字に交わるように行きかうこと、往来の激しいさま――という、江の島の当時の繁昌を表現しているのであろう。……それにしてもこの雑誌、なかなか侮れない。途轍もなく内容も表現も高尚なんである――。]

何にこの師走の町へ行く鶉 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈) (「町」は「市」の萩原朔太郎自身の誤認識による)

 何にこの師走の町へ行く鴉

 年暮れて冬寒く、群鴉何の行く所ぞ。この句をよむ毎に、自分はニチエの有名な抒情詩を思ひ出す。

 鴉等は泣き叫び
 翼を切りて町へ飛び行く。
 やがては雪も降り來らむ
 今なほ家郷あるものは幸ひなるかな。

ニイチエと同じやうに、魂の家郷を持たなかつた芭蕉。永遠の漂泊者であつた芭蕉の悲しみは、實にこの俳句によく表されてる。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」より。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」の掉尾に配された鑑賞文では、以下のように評釈が全く異なっている(底本校訂本文ではなく校異によって復元してある)。

 何にこの師走の町へ行く鴉

 年暮れて冬寒く、群鴉何の行く所ぞ! 魂の家郷を持たない芭蕉。永遠の漂泊者である芭蕉が、雪近い冬の空を、鳴き叫んで飛び交いながら、町を指して羽はばたき行く鴉を見て、心に思つたことは、一つの「絶叫」に似た悲哀であつたらう。芭蕉と同じく、魂の家郷を持たなかつた永遠の漂泊者。悲しい獨逸の詩人ニイチエは歌つてゐる。

     鴉等は鳴き叫び
     翼を切りて町へ飛び行く。
     やがては雪も降り來らむ――
     今尚、家郷あるものは幸ひなる哉。

 東も西も、畢竟詩人の嘆くところは一つであり、抒情詩の盡きるテーマは同じである。

「羽はばたき」「漂泊者。」はママ。
 但し、この句は「花摘」に、

 何に此(この)師走(しはす)の市(いち)にゆくからす

で初出し、朔太郎の引用に最も近い「生駒堂」所収のものでも、

 何に此師走の市へ行(ゆく)鴉

で総て「市」であって「町」ではない。萩原朔太郎の誤った思い込みである。]

狸 三首 中島敦

    狸
春晝(しゆんちう)の靜けきままに暫(しまら)くは狸の面(つら)の泣きを嘉(よみ)す
藁(わら)の上(へ)に驚き顏の狸はもショペンハウエルに似たりけらずや
瞞すなど誰(たれ)がいひけむ隔されて身を嘆きなむ狸の面(つら)ぞ

[やぶちゃん注:「河馬」歌群の一。]

きものをきた月 大手拓次

 きものをきた月

月はちひさなきものをきて、わたしのまへにあらはれた。
それは、カナリヤをくはへたくろい蛇がするするととほるやうに、
微妙な疾風のおももちをながして、
たちさわぐ風景のなかに生(い)きものをうみおとした。
月はひかりの小模樣(こもやう)のあるまだらのきものをきて、
わたしのまへにあらはれた。

鬼城句集 夏之部 生節

生節    ありがたき一向宗や生節
[やぶちゃん注:「生節」は生利節(なまりぶし)でここでもそう読んでいよう。生の鰹を解体して蒸すか茹でるかした加工品。]

2013/07/03

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 2 桟橋

    ●棧橋

片瀨村の砂路(さろ)を經て洲鼻に下れは海波藍碧の上一道の棧橋を架し。蜒蜿(えんえん)として島口に達するを見る。島に遊ふものは。皆此の棧橋に由らざるはなし。六七年以前に設くる所にして。去年は尚ほ洲鼻に達せさりしが。本年は數百間(けん)の長を加へて。益々遊客の便利を謀れり、島口小屋あり。こゝにて橋錢(ばしせん)を徴し。切符を渡す掲示あり左の如し。

 一金一錢五厘

   本村片瀨より江の島へ達する海綿橋梁使用量片道一人分

 右町村制第百廿六條に依り。内務大藏兩大臣の許可を得て徴收す。

   明治廿九年      神奈川縣鎌倉郡川口村役場

歐文も記しあれど略す。

昔は退潮の時は。徒行して到りしこと。名所方角抄に見え滿潮の時には船を用ゐしこと。東國紀行に記せり。又脊負(せおひ)て渉りしことは諸儒の紀行文に散見す。故に此間を里俗に負越場(おひこしば)と呼へり。安藤東野の游湘紀事に云。退潮則可厲掲而渉。而土人倮而負遊人。余三人佇立縱觀。其人肚悉濡。故就其深以網利也。太宰春臺湘中紀行亦之を記して云。潮來則舟之。潮去則可渉。厲掲隨宜。又有駄壯夫肩以渉者。以故壯夫之求見雇者。赤體群聚渡口。務欺客以不易。以貪直。其言擾々聒耳〔中略〕既濟矣。壯夫亦慶以無恙。別求賞。當時渉夫に弊風ありしことも此の文にてよく知られたり。

鎌倉執政の時代は。必らす船にて渡りしと見え。建保四年正月潮退(しほひき)て始て陸地に續きけれは希代(きたい)の神威なりとて。參詣の僧俗群參せしよし東鑑に記せり。

[やぶちゃん字注:以下「吾妻鏡」引用は、底本では全体が一字下げ。]

正月小十五日。相摸國江島明神有託宣。大海忽變道路。仍參詣之人無舟船之煩。始自鎌倉。國中緇素上下成群。誠以末代希有神變也。三浦左衛門尉義村爲御使。向其靈地令參。嚴重之由申之。

此文以て證明すべし。

[やぶちゃん注:「大橋左狂「現在の鎌倉」 19 江の島」の注で示した通り、江の島に初めて桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年(但し、砂州の途中から)、本誌発刊の前年の明治三〇(一八九七)年に村営棧橋が完成している。従って本記載に関してはアップ・トゥ・デイトな記載であることが分かる(実は底本復刻版の澤壽郎氏の解説によれば、前年刊の「鎌倉江島名所圖會」の鎌倉地区の「区分」等は古いもので発行当時の現況には合わないといった記載が当代と齟齬している部分も認められるのである)。

「謀れり、」の読点はママ。

「名所方角抄」は「などころほうがくしょう」と読み、飯尾宗祇が書いたと伝えられる各地の歌枕を記載したもの。

「東國紀行」戦国時代の連歌師宗牧(そうぼく ?~天文一四(一五四五)年)の作。

「安藤東野」(あんどうとうや 天和三(一六八三)年~享保四(一七一九)年)は儒者。荻生徂徠の初期の弟子。詩文に優れた。

「遊湘紀事」安藤が享保二(一七一七) 年に書いた紀行。

「退潮則可厲掲而渉。而土人倮而負遊人。余三人佇立縱觀。其人肚悉濡。故就其深以網利也。」以下に我流で書き下す。

 退潮し、則ち厲掲(れいけい)して渉るに可なり。而るに土人、倮(はだか)にして遊人を負ふ。余三人、佇立(ちよりつ)して縱(ほしいまま)に觀る。其の人、肚(はら)、悉く濡れたり。故に其の深きに就きて以つて利を網(あみ)するなり。

「厲掲」は水域を徒歩渉(かちわた)りすること。徒渉。「厲」は衣を腰の上まで掲げて深い水を渉ることを指す。最後の部分、よく分からないが、大井川の渡人足よろしく、深みをわざと選んで、不当な利銭を取るのだということを言っているか。識者の御教授を乞う。

「太宰春臺湘中紀行」徂徠門下の太宰春台(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)がまさに先に記された安藤東野・山井昆侖と三人で金沢八景・鎌倉・江の島を遊覧した際の紀行。享保二(一七一七)年の秋のことであり、安藤の記載に「余三人」とあること、本文がわざわざ「亦之を記して云」と述べていることからも、全く同じシチェーションでの情景である。

「潮來則舟之。潮去則可渉。厲掲隨宜。又有駄壯夫肩以渉者。以故壯夫之求見雇者。赤體群聚渡口。務欺客以不易。以貪直。其言擾々聒耳〔中略〕既濟矣。壯夫亦慶以無恙。別求賞。」以下に我流で書き下す。

 潮、來たらば則ち、之に舟し、潮、去らば則ち渉るに可なり。厲掲して宜しきに隨ふ。又、壯夫の、肩に駄(の)せて、以つて渉す者有り。以故(ゆへをもつ)て壯夫の雇はれんを求むる者、赤き體、渡口に群聚(ぐんじゆ)す。務めて客を欺き、易からざるを以つてし、以て直(あたひ)を貪る。其の言、擾々耳に聒(かまびす)し。〔中略〕既に濟みたり。壯夫、亦、慶び恙なきを無きを以つて、別に賞を求む。

春台の記録から推すに、実は彼らは結局、この人足の慫慂に負けて背負ってもらって渡渉したらしい。その結果として案の定、御無事に渡御なされましたと、不当な御祝儀を要求されたというのであろう。私はこの二つの江の島での同一場面の二様の記録というのが、すこぶる附きで貴重な気がする。それを失礼ながら、一介のムックに載せた編集者の眼力も鋭いものがあるように思われるのである。

「正月小十五日……」この建保四(一二一六)年一月の「吾妻鏡」の引用は少し杜撰であるので、以下に正確なものを引用する(国史大系本に私の正字補正を加えてある)。

十五日己巳。晴。相摸國江嶋明神有託宣。大海忽變道路。仍參詣之人無舟船之煩。始自鎌倉。國中緇素上下成群。誠以末代希有神變也。三浦左衞門尉義村爲御使。向其靈地令歸參。嚴重之由申之。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日己巳(つちのとみ)。晴る。相摸國江嶋(えのしま)明神託宣有り。大海忽ちに道路に變ず。仍りて參詣の人、舟船(しふせん)の煩ひ無し。鎌倉自より始め、國中の緇素(しそ)上下、群れを成す。誠に以つて末代までの希有(けう)の神變(じんぺん)なり。三浦左衞門尉義村、御使と爲し、其の靈地へ向い歸參せしめ、嚴重の由、之を申す。

「嚴重」ここではその干上がったことが霊験であり、神託もそのことを示すものだったのであり、陸繋島となっておりましたのは如何にも霊験あらたかな驚くべき事実でありました、と義村は報告したのであろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 11



M126


図―126

 

 道を行く農夫達は、よく四角い莚を肩にかけて背中にまとっている。これは日除けにも雨除けにもなる。竹や材木を山程頼んだ駄馬にもちょいちょい溺出会うが、必ず繩で引かれて来る(図126)。駄馬や牛が沢山往来を歩いて行くにも拘らず、糞が落ちていないのに驚く。これは道路の清潔というよりも、肥料にする目的で、それを掃き集めることを仕事にしている、ある階級の人々が――ある階級とまでは行かないにしても、皆老人ではある――いるかららしい。図127に示すものは、このような農夫の一人が、道路清掃と背中にしょった赤坊の世話との、二重義務を遂行している所である。

M127

 

図―127

 




M128

図―128

 

 稲がのびると共に、稲の上に大きな麦藁帽子と胴体だけを出した農夫達が、一層変な格好に見える(図128)。だが、人間が身体を殆ど二つに折り曲げて、終日焦げつくような太陽の下で働いているとは! 男も女もこの仕事をする。

M129


図―129

 

 家の前の道路に水をまくのには、図129のような長い木造のポンプを使用する。長さは三フィート半で、かなりな水流を発射する。これは防火にも使う。

[やぶちゃん注:「長い木造のポンプ」所謂、江戸時代からあった竜吐水(りゅうどすい)の単筒型の簡易なものである。

「三フィート半」は凡そ1メートル強。]

 

 ある村を通り過ぎていた時、私は新しく生れた赤坊を抱いて、奇麗な着物を着た婦人の周囲に、同じく奇麗な着物を着た子供達が、嬉々として集っているのを見た。彼等は我国の洗礼名つけ式みたいな儀式のために、近くの神社か教会かへ行った帰りだということを、私は聞いた。女の子は三十三日日に、男の子は三十一日目にこの儀式に連れて行くそうである。私は人力車の上から彼等に向ってほほ笑み、そして手を振った。子供の中には応じた者もあり、人力車が道路の角を曲って了う迄それをつづけた。

[やぶちゃん注:これは乳児が無事生誕一ヶ月目を迎えたことを産土神(うぶすながみ)に感謝する初宮参(はつみやまい)りを活写している。一般には男の子は生後三十一日目か三十二日目に、女の子は三十二日目か三十三日に行われる(参照したウィキの「初宮参りによれば、京都では女の子が早くお嫁に行けるようにと、男の子よりも早い時期にお宮参りを済ませる風習があるとある)。]

 

 世界中、大抵の所で扇子や団扇は、顔をあおぐか、目に影をするかに使われるが、日本にはそれ等の変種が非常に多いばかりでなく、実にいろいろなことに使用される。油紙でつくった団扇は、水に入れて使うので、あおぐと空気が涼しくなる。火をおこす時には鞴(ふいご)の役をする。日本人はスープが熱いと扇でさます。舞い姫は優美な姿勢でいろいろに扇を使う。同時に扇は教育的でもあり、最もよい旅館や茶庭、或は地方の物産等の教示が一面に印刷され、反対面にはその地方の地図が印刷してあったりする。

[やぶちゃん注:冒頭で石川氏は「扇子や団扇」と訳しておられるが、実際には原文は“the fan”のみである。後文でも石川氏は「扇」「団扇」と訳し分けておられる。]

 

 我々が休んだある場所で、私は一人の男が、何でもないような扇を、一生懸命に研究しているのを見た。私にもそれを見せて呉れないかと頼むと、彼は私が興味を持ったことを非常によろこんだらしかった。その扇の一面には日本の地図があり、他の面には丸や、黒い丸や、半月のように半分黒い丸やを頭につけた、垂直線の区画が並んでいた。これは東京、尾張間の停止所の一覧表で、只の丸は飲食店、半黒の丸は休み場所、黒丸は旅人が「食い且つ眠り得る」場所を示している。道徳的の文句、詩、茶店の礼讃等もよく書いてある。封建時代には、大将達が、大きな扇を打ち振って、軍隊の運動を指揮した。これ等の扇には白地に赤い丸があったり、赤に黄金の丸があったり、黄金に赤い丸があったりした。日本の扇に関しては、大きな本が幾冊か出版されている。

 小さい子供にちょいちょい見受ける腹部(アブトミナル)の、そして厭忌(アボミナブル)すべき、膨脹は驚く程である。これは子供達に苦痛を与えるだろうと思われる。まったく彼等は、焼窯に入れるために腹に詰め物を押し込んだ鶏か何ぞ見たいに見える。これは事実上、胃壁を伸長させる米を、あまり無闇に食うから起るのである。

[やぶちゃん注:「小さい子供にちょいちょい見受ける腹部(アブトミナル)の、そして厭忌(アボミナブル)すべき、膨脹は驚く程である」カタカナはルビ。原文は“The abdominal, and I might say the abominable, protuberance often seen in little children and infants is astounding;”である。頭韻めいた洒落になっているのであるがしかし、この観察による解釈は若干おかしい気がする。モースが眼にとめた何人かのお腹の膨らんだ子らは、寧ろ、貧民の子であるように思われる。所謂、飢餓によって生じた腹水による腹部膨満ではあるまいか?]

お國自慢 中島敦

 お國自慢

 

生れは東京。その後處々を放浪。從つて、故郷といふ言葉の持つ(と人々のいふ)感じは一向わかりません。猛烈な愛郷心、強度的團結力。生活や言葉の上の強烈な郷土的色彩等をもつた方にお逢ひする度に、羨望と驚嘆との交じつた妙な感じに打たれます。

 

[やぶちゃん注:これは横浜高等女学校在勤中に同校校友会雑誌「學苑」の第九号(昭和一二(一九三六)年七月発行)の誌上で生徒側から求められた標題のアンケートに各教師が答えたものの内の中島敦の回答部分。当時、満二十八歳。]

眞黑な水の上の月 大手拓次

 眞黑な水の上の月

 

不安に滿ちた心を化粧する惡魔、

善と美との妖精、

孤獨の繩梯子(なははしご)をのぼつてゆく道心、

生きた毛皮のうへに魂の菓子をつくる世相、

わたしは空(そら)を舞ふミイラのやうに

茫漠とした木盃(もくはい)をうかべて、

奇蹟の榮光に身をかがませ、

うつむきながら、

手足(てあし)をもぎとられたひとつの流れのなかに、

まつくろなかげをおとしてしづむ眞夜中(まよなか)の月。

鬼城句集 夏之部 柘榴取木

柘榴取木  泥塗つて柘榴の花の取木かな

[やぶちゃん注:「柘榴取木」私は既成の歳時記が不満で嫌いであり、しかも作句に際しても季語も通常意識しない人間(始めた中学の頃は「層雲」の自由律俳句であったため)であるから、このように季題表記をするのだということを初めて知った。「取木」は「とりき」で、茎の途中から根を出させ、そこで切り取ることで新たな株を得る方法を言う(枝を切断してしまう挿し木とは異なる)。樹木の枝の先端からある程度、下の位置で樹皮を一回り切除し、その部分を乾燥しないようにミズゴケなどで巻いて不定根を発生させた上、根の直下で切除して植える(枝を土中に曲げて固定する方法(図)や詳細はウィキの「取り木」を参照されたい)。取り木は六月から七月の梅雨の時期が適期とされ(鉢上げ(切り離し)は九月)、適した樹木はモミジ・サクラ・オウバイ・エゾマツ・カリンや、このザクロなどとされる。枝ぶりのよい部分を採るのに盆栽ではしばしば行われる技法らしい。]

2013/07/02

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」始動 / 江の島の部 1

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部

[やぶちゃん注:以下に電子化するのは明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊第百七十一号「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(表紙標題では「江島」が「名所圖會」と同ポイントで、「江島」の下にポイント落ちで「鵠沼」「逗子」「金澤」の三箇所が右から左に横に並ぶ。見開き目次標題では右に「江島、鵠沼、」が、左に「逗子、金澤」が二行で並んでポイントが大きい「名所圖會」が下に続く。本文開始大見出しもこれに同じである。向後は私の趣味で上記の標記を以って本書の標題を示すこととする)。発行所は、『東京神田區通新石町三番地』の東陽堂、『發行兼印刷人』は吾妻健三郎(社名の「東」は彼の姓をとったものと思われる)。
 「風俗画報」は、明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌で、大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特にこの「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言えよう。そのシリーズの一つとして、この百七十一号発行の遡ること一年前の、明治三〇(一八九七)年八月二十五日に、臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)というものを刊行していた。ところがこれは「江島」と名打っておきながら殆んど鎌倉のみを扱っており、僅かに江の島の本文は二頁強、稚児が淵と旅館金亀楼の図に小さな江の島神社の附図があるだけであった(他に口絵の「七里ヶ濵より江の嶋を望むの圖」に江の島が遠景で描かれている)。そこでその不備を補うために出されたのが、この「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」であった。
 挿絵の原画はすべて石板で、作者はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷、山本昇雲(明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年:本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であるが、残念ながら著作権が未だ切れていない。私が生きていてしかも著作権法が変わらない限り、二〇一六年一月一日以降に挿絵の追加公開をしたいと考えている。
 底本は私の所持する昭和五一(一九七六)年村田書店刊の澤壽郎氏解説(以上の書誌でも参考にさせて戴いた)になる同二号のセット復刻版限定八〇〇部の内の記番615を用い、視認してタイプした。読みについては振れると私が判断したもの以外は省略した。濁点や句点の脱落箇所が甚だ多いがママとしたが、踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文漢詩の引用の部分は本文には訓点(底本では返り点が打たれている)を省略して白文で示し、後の注で我流の書き下しを示した。大項目及び小項目見出しのポイントの違いはブログ版では無視して総て同ポイントで示した。ポイント落ちの割注は〔 〕で本文と同ポイントで示した。傍点「●」はブログ版では太字で示した。各項の最後に注を附し、その後は一行空けとした。
 最近開始したモースの「日本その日その日」や私の個人的な思い入れの深い地という個人的趣味から、まず「江之島の部」本文パートから復刻させることとした。悪しからず。【ブログ始動:2013年7月2日】]

 

  〇江之島の部

   ●藤澤停車場

藤澤停車場は。東海道の駅次相模國高座(こうざ)郡藤澤大阪町の西南に在り江島(ゑのしま)に遊ぶ客は。此の所にて下車すべし。東京新橋より里數三十二里三十一鎖にして。三等の賃金三十二錢とす。二等は其の二倍一等は其の三倍なりと知るべし。これより人力車(賃金凡二十五錢)を僦(やと)ふて南行すれば、一路の軟砂(なんさ)車輪を埋めて聲なく松樹幽靜亦(また)愛すべし。片瀨村の洲の鼻に到れは。車を下さるべからず。行李は車夫の肩に託して共に江島に入るべし若し車を厭はゝ。停車場より歩すること數町。片瀨川に到り。渡舟に乘るをよしとす。此の間(あひだ)の路程僅かに三十二町三十九間なり。

[やぶちゃん注:「藤澤大阪町」明治二一(一八八八)年に藤沢宿大久保町と藤沢宿坂戸町が合併して出来た藤沢大坂町のことで「大阪」とは関係がない。

「三十二里三十一鎖」これは「里」とあるが「哩」(マイル)の誤りで、後の「鎖」はチェーン(“chain”)で、やはり英国の距離単位。1マイルの1/80で、「一鎖」は約20・1メートルに相当するから、32マイル31チェーンは52・1キロメートルになる。現在の営業距離では49・1キロメートルである。

「三十二町三十九間」約3・56キロメートル。現在の最短コースに近いと思われる江ノ電を藤澤から辿って、当時の洲の鼻辺りまでを地図上で計測してみると約三・六キロになる。]

 

    ●片瀨川

片瀨川は。片瀨村を貫流する小川にして南の方海に注けり。東鑑等には固瀬(かたせ)に作れり。古人の吟詠に入るもの多し。歌枕名寄に。鴨長明か羈旅の歌に

  浦近き砥上か原に駒とめて固瀨の川の潮干をぞ待

夫木集中務卿宗尊親王の詠に。

  歸り來て又見ん事も固瀨川濁れる水のすまぬ世なれは

此歌は、文永三年七月將軍の職を罷められ。歸京の時の詠なり。

又同書參議爲相か歌に。

  打渡(うちわた)す今や汐干の固瀨川思しよりも淺き水かな。

舟にて江島に行くには。此の川を下るなり。鵠沼村に到る渡津もあり。石上渡といふ。

治承四年十月。平家の方人大庭三郎景親をこの川邊に梟首せしこと。東鑑に見え。北條時賴。三島神社に參詣の時。青砥左衞門忍びて扈從(こじう)しけるが、牛の河中に尿するを見て。旱歳の民餒飢(たいき)の憂あるを風論(ふうろん)せしこと。北條九代記に載せたり。

[やぶちゃん注:「尿する」は「いばりする」「すばりする」と訓ずる。

「旱歳の民餒飢の憂あるを風論せし」旱魃に民が飢饉の襲来することを悲しんでいるのに。ここでは分かり難いが、これは前の牛が、潤いと肥えとなるべき小便をあたら川中にすばりして、田畑にそれをしなかったことを、これに先立つ春の法会で、時頼が莫大な金を肥え太って堕落した僧に供養し、逆に戒律を守っている高潔の僧らに施さなかったことを揶揄したのである。同書巻八掉尾の「相模の守時賴入道政務付靑砥左衞門廉直」に現われるが、ここについては既に原文と私の語注及び現代語訳を新編鎌倉志巻之六の「固瀨村」の注に施してあるので、是非、お読み頂きたい。]

海産生物古記録集■8 「蛸水月烏賊類図巻」に表われたるアカクラゲの記載



[やぶちゃん注:本邦最初の昆虫彩色写生図集で知られる「千虫譜」の作者栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年)の自筆本一軸「蛸水月烏賊類図巻」(たこくらげいかるいずかん) より。「海月蛸烏賊類図巻」とも称する。

 栗本丹洲は医師にして本草家。朝鮮人参の普及で知られる医師にして本草学者であった田村藍水の次男。幕府医官栗本昌友の養子となり、寛政元(一七八九)年に奥医師となり、文政四(一八二一)年には法印に昇った。医学館で本草学を教授する傍ら、虫・魚・貝類などを精力的に研究した。通称、瑞見。

 底本は国立国会図書館デジタル化資料「蛸水月烏賊類図巻」同書画像(9コマ)を元にした。「同書画像」に当該精密大判画像(描画彩色ともに頗る素晴らしい)をリンクさせてあるので別ウィンドウで並置して鑑賞して戴きたい。【二〇一四年十月十四日追記】国立国会図書館の二〇一四年五月一日からのサイトポリシー改訂により保護期間満了であることが明示された画像については国立国会図書館への申込が不要となったので、ここに華麗なる上記当該画像を掲げるものとする。


Akakurage

 
字配は原画に一致させたが、約物は正字化し、読み易くするために一部に平仮名で歴史的仮名遣で私の読みを附し、句読点や鉤括弧も加えた。「断」はママ。]

 

海䖳(くらげ)一種、色赤キ者アリ。備前ニアリ。方言「アコーラ」ト云。

形、傘ノ如クニシテ下ニ細長(ほそなが)ノ紐多シ。コレニ觸(ふる)ル時ハ断落(たちおち)シヤスシ。若(もし)、

人、手、誤(あやまり)テ其身及(および)紐ニ觸犯(しよくはん)セハ忽(たちまち)腫痛(はれいたみ)、忍フヘカラズ。甚(はなはだ)毒アリ。

漁人モコレヲ不取(とらず)ト云(いふ)。是(これ)、蘭山ノ説ナリ。

 

□やぶちゃん注

・本種は絵図と記載内容から刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica とほぼ同定してかまわないと思われるが、やや気になるのは傘の放射肋数「20」本と長尺の口腕(触手)数「4」本である。アカクラゲ Chrysaora pacifica は直径九~十二センチメートル、時に十五センチメートル以上になる傘に放射状の褐色の縞模様が「16」本走り、触手は長く、各八分画に「5」本から「7」本ずつあって合計四十~五十六本に達する、と参照したウィキの「アカクラゲ」にはあり、複数の画像を視認しても、この放射状の模様の「16」は動かないので、描画の誤りとしておく。口腕数の方は、相対的に短いものが絡んでいる場合は見ようによっては4本にも見えるし、本文にもあるように容易に脱落するので、描画個体がたまたま4本であったと考えても問題ない。また、このアカクラゲの北方種である Chrysaora melanaster では4本という記載が並河洋著「クラゲガイドブック」(TBSブリタニカ二〇〇〇年刊)にあるので(なお、この本では和名種アカクラゲを Chrysaora pacifica ではなく、Chrysaora melanaster としている。保育社平成七(一九九五)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」でも Chrysaora melanaster であるが、最新であるウィキの記載を採用することとした)、結果としては特に問題としない。また、平凡社「世界大百科事典」ではアカクラゲの学名を  Dactylometra pacifica(=Chrysaora melanaster )とし、傘の模様がまさに16条の海軍の旭日旗に似るところからレンタイキクラゲ(連隊旗水母)、また後掲するように触手の刺胞が乾いて鼻の中に入ると粘膜を刺激してクシャミが出るところからハクションクラゲ、4本(これも4本としている)の口腕が長いところからアシナガクラゲなどの別名があり、瀬戸内海では「アカンコ」と呼んで釣りの餌に用いるとある。

・「海䖳」古くはクラゲ類を、かく書いた。「䖳」は音「タ・ダ」(「タク・チャク」と読む場合はイナゴの一種であるツチバッタを指したと「廣漢和辭典」にある)で、この字自体がクラゲを指す漢字である。寺島良安「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の同項もこの字で載る。

 また実は同じ丹洲の「千蟲譜 第九卷」(リンク先は私のテクスト)に鮮やかな紅色のクラゲ図とともに(リンク先は国立国会図書館蔵「栗氏千虫譜 第9冊」の当該精密画像で、これは本作より遙かに発色が鮮やかである)「赤クラゲ」がやはり記載されている。【二〇一四年十月十四日追記】同前理由によりここにやはり華麗なる上記当該画像(向かって右図)を掲げるものとする。

Akakurage_kurimoto

 ここにその本文も示したい(句読点等を配し、濁点を追加し、こちらでは一部に〔 〕にカタカナで字を補うなどして読み易く改変した。( )はルビ)。
 

   *
 

赤クラゲ 又「シヤグマクラゲ」ト云〔フ〕。腹下ノ長毛、赤熊ノ毛ノ如シ。故ニ此名アリ。備前兒島及〔ビ〕勢州鳥羽海中〔ニ〕産ス。薩州方言「イラ」ト云〔フ〕モノゝ類ナリ。大毒ナリ。人、手ヲ觸〔ル〕レバ、蕁麻(イラクサ)刺〔シ〕タル如ク腫〔レ〕痛〔ミ〕忍ベカラズ。又、麻木疼痛ス。赤毛落〔チ〕テ鮭菜(ザコ)・及〔ビ〕醤(アミ)蝦中ニ雑〔ヅ〕ル事アリ。誤リ食ヘ、バ腹、脹〔レ〕悶〔へ〕、亂死ニ至ルモノアリ。怖ルベキモノナリ。乾燥スルモノ、嗅〔ヒ〕ハ辛辣、胡椒ノ氣アリ。立ニ嚏ル事、猪牙皀莢〔ノ〕末〔ニ〕似〔タ〕リ。大毒アリト云〔ヒ〕テ漁人モ捨〔テ〕去〔ル〕也。丹州、按〔ズル〕ニ「本草」毒草部〔ノ〕毛莨〔ノ〕附錄ニ所載ノ海薑ナルモノ、是〔レ〕ナリ。「弘景注」〔ノ〕「鈎吻」〔ニ〕云〔ハク〕、「海薑生海中赤色状如石龍芮葉有大毒云々」。此〔レモ〕亦、クラゲノ形狀、恰モ石龍芮(タガラシ)〔ノ〕葉ニ似タリ。其〔レ〕乾キ、粉ニナリタルモノ、辛辣ノ氣、乾薑ノ如シ。憶フニ能〔ク〕其〔ノ〕狀ヲ説得タリト謂〔フ〕ベシ。姑ク図説ヲ設〔ケ〕テ同好ノ君子ニ示スト云〔フ〕。

 

   *

 

とある。リンク先は私のHPに於ける比較的古い仕事で電子化が主眼であるため、語注がない。今回、新たにここで簡単に語釈を施しておきたい。なお、この「千蟲譜」版は記載は、本記載より遙かに詳しいアカクラゲ Chrysaora pacifica  の記載と同定出来るが、実はご覧の通り、絵の方は4本の口腕と12の触手を持つ図のクラゲで、見るからにアカクラゲではない。傘の16本の放射肋が全くなく、傘の縁に独特の切れ込みが入って、全体に強い赤色で彩色されている。この図はむしろ旗口クラゲ目オキクラゲ科オキクラゲ  Pelagia panopyra を描いたものと私は見ている。

   *

●「麻木」は「マボク」と音読みしているか、若しくは「まひ」又は「しびれ」と訓じているのかも知れない。「麻木」とは現代中国語でも形容詞で感覚が麻痺している、痺れた、の意である。

●「立ニ」は「ただちに」と訓じているか。

●「嚏ル」は「はなひる」で、クシャミをすること。アカクラゲは現在でも別名ハクションクラゲとも呼ぶ。

●「猪牙皀莢」「チヨガソウケフ(チョガソウキョウ)」と読み、マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属ホソミサイカチ Gleditsia officinalis の実の莢から製した漢方生薬の名。去痰・覚醒・通便に用いると漢方サイトにあるので、恐らくコショウ同様の刺激性のものと思われる。

●「本草」「本草綱目」。

●「毛莨」音は「マウゴン(モウゴン)」。和訓では「きんぽうげ」であるが、厳密にはキンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属のキツネノボタン(狐の牡丹)Ranunculus silerifolius  を指す。キンポウゲ属のウマノアシガタやタガラシ(後掲)と同様のラヌンクリン(ranunculin)という成分を含む有毒植物。誤食すると口腔内や消化器に炎症を起こし、また茎葉の汁が皮膚につくだけでかぶれる(ウィキの「キツネノボタン」に拠る)。

●「海薑」音「カイキヤウ(カイキョウ)」。「薑」は生姜のこと。

●「弘景注」陶弘景の『本草綱目集注』。

●「鉤吻」「コウフン」。漢方に於いてはリンドウ目マチン科ゲルセミウム属ヤカツ(冶葛・ゲルセミウム・エレガンス)Gelsemium elegans の根を水洗いして乾燥させたものをこう呼ぶ。ウィキの「ゲルセミウム・エレガンス」によれば、『世界最強の植物毒を持っていると言われるほどの猛毒植物。有毒成分はゲルセミン、コウミン、ゲルセミシン、ゲルセヴェリン、ゲルセジン、フマンテニリンなどのアルカロイドで、もっとも毒の強い部位は若芽で』、『最もポピュラーな中毒症状は呼吸麻痺であるが、これはゲルセミウム・エレガンスの毒が延髄の呼吸中枢を麻痺させることに起因する。心拍ははじめ緩慢だが、のち速くなる。ほかに、口腔・咽頭の灼熱感、流涎、嘔吐、腹痛、下痢、筋弛緩、呼吸筋周囲の神経麻痺、視力減退、瞳孔散大、呼吸の浅深が不規則になる(これが副次的にアシドーシスを引き起こす場合も)、嗜睡、全身痙攣、後弓反張、運動失調、昏迷などがある』(「アシドーシスは血液の酸性化をいう)。漢方では『喘息治療や解熱、鎮痛などに用いる。しかしあまりに毒性が強いため、本草綱目をはじめ数多の医学書には「内服は厳禁」と記されている』とある。また、正倉院御物の中にも「冶葛」が残されており、冶葛壷に十四斤(約十四キログラム)も『収められていたが、記録によればかなり使われた形跡がある(用途は不明)という』とし、現存するのは三九〇グラムしかなく、しかも一九九六年に千葉大学薬学部の相見則郎教授が依頼を受けて提供された二・八グラムのそれを分析したところ、一二〇〇年以上を経ているにも拘わらず、『ゲルセミン、コウミンなどのゲルセミウムアルカロイドが検出され、冶葛がゲルセミウム・エレガンスであることが証明された。正倉院の「冶葛」は、文献に記録された冶葛としては唯一現存するものである』と記す。恐るべき毒物、恐るべき使用量ではないか!

●「海薑生海中赤色状如石龍芮葉有大毒」自己流で訓読すると、

 海薑は海中に生ず。赤色、状(かたち)、石龍芮(たがらし)の葉のごとく、大毒有り。

で、「石龍芮」は次の訓「タガラシ」によって、先に掲げた有毒植物キンポウゲ属タガラシ Ranunculus sceleratus であることが判明する。タガラシはキツネノボタンなどによく似るが、果実が細長くなるのが特徴で、プロトアネモニンという毒をもち、キツネノボタン同様、誤食すると消化器官がただれたり、茎葉の汁に触ると皮膚がかぶれたりする(ウィキの「タガラシ」に拠る)。なお、真柳誠氏の論文「鴆鳥-実在から伝説へ」(山田慶兒編「物のイメージ-本草と博物学への招待」朝日新聞社一九九四年刊)に、陶弘景の「本草綱目集注」の毒鳥として著名な鴆(ちん)について、

 赤色狀如龍名海薑生海中亦大有毒(赤色、狀(かたち)、龍のごとく、海薑と名づく。海中に生じ、亦、大いに毒有り。)

という注が附されてあり(当該リンク先に添付された画像から視認し、私の訓読文を附した)、真柳氏はこれを、

   《引用開始》

赤色でかたちが竜のような、海薑と呼ばれるものが海に棲息し、それにも鴆鳥の羽よりもっと強い毒がある。

   《引用終了》

と訳しておられる。かの中国史上最強の鴆毒より強いというのである! 恐るべし! アカクラゲ!

●「姑ク」は「しばらく」と訓ずる。

   *

・「アコーラ」は恐らく「アカキイラ」で、「赤き蕁麻(いらくさ)」の略と私は推測する。

・「備前」現在の岡山県の南東部。

・「蘭山」本草家小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年)。二十五歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教え、七十一歳にして幕命により江戸に移って医学校教授方となった。享和元(一八〇一)年~文化二(一八〇五) 年にかけ、諸国を巡って植物採集を行い、享和三(一八〇三)年七十五歳の時に自己の研究を纏めた「本草綱目啓蒙」を脱稿した。本草一八八二種を掲げた大著で三年かけて全四十八巻を刊行、日本最大の本草学書になった。衰退していた医学館薬品会を再興、栗本丹洲とともにその鑑定役ともなっており、親しい間柄であった。後にこの本を入手したシーボルトは、蘭山を『東洋のリンネ』と賞讃した(ウィキの「小野蘭山」に拠る)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 海䖳(くらげ)の一種に極めて色の赤いものがいる。備前の海に棲息する。方言で「アコーラ」と呼称する。

 形状は、傘のようで、下部に細長い紐状のものが多く垂れ下がっている。これに物が触れたりした場合は、かなり簡単に千切れて、本体の傘から落剝する。万一、人が誤ってその傘本体及び紐状の部位に手を接触してしまったりすると、たちまちのうちに腫れ上って激しく痛み、その痛苦は大の大人であっても堪え難いほどである。それほどに極めて劇しい毒を持っている。

 漁師も決してこれは漁(すなど)らぬという。これは小野蘭山氏より聴いた話である。
 

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 10


M125


図―125

 

 再び江ノ島へ(七月二十一日)。午後四時、熔鉱炉のように赫々と照りつける日の光を浴びて出発した。日光は皮膚に触れると事実焦げつく。日本人が帽子もかぶらずに平気でいられるのは、実に神秘的である。彼等はひどく汗をかくので、頭にまきつけた藍色のタオルをちょいちょい絞らねばならぬ程である。だが晩方は気持よく涼しくなり、また日中でも日蔭は涼しそうに見える。前と同じ路を通りながら、私はつくづく小さな涼亭の便利さを感じた。ここで休む人はお茶を飲み煎餅を食い、そして支払うのはお盆に残す一セントの半分である。このような場所には粗末極まる小屋がけから、道路全体を被いかくす大きな藁むしろの日除けを持つ、絵画的な建造物に至るまでの、あらゆる種類がある。図125は野趣を帯びた茶店の外見を示している。我々はちょいちょい、農夫が牝牛や牡牛を、三匹ずつ繋いで連れて来るのに逢った。牡牛は我国のよりも遙かに小さく、脚も短いらしく思われるが、荒々しいことは同様だと見え、鼻孔の隔壁に孔をあけてそこに輪を通し、この輪に繩をつけて引き導かれていた。これ等は三百マイルも向うの京都から横浜まで持って来て、そこで肉類を食う外国人の為に撲殺するのである。彼等は至って静かに連れられて来た。追い立てもしなければ、怒鳴りもせず、また吠え立てて牛をじらす犬もいない。いずれも足に厚い藁の靴をはき、上に日除け筵を張られたのも多い。私がこれを特に記すのには理由がある。かつてマサチューセッツのケンブリッジで、大学が牛の大群をブライトン迄送ったことがあるが、その時、子供や大人が、彼等を苦しめ悩ましたそのやり方は、ハーヴァードの学生にとって忘れられぬことの一つである。

[やぶちゃん注:磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠れば、この明治一〇(一八七七)年七月二十一日から八月二十九日までの江の島長期滞在が始まる(無論、途中で何度か横浜のグランドホテルの家族や東京へ出てはいる)が、この間、モースの助手となったのは、矢田部良吉の弟子で東京大学小石川植物園に勤務していた植物学者松村任三(まつむらじんぞう 安政三(一八五六)年~昭和三(一九二八)年)であった(但し、助手の指示は当時の東京大学法理文三学部綜理補であった浜尾新によるもの)。ウィキ松村任三」によれば、『東京帝国大学理学部植物学教室教授、付属小石川植物園の初代園長。多くの植物標本を採取しソメイヨシノやワサビなど150種以上の植物に学名を付け、それまでの本草学と近代の植物学の橋渡しをした。また、植物の分類のための植物解剖(形態)学という新しい学問を広めた。門下生に牧野富太郎がいる。だが次第に牧野を憎むようになり、講師であった牧野の免職をたびたび画策した』とある。当時は未だ満二十一歳の青年であった。彼は一九二六年発行の『人類学雑誌』第四十一巻にこの時の日記を公開しており、それによってモースの江の島滞在中の暮らしぶりが具に分かる。磯野先生は本書とこの松村日記をもとにそれを日録で再現して下さっており、リアルなその日常が活写されている(以降、これを「復元日録」と仮に呼称したい)。その「復元日録」によれば二十一日に松村が横浜グランドホテルにモースを訪ね、そこから『午後四時人力車で出発、江の島着は九時、岩本楼に入る。小屋の改造はまだ終わっていない』とある。

「これ等は三百マイルも向うの京都から横浜まで持って来て、そこで肉類を食う外国人の為に撲殺する」「三百マイル」約483キロメートル。現在の駅間距離では513・6キロメートル。私には、当時の東京周辺には肉牛用の牛が供給出来なかった(逆に言えば、京都にはそれが供給出来る下地があった)ということが驚きであった。但し、京都とあるが、これは兵庫県(但馬地方)で、ここに描かれている牛は兵庫県産黒毛和種である但馬牛と思われる。ウィキの「和牛」によれば、この但馬牛は、『明治時代に牛肉を食べる文化が広まると、神戸ビーフとして注目されるようになった。神戸ビーフの名は、神戸の居留地に住む外国人たちが神戸で手に入れた牛が非常においしかったからとも、横浜などの居留地の外国人たちが生産量の多い関西方面から入手した牛が神戸を経由していたためとも言われているが、いずれの場合も但馬牛』とされる、とあるから間違いあるまい。]

どのスポーツが好きか 中島敦

     どのスポーツが好きか

野球  中學の二年頃が一番上手でした。
水泳  クロールは苦手。
乘馬  習志野で少々習ひました。
劍道  惡劍ださうです。劍に於ける頽廢派。
スキー  穴をあけるだけ。
蹴球(サッカー)  ヘッディング(頭で球を受けること)をしようとして、顏にぶつつけて怪我をした程度。

[やぶちゃん注:これは横浜高等女学校在勤中に同校校友会雑誌「學苑」の第七号(昭和一一(一九三六)年七月発行)の誌上で生徒側から求められた標題のアンケートに各教師が答えたものの内の中島敦の回答部分。「(サッカー)」はルビではない。当時、満二十七歳。]

あいんざあむ 萩原朔太郎

 

 

 あいんざあむ 

 

じめじめした土壤の中から、

 

ぽつくり土をもちあげて、

 

白い菌のるいが、

 

出る、

 

出る、

 

出る、

 

この出る、菌のあたまが、

 

まつくらの林の中で、

 

ほんおり光る。 

 

すこしはなれたところから、

 

しつとり濡れた顏が、

 

ぼんやりとみつめえ居た。

 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻「未發表詩篇」より。取り消し線は抹消を示す。「るい」はママ。題名の「あいんざあむ」とはドイツ語の形容詞“einsam”で「寂しい」の意。]

水母の吸物 大手拓次

 水母の吸物

 

しどろもどろにかくれ、

ちひさくほころびるうたがひのかねをならし、

熱(あつ)い皿(さら)のうへに夜(よる)となくひるとなくおちてくる影をあつめ、

なみのあひだによろめきわらふ

いとくらげをすくひとり、

死(し)のあまみをいろづけて、

たましひの椀のなかにぽつたりとおとす。

みづおとはこいでゆく、

みづおとは言葉をなげすててこいでゆく。

さびしいくらげの吸物(すひもの)は

わたしのゆびにゆれてくる。

 

[やぶちゃん注:私はクラゲ・フリークであるが、この詩は世界的にも歴史的にも突出して特異で美事なクラゲの詩であると思う。金子光晴の「くらげの唄」なんぞより遙かにクラゲ的である。なお「いとくらげ」という種は残念ながらいない。無論、拓次の幻想世界のクラゲの名である訳だが、私なら、小型の透明でしかも刺胞毒の強い、刺胞動物門箱虫綱箱虫目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ Carybdea rastoni の、あの傘の四方に下がった四本の鞭状の恐ろしい触手(凡そ二〇センチメートル)をイメージする。舌が赤黒く爛れて痙攣する……慄っとするほど素敵な眩暈じゃないか!……]

鬼城句集 夏之部 天瓜粉

天瓜粉   老そめて子を大事がるや天瓜粉

      草の戸や老い子育つる天瓜粉

[やぶちゃん注:「天瓜粉」「てんくわふん(てんかふん)」。天花粉。双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属キカラスウリ(変種)Trichosanthes kirilowii var. japonica の塊根を潰して水で晒した後に乾燥させて得られる。日本では古来、白粉の原料や打ち粉として乳小児の皮膚に散布して汗疹・爛れの予防などに用いた。現在の市販されるベビーパウダーの主成分は滑石(かっせき)などの鉱物とコーンスターチなど植物性デンプンからなり、別名のタルカム・パウダーは高給原材料の一つである水酸化マグネシウムとケイ酸塩からなる一般に蠟石とも呼ばれる滑石の英名“talc”(タルク)に由来する。]

要するにこの耳鳴りは治らない

らしい――昨日の耳鼻科の医師の診断の言葉は――ということを示唆していた――で1時間半も待って通気と鼓膜マッサージに終る――しかも不相変遠い蟬時雨――これはどう考えても時間と金の無駄であるということに今更ながら気づいた――

2013/07/01

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十四 附 芥川龍之介カット入自筆原稿画像

■原稿146(147)

       十四

 

[やぶちゃん注:「十四」は4字下げ。本文は2行目から。]

 

 僕に宗教と云ふものを思ひ出させたのはか

う云ふマツグの言葉です。僕は勿論物質主義

者ですから、〈宗教《的》→《にはさ?》→などと云ふこと〉*眞面目に宗教を考へ*たことは一

度もなかつたのに違ひありません。が、この

時はトツクの死に或感動を受けてゐた爲に一

体河童の宗教は何であるかと考へ出したので

す。僕は早速学生のラツプにこの問題を尋ね

て見ました。

 「〈基〉それは基督教、佛教、モハメツト教、拜火

 

■原稿147(148)

教なども行はれてゐます。まづ一番勢〈■〉力のあ〈る〉**

のは何と言つても〈近〉**代教でせう。生活教と

も言ひますがね。」(「生活教」と云ふ訳語は当つて

ゐないかも知れません。〔この〕原語は Quemoocha

す。cha は英吉利語の ism と云ふ意味に〈とれば

よろしい〉*当るでせう*quemoo 〈は「生きる」と《訳》→訳するもの〉*の原形(げんけい) quemalは單に「生きる」

と云ふよりも「飯を食つたり〔、〕酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。)

 「ぢやこの国にも教会だの寺〈(てら)〉(じ)〔院〕院だのは〈ない〉*ある*訣(わけ)〈ではない〉**のだね?」

[やぶちゃん注:

●「まづ一番勢〈■〉力のあ〈る〉**のは」は初出及び現行では、

 まづ一番勢力のあるものは

となっている。

●『quemoo 〈は「生きる」と《訳》→訳するもの〉*の原形(げんけい) quemalは單に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり〔、〕酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。』は整序すると(読みは除去する)、

 quemoo の原形 quemalは單に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。

とある。しかし現行では(初出は「交合」が「……」になっているので問題にしないが、恐らくは初出もそこを除けば以下と同じと推測される)、

 quemoo の原形 quemal の譯は單に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。

と、「譯は」が入っている。これはゲラ校正での芥川の追加指示の可能性が高い。]

 

■原稿148(149)

 「常談を言つてはいけません。近代教の大(だい)寺

院などはこの国一の大建築で〈よ〉すよ。どうで

す、ちよつと見物に行つては?」

 或〈妙に〉生温(なまあたたか)い曇天(どんてん)の午後、ラツプは得々と僕と

一しよにこの大寺院へ出かけました。成程そ

れは〈《その国でも》→■■〉*ニコライ堂*の十倍もある大〈健〉〔建〕築(だいけんちく)です。のみ

ならずあらゆる建築樣式を一つに組み上げた

大建築です。僕はこの大寺院の前に立ち、髙

い塔や円屋根(まるやね)を眺めた時、何か無気味にさへ

感じました。實際それ等(ら)は天(てん)に向つて伸びた

[やぶちゃん注:

●「〈《その国でも》→■■〉*ニコライ堂*」非常に悔しいのであるが、抹消字が判読出来ない。最初の字はカタカナの「コ」のようにも見えるが……(当初、「ヨーロ(ツパ)」と書こうとしたのかとも考えたが、拡大して見ると「ヨ」ではなく、その下の縦線を長音記号と採るのにも無理があり、何より「ロ」では書き順がおかしくなる)。どなたか推理を試みてみて戴きたい。芥川はなんと書き換えようとしたのか?

 

■原稿148(149)

〈にさへ感じました。実際それ等(ら)は天に向つて

伸びた〉無数(むすう)の觸手(しよくしゆ)のやうに見えたもの〔で〕す。僕

等は玄関の前に佇んだまま、(〈その又僕《は》→等〉*その又玄関*に比

べて見ても、どの位僕等は小さかつたでせう

!)暫らくこの〈健〉**築よりも寧ろ途方(とはう)もない怪

物に近い稀代(きだい)の大寺院を見上げてゐました。

 大寺院の〈中(なか)〉*内部*も亦廣大です。〈《美》→コ〉*そのコ*リント風の

円柱(ゑんちう)の立つた中(なか)に〔は〕參詣人(さんけいにん)が何人も歩いてゐま

した。しかしそれ等は僕等(ら)のやうに非常に小

さく見えたものです。〈《僕》→ラツプは〉*そのうち*に僕等は〈嘴(くちばし)の〉*腰の*

[やぶちゃん注:

●この原稿の冒頭にはやや不審がある。前の原稿末から単純に続けてみると、

 實際それ等(ら)は天(てん)に向つて伸びた〈にさへ感じました。実際それ等(ら)は天に向つて伸びた〉無數(むすう)の觸手(しよくしゆ)のやうに見えたもの〔で〕す。

であるが、さらに単純に整序して初期原稿に復元してみると(読みは除去)、

 實際それ等は天に向つて伸びたにさへ感じました。

がそれとなる。しかし「伸びたにさへ感じました」というのは芥川らしからぬおかしな謂いである。もしかすると、芥川は単に頁替えの際に書き損じただけなのかも知れない。ただ極めて類似した書き換えを正式マス上で立て続けにしているというのは、やはり普通ではないとは言っておきたいのである。]

 

■原稿150(151)

〈反(そ)〉*曲(まが)*つた一匹の河童に出合ひました。するとラ

ツプはこの〈前?〉河童にちよつと頭(あたま)を下)さ)げた上(うへ)、丁

寧にかう話しかけ〈たのです。〉*ました。*

 「長(ちやう)老、不相変御〈がま〉*達者*〈い?〉のは何より〈も〉**

す。」

 相手の河童〈は〉**お時宜をした後(のち)、やはり丁寧に

返事をしました。

 「これはラツプさんですか? あなたも不相

變、―――(と言ひかけ〈な〉**がら、ちよつと〈狼狽〉言葉を

つがなかつたのはラツプの嘴(くちばし)の腐つてゐるの

[やぶちゃん注:

●「長(ちやう)老、不相変御〈がま〉*達者*〈い?〉のは何より〈も〉**です。」この部分、初出及び現行は、

 「長老(ちやうらう)、御達者(ごたつしや)なのは何よりもです。」

で、「不相變」が、ない。ゲラ校正で芥川が削ったものか?

 さて、私は何故、芥川がこれを削ったのかを推理してみたくなった。何故ならこの原型を見ると、以下のように別なラップの挨拶の台詞が立ち現われてくるように思われたからである(判読不審の「い」を「い」と確定する)。それは

 「長老、不相変御がまないのは何よりも」

という始まりを持つものである。そうしてこれを凝っと見ていると、この章の後文の(現行本文から引用)、

   《引用開始》

それからラツプは滔々と僕のことを話しました。どうも又それはこの大寺院へラツプが滅多に來ないことの辯解にもなつてゐたらしいのです。

   《引用終了》

おという箇所、また、ラップが長老から「僕」に生活教の聖書を見せて差し上げたか、と問われたのに対して、ラップが(現行本文から引用)、

   《引用開始》

 「いえ、……實はわたし自身も殆ど讀んだことはないのです。」

 ラツプは頭の皿を搔きながら、正直にかう返事をしました。が、長老は不相變靜かに微笑して話しつづけました。

   《引用終了》

と答えるシーンの描写などが思い出されて来るからである。即ち、ラップは上辺では生活教の信者ではあるものの、聖書さえ碌に読んだことのない、すこぶる附きの不勉強で不信心な信徒であることが暴露されるのである。とすれば、このラップの最初の挨拶の原型は、現行のような長老の長寿の言祝ぎなどではなく、ラップ自身の不信心、具体的には教会に永く参っていないことを詫びる

 「長老、不相變拜まないのは何よりもお詫び申し上げます。」

といった台詞ででもあったのではあるまいか? 長老の彼の台詞に対する「これはラツプさんですか?」やその末尾の「が、けふはどうして又……」といった応答(特にそのクエスチョンマークに)も、実は当初の、滅多に礼拝しに来ないラップが来たことへの、やや意外な印象が決定稿の長老の台詞に残ったもののように私には読めるのである。但し、「御がまない」という表記は芥川らしくない、稚拙な表記のようには思われる。が、そもそもこれは芥川の台詞ではなく、河童青年ラップの台詞なのであるから、私はそれもアリか、とも思うのである。――大方の御批判を俟つものである。]

 

■原稿151(152)

にやつと気がついた爲だつたでせう。)―――〈兎〉

あ、兎に角御丈夫〈と見〉らしいやうですね。が、け

ふはどうして又………」

 「けふはこの方(かた)〈を案内〉*のお伴を*して來たのです。この

方は多分御承知の通り、――」

 〈ラツプ〉それからラツプは滔々(とうとう)と僕のことを話しま

した。どうも又それはこの大寺院へラツプが

〈「〉多に來ないこと〈を〉**弁解にもなつてゐたら

しいのです。

 「就いてはどうかこの方(かた)〈に〉**御案内を願ひたい

[やぶちゃん注:「〈「〉」この8行目の2マス目の鉤括弧の消去は、次のような推理を可能にする。即ち、7行目で終る一文、

 それからラツプは滔々と僕のことを話しました。

の後、芥川は改行し、8行目に鍵括弧を打ってラップの台詞を入れようとした。しかし、考え直して、更なるラップの内実の暴露となる、

 どうも又それはこの大寺院へラツプが滅多に來ないことを

と続けたことを意味しているのではあるまいか?]

 

■原稿152(153)

〔と思ふ〕のですが。」

 長老は大樣(おほやう)に微笑しながら、まづ僕に〈挨〉**

をし、靜かに〈大寺院の中を見まは〉*正面の祭壇を指さ*ししました。

 「御案内と申しても、何も御役に立つことは

出來ません。〈■■〉*我々*〈の〉信徒の例拝するのは〈■〉正面

の祭壇にある『生命の樹(き)』です。『生命の樹』には御

覽の通り、金(きん)と綠(みどり)との果(み)がなつてゐます。あ

の金(きん)の果(み)を『善の果(み)』と云ひ、あの綠の果(み)を『惡の

果』と云ひます。………」

 僕はかう云ふ説明の〈中に〉*うち*にもう退屈を感じ

[やぶちゃん注:「靜かに〈大寺院の中を見まは〉*正面の祭壇を指さ*ししました」の部分はママ。「し」がダブっている。勿論、初出及び現行ではダブりはない。]

 

■原稿153(154)

出しました。それは折角の長老の言葉も古い

〈喩〉*比喩*(ひゆ)のやうに聞えたからです。〈《僕はし》→しかし〉*僕は*〔勿論〕熱

心に聞いてゐる容子を裝つてゐました。が、

時々〈大〉は大寺院(だいじいん)の〈中(なか)〉*内部*へそつと目をやるのを忘れ

ずにゐました。〈大寺院の内部は畧図(りやくづ)に《す》**ると、大体(だいたい)下(しも)に掲げる通りです。―――〉



Akussasie

[やぶちゃん注:ここ(7行目から8行目の3マス目以下8マス目まで)に以上の教会内部の簡単な図が描かれている(若しくは描きかけた状態)が、前の抹消と同時に絵全体にもぐちゃぐちゃに抹消線が引かれている。無論、初出及び現行にはない(当該画像は底本としている国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿より挿絵部分のみをトリミングしたものである。原稿153(154)及び154(155)の全体画像は後注に掲載する。なお、これらの画像転載については国立国会図書館から使用許諾を受けている。転載許可書(PDFファイル)はこちら。]

 

 コリント風(ふう)の柱、ゴシク風(ふう)の〈フ〉*穹窿(きうりう)*〈セセツ

[やぶちゃん注:

●「〈フ〉*穹窿(きうりう)*」「フ」と判読したのは、芥川はここで「フアサード」と書こうとしたものと推定したからである。しかし、ファサード(façade)とは建築物の外装正面(側面・背面を指すことも可能であり、若しくはそのデザインを謂う場合もある)を指すものであって内部構造の謂いではないことから(実際にファサードと内部構造は一致すする場合もあれば、全く異なる場合もある)、芥川は止めて、かくしたのではなかったかと私は推理するものである。これは英語の碩学芥川龍之介に対して失礼な推理であろうか?]

 

■原稿(154(155)

シヨン風の祈〉*アラビアじみた市松(いちまつ)*模樣の床(ゆか)、セセツシヨン紛(まが)ひの

祈禱机(きたうづくゑ)、―――かう云ふものの作つてゐる調和

〈何か〉*妙に*野蛮(やばん)な美(び)を具(そな)へてゐま〈す〉*した*。しかし僕の

目を惹いたのは何よりも両側の龕(がん)〈にある〉*の中に*ある

〈十〉大理石の半身像です。〈それ等は何か〉*僕は何かそれ*等の像を

見知つてゐるやうに思ひました。それも亦不

思議〔で〕はありません。あの〈嘴(くちばし)の反〉*腰の曲(まが)*つた河童は「生

〈命〉命(せいめい)の樹」の説明を了(おは)ると、今度(ど)は僕やラツプ

と一しよに右側の龕(がん)の前へ歩み寄り、〈かう云〉その龕(がん)

の中(なか)の半身像にかう云ふ説明を加へ出しまし

[やぶちゃん注:以下に底本としている国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿より原稿153(154)及び154(155)の全体画像掲げる(この画像転載については国立国会図書館から使用許諾を受けている。転載許可書(PDFファイル)はこちら
これによって、私が記号を附す基準や、私がどれだけ細かに原稿を再現し、注釈を加えているかということなども、国立国会図書館ホームページの底本画像を見ないでも比較出来るので、是非比較して(ブログの場合は拡大並置〈右クリックの別ウィンドウ表示〉で)ご覧戴きたいと思う。ブログのアップ可能な画像容量が1MBであるため、ぎりぎりの大きさまで縮小してあるが、それでもかなり細部まで観察出来るものと思う。

Akugen
 

●「龕(がん)〈にある〉*の中に*ある〈十〉大理石の半身像です」この抹消は興味深い。この生活教の大教会の聖徒を、芥川が「十」人以上想定していたことが、ここで明らかになるからである。実際に語られる聖徒の数は7人(但し、7人目が誰かは語られない。因みに、この7人目を私は夏目漱石であったと推理している。それについて興味のあられる御仁は私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』の当該注『7「第七の龕の中にあるのは……」』をお楽しみあれかし)。

●「〈それ等は何か〉*僕は何かそれ*等」画像と比較されると分かると思うが、実際には「〈それ等は何か〉」の最後の「か」は抹消線が延びていない。それでも補正した「僕は何かそれ」の「れ」が「か」のマスの相当位置に字数も一致して右書きされているので、文選工は過たず、「か」も外したはずである。

●「〈命〉命(せいめい)の樹」この「せい」のルビは、前行末の「生」にではなく、抹消した「〈命〉」に「せい」と附されている。

●「了(おは)る」ルビの「お」はママ。明らかに「お」で「を」ではない。無論、初出及び現行は正しく「了(をは)る」とルビされてある。]

 

■原稿155(156)

た。

 「これは我々の聖徒(せいと)の一人(ひとり)、―――〔あらゆるものに反逆し(はんぎやく)た〕聖徒ストリ

ントベリイです。この聖徒はさんざん苦しん

だ揚句(あげく)、スウェデンボルグの哲学の爲に〈哲〉救はれ

たやうに言はれてゐます。が、実は救はれな

かつたのです。この聖徒は唯我々のやうに生

〈宗〉**を信じてゐました。―――と云ふよりも信

じる外はなかつたので〈す。〉*せう。*〈《勿論たは》→かな〉*この聖徒の*我々

に殘した「傳説」と云ふ本を讀んで御覽な〔さ〕い。こ

の聖徒も自殺未遂者(じさつみすゐしや)だつたことは聖徒自身告

[やぶちゃん注:

●「スウェデンボルグ」「ェ」は明らかな促音表記。初出及び歴史的仮名遣版では、「スウエデンボルグ」。

●「傳説」の鉤括弧は初出及び現行では

 『傳説』

と二十鉤括弧である。]

 

■原稿156(157)

白してゐます。」

 僕はちよつと憂欝になり、次の龕へ目を〈■〉

りました。次の龕(がん)にある半身像は口髭の太(ふと)い

独逸人です。

 「これはツァラトストラ〈を〉の詩人ニイチエです。そ

の聖徒(せいと)は聖徒自身の造つた超人に救ひを求め

ました。が、やはり救はれずに気違ひになつ

てしまつたのです。若し気違ひにならなかつ

たとすれば、或は聖徒の数へはひることも出

來なかつたかも知れません。〈」〉………」

[やぶちゃん注:

●「ツァラトストラ」「ァ」は明らかな促音表記。初出及び歴史的仮名遣版では、「ツアラトストラ」。]

 

■原稿157(158)

 長老はちよつと默つた後(のち)、第三の龕〈へ移り

ました。〉*の前へ案内し*ました。

 「三番目〈は〉**あるのはトルストイです。この聖

徒は誰(たれ)よりも苦行をしました。それは元來貴

族だつた爲に〈苦しみを見せ〉*好奇心の多い公衆に苦しみを見

*ることを嫌つたからです。この聖徒は事実

上信ぜられない基督を信じようと努力しまし

た。〈が、とうとう最後には如何に〉*いや、信じてゐるやうにさへ*公言(こうげん)した〈の〉

〔ともあつたの〕です。しかしとうとう晩年には悲壯な譃つき

だつた〈こ?〉**〈が?〉**堪へられないやうになり〈ま?〉**

[やぶちゃん注:

●「〈が、とうとう最後には如何に〉*いや、信じてゐるやうにさへ*公言(こうげん)した〈の〉こ〔ともあつたの〕です。」この一文は、芥川の脳内にあった最初の表現からの推敲過程で、非常に呻吟している様子――これはトルストイがというよりも、芥川龍之介自身が最後の救いとして求め、そして放棄したキリスト教への(「キリストへの」では断じてない!)アンビバレントな感情が私には窺われてならないのである。]

 

■原稿158(159)

た。この聖徒も時々書斎の梁(はり)に恐怖を感じた

のは有名です。〈しかし〉*けれども*聖徒の數にははひつて

ゐる位(くらゐ)ですから、勿論自殺したのではありま

せん。」

 〈僕は四の龕を見ると、*第四の龕の中の半身像*〈意外に《は》→も〉*我々日本人*の一人(ひとり)

です。僕はこの〈■?〉**本人の顏を見た時、〈意外の感に堪〉*さすがに懷し*さを感じました。

 「これは国木田独歩です。〈鐡道〉轢死する人足(にんそく)の心

もちをはつきり知つてゐた詩人です。しかし

〈あなたには〉*それ以上の*説明は〈勿論〉あなたには不必要〈でせ

[やぶちゃん注:

●「この〈■?〉**本人」抹消字は「亻」(にんべん)である。全くの勘であるが、「作」ではあるまいか? 芥川は国木田独歩であるから「この作家」と書こうとしたのではなかったか?]

 

■原稿159(160)

ね。〉*に違ひあ〈■〉**ません。*では〈六番目〉*五番目*の龕(がん)の中を御覽下

さい。―――」

 「これはワ〈ア〉グネルではありませんか?」

 「さうです。国王の友だちだつた革命〈家〉**

す。聖徒ワグネルは晩年には食前(しよくぜん)の祈禱(きたう)さへ

してゐました。しかし勿論基督教〈〔徒〕〉よりも〈我々の

教徒〉*生活教の信*徒の一人(ひとり)だつたのです。〈」〉 〈その聖徒〉*ワグネル*の残

〈僕らはもうその〉*た手紙によれば、〈死は何度(なんど)〉*娑婆苦は*何度(なんど)〈死の〉*この*聖徒を

死の前(まへ)〈へ立たせ〉*に驅りやつ*たかわかりません。」

 僕等(ら)はもうその時には六の龕の前に立つ

[やぶちゃん注:

●「生活教の信徒の一人だつたのです。〈」〉」当初は長老のワグネルの解説はここで終って、次の行が一字空けて現在の次の段落の頭、「僕等はもうその」まで書かれてあったのである。ところが、ここで芥川は鍵括弧を抹消し、ワーグナーの自死願望をわざわざ附け加えたのだということが分かるのである。私は、生活教の「聖徒」に選ばれるためには、狂的な生活史の体験者であること加えて、『自殺したかったにも拘わらず、しかも自殺出来なかった(断固として「しなかった」ではない)男』である必要があるのだと考えている(その論証は『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』に詳しく記したので参照されたい)。この部分、ここまでだとルートヴィヒ二世の「狂王」の方の印象が強過ぎて、ワーグナーが聖徒(セイント)に選ばれるための必要絶対条件が示されていないのである。]

 

■原稿160(161)

てゐました。

 「これは聖徒ストリントベリイの友だち〔で〕す。子

供の大勢ある細君(さいくん)の代(かは)りに十三四の〈黑人の女〉*タイテイの*

女を娶(めと〈つ〉)つた〈株屋〉*商賣人*上りの佛蘭西の画家です。こ

の聖徒は太い血管(けつくわん)の中(なか)に水夫(すゐふ)の血(ち)を流してゐ

ました。が、唇を御覽なさい。砒素(ヒソ)か何かの

痕(あと)が殘つてゐます。〈」〉第七の龕(がん)の中(なか)にあるのは

………〈あとは〉もうあなたはお疲れでせう。ではどう

かこちらへお出(い)で下さい。」

 僕は實際疲れてゐましたから、〈ラツプと一〉*ラツプ〈の〉*****

 

■原稿161(162)

しよに長老に從ひ、香の匂(にほひ)のする廊下傳ひに

或部屋へはひりました。〈それはヴェヌスの像の

前に〉*その又小さい部屋の隅には*黒いヴェヌスの像の下に山葡萄(やまぶだう)が一ふさ〈■〉**じてあるので〈す〉**。僕は何の裝飾もない僧房

を想像してゐただけにちよつと意外に感じま

した。すると長老は僕の容子にかう云ふ気も

ちを感じたと見え、僕等(ら)に椅子を薦める前(まへ)に

半ば気の毒さうに説明しました。

 「どうか我々の宗教の生活教であることを忘

〈れずに下さい。我            〉

[やぶちゃん注:

●「ヴェヌス」抹消部も含めて二箇所とも「ェ」は有意な促音表記である。初出及び歴史的仮名遣の現行では「ヴエヌス」である。

●「〈■〉**じてある」の抹消字は「扌」(てへん)であるから、「捧げてある」としようとした可能性がある。

●最終行の抹消は特異である。「れずに下さい。我」まで書いて(これは次の通り、復元されるのだが)、まず、その「れずに下さい。我」に薄い先行抹消の波線が認められる。その後、「さ」の位置から濃い抹消の波線がさらに加えられている。ところが、その下部「我」以下の空欄に伸びるほぼ中心をうねる抹消の波線以外に5箇所ほど、違う短い曲線抹消線断片が重なって記されている。こういう神経症的な抹消線はこれまでには殆んど見られない。これはその短いものが前だったのか後だったのかは判然としないが、何か芥川の非常な逡巡苦吟の跡のようにも見えるのである。]

 

■原稿162(163)

れずに下さい。我々〈は〉**神、―――『生命の樹』の教

へは『旺盛(わうせい)に生きよ』と云ふのですから。〈」〉………ラ

ツプさん、あなたはこの〈方〉*かた*に我々の聖書をお

覽に入れましたか?」

 「いえ、………実はわたし自身も殆ど讀んだこ

とはないのです。」

 ラツプは〔〈頭(かしらの〉頭(あたま)の〕皿(さら)を搔きながら、正直にかう返事

をしました。が、長老は不相変靜かに微笑し

て話しつづけました。

 「〈ではでは〉*それでは*おわかりなりますまい。我々の

[やぶちゃん注:

●「我々の聖書をお覽に入れましたか?」ここは無論、初出及び現行では「御覽に」となっている。しかしここはどうみても真正のひらがなの「お」である。校正のどこかで直されたものかとも思われるが、このミスは実は芥川が当初、「聖書を御覽に入れしたか?」ではなく、「お見せしましたか?」と考えていた痕跡のようにも思われる。]

 

■原稿163(164)

神は一日(にち)のうちにこの世界を造りました。(『生

命の樹』は樹と云ふものの、成し能はないこ

とはないのです。)のみならず〈《■》→■〉*雌(めす)*の河童(かつぱ)を造り

ました。〈《雌の河童》→しかし〉*すると雌の*河童は退屈の余り、雄の

河童を求めました。我々の神は〈《雌の》→この願ひ〉*この歎き*を憐

み、雌の河童の腦髓を取り、雄の河童を造り

ました。我々〈《の》→は皆〉の神はこの二匹の河童に『〈生《■》き〉*食へ(く)*

よ、交〈尾〉**せよ、旺盛(わうせい)に生(い)きよ』と云ふ祝福を与(あた)

へました。…………」

 僕は〈かう云ふ言〉*長老の言葉*のうちに詩人のトツクを思

[やぶちゃん注:

●「〈《■》→■〉*雌(めす)*の河童(かつぱ)を造りました」この抹消字が判別出来ないのは、芥川がどのように河童の国の生活教に於ける創世神話を構築しようとしたかが窺える部分であるだけに、残念である。敢えて記すと、「〈《■》→■〉雌」の最初の抹消字は「又」若しくは「女」、次に書き変えて抹消した字は「男」の書きかけのようにも見える。]

 

■原稿164(165)

ひ出しました。詩人のトツクは不幸にも僕の

やうに無神論者です。僕は河童ではありませ

んから、生活教を知らなかつたのも無理はあ

りません。けれども〈トツクは河童でもあり、

生に〉*河童の國に生まれたト*ツクは勿論「生命の樹」を知つてゐた筈です〈。〉**僕は

この教へに從はなかつたトツクの最後を憐み

ましたから、〈手短かにトツクの話をした上、〉*長老の言葉を遮るやうにト*

クのことを話し出しました。

 「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」

 長老は〈唯歎息〉僕の話を聞き、深い息を洩らしまし

 

■原稿165(167)

た。

 「〈《■》→トツクさん〉*我々の運命*〈■〉定めるものは〔〈神意〉信仰と〕境遇と偶然と〈の〉

〈よる〉だけです。(尤もあなた〈方(がた)〉*がた*はその外(ほか)に遺傳

をお数へなさるでせう。)トツクさんは不幸に

も信仰をお持ちにならなかつたのです。」

 「トツク〔君〕はあなたを羨ん〈だ〉*でゐた*でせう。いや、僕

〈《も》→さへ〉**羨んでゐます。〈」〉ラツプ君などは年も若〈い〉**

し、………」

 「僕も嘴(くちばし)さへちやんとしてゐれば或は樂天的

だつたかも知れません。」

[やぶちゃん注:「トツク〔君〕」この君は初出及び現行にはない。わざわざ後から芥川は挿入しており、後に「ラツプ」にも「君」が附いている。自殺者だから長老への会話では憚って外したというのは苦しい主張だ。ここには「君」があるのが正しいと私は思う。それが主人公「僕」の優しさであるからだ。]

 

■原稿166(167)

 〈「〉長老は僕等にかう言はれると、もう一度深

い息(いき)を洩(も)らしました。しかもその目は涙ぐん

だまま、ぢつと〈《壁懸け》→燭台〉*黒いヴエヌス*を見〔つめ〕てゐるのです。

 「わたし〈は〉**実は、―――これはわたしの秘密で

すから、どうか誰にも仰有らずに下さい。―――

わたしも実は我々の神を信ずる訣に行かな

いのです。しかし〈今度〉*いつ*かわたしの祈禱は、〈――〉*―――

*

 丁度長老のかう言つた時です。突然部屋の

戸があいたと思ふと、大きい雌の河童〈か?〉**

 

■原稿167(168)

匹、いきなり長老へ飛びかかりました。〈《僕や》→ラツ

プや僕〉*僕等*がこの〔雌の〕河童を〈《押》→**さへや〉*抱きとめよ*うとしたのは勿

論です。が、雌の河童は咄嗟の間(あひだ)に〈■〉*床(ゆか)*の上(うへ)へ

長老を投げ倒しました。

 「この爺め! 〔けふも〕又〈《けふも酒を》→わたしを欺して行つ

たな〉*わたしの財布から一杯(ぱい)やる金(かね)を*盜んで行つたな!」

 十分ばかりたつた後(のち)、僕〈は〉**〈殆ど〉*實際*逃げ出さ

ないばかりに〔長老夫婦をあとに殘(のこ)し、〕大寺院の玄関を〈あと《に》→**し〉*下(お)りて行き*まし

た。

 「あれ〈は〉**はあの長老も『生命の樹』を信じない〈で〉**

 

■原稿168(169)

です〈。」〉ね。」

 暫く默つて歩いた後(のち)、ラツプは僕にかう言

ひました。が、僕は返事をするよりも思はず

大寺院を振り返りました。大寺院はどんより

曇つた空(そら)にやはり髙い塔や円屋根(まるやね)を無数の触

手(しよくしゆ)のやうに伸ばしてゐます。〈建〉何か沙漠の空に

見える蜃気楼の無気味さを漂はせたまま。……

[やぶちゃん注:以下、2行余白。

●この原稿の罫外左上方の5~6行の上部及び7~8行の上部には、非常に大きな赤インクの、手書きの文字か記号のようなものがある。一見すると前者には、

□の上にT字型若しくは「正」の字のようなものが突出して見え、□の中には何か下部が「士」のような漢字みたようなもの

が見える。また、後者には、

〇の中に左に「忄」のような、右に下部が「士」のような漢字みたようなもの

が見える。この二つは一見異なったもののように見えるが、拡大してよく見ると、

前者の□と後者の〇の中にある文字か記号はどうも同じ、右下部が「士」のような形の文字か記号である

ことが分かる。特殊な校正記号か若しくは校正者の校了・再校(要再校)又はその担当者の名前のサインかなどとも考えたが、不思議なことにどうしても判読出来ない(画像を回転させたりしてみたがどうしてもだめである)。校正経験者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 9

 非常につかれていた上に暑い日だったので、横浜へ帰る途中、私は殆ど居ねむりをしつづけた。だが、何から何までが、異国的な雰囲気を持っているのを、うれしく思った。ある点で男の子連は、世界中どこへ行っても同じである。粘土の崖を通過した時、小さな子供達が、(恐らく漢字を使用してであろう)名前をほっていた。私は米国でも、度々このような露出面に、男の子が頭文字を刻んでいるのを見た。
 日本人が畳や、家の周囲の小路を掃く箒(ほうき)は、我国の箒と大して相違してはいない。只柄が短く、そしてさきが床に適するような角度で切ってあるので、我々のようにそれを垂直に持ちはしない。
[やぶちゃん注:太字「さき」は底本では傍点「ヽ」。]

 私が汽車の中やその他で観察した処によると、日本人は物を読む時に唇を動かし、音読することもよくある。
 横浜に住んでいる外国人の間にあって、日本人は召使い、料理人、御者、番頭等のあらゆる職を持っていて、支那人は至ってすくない。然し大きな銀行のあるものには支那人がいて、現金を扱ったり勘定をしたりしている。国際間の銀行事務、為替相場等を、すみからすみ迄知っている点で、世界中支那人に及ぶものはない。一例として、交易が上海(シャンハイ)、香港(ホンコン)及びサンフランシスコ、ロンドン、ボンベイ等に対し、いろいろな貨幣並に度量衡を以てなされる。今、我国の重量でいうと百斤を越すぴくるで米をはかり、それを他の場所で別な重量度を以て別な通貨で売り渡すというような場合、支那人の買辨(ばいべん)は即座に、算盤上(そろばん)にその差異を、日本の貨幣で計算する。米の値段は我国の麦に於ると同様、しよっ中上下している。これ等の買辨は、インドや支那の米価や、ロンドン、ニューヨーク等の為替相場を質問されるとすぐさま、而も正確に返答をする。同時に彼等は銭――銀ドル――を勘定し、目方の不足したのや偽物を発見する速度に就ても、誰よりもすぐれている。彼等が銀ドルの一本を片手に並べて持ち、先ずそれ等の厚さが正確であるかどうかを検べる為に、端をずっーと見渡し(彼等が使用する唯一の貨幣たるメキシコドルは、粗末に出来ている)そこでそれ等を滝のように別の手に落しながら、一枚一枚の片面を眺め、相互同志ぶつかり合う音を聞き、次に反対側を見るために反対の手に落し込むその速度は、真に驚くの他はない。一人の買辨がそれをやるのを見ながら、私は銀貨がチリンと音を立てるごとに、指でコツンとやろうと思って、出来るだけ速く叩いた結果、私は一分間に一二百二十回ばかり、コツンコツンやったことを発見した。この計算は多すぎるかも知れないが、とにかく銀貨が一つの手から他の手に落される速さは、まったく信用出来ぬ程である。こうして買辨は一分間確実に二百枚以上の重量を感じ、銀貨を瞥見し、そして音を聴く。時々重さの足らぬ銀貨を取り出すのを、私はあきれ返って凝視した。だが、日本人が不正直なので、かかる支那人の名人が雇傭されるのだというのは、日本人を誹毀(ひき)するの甚しきものである。事実は、日本人は決して計算が上手でない。また英国人でも米国人でも、両替、重量、価値その他すべての問題を計算する速度では、とてもかかる支那の名人にかないっこない。
[やぶちゃん注:「我国の重量でいうと百斤」原文“one hundred of our pounds”。約45・4キログラム。
「ぴくる」原文“the picul”。ピクル。我々には馴染みがないが、大貨物の重量を示す単位で、主として中国から東南アジアに於いて海運で用いられている。1ピクルは60キログラムである。
「買辨」買弁。中国に於いて清朝末期から人民共和国の成立期頃まで、外国の商社や銀行などが中国人と取引する際の仲介者とした中国人の商人を指す語。
「銀ドル」米ドル。]

M122

図―122

 私は東京でもうーつの博物館を見物した。これは工芸博物館で、私は炭坑、橋梁、堰堤の多数の模型や、また河岸の堤防を如何にして水蝕から保護するかを示す模型等を見た。日本家の屋根の組立てもあったが、それには、その強さを示すために、大きな石がいくつか乗せてあった。橋の模型はいずれも長さ五、六フィートの大きなもので、非常に巧妙に、且つ美麗に出来ていた。また立木から繩で吊した歩橋の、河にかかった模型もあった。図122は橋脚の簡単な写生で、一種の肱木の建築法を示している。最初に井桁(いけた)枠をつくり、それに丸の礎の樹幹の板の方をさし込み、井桁枠に石をみたしてこれを押える。かくて次々に支柱を組立て、最後にその周囲に石垣を築く。
[やぶちゃん注:「もうーつの博物館」次の段にサウス・ケンジントン博物館寄贈の陶磁器収蔵品などがあること、その展示ケースの様子などから、当時、内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)にあった国営の「博物館」(後の帝国博物館・帝室博物館、現在の国立博物館の前身)を指すか。な、モースが来日した明治一〇(一八七七)年には上野寛永寺本坊跡地(後に東京国立博物館の敷地となる)で第一回内国勧業博覧会が開催されているが、これは翌八月の開会であるし、叙述から見ても博覧会の会場という雰囲気はしないから違うであろう。
「五、六フィート」約1・5から1・8メートル。
「肱木」「ひじき」と読む。本来は日本建築に於いて、屋根の下部で斗(と:平面が正方形または長方形の材。)と組み合わせ、斗拱(ときょう)と呼ばれる組み物を作る。上からの荷重を支える用をなす横木で主に柱上にあって突き出した深い軒を支える、持送りと呼ばれる技法の一種。]

 この博物館にはサウス・ケンシントン博物館から送った、英国製の磁器陶器の蒐集があった。陳列館は上品で、硝子にはフランスの板硝子が使ってあった。広間は杉で仕上げてあった。一軒の低い建物にはウイン博覧会から持って来た歯磨楊子、財布、石鹸、ペン軸、ナイフ、その他、我国の店先きでお馴染(なじみ)のいろいろな品が、沢山並べてあったが、恐らくこれはこの博物館の出品物と、交換したのであろう。日本の物品ばかりを見た後で、この見なれた品で満ちた部屋に来た時は、一寸、国へ帰ったような気がした。
[やぶちゃん注:「歯磨楊子」“toothbrushes”これは歯ブラシと訳してよかろう。]

 私は郵便局の主事をしているファー氏に紹介された。同氏の話によると私宛の手紙を江ノ島へ転送することは、すこしも面倒でないらしい。昨年中に郵便切手を六千ドル外国の蒐集家に売ったそうである。米国へ行く郵便袋の各々に入っている手紙に貼った切手は、外国の蒐集家に、五十ドルから七十五ドルまでで売られるというが、何と丸儲ではないか。
[やぶちゃん注:明治9(1876)年の為替相場で1米ドルは0.98円であるから、50~75ドルは49~74円弱となり、当時の物価や相対的な裕福差から考えると、1円は1万円から20万円まで幅を持つが、それで計算すると前者なら49万~74万円、後者では何と980万~1480万円となるから、使い古しの日本切手の貼られたエンタイアは、まっこと「何と丸儲」も甚だしい美味しいものだったわけである。]

 この国の雲の印象はまったく素晴しい。空中に湿気が多いので、天空を横切って、何ともいえぬ形と色を持つ、影に似た光線が投げられることがある。日没時、雲塊のあるものは透明に見え、それをすかしてその背後の濃い雲を見ることも出来る。朝は空が晴れているが、午後になると北と西の方向に雲塊が現われ、そして日暮れには素晴しい色彩が見られる。


M123

図―123

 私は前に、私が今迄見た都会の町通りに、名前がついていないという事実を述べた。横浜では地面が四角形をいくつもならべたような具合に地取りしてある。聞く所によると、町通りはもとの区画に従わず、地所が小区域に転貸されると、それ等の場所へ達する町通りが、ここに出した図面に示すように、出来るのだそうである(図123)。どこでもさがそうとする人は、元の区域の番地を知っていなくてはならぬ。番地には引き続いた順序というものがない。一例として、グランド・ホテルは八十八番だが、八十九番は四分の三マイルもはなれた所にある。地所は最初海岸から運河まで順に番号づけられ、運河に達すると再び海岸に戻って、そこから数え出したのであった。
[やぶちゃん注:「三マイル」約4・8キロメートル。]


M124

図――124

 この国の庭園にはイシドーロ、即ち石の燈籠という面白い装飾物がある。形はいろいろだが、図124ではその二つを示した。これ等はたいてい苔で被われ、いずれも日本の庭園で興味あるのみならず、米国の庭に持って来ても面白かろうと思う。小さなランプか蠟燭を、特にこの目的でえぐり取られた上部に置く。これはその周囲を照らしはしない。恰度海岸の燈台が航海者を導くように、夜庭園の小径を歩く人の案内者の役をつとめる丈である。

[やぶちゃん注:ここに有意な行空きがなされている。PDFの原文も同じ。]

(放散する電光のやうに、あめいばの觸手のやうに、彼女は無數の手を所有して居る、手は上下左右四方八方十方世界に伸びて行く……) 萩原朔太郎

 

放散する電光のやうに、あめいばの觸手のやうに、彼女は無數の手を所有して居る、手は上下左右四方八方十方世界に伸びて行く。


彼女は卽ち女體の佛である。

 

[やぶちゃん注:底本第三巻「未發表詩篇」より。無題。]

わらひのひらめき 大手拓次

 わらひのひらめき

あのしめやかなうれひにとざされた顏のなかから、
をりふしにこぼれでる
あはあはしいわらひのひらめき。
しろくうるほひのあるひらめき、
それは誰(だれ)にこたへたわらひでせう。
きぬずれのおとのやうなひらめき、
それはだれをむかへるわらひでせう。
うれひにとざされた顏のなかに咲きいでる
みづいろのともしびの花、
ふしめしたをとめよ、
あなたの肌のそよかぜは誰(だれ)へふいてゆくのでせう。

鬼城句集 夏之部 端午

端午    老いぼれて武士を忘れぬ端午かな

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