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2013/07/31

中島敦漢詩全集 十五

  十五

 

 日曜所見

 

落葉空林徑

相逢碧眼孃

嬌嫣牽狗去

猶薰素馨香

 

○やぶちゃんの訓読

 

落葉 空林の徑(こみち)

相ひ逢ふ 碧眼の孃

嬌嫣(けいえん)として狗(いぬ)を牽きて去んぬ

猶ほ素馨香(そけいかう)の薰んずるがごとし

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「空林」悉く落葉した林。

・「碧眼」ここでは白色人種の青い瞳を指す。

・「」ここでは年若い女性を指す。

・「嬌嫣」「嬌」は愛くるしい。「嫣」は容貌が美しい。従って、美しく愛くるしいさま。

・「」犬

・「」「~のようである」との意の他に、「いまだに」との意がある。この詩では前者の意で捉えることもできるが、読者に陶酔をもたらす詩の余韻が増幅されることを期待し、敢えて「いまだに残り香が漂っている」というニュアンスを大幅に意識したい。

・「」「草花の香り」という名詞的用法もあるが、動詞として「熏」と同音同義で用いられることもある。すなわち、いぶすこと、鼻をつくこと。ここでは動詞として解釈し、「香る」という意に捉えたい。

・「素馨」ソケイ、別名ジャスミン。なお、現代中国語で花の名としてのジャスミンは「茉莉花」である。

 

T.S.君による現代日本語訳

 

 ある日曜の邂逅

 

幹と枝だけの疎林に冬陽が射し込む キラキラと――梢に透ける天空――

落葉散り敷く小径で行き遇ったのは――異国の少女 ブルーの瞳輝く――

犬を引く――その愛くるしい顔 スラリと伸びた手足 ステップ軽く――

擦れ違う――刹那私の顔を撫でたジャスミンの淡い夢 消えぬ残り香――

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 顔に当たる微風の、透明な、乾いた、肌に心地よい冷たさ――。

 どんな小さな音をも遠くまで忠実に伝える、適度な緊張を孕んだ冬の大気――。

 ふと道端の、どこまでも明るい疎林の奥を見透かせば、冬の陽が、樹々の間を縫って、しっかり斜めに射し込み、地面に達しているのが見える。その光線の眩い燦めき――。

 気づけば、冬の雑木林の底に積もった落ち葉を踏みしめる、乾いた私の足音――。

 

 さて、そこへいつの間にか別の乾いた足音が混じる。ああ、向こうから少女がやって来たのだ。それにしては、どうも足音が多い……。そうか、犬も一緒なのか。そういえば犬の息も聞こえるではないか。彼らはぐんぐん近づいて来る。ああ、青い瞳――異国の少女! そして彼女の子鹿のような肢体と、取り澄ましながらも頬はやや上気した愛くるしいその表情が、あっという間に私と擦れ違って行く。

 

 西洋の少女が持つ、日本の少女が持ち得ない軽やかさ――言うまでもなく、肌や眼や髪の色、洋服などに起因する軽み(仮にここを日本の少女で代替してみよう。詩世界が一気に瓦解するのが、読者にもお分かりいただけるであろう)――。

 同時に、西洋の少女だからこそ詩人や読者に感得させられること……、日本の土地から遊離することで実現する夢――お伽話的な魔法による、風土への絆との一時的遮断――。

 そして、犬を連れての散策であることから生じる心理的な軽やかさ――同時に、犬の速い足に合わせるための物理的な足取りの軽さ――。

 また、愛くるしい少女に触発された詩人の泡立つ心――。

 最後に――ほのかに、しかしいつまでも漂う――淡く、軽く、心持ち華やかなジャスミンの芳香――。しかも――それは、体温を持ち、溌溂と生きている生身のその少女から発せられた微香――。

 

 全ての舞台設定がこんなにも素直に、そしてこんなにも見事に、詩世界の構築に寄与しているなんて! しかも、全ては当たり前のようにごく自然に立ち現れる。作為的な場面設定の仕儀を全く感じさせないのだ。その結果、詩人の歩む林は、いつの間にか、西洋の少女にこそ似つかわしい林、すなわち国木田独歩(中島敦が生まれた前年にこの世を去った)が発見し定着させた『武蔵野』の林――近代的景観としてのスマートなそれが、読者の心の中に見事に立ち上がる。以下、当該作中の絶唱(私はそう信じている)とも言うべき二箇所を引用する[やぶちゃん注:二箇所の引用はT.S.君の指定箇所に従い、作成した「武蔵野」初版本底本のテクストより引用した。一部にある脱字補填の記号を省略した。]。

 

   *   *   *

 

楢の類だから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私語く。凩(こがらし)が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲へば、幾千萬の木の葉高く大空に舞ふて、小鳥の群かの如く遠く飛び去る。木の葉落ち盡せば、數十里の方域に亘(わた)る林が一時に裸體(はだか)になつて、蒼(あを)ずんだ冬の空が高く此上に垂れ、武藏野一面が一種の沈靜に入る。空氣が一段澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞へる。

 

       §

 

鳥の羽音、囀る聲。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ聲。叢(くさむら)の蔭、林の奧にすだく虫の音。空車(からぐるま)荷車(にぐるま)の林を廻(めぐ)り、坂を下り、野路(のぢ)を横ぎる響。蹄で落葉を蹶散(けち)らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乘に出かけた外國人である。何事をか聲高(こわだか)に話しながらゆく村の者のだみ聲、それも何時しか、遠ざかりゆく。獨り淋しさうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲聲。隣の林でだしぬけに起る銃音(つゝおと)。自分が一度犬をつれ、近處の林を訪ひ、切株に腰をかけて書(ほん)を讀んで居ると、突然林の奧で物の落ちたやうな音がした。足もとに臥(ね)て居た犬が耳を立てゝきつと其方を見つめた。それぎりで有つた。多分栗が落ちたのであらう、武藏野には栗樹(くりのき)も隨分多いから。

 

   *   *   *

 

 私たちは、この詩の出来事を、いかにも実際に経験しそうではないか。いや、そうではない! 本当に、昔どこかで経験したのではないだろうか? 誰にもそんなデジャ・ヴュを感じさせるものが、この詩には、確かに、ある。

[やぶちゃん注:私はこの漢詩と、次に示す中島敦の「小笠原紀行」の二首に現われる少女がオーバー・ラップすることを禁じ得ないということをここに特に注しておきたく思う(「帰化人部落」という前書を持った三首より二首。一首目の前にある前書も示した)。

  

    奧村に歸化人部落あり、もと捕鯨を業とする亞米利加人なりしといふ

小匝(こばこ)もち娘いで來ぬブルネット眼も黑けれど長き捷毛や

紅(あか)き貝茶色の貝(かひ)と貝つ物(もの)吾にくるゝとふ歸化人娘

 

リンク先は私のブログの当該歌群三首。]

 

 詩人はリラックスしている。肩に力など入っていないし、拳を握ってなんかいない。眉間に皺など寄せていないし、ため息などついてもいない。……

――冬の低い太陽に照らされた詩人の顔が

――口元にほんの少し湛えられた笑みが

見える。……

――足を止め、耳を澄ませて、少女の去った小路を振り返り

――ただ静かに佇んで眺めている詩人の姿が

見える。……

 

 中島敦という詩人が持っていた懐は、実は非常に深いのだ。こんなにも明るい、塵労を感じさせない、きらめく一種の情趣を、顔を上げて、ひたすらに自然体で歌うこともできるなんて……。そして驚くべきことに、純粋で確固たるこの詩境!

 私には、かすかに聞こえる。この情景には、他でもない、ショパンが、最も似合うのではないか……。曲は――? そう、エチュード十三番変イ長調……。

[やぶちゃん注:ショパンのエチュードの傑作中の傑作、第十三番変イ長調(Op.25-1)「エオリアンハープ」(シューマンの命名)はまた、「牧童」という別名をも持つ。これはショパンが雨宿りの牧童が静かに笛を吹く姿を想像して作ったという伝聞に基づく。リンク先は、私が選んだ“Wilhelm Backhaus plays Chopin Etudes Op.25”である。]

 

 なお、私はこの詩を、敢えて対比させることはしたくない……当時の日本の世相――頭に血が上って視野が狭まり、全世界を相手にヒステリックな喧嘩を売りまくろうとしていた世の中――とは……。そんなことは、決してしたくないのだ。この詩はこれだけでもう、完璧なのだ。ほかの何ものの付加も説明も要らない。ましてや、大上段に構えた抽象的な社会のことなど、いかなる理由があっても、何があっても、偉そうに改めて持ち出したくないのだ……。

 

 ところで、私は『詩世界の構築』と書いた。しかし、この詩世界は、殊更に作為された痕跡が殆ど見られず、この上なく自然であるように感じられる。これはまた、架空の設定ではなく、詩人が実際に経験した事実に基づくものであるからに違いない。

 彼は横浜に住んでいた。西洋人も多かった。大戦前の世情騒然としつつある時代でも、横浜には多くの外国人が住んでいた。とりわけ、彼が奉職していた学校のあった元町に隣接した山手の丘の上には、明治以来の日本にあって、独特の異国情緒豊かな一角があった。

 そして林。山手の丘の上で林といえば、我々は真っ先に根岸森林公園を想起する。しかしそこは旧根岸競馬場であった。中島敦が亡くなった一九四二年に中止されるまで、競馬は開催されていたらしいから、詩の舞台として、直接結びつける訳にはいかない。しかし、山手の丘の上は、今よりずっと長閑で、雑木林なども点在していたと考えてよかろう。少なくとも、急な傾斜地まで何かに憑かれたように宅地造成してしまう現代とは明らかに異なっていた。

 日本でありながら、日本でないような空気を、呼吸できる街――私はそんな『横浜』を想う……。ただし、誤解しないでいただきたい。私は『今の横浜』を言っているのでは、ない……。私が幼い頃、まだ現実にそんな片鱗が残っていたのではないかと思えるような、私の中に何か切なく懐かしくあるところの、『イメージとしてのヨコハマ』を、である……。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 21 西南戦争に赴く兵士たち

 東京への途中、兵隊が多数汽車に乗って来た。東京へ着いて見ると、道路は南方の戦争、即ち薩摩の叛乱から帰って来る軍隊で一杯であった。停車場の石段には将校が何人かいたが、みな立派な、利口そうな顔をしていて、ドイツの士官を思い出させた。私は往来の両側を、二列縦隊で行進する兵士の大群――多分一連隊であろう――を見たが、私が吃驚する暇もなく、私の人力車夫は片側に寄らず、もう一台の人力車の後について行列の間に入って了い、この隊伍の全長に沿うて走った。私は兵士達を見る機会を得た。色の黒い、日にやけた顔、赤で飾った濃紺の制服、白い鳥毛の前立をつけた短い革の帽子……これが兵士であり、士官はいい男で、ある者はまるで子供みたいだが、サムライの息子達で、恐れを知らぬ連中である。私を大いに驚かせ、且つよろこばせたのは、私に向って嘲笑したり、声をかけたりした者が、只の一人もなかったという事実である。彼等は道足で行進しつつあり、ある者は銃を腕にのせ、ある者は肩にになっていたが、それにしてもこれ程静かな感じのする、規律正しい人々を見たのはこれが最初である。事実彼等は皆紳士なので、行為もそれにふさわしかった。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、これは西南戦争の出兵の様子である。これは磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の復元日録から察するに、恐らく八月十八~二十一日前後の出来事ではないかと推測されるが(後述)、当時の西南の役は西郷隆盛が南進を始める(八月二十二日)直近、九月一日の城山籠城戦への突入直前という最終局面に達しつつあった(西郷の自刃は九月二十四日)。この描写された征討部隊も、後にこの籠城の最終戦に参加した人々とも思われる。
「彼等は道足で行進しつつあり、」原文は“They were marching along in fatigue fashion ;”である。「道足」という日本語がよくわからないが、「並足(なみあし)」(普通の足並み)のことか? しかしこの“in fatigue fashion”という語にそのような意味があるのだろうか? “fatigue”には軍事用語として、特に罰としての雑役“fatigue duty”、作業衣・野戦服“combat fatigue”の意があるから、寧ろ私は、
 野戦服に身を包んで並んで後進しつつあり、
と訳したくなるのだが(但し、通常、野戦服の場合は複数形を用いると辞書にはあるが)。識者の御教授を乞う。
 なお日の同定については、八月十八日が教育博物館(国立科学博物館の前身)の開館式であったことから(但し、磯野先生は『モースの出欠は不明』とされておられる)、同月二十一日は、モースが東京上野で開かれた第一回内国勧業博覧会開会式に出席していることにより、私が前後あえて言ったのは、磯野先生が二十一日の条に『この頃彼は東大に行き、生物学関係の教室と研究室を下見した』とあることによる。実は次の次の段落にその下見の様子が描かれており、本段落もその同日の直前の実見記であるようにも読めるのである(モースが別の日の記憶を繫げた可能性も捨てきれないが)。]

教育? 萩原朔太郎

          ●教育?

 教育は、猿を人間にしない。ただ見かけの上で、人間によく似た樣子をあたへる。猿が、教育されればされるほど、益〻滑稽なものに見えてくる。
 もとより猿に關しては、初めの目的がそれである。充分の愛矯であり、道化者であることが、猿芝居における、教育の最終の理想である。これが人間の場合にあつては、別の理想が考へられてる。但し恐らくは、ただの理想にすぎないところの、ずつと超自然的な目的が!
 人間どもの、悲しき夢の一つである。

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「社會と文明」より。]

少年とタコノキ 三首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    更に奧村を行けば十歳ばかりの少年

    馴々しく話しかけわが爲に章魚木の

    實をとらむとて木に攀づ

章魚木(たこのき)にのぼる童の眼は碧く鳶色肌の生毛(うぶげ)日に照る

ナイフ光り實は落ちにけり少年もとびおりたれど砂にまろびぬ

根上りし章魚木の東根に背を凭(も)たせやゝに汗ばむ少年の顏

[やぶちゃん注:前書は一文前が連続であるが、適宜改行した。先に注で示した通り、タコノキは夏に数十個の果実が固まったパイナップル状の集合果をつけ、果実は秋にオレンジ色に熟し、茹でて食用としたり、食用油を採取する原料とする。この記載(ウィキタコノキ」に拠る)では季節的に(中島敦の来島は三月下旬)どうかと思ったが、こちらの方の三月十六日附(二〇〇九年)の小笠原旅行中のブログに、熟したタコノキの実がそこここにあり、実のなっている画像も示されている。]

あなたの一言にぬれて 大手拓次

 あなたの一言にぬれて

まどはひかりをよびかはして、
ことごとにかなしみのうつりがを消し、
あゆみもおそく たそがれをあはくぼかして、
うるはしくながれのなかにとけてゆく。

鬼城句集 夏之部 蛞蝓

蛞蝓    蛞蝓の歩いて庭の曇かな

      蛞蝓の土くれを落ちてしじまりぬ

[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記、「じ」は踊り字「〵」の濁点のあるもの。「しじまりぬ」の「しじむ」は「蹙む・縮む」で、ちぢむ、小さくなるの意。]

2013/07/30

明恵上人夢記 19

19
 同十四日、丹波殿の事に依りて京に出づ。同十五日、對面を辭退して山に登る。其の夜、夢に云はく、或る處に法會を行じて、之を聽聞す。法智房(ほふちぼう)が云はく、「入我我滅之佛事よ」と云々。成佛房(じやうぶつばう)、導師と爲(な)りて、神分(じんぶん)之處、發句に云はく、「入滅之砌(みぎり)なれば」と云々。又、教化之發句に、「鏑矢(かぶらや)を射るが如し」と云々。其の後、座を起(た)ちて、やはら成辨之頭を踏む事三度、又、傍にある人の頭を三返、之を踏むと云々。

[やぶちゃん注:「同十四日」元久二(一二〇五)年十月十四日。
「丹波殿」不詳。文脈上、「對面を辭退し」た相手はこの「丹波殿」ととっておく。
「法智房」底本の注に、『明恵の同行者の一人、性実。文応元年(一二六〇)入寂。八十三歳。』とあるから、当時、法智房は満二十七歳(明恵は満三十二歳)。
「入我我滅」仏法の真実の域に身を委ねて自己を滅却、仏と一体化すること。
「成佛房」不詳。
「神分」仏事法要の部分名。広狭二義に用いる。法要の導師が諸天諸神のためにその解脱増威を祈願する句を唱えるのが狭義の神分で「総神分(そうじんぶん)」とも称する。「大梵天王帝釈天王を始め奉り……」などと名号を挙げて「……に至るまで、離業証果(りごうしようが)せしめ奉らんがために、総神分に般若心経、大般若経名」などと結ぶ。仏教に於いては神の世界は迷界の六道の一つであって神通力はあるものの、業苦を離れられないため、功徳を求めて法要の場に来臨している、と考える。そこで、その神々のために経文や経題を唱誦することから「神の分」と言うのである(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

■やぶちゃん現代語訳

19
 同十四日、丹波殿のことに関わって京に出た。同十五日、結局、丹波殿との対面を辞退して筏立の山に戻った。その夜、見た夢。
『ある所にて法会が行(ぎょう)ぜられている。それを私は聴聞している。
 法智房がいて
「入我我滅の仏事であることよ!」
と讃嘆している。
 見ると成仏房が導師となっている。
 彼は丁度、神分(じんぶん)を唱誦しているところで、その発句は、
「入滅の砌りなれば!」
であった。また教化の箇所の発句には、
「鏑矢を射るが如し!」
と高らかに誦した。
 と、その直後、成仏房は座を起って、やおら、私の頭を踏むこと、三度――また、傍らにあった御仁(誰であったかは失念)の頭を同じく三返、これを踏むのであった。』

栂尾明恵上人伝記 53 仏法の不審又は生死に関わる問題以外は面会謝絶

 又、僧俗來りて對面を望む人には、侍者を出して、何事の御用候哉。若し法門御不審の事候か、又生死一大事を仰せ合せられ候はん爲に候か、若し然らざれば只雜談(ざふだん)の御料(ごりやう)に候か、徒に雜談は若(わか)くよりし候はじと、聊か心中に願を立て侍り、今更破るべきに候はずとて歸されけり。

『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 12 兒が淵

 

    ●兒が淵

 

新編鎌倉志に云く龍穴へ行く坂の巖下。右の方の海水碧潭如藍なる所を云ふなり。昔建長寺の廣德菴に、自休藏主と云ふ僧あり奧州志信の人なり。江の島へ百日參詣しけるに。雪相承院白菊と云ふ兒。是も江の島へ參詣しけるに。自休藏主邂逅してけり。いかにもして忍びよるべき便りを云けれとも。絕(たえ)て其の返事たになし。猶さまさま云聞かすれは。白菊せんかたなくて。或夜まぎれ出で。又江の島へ行。扇子に歌を書て。渡守(わたしもり)を賴み。我を尋ぬる人あらは見せよとて。

 

 白菊としのふのさとの人とはゞ思ひ入江の島とこたへよ

 

 うきことを思ひ入江の島かけに捨(すつ)る命は波の下くさ

 

と詠(よみ)て此淵に身を投たり。自休尋ね來て此事を聞き。かく思ひ續けゝる。

 

[やぶちゃん注:以下は底本では連続して書かれ、全体が一字下げであるが、七言律詩であるので、二段組で行分けした。]

 

 懸崕嶮處捨生涯。  十有餘霜在刹那。

 

 花質紅顏碎岩石。  娥眉翠黛委塵沙。

 

 衣襟只濕千行淚。  扇子空殘二首歌。

 

 相對無言愁思切。  暮鐘爲孰促歸家。

 

又歌に

 

 白菊の花のなきけの深き海にともに入江の島そ嬉しき

 

と詠みて其儘海に沈むとなん。故に兒が淵と名くとなり。岩の間に白菊が石塔あり。右詩題は滑稽詩文に載たり。自休が像法華堂にあり。

 

[やぶちゃん注:「碧潭如藍」碧潭、藍のごとく。

 

「志信」「しのぶ」と読む。信夫郡。陸奥国及び後に分立した岩代国(現在の福島県)にあった。

 

 さて、自休の七律は、私の「新編鎌倉志卷之六」のそれとは以下の異同がある。

 

・「懸崕嶮處捨生涯」の「崕」は「崖」

 

・「娥眉翠黛委塵沙」の「委」は「接」

 

いずれが正しいかは不詳。「新編鎌倉志卷之六」で訓読したものを参考にして以下に書き下しを示す。

 

 懸崕 嶮しき處 生涯を捨つ

 

 花質 紅顏 岩石に碎け

 

 十有餘霜 刹那 在り

 

 娥眉翠黛 塵沙に委ぬ

 

 衣襟 只だ濕ふ 千行の淚

 

 扇子 空しく留む 二首の歌

 

 相ひ對して言ふ無し 愁思 切なり

 

 暮鐘 孰(た)が爲にか 歸家を促す

 

 以下、筆者が「新編鎌倉志卷之六」をほぼそのままに引用したように、私が新編鎌倉志卷之六」で施した注をそのまま引用しておく。

 

 西御門にある来迎寺には抜陀婆羅尊者(ばったばらそんじゃ)木像があるが、これは別伝でこの自休和尚の像とされる。実は来迎寺本尊如意輪観音像とこの像は、その過去を辿ってみると、報恩寺→太平寺→法華堂→来迎寺と目まぐるしく鎌倉内を移動している。特にここで法華堂が直前の所蔵であったことに着目したい。来迎寺に迎えられたのは実は明治の廃仏毀釈令以降であることが分かっている。そしてそれまで近世の法華堂は鶴岡八幡宮の管理下にあったことも分かっている。しかも、この話柄の主人公美少年白菊は鶴岡八幡宮寺二十五坊の一つ「雪下相承院」の稚児なのである。本文最後の「自休が像、法華堂にあり」とは、島内にあったかも知れない法華堂ではなく、正に鎌倉西御門の法華堂であることを意味していると考えてよい。私が言いたいのは、この来迎寺の像が自休像であるかないかの実証とは無関係に、本記載の最後に言う「自休が像」と来迎寺に現存する抜陀婆羅尊者木像(伝自休和尚像)は同一物であるということである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 20 祭文語り



M185
図―185

 

 私の頭は大きな貝を共鳴器として使用する歌い手、或は話し家に関係する騒音と新奇さとで、ガンガンする程である。彼の写生図(図185)は割によく似ている。彼は学生達の招きに応じて、往来の向うから、私の部屋へ入って来た。学生達は、私がこの男の立てつつある音に興味を感じたのに気がついて、呼んだのである。彼は低い、机に似た将棋盤の前に坐って恐ろしく陰気な音で吹き続けた。その音は、犢(こうし)の啼くのを真似したら出来そうであるが、然し調子には規則正しい連続があり、私にはそれが明かに判った。時に彼は咳をしては声を張り上げ、息を吸い込む時には、悲哀のドン底に沈んでいる人みたいな音を立てた。貝殻をプープーやると同時に、彼は片手に、木の柄に何かの金属をつけて作った、奇妙なガランガランいう一種の鳴鐘器を持っていた。この金属の一端は半インチ足らず前後に動いて、カランカランと弱々しい音を立てた。しばらくこのような音を立てた上で、彼は喇叭(ラッパ)を下に置き、歌を唄ったのと同じ調子で吟誦し、徐々に談話に移って行ったが、それにも時々歌と、それから貝殻が出す憂鬱な音とが入り込んだ。日本の学生達は彼の談話のある所々で、笑いを爆発させた。私は彼の貝殻、小さな木のかたまり、及び彼がビシャツと机を叩いて話に勢をつける扇形の木箆(へら)を更によく見ようと思ったので、彼のこの演技に対して十セント支払った。すると彼は私がこれ等の物品に興味を持っていることを知り、お礼がいいのを有難く思って、私に木片と、例の叩く物とを呉れた。図186は話し家の道具の一つを示している。

 



M186
図―186

 

[やぶちゃん注:これは「祭文語り」「祭文読み」の末裔である。祭文語りはもとは地方遍歴の山伏などが祈禱の際に、法螺貝や錫杖などを鳴らして祭文を語って、門付して歩いたものをいうが、これが大衆に迎えられて芸能化し、江戸の初期には、遊里などで法螺貝の代わりに三味線を伴奏に流行歌謡や浄瑠璃を取り入れた人情物(歌祭文)を語る芸人と化した。そうした義大夫節・豊後節の諸浄瑠璃から江戸長唄に取り入れられて残ったのが「歌祭文」となり、内容が極端に卑俗化したものが「ちょぼくれ節」とになって分れた。「貝祭文」とか「でろれん祭文」と称したが、「でろれん」は法螺貝は口に当てるだけで吹かず、客の方がその擬音である「でろれん!」の合いの手を入れたことによる。参照した三谷一馬「江戸商売図絵」(一九九五年刊中公文庫版)によれば、法螺貝を吹き鳴らした(若しくは吹く真似をした)後に『錫杖を握ってガチガチと調子を合わせて歌い出』『すが、発声に「ヘェー」といってから文句にかかる』のが特徴であったとある。浪曲の源流ともいわれる。

「図186」は張扇である。以下、今の「ハリセン」の正統なルーツは知らなかったので、以下に参照したウィキ扇」から、引用しておく。張扇(はりおうぎ・はりせん)は『能楽や講談、落語(上方落語)においてものをたたいて音を立てるためにつくられた専用の扇子のことをいう。能楽では「はりおうぎ」、講談では「はりせん」ということが多い』。『古く雅楽において笏によって拍子をとる笏拍子なる役掌が見られ、古浄瑠璃にも同様の扇拍子と呼ばれるものがあったことを見てもわかるように、拍子楽器として近世以前の日本でもっとも広くかつ簡便に用いられたのは、手に持つ道具によって手のひらを打つことであった。近世以降、鼓を中心とする打楽器の飛躍的な発達と流布によって扇拍子は徐々に下火になっていったが、その簡便さから専用の張扇によって扇拍子の残った例も少なくない』『能楽では、アシライと称して、稽古や申合せの際に、小鼓・大鼓・太鼓を扇拍子で間に合わせることがある。これはあくまで略式の演奏であるとされるが、特に大鼓のように道具の準備に時間のかかる楽器においてはすぐれた代替法として用いられており、音色よりも間を尊重する能楽の楽器にあっては当を得た奏法であるといえる。それぞれ専門の職掌の者が行うほかに、謡の稽古の際に師匠がアシライをすることもある。なお、張扇を用いることはないが、舞台上で鼓が破れた場合には扇拍子でアシライを打つのが正規の代替法であり、江戸期までは素謡の席で地頭が扇拍子をとって地を統率することもあった』。『講談では釈台を張扇で叩いて、場面転換の合図にしたり、山場で調子を出したりするときに用いる。上方落語における用法もだいたいはこれに準じているといえる。史実を無視した荒唐無稽な作り話を「張扇の音と一緒に叩き出した」「張扇の音がする」などというのは、このため』である。能楽の扇拍子は、『通常の扇子を二つに割り、全体に紙を巻き、さらに上から皮もしくは紙で化粧貼りをした上で、要のあたりに持手をつける。二本一対で用い、欅製などの拍子板を打つ』。講談などの張扇は『だいたいは能楽のそれと同様だが、最初から張扇専用に、かなり大き目のものをつくる。場合によっては、単に扇のかたちをしているだけで、紙貼などによって型で作ることもある。基本的に一本で使用し、釈台や見台を叩』いて使用する、とある。]

耳嚢 巻之七 幽靈恩謝する事 その二

   又

 多喜安長へ隨身(ずゐじん)なしける醫師、安長世話致、松浦(まつら)家へ貮拾四歳にて抱(かかへ)に成りしが、無程(ほどなく)痛疽(つうそ)の病にて身まかりぬ。病中も安長厚(あつく)世話致(いたし)、療治不屆(とどかず)相果(あひはてし)故不便(ふびん)に思ひ居(をり)しに、或夜安長が許へ出入藥種屋藤藏、彼(かの)醫師相果し事しらず、與風(ふと)道中にて右醫師に行合(ゆきあひ)にける。扨々久々にて對面なしたり、我も病氣にて久々引込居(ひきこみをり)たり、扨安長に數年世話にも成り、松浦家へも右口入(くちいれ)にて抱られ、病中も厚世話に成(なり)、誠に其恩可謝(しやすべき)に限(かぎり)なし。何卒安長へ至りなば、我斯(かく)申遣(まうしつかは)しと厚(あつく)咄し禮謝しを賴入(たのみい)る由申(まうし)けるにぞ承諾して立別(たちわかれ)、其日にもや明日にや安長方へ至りしに、彼醫師に行逢(ゆきあひ)しに言傳(ことづて)禮の趣(おもむき)語りければ、其者はいついつ相果ぬると語りければ、右藥種屋も大きに驚き、安長方にても何れも驚きしは、忘念(ばうねん)殘りてかゝる事もありしや、哀(あはれ)なる事也(なり)。いづれも袖をぬらしけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:亡魂謝礼譚その二。
・「多喜安長」不詳。名前からしても医師である。
・「松浦家」肥前国平戸藩。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であり、そうすると「甲子夜話」で知られた第九代藩主松浦清(静山)がまさに隠居した年である。「耳嚢」と並ぶ画期的な随筆集「甲子夜話」(正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻)はこの十五年後の文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜に執筆が開始されている。……ここをかりて何気に申しておくと、近い将来、私はこの「甲子夜話」の全テキスト化を始めようと目論んでいる。……
・「痛疽」前章注で述べた通り、文字通りならば、背中などに出来る激痛を伴う悪性の腫れ物、癰(よう)の類を指そう。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『瘴疳』とし、前章の注で示した通り、長谷川氏によるとバークレー校版は「*」[やぶちゃん字注:「*」=「疒」+(「降」-「阝」)。](「★」[やぶちゃん字注:「★」=「疒」+「争」。]とも見える字)『を書き瘴と訂正している』とある。「瘴疳」とはやはり前章注で示した通り、「傷寒」で高熱を伴う疾患をいう。
・「禮謝しを」底本では「しを」の右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『厚く咄し禮謝しを賴入(たのみいる)」由申けるにぞ』とある(引用に際して正字化した)。
・「忘念」底本では右に『(亡念)』と訂正注記を附す。

■やぶちゃん現代語訳

 幽霊の恩謝する事 その二

 医師多喜安長(たきあんちょう)殿に弟子として従って御座った医師某(ぼう)は、安長殿がお世話致されて、松浦(まつら)家へ二十四の歳にてお抱えの医師となったが、ほどのう、痛疽(つうそ)の病のために身罷ったと申す。
 病中も師安長殿が厚く世話致されたが、薬石効なく、相い果てて御座ったゆえ、安長殿も殊の外、不憫に思っておられたと申す。
 ある夜のことで御座った。
 安長の許へ出入致いておる薬種屋藤蔵(とうぞう)なるもの――彼は、かの医師が既に相い果てて御座ったことを知らなんだ――、ふと往来にて、かの医師に行き合うたと申す。
 すると亡くなったはずの、かの医師は、
「これは、藤蔵殿! さてさて久々に対面(たいめ)致いた。我らも病気にて久しく引っ込んでをりましたゆえ。……さても、安長さまには、まっこと、数年来お世話になり、松浦家へもかくの如くご紹介戴いて、目出度く抱えられもし……かの病中にも、厚きお世話を頂戴致いて――まっこと、その恩、謝すべきに限り御座らぬ。……何卒、安長さまの元へ参らるることが御座いましたら、我らがかく申して御座ったと、くれぐれも宜しゅう……礼謝のほど……きっと、お頼み致しまする……」
と、申したによって、請けがった上、そこ場は別れたと申す。
 さて――その日か、その翌日のことか――藤蔵、安長方へ参ったによって、
「○○さまに往来にて行き逢いまして――」
と先の言伝(ことづ)ての趣きを語り出だいたところが、安長殿、
「……その者は……いついつ……とおに……相い果てて御座るが……」
と語ったればこそ、この薬種屋藤蔵も、安長殿も、孰れも大きに驚き、
「……死後の魂の念が、これ、残って御座ったものか。……このようなこともあるのじゃのぅ。……いや、全く以って哀れなることじゃ……」
と、二人して袖を濡らいたと、話に聴いて御座る。

自殺の恐怖 萩原朔太郎 (「自殺の恐怖」初出形)

 

 

 自殺の恐怖

 

 自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。

 

 だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い舗石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!

 

 この幻想の恐ろしさから、私はいつも幽靈のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語る者が少なくあるまい。彼等はすべて墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。 

 

[やぶちゃん注:『セルパン』創刊号・昭和六(一九三一)年五月号に掲載された。但し、「斷じて自分は死にたくない。死にたくない。死にたくない。」の最後の「死にたくない。」は「死にくない。」で脱字であることから補って示した。太字「はつきり」は底本では傍点「ヽ」。後に、詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に所収されたが、そこでは標題が「自殺の恐ろしさ」に変わり、以下に見るように幾つかの細部に変更が加えられている(その間の「絶望への逃走」(昭和一二年第一書房刊)にも「自殺の恐ろしさ」とした「宿命」版に近い中間形態のものが存在するが、ここでは特に問題とせず、以下を本散文詩の一つの最終形と捉えておく)。

 

   *

 

 自殺の恐ろしさ 

 

 自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。

 

 だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、雷光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!

 

 この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。

   *

 私は高校二年の時、二篇の小説を書いたのを覚えている(後に廃棄し手元にはない)。その一つは「飢餓海峡」のエンディングの続きと思しいシチュエーションで、一人の男が青函連絡船から入水自殺を図りながら、突如、死にたくなくなり、その死の恐怖に襲われつつ、手錠のままに海の藻屑となるまでの十数分間の男の意識を描いたものだった。今一つは、定年退職した老数学教授が全く無理由に厭世的になり、マンションのベランダから投身自殺をするのだが、その落下から舗道への激突と死に至る数分の中で、「ポアンカレ予想」(「単連結な三次元閉多様体は三次元球面Sに同相である」という命題)が解けてしまう、というものであった(これは後に、二〇〇二年から二〇〇三年にかけて、ロシア人数学者グリゴリー・ペレルマンによって証明されたとウィキポアンカレ予想」にある。私がこの小説を書いたのは1973年であった)。……このアフォリズムを読みながら、そんなことや、芥川龍之介のことや、「こゝろ」の先生のことを思い出していた……]

 

 

帰化人部落 三首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    奧村に歸化人部落あり、もと捕鯨を業とする亞米利加人なりしといふ

奧村のパパイヤの蔭に歸化人の家靑く塗り甘煮植ゑたり


小匝(こばこ)もち娘いで來ぬブルネット眼も黑けれど長き捷毛や


[やぶちゃん注:「ブルネット」ここは英語“brunet”(男性)の女性形“brunette”で褐色がかった髪のこと。“brunet”はフランス語“brun”(brown)+指小辞“-et”が語源。]


紅(あか)き貝茶色の貝(かひ)と貝つ物(もの)吾にくるゝとふ歸化人娘


[やぶちゃん注:「貝つ」の「つ」は格助詞で所属などを示すが、ここは、貝という貝を、という助数詞「つ」(個・箇)のニュアンスを含ませたか。

「歸化人」はウィキ欧米系島民に詳しい。この「欧米系島民」とは小笠原諸島に居住していたかつて外国籍(但し、ハワイ人やポリネシア人が含まれていて欧米系白人のみではない)を持っていて日本に帰化した(明治一五(一八八二)年に居住していた二十戸七十二人全員が帰化し日本人となっている)人々とその子孫を指す語である。小笠原への本格的入植は日本からではなく、一八三〇(文政一三)年のイタリア出身のイギリス人と称するマテオ・マザロを団長とするイギリス人二名・アメリカ人二名・デンマーク人一名の五名及びハワイ人男女二十五名(十五人とするものもある)がホノルルから出向、六月二十六日に父島に到着し、入植したのが最初とされ、マテオ・マザロからの報告を受けたサンドイッチ諸島イギリス領事代理は、入植地に原住民はいなかった、と同年の報告書に記しているとある(但し、十九世紀初頭に来島した者の航海日誌や探検報告書によれば小笠原諸島に自ら住みついた白人やカナカ人(色の黒い人)住人がいたことが記されており、一八二七(文政一〇)年には難破した捕鯨船の乗組員が数年居住した事実もウィキに記されてある)。小笠原は一八三〇年の『入植後も各国の捕鯨船が頻繁に寄港しており、物資や手紙のやりとりを託す連絡船として機能していた』が、文久元年十二月十七日(一八六一年十一月十六日)に江戸幕府が列国公使に小笠原の開拓を通告、一八六二年一月(文久元年十二月)には外国奉行水野忠徳の一行が咸臨丸で小笠原に派遣されている。明治九(一八七六)年に明治新政府は小笠原島を内務省所轄とし、日本の統治を各国に通告、それを受けて先に示した全欧米系島民の帰化が明治一五年になされた。『第二次世界大戦中、戦火が間近に迫っていることから小笠原諸島の全住民は、欧米系島民も含め本土へ疎開した』が、『戦後アメリカの統治下に置かれると、小笠原諸島は日本の施政権から切り離される。そして欧米系島民のみが帰島を許された。アメリカ統治時代は英語が公用語とされ、義務教育課程校のラドフォード提督初等学校で英語による教育を受けた』。昭和四三(一九六八)年六月二十六日の日本への『返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存している。アメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住したものもいる』。なお、『現在、欧米系島民の姓として代表的なものは、セイヴァリー→瀬掘・奥村(アメリカ系)、ワシントン→大平・木村・池田・松澤(アメリカ系)、ウェッブ→上部(アメリカ系)、ギリー→南(アメリカ系)、ゴンザレス→岸・小笠原(ポルトガル系)、ゲーラー→野沢などがあげられる』が、四~六世代目を『迎えた現在、大多数は日本人との混血となっており、外見上は日本人とほとんど変わらない人も少なくない。今でも小笠原の電話帳などでみられる、これらの姓は欧米系島民の入植者の子孫である』とある。『欧米系島民と呼ばれるものの、その出自は出版された航海日誌などで確認できるものとしては、アメリカ合衆国、ハワイ、イギリス、ドイツ、ポルトガル、デンマーク、フランス、ポリネシア原住民など多種多様』であるともある。この褐色の髪と黒き瞳の少女――存命ならば八十歳を越えておられよう――逢ってみたい気がする……]

思ひ出はすてられた舞踏靴 大手拓次

 思ひ出はすてられた舞踏靴

 

それは わたしの心(こゝろ)にくろいさくらの咲きつづく

うすぐもりした春(はる)の日(ひ)でした。

みどりの小石(こいし)をつづつて

しろい小羽根(こばね)のしたにあたためてゐたのに、

おともなく

あらしのまへのそよかぜのやうに、

あなたのすがたはみえなくなつてしまひました。

あなたの白文鳥(しろぶんてう)のやうなみぶりが、

きえたわたしの橋のうへに

たえだえにすぎてゆきます。

さきこぼれるしろばらのゆふやみのやうなあなたのかほは

わたしの手鏡(てかゞみ)のなかに

ふしぎな春(はる)のぼんぼりをともしてゐます。

まどろみからさめたあなたの指(ゆび)が

みがかれた象牙(ざうげ)のやうにあをじろんで、

ほろにがい沈丁花(ぢんちやうげ)のにほひをうつしてゐます。

ああ 思(おも)ひではすてられた銀(ぎん)の舞踏靴(エスカルパン)のやうに

くさむらのなかによろけながら、

月(つき)のかげをおしつぶしてゐます。

ただ あなたの指(ゆび)にふれたばかりで

はかなくわかれてしまつた戀人(こひびと)よ、

わたしは蜘蛛(くも)のやうにきずつけられて、

まだらのみを

風(かぜ)のなかにうごかしてゐるのです。

 

[やぶちゃん注:「白文鳥」スズメ目スズメ亜目カエデチョウ科ブンチョウ Padda oryzivora のアルビノの品種。ハクブンチョウとも呼ぶ。ブンチョウはジャワ島やバリ島が原産地であるが、本種は江戸期に中国から輸入されたブンチョウが明治期に突然変異して風切り羽の白い文鳥が生まれ、その後それが固定化されたものである(愛知県弥富市が「ハクブンチョウ」発祥の地とされる)。全身が白く、嘴と目の周囲が赤く、身体に丸みがある(帯広どうぶつ園の鳥  鳥図鑑」記載ウィキブンチョウ」を参照した)。

「舞踏靴(エスカルパン)」“escarpin”フランス語。現在は専ら婦人用パンプスを指す。]

鬼城句集 夏之部 金魚 / 蛍 

金魚    金魚の王魚沈で日暮るゝ

[やぶちゃん注:「金魚の王」蘭鋳(ランチュウ)のことか。私は想像しただけで、あの畸形身体には虫唾が走る。]

螢     さみしさや音なく起つて行く螢

[やぶちゃん注:名句と思う。]

       悼吾雲兄愛兒

      螢來よ來よ魂も呼で來よ

[やぶちゃん注:「來よ來よ」の後半は底本では踊り字「〱」。同じ夏の部の「蚊帳」の同じ「悼吾雲兄愛兒」という前書を持つ「枕蚊帳の翠微に魂のかへり來よ」の句の注を参照されたい。]

      市中になぐれて高き螢かな

[やぶちゃん注:「なぐる」には、横の方へそれる、の他に、おちぶれる・身を持ち崩す、売れ残る、仕事にあぶれる、といった意味がある。無論、横にそれて飛び消えてゆく嘱目のそれであるが、「市中」というロケーションの特異性が、蛍の持つ「さみしさ」と相俟って、「なぐれて」の意をそれ以外の意味をもずらして感じさせているようにも思われる。「村上鬼城記念館」公式サイト「鬼城草庵」の鬼城俳句と自画讃で雷神の絵を添えた短冊が見られる。

2013/07/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 19 仏壇/理髪業の携帯道具入

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図―183

 図183は家庭内の祠(ほこら)を、写生したものである。小さなテーブルの上にならんでいるコップは真鍮製で、赤い色をした飯が盛ってある。右の下には薩摩芋と、一種の蕪とに四本の木の脚をつけて、豚みたいな形にしたものがある。中の段には米の塊が二つと、桃をのせた皿とがあるが、先祖の中に虎疫(コレラ)で死んだものがありとすれば、桃の一皿はまことに暗示的なお供物であろう。もっともあまり気持のよくない思い出させではあるが――。祠の中央には仏陀の美しい像があった。これは最もみすぼらしい小舎にあった祠である。
[やぶちゃん注:「米の塊」底本では以下に『〔餅のことであろう〕』という石川氏の割注がある。
「桃をのせた皿とがあるが、先祖の中に虎疫(コレラ)で死んだものがありとすれば、桃の一皿はまことに暗示的なお供物であろう」意味不明。水で冷やした桃はコレラの感染源たり得ることはあるが、ここまでは言うまい。何か、コレラと桃との間に、それもモースのような一般的アメリカ人の人口に膾炙した虚偽の病因関連説があったとしか思われない。識者の御教授を乞うものである。]

 今朝私はサミセンガイを調べに実験所へ行ったが、昨夜極く僅かしか眠ていないので、起きていることが全く出来ず、断念して部屋へ帰り、短くて不安定なハンモックが提供する範囲で、最も気持のよい昼寝をした。明日で、家庭を離れてから恰度三ケ月になるが、その間、ホテルとドクタア・マレーの家とに泊った数夜を除くと、私は寝台という贅沢品を経験していない。三ケ月間の一部分は、米国大陸を横断する寝台車にいた。また十七日間は、汽船の最も狭い寝床で暮した。そして其後はありとあらゆる品物を枕の代用品として、ハンモックか、固い畳の上かに寝ているのである。

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図―184

 今迄に私は理髪店というものを見たことがない。床屋は移動式で、真鍮を張った、剃刀(かみそり)その他を入れる引き出しのある箱(図184)を持って廻る。この箱は何か色の黒い材木で出来ていて、真鍮の模様があり、油とびんつけの香がぶんぷんする。鋏は我国で羊の毛を切る鋏に似ている。剃刀は鋼鉄の細長くて薄い一片で、支那の剃刀とはまるで違う。剃刀をとぐ砥石(といし)は、箱の下の方に見えている。引き出しには留針や、糸や、頭髪等が一杯入っている。箱の上の木製の煙出しに入っている、焼串のような棒は、頭髪を一時的一定の形に置くものであり、煙出しの端からぶら下っている真鍮の曲った一片ほ、顔を剃る時、こまかい毛を入れるもので、床屋はこの端に剃刀をこすりつける。私は学生の一人が剃らせるのを見た。顔を剃ることは前に述べたが、床星がまぶたを剃ろうとは思わなかった。勿論まつ毛は剃りはしないが、顔中、鼻も頰もまぶたも、剃るのである。ここみたいな村の往来で写生をしようとすると、老幼男女が周囲を取り巻いて、ベチャクチャ喋舌り続けるから、非常に不愉快である。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。図184の道具は「鬢盥(びんだらい)」と呼ぶ。髪結いが小道具一式を入れて持ち歩いた引き出しつきの手提げ箱である。廣野郁夫氏の「本のメモ帳」の「続・樹の散歩道 鬢付け油は何を原料としているのか」の最後に、これとよく似た「台箱」と一緒に「守貞漫稿」に載る図が紹介されてある。本文も含め、興味深く、必見である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 18 「はうどおゆうどお」と「ぐつどばい」/硬い桃

M182
図―182

 図182は実験所の流し場を、外から見た所である。この家を建てた人は、水の吐口ということを丸で考えなかったので、このような突出部を取りつけ、そこから水を自由に流すようにした。

 ここ二週間、私は米と薩摩芋と茄子(なす)と魚とばかり食って生きている。私はバタを塗ったパンの厚い一片、牛乳に漬けたパンの一鉢その他、現に君達が米国で楽しみつつある美味(うま)い料理の一皿を手に入れることが出来れば、古靴はおろか、新しい靴も皆やって了ってもいいと思う。

 この村の先生が私を訪問して、儀式ばった態度で“How do you do?”といった。そのアクセントは、彼が英語を僅かしか知らぬことを示していたが、後で彼が白状したことによると、彼の英語の知識はこの挨拶と“God-bye”とに限られているのである。彼が英語を知っている以上に、私が日本語を知っている――といった所で大したものではないが――と思うと、一寸気が楽になる。昨夜私は数週間前、最初に泊った向う側の宿屋の人々を訪問した。私は富士山が更によく見える場所をさがしている時、彼等と知り合いになったのである。結局私が坂をずっと上った所に宿を定めたに拘らず、彼等は私に会うと、前と同様気持よくお辞儀をした。行って見ると、家族は非常に忙しそうにしていた。彼等の中の四人はその日の会計をやりつつあって、銭を数えたり、帳面づけをしたりしていた。彼等は、いう迄もなく、床に坐っていたが、机は低い腰かけに似ていて、一人がその前に膝をついていた。日本の家産の照明は至極貧弱なので、この時も暗すぎて、写生をする訳には行かなかった。私は日本人が、子供達に親切であることに、留意せざるを得なかった。ここに四人、忙しく勘定をし、紙幣の束を調べ、金を数え等しているその真中の、机のすぐ前に、五、六歳の男の子が床に横たわって熟睡している。彼等はこの子の身体を越して、何か品物を取らねばならぬことがあるのに、誰も彼をゆすぶって寝床へ行かせたりして、その睡眠をさまたげようとはしない。彼等は私に酒を出した。そして番頭の一人が、奇麗に皮をむいた桃を二つ皿にのせて持って来てくれたが、それは非常に緑色で煉瓦みたいに固かった。一口嚙(かじ)ってから、私は気持が悪いことを表示し、無言劇の要領で胃のあたりを撫でて見せたら、彼等はその意味をすぐ悟った。今これを書いている時、往来の向うで召使いが二人、廊下の手摺によっかかって桃を食っている。この桃は未熟なので、嚙むごとに事実その音がここ迄聞える程である。彼等はまるで最も固い林檎を食ってでもいるかの如く、桃をしっかり握りしめている。

 私はこれ等の優しい人々を見れば見る程、大きくなり過ぎた、気のいい、親切な、よく笑う子供達のことを思い出す。ある点で日本人は、恰も我国の子供が子供染ているように、子供らしい。ある種の類似点は、誠に驚くばかりである。重い物を持上げたり、その他何にせよ力の要る仕事をする時、彼等はウンウンいい、そして如何にも「どうだい、大したことをしているだろう!」というような調子の、大きな音をさせる。先日松村氏が艪を押したが、その時同氏はとても素敵なことでもしているかのように、まるで子供みたいに歯を喰いしばってシッシッといい、そしてフンフン息をはずませた。ある点で彼等は我国の子供によく似ているが、他の点では大きに違う。悲哀に際して彼等が示す沈着――というより寧ろ沈黙――は、北米のインディアンを想わせる。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 17 鮫を追う漁師たち



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M181

図―181

 

 今日は曳網の運が、あまりよくなかった。私はサミセンガイを求めて、我々の入江に戻り、目的の貝を沢山と、大きなオキナエビス若干その他を得た。網を引いている問に、突然驟雨が襲って来て、私はずぶ濡れになったが、すぐ太陽が現われ、やがて衣類が乾いた。日本の舟夫達は優秀だとの評判があるにかかわらず、非常に臆病であるらしく、容易なことでは陸地から遠くへ出ない。今日私は遠方へ行くので、彼等を卑怯者といわねばならなかった。漁船は二マイルばかりの所に列をなしている。三十マイル程離れた大島へ行こうといい出したら、彼等は吃驚して顔色を変え、如何にも飛んでもない思いつきだと、いうように笑った。曳網を引き廻している最中に、舟から遠からぬ場所に、大きな魚が、長くて黒い鰭(ひれ)を僅か水面に出して、さっと過ぎて行った。さア大変! 舟夫の一人が艪を棄て、舳に近く坐っている私の所へ来て、熱心にこの魚を追いかけさせてくれとたのんだ。私には彼が何をいっているのか、丸で判らなかったが、彼の懇願的な態度は間違う可くもないので、私は「ヨロシイ」といった。そこで大活動が始った。曳網の綱が三十五尋(ひろ)入っていたので、先ず網を手ぐり入れるものと思った所が、彼等は長い竿三本を縛りつけ、曳網綱の末端をこの急造浮標(うき)に結んで、海の中に投げ込んだ。私は綱が解けるか、或はこれを発見することが出来ないと困るなと多少心配した。我々は鮫(さめ)――大きな魚は、鮫だった――を追って元気よく動き出した。銛(もり)は長い竿のさきに、鉄の槍をいい加減にくっつけた物で、綱がついているから、使用後には竿を引きぬき、倒鉤のある槍さき丈を、魚の身体に残すのである。小さな魚類が鮫を恐れて、共通な一点を中心に、かたまり合っているのは誠に興味があった。一網打尽ということが出来たであろう。我々は死者狂(しにものぐる)いで追いかけたが、鮫は遂に逃げ去った。で、舟夫達はもとの場所に帰り、安々と曳網の浮標を見つけた。彼等が鮫を追っている間に、私は漁船二、三を写生したが、まだ私は正しい線をつかんでいないので私の写生図には実物の優雅さが欠けている。図180の前帆は、舷側を越えている。帰途についた時風が出た。そこで竹の釣竿を翼桁とし、ダブダブな帆を環紐でそれに通して、これを竿を檣(マスト)にしたものに取りつけ、帆の下端は手に持つという、実に莫迦らしい真似をしながらも、景気よく走ったものである。図181は舟中から見たその帆である。日本の舟には竜骨が無く、底荷を積みもしないが、めったに椿事(ちんじ)が起らない。よしんば顚覆したにしても、舟はそれに縋りついていられる丈の人数の漁夫達と一緒に、ポカポカ浮いているし、水はあたたかく、漁夫は魚みたいに水に馴れているから、幾日でも舟にかじりついた儘でいられる。入江に帰った時、サミセンガイを求めて曳網を入れ、百五十個を獲た。又、珍しいものも入っていた。終日それ等を研究して来た所である。いろいろな新しい事実が判明して来ることは、驚く程である。私はノース・キャロライナの「種」は、かなり詳しく研究されているものと思っていたが、ここで捕れたのはノース・キャロライナのに非常によく似ているが、もっと透明であり、私はそれ迄に腕足類で見たことのない新しい器官をいくつか見た。

[やぶちゃん注:「オキナエビス」誤訳である。原文は“Pleurotoma”で、これは腹足綱前鰓亜綱新腹足目イモガイ超科クダマキガイ科 Pleurotoma 属の属名で、生きた化石として知られる「オキナエビス」は腹足綱古腹足目オキナエビス超科オキナエビスガイ科オキナエビスガイ属オキナエビス(オキナエビスガイ)Mikadotrochus beyrichii Hilgendorff, 1877 で全く異なる。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の再現日録によって、この採集は七月十五日のドレッジであることが分かるが、そこには『午前中よりドレッジ。シャミセンガイ一五〇匹とクダボラを採集。』とある。これは本書以外に松村任三の日記が参考にされているので、この種名の確実度は高く、クダボラは同じクダマキガイ科のクダボラ Turris crispa crispa を指すことになり、モースの言う“Pleurotoma属はちょっと違うことになる。グーグル画像検索の「Turris crispa crispaをご覧あれ。すらりとした美しい貝形である。手に採ったモースの笑顔が見えるようだ。

 因みに、この語訳のオキナエビスガイは江の島と深い縁があるのでここで特に記しておきたい。モースが来日するこの二年前の明治八(一八七六)年に東京大学博物学教授であったドイツ人ヒルゲンドルフがまさに後にモースの定宿となる岩本楼そばの江の島の土産物屋で本種の死貝を購入、調べたところが未記載の新珍種であることが判明し、化石種としてしか知られていなかったオキナエビスガイが現在も日本に産することを学会に報告、それを受けて大英博物館は東京大学に採集依頼をし、後にモースのこの江の島臨界実験場が理念的淵源となって創設される(直接的な前後身の関係にはない)東京帝国大学三崎臨海実験所(明治一九(一八八六)年開所)の採集人として「三崎の熊さん」として名を知られるようになる青木熊吉氏が翌明治九年春に江の島沖で生貝を採集、大学から大金四十円の謝礼を貰った。この時、熊さんが思わず「まるで長者になったようじゃ。」と言ったことから、本種の和名は一旦「チョウジャガイ」と定められたが、後に天保一五(一八四三)年に著された武蔵石壽の貝類図譜「目八譜」の第七巻第二図に「オキナエビス」として掲載されていることが分かり、命名法規約により、最初に武蔵石壽の命名した「オキナエビス」が正式和名となった。但し、現在でも熊さんの逸話とともにチョウジャガイという別名が普通に通用している。なおこの生体のオキナエビスガイの発見は、カリブ海で本科のヒメオキナエビスガイ属ヒメオキナエビスガイ Perotrochus quoyanus Fischer et Bernardi, 1856 の発見に遡ること十二年で、本オキナエビスガイ類に於ける最古の現生種の発見捕獲命名の記録でもある。

「二マイル」約3・2キロメートル。

「三十マイル」約48・3キロメートル。江の島から大島最北端の乳が崎沖までは50キロ以上ある。江の島の漁師ならずとも、私でも(この絵に載るような小舟ではなおのこと)「飛んでもない」ことと驚きますよ、モース先生(せんせ)!

「ヨロシイ」原文は“" Yoroshii " (all right)”。

「三十五尋」64メートル。

「急造浮標」原文“extemporized float”。

「鮫」原文は“the shark”であるが、これ、本当にサメだろうか? 背鰭を見たとたんに漁師たちがこぞって捕獲を懇請し、執拗に追っ駆けているところを見ると、私はどうしても食用としてはより美味い(無論、鮫も食えることは食えるし、蒲鉾の材料にもなるけれど)イルカではあるまいか? と疑ってしまうのだが。識者の御意見を俟つものである。

「倒鉤」読み不明。原文は“the barbed point”で、これは、釣り針などの顎(あご)・掛り(かかり)・逆棘(さかとげ)・返(かえ)しのある部分の謂いである。中国語でも「倒鉤標槍」というと何ヶ所も返しのついた槍の穂先のことを言うようだから、これで石川氏はまさに「かかり」「さかとげ」「かえし」などと読ませているのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。

「翼桁」原文“a spar”。“spar”海事用語で帆柱・帆げたなどの円材を指す。翼桁(よくけた)というのは、航空機用語で翼の骨組の内、翼幅方向の主要部材を指す語であり、適切な訳とは言い難い。

「環紐」原文“loops”。ヘルメットやハンモックなどの用語としてあり、「わひも」と読むらしい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 16 松村任三描く童子図

M178

図―178

  私の部屋の廊下に而して、家が面白い形に積み重なっている(図178)。これ等の建物中の三つは耐火建築で、村が火事の時火を避けるように、ここに建てたのである。然し若し我々のいる建物が火を出せば、家はみな密接している上に、非常に引火しやすい材料で出来ているから、村中燃え上って了うことであろう。
[やぶちゃん注:「三つの耐火建築」図中の屋号らしき印のついた二つと、左中央の木に隠れた一つ、孰れも土蔵のことを指している。このスケッチであるが、岩本楼の位置と絵の山腹の描写から考えると、この右手奥に描かれているのは児玉神社の鳥居と拝殿ではあるまいか? 則ち、岩本楼の二階から江島神社参道(は恐らく画面の下方で描かれていない)を挟んだ向かい側の斜面(南東方向)を描いているように思われる。識者の御教授を乞うものである。]

M179

図―179
[やぶちゃん注:本文にある通り、これはモースの描いたものではなく、助手の松村任三の筆による描画である。その筆致は今の僕らにとってさえ実に素晴らしいではないか。]

 松村は日本人の多くと同様、絵を措くことに趣味を持っている。図179は彼が子供を写生したものであるが、その筆致が如何に純然たる日本風であるかに注意せられたい。日本人の絵画に力強さと面白味とを与える一つの原因は、それが必ず筆で描かれることで、従って仕事の上に、太さの異る明瞭な線と、大なる自由とを得るのである。彼等が選ぶ主題、例えば木の葉とか人物とかは、彼等の持つ技術によって、写実的に描かれる。彼等の描く人物は、みなゆるやかな、前で畳み合せる衣服を着ている。男が普通に着るのは、典雅に垂れ下る一種の寛衣(かんい)であり、彼等の帽子は絵画的である。木の葉、竹、竹草、松、花その他は力強く、勢よく描かれる結果、日本の絵は非常に人を引きつける。
[やぶちゃん注:「彼等の帽子は絵画的である」原文は確かに“and their hats are picturesque”であるが、これは例えば前の図178を見ると氷塊する。手前の階段を上る人物と、それより上で下りかけている人物、そしてその階段上の群像の中央で何か大きなものを両手で抱えてこちらを向いている人物の頭部を見て頂きたい。前二者の頭部には明らかに角状に出っ張ったものが描かれ、階段上の人物は何かを巻いているのが見てとれる。これらは所謂、手ぬぐいや鉢巻の類いであろう。それが“their hats”「彼等の帽子」の正体である。]

耳嚢 巻之七 幽靈恩謝する事

 幽靈恩謝する事

 

 文化貮年の八月の事成るよし。神田橋外津田何某の先代召仕ひし妾(せふ)、隱居にて(かの)彼屋敷に住(すみ)ける。彼妾年比(としごろ)いとけ無(なき)より召仕ひし小女、音曲(おんぎよく)を好み琴彈(ひか)ん事を願ひしに、右の隱居申けるは、かろきもの音曲にて奉公せんも、中々一通りにては其業(わざ)を申立(まうしたつる)には至らじ、讀(よみ)もの縫(ぬひ)はりこそ輕きものゝ片付(かたづけ)ても用にたつべしと教(をしへ)ける。素より資才の生れ故、讀もの縫針の事心を用ひ勤しに、無程(ほどなく)あつぱれ手利(てきき)手書(てかき)となんなりぬれば、主人の姥(うば)もかれが兼て望(のぞみ)の琴彈せんとて、彼屋しきへ立入(たちいり)、娘子達に指南抔せし瞽者(こしや)を賴教(たのみをしへ)貰ひしに、是も無程其心を得うけしに、哀なる哉、風のこゝちにて、八月中(ちう)身まかりし由。右風邪初(はじめ)の程は左(さ)までもなかりしが、段々隱症(いんしやう)の※痲と也てなやみける故に[やぶちゃん字注:「※」=「疒」+「却」。]、橘宗仙院の弟子宇山隆琢を賴(たのみ)、藥用深切なれ共、當人其しるしなき故、隆琢も下宿(したやど)致させ可然(しかるべし)とて申ぬれど、年久しく召使ひ哀がりいなみいなみとゞめて、暫くは屋しきにありしが、兎角よからず迚人々の申(まうす)にまかせ、深川の親元へ下げけるが、或夜陰居の老人の夜更(よふけ)寢覺(ねざめ)せしに、枕元に彼女すわれ居けるにうつゝの如覺(ごとくおぼえ)、汝は病氣なりしにいかに成しと尋(たづね)し。彼(かの)女さめざめと泣(なき)て、誠にいとけなきより厚(あつき)御惠みにて人並々に生立(おひたち)し事、海山(うみやま)の御恩いつか報じ奉らんと明暮思ひ侍りしに、最早今を限りの命に候へ共、思ひし甲斐もなければせめて御禮を申(まうす)なりと申(まうし)けれ。主人姥も、いかで去(さる)あらたなりし事申者哉(まうすものかな)、年比隱(へ)だてなく我に仕(つかへ)し也(や)、心にそむくことなきは、此方より禮をこそ申(まうす)べけれ、煩ふ事ありては我も朝夕不自由に覺(おぼえ)侍れば、年も若き事能(よく)養生し早く快氣せよと答へければ、あり難仰事(がたきおほせごと)身に餘りぬと申けるが、形も消(きえ)夢のこゝちにて夜明(あけ)ぬれば、人をして親元へ尋(たづね)けるに、昨夜見まかりぬと答へぬれば、主人も深く歎きかなしみぬ。其明(あく)る日、彼立入の瞽女(ごぜ)來りて、今日は外へ用事有(あり)てまかり候へ共、少々御目に掛り度(たき)事あり來(き)ぬるといゝし故早速呼入(よびいれ)、彼瞽女も深川ものなれば、右の女の事尋(たづね)ければ、其事にて候、今朝彼親元へまかりしに、右女夜中に相果(あひはて)ぬ、夜半の比(ころ)かゝへおこし呉(くれ)候樣せちに申ぬる故、いろいろいなみけれど、達(たつ)て願ひにまかせ抱(だき)おこしければ手をつき、いとけなきよりの厚恩をくり返し赦し、何歟(か)人ある躰(てい)に其答へ抔いたし、最早心殘りなしと臥しけるが、程なく身まかりしと申ける。主人姥の夜(よ)べ夢うつゝと無(なく)、彼女と應對なしけると凡(およそ)違ひなければ、扨は精心のあらわれ通ひけるにぞと、深く哀れを催し老姥はさら也、あたりの袖を濡しける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。正統なる霊異譚で、如何にもしみじみとした極上の心霊情話に仕上がっている。

・「文化貮年の八月」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、一年前の都市伝説である。

・「神田橋外津田何某」底本の鈴木氏の指示に従って、私の所持する尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図の「飯田橋駿河台小川町絵圖」を見ると、神田橋御門から北東へ八〇〇メートル程の位置(現在の地下鉄淡路町駅付近)に津田栄次郎という人物の屋敷がある。ここだとすれば、根岸の屋敷の直近である。鎭衞の自宅はここから真西へ六〇〇メートル程の位置にある。

・「是も無程其心を得うけしに」底本には「得うけ」の右に『(ママ)』表記。

・「段々隱症の※痲と也て」[「※」=「疒」+「却」。]不詳。しかし不詳のままでは訳せないため、

「隱症」はとりあえず性質の悪い、悪性の意

で訳しておいた。

「※痲」については、まず岩波のカリフォルニア大学バークレー校版原文では、

『*疳』[やぶちゃん字注:「*」=「疒」+(「降」-「阝」)。]

とあり、長谷川氏は注で、

『底本★[やぶちゃん字注:「★」=「疒」+「争」。]とも見える字で、次章に同字を書き瘴と訂正しているので、ここも瘴疳であろう』(下線やぶちゃん)

と推測なさって、次の「又」の章の、同

「瘴疳」の注では『傷寒。高熱を伴う疾患』

とされておられる。しかしながら、こちらの底本では、

次章のそれは『痛疽』

とある。これは文字通りならば、

背中などに出来る激痛を伴う悪性の腫れ物、癰(よう)の類

をいう。本底本を無心に見るならば、少なくとも本底本では

この章の病いと次章の病いは異なったものとして書かれている

ようにしか見えない(本章の病名との相同性は立証出来ない)が、訳の理解し易さを第一としてここは暫く、長谷川氏の傷寒(しょうかん)説をとって訳しおくこととする。なお、

傷寒

とは漢方で、

広義には体外の環境変化により経絡が侵された状態

を広く指す語で、

狭義には重症の熱病・腸チフスの類

を指すようだが、この場合は直前の病態などから見て、

感冒が重症化したもの、恐らくは肺炎が死因となるようなものを指している

ように私には思われる。

・「橘宗仙院」岩波版で長谷川氏は奥医で法印であった橘元周(もとちか 享保一三(一七二八)年~?)かと記す。彼は寛政一〇(一七九八)年に七十一歳で致仕している。次の代ならば元春になる。それ以前の代の「橘宗仙院」は卷之三 橘氏狂歌の事」に既注済。

・「宇山隆琢」不詳。

・「枕元に彼女すわれ居けるに」底本には「すわれ居ける」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『居(すは)り居(ゐ)ければ』(読みは歴史的仮名遣化した)である。

・「せめて御禮を申なりと申けれ。」底本には「申けれ。」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『せめては御禮を申(まうす)也」と申けるにも、』(正字化して読みは歴史的仮名遣化した)である。

・「いかで去あらたなりし事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『いかでさる改りし事』である。バークレー校版で訳した。

・「いとけなきよりの厚恩をくり返し赦し」底本では「赦し」の右に『(謝カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は確かに『謝し』とある。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幽霊の恩謝する事

 

 文化二年の八月のことであった由。

 神田橋外(そと)、津田何某(なにがし)殿の御先代の召し仕っておられた御側室が、隠居して同屋敷内(うち)に住んでおった。

 その御側室は年来(としごろ)、幼(いとけな)き折りより召し仕(つこ)うておった小女(こおんな)があり、年頃となるに従い、音曲(おんぎょく)を好み、琴を弾くことを願って御座った。

 それを隠居の媼(おうな)の聴いて、

「――身分の賤しき者が、音曲をもって武家などへ奉公せんとしても、なかなか一通りのことにては、その技芸を以ってして身を立てるまでには至るまい。――まずは読み書き・縫い物をこそ身にしかりとつけておれば、そなたらの身分にて、相応のお方へ縁づいたとしても、これ、十二分に役に立つことじゃて。」

と諭して、媼手ずから、それらを教えた。

 もとより相応の才能の生れであったゆえ、読み書き縫い針(はり)のこと、これ誠心を込めて習練に勤めたところ、ほどのう、あっ晴れの縫い物上手・上手の手書きとなって御座ったによって、主人の媼も、それではと、かの小女が兼ねてより望んで御座った琴を弾かせんものと、御屋敷へ出入り致し、主人が娘子たちに琴の指南など致いて御座った盲人(めしい)の者に頼んで、小女へ琴を教えて貰うことと致いた。

 こちらの方も、ほどのう、師匠の奥義をも体得し得て御座ったと申す。

   *

 ところが――哀れなるかな、この小女――ふと、風邪気味となったかと思うと――八月中、瞬く間に――儚くも身罷ってしもうた――由で御座る。

 その風邪、初めのうちはさほどのものではなかったものが、だんだんに悪うなって参り、ついには性質(たち)の悪い傷寒の症状と相い成って、日々の立ち居にも、如何にも苦しそうに致いて御座ったゆえ、媼は奥医橘宗仙院さまの御弟子であられた、宇山隆琢さまを頼み、直々に療治をお願い致いた。

 宇山さまは施方施術に深く心をお砕き下すったものの、患者には一向にその効果が現われぬゆえ、隆琢さまは、

「――これはまず、実家へお帰しになられ、じっくりと療養さするがよろしかろう。」

との見立てで御座ったが、媼は、年久しゅう召し使い、可愛がって参った小女で御座ったゆえ、ついつい、それに対して首を縦に振らずに、ずるずると引きとめ、結果、暫くは前の通り、屋敷内に留めおいて御座ったが、宇山さまも遂に、

「――いや、ともかくも、かの者の病態は尋常では御座らぬ!……」

ときつく申され、また媼の周囲の者どもも口々に宿下がりをお薦め申したによって、媼はしぶしぶ、深川の小女の親元へと、下げ帰して御座ったと申す。

   *

 さて、それから暫く致いた、とある夜陰のことで御座った。

 隠居所の媼、夜更けにふと目覚めた。

 と――枕元に、かの小女が、坐っておるさまが、これ、現(うつつ)の如くはっきりと見えた。

「……そなたは病気で宿下がり致いたはずであったに、どうして、ここに……」

と訊ねたところ、彼の小女は、さめざめと泣きくれ、

「……まことに幼(いとけな)きより厚き御恵みを頂戴致し……賤しき我らなれど……もう人並に生い立つことも出来まして御座いました……忝(かたじけな)き海山ほどの御恩……いつか報い奉らんものと明け暮れ思おて参りましたが……最早……今を限りの命にて御座います……されど……御恩に報いんとの思いの甲斐ものうなったとなっては……これ……せめて御礼(おんれい)を申すばかりにて……御座いまするぅ……」

と申す。

 主人媼も、

「……どうしてそのようなことを……そんなに改まって申そうとするかのう。……年来(としごろ)、隔てのう、我らに仕えて呉れたではないか?!……我らが心に一度たりとも背くことの御座らなんだこと、これ、却って我らの方(かた)より礼をこそ申したきほどじゃった。……そなたが患うてよりこの方、我らも朝夕、何かと不自由を覚えておるのじゃ、え。……そなたはまだ年も若(わこ)うなれば、よく養生し、早(はよ)う快気致いて戻っておくれ。」

と諭したところ、

「……ありがたき仰せごと……身に余り……まして……御座いまするぅ…………」

と申したかと思うと、

――ふっと

姿形も消え入っておった。……

……と、そこで夢見心地にて確かに目覚めたところ、夜もすっかり明けて御座った。

 されば、何やらん、気懸りなれば、人を遣わして、かの小女の親元を訪ねさせたところが、戻った下男が、

「……昨夜……身罷った……とのことで御座いました。……」

と告げたによって、主人媼も深く歎き、悲しみに沈んで御座ったと申す。

   *

 その明くる日のことであった。

 かの小女の琴の師匠にして屋敷出入りの瞽女(ごぜ)が屋敷に参って、

「……今日は外の用事の御座いまして、こちらさま罷り越しましたが……実は少々、ご隠居さまにお目に掛りたきことの、これ、御座いますによって参上致しまして御座いまする。……」

と申すゆえ、早速に隠居所の奥座敷へと呼び入れたが、媼、はたと気づき、

「……そうじゃ。……そなたも確か、深川に住まい致いて御座ったの。……実は……我らの召し使(つこ)うておった、あの、そなたのお弟子のことじゃが……一昨夜……」

と言いかけたところが、

「――はい。そのことで御座います。今朝、かの親元へ罷り越しましたところ、母御(ははご)ぜの申されますに……

   ――――――

……娘は一昨夜の中(うち)に、相い果て申しました。

……夜半のころ、急に我らを呼びましたによって、病床に参りますと、

「……母(かか)さま――どうか――抱え起こして下さいまし!……」

……と、切(せち)に請いますゆえ、

「体に障ることなれば、今は深夜ぞ――」

……なんどと、いろいろ、いなんで落ち着かせんと致しましたが、

「――達(たつ)ての願いにて御座いまする!……」

……と申しましたによって、抱き起こしてやりました。

……すると三つ指ついて、

……誰か、目の前に人のあるかの体(てい)にて、

「――まことに幼(いとけな)きより厚き御恵みを頂戴致し……」

……と、それを繰り返し、繰り返し謝しては、

……その言葉を聴いた見えぬ誰(たれ)かの返答に、また答えなど致いておりましたが、

「――最早……心残り御座いませぬ。」

……と、はたりと臥しました。

……それから、ほどのぅして

……身罷りまして、御座いました。…………

   ――――――

とのお話で御座いました。……」

と申す。

 主人媼は、かの夜(よ)べ、夢現(うつつ)とのう、かの娘と応対致いたことと、凡そ寸分も違(たが)うことの、これ、なければこそ、

「……さては……真心の魂となってあくがれ出で……我らが元へと……通うて参ったのじゃ、のぅ……」

と、深く哀れを催し、老媼はさらなり、瞽女もお側に控えて御座った者どもも皆、袖を濡したと申すことじゃった。……

創作と勞働  / あしき趣味   萩原朔太郎

       創作と勞働

 創作は天才の自由な飛翔である。創作は勞働ではない。そして勞働は創作ではない。――さて、あらゆる「藝術的なもの」を、あの汗くさい「勞働的なもの」から隔離せよ。詩人は勞働者の仲間ではない。

       あしき趣味

 勞働の讚美は、近代に於ける最も惡しき趣味の一つである。

[やぶちゃん注:『文學世界』創刊号・大正一一(一九二二)年十月号に掲載されたアフォリズム「孤獨者の手記から」三篇の内、後の二篇。底本の筑摩書房版全集第三巻の「アフォリズム拾遺」より。]

防風林にて 五首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    防風林にて 五首

立枯の防風林のヤラボの根根上り著(しる)く歩き難しも

[やぶちゃん注:既出の「タマナ」(ツバキ目オトギリソウ科テリハボク Calophyllum inophyllum の小笠原諸島での地方名)の南西諸島での方言名。ヤラボ・ヤラブ・ヤラブギー・ヤナブ(沖縄広域)、ヤロー(竹富・宮古・多良間)などとも呼称するが、原義は不明。]

暫(しま)しくを防風林にまどろみぬ覺(さ)めておどろく海の蒼さや

目覺むればヤラボの影のだんだらの縞に染められわがい寢てゐし

海の上を靑き炎(ほのほ)が燃えゆれて今し日は午後に移らんとする

顫へ光る蒼さの中を一文字カヌーにかあらむ過(よぎ)り馳せくる

遠い枝枝のなかに 大手拓次

 遠い枝枝のなかに

はひまつはる微笑(びせう)のかたかげに
わたしは さむいあをざめたきものをきて、
さびしさにぬれてひたりながら、
巣(す)をうばはれた野(の)のはだか鳥(どり)のやうに
羽(は)ばたいてはおち、羽ばたいてはきずつき、
遠(とほ)い枝枝(えだえだ)のなかに、
うしなはれたあなたの心(こゝろ)をさがしてゐます。

秋 大手拓次

 秋

ひとつのつらなりとなつて、
ふけてゆくうす月(づき)の夜(よ)をなつかしむ。
この みづにぬれたたわわのこころ、
そらにながれる木(こ)の葉(は)によりかかり、
さびしげに この憂鬱(いううつ)をひらく。

鬼城句集 夏之部 時鳥

時鳥    手燭して妹が蠶飼や時鳥

[やぶちゃん注:「蠶飼」は「こがひ(こがい)」で蚕の世話をすること。この語は単独では春の季語となる。]

    傘にいつか月夜や時鳥

[やぶちゃん注:「傘」は「からかさ」と読んでいる。]

       是非もなき身の

      時鳥鳴くと定めて落居けり

2013/07/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 15 どおき君の手紙

 私が小使に新鮮な塩水(fresh salt water)を取って来てくれと頼んだら、彼はそれを混ぜるのかと聞いた。彼は英語で十まで勘定することを覚え、fresh water salt water 及び all right ということが出来る。松村氏も fresh salt water とは変だと思ったのである。そこで私は彼に真水は日本語で何かと質ねたら、それは「真実の水」で、他は「塩の水」であるとのことであった。これは最もいい呼びようらしく思われる。欧州人は真水を sweet water というが、真水は決して甘くはない。
[やぶちゃん注:底本では以下のように石川氏の割注が入っている。
「fresh water〔真水〕」
「salt water〔塩水〕]
「松村氏も fresh salt water とは変だと思ったのである〔fresh water は真水であるが、fresh なる形容詞には「新鮮」の意味がある〕。」
「sweet water〔甘い水〕」
「真実の水」原文“true water”。]

 私が部屋でやることのすべてが、他の部屋にいる好奇心の強い人々には、興味があるらしく、私の部屋を見ては、私の一挙手一投足を見詰める。彼等のやることが私に珍しいと同様に、私のやることも彼等には物珍しいのだということは、容易に理解出来ない。日本に来た外国人が先ず注意するのは、ある事柄をやるのに、日本人が我々と全く反対なことである。我々は、我々のやり方の方が疑もなく正しいのだと思うが、同時に日本人は、我々が万事彼等と反対に物をすることに気がつく。だが、日本人は遙かに古い文化を持っているのだから、或は一定のことをやる方法は、彼等のやり方の方が本当に最善なのかも知れない。
 日本人が知識を得ようとする熱心さは、彼等が公開講演の会場を充満する有様でも知られるが、更に若い人達が、我々の為に働き、自分が受けた教えに対しては、日本語を訳す手伝いをしたり、家の内外で仕事をしたりして報いようとして、努めることでも分る。先日若い男が一人、私の家へやって来て、一通の手紙を置いて行くことを許され度いと願った。彼は加賀から東京まで、二百マイル近くも歩いて来たのである。この手紙は日本紙に筆で――これはむずかしい仕事である――立沢な英語で書いてあった。それは学生が、外国の知識を得ようとする野心を示していると同時に、彼が私の「科学的動作」を観察することの重要さを、如何に感じているかを示して、興味が深い。
[やぶちゃん注:「二百マイル」約322キロメートル。これは単純に地図上での東京と加賀間の直線距離をとったものであろう(試みに現在の東京駅と加賀駅で計測すると直線で凡そ310キロメートルになる)。彼がどのルートで来たものか分からないが、歩行距離ならばこれでは全く足りない。恐らく400キロを遙かに越えていたはずである。
「それは学生が、外国の知識を得ようとする野心を示していると同時に、彼が私の「科学的動作」を観察することの重要さを、如何に感じているかを示して、興味が深い。」この一文の原文を示すと、“The letter is interesting as showing the ambitions of a student in regard to foreign studies and the high estimate he placed on the importance of observing my "scientific actions" !”で、もとは感嘆符があることに注意しておきたい。次のその手紙の引用部は前後に有意な一行空けが施されている。]

「先生、どうか私の乱暴な言葉と悪い文法とをお許し下さい。私の名前はT・DOKIであります。私は石川県から勉強するために東京へ送られた学生の一人であります。私は多くの理由によって自然の科学の一つを勉強する決心をしました。然しこれをする為に私は第一に、物理、化学、地質学、生理学、植物学、動物学その他の一般的科学を多少知っていなくてはなりません。そして私はこれ等の科学の知識は殆ど何も持っていません。そこで私が考えますに、私は先ずこれ等の準備的教課を勉強しなくてはならぬと思いますが、その為にはよい先生を得ねばなりません。然し私は色々な理由で東京大学の学生になることを欲しませんので私にこれ等の課目を教えて下さる程親切で暇のある先生を見出すことが出来ません。
 あなたが有名な博物学者で我々の為に多くのよいことをなされ、またもっとなさろうとの御希望であることをききました。私は以下の請願のお許しを乞わずにはいられません。
 あなたが非常にお忙しいということはよく知っておりますので、あなたが私を半召使い半学生としてお宅に生活させて下され、そしてお暇の時に一週間に三時間か四時間ずつ私が読んで判らぬ所を説明して下さらんことを希望いたします。かくて私は単に困難な点を説明して頂けるのみでなくあなたの科学的言辞を聞き、あなたの科学的動作を観察するの利益を得ることが出来ます。若しあなたが御親切に私のねがいを入れて下さるのならば私はよろこんで以下の条件に私自身を置きます――。
 一 私は毎日二、三時間あなたの為に何でも(出来ることは)いたします。
 二 私は以下の三条以外に何物をも要求いたしません。第一に毎週あなたの時間を三、四時間、第二にどんなものでも生きるに足る食物、第三にどんなのでも住むに足る場所。
 三 私は若しあなたがお受取りになるなら三円以下に於て如何なる金額をも差出します。
 これ等は私が自身を置こうとする条件のすべてではありませんが、一ケ月三円以内の費用でこれ等の課目をいい先生の下で学ぶことが出来さえすれば私は如何なる条件にも服します。御慈悲深く御許可下さい。御慈悲深く御許可下さい。」
[やぶちゃん注:「T・DOKI」不詳。土岐か土生の読み誤りか? 識者の御教授を乞うものである。……彼の『後の事しりたや』……]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 14 按摩

 日光へ行った時、マッサージをやらせて、気持よくなったことを覚えていた私は、非常に疲れていたので、めくらのアンマ(マッサージ師はこう呼ばれる)を呼び入れ、彼は私の身体をこね廻したり、撫でたり、叩いたりした。松村氏は私の横に坐り、私は彼を通じて、色々な質問を発した。このアンマは、天然痘で盲目になったのである。天然痘は、この国で一時は恐るべき病疫であったが、辛いにも今は統制されている。外国人の渡来はよいことと思うかと聞いたら、彼は勢よく「然り」と答え、そして「若し外国人が二十五年も前に来ていたら、私を初め何千人という者が、盲目にならずに済んだことであろう」とつけ加えた。彼はまた、外国人は非常に金を使うともいった。同一の服装をしていても、日本人と外国人との区別がつくかと聞くと、彼は即座に「出来ます、外国人は足が余程大きい」と答えた。だが、若し外国人が小さな足をしていたらというと、「足の指がくっついていて、先の方が細い」との返事であった。彼は大きな太った男で、頭は禿げているというよりも、奇麗に剃ってある。仕事にとりかかると同時に、私に詫をいいながら衣を脱いだ。撫でる時には指が変に痙攣(けいれん)的にとび上って、歯科医が使用する充填機械に似た運動をする。

[やぶちゃん注:「天然痘」ウィキの「天然痘」によれば、十八世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) が一七九八年に天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった(ジェンナーが我が子に接種して効果を実証したとする逸話があるが、実際には彼は使用人の子に接種している。因みに、本邦では医学界ではかなり有名な話として、ジェンナーに先だって日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔がジェンナーの牛痘法成功に遡ること六年前の寛政四(一七九二)年に秋月の大庄屋天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施して成功させている)。日本で初めて牛痘法が行われるのは文化七(一八一〇)年のことで、ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後に田中正右偉門の娘イクに施したのが最初である。しかし、中川五郎治は牛痘法を秘密にしたために広く普及することはなく、三年後の文化一〇(一八一三)年にロシアから帰還した久蔵が種痘苗を持ち帰って、広島藩主浅野斉賢にその効果を進言しているが、まったく信じて貰えなかったという普及阻害の事実がある。その後、日本で本格的に牛痘法が普及するのは嘉永二(一八四九)年に佐賀藩がワクチンを輸入してからで、足守藩士の蘭方医で適塾を開いた近代医学の祖緒方洪庵が治療費を取らずに牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行ったのを濫觴とする。安政五(一八五八)年四月に洪庵の天然痘予防の活動は幕府公認となり、牛痘種痘施術が免許制となっている。明治一〇(一八七七)年から「二五年」前は嘉永五(一八五二)年でああるが、これはこの按摩をしている人物がこの嘉永五(一八五二)年以降に天然痘に罹患して盲目になったことを意味している。すると可能性が極めて高いのは安政四(一八五七)年十二月の天然痘のパンデミックであろう。特に幼少時の失明率が高いから、この按摩の年齢は当時まだ二〇代であった可能性が高い。この按摩は少なくとも若いのである。

「撫でる時には指が変に痙攣的にとび上って、歯科医が使用する充填機械に似た運動をする。」原文“In rubbing they have a curious, spasmodic jump of the fingers, making a movement not unlike that made by the dentist's mechanical filler.”この“dentist's mechanical filler”というのは、恐らくは我々の見慣れた歯科用コンポジットレジン用(CR)充填器という器具(グーグル画像検索「CR充填器」。歯科へのフォビアがある人は閲覧要注意)のことを指している。削った箇所にぐりぐりと充填剤を押し込む際の動きと指圧の指の運動が似ているというのである。すこぶる面白い表現である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 13 LとRの発音

 Lの音が日本語にないことは、不思議に思われる。日本人が英語を書く際に、最も困難を感じることの一つは、LとRの音の相違を区別することで、何年間も英語を書いていた人でさえ、RのかわりにLを使い、又はその逆のことをする。日本人にはLを発音するのが恐ろしくむずかしい。外山の友人に、Parallel と発音して御覧なさいといった所が、彼は私がどんな風にそれを行うかと熱心に私を見つめながら、舌と両唇とを一生懸命に動かし、最後に絶望の極断念して了った。これは吃驚する程だった。反対に支那人は、Rの音を持っていないので、それを発音する困難さは、日本人のLに於ると同様である。
[やぶちゃん注:視点が全く逆なのではあるが(モース先生とは反対に日本人はR音の発音がなかなか出来ないとする立場)、すこぶる興味深いのので、今度は「教えて!goo」の質疑応答から引用する(これも消失の可能性があるのでリンクは示さない)。質問者はuenonoamaguri 氏。
   《引用開始》
何度も出ている質問かと思いましたが、検索してもみつけられませんでした。
アメリカで生活を始めたばかりなのですが、今まできちんとした英語の教育を受けたことがありません。
どうしても英語の聞き取りは頭の中でひらがなの50音に置き換えて聞いてしまいます。
そこで質問なのですが、Rをどんなに注意して聞いても、何度も口や舌の動きを教えてもらっても、どうしても私の発音はLなのだそうです。
ここで文章で説明していただけるようなコツはありますか?
よろしくお願いいたします。
   《引用終了》
これに対する Ganbatteruyo 氏の回答。
   《引用開始》(一部にある行空け・字空けを省略し、末尾の一部を省略した)
アメリカに36年住んでいる者です。私なりに書かせてくださいね。
ご自分で問題点をはっきりかかれていますよ。「頭の中でひらがなの50音に置き換えて」と言っていますね。聞き取りは、と一応条件をつけているように聞こえはしますが、しゃべるときもこれを無意識にこの「自分の音」を作り上げてしまっているのです。
つまり、lightであろうとrightであろうと「ラ」だと思ってしまっているのだと思います。 correctであろうとcollectであろうと「レ」だと思っているのではないかと思います。 頭では分かっているつもりでも、いざ発音する時にはそうなってしまっているのではないかと推測します。
ローマ字で「ラリルレロ」を書くとra-ri-ru-re-ruになりますよね。
ではアドバイスに入ります。
まず、Lの発音の事は気にしないこと。日本人には全く問題のないとも言える子音だと私は思います。普通の日本人がlightのLを日本語式に発音するとちゃんとLに聞こえるのです。たしかにちょっと違いはあります。しかし、ネイティブの耳で聞くとRには決して聞こえなく、Lに近い、Lを言っているんだろう、とも聞こえる発音をしているのです。ですから、これを上達させるのは後からでもかまわない、と言うことです。
しかし、Rの場合は違います。LとRの発音は全く違う物です。ネイティブからしたら、「何でRとLの違いが分からないんだよ、はっきりした違いじゃないか」と思うわけです。まず、このことを頭に入れてください。Rはラリルレロとは全く関係のない子音なんだと言い聞かせてください。このことを無意識に感じない限りいつまでたっても上達しません。
なんで、ラ行とLが似ているのかというと、日本人のほとんどの人がラ行を発音する時に舌の先が上あごのどこかにくっついているのです。ですから、その状態で発音されたラ行の音はLに聞こえるのです。
では、Rは?というと付いていないのです。良く「巻き舌にする」という説明がありますが、それはやっていません。舌の先をただどこにもつけないで発音してください。(後で分かると思いますが、下の両側が上あごや歯についているのが分かります)
舌先をつけるかつけないかで一瞬にしてネイティブには違いを感じ取る事ができるのです。 まずこのはっきりした違いを伝える事で単語を伝える事ができるのです。
つまり、まずこの小さな舌の動きでこんなにも大きな問題点が解決出来るのです。発音は一つ一つ問題点を感じ取りそれを解決する事で聞き取りも自然に分かる様になります。英語の発音は日本語の発音とは全く違う物であり、ローマ字は英語勉強の壁だくらいに持ってください。
   《引用終了》
Ganbatteruyo 氏の分析と練習法をモース先生が聴いたら、間違いなく賞賛の拍手を惜しまないであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 11 失われた鐘の銘

    ●鐘の銘

舊下宮の左側にありしが神佛分離の際(さい)之を毀(こぼ)てり。鐘銘は諸書に載せたれは左に掲く。

[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が一字下げ。]

   奉冶鑄金龜山與願寺宇賀辨才天女下宮鐘銘

大日本國東海道相摸州江島者。從金輪際湧出之靈島歟。福神託居之巖窟焉。加之人王三十代欽明天皇十三壬申歳自四月十二日戌刻。當于江野南海湖水之水門。雲霞暗掩海上。日夜大地六種震動。天女顯現雲上。童子侍立左右。諸天龍神水火雷電山神鬼魅夜叉羅刹從天降盤石。從海擧砂礫。電光輝空。火焔交白浪。同及于二十三日辰刻。雲去霞散。見海上有島山耳。今之三神山是也。抑此神將王者天地之起々。陰陽之初々也。聞法年舊誰知空王往事。利生日新何如尊神現德乎。本地則等覺妙覺之尊。大慈大悲之濟渡幾久迹。天童天女之體。與官與福。利益是新矣。因玆役優婆塞詣此山。越知泰澄居當島傳教窗前發願影向。弘法床上對請恒臨。慈覺念時常隨給仕。安然行場應滿知。所以顯密權實宗宗々被冥助。文武商農家家々仰靈驗矣。肆信心之檀越等。攸奉冶鑄。蒲牢一聲上徹梵天頂。下響地輪底。此土耳根利故遍用聲塵。三寶證明之。諸天衛護之。總而天長地久。御願圓滿。別而施主懸志於辨天本願。任誠於大悲誓約。所祈善願令悉地成就。而已。維時寛永十四丁丑曆閏彌生吉祥日。天台傳燈三部都法大阿闍梨法印生順謹書。下宮別當職權大僧都法印長伸稽首敬白。

[やぶちゃん注:「從金輪際湧出之靈島歟」の最後の「歟」は底本ではカスレた「與」と思しい字である。「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘で「歟」に訂した。

「大慈大悲之濟渡幾舊久迹」「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘では「久」ではなく「舊」である。

「亦天童天女之體」「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘では頭に「亦」が入る。

「與官與福。之利益是新矣」「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘では間に「之」が入り、「與官與福之利益是新矣」と連続した文章となっている。

「役優婆塞請此山」「新編鎌倉志卷之六」所収の鐘銘では「役優婆塞詣此山」である。誤植の可能性が高いように思われるがママとした。

 以下、「新編鎌倉志卷之六」で私が注で示した本文の訓読を参考にしながら、ここでの訓点に従って鐘銘を我流に書き下したものを示す。

 

  冶鑄(やちう)し奉る 金龜山與願寺宇賀辨才天女 下の宮の鐘銘

大日本國東海道相摸の州江の島は、金輪際より湧出するの靈島か、福神託居の巖窟なり。加之(しかのみな)らず、人王三十代欽明天皇十三壬申の歳、四月十二日戌の刻より、江野(がうや)の南海、湖水の水門に當りて、雲霞、暗に海上を掩(おほ)ひ、日夜、大地六種震動す。天女、雲上に顯現し、童子左右に侍立す。諸天龍神・水火雷電・山神鬼魅・夜叉羅刹、天より盤石を降らし、海より砂礫を擧ぐ。電光、空に輝き、火焔、白浪に交ぢる。同二十三日辰の刻に及びて、雲去つて、霞散じ、海上に島山有るを見るのみ。今の三神山、是れなり。抑(そもそも)此の神將王は、天地の起々、陰陽の初々なり。聞法(もんぱう)、年、舊(ふ)りて、誰(たれ)か空王の往事を知らん。利生、日々に新たなり。尊神の現德を何如せんや。本地は則(ち)等覺妙覺の尊、大慈大悲の濟渡、幾(やうや)く久しく迹たり。天童天女の體(てい)、官を與へ、福を與ふ。利益、是れ、新たなり。玆に因りて役の優婆塞、此山を請ひ、越知の泰澄、當島に居り、傳教、窗前に影向(やうがう)を發願(ほつぐわん)し、弘法、床上に恒に臨みて對して請ひ、慈覺、念時に常に隨ひて給仕す。安然の行場、應に滿知すべし。所以(このゆへ)に、顯密權實の宗、宗々、冥助を被り、文武商農の家、家々、靈驗を仰ぐ。肆(かかるがゆへ)に信心の檀越(だんをつ)等、冶鑄し奉る攸(ところ)なり。蒲牢一聲、上は梵天の頂きに徹し、下は地輪の底に響く。此の土、耳根、利なり。故に遍く聲塵を用ゆ。三寶、之を證明し、諸天、之を衛護す。總じては天長地久、御願圓滿。別しては施主、志を辨天の本願に懸け、誠を大悲の誓約に任せ、祈る所の善願、悉地(しつち)成就せしめんと、まくのみ。維れ、時、寛永十四丁丑の曆、閏彌生吉祥日。天台傳燈三部都法大阿闍梨法印生順、謹みて書す。下の宮の別當職權大僧都法印長伸、稽首し敬ひて白(いは)く。

 

「欽明天皇十三壬申歳」は西暦五五二年。「寛永十四丁丑の暦」西暦一六三七年。]

故郷や臍の緒に泣く歳の暮 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 故郷や臍の緒に泣く歳の暮

 芭蕉がその故郷に歸り、亡くなつた父母の慈愛のことを考へ、昔の有りし日の慈愛を思ひ出して作つた句である。「臍の緒に泣く」といふ言葉の中に、幼時の懷かしい思ひ出や、父母の慈愛の追懷やが忍ばれて、そぞろに悲しみをそそる俳句である。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なっている。

  故郷や臍の緒に泣く歳の暮

 生涯を旅に暮した芭蕉も、やはり故郷のことを考へ、懷かしく追懷して居たのである。或る寒い年の暮に、彼は到頭その生れた故郷に歸つて來た。そして亡き父母の慈愛を思ひ、そぞろに感慨深くこの句を作つた。「臍の緒に泣く」といふ言葉は奇警であつて、しかも幼時の懷かしい思ひ出や、父母の慈愛深い追懷やが、切々と心情から慟哭的に歌はれて居る。

批評家然として句との距離を置き、事大主義的に「追懷」を二度繰り返し、「奇警」「切々と心情から慟哭的に」などといった如何にもな言辞を粉飾したこれよりも、初出の方が遙かに初読印象の直感的感銘を素直に伝えていると私は思う。]

農業試驗所及びその裏山にて 八首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    農業試驗所及びその裏山にて 八首

硝子透(とほ)し陽(ひ)はしみらなり水を出(で)て鰐魚(アリゲーター)の仔ら眠りゐる

[やぶちゃん注:「しみらなり」暇なく続いて、終日(ひねもす)、一日を通じてずっとその場いっぱいに、の意。万葉以来の古語であるが、形容動詞としての使用は極めて異例で、通常は副詞として「しみらに」(若しくは「しめらに」)で使用する。「しみら」はもともと、「茂・繁」を訓じた「しみ」「しみみ」に、状態を示して形容動詞語幹を作る接尾語「ら」の付いたものであるから、形容動詞としての用法には見た目、違和感はない。「鰐魚(アリゲーター)」当時の小笠原農業試験場(現在の呼称は小笠原亜熱帯農業センター)ではワニ目正鰐亜目アリゲーター科アリゲーター亜科アリゲーター属 Alligator のワニの実験飼育をしていたものらしい。皮革利用目的のためかとも思われるが、識者の御教授を乞うものである。]

護謨(ゴム)の葉にとまる小鳥の名も知らず日の豐(ゆた)けさに黑光りゐる

空に海に光の微粒粉(こな)をぶちまけて明るきかもよ丘べに立てば

見かへれば檳榔(びらう)の葉越しキララキララ海の朝霧はれ行くが見ゆ

[やぶちゃん注:「キララキララ」の後半は底本では踊り字「〱」。「檳榔」は被子植物門単子葉綱ツユクサ類 commelinids に属するヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu。「ビンロウジュ」(檳榔樹)とも言うが、類似音の「ビンロウジ」はこのビンロウの実をいうので注意。実はアルカロイドを含み、ガムのように噛む嗜好品として知られる。]

道の上の崖の端(は)にして巨(おほ)いなる龍舌蘭の葉の厚き見つ

[やぶちゃん注:「龍舌蘭」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属 Agave に属する、厚い多肉質の葉からなる大きなロゼットを形成する熱帯性植物。]

肉厚き葉の上に白き粉をふけり龍舌蘭の巨き簇(むらが)り

赭粘土の(あかつち)崖の崩(くづ)れにたかだかと章魚木(たこ)の氣根の根節(ふし)あらはなり

[やぶちゃん注:「章魚木(たこ)」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ Pandanus boninensis。「蛸の木」「露兜樹」などと書く。小笠原諸島固有種で雌雄異株。海岸付近に植生する。種名“boninensis”は、小笠原諸島の英名“Bonin Islands”に由来する。小笠原諸島の海岸近くに自生し、高さ一〇メートルまで達する。タコノキ科植物全般に見られる特徴であるが、気根が支柱のように幹を取り巻き、それが蛸の足のように見えることから、本種はタコノキ目の基準種となっている。葉は細長く、一メートルほどになり、大きくて鋭い鋸歯を持つ。初夏に白色の雄花・淡緑色の雌花をつけ、夏に数十個の果実が固まったパイナップル状の集合果をつける。果実は秋にオレンジ色に熟し、茹でて食用としたり、食用油を採取する原料とする。『本種は小笠原諸島の固有種であるが、八丈島等に移出されて定着している他、葉の美しさから観葉植物として種苗が販売されている。 南西諸島に多く生育するアダンの近縁種であるが、アダンの葉には鋸歯が小さいなどの違いで見分けることができる』(以上、引用を含め、ウィキタコノキ」に拠った)。]

墓地へ行く道のかたへの崩崖(くえがけ)に章魚木(たこ)の根引けどさ搖るぎもせず

秋 大手拓次

 秋

ひとつのつらなりとなつて、
ふけてゆくうす月(づき)の夜(よ)をなつかしむ。
この みづにぬれたたわわのこころ、
そらにながれる木(こ)の葉(は)によりかかり、
さびしげに この憂鬱(いううつ)をひらく。

鬼城句集 夏之部 蚊

蚊     蚊を打つて大きな音をさせにけり

鬼城句集 夏之部 蚊柱


蚊柱    蚊柱や吹きおろされてまたあがる


 
[やぶちゃん注:「蚊柱」水辺で、双翅目糸角亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae の形成するものが有名(老婆心ながらユスリカの♀は刺さない)であるが、広くカの仲間や他の双翅類(ガガンボダマシ科やヒメガガンボ科)が軒下などに群れて柱状に長く延び上がり、上下しながら飛ぶ生殖行動に伴う現象をいう。刺すカ科の仲間でもアカイエカ・コガタアカイエカなどが顕著な蚊柱を作る。七~八月ころの夕方や朝、羽音をたてながら二〇~五〇匹時には数百匹の♂が群飛する(則ち、本来の蚊柱を形成するのは♂であるから蚊柱の蚊は刺さない)と、そこに♀が入ってきて交尾が行われ、蚊柱は凡そ四、五十分で消失する。♂は♀の入来を♀固有の羽音で感知するといわれている。蚊の産卵には水が必要で、蚊には低気圧が近づいて湿度が高まり、蒸し暑くなると本能的に生殖活動を行うプログラムがなされているらしく、蚊柱が立つと一日二日のうちに雨の降ることが多いとも言われる(以上は平凡社「世界大百科事典」及び個人サイト「観天望気」の蚊柱立てば雨を一部参考にさせて頂いた)。]

2013/07/27

セシウム、原発地下道で23億ベクレル検出:日本経済新聞

セシウム、原発地下道で23億ベクレル検出:日本経済新聞 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG27012_X20C13A7CC0000/

比較対照して容易く理解出来るものを見つけた。
http://blogs.yahoo.co.jp/pphhiiloo/3623102.html

それによれば……
...
以下は各放射性物質1グラム当たりの放射能量である。

プルトニウム239 2300000000ベクレル(←!!!)
ウラン235            80000ベクレル
ウラン238            12000ベクレル

以下は各放射性物質の年摂取限度の値

ウラン238          14ミリグラム……
ウラン235           2ミリグラム……

プルトニウム239       0.000052ミリグラム……

ご参考まで……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 12 筆は直角に持つ!

M177


図―177

 日本人は漢字で文章を書くが、優秀な学生は三千字、四千字を知っている。これ等全部に書かれる時の形がある。日本人は同時に、四十八字のアルファベットを持っていて、それで言葉を発音通りに綴る。だが私はこのことを余りよく知らないから、興味を持つ読者は、ヘップバーンの「日英辞典」の序言を参照されるとよい。漢字の多くは、一つの点や線によって相違する。外山教授は大学へ手紙を出して網をたのんでやったが、先方はその漢字を、私が沢山持っている綱と読み違えた。日本人の手紙には Dear Sir も Dear friend もなく、突然始る。物を書く時には、図177のように筆を垂直に持つ。
[やぶちゃん注:モースは恐らく頭語が改行されない本邦の手紙を見て、それがぶっきらぼうに直ちに要件を記しているように見えたものであろう。若しくは、モースが多く実見した多くの事務手続き上の書状の「前略」の意味を聴いてそう判断してしまったものかも知れない。
『ヘップバーンの「日英辞典」』原文は“Hepburn's "Japanese and English Dictionary."”。これは明治学院の創始者でローマ字のヘボン式で知られる、米国長老派教会系医療伝道宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn 一八一五年~一九一一年)が一八六七年にロンドンで出版した辞典であろう。ヘボンは安政六(一八五九)年十月に来日、モースが来日した際もまだ日本にいた。彼は明治二五(一八九二)年十月に妻の病気を理由に離日したが、実にその滞在期間は三十三年に及んだ。実に日本の近代化を蔭で支えてくれた外国人の一人であった。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 11 モース「ハスタ・ラ・ビスタ、ベイビィ!」

M176

図―176

 この島の東端に、漁夫の家がかたまっていて、私はその何軒かを写生しようとしたが、老若男女が私の周囲にぎっしりかたまって了ったので、とうとう断念せざるを得なかった。彼等が喋舌(しゃべ)ったの喋舌らぬの! そして五歳ばかりの子供も大きな大人のように厳然たる口のききようをした。彼等は明かに、どの小舎をが写生しつつあるかを、議論していた。最初私は、ある名前がハッキリいわれるのを聞くが、写生図(図176)に例えば大きな魚の籠といったような、新しい細部をつけ加えると、非常に誇りがましい笑い声が起る。だが、大きな魚の籠は一つより多くあるので、今度は別の主張者が叫び声をあげる番になる。私は小舎を三軒写生した丈で、辛棒がしきれなくなったが、頭髪のもしゃもしゃした、皮膚の黒ずんだ土人達の長い人間道(ひとあいみち)を通じて(まったく私はその間から向うを見ねばならなかった)見る光景は、不思議なものであった。私によっかかった者の一人、二人に対して、私がスペイン語で呪詛したら、彼等は哄笑した。
[やぶちゃん注:「私は小舎を三軒写生した丈で、辛棒がしきれなくなったが、頭髪のもしゃもしゃした、皮膚の黒ずんだ土人達の長い人間道(ひとあいみち)を通じて(まったく私はその間から向うを見ねばならなかった)見る光景は、不思議なものであった。」原文は“I could stand it only long enough to get three cabins in my sketch, but it was an odd sight to look through this long lane of tangle-haired, dark-skinned natives, through which I had to sketch.”。比べてみると、石川氏が何とか分かり易く訳そうなさっているのが見て取れる。
「私がスペイン語で呪詛したら、彼等は哄笑した。」原文は“One or two leaned on me whereupon I swore at them in Spanish at which they laughed heartily.”。これってもしかしてターミネターの“Hasta la vista, baby!”だったりして!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 10 地引網見学

M174

図―174

M175


図―175

 昨日長い砂浜で、漁師達が、長さ数千フィートの繩がついている、大きな網を引きあげた。殆ど全部が裸の、漁夫や男の子達が、仕事を手伝っている所は、誠に興味があった(図174)。大きなうねりがさかまいて押しよせた。人々は面白い思いつきの留木を用いて、繩にぶら下った。それは六フィートばかりの繩で、一端は輪になっており、これを腹のまわりにまきつけ、他端には大きなボタンみたいな木の円盤がついている。このボタンを巧みに投げると、それが網の繩にまきついて、しっかりと留まる。私は図175でそれを明瞭にしようと試みた。我国の漁夫も、この方法を知っているかも知れないが、もし知らぬならば真似をすべきである。これは繩を非常にしっかりとつかみ、取り外しも至極楽で、また速に繩にくつつけることが出来る。網が見え出すと、多数の人が何が捕れたかを見る為に、集って行った。私はこの裸体の人々の集団の中に無理に入って行って、バケツに一杯、各種の海産物を取った。私はそれ迄、自発的の群衆がこれ程密集し得るとは知らなかった。まるで鰯(いわし)の缶詰である。
[やぶちゃん注:図175に示された道具は「腰板」とか「こしび」と呼ばれるものであるらしい。「ヤフー」の「知恵袋」で(消失する可能性があるのでリンクは示さない)、
  《引用開始》(記号の一部を変更した)
地引網(地曳網)で使う道具の名前を教えてください。
腰に付け、地引網のロープに巻きつけると握力が無くても楽に引っ張れる道具です。
その道具は7、8センチメートルくらいの四角い板の真ん中に穴があいており、そこにロープを通してくくり付け、ロープの先端にとめてあります。
地引網の太いロープにくるりと巻くと引っかかり、一定の方向に対してはいくら引っ張っても取れません。
ロープの手元は大き目の輪になっており、腰(というより骨盤の辺り)に巻いて体全体で引っ張れます。
便利だなぁと思っていたのですが名前を忘れてしまいました。
どなたか宜しくお願いします。
   《引用終了》
という kaishain110 氏の質問に対して、pantan0724 氏が以下のように答えておられる。
   《引用開始》
どのような形状かなど詳しいことが解らないのですが、以前 地引網の道具に【腰板】というのがあり、腰の力で網を引っ張るためのものだという説明を聞いたことがあります。
ただ、実際に見た訳ではないので 説明を聞いてもピンと来ず、質問者さんのいう道具と同じモノかは全く解りませんが、なかなか回答も付かないみたいなので なにかの役に立つかもとおもい回答させて頂きました。
   《引用終了》
とあり、その下に『参考』として『広報とうほく』の二〇〇六年三月号に載る「氷下曳網漁」3ページ右下に写真付きで説明があると記され、『ただ 板の名前はここには載っていなくて、板を使い腰で引く引き方が【コシビキ】という方法で有ることが載っています』。『こちらは 淡水のようですが、千葉の九十九里(海)の方での曳網もコシビキという方法で網をよせるらしく、このとき巻き付けるロープの部分を“こしび”と呼んでいるらしいです』。とあり、質問者もそれで間違いないと思われる、と返している。質問者の説明がまさにこのモースの叙述と絵に美事に一致するではないか!……「腰板」で検索しても、この道具の画像は遂に出て来なかった。……日本を愛したモースの霊を私は真近に感じたような気がした……
「数千フィート」原文は“several hundred feet long”であるから「数百フィート」の誤訳である。100フィートは30・48メートルであるから、日本語の「数千」の感覚(3000から6000程度の漠然とした数をいう)に直せば、92~183メートルとなる。当時の船を用いないタイプの地引網の長さは片側が90メートルから、長くても200メートルほどであったと思われ、流石にドレッジをするモースは的確に長さを目測している。
「六フィート」約1・8メートル。]

印象 とある都會の上空にて 萩原朔太郎 (「青空」初出形)

 印象
    とある都會の上空にて

このながい煙突は
女の圓い腕のやうで
空にによつきり
空は靑明な球形ですが
どこにも重心の支へがない。
この全景は象(ざう)のやうで
妙に澎大の夢をかんじさせる。

[やぶちゃん注:『日本詩人』第一巻第三号・大正一〇(一九二一)年十二月号に掲載された。後に詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)に所収するに際し、以下のように、標題その他表記表現を微妙に改変している。

 靑空
    表現詩派

このながい烟筒(えんとつ)は
をんなの圓い腕のやうで
空にによつきり
空は靑明な弧球ですが
どこにも重心の支へがない
この全景は象のやうで
妙に澎大の夢をかんじさせる。

初出及び「靑猫」の「澎大」はいずれもママ。筑摩書房全集版では勿論、「膨大」に訂されてある。因みに私は文句なしに初出形を支持するものである。]

小学校終業式 三首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

   今日は小學校の終業式なりけり、校庭の周邊には

   柵を打たずして熱帶植物もて固めり、木の名を問

   へばタマナといふ。如何なる字を宛つるならむ

通信簿人に見せじと爭ひつゝ子ら出できたるタマナの蔭ゆ

[やぶちゃん注:太字「タマナ」は底本では傍点「ヽ」。これはツバキ目オトギリソウ科テリハボク Calophyllum inophyllum の小笠原諸島での地方名。太平洋諸島・オーストラリア・東南アジア・インド・マダガスカルなどの海岸近くに分布し、世界の熱帯・亜熱帯地域に於いて広く栽培されている。日本では南西諸島と小笠原諸島に自生するが、これらは移入によるとも考えられている。成長は遅いが、高さは一〇~二〇メートルに達する。葉は対生で、長さ一〇~一五センチメートルほどの楕円形で光沢があり(和名の由来)、裏面の葉脈が目立つ。花は直径二~三センチメートル、一〇個前後が総状花序に開く。花弁は白く四つあり、黄色い多数の雄蕊を持ち、芳香がある。果実は径四センチメートルほどの球形の核果で、赤褐色に熟し、大きい種子を一つ持つ。沖縄では見かけのよく似たオトギリソウ科フクギ Garcinia subelliptica とともに防風林として植えられる。観賞用にも栽培されるほか、材は硬く強いので家屋・舟・道具の材料に用いられる。小笠原諸島では「タマナ」の名称で親しまれ、材を用いてカノー(アウト・リガー・カヌー)を造った。種子からは油が採れ、食用にはならないが外用薬や化粧品原料に用いられ、灯火用にもされる。現在はバイオディーゼル燃料に適するとして注目されている。なお、「如何なる字を宛つるならむ」と中島敦は言っているが、安部新氏の「小笠原諸島における日本語の方言接触:方言形成と方言意識」(2006年南方新社刊)によれば、タマナは他に「メールトマナ」「ヒータマナ」とも呼ばれ、これは実は日本語ではなく、英語の“male”・“he”+ハワイ語“kamani”・古代ポリネシア語“tamanu”の合成語(孰れもテリハボクを指すものと思われる)であるらしい。]

今日はしも終業式ぞ紋付の子も打交り白き道行く

紋付も半ズボンもありおのがじし通信簿もち騷ぎ連れ行く

足 大手拓次

 足

うすいこさめのふる日(ひ)です、
わたしのまへにふたりのむすめがゆきました。
そのひとりのむすめのしろい足(あし)のうつくしさをわたしはわすれない。
せいじいろの爪(つま)かはからこぼれてゐるまるいなめらかなかかとは、
ほんのりとあからんで、
はるのひのさくらの花(はな)びらのやうになまめいてゐました。
こいえびちやのはなをがそのはなびらをつつんでつやつやとしてゐました。

ああ うすいこさめのふる日(ひ)です。
あはい春(はる)のこころのやうなうつくしい足(あし)のゆらめきが、
ぬれたしろい水鳥(みづどり)のやうに
おもひのなかにかろくうかんでゐます。

鬼城句集 夏之部 まひまひ

まひまひ  まひまひのきりきり澄ます堰口かな

      月浮いてまひまひ遊ぶ野川かな

      まひまひや影ありありと水の底

[やぶちゃん注:「まひまひ」の後半は標題の季語も含め、底本では四箇所総てが踊り字「〱」。この「まひまひ」は前項の「水馬」の注で示した通り、「舞舞虫」のことで、鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属する甲虫ミズスマシの仲間の別称。「堰口」は「せきぐち」で字余りである。「いねぐち」「ゆぐち」という特殊な読み方が存在するが、であれば鬼城はルビを振るはずである。]

鬼城句集 夏之部 水馬

水馬    まひまひに勝つて遡(のぼ)れり水馬

[やぶちゃん注:底本では「まひまひ」の後半は踊り字「〱」。「水馬」は有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目 Heteroptera に属するアメンボ科アメンボ亜科アメンボ Aquarius paludum 他のアメンボ類の総称。は正式和名はアメンボであるが、水黽・水馬・飴坊などと漢字表記し、アメンボウとも呼ぶ。カメムシ類ほどではないが臭腺を持っており、捕えると飴のような甘い匂いを放つことに由来する「水黽」の「黽」(音ボウ)は蛙で水面を滑る蛙の謂いであろう。ここでも無論、音数律から「あめんぼう」と読んでいる。この「まひまひ」はシチュエーションからお分かりの通り、カタツムリではあり得ない。実はこれは「舞舞虫」のことで、鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属する甲虫ミズスマシの仲間の別名である。アメンボは六本の脚の先で立ち上がるように浮くのに対し、ミズスマシは水面に腹ばいになって浮く(また、アメンボは幼虫も水面で生活するが、ミズスマシの幼虫は水中で生活するという違いもある。以上のミズスマシの叙述部分はウィキミズスマシ科」に拠った)。因みに、ややこしいことに「まひまひ(まいまい)」はアメンボの別名でもある。]

      水泡を跳り越えけり水馬

      相逐うて流れを上る水馬

鬼城句集 夏之部 井守

井守    石の上にほむらをさます井守かな

2013/07/26

中島敦漢詩全集 十四

   十四

 

 聽初汎(シヨパン)夜想曲

 

溪泉時哽咽

幽窅又琳々

夜獨聞初汎

悽々客恨深

 

○やぶちゃんの訓読

 

 初汎(シヨパン)夜想曲を聽く

 

溪泉 時に哽咽(かういん)

幽窅(いうえう) 又 琳々(りんりん)

夜(よ) 獨り聞く 初汎(シヨパン)

悽々(せいせい)として 客恨(かくこん)深し

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「」小川と泉。ここでは、ショパンの音楽を、涸れることなく湧き出し流れていく流と泉に喩えている。

・「時」時には。

・「哽咽」現代仮名遣の読みでは「こういん」で、涙に咽ぶこと。すすり泣くこと。

・「幽窅」現代仮名遣の読みでは「ゆうよう」で、静かで仄暗く奥深いこと。

・「琳々」「琳」は美しい玉(ぎょく)の意。若しくは美しい玉がぶつかり合う音をも指す。ここでは、ショパンのピアノ曲の音の粒が、さながら玉が響き合い音を立てる様子に喩えている。

・「初汎」ショパン。日本における漢字音を用いて、人名に当てたものと思われる。現代中国語では「肖邦」「蕭邦」と表記している。

・「悽々」寂しいさま。悲しいさま。

・「客恨」さすらう人の愁い。ここでは人生の漂泊者たる詩人自身の心に湧く憂愁を指す。

 

T.S.君による現代日本語訳

涸れることなきせせらぎ  ときにすすり泣きの声

仄暗く深い空間の広がり 玉(ぎょく)が揺らぎ発する神韻

夜ひとり耳を傾ける――  ああ私のショパンよ――

深い憂愁が立ち込め――  胸はかきむしられる――

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 ショパンの夜想曲を漢詩で歌う!

 詩というものは、何を歌っても構わないのだ。

 そうと分かっていてもこの詩想は新鮮だ。詩が作られたのは、現代ほど前衛的な芸術表現が一般的でなかったと思われる戦前のことである。しかも東洋的情調が濃厚に宿る漢語定型詩によってここで歌われる対象は、純粋な西洋音楽なのだ。しかも選りによってロマン派の巨星ショパン!

 こんなことに驚く私は、もしかしたら頭が堅すぎるのかもしれない。そもそも中国詩の歴史を見ても、前例のない新しい事物を素材として詠み込むということには一貫して非常に寛容だ。

 例えば、宋詩を見よう。ミミズや虱まで歌った梅堯臣は極端な例かもしれないが、それまでの詩に比較して、日常のあらゆる事物を歌うことについて遥かに躊躇しなかった。また清朝末期には、赴任などで接した日本の事物などを積極的に歌った黄遵憲なども思い出される。……

 そう考えれば、中島敦は素材の新奇性など全く気にせずに作詩に臨んだかもしれないとも思える。

 しかし少なくとも対象は純粋な西洋音楽である。伝統的素材とはかなり異質だ。詩人がそれを意識しなかった筈はない。ショパンという人名の表記にさえ、いろいろと気を遣ったであろう。新奇な試みとはなるけれども、そんな敷居を乗り越えてでも、ショパンに触発された心の妖しい動きを漢詩に託したいと願った詩人の強い思いは本物だ。これを誰も疑うことはできまい。

 

 さらに私がどうしても気になったのは、歌う対象自体が、そもそも完結した芸術作品であるということだ。――

 詩とは多くの場合、何らかの素材、言い換えれば人生の路傍に転がっている原石を見出してそれを徹底的に磨き、心の深層までをも照らし出す輝きを引き出した、その結果としての言葉の魔術である。若しくはそれらの原石に触発されて動いた詩人の心を提示し、読者の心にも何らかの化学反応を齎す魔法だ。詩人は、人が迂闊にも素通りしがちなそれら原石の存在に気づき、研磨した上で、言葉という手段を用いて読者の目の前にぬっと突き出す。その驚異的な営みに、我々はしばしば眼を見張る。

 

 しかし、この詩は違う。

 既にしてショパンというひとつの詩的世界は普く人口に膾炙されている。

 本来的には、読者はその音楽世界を詩人の手など借りずとも感知することができるのである。

 ショパンを直接聞けば十全なはずだ。

 しかし、詩人は、その音楽に自分の魂をこすり付けた際に発した心の色彩を、敢えて漢字二十字に定着したのである。

 従って、改めて以下の通り結論づけることができるだろう。

――詩人が歌いたかった主眼は、ショパンの音楽以上に、詩人自身の魂にあるのだ――と。

 

 それにしても、洋の東西を問わぬ彼の広汎な教養や、世界に向けて大きく開かれた彼の融通無碍な審美眼には驚かされる。彼が鬱蒼たる西洋古典文学の森を渉猟していたことは幾つかの記録から明らかであるし、日本語訳を試みてさえいる。また、西洋古典音楽への共感などを短歌に読み込んだりもしている。芸術として善きもの、紛うかたなきものであれば、表現形態を問わず見事に味わい、消化することができたのだ。なんと逞しい胃の腑を持ち合わせていたことだろう!

 それに比べて、私自身の胃のなんと虚弱なことか……。中島敦の星やバラや河馬の詩はなんとか味わい、自分なりに消化することができた。しかし、正直に申し上げよう。このショパンには、恥ずかしいことに戸惑ってしまった。

 

 私はショパンが決して嫌いなのではない。では何故戸惑ったのか。それは、中島敦の詩心に対して私が抱いていたイメージと、ショパンの音楽についての私なりの印象が、かなり異なるものだったからである。

 彼の文学を振り返ってみていただきたい。永遠の宇宙を目前にして宿命に思いを致し立ち尽くす詩人。そんな詩人の姿がすっくと立ち上がる星空の詩! または、色彩の奥に極限まで集中しかつ沈潜した果てにこの世の向こう側を垣間見る――すなわち、純化に純化を重ね徹底的に煮詰めることを通して、普段人が見ることができない奈落を覗き込むというバラの詩! そして……彼の幾篇かの小説――運命に抗い深い傷を負いながらも自分に対して誠実に人生を歩んで行こうとする登場人物。有限で卑小な存在である人間が、表面的な価値判断や善悪を超えた無慈悲な(そもそも“慈悲”など人間が勝手に作り上げた幻影に過ぎない)宇宙の運行の中で、抗い、傷つき、それでも背筋を伸ばしたまま滅んで行く――。そんな悲壮な、しかし静謐な物語!

 私は中島敦という詩人を、そんなイメージで塗り固めて眺めていたのだ。

 こんなイメージならば、仮にバッハやベートーヴェンとなら共通項を見出しやすい。世界を構築するように壮大な音の建築物を組み上げることで、永遠を提示し、宇宙を歌い、同時に対極にある有限の人生を肯定するバッハ。傷つき、泥に塗れても、立ち上がる力さえ失われても……如何なることがあっても、前方を睨み付け、背筋を伸ばして希望と理想と真心を歌い続けるベートーヴェン。彼らの壮大さ、悲壮さが、中島敦のイメージとどこかで結びつくのだ。

 

 しかし、ショパンの音楽の主眼はそんなところにない。彼は今直面している時間の流れに真正面から向き合っている。少なくとも彼の表面上の意識は、そのことで占められている。まさに今この時に、聴く者の心の中で渦巻く様々な情動を、深いところでしっかり捉える。時にそれを優しく撫でたかと思うと、またある時はそれを解放せよと激しく唆すのだ。彼は憂愁に捉われた人の心にしっかりと寄り添う。そしてその人の心を代弁して歌う。時に想いを純化し、何倍にも増幅しながら……。

 私はショパンを聴くとき、必ずある態度で向き合う。バッハやベートーヴェンを聴くときとは異なる独特な構えだ。心の襞を妖しく撫でるような半音を主体とした翳のある音の移ろい、リズムの揺らぎ……。こういった特性を持つ彼の音楽に、自分の秘めた情動を敢えて直接晒し、湿らせ、浸らせる……こんな風に聴くのである。するとショパンは、情動の核心部分を慰撫し、刺激し、翻弄してくれる。そうして恍惚の中で緊張が累積して行き、高潮を迎える。ある時はまた、そこからの解放を伴うことすらある。腹を見せて上向きに寝ている猫のような無防備な、どこかマゾヒスティックな私自身の態度――。

 ショパンの音の流れには、淀みはあるが、渋滞はない。リズムが緩慢になる際には直後に反動としての加速を伴っていることが通常だ。そして聴く者は時にそれを予想し、期待しながら聴く。期待は概ね報いられる。丸みを帯びた音の粒がいくつも連なり、光に包まれながら目の前を流れて行く。

 いくつかの長調の曲の除き、彼の音楽は大抵憂愁の翳を色濃く宿している。その翳は、生温かく、境界線が不分明なものである。また触感は極めて幽かであり、色でいえば中間色である。流水で即座に洗い流されてしまうような、粘着度の低い、良質の何かである。この翳が濃くなるところでは音楽の速度が落ち、嗚咽が漏れるようにメロディが搾り出されて来ることもある。またその向こうに何もない虚ろな空間だけが拡がっていることもある。体温に近いその翳に包まれていると、人は目先の視界を遮られ、微量の麻薬を吸引したかのように、振幅の大きい多彩な夢を見ることができるのだ。

 

 中島敦とショパン……、実に刺激的な組み合わせではないか!そして、中島敦という詩人……!遥か遠くを見据え、永遠というものと人間の宿命を歌うかと思えば、今このときの感情の奔流に身を委ね、深い陶酔に自らを投げ入れる……。なんとも懐の深い、振幅の大きい、恐るべき男ではないか!

 

 私は思う。

 詩人もまた、ショパンの音の粒に包まれ、憂愁の翳に酔ったのだ。起句の「溪泉」、承句の「琳々」は、涸れることなき音楽の流れと燦めく音の粒を物語る。また起句の「哽咽」、承句の「幽窅」は憂愁の翳が齎した様々な効果を想起させる。

 彼が聴いているのは特定の夜想曲なのだろうか。「溪泉」「琳々」「哽咽」「幽窅」など、全ての要素を有するような一曲は、なかなか見出せないように思われる。では遺作を含めた二十一曲の夜想曲全てなのか。私は全曲でもないと思う。当時は全曲を通して聴けるようなレコードは珍しかったであろう。全曲を続けて演奏すると所要時間は二時間弱である。そんなに長い間、集中して聴き続けていられたのだろうか。いや恐らく、著名な何曲かを続けて聴いているのだ。また、起承句二句のみのたった十文字で印象を凝縮して述べるところから受ける印象でも、著名な数曲を、それほど長くはない時間に、集中して聴いたという感じがするのである。

 これは私の個人的な印象であるが、「溪泉」「琳々」は殆ど全ての曲に当てはまるような気がする。まさに尽きせぬメロディと音の粒の輝きは、ショパンの真骨頂ではないだろうか。そして「哽咽」は有名な第一番、そして第十一番を思い起こさせるし、「幽窅」はまるで遺作である第二十番を聴いているかのようだ……。

 

 さて私は

――中島敦はショパンを表現しようと思ったわけではない――自分の心を歌いたいのだ――

と結論付けたのであった。

 彼の心――それは……それこそは、まさに――ショパンの夜想曲から感じられる憂愁そのもの――であったのだろう。

 夜ひとり自分をショパンに晒していれば、淋しさや悲しさが否応なく掻き立てられ、心は悽々」たる状態に凍りつき、さすらい人の愁いは極度に募ったであろう。

 私は思う。

 ショパンの音楽は、人の心を掻き立てるという点において、古来の幾篇もの漢詩の絶唱とその効果を同じくする。

 本物の芸術は、極点さえ捕らまえてしまえば、表現形式の如何を問わず、接する者の心を大きく揺さぶるのだ。

[やぶちゃん注:リンクはショパン好きの私が勝手に施した。力の弱さ・音の細さがどうしても気になるが、私が若き日に最初に全曲を聴いたArthur Rubinstein の演奏を第一番と第十一番に選び、第二十番は抜群の透明感から Vladimir Ashkenazy を採った。なお全曲演奏はこのアシュケナージのものMaurizio Pollini のものがある。個人的にはアシュケナージをお薦めする。ポリーニのギリシャ彫刻のようなエッジの硬さは私はショパンには向かないと今も昔も思っている。また、音楽の演奏が演奏者自身の全人格的で生活史的なものをも含むものとするもの(私はそうである)であるとすれば、第二十番をより多くの人に心理的にブラッシュ・アップした、かの「戦場のピアニスト」の主人公である Wladyslaw Szpilmanウワディスワフ・シュピルマンの第二十番の演奏をもここに掲げるべき必要を私は感ずるものである。]

 

 形式の差異など、実に取るに足りないものではないか……。

 ただし、その極点を捉えることの如何に至難であるか――

……それをまた、私は今、痛切に感じるのである。

 そういえば、あれほどの博学才穎を誇った李徴でさえ、詩人として、後世に名を残すことができなかった。そればかりか、却って自らの才能に、いわば自ら食い殺されてしまったのである……。

 中島敦という第一級の東洋の詩人が、同じく第一級の西洋の詩人であるショパンを聴いて、どれほどあやしく心が動かされたか……。私はこんな想像をして、ひとり背筋を寒くするのである。今夜、私もまた独り、ショパンの夜想曲を聴きながら……。

耳嚢 巻之七 かくいつの妙藥の事

 

 ※いつの妙藥の事

 

[やぶちゃん注:「※」=「疒」+「各」。]

 

 坂野(さかの)の喜六郎租母、かくいつの病(やまひ)をうれゐて、諸醫師手を盡しぬれど其印なし。或人、まるめろをたくはへ絶(たえ)ず用ゆれば、快といふにまかせ、なまはさら也、砂糖漬抔になして朝夕用ひけるに、やがて快(こころよく)なりて八十餘歳迄存命なせしと、喜六かたりける。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:民間療法シリーズ四連発。

 

・「※いつ」[「※」=「疒」+「各」。]「かくいつ」は膈噎。「膈」は食物が胸につかえ吐く病気。「噎」は食物が喉につかえて吐く病気をいう。現在の胃癌又は食道癌の類と推測されている。「かくやみ」「かくやまい」とも。底本の鈴木氏も岩波の長谷川氏もそう(しかも両者ともに癌と断定しておられる)注して終わりとする。では、本当にこの老婆は現在でいう胃癌か食道癌であったかと言えば、これは読む者は誰もそうは思わない。この老女、全快しており、しかもその後も有意に長生きしたことを考えると(治って直ぐに老衰で死んだというようには「読めない」。膈噎の全快後、有意に数十年は生きたのでなければ「やがて快なりて八十餘歳迄存命なせし」とは「書かない」)、これは癌ではない。これは所謂、嚥下障害としてとらえるべき病態である。しかも、一定の時期を経て完治し、再発していない点では器質的機能的な原因ではなく、心理的なものや精神疾患の一症状が疑われる(だからこそプラシーボ効果としても本療法の効果があったとも考えられる)。ウィキの「嚥下障害」によれば、神経因性食欲不振症など摂食障害、認知症や鬱病などで食欲制御が傷害されている場合に症状として現われる、とある。精神疾患を持たない人の嚥下障害有病率が六%であるのに対し、精神疾患患者の三二%が嚥下障害を持っているとし、窒息事故の割合もはるかに高く、認知症ではしばしば食事をしたことを忘れるが、食事をしたことを忘れても食欲制御が傷害されていなければ異常な量の摂食は困難である。研究は少ないが、嚥下造影検査の分析から認知症では八四%の患者が何らかの嚥下障害を持っている、という報告がある、とある。先人である鈴木氏や長谷川氏に文句を言うのではない。しかし本来、注というものが読者への一つの編著者の配慮であるのだとするならば、ここまで語らなければ私は注とは言えないと考えているのである。それが私があらゆる注を施す際に常に心懸けている「節」であるということを、この場を借りて表明させて頂く。

 

・「坂野の喜六郎」坂野孝典(たかつね 寛延元・延享五(一七四八)年~?)。寛政二(一七九〇)年御勘定組頭。「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年に存命ならば五十八歳である。

 

・「まるめろ」バラ科ナシ亜科マルメロ Cydonia oblonga 。榲桲(まるめろ)は中央アジア原産のバラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ Chaenomeles speciosa や同じボケ属のカリン Chaenomeles sinensis に近縁な果樹で、栽培が盛んな長野県諏訪市など一部の地域では「カリン」と呼ばれている。リンゴや西洋ナシとも比較的、縁が近い。果実は偽果(普通の果実は子房の肥厚したものであるが、子房本体ではなく、その隣接組織に由来する部分が果実状化したものを指す。例えばイチジクはイチジク状果と呼ばれる偽果、リンゴやナシのようなナシ状果では我々が果実と思っている食している部分が偽果で、食べ捨てている芯の部分が真の果実)で、熟した果実は明るい黄橙色で洋梨形をしており、長さ七~一二センチメートル、幅六~九センチメートルのやや上部がくびれて小さい洋ナシのような形を成す。果実は緑色で灰色若しくは白色の軟毛(大部分は熟す前に脱落する)で被われている。果実は芳香があるが強い酸味があり、硬い繊維質と石細胞のため生食は出来ないが(このお祖母ちゃんは生食したとあるから凄い。お祖母ちゃんが可哀そうなので訳では薄く切って差し上げた)、カリンと同じ要領でカリン酒に似た香りの良い果実酒とする。他にも蜂蜜漬けやジャム(ポルトガル語でこれらのデザート系の加工品を“marmelada”(マルメラーダ)と呼称するが、これが今日の「マーマレード」の語源である)などが作られる(ここまでは主にウィキの「マルメロ」「偽果」に拠った)。カリンと同じく漢方では鎮咳などに効果があるとする。因みに、「マルメロ」という和名は本種(の果実?)を指すポルトガル語の“marmelo”に由来する。これは恐らくギリシア語由来で、ギリシャ語では“melimelon”と言い、“meli”(甘い)+“melon” (リンゴ)の意味であるという。属“Cydonia”はクレタ島の古代都市キドン Cydon に由来するとされ(但し、マルメロの原産地は中央アジアからイランで、ギリシア・ローマの時代から移入されて栽培されたために間違った産地名を属名に用いてしまったケースである)、種小名の“oblonga” は「長楕円形の」という意味で、実の形に由来している(以上は高橋俊一氏の「世界の植物-植物名の由来-」のこちらのページの「マルメロ」の記載を参照させて戴いた)。漢名「榲桲」は音では「オツボツ」と読む。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 膈噎(かくいつ)の妙薬の事

 

 坂野(さかのの)喜六郎殿の租母は、永く、飲食の際の困難や嘔吐といった膈噎の病いを患って、諸医師が手を尽くして療治致いたものの、全く以って、その効果が見られなんだと申す。

 

 ところが、ある人が榲桲(まるめろ)を貯えてそれを絶えず服用致さば快癒間違いなし、と申したによって、ごく薄く切っての生食は言うまでもなく、砂糖漬なんどに致いて、朝夕欠かさず用いたところが、暫くすると、すっかり快よくなり、一切の膈噎の症状は、これ、全くなくなって、その後は何と八十余歳まで矍鑠として存命であったとは、喜六殿御自身が語って御座った話で御座る。

 

怠惰の曆 萩原朔太郎

 

 怠惰の曆

 

いくつかの季節はすぎ

もう憂鬱の櫻も白つぽく腐れてしまつた

馬車はごろごろと遠くをはしり

海も 田舍も ひつそりとした空氣の中に眠つてゐる

なんといふ怠惰な日だらう

運命はあとからあとからとかげつてゆき

さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる

もう曆もない 記憶もない

わたしは燕のやうに巣立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。

むかしの戀よ 愛する猫よ

わたしはひとつの歌を知つてる

さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げやう

ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。

 

[やぶちゃん注:詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)の「閑雅な食慾」の巻頭詩。それが初出である。「投げやう」はママ。]

トマト 三首 他白き珊瑚道一首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

小笠原の彌生はトマト赤らみて靑水無月(あをみなづき)の心地こそすれ
父島にトマトを買へば椰子の葉に包みてくれし音のゆゝしさ
トマト提げてわが行く道は乾きたり測候所の白き屋根も見えくる
この道に白きは珊瑚の屑といふ海傳ひ行き踏めば音する

風のなかに巣をくふ小鳥 大手拓次

 風のなかに巣をくふ小鳥
       ――十月の戀人に捧ぐ――

あなたをはじめてみたときに、
わたしはそよ風(かぜ)にふかれたやうになりました。
ふたたび みたび あなたをみたときに、
わたしは花(はな)のつぶてをなげられたやうに
たのしさにほほゑまずにはゐられませんでした。
あなたにあひ、あなたにわかれ、
おなじ日(ひ)のいくにちもつづくとき、
わたしはかなしみにしづむやうになりました。
まことにはかなきものはゆくへさだめぬものおもひ、
風(かぜ)のなかに巣(す)をくふ小鳥(ことり)、
はてしなく鳴(な)きつづけ、鳴(な)きつづけ、
いづこともなくながれゆくこひごころ。

鬼城句集 夏之部 蝙蝠

蝙蝠    蝙蝠や飼はれてちゝと鳴きにけり

      山寺や蝙蝠出づる緣の下

      蝙蝠や三十六坊飯の鐘

[やぶちゃん注:「三十六坊」知られた寺院で三十六坊を擁したのは上野寛永寺。ウィキ寛永寺」によれば、江戸後期の最盛期の寛永寺は寺域三十万五千余坪、寺領一万千七百九十石を有し、子院は三十六箇院に及んだとある(現存するのは十九)。]

      蝙蝠や並んで打てる投網打ち

2013/07/25

2013年8月7日にアトムは僕らを救ってくれるか?

岡崎武志「昭和三十年代の匂い」(ちくま文庫2013年5月刊)の「5 科学の未来が明るかった時代」の中に「鉄腕アトムは二〇一三年の話」という章がある。

岡崎氏は、『少年』の昭和34(1959)年2・3月号に掲載された「鉄腕アトム」の「月のうらの秘密の巻」があるが、これは後に「イワンのばか」と改題され、アメリカの一九六九年の月面着陸成功後の単行本化の際、手塚治虫が話の前に加筆、『手塚治虫自身が月の絵をバックに語り出』し、そこにアトムが登場し、仕事机に坐って振り返って笑う手塚に「先生は 月が死の世界ではなく 空気があって 植物もあるって このマンガにかいたでしょ あたりませんでしたね」と背後から語りかける。手塚は「そんなものはないことはわかっていたよ でも月の夢物語ををつくるのはほんとうにたのしかったな」と答える、とある。
実はこの加筆シーンは僕の持っている講談社の「手塚治虫漫画全集」(昭和1980年刊行)の「鉄腕アトム6」の「イワンのばか」の巻には載っていない。これは発表時の原型で掲載されたもので、この加筆はないからである。
僕はこの加筆を見たかどうかと言われると、高い確率で読んでいないように思われる。しかし、僕は小学生の低学年の時(月面着陸は僕が中学一年の夏である)に改題された「イワンのばかの巻」を読んで、題名とロボット・イワンの造形と最終コマの雪の降る(!)月面の廃船と十字架が、何故かひどく哀しく印象に残ったのを覚えているのである。

さて、岡崎氏は特にこの「イワンのばかの巻」を詳述せずに続けて、四方田犬彦の「鉄腕アトム」の時代設定考証の論(1992年刊講談社コミックス版『鉄腕アトム 第三巻』解説)を引き、「鉄腕アトム」の『舞台になっている東京は、どうやら二十一世紀の初頭、年代にしてみると二〇〇七年から二〇一〇年ぐらいではないか、とわたしは睨んでいる』と提示する。
ところがその直後に唐突に岡崎氏は、
『じつは、あるシーンで、『鉄腕アトム』の時代は二〇一三年とはっきり特定されている。』(「昭和三十年代の匂い」97ページ)
と記されているのである。

まさに――2013年――今年である――

その後は、やはり四方田氏によるアトム誕生は「地上最大のロボットの巻」(『少年』昭和39(1964)年6月号~昭和40年1月号連載)で、産みの親天馬博士がアトムに対して言う「十四年前におまえは科学省で生まれた」という台詞から『一九九三年から九六年くらいの間に造られた計算になる』という考証を示してアトムを平成生まれと規定する。但し、残念ながら私の所持する講談社版全集及び浦沢直樹「プルートゥ」の附録版――後者は初出の冒頭に加筆があり、やはり手塚治虫が登場している――では『十四年前』という台詞は書き変えられて、「科学省の精密機械局……その台の上で誕生したのだよ」となったものと思われる。

[*やぶちゃん補注:この改変事実からも分かるように、ある時から手塚治虫は『鉄腕アトム』時代設定に関わるような部分を手直ししたり、抹消したりしている事実が判明する。それは恐らく初期設定から時間が経過するに従って、現在に著しく近づいてくることによる違和感を払拭する狙いがあったものと思われるが、これは初出誌を持つことを誇りとするようなファンではない(しかし手塚治虫をつい「先生」と呼びたくなる)僕のようなフリークではない人間にとっては、作品を読解するにはすこぶる困った仕儀であったのである。]

その後に岡崎氏の本でも提示されるように、原作の公式設定では、現在、

アトムの誕生日 2003年4月7日

と規定されているのである(ウィキの「鉄腕アトム」参照)。

だとすれば今日、2013年7月25日現在で、アトムは満10歳である。

ここで少し、修正された原時代設定の一つを考察してみたい。
実はその大きな論拠になるのが冒頭に示した「イワンのばかの巻」なのである。ここでは何と正確な年代が話中に示されるのである(以下は1980年刊講談社全集版に拠る)。
アトムは小学校の春休み(掲載時期から推定)に宇宙旅客艇のボーイとしてアルバイトとして乗り組むが、隕石に激突して5人の乗客とともに月の裏側へ不時着して救助を待つことになる(空気も水も植物も存在する)。アトムは探索中にクレバスに落ちた旧式の宇宙船を発見、そこで残されたテープ・レコーダーの録音を再生すると、その宇宙船は

1960年

にソ連政府の極秘命令を受けて月の裏側に出発した単独有人月ロケット「ウラル」であり、飛行士は若きミーニャ・ミハイローヴナソ連空軍の女性中尉であったことが判明するのである。まだ起動しているロボット・イワンはアトムをミーニャと錯誤し、アトムの世話をしようと押し留めるのを何とか振り切り、仲間避難客のもとへと帰還、事情を述べる。アトムから聴いた内容を避難客の少年が他の連中に説明するシーンで、少年は、

「そうです 五十年前不時着したソ連のロケットです」

と言うのである。ということはこの

「イワンのばかの巻」の作中時間は2010年

に確定される(「五十年前」という台詞をどんぶり勘定の数値とする要素は読む限りに於いて殆んどないと断言出来る)。

ところでここに別に今一つ、「鉄腕アトム」の解析では沢山おられるであろう緻密な研究家のお一人の考察をネット上で見ることが出来る。手塚治虫とは昆虫学でまず繋がっておられる中谷憲一氏のサイト「がたろ写真帳」の中の「お茶の水博士の誕生年」という考証である。そこで非常に重要な考察として、実は原作者の手塚には元来、「鉄腕アトム」の『時代設定を厳密にする気が無かったのであろうと推測』されること、また『アトムの生年月日が明確に設定されたのは何らかの理由があったからだ』という提起がなされている点である。「鉄腕アトム」の全話構成が編年的体裁をとらねばならない理由は無論ないし、また「鉄腕アトム」を一つの文化的メルクマールとして良い意味でも悪い意味でも何らかの主義主張の求心的動力として利用しようという存在にとっては、アトムの生年月日を特定することは確かに有意にして有価値な厳とした目的が存在することは言を俟たない。それは中谷氏やその他のフリーキーな人々の内的欲求とは限らない。もっと外延的な政治的経済的科学技術的な「妖しい目的」をその背後に嗅ぎ取ることが出来るが、今は敢えてその問題に深入りはしない(但し、いつかはそれをせねばならない僕は思っているのだが)。
中谷氏はそこで、この「イワンのばかの巻」について以下のように叙述されておられる。
   《引用開始》
「イワンのばかの巻」(手塚,1987a)では,1965年に月の裏側に不時着したソ連の月ロケット「ウラル」の事故の50年後という設定である。つまり,2015年が舞台となっている。ただ,この月ロケット「ウラル」に乗っていた女性宇宙飛行士,ミーニャ・ミハイローヴナ空軍中尉の娘(ウラル事故当時10歳前後)が,月の女王になろうとして事件を起こす「ホットドッグ兵団の巻」(手塚,1987b)は,「ウラル」の事故から30年後の設定である。「ウラル」が1965年だとすると,アトム誕生以前の1995年が舞台となり,矛盾する。これは,60歳前後の女性が月の女王をもくろんで精力的に悪事を働くと設定するよりも,女盛りの40歳前後であるほうが自然であるからだろう。「ホットドッグ兵団の巻」の場合,時代設定は明示されていないが,鉄腕アトムの他のストーリーと同様に2015年前後と見るべきだろう。したがって,この場合の「ウラル」事故は1985年頃となる。
   《引用終了》
ここで中谷氏が使用している『(手塚,1987a)』というのは、記事末にある「文献」によってKCスペシャル305「鉄腕アトム第1集」講談社1987年刊の「イワンのばかの巻」であことが示されてある。ここで中谷氏は「ウラル」の打ち上げを、

1965年

と記しておられ、従って、

「イワンのばかの巻」の作中時間は2015年

にずれ込んでいることが分かる。
講談社全集版は1980年、この講談社KCスペシャル版は1987年の刊行である。
――深入りはしないと、前に述べたが、少しだけ述べさせてもらうならば、僕は検証した訳でもなんでもないが、手塚はアトムの漠然とした時代設定を現実に接することのない漸近線的なものとして漠然と少しずつ、先へ先へと押し遠ざけていたのではなかったかと思うのである。そうしてそれは現実の未来、その科学技術が齎してしまうところの恐怖の現実を、半ば無意識的に、無垢の存在である愛するアトムから、遠ざけるためではなかったろうかとも思うのである。――

これだけを見てもお分かりの通り、初出からその後の書き換え・加筆版及び現行、そして公式設定まで、総てのデータを並べて考証するには、およそフリークでオタクでない限り、無理な相談である。そうした違いを論って何かを主張することは僕にはとても出来そうもない。いや、実はする気もあんまり(あんまりではあるが)ないのである。

では、何故、今、こうして論考を書いているか?

それは実はこの、岡崎氏が「昭和三十年代の匂い」で呟いた、

『じつは、あるシーンで、『鉄腕アトム』の時代は二〇一三年とはっきり特定されている。』

がひどく気になったからのである。
この『あるシーン』とはどの話であるのか?
実は岡崎氏は述べていなかったからでもある。
そうして僕は何か直感的に、この『あるシーン』とはあの話の中ではないか? と思い至ったからでもある。
そうしてそれが「あの話」だとしたら……それは僕にとって、とても激しい動揺を起こさせるに足る――則ち、何かもを書かずにはいられなくなるほどの驚愕的事実となるものなのであった。
実は先に引用した中谷憲一氏の「お茶の水博士の誕生年」は昨日、それを調べるうちに発見したのであり、そこには岡崎氏の言う『あるシーン』がどの話しであるかが具体的に記されてあったのである。
そうして僕の直感はまさに当たっていたのである――
しかも――ここでも先と同じく作中時間の操作が行われていた形跡がはっきりと見つかったのである。

――「鉄腕アトム」の時代は今年2013年――

であり、しかも!……これからやってくる

――今年2013年8月7日のカタストロフ前後がその「鉄腕アトム」の作中時間に設定されている――

作品があるのである!

それは『少年』昭和28(1953)年5月号~11月号に連載された、

――「鉄腕アトム 赤いネコの巻」――

なのである。これについては実は先の中谷氏の「お茶の水博士の誕生年」の先の引用の直前に『「赤い猫の巻」(手塚,1987d)は2013年の武蔵野が舞台である』と記しておられ、恐らくはアトム・ファンの間では周知の事実なのであろう。この中谷氏の『(手塚,1987d)』はやはり「文献」欄によって講談社1987年刊「鉄腕アトム第7集」の「赤い猫の巻」(「ネコ」が「猫」と表記が異なっている)であることが分かる。ところが僕の所持する講談社版全集の「赤いネコの巻」には、実は、

――2013年とはどこにも書いてない――

のである。
「じゃあ、お前のさっきのの2013年8月7日というのは何じゃい?!」
と言われるであろう。
ここから僕のオリジナルな考証を示したいのである。

まず「赤いネコの巻」のストーリーを示す。これは僕の古いブログ「國木田獨歩 武藏野 又は 鉄腕アトム 赤いネコ」で行った僕の纏めた梗概に一部新たに手を加えたものである。……。原作の吹き出しの台詞の呼吸を一部再現するために空欄を設けた。台詞の傍点は下線に代えた。

*   *   *

冒頭、ナレーションのような吹き出し。
――二〇〇〇年の東京に立ってまず外人はめんくらう………――
――二十一世紀的文明と二十世紀の古さがごちゃまぜになったおかしな大都会だ………――
そして……
……殺伐とした未来都市東京を散策するヒゲオヤジによって以下のように朗読される。「武蔵野を 歩く人は 道をえらんでは いけない」「ただその道を あてもなく 歩くことで 満足できる」「その道はきみをみょうなところへみちびく……」「もし人に道をたずねたら……」「その人は大声で 教えてくれるだろう おこっては ならない」「その道は 谷のほうへ おりてゆく」「武蔵野には いたるところ……」「谷があり 山があり 林がある」「頭の上で鳥がないていたら きみは幸福である」……それと共に描かれるコマが皮肉な映像であることは言うまでもない……。 

彼は、「赤いネコ」とサインされた葉書を受けて、古びた洋館に呼び出されて来た五人の少年達を保護する。彼等の父親たちは、皆、新東京開発の関係者であった……。

赤いネコを探索追跡するヒゲオヤジとアトムは、山中の洞窟で動物学者Y教授の白骨死体を発見する。Y教授の友人であった御茶ノ水博士は「いつも この武蔵野が どんどんきりはらわれて 都会になってゆくのを なげいていました」と語り、ネコは教授の可愛がっていた「チリ」であると言う……。[やぶちゃん注:少し残念なのは、この教授のネームがそっけないイニシャルであることか。いや、これは「やぶちゃん」の「Y」なのかもしれないな。【2013年7月25日追記:ウィキの「鉄腕アトム」によれば、講談社の手塚治虫漫画全集版以降「Y」という不自然な名前になっているこれは、もともとは「四足教授」であったものが、差別用語に抵触する虞れから、そのイニシャル一文字に変更されたものである、とある。】]

その晩、チリがヒゲオヤジの寝所に現われ、「私の 主人は あの 美しい 野山が ビルディングの町になるのを くやしがって死んだのです」「お願いですから ビルの建築を やめさせて……」「きいてもらえなければ あなた はじめ みんなを のろい殺しますよ」と人語を操り、彼の銃撃をもかわして消え去る……。

日比谷の建設省のセンター開発公団を訪ねたヒゲオヤジは、公団の総裁[やぶちゃん注:ここで演ずるは、手塚のスターシステムの「ロック公」である。以下、彼をロック公と呼称する。]から、Y教授がこよなく愛していた武蔵野の一角「笹が谷」の開発工事が、一時はY教授の嘆願もあり、ロック公の判断でとり止められたにも拘らず、他の多数意見によって結局開始されてしまったことに恨みを持っていたという事実を聞かされる……。

学校。ガキ大将の四部垣以下は、ヒゲオヤジ先生にビルを建てられたら僕たちの遊び場がなくなる、反対! と詰め寄っている[やぶちゃん注:本当にあの頃は空き地がいっぱいあったし、そこは僕らのワンダーランドだった。]。放課後、四部垣は秘密の宝物を工事が入る空地に埋めていたのを思い出す。行って見たところが、野犬に襲われ、間一髪のところにアトムがやってくる。ネコの面を付けた男が現われ、誤って襲わせたことを詫びながら、姿を消す……。

怪しいとにらんだアトムはその空地に秘密の地下通路を見出し、四部垣と侵入するが、逆にネコ男に捕まって軟禁される。描かれるその地下基地は、多くの動物が収容され、まさにノアの箱舟の再現であった……。

抵抗するアトムの腕のジェット噴射で、男の面がはがれた。それは、死んだはずのY教授であった。地上に逃げ延びた二人が出たのは、少年達が呼び出されたあの洋館、Y教授の家であった……。

Y教授の生存が確認された今、田鷲警部は逮捕状の申請を主張するが、お茶ノ水博士はそれを抑え、自ら単身、洋館を訪れる……。

現われたY教授は、お茶の水博士の説得に対して、こう反論する。「大自然の 精が わしにかわって 人間たちに 復讐しているんだ これはずっと これからも つづくんだ」……そうして開発を中止しなければ8月7日に恐ろしいことがあると告げて去ってゆくのだった……。

ヒゲオヤジは、役人(先の「ロック公」)に、工事のとりあえずの中止を進言するが、彼は言い放つ。「都の命令がない以上むだんでやめられないのですよ」「私はやります」「東京の名誉のためにも」……。

8月7日。

ありとあらゆる動物達が、突如として一糸乱れぬ反乱を起こし、東京はパニックに陥る。アトムは下級生の子供たちを救おうとして、ビルに激突、突き刺さったまま、機能を停止してしまう……。

捨て身の四部垣と駆けつけたお茶の水博士によって復活したアトムは[やぶちゃん注:ここで再生したアトムはまぶしく光っており、抱きつこうとした四部垣に博士が「いまアトムのからだは原爆とおなじようなもんじゃ」と制止する台詞は伏線以外にも意味深長である。]Y教授を探し出し、そこにあった動物を遠隔操作していた超短波催眠装置を破壊して、彼と対決する。……

アトムに飛びついた「チリ」は、触れて瞬時に死に、破れかぶれととなったY教授は、ダイナマイトを、誘拐した隣室の子供たち投げつけようとし、その瞬間、アトムの機転で自爆してしまう……。

その頃、建設省では意外な事実を、お茶の水博士が暴露している。公団総裁のロック公は、口ではY教授の嘆願を受け入れたようなことを言っていながら、その実、全くの私利私欲のために「笹が谷」開発の強制執行に踏み切った張本人なのであった。丁度その頃、窓外の動物の群れは、すでに鎮静を取り戻していた……。

回生病院。廊下。歩くお茶ノ水博士と医師。

お茶の水博士「Y教授はどうだね? 爆弾でやられたのだからそうとうひどかろう」

医師「とてももちませんな あと二日か三日生きればいいほうです」

病室。Y教授のベッド。

お茶の水博士「Yくん わしじゃ わかるか」

Y教授(うわ言で)「ムサシノを かえ…せ…」

お茶の水博士(書類を掲げて)「心配ない Yくん 建設省から約束の書類をとってきたよ 見えるかい……もうだれも あの森には 手をつけないんだよ」

Y教授(目を開け、黒こげとなったチリを抱いて横たわっているが)「あ……ありがたい チリや あれを ごらんよ…」

お茶の水博士「Yくん 元気になってくれな」

Y教授「お願いだ わしが死んだら あの森の中へ 埋めておくれ……たのむ」

Y教授(オフで。画面にはベッドの端にたたずむヒゲオヤジが後の窓を振り返っている。窓外には森を背景に、左を向いた淋しそうなアトムが立っている。)「わしは 武蔵野を 土に なって 守りたい」……。[やぶちゃん注:この作、お分かりのようにアトムは狂言回しの役どころでしかないように見える。しかし、そうではない。このコマのアトムこそが、人間とロボットという二律背反に引き裂かれてしまった、まさに「人としてのアトム」のディレンマの表現であったのだと思うのである。]

……並木道。散策するヒゲオヤジ。ヒゲオヤジは呟く。

「武蔵野を 歩く人は 道を えらんでは いけない」

「ただその道を あてもなく 歩くことで 満足できる」

「その道はきみを みょうな ところへ みちびく……」

森。佇むヒゲオヤジの前に苔むした墓がある。

「そこは森の 中の 古い墓場……」

「こけむした 石碑がさびしく うずもれている だろう」

墓。フルショット。その墓石に刻まれた「Y教授墓」の字。

「頭の上で 鳥がないて いたら きみの 幸福である」

見上げるヒゲオヤジ。森の上を、鳥がねぐらへと帰ってゆく……。

ヒゲオヤジ(以下の台詞は一見「武蔵野」の一節であるように描かれている)「武蔵野は滅びない どんなに文化が 進んでも……」「この大自然はいつまでも きみたちを 待っているだろう」

最終コマ。数枚の落葉のある、地面に置かれた「国木田独歩 著 武蔵野」の本。その上に、一枚の枯葉が散っている……。

*   *   *

因みに、僕の本作への強い思い入れは、ブログ「國木田獨歩 武藏野 又は 鉄腕アトム 赤いネコ」に記したように、僕の中では国木田独歩の「武蔵野」への偏愛とのハイブリッドなものだからである。

さて、問題はこの作中時間が

――何故本年2013年

と特定出来るのかである。何よりも恐らく、先に中谷氏の示された、

講談社1987年刊「鉄腕アトム第7集」の「赤い猫の巻」の冒頭のナレーションは「2010年」ではなく「2013年」となっている

ものと推測出来る(他には2013年であることを示すデーティルは僕の全集版ではどこにも見当たらないことは既に述べた)から「事実」としてそうなのである(が僕は確認してはいないのである)。岡崎氏と中谷氏の二人が別個に述べておられるのだから間違いない。
「だったらそれでいいではないか?」
ということになるかも知れない。
しかしそれでは僕は、人の褌で相撲をとるようなものですこぶる気持ちが悪いのである。
そしてだからこそ、それでも、僕はしかし、この

――先行する「二〇〇〇年」と冒頭に書かれている講談社全集版の「赤いネコの巻」の作中時間さえも2013年であると断ずる

のである。何故か?

そもそも冒頭のナレーションであるが、これは吹き出しの形状(コマ外の作者が語っているタイプのものと知覚されるように描かれている)や3コマあるその描写(2コマ目には台詞がない)や、その台詞の内容、直後のヒゲオヤジの「武蔵野」の朗読音との絡みから考えても、ヒゲオヤジの台詞ではない。作者の口上なのである。

そしてそのナレーションの内容を再度見てみるならば、

――二〇〇〇年の東京に立ってまず外人はめんくらう………二十一世紀的文明と二十世紀の古さがごちゃまぜになったおかしな大都会だ………――

この「二〇〇〇年」とはかっちりとした狭義の西暦2000年とは僕には読めないのである。そもそも実際の2000年に皆が意外だったように、「2000年」は20世紀であって21世紀は「2001年」なのである(だからこそ「2001年宇宙の旅」は2001年なのである)。則ち、このナレーションの謂わんとするところは、

――2001年を過ぎ、21世紀に入ったばかりのこの東京にやって来て、その景観を眺めた外国人は必ず面食らうのである。………それはミレニアムから高々数年が経過したこの東京という「大都会」が、「大都会」とはいうものの、21世紀的文明と20世紀から連綿と受け継いできた何とも言えぬ日本的な古さが、ごちゃまぜになったところの、如何にも奇妙な「大都会」だからである………――

と言っていることは間違いないからである(因みに、作中の少年たちはメンコをしており、その背景は板塀であり、その脇に立っているのは木製電柱である。Y教授の秘密の抜け穴に繋がっているゴミ箱は総木作り、四部垣らが守ろうとするのは消滅してしまった遊び場としての懐かしい空き地である。これは総てまさに懐かしい昭和20年代末から30年代の風景なのである)。
とすれば、2001年以降でまだまもないのは、2013年であってよい。
「あっていいが、それなら2001年(クソのようなミレニアム問題など実はどうでもいいので2000年からとしてもよい)から2020年、いいや、2030年でもよかろうよ!」
と反論されるであろう。

しかし――それでもこれは2013年なのである。――

何故か?
梗概をもう一度見て戴きたい。
開発業者の少年たちが呼び出される葉書がある。これが不吉な本話の導入であるのだが、その「赤いネコ」とサインされた葉書には、実は

「十三日十三時東京都第四区一三丁め十三番地のうちへきたれ」

と書かれているのである(これは絵のみで28コマ目にアップされる)。
僕は

――この不吉な「13」に拘った葉書から
――本作のカタストロフに最もマッチするこの2001年以降でまだ世紀の初頭といったら
(去年のマヤ暦じゃあないが)、

2013年をおいて――他にはない――と思うのである。

恐らくここまで読んでこられて、がっくり来られた方が大半であろう。如何にもかも知れぬ。それも僕は何だかしみじみと感じるのである。

今日から後――ちょうど――13日後――である。

言っとくが、巧んだものじゃあない。今、数えてみてちょいと慄然としたもんさ……

2013年8月7日――もし――動物たちが――自然が――遂に人類を滅ぼさんとする反乱を起こしたとしたら……

……その僕ら人類を救ってくれるアトムを――僕らは持っていない――のである……

僕はただ――それだけを言いたかったのである……

……ここまで付き合ってくれた奇特なあなたを――僕は全力で――抱きしめる……ありがとう――

岡崎武志「昭和三十年代の匂い」

名古屋への行っている間に妻の持っていた岡崎武志「昭和三十年代の匂い」(ちくま文庫2013年5月刊)を読んだ。

近年稀なる(すこぶる)²附きの面白さであった。

ただ、その面白さは僕と全くの同年齢の方々にのみ推薦する面白さである。これは作者岡崎氏と私が全く同年(僕の方が一ヶ月早い)である点、彼の当時の生活水準が僕の当時の家庭経済と大差ない点に大きく影響されているものだからである(その証拠に巻末のオタッキング岡田斗司夫氏(学年で一年後輩であり、父君が自営業者であったため、相対的に見て、やや当時の僕や岡崎氏より「ええし」の子に属するところの生活環境にあった)との対談では岡崎氏が岡田氏が外食を月一でやっていたとか聴いた辺りから、微妙に言葉がぞんざいになる辺り、思わず、その場に僕もいるような気になってニンマリしたものである(これは僕のような原体験のある人間にしか読んでいても分からないかも知れないが)。

冒頭の「1 エイトマンとたこ焼き」に始まり、

2  おはよう!こどもショーおよび米産アニメの声優
3  あの頃はまだ戦後だった
4  初めてのシングル盤
5  科学の未来が明るかった時代
6  わが家にテレビがやってきた
7  アメリカのホームドラマ
8  少年期を包んだ歌たち
9  お誕生日は不二家のお子様ランチ
10 マンガに見る日本の風景
11 誘拐、孤児、家出の願望
12 昭和三十年代の匂い
13 のら犬と子どもたち
14 大阪市電とトロリーバス
15 汲み取り便所が果たしたこと
16 おじさまの匂い

という章題のラインナップを見て貰えれば、僕が入れ込んだ理由が概ね想像出来よう。
特に「枕草子」の「昭和三十年代版『匂い』物尽くし」ともいうべき、12・15・16章は読みながら、実際に木製のゴミ箱や雨上がりの砂利道や肥溜めや溜め便所の匂いやが、馥郁と匂って来る素晴らしいものであった。
同世代の方々には、これは是非、推薦したい本である。妻は実はまだ読んでいないのであるが、恐らく僕の感銘の1/10も感じられないだろうと預言しておいた。これは妻が所謂、僕と比して相対的には、はるかに「ええし」に属した人間であることもさることながら、やはり作者の男性(男の子)の視点にこそその主な理由はある。されば同世代でも女性には、自信を持ってはお薦めしないと言い添えておこう。

而して僕は本書のブック・レビューを書くことが目的ではない。
本書の中の「ある記述」が目にとまって、どうしてもその「事実」を考証してみたくなったのである。

次のブログで、それについて述べたいと思う。暫し、お時間を頂戴する。

耳嚢 巻之七 蟲さし奇藥の事 (二条)

 蟲さし奇藥の事

 

 ある海邊の在郷に、親は獵(れふ)し得たる烏賊(いか)を料理、いかの墨手中に附居(つきゐ)たりしが、其いとけなき子いかゞせしや、まむしにさゝれしとて鳴(なき)わめく。かたへの人も立(たち)つどひ、親なる者、いづれさゝれしやと烏賊のすみ付(つき)し手にて、其さゝれし所を撫で抔し、誠にわするゝ如く痛去(いたみさり)、無程(ほどなく)痛快(つうかい)なりし。其□□虫さしの□へはいかのすみをぬるに快驗得る事奇々妙也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:疣コロリから蛇咬傷の民間薬シリーズで直連関。イカスミは性関節潤滑・皮膚損傷修復効果や保湿・美肌作用を持つムコ多糖類を多く含み、他にも最近では抗ウイルス性・代謝促進・免疫力向上・抗癌作用などの薬理効果もあるとするようである。漢方では特に補血作用を活かして粉末にしたものを狭心症の治療薬として用いているともある。但し、同じ墨でもタコスミはやめた方が無難である。毒性が認められるからである。私のブログ記事蛸の墨またはペプタイド蛋白を参照されたい。

・「其□□虫さしの□へはいかのすみをぬるに快驗得る事奇々妙也。」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(恣意的に正字化した)、

 其一郷は虫さしの分へはいかの墨をぬるに快驗を得る事奇々妙々の由人の語りぬ。

とある。この部分、大々的にバークレー校版で採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 毒虫に咬まれた際の奇薬の事

 

 ある海辺の在郷でのこと。

 親は今日、漁(すなど)って参った烏賊(いか)を料理して御座って、烏賊の墨が手の中にべったりとついておったと申す。

 ちょうどその折り、頑是ない子(こお)が、いかがしたものか、

「蝮(まむし)に刺されたぁッ!……」

と泣き叫ぶ。

 近所の者どもも駆けつけて見たところが、親なる者が、

「ど、どこを刺されたじゃッ!?……ここかッ?……こ、ここかッツ?……」

としきりに聴いておるものの、子(こお)は泣き叫ぶばかりにて要領を得ぬ。されば結局、烏賊の墨がついた手(てえ)にて、その噛まれた辺りを、ただしきりに撫で回して御座った。

 子(こお)の肌えはみるみる真っ黒――

――と、突然、子(こお)が泣きやみ、

「お父(っとう)……ちいとも、痛う、のうなった。……」

とけろりと致いた。

 まっこと、咬まれたことも忘れたように痛みが全く消え、ほどのう、咬まれたその跡方もなく快癒致いて御座った。

 これより後、その一郷にては、蛇に咬まれた際には烏賊の墨を塗ればたちどころに快癒を得ること、これ、奇々妙々なりと伝えておる由、さる人の語って御座った。

 

   又

 

 まむしはさら也、都(すべ)て虫さししに、ころ柿(がき)を醋(す)に付置(つけおき)て、さゝれし所へ附(つく)るに、是奇々妙也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:蛇咬傷を含む虫刺され民間薬シリーズ連続。

・「ころ柿」転柿・枯露柿などと書く。干し柿のこと。渋柿の皮を剝き、天日で干した後に莚の上で転がして乾燥させたことから。干し柿はビタミンCとビタミンを多量に含んでおり、現在でも、二日酔い・風邪・夜尿症・高血圧・火傷・かぶれ・しもやけ・痔・虫刺され・歯痛に効く、とされている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 毒虫に咬まれた際の奇薬の事 その二

 

 蝮は勿論のこと、総て虫に刺され咬まれた際には、干し柿を酢に漬けおいて、それを刺し咬まれたところへつけると、これ、奇々妙々の効果を発する、とのこと。

記憶を捨てる 萩原朔太郎 (初出形)

 

 記憶を捨てる

 

それは雨(あめ)にぬれてゐる、羊齒(しだ)の葉(は)が這(は)つてゐる。ぞくぞくとした植物(しよくぶつ)が繁茂(はんも)し、森(もり)の中(なか)が奥深(おくふか)く見(み)える。憂鬱(いううつ)な幻想(げんさう)の透視(とうし)に於(おい)て。

かつて生命(せいめい)はその瞳(ひとみ)をもつてゐた。何物(なにもの)かを明(あき)らかにみるところの瞳(ひとみ)を。恐(おそ)らくはその憂鬱(いううつ)なる透視(とうし)に於(おい)て、森(もり)の中(なか)の倒景(たふけい)をさへ。併(しか)し、悲(かな)しみの薄暮(はくぼ)はきた。印象(いんしやう)をして消(け)さしめよ。

森(もり)からかへるとき、私(わたし)は帽子(ばうし)をぬぎすてた。ああ、記憶(きおく)。恐(おそ)ろしく破(やぶ)れちぎつた記憶(きおく)、みじめな、泥水(どろみづ)の中(なか)に腐(くさ)つた記憶(きおく)。さびしい雨景(うけい)の道にふるへる私(わたし)の帽子(ばうし)。背後(はいご)に捨(す)てて行(ゆ)く。

 

[やぶちゃん注:『文章世界』第十四巻第八号・大正八(一九一九)年八月号に掲載された。「倒景(たふけい)」のルビはママ。
「後の散文詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)版では前二連がカットされて、以下のような詩形で所収されている。

   *

 記憶を捨てる

 森からかへるとき、私は帽子をぬぎすてた。ああ、記憶。恐ろしく破れちぎつた記憶。みじめな、泥水の中に腐つた記憶。さびしい雨景の道にふるへる私の帽子。背後に捨てて行く。

   *

他作品に合わせて冒頭一字下げとし、「恐ろしく破れちぎつた記憶、」の読点を句点に変えている。]

三日目の朝六首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    三日目の朝
日や出でし海の上(へ)の濠(もや)金綠(きんりよく)にひかり烟らひ動かんとする
兄島を榜(こ)ぎ囘(た)み行けばちゝのみの父島見えつ朝明(あさけ)の海に
[やぶちゃん注:「榜ぎ」漕ぐの意。当字は櫂や舵の意も持つ。
「囘み」自動詞マ行下二段動詞「たむ」(回む・廻む)で、巡る、周るの意の万葉集以来の古語。]
二日二夜南に榜(こ)ぎてココ椰子のさやぐ浦廻(うらわ)に船泊(は)てにけり
[やぶちゃん注:「泊て」自動詞タ行下二段動詞「はつ」舟が停泊するの意の万葉集以来の古語。]
みんなみの浦に汽船(ふね)泊(は)て白き船腹(はら)ゆ吐き出す水に小さき虹立つ
うす綠二見の浦の水淸み船底透いて搖れ歪(ゆが)み見ゆ
群靑と綠こき交ぜ透く水に寄り來し艀舟(はしけ)搖られてゐるを

悲しみの枝に咲く夢 大手拓次

 悲しみの枝に咲く夢

こひびとよ、こひびとよ、
あなたの呼吸(いき)は
わたしの耳に靑玉(サフィイル)の耳かざりをつけました。
わたしは耳がかゆくなりました。

こひびとよ、こひびとよ、
あなたの眼が星のやうにきれいだつたので、
わたしはいくつもいくつもひろつてゆきました。
さうして、わたしはあなたの眼をいつぱい胸にためてしまひました。

こひびとよ、こひびとよ、
あなたのびろうどのやうな小指(こゆび)がむずむずとうごいて、
わたしの鼻にさはりました。
わたしはそのまま死んでもいいやうなやすらかな心持になりました。

[やぶちゃん注:既出であるが、「靑玉(サフィイル)」はサファイア。青玉。フランス語の“saphir”忠実な音訳(英語は“sapphire”)である。なお、底本ではこのルビは「サフイイル」であるが、既出本文表記から促音化して訂した(ご存知の通り、本邦では現在も続いているが、永くルビの促音表記はなされない(初期は植字の関係上、出来なかったというか、面倒であったというのが正しいかとも思われる)のが常識であったことを多くの人が知っているようには思われないので特に注しておく)。]

鬼城句集 夏之部 蟇

蟇     さいかちの落花に遊ぶ蟇

[やぶちゃん注:「さいかち」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ Gleditsia japonica。別名カワラフジノキ。漢字では「皁莢」「梍」と表記する(但し、「皁莢」は本来は大陸系の別種シナサイカチ Gleditsia sinensis を指す)。日本固有種。幹は真っ直ぐに延び、樹高は一五メートルまで達する。幹や枝には鋭い棘が多数あり、葉は互生。花は雌雄別で初夏に長さ一〇~二〇センチメートルほどの総状花序を開く。花弁は四枚で黄緑色の楕円形をしている。秋には長さ二〇~三〇センチメートルで曲がりくねった灰色の莢豆をつけ、十月には熟す。木材は建家具材とされ、豆は皁莢、「さいかち」または「そうきょう」と読んで生薬とされて去痰薬・利尿薬とする。また、サポニンを多く含むため、古くから洗剤として使われている。豆はおはじきとして子供の玩具にも利用された(以上はウィキイカチに拠った)。]

      蟇夕の色にまぎれけり

2013/07/24

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 9 日本人の描く富士山の心理学的認識実験

M173


図―173

 山を描くにあたっては、どの国の芸術家も傾斜を誇張する――即ち山を実際よりも遙かに嶮しく書き現わす――そうである。日本の芸術家も、確かにこの点を誤る。すくなくとも数週間にわたる経験(それは扇、広告その他の、最もやすっぽい絵画のみに限られているが)によると、富士の絵が皆大いに誇張してあることによって、この事実がわかる。私はふと、隣室の学生達に、富士の傾斜を、記憶によって書いて貰おうと思いついた。この壮麗な山は湾の向うに聳えていて、朝から晩まで人の目を引く一つの対象なのである。先夜、晩飯の時、輝く空を背に、雄々しく、非常に暗くそそり立つこの山を、出来るだけ注意深く描いて見た。そこで鋏を使用して輪郭を切りぬき、そしてそれを持って山にあてがうと私が努力したにもかかわらず、傾斜をあまり急に描き過ぎたことを発見した。私は紙に鋏を入れては山にあてがって見て、ついに輪郭がきちんと合う迄に切り、そこで隣の部屋へ入って、通弁を通じて、出来るだけ正確な富士の輪郭を書くことを、学生達に依頼した。私は紙四枚に、私の写生図に於る底線と同じ長さの線を引いたのを用意した。これ等の生年はここ数週間、一日に何十遍となく富士を眺め、測量や製図を学び、角度、円の弧等を承知している上に特に、斜面を誇張しないようにとの、注意を受けたのである。図173は彼等の努力の結果で、一番下は私の輪郭図である。彼等は彼等のと私のとの輪郭の相違に、只吃驚するばかりであったが、この試験には非常な興味を見せた。彼等は不知不識(しらずしらず)、子供の時から見なれて来たすべての富士山の図の、急な輪郭を思い浮べたのである。彼等の角度が、殆ど同じなのは面白い。学生の一人が持って来て見せた扇には、斜面が正確に近く描いてあった。登山した人がその山の嶮峻さを誇張するのは、山は実際よりも必ず峻しく見えるものだからということが、想像出来る。
[やぶちゃん注:この実験はすこぶる面白い。富士山が世界遺産になって、経済効果やら、とっくに分かっていたはずの環境汚染なんどを採り上げるくらいなら、新聞社は、このモースの、百三十六年も前に行った富士山の認識実験データを記事にした方が、いや、ずっと面白いと、思うがねぇ。……]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 8 犬・川・力士の四股名

 犬の名には赤、黒、白等の色を用いるが、犬は自分の色を知っているらしく思われる! 馬の名で普通なのは「ハルカゼ」(春の風)、「キヨタキ」(清い滝)、「オニカゲ」(悪魔の影)。川の中には「早い」川や、「犀」川や、「大きな井戸」の川や、「天の竜」の川やその他がある。相撲取は、この国では非常に尊敬されるが、「電光」「海岸の微風」「梅の谷」「鬼の顔の山」「境界の川」「朝の太陽の峰」「小さな柳」等の名を持っている。舟にもまた、極めて小さいもの以外は、皆一風変った名前がつけてある。

[やぶちゃん注:「電光」原文“Thunderbolt,”。雷電震右エ門(らいでんしんえもん 天保一三(一八四二)年~明治一七(一八八四)年)。彼は伝説の四股名「雷電」を襲名した最後の力士で、この明治一〇(一八七七)年一月場所で大関に昇進していた。

「海岸の微風」原文“"Seashore Breeze,”。何となく分る四股名ではあるが不詳。識者の御教授を乞うものである。

「梅の谷」梅ヶ谷藤太郎(うめがたにとうたろう 弘化二(一八四五)年~昭和三(一九二八)年)。明治一七(一八八四)年、第十五代横綱となった。

「鬼の顔の山」明治初年の第十二代横綱に鬼面山谷五郎(きめんざんたにごろう、文政九(一八二六)年~明治三(一八七一)年)がいる。

「境界の川」境川浪右衛門(さかいがわなみえもん 天保一二(一八四一)年~明治二〇(一八八七)年)。明治元(一八六八)年に大関、明治一一(一八七八)年に第十四代横綱となった。

「朝の太陽の峰」朝日嶽鶴之助(あさひだけつるのすけ 天保一一(一八四〇)年(天保九年とも)~明治一五(一八八二)年)。この明治一〇(一八七七)年十二月場所で大関に昇進している。

「小さな柳」幕末の名大関に小柳常吉(こやなぎつねきち 文化一四(一八〇七)年~安政五(一八五八)年)がいる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 7 山の名前

 山の名前を知る為に、外山は学生二、三名を応援として呼び込んだ。彼等が、僅か五、六の名を思い出そうとして、一生懸命になったのは、一寸不思議だった。私は殆ど無理に返答をひき出した程であったが、山の名のあるものは英語に訳すことが困難で、殊に「フジ」にはてこずったあげく、これは「富んだサムライ」を意味するといった。サムライは、封建時代、二本の刀を帯びることを許されていた人達である。山の漢字は「ヤマ」と呼ばれる。日本の山の名で、即ち支那語の漢字の名によったものである。現代の支那では、この漢字は、サンと発音する一地方を除いては、シャンである。外山は英語を完全に話し、且つ書くが、而も屢々、正確な英語の同意語を見つけるのに苦しんだ。彼が教えた名前の中のあるものを、以下にあげる。我国の山の名と同じような意味のものが多いことに気がつくであろう――。

 

[やぶちゃん注:ここに有意な一行空け。以下の名前のリストは底本通り、全体を二字下げで示した。なお、底本では省略されているが、リストの前には原文では“Mountain names”とある。]

 

オーヤマ    大きな山

ナンタイサン  男性の身体の山

ハクサン    白い山

カブトヤマ   甲の山

シラネ     白い峰

タテヤマ    直立した山

キリシマヤマ  霧のかかった島の山

ノコギリヤマ  鋸の山

 

 ノコギリはスペイン語の Sierra に相当するが、サクラメント市から見るシラフ山脈は、鋸の歯のようである。

[やぶちゃん注:「富んだサムライ」原文は“rich samurai”。

「山の漢字は「ヤマ」と呼ばれる。日本の山の名で、即ち支那語の漢字の名によったものである。」何だか意味が分かり難い。ここ、以下の部分も含めて示すと原文は“The character for mountain is called yama, the name of mountain in Japan, or after the name of the character in Chinese. To-day, in China, the character is called shan except in one province, where it is san.”であるが、この場合の“name”というのは、後の呼称中国の漢字に対して後で(日本で)命名したところの呼び名、則ち“the Japanese reading (of a Chinese character)”、所謂、訓読みのことを指していると考えるべきであろう。だからここは「訓」を敢えて用いないとすれば、「即ち後から支那語の漢字の名に与えられた日本名である。」とすべきところではなかろうか。

Sierra」原文は“Sierra”(フォント違い)。本文にある通り、スペイン語で鋸・山脈の意である。お馴染みのアメリカのカリフォルニア州東部を縦貫する“Sierra Nevada”シエラネバダ山脈のシエラで、この謂いはネバダ山脈山脈という屋上屋の謂いなのであった。]

「サクラメント市」カリフォルニア州北部サクラメント郡の都市。カリフォルニア州都。

「シラフ山脈」原文“the Sierras”。もうお分かりの通り、まさに“Sierra Nevada”のことで、この山脈はハイシエラ(High Sierra/High Sierras)とも呼ばれるのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 6 日本人の名前

 私は外山と松村に向って、何事にでも「何故、どうして」と聞く。そして時々驚くのは、彼等が多くの事柄に就いて、無知なことである。この事は他の人人に就いても気がついた。彼等が質問のあるものに対して、吃驚したような顔つきをすることにも、気がついた。そして彼等は質問なり、その事柄なりが、如何にも面白いように微笑を浮べる。私はもう三週間以上も外山、松村両氏と親しくしているが、彼等はいまだかつて、我々がどんな風にどんなことをやるかを、聞きもしなければ、彼等が興味を持っているにも係わらず、私の机の上の色々なものが何であるか聞きもしない。而も彼等は、何でもかでも見ようという、好奇心を持っている。学生や学問のある階級の人々は、漢文なり現代文学なりは研究するが、ある都会の死亡率や、死亡の原因などを知ることに、興味も重大さも感じないのであろう。

 外山に頼んで、女の子と男の子の名前――我国の洗礼名に相当するもの――と、その意味とを書いて貰った。

[やぶちゃん注:「女の子と男の子の名前――我国の洗礼名に相当するもの――」ここは一文全部を示すと、“I got Toyama to write down for me a list of girls' and boys' names with their meanings, names corresponding to our Christian names : —”である。「我国の洗礼名に相当するもの」というのはやや違和感を感じるが、ここは所謂、モースの周囲で当時の日本人が普通に用いていた「熊公」とか「山さん」といった渾名や幼名や通称に対する正式な神聖唯一の生涯不変(旧武士階級などでは事実はそうではないが)実名というニュアンスで採っているものらしい。]

 

[やぶちゃん注:ここに有意な一行空け。以下の名前のリストは底本通り、全体を二字下げで示した。なお、原文では左に“Girls' names”、右に“Boy’s names”と二段に組まれている。]

 

   女の子の名前

  マツ  松

  タケ  竹

  ハナ  花

  ユリ  百合

  ハル  春

  フユ  冬

  ナツ  夏

  ヤス  安らかな

  チョウ 蝶

  トラ  虎

  ユキ  雪

  ワカ  若い

  イト  糸

  タキ  滝

 

   男の子の名前

  タロー    第一の男子

  ジロー    第二の男子

  サブロー   第三の男子

  シロー    第四の男子

  マゴタロー  孫の第一の男子

  ヒコジロー  男性第二の男子

  ゲンタロー  泉第一の男子

  カメシロー  亀の子第一の男子

  カンゴロー  検査された第五の男子

  サタシチ   心の固い第七の男子

  カイタロー  見殻第一の男子

 

 女の子は下層民でない場合、普通その名前の前に、尊敬前置称語として「お」をつけ、その他すべての場合「さま」を短くした「さん」を名前の後につける。これは尊敬をあらわす言葉だが、人の名につくばかりでなく、冗談に動物の名の後にもつける。この「さん」はミスミセス、及びミストルの役をする。日本人が「ベビさん」「キャットさん」といっているのを聞くこともある。だが、前置称語の「お」は、女の子の名前にかぎってつける。ミス・ハナは「お はな さん」になる。太郎、次郎等、第一、第二……を意味する男の子の名前はよくあるが、我国のジョンソンなる姓が、「ジョンの息子」なる意味を失ったと同様に、ある点で第一の男子、第二の男子の意味を持たぬようになった。外山氏の話によると、今や男の子達は、クロムウェル時代の風習の如く、忍耐、希望、用心、信実等の如き、いろいろな新しい名前を、沢山つけられているそうである。

[やぶちゃん注:「ヒコジロー  男性第二の男子」は原文“male second boy”で、彦次郎の逐語訳であろう。以下同様。

「ゲンタロー 泉第一の男子」は原文“fountain first boy”。源太郎。

「カメシロー 亀の子第一の男子」は原文“tortoise first boy”。亀四郎か亀次郎を亀一郎と誤ったか。底本では「第一」の下に石川氏の『〔?〕』の割注が入っている。

「カンゴロー 検査された第五の男子」は原文“examined fifth boy”。これは恐らく勘五郎で「勘定」辺りからの通訳の結果であろう。

「サタシチ 心の固い第七の男子」は原文“stable seventh boy”で定七か貞七であろう。

「外山氏の話によると、今や男の子達は、クロムウェル時代の風習の如く、忍耐、希望、用心、信実等の如き、いろいろな新しい名前を、沢山つけられているそうである。」原文“Mr. Toyama tells me, the boys are being given a great many new names after the style of Cromwell's time, such as Patience, Hope, Prudence, Faith, etc.”。英国の「クロムウェル時代の風習」にこうした命名の濫觴があったというか、流行があったというのは初めて知った。因みに『アイアンサイイズ』(Ironsides:鉄奇兵。剛の者。)クロムウェル(Oliver Cromwell)のオリバーとは「平和」の象徴であるオリーブを由来とするとも言われるが、ここに出ている“Hope”以外は、不学にしてそこからどんな名前が生まれたのかよく分からない。識者の御教授を乞うものである。]

栂尾明恵上人伝記 52 空中浮揚

 或る時、木工權頭孝道參られたるに、法談の次(ついで)に命ぜられて云はく、是に亡者(まうじや)の琵琶とて人のたびて候、御覽ぜよとて取り出されけり。甲は華梨(かりん)の木のひたわたりなりけり。能々孝道見て申しけるは、是はよろしき琵琶にて候。一定(いちじやう)能くなりぬと覺え候と云々。上人仰せられけるは、あはれ、緒(を)をかな懸けて彈かせ奉つて聽聞し候はんと宣ふ。孝道、「折節緒を持ち候とて、懷より疊紙(たゝうがみ)取り出して緒をかけて、暫く調べすまして引きすましたりけり。折節靜なる夕暮の程、ことに殊勝に類(たぐひ)無く聞えける。いひ知らぬ下法師迄も感涙を流しけり。上人も感に堪へずして前の緣にかけられたる簾臺(れんだい)の竿(さほ)にそとあがりて、尻をかけ給ひて足さしのべて、簾に拍子打ちてぞ御坐しける。御前の諸人(もろびと)皆奇異の思ひをなしき。又暫く有りて、又そと下り給ひて、空にて聞き候へば、猶殊勝にこそ候へと仰せられける。かゝる神變(しんぺん)がましき事をば隱し給ふ人の、感に堪へず覺えずして、かゝる御振舞のありけるやらむ。
[やぶちゃん注:ここでは明恵は何と、空中浮揚をして簾の細い竿にふうわりと腰かけて聴いたということであろう。だからこそ虚「空にて聞」くとなお素晴らしかったと言っているのであり、人々も「かゝる神變がましき事」と述べているとしか思われない。
「木工權頭孝道」「もくのごんのかみたかみち」と読む。藤原孝道(仁安元(一一六六)年~嘉禎三(一二三七)年)は雅楽家。琵琶の家に生まれ、父孝定および藤原師長(もろなが)に学び、演奏・製作・修理に優れた。長じて師長に仕えて木工頭楽所預に就任して西流の当主となり、琵琶の秘事や口伝に残した(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「緒」弦。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 10 不老門

珍しく、漢文が非常に分かり易く読めた。その顕彰の思いが誰にも分かり易く伝わってくる――だのに――だのにこの門が今やなく、この碑文のみが残っているという皮肉な事実が、まっこと、痛々しいではないか――



    ●不老門

不老門は。舊上宮石階の上に建てる樓寶門の稱なり。辨財天の額を掲け。樓上に妙音辨財天愛染を安置してありしが。今は廢絶して僅かにそが再造の碑石を剩(あま)せり。

[やぶちゃん注:以下、碑文は底本では全体が一字下げ。]

    江島不老門再造記

甚矣哉物之難成也。有其財而無其志則不成也。有其志有其財而無其時則亦不成也。三者兼具而後物得以成矣 甚矣哉物之難成也。不老門之設于今幾許年矣 屢經天災風雨之變。破壞不治。祠主久欲改造之。而力未能也。岡辺君聞之曰。吾爲之耳。廼出其私錢若干萬緡。使工師矢内右兵衛造之。以萬延元年十月始。至翌年四月落成。門樓高若干尺。其大稱是。閎燿壯偉。丹漆刻鏤之文比其舊加美焉。實江島一觀也。其始成也。用人之力若干工。木石銅瓦之材若干枚。不謂不少矣。而君輙曰。既已爲之。費之多少非所可問焉。嗚呼無財者固所不能。已而有財者亦不必爲之也。況澆季之世仁厚之風衰而功利之俗盛。人人唯利是見。雖爲士太夫者。亦或相欺罔以利己。莫復有慈愛羞惡之心。加之近歳風雨不順。五穀不豐。諸品爲之告之。物價騰踴。小民窮絶亦甚矣。方是之時孰復好出不貲之財以爲大造作乎。乃不老門之破壞而久不治由此之故也。君通稱政右衛門。相州津久井勝瀨村邑人也。以有財聞于近郷。又好施。以故決然獨能有斯擧。以使工技服力之小民得食于其功。是豈非具志與財與時而得之者哉。昔宋范文正公。以凶歳大興土木之役監司劾奏之。公乃自陳曰。欲發有餘之財以惠貧者。盖方是之時。工技服力之人仰食于公私者。無慮數萬人。荒政之施莫此爲大。其賢至今稱之。君身非官族。而其用心如是。其大小雖有殊者。亦文正公之遺法也。是不可以不記也。而又君之志也。乃刻之石云。

 文久紀元辛酉夏四月穀旦    永陵酒井光撰幷書

[やぶちゃん注:文久元(一八六一)年に中津宮の社前にあった竜宮城の門と同様な不老門が老朽化していたのを、相州津久井郡勝瀬村の富豪岡部政右衛門が私費を投じて独力で再建した、その再建記念碑である。恐らくは再建して十二年しか経っていない明治六(一八七三)年、おぞましき神仏分離令によって門は破却されてしまったものと思われる。碑だけが今も残る、何とも岡部氏の熱意の実直なればこそ、その達意の永陵酒井氏の顕彰の碑文のみが残ってますます痛々しく哀しいではないか。以下、全く資料がなく、返り点の一部も不審なれば、我流で書き下す。

 

    江の島不老門再造の記

甚だしきかな、物の成り難きや。其の財有るとも、其の志し無ければ、則ち成らざるなり。其の志し有り、其の財も有るとも、其の時、無くんば、則ち亦、成らざるなり。三者兼具して後、物は以て成し得。甚だしきかな、物の成り難きや。不老門の設け、今に幾許(いくばく)の年ぞ。屢々天災風雨の變を經(へ)、破壞して治(ぢ)せず。祠主久しく之を改造せんと欲せども、力、未だ能はざるなり。岡辺君、之れを聞きて曰はく、「吾、之を爲すのみ。」と。廼(すなは)ち其の私錢の若干の萬緡(びん)を出だし、工師矢内右兵衛をして之れを造らしむ。萬延元年十月を以て始め、翌年四月に至りて落成す。門樓、高さ若干尺。其の大いさ是れを稱す。閎燿(くわいうき)壯偉。丹漆刻鏤の文(もん)、其の舊に比して美を加ふ。實(まこと)に江島一の觀なり。其の始め成るや、人の力を用ふること、若干工、木石銅瓦の材、若干枚、少なからずと謂はず。而れども君、輙(すなは)ち曰はく、「既に已に之れ爲る。費への多少、問ふべき所に非ず。」と。嗚呼、財無き者、固(もと)より能はざる所にして、已にして、財有る者も亦、必ずしも之を爲さざるなり。況んや、澆季(げうき)の世、仁厚の風、衰へて、功利の俗のみ盛り、人人、唯だ利のみ、是れ、見る。爲士太夫の者たりと雖も、亦、或ひは相い欺罔(きまう)して以て己れを利するのみ。復た慈愛羞惡の心の有ること莫し。加之(しかのみならず)、近歳は風雨順ならず、五穀豐かならず、諸品、之を爲して之を告げ、物價は騰踴(とうよう)し、小民の窮絶、亦、甚だし。是の時に方(あた)りて、孰れか復た好く不貲(ふし)の財を出だし、以て大造作を爲さんや。乃ち不老門の破壞して久しく治せずは、此の故の由なり。君、通稱、政右衛門、相州津久井勝瀨村の邑人(むらびと)なり。財、有るを以つて近郷に聞こゆ。又、施(し)を好む。故を以て決然として獨り能く斯かる擧(きよ)有り。以て工技服力の小民をして其功に得食せしむ。是れ、豈に志、財と時とをして之を得、具せるところの者に非ずや。昔、宋の范文正公、凶歳を以てするに大いに土木の役を興して、監司して之れを劾奏す。公、乃ち自ら陳じて曰はく、「有餘の財を發して以て貧に惠まんと欲するは、盖(けだ)し、方(まさ)に是の時なり。」と。工技服力の人、公私に仰食する者、無慮(およ)そ數萬人たり。荒政の施(し)、此れに大と爲す莫し。其の賢、今に至るまで之(ここ)に稱せらる。君、身、官族に非ず、而も其の用心是くのごとし。其の大小、殊なる者、有ると雖も、亦、文正公の遺法なり。是れ、以つて記さざるべからざるなり。而して又、君の志なり。乃ち之の石に刻して云ふなり。

 文久紀元辛酉(かのととり)夏四月穀旦(こくたん)    永陵酒井光撰幷びに書

 

「閎燿」現代仮名遣で「こうき」。広く荘厳なる謂いであろう。

「澆季」現代仮名遣で「ぎょうき」は、「澆」が軽薄、「季」が末の意で、道徳が衰えた乱れた世。世の終わり、末世の謂い。幕末の雰囲気を伝える謂いとも言えるか。

「欺罔」「ぎまう(ぎもう)」とも読む。人をあざむいてだますこと。

「不貲」返り点がないので音読みしておいたが、通常はこれで「ㇾ」点を打って「はかられざる」と読み、無数の、数え切れぬほど多いの謂いである。

「服力」とは「能力を身に着けた」という謂いであろう。

「范文正」北宋の政治家范仲淹(はんちゅうえん 九八九年~一〇五二年)の諡(おくりな)。欧陽脩の推薦によって枢密副使・参知政事となった。彼は君子の正道を論じて十策に及ぶ施政改革を訴えた。散文にも優れ、著名な「岳陽楼記」の中の「天下を以つて己が任となし、天下の憂いに先んじて憂へ、天下の楽しみに後(おく)れて樂しむ」という「先憂後楽」(後楽園の由来)、儒学を人格形成の実学に高めた人物として知られる(主にウィキの「范仲淹」に拠る)。

「劾奏」官吏の罪状を暴き、君主に奏上すること。弾劾奏聞。

「穀旦」「穀」は善いこと・幸いの意で、「旦」は日の意。吉日。佳辰。吉旦。

「永陵酒井光」不詳。儒学者か? 僧侶のようには思われない。識者の御教授を乞うものである。]

耳嚢 巻之七 いぼを取奇法の事

 ※を取奇法の事

[やぶちゃん字注:「※」=「疒+「黑」。]

 

 蛇の拔殼(ぬけがら)を糠袋(ぬかぶくろ)に入(いれ)すするに、いゆる事妙也と人の語りしに、折節予家内にていぼ多く、面部へ出來こまりしが、人の教(をしへ)に任せ其通りになせしに、癒ぬる事まの當りに見へしゆへ爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。既に巻之六二例てあ「※」(=「疣(いぼ)」)取り呪(まじな)いの民間療法シリーズである。静岡市葵区太田町の「平松皮膚科医院」の公式サイトのいぼ取りのおまじないのページを見ると(記載によれば伝染性イボは暗示療法によって取れる場合があると記されているから馬鹿にしてはいけない。根岸の妻のケースもこれであろう)、この蛇の抜け殻を用いた疣取りの呪いは採集(ネット)例が多く、北海道・岩手(二件)・茨城・群馬の五ケースが示されている。知られた「いぼ虫(カマキリ)にくわせる。(福島県)」や「巻之六の類型「初雷の鳴った時、箒でなでる。(岩手県)」及び「歳の数の大豆を用意し、名前を唱えいぼとりを祈願をして、その豆をきれいな水の流れに埋める。(宮崎県)」以外で私が面白いと思ったのは、「疣を蜘蛛の糸でしばる。(北海道)」「墓石に溜まった水を疣につけて後ろを振り向かずに帰る。(岩手県)」「墓場の花立カッポの水をイボに付けるととれる。(宮崎県)」そうしてこれらを総集編するような沖縄県の「疣を墓の水で洗う」「雷の日に庭に出て、雷光とともに箒ではたき落とす」「疣と同じ数だけの豆を盗み、金一銭とともに紙に包み道に捨てる」であった。なお、リンク先の最後に出る「耳嚢」所載の豆腐を用いた疣取りの呪いというのは、次の未着手の「卷之八 いぼ呪の事」の記載である。

・「入すするに」「すする」は「こする」の誤りか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『包みこするに』とある。これで採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣を取奇法の事

 

 蛇の抜け殻を糠袋(ぬかぶくろ)に入れて疣の上を擦(こす)ると、忽ち疣の落ちて癒えること奇妙なる、と人が語って御座ったゆえ、折柄、私の家内には疣が多く出でて、特に顔面部分へこれ、多く出来(しゅったい)致いて大いに困って御座ったが、その人の教えに任せて、その通りに致いたところが、美事、癒えること、これ目の当たりに致いたによって、ここに記しおくことと致す。

大空は戀しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ 酒井人眞 萩原朔太郎 (評釈)

  大空は戀しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ

 戀は心の郷愁であり、思慕(エロス)のやる瀨ない憧憬(あこがれ)である。それ故に戀する心は、常に大空を見て思を寄せ、時間と空間の無窮の涯に情緒の嘆息する故郷を慕ふ。戀の本質はそれ自ら抒情詩であり、プラトンの實在(イデヤ)を慕ふ哲學である(プラトン曰く。戀愛によつてのみ、人は形而上學の天界に飛翔し得る。戀愛は哲學の鍵であると。)古來多くの歌人等は、この同じ類想の詩を作つてゐる。例へば萬葉集十二卷にも「思ひ出でて術(すべ)なき時は天雲の奥處(おくが)も知らに戀ひつつぞ居る」等がある。しかし就中この一首が、囘想中で最も秀れた名歌であり、縹渺たる格調の音楽と融合して、よく思慕の情操を盡して居る。古今集戀歌愛歌中の壓感卷である。

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年第一書房刊「恋愛名歌集」より。当該歌は「古今和歌集」の巻第十四に載る七四三番歌で、従五位下土佐守であった酒井人眞(ひとざね ?~延喜一七(九一七)年)の歌。「大和物語」の百二段に土佐守時代の逸話や歌が載るのみである。「思ひ出でて術(すべ)なき時は天雲の奥處(おくが)も知らに戀ひつつぞ居る」は「万葉集」巻十二に載る三〇三〇番歌で、
 思ひ出でて術(すべ)なき時は天雲(あまくも)の奥處(おくか)も知らに戀ひつつぞ居(を)る
が正しい。「奥處(おくか)」の「か」は場所の謂いで、その天空の神秘的な奥深さを言うのであろう。それも知らないように(そうすることをも憚らず恐れずに)果てしなく恋い続ける、憧憬、あくがっている、というのである。私は本来あるべき人の魂が空の彼方へと飛んでゆくという、この「あくがる」という古語が、すこぶる附きで好きである。]

信天翁 八首 中島敦

    薄暮信天翁(あはうどり)を見る

夕ぐるゝ南の海のはてにして我が思ふことは寂しかりけり

夕昏(ゆふぐ)るゝ南の海のさびしさを信天翁(あはうどり)とぶ翼(はね)の大きさ

信天翁(あはうどり)大き弧を畫(か)きとび來りまた飛びて去る夕雲とほく

日を一日(ひとひ)飛び疲れけむ信天翁(あはうどり)しまし憩ふと浪に搖れゐる

夕浪に憩ひ搖るゝと默(もだ)もゐるあはうどりといふものの愛(かな)しさ

[やぶちゃん注:太字「あはうどり」は底本では傍点「ヽ」。]

阿呆鳥と人いふめれど夕遠く飛ぶをし見ればうらがなし鳥

[やぶちゃん注:太字「うら」は底本では傍点「ヽ」。]

汝天を信ぜむとするか信天翁(あはうどり)思ふことなく飛びゐる羨(とも)し

汝天を信ぜむとするか信天翁(あはうどり)醜(しこ)の末世(まつせ)の懐疑者(ピロニスト)われは

[やぶちゃん注:「懐疑者(ピロニスト)」“Pyrrhonist”。古代ギリシャの懐疑主義・不可知論の濫觴ピュロンに由来する。なお、ミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus の和名は、人間への警戒心が弱く、翼が巨大なために飛翔には長距離の助走が必要で容易に飛び立てない上に、その翼のために地表上での歩行バランスが極めて悪く緩慢であることから容易に捕殺されたことに由来する。漢名「信天翁」も空を飛ぶことが苦手(但し、飛翔を開始すれば長距離の飛翔が可能)に見えたため、天から餌が降ってくるのを信じて「翁」(頸部の羽毛)を揃えて口を開け待っているぐうたらな鳥、という俗説に基づく呼称とする。]

祕密の花 大手拓次

 祕密の花

あなたにあへば祕密(ひみつ)の花(はな)がこぼれる。
にほひかなしく
ゆきくれたひとつの あげはのてふのやうに、
こもれるあをと、
ながれながれの黑(くろ)と黄(き)と、
しだれざくらのやうなべにとむらさきとが、
眼(め)のおほきい絹(きぬ)の花(はな)となつて、
わたしのまへにぼんやりとおちる。
こびひとよ、
わたしのにげようとする手(て)をよんでください。

鬼城句集 夏之部 動物 鹿の子

  動物

 

鹿の子   鹿の子のふんぐり持ちて賴母しき

      埓近く鼻ひこつかす鹿の子かな

義父の前立腺癌についてのインフォームド・コンセント

○医師の・イン・フォームド・コンセントと私の質問に対する回答
・CTによって「リンパ節転移」は認められず、骨シンチグラフィによって「骨転移」も認められない(本人が一~二週間まえに腰の痛みが訴えていたのが消長したが、しばしば骨転移では痛みが移動することがあるため)。
・前立腺以外の臓器への「浸潤」はない。
・グリーソン・スコアは10で高い(同数値の最高値であるが無論それは言わない。ここには記さないが、カルテを覗いた当初のPSA数値は所謂「洒落にならない」桁違いのメーター振り切れであった)。
・年齢(義父は大正15(1926)年生で満86歳)から考えてホルモン療法を行いたい。
・放射線外照射療法は効果がない訳ではないが担当が異なるので相談は別日程になる(言外に二つの療法を行うことによるこれといった「画期的な大きな変化」はここまで進んでいる場合は必ずしも期待出来ないといったニュアンスをやや感じた)。
ホルモン抵抗性が生じることで起こる「再燃」(ホルモン療法に全く反応しなくなった病態で去勢抵抗性前立腺癌とも呼称する)は2~3年後には起こる。
ホルモン療法は脳の視床下部・下垂体に作用する男性ホルモン分泌(ここで95%)阻害薬剤の注入と副腎からの分泌(5%)を抑止する服用薬の併用治療である。後者は肝臓機能障害の副作用が起こる場合がある。
・運動その他は全く問題はない。禁忌は一切挙げられない。

○医師の本人に分かり易い美事なイン・フォームド・コンセントの決定打
「年齢的に見て、この病気で亡くなることはありません。」

(於名古屋市立病院)



因みに言っておくが僕は、単なる医療オタクでこんなことを記載しているのではない(昔は医者に成りたかったことは事実である)。以前にも記したのだが、僕の発癌リスク、それも前立腺癌の発癌リスクは、専門医が「ニヤッ」とするほどに、高いのである。だから、これぐらいの知識は身に着けておかないと僕自身にとって話にならんのである。
年齢にもよるが、多様な療法があって前立腺癌告知でもグリーソン・スコア10(100人に1人ともいう)でも、必ずしもガックリくる必要はない、ということを義父のケースで多くの方にお知らせしておきたいとも思うのである。

2013/07/21

暫し閉店

これより、一ヶ月前に前立腺癌の告知を受けた義父の向後の治療プログラムについてのレクチャーを受けるために名古屋へ向かう。随分、御機嫌よう。

ひたすらに南航 五首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    ひたすらに南航
南東風(みなみこち)吹きくれば海の上の皺立ち千々にきらゝけきかも
久方の空に光はみなぎらひ明るき海を白き汽船(ふね)行く
みんなみの陽光(ひかり)うらうらとわたつみの圓(まろ)く明るく滿ち膨れゐる
[やぶちゃん注:「うらうらと」の「うら」後半は底本では踊り字「〱」。]
目くるめく海の靑さや地獄なる紺靑鬼(こんじやうき)狂ひ眼内(めぬち)に躍る
午後三時雲やゝ出でて海の上一ところ白し輕きローリング

朝暾破雲 二首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    朝暾破雲
わだつみの大東(おほひんがし)の五百重雲あからみて裂けて日は出でむとす
[やぶちゃん注:「朝暾」は「てうとん(ちょうとん)」と読み、朝日のこと。「五百重雲」は「いほへぐも(いおえぐも)」と読む。幾重にも重なっている雲。]
白たへの甲板の上に人集ひうづの朝日子をろがみてゐる
[やぶちゃん注:「朝日子」は「あさひこ」で、「こ」は親愛の意を表す接尾語。朝日。]

靑ヶ島を望む 六首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    靑ヶ島を望む 六首

岩岫(いはくき)に波たち煙り靑ヶ島風しまく間(と)に峻嶮(こご)しくを見ゆ

舟がかりせむすべもなし岩崩(いはくえ)に波捲き返り霧けぶり立つ

八丈の南二十里靑鱶の棲むとふ海の荒き島かも

褶(ひだ)深き赭土崖の上にして靑草生えぬ乏しかれども

岩垣の岩片がくれかつがつも道あるが如し人住むといふを

[やぶちゃん注:「かつがつ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

岩崩(くず)す荒き島根も人らゐて道をつくると聞けば哀しき

[やぶちゃん注:「靑ヶ島」は伊豆諸島の南部に位置する島嶼で、現在の住所は東京都青ヶ島村。東京から南へ三五八キロメートル、八丈島の南方六五キロメートルにある周囲約九キロメートルの火山島である。青ヶ島は典型的な二重式カルデラ火山で、島の南部に直径一・五キロメートルのカルデラ(池之沢火口)があり、その中に「丸山(別名オフジサマ)」という中央火口丘があるが、島自体はより大きな海中カルデラ全体の高まりの一つであり、青ヶ島と周辺海域は火口・カルデラ地形が幾つも重なっている。島の最高点はこの丸山を取り囲んでいる外輪山の北西部分に当たる「大凸部(おおとんぶ)」で、外輪山の外側斜面は急な崖となって海岸線に続く。このため、海沿いには殆ど平坦地が無く、高さ五〇~二〇〇メートルほどの直立する海食崖になっていて砂浜はない。集落はカルデラの外、島の北部にあって、村役場を中心に「休戸郷(やすんどごう)」と「西郷(にしごう)」の二つが存在する。現在、日本国内で最も人口の少ない地方自治体であり、二〇一三年五月一日現在の推計人口は一九三人である(以上はウィキの青ヶ島村及び「青ヶ島」に拠った)。]

幻影 大手拓次

   風のなかに巣をくふ小鳥

 幻影

ひとつの水甕(みづがめ)のなかにかげをうゑ、
またひとつの水甕(みづがめ)のなかにかげをうゑ、
ゆくりなくも いのちのいただきに花をうつす。

わかれ 大手拓次

 わかれ

さびしさはぬれてゆきます。
しと しと しととおちる雪のやうにぬれてゆきます。
うすずみいろのおちば、
わかれて わかれて ゆくみのさびしさ。

かなしみ 大手拓次

 かなしみ

まどにちかづく日(ひ)のかなたから、
夜(よる)はあをいいろどりの鳥(とり)をよび、
ほのかにも ほのかにも しめる眼をおほふ

鬼城句集 夏之部 菖蒲太刀

菖蒲太刀   讀孝經
      菖蒲太刀ひきずつて見せ申さばや
[やぶちゃん注:「菖蒲刀」と書いて「あやめがたな」とも読むが、ここは「しやうぶだち(しょうぶだち)」である。端午の節句に飾る太刀を指し、古くは子供がショウブを太刀のようにして帯びる風習があったが、江戸期には柄をショウブの葉で巻いた木太刀や飾りものとして金銀で彩色した木太刀を指すようになった。]



以上を以って「鬼城句集 夏之部」の「人事」の部立を終わる。

鬼城句集 夏之部 幟

幟     門の内馬もつないで幟かな

      鯉幟眼に仕掛けある西日かな

[やぶちゃん注:「眼に仕掛けある」果たして鬼城が具体にそれを指して読んだものかどうかは判然としないが、「鯉幟」の「眼」の書き方には「仕掛け」があるのである。埼玉県加須市で手描き鯉のぼり他を手掛ける「株式会社 橋本弥喜智商店」の公式サイト(加須市は鯉のぼりの生産量日本一とある)の「鯉のぼりができるまで」の中に、二番目の工程(則ち生地への最初の筆入れ)で「目廻し」があるが、そこに『目の大きさは鯉の大きさに比例して決められているので、コンパスを合わせ半径を決めます。目の輪郭は空に泳いだ場合を想定し、黒目が斜め下にくるようにされています。』とある(下線やぶちゃん)。なお、目の色附けは六番目、七番目のキンビキ(金引き:金色で文様を描くこと。因みに鯉幟の文様は時代により変化が見られ、作者の創意と工夫が窺われるとある。)の最後に画龍点晴の墨目入れが行われて鯉が誕生する、とある(その後に腹鰭を装着し真竹を細く割った口輪を附けて完成)。]

      飛驒山の質屋も幟たてにけり

鬼城句集 夏之部 打水

打水    打水や塀にひろがる雲の峯

2013/07/20

栂尾明恵上人伝記 51 独りで石打ち遊び

 上人禪定をのみ好み給ひて、一兩年は少さき桶を一つ用意して、二三日、四五日の食を請ひ入れて、肱(ひじ)にかけ後の山に入り、木の下・石の上・木の空(うつろ)・巖窟などに終日終夜(ひねもすよもすがら)坐し給へり。すべて此の山の中に面(おもて)の一尺ともある石に我が坐せぬはよもあらじとぞ仰せられける。

 建仁寺の長老より茶を進ぜられけるを、醫師に是を問ひ給ふに、茶は困(こん)を遣(や)り食氣(しよくけ)を消(け)して快からしむる德あり。然れども本朝に普(あまね)からざる由申しければ、其の實を尋ねて兩三本植ゑ初められけり。誠に眠りをさまし氣をはらす德あれば、衆僧にも服せしめられき。或る人語り傳へて云はく、建仁寺の僧正御房大唐國より持ちて渡り給ひける茶の子(たね)を進められけるを、植ゑそだてられけると云々。
[やぶちゃん注:「建仁寺の長老」栄西。明恵より二十四歳年上である。]

 或る時は石をひろひて石打を獨りし給ひけり。其の故を人問ひ申しければ、餘りに法文(ほふもん)どもの心に浮かびてむづかしく候程にとぞ答へ給ひける。

 或る時、又人の許より糖桶(あめをけ)を進(まゐ)らせたりけるを、後日に其れこなたへとて前へ取り寄せ給ひけるを、結構の由に上に卷きたる藤の皮をむきて指(さし)出したりければ、やがて泣き給ひて、糖桶は上を卷きたるこそ糖桶のあるべきやうにてあるに、あるべきやうを背(そむ)きたるとて、又いひ出してぞ泣き給ひける。此の如き事常にありけり。
[やぶちゃん注:「結構の由に」持ち来たるよう命ぜられた者が、飴の入った桶を封してあった藤蔓の不恰好な皮を綺麗にむき剝して「体裁をよくして」明恵の前へうやうやしく差し出したのである。「あるべきやうを背きたる」こそが明恵のゾルレンの思想へとダイレクトに通底するのである。]

栂尾明恵上人伝記 50 私は何度も淫らなことをする一歩手前までいった……

 上人常に語り給ひしは、「幼少の時より貴き僧に成らん事をこひ願ひしかば、一生不犯(いつしやうふぼん)にて淸淨ならん事を思ひき。然るに何(いか)なる魔の託するにか有りけん、度々に既に婬事(いんじ)を犯さんとする便(たよ)りありしに、不思議の妨げありて、打ちさましうちさまして終に志を遂げざりきと云々。

耳囊 卷之七 又、久兵衞其術に巧なる事

 

 又、久兵衞其術に巧なる事

 

 享保の比(ころ)は、牛天神邊は今の通(とほり)には無之(これなく)、あさまにて淋しき事也しが、右近邊の武士武術に□りて辻切(つじぎり)抔せしに、又はよからぬ盜賊業(たうぞくわざ)にもあるや、天神の坂のうへより追(おひ)おろし、人をなやます者ありし。久兵衞所用ありて夜中牛天神の坂を上りしに、大男壹人刀を拔(ぬき)て久兵衞に打掛りしに、久兵衞少しもさはがず短刀拔て淸眼(せいがん)に構(かまへ)、彼(かの)惡徒に立向(たちむか)ふ。怺(こら)え難くやありけん、段々跡へしさりしに其儘押行(おしゆく)に、彼者後じさりして天神の崖上より眞さかさまに谷へ落ける故、久兵衞は我宿へ歸りぬ。彼もの所々怪我して暫く惱(なやみ)しが、快(こころよく)なりて近き町家へ多葉粉求(もとめ)に來りしに、久兵衞も同じく多葉粉調へ歸りけるを、彼惡徒能々見て、渠(かれ)こそ此間(このあひだ)牛天神にて出合(であひ)し老人成りと怖しく思ひ、多葉粉屋にて其名を尋(たづね)しに、あれこそ劔術の達人と呼(よば)れし久兵衞なりといふ故、初(はじめ)て驚(おどろき)ける。實に左あるべしと我(わが)惡意を飜(ひるがへ)し、多葉粉屋に去(さる)事語り、何卒世話して弟子と成度(なりたし)と乞(こひ)し故、其事申(まうす)通り弟子に成(なり)、夫(それ)より久兵衞武術の大事等傳授なして後、質實の武士となりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:真木野久兵衛本格武辺譚で直連関。

・「あさまに」は形容動詞「淺まなり」で、浅いさま・奥深くなく、剝き出しになっているさまの謂いであるから、草木もあまり生えていないような、地肌が剝き出しになっている状態を指すのであろう。

・「□りて」底本には『(凝カ)』と右に傍注するが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「誇りて」とあり、この方がよい。これで訳した。

・「牛天神の坂」牛天神(現在の北野神社。切絵図を見ると『別當龍門寺』とあるが明治の廃仏毀釈で消滅した)は水門屋敷の西にあって、神社を下った南に神田上水が流れており、そこから向かって牛天神の左手(西)に安藤坂がある。その安藤坂は牛天神の背後近くで左に鉤の手に折れて伝通院前まで続くが、これを折れずに進むと牛石という大石(現在は神社境内に移されている)にぶつかって右手に折れる牛天神裏の道になる。ここが牛坂である。

・「淸眼」底本には右に『(正眼)』と訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 又 久兵衛その剣術に巧みなる事

 

 享保の頃は、牛天神(うしてんじん)辺りは今のようには開けたところにては、これなく、崖の地肌なんども赤土が剝き出しになった、それは荒れ果てた寂しい場所であった。

 この近くに住んで御座った武士が、己(おの)が武術に誇り、所謂、辻切りなんどを致いて御座った。また、この辺りは普段より、よからぬ盜賊のなす業(わざ)でもあったものか、天神の坂の上より、通行人を南の天神の裏手へと追い落し、金品を奪うなんどといった不逞の輩もたびたび出没しておったと申す。

 さてもある日の夜中、久兵衛、所用の御座って、牛天神の坂を上って行って御座ったところ、突然、大男が一人、太刀を抜き放って、久兵衛にうち掛かって参った。

 久兵衛はしかし、少しも騒がず、短刀を抜いて、右手一本に差し出だし、これを正眼(せいがん)に構え、その悪徒にたち向かって御座った。

 短刀ながら――その微動だにせぬ鋭い先鋒から放たれた、尋常ならざる久兵衛の気魄に――これ、堪(こら)え難くなったものか、悪徒は、

――じりっ――じりっ――

と、後ろへしさって行く。

 久兵衛は変わらぬゆっくりとした速さで、

――すすっ――すすっ――

と前へ進む。

 悪徒と久兵衛が間には、まるで目に見えぬ何かが挟まっておるかの如、久兵衛の進むのと、悪徒が押されてしざるのが、同時に起こるので御座る。

 と!

――ずざざざざざぁざぁッ……

と、かの悪徒は後じさりし過ぎて、天神裏の崖の上より、真っ逆さまに天神の背後の谷底へと落ちてしもうたと申す。

――カチン

久兵衛は短刀を静かに戻すと、何事もなかったかのように己が屋敷へと帰って御座った。

 さて、かの悪徒はと申せば、知らずに崖を後ろ向きに落ちたため、体のあちこちに打ち身やら切り傷を致いて、暫くの間苦しんでおったが、何とか全快致いたと申す。

 その快癒致いた日のこと、近くの町家へ、病み臥せっておったうちは吸えなんだ煙草を求めに参った。

 店に入って、煙草の葉なんどを品定めしておった最中、かの久兵衛も同じく煙草を買いに参って、彼に気づくことものう、親しげに主人と軽い言葉を交わした後、買い調えると店を出て行った。

 かの悪徒はその間、よくよく男の顔を見てからに、

『……か、かの男こそ……この間、牛天神にて出逢った老人ではないかッ?!……』

と悟った。その瞬間、もう体がぶるぶると震え出すほどに怖しゅう感じた。

 久兵衛が去った後、男は煙草屋に、

「……い、今の御仁はどなたで御座る?」

とその名を尋ねたと申す。

 すると主人は、

「あのお方こそ、この辺りにて『剣術の達人』と誉れの高い、真木野久兵衛さまで御座います。」

と答えたゆえ、それを知って今更ながら驚いたと申す。

「……まことに……そうで御座ったか……」

と、この一刹那、己れの太刀への悪しき驕りの気持ちは雲散霧消、その煙草屋主人に去(いん)ぬる日の出来事を包み隠さず語り、

「――何卒、仲介の労をおとり下さるまいか? 何としても――お弟子となりとう御座る!」

と乞うた。

 されば煙草屋主人が仲立ちとなって、久兵衛殿に面会することが叶い、そこでも素直にかの夜の謝罪をなした上、入門の懇請を致いたと申す。

 久兵衛はそれを聴くと、何と、その場にて、即座に入門弟子入りを許した。

 それより久兵衛は当流の武術奥義など、すべてを、この弟子に伝授なしたと申す。

 この高弟はその後も永く、誉れ高き質実剛健の武士として名を残した、とのことで御座る。

 

郵便局の窓口で 萩原朔太郎

 

 郵便局の窓口で

 

郵便局の窓口で
僕は故鄕への手紙をかいた。
鴉のやうに零落して
靴も運命もすり切れちやつた。
煤煙は空に曇つて
けふもまだ職業は見つからない。

父上よ
何が人生について殘つて居るのか。
僕はかなしい空虛感から
貧しい財布の底をかぞへて見た。
すべての人生を銅貨にかへて
道路の敷石に叩きつけた。
故鄕よ!
老いたまへる父上よ。

僕は港の方へ行かう
空氣のやうに蹌踉として
波止場(はとば)の憂鬱な道を步かう。
人生よ!
僕は出帆する汽船の上で
笛の吠えさけぶ響をきいた。

 

[やぶちゃん注:底本は所持する筑摩版全集初版に拠った。昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集第九巻 萩原朔太郎詩集」より。初出は昭和二(一九二七)年六月号『婦人之友』(第二十一巻第六号)であるが、総ルビであることと、数箇所の歴史的仮名遣の誤り及び誤字・脱字・異体字があるだけで、全く同一であると言ってよい(特に初出を示す必要を感じない内容であるということを言いたいのである)。後に「定本 靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)に再録されているが、そこでは、

 

 郵便局の窓口で

郵便局の窓口で
僕は故鄕への手紙をかいた。
鴉のやうに零落して
靴も運命もすり切れちやつた
煤煙は空に曇つて
けふもまだ職業は見つからない。

父上よ
何が人生について殘つて居るのか。
僕はかなしい虛無感から
貧しい財布の底をかぞへて見た。
すべての人生を銅貨にかへて
道路の敷石に叩きつけた。
故鄕よ!
老いたまへる父上よ。

僕は港の方へ行かう
空氣のやうに蹌踉として
波止場(はとば)の憂鬱な道を行かう。
人生よ!
僕は出帆する汽船の上で
笛の吠えさけぶ響をきいた。

 

と、四行目末の句点を消去、「空虛感」を「虛無感」に変更し、「波止場の憂鬱な道を步かう。」を「波止場の憂鬱な道を行かう。」に変更している。]

八丈と小島の水門の潮疾く靑鯖色に激ちさやぐも 中島敦 (「小笠原紀行」より)

  小笠原紀行

[やぶちゃん注:中島敦は横浜高等女学校在勤三年目、満二七歳の昭和一一(一九三六)年の春三月二十三日から二十八日までの六日間、小笠原へ旅しており、本歌群はその時の吟詠である。]

    二日目の朝八丈を過ぐ
八丈と小島の水門(みと)の潮疾(はや)く靑鯖色に激(たぎ)ちさやぐも

さびしい戀 大手拓次

 さびしい戀

戀のこころは やみのなかのひなどりのこゑ、
戀のこころは ゆく雲(くも)のおとすおもかげ、
戀のこころは 水(みづ)に生(は)え 水(みづ)に浮(う)き 水(みづ)にかくれる盲目魚(めなしうを)、
ああ さまよへばとて ゆけばとて、
戀のこころは みづすまし、
戀のこころは くれがたのすゐせんのはな。

鬼城句集 夏之部 乾飯

乾飯    乾飯してかぞふるほどの飯白し

      乾飯に市の雀の小さゝよ

[やぶちゃん注:「乾飯」は「かれいひ(かれいい)」又は「かれひ(かれい)」とも、また「ほしいひ(ほしいい)」又は「ほしひ(ほしい)」とも読めるので、前者を三音、後者を四音でとることも出来るが、私は孰れも「かれいひ」で読みたい。]

2013/07/19

北條九代記 右馬權頭賴茂父子生害

      ○右馬權頭賴茂父子生害

同二十五日、伊賀〔の〕太郎左衞門尉光季(みつすゑ)、飛脚を以て鎌倉に告げけるやう、「大内(おほうち)の守護右馬權頭源賴茂朝臣は、三位入道源賴政が末なり。仙洞の叡慮に背く事あるに依て、官軍を遣して、昭陽舍(せうやうしや)の住所に押寄(おしよせ)らる。賴茂、即ち門を差堅め、郎等を以て防ぎ戰ふ。伴類餘黨の者共、右近將監藤近仲(うこんのしやうげんとうのみちなか)、右兵衞尉源宗眞(むねざね)、前〔の〕刑部〔の〕丞平〔の〕賴國等(ら)、聞付けて、賴茂が方に加勢して、仁壽殿(じんずでん)に入籠り、散々に防ぎ戰ふ。寄手(よせて)、疵を被(かうぶ)り、攻倦(せめあぐ)みて引退(ひきしりぞ)く。京都守護の人々、この由を聞きて、我も我もと馳來り、一日一夜攻(せめ)戦ふ。賴茂は昨日(きのふ)、兵糧(ひやうらう)を使ひける儘(まゝ)にて、晝夜相戰ひ矢種盡きて力(ちから)落ちければ、御殿に火を懸け、面々に自害してこそ臥(ふし)にけれ。廓内殿舎に燃懸(もえかゝ)り、風に煤(ひのこ)の吹(ふき)散りて、雲煙(くもけぶり)と焼上(やけあが)る。されども、人、多く集りて、打消しければ、朔平門(さくへいもん)、神祇官、外記廳(げきのちやう)、陰陽寮(おんやうりやう)、園韓神(そのからかみ)等(とう)は堅固にして、殘りけり。仁壽殿は燒(やけ)崩れて、殿中に安置(あんぢ)せられし觀世音菩薩の尊像、應神天皇の御輿(みこし)、その外大嘗會(だいじやうゑ)御即位の藏人方(くらうどがた)往代(わうだい)の御裝束(ごしやうぞく)、數多(あまた)の靈物(れいもつ)、悉く灰燼(くわいじん)となるこそ悲しけれと語りければ、人々聞き給ひ、禁中に軍(いくさ)起り、殿内に血をあやし、觸穢(しよくゑ)に及ぶ御事は、頗る奇恠(きくわい)の不思議なり、如何樣、只事にあらず、と恐れ思はぬ人はなし。

[やぶちゃん注:「右馬權頭賴茂」は「うまごんおかみよりもち」。「生害」は「しやうがい」と読む。「吾妻鏡」巻二十四の承久元(一二一九)年七月二十五日の条に基づく。これも特に「吾妻鏡」の引用の必要性を感じない。

「右馬權頭賴茂」源頼茂(「よりしげ」とも 治承三(一一七九)年?~承久元(一二一九)年)は源頼政の次男頼兼の長男。ウィキ源頼茂によれば、正五位下大内守護・安房守・近江守・右馬権頭で、父頼兼と同じく都で大内裏守護の任に就く一方、鎌倉幕府の在京御家人となって双方を仲介する立場にあった。しかし、記事の日付に先立つ十二日前の承久元(一二一九)年七月十三日、突如、頼茂が将軍職に就くことを企てたとして後鳥羽上皇の指揮する兵にその在所であった昭陽舎を襲撃された。頼茂は応戦して抵抗したものの、仁寿殿に籠って、火を掛けて自害、子の頼氏は捕縛された。上皇による頼茂急襲の理由は不明とされているが、高い確率で鎌倉と通じる頼茂が、京方の倒幕計画を察知した為であろうと考えられている。また本文にあるように、この合戦による火災によって仁寿殿・宜陽殿・校書殿などが焼失、仁寿殿の観音像や内侍所の神鏡など、複数の宝物が焼失したとされる。「尊卑分脈」には享年四十一歳であったと記す。

「大内(おほうち)の守護」「おほうち」と訓じているが、内裏の守護職のことであるので注意。

「外記廳」外記局(げききょく)。外記(太政官(だいじょうかん)に属して、少納言の下にあって内記(ないき)の草した詔勅の訂正・上奏文起草・先例勘考・儀式執行実務などを掌った官職。大外記と少外記があった)の勤務した役所で内裏の建春門外にあった。

「園韓神」園神社及び韓神社の総称で、いずれも平安京の宮中の宮内省内に鎮座していた神社。ウィキの「園韓神社(「そのからかみのやしろ」と読んでいる)によれば、平安遷都以前から当該地にあったとされる神社で養老年間(七一七年~七二四年)に藤原氏によって創建されたものとされ、天平神護元(七六五)年に讃岐国に園神二十戸・韓神十戸の神封を充てたとし、延暦一三(七九四)年の平安遷都の際には他所へ遷座しようとしたところ、「猶ほ此の地に坐して帝王を護り奉らむ」と託宣があったために遷座させず、皇室の守護神として宮内省に鎮座することになったという。それ以外に貞観元(八五九)年に奈良の漢国神社の祭神(園神・韓神)を宮内省内に勧請したのが園韓神社であるという別伝承もあるらしい。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 9 江島建寺碑

    ●江島建寺碑

此の碑は邊津神社の側に在り。本島中最も高名のものにして。苟も文學に志あるの徒。必ず尋ぬ。高さ五尺許(ばかり)廣さ二尺七寸。厚四寸。篆額に大日本霊迹建寺之記とありて。之を三行に鐫し。四傍に雲龍を彫り。極めて奇古。碑文か楷體なりしより。昔時は十界性人成の五字を存せしこと諸書に載せたれども、今は篆額を幷せ共に剝落して一字も讀へからす。實に惜むべし。又碑文の所中より折れたりを續合せ。此に雨覆(あまおほひ)を施せり。内陰の左右に刻して云ふ。

 當碑文之雨覆幷臺盤石造立寄進

             施主  島田檢校代一

  元祿十四年辛巳歳十二月 別當 法印泰順租世

傳に云く昔時良眞宋朝に至り。慶仁禪師に謁し。此の碑石を傳へ。歸朝の時將來せし者なりといふ。里俗に江島屏風石と呼へり。

案内者は無學のもの多けれは。其の指示此ゝに及はす。むかしも猶ほしかりしと見えて。安藤東野甞て此事を游湘紀事に記して云ふ。處々問建寺之碑。皆曰無有矣。島之勝當盡焉。乃揖視 僧問諸。亦曰無有矣。余乃曰得亡有如墓表而隳者耶。僧乃啞然大笑曰、有矣。公等爲蠻夷之語。使人不可解耳。乃指示其處。余一讀覺えす噴飯せり。
 

[やぶちゃん注:本碑については「新編鎌倉志巻之六」の「江島」の「碑石」で私の注も含め、画像・絵図など詳しい。是非、ご覧あれ。

 
「高さ五尺許廣さ二尺七寸。厚四寸」碑自体の高さ約1・5メートル。幅約81・8センチメートル。厚さ約12センチメートル。

「鐫」は音「セン」。彫に同じい。

「處々問建寺之碑。皆曰無有矣。島之勝當盡焉。乃揖視 僧問諸。亦曰無有矣。余乃曰得亡有如墓表而隳者耶。僧乃啞然大笑曰、有矣。公等爲蠻夷之語。使人不可解耳。乃指示其處。」の「乃揖視 僧問諸」の空欄はママ。明らかな脱字と思われるが、原資料が手元になく、補填不能である。識者の御教授を乞う。我流力技で書き下すために脱字を一応、【寺】と仮定してみた。「揖視」は「正式な礼をして面と向かう」の意か。【2015年10月1日追記】先行する『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」の「江島」の条の電子化中、この脱字は「篆」であることが判明したが、なおのこと分からなくなった。識者の御教授を乞う。

處々にて建寺の碑を問ふも、皆、曰く、「有ること無し。」と。島の勝は當に盡くべければ、乃ち【篆】僧に揖視(ゆふし)して諸々を問ふに、亦、曰く、「有ること無し。」と。余、乃ち曰く、「墓表のごとき隳(くず)るる者の有る亡(な)きを得んか。」と。僧、乃ち啞然としつつも、大笑して曰く、「有り。」と。公(おほやけ)等は蠻夷(ばんい)の語と爲せり。人をして解くべからざらしむのみ。」と。乃ち其の處を指し示めせり。

これなら確かに私でも噴飯ものである。「遊湘紀事」は享保二(一七一七) 年の紀行であるから、実に三百年前に既にこのていたらくであった。]

耳囊 卷之七 嘉例いわれあるべき事

 

 嘉例いわれあるべき事

 

 本所竹藏近所、曾根孫兵衞といへる御旗本有。彼(かの)家、古來より仕來りにて、年々正月三日に餅を舂(つく)事也。いつの比にや、主人申けるは、世の中皆暮に餅を舂事に、我家のみ其事なく人並をはづれ正月三日に餅舂事、何と歟(か)人の思はん所思はしからず、今年は暮に舂とて、家來も仕來成(しきたりなれ)ばと諫むるをも不用、爲舂(つかせ)ける。舂時は何共(なんとも)なし。箕(み)に入(いれ)、座敷へ運ぶと、右餅、一圓、血に染(そ)みて眞赤に成る。見るもいぶせき躰(てい)也。是はいかゞと中間共へ渡せば、元の如く潔白也。又、座敷へ運べば、最前の通りなる故、其後は昔の通、正月三日餅舂事と也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪奇談で連関。これは民俗学で、よく知られる、一部の地方や家系に於いて、餅を食わない、搗かない、或いは、本件のように、世間一般の餅搗きの時期や食す習慣を、微妙にズラすという禁忌風習として、その由来の中の一つとして、実際に語られ、今も存在するものではある。但し、後注でも示した通り、異変の由来の中には、デッチアゲのものもあり、その場合は、正月の関連行事の古式との関係でコジつけたものも多い。

・「本所竹藏」「本所御藏」の俗称。底本後注に、『墨田区東両国三丁目。もと横網町。大川から舟入りがあって、それに続く広い土地を占めていた。敷地の東に南割下水がある』とあった。隅田川から船で運んだ木材や竹の荷を、この堀から引き入れ、御蔵地へと収納するようになっていた、その蔵で、後には米蔵として使用され、現在は国技館・江戸東京博物館などが建っている。この附近(グーグル・マップ・データ)。

・「曾根孫兵衞」同前で、『曾根次彭(ツグモリ)は安永六年』(一七七七年)『(三十七歳)家督、千六百石。寛政九年』(一七九七年)『御書院番から御使番に転じている』とある。

・「正月三日に餅を舂(つく)事也」同前で、『近世にいたって朔日正月の制が一般化し、これが古来からのもののように考えられるようになったが、もちろん新規のものであって、古式では望(もち)の日(十五日)を新しい年の初めとして祝った。両制が折衷並用されたのが、大正月、小正月の例で、大小正月の中間を、餅間(モチアハヒ)などと呼ぶ地方がまだある。古来の望の正月の仕来りを重んじた特別の家や地域では、元日以後に餅をつくことになる。武家では、戦のために餅をつくひまがなかったので、それが家例になったという説明をする例が多い』とあった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 嘉例に謂われあることもある事

 

 本所の御竹蔵の近所に、曽根孫兵衛と申さるる御旗本がある。

 かの家では、古来より、「仕来り」にて、年々、正月三日に、餅を舂(つく)ととなっている。

 何時(いつ)の頃のことであろうか、主人、おっしゃられるには、

「世の中、皆、暮れに餅を舂くことになって御座るが、我が家(や)のみ、その事、御座なく、人並みの習慣を外して、正月三日に、餅ち舂くこととなって御座る。『何(なん)でか、そのようにあるか?』と、人の思わるる所も、思わしからざれば、

「今年は、暮れに舂かん。」

とて、申したところが、家来も、

「仕来りなら)ば。」

と諌めるをも、用いず、舂かせまして御座った。すると、舂いた時は、これ、何(なん)とも御座らなんだ。而して、舂き終えて、箕(み)に入れ、座敷へ運ぶと……かの餅……一円に……血に染みて……真赤に、なる。……いやはや、見るも、いぶせき体(てい)で御座った。

「是は。いかが!?!」

と、中間どもへ渡したところが……元のごとく、潔白なので御座った。ところが、また、座敷へと運んでみると、最前の通り……真っ赤……なればゆえ、その後(のち)は、昔の通り、正月三日、餅を舂く事と致して御座る。」

とのことであった。

 

耳囊 卷之七 眞木野久兵衞町人へ劔術師範の事

 

 

 眞木野久兵衞町人へ劔術師範の事

 

 享保の此、牛天神(うしてんじん)邊にて、劔術の達人と呼れし眞木野久兵衞と言(いふ)者、一刀流の名人有(あり)しが、三年寄(さんとしより)とかや、又は豪家の町人とや、聞及(ききおよび)て三人打連(うちつれ)て劔術の弟子に成(なり)候。尤(もつとも)金銀はいか程にても不惜間(おしまざるあひだ)、直(ぢき)にゆるしを請(こひ)候樣敎(をしへ)給へと理(ことわり)しに、久兵衞答へて成程左樣にも相成べしと答へければ、其後は切に傳授を望(のぞみ)ければ、久兵衞せん方無(かたなく)、來(きたる)幾日供(とも)ども連(つれ)三人は櫻の馬場へ何時(なんどき)に被參(まゐられ)、我も可罷越(まかりこすべし)と約し、彼(かの)日に至り夜(よ)亥(ゐ)子(ね)の比(ころ)、三人の町人櫻の馬場へ至りしに久兵衞も來りて、約束の傳授すべし、我も馳(はせ)候間、御身三人もいかにも此馬場の始より末迄駈(かけ)給ふべしと、敎の儘馳(はせ)ければ、久兵衞も跡より一さんに駈けるが、老人の久兵衞年分にて息切(いきいれ)倒(たふれ)けるを、三人は馬場末迄駈過(すぎ)て、扨立歸り介抱をなして、敎の通(とほり)駈候間(あひだ)傳授あるべしと乞(こひ)けるに、老人とはいゝながら我は半途にて倒れしに、御身は息切候事もなきは、則(すなはち)傳授の極祕に至れり、夫(それ)にて宜敷(よろしき)といふ。三人いへるは、一本の太刀筋傳授も無(なく)、右の樣にて傳授濟(すむ)との事合點ゆかずと答(こたふ)。都(すべ)ての當流、人を切る爲の劔術にあらず、身を守る術也。此方(このかた)より求(もとめ)て向ふにあらず、向ふより又向ふ時は、其愁ひを避け、不從(したがはざる)は破るの劔術也。御身町人なれば武家と違(ちがひ)、身を困(くるし)み侯事迯(にげ)るゝにしくはなし。武士は迯る事ならざる身分なり、町人は迯て不告、今日某(それがし)追付(おひつか)んと思ひぬれ共追付事不能(おひつくことあたはず)、御身三人共あの通り走り候へば迯足達者(にげあしたつしや)といふべし、則右が當流極祕なりと言(いひ)しと也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。滑稽な剣術指南で変則武辺物としてすこぶる面白い。

 

・「眞木野久兵衞」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「久平」とする。

 

・「牛天神」「耳囊 卷之二 貧窮神の事」で既注済。現在の東京都文京区春日(後楽園の西方)にある北野神社。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「牛天神下」とあり、その場合は、北野神社の南一帯を指す。

 

・「享保」西暦一七一六年~一七三六年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、七、八十年も前の古い話である。

 

・「三年寄」江戸の町年寄を世襲した奈良屋・樽屋・喜多村三家のこと。

 

・「と理(ことわり)しに」は底本のルビ。ここ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「と望みしに」となっている。「ことわる」は理を尽くしてという意味としては、請願に「理」はない。ここは「と望みしに、久兵衞、斷わりしに、」それでも度々入門免許を請うて参ったによって、「久兵衞答へて成程左樣にも相成べしと答へければ」と続けると如何にも自然である。かく敷衍訳をした。

 

・「櫻の馬場」幕府の軍馬を調教繋養した馬場の一つ。底本の鈴木氏注に、湯島聖堂の西に隣りあってあり、『お茶の水馬場ともいった。桜ともみじの大木が両側にあった。文京区湯島三丁目』とある。岩波の長谷川氏注では一丁目とする。ピグ氏のブログ「東京ガードレール探索隊」の「桜の馬場」の対照地図によれば一丁目が正しい。

 

・「亥子の比」深夜十時から午前〇時頃。

 

・「身を困み候事」カリフォルニア大学バークレー校版ではここが『身を囲ひ候事』とあって、長谷川氏は『身を守り』と注されている。これは「囲(圍)」の誤字が深く疑われるが、「くるしみ」でも意味は通る。折衷して訳した。

 

・「不告」底本には右に『(ママ)』注記を附す。カリフォルニア大学バークレー校版では「不能」とあって「苦しからず」で意味が通る。これで採る。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 真木野久兵衛の町人へ剣術師範する事 

 

 享保の頃、牛天神辺りに、真木野久兵衛と申す一刀流の達人が御座った。

 

 ある時、江戸の三年寄(さんとしより)であったか、または好事家の豪商の町人連の誰某(だれそれ)であったか、ともかくも、その噂を聴き及んだ三人がともにうち連れて、この久兵衛に弟子入りを願い出て参ったと申す。

 

「謝金は惜しまず幾らでもお出し致しますによって、どうかすぐに免許の段、お許し下さいませ! 秘伝の太刀筋、御伝授下されぃ!――」

 

と望んだものの、久兵衛は断った。

 

 ところが、この三人、性懲りものう、何度となく参っては、五月蠅く、入門免許を懇請致いたれば、ある時何故か、久兵衛、

 

「……なるほど、いや、そのようなことも、これ、ならぬということも……ないわけではないが……」

 

と答えてしもうたによって、両三名、その後はますます足繁く、久兵衛が元へ参っては、切(せち)に伝授を望むことと相い成った。

 

 あまりの日参に久兵衛も詮方のう、遂にある日のこと、

 

「……それでは――来たる○月×日、両三人ともども相い連れだち、△時(どき)、桜の馬場へ参られい。――我らも同時刻に、罷り越す。」

 

と約して御座った。

 

 さてもその当日と相い成った。

 

 時刻は――そうさ、夜も亥(い)か子(ね)の刻頃で御座ったと申す。

 

 三人の町人、桜の馬場へと押っ取り刀で参ったところ、ほどのう、久兵衛も来たって、

 

「――約束の伝授を致そうぞ。」

 

と告げると、

 

「……我ら……これより、この馬場を走って御座る。されば、御身ら三人も、この、馬場の始めより、末の末まで、お駈けなされい!――」

 

と申すが早いか、突然、久兵衛、脱兎の如く、目の前より消える。

 

 されば三名も、教えの通り、駆け出だいた。

 

……が……

 

……あっという間に……

 

……三人は久兵衛を追い越し……

 

……久兵衛はといえば……

 

……それを一散に追っては走るのではあったが……

 

……何分にも久兵衛、老体の身で御座ったれば……

 

……馬場の半ばにて……

 

……息切れし……

 

……これ……

 

……倒れてしもうた――

 

 さても三人はそのまま、馬場の端まで駆け抜ける。

 

……ところが……

 

……振り返って見れば……

 

……久兵衛……

 

……遠くで……

 

……へたばって御座った……

 

ともかくも、また馳せ帰って、泡を吹いて転がって御座った久兵衛を介抱を致いた上、

 

「……さ、さあ! さ、さても! 教えの通り! 駈け抜けましたによって! どうか! 免許、御伝授下さりまっせい!」

 

と乞うたところが、久兵衛は、未だ苦しげな息遣いのまま、

 

「……ハーヒッ……ハーヒッ……はぁ、我(ふわれ)ら……老人(らふじん)とは申(まふ)せ……ハーヒッ……道、半ばにして……ハヒッ……倒(たふ)れた、にィ……ハヒッ……御身らは、い、息切れて御座(ぐぉざ)ることも、これ、ないは……す、則(すなふわ)ち……で、伝授(ドウエンデゅ)の極意……こ、これ、とぅわ、体得(とぅわいとく)至れり……グオッフォ! グオッフォ! ウッグェー!……そ、それにて!……よ、よ、よろしゅう御座る、じゃぁッー!……グヲッホ! ゴホ! ギュウゥゥ……」

 

と応じた。

 

 されば、流石に両三人、

 

「……い、未だ一本の太刀筋の伝授も、これ!……」

 

「……そ、そうじゃ! 未だその伝授もなきに、これ!……」

 

「……か、かように! 伝授相い済んだとは、これ!……」

 

と――口を揃えて、

 

「合点参らぬ!!!……」+「合点参らぬ!!!……」+「合点参らぬ!!!……」

 

と叫んだ。

 

 と、久兵衛、やっと息も落ち着いて参って、徐ろに、

 

「……すべて――我らが流儀は――人を斬るための剣術にては――これ、ない。……

 

――その奥義は――これ、身を守る術である。

 

――こちらの方より求めて相手に向かうものではこれ、ない。

 

――また先方(せんぽう)より仕掛けて参った折りには

 

――これ、その危うい切っ先を避くる。

 

――それでも、そうした対処に相手が従わぬ場合にのみ、相手と斬り合う。

 

……御身らは町人なれば武家とは異なり、身の危うきを大事とお守りなさるるには――逃げるに――若くはない。

 

……しかし――武士と申すは、これ――戦いより逃ぐること、出来ざる身分。

 

……されど御身ら町人は、これ――逃げても決して恥ではない。

 

 さても今日、某(それがし)、御身らに追いつこうと思うたれど――追いつくこと、こで出来なんだ。……

 

――御身ら三人ともに

 

――如何なる対局に於いても

 

――あの通り走って御座ったならば

 

――これ

 

『逃げ足の達者』

 

と申すもので御座る!

 

 則ち――これぞ――我が流の極意である!」

 

と喝破されたとのことで御座る。

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 5 じゃんけんと藤八拳

 前にもいったが、旅館の私の隣室には学生達がいる。実に気持のいい連中である。彼等の大多数は医科の学生で、大学では医学生はドイツ人に教わる為に、かかる若者達は、入学に先立って、ドイツ語を覚えねばならない。英語をすこし話す者もいる。私はちょいちょい彼等の部屋へ行って、彼等が勝負ごとをするのを見るが、それ等はみな我々のよりも、遙かに複雑である。日本の将棋のむずかしさは底知れぬ位で、それに比べると我国のは先ず幼稚園といった所である。碁は我々はまるで覚え込めず、「一列に五つ」は我等のチェッカースと同程度にむずかしい。私は彼等にチェッカースや、チョーキング・オン・ゼ・フロワ、その他四、五の遊びを教えた。腕を使ってやる面白い勝負がある。二人むかい合って坐り、同時に右腕をつき出す。手は掌をひろげて紙を表す形と、人さし指と中指とを延して鋏(はさみ)を表す形と、手を握って石を表す形の、三つの中の一つでなくてはならぬ。さて、紙は石を包み、あるいはかくすことが出来、石は鋏をこわすことが出来、鋏は紙を切ることが出来る。で、「一、二、三」と勘定して同時に腕を打ち振り、三度目に、手は上述した三つの形の中の、一つの形をとらねばならぬ。対手が鋏、こちらが紙と出ると、鋏は紙を切るから、対手が一回勝ったことになる。然しこちらが石を出したとすれば、石は鉄を打ちこわすから、こちらの勝である。続けて三度勝った方が、この勝負の優勝者である。小さな子供達が用をいいつけられた時、誰が行くかをきめるのに、この勝負をするのを見ることがある。この時は只一度やる丈だから、つまり籤(くじ)を抽くようなものである。

[やぶちゃん注:ここに記された所謂、「じゃんけん」は日本が濫觴である。ウィキじゃん」によれば、古来の拳遊び(けんあそび:日本・中国など東アジアを中心に酒宴で行われる遊びとして発達し、後に子供の遊びともなったもの。)がもとになってはいるが、現行の「じゃんけん」は意外に新しく、近代(十九世紀後半)になって誕生したものである。ウィーン大学の日本学の研究者で「拳の文化史」の著者セップ・リンハルトは、現在の「じゃんけん」は江戸時代から明治時代にかけての日本で成立したとしている。「奄美方言分類辞典」に「奄美に本土(九州)からじゃんけんが伝わったのは明治の末である」と記されており、明治の初期から中期にかけて九州で発明されたとする説を裏付けている。また、江戸時代末期に幼少時代を過ごした菊池貴一郎(四代目歌川広重)が往事を懐かしんで、明治三八(一九〇五)年に刊行された「絵本江戸風俗往来」にも「じゃんけん」について記されている。今でも西日本に多く残る拳遊びから(日本に古くからあった三すくみ拳に十七世紀末に東アジアから伝来した数拳の手の形で表現する要素が加わって)考案されたと考えられるとあり、二十世紀に入ると日本の海外発展や柔道など日本武道の世界的普及・日本産のサブカルチャー(漫画・アニメ・コンピュータゲーム等)の隆盛などに伴って急速に世界中に拡がったものとある。

「チョーキング・オン・ゼ・フロワ」原文は“chalking on the floor”であるが、これは恐らく“Hopscotch”(石蹴り)のことである。所謂、本邦で言う「かかし」とか「ケンパ」とか称したあれと酷似したものである。英語版ウィキ“Hopscotch及び Pino 氏のサイト内のケンパ」を参照。懐かしい!!!……これ、最後にやったのは……小学校六年生を卒業した三月、この鎌倉を私が北陸は高岡へ去る、その日の朝……一つ下の近所のなおこちゃんと二人してやったのが……最後だったね……なおこちゃんは……「夜になると王子さまが私のところへやってくる夢を見るの……そしてそれはね……あなたなの……と……僕に呟いたことが……あったけ……]

 

 両手を使ってやる勝負が、もう一つある。膝に両手を置くと裁判官、両腕を鉄砲を打つ形にしたのが狩人、両手を耳に当てて物を聞く形をしたのが狐である。これ等は、片手でやる勝負と、同じような関係を持っている。即ち狐は裁判官をだますことが出来、裁判官は狩人に刑罰を申渡すことが出来、狩人は狐を射撃することが出来る。日本人は非常な速度でこの勝負をする。彼等は三を数えるか、手を三度動かすか、或いは両手を二度叩いて、三度日にこれ等三つの位置の一つをとるが、その動作は事実手だけを使ってやるのである。手をあげ前に出すと狐になり、両手で鉄砲を支えるような形をすると狩人になり、拇を下に向けると裁判官になる。我々には、いくら一生懸命に見ていても、どちらが続けて三度勝ったのかは、とうてい判らない。この勝負は極めて優雅に行われ競技者は間拍子をとって、不思議な声を立てる。多分「気をつけて!」とか「勝ったぞ!」とかいうのであろう。見物人も同様な声を立て、一方が勝つと声を合せて笑うので、非常に興奮的なものになる。

[やぶちゃん注:「狐拳(きつねけん)」である。「裁判官」(原文“the judge”)は庄屋である。狐拳の一種の「藤八拳」はモースの言うように続けて三度勝つと勝者となるから、ここは「藤八拳」と言うべきかも知れない。ウィキの「狐拳」によれば、藤八拳は天保時代に花村藤八という売薬商人が「藤八-五文-奇妙」という呼び声で客引きをしていたのを、通人が狐拳の掛け声に使い始めたという。また、吉原の幇間・藤八が創始したともいう、とあり、ここでモースの言う掛け声も、モースが類推したような意味ではなく、この掛け声であろう。拳遊びのその他の例はウィキに詳しい。]

栂尾明恵上人伝記 49 好きな松茸を生涯断つこと

 上人松茸を食し給ふ由を聞き傳へて、或る人請(しやう)じ申して、松茸を種々に料理してまゐらせられけり。歸り給ひて後、人申しけるは、松茸御愛物にて候由承り傳へて、隨分奔走しける由申しければ、道人(だうにん)は佛法をだにも好むと人に云はるゝは恥なり。まして松茸好むなど云はるゝことあさましきことなり。是を食すればこそかゝる煩ひにも及び候へとて、其の後はふつと是を斷ち給へり。

 又飮食に飽くこと罪業深きことなり。凡そ世間に欲を發(おこ)し、所知(しよち)庄園をほしがり、見苦しき利養に耽り、刄傷殺害(にんじやうせつがい)に及び、或は嶮しき道を凌ぐ時は、牛馬の背に疵(きづ)を生じ、或は荒き浪を渡る時、船人風に肝を消し、農夫汗を流し、織女手を費し、鋤(すき)蟲を殺し、引板(ひた)獸を驚かし、すべて春耕すより秋收むるに至るまで、農夫の艱苦(かんく)勝(あ)げて計るべからず。然るに殺盜婬酒(せつたういんしゆ)などの如くならば、留めてもあらましけれども、生を受くる者一日も食せずんば命保ちがたし。去れば佛一食(いちじき)をすゝめ再食を誡め給へり。是れ併(しかしなが)ら氣をつきて道を行はんが爲なり。然るを無慙無愧(むざんむき)にして放逸の心の引くに任せて、頻にこき味を好み、強ひて飽かんことを願ふ。此の心を改悔(かいげ)せずは何ぞ畜生に異ならん。然る間上人更に飮酒を斷ち、又中(ちゆう)を過ぎて食し給ふことなし。然るに老年に及びて不食(ふじき)の所勞難治の間、時々少しき山藥(さんやく)などを時以後に食し給ふことありき。

楸おふる片山蔭に忍びつつ吹きけるものを秋の夕風 俊恵 萩原朔太郎 (評釈)

  楸(ひさぎ)おふる片山蔭に忍びつつ吹きけるものを秋の夕風

 

 夏の殘暑が尚強い日に、僅かばかりの楸が生えた片山蔭を、かすかにそつと秋風が吹いて通つたと言ふ敍景歌である。「吹きけるものを」といふ言葉によつて、外は尚殘暑の日光が照りつけているのに、有るかなきかの秋風がそつと吹いた氣分を現はして居る。風物歌として新古今集中の秀逸だらう。作者は俊惠法師。敍景歌の名手はいつも僧侶に限られてゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年第一書房刊「恋愛名歌集」より。当該歌は「新古今和歌集」の巻第三の二七四番歌で、

  刑部卿賴輔歌合し侍(はべり)けるに、納涼(だふりやう)をよめる

という詞書を持つ。この歌合せは嘉応元(一一六九)年に行われたもの。俊恵(しゅんえ永久元(一一一三)年~建久二(一一九一)年?)は源俊頼の子。早くに東大寺の僧となったが、白川の自坊を「歌林苑」と名付けて藤原清輔・源頼政・殷富門院大輔など多くの歌人を集めて盛んに歌会・歌合を開催し、衰えつつあった当時の歌壇に大きな刺激を与えた。鴨長明の師で、その歌論は「無名抄」などにもみえる。風景と心情が重なり合った象徴的な美の世界や、余情を重んじて、多くを語らない中世的なもの静かさが漂う世界を、和歌のうえで表現しようとした。同じく幽玄の美を著そうとした藤原俊成とは事なる幽玄を確立したといえる(以上の事蹟はウィキの「恵」に拠った)。「楸」は二種が同定候補としてある。一つはシソ目ノウゼンカズラ科キササゲ Catalpa ovate の古名で、樹高五~一〇メートルに達する落葉高木。六~七月に淡い黄色の内側に紫色の斑点がある花を咲かせる。果実は細長くササゲ(大角豆)に似るのでキササゲ(木大角豆)と呼ばれる(ここはウィキの「キササゲによる)。今一つはキントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ Mallotus japonicas の古名で、樹高五~一〇メートルに達する落葉高木。初夏に白色の花を穂状につける。「赤芽槲」「赤芽柏」という名は新芽が鮮紅色であること、葉が柏のように大きくなることから命名されたもの(ここはウィキアカメガシワ」による)。私は本歌の印象に実が合うという理由から前者を採りたい。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 10 / 了  (11以下は欠)

          10

 

 智識發生の最初の徴候は、死に對する希求である。此の人生は堪へがたく見える。あるひは到達しがたく見える。人はもはや、死を望むことを恥としない。人は、彼の嫌ふ古い住家から、彼のなほ嫌はねばならぬ新しい住家へと導かれることを禱る。このことの中には、ある信仰の痕跡がある。その推移の間に、偶〻「主(しゆ)」が廊下傳ひに歩いてこられて、この囚人を熟視し給ひ、さて、「此の男を二度と監禁してはならぬ。此の男は余の許に來(く)べきものだ。」とおほせられるかも知れない、信仰の痕跡がある。

 

[やぶちゃん注:原文。

 

 13

Ein erstes Zeichen beginnender Erkenntnis ist der Wunsch zu sterben. Dieses Leben scheint unerträglich, ein anderes unerreichbar. Man schämt sich nicht mehr, sterben zu wollen; man bittet aus der alten Zelle, die man haßt, in eine neue gebracht zu werden, die man erst hassen lernen wird. Ein Rest von Glauben wirkt dabei mit, während des Transportes werde zufällig der Herr durch den Gang kommen, den Gefangenen ansehn und sagen: „Diesen sollt Ihr nicht wieder einsperren. Er kommt zu mir.“

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。

 

 一三 ようやく始まろうとする認識の、最初の兆候のひとつに、死にたいという願望がある。そういうとき、この人生は堪えがたく、別の人生は手が届かないようにみえる。死を望むことをもはや恥とは思わなくなる。嫌でたまらない古い独房から、いずれ嫌になるに決まっている新しい独房へ、なんとか移してほしいと懇願する。そのさいに、信仰のかけらもないようなものも作用しているようだ。護送の途中たまたま通りかかられて、囚人を見て、「この者をふたたび閉じこめてはならない。彼は私の許へ来ることになっている」と言ってくださるだろうと、どこかで信じ続けているのである。

 

 以下、私の愛読書であるグスタフ・ヤノーホ著吉田仙太郎訳「カフカとの対話」(筑摩書房一九六七刊)より。

   《引用開始》

 役所のフランツ・カフカのもとで。

 もの倦げに彼は机の向うに坐っていた。垂れ下がった腕、固く閉ざされた唇。

 彼は微笑して、手を差し出した。

「昨夜は途方もなくひどい夜でした」

「医者にお見せになりました?」

 彼は口をとがらせた。

「医者――ですか……」

 彼は右手を、掌を上にしてもち上げ、しずかにそれをおろした。

「人は自分自身から逃れることはできない。これが運命です。ゆるされた唯一の可能性は、観客となって、演ぜられているのがわれわれだということを忘れることにあるのです]

   《引用終了》

 これをもって中島敦のフランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」の訳は中絶している。]

なやめる薔薇 大手拓次

 なやめる薔薇

おぼろの犬(いぬ)の影(かげ)はこほり、
つめたくひかりの閨(ねや)をゑがく………
ふゆのひの鬱金(うこん)のばらは鐘(かね)のねをひらいてうたふ。
おまへのなやめる身(み)ぶるひのささやきは、
あわだつみどりの鑰(かぎ)を示(しめ)して、
こもごもに奇蹟(きせき)の淵(ふち)におぼれ死ぬ。

鬼城句集 夏之部 葛水

葛水    葛水の冷たく澄みてすずろさみし

[やぶちゃん注:「すずろ」の「ず」は底本では「〵」に濁点。]

      葛水に乏しき葛をときにけり

[やぶちゃん注:「葛水」葛粉に砂糖を入れて葛湯を作りそれを冷した飲み物。酒毒を消し、

胃腸をととのえ、渇きを止め汗の出るのを防ぐ効能がある。以上は「5000季語の検索サイト」という副題を持つサイト季語と歳時記葛水より全文引用させて戴いた。]

蜩4:15

昨日の以下の記載は誤謬――

×今日の蜩の初声は4:31まで後退(ただ左耳の耳鳴りとの同期があるのですこしそれより早いかも知れない)。
×鳴きが遅くなるスピードが例年より加速している気がする。

――先程
――4:15
――蜩の蟬鳴が始まった(7月12日は4:07。そもそも「鳴きが遅くなるスピード」という謂いは正しない。通常、蟬は深夜でも暑いと鳴くことがあり、気温の変化によるものが主であるようだから。そういえば昨日の朝は高原のように異様に涼しかった)
――自然は「事」もなし……か……

2013/07/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 4 磯採集!



M172_2


図―172

 昨日我々は、干潮で露出した磯へ出かけた。水溜りの大きな石の下面を、我々が調べることが出来るように、それを持ち上げてひっくり返す役目の男も、一人連れて行った。収獲が非常に多く、また岩の裂目に奥深くかくれた大きなイソガイ、生きてピンピンしている奇麗な小さいタカラガイ、数個のアシヤガイ(その見殻は実に美しい)、沢山の鮑、軟かい肉を初めて見る、多くの「属」、及びこれ等すべての宝物以外に、変な蟹や、ヒトデや、海百合(ゆり)の類や、変った虫や、裸身の軟体動物や、大型のヒザラガイ、その他の「種」の動物を、何百となく発見する愉快さは、非常なものであった。今日我々はまた磯へ行き、金槌で岩石を打割って、ニオガイ、キヌマトイガイ、イシマテ等の石に穴をあける軟体動物を、いくつか見つけた。私はこれ等の生きた姿を写生するので大多忙であった。我々の建物は追い追い満員になって来て、瓶や槽の多くはもう一杯である。材料の豊富は驚くばかりである。顕微鏡をのぞいてばかりいるのに疲れた私は、休息として我々の小舎を写生した。海岸を見下す窓――というか、とにかく開いた所――で私は勉強するのだが、その外でいろいろな珍しいことが起るので、時としては中々勉強をしていられない。この写生図(図172)によって、実験所の内部の大体が判るであろう――枠に布を張り、その上でヒトデや海胆を乾燥もするが、このような仕事には、とかく、ガタビシャ騒ぎがつきものである。

[やぶちゃん注:これは磯野先生の前掲書によれば、八月十日及び翌十一日(岩礁を破砕して穿孔性の貝類を採取しているシーン)のことである。同書によれば、十一日には地引網も見学、採れた動物をかなり譲って貰ったらしい。実験所の内部のスケッチは奥左の風景から江の島の砂州の方に向かった、西北側を向いて描いたもののように思われる。見ると窓は右の棚の奥にもあるようで、そうすると、当初、私が図―151で想像したのとは違って、中央部は壁になっているようである。

「岩の裂目に奥深くかくれた大きなイソガイ」原文“hidden away in the crevices, large cones,”「イソガイ」は、石川氏が岩礁の岩の割れ目に棲息している貝だから「磯貝」とした可能性と、単純に「イモガイ」を「イソガイ」と誤植した可能性の二様が疑われる。“cone”は腹足綱新腹足目イモガイ科 Conidae に属するイモガイ類の仲間の汎用的な一般総称であるし、既に石川氏はこれを「イモガイ」と訳しておられるので、私は出版社の誤植の可能性が極めて高いように感ずるものである。

「タカラガイ」原文“Cypræa”。腹足綱直腹足亜綱下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeaidae のタカラガイ属 Cypraea に属するタカラガイ類の英語総称の一つ(同属だけで世界で凡そ230種、本邦産は90種弱とされる)。現在、和英辞典では“Cowry”や“Cowrie”と載るが、私はこの学名にもなっている美しい発音の“Cypræa”(キプラエア)で呼びたい欲求に駆られる。この属名はギリシャ語の“Kypris”女神キプリス(ラテン語で“Venus”ヴィーナス=アフロディテ)に基づくラテン語の“Cypria”(キプリア)に由来する。

「アシヤガイ」原文“Stomatella”。誤訳ニシキウズガイ科アシヤガイ Granata lyrata ではないアシヤガイはモースが「実に美しい」(原文“exquisite”)と言うほどに美しくないからである。磯野先生はこれをどうもフルヤガイ Stomatia phymotis に同定なさっておられるように見受けられるのであるが(前掲書の日録の中の採取掲載種の和名列からの類推であるが、この記載は助手の松村任三の記載も参考にしているのでフルヤガイも採取記載にあったものかも知れない)、これも地味な貝で納得出来ない。これは表記通りの属名を持つところのニシキウズガイ科ヒメアワビ亜科ヒメアワビ Stomatella 属の仲間「ヒメアワビ」類ではなかろうか? かなりの小型種であるがヒメアワビ Stomatella varita や、それより大きいヒラヒメアワビ Stomatella impertusa などは、アワビのような孔列もなく、表面も繊細で、何より、内面の真珠光沢が非常に美しいからである。試みにグーグルの画像検索の「Stomatellaのそれらしいものをご覧あれ。……美しいでしょう?……いや、私は美しいと思いますよ。……

「鮑」原文“Haliotis”。原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis の属名。ギリシャ語の“Halios”(海)+“otos”(耳)に由来する。この属名には Nordotis というシノニムがあるようだ。

『軟かい肉を初めて見る、多くの「属」』原文は“and a number of genera, the soft parts of which were new to me;”であるが、貝類の羅列の後の示されていることから、ここは狭義の貝類、それも軟体部(外套膜)を派手に露出する腹足類(巻貝類)の採集種を指しているように思われる。磯野先生の前掲書ではしかし、トコブシを挙げている。確かに潮溜りであればミミガイ上科ミミガイ科トコブシ属フクトコブシ Sulculus diversicolor 亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta か、広く形状の似たミミガイ科の仲間である可能性の方が高い。

「変な蟹」原文“the quaintest crabs”。“quaint”という単語は変な英語だな、と思ったらラテン語由来の古フランス語が元。①古風な趣き(魅力)があって風変わりで美しい、洒落た、粋な。②(皮肉を込めて)風変わりで面白い、珍妙で楽しい。③巧妙に作られた。といった意味を持つ。勿論、これから正しい同定は出来ないものの、モースにとって“quaintest”すこぶる附きで風変わりで面白い奇抜な印象を与え、容易にタイド・プールで採取出来る蟹とするならば、甲羅に海藻を擬装するイソクズガニやヨツハモガニ、外骨格が柔らかい上に歩脚が長くて動作の鈍いトウヨウヤワラガニ、凝っとしている石ころにしか見えない奇体なソデカラッパ、周縁や鋏脚が鮮紅色で美しベニツケガニ(紅付蟹)類などが想起される。モース先生が何を“quaintestといって採り上げられたのか?……私はそこでそれを一緒に見たい気持ちに……無性に駆られているのである……

「海百合の類」原文“Comatulas”。ウミシダと訳すべきところ。棘皮動物門ウミユリ綱ウミシダ目 Comatulida に属するウミシダ類の一属名に“Comatula”がある。例えばアシカケクシウミシダ Comatula pectinata (Linnaeus, 1758) 。ウミシダは羽根のような枝を多数持った、一見、海藻のような姿をした動物である。ウィキの「ウミシダ」によれば、ウミシダ類は多数の腕を中心の体から輪生状に伸ばし、根のような形の枝で他のものにしがみついている動物で、羽根のような腕を広げる姿は、確かにシダ類に似ている。化石を多く含むウミユリ綱の動物の基本的な姿は、丁度、一輪だけ花をつけたユリに似ており、長い茎(柄部)の基部に固着のための腕(仮根)を持つ。花にあたるのは本体である萼部(calyx)と、そこから輪生状に出る腕である。ウミシダはこの萼部から下を切り離した形をしており、別名を無茎ウミユリ類(non-stalked crinoids)とも言われる。ウミユリ類が基本的に固着性であるのに比べ、ウミシダは移動が可能で、種によっては腕を動かして活発に遊泳することも出来る。棘皮動物で遊泳の可能なのは、この類と、近年発見されたごく一部の深海性ナマコだけである。ウミユリ類は古生代からの長い歴史を持ち、かつては非常に繁栄したが、現在では深海にしか見られず、現在の海で広く普通に見られるのはウミシダ類だけである。種数においても現生ウミユリ綱の大半はウミシダである。それらはすべてウミシダ目にまとめられている、とある。以下、「形態」の項。『本体はほぼ円錐形の萼部(crown)からなる。萼部の上面はほぼ扁平な口盤(oral disc)となっており、その中に口と肛門がある。口はほぼ平らな面にあり、これを中心に歩帯溝が配置する。歩帯溝(ambulacral groove)または食溝(food groove)は口の周りでは五本であるが、枝分かれしてそれぞれ腕につながる。肛門は口の横、歩帯溝の間にあり、口盤の面から上に突き出しているのでよく目立つ』。『萼部の下面は中央が下に突き出し、その中心には中背板となっており、その周りに輪生状に巻枝(cirrus)が並ぶ。巻枝は短い腕のようなもので、関節に分かれ、巻くように動く。ウミユリ類ではこれは上向きになっているが、ウミシダでは下向きに伸びて、下向き中央側に巻き込むことが出来る。周辺部には腕の骨盤が並ぶ。腕は基部では五本であるが、萼周辺に向かって分枝して十本、あるいはそれ以上になる。その分枝のようすは萼の下面では骨盤(分岐板列という)の配置で、口盤側では歩帯溝で確認できる』。『腕は細長く、表面は骨板に包まれ、多数の関節を持っている。腕からはさらに細い枝が両側に出て、これを羽枝(pinnule)と呼ぶ。羽板にも多数の関節があり、内向きに巻くように動かせる。羽枝はほぼ腕全体から出るため、全体としては鳥の羽や細長いシダの葉のような姿となる。腕も羽枝も内側に巻き込むことが出来る。口から伸びる歩帯溝は腕の上面中央を腕の先まで走り、ここには管状の管足が並ぶ。管足は吸盤状ではなく、触覚と呼吸、それに排泄の役割を持つ。歩帯溝にはまた繊毛があり、ここでデトリタスなどを口まで運んで食物とする。腕の数は、基本の腕の数の五なので、少なくとも五本の腕を持つ理屈であるが、五本しか持たない例(イツウデウミシダ科など)は少なく、ほとんどが少なくとも一回二叉分枝した十本か、あるいはさらに分枝してより多くになり、100本に達する例もある。分枝は基本的に萼の部分で生じて、腕が遊離してからは分枝しない。なお、腕の基部にある羽枝はより大きく発達し、これは口盤を保護する』。内部形態は『萼内部は広く体腔となっており、それは体腔管として腕の先まで伸びている』。『消化管は口と肛門が共に口盤に開くので、萼の内部の体腔内でU字型となるが、実際にはそこで巻いており、三周ほど巻く例もある。構造的には比較的単純な形をしている』。『神経系は口の下に環状の口下側神経環があり、そこから各腕に放射神経が伸びる。また、中背板から腕に続く腕板と呼ばれる骨片には腕板神経が伸びる』。『循環系としては水管系があり、神経より内側で神経に併走するように環状水管と放射水管がある』。「生態」の項。『一般には不活発な動物であり、海底の岩やサンゴなどの上に巻枝でしがみつき、腕を広げてデトリタスなどを集めて食べる。腕や羽枝の表面の管足でそれらを集め、歩帯溝の繊毛の流れで口まで運ぶが、時折は触手を巻き込んで口のそばまで運ぶのも見られる』。『巻枝は基盤にしがみついているだけなので、これを離せば移動が可能である。巻枝を使って這ったり、腕を伸ばしてたぐるように這うこともある。腕を羽ばたくように動かして泳ぐことが出来る種もある。ただし常に泳いでいるようなものはない。流れ藻について移動する例は知られている』。『ウミシダの腕は折れやすく、刺激を受けると自切することもある。寄生ないし共生する生物もある。スイクチムシやカクレエビなどがその腕の間などに住み着く例がある』。「生殖と発生」の項、『雌雄異体であり、体外受精を行う。生殖巣は腕全体に伸び、羽枝の表面から放卵と放精が行われる。これらは年間の特定の日の特定の時刻に行われる、という風になっている。その際、切り離した腕を実験室の水槽に入れておいても、同じタイミングで放卵放精が見られるという』。『初期の幼生はドリオラリアと言い、楕円形の体の上端に繊毛群を持ち、体の途中に五つの環状の繊毛帯を持つ。この幼生は数日間の浮遊期間の後に上端で海底の基物に固着し、シスチジアン幼生からペンタクリノイド幼生へと進む。これは柄があってウミユリに近い形で、ここから柄を切り捨てるようにして成体の形となる。一部では直接発生をするもの、腕に保育装置を持つものが知られている』。分布的には『世界の海に広く分布するが、熱帯地方に多い。深海に生息するものも、浅い海域に住むものもあり、一部は潮下帯や潮だまりでも観察される。なお、ウミユリ綱で浅い海域に見られるのはこの類だけである』とあり、『日本付近で海岸の潮間帯でも比較的よく見ることができる種としては、大型のものではオオウミシダ Tripiometra afra macrodiscus、ニッポンウミシダ Oxycomanthus japonicus、小型のものではトラフウミシダ Decametra tigrina、ヒガサウミシダ Lamprometra palmataなどがある。外洋性の海岸に見られることが多い』。ウミシダ類はすべてウミシダ目に所属し、ここにウミユリ綱の現生種の大半が含まれる。世界に五五〇ほどの種があり、二亜目十四科ほどに分ける。日本では一〇〇種ほどが知られる、とあって以下、分類表が載る。モースが採取したのがどの種であったものか、私は実際に自然状態でのウミシダを観察実見したことがない。それだけに強く惹かれるのである。

「変った虫」原文は“strange wormsとあるから、環形動物のゴカイやイワムシ類、線形動物のヒモムシ類などを指しているから、「蠕虫」と訳すべきところ。

「裸身の軟体動物」原文“naked mollusks”。後鰓類(ウミウシ)の類である。モース先生の見たのは何だのだろう。すぐには出典を思い出せないのであるが、江の島の現在のヨット・ハーバーのある岩礁の潮下帯上辺の岩の下には、かつて昭和天皇が発見した(のではなかったかと思う)オレンジ色の美しいウミウシが美しく群棲していたそうである。

「ヒザラガイ」原文“chitons”。既出。軟体動物門多板綱新ヒザラガイ目クサズリガイ科ヒザラガイ Acanthopleura japonica またはその近縁種。

「ニオガイ」原文“Pholas”。斧足(二枚貝)綱オオノガイ目ニオガイ科 Pholadidae の標準属名である。但し、よく見かける本邦産の和名ニオガイBarnea (Anchomasa) manilensis inornata やオニニオガイ Barnea (Anchomasa) manilensis は属名が異なる。英語版“Wikisource”のNatural History, Mollusca by Philip Henry Gosse”の“Mollusca(軟体動物)の節に載る、ゴスの“PHOLAS”(ニオガイ類)の穿孔状態の博物画が載る。以下に示す。

Natural_history__mollusca__pholas

「キヌマトイガイ」原文“Saxicava”斧足(二枚貝)綱オオノガイ目キヌマトイガイ上科キヌマトイガイ科 Hiatellidae の貝類は岩石への穿孔や足糸による他物への着生が知られる。現在、本邦のキヌマトイガイは Hiatella orientalis の学名を持つが、これに Saxicava arctica と当てたものを見出したので、同科の仲間であることは間違いない。英語版“Wikisource”のNatural History, Mollusca by Philip Henry Gosse”の“Dimyaria(二筋類)に載る、ゴスの“SAXICAVA”類の穿孔状態の博物画が載る。以下に示す。 

Natural_history__mollusca__saxicava



「イシマテ」原文“
Lithodomus”。斧足(二枚貝)綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イシマテ属Lithophaga 亜属 Leisolenus イシマテ(イシワリ)Lithophaga(Leiosolenus) curta。殻は前後に細長く円筒形、人体の後端背縁でわずかに高まり、殼表は褐色で成長脈のみで外に彫刻はなく、ところどころに石灰層を附着する。切開創は後端が厚く、かつ殻の端よし少しく延長され、腹面には縦襞状に刻まれている。内面には歯も内縁刻も見られない。本類は珊瑚礁や岩石に穿孔して棲息し、甚だしい場合は他個体の殻にも穿孔する。海岸の岩礁帯の無数の小穴は本類の他、先のニオガイやニオガイ科カモメガイ Penitella kamakurensis・同科スズガイ Jouannetia cumingii などが穿孔したものである(以上は昭和三四(一九五九)年保育社刊吉良哲明著「原色日本貝類図鑑」の記載に基づく)。グーグル画像検索「Lithophaga curtaをリンクしておく。

「このような仕事には、とかく、ガタビシャ騒ぎがつきものである。」原文は“and all the clutter that such work entails.”。“clutter”は混乱状態・紛糾の意。“entail”は~を伴う、引き起こす・強いるの意で、まさに石川氏の「~がつきものである」の謂いである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 3 私のコック



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図―171

 私の料理番は階下に、流しと二つの石の火鉢とから成る台所を持っている。これ等の火鉢はある種のセメントか、あるいは非常に軟かい火山岩を切って作ってある。勿論オーヴンは無く、火鉢は単に燃える炭を入れる容器であるに過ぎない。この上で料理番は煮たり焼いたりするが、鶏のローストをつくる時には、四角な葉鉄(ブリキ)を火の上に置いて鶏をのせ、その上に銅の深鍋をひっくりかえしにかぶせて、鍋の底で炭火を起し、一時的のオーブンを設け、鶏がうまくロースト出来る迄、彼は辛棒強く横に立って炭をあおぐ。図171は料理番の簡単な写生図である。鶏の雛は一羽数セント、鯖に似た味のいい魚が一セント。私は何でもが安いことの実例として、これ等の価格をあげる。

[やぶちゃん注:底本では石川氏が訳注として「オーヴン」の後に『〔窯〕』、「ロースト」の後に『〔燔肉〕』と記しておられるが、今や若き読者には、この割注の方に注を附さねばならない世界になってしまったことを、モース氏はどうお思いになられることであろう。]

 車夫二人に引かせて人力で藤沢へ行った結果、私は大きな淡水産の螺(Melnia)の美事な「種」を壺に一杯集めることが出来た。車夫達がまるで海狸(ビーヴァー)のように働いて、これ等の貝を河床からひろい上げたからである。

[やぶちゃん注:これは磯野先生の前掲書によれば、八月九日のことである。

「大きな淡水産の螺Melniaこんな属名はないのでおかしいと思って原文を確認すると“fresh-water snail (Melania), となっている。これは石川氏(または編集・印刷者)の誤りである。Melania 属というのは腹足綱吸腔目オニノツノガイ上科トウガタカワニナ科 Thiaridae(これば別にトゲカワニナ科とも呼称する)に属する。ところがこの属名自体がこれまた現在使われていないので、これまたてこづった。結論から言うと、このお馴染みのカワニナ類に似た(但し、この仲間は知られたカニモリガイ上科カワニナ科 Pleuroceridae のカワニナとは上科レベルで異なる)一種の、旧属名であった。トウガタカワニナ科の多くは九州奄美以南に棲息する南方系種であり、九州以北考えられる種はタケノコカワニナ(筍川蜷)Stenomelania rufescens しかいないので、このモースの記載が正しいとするならならば本種以外には考えられない。]

 私は特別な使を立てて郵便を藤沢へ送った。距離三マイル、賃銀十セント。亭主がやって来て、この使者は走る飛脚だから二セント多くかかるといった。私は丈夫そうな脚をした男がいい勢で売り出し、水を徒渉して向う側へ全速力で姿を消すのを見た。外山氏は郵便局長宛に、私の所へ来た外国郵便を特使で送るよう特に手紙を書き、それを持たせてやったが、その返事は同じ飛脚が、信じ難い程短い時間に持って帰って来た。彼は往復共、全速力で走り続けたに違いない。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳)  第七章 江ノ島に於る採集 2 しゃぼん玉売り

 普通の種類の蠅がいないことは、この国の特長である。時を選ばず、蠅を一匹つかまえるということは、困難であろう。私はファンデイ湾の入口にあるグランド・メーナンに於て、魚の内臓等をあちらこちらにまき散らす結果、漁村は我慢出来ぬ程蠅が沢山いたことを覚えている。江ノ島は漁村であるが、漁夫達は掃除をする時に注意深く※(くずにく)を全部はこび去り、そしてこれを毎日行う。それに彼等は、捕えた物をすべて食うから、棄てられて腐敗するものが至ってすくない。加之、動物とては人間と鶏だけで馬、牛、羊、山羊等はまるでいない。鶏も数がすくなく、夜になると籠を伏せた中に入れられる。夜、牡鶏や牝鶏が人家へやって来て、やがて入れられる籠のまわりを、カッカッいいながら歩き廻り、誰か出て来て一羽一羽籠の中に入れる迄それを続ける所は中々面白い。

[やぶちゃん注:「ファンデイ湾の入口にあるグランド・メーナン」原文“at Grand Manan, at the entrance of the Bay of Fundy,”。「ファンデイ湾」は第五章の冒頭に「フンディの入江」として既出(「ファンデイ湾」はママ)。“Grand Manan”とは、そのフンディ湾の湾口に浮かぶグランド・ナマン島である。

「※(くずにく)」(「※」=「魚」+「荒」)原文は“offal”。この漢字はスズキ亜目ハタ科ハタ亜科アラ Niphon spinosus を指す漢字であるが、ここでは「くずにく」とルビを振っているように、食用に用いる魚の臓物や屑肉のことを指す。

「加之」若い読者には馴染みがなかろうが、これで「しかのみならず」と読む。漢文訓読調で、副詞「しか」+副助詞「のみ」+断定の助動詞「なり」の未然形+打消しの助動詞「ず」で、そればかりでなく、それに加えて、の意。]

 

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図―170

 

 前にも書いたことがあるが、町を行く行商人の呼び声は、最も奇妙で、そしていう進もなく、世界中どこへ行ってもそうだが、訳が判らぬ。ある時、それ迄聞きなれたのとまるで違った呼び声を耳にして駆け出して見ると、一人の男が長い竹の管から、あぶくを吹き出していた。あぶくは、石鹸でつくったものよりも一層美しくて、真珠光に富んでいた。石鹸といえば、日本人は全然石鹸というものを知らない。溶解液は二つのほっそりした手桶に入っていて、それを子供達に売る(図170)。外山氏がこの男に液体の構成を聞いた所によると、いろいろな植物の葉から出来ていて、煙草も入っているとのことであった。裸体の男があぶくを吹き吹き、時々実に奇妙極る叫び声をあげながら往来をのさのさ歩いている有様は、不思議なものだった。

[やぶちゃん注:シャボン玉売りである。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「江戸時代、洗濯に石鹸と洗濯板を使用したか。には、当時のしゃぼん玉は「無患子、芋がら、烟草などを焼いた粉を水に浸し、竹の細い管で吹くと玉が飛んで五色に光ってみえる」(喜多村信節『嬉遊笑覧』)とあるように、南蛮伝来のしゃぼんを使ったものではなかった、とあってここの記載によく合致する。この「無患子」とはバラ亜綱ムクロジ目ムクロジ科 Sapindus mukorossi。果皮はサポニンを含み、泡立つので石鹸の代用とされた。また、「守貞謾稿」(風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?)が書いた風俗・事物を解説した類書、現在で言う一種の百科事典。起稿は天保八(一八三七)年、その後約三十年間に亙って書き続けた。全三十五巻(前集三十巻・後集五巻)。一六〇〇点にも及ぶ付図と詳細な解説によって近世風俗史の基本文献とされる。この記載は主にウィキの「守貞謾稿」に拠った)の「巻之六 生業下」に「さぽん玉賣」として以下の記載がある(本文は国立国会図書館デジタル化資料を視認したが、踊り字「〱」は正字化した)。

 

サボン玉賣 三都トモ夏月專ラ賣之大坂ハ特土神祭祀ノ日専ラ賣來ル小兒の弄物也サホン粉ヲ水ニ浸シ細管ヲ以テ吹之時ニ丸泡ヲ生ス

京坂ハ詞ニ「フキ玉ヤサボン玉吹ハ五色ノ玉ガ出ル云々

江戸ハ詞ニ「玉ヤ玉ヤ玉ヤ玉ヤ

Sabonuri

 

但し、附した図は岩波文庫版の「近世風俗志(一)」(同一書の別題)からスキャンしたものに私がキャプションを原本に合わせて独自に附したものである。]

笛 萩原朔太郎 (「月に吠える」掉尾に配された「笛」の初出形)

 

 

  

 

子供は笛が欲しかつた。

その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。

子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。

子供はひつそりと扉(とびら)のかげに立つて居た。

扉(とびら)のかげにはさくらのはなのにほひがする。

そのとき、おとなはかんがへこんでゐた、

おとなの思想がくるくるとうづまきをした。

ある混み入つた思想のぢれんまおとなの心を痙攣(ひきつけ)させた、

みれば、ですくの上に突つ伏したおとなの額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。

それは春らしい今朝(けさ)の出來事が、そのひとの心をうれはしくしたのである。

本能と良心と。

わかちがたきひとつの心をふたつにわかたんとするおとなの心のうらさびしさよ、

力(ちから)をこめてひきはなされたふたつの影は、いとのやうにもつれあひつつほのぐらい明窓(あかりまど)のあたりをさまよつた、

ああ、みればまたあさましくもつるみかわしてゐるものを、

ひとは自分の頭のうへに、それらの悲しい幽靈のとほりゆくすがたをみた、

透きとほる靑貝のやうな光る死臘の手さきが、そのひとの腦づゐをかすめていつた、

その手のふれるつめたい痛(いた)みから、そのにんげんの心臟が腐りかかつた、

…………かれこそはれうまちすのたぐひにて、ひとびとの良心となづくるもの。

そのときひとつのかげはひとつのかげのうへに重なりあつた、

おとなは恐ろしさに息をひそめながら祈をはぢめた、

「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ、」

けれどもながいあいだ、幽靈は扉(とびら)のかげを出這入りした。

扉(とびら)のかげにはさくらのはなのにほひがした。

そこには靑白い顏をした病身のかれの子供が立つて居た。

子供は笛が欲しかつたのである。

 

     ×

 

子供は扉(とびら)をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。

子供は窓際(まどぎは)のですくに突つぷしたおほいなる父の頭腦をみた、

その頭腦のあたりははなはだしい陰影になつてゐた。

子供の視線が、蠅(はへ)のやうにその塲所にとまつてゐた。

子供のわびしい心がなにものかにひきつけられてゐたのだ。

しだいに子供の心が力(ちから)をかんじはぢめた。

子供は實にはつきりとした聲で叫んだ。

みればそこには笛がおいてあつたのだ。

子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。

 

     ×

 

子供は笛についてなにごとも父に話してはなかつた。

それ故この事實はまつたく隅然の出來事であつた。

おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。

けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。

もつとも偉大なる大人の思想が生み落した笛について。

卓の上に置かれた笛について。 

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第六巻第六号・大正五(一九一六)年六月号に掲載された。太字は底本では傍点「ヽ」、太字下線を施した「良心」のみ傍点「●」である。但し、以下は私の判断で訂した。

 

・ルビの誤字
 ×「痙攣(つきつけ)させた」→○「痙攣(ひきつけ)させた」
・脱字
 ×「わかちがたきひとの心」→○「わかちがたきひとの心」
(但し、初出読者は「ひと」を「人」と読んで違和感を感じなかったものとも思われる。)
・錯字
 ×「つみるかわしてゐるものを、」→○「つるみかわしてゐるものを、」
(但し、歴史的仮名遣の誤り「かわして」は訂さない。私には詩想を変形させることなく間違いなく『読める』からである)
・異体字
 「聲で呌んだ。」→「聲で叫んだ。」
(これでもいいが、若い人は躓くであろうから)
・傍点の脱落
 ×(「めぐりあはせ」の「せ」に傍点「ヽ」がない)→(「せ」を太字とした)

 

 本詩は後に詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の詩集本文の掉尾に所収されたが、その際には以下のように改稿されている。特に前半中間部の削除が大きい(太字は本テクストに準ずる)。 

 

 

 

子供は笛が欲しかつた。

その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。

子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。

子供はひつそりと扉(とびら)のかげに立つてゐた。

扉のかげにはさくらの花のにほひがする。

 

そのとき室内で大人(おとな)はかんがへこんでゐた、

大人(おとな)の思想がくるくると渦まきをした、ある混み入つた思想のぢれんまが大人の心を痙攣(ひきつけ)させた。

みれば、ですくの上に突つ伏した大人の額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。

それは春らしい今朝の出來事が、そのひとの心を憂はしくしたのである。

 

本能と良心と、

わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人(おとな)の心のうらさびしさよ、

力をこめて引きはなされた二つの影は、糸のやうにもつれあひつつ、ほのぐらき明窓(あかりまど)のあたりをさまよひた。

人は自分の頭のうへに、それらの悲しい幽靈の通りゆく姿をみた。

大人(おとな)は恐ろしさに息をひそめながら祈をはじめた

「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ」

けれどもながいあひだ、幽靈は扉(とびら)のかげを出這入りした。

扉のかげにはさくらの花のにほひがした。

そこには聲白い顏をした病身のかれの子供が立つて居た。

子供は笛が欲しかつたのである。

 

子供は扉をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。

子供は窓際のですくに突つ伏したおほいなる父の頭腦をみた。

その頭脳のあたりは甚だしい陰影になつてゐた。

子供の視線が蠅のやうにその場所にとまつてゐた。

子供のわびしい心がなにものかにひきつけられてゐたのだ。

しだいに子供の心が力をかんじはじめた、

子供は実に、はつきりとした聲で叫んだ。

みればそこには笛がおいてあつたのだ。

子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。

 

子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。

それ故この事實はまつたく遇然の出來事であつた。

おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。

けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。

もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について、

卓の上に置かれた笛について。 

 

「ほのぐらき明窓(あかりまど)のあたりをさまよひた。」の「よひた」及び「それ故この事實はまつたく遇然の出來事であつた。」の「遇然」はママ。]

フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 9

          9

 

 人間が、たとへば、一個の林檎について抱き得る觀念の多樣性。單に卓子の上にあるそれを見るためのみにも、その頸をのばさなければならない小兒の眼に映じた苹果と、それを取上げ、主人らしい品位をもつて客の前に差出す、一家の主人の眼に映じた苹果と。

 

[やぶちゃん注:「苹果」は音ならば「ヘイクワ(ヘイカ)」又は「ヒヤウクワ(ヒョウカ)」で、当て読みの訓で「りんご」である。林檎の実のこと。中島敦は「りんご」と読ませているように思われる。

 

原文。

  11.12

Verschiedenheit der Anschauungen, die man etwa von einem Apfel haben kann: die Anschauung des kleinen Jungen, der den Hals strecken muß, um noch knapp den Apfel auf der Tischplatte zu sehn, und die Anschauung des Hausherrn, der den Apfel nimmt und frei dem Tischgenossen reicht.

 

 新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。

 

 一一/一二 人が抱きうるさまざまな見解の相違。たとえば林檎ひとつをとってもてもそうだ。食卓上の林檎をちらと見るだけのためにも、せいいっぱい背伸びをしなければならない少年見解と、その林檎をとって、自由に食卓仲間にさしだせる一家の主人の見解と。]

 

……そうだ……林檎だ……僕は僕の思いを示そうとしていたに過ぎなかったのに……でも母さんは卒倒し、妹はただ恐懼し嫌悪した……そこへ……そこへ父さんが帰ってきた……

   *

『「お母さんが気絶したの。でももうよくなったわ。グレゴールがはい出したの」

「そうなるだろうと思っていた」と、父親がいった。「わしはいつもお前たちにいったのに、お前たち女はいうことを聞こうとしないからだ」

 父親がグレーテのあまりに手短かな報告を悪く解釈して、グレゴールが何か手荒なことをやったものと受け取ったことは、グレゴールには明らかであった。そのために、グレゴールは今度は父親をなだめようとしなければならなかった。というのは、彼には父親に説明して聞かせるひまもなければ、またそんなことができるはずもないのだ。そこで自分の部屋のドアのところへのがれていき、それにぴったりへばりついた。これで、父親は玄関の間からこちらへ入ってくるときに、グレゴールは自分の部屋へすぐもどろうというきわめて善良な意図をもっているということ、だから彼を追いもどす必要はなく、ただドアを開けてやりさえすればすぐに消えていなくなるだろうということを、ただちに見て取ることができるはずだ。

 しかし、父親はこうした微妙なことに気づくような気分にはなっていなかった。入ってくるなり、まるで怒ってもいればよろこんでもいるというような調子で「ああ!」と叫んだ。グレゴールは頭をドアから引っこめて、父親のほうに頭をもたげた。父親が今突っ立っているような姿をこれまでに想像してみたことはほんとうになかった。とはいっても、最近では彼は新しいやりかたのはい廻る動作にばかり気を取られて、以前のように家のなかのほかのできごとに気を使うことをおこたっていたのであり、ほんとうは前とはちがってしまった家の事情にぶつかっても驚かないだけの覚悟ができていなければならないところだった。それはそうとしても、これがまだ彼の父親なのだろうか。以前グレゴールが商売の旅に出かけていくとき、疲れたようにベッドに埋まって寝ていた父、彼が帰ってきた晩には寝巻のままの姿で安楽椅子にもたれて彼を迎えた父、起き上がることはまったくできずに、よろこびを示すのにただ両腕を上げるだけだった父、年に一、二度の日曜日や大きな祭日にまれにいっしょに散歩に出かけるときには、もともとゆっくりと歩く母親とグレゴールとのあいだに立って、この二人よりももっとのろのろと歩き、古い外套にくるまり、いつでも用心深く身体に当てた撞木杖(しゅもくづえ)をたよりに難儀しながら歩いていき、何かいおうとするときには、ほとんどいつでも立ちどまって、つれの者たちを自分の身のまわりに集めた父、あの老いこんだ父親とこの眼の前の人物とは同じ人間なのだろうか。以前とちがって、今ではきちんと身体を起こして立っている。銀行の小使たちが着るような、金ボタンのついたぴったり身体に合った紺色の制服を着ている。上衣の高くてぴんと張った襟の上には、力強い二重顎が拡がっている。毛深い眉(まゆ)の下では黒い両眼の視線が元気そうに注意深く射し出ている。ふだんはぼさぼさだった白髪はひどくきちんとてかてかな髪形になでつけている。この父親はおそらく銀行のものだと思われる金モールの文字をつけた制帽を部屋いっぱいに弧を描かせてソファの上に投げ、長い制服の上衣のすそをはねのけ、両手をズボンのポケットに突っこんで、にがにがしい顔でグレゴールのほうへ歩んできた。何をしようというのか、きっと自分でもわからないのだ。ともかく、両足をふだんとはちがうくらい高く上げた。グレゴールは彼の靴のかかとがひどく大きいことにびっくりしてしまった。だが、びっくりしたままではいられなかった。父親が自分に対してはただ最大のきびしさこそふさわしいのだと見なしているということを、彼は新しい生活が始った最初の日からよく知っていた。そこで父親から逃げ出して、父親が立ちどまると自分もとまり、父親が動くとまた急いで前へ逃がれていった。こうして二人は何度か部屋をぐるぐる廻ったが、何も決定的なことは起こらないし、その上、そうした動作の全体がゆっくりしたテンポで行われるので追跡しているような様子は少しもなかった。そこでグレゴールも今のところは床の上にいた。とくに彼は、壁や天井へ逃げたら父親がかくべつの悪意を受け取るだろう、と恐れたのだった。とはいえ、こうやって走り廻ることも長くはつづかないだろう、と自分にいって聞かせないではいられなかった。というのは、父親が一歩で進むところを、彼は数限りない動作で進んでいかなければならないのだ。息切れが早くもはっきりと表われ始めた。以前にもそれほど信頼の置ける肺をもっていたわけではなかった。こうして全力をふるって走ろうとしてよろよろはい廻って、両眼もほとんど開けていなかった。愚かにも走る以外に逃げられる方法は全然考えなかった。四方の壁が自分には自由に歩けるのだということも、もうほとんど忘れてしまっていた。とはいっても、壁はぎざぎざやとがったところがたくさんある念入りに彫刻された家具でさえぎられていた。――そのとき、彼のすぐそばに、何かがやんわりと投げられて落ちてきて、ごろごろところがった。それはリンゴだった。すぐ第二のが彼のほうに飛んできた。グレゴールは驚きのあまり立ちどまってしまった。これ以上走ることは無益だった。というのは、父親は彼を爆撃する決心をしたのだった。食器台の上の果物皿からリンゴを取ってポケットにいっぱいつめ、今のところはそうきちんと狙(ねら)いをつけずにリンゴをつぎつぎに投げてくる。これらの小さな赤いリンゴは、まるで電気にかけられたように床の上をころげ廻り、ぶつかり合った。やわらかに投げられた一つのリンゴがグレゴールの背中をかすめたが、別に彼の身体を傷つけもしないで滑り落ちた。ところが、すぐそのあとから飛んできたのがまさにグレゴールの背中にめりこんだ。突然の信じられない痛みは場所を変えることで消えるだろうとでもいうように、グレゴールは身体を前へひきずっていこうとしたが、まるで釘づけにされたように感じられ、五感が完全に混乱してのびてしまった。だんだんかすんでいく最後の視線で、自分の部屋が開き、叫んでいる妹の前に母親が走り出てきた。下着姿だった。妹が、気絶している母親に呼吸を楽にしてやろうとして、服を脱がせたのだった。母親は父親をめがけて走りよった。その途中、とめ金をはずしたスカートなどがつぎつぎに床にすべり落ちた。そのスカートなどにつまずきながら父親のところへかけよって、父親に抱きつき、父親とぴったり一つになって――そこでグレゴールの視力はもう失われてしまった――両手を父の後頭部に置き、グレゴールの命を助けてくれるようにと頼むのだった。』(「変身」「Ⅱ」掉尾)

   *

『グレゴールが一月以上も苦しんだこの重傷は――例のリンゴは、だれもそれをあえて取り除こうとしなかったので、眼に見える記念として肉のなかに残されたままになった――父親にさえ、グレゴールはその現在の悲しむべき、またいとわしい姿にもかかわらず、家族の一員であって、そんな彼を敵のように扱うべきではなく彼に対しては嫌悪をじっとのみこんで我慢すること、ただ我慢することだけが家族の義務の命じるところなのだ、ということを思い起こさせたらしかった。

 ところで、たとい今グレゴールがその傷のために身体を動かすことがおそらく永久にできなくなってしまって、今のところは部屋のなかを横切ってはい歩くためにまるで年老いた傷病兵のようにとても長い時間がかかるといっても――高いところをはい廻るなどということはとても考えることができなかった――、自分の状態がこんなふうに悪化したかわりに、彼の考えによればつぎの点で十分につぐなわれるのだ。つまり、彼がつい一、二時間前にはいつでもじっと見守っていた居間のドアが開けられ、そのために彼は自分の部屋の暗がりのなかに横たわったまま、居間のほうからは姿が見えず、自分のほうからは明りをつけたテーブルのまわりに集っている家族全員を見たり、またいわば公認されて彼らの話を以前とはまったくちがったふうに聞いたりしてもよいということになったのだった。』(「変身」「Ⅲ」巻頭)

   *

『「あいつはいなくならなければならないのよ」と、妹は叫んだ。「それがただ一つの手段よ。あいつがグレゴールだなんていう考えから離れようとしさえすればいいんだわ。そんなことをこんなに長いあいだ信じていたことが、わたしたちのほんとうの不幸だったんだわ。でも、あいつがグレゴールだなんていうことがどうしてありうるでしょう。もしあいつがグレゴールだったら、人間たちがこんな動物といっしょに暮らすことは不可能だって、とっくに見抜いていたでしょうし、自分から進んで出ていってしまったことでしょう。そうなったら、わたしたちにはお兄さんがいなくなったでしょうけれど、わたしたちは生き延びていくことができ、お兄さんの思い出を大切にしまっておくことができたでしょう。ところが、この動物はわたしたちを追いかけ、下宿人たちを追い出すのだわ。きっと住居全体を占領し、わたしたちに通りで夜を明かさせるつもりなのよ。ちょっとみてごらんなさい、お父さん」と、妹は突然叫んだ。「またやり出したわよ!」

 そして、グレゴールにもまったくわからないような恐怖に襲われて、妹は母親さえも離れ、まるで、グレゴールのそばにいるよりは母親を犠牲にしたほうがましだといわんばかりに、どう見ても母親を椅子から突きとばしてしまい、父親のうしろへ急いで逃げていった。父親もただ娘の態度を見ただけで興奮してしまい、自分でも立ち上がると、妹をかばおうとするかのように両腕を彼女の前に半ば挙げた。』(「変身」「Ⅲ」)

   *

……その父の首に片手をまきつけて隣り合って坐っていた妹が決然と立ち上がる……ぐっすりと寝入っている母……

   *

『 自分の部屋へ入るやいなや、ドアが大急ぎで閉められ、しっかりととめ金がかけられ、閉鎖された。背後に突然起った大きな物音にグレゴールはひどくびっくりしたので、小さな脚ががくりとした。あんなに急いだのは妹だった。もう立ち上がって待っていて、つぎにさっと飛んできたのだった。グレゴールには妹がやってくる足音は全然聞こえなかった。ドアの鍵を廻しながら、「とうとうこれで!」と、妹は叫んだ。

「さて、これで?」と、グレゴールは自分にたずね、暗闇(くらやみ)のなかであたりを見廻した。まもなく、自分がもうまったく動くことができなくなっていることを発見した。それもふしぎには思わなかった。むしろ、自分がこれまで実際にこのかぼそい脚で身体をひきずってこられたことが不自然に思われた。ともかく割合に身体の工合はいいように感じられた。なるほど身体全体に痛みがあったが、それもだんだん弱くなっていき、最後にはすっかり消えるだろう、と思われた。柔かいほこりにすっかり被われている背中の腐ったリンゴと炎症を起こしている部分とは、ほとんど感じられなかった。感動と愛情とをこめて家族のことを考えた。自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的なものだった。こんなふうに空虚なみちたりたもの思いの状態をつづけていたが、ついに塔の時計が朝の三時を打った。窓の外ではあたりが明るくなり始めたのを彼はまだ感じた。それから、頭が意に反してすっかりがくりと沈んだ。彼の鼻孔(びこう)からは最後の息がもれて出た。』(「変身」「Ⅲ」)

   *

(引用部分は総てパブリック・ドメインの、「青空文庫」にある筑摩書房昭和三五(一九六〇)年刊「世界文学大系58 カフカ」を底本とする原田義人訳フランツ・カフカ変身 DIE VERWANDLUNGのデータ(入力者・kompass 氏/校正者・青空文庫)の一部をコピー・ペーストさせて戴いている。)]

ひびきのなかに住む薔薇よ 大手拓次

 ひびきのなかに住む薔薇よ

ひびきのなかにすむ薔薇(ばら)よ、
おまへはほそぼそとわだかまるみどりの帶(おび)をしめて、
雪(ゆき)のやうにしろいおまへのかほを
うすい黄色(きいろ)ににほはせてゐるのです。
ふるへる幽靈(いうれい)をそれからそれへと生んでゆくおまへの肌は、
ひとつのふるい柩(ひつぎ)のまどはしに似(に)てゐるではありませんか。
ひびきのなかにすむふくらんだおほきな薔薇よ、
おまへは あの水(みづ)の底(そこ)に鐘(かね)をならす魚(うを)の心(こゝろ)ではないでせうか。
薔薇よ、
ひびきのなかにうろこをおとす妖性(えうせい)の薔薇(ばら)よ、
おまへはわたしのくちびるをよぶ、
わたしのくちびるをまじまじとよんで、
月のひかりをくらくするのです。

うすく黄色(きいろ)い薔薇(ばら)の花(はな)よ、
ぷやぷやとはなびらをかむ羽(はね)のある蛇(へび)が
いたづらな母韻(ぼゐん)の手をとつて、
あへいでゐるわたしのこころに
亡靈(ぼうれい)のゆくすゑをうたはせるのです。

ああ
しろばらよ しろばらよ しろばらよ、
おまへはみどりのおびをしめて、
うすきいろく うすあをく にほつてきました。

蜩4:31 雨になる朝

今日の蜩の初声は4:31まで後退(ただ左耳の耳鳴りとの同期があるのですこしそれより早いかも知れない)。→×【2013年7月19日】
鳴きが遅くなるスピードが例年より加速している気がする。→【2013年7月19日】
今朝は風もあり、妙に涼しい――山の音が聴こえる――雨になる朝……それでも……人々は未だに眠っているのだった……

鬼城句集 夏之部 川狩

川狩    夜振の火うつりて水の黑さかな

      川干や石に根を持つ川原草

[やぶちゃん注:「夜振」は「よぶり」で、闇夜川面で松明やカンテラを燈して振り、その火に寄ってくる魚を獲る川漁の一種。「火振」とも。因みに「夜焚(よたき)」と書くと集魚灯を用いた海漁を指す。「川干」は「かはぼし」(但し、「かはひ」と読むことがある)は、川を堰き止め干し上げて魚を獲る川漁の一種。「川狩(かはがり)」は狭義にはこの漁法を指す場合がある。]

2013/07/17

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 8 江島案内

    ●江島案内

來遊者は。先つ山水の佳絶なるを賞しつゝ。棧橋を渡れは銅製の鳥居あり。是れぞ江島の入口にて。此の鳥居の前に立ちて看望(みあぐ)れは。一線路あり。即ち江島神社に詣つるの道なり。進み行けは。惠比壽樓(ゑびすろう)。岩本樓なと客を呼ふの旅館ありて。兩側に櫛比す。是を茶屋町と唱ふ。行くこと一町半にして。石製(せきせい)の鳥居立てり。こゝより石磴(いしだん)を登れは。前面に碑石(ひせき)あるを見る。上に題して最勝銘といふ。銘に曰く。

  最勝無匹 至妙匪名 起滅來去 香味色色

  事物蕭寂 眞空崢嶸 顯處漠々 暗裏明明

明治甲申原垣山の撰せし所。左方(さはう)に池あり。無熱池と稱す。盍し其名は天竺(てんぢく)の無熱池に象りて名(なづ)けたるものなり。水淺しといへど。旱天(かんてん)に涸れずと云ふ。其の上に巨石あり。蝦蟇石といふ。相傳ふ釋良眞〔慈悲上人〕此の島に參籠せし時。蝦蟇出て障碍(しようげ)を爲しける故。加持せられは。終に此(この)石に化したりと。其の言(げん)荒唐信するに足らず。右の石磴を登れは。江島小學校あり。油漣塗(ぺんきぬり)にて他と異なるなし但し體を具へて微(び)なるものなり。

[やぶちゃん注:「最勝銘」ウィキの「江の島」に「最勝銘碑」として明治一七(一八八四)年に東京大学でインド哲学を教えていた曹洞宗の僧原担山の撰になるものという記載がある。底本には返り点はない。禅僧のものであるから原則総て音で読んでいると考えてよい。

「崢嶸」は「さうくわう(そうこう)」と読み、山谷のけわしいさまをいう。

「江島小學校」ウィキの「江の島」によれば、明治六(一八七三)年島内に江島学舎が開校、明治二二(一八八九)年に江ノ島村と対岸の片瀬村とが合併して鎌倉郡川口村となった際、この江島学舎が川口村立小学校江ノ島分校となったとある。当時のこの分校の位置は辺津宮下の石の鳥居前を右に折れ、裏へ廻る近道の上に架かる桟道の手前の右手、現在の「江の島市民の家」のある位置にあった。後の昭和三六(一九六一)年三月三十一日、当時、藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校は廃止された。江の島・藤沢ポータルサイト「えのぽ」の「思い出の風景」の坂井弘一氏の「二百十日の頃」には、江ノ島には対岸の片瀬小学校の分校があって、小学三年まではこの分教場へ通い、四年生になると島から桟橋を渡って本校へ通学していた、とある。ショウ氏の「湘南の家」の「江の島桟橋」には四年生までとあるが、時代的な差なのかも知れない。それぞれの桟橋の写真や絵葉書は実に素晴らしい。往時の江の島風景として必見である。]

 

右左に折れて自然石より成れる石磴を攀ちて進めは。左方に石あり其の形臥牛(ぐわきう)の如し。福石と呼へり。相傳ふ。昔時の杉山檢校和一參籠して結願(けつぐわん)の日。此石に躓き。松葉の竹管に盛りたるを拾へは福を得ると稱す。是れ福石の名の起れる所以なり。それより石磴を上れは。神祠(じんし)あり。即ち邊津神社にて。むかしは下の宮といへり。社の左側(さそく)に古碑の存(ぞん)するを見るに江島屏風石といふ。是ぞ有名なる江島建寺碑なり〔別項に記載す〕左折して堺内(けうない)を出。阪を下り。金龜樓の前を過き。又石磴を上れは神祠あり。是ぞ中津神社にして。むかしは上の宮と稱せり〔口繪參照〕こゝにて什寶を展列し。諸人の縱覽を許す。社の左に碑あり。酒井雅樂頭の撰文なりといふ。文字苔蒸して讀むべからず。境内(けうない)を過れは。右方に石磴あり。之を攀(よぢ)れは。平地に達す。即ち本島の頂上なり行くこと二丁餘。左方(さはう)は斷崖絶壁にして。風濤の聲脚下に鞺鞳(だうがふ)たり。試みに茶亭(さてい)の筠欄(いんらん)に倚りて一望すれは。相模灘三十六里寸眸の裏に入り。伊豆の大島正面に横(よこたは)りて。遙かに翠螺(すゐら)を浮へ白帆其の間に點在す。風景絶佳人皆嘆賞す。此の處に一遍上人成就水の標石あり。逕路以て通(つう)するも。草莾(そうばう)人を遮り。行歩自由ならず。行くこと二十間許(ばか)りにして。一井あり。蓮華水といふ。相傳ふ一遍上人此の島に參籠の時。加持せし舊蹟なりと。今尚ほ上人自筆の一遍成就水の扁額は。當社に保存せり。傍に蓮華池あり。溪泉湛(たと)ふて池を成し。老樹覆(お)ふて屋を成し。人をして仙境に至れる思あらしむ。聞く近日荊を伐り茅を刈りて。行路を便(べん)にし。此の勝地に通せしむと。是れ亦游覽の一助ならむ。

[やぶちゃん注:「鞺鞳」この字を当てておいたが、実際には「鞳」ではない。「革」に「侖」のような字(カスレている)である。しかしこれは水や波の音の響くさまをいう、「鞺鞳」であることは間違いないので、これを当てた。なお、これはまた本来なら「たふたふ(とうとう)」と読むのが正しい。

「筠欄」青竹の手すり。

「三十六里」約一四一キロメートル強。江の島から伊豆半島南端の石廊崎までを海岸線で計測すると凡そ一二二キロ程度あり、これを可視限界の下田辺りから直線で大島最北端乳が崎まで延ばすとずばり一四一強となる。頗る正確な数値と言えよう。

「翠螺」緑なす山の美称。

「二十間」約三十六メートル強。]

 

舊路を取り。山に沿ふて下れは。幅凡そ三間許り地峽の如き形勢をなせる道に出つ。俗にこゝを山二ツといふ。兩岸(れうがん)の絶壁幾十丈。左右より相迫り。殆(ほと)むと江島の一島をして二島あるか如き觀(くわん)あらしむ。此名ある所以なり。それより迂曲(うくわい)して進めは。平地に達す。是れ奥津神社境内の入口なり。

[やぶちゃん注:「三間」約五・五メートル。]

 

徐ろに神社を拜し了り。左右を顧みれは。道忽ち窮れるがごとし。左方に當りて一標を認む。題して岩屋道といふ。進て歩を移せは。石磴あり。是れ龍窟に達するの道なり。級を拾ふて下れば。道は斷崖の上に出つ。手を額にすれは。富士山巍然(ぎぜん)として雲表に聳へ、豆相の諸山其の前に列し。相引て我に朝(てう)する者に似たり。彼の烏帽子岩の如きは。呼へは將さに應へむとす。此の處を兒か淵といふ。其の由來は載せて別項にあり。淵頭には服部南廓、佐羽淡齋及ひ。芭蕉の詠(えい)を刻せし碑を建てり。

 南廓の詩に云。

  風濤石岸鬪鳴雷。

  直撼樓臺万丈廻。

  被髮釣鼇滄海客。

  三山到處蹴波開。

 淡齋の詩に云。

  瓊砂一路截波通。

  孤嶼崚嶒屹海中。

  潮浸龍王宮裏月。

  花香天女廟前風。

  客樓所鱠絲々白。

  神洞燒燈穗々紅。

  幾入蓬萊諳秘跡。

  不須幽討倩仙童。

 芭蕉の句に云。

  疑ふな潮の花も浦の春

この岸角に龍燈松と稱するがありしが。今は枯れたり。是より岩怪石の間を宛轉(えんてん)して下れば。海岸に到る。尚石骨を蹈て行くこと二丁餘。始て龍窟に達す。其の間左は石塀(いしべい)にして。右は深潭なり。岩頭の老松枝を埀れて。翠濤(すゐたう)の上に沈む。奇絶いふべからず。

[やぶちゃん注:以上の漢詩は底本では二段組であるが、一段で示した。淡齋の漢詩の最終句は底本では「不須幽倩仙童。」となっており、明らかな脱字があって律詩としての体を成さない。ここのみ、別の諸資料によって特別に補って示したことを断っておく。【二〇一四年九月二十日追記:本誌の一番最後に正誤注があり、そこには『●本誌江の島案内の中佐羽淡齋七律結末不須幽倩仙童は不須幽討倩仙童の誤謬に付爰に正誤す』とある。】

「級を拾ふて」「級(きふ)」は階段のこと。石段を一つ一つを数えて。

「巍然」山が高く聳えること。

「朝する」 向かってくる。

「服部南廓」服部南郭(天和三(一六八三)年~宝暦九(一七五九)年)は荻生徂徠の高弟として知られる儒者で画家。詩を我流で書き下す(句点を排除した)。

  風濤 石岸 鳴雷を鬪ふ。

  直ちに樓臺を撼(ゆす)りて 万丈 廻る

  被髮の釣鼇(ちようがう) 滄海の客(かく)

  三山 到る處 波を蹴つて開く

詩中の「被髮の釣鼇」とは釣り上げられた大きな蓑亀。

「佐羽淡齋」二代目佐羽吉右衛門(さばきちえもん 明和九(一七七二)年~文政八(一八二五)年)は商人で漢詩人。絹仲買商で上州三富豪の一人。詩を我流で書き下す(句点を排除した)が、尾聯は脱字もあり、訓読に自信がない。識者の御教授を乞うものである。

  瓊砂(けいさ) 一路 波を截つて通ず

  孤嶼(こしよ) 崚嶒(りようくわい) 屹(きつ)として海中にあり

  潮は浸(ひた)す 龍王 宮裏の月

  花は香る 天女 廟前の風

  客樓 鱠(なます)とする所 絲々(しし)として白く

  神洞 燈を燒きて 穗々(すいすい)として紅(くれなゐ)なり

  幾(ほと)んど蓬萊に入りて 秘跡を諳(そら)んずれば
  須(もち)ひず 幽(ひそ)かに倩(うるは)しき仙童を討(もと)むるを
詩中「崚嶒」は山が高く緩やかに重なりあうこと、「屹」も高く聳えること。「脱身幽討」という語があり、これは塵界を離れ、景色のよい場所を尋ね廻るの意がある。「幾入蓬莱」は海中に屹立する江ノ島への入島を東方海中にあるとする仙境蓬莱山に喩えて言った。「秘跡」は「蓬莱」に掛けて人に知られぬ名跡の意。「討」には求める・尋ねる・探すなどの意があり、ここは稚児が淵伝説に因んで、秘かに尋ね求めたと採る。「倩」には形容詞として美しい・麗しい・愛らしいと意があり、動詞としては借りる・請う・雇うの意がある。実は底本ではこの字の下に「仙童」からの返り点があるのだが、先に示した通り脱字があり、この返り点は信じ難い。ここでは知人の指摘を得て仙童を形容する語、則ち、みめ麗しいの意で採ることとした。従って尾聯は、

  私が入り来たったここはもう、かの仙境蓬莱にほとんど等しい……
  そうして今、この景勝にかくも満足し、詩をそらんじておる……
  さればこそ――私は必要とせぬ――
  伝説の和尚の如、秘かに見目麗しき仙童の稚児を尋ねるなんどということは――

といった感じであろうか(以上、尾聯の訓読及び語釈は知人の助力を得た。ここに記して謝意を表する)。

「疑ふな潮の花も浦の春」は無論、江の島の吟ではなく、「二見の図を拝み侍りて」と前書きがあるので嘱目吟でもないようである。「いつを昔」所収。他にこの句を記した真蹟の「二見文台」(文台に書きつけたもの)には「元禄二仲春」のクレジットがある。

「岩頭の老松」「老」は底本「考」。全くの誤植と判断し、訂した。]