耳囊 卷之七 嘉例いわれあるべき事
嘉例いわれあるべき事
本所竹藏近所、曾根孫兵衞といへる御旗本有。彼(かの)家、古來より仕來りにて、年々正月三日に餅を舂(つく)事也。いつの比にや、主人申けるは、世の中皆暮に餅を舂事に、我家のみ其事なく人並をはづれ正月三日に餅舂事、何と歟(か)人の思はん所思はしからず、今年は暮に舂とて、家來も仕來成(しきたりなれ)ばと諫むるをも不用、爲舂(つかせ)ける。舂時は何共(なんとも)なし。箕(み)に入(いれ)、座敷へ運ぶと、右餅、一圓、血に染(そ)みて眞赤に成る。見るもいぶせき躰(てい)也。是はいかゞと中間共へ渡せば、元の如く潔白也。又、座敷へ運べば、最前の通りなる故、其後は昔の通、正月三日餅舂事と也。
□やぶちゃん注
○前項連関:怪奇談で連関。これは民俗学で、よく知られる、一部の地方や家系に於いて、餅を食わない、搗かない、或いは、本件のように、世間一般の餅搗きの時期や食す習慣を、微妙にズラすという禁忌風習として、その由来の中の一つとして、実際に語られ、今も存在するものではある。但し、後注でも示した通り、異変の由来の中には、デッチアゲのものもあり、その場合は、正月の関連行事の古式との関係でコジつけたものも多い。
・「本所竹藏」「本所御藏」の俗称。底本後注に、『墨田区東両国三丁目。もと横網町。大川から舟入りがあって、それに続く広い土地を占めていた。敷地の東に南割下水がある』とあった。隅田川から船で運んだ木材や竹の荷を、この堀から引き入れ、御蔵地へと収納するようになっていた、その蔵で、後には米蔵として使用され、現在は国技館・江戸東京博物館などが建っている。この附近(グーグル・マップ・データ)。
・「曾根孫兵衞」同前で、『曾根次彭(ツグモリ)は安永六年』(一七七七年)『(三十七歳)家督、千六百石。寛政九年』(一七九七年)『御書院番から御使番に転じている』とある。
・「正月三日に餅を舂(つく)事也」同前で、『近世にいたって朔日正月の制が一般化し、これが古来からのもののように考えられるようになったが、もちろん新規のものであって、古式では望(もち)の日(十五日)を新しい年の初めとして祝った。両制が折衷並用されたのが、大正月、小正月の例で、大小正月の中間を、餅間(モチアハヒ)などと呼ぶ地方がまだある。古来の望の正月の仕来りを重んじた特別の家や地域では、元日以後に餅をつくことになる。武家では、戦のために餅をつくひまがなかったので、それが家例になったという説明をする例が多い』とあった。
■やぶちゃん現代語訳
嘉例に謂われあることもある事
本所の御竹蔵の近所に、曽根孫兵衛と申さるる御旗本がある。
かの家では、古来より、「仕来り」にて、年々、正月三日に、餅を舂(つく)ととなっている。
何時(いつ)の頃のことであろうか、主人、おっしゃられるには、
「世の中、皆、暮れに餅を舂くことになって御座るが、我が家(や)のみ、その事、御座なく、人並みの習慣を外して、正月三日に、餅ち舂くこととなって御座る。『何(なん)でか、そのようにあるか?』と、人の思わるる所も、思わしからざれば、
「今年は、暮れに舂かん。」
とて、申したところが、家来も、
「仕来りなら)ば。」
と諌めるをも、用いず、舂かせまして御座った。すると、舂いた時は、これ、何(なん)とも御座らなんだ。而して、舂き終えて、箕(み)に入れ、座敷へ運ぶと……かの餅……一円に……血に染みて……真赤に、なる。……いやはや、見るも、いぶせき体(てい)で御座った。
「是は。いかが!?!」
と、中間どもへ渡したところが……元のごとく、潔白なので御座った。ところが、また、座敷へと運んでみると、最前の通り……真っ赤……なればゆえ、その後(のち)は、昔の通り、正月三日、餅を舂く事と致して御座る。」
とのことであった。
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