耳嚢 巻之七 蟲さし奇藥の事 (二条)
蟲さし奇藥の事
ある海邊の在郷に、親は獵(れふ)し得たる烏賊(いか)を料理、いかの墨手中に附居(つきゐ)たりしが、其いとけなき子いかゞせしや、まむしにさゝれしとて鳴(なき)わめく。かたへの人も立(たち)つどひ、親なる者、いづれさゝれしやと烏賊のすみ付(つき)し手にて、其さゝれし所を撫で抔し、誠にわするゝ如く痛去(いたみさり)、無程(ほどなく)痛快(つうかい)なりし。其□□虫さしの□へはいかのすみをぬるに快驗得る事奇々妙也。
□やぶちゃん注
○前項連関:疣コロリから蛇咬傷の民間薬シリーズで直連関。イカスミは性関節潤滑・皮膚損傷修復効果や保湿・美肌作用を持つムコ多糖類を多く含み、他にも最近では抗ウイルス性・代謝促進・免疫力向上・抗癌作用などの薬理効果もあるとするようである。漢方では特に補血作用を活かして粉末にしたものを狭心症の治療薬として用いているともある。但し、同じ墨でもタコスミはやめた方が無難である。毒性が認められるからである。私のブログ記事「蛸の墨またはペプタイド蛋白」を参照されたい。
・「其□□虫さしの□へはいかのすみをぬるに快驗得る事奇々妙也。」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(恣意的に正字化した)、
其一郷は虫さしの分へはいかの墨をぬるに快驗を得る事奇々妙々の由人の語りぬ。
とある。この部分、大々的にバークレー校版で採る。
■やぶちゃん現代語訳
毒虫に咬まれた際の奇薬の事
ある海辺の在郷でのこと。
親は今日、漁(すなど)って参った烏賊(いか)を料理して御座って、烏賊の墨が手の中にべったりとついておったと申す。
ちょうどその折り、頑是ない子(こお)が、いかがしたものか、
「蝮(まむし)に刺されたぁッ!……」
と泣き叫ぶ。
近所の者どもも駆けつけて見たところが、親なる者が、
「ど、どこを刺されたじゃッ!?……ここかッ?……こ、ここかッツ?……」
としきりに聴いておるものの、子(こお)は泣き叫ぶばかりにて要領を得ぬ。されば結局、烏賊の墨がついた手(てえ)にて、その噛まれた辺りを、ただしきりに撫で回して御座った。
子(こお)の肌えはみるみる真っ黒――
――と、突然、子(こお)が泣きやみ、
「お父(っとう)……ちいとも、痛う、のうなった。……」
とけろりと致いた。
まっこと、咬まれたことも忘れたように痛みが全く消え、ほどのう、咬まれたその跡方もなく快癒致いて御座った。
これより後、その一郷にては、蛇に咬まれた際には烏賊の墨を塗ればたちどころに快癒を得ること、これ、奇々妙々なりと伝えておる由、さる人の語って御座った。
*
又
まむしはさら也、都(すべ)て虫さししに、ころ柿(がき)を醋(す)に付置(つけおき)て、さゝれし所へ附(つく)るに、是奇々妙也。
□やぶちゃん注
○前項連関:蛇咬傷を含む虫刺され民間薬シリーズ連続。
・「ころ柿」転柿・枯露柿などと書く。干し柿のこと。渋柿の皮を剝き、天日で干した後に莚の上で転がして乾燥させたことから。干し柿はビタミンCとビタミンを多量に含んでおり、現在でも、二日酔い・風邪・夜尿症・高血圧・火傷・かぶれ・しもやけ・痔・虫刺され・歯痛に効く、とされている。
■やぶちゃん現代語訳
毒虫に咬まれた際の奇薬の事 その二
蝮は勿論のこと、総て虫に刺され咬まれた際には、干し柿を酢に漬けおいて、それを刺し咬まれたところへつけると、これ、奇々妙々の効果を発する、とのこと。

