夢と子供 萩原朔太郎
●夢と子供
白晝(まひる)における、さまざまなる欲望の抑壓が、夜陰の夢に現はれてくる。夢の現實の中で、人々の充たされない欲情が、蝙蝠のやうに飛翔してゐるのである。
この悲しき景色が、同じやうに現實の世界に實在している。といふことを、だれもかつて氣付かなかつたらうか? 我々の時代の優生學は、遺傳に就いて皮相の見解しか持つてゐない。親の體質が遺傳するものは、生理上の特色にしか過ぎないのである。個人の本質的な氣質や、趣味、才能等に關して言へば、科學の題目からはづれてしまふ。
ずつと多くの場合に於て、氣質上の遺傳は體質のものと反對する。親と子との相似は、主として生理上の特徴――容貌や、骨格や、血液や、病氣や――である。しかしながら心理上では、この關係が反對になつてくる、即ち、概して言へば、多數の例に就いて見る如く、天才の子は凡人であり、英傑の子は痴呆に近い。そしてこの逆がまた事實である。
我々の天才の歷史が教へる如く、べトーベンの父は凡庸なる音樂教師であり、ナポレオンの兩親は言ふにも足らぬ無能の人物にすぎなかつた。そして一般に知る通り、文學者の父は概して俗物であり、精力家の父は怠惰者であり、敏腕家の父は概ねお人好しである。尚且つ、もつと實證すれば、禁欲家の子には色魔が生れ、嚴格家の子には不良少年が多いのである。
かくこの不思議なる事實は、我々の「夢」に於けると、同じ事情によつて論證し得る。我々の生活(ライフ)が、もしも禁欲を強ひるならば、不斷に抑壓されたる意識が、夢に於ての悲しき飛翔をする如く、丁度そのやうに、親の内密の欲情が、彼の子供にまで遺傳され、子供の現實の氣質となつてくるのである。かくして教育者、その他の嚴格家の子供は、概ね放縱無賴の人物となり、精力家の子は怠惰者となり、その他のすべて反對の氣質や才能が子に現はれてくる。
それ故に人々は、彼の子供に於てのみ、彼の内密なる、自らそれを意識し得ない、一の悲しき非望を見るであらう。ああいかに寂しいかな! 子供は我々の Life に於ける、夜陰の惡しき蝙蝠である。それのおびただしき飛翔が、夢の中でさへも、我々の安眠をさまたげる。
[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「意志と忍從もしくは自由と宿命」より。]
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