百性の生きて働く暑さ哉 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
百性の生きて働く暑さ哉
「生きて働く」という言葉が、如何にも肉體的に酷烈で、炎熱の下に喘ぐやうな響を持つて居る。かうした俳句は寫生でなく、心象の想念を主調にして表象したものと見る方が好い。したがつて「百性」といふ言葉は、實景の人物を限定しないで、一般に廣く、單に漠然たる「人」即ち「人間一般」といふほどの、無限定の意味でぼんやりと解すべきである。つまり言へばこの句に於て、蕪村は「人間一般」を「百性」のイメーヂに於て見て居るので、讀者の側から鑑賞すれば、百姓のヴイジヨンの中に、人間一般の姿を想念すれば好いのである。もしさうでなく、單なる實景の寫生とすれば、句の詩境が限定されて、平面的のものになつてしまふし、且つ「生きて働く」といふ言葉の主觀性が、實感的に強く響いて來ない。ついでに言ふが、一般に言つて寫生の句は、即興詩や座興歌と同じく、藝術として輕い境地のものである。正岡子規以來、多くの俳人や歌人たちは傳統的に寫生主義を信奉して居るけれども、芭蕉や蕪村の作品には、單純な寫生主義の句が極めて尠く、名句の中には殆んど無い事實を、深く反省して見るべきである。詩に於ける觀照の對象は、單に構想への暗示を與へる材料にしか過ぎないのである。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。「百性」は同「郷愁の詩人與謝蕪村」初版のママ。底本全集や現行同テクストでは総て「百姓」とするが、古くはこうも書いた。誤りとは言えないので復元した。因みに、この評釈に私は、最初から最後まで、すこぶる附きで共感出来る。]