栂尾明恵上人伝記 45
又或る時、佛性聖人、楞伽山の草庵に來臨してよめる、
諸行をば無常なりとて身を捨つる人の心になるよしもがな
上人御返歌、
常ならぬ世を捨つるとは君ぞ見る物くるはしと人はいふ身を
跡をくらふして入りにし山の奧なれど君には見せよ峰の白雲
此の聖人自ら前栽(ぜんさい)にくさぐさの華を植ゑて侍りける。其の華の盛りに華にそへて讀みて奉りけり。
植ゑおきて三世(みよ)の佛に手向けけり華の匂(にほひ)も法と思へば
上人御返歌、
法の爲に植ゑおく革の種よりぞ妙法蓮華も開けしくべき
[やぶちゃん注:「佛性聖人」岩波文庫「明恵上人集」の歌集の注(二五二頁)によれば、『続群書類従本『鳳笙師傳相承』に見える豊原利秋の一男仏性か』とし(これは小澤サト子氏「東洋文庫蔵 明恵上人歌集 本文と総索引」(国語史研究資料稿第三巻・1967年刊の補注に拠る)、『「南都笙正統。菩提山僧」と注する。なお、利秋は時秋の男。菩提山は伊勢の菩提山神宮寺か』とある。この豊原時秋(康和二(一一〇〇)年~?)は楽人で従五位下右近衛将監。豊原氏は代表的な楽家の一つであり、時秋の祖父時光及び父の時元とも笙の大家として名高かった。時秋は楽所勾当となって篳篥の道で名を上げた。その養子の利秋(弟光秋の子)以降も、豊原氏は代々朝廷に仕える楽家(京方楽人)として続いた(以上の事蹟はウィキの「豊原時秋」に拠った)。]
松葉の禪門行圓(ぎやうゑん)、關東より上りて在洛の間、常に詣でて法談有りけり。或る時讀みて奉りけり。
尋ね來て實(まこと)の道に入りぬるも迷ふ心ぞしるべなりける
[やぶちゃん注:ここ底本ではこの歌と次の「上人御返歌、」の詞書の脱落がある。岩波文庫「明恵上人集」及び講談社学術文庫「明惠上人伝記」を確認して補った。「松葉の禪門行圓」は岩波文庫「明恵上人集」の注(二八二頁)によれば、『藤原氏南家乙麿流左衛門尉二階堂行忠の男』で行円と名乗った人物の『祖父行盛、法名行然を誤った』かと同定候補を挙げる。]
上人御返歌、
尋ね來て實の道に入る人は此より深く奧を尋ねよ
上人或る時讀み給ひける、
夢の世のうつゝなりせばいかゞせんさめゆく程を待てばこそあれ
上人の讀み給へるを聞きて、同(おなじ)禪門又或時よみて奉りけり。
世の中はまどろまで見る夢なれやいかにさめてかうつゝなるべき
此等皆世に聞き傳へて續後撰集(ぞくごせんじふ)・續拾遺集(ぞくじふゐしふ)に入れられけり。又なくなりたりける人の手跡の裏に光明眞言を書き給ひて、奧に書き付け給ひける、
書きつくる跡に光のかゞやけばくらき闇にも人は迷はじ
又或る時物の端に書き付け給ひける、
いつまでか明けぬ暮れぬと營まん身は限りあり事は盡きせず
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