日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 21 西南戦争に赴く兵士たち
東京への途中、兵隊が多数汽車に乗って来た。東京へ着いて見ると、道路は南方の戦争、即ち薩摩の叛乱から帰って来る軍隊で一杯であった。停車場の石段には将校が何人かいたが、みな立派な、利口そうな顔をしていて、ドイツの士官を思い出させた。私は往来の両側を、二列縦隊で行進する兵士の大群――多分一連隊であろう――を見たが、私が吃驚する暇もなく、私の人力車夫は片側に寄らず、もう一台の人力車の後について行列の間に入って了い、この隊伍の全長に沿うて走った。私は兵士達を見る機会を得た。色の黒い、日にやけた顔、赤で飾った濃紺の制服、白い鳥毛の前立をつけた短い革の帽子……これが兵士であり、士官はいい男で、ある者はまるで子供みたいだが、サムライの息子達で、恐れを知らぬ連中である。私を大いに驚かせ、且つよろこばせたのは、私に向って嘲笑したり、声をかけたりした者が、只の一人もなかったという事実である。彼等は道足で行進しつつあり、ある者は銃を腕にのせ、ある者は肩にになっていたが、それにしてもこれ程静かな感じのする、規律正しい人々を見たのはこれが最初である。事実彼等は皆紳士なので、行為もそれにふさわしかった。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、これは西南戦争の出兵の様子である。これは磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の復元日録から察するに、恐らく八月十八~二十一日前後の出来事ではないかと推測されるが(後述)、当時の西南の役は西郷隆盛が南進を始める(八月二十二日)直近、九月一日の城山籠城戦への突入直前という最終局面に達しつつあった(西郷の自刃は九月二十四日)。この描写された征討部隊も、後にこの籠城の最終戦に参加した人々とも思われる。
「彼等は道足で行進しつつあり、」原文は“They were marching along in fatigue fashion ;”である。「道足」という日本語がよくわからないが、「並足(なみあし)」(普通の足並み)のことか? しかしこの“in fatigue fashion”という語にそのような意味があるのだろうか? “fatigue”には軍事用語として、特に罰としての雑役“fatigue duty”、作業衣・野戦服“combat fatigue”の意があるから、寧ろ私は、
野戦服に身を包んで並んで後進しつつあり、
と訳したくなるのだが(但し、通常、野戦服の場合は複数形を用いると辞書にはあるが)。識者の御教授を乞う。
なお日の同定については、八月十八日が教育博物館(国立科学博物館の前身)の開館式であったことから(但し、磯野先生は『モースの出欠は不明』とされておられる)、同月二十一日は、モースが東京上野で開かれた第一回内国勧業博覧会開会式に出席していることにより、私が前後あえて言ったのは、磯野先生が二十一日の条に『この頃彼は東大に行き、生物学関係の教室と研究室を下見した』とあることによる。実は次の次の段落にその下見の様子が描かれており、本段落もその同日の直前の実見記であるようにも読めるのである(モースが別の日の記憶を繫げた可能性も捨てきれないが)。]