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2013/07/05

芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十五

□原稿169(170)

      〈九〉*十五*

 

[やぶちゃん注:「十五」は形の上では「九」を抹消しているので5字下げ(実際には6~7マス目に記載)。本文は2行目から。]

 

 それから彼是一週間の後、僕はふと醫者の

チヤツクに珍らしい話を聞きました。と云ふ

のはあのトツクの家に幽靈の出ると云ふ話な

のです。その頃〔に〕はもう雌の河童〈も〉**〈■〉**か外(ほか)へ

行つてしまひ、〈トツクの家は〉僕等の友だちの詩人の家も〈■〉

〔或〕寫眞〈屋〉**のステュディオに變つてゐました。何でも

チヤツクの話によれば、このステュディオでは寫

眞をとると、〈必ず〉トツクの姿もいつの間にか必ず

〔朦〕朧と〈寫?〉**の後ろに映つてゐると〔か〕云ふこと《〔で〕》〈なの〉で〕です。尤

[やぶちゃん注:

●「〔或〕寫眞〈屋〉**のステュディオに變つてゐました。」初出及び現行では、

 寫眞師のステユデイオに變つてゐました。

で、促音は措くとしても「或」の脱落は見逃せない。個人的な文体への趣味の物問題であるが、私は――私も――そして普通の芥川龍之介も、ここには「或」を入れたくなる。私は入っているのが正しいと思うし、芥川龍之介もそれが彼の真意であると思う。そもそもこの「或」は推敲の末に7行目上罫外に、わざわざ手書きで綺麗に罫を拵えて、そこに「或」と記しているのである。――ゲラ校正段階で最終的に龍之介自身が削除した――などということは、以上から私には絶対にあり得ないことだと直感されるのである。これは総ての校正から漏れたものと私は断ずるものである。

 

■原稿170(171)

〈《チヤツク》→ゲエル〉*チヤツク*は物質主義者ですから、死後の生命

などを信じて〈は〉**ません。現に〈《こ》→こ〉**の話をした時

にも〈目にた〉*悪意の*ある微笑を浮べながら、「〈《「幽靈》→「靈魂〉やは

り靈魂と云ふものも物質的存在と見えます

ね」などと註釈めいたことをつけ加へてゐまし

た。僕も幽靈を信じないことはチヤツクと余

〈《り》→《しかしこの国の心靈学協会は》→僕も幽靈を信じないことは〉*り変りません。けれども詩人の*トツクには親しみを感じてゐましたから、早速本屋の店へ

〈か〉**けつけ、〈新聞や雑誌掲げられた■〉*トツクの幽靈に関する記事*やトツ

クの幽靈の〈寫〉**眞の出てゐる新聞や雑誌を買つ

 

■原稿171(172)

て來ました。成程それ等の〈寫〉**眞を〈見〉**ると、ど

こかトツクらしい河童が一匹、老若男女の河

童の後ろにぼんやりと姿を現してゐま〔し〕た。し

かし僕を驚かせたのは〈かう云ふ〉*トツクの*幽靈の寫眞よ

りもトツクの幽靈に關する記事、―――殊にト

ツクの幽靈に關する心靈学協会の報告〔で〕す。僕

は可也逐語的にその報告を訳して置きました

から、左(さ)に大畧を掲げることにしませう。〈若し

この〉*但し括弧*の中にあるのは僕自身の加へた註釈な

のです。――

[やぶちゃん注:この原稿用紙には右下方罫外右の、13~14マス位置に斜めに、赤いゴム印で、

 

の字が押されている。意味は不明。これは次の原稿にもある。

●「左(さ)に」は初出及び現行は、

 下(しも)に

である。校正過程で変更されたものであろう。]

 

■原稿172(173)

   詩人トツク〔君〕の幽靈に關する報告。(心靈

学協会雑誌第八千二百七十〈五〉**号所載)

 わが心靈〈協〉學協会は先般自殺したる詩人トック

君の舊居にして〈《、》→■〉現在は××寫眞師のステュディオなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を

開催せり。列席せる会員は下の如し。(氏名を畧す。)

 〈上記〉*我等*十七名の会員は〔心靈〔学〕協会々長ペツク氏と共に〕九月十七日午〈後十《二》→二

時〉*前十時三十分*〈同ステュディオに参集せり。〉*我等の最も信賴するメ*ディアム、ホツプ夫人を同伴し、該ステュディオの一室に參集〔せ〕り。ホ

[やぶちゃん注:前原稿注で示した通り、この原稿にも右下方罫外右の、14マス位置と、その斜めやや左下に、前原稿と全く同じ赤いゴム印で、

 

の字が2箇所に押されている。

●「心靈学協会雑誌第八千二百七十〈五〉**号」この変更は妙に気になる。この号数では不都合な理由が、芥川龍之介にはあったのではあるまいか?

●「トック」及び抹消も含めて3箇所の「ステュディオ」、「メディアム」の促音表記は総てママである。勿論、総て初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。]

 

■原稿173(174)

ツプ夫人は該ステュディオに入るや、既に心靈的

空気を感じ、全身に痙攣を催しつつ、嘔吐す

ること数囘に及べり。夫人の語る所〈に〉**よれ

ば、こは詩人トツク君の強烈なる煙草を愛し

たる結果、その心靈的空気も亦ニコティンを含

有する爲なりと云ふ。

 我等会員〈《は》→も〉**ホツプ夫人と共に圓卓を繞りて

〈《坐せることは定例》→言を費するを待たざる可し。〉*默坐したり。*夫人

は三分二十五秒の後、極めて急劇〈に〉*なる*夢遊状態

に陷り、且詩人トツク君の〈靈魂〉*心靈*の憑依する所

[やぶちゃん注:

●「ステュディオ」「ニコティン」の促音はママ。初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。

●「三分二十五秒」初出及び現行は、
 十分二十五秒
となっている。ゲラ校正での改訂か。トランス状態に陥るには確3分25秒よりは10分25秒の方が「リアル」とは言えるように思われる。]

 

■原稿174(175)

となれり。我等会員は年齡順に從ひ、夫人に

憑依せるトツク君の心靈と左の如き問答を開

始したり。

 問 君は何〈を〉故に幽靈に出づるか?

 荅 死後の名声を知らんが爲なり。

 問 〈死後■ 〉君――或は〈君等〉心靈〔諸君〕は死後も尚名声

を欲するや?

 荅 少くとも予は欲せざる能はず。然れど

も予の邂逅したる日本の〈或〉**詩人の如きは死後

の名声を輕蔑し居たり。

 

■原稿175(176)

 問 〈その詩人の名は〉*君はその詩人の姓*名を知れりや?

 荅 〈彼《は》→の名は〉*予は不幸*にも忘れたり。唯彼の好んで

作れる十七字詩の一章を記憶〈す〉**るのみ。

 問 その詩は如何

 荅 「古池や蛙飛びこむ水の音」

 問 君はその詩を佳作〈とする〉*なりと做す*や?

 荅 〈《必しも悪作ならざるべし。》〉*予は必しも惡作なりと做さず。*唯「蛙」を「河童」

とせん乎、〈一層佳作〉*更に光彩*陸離たるべし。

 問 〈その理由は如何?〉*然らばその理由は*如何?

 荅 我等河童は〈蛙よりも河童〉*如何なる藝術*にも河童を求

[やぶちゃん注:

●「知れりや?」の「や」の右下には読点に近い有意に意志的に打たれたペンの跡が原稿にはある。

●「その詩は如何」はママ。初出及び現行は、

 その詩は如何?

と「?」がある。

●「古池や蛙飛びこむ水の音」初出及び現行では、

 「古池や蛙飛びこむ水の音」。

と句点有り。]

 

■原稿176(177)

むること痛切なればなり。

 〈座〉**長ペツク氏はこの〈当〉時に當り、我等十七名

の会員にこは心靈学協会の臨〈■〉**調査会にし

て合評会にあらざるを注意したり。

 問 〈《君等心靈》→諸君〉*〈唯〉心靈諸君*〈の如何に生活するか?〉*の生活は如何?*

 荅 〈無爲にして消光〉*諸君の生活と異*なること無し。

 〈荅〉** 然らば君は君自身の自殺せ〈る〉**を後悔す

るや?

 荅 必しも後悔せず。予は心靈的生活に倦

まば、更にピストルを取りて自活すべし。

[やぶちゃん注:最後の行の太字「自活」は、底本では傍点「ヽ」。

●「異なること無し」初出及び現行は、

 異(ことな)ること無(な)し

と、「な」を送っていない。

●「後悔するや?」の「や」の右下には読点に近い有意に意志的に打たれたペンの跡が原稿にはある。]

 

■原稿

 問 自活〈は〉するは容易〈■〉なりや否や?

 トツク君の心靈はこの問に荅ふるに更に問

を以てしたり。こはトツク君を知れるものに

〈荅〉頗る自然なる應酬なるべし。

 荅 自殺するは容易なりや否や?

 問 〈君等〉*諸君*〈心靈〉の生命は永遠なりや?

 荅 我等〈心靈〉*の生命*に関しては諸説紛々として

〈解〉信ずべからず。幸ひに我等の間にも基督教、

佛教、モハメツド教、拜火教、等〈儒教、〉*の諸*宗あるこ

とを忘るる勿れ。

[やぶちゃん注:最初の行の太字「自活」は、底本では傍点「ヽ」。

●「モハメツド教」初出及び現行は、

 モハメツト教

である。

●「拜火教、等」はママ。初出及び現行には読点はない。]

 

■原稿178(179)

 問 君自身の信ずる所は如何?

 荅 予は常に懷〈義〉**主義者なり。

 問 然れども君は少くとも心靈の存在を疑

はざるべし?

 荅 〈《諸君の》→余は不幸にも諸君の如く〉*諸君の如く確信する能は*ず。

 問 君の交友の多少は如何?

 荅 〔予の交友は〕古今東西に亘り、〈無慮〉三百人を下らざるべ

し。その著名なるものを挙ぐれば、クライス

ト、マインレンデル、ワイニンゲル、………

 〈荅〉** 君〈は自殺者〉*の交友は*自殺者のみなりや?

[やぶちゃん注:

●この原稿には右上罫外に鉛筆書きで、

 棒組

という大書がある。棒組とは、活字組版に於いて版下を作成する際、レイアウトを無視して本文を決められた組み体裁でまず最初に全部組んでしまうことをいう校正用語。組んだものが棒のように細長くなるのでこの名がある。文字校正(棒組みのゲラは棒ゲラという)を済ませてから改めて正式なレイアウト通りに配置する。レイアウトが複雑且つ文字の直しによる大幅な組み替えが予測される場合に、この棒組みにすることが多い(以上は株式会社イーストウエストコーポレーションの「図解DTP用語辞典」の「棒組み」の記載に拠った)。ここは問答形式で問と答が一字下げで、台詞がそこからまた一字下げとなり、それがまた2行に及ぶ場合の字下げなどの問題があったからであろうか(実際には、2行目以降は字下げ無しで1マス目まで上がっている)。しかし、であれば、この問答が始まる「■原稿174(175)」にこそ附されていなくてはならないように思われ、不審である。識者の御教授を乞うものである。

●「君自身の信ずる所は如何?」初出及び現行は、

 君自身の信ずる所は?

である。前後の問の表現表記癖から判断して、原稿が正しいと断言出来る。]

 

■原稿179(180)

 荅 必しも然りとせず。自殺を弁護せるモ

ンテェ〈■〉**ユの如きは予が畏友の一人なり。唯予

〈自殺せざり〉*自殺せざり*し厭世主義者、―――シヨオペン

ハウエルの輩とは交際せず。

 問 シヨオペンハウエル〈の〉**健在なりや?

 荅 彼は〔目下〕心靈的厭世主義を〈講じ〉*樹立し*自活する

可否を論じつつあり。然れどもコレラも黴菌

病なりしを知り、頗る安堵せるものの如し。

 我等会員は相次いでナポレオン、孔子、ド

ストエフスキイ、ダアウィン、クレオパトラ、

[やぶちゃん注:6行目の太字「自活」は、底本では傍点「ヽ」。

●「モンテェ〈■〉**ユ」「ダアウィン」の促音表記はママ。初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。]

 

■原稿180(181)

釈迦、〈ダンテ、〉デモステネス、ダンテ、千の

利休等の心靈の消息を質問したり。然れどもト

ツク君は不幸にも詳細に荅ふることを〈做〉**

ず、反つてトツク君自身に關する種々の〈消〉*ゴシ

ツプ*を質問したり。

 問 予の死後の名声は如何?

 荅 〈群小詩人の一人〉或批評家〈曰?〉は「群小詩人の一人」と言へり。

 問 彼は予が詩集を贈らざりしに怨恨を含

める一人なるべし。予の全集は出版せられしや

 

■原稿181(182)

 荅 君の全集は出版せられたれども、賣行

甚だ振はざるが如し。

 問 予の全集は三百年の後、―――即ち著作

權の失はれたる後、万人の購ふ所となるべ

し。予の同棲せる〈友〉女友だちは如何?

 荅 彼女は〈《目下弁護士のラツク君》→弁護士ラツク君の夫人と〉*書肆ラツク君の夫人と*なれり。

 問 彼女は〔未だ不幸にも〕ラツクの〈眼?〉義眼なるを知らざる

なるべし。予が子は如何?

 荅 國立孤兒院にありと聞けり。

 〈問〉トツク君は暫く沈默せる後、新たに質問を

 

■原稿182(183)

開始したり。

 問 予が家は如何?

 荅 某寫眞〈《師》→家〉**のステュデイオとなれり。

 問 予の机は如何になれ〈りや?〉*るか?*

 荅 如何なれるかを知るものなし。

 問 予は予の机の抽斗に予の祕藏せる一束

の手紙を―――然れども〈こは〉*こは*幸ひにも多忙な

る諸君の関する所にあらず。今やわが心靈界

〈の空には万朶の《黒?墨?》雲→《黒》→の〉*〈徐〉**徐(おも)**ろに薄暮に沈ま*んとす。予は諸君と訣別

すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良な

[やぶちゃん注:

●「ステュデイオ」の促音表記はママ。初出及び現行歴史的仮名遣版では促音表記されていない。

●「今やわが心靈界〈の空には万朶の《黒?墨?雲》→黒雲→の〉*〈徐〉**徐(おも)**ろに薄暮に沈ま*んとす。」の部分は複雑で記号で総てを示し得ていない。ここで改めて推敲過程の推定を説明したい。因みに「徐(おも)ろ」というルビはママである。

 まず、芥川は、

 今やわが心靈界の空には万朶の

まで書いて、次に、

 黒

若しくは、その「黒」の(れっか)の下部に有意な横画らしきものが認められる点や「黒」の字がやや上部に書かれているところからは、

 墨

と書いた。恐らくは

 黒雲

のつもりであろう。ともかく気に入らなかった「黒」の字か、誤った「墨」の字を、

 黒

と訂したのである。しかし、結局、この表現全体が気に入らなくなって、

 今やわが心靈界の空には万朶の黒雲

総て抹消し、9行目1マス目右に、

 の

から始まる訂正を施そうとした。ところが、この「の」がまた気に入らずに再び抹消した。仕切り直しのためか、今度は改めて9行目左側冒頭から、

 は徐ろに薄暮に沈まんとす。

と続けたのであった。ところが、今度はこの「徐」の字が何故か気に入らなくなった(最終画辺りで文字が汚く潰れたためか?)。ところが、訂する余白がない。そこで、この字を潰した後、右上へと線を伸ばし、7~8行目上方罫外の余白に、

 徐

と吹き出しのようにして訂正し。ルビを振った。ところがそのルビは、

 おも

「む」がなかった。本文訂正部分は「ろ」しか送っていないから、原稿を見るとこれは、私が示した通り、

 徐(おも)ろに

となってしまうのである。初出及び現行では、

 徐(おもむろ)に

と「ろ」も吸収されている。恐らく校正過程で訂せられたものであろう。因みに私の印象では芥川は、「おもむろ」は「徐ろ」と送る傾向が強かったように思われる。されば芥川としてはこの原稿通りの「徐ろ」としたかったものと判断するものである。]

 

■原稿183(184)

る諸君。

 ホツプ夫人は最後の言葉と共に再び急劇に

覚醒したり。我等十七名の会員はこの問荅の

眞なりしことを上天の神に誓つて保證せんと

す。(尚又我等の〈賴〉信賴するホツプ夫人に對す

る報酬は嘗て夫人が女優たりし時の日当に從

ひて支弁したり。)

[やぶちゃん注:以下、3行余白。]

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