『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 12 兒が淵
●兒が淵
新編鎌倉志に云く龍穴へ行く坂の巖下。右の方の海水碧潭如藍なる所を云ふなり。昔建長寺の廣德菴に、自休藏主と云ふ僧あり奧州志信の人なり。江の島へ百日參詣しけるに。雪ノ下相承院の白菊と云ふ兒。是も江の島へ參詣しけるに。自休藏主邂逅してけり。いかにもして忍びよるべき便りを云けれとも。絕(たえ)て其の返事たになし。猶さまさま云聞かすれは。白菊せんかたなくて。或夜まぎれ出で。又江の島へ行。扇子に歌を書て。渡守(わたしもり)を賴み。我を尋ぬる人あらは見せよとて。
白菊としのふのさとの人とはゞ思ひ入江の島とこたへよ
うきことを思ひ入江の島かけに捨(すつ)る命は波の下くさ
と詠(よみ)て此淵に身を投たり。自休尋ね來て此事を聞き。かく思ひ續けゝる。
[やぶちゃん注:以下は底本では連続して書かれ、全体が一字下げであるが、七言律詩であるので、二段組で行分けした。]
懸崕嶮處捨生涯。 十有餘霜在刹那。
花質紅顏碎岩石。 娥眉翠黛委塵沙。
衣襟只濕千行淚。 扇子空殘二首歌。
相對無言愁思切。 暮鐘爲孰促歸家。
又歌に
白菊の花のなきけの深き海にともに入江の島そ嬉しき
と詠みて其儘海に沈むとなん。故に兒が淵と名くとなり。岩の間に白菊が石塔あり。右詩題は滑稽詩文に載たり。自休が像法華堂にあり。
[やぶちゃん注:「碧潭如藍」碧潭、藍のごとく。
「志信」「しのぶ」と読む。信夫郡。陸奥国及び後に分立した岩代国(現在の福島県)にあった。
さて、自休の七律は、私の「新編鎌倉志卷之六」のそれとは以下の異同がある。
・「懸崕嶮處捨生涯」の「崕」は「崖」
・「娥眉翠黛委塵沙」の「委」は「接」
いずれが正しいかは不詳。「新編鎌倉志卷之六」で訓読したものを参考にして以下に書き下しを示す。
懸崕 嶮しき處 生涯を捨つ
花質 紅顏 岩石に碎け
十有餘霜 刹那 在り
娥眉翠黛 塵沙に委ぬ
衣襟 只だ濕ふ 千行の淚
扇子 空しく留む 二首の歌
相ひ對して言ふ無し 愁思 切なり
暮鐘 孰(た)が爲にか 歸家を促す
以下、筆者が「新編鎌倉志卷之六」をほぼそのままに引用したように、私が「新編鎌倉志卷之六」で施した注をそのまま引用しておく。
西御門にある来迎寺には抜陀婆羅尊者(ばったばらそんじゃ)木像があるが、これは別伝でこの自休和尚の像とされる。実は来迎寺本尊如意輪観音像とこの像は、その過去を辿ってみると、報恩寺→太平寺→法華堂→来迎寺と目まぐるしく鎌倉内を移動している。特にここで法華堂が直前の所蔵であったことに着目したい。来迎寺に迎えられたのは実は明治の廃仏毀釈令以降であることが分かっている。そしてそれまで近世の法華堂は鶴岡八幡宮の管理下にあったことも分かっている。しかも、この話柄の主人公美少年白菊は鶴岡八幡宮寺二十五坊の一つ「雪下相承院」の稚児なのである。本文最後の「自休が像、法華堂にあり」とは、島内にあったかも知れない法華堂ではなく、正に鎌倉西御門の法華堂であることを意味していると考えてよい。私が言いたいのは、この来迎寺の像が自休像であるかないかの実証とは無関係に、本記載の最後に言う「自休が像」と来迎寺に現存する抜陀婆羅尊者木像(伝自休和尚像)は同一物であるということである。]
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