北條九代記 賴經公關東下向
○賴經公關東下向
閏二月十五日、二位禪尼の御使として、相摸守平時房、上洛あり。扈從(こしよう)の侍一千騎、將軍御下向の御迎(おんむかひ)にぞ参られける。建保七年、京都鎌倉種々の災變(さいへん)に依て、四月十二日改元あり。承久元年とぞ號しける。同六月三口、將軍家、關東御下向あるべき由、宣下せられけり。然れ共、兎角(とかう)日を重(かさね)て、七月九日、一條の亭より六波羅に渡御あり。即ち進發ましまして、同じき十九日に鎌倉に入りて、右京權大夫義時朝臣の大倉の亭に著き給ひけり。其行列の次第、誠に以て嚴重なり。先(さき)は女房各(おのおの)乘輿(じようよ)なり。雜仕(ざふし)一人、乳母(めのと)二人、御局(つぼね)には右衞門督(うゑもんのかみの)局、一條〔の〕局、この外相州の北方、何(いづれ)も花を飾りて出立たれけり。先陣の隨兵(ずゐひやう)は、三浦〔の〕太郎兵衞尉、同じく次郎兵衞尉、天野(あまのゝ)兵衞尉、宇都宮〔の〕六郎、武田〔の〕小五郎以下都合十人、次に三浦〔の〕左衞門尉、後藤〔の〕左衞門尉、葛西、土屋を初て、都合十人は狩装束に御供あり。若君の御輿(みこし)には、佐貫〔の〕次郎、澁谷〔の〕太郎以下の九人皆歩立(かちだち)にて、御輿(おんこし)の左右に列(つらな)れり。殿上人には伊豫(いよの)少將實雅〔の〕朝臣、諸大夫には甲斐(かひの)右馬助宗保以下、後陣の随兵には島津〔の〕左衞門尉、中條(なかでうの)右衞門尉以下十六人、相摸守時房は殿(しつはらひ)にて、前後の行列、搖揃(ゆりそろ)へて靜(しづか)に打てぞ通られける。鎌倉中は云ふに及ばす、諸方より集わたる見物の貴賤は、路(みち)の兩方、垣の如く飽(いや)が上に重りて、錐を立る間(あひだ)もなし。事故なく入御ましくて、殿中外家(ぐわいけ)の賑(にぎはひ)、心も詞(ことば)も及ばれず。文物(ぶんもつ)の盛(さかん)なる事、目を驚かす計(ばかり)なり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十四の建保七(一二一九)年三月十五日及び承久元年七月十九日の条に基づく。本文冒頭の「閏二月十五日」は三月の誤りである。特に「吾妻鏡」の引用や語注の必要性を感じない。]
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